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2010年07月分

月間優良作品 (投稿日時順)

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


a piece of

  yuko

雨の廊下/
翻ったスカートの端が、窓ぎわに咲いた紫陽花の憂鬱を掠めとっていく。放課後の学校。トランペットの練習の音や、野球部が階段を登る掛け声が、校舎を生温く満たしている。誰もいない教室はひどく静かで、昼間の喧騒を吸い込んだ黒板は、すこしだけ汚れたまま。雨の音に紛れて、袖口のホックがせわしなく瞬きを繰り返す。


 ―いやだよ。
 どうして?
 ―だって、。
 どうして?
 ―だけど、



/その日は雨が降っていたから、渡り廊下は封鎖されていた。いつもなら通らない階段の踊り場に、俯いた背中が残った。水浸しのグラウンドを、雨粒が激しく打ち続けている。いくつもの歪みが、あらたな歪みにかきけされて、側溝はいまにも溢れてしまいそうだった。


 ―違うよ。
 そうだよ。
 ―どうして、
 あなたは
 嘘ばかりつく。
 ―信じてくれないの。
 黙れよ。
 あなたは
 どうして
 そうやって僕を苦しめるんだ


/また、何もいえなくなる。いつもそうだ。本当に大切なことは、言えない。誰もいない階段に、足音がやたらと響いて、足取りを重くさせる。しらない女の子たちのかばんで、色とりどりのマスコットが揺れている。角においてある観葉植物には、白い斑点ができてしまっていたから、うなだれた葉に、霧吹きをひとかけする。


階段を、        (いったいそれは
一段          (なんのために
一段          (必要な
昇る          (プロセス
 ―足が震える     (であったのか     
一段          (わたしはあなたの
一段          (なんで
 ―繰り返す      (あったのか    


/プロセス ― すんだ湖のなかから、丁寧に、ひとつひとつさらっていくそれを、うすく広げて、太陽にかざして、幾重にも膜を、張って、わたし/あなた、は、生まれることができない、よるに、からだの先からすけていく、もう、区別がつかない、わたし/あなた、と、その癒着した、部位とが、透けてみえる、対岸に手を振る、けれどだれもこたえてはくれない、だれも、だれも、だれも、/


後ろ手にドアを閉めるわたしをみて、あなたはいつも嘲るように笑う。その瞬間にこわばったわたしの体を、あなたは壊すように、触れて、熱い
/のです。あなたは、いつも熱くて、わたしは頭から爪先まで透けていたはずなのに、いつの間にかからだじゅうが熱を帯びて、火をふく。そしてあなたはまた冷たい目でわたしに触れて、わたしはどうしようもなく謝りたくなるのです。泣きながら謝るのです。そしてあなたは、再び微笑を浮かべながら、わたしを抱いていなくなってしまう。


 ―あなたは何もわかってないんだよ。
 ―あなただけわかってくれればいいんだ。
 ―あなたは何を考えてるの。
 ―あなたは、
 ―あなたは、


 、
 わたしは、/


廊下を通り過ぎていく、幾人かの足音と、笑い声。学校の風景。ねじれた腕が空中で切り抜かれてそとへと開けていく。教室の真ん中でわたしはひざをついてぽつんと座っている。教室の出口が、遠い。あなたはもうどこにもいない。どこにもいない。どこにも、いない。/


神のもん

  右肩

 わたし、おふだが降ったらお伊勢に行くんだよ。
 いつ頃?電車で?
 降ったらだよ。降るかどうかわかんないじゃん。
 わかんないのに行くのか?
 わかんないから行くんだよ。良ちゃんはロマンがないよ。
 ロマンと無計画はべつじゃね?
 それ、いじわるじゃん。バチがあたるよいじわるな人には。
 え?あたるの?
 えい。
 あ、痛ッ。
 ほらあたった。
 おまえ、痛いんだよ、それ。
 いじわるだからばちがあたったんじゃん。
 バチって、おまえつねっただけだろ。 
 神が奈津にやどったんだよ。つねらせたんだよ。憑依だよ。すげえでしょ?
 あっ?バカじゃね?バチっていったら神罰じゃん、まじそんなセコイのかよ?
 コバチ。
 え?コバチってなによ?
 小さいバチがあたるから小バチじゃん。大バチ小バチで日が暮れるんだよ。
 そりゃ、大バカ小バカでご苦労さんな。
 ちがうもん。えいっ。
 痛いってんだよ。しつこいよ。
 連続小バチ。
 体操の技じゃんそれ。
 いいじゃん。
 そう。じゃさ、ほれ。
 何すんのよ、いきなり!
 必殺、バチ返し。
 どこ触るわけ?ヘンタイ!
 神の門じゃん。シーザーのもんはシーザーに、神のもんは神の門に返しまあす。
 ああ、もう、どすけべ。そういうデリカシーのないの、奈津、すっげ嫌いだって。いっつも良ちゃんに言ってるよね?
 おふだを納めに参っただけだよおっと。それっ。
 おっと。
 え?そういう展開じゃねえの?
 ばあか。今あれだよ、あれ。ざまみろです。
 やばっ。まじショックっす。
 まだあの日、おぼえてないって、まともじゃないよ。血がついちゃうよ?バカ良ちゃん。
 ううんと。じゃ、後ろからいく。
 はあっ?何?
 へへっ、後ろっちゃ後ろじゃん。新しいヨロコビじゃん。
 げげっ。げげげのげ。
 おっ、鬼太郎をたたえる虫たちの唄?
 そんなことしたら殺す。どヘンタイ、信じられないよ。
 地獄送り?やばいなぁ、そりゃ。
 ねえ、良ちゃん、へんなビデオとか見過ぎでしょ?
 冗談だよ、冗談。
 ねぇ、変なの見てるんだ?
 見てねぇよ。
 嘘つき。神の御まえでザンゲだよ?
 えっ?お伊勢さんでもザンゲとかあんの?
 あるよ、良ちゃんなんか嘘ばっかだから、絶対上から水かけられるよ?どうよ?
 おまえさ、それむかしのオレたちなんとか族がどうのとかってのじゃね?いつの生まれよ?
 パパがむかしとったビデオで見せてくれたもん。
 マニアックだよ、奈津パパも奈津も。おれ、マニアじゃねえからね。しかも、それ伊勢、 ぜんぜんっ関係ないし。
 ええじゃないかええじゃないか。
 なんで、そこだけピュアに伊勢よ?
 おふだが降ったらさ、良ちゃんも一緒に行くんだよ?
 降るのかよ?
 たぶんぜったい降るよ。
 たぶんなのか絶対なのかどっちだよ?わけわかんねぇよ。
 あ。良ちゃん、今のとこ、爆笑問題の田中さん入ってる?
 わかった?

