文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2008年年間選考雑感

2009-07-30 (木) 17:17 by a-hirakawa

 2008年ありがとうございました。

 文学極道は毎分毎秒更新されていきます。更新していくのは発起人・スタッフを含めた、全員です。わずかだったり甚大だったり様々な温度で詩に興味を持つ全員。皆が更新していくことの出来る、書き変えていくことの出来る、伸びしろが大きい莫大な可能性と閉鎖的危惧からの虚無的立ちすくみを抱えた場所。それが文学極道です。一年というと塗り替えきるのには充分な単位です。初期の頃と比べ、伸びてきている部分もあれば疎かになってきている部分もあります。皆で作っていきましょう。側面からの覚醒に触れる前線は、どんな時でも参加する個人個人の中核から始まります。

<文学極道創造大賞> ―― 新しい文学を創造した者、最もイマジネーションを炸裂させた者に
■受賞 黒沢

 黒沢さんは抒情と実存の両義を反映の領域へとたどり着かせた稀な方です。「ホオズキ笛」の印象と質感は時間の網の目で空間を掬いあげ、内在する純潔をひそやかに侵食する意識に立たせてあります。「迷宮体」の糸の先に結実する「星の氾濫」は巧妙な凝集するせり出しがセロトニンを流し込み、消失する危うさを豊穣に探り当てていきます。「新宿三丁目で思うこと」では人間を人間として厳密に確定できない厳密さを投射させ、むき出す体温が濃い表情を穿かせています。実存の肉厚さへ透かせる抒情性は、年間最優秀作品賞「プラタナス」で、どの境界も打ち崩し達し今なお拍動を背し続けています。黒沢さんの作品には人間を透視する線が引かれています。その線は欠けています。興味深い欠如です。完璧なものは入る隙がなく圧倒と同時に突き放しますが、黒沢さんの作品が読み手を引き寄せ光沢の在りかを伝え続けるのはこのためです。作品世界にある作者の静かなたたずまいや筆致のリズムは、コントラ氏に、この人はほんとに力あるな、と言わしめるほどでありながら燐光を決して贅に張ることはない背筋を覗かせています。
 人間の等身を踏襲する構成は、これからの伸長へも期待を握らせます。

■次点 いかいか

 負の感情から出された膿が伝承世界を反射させた時に示唆の迫真は誇示を超えます。いかいかさんは否定を突き詰めて重ねる否定の弾かれる自己に、実在の肯定の側面を見出し掌を当て続けています。その掌を自己の閉鎖的な世界ではなく伝承や歴史の中で描き出すため清澄な外界を侵食させる内界は育ち続け威力を持ちます。その威力は一過性に収まりません。年間最優秀作品賞次点に推挙された「星遊び」は圧巻としか言いようがありません。落選狙いや否定の感情が放出する位置を敢えてズラすために、作品の質は安定しませんが、だからこその放射が冴える皮肉も持ちあわせてます。投稿された欠損した部位を見つめる真面目さに過ぎる視点は生きることと質量を同じくします。傾く孤立は体温を伝えたくなります。天才とはこういうことなのかもしれません。

 選考の際、創造大賞には、泉ムジりす吉井鈴屋、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道最優秀抒情詩賞> ―― 最も美しい抒情詩を書いた者に
■受賞 泉ムジ

 積み重ねることは新たなる世界の創造とは、また異質な箇所に座ります。再構築された世界での再構築していく世界を再構築していく世界を創り出す泉ムジさんの作品は、詩という芸術をエンターテイメントに転換しました。現代詩のサザンオールスターズとも言うべき影響の良質を個人に濾過し発する在り方は、幅広く読み手の情感を、掴みます。ノらせます。プラスねじ、での使い分けがまた、遊び紙に作品を包み込み、解放の達成へと軽やかに読み手を釣り上げていきます。作品の質はそれぞれ一定以上のレベルにあるけれど、もっと深く書けるようになると思う、そのときの個性を見たい、という意見もありました。薄利の現代性を付けるライトは初心者にも掴みやすい筆で止まない、けれども後半の投稿作品はもう一歩進める、作品の完成度に幅がある、という意見もありました。

