文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2018年9月分月間優良作品・次点佳作発表

2018-10-30 (火) 01:03 by 文学極道スタッフ

2018年9月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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「国民文化祭2018おおいた」の「ポエトリー・サラダボウル」への「文学極道」としての参加辞退について。

2018-10-29 (月) 22:11 by 文学極道スタッフ

10/29月曜日から大分県などに「国民文化祭2018おおいた」の詩の朗読イベント「ポエトリー・サラダボウル」へと「文学極道」が関わることに関して老齢の声をした同一人物から「行動を起こす」などのクレーム電話が常に掛かっている状態が続いています。私たち「文学極道」は今回の事態を重く受け止めています。イベントの安全が最優先のため大変、残念ですが「文学極道」としての出演を辞退いたします。また当日、配信予定でした「文学極道公式ツイキャス」からの配信も中止を決定いたしました。本当に苦渋の決断であり、ただ一人が県などに電話をし続けるということに今まで打ち合わせを重ねたことが一部なくなることは悔しく残念な思いです。けれどもイベントのことを考えた場合、仕方ありません。なお「ポエトリー・サラダボウル」自体は行われますので皆さま是非ご参加ください。文学極道代表:平川綾真智 スタッフ一同

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「文学極道」では差別的発言を容認しておりません。

「文学極道では、作品およびコメント欄での差別的発言は容認しておりません。削除対象となっております。投稿者の皆さま是非、了承した上で御参加ください。スタッフ一同、全力で対応しております。よろしくお願い申し上げます。」代表:平川綾真智 およびスタッフ一同

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●文学極道公式ツイキャス第69回放送予告について。

2018-10-23 (火) 00:48 by 文学極道スタッフ

●文学極道公式ツイキャス第69回放送予告について。
(配信が20時開始となりました。)

 「文学極道公式ツイキャス」第68回放送、自作詩朗読枠、大盛況の内に終わりました。書き始めたばかりの方の参加やベテランの書き手の方、リーディング界を牽引している皆さまの朗読参加など多くの方の御参加、本当にありがとうございました。非常に勉強になりました。本配信が、きっかけとなり詩を書き始めた方が何人もいらっしゃいます。閲覧できなかった方、録画が残っておりますので是非ご覧ください。次回、第69回は即興詩枠になります。お題出題者も募集しております。様々な宣伝を行うことも出来ます。「文学極道公式ツイキャス」は音声方面からの詩、発話から始まる詩の探求を実験的に行っていきます。次回もワンドリンク用意しながら御参加いただければと思います。閲覧者も是非ワンドリンク用意しながら御参加ください。コメントでの評も可能です。司会進行は、詩人の瀧村鴉樹さんが務めます。楽しく真剣に詩を探求していきましょう。「文学極道公式ツイキャス」は、音声方面と発話による詩への新たな提言です。

※第69回 10/23(火)20:00〜 即興詩枠開催。
(20時開始の最長4時間です。)
twitcasting.tv/bungakugokudo
webのオープンマイク「文学極道公式ツイキャス」

(放送に上がり詩朗読をしたい方はPCの場合コラボ参加ボタンをクリックです。
 スマホやタブレットの場合は、ツイキャスビュアーとツイキャスLIVEの2つのアプリをDLして受話器の画像をタップしてください。
 いずれの場合も必ずイヤホンマイクを接続して御参加お願い致します。
 皆さま是非よろしく、お願い致します。)

※「文学極道公式ツイキャス」は「国民文化祭2018おおいた」に呼ばれることとなりました。11/3別府市『ポエトリー・サラダボウル〜詩に触れよう詩を読もう〜』内の『出張! 文学極道公式ツイキャス』での自作詩エントリーは〆切。即興詩コーナーは飛び入り自由です。11/3は是非、別府市へ。
  
              文学極道公式ツイキャス運営スタッフ一同

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2018年9月 芦野月間選評

2018-10-20 (土) 00:41 by 文学極道スタッフ

芦野個人の選評となります。
前書き

  • 優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
  • 上記の理由で優劣がつけられなかった作品に関しては私しか選ばないだろう、という作品を積極的に推挙しています。そのような「不当」な理由で落選となった作品に関してのみ作品の横にその旨付記させていただきます。
  • 今月は良作が多かったですが、上記以外の通常の理由で落選とした作品もありますが、優良候補だったことは明記されておりません
  • 優良、落選、順不同です。
  • 今月も同様に一部の作者の作品に関して批評するに能わず、そのこと謹んでお詫び申し上げます。

10765 : plastic  完備 ('18/09/25 14:04:39 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180925_802_10765p
最初に抱いた印象は「繋がらない」というものでした。
僕がこの作品を読んでて伝わってきたものって、陳腐な言い方ですが孤独感。もっといえばストレンジャーとしての違和感ということになると思います。それに関しては「ポスト」であったりそれに投函するために手にしたA4の封筒、或いは留学という言葉、それらの語彙からの勝手な想像ですが。繋がりたいこと/繋がれないこと というものとしてギリギリの線を攻めてやろうという気概を感じると同時に、そのギリギリの線が読者に「読み解いてやろう」という気持ちを起こさせるだけの詩文になりえているか、と問われると、そうではないと思います。そういう意味で、一つ一つの言葉、仕掛けが、読者の頭の中で有機的に「繋がらない」ということです。

すこし振り回してからは引き摺って歩く
どうしても線にならず
きみの作る窪みもほとんど地形の一部

これって多分作者にしか書けない詩情だと思うんですが、当然、読めてないくせに何を言うんだ、というツッコミはあると思います。ただ、技術の一つとして、目の前の情報を客観的に描写すること、に加えて、それを見た話者(作者)のフィルターを通したその行為を叙述すること、というのは本質的に作者の詩情を表現するにあたって、とても優れた方法だと思っています。具体的に
>すこし振り回してからは引き摺って歩く
客観的描写
>どうしても線にならず
話者のフィルターを通した行為への解釈。(線にならない、というのはもちろん客観的ではない)
>きみの作る窪みもほとんど地形の一部
その行為への解釈に対する詩的な救済(救済というのは大げさだけど)
ここが鮮やかなぶん余計に、アイテムの多さが雑音となってしまっている感が否めない。

10772 : hyouka-ga-hara  田中修子 ('18/09/29 01:10:19 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_940_10772p
出だしの数行を読んで、今はなくなってしまったpoeniqueに投稿された中村梨々さんの『ロシア』を思い出していました。サイトがなくなってしまったのでリンクが貼れなくて残念ですが。(どうでもいい話ですね、はい。)
言葉のチョイスというか、物語のあるものにあえて脱臼させるような語彙をいれてくるのは割と高橋源一郎っぽいのかな、と思ったんですが、決定的に違うのは、プロットを脱臼させて物語を面白くさせる、ってのが高橋源一郎的な手法だとしたら今作は物語が脱臼してプロットが機能してない、と思ってしまいました。
全体的にそうなのですが、作者のフィルターを通した風景や心象「しか」ほとんど描写されておらず、読者の足場がない部分がだいぶ多いと思うんですよね。ただそれは短詩のような形式では、僕は「あり」と思うんですが、散文形式をとった時に、どこかに足場を作ってあげて、そこからの距離として、作者独自の表現を読者に体感させたほうが効果が大きいような気がします。
例えば

彼はうしろにふっとんでいく。肉体がはじけた。けど、散らばるのは内臓じゃなくて青やうすむらさきの董だった。

僕はこの表現なんか唸るほど好きなんですね。ただ描写の質が全体を通して同じ調子なので、ここでの優れた表現が際立って見えないというのが少し、というかかなり残念に思えてしまって。もう少しメリハリ(客観的描写、飛躍、詩的表現のバランスという意味で)を付けたほうが、ここぞ、という場面が光るのではないかな、と思いました。

10763 : 悪魔の子供  白犬 ('18/09/21 23:29:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180921_631_10763p
官能的な情景を今まさに、その状況に置かれたものが発しているかのような「生の言葉」で表現している、というか表現しようとしている、という感じを受けました。
atsuchan69さんと玄こうさんの的確なレスが付いていたので玄こうさんのレスを一部引用します。

書きながら自己のカタルシスに安易に溺れず、「詩に酩酊する」ことは避けて書いて欲しい、と思う。
それはもっと後から出てくればよい。書かれた後で、読まれた後で、この詩に「陶酔する」という心境や事態が生まれる。それは酩酊とは全く違うものである。(持説だが)

このような「生の言葉」というのは臨場感があると同時に客観的に読むとこっぱずかしい印象を与えかねないというのは、確実にあると思うのです。玄こうさんが仰っていることを少しかみ砕くと、作者の「酩酊」よりも読み手の「陶酔」を優先して詩を書いてほしい、ということになろうと思います。
故に逆説的かもしれませんが、こういう詩を書くからには、徹底的に自分の言葉を突き放してみるとよい、と思っています。
例えば
ジャスコの3階でペペロンチーノとダンス
とか
脳髄に泡立つ黄金のmellow
とか
もう限りなくダサいんですけど、別にダサいことって詩においては特に問題があるとは思っていなくて、読み手にダサいという印象を与えて上でどうするか、というのが問われてくるんだと思います。
もっと具体的に言うと、ダサい表現に対して、読み手がダサっ、って思うことを想定したうえで、そこをちゃんとフォローしていく書き方ですね。一つ一つの表現に関して、とても作者ならではの感性を感じる作品であるので、それをそのまま出力してしまうのではなく、ぐっとこらえて、「どう読まれるか」ということにもう少し意識を払うと化けるのではないかな、と思いました。

10771 :  無名抄  玄こう ('18/09/27 23:20:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180927_906_10771p
正直に書くと全く読めなかった。
特徴的なところを抜き出すと

 あぁ、数多アマタ 灰色な雲を担ぎながら、めあきの男たちが死んだまま通りすぎてゆく 、土をかぶせた顔の喉元から、声高に吹き上げよみがえった、にょきにょきと噴きあげる、軒下の、ゆく先ざきで、ほとり、ほとり、無明のほとり、を、ひとり、やせ、赤黒い大きな口を開け、まま、じっ、と、立って、枯れるのを

もう一方の作品と比べると、もう少し文法というものを頼ってはいかがかな、という印象をぬぐいきれない詩文です。おそらく作者は文法通り書かれた文章のつまらなさ、というものを感じていて、このように「ずらしていく」という技法を使っていると感じます。それ故に、「頼ってはいかがか」と書きました。もう一方の作品は、表現したいことと表現手段が相乗的に良い効果を生み出していたように思いますが、こちらの作品は噛みあっていないと感じます。
難しい話は僕自身わからないのですが、文法的に筋が通った文章って、言葉の意味は分からなくとも、それだけで読み手に「言葉のつながり」を意識させる技術だと思うんですよね。今回の作品の場合書かれている言葉自体作者にしかわかりようもない言葉の羅列であると同時に、文法的にも滅茶苦茶にずらされているので、「言葉のつながり」を意識する暇もなく通りすぎてしまいます。
文法は技術と申し上げましたが悪文もまた技術でありうると思います。が、今作に限ってはそこのバランスがとれておらず、悪文が技術たりえる詩文になっていないと思います。

10710 : 獅子吼  lalita ('18/09/03 01:28:27)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_561_10710p
先月同様、あまり言えることはないと感じております。
ただ先月とは違う点として、今作、悦に入った言葉がところどころ、読者の読みを阻害してはいるが、同時に作者の体験や感性に拠った言葉も多かったのかな、と感じました。
具体的には

やっと生きれそうなんだ。やっと人間になれそうなんだ。
半分動物だったんだね。今までは。

等でしょうか。というよりも「ファッションとしての芸術、映画」という言葉、これだけでは、まあよくある詩文なのですが、それを動物的と断じ、「人間」というものへ向かおうとする、ということ自体は、個別の体験によるユニークな物語でありうると感じました(意外にも)。
こういう描写を、うわ言ににか見えない形で詩文に唐突に挿入してしまうのはとてももったいなく感じていまして。具体的なエピソード、物語化、文脈化を通して、読み手へと届けていただければ、という感想を抱きました。

10760 : ビンタ  atsuchan69 ('18/09/20 10:37:42)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180920_527_10760p
冒頭と、最後に2度繰り返される大粒の涙という言葉と。丁寧な描写とは裏腹に、架空であることにアクセントを置かれた名詞。時々妙に俯瞰的になる視点など、読み終えた後に、なんだか重大な読み逃しをしているような気にさせる作品でした。あと作者にとっては当たり前のことだとは思いますが、基本的なところでの描写力があるので読んでて安心感を覚えます。
子細には読めなかったんですが、印象的な部分として