「奈津、電車で行くよ。

  神都線の路面電車で行くんだよ。

 集まっている黒い雲と黒い雲の間は、しばらく前まで夕焼けで真っ赤だったよ。それが だんだん勢いをなくし、夜の暗さと雲の黒がしんから黙り始めてしまいます。
 電車の屋根のパンタグラフが、ばちばちと火花を飛ばします。
 そうやってほの暗いお空にもういちど火を付けようとしているのです。
 薄い絵のように透きとおる人びとを呑み込んで、電車が動き始めます。

  がったんごとん。がたごとん、ごとごとん。お伊勢は近い。ごとごとん。

 続くのは軒の低い家とコールタールを塗った電信柱ばかり。
 それもほんのもう少しでみんな影になってしまいます。
 こんな幽霊電車に乗ってお伊勢に行けるのか、と奈津は泣きそうでした。
 それでもようやく窓に田んぼが現れると、田んぼは移っていく宵口の空を滲ませたみず田です。
 ぴたあととまった水の上に
 過ぎていく、
 暮れはてていく、
 お日さまの一日。
 そんなところから、ゆっくり走る電車からでなければ、高天原は見とおせません。
 一生さまよう覚悟があれば、お伊勢は必ずどこかにあるが、
 高天原は幻です。

  なつかしや、高天原。

 奈津はどおしてこんなけがれたところに来てしまったんだろう。
 どおして、どおしてこんな……。
 ひどいよ。」


泣いてもだめです


おばあちゃんの畑

  野の花ほかけ





   甘い匂いが漂うのです
   懐かしい記憶の鈴が鳴るんです


     +


   おばあちゃんちのテーブルに
   はち切れそうなとうもろこしが
   はみだす程に大きくなった
   白く輝くつぶらな瞳
   そいつをガブリとやるのです

   ゆっさゆっさと七月の風にも負けずにすっくと立って
   わたしはつっかけ履きの少女に戻る
   背よりも高いもろこし畑
   少し縮れた髪の色

   手足がちぎれて 縫い直して貰いたい
   小豆の入ったお人形
   まだ母さんのお針箱の上に置いたまま
   仕事に出掛けて行くのです

   その代わりにとうもろこしの人形を
   こっそりもいで抱っこして
   頭を撫ででみたのです

   ねんねこ ねんねこ
   畑に隠れて
   あそぶいもうと いないのに
   ごはんも食べずに
   畑に隠れて
   だあれも呼びに来ないのに

   しろいひげ ながいお髭がちょろんと覗く
   三毛猫が、
   足音立てずにやってきて
   少女のほっぺを ぺろん、と舐めた

   、ざらざらの舌
   、猫にちゅぅ


                      夕焼けが 西のお空を焦がしても だあれも呼びに来ないから
                      みけと一緒ににまどろんで まあるくなって そらに昇って


                 ○  月夜の畑を          みけと一緒に
                       ●  散歩した           散歩した


雨期

  鈴屋

水びたしの森と草
ざあざあ、雨だけが記憶される
ふり返ればあなたの住まいは、もやい舟のようにたよりない
わたしを見送る仄白い顔も窓から消えた
 
木陰で紫陽花の青が光っている
踏切ではレールが強引に曲がっている
側溝で捻りあう蛭の恋愛
あなたはただ単に明るく生きればいい存在だ
傘をかたむける、雨がまぶしい、白磁の空の下を絽の端切れのような雲が渡っていく

線路沿いを歩く
電車が追い抜いていく
車輪とレールの接触点、硬い理屈について考える
コンビニでタバコ、ついでに単3電池を買う
駅舎の前で傘をさしたまま一服
ロータリーにはタクシーが一台だけ
路面に水が張っている
タバコが終わるまで、尽きることないリングの明滅を見つめていた