■受賞 りす

 鮮度の進行は本人の中で、常に先を予想させます。潤いが自らを引き上げていく地点は直ぐに終わりへ向き、乾燥への恐怖が僅かながらに顔を垂れ伸び下げていきます。その時に立ち止まるのは最上の湿度を保つ手段です。進み続けることは勇気がいる内面を乱す他者には触れない圧迫です。進み続ける作者の作品は、端的な綴りに越境の凝集を纏わせはじめます。他者との関係性の終わりを匂わせる作品群は確実なる読者の魅了とも合わさって、緩やかな解放と自閉への肯定を立てました。選考の際、以前には見られなかった乾燥感が面白かった、新しい文学の創造という観点からは弱いけれど、類い稀な能力の行く先には目を見張るものがあった、という意見がありました。イマジネーションの炸裂という観点では、抜群、という意見もありました。例年と比べ、無難に思えた、という意見もありました。

■次点 マキヤマ
 
 硬質と高湿な連想は沈黙の豪奢を導き出します。削ぐ中に置かれた言葉は世代を前に匂わせますが、隙間から連れて行かれる箇所は血流の感情です。反射させる醜悪の些末を魅せる自覚です。底辺に敷かれる搾る誇りを発します。一定の質を保ち続けてはいるけれども、小さく固まり過ぎている、弱い、という意見もありました。

■次点 如月

 詩はどこから来るのでしょうか。どこへと向かうのでしょうか。現代詩とは一体、どのようなものなのでしょうか。極限も先端も境界も意識せず、とにかく書くことにやみくもだった作者は、多種多様な方向に手をのばして、やがて、開きなおる僅かな強度を身につけます。何を活かすためなのか意識せず使用する技巧と慎重に選ぶ中に混じっている書けば書くほど遠ざかる場所にある綴り、それらは無意識へと読み手を漬け込み詩が詩から始まる前の根源を明らかにしていきます。仮説の検証と予期せぬ新発見からの唐突な大飛躍を実証していく作品の変化には感受性の裸身を掴まずに、居られません。特に「カナブン」は凝ることのない名作だと言えるでしょう。選考の際、まだまだ伸びて欲しい、年間各賞に集約されて評価することで圧迫してしまうだけなのではないか、という意見もありました。作者はとても正統派な作風であり、作者自身の美意識に依存するところがあるので作品を重ねても(読み手視点から)鮮度がなくなりうる、一度視点が違うところに向かないとそう遠くないうちに停滞しそうな予感がある、放っておくと旬を逃すかもしれない、評価するなら今かもしれない、という意見もありました。やみくもの中で狙い打つ合間から伸びていくということは、狙い打つ度合が高くなることにほかなりません。最初の頃の作者の綴りを大切に、その上で技巧なども交え、没個性の作品に落ち着かないよう願っています。これからも作者自身を大切にされて欲しいです。

 選考の際、抒情詩賞には、凪葉はらだまさる右肩良久紅魚桃弾丘 光平DNA5or6、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道実存大賞> ―― 人間・人生が良く描けていた者に
■受賞 鈴屋

 鈴屋さんは生と死の過程でしかない現在の生命意識を、自身と異性という他者、そして住まう場所の三つの関係性から凝集させた眼力で提示していきます。眼によって晒されるものは私たちが住まう事象を構築する膨大な残骸であり、その一瞬の必要に生み出されては死に行き始末もされない何処へも向かうことのない消えることのない情報こそが、輪郭を明確にし、取り囲まれた自身と異性の性を生殖を冷徹に抽出していきます。終わりを芽吹かせる始まりを生み出す行為へと向かうことは、人間の本能をえぐり出し、自身も終わりに近づく死への色濃さを生に塗りつけます。自身とは一体何者なのか、生と死の狭間とは何なのか。意識と混合していく肥やされる死骸は答えを出さないまま設問を多義的に手渡し、存在を掌に握らせます。「花冷え」は特に軽妙に深めている傑作です。「恋歌連祷 6(仮)」や「あなたの行方(1〜5のうち1・2・3)」「あなたのゆくえ(1〜5のうち4・5)」などの評価も高く、前近代的でありながら一過性ではない読み手の中でも育つ作品を書くことの出来る佇まいは尊敬の念を抱かずにはいられない、という意見も出されました。

