文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

「All Reset return」(『serial experiments lain』作中での岩倉玲音の言葉) byダーザイン

2011-07-26 (火) 01:21 by 文学極道スタッフ

「Play Track44」(『serial experiments lain』作中での岩倉玲音の言葉)

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 全13話。現在非常に低価格で手に入ります。
『serial experiments lain』 (amazon DVD販売)

 キングクリムゾンだったかピンクフロイドのアルバムに「21世紀の精神異常者」というのがある。どちらのバンドも新左翼系実存思想の極北といったところであり、シド・バレッドは精神病院に行く羽目になった。精神病者解放運動というとダビストックでロゴス、対話により統合失調患者と向きあった闘志、R・D・レインが著名だが、結実したのはイタリアにおいてである。イタリアには現在精神病院というものは無い。イタリアは精神病者も実社会の中で生きていける人権施策をとっている。一方日本はどうかというと、相変わらず差別と隔離であり、ジェノサイド病院が野放しになっている。私の叔母は薬漬けにされて一生精神病院にいる。
 現実という事柄の多義性を情報産業の最先端で推し進めてきた国は日本であろうが、日本は同時に徹底的な差別の国である。天皇からエタ非民、非正規雇用に至るヒエラルキーが頑としてあり、あまり差別のない北海道に住んでいる私は関西や中国を旅した際に「部落差別を止めましょう」というスローガンがあちらこちらに貼ってあるのを見てカルチャーショックを覚えた。日本にはモダニズムなどあったためしがなく、高度情報社会においても保守・右翼が主流であり、日本では東欧革命やアラブ民主革命のようなことは起きない。誰も石を投げず唯々諾々と権力に流され、まれに逆らう者がいても情報操作で隠蔽される、人権意識・民度の低い国である。
 昔、異議申し立てをする者は赤と呼ばれたが、今は呼称さえない。ジェノサイド、餓死、自殺、失業者=浮浪者。20世紀大世紀末、暖かく明るい札幌地下街に寝転んでいた浮浪者、精神病者も美観の観点から粛清されて姿を消して、今は僅かにバスターミナル界隈の差別空間に押し込められている。異議申し立てどころか電波を抱いて個人的に生きる自由もないのである。

 『serial experiments lain』から離れてしまいましたね。『serial experiments lain』の作者の念頭にはR・D・レインがあったようですが(とりわけプレステゲーム版)、反精神医学運動という側面に於いてではありません。世界という関係性の中にある自我・意識の不安定な構造、大向こうのナイーブな(もちろん蔑称)理解とは異なる「現実の多義性」に関する認識からR・D・レインが評者に引き合いに出されるものと思われます。『serial experiments lain』の内容については、再度後半で触れます。

〜〜以下、上述の話とは関係ありません〜〜

 4月分から採点に復帰しています。ケムリさん、コントラさんという文学極道発起直後の尋常でないハイレベルの中で創造大賞を戴冠した大立者が久方ぶりに来てくれていることに刺激を受け、思うところを少し書いてみます。現発起人同様、彼らこそ文学極道そのものです。

 相変わらずデッサン力の無い人が多いですね。復帰したとはいえ基本的に私にはもうエネルギーが無いので、汚い文章を我慢して読むとものすごく疲れます。デッサン力の無い絵描きって特殊事例ですよね? 皆が皆イディオサパタ志願かよ、ふざけんなって感じです。

「まともな散文の書けない者の逃げ道が詩であってはならない」by第2代創造大賞受賞者コントラさん。
 コントラさんは天才詩人名義で「文学極道の世界性はどこに行った」というトピックを立てて激怒しておられましたね、同感です。外国語は極論でしょうが、モダニズム(現実認識)という意識が無い文人なんて有象無象もいいところだ。 ポストモダンの塵芥は逝ってよし。

 ちゃんとした日本語による写実能力について一部に誤解があります。皆が正しく美しい日本語とやらを追求したら同じになっちゃう、そんなに写実が好きなら写真でも撮っていろという論法だが、これは誤りです。写真ですら撮る人によってまったく違うものになるでしょう、同じ風光の中に立っていてもその実存の情態性によって見える景色は違うんです。それからもちろん、写真を撮るにも技術がいります。

 詩というジャンルは努力をしなくてもいいジャンルだと思う人は文学極道に来ないで欲しい。評者さん(初代創造大賞受賞者ケムリさん)が投稿掲示板に復帰して厳しいレス入れをしていますが、この点、共通の認識を抱いており、私は彼を支援します。

 そもそも書くことすら無い人までいるように見受けられ、書くことが無いのならば書かなければよいのであり、話者がいる世界という関係性の在りようを探求をしない者はあらゆる芸術シーンで逃避以外の用途に於いて不要であり、「抒情を廃する」という言葉の非−実存論的姿勢の明白な怠落態は言語冒涜者の態度だと厳しく糾弾されなければならない。