大粒の涙‥‥いやそれは悲しみというよりまるで馬鹿げてるとしか言いようのないほどの荒く凄まじい憎しみの雨で草木の葉は低くうなだれ足元はたちまち泥の河となった

ここのなんとなく南米の幻想小説を思い起こさせるような描写が印象的で、「大粒の涙」というものを密林に降るスコールののことと「単に」読むと、密林で生きることを宿命とした人たちの素朴な生活が浮かび上がってきます。そこで「大粒の涙」ということを思い出すと、途端その生活に色が帯びたように空気感というものが立ち現れてくる。そういう読後感のある詩なのですが、そこからもう一歩さらに読み手に迫ってくるものがあれば、と思ってしまう作品でした。

10770 : 収穫祭  朝顔 ('18/09/27 12:00:22 *13)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180927_885_10770p

その頃のわたしはもう書斎のむずかしい文学全集に手を出し始めた頃で

作者の意図したところかはわからないのですが、僕にはこの作品は母親を描いた作品のように思えました。娘/息子が何やら自分の知らない世界への一歩を踏み出そうとしているのをみて、わが子であるにもかかわらず、自分とは違う人間になりそうなことが気に入らない、苦々しい、という母親のとても人間的な感情を(暗示的に)描けているように思えたのです。
クンデラの小説で、いつも裸で家中を歩き回っている母親が、裸を見せるのは恥ずかしいことではないのか、という疑念を抱く年頃の娘に対して、同様に苦々しく思い、破廉恥な生活を娘に見せつけ、娘が顔を赤らめると嘲るように笑う、というのがありましたね、多分『存在の耐えられない軽さ』の冒頭だったと思いますが。
この作品に関わらず、告解詩のような体裁の作品に往々にして「お前のことなんて知らん」という評が寄せられる(文学極道に限らず)と思います。僕も実際、そういう感想が一番先に来て、どのような形でそういう批判をあらかじめ封殺するための技術を用いているか、というのを注目してしまうのですが、今作は冒頭にあげた文章が、思いのほか母親の心の中を深くえぐっているようで見どころがありました。
作者の意図したところかはわからない、と書いたのは、後半に行くにつれて母親というのが、実在する人から離れて、何やら記号のようなものになってしまっているのが少しもったいなく思ったからです。

10767 : 未詩論ーショウガイシャトイウナマエニツイテ  竜野欠伸 ('18/09/25 22:34:00 *66)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180925_820_10767p
レス欄で多くの方が指摘されていますが、日本語として意味不明な箇所が多すぎる、という点が最大の難点であると思います。そこはまぁ謙虚に受け止めてしまいましょう。
誰かに何かを伝える、という点において、論という体裁をとるからにはまずは伝わるように書かねばならない、というのは当たり前ですね。一つ一つ取り上げて具体的にどう伝わりにくいか、なんてのはやめておきます。
なので少し角度を変えて話をするのですが、「未詩」という言葉があまりにも前提無しに使われている気がします。僕は「未詩」というものが僕の知らないところで当たり前のジャンルとして存在しているのかな、と思って調べたほどでした。でもこの瞬間ってとてもワクワクしたのも事実なんですよね、「未詩」という未知のワードに対していだく好奇心って読者は感じると思うんですよ。なのでそこをどうやって拾っていくか、というところに気を遣ってもよかったのではないかな、と。
他にも、いろいろな言葉が前提無しに出てきますね。心にとどめておいていただきたいのは作者にとっては自明のことに思われる言葉って、実は読み手からすると全然自明ではなかったりします。そのことを想像にいれると、伝わる文章、というものが今よりは少し簡単に書けるのではないかな、と思いました。

10773 : 雪原の記憶  山人 ('18/09/29 17:49:08 *1) 優良候補 → 落選
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_966_10773p
多分最初の数行でこの詩のリズムに乗れないとこの作品を読み通す気は起きないだろうと思う。あとタイトルが一見ダサい。というのがこの作品につけられるケチの全てかなと思う。

すでに分解された銃の一つを手に持ち、銃身に唇を当てた。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした。

これを「冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした」と読む人はたぶんこの詩を読むにはあまり向いていないと思われる。僕は「冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいしかしない」と読んでいた。こう読ませてしまえば作者の思うつぼなのだろうな、と読みながら思っていた。
なんのことかと言うと、この今から手放す銃を唇に当てるというかなりナルシスティックな描写で、何を思うか(何を描こうか)という作者の取捨択一を考えてほしいのだが、往々にして、詩人というのは詰め込みたがるものだと思うのですよ。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいと今まで撃ってきた獣の血の感触と…と続けていたらたぶん台無しになってしまうのではないか、という点で、この作品全体の調子を印象付ける一文だと思います。具体的に言うとこの一文によって、「限りなく事実を語ろうとする話者への信頼」が成り立ってしまった、僕の場合。
ただ例えばこの作品に関して、これは詩ではないのではないか、という疑念を表明される方はたぶんいらっしゃると思うのですが。僕がそういう方に返せる言葉としては。

ウサギの足跡が忽然と消え入る箇所があるのだが、こういう場合は得てして近隣に潜んでいる場合が多い。ただ、場合によってはこういうカムフラージュ痕を幾度も繰り返している場合もあり、百戦錬磨の狡猾なウサギも多い。

この「眼差し」が詩でないのならば、何が詩なのだろうか、ということしか言えない。いや、僕だってさすがに言葉が足りていないことくらいはわかっているのだが、限りなく事実を語ろうとすること、及び余計な感傷を差し挟まないこと、という点での一貫性、またはそれならば、見えてること、知っていることは惜しみなく書こう、という話者が事物へと向ける一貫した眼差しが翻って話者がちゃんとそこで生きている、という実感を呼び起こすのではないか、と思うわけです。そして、その「眼差し」への同期があるからこそ、上に挙げたような、例えば「狡猾」という言葉が、読み手をして確かに狡猾だなと読ましめるようになっているのだと思います。
一応断っておきたいのだが、僕は詩的なレトリックを否定しているわけではない。そこに一人の人間が生きていて、その一人の人間から発せられた言葉と信じさせてくれれば、いくらでも僕はその飛躍に付き合うつもりである。

前置きが長くなってしまったが、この詩の一番の見どころは最終連である。作者も意図したであろうが、最終連は妄想であることをできるだけ早めに感付かれないように書いてある。そこが何よりこの妄想の臨場感というものを増していると思われる。と、同時に、ここまであくまで即物的な言葉に依拠していた話者がはじめてここで自らの心象風景を語るのである。しかもそれはウサギを狩り、内臓を剥ぎ取るという行為なのだ。ここまでこれだけ感傷的な事柄に流されずに語ってきた話者を思うと、この妄想はもはや事実と同等の価値をもって胸に迫ってくる。それは普段ウサギを狩っていたことの詳細な記述や熊狩りでの事件を経て銃を手放す決心をしたこと(もちろん読者はなぜその事件をきっかけにして銃を手放したのか、ということが頭にある)それらがすべて布石になって、胸に迫るのである。しかもそれが、ウサギの内臓を剥ぎ取る記憶であることが何より名状しがたい。

10775 : 猪のメモリー  イロキセイゴ ('18/09/29 23:59:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_981_10775p
先月も述べましたが作者の作品を良い/悪いと感じる感性はぎりぎりあると思っているのですが、それを言葉にはできないもどかしさを感じています。というか僕の選評のスタンスを読んでいただければわかる通り僕の言葉では評価のしようがない。
今作の印象はパッと読んで「猪のメモリー」が案外エモイ感じで響いているのが、僕としてはいい感じに読めたと同時に、この体裁の詩は一行一行が必然性を感じられるくらい強い感興を呼び起こさなければ、成功しえないだろうな、という難しさを感じました。

10748 : 夜[2004]  中田満帆 ('18/09/15 13:07:03)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_348_10748p
黒だとか、夜だとか、かっこつけている部分もちゃんと作者はかっこつけていることを分かったうえで書いていると妙に納得できる作品でした。
というのもこれ要するに、夜になって孤独感を感じるんだけど飯食ってる時はまぁまぁ幸せだけど喰い終わったらやっぱり孤独で、皿に顔を伏せてYという少女と結婚したいと「心にもないことをいう」という。どこまで欲望に素直なんだ、という感想と、これほど素直で、人間的な感情をそのまま抉りとってくるのは、もう脱帽というか、作者の作品全般に言えることではあるが、正直に羨ましいところでもある。
先述したが、そういうかっこつけって、実際にかっこいいパターンと、かっこ悪いんだけど、今そこに生きている人間から発せられた言葉だと信じれるパターンと、二つの成功例があると思っていて、この詩の場合、結構実際にもそこそこかっこいいフレーズだし、それがこの詩が展開していくにつれて明らかになるちょっと情けない「話者」からこぼれ出たどうしようもない虚勢だったんだ、ということに気付く、なかなかお目にかからないパターンで成功していると思う。いや、これキュートですよね。

10774 : DVDVDVDVDVDVDVDVDVDVDVDVD  泥棒 ('18/09/29 19:20:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_974_10774p
素直に良い作品だと思ったのだけれども、なかなか評するのが難しいと思っている。
というのも僕はこの作者の感性がわりとダイレクトに刺さってきてしまい、それを共有可能なものへと言語化するのが困難だからかな、と。
この作品に特徴的なのは、独白という形式をとっていること。語尾に注目していただければ、この作品がとても読み手と近しい、あのぽつりぽつりと脈絡のないことを呟いてしまう詩人っぽい存在を思い浮かべることができるだろうと思う。と同時に、この作者の作品に特徴的な技法として、メタ的な詩句を唐突に挿入する場面がよくある。

時間と共感を殴り倒し

例えばこんな身振りで。読み手というのはどうしようもなく脈絡を探ってしまう生き物である。ちょっとした物語があれば、どのような伏線が用意されて、どのようなオチに持っていくのか、など。でも今作を読んでいると、そういう「制限された読み」というのをこの作品は「殴り倒して」いく。じゃあそれが、詩文にとってどのような効果を上げているのだろうか、という点に言及せねばなるまいが、先述したような「ぽつりぽつりと脈絡のないことを呟く」話者の登場する作品であることと相まって浮き彫りにされている感情がある。たぶんそれは「さみしさ」という言葉に近いのだと思う。
ちょっと適切な例ではないかもしれないが、SNSなどでしきりに「ぼっちアピール」をして、いたるところに顔を出し、脈絡のあるエピソードを添えて自己表現する方を見たことがおありだと思う。僕はそういう人をみて、(というか僕もそっちのタイプの人間だけど)軽蔑なんてしないが、その人を「さみしい」という言葉で表現はちょっと違うんじゃないかな、と思う。
うーん、、大分わかりにくい評になっていることは自覚している。僕が言いたいのは、「さみしさ」というのは根本的に共感不可能であること、解読不可能なコードであること。この作品が呼び起こすある感興はそういうぎりぎりの線で成立しているのではないか、と。

10768 : 『 ‐ おぼろげ −』  柏原 一雄 ('18/09/26 11:26:20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180926_838_10768p

眼には映るけど 指のすき間から ひたひたと零れ落ちる雫

ちょっと手垢のついた表現ではありますが、読み手に、なんだろうと思わせる出だしだと思います。3行目まで読んでいくとシラーの『ベールを被ったザイスの像』とかノヴァーリスの『ザイスの学徒』などのモチーフを思い出しますね。そういう「ザイス系文学」(今僕が勝手に命名した)はシラーやノヴァーリスの時代に限らず、今世紀に至るまでずっと繰り返されている主題でありますので、やはりどこかで作者のオリジナルの表現、展開がほしいな、と思ってしまいました。

※ザイスというモチーフは真実の探求というロマン主義の人たちが好んだモチーフでありますが、現代日本に住む僕たちにとって、その真実の探求というのは、どうしても「それだけでは」嘘くさく聞こえてしまうのも確かですね。現代においてこのようなテーマを扱う意義、というのは、作者が今この世に生きておられて、その中でこのモチーフを書かなければならぬという実感を伴った個別のエピソード(実話であれとは思わない)を通してやっと結実しうるのではないか、と思いました。