■受賞 殿岡秀秋

 幼少期の記憶は経験と現在を歩く風景の中に乱立させ、その身を隠すことは、ありません。決して、と言っていいほど、それは絶対なる悲哀です。晒されている世界の断面は内界と外界をつなぐ意識にくるまれ、初めて意味を持ち始めます。その人間の成長過程の中で培われてきた疑いのない価値観は、やがて世界を肯定し、それが故に疑いを持つのです。それは根拠や証明を不要とします。小さくも目を覆いたくなるような悲劇は、いつでも日常の中にあり、一人一人にささやいている、そこを歩き続ける、意思ではない時間の観念に輪郭が浮かび上がる。殿岡さんの作品はいつでも日常風景を子供の感情の雄叫びに変えます。「声の洪水」「悲しみの小石」は特に見事です。一番魂が合ってると感じた作者だ、という意見、“一作”ではなく、“作者”に賞捧げたい、という意見、最先鋭を目指していく作品がある中で殿岡さんの存在は実に異色で安心感すらありさえした、という意見もありました。

■次点 吉井

 言語の可能性が海より深いのは言うまでもありません。海底に人類がたどり着いても言語の底にたどり着くことはないのです。その可能性の深さから自由度を上げすぎてしまい、詩という芸術は破壊の加熱を倦怠する陰鬱へと向かわせることが多々あります。吉井という作者は歴史を凝縮した上での拡張と拡散を言語に備え、結晶させつつcoolにfoolをやっちゃってます。具体音と自然音への呼応する建物を傾ける根の伸長と、笑みとの弾けるサワーを見せちゃって、獲っちゃっちゃっているんです。徹底的なバカ衝動を挟むあり方は、エロスではなく、ど助平の歴史的首位確立を具象します。傑作「さてと」に鮮烈を知った、秀作「たんぽぽ」に抒情を握った、怪作「八十八夜語り ー晩夏ー」に共存の実景を見た、などなど、さまざまな意見がありました。量産したら壊れてしまいそうな創造のあり方なので気になる、言語派に傾倒してしまいがちな点を打破して欲しい、という意見もありました。

■次点 Canopus (角田寿星)

 ヒーローを信じることが出来たから歩んで行けた時代というものは誰にでもあります。成長するにつれ、自分がヒーローにならなければならない時が来たり、ヒーローにはなれないと思いしらされたり、信じるだけの時代は終わりを迎えます。作者は等身大のヒーローの哀切を常に突き詰めていきます。それは、まだ信じている子どものままの今と、これからへの不安から真ん中の感情を小さな咀嚼させて読み手を掴み放しません。作者のスタイルは様々なジャンルで蔓延しているものですが、すきであるからこそやり続けることに凝集する魅了は確かな独自です。日本の特撮ヒーローは欠けています。正義を完全によしとしていません。何が善で何が悪か、そんなことより腹が減る、今日の生活どうしよう、な作者の世界はこれからも拡がりを見せていきそうです。
 2008年、Canopus (角田寿星)さんの投稿作品は一歩先へと進み、哀切な符号の現実に画面の饒舌が駆られる方位を探り当てました。「ムルチ(『帰ってきたウルトラマン』より)」、「狙われた街/狙われない街(メトロン星人)」の立脚と歩幅の懐疑は妙を絶します。「もいっぺん、童謡からやりなおせたら」は、人間の感情を初めて揺さぶる衝動を持った傑作といえるでしょう。

 選考の際、実存大賞には、黒沢いかいか午睡機械右肩良久、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道新人賞>
■受賞 DNA

 流れで旧弊の欺瞞が粉砕されるのはいつでも自分を突き詰める快楽です。嗜好的娯楽行為に過ぎない自己完結が他者へと開かれるときにこの快楽は創造となり得ます。作者の綴りひとつひとつは新しいものではありません。見せ方、読ませ方も今となっては全く新しくはありません。けれども錯綜する欠如と爽快に跳ねる即時的な方法論は、依り代にする言葉へとドーパミンを直結させます。それは表層的な偽善を取り払い真摯な厳格な位置の根源を見据えて、方向を曝すことにほかならないと言えます。成立された本質とも言えるでしょう。真っ向から立ち向かい、装飾のみになってしまいがちな部位を打破し続ける作者には拍手を惜しみなく送りたいです。「彼岸マデ」は隠れた名作であり、作者の構成の妙に触れやすいうねりが指してきます。やりたいことがきちんと分かっている作者だ、という将来への視点を含めた意見もありました。