あなたの姓名を呟いてみる、あなたは気付いていただろうか、わたしが畳に寝転がり肘枕してあなたの立ち居振る舞いを盗み見ていたのを、あなたは洗濯物を部屋干ししていた、目の高さをあなたの素足がせわしなく行き来する、無防備に晒されているひかがみ、きつく跡付けられた二本の湿った皺、そこで折れ曲がっている静脈、足の裏の秘密めいた汚れ、もう一度あなたの姓名を呟いてみる、あなたは国語に似ている、水漬く国の

車内は空いている、湿って生暖かい
座席の端に座り、傘を畳んで膝のあいだに立てかける
床を水の脈が幾すじも横断している
電車がカーブするとわたしの傘の水も参加する
丘陵の上の電波塔がゆっくりと移っていく
屋根の重なり、煩雑なテレビアンテナ、波のように上下する電線
なにもかも雨の散弾が溶かしにかかる

長雨は人をぼんやりさせる、今あなたはようやく片付けごとが一段落したところかもしれない、飲みのこしのコーヒーを前に窓の雨音に耳をかたむけているかもしれない、こんなふうにわたしがあなたをおもうように、あなたもまた、車窓をぼんやり眺めているわたしをおもうだろうか、わたしが何かしら途方に暮れているように、あなたにも何かしら途方に暮れるわけがあるのだろうか、垂直に降るあなたの雨、斜めに降るわたしの雨、そんなことを考えもしたろうか

