文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2009年年間各賞について

2010-01-26 (火) 11:24 by 文学極道スタッフ

2009年年間各賞は3月下旬に発表予定です。

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凪葉さんについて

2010-01-25 (月) 21:25 by ダーザイン

凪葉さんへの阿部さんの評価は酷過ぎるのね。この期間、凪葉さんは多分精神的に落ち込んでおり本領を発揮していませんが、最新作では世界性を再−獲得していますね。
ポエジーの無いところに本来的な人様に読んでいただける詩など立ち上がりません。だが、自己のポエジーの中に内閉していては人様に届きません。でも資質として、ポエジーを持っているということはとても重要なことなのです。凪葉さんにはそれがある。ポエジーの原動力となる何某がない者は、書くべきですらないすらと私は思う。
凪葉さんは、凪葉さんのいる世界を、その空間と時間の立て組みを見事に描写したことが何度もあります。言葉の最も本来的な意味で、存在論的な光が射す詩人であると、世界-内-存在を描写する詩人のひとりであると、ダーザインは認識しています。

それから、抒情詩・情景詩から現代詩に進化するというのは、マルクス主義者の社会発展史説のように気持ちの悪い妄想です。

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2009年12月分選評(阿部嘉昭)

4054 : 多発性  ひろかわ文緒 ('09/12/31 14:51:59)
新しい詩法が貫かれている。
しかし僕が類推したのは詩ではなく福永信の小説だった。
言葉が一文単位で世界を加算させてゆく。ただし欠落と省略があり、
しかも理路も崩れて読者は奇異感に包まれる。
包まれながら加算性のたしかさによって世界の眺望が刻々開ける感触も確保されていて、
そういうものをたとえば福永信は小説と信じているようだった。
同じ信念がこのひろかわさんの詩篇にもあるようだが、
聯の展開がより小単位の多発的衝突となっている。
だからこれは詩という自称でよいのだろう。
なにしろ「了解」をとりつけてはぐらかし、時空が意外性をもって事後組織される、
その文の配分・運動神経が抜群だ。エンタテインメント、ということでもある。
しかし全体は悋気、消滅、死など不吉なものの列挙となっている。
ラストの会話詩がちょっと弱いかなあ。ほかは聯の終わりに逆転もあった。
惨劇性の着地点が不明瞭なゆえにさらに惨劇的な、いちばん好きな聯を引いておく。

嘘をつきたいという願望も特段ないが、本当のことを話す義理もないため、でたらめであることに執心している政治家の佐藤には今夜もファン・レターが届く、玄関のドアノブを掴みまわしながら封をあけると「顔をあげてみろ」と書いてある、家に入り顔をあげると佐藤の妻が柱に首を吊って垂れていた、佐藤は急いででたらめにダイヤルをまわす、時報が午前三時を知らせる、窓が日光をさんさんと取り込んでいる、妻の脚の爪には赤や緑や銀が塗られてあり(ぎらりと光り)なるほど、でたらめだ、と顔を歪め笑った。

あと第一聯の以下の言葉の運びに唸った。
《ふと日の翳り、空を見ると大きな手が、世界を捲ろうとしていた。》

4050 : かききづの  岩尾忍 ('09/12/29 17:02:52)
これはすごい。複雑さ(組成が一様でない)と謎がひきつけてやまない。
詩は古語辞典の引用を模してはじまる。
【かききづの】枕詞。月、過去、対話、在る、等にかかる。例、「たちまちに手は雪を解くかききづの在ることをなほ解きあへずして」

引用例の和歌は岩尾さんの捏造だとして、
その出来がよいどころかそこで第二主題「手」への可能性が開かれてゆく。
ならば第一主題は何かというとそれが和歌=短歌だった。
和歌、情を盛るもの、私という一人称を隠し、隠すことで普遍化を促すもの。
情の無名的指針。
和歌における「われ」はわれにしてわれにあらず。
この「融即性」が、愛する者にとっての「私」が全体ではなく
手にしかすぎないという認知へとさらに接続されてゆく。曰く――

あんなに愛されては生きた心地もしない。手になったような気がした。また網膜か脳になったような。すでに一時間以上、あなたが洗い続けてるそれ。それって手じゃなくて私だと思うんですが。(と言うための必要最低限の、

言うたらまあ、暴力。)

一行アキののちの、この驚愕は何だろう。
ここにマクベスの、血を流そうとする強迫的な手洗いが伏在しているとして
同時に手が手であるという閉塞までが狂ったように「洗われていて」、
しかもそれがあなたの手ではなく私だという奇怪な世界観が接続されてゆく。
このように「愛」を「歌った」者など誰もいない。
しかし既視感もある。それは「隠蔽とは隠蔽の顕示であり、
顕示とは顕示をつうじて隠蔽が実現されていることだ」とでもいったもの。
そこへ短歌が以下のように再接続されて、
詩篇が相手にしている対象がいよいよ曖昧化されてゆく。
ここで覚えるべき感情は「恐怖」ではないだろうか。

一冊の古語辞典の砦。三十一音の地下室。ココア。(誰も知ろうともしていないことを、秘密にしてどうする。)と。

詩はそのように風呂敷を広げたあと、ようやく着地点のヒントをあたえだす。
長袖を夏でも着続ける「一人の同級生」が
衣服の「器」(短歌の黄金律の器に等しい)で隠している自傷の痕、
それの本質的無名性を暴露してゆくのだった。
その認知のあとなら詩は気配だけを残す。以下のように――