 選考の際、新人賞には、鈴屋殿岡秀秋右肩良久ぱぱぱ・ららら鯨 勇魚。マキヤマ、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道エンターテイメント賞>
■受賞  該当なし

 選考の際、エンターテイメント賞には、菊西夕座香瀬ゼッケン吉井、各氏の名前が候補として挙げられました。また、菊西夕座氏のレス部分にエンターテイメント賞を与えてはどうか、という意見もありました。

<文学極道最優秀レッサー賞>
■受賞 ミドリ 宮下倉庫

 合評に助けられたことって、ありませんか。自分自身の姿勢に澄ませていても誰にも読んでもらえないかもしれない寂しさが鈍らせる時に、凄烈な意見の投射に背筋を正し沸点を握る。誰にでも、ある経験です。もう書ききったはずの作品でも、より良い結晶を抱かさせられ、伸長の引き出しに愕然とする温かさです。育まれた夢想が現実へ帰り、全容に昇華される瞬間です。温かな掌を自作へとかざすレスは双方向性のある文学極道では特別な意味を持っていることは間違いありません。踏み込み浸す閃きの客観。ミドリさんは透けている博学をセクハラからエンターテイメントまで多岐で覆いつつ作品としての意識を問いかけ続け、ベクトルの賛否を突き詰めます。宮下倉庫さんは実直に真芯を捉え続け、その上での技術を提示します。自己閉塞への装置としての機能しか果たさない危惧すらある評や安易な時間消費の現実逃避へ傾きがちな作品の表層を初めから拒否する評の並ぶ中、二人が2008年のレッサー賞に選ばれたことは必然と言えるでしょう。必然と言える、の、ですが、

・菊西夕座事件
 このレッサー賞の結果には数多くの否定的な意見が寄せられました。その意見のほぼすべては要約すると同じ内容で、つまり「菊西夕座氏がレッサー賞を受賞していないのは、おかしい。何故だ」といったものでした。選考の際、レッサー賞の候補には、ミドリさん、宮下倉庫さんの他に菊西夕座右肩良久、各氏の名前が挙げられました。菊西夕座さんのレスは、真芯を捕らえた上でのエンターテイメントだった2007年と違い、最初からエンターテイメントへとずらし込んでいる、むしろレス部位にエンターテイメント賞を与えた方がしっくりくるのではないか、という意見もあり、議論に議論を重ねた結果2008年レッサー賞の受賞には届かないという結論に至りました。しかし、年間各賞発表後、メールや発起人のブログへのコメントなどで毎日のように「レッサー賞に菊西夕座が入っていないのはおかしい」という意見をいただくこととなりました。特筆しておきます。

<選考委員特別賞>
■石畑由紀子 選 受賞  ともの
「とものさん自身、この短期間で詩のテイストが激変しており、その前半と後半のどちらを評価するかは選考委員によって違っているとはおもいますが、今後長きにわたり書き続けていきたいものが彼女のなかで固まった感があり、おそらく必要な変化だったとみています。
 ここを経ての今年への期待も込めて、拾わせてください。」

■蛍 選 受賞  鯨 勇魚。
「たった1作の、しかも優良ではなくて佳作ですが。
 私には年間最優秀作品に挙げたいほど印象的で、好きな作品でした。

 やわらかな抒情で語られている、しんと冴えた冷たさがとても印象的でした。
 なかでも3連目の『@依存』は秀逸だと思います。
 これほどまでに優しく染みてくる淋しさが胸をうち、美しいイメージとももに、
 いつまでも心に残って忘れることのできない、そんな作品です。」