忖度はつつしむべきものだ
眠気がやってくる
とつぜん警報機の音が過ぎる
青空、そんなものはあったか
雨を良しとして、瞼が下りる


百行詩

  田中宏輔



一行目が二行目ならば二行目は一行目ではないこれは偽である

二行目が一行目ならば一行目は二行目であるこれは真である

三行目が一行目ならば二行目は二行目であるこれは偽である

四行目を平行移動させると一行目にも二行目にも三行目にもできる

五行目は振動する



六行目が七行目に等しいことを証明せよ

七行目が八行目に等しくないことを証明せよ

八行目が七行目に等しくないことを用いて六行目が七行目に等しくないことを証明せよ

九行目が無数に存在するならば他のすべての行を合わせて一つの行にすることができるこれは真か偽か                   

十行目は治療が必要である



十一行目がわかれば十二行目がわかる

十二行目がわかっても十一行目はわからない

十三行目は十四行目を意味する

十四行目は読み終えるとつぎの行が十一行目にくる

十五行目はときどきほかの行のフリをする



十六行目は二通りに書くことができる

十七行目はただ一通りに書くことができる

十八行目は何通りにでも書くことができる

十九行目は書くことができない

二十行目は自分の位置をほかの行にとってかわられないかと思ってつねにビクビクしている



二十一行目は二十二行目とイデオロギー的に対立している

二十二行目は二十三行目と同盟を結んでいる

二十三行目は二十二行目と断絶している

二十四行目は二十一行目も二十二行目も二十三行目も理解できない

二十五行目は二十四行目とともに二十二行目と二十三行目に待ちぼうけをくわせられている



二十六行目は二十七行目と目が合って一目ぼれした

二十七行目は二十八行目が二十六行目に恋をしていることに嫉妬している

二十八行目は二十七行目に傷つけられたことがある

二十九行目は二十八行目とむかし結婚していた

読むたびに三十行目がため息をつく



読むたびに三十一行目と三十行目が入れ替わる

三十二行目は三十三行目の医者である

三十三行目は三十二行目の患者である

三十四行目は三十五行目の入っている病院である

三十五行目は三十一行目の行方を追っている



三十六行目は出来損ないである

三十七行目はでたらめである

三十八行目は面白くない

三十九行目は申し訳ない

四十行目は容赦ない



四十一行目は四十二行目と違っていて異なっている

四十二行目は四十三行目と違っているが異なっていない

四十三行目は四十四行目と違っていないが異なっている

四十四行目は四十五行目と違っていないし異なってもいない

四十五行目はほかのすべての行と同じである



四十六行目は四十七行目とよく連れ立って散歩する

四十七行目は四十八行目ともよく連れ立って散歩するが

四十八行目はときどきもどってこないことがある

四十九行目は五十行目と散歩するときは寄り添いたいと思っているが

五十行目はそんなそぶりを微塵も出させない雰囲気をかもしている



五十一行目は慈悲心を起こさせる

五十二行目も同情心をかきたてる

五十三行目は寒気を起こさせる

五十四行目は殺意を抱かせる

五十五行目は読み手を蹴り上げる



五十六行目は五十七行目のリフレインで

五十七行目は五十八行目のリフレインで

五十八行目は五十九行目のリフレインで

五十九行目は六十行目のリフレインで

六十行目は五十六行目のリフレインである



六十一行目は朗読の際に読まないこと

六十二行目は朗読の際に机をたたくこと

六十三行目は首の骨が折れるまで曲げること

六十四行目はあきらめること

六十五行目はたたること



六十六行目は揮発性である

六十七行目は目を落とした瞬間に蒸発する

六十八行目ははずして考えること

六十九行目のことは六十九行目にまかせよ

七十行目は他の行とは分けて考えること



七十一行目は正常に異常だった

七十二行目は異常に正常だった

七十三行目は正常よりの異常だった

七十四行目は正常でも異常でもなかった

七十五行目は異常に正常に異常だった



七十六行目は七十八行目を思い出せないと言っていた

七十七行目は七十七行目のことしか知らなかった

七十八行目はときどき七十六行目のことを思い出していた

七十九行目は八十行目のクローンである

八十行目は七十九行目のクローンである



八十一行目は八十二行目から生まれた

八十二行目が存在する確率は八十三行目が存在する確率に等しい

八十三行目が八十二行目とともに八十四行目をささえている

八十四行目は子沢山である

八十五行目は気は弱いくせにいけずである



八十六行目は八十七行目とよく似ていてそっくり同じである

八十七行目は八十八行目にあまり似ていないがそっくり同じである

八十八行目は八十九行目とよく似ているがそっくり同じではない

八十九行目は九十行目とまったく似ていないがそっくり同じである

九十行目は八十六行目に似ていないか同じかのどちらかである



九十一行目はおびえている

九十二行目はつねに神経が張りつめている

九十三行目は睡眠薬がないと眠れない

九十四行目は神経科の医院で四時間待たされる

九十五行目はときどききれる



九十六行目はここまでくるまでいったい何人のひとが読んでくれているのかと気にかかり

九十七行目はどうせこんな詩は読んでもらえないんじゃないのとふてくされ

九十八行目は作者にだって理解できていないんだしだれも理解できないよと言い

九十九行目はどうせあと一行なんだからどうだったっていいんじゃないと言い

百行目はほんとだねと言ってうなずいた


夜バス、或いは乗客。(一)

  黒沢


傷付いている! ベッドに横たわるとき、何故だかそう思う。すると、私のうえにバスが現れる。見慣れたあの、鉄の箱が近づいてきて、丁度、胸の辺りで停まる。これ程の乗客が、装填されていたのかと驚く位に、膨大な数の人ごみが降りる。眠りの間際に、そのような驚きを得ることは、愉快、愉快だ。

乗客は、それぞれ、マッチ棒のような黒い頭を持っていて、折れそうで心細い。大きな手が、それは私なのだが、溢れるそれら乗客の一人一人を、その殆どを、丁寧に間引いていく。黒い頭を、次々に間引く。日によって、唯の気まぐれによって、様々なその理由を付ける。参照すべき法則を作るのだ。

バスのなかには、きっちり八人。二人がけの座席の通路側に一つ。通路を挟んで、窓ぎわの座席に一つ。そうやって求めた二人の対を、きっちり四列、作る。真ん中に、やや淋しげに配置していく。マッチ棒の、整理整頓の按配。私は、愉快だ。私は云わば袋のようなもので、それは、痛みすら内包する!

何かが、騒ぐ。バスは走り去っていく。人ごみを収納し、袋のような私を置いて。ベッドが僅かに軋み、そう、振動が伝えられているのだ。私のうえには、円い鉄の板が、疑問符のように架かっている。よく見れば、行き先案内の、唯のバス停のようだが。私は、のびをする。何度となく寝返りを打つ…。


まいそう

  yuko

よるの砂浜に。わたしははだしで、かいがらをあつめている。しろいゆびさきがかさついて、ひびわれに砂がまじる。爪さきにも砂がはいりこんで、こするとぽろぽろとけずれていった。かいがらをみつけるたびに、冷たいみずで洗う。それからそっと壜につめて。ふたはしない。あしくびのアンクレットがしゃらしゃらとなって、そのたびにほしくずがおちてくるような気がする。そらをささえる無数のあおじろい手首が、そこかしこで松明をかかげ、星ぼしを繋ぐあわい糸が夜空にうかびあがる。

***

手すりのない螺旋階段を、かれらはのぼっていく。うみのそこから、そらのかなたへ、夜に紛れ。アルビノのうさぎが、かれらを先導していく。その赤いまなざしが、雲間を照らしている。潜水艦のサーチライトみたいに。かれらには、ゆびがなく、あるいは、むねがえぐれ、あるいは、みみがふさがれ、あるいは、めがつぶれ。それは、生まれたときからのものかもしれないし、しだいに失われたものかもしれない。そうしつによって、完成されたこどもたち。夜明けにかれらは、いっせいに身を投げる。欠けたつきに祈るように。うみはゆっくりと満ちていく。色素のうすい髪がみなもにひかる。

***

わたしは、かれらを知らず、かれらも、わたしを知らない。わたしも階段をのぼって、砂浜を離れる。それからひらべったい岩のうえで、かいがらを細かくくだくのだ。それをまた、壜につめて。かえりみちはいつも足のうらが冷たい。そっとへやへもどると、かいがらたちを、いちまいいちまい、棺のうちがわにはりつけていく。なにがここに葬られるのかは、まだ知らないけれど。いつのひかこの棺は、かいがらに埋もれてしまうだろう。気がつけば、アンクレットは塩水にすっかり錆びれてしまっていた。奇形児たちの身投げにわたしは声をもたなかった。かれらが名前をもたないように。まいばん、棺にかいがらをはりつけていくこと、きっとそれが、わたしの祈りだった。

***

幾千もの舌が夜を白く磨きあげていき、せかいはあさをむかえる仕度をする。砂浜では、あおいはねの蝶が鱗粉をまき散らして、夜のふちを滑っていく。螺鈿の棺はそのふたを閉じ、わたしもまた名前をもたず、祈るすべさえあいまいなまま。うみに面した出窓をあけたら、あさやけはわたしたちの影をふたたびつよく焼くだろう。わたしたちは、どうしようもなくゆるされているから。いつかえいえんまで、舟をこいでいこう。せかいじゅうのわたしたちにひとつの名前と、ねがわくば一輪の花をそえて。