10742 : 腐敗した手鏡  鷹枕可 ('18/09/13 13:48:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_292_10742p
今月もまた鷹枕可さんの作品に関して、他の選考委員に任せなければならないこと(そうせざるを得ない僕の無能力)を謝罪申し上げます。

10755 : ポテトチップスが奥歯にはさまっている、夜。  泥棒 ('18/09/17 20:20:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_434_10755p
僕も数年前に前のHNで同じようなテーマでを書いたことがある。あらゆる言葉が(僕自身の言葉も)どうしようもなく特別な意味を孕んでいる気がして、風に揺れているカーテンにはすべて運命が宿っている気がして(吉井和哉)、それってとても「おりこうさん」すぎやしないか、って。

猫が三回鳴く。
にぁ、にぁ、にぁ、

だから猫の鳴き声の方がもはや近しいものに感じる。だってそれは恐ろしいほど剥き出しですからね。でもこういう詩の宿命ってどうしようもなく自家撞着に陥ってしまう。
具体的にはここですかね

獣たちに牙で殺されたい

どれだけ否定の身振りをしても、意味なんてないと言っても、それ自体がとても何かを表現しようとしちゃってる。だから獣たちにかみ殺されたい、と願う。
ちょっとうまく言えないんですが、作者の表現したいことって、否定の身振りを見せることではなく、あたかも抱擁するかのような文章で、読者を導き、意味を与え、緊張感をもってヒリヒリさせるような道程を用意したうえで、最後全部ぶっ壊すやり方ってのが割とぴったりくるんじゃないかな、と思いました。いや、この作品も結構好きなんですが、そっちの方のトライも見てみたいな、という意味で書いてます。
そういうの得意なの文極だというまでもなく一条さんですが、ちょっとずばりという作品が思い浮かばない。ちょっと違うけど一条さんの『milk cow blues

10764 : 水精とは  本田憲嵩 ('18/09/24 00:28:23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180924_718_10764p
○○について、話がしたい。と言う始まりは文極ではお約束の、そして効果的なやり方だと思っています。例えばケムリさんの諸作品とか、コーリャさんの『朝を待つ』とかですかね。あの人たちがうまかったのは、読者をいきなり親密な空間にひきこむ、という効果をちゃんと知っていて、そこから続く言葉というのはまるで耳打ちで話されたような特別な感じがするんだと思います(人によるだろうけど)。
今作に関しても、僕は序盤はものすごく好感が持てた。なぜならば、それは僕の知っている話だったし、例えば僕の知らないことだったとしても知っているものからの距離としてそれを類推できる程度の飛躍というのは心地よい。ただ

或いはそれはほとんど無限に近い精液の海から精製された
もう一人のボクでありながら

からはじまる観念的ともいえるであろう言葉はどうしても独りよがりという印象を逃れえなかった。

決してボクじゃないボク/もしかするともう一人のワタシ?

もちろん読もうと思えば、読める。けれどもこの文章を読もうというモチベーションを詩文の中で与えてあげてほしいと思いました。思念的なワードを使う時に気を付けていただきたいのは、読者がついてきているか、ということに限ると思うわけです。

10745 : 夏忘れ  青島空 ('18/09/14 14:15:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180914_311_10745p
先月投稿されていた作品よりもだいぶ良いと思います。一人の人間がそこに生きており、特有の生を生きている。あるいは

頭皮にできたにきびみたいに 直接触れないと気付いてもらえないのかな

という表現は、ちょっと意味をとるのにてこずりますが、頭皮にニキビがあってそれになんとなく触れてしまった場面を想像すると、するっと入ってくる巧さがあって。ちゃんと読まなくちゃという気持ちにさせる。
また、一輪車さんによる優れたレスがついていたので引用する。

この詩は幻想(観念)のなかで季節を迎えるしかない、
自然から疎外された孤独な都会生活者あるいは引きこもりの人間の
寂しさを歌っているわけだから。
そういう人間にとって、「初雪を知らせる」のは戸外の庭や公園や
屋根や空ではなく、
新聞やラジオやテレビの知らせなわけだ。
その「知らせ」を受けてはじめてかれのなかで季節が幻想として開くわけだ。
そしてこれが普遍性をもつのは、いまの人たちが多かれ少なかれ
そのように季節から疎外されているからだよ。

概ね説明されているので僕がこれに付けたすことなどあまりないように思われます。先月、評に書かせていただいたことですが、「風景を描くのではなく、その風景を見ている人物を丸ごと書いてはいかがでしょうか」ということを書いたのですが。最後の一行には

そのうち、ニュースが初雪を知らせた

という単なる情報以上に、背景がばっちりと書き込まれており、読み手は書かれているもの以上のことを受け取ることができるわけです。

ゼンメツさんのレスも取り上げたいのですが

ただこの「だろう」から直でラストに飛ぶのは、
通勤快速ばりに直通過ぎて、
そこは逆に余韻が薄まっちゃってると感じるかな。

これは僕も少し惜しいと思ったところで、ゼンメツさんの感じていることとは少し違うかもしれませんが、
夏だとおもっていた→窓開けると寒かった→秋がもう来ていた→じゃあもうすぐ冬だろう→ニュースが冬を伝える
という流れを無理やり取り出してみると、じゃあもうすぐ冬だろう→ニュースが冬を伝える、の部分が、せっかく最終行で落差をしっかりと用意しているのに、読み手に予定調和な感じを与えかねない、つまり転調として少し効果が薄れてしまっているということだろうと思います。

10743 : 浸透  トビラ ('18/09/13 17:11:35)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_294_10743p
アルフ・Oさんの評が的確なので、それを参照されたし。ちょっと長いのでここでは引用できないが。それで一つ一つの言葉に関しては、そうですね、確かにちょっとぎこちないところもあるけど、

あなた、いい音をたてるじゃない。

ここなんかすこし惚れそうになった。音読しながら読んだんですが、「を」は自然と読み飛ばしていました、人間の脳って都合がいいですよね。
さて『浸透』という題から、この「あえて表層にとどまろうとする記述」ってのは僕も書いた覚えがあるのですが、「疲れている人間」というのをリアルに表現するときに効果的ですよね、おそらく狙ったものと思います。そういう詩を書いていくうえで、つまり、表層だけの描写を連ねていって、ぎりぎりのところを繋いでいく書き方をしていくと、一番芯でとらえたいところってラストなんですよね。もうそこでミートするかどうかにかかってる書き方なんですが

雨の前、湿っていく原子を嗅ぎたいな。

言葉としてはぎこちないですけど。発想はすごくいいんですよね。なので、レス欄で本当に多くの方が指摘されているように、ちょっとした心遣いですかね、そこを頑張っていただきたいな、と思いました。(指摘されている内容をすべて信じるということはしない方がいいです、と一応念押しておきます。作者だけのこだわり、というのは往々にして正しさよりも、重要だったりしますから。)

10714 : 孤児とプリン  田中修子 ('18/09/03 17:32:32 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_613_10714p

いま思えば、ひっしに生きようとしている傷が、夜に切れ目を入れるお月さまみたいに眩しかったんだな。

僕はたぶんこの作者の表現のファンなのかもしれない。いや、もちろん僕は手首に傷はあっても飼い猫に引っかかれた傷しかないので「共感」とは程遠いのかもしれないけれど、「そうなんだよなあ」と思ってしまった。猫のひっかき傷しかない人間でありながらですよ。
さて、もう一つの作品に書いたんですが、詩的表現と事実の描写とのバランスが悪いのではないか、という点を指摘させていただいたのですが、今作はとても読みやすいです。冒頭にあげた優れた個所が、ちゃんと際立って見えてきます。
一方で気になるところを述べさせていただくと、こういう作品って物語としての面白さというのがどうしても問われると思うんですが、どうしても一つ一つのエピソードがとぎれとぎれでつながらないという印象を抱きました。もっと言ってしまえば、結論ありきで母と祖母を引っ張り出した感が否めないです。
もう一つ、細かいところではありますが

与えられなかった母性を盗むのをやめられないんだ。その、盗んできた剃刀でじぶんをばっする、あの子。

表現としては洗練されていますが、この個所の「話者」が「あの子」に向ける視線に違和感を覚えました。そこが「あの子」というのがいまいち独特な存在として読み手に迫ってこない原因なのだろうと思うのですが。具体的に言うとこの個所に特徴的ですが「あの子」が「話者」にとって都合のいい存在、ストーリーを破綻なく成立させるためにまるで記号のように型にはめられた人物のように見えてならないんですよね。もちろん「万引き」の件など、「あの子」という独特な存在への焦点の当て方としては上手いとは思うのですが、そこから引き出される「話者」の結論がどうしても型から出てこないという印象を受けました。おそらく、「わたし」は「あの子」を理解する過程で、いろいろな試行錯誤があったはずだと思うんですよ、その細部を描き出すことによって浮き彫りになる「あの子」の存在というものがあるのではないか、と思いました。

10753 : (無題)  いかいか ('18/09/17 16:43:32) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_421_10753p
この詩を読んで残念に思ったことは僕がもうすでに「文学青年」(もうそんな年でもないけど)のようなものではありえないということを自覚させられたことだった。僕が何言ってるか意味不明だろうと思いますが、僕からしても意味不明です。
或いは『ライ麦畑でつかまえて』だとか『西瓜糖の日々』だとか『千年の愉楽』だとか、そしてなにより『怒りの葡萄』を引っ張り出して、あれやこれやと「文学青年」的に語ることは可能かもしれないが、そんなことに意味を見出すことを徹底的に拒絶するような文章として、書かれている。
つまり窓枠越しにそれらを押しなべて等しく「鑑賞」することは許されない地平に引きずり込まれる力を感じる。付言しておくが、それはこの作品のテーマがそうさせているのではなく、筆力がそうさせているのだ、ということは僕のここでの批評スタイルを貫くという意味で念を押しておきたい。僕たちはあの「66号線」を下っているのだ、という強迫。
これ以上言葉を並べても陳腐にならざるを得ないので、引用でどうにかなることを願っている(浅はか)

しょんべんのようにながれてしぬだけならいっそのことおまえらのつばさをぜんぶひきちぎってなきわめいてさけびながらさいごのひとりでいたいそしたらおまえらのかおもわらっているだろうからひきちぎられたつばさのおもみからはずれておまえらははじめてじめんにげきとつするじゆうをあたえられるしぬことをゆるされたおまえらにひとのゆいいつのかなしみとじゆうをおしえてやる

神と人は韻で、
結ばれなかったから、
僕らの間には、
歌がない
本当の歌がないから
島がない
果てしない
島流しが
何百年も

また、もし作者以外の方がこの評を読んでいらっしゃるとしたら、「あれ、芦野のやつ、批評の方法がこの作品だけ全然違くないか?」と疑問を持たれると思うのですが、その通りですね。この作品に関して僕の評価って「語りえない」の一言なんですよね。先月何度か書きました通り、基本的に選評においては「語りうるもの」「共有しうるもの」というのを取り出して、その部分「のみ」を評価するという、ちょっと縛りを加えております。ただこの作品に関しては、それだけで済ますことがどうしてもできなかったということです。
そして何よりも恐ろしいのは「文学青年」ではもうありえない、という一時的な感情は次の瞬間まるで嘘であったかのように破り捨てられることなんでしょうね。そのことが皮肉にも(ブログのコピペでしょうが)続く文章によってあざ笑われている。

#現代詩
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10719 : 恋愛論の小さなタイトル / 文極限定版  竜野欠伸 ('18/09/04 18:57:31 *20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_654_10719p
編集前の詩を読んでいないので(というか選評なので)、あくまで最終稿に焦点をあてます。

失恋として訪れない初恋の最果て

この展開の仕方についていえば、なぜこのようなわかりにくい表現を使ったのだろうという疑問は残るものの、一般的にわかりやすいテーマなのかな、と読まれうると思うのですが、続く詩句というものが(この選評で何度も繰り返してしまっていることですが)思弁的な言葉を使いすぎた結果、今そこに生きている「話者」というものを感じ辛くなっているのは否めないと思いました。
もちろん僕自身そのような、「実体」から漏れ出でる言葉というものだけが「読まれうるもの」でありうる、と言うつもりはないのですが、それならば読者を強く惹きつけるフックがほしいと思った次第でした。
或いは、恋愛論なのだから、その論としての強さが最も重要であり、そこに着目して評をすべきだ、とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、フォーラムにも書いた通りそれは僕の批評の範疇ではありません。僕が批評できるものというのは作者がその対象に向ける眼差しというよりも、その眼差しを読み手に過度な付加なく提供するための技術のほうに偏重しております。そのことは作者に大変申し訳なく思っております。