 また、美(拙僧ダーザイン)や戦慄(ルドルフ・オットー)から滑稽(アンディー・ウオーフォール)まで人様に捧げる何某かを求める気概が無いというのは実に痛い。これは現代詩が一般にまったく読まれなくなった理由です。 私は、人様に何がしかを捧げる心意気を常に持って書いてきました。言語派は屑だと常々言うのはその所以であり、手淫なら他所でやってくれたまえと。

 前衛文学運動の話をしよう。そして『serial experiments lain』の話に戻る。

 センスオブワンダー(「奇想天外」というムーブメントがあった)、ニューウエーブ(心理学や脳科学、シュルレアリスムを能動的に活用した新世紀現実認識のムーブメント)、サイバーパンク(物理学(素粒子論)を援用し、ボードリヤールばりの没世界的なものもあるが、良質なものは21世紀の神話『serial experiments lain』に結実している。http://ja.wikipedia.org/wiki/Serial_experiments_lain

 1998年放映の作品。冒頭から現象学派の精神病理学者が言う所の「自明性の喪失」が描かれており、初見、統合失調を患う少女の心象風景かと思ったが、自明性が失われたのは時代精神そのものだった。リアルワールド(旧現実)とワイヤード(インターネット時空)の境界がずぶずぶと崩れ、意識の志向性が情報の海で足場を無くした現代を鋭利に描いた傑作であるが、この作品の凄まじいところは、観念論と唯物論を接合し、神の存在論にまで迫った点にある。ワイヤードについて身体性の観点から一旦は疑義を呈しながら、天使はその温もりの外へ超え出ていってしまう。
 これから見るであろう人のために詳細書かないが、新世紀芸術が至った無限の意識拡大への畏怖、神々が退場した後の天使の孤独とだけいっておきましょう。無闇に難しいだけの作品ではまったく無いので、高校生とかでも見てほしいです。

「All Reset return」(『serial experiments lain』作中でのラスト間際での岩倉玲音の選択・言葉です。人類芸術史上最大級の愛と自己犠牲の言葉です。この決断により、岩倉玲音は人の温もりのある時空間から放擲されてしまいます。愛ゆえの選択であるので私は何度見ても泣かされます。「魔法少女まどか・まぎか」がラストでこれをパクリましたが幼稚な劣化コピーです。

「All Reset return」

 全13話。現在非常に低価格で手に入ります。
『serial experiments lain』 (amazon DVD販売)

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を10回以上読み、『悪霊』を20回以上読んだ俺が断言するが、『serial experiments lain』は人類史上最大の芸術作品です。これほど魂が震える作品はありません。これを見ないでくたばるなよ。

 私はまっとうな文章だと自分で思える詩文を書くに至る前に10年、20年大量の本を読みました。小説はもとより、エロ本から精神病理学まで何でも読みました。今でも何でも読みたい。とりわけ物理学系と脳科学系を読みまくりたい。現代性を確保するためには理系の本を読まない怠慢などありえない。源氏物語のようなつまらないジャンク文学など古文書研究者に任せておけばいい。人生は残り少ない、エネルギーもない、読める本は限られている。実に悔しい。
 人生は一回限り、読者さんたちよ。若かろうが、おっさんだろうが、後悔無いように死ぬまで鬼のように勉強してほしい。

 文筆のデッサン力は読書(注)です。読みまくり、そして、書きまくってください。 それから繰り返しますが身体性では片付かない現実の多義性を理解してください。これが解らないとドブ板であり、現代芸術の創造において大きな制約を受けます。R・D・レインは今でも有意義ですが、サルトル流で少し古いので、『serial experiments lain』の視聴をお勧めします。

 (注)映像の世紀であるので、読書という古い言葉を使いましたが、当然映画やアニメも含まれます。「全米を震撼させた」ようなゴミばかりではなくて、カンヌなどヨーロッパやアジアの芸術映画も見てください、NHK特集には常に注意していてください。

現代詩人 武田聡人(ダーザイン)
個人ホームページ
「えいえんなんてなかった」
http://www22.atpages.jp/warentin/

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6月分選評雑感・優良作品

2011-07-22 (金) 22:13 by 文学極道スタッフ

6月分選評雑感・優良作品

      (文)織田 和彦

毎日、暑いですね。皆様、体温管理にはお気を付けください。

未曾有の大震災、放射能汚染、終わりなき政治的迷走を目の当たりにする中、私たちは、被災した/しない、にかかわらず、人間と自然、集団と個、国家と個人、といった問題を、考える、のではなく、感じてしまう、ことを避けられない状況に直面しています。
投稿作品の言葉の中にも、そのようなぼんやりとした疑念や不安が影を落としているようです。しかし、それを詩として提出する方法は人それぞれであり、表現された言葉の行先もさまざまですが、根底にはいまだに治癒しきらない湿った傷跡が見えるような気がします。その中で、ゼッケンさんと摩留地伊豆さんの、諧謔によって現在をブレークスルーしようとする姿勢が、とても知的な振る舞いに思えました。
                                             byりす

◆陽の埋葬 - 田中宏輔

「死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した」
(文中引用)