さっちゃん

  はゆ

  バス停にぽつん置かれた青いベンチにちょこんと座りながら
  さっちゃんは何処かに行ってしまった友達の事を待っています
  決して待ち合わせをしたわけでは無く
  あの日『またね』なんて手を振ってくれた友達の事が忘れられなくて
  もうかれこれ10年以上もこの場所で待ち続けています。
  
  さっちゃんは居眠りをしたり
  お気に入りのワンピースの水玉模様の数を数えたり
  大好きなお母さんが持たせてくれた御自慢の手作り弁当に舌鼓を鳴らしながら
  今日も友達が帰ってきた時の為にとっておきの笑顔を練習するのです
  ケチャップで汚れた口元が静かに『おかえりなさい』と動きます。

  しかし何度目かのバスストップの後 かんかん照りの晴れた夏の日に
  村役場の職員がふたり来て待ち続けているさっちゃんに向かいこう言うのでした
  『もう此処にはバスなんて来ないよ』と
  それからバスの時刻表をふたりがかりで軽トラックに載せ
  乾いた排気音と共に夏草を揺らしてゆきました
  
  さっちゃんは友達が帰ってきた時の為のとっておきの笑顔の練習の真っ只中で
  職員に向かい俯きながら首を何度も横に振りました
  何度も何度も首を横に振りました
  さっちゃんの小さな身体はふるえ
  お気に入りのワンピースの水玉模様はどんどん増えてゆきました
  
  その後も青いベンチにさっちゃんは座っていました
  雲ひとつ無い夕空を見上げながら『雨でも降ればいいのに』って呟いていました
  さっちゃんの目の前を村営の回送バスが横切ってゆき
  風と夏草の匂いだけ其処に残してゆきました

  『もう帰ろう』 さっちゃんは言いました
  『もう 終わりにしよう』 さっちゃんは言いました
  そう言ってさっちゃんは静かに重い腰を上げました

  すると 目の前に白いバスが止まり
  中から誰かがさっちゃんの元へと歩み寄ってきました  
  その誰かは深々と被った帽子をとるとさっちゃんの涙をひとさしゆびで拭いました
  
  不意にさっちゃんの白い頬が夕焼けの様に赤く染まり
  口元は微かな動きをみせました

  『おかえりなさい』

  お気に入りのワンピースの水玉模様は浮かび上がり
  ポロポロとシャボン玉の様に雲ひとつない夕空へと旅立ってゆきました。


ばあちゃんのこと

  ヒダリテ

 ばあちゃんちは漬け物くさいから「僕は行かないよ」って僕は言った。けれどママは僕の言う事なんかちっとも聞いてくれた試しはなくて、漬け物くさいばあちゃんちまでの果てしなく遠い道のりを僕とママは車で走り、僕は山道で二回ゲロを吐いた。

 そもそも毎年、夏はばあちゃんちの漬け物くさい家で僕らは漬け物くさくなるばかりなのだ。家族三人、漬け物くさい話をし、漬け物くさいご飯を食べて……、そうやって僕ら自身、漬け物くさくなるばかりなので僕はとても退屈で、だいたいばあちゃんだって、せっかく僕らが見に来てやったのだから、タップを踏んだり、炎の輪っかをくぐったりして僕らを楽しませてくれればいいものを、最近のばあちゃんときたら、できる事と言ったら、せいぜい仏壇に線香をあげるか漬け物くさい漬け物を漬けるくらいで、年々ばあちゃんは動かなくなるし、話もしなくなる一方なので僕はママに「ママ、ばあちゃんという生き物には人生に対する積極性やユーモアの精神というものが著しく欠落しているよ!」と激しく非難してみたのだけれどママは鏡台の前で厚化粧をぺたぺた塗りたくりながら「ママは今日、同窓会で遅くなるから」と言って猛烈なスピードでよそ行きに着替えると重力も軽くトンでった。
 つまりママは同窓会で新しいパパを見つけてくるつもりなのだ。僕にはどうしてもなじめない香水の匂いを残して玄関を出ていくよそ行きのママは、いつもなんだか他人みたいに見えた。

 庭に面した縁側で僕はアイスを食べながらアリの行進を見つけては、そこにつばを垂らす、ということを何度も繰り返して長い午後を過ごしたのは僕がそれ以外の方法を知らなかったからだけれど障子の開け放たれた縁側に接した部屋では、ばあちゃんがまた仏壇の前に正座して線香をたてようとしていた。僕はその様子を眺めながら「ばあちゃんは亀の一種かもしれないぞ」なんてことを思ったりした。けれどちょうどその時、空から、ぶわわわっと、やって来たでっかいアブラゼミが一匹ばあちゃんの肩に、ぴたっと留まって、僕は驚いて、あ、と思った。僕は叫んだ。
「ストップばあちゃん、動かないで! アミ持ってくるから、動かないで!」
 線香をたてようとした右手を高く上げたまま正座して、そのままの格好で静止するばあちゃんをそこに残して僕は大急ぎで虫取りアミを取りに裏の納屋に回った。この夏一番の大物だ、って僕は思った。そして納屋の入り口に立てかけてあった虫取りアミを手にして、ばっと駈けだして行こうとしたんだけれど、そのとき塀の向こう側に知らない顔を見つけて、また僕は、あ、と思って足を止めた。