10699 : ほっそりとくびれた腰  lalita ('18/09/01 00:00:12)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_416_10699p
タイトルはこれまで読ませていただいた作品の中でも一番いいのではないか、と思いました。ほっそりとくびれた腰、ですからね。読み手は「話者」の近くにいるだろうその女性の腰へと向ける眼差しというものを想像しやすいです。或いは、そこからどのように展開されるのか、どのような転調が待ち受けているのか、という期待も抱かせることができそうです。ただ

俺は人生を生きるんだ。

から唐突に作者のワールドに突入してしまいます。僕は作者のワールドなんて言葉を良い意味で使ったためしがなくて、要するに、作者の頭の中では自明なことと思われる言葉、というものと読み手の想像との距離が離れすぎているという意味です。ちなみに何度もこの選評で繰り返しておりますが、作者独自の感性、独特な在り方、というのは詩にとってものすごく重要なことではあります。両極端な話をしますが、「とりあえず読んでもらおう」という意識にとらわれすぎて、単なる記号の受け渡しにしかなっていない詩と、「俺の世界を書くんだ」という意識にとらわれすぎて、言葉の受け渡しをおろそかにしている詩と、これはまあ極論ですが、あると思っていまして、今作は後者の傾向が強いのかな、と思いました。おそらく作者は強すぎるくらい個性的だと思うので、詩を書く際にはどちらかというと、とりあえず読んでもらう、ということを強く意識された方がよいのではないか、と思いました。

10740 : Wheel of F F F FFFF For tune  ゼンメツ ('18/09/12 21:36:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_271_10740p
夜に高速を走っていると、目に映る灯りが進む方向とは反対の方向に滲んでいく、そんな光景を思い出しました。例えば

ヤマザキモーニングスター。陰鬱な鈍色の空に鉄でできた星々が飛んでいく。

パンでもあり宵の明星でもあり、世紀末に誰かが持っていそうな武器でもあるけど、もうそういうの全部ひっくるめて、進行方向とは反対に滲んでいく。ヴァンガードやら黒人やらダイソーやらそういう気になるワードが突然現れては滲んでいく。なんでこんな書き方をしたのかはよくわからないのですが、最後に

その手のなかで、何もかもが枠にはめられていく。だから頼む。

とあって、なんとなくその「スピード」に依存する書き方というものの根拠が見えてくる。ただ、僕がいまいちこの詩にのれなかったのは、次々と過ぎ去っていくものがほとんど余韻を残さずに消えていってしまったことだろうかな、と思いました。かっこいいフレーズはたくさんあるんですが、例えば

行こう。もう星なんか探さないでくれ、カーブを曲がれなくなる。

こういうフレーズはただ単純に痺れますね。「この手の詩」という言い方が正しいかわかりませんが、この手の詩で僕が一番好きな文極の詩をあげておきます 一条さん『あほみたいに知らない

10758 : 猫島  紅茶猫 ('18/09/19 10:00:07 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_508_10758p
率直に申し上げて結構好きです。特に僕は「シンク・ソウ・グッド」と「サーカス小屋」が好きでした。この手の詩って感性に刺さるかどうかな気がしますが、この作品ちゃんとフックがあって、読み手の目線を意識している。
個別に全ての小題について語ることはできないですが、「シンク・ソウ・グッド」に関してはユーモアが効いていると思いました。

でも
たわしにしか見えなかった
僕は彼に
磨き粉をかけてみた。

ちょっとチャーミングでキュートですよね(語彙力が仕事してくれない)、それでそういう風に読み手をのせると例えば、

__(という)

などの読み手に投げ出した空白が、やっと読み手の中で意味を発芽しようとする、と思っています。僕は蛞蝓が這った痕として読んでみて、とても楽しかったです。
また、サーカス小屋ですが、視線の誘導として、逆立ち→つま先→左目と忙しない誘導と、短詩ならではの利器として、どこで区切るかによって意味がかわるっていう「読解の楽しさ」というのを短詩ならではの技法で実現していると思いました。

10761 : 約束  朝顔 ('18/09/20 18:45:34 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180920_541_10761p

世界へ
まだがんじがらめのあなたを
うつくしい樹の枝のように
ほどいてゆけ

美しいイメージだと思います。ここ二重のイメージがあって、「樹の枝が空間に伸びていく様子」と「がんじがらめ→ほどく」という重なりがあって、うまく詩的表現として昇華していると思います。そこでキーとなってるのが「あなたを」という一見「?」と思う使い方が読者を立ち止まらせ、注視させる効果を持っていると思います。他人から「あなた」と呼ばれうる存在ってしがらみでしかない、という潔さが際立っていますね。
レス欄でも指摘があるように、どうしても中弛みを感じてしまうところはあると思います。この場合「表現に凝る」というのはどうやってもうまくいかないだろうな、と思ってしまっていて、言葉と作者が近すぎて、うまく距離をとれないのだろうな、という印象を受けました。
最終連ですが

───ぎゅっと握りしめた
   赤ん坊の手が
   小さな葉のように

と冒頭と呼応していて、結びとしてとてもスマートだと思いました。

10750 : わが子  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/09/17 00:05:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_386_10750p
MOTHERを知っているとアイロニカルな余韻が際立ちます。二次創作の一つの強みとして、原作への思い入れを利用できるという点がまさにあって、そこはもう「技術」として認めようと思っています。ただテキスト単体での出来の良さってのはどうしても遡上にあげなければならない、ここ文学極道なので。
それで、作者の作品を読んで毎度思うこととしていつもワンアイディアなんですよね。それってかなりもったいないと思っているんですが、作者の、詩のマニアに向けて書いているんじゃないというスタンス(僕が勝手にそう思い込んでいる)からすると、むしろワンアイディアのほうが入りやすいというのはなんとなく思います。ただ、僕が想定する詩の「新しい」読者って今まで小説も読んだことないです、みたいな人ではなく、詩の周縁部に存在している方々なんじゃないかな、と思うことがあって、そういう人たちには受けないだろうな、とは思います。まあこれはただのスタンスの違いですね。
ちなみにundertaleはなんの前情報もなくやってるんですがまだ誰も殺してません。「ママ」はほんと泣きそうになりました。

10747 : 小さな里  イロキセイゴ ('18/09/15 02:42:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_344_10747p
んー、残念ながら全くといいほど読めなかったです。作者の作品に関して僕がいつもするアプローチは、いいな、と思うフレーズを最初に見つけ出してその周縁を埋めていくような読み方をするのですが、今回何の引っ掛かりもなく読み終えてしまいました。
或いは作者はそんな読み方をしないでもちゃんと秩序があり、論理があると思われているのかもしれませんが、おそらくそれは「作者ワールド」で閉じていると思います(これは仮定の話なのでお気を悪くされないでください)
作者の作風は文極では珍しいタイプの作品なので、是非もう一段階上へと昇華させてほしいと思っております。

10754 : 今朝  空丸ゆらぎ ('18/09/17 18:40:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_428_10754p

銃声で起こされた

うそん、と思いますよね。いや、もちろんブエノスアイレスあたりでは普通なのかもしれない。なんていう戯言はおいといて。まあでもここって絶対読み手は立ち止まる部分だとは思うんですよね。問題は立ち止まらせた後、どういった解決を与えてやるか、ということになると思います。或いは以下の詩句に接続させることも可能かもしれない。

創ってはいけない作品もある
街が一つ消えて 花が咲いた。

と深読みすると、この作品の中でフィクションと現実が混ざり合っているという読み方もできなくはない。ただ、かなりこじつけに近いと、僕自身感じてしまうくらいには詩文の中に根拠はないです。
もう一つの読み方として「君」の世界と「話者」の世界の対比を象徴するものとしての「銃声」というものを比喩として読むこともできますね。ただこれも同様に作中に根拠がないので、なんとなくそうかもしれない、という宙ぶらりんな気持ちにさせてしまうところがあるのかもしれません。
ところどころ読者を立ち止まらせる仕掛けがあり、それ自体はとても魅力的なことだと感じております。

10732 : 半端な歌  氷魚 ('18/09/10 06:14:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_136_10732p
言葉を無理に脱臼させている点が少し気になる作品でした。この作品に書かれている言葉というのは作者、あるいは話者の視線、ないし思考のベクトルというものが限りなく見えなくなっていて、それっぽい言葉を並べた、という印象を与えかねないと思います。言葉を相手に届ける方法として文脈化という技法があります。ひとつのストーリー(それはいわゆる物語ではなく、視線の動き、思考の関連的飛躍など)に沿って書くことで、読み手に視点を与え、少し無理のある言葉でも読み取ってもらえる、という技法です。
ただ同時に、言葉を脱臼させていくやり方って極めて上手に書くと結構すごい作品になることっていうのはえてしてありまして、作者の創作の意識として、そちらを志すのでしたらもうガンガンにフレーズを磨きまくるということになると思います。文極でフレーズだけで読み手を気持ちよくさせてしまうような作品だと浅井康浩さんの初期の作品など、参考になるかもしれません。浅井康浩さん『ヒバリもスズメも』もちろん、この人はフレーズだけの人ではないですが。
(あまりこういう但し書きは書きたくないのですが)
詩というものに最近触れた方だと仮定して書きますが、率直に言って光るものを感じます。作者だけの詩句というものを存分に磨いていってください、と思いました。

10744 : ある透明な  紅茶猫 ('18/09/13 22:32:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_302_10744p
巧いな、と思った点は冒頭

孤独という風船に
丸まって たゆたう

という表現なんですが、これ作者が想定している状況からいうとかなり制限された情報しか開示されていなくて、クエスチョンマークを抱えながら読んでいくことになると思うんですね。その読者の疑問符に対して、小出しに小出しに、どういう世界観を書いているのか、というのを開示していくので、文字通り「腑に落ちる」という効果があると思います。想像していただければわかると思うのですが、「人は風船の中で孤独に空を揺蕩っており」なんて出だしは、台無しだと思うわけです。
またショーペンハウアーじゃないですけど、この風船というものを皮膚と読み替えることもできて面白いなと思いました。ただ最終連なのですが、僕の読みでは「人の不幸で飯がうまい」じゃないですけど、そのたぐいの読みしかできなくて、それだと少し弱いかなと感じた次第です。

10734 : アドレス  コテ ('18/09/10 19:20:44)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_163_10734p
レスにも書きましたが、結構好きなんですよねこの作品、というかこの作者。そして巧いと思う。いや、何が巧いかって、キャラ造りですよね。アラメルモさんもレスで仰ってますが、これだけへんちくりんに改造された文章なのにこれだけ読みやすいって計算してないでやってたら奇跡ですよ。
それでこの作品ですが、インパクト重視なので中弛みが結構気になるんですが

ぼくの何もない寂しさに、平穏

といった材木を探し当てました

何もない感情が それが

天神のもつ袋の様になり

この日この日の景色が詰め込まれる

だから寂しくても安心なんだ

このラストがかわいいから全部許容したくなってしまう。さて僕がこの作品に言えることってだいぶ少なくて、というのもこのスタイルって今まで思いもよらなかった方法だったので、僕の索引のなかにうまい言葉がひっかかってくれないんですよね。ただもっと書けますよね? という期待はあります。ぜひぜひ期待しております。

追記
レス欄でまでそのキャラ貫くのは僕は別に全然気にしないですが、大分損していると思いますよ。というのもこの作風で次の展開を望むとき、多分理性的で客観的な部分も必要だと思うので、キャラが作品を引っ張ると同時に、作品の足も引っ張ってしまうようなことにはなってほしくないです。

10735 : 報い  霜田明 ('18/09/11 04:24:08 *15)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_173_10735p
まぁ、具体的な場面、あたかもそこにいるかのような人物造形というのを書いてみたらどうでしょう、というのは100万回くらい聞いているでしょうし、そのうえでこのスタイルをとっていると思われますので、繰り返すことはすまい、と思います。
思考の流れというものを詩とするときに、仮に文極的アドバイスができるとしたら、という仮定の話ですが、読者の読みをもう少し想定されてはどうか、と思います。例えば