■ダーザイン 選 受賞  ぱぱぱ・ららら
 その他、鯨 勇魚。ためいき(特に「幻想領域」) 、各氏を候補として挙げていらっしゃいました。

■Aya-Maidz. 選 受賞  ゆえづ
 その他、PULL.氏を候補として挙げていらっしゃいました。

■平川綾真智 選 受賞  香瀬
 香瀬さんは血としての詩は書けないのだと思います。構成や所謂「表現方法」に魅せられた形骸化の装飾部位から詩を書き始めた印象です。2008年、それを逆手に取ったようなエンターテイメント的作品群は異彩として群を抜いていました。詩人ではない芸術家として、自分と戦い破壊と創造を繰り返すなんて、そんな泥臭さに一ミリたりともいない、計算のみの世界。それは作者を押し殺した形骸を極め、極めるが故に作者を見せるという逆説を生み出します。詩への再構成を別の立ち位置から、一種荒れ果てた地平を勢いと構成のみで、造り上げる世界は情感が体温の位置にない、独特の視点になっています。「[ピーナッツ]」の、生活の場所で読み手を繋げるあり方は、形骸化だとか中身がないだとか嘆かれている詩作品の新たな方向性を示している冷静な豊穣に富んでいます。どんな方向性で書いても体温が出ない様相は誰にも真似できない諧調です。これからどうなるのか見届けたい作者だ、と思わさせられました。
 その他、木戸さんの男子臭ただようダサさが気になりました。

■望月遊馬 選 受賞  5or6
 その他、ぱぱぱ・らららPULL.soft_machineさん

■前田ふむふむ 選 受賞  疋田
 *疋田さんの「眠り(a)」は<文学極道年間最優秀作品賞>の候補に挙げられていたことを付記しておきます。

■稲村つぐ 選 受賞  右肩良久
「右肩良久さんの登場は、有難かったです。多角的に、とても勉強をさせて頂きましたし、『「姥捨山日記」抄』など突然に、びっくりするような作品を生んでくれます。」

■コントラ 選 受賞  凪葉
 *コントラさんによる選評は8月中に公開予定です。しばらくお待ちください。

■その他
 また、選考の際、裏っかえし軽谷佑子小川 葉まーろっく草野大悟fiorinasora寒月んなこたーないケンジロウ、ひふみ、各氏の名前が候補として挙げられました。付記しておきます。

 2008年は新たな中核の心音に満ちていました。これまでとは異なる方向性を提示してくださった常連投稿者の確固たる音と勢いよく駆け上がる新人投稿者の輪郭を持たせない音。どれもこれもが魅力を裏書していきました。躍進の波動は静脈を動脈に変えます。
 一方、全体の傾向として詩を深めていっていない方が多すぎるのではないか、読者を意識して無さ過ぎるのではないか、という意見も狭間に出されていました。いとうさんとAya-Maidz.さんが興味深い発言をされていたので、以下に書き出しておきます。

 (いとう)
 詩を書こうとして書いている人や、自分が何を書きたいのかわからないまま書いている人が多かった印象を受けました。詩を書くという行為は手段であって目的ではないし、詩を書く際に、自分は何を書きたいのか、その掘り下げを徹底的に行わなければ、ピントのずれたものやありきたりのものになると、個人的には思っています。

 (Aya-Maidz.)
 選考メンバーの中でおそらく私が一番ライトな志向なんだろうけど、そういうところを意識して作品を読んでると、文学極道ないし現在(飽きずに)詩を読んでる/書いてる人っていう枠の中で作品を読まれることに満足してる作品が多いなぁ、と感じます。
 言葉の使い方などが粋な作品は増えた気がしますけど、その分難読化してて、且つ読後感が難解さに見合わない作品も増えてる気がします。「これは!!」と思う作品は難解になっても読み手を離さない興味や好奇の持たせ方が上手いんだけど、全体としてはそういうところは軽んじられてるのかなぁ、と。
 これからも既存顧客だけを相手にしていくのならどんどん尖っていけばいいんだろうけど、詩の現状考えるならば空回りしてでも世界観を薄めないギリギリのところでキリギリの表現に気概を見せてくれる人が出てきて欲しいと、個人的には思っています。

 上記は本質で曲がらない印象でこれからの追及です。これから自作を含めての果敢を思わずにはいられません。
 また、以下のような意見も出されました。

 (石畑由紀子)
 年間を通して一作のみの投稿だったものの好印象、というかたが何人かいらして、
 (個人的には小川 葉さんや鯨 勇魚。さんなど)
 推挙するためにももうすこし数を読みたかったな、とおもいました。
 もちろん、単発でも充分な爪跡を残すかたもいるので、それまでと言えばそうなのですが。
 また来てほしいです。