「あ、……知らない子。」
 って思った。塀の向こう側に知らない子の丸い顔があった。
 知らない子は青白い顔した河童みたいな奴だった。
「誰? 河童?」
 僕が声をかけると知らない子はにこりと笑った。

 帰り道、「世の中はもの凄いスピードで進化しているのだ。」って僕は思った。その日、僕は知らない子の家で、初めてファミコンに触れた。
「テクノロヂィの進歩によって、そのうち僕らは機械の体を手に入れるのだ。」
 僕は知らない子の家で知らない子とファミコンをやったり、知らない子の弟を泣かして遊んだ。知らない子の弟はとても弱くできていて、僕は弟の腹をグーでドォンってやる事によって三回も泣かす事に成功した。
 ばあちゃんちに帰った頃にはもう日は暮れかかっていた。ママはまだ帰っていなかった。僕はばあちゃんにファミコンのすばらしさを伝えようと思って仏壇のある部屋を覗いた。けれど驚いた事に、ばあちゃんはコッチコチだった。ばあちゃんはばあちゃんの肩にセミが留まった時の姿勢のままコッチコチに固まっていた。本当の本当に、カッチカチの、コッチコチだった。線香を持った右手を高く前に突き出して、ばあちゃんは静かに悶える亀みたいな格好で、コッチコチで、ぴくりとも動かなかった。
「大変だ。ばあちゃんがコッチコチだ。」
 って僕は思った。

 夏の夜は静かで、蛙のお腹みたいにひんやりしていて、なんだかそれ自体が死んでいるみたいに思えた。僕は隣の台所でテレビも点けずに静かにママの帰りを待った。冷蔵庫から麦茶を取り出して、飲みながら、僕はちょっと思い出して「ごめん、ばあちゃん、もう動いて良いよ。」と言ったけれど、ばあちゃんは動かなかった。

 ほとんど真夜中になろうとしていた頃、真っ赤な顔したママが帰ってきた。僕は眠くってしょうがなかったから簡単に説明した。
「仏壇に線香を上げようとしたばあちゃんの肩にでっかいセミが留まって、そんで、それから、……ばあちゃん、死んだ。」
 けれどそう簡単に説明してみると、なんだか自分がものすごく本当の事を言ってしまったような気がして僕はちょっと興奮した。だから僕は何度も繰り返した。
「仏壇に線香を上げようとしたばあちゃんの肩にでっかいセミが留まって、そんで、それから、……ばあちゃん、死んだ。……仏壇に、線香の、ばあちゃんの肩、セミが留まって、……ばあちゃん死んだ。仏壇のばあちゃん……、線香、セミで、……ばあちゃん死んだ。仏壇のばあちゃん……。」
「分かったから!」
 突然ママはわっと泣きだして、そのまましばらく泣き続けた。僕はやる事がなくなってしまったので布団に入って眠った。

 その後あまりにも何度もたくさんの大人たちが、ばあちゃんの事を聞いてくるので、だんだん面倒になった僕は「でっかいセミで、ばあちゃん、死んだ。」と言ったり、「ばあちゃん死んだ。でっかいセミが。」などと言ったりした。大人たちは一様に「ああ」なんて言った後で、気の毒そうな顔で僕を見たけれど、僕は「これが夏休みじゃなくて冬休みだったら、僕はたくさんのお年玉を貰ったに違いない。」と思った。「そしたらお年玉でファミコン買えるのに。」と。その夏、僕はたくさんの大人に会った。

 ばあちゃんの肩に留まったでっかいセミがどこへ行ったか僕は知らないし、ばあちゃんの魂がどこへ行ったかも僕は知らない。ママは「ばあちゃんは天国へ行ったのよ」って言ってたから、たぶん僕もそうだと思う。セミの命は短いらしいから、あのセミもすぐに死んで天国へ行ってしまったんだと思う。そんで今頃、あのセミは天国の空をぶわわわって飛んでいて、ばあちゃんは天国で相変わらず仏壇に線香を上げていているんだと思う。そんでまた天国のばあちゃんの肩に天国のセミがピタって留まったりしてるのかもしれない。だけどそしたら天国のばあちゃんはまたコッチコチになってしまうかもしれないぞって僕は心配になったけれど、ママが言うには「一度死んだ人間がそれ以上死ぬ事はない」らしく、だから「天国のばあちゃんが、またコッチコチになる事もない」んだそうだ。僕がママに「一度死んだら、それ以上死なないって良い事だよね。」って言うと、ママは「よく分からないわね。」って言ったけれど、僕はそれ以上死なないってのは、やっぱり良いことなんだと思う。ばあちゃんだって僕だって何度も死にたくないはずなのだ。

 長い夏も終わってしまったある朝、「ちょっとこっちに、いらっしゃい。」と僕を呼ぶママの声が聞こえて、寝ぼけまなこの僕が玄関口へ行くと、「この人が新しいパパよ。」とママが言って、ママの隣には変な色の背広を着込んだでっかいアブラセミが立っていて、「よろしく」とか言いながら、僕に向かってガシャガシャとお辞儀をした後、力一杯、僕のお腹をグーでドォーンってやった。
 そんないやな夢を見たりした。何度も。