言葉を通じて
人と和解することは
言葉と和解することだ

ここって読み手からすると、「んん?」となる箇所だと思うんですよ。作者からは自明のことで、さらさらと次に進んでいくのも当然のことなのかもしれませんが、少しここ客観的にどう読まれうるか、ということを想定して、思考の流れを「淀ませてみる」というのも手ではなかろうか、と思うわけです。僕自身観念的なことはさっぱりですが、読みの流れ、及び淀みにおいて読み手をコントロールしうる詩文ならば、おそらく読み手を惹きつけることができると思うんですよね。「んん?」と思わせたら、淀ませて、フォーカスをあてて「なるほど」と思わせれば、それだけで「読み」というのは「快楽」に変わりうると思うわけです。

10730 : 降りしきる  宮永 ('18/09/10 01:44:29 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_127_10730p

雨粒が
こめかみをはじく
雨だれが
肩をたたく
雨水が
頭頂からうなじをつたい
背中に流れ込むから
つくえのひきだしをあける指先が
中にある
削りたてのえんぴつを
濡らす

第一連を丸ごと引用してしまいましたが、こういう出だしは作者を信頼できる、というか。この詩をちゃんと読めばちゃんと見返りがあるだろうな、と予感させる。具体的には簡単なことですが、こめかみ→肩→頭頂→うなじ→背中→指先、という感じで濡れているわけですが、背中→指先というのはちょっと想像しないと具体的な絵を結びにくい。つまり手をだらんと下げた状態で雨水が背中から二の腕、肘、指先へと伝っていき、そこから引き出しをあける。そんなちょっとした物語があって、それを自然と「ちょっとした想像」のなかで紐解いてみる。詩の冒頭で読み手に、ん、どういうことだ、と思わせて、想像させて、解決させる。簡単なことだけど、効果的な技術じゃないかな、と思う。
同時に、もう一つの疑問がある。この人はどこに立っているのだろうか、という話。もちろん引き出しがおかれうる場所に通常雨は降らない。この疑問は大事だと思っており、これを鮮やかに処理できれば、と、初読の段階でこれだけ考えさせるのはすごいと思いました。
続けて読んでいくと「あの日」というのがポイントになっていることがわかるが具体的な事柄は示されていない、おそらく「話者」にとって変えてしまいたい過去なのだろう。中盤は器用に書かれているが疑問に疑問を重ねていくのは相当うまくやらないと読み手を突き落としかねないという印象を持ちました。
そういう感じに読んでいくと5連で初めてこの降りしきる雨の正体(というか雨でなければならなかった理由)が明かされるのだけど、実際のところ、最初の疑問をぶつけられた段階での鮮度は失われていて、読めはするけど、それが快い感覚を伴うには時間が経ちすぎたように思われてしまった。

10752 : 彼岸と十五夜  本田憲嵩 ('18/09/17 12:18:46 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_412_10752p
ところどころ練度が足りていないと思われる言葉があるのに対して、構造がちゃんとしているのは好感を持てるところでもあるのだけど、少し物足りないと思ってしまう原因でもありました。例えば

ぼくら生者が光の太陽の輝いている世界

などの表現はどうしても読み手に悪い意味での警戒感を抱かせる要因になっていると思います(つまり言葉の扱いについて少々手を抜いているのではないか、という警戒感)。構造というのは、生きているもの、太陽、光。死者、月、夜、という対比が貫かれておりますが、そのこと自体がかなりありきたりに感じてしまうのはそのようなことがもう何度も繰り返し語られていたことの再演であるように思われるからだと思います。
序盤で生きているもの、太陽、光、とくるので、ある程度読み手は予想して読みをいれると思うのですよね。この手の作品は読み手の予想を裏切ってこそと思われました。

10749 : Sweet Rainny / Hole  玄こう ('18/09/15 23:58:40 *11) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_363_10749p
作者独自の悪文とも言える文章はこういう体裁にあっては悪目立ちすることなくほどよいアクセントとして機能していることにまず驚きます。

「あなたのことが好きです」長長と走り書きされた苦情の手紙にあった、不躾を悪く思ってか、唐突なそんな一言が添えられており一瞬面食らったが、

「不躾を悪く思ってか、長々と走り書きされた苦情の手紙の文中に「あなたのことが好きです」と、唐突にそんな一言が添えられており、一瞬面食らった。」たぶんこっちの方が「正しい」のだけれども、あきらかにこれだとつまらない。それは今生きている人間の言葉として本文のほうが素直に受け止めることができるからだろうと思う。
同時にこの場面は例えば表札も出さないような地域においてのなんらかの抒情というものにさして興味を抱きえない読み手に対してもちゃんとフックになっており、それならばちょっと読んでみようという気にさせるのではないかと思いました。

 今度は反対側の隣家の壁向こうからいつもの調子で、悪い咳をし台所で嘔吐する男の様子が伺えた
「大丈夫ですか?」
なんとなしに心配しながらも、

この場面なんかも書かれていること以上に情報量が豊富であることに注意したい。言うまでもないかもしれないが、壁を挟んでも聞こえる咳や嘔吐の音、「大丈夫ですか?」なんて、自室で「なんとなし」に吐いた言葉もたぶん向う側に聞こえているだろうという想像が働きます。そういったテーマと深くかかわっている、ある土地の居住環境というものを少ない言葉で、決して説明口調でうんざりさせることなく、描けていると思いました。

人びとの寝静まった夜に脚立を棟に上げ、まるで泥棒のように忍び足で、広い草原に転がったまるで獣の骨のように歪み、折れ曲がったアンテナを、ドライバーで解体した

ここは場面の転換(今まで周りの住人にフォーカスがおかれていたものが、話者の現在の行動にフォーカスが移る、と同時に野外に出るという転換でもある)なので、もう少し、ゆっくりと丁寧に書いてもよかったのかなと思いましたが、些末なことでしょう。

屋根の隙間の暗い影から、秋の音(ね)の蟋蟀が、恋歌のごとく立ち上っている

冒頭にあげた部分との関連ととってもいいかもしれないし、もちろん作者も恋愛という個人的な感情がこの場面ひっかかってくることは承知でしょう。それよりも重要なのは繰り返されているブルース(ブルーズって言いにくいのであまり好きではない)という言葉との関連として読めるということ。というのもブルースって基本的に恋歌なんですよね、デルタブルースあたりの初期のブルースをイメージして書いてますが。彼らは別段「ミュージシャン」というわけでもなく、酒場で歌うのがメインだっていうのはよく聞く話ですよね。(有名な逸話だとジョン・スリーピー・エステスなんかはストーンズなどの英国ロックがブルースを再発見するまで、ボロ小屋でギターも失い全盲になってた、という話がありますね)それで酒場で歌う歌といったら恋の歌か悪口でしょう。そんな1900年代初頭の黴臭くて下品で洗練されていない黒人コミュニティを彷彿とさせるような描写の中で「声とギターとそれを鳴らす指があれば十分だろ」なんて微笑んで見せるブルース奏者の笑顔が浮かんでくるような逞しさがこの詩句にはあると思いました。恋歌というのは人の生きるということのいちばん原初のさけびなのだろうな、と。
ちょっと脱線しましたが、屋根に上る、というストーリ上の転調において、フォーカスがまず解体すべきアンテナに移り、それが終わると、ふと蟋蟀の音に気付き、見上げると分厚い雲が流れている、という感じで、読み手の視線の誘導という点でも優れていると思います。
最終連は意訳というか、翻案と言っていいくらい原型をとどめておりませんね。この詩を締めくくるにあたって、ミューズという言葉はいささか唐突かもしれませんが、ここまできたら親切に、ここで「話者」が「作者」へと近づいていく、という風に読んでいました。
最初に悪文がアクセントになっていると書いたのは、この主題故のことと思います。文法的に正しい、ってのは思っているよりも重要なことだとは僕自身肝に銘じていることではありますが、その正しさに縛られていると、このような「恋歌」は書けないだろうな、と思いました。

10737 : 星を見る夢  ネン ('18/09/11 22:42:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_235_10737p

かじりかけのクッキー
冷めて沈殿したミルクティ

多分この詩で一番良いところはここだと思います。何故か。基本的に話者の視線、顔、生活、声というものは見えてこず、唯一見えてくるのがこの場面かな、と思ったからです。というのはまぁ少し意地悪な読みではあります。というのも何らかのメッセージ性はちゃんとあるんですよね。つまり社会のヒエラルキーに対する作者なりの「言いたいこと」ってのはうっすらとはあるのです。そして、この選評の別のところでも書きましたが、「それなら、それに関する著名な本でも読もう」と思われるか「それでも、この話者の見ている世界、そこから発せられる言葉がききたい」と思われるかによって評価は雲泥に分かれると思っています。
「この話者の言葉を聞きたい」と作者自身思う場面はどのような状況かちょっと想像してみてください。一番そう思わせるのに簡単なのは「友達の作品」ですよね。でもネットで公開するにあたって、みんながみんな友達ではありえない。そんななか赤の他人に対して「この話者の言葉を聞きたい」と思わせるためにはどうしたらいいか、ということを考えていただけたら、と思います。

10751 : 水  kale ('18/09/17 02:32:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_392_10751p
この作品に関しては全くと言っていいほど意味がとれなかった。これは完全に僕の能力不足です、申し訳ないです。じゃあ僕がこれまで全く意味がとれなかった作品を評定してこなかったか、というとそういうわけでもないんですが、(鷹枕可さんの作品は意味は取れるからこそ、批評ができない)この作品には僕が入れるサイズの入り口を見つけ出すことができなかった。もしこの作品に関して、もうズバリという批評がついた日にはぜひ報告してください。飛んで読みにいきます。重ねてせっかく書いてくださったのに本当に申し訳ないです。

10756 : 全て  陽向 ('18/09/18 03:34:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180918_452_10756p
田中宏輔さんによるごもっともなレスがついていたので引用します。

身近な題材から扱えるようにしたほうが詩は上達すると思う。
具体性

それで、僕も少し付け加えたいこととして、「身近な題材」というのはもちろん作者にとって身近な題材が読者にとっても身近な題材だと都合がいいですよね、と。いや、というのももしかしたら作者からすれば、この作品はものすごく身近な題材な可能性もあるな、と思ったので。せっかくこのような掲示板に投稿されるわけですから、読み手にとって「身近な題材」を書くことによってレスポンスも得られますし、もちろんすべてを真に受ける必要なんてないのですが、なかには本当にそれまでの詩観がかわるようなことを言ってもらえることもあったりします、これ僕の経験ですが。ぜひ活用してくださいませ。

10733 : 村上カルキン、立つ!  一輪車 ('18/09/10 06:32:10 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_138_10733p
10762 : 風葬おん泉湯けむりボ、慕情  一輪車 ('18/09/21 10:50:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180921_573_10762p
フォーラムにて大変厳しいご意見いただきまして、僕が作者の作品へ評をつける資格はないと思われますので、割愛させていただきます。(なお選評は書きませんが選考対象ではありますことご留意ください)

10759 : 心象后 TokyoNicotine ('18/09/19 16:30:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_516_10759p
もう一つの作品に比べて、喚起されうるイメージに乏しい故足場のなさがどうしても気になってしまう作品であります。砥石さんの指摘が厳しいながらも的を射ていると思います。こういう作品を書くに際して、「あ、崩してきやがったな、にくいぜ」って読者に思われるような、地の筆力が必要になったりしますね。もちろん作者にそのような筆力が不足している、なんてこと僕にはわかりようがありませんし、それは作中に示すしかないわけであります。まずは確認程度に心象ではないものを描かれてはどうかなと思います。逃げ道を断つということですね。

10721 : カツカレー 目蓋の裏めぐり  atsuchan69 ('18/09/06 09:08:12)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_761_10721p
笑いながら読みました。

この話、豚かつとカレーがマッチせなアカンのや
その角度から覗いてみたらやね

なんてちょっと視点をかえてみる素振りをしてみせてたはいいものの、なおカツカレーの話を続ける話者に清々しさを覚えました。これ、僕がそれほどカレーに詳しくないからこそひきたつ効果だと思っていて(もしカツカレーに造詣が深かったらふむふむ、と普通に読んだかもしれません)作者もさすがにご自身のカツカレー偏愛を読み手と共有されえないことは十分承知の上でこのような仕掛けをしているのはさすがだな、と。ちょこっとわき道にそれると断って牛カツカレーの話をしだしたときは「裏切ってきたな」という感覚がありました。
ただ同時にここまで確信犯的にやるならば、もっと仕掛けても良いのではないか、と感じました。ちょっと無理やりいちゃもんつける形になっているようでみっともないんですが、(カツカレーにそんなに詳しくないであろう)読み手に対して、「知らねーよ!」と感じるような細部への言及がもっとあったらより笑えただろうと思って読んでました。