 (稲村つぐ)
 毎年ごとに、受賞暦を無視したリフレッシュな見方で年間選考をしていきたいと考えています。
 当サイトの掲示板は、詩誌の新人作品投稿欄のように“新人賞をもらったら、その人がいなくなる”のではなく、良い作品と刺激的なレスが常に活発に行き交う、“生きた投稿掲示板”であってほしいと願っています。

■殿堂入り 一条

 最後に、殿堂入りである一条さん。2009年から殿堂入りの者でも投稿しさえすれば年間のどの賞の候補にもなり得る資格を持つ、ということになりました。重圧の中にあるかもしれません。賞を狙うという、とても曖昧な自我にはいないのかもしれません。ただ、湧かしてくれたら、と思いは止みません。

 これからの文学極道はもっと広義に解釈されていって欲しいなと思っています。されていくだろうとも思っています。皆で土壌を作っていきましょう。更新していきましょう。これからも、よろしくお願いいたします。

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コラム更新(お年玉代わりの拳骨)

2009-01-02 (金) 14:53 by ダーザイン

現代日本最大の詩人と言えば、当然、文学極道創造大賞受賞者や殿堂入り者ですが、現代日本最大の文人でもあるコントラ氏(憎き米帝在住by本人談)の新しいコラムと、南斗聖拳伝承者、聖帝ダーザインの檄文あがりました。ご一読ください。

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コラム更新 りすさん

2008-07-19 (土) 14:31 by 文学極道スタッフ

『僕が詩を書くワケ』
りすさんありがとうございます。

皆様御一読ください。

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コラム更新Canopus(角田寿星)

2008-06-29 (日) 00:22 by 文学極道スタッフ

「批評の場というもの(副題:詩のサイトだというのに特撮の話しかしない)」
Canopus(角田寿星)さん、ありがとうございます。 

他にもお願いしている皆様、よろしくお願いいたします。

文学極道の本の件で連絡の無い方々もよろしくご連絡願います。
(あなた方がいない文学極道なんて無いんだよ!)

それからダーザインより伝言
「ミドリさん、連絡ください。ラブ♪(*´Д`) 」

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続、総評。

2008-05-03 (土) 07:23 by kemuri

一条「milk cow blues」

 一条という書き手は、わからない。一条氏について語れる書き手など一人もいない。それほど、氏の作品は強固に批評を拒む。着目すべきガジェットは巧妙に隠蔽されている、ないしは存在しない。意味性や外部との連なりはあと一歩で指先から滑り落ちていく。しかし、この書き手ほど解答不能の喜びを読者に与えてくれる書き手もいない。それは、抒情ではない。あるいは個人性でもない。なんだかわからない、答えようがない。しかし、それはどこにも接続されないテクスト、読者と無関係に荒野に立つ塔を意味するのではない、氏のテクストには入り口がある。どうぞ、立ち入りは自由ですよ、とこの作品は言う。そして、実際に我々はどこかに辿り着く、氏の作品が「いい作品だ」という答えだけは提示される、何かが掌の上に残っている。しかし、読者はその道程を踏破したにも関わらず、自らの感覚の根源が見つけられない。「鴎」「黒い豆」…この書き手に対して与えられた「殿堂入り」という称号は、言ってしまえば発起人の敗北宣言にすら近い。誰一人として、自分が歩いた道を説明出来ないのだから。一年目、ぼくは「創造大賞」を受賞させていただいた。しかし、ぼくはここに認めてしまって一向に構わない、真に一年目最も優れた書き手として表彰されるべきはこの書き手だったと、ケムリは思う。批評には、作品と自己その両方に対するディスクリプションが常に必要とされる。作品と自己は対置され、批評すべきは作品ではなく、あるいは自己ですらなく、自己―作品の間に交わされた交歓そのものだ。しかし、この書き手の作品に触れたとき、読者は気づく。私達は自らについてすら語りえない場所を持っている、この作品が言葉を交わしているのは、我々のどこかにある語り得ないブラックボックスそのものだ。「殿堂」という称号は、「棚上げ」のような意味を持ってしまうかもしれない、しかし同時に言えば批評の限界は今のところ、ここにあるのだ。一条氏という存在は、文学極道の喉に刺さったさかなの骨である。発起人はもちろん、この骨を抜こうとしている。氏の作品に見られるムラがさらに悪化するようなら、この称号からは落下するであろうし、また我々の批評力の向上にも期待していただきたい。今年は魚の骨を引っこ抜くことは出来なかった、だが来年は引っこ抜いてやる。これは、批評をする者にとって大いなる喜びであることを隠す必要はない。我々は、沈黙しない。待ち続け、挑み続ける。