思考する蟹

  たけのこ


窓の外を見つめていた。
遠く近くに海が浮かんできて
うらびれた海でも恋しくなると、無駄に車で走りたくなるものだ。
そこには見馴れた景色。見馴れた顔。そして見飽きた時間。
こころは無尽な幕に覆われたまま、いつものようにいつものようで終わってしまう。
そんなこと、はじめからわかっている‥。

実際、必ず渋滞に巻き込まれたりしてトーンもおちる。
それまでは気づかないように街に溶け込んでいた小さな顔が、斜め前方からわたしに迫ってきて、意識と意識がふいにひとつの水槽の中で互いに交錯をはじめる。
こうなると無意識の回路は途端に過剰な反応を起こし、宛先のない私からへの独り言へと変わっていく。
時間が引き戻されてゆく。
また右折車線に迷う。
それでも、ガラス越しに映る比較的気持ちのよい顔を選びながら、じっくり観察などしてみたくなるが、それが急に減速して目の前でピタリと止まったりすると、なんだか釣り銭を手渡されるときのように、興味を無くしてしまうのは何故だろう。
わたしはサングラスをかける。
昼間の闇が見えてくる。
今ではそれを諦めるしかないのだと、思うより他はないのだろうか‥。

いつのまにか橋を通り過ぎていた。
一瞬レモン色の泡に蒸せる磯風が鼻をよぎる。
チラリ、なつかしいスナックの看板に目を奪われると、さまざまな臭気のなかでうつら、うつら、うつらといつものようにアタマの中が巻き戻しの幕に覆われ眠りを誘う。
道路はこの辺りから家並みも途切れ、堰堤に寄り添う視界も開けてくると
もうすぐ波は近くなる。
また車が増えてきた。
信号待ちでふと見上げた沿線の電柱に、「上の浜」と書かれた小さな看板に目が止まる。
いままで何百いや何千回と通ってきて、いまはじめてそれに気がついた 。



゜。゜
はっ/きりと蟹は言う。
いったりきたり。何回ターンを繰り返せばいいんだ。よー君たちにはもううんざりだ。 あ わわわわ゜。飲み過ぎたか。もう銭がない。ひとり。通り過ぎるタクシーのライトが眩しくて。月のない夜の浜はこわいよ淋しいよ。ガサ/ゴソ葉が擦れる。風かおまえは誰だ。よー鳥か猫か。猫よ、猫は泣けよ唄えよ。あーなんて馬鹿な俺が。夜に 夜を、いまは誰も寝てはならぬ と‥ 。

。゜冷めた丼には千切れた心太の泡が゜。
なんで、とそんなモノ喰ったことのない奴に人生の意味なんてわかるものか‥。゜



二車線の前方から赤のフェラーリが通り過ぎた 。
今どき目立つスポーツカーに乗っているのは、大方の場合ヒゲを生やしたオヤジだったりする。
すれ違う普通乗用車はオヤジばかりで、 つまらない 。
こんなときはできるだけ綺麗な女性の顔で終わりたいと、わざとらしく見ないようにする。
そんなふりをする。
手前の黄信号で営業車が急停止した。
二人連れの男女は後ろのことなどお構いなしで話しに夢中だった。
道路脇のガソリンスタンドではアルバイトらしき店員がぐるぐると忙しく動きまわっていて、それをじっと見つめていると、何故か気後れした眩暈が背中の記憶と重なり合い‥ すると、、鼻息の荒い野生馬に振り落とされまいと必死に藻掻く蟹の泡゜。゜
見上げれば今にも降り出しそうな積乱雲のなかで、ただオドオドとしながら同じような汗ばかりを流していたあの頃のわたしが、滑稽な姿で甦ってきた 。

微熱はいまも続いている
思考はいつも空回りする。
風がまた海の匂いを立ち上げた。
いまでもよくわからないのは、辞めなければならなかった理由と
そして
勤め続けられた理由‥。



そこに海があるから餌のない釣竿を投げ入れる。
何かが釣れるはずだ。きっと。ひとりが不安な君たちなんかより僕の方がずっと有意義なはず。なんで‥。 ほら、 蟹を見ろ。 穴へ入ってゆく 。 あの鳥の、空の向こうから何が見えてくる。 やぐらに帰れば堪らなく切なくノスタルジアな 。 そうだ 。時間よとまれ 。いまから僕、空を喰って生きてやろう 。 こんなにも浜木綿がきれいに‥ いっちにぃさぁんをし‥。
十年が一日で終わる 。たぶん 。
明日僕は君たちから さようなら 。



西風が吹いてきた。
そろそろ鷺も帰るころの陽射し
空き缶をそっと投げ入れてエンジンを始動する。
すべては曖昧にして、終わってみれば無駄だったと気付かされる 。
十年を一日で忘れた 。
そう考えながらも
わたしは また回想ばかりを追い続けるのだろう
生きてゆくために‥ 。



杭と碑

  長押 新


突き刺さった杭に代わりに、あなたたちのその細い骨が刺される。
まだ墓ではない。
杭のために動くことが出来ずに、頭と口を交互に動かしながら、わたしはいた。
水槽に沈められたり、瓶に閉じ込められるように、耳鳴りがする。
盛り上がる、あるいは膜を破りあらわれるように、黄色い腕が、伸ばされ、胸に触れる。
手は、開かれて、幸いにも、痛みが、意識を導いていた。
ひきつけられるような痛みに、あなたたち、が現れるまで、全く気がつかないで、そもそも、わたしは何故立たされているのか忘れていた。