10757 : SHORT HOPE  寒月 ('18/09/19 09:03:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_501_10757p
(文極のように)
という言及が「話者」を限りなく作者に近づけていると思いました。そう読むと途端良く知らない「話者」というものがちょっと親密になる、っていう点で巧いですよね。内輪すぎやしないかという反論ももちろんあると思いますが、僕はあくまで文極掲示板に投稿するにあたって、読んでくれるであろう読者はまずもって文極投稿者なわけですから、そこへの目配せというものに、作者の気配りを感じます。普遍的なものを書く前に、まず目の前の読んでくれる人へ捧げるということですかね。
それでこの詩の一番のポイントって

11本目の
SHORT HOPEを

ここでしかありえなくて。レス欄ざっと読んだ限り、ここに言及されておられる方一人もいらっしゃらなかったので(ゼンメツさんのレスは暗示的なので僕の都合でなかったことにしました)、僕が第一発見者ということで堂々と言うわけですが。(ちょっと鼻の穴膨らんでるの見逃してください)
もしこれ10本目だったら、この詩の意味合いってガラっと変わるんですよね。その場合、この詩ってとても健康的でなんだかちょっと明るい展望(というとちょっと大げさだけど)を見ている「話者」の姿が浮かび上がる。「ときどき」とあるから、それはそれで情けないことではあろうと思うのですが。11本目だからこそ、この「話者」の自虐というか人間らしさというのが妙に際立つ、という点で、書かれていること以上に情報量の多い詩になっていると思います。もし9本目だったり12本目だったりしたらこの詩って駄作以上のなにものにもなれない。何を言っているかわからない方はコンビニでSHORT HOPEを一箱買ってみるといいかもしれません。
作者らしい鋭い切り取り方をしてきたなと言う印象です。ただ僕が自分で優良を2作に絞っている(佳作はなし)せいで、このような素晴らしい小品を推すことができないのが歯がゆい。僕の都合でこんなこというのは作者に大変申し訳ないことではあるのだけど、こればかりはいかんともしがたいので、この選評をもって面白かったですと伝えさせていただきます。

10731 : カシューナッツと酒  萩原 ('18/09/10 02:50:52)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_130_10731p
滅茶苦茶書ける人が適当に書いたんだろうなと思わせる作品でした。固有名詞の列挙や、乾いた抒情、というのはイニシエの文極styleを想起させられます。僕は投稿掲示板の管理者権限を持っていないので誰かはわかりませんが。
適当に書いたのだろうな、というのは読み手の視線、想像の誘導がかなり雑な印象を受けた、という点です。もったいないなと感じたのは

スカートがベルトに引っかかっている女の子
教えてあげたいけど今日はこんな格好だから
あわせて来たのに意味もない
一人じゃキレイ過ぎる
チンピラでいたい
いつものチンピラでいたい
チンピラはいつでもロマンチックだ

ここですかね。優れた抒情の発露ですが、読み手の視線を誘導しきれてないので、なんとなく歯痒いというか、かゆいところに手が届いてくれない感じが残ります。
一連が巧い分、どうしても後半にいくにつれて粗が目立ってしまう作品でした。

10717 : (無題)  コテ ('18/09/04 10:05:49 *8)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_637_10717p
もう一つの作品と比べてしまうとどうしても、手法と内容が一致していない印象を受けます。この作品の場合この語り口が、「読ませる」ではなく「読ませない」に振り切れちゃっているんだと。「読ませない」作品にももちろん傑作はあり、先月の選評で変態糞詩人さんの『空を貫いたぜ』にも書いたのですが、「読ませない」からにはそれなりの工夫が必要と思います。というか、「読ませる」作品よりも数倍高度な技術が必要になると思っています。今作は、レス欄で多く指摘されているように出だしのつかみが良かったり、良いと思われる点も多々あったので、その分ちぐはぐな印象を受けてしましました。

10724 : 大人心と、ときどき恋模様  あるく ('18/09/07 00:15:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180907_849_10724p
作者の心の内をとても素直に出力した、という印象です。陳腐、と言ってしまうと誤解されるおそれがあるのですが、「陳腐さをうまく扱えていない」という印象を受けました。どういうことか、僕は作者の表現したいこととか、心の内をのぞき込んで、それを陳腐だということはもちろんですができません。陳腐さ、というのはどこから来るのか、というと、「心の内を素直に出力する」という方法に対して言われることであると思います。
ここからが重要なのですが、陳腐であることってとても大事なことなんですよね。陳腐であることを恐れて、表現をこねくり回した挙句、もはや読み手に何の感興も呼び起こさなくなったものが「現代詩」と現在呼ばれております(隙あらば現代詩をdisっていくイニシエの文極style)。なので僕が言えることとしては「陳腐さをうまく扱ってください」ということになります。具体的には素直に出力したうえで、何らかの違和感を与えるような装置を入れていく、或いは、自身の心の内にあるテーマをご自身の内部でもっと深めてみる(新たな視点を生み出していく)、或いはストーリー化してそこに人物を浮かび上がらせてみる、或いは具体性にこだわって何でもない細部を詳細に描いて見せる、などなど他にもいろいろなやり方があると思うのですが、共通して言えることは、一度ご自身が描こうと思ったテーマを自分から突き放して考えてみる、ということになります。「これを描きたい」から「これを適切に描くためにこういう手段をとろう」ということになりますね。
ここからは本当に蛇足なのですが、この芦野夕狩という筆名は最初は25歳OLが素直な心の内を日記のようにしか書けない人物として作ったものですが、僕も陳腐さをどう扱うか、ということに焦点をあてて最初は詩を書いていました。これとかこれとかですね。あえて詩的技法を一切使わないで書いたもので、正直お見せするのも恥ずかしい出来なのですが、陳腐さを調理する、という格闘の記録としてもし参考になれば、と思い紹介させていただきました。

10729 : 臆病者の歌  氷魚 ('18/09/08 23:55:45)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180908_048_10729p
懐かしい感情だな、と思って読んでました。いや、こういうのって若い時にしか書けないから大事ですよね。作中の「君」や「アオ」に関しては読んでいて恥ずかしくなるくらい思い当たる節があるのですが、「僕」の立ち位置が謎ですね。いや、謎というと語弊がありますね。そういう立ち位置って僕も知っているし、世の中にはあふれている。もっと違う言い方…実体のなさ、と言った方がいいかもしれません。読んでいて、なぜ「僕」はその立ち位置にいるのか、ということにピントが合わないということなんですね。「僕」ではなく「私」だったらすんなり読めたかもしれませんが(つまり話者は女性として)。ただ今の若い人たちって僕の若いころとは違うだろうし、女の子が一概にませてるとは言えないのかもしれませんね。
ぐだぐだ書いてしまったんですが、「僕」に関する短いエピソードあったら読みがかっちりつながるという印象を受けたということです。一つ一つの表現に関しては、光るところもあるし、若書きゆえの拙さが目立つところもあるしで、まだまだ磨き上げていくべきところはいっぱいありますが。描こうと思ったテーマをいったん突き放している点で好感を持ち、このまま磨いていって欲しいな、という印象を受けました。

10722 : symbol  完備 ('18/09/06 13:42:43 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_781_10722p
素直に面白かったです。既にレスしたものを引用します

一通り読んでみて、シンボルと思わせぶりなタイトルだったので、違う角度で読んで見ました。
完備さん曰く下品な読みになってしまうのですが戦争の詩とも読めるなあ、と。かなり無理やりですけどね。
そう読むと、作品内の世界が二重のニュアンスを持つようで僕としては、最初読んだより広がりのある詩だなって思えました。

なんでそう読んだか、ということから話したほうがいいかもしれないので書きます。

はるか反射する雲は奇妙にあかるく
星の代わりに視える飛行機はうらへ

違和感があったのはここ、「あらゆる窓はくらい」のにもかかわらず地上のひかりを反射して「奇妙に」明るい雲の存在。月のひかりならば反射ではなく「透過」であるはずなので、地上の灯りを想定しますね。「あらゆる窓はくらい」のだから灯っているのは街灯くらいでしょう、住宅地でしょうし。そうなると台風の夜に街灯が強く光るなんてことはないのだから、別の光源があると仮定します。そう読むと、「燃えているのではないか」という読みもできると思ったわけです。

  ここから視えるもの
  夜景だと思ったこと
  一度だってないのに

という言明は、普通に読んだ方が味わいがあるのだけれども(つまり同じ光景でも台風が過ぎたということが心理的に作用して違うように見える)「明確に普段とは違う夜景」という読み方もできる。

きみはときどきなにか云う
くらがりはその
すべてをささやきにして

この部分は、恋人同士の睦言のようなイメージが浮かびますが。僕のひねくれた読みだと、「子供同士の内緒話」という風に読めました。確か蓮見重彦とビクトル・エリセの対談で読んだんですが、エリセの『みつばちのささやき』って作品は原題は全く違うんですね。そこで蓮見が日本のタイトルは「みつばちのささやき」だということをエリセに伝えたら。エリセが少し驚いて、「スペイン内戦の時、親ははとても厳格で、子供は親が寝室の明かりを消したら寝ないといけなかった。だからささやきというのは当時の子供たちにとっては夜の空想的な時間においてとても重要なツールだった」(うろ覚え)と言っていたのを思い出したんですよね。ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』にも戦時中夜どうしても寝れないで動き回ってしまう子供をベットに縛り付けるという描写がたしかありました。そう読むと、いたいけな子供のかわいい好奇心のようなものも浮かび上がってくる。台風は空襲の暗喩で、飛行機は戦闘機になりますね、この場合。
だから僕がこの詩を読んだとき、その戦中の子どもたちのイメージと、それが成長して大人になって戦争が終わって恋人と静かに暮らすイメージが重なってとても豊かに読めました、ということを伝えたかったわけです。
なんでこんなことを書いているかと言うと、文極っぽい選評という縛りを自分で設けてずっと書いているんですが、ちょっと疲れてしまって、完備さんの作品にたどり着いたときは思いっきり偏執狂的な批評をしてやろうと決めていたので。作者からもうすでに否定されているのにもかかわらず大変失礼しました。

10716 : メイソンジャー  ゼンメツ ('18/09/03 21:27:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_626_10716p
いかにも読み解いてほしいといわんばかりの作品でレス欄にも作者も「中学生の国語」のようなつもりで書いたとレスしているので作者の意図に沿うように評を付けたいと思います。

問1彼女がメイソンジャーの蓋をどこかにやってしまったのは何故か答えよ
問2ピアスは現在どこにあるか答えよ
問3上記の二つの設問を踏まえてこの登場人物達のこれからの関係を答えよ

答1「僕」にメイソンジャーの中に手を突っ込ませるため

メイソンジャーに密閉するからには中に入った野ユリは乾燥させてから入れられたはずである、にもかかわらず「僕」がメイソンジャーの中を見たとき何故か「水」が落ちた花弁で濁っている、という描写がある。このことから、彼女はメイソンジャーの中に水を入れることで野ユリを意図的に枯らしたという推察が成り立つ。蓋を閉めておかなかったのは中に水分が入ってしまっていることが意図的だということがばれてしまわないためである。