さちこ(藤坂知子)「繋音」

 生命が去っていく、あなたが去っていく、深い森の底へ。この書き手の中で「生」と呼びえるものは「あなた」しかいない。バシュラール的な象徴的語彙、風の終わりとは即ち死を顕し、森の奥は人の知り得ない世界だ。彼は宙吊りにされている、圧倒的な死を与えられながらも、作中主体と死の森の間で僅かな猶予が与えられている。その猶予は音として表される。繋がれる音、それは掌に残った記憶の雫が乾いていくまでの、草に覆われていく(外部的な記憶―例えば彼は猫が好きできゅうりのピクルスが食べられなかった…そういった明晰なる歴史的事実に包まれていく)「彼」の身体が一本の道へと形作られていくまでの残滓。作中主体、「わたし」の中にほんの僅か残った彼の遺骸。人は、忘れていかなければならない。死人と向かい合ったままでは生きていけない、死人はいずれたった一つの道となる。それはもちろん、ぼくたちがいずれ歩かなければならない道程、即ち死(=森)への矢印なのだけれど、でもその道を前にしたときぼくたちはやはり、声を繋ぐことを選ぶのだろう。叫ぶべきものがなくても、掌に残った雫が全て乾いてしまっても、生きるならばぼくらは声を繋がなければならない。不恰好でも、唄にならなくとも、それでも声を上げなければならない。生命の音が途絶えた森の中で、歌わなければならない。示されている内容は切実であり、また共感も強く得られる、モチーフへの目の向け方も実に正しい。だが、この作品は象徴的語彙の形作る構造性に比して、描写に甘い点が多く観られることも最後に指摘させていただきたい。抽象性と具象性の入り混じりが、単なる空疎な行稼ぎ、「それっぽい語彙」の連なりに見えないこともない箇所がある。その部分に、一層の鍛錬を願いたい。もっとも、こういった作品は何らかの強い動機の上に成立している(リライトをするような、あるいは技術を問題点として取り上げるような性格のものではない)可能性が強いことも、同様に認めねばならないけれど。

最優秀レッサーミドリ

 レスというのは、報われない作業だ。真摯であればあるほど、作品に対しては厳しくなる。そして、「正当な批評」というものはきっと、この世のどこにも存在しない。強いて言えば、ぼくたちが属している世界の構造的な決定事項、つまり資本主義的批評―売れれば正義ということ―くらいが一面的には正しいのかもしれないけれど…。(なにせ、ぼくらはカネがなければ死ぬのから)でも、そんなのクソ食らえだ、そうじゃないか?
 もちろん、この批評を書いているぼくのように、賞賛すべき対象に対してのみレスをつけるのであれば、それはそれほど苦痛な作業ではない。それどころか、大いなる悦びですらありえる。しかし、誰かの作品―それは、時には作者の人間ともイコールであると考えられることすらある―について、なんらかの批判やアドバイスを行うということは極めて苦しいことだ。もちろん、ミドリ氏の批評に対して納得のいかない思いを抱えている人間も決して少なくはないだろう、なにを隠そうぼくもその一人である。ついでに言えば、ぼくの批評に対して同様の思いを抱えている人間はもっと多いはずだ。しかしぼくは役柄という仮面をかぶり、やるべきこととして批評をする。尻をムチで打たれて走る人間は、常に評価になど値しない。それがぼくだ。だが、ミドリ氏は違う、なんの強制性もない場所に立って、自らの語彙を他人に対して与え続けている。それも、感謝されるとは限らない、それどころか多くの場合に於いて反感を買うような場所で。言うまでもなく、批評を続ける人間は磨り減っていく、語るべき語彙が、あるいは動機がそんなにあるはずがないのだ、普通は。豊富な語彙で衒学自慢に陥ることなく、語りかけ続けるレッサー、ミドリ氏に。感謝を述べたい。またこの賞に関しては、敢えてその役柄だけを選び取り精力的にレスをつけ続けてくれたひふみ氏、実感的な言葉で日常のうちに、身体感覚と不可分の率直さでレスをつけてくれたCanopus(角田寿星) 氏、そして多くのレスを続けてくださっている諸氏に、ありったけの感謝を。