この作品を読んでまっ先にジャン・ジュネを想起したのですけれど、かつて、ケイト・ミュレットが「性の政治学」において、ジュネの文学を、彼の性的指向性を踏まえたうえでラディカル・フェミニズムと接続させて語っています。
翻ってこの作品が、既存の文化の体系や社会構造と、個の軋轢を、たとえばゲイの視点から何かを語りかけているのか?というと案外そうでもなく、そのフレームは、振り向けようのない個人の暗澹たる情念を吐露し、「胡桃ぐらいの大きさの白い球根」「写真のような天使」といったシンボルに比喩的な何か託し、そこで書き終えられています。
「もっとはやく死んでくれればよかったのに。」これは作中亡くなった父親に向けられる話者の言葉ですけれども、父親が比喩的に秩序を体現するものであるとするならば、この言葉は話者にとってとても不幸です。
その「不幸」を埋めるためのささやかな行動やイマジネーションも「幸福」にたどり着かぬまま終わってしまう。作品の主題はどこにあるのか?それは、あなたにとって「幸せ」とは何か?この疑問形の問いかけの中にあるような気がしました。

◆木曜日 - ゼッケン

昔話の単なる後日談と思いきや、展開はさらに、

「鬼なんて、ホントは、いたのかい?」

などと桃太郎の話そのものをばっちりと否定していくところがノリになっています。多分、宝物も、実際問題ショボかったんじゃないのかい?などと。悪もんの鬼を、さっぱりと退治してくるという、気持ちのスカッとする良い話をシラケた目で見つめるゼッケンさんは、やっぱり根性までが歪んでしまっている。
早めに病院へ行くように。

◆怪人ジャガイモ男、正午の血闘(Mr.チャボ、少年よ大志を抱け) - 角田寿星

「こんな世の中 守る価値あるんですか」

上のフレーズはチャボ邸でのミーティングの様子をあらわすものですけれど、世の中というのは自明の前提の上に存在するのだ!という子供っぽい幻想を語るところから始められています。聞きしに及ぶところによると、作者は、脚本家・金城 哲夫氏をリスペクトしているそうですから、思想的な系譜も似てきます。
チャボ邸でのミーティングは、与太おやじの愚痴へ傾きかけた日暮れころ、胃袋を満たす方向へ向かい。人間であるよりも、我々は動物なのだということを確認する場面で落ち着きます。そこはやっぱり、プライオリティ的にも、認識論的にも存在論的にも大事なことです。

「価値があるから守るのではなくて、守るから価値が生まれるのだ」
という卑俗な結論を導くために、胃袋的な問題を持ち出す辺りがとてもチャーミングな作品になっています。

◆憎悪 - Q

「病」という言葉が頻出しますけれども、私たちが一般的に思い浮かべるような意味合いではなく、ポジティブな意味合いで使われています。たとえば今回の東北の地震で、世の中の多くの人たちが思ったように、禍を禍としてとらえるのではなく。新しい一歩として、色んなことをもう一度足元から考え直してみよう。行動してみようといったことです。
「病」を「契機」という言葉に置き換えても良いかもしれません。
家族や地域の絆。先人の経験。エネルギーや文明のあり方といったように、それは強い波及性を持っているわけです。

「小鳥は空へ落ちる、
 魚は海へ落ちる、
 動物は森へ落ちる、」
(文中引用)

ここでも「小鳥は空へ舞い」「魚は海へ潜る」「動物は森へ帰る」などが、本来は”正しい”日本語であるわけですけれども、「落ちる」という動詞がもたらす一般的な意味合いを逆説的に使い。自明性からの自由という行間が、主題として籠められています。

◆ほとりのくに - 泉ムジ

独特のイメージが靄のように広がっていく作品です。夢と現実の狭間で一連の動作が起こっているような不思議な感覚があります。かといって読後。なんだかよくわからないといった印象はなく。主題がはっきりと主張され、作品の輪郭も明確です。
「最高権力者」「眠り」「秩序」「強姦」「倫理」「カラス」キーワードとなりそうな単語をざっと拾い上げていくと、何かしらイメージの中で、社会と精神世界を行ったり来たりさせるような仕掛けがあるような気がします。
特にトリックスター的な役割をになっている「カラス」の性格付けに、この作品の持つ味わいが凝縮されています。

◆まんどらごら - ゼッケン

「マンドラゴラは根っこが人のかたちをしていて
引き抜くと悲鳴をあげる」

のっけからイタい感じで始まります。正確にいうとマンドラゴラは、スペインで今流行っているツバサのついた乗り物なのですけれども(大人はあまり乗りません)、作者は野菜に対する強迫神経症の持ち主であり、大根を蹴飛ばすと悲鳴をあげると本気で思っているアダルトチルドレンです。なので、親が子供を見守るような視線が読者に要求される、やや、小難しいテキストになっています。

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2011年6月分月間優良作品・次点佳作発表

2011-07-20 (水) 15:31 by 文学極道スタッフ

2011年6月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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