答2メイソンジャーの底にのりで留められている

「僕」の「覚えているかなきみほら、前にプレゼントしたろ? あの内側にシトリンのあしらわれたピアスだよ」や「まあ、そういう意味じゃなかったんだけとね。……てかさ、あのピアスどうして着けないの?」という台詞、また「誰にだって年に一度訪れる平均日だとでもいわんばかりな。」という述懐から(しかもシトリンは11月の誕生石である)、彼のかなり押し付けがましい性格が推察される。このことにより彼女がプレゼントされたピアスになんらかの細工がなされているのではないか、という推測をしてしまうのはいささか病的ではあるがその蓋然性は否定できない。
しかし彼がメイソンジャーを見たときにはピアスがそこにあるという描写はない。その理由はすでに彼女がメイソンジャーの底にピアスを固定し、野ゆりの花弁で覆ったという推察が成り立つ。故に彼はピアスを視認することはできない。彼女は現在ある種の狂気ともいえる感情に支配されている。彼女にとってそのピアスは「僕」の「害意」の象徴のように思われてしまうのだ。「以前ジャー入りのサラダが流行っていた頃に、大小さまざま買ってきたものなんだけど。」という記述から彼女にはいくらでも実験のしようがあった。つまり彼女は「僕」に「自らの意志によって」メイソンジャーの中に手の一部を突っ込み、そのピアスを取り出させ、僕の「害意」はすべてお見通しだ、という復讐を企んでいるのである。当然のりは水分に強いものが使われているはずであるが、その成分の一部が溶けだすこともあるだろう、それが「水がほんの僅かにだけ濁っていて。」という記述によって証明されている。彼は最初に水道水でそれを洗ってしまおうと考えるが、そのなかにどうしてもこびりついて離れない野ゆりの花弁(とそれによって隠されたピアス)があり、それを自らの手で取りださざるを得ないのだ。

そのとき「僕」はあたかもオイディプスが自らの父親を殺し、母親を娶ったことを知った時のあの言いえぬ衝撃に打ち砕かれるだろう、と彼女は信じている。

答え3 何も変わらない

当然ではあるが、ピアスに何らかの仕掛けがなされているということは客観的には想像しがたい。仮に何らかの「害意」があったと仮定したとしてピアスをその手段とするのは意味不明である。彼女の疑念は杞憂に終わり、彼は少し驚いたあとに、いともあっけなく「なんでこんなとこにあるんだい?」と聞くだろうし、彼女は「だって百合しゃんがひとりぼっちでかわいそうだったんだもん…はわわぁ。」とかわいくいえば万事OKである。 

ただ一点

野ユリの刺さった目の前の

という表現は、まるであたかもユリのモチーフをあしらったピアスを彼女が今しているかのような誤った印象を読者に与えかねませんよね。(すみません。素直に面白かったと書いた方が良かったかもしれませんね。)

10728 : (無題)  俺の嫁知らんか? ('18/09/08 22:29:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180908_045_10728p
普通にうまいと思ったのは僕があんまりラップを聞かないからだろうか。
せっかくだから僕も絶妙のライムをぶつけてこのdisに応えたいところなんだけど、そろそろ僕も疲れてきてそんなことしている余裕がないのを申し訳なく思います。

20年ぐらい前からラップ好きなんだけどなぁ。
当時の鹿児島でラップやってる人なんてそうそう居なかったし、GLAYやらラルクやら普通のロックポップのバンドが流行ってて、ネットも未発達で、なおかつ中学生だったから仲間なんていなくて、1人だけラップしてるっていうね。

余談ですが、この話おもしろくて、是非鹿児島のラップ少年の哀愁漂うエイトマイルをキレッキレのレトリックで詩にしてほしいなぁという淡い願望を抱きました。

10711 : 伝える  黒髪 ('18/09/03 05:15:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_569_10711p

鶏と卵のどちらが先かは難しいけど
あなたが先だよ

こういう表現はドキっとするところがある、読み手の意表をついたいい表現だと思いました(作者がこういう読まれ方を想定していたかはわかりませんが)
全体としては先月と同じような感じになってしまうのですが、まず、具体的な物事に触れ、そこから沸き起こったものとしての考えを書くことがこのタイプの詩を相手に伝えるための最も有効な技術だと思っています。
ただそれだけだと先月と同じになってしまうので、もう少し、その点についてなぜだろうか、ということを考えようと思います。
この作品に限らず、思弁的な詩というものは読者に、「それならば、この詩じゃなくても、もっと著名な作家なり学者なりの本を読んだ方がいいのではないか」という考えが少なからず浮かんできます。この考えというものを否定するために、どうすればいいか、ということを考えると「どこぞの作家や哲学者の考えなんかより、この作者の言葉が聞きたいんだ」と読者をして思わしめれば、こっちのもんだと思いませんか? その一つの手法として、具体的なこと、つまり「話者」が普段生きていて、じかに観察し触れ、それについて思いを馳せる対象であるところのもの、つまりその作者特有のものを描く、ということになるだろうと思います。是非。

10741 : 夢は叶わない  陽向 ('18/09/12 22:04:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_272_10741p

夜は少し暑すぎたー
夜はとてもクーラー寒すぎた
お風呂に入って熱すぎたー
水風呂に入って寒すぎた

着想としては、ありがちかもしれませんがもっと広げられるのではないかなと思いました。このままだとどうしても走り書きしたものをそのまま投稿なさってしまった感が拭いきれないですよね。もう少し具体的に評しよう努力してみるのですが、このままだと
夜寒かった→クーラー入れたら寒かった→風呂入ったら熱かった→水風呂にしたら寒かった、
と、何の引っ掛かりもなく読めてしまうんですよね。今のご時世ネットにはたくさんの詩があふれているわけですから、どこかで(僕が一番大事だと思うのは序盤に)読み手が引っかかるところ、おや? と思わせる仕掛け、そういったものを入れてみると、作者が表現したかったことに読み手が追いついてくれるのかもしれません。

10738 : 心象掘 TokyoNicotine ('18/09/12 00:41:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_237_10738p

仄青い戦火を掌握に砕き

のっけからイメージされることを拒むような書きぶりに少し戸惑うところがありますが、タイトルの「心象」というのが「これはあくまで心象ですから」と予防線を張っているようにも思えますね。
僕も文極で一度言われたことがあるのですが「ドレスダウン」というのを意識されてはどうか、と思いました。例えば

「重なりあえない地域だけ、沈黙になる」

等の文章がわりとキメッキメで、「もっと素顔がみてみたい」とか思うわけです、女性の方からは反発を受けるかもしれませんが。それで

秋、
落ちこぼれた葉の鬱積に
みずからを美しく崩壊した

こことかってかなり優れたイメージがあると思います。例えばこのイメージって、飾らない言葉の中にそっと挿入された詩句だったらもっとよかったのではないか、と思いました。

10739 : 呼吸・波の行方  空丸ゆらぎ ('18/09/12 19:16:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_268_10739p
先月も書きましたが「キラーフレーズ」路線を突き進む作者の心意気に痺れますが、一つ一つの言葉からはそこまでの鋭さを感じ取ることができませんでした。まぁただ僕はこの選評書くに際して徹底してオールドタイプを演じているので、今この瞬間に脳みそのムードを切り替えて別のこと書けてたら別の切り口で書いたとは思うのですが、ちょっと僕には無理な芸当なのでそこは申し訳ありません。

ひざっこぞうを陽にかざし 飛行機雲を一本ひく
西瓜の種をどこに飛ばそうが自由だった
あの頃はどうでもよいことなど一つもなかった
遊び疲れた子どもはくるくる回りながら子宮に帰る

ここは四方八方に書き散らしながら、一つの像を結ぶという見慣れた技法ですが、素直にうまいと思います。「西瓜の種をどこに飛ばそうが自由だった」という詩句は作者の詩的発見かな、と思います。

10736 : 詩情のない日記  北 ('18/09/11 21:16:28 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_227_10736p
前半部分とても面白く読みました。着想というか、視点が面白い点がまず一点と、ちゃんとその着想だけにおわらせないで、読み手のテンションをちゃんと保っているところはさすがだと思います。特に工具セットへと移って、男の面子に巧く着地するところはさすがだな、と思って読んでいました。
最終連、社長の歌と男の面子というのがどうつながるのか、いまいちつかめない点があったのです。具体的にここですが

コンドームに目薬をあわせ買いする男性の心理が、男の面子を失うことに照れながら崩壊してゆく理性であり、それが目薬だけに、どこか遣る瀬ない。

基本的に作者は読み手との距離をとったり近づけたりするのが巧いと思っているのですが、ここに関して少し距離が開きすぎているのではないかな、と思いました。

10707 : 殺させてくれたのに  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/09/01 23:58:36 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_489_10707p

確実に、僕は笑いながら彼女たちを嬲って
目玉をえぐって、空いた眼窩の内側を指でなぞって
倒れた背中を石で削って、華奢な背骨を露わにして

もうこの手の詩を書くからには、ぞわっとさせてください。と思います。冒頭にあげた部分ですが、多分この詩の中で一番ディティールにこだわった所だと思います。が、正直臨場感というものを感じられないというのがこの詩の弱いところなんじゃないかと思います。
発想自体はよくある詩なので、そこからどれだけ読者の予想を裏切っていくかということが全てになってくると思いますので。とことん凝ってください、と思ってしまいました。
目玉を抉った時の指の湿り気だとか、眼窩をなぞった時の頭蓋骨の凹凸の感触だとか、話者が本当に信じていることであるならば、こんな情報量で収まるわけがない、と。
いろんな方法があると思います。僕が今想定しているのは、先月僕が優良に推させていただいた湯煙さんの『じゃんぱら』のようなとことん細部にこだわる、ってやり方ですが。そういうやり方じゃなくても、この詩だったらもう一転覆させれますよね、とか。
ただ今書いているこの内容ってすでに作者の別作品で少しだけ触れていて『脳の中で』ですかね。僕はこの詩を読んだ時に「暴力的な言葉を強調しすぎて、逆に暴力的なイメージが遠ざかってしまっているように思えました。」と書いたんだけど、細部というのだけではやはり読ませきれない、というのも選評書きながら若干感じております。
僕が『脳の中で』の際に例示した作品は魚屋スイソさんの『踊り子トマト』(別サイト)ですが、この作品の技法は一般常識から考えると意味不明なものに対して、トマトという更に意味不明なアイテムを加えて、読み手の意識を行為への拒絶感からそらして、トマトへの違和感へと変換する、というようなことが言えるかと思います。
他にも探せばいくらでもこのような「出口」はあると思いますが、いかんせん自分がこのようなタイプの詩を書きなれていないので体系的に語れないのが申し訳ないのです。

10702 : あッ!  田中恭平 ('18/09/01 08:48:35)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_439_10702p

体を酷使して
どこまで疲れられるのか
人体実験

非常によくわかるな、と思ったところでした。疲れからなのか思考がうまくまとまらない様子をそのまま自動筆記のようなスタイルで書いている作品だと思います。
ただまあ淡いですね。淡いというのは作者の試みというものの淡さですが、或いは書道で言うところの作為/率意という言葉を思い出していました。僕も漫画で得た知識なので偉そうに語るのは恥ずかしいんですが、人に見せる作品として技巧を駆使した書を作意の書、そうではない、作品として残そうとするわけではなく自然体に書かれたものを率意の書と呼ぶそうです。
作者が俳句を書いていた頃も知っているので、なんとなく作意まみれの文章に対するアンチテーゼのようなことを考えていました。
ただ残念ながら僕は作意しか評価できないんですよね。前回宮永さん『Living』への評でも書いたのですが、作意はいくらでも共有可能なもので、いくらでも紐解いてみることができるのですが、そうではない部分ってたとえ良いと思えても、共有できない以上語るべきではない、というのが僕のスタンスなので。
僕としては2016年頃の作意と率意のうまくバランスのとれた作者の作品が一番好きだなと思ってしまいますね。

10708 : ヨナ、の手、首、  田中宏輔 ('18/09/03 00:01:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_553_10708p
これに関してはレス欄ですでに言及されますが、どもりながら発される言葉が物語全体をディレイして一つ一つの言葉の余韻、余白を強要する効果はあると思うんですが、それってお話自体がつまらなければ苦痛でしかないと思うんですよね。たださすがと言わざるを得ないのですが、当然のように読ませてくる。冒頭に述べたような効果がちゃんと有効に働いてくる。

たと、え、一片、の、榾(ほだ)、木(ぎ)に、さえ、なら、なく、とも、そそ、それ、が、そ、れ

が、息、子、を、乗せ、た、船、の、一、部、だっ、たか、も、しれ、ない

例えばこんな言葉は物語の大枠からは外れているけれども、この目配せが物語をより強固にしているように思います。どなたかが仰ってた気がするのですが、この読点によって区切られた言葉が最後の行為にリンクしている、というのは僕には読めなかった視点だったので、面白い読みだな、と感じました。

10723 : 当たり前の、  いかいか ('18/09/06 22:01:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_838_10723p
この作品に関しては特定の個人を揶揄しているため僕は選評をつけることができないことご了承ください。