最優秀抒情詩賞及び実存大賞次点
紅魚ピクルスいかいか葛西佑也、そして候補に名を連ねた書き手達。

  それぞれ本賞受賞に一歩及ばなかったものの、発起人の票を集めた書き手達。選考者によっては、それぞれの本賞における第一候補として名前を取り上げられている方ももちろんおられます。しかし、悩んだ末のことであると了承していただきたいのですが、ここに列挙された一級の書き手たちについて、ぼくは批評を書く資格がありません。ぼくは「推した側」に入っていないからです。この選評について、ぼくは正直に、本来の意味で「称える」あるいは「価値を語る」批評をしたいと思っています。であるからこそ、惜しくも次点に留まった皆様へ賞賛を贈る仕事は、ぼくがすべきではありません。選評を散々に遅らせた上、このような形は申し訳ないのですが、やはり「推した」発起人の方々がこの場で語るべきだと感じます。ぼくの口から語るべきことは、ここに列挙された書き手を強く推す発起人は確かに存在し、我々は長い期間を喧々諤々に争った、ということ。また、列挙するのみに留まってしまいますが、最優秀抒情詩賞の候補には夕美氏、実存大賞にはsoft_machine氏ためいき氏はらだまさる氏。新人賞にはレルン氏レモネード氏の名前が挙がっていたことを述べさせていただきます。上段に構えた物言いが自分の中では非常にムズ痒いのですが。より一層の躍進を心から望みます、良い作品を切磋琢磨する場であるためには、皆様の作品が必要です。来年は、今年度の受賞者から賞をムシりとってやってください。また、流離ジロウ氏「にじゅう年の熱帯の鳥」haniwa氏「よるにとぶふね」の二作は、賞の基準には及ばなかったものの、名前をここに記すべき作品であると選考の中で複数の発起人に語られていたことも付け加えさせていただきます。「にじゅうねんの熱帯の鳥」はぼく自身も大好きな作品です。このブログがあって、良かった。

吉井「れてて」

 最後になりましたが、ケムリ選。ええと、これだけは言わせてくれ。この書き手に対する評価が不当に低いとは思わないか。いや、俺は思うんですけどね。この書き手に対して、俺は批評なんかしたくないです。ここまで書き上げて、気がついたら夜が明けていたりもするし、ビールが五本空になり、オールド・グランダッドが一瓶空いてしまったわけなんですが。今日はこれからバイトだよどないしよう。そんなときに読む「れてて」はじんわりと心に染み入ってくる、なんだかわからないものが、じんわりと。うひぃふふほーういい天気だ、雨降ってますけど。言っちゃなんですが、ここまでつけた選評はぼくの全てをこめました、いささか拙いであろうし、誤字チェックも甘いですが、それでもこれはぼくの全てです。そういうわけで、本当に疲れました、灰皿がサボテンみたいなことになってるし。それでも、「れてて」は染み渡って来る、もう、それでいいんです。批評は出来ないししたくない、でもとにかく俺はこの書き手の書く文章が好きなんだ。それでいいじゃないかということでケムリ選。うひぃふふほーう疲れた。れ れて れてて、何度も読み返してください。ほら、何かが染み出して来ませんか?来るだろ?来るはずなんだよ!

さ。
さて。
さてて。
文学極道三年目、いささか遅れましたが総評は以上となります。いや、まだ不足があったり「あれ書き忘れてる」とか「この人忘れてる」とかの可能性もあるかもしれませんし、ぼく自身が大慌てで加筆する可能性もありますが。それでも、これをひとまず幕とさせてください、少なくともケムリの下手糞で長ったらしい語りはここで終わる予定です。でも、まだまだやります。まだ、きっとやれる筈です。そして、来年もこういった総評を、本来の意味での批評をぼくに書かせてください。その時を楽しみにしています。ぼくは、批評をするに足りる人間ではないかもしれない、いやきっと足りないだろう。でも、足る人間であろうと努力します。そして、必死で作品を読みます。それだけは、約束させてください。

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