(おさなかったころから、きょうふしていた。ははに。ははに。ははに。こーらをあたまからかけられたときは、おもらししたくらいだ。しょくじはとくにおそろしかった。せんたくきでねむるのはいたい。わたしのものはすべてあげた。すべて。すべて。あいしているから。じかんとおかねとわずかなちしきをあげた。そだててくれてありがとう。ははに。ははに。ははに。若い母に。あさからよるまでたたされていたときのあしのうらのいろ。なかなくなるまでなぐられたはらのあざ。くびすじにつきつけられたはさみ)


あなたたちは、訪れる。
幻想や永遠とを怖がるわたしが、想像死してしまうことに、わたしよりも前に、あなたたちは気がついていた。
あなたたちは、訪れる。
杭はとても痛い。
あなたたちは、決して口を開かない。
すっかり衰弱したわたしも口を開かない。
開かないにしろ、本当に大事な時に、女に言葉は必要がなかった。
わたしの体から湿った杭が抜かれ、その代わりにあなたたちの骨が、わたしの胸に刺される。
体が持ち上がる。
捨てられた杭の行方を、鼻で追う。
厳しい罰を受けていたのか。
母の匂いのする杭は古く、憎悪のようにつらい、と転がっていく。
その代わりに体を、剥がした。
まだ墓ではない。
あなたたちが、わたしの手をひく。
その手には指がない。
わたしの胸に、あなたたちの、その指の、その骨が刺されている。
鼓動に合わせて、ぴくりぴくり動いている。
まだ墓ではない。
数年経っても、あなたたちの指は生えてこない。
胸に開いた穴からは景色が見えていた。
骨を土に植えてやる。
やがて子供が生えてくる。
骨はもともと死を考えてはいない。


蝶の葬儀

  しりかげる

 
 
 
ささやかに腐敗させてください、と。酸性の雲の下、わたしの少女が祈る。どこかで目にしたことのある風景、慟哭、白波、ハーモニカ、あらし。
雨音。鳴り止まない歓声が、いつまでも記憶の片隅に座している。弱酸性の黒い雨粒が、石畳にぶつかって跳ねる。停滞する梅雨前線。けぶる街の幻影を、わたしの少女が遊泳する。幼いころの落書きは押し入れにしまわれたまま、風化して、輪郭だけがおぼろに、ぬるい水面に浮かんでいる。
汚れたガラスの容器には、塩水が貯められている。容器の底には、溶媒にとけきれなかった塩の塊が、緩やかに、緩やかに、けぶる街の幻影を遊泳する。わたしの少女は泣いている。その傍ら、少年は曇天を見上げ、無表情、黙り込んだまま、少女の縁を規則的に周回している。

ささやかに、雨が降りしきる初夏の夜、ささやかに、弔いの花は添えられる、献花台に献花台に献花台に、わたしは眠る、ささやかに、わたしは目覚める、変貌することのない蛹たち、ささやかに、踏み潰す、ささやかに、花弁は力を奮いはじめた、

夏。わたしの腕が届かない絶妙な距離で、ふわふわと浮遊する蝶。(踏み潰された蛹から産み落とされる骸と、)うつくしい翅。握りつぶしても乾いた音しか立てない。乾いた音で死んでいく昆虫。わたしの少年は、骸から産まれる骸を次々と殺戮していく。かさかさ。炎天下の真昼、少年は無表情で虫を殺す。殺す。殺戮の底(で、少女は両手を胸の前で絡めて、祈りのかたちを司る、贖罪、涙を流しているのはわたしですから、彼を許してあげてください。
、と、おままごと。

塩水、ねえ塩水、清らかではない悲しみのなかで、強烈な日差しが乱反射している。塩水、わたしとわたしとわたしとわたし。溢れだす言語は世界に溶け、やがて見えなくなる。巨大な水溶液、その底に沈められた文字列。

夏は実りだけを抱きしめていたいから、と言って突き放してほしい。鼓動も、音楽も、循環も、すべては嚢が伸縮を繰り返すように、少女と少年の、希望だとか、交わりだとか、わたしの、二人の、独りのすべてを、抱擁しながら、それでも世界が世界としてあるというのなら、溢れる光条、意味なんて必要ないから。と言って、言って、せめて、意味のない周回に、花を添えて、弔いの、手向けとして、抱いて、すべてを死なせてもなお回り続けるというのなら。

梅雨が去って、ほとぼりが宿される赤子の、骨の組織、無機質な生命、肉塊、紛糾する理性、熱気に包まれるわたしの少女は夢を見ることを止めない。わたしの少年は虚ろに宙をさまよう。赤子は踏み潰され、踏み潰された赤子から夏が羽ばたく。極彩色の蝶紋。回転。ああ、わたしとはこれほどにうつくしくいきている。骨、骨、骨、積み上げられた骸、乾いた音を立てて死ぬわたしと、成り代わる骸の。ささやかに花を手向けて、ささやかに、そうして、またささやかに、踏み潰された蛹の血が、頬に垂れて、どうして、ほら、こんなにも塩辛い。
 
 
 

文学極道

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