10718 : 幽霊とあぶく  田中恭平 ('18/09/04 11:55:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_642_10718p
読み手をぐいっと親密圏に引き込む手法をとられていて、「読み手にとってこの文章が意味があるのだろうか?」という詩を読んでもらうための最初のハードルを「この作者は自分に語りかけているんだ」と思わせることにより突破していると思いました。
全体を貫く調子として、「自分を見つめている自分」(これが幽霊という言葉とリンクするかはわからないけど)という文章の流れがあって、例えば

すべて仕事を行ってできた痣、傷だけれど、捻くれた頭は、これを自分の勲章とか、誇りのように勘定してしまう。

そのとき俺は、五六時間は我慢した煙草をやっと喫えたときのように、法悦の顔をしているだろう。あほうづらだね。

というような具合で、読み手の読みを先回りして、ちゃんと拾っていく。ただレス欄にもある通り、それが自己完結として捉えられて、文章の余白がないと思われる可能性もあるが、僕はこの気配りというのは受動的に作品を受け取りたいときにはとても心地が良いと思った。ただ同時に、この手の技法を使った詩においては、どうしても最後、最終行でいかに何かを残すか、というのが肝になってくると思う。

窓から百日紅の花、ピンク色のかわいらしい花が視える。机に寄りかかろうとしたら、やはり体はがくっと崩れ落ちて、置いておいた仕事道具すべてが落ちてしまった。

抒情に流されすぎない、優れた締め方なのではないかと思いました。具体的に書くと
外界に見えるもの→その色彩(それまで詩文はどちらかというとモノクロの印象を与えていたのでこの色彩はハッとする)→話者の動作(がくっと崩れ落ちてしまうのは単に滑ってしまっただけではない、ということがこれまでの詩文の連なりに布石として打たれている)→その結末(この流されすぎない情景描写がこの詩の全体の連なりから逸脱せず、それでもなお言いえぬ余韻を与えている。)
こんな風に読みました。

10720 : 茶碗  北 ('18/09/05 13:43:03 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180905_681_10720p
作品内にレスをしましたのでそこから少し広げていけたらな、と思っております

sampleさんという方の『釣れないな』という詩をさっき勉強のつもりで読み解いていたんですが、
詩の中の動作に対して、描写の量が多くて、もう執拗なくらい多くて、それが「釣り」って題材とあいまって、物凄く時間がゆったり流れるという感覚を描写によって実現してたんですね。
この詩に関しても同様な時間のゆったりと流れる感覚を覚えました、言ってしまえばご飯を食べているだけなんだけど、それと共に流れている、或いは作中主体も感じているだろう、時間の流れを。
最終行が少し不明瞭で(悪い意味ではなく)、「かける」という言葉が、欠けるなのか懸けるなのかで全然意味が違ってくる面白さがありますね。欠けると読むと、なんだろう、すこし欠けた茶碗を使い続ける老夫婦のそれこそゆったりとした時間が想起されます。

※「かける」という言葉は懸けるへと直されているようです。
少し作品への評と言うところから離れます。これは是非作者以外の「詩的であろう」という思いに引きずられすぎて、感情の発露をそのまま言葉にしたり、観念的な言葉を突然(効果的ではない方法で)書いてしまうような方に聞いていただきたいのですが。
今作はわかりやすくそれとは違ったタイプの詩であることはわかっていただけると思います。具体的に言えば、この詩には場面があり特定の人物がおり特定の動作を行っていて、それに従属する形で修辞があるということですね。こういう詩を一度書いてみませんかね、というふうに思うんですよ。でもそれは皆が皆こういうタイプの詩を書くべきだ、と思っているわけではなく、こういうタイプの詩を書くと、その人の書きたい詩情が浮かび上がってくるんですよね。それをご自身で自覚なさるということはとても大切なことだと思いますので、このようなことを言っています。
本作ですが、僕が一番詩的だな、と思った部分は

両脇をしめ

というところでした。なぜか。この部分って前半部分の描写から、「あなた」の性格や、この二人の生活のゆったりとしたリズムのようなものがあり、いざ食事をする段になって、「両脇をしめ」という言葉が出てくる。この言葉ってすごく情報量が多いと思うんですよね。まず「あなた」の端正な、そして少し情け深い性格と同時に、このことを「見ている」話者と「あなた」との関連性、そしてその二人を包む静謐な空間、というような諸々を想起できるようになっている。「話者のフィルターを通して見えるもの」というのはとても独特である、と先月の選評で書いたのですが、その良い例だと思います。
それで、僕はそういう言葉に触れると、これは作者の偽りのない詩情なんだな、と感じられることができると思っていて。例えば、別の方がこのような詩を書いたとしてら作者の数だけ違った表現が出てくる。だからもし詩作で悩んだ時はこういうものを書いてみて自分の詩情というものに向き合ってみるのもいいんじゃないかな、と思います。
大分遠回りをしてきましたが、この詩に関しては僕は先月の『ぬけがら』や『牛乳配達員は牝牛を配る』ほどの評価はできない、と思っています。作者本人も十分承知でしょうが、これは詩情の根源であり、それをさらに読まれうるもの、というところまで持っていくには、先月作者が見せた「武器」の部分を存分に使っていただくことになろうと思います。

10705 : 空洞  霜田明 ('18/09/01 20:31:32 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_484_10705p
「熱いコーヒーを飲む」という実際の行為からしか僕はこの作品への評を書きえないことを申し訳なく思います。

僕は熱いコーヒーを飲みながら
現在という短さに保証された
ひとつの感覚的な確信を抱いていた
身体の中に広がる空洞は
空洞としての充溢を知っているはずだと

基本的に僕のスタンスは、「行為」と「思念」は結びついてこそ作品としての厚みが増すというもので、「行為」から生まれた「思念」、あるいは「思念」から生まれる「行為」というのは読み手に説得力をもって立ち現れるということです。残念ながら今作は、僕の批評の範疇で無理やり語るとしたら、「行為」と「思念」はそれほど強固に結びついておらず、「思念」が単独で何も紐づけられていない歩のように敵陣に突入しているような印象を受けてしまった。行為と思念が香先の歩のように連帯をしたとたんに、この作品の訴求力は何倍にもなるように思えました。

10700 : ごめんね。ハイル・ヒットラー!  田中宏輔 ('18/09/01 00:15:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_417_10700p
先月の引用詩よりも今月の作品の方が僕は頭の中でイメージをたやすく展開できて楽しく読めました。そういう風にうまく作品に乗せてもらうと例えば以下のような

きみの引用しているその
(ディクスン・カー『絞首台の謎』7、井上一夫訳)

海は
(ゴットフリート・ベン『詩の問題性』内藤道雄訳)

どこにあるんだい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』機¬畋尺動賁)

という詩句も、合わせ鏡のように無限に「引用」という言葉が像を結んでいく。ある種のめまいにも似た感覚を得たことはこの引用詩という形式ならではの効果かと思います。

10703 : CarbOnatiOn  kale ('18/09/01 13:46:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_460_10703p
本当に作者には申し訳ないのだけれども、読んであることを思い出していました。まぁあまり文極にとって「幸せ」な歴史ではなかったかもしれませんが、浅井康浩さんがスタッフだったときに、月間低劣ポエムを実際に張り出してブログで酷評していた時のことですね。ここで書かれているアクション/テンションの差異について思い出していました。

アクションをどんどん重ねていっただけでは、読み手は、まずもって興味を示しません。
テンション、って何?って話は、単純にいえば「読み手」に続きを読みたい、という思いのことなんだけど、

さすがに注釈しておきたいのだけれども、このテンション/アクションというのはどうしようもなく読み手、つまり僕の読む能力に左右されてしまうということはご留意いただきたい。そのうえで敢えて申し上げると、この作品は「書ける」人が往々にして陥りがちな、「アクション」を磨いていった結果、「テンション」というところに気を遣る事が出来ていないように思いました。

10706 : 境界が無い  るるりら ('18/09/01 22:31:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_486_10706p

風がすこし強まるたびに
指先が
ちりちりする

おや、と思わせる導入ですよね。何かを想起させるようで、読み手にはまだ空白しか渡されていない状態で具体的な描写へと移っていく。読み手は冒頭に挙げた詩句が頭の中にあって、それとの関連性を探りながら、続く詩文を読んでいくことになろうと思います。

わたしの指は ちりちり燃えていル

なのでこういう追加情報(燃えている)を小出しにしていくことも、読者の疑問が無関心へと変わらないための配慮と言えると思います。読者を放りださないということですね。
さて、このような詩を書くときに必ず問題になるのは「お前誰だよ問題」かと思います。僕も一度文極に第一次世界大戦のアルゴンヌの森の戦いの戦死者を原爆と関連付けながら悼む詩を書いたことがあるんですが、見事に落選しました。僕も書いてて「お前誰だよ」と自分にツッコミをいれながら、結局うまい解決を見つけ出せませんでしたね。
今作に関しては、部分的に、そのようなツッコミを回避しうる叙述のされ方をしていると思いました。つまり冒頭から具体的な場面を重ねていって、読み手に「知らぬ間に」そのようなテーマに片足を突っ込ませるという技法ですね。片足を突っ込ませた後、どこまで引きずり込むか、ということになってくると先述の「お前誰だよ」というツッコミが待っていて、押し付けがましくない描写が、巧みにそれをかわしている、とも思えます。
「部分的」と書いたのは、当事者ではありえない事実がテーマから作者と読者をどうしても遠ざけてしまうことに対してです。つまり作品の責ではなく、どうしようもないこと、と思っております。じゃあ全面的にそのツッコミから逃れえるような作品というのはどのようなものか、というと僕自身不勉強で思い浮かびません。
原爆でなく空襲ですが、そして詩作品ではなく書道の話ですが、井上有一の『噫横川国民学校』(※別サイト)を思い出していました。

ちなみに今作とは異なる、かなりトリッキーなやり方ですが、こういう重いテーマに巧くふれている文極の作品に進谷さんの『足フェチ』があります、が、作者が意図する詩情とでは全く異なるものだろうとは思っております。

10704 : 神様の子ども  ネン ('18/09/01 13:47:52)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_461_10704p
先月と同じようなことになってしまうと思うのですが。「それが読み手と何か関係あるのでしょうか」という感想を抱かせやすい作品になってしまっていると思います。例えば、小林秀雄の『蛸の自殺』とかのモチーフを引っ張ってくることもあるいは可能なのかもしれませんが、それはかなり親切な読者ですね。
基本的に読者は親切ではない、というのが文学極道的な考えです。どういうことかと言うと、読者は基本的に作者には何の興味も持っていない、ということを前提として、いかにその読者を惹きこむかということを文章中に実現してくださいね、ということになると思います。

言葉に形を与え
色を付ける

最初の詩句ですが、発想としてとても独特な書き出しであると思うんですよね。いや、もちろん似たような言葉はそこらにあると思うんですが、言葉に形を与えたり、それに色がついたり、というのは何か作者特有のものを感じることは感じるのです。
そのような独自なるものができれば、「読者に開かれたもの」として表現されていたら、と思いました。

10701 : Bookish  黒髪 ('18/09/01 02:19:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_425_10701p
こちらの作品の方が良いと思いました。思弁的な言葉が溢れ出している点としては同じように読まれる方はいらっしゃるかもしれませんが、この詩には作者の眼差し、というものを感じられる詩文になっていると思います。具体的にはところどころ挿入される「話者」の過去というものが、詩文の中にあふれる思弁的な言葉をその特有な存在に紐づけしている、ということになります。ただの歩よりも香先の歩のほうが強いというわけです(どうやらこの表現気に入ったらしい)。
さて、一輪車さんの面白いレスがあるので一部抜粋します。

まあ、わたしもBookishな生き方しかできなかった幽霊のような
つまらない存在として一生を終えるのですが、
でも、人間てのは所詮、Bookishな存在で、どうあがいても、(六本木で
カクテル片手に踊っていようと、エベレスト登頂に挑んでいようと)
そこからは逃れられないのが実は人間だと思うんです。

これに対する作者の回答を見てみると、

Bookishこそは、人間の生きる力であり、
耽溺することに一番意味があるところですね。

と書かれております。これすれ違いが生じているわけですが、是非作者にはこのすれ違いがなぜ起きているか、ということについてより深く考えてほしいと思いました。それはこのbookishというテーマをより深く洞察するきっかけになると思いますし、何よりこの距離が作者自身の伸びしろなのだろうと、僕が思ったからであります。

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