かききづの

過去 淡雪の袖解けてなほ

これほど驚愕させる詩篇には滅多に出会えるものではない。
岩尾さん、詩集をつくらないかなあ。

4052 : クウキ  右肩 ('09/12/31 11:39:22)
文体にサスペンスがある。見事というしかない。
病室にいる自分が病室に向かう自分をみている、という点だけなら
ドッペルゲンガーテーマの詩篇ともいえるのだが、一筋縄にはゆかない。
病院の入り口の下駄箱の上の金魚鉢→そのなかのランチュウ→
そのランチュウがみている白いワンピースの少女
(の空間的幻=実際はカレンダーの絵柄なのだが、それは「生きている」)
という階梯も仕掛けられていて、
そのあるかなきかの最終物のほうが、
ふたつに分裂した書き手を支配しているようなのだ。
このときにこそ書き手の不安、「死」がリアリティをもつようになり、
それで夏のとある視界全体に「みえない何か」が息づきはじめる。

 金魚の視界で、映像は人の形を結ばない。茫洋とした色彩が染みつくだけだ。しかし、その中にも不安は飛散し赤茶色の細かい染みを作っている。既に秋の冷気を持つ点。点々。

 あらかじめ敷かれた軌道を、総ての生物と無生物が滑らかに遅滞なく移動する。

「点々」とはジジェク風にいうならば「シミ」=予感/傷で、
そうした死に近似する動勢(形容矛盾だが)が詩篇を推進させる。
夏ののちの秋に主体はもうない、と予感されていないか。
「シミ」は軌道上の移動をたんに強制するだけで
そこにドット模様のような可愛さはない。
ランチュウの体色が乱反射して、しかもそれが少女像と混ざり、「点々」化する、
そういう自己と他者の理不尽な混ざりこそが「死」であって、
このランチュウと少女の対比が、みている自己とみられる自己の対比とも相似をなし、
だから詩篇がドッペルゲンガー的な「死」を超えているともいえる。
とはいえ第一聯・第三聯に滲んできた植物もまた死のいきれを発し、
そうしたもろもろが統合されてタイトル「くうき」がただよっている。
なんということだろう。

4034 : 小品(抜け落ちているもの)  破片 ('09/12/22 22:59:33)
可能態としての海、が描かれているのだろうとおもう。
叙述の具体性と抽象性が根がらみに一体化し、ある不透明な解読不能性を差し出す。
こういう書法は、僕などは
モーリス・ブランショの書法で見慣れていたという記憶があるが、
撞着語法が清潔に排除されている点がよい、とおもう。
その「海」と「ひとかげ」の空間配置が何重にも煙に巻かれていて、
詩の可読性はそこに賭けられている。以下の一節はどうか。

 ひとかげに、質量はなく、それは影なのだから当然なのかもしれないが、とにかく存在していると認識させる要素が希薄で、しかし目か首を右に回せば、ずっと見えている。視認できるということ、最大の認識をおぼえているにも拘わらず、その影は見えているのに、見えなくなりそうで、瞬きを意識するのだがそのひとかげは嘲笑っている。
「、実体がない。、たとえば筆をとることもない。、お前に見えているのか」

語源的に「かげ」とはまず光であり、次にいまでいう影へと意味転化が起こった。
よって「ひとかげ」とは「人光」なのだったか「人影」なのだったかが
この一節ににわかに心もとなくなる。どっちなのだろうか。
ただ、「実体がない」ものの強迫は、順番でいうと本当はまずひとに「筆をとらせ」、
その次にその者を失語へと追い込むはずで、
そういうことが「半分」だけ書かれることによって
詩篇が奥行というか不透明な魅惑を湛えていると個人的には感じた。

この詩を契機に現在の「文学極道」総体につき考えていることに触れておこう。
散文形の詩篇の割合がどんどん増加している(これは現代詩壇の傾向と同じ)。
散文形にあっても一文一文の集積という構造は当然あるのだが、
行分け詩における「一行の責任」といったものが稀薄になる。
責任を負わない表現の蔓延が、散文形詩篇の流行と関わりがあるのではないか。
この破片さんの詩篇は「責任の負わなさ」を決定不能性にたくみに接続しているとおもう。
だから形容矛盾的だが、「読める」。

4048 : A DAY IN THE LIFE。―─だれよりも美しい花であったプイグに捧ぐ。  田中宏輔 ('09/12/28 01:08:32 *4)
僕はmixi日記をつうじて宏輔さんの日常はこの数年分知っているので、
彼のセルフ注記なしでもこの詩篇の状況が二年ほど前のものだった点はわかる。
ともあれこのような労働疎外から脱出できた彼を寿ぐばかりだ。
この詩篇のすごさは、自分の運気がいちばん弱ったときに
他人のやさしさにたいし無頓着だった自分の傲慢を
追い討ちをかけるように列挙してゆく、その自己穿孔の「崇高さ」だろうとおもう。
通常なら襟を正す場所に詩篇を遠ざけてそれで終わろうとも読者はするだろう。
ところが結局はこの詩篇に「つかまれて」、読者までが慙愧の涙を流すことになってしまう。
なぜか。それがたぶん宏輔詩法のひとつ「●詩」のリズムの魔力なのではないかとおもう。
同調性レベルで、異様な吸引力があるのだ。
詩篇はラスト、とんでもない爆発を演じる。
(たぶん虚実とりまぜての)伝言メモの内容列挙となって、
ひとののこす言葉が、対象あってものだったのに、その対象が弱まって「自体化」し、
結果、言葉の領域だけの内在的反響性をもちはじめ、
この言葉と人間の関係が、もう「猛烈に」、読み手を泣かせ始めるのだった。
言葉の属性のこういう機微に気づけるところが、またも繰り返すが田中宏輔の天才だろう。
浅学な僕は、こういう文に一回だけ接したことがある。
それがマラソンランナー円谷幸吉の遺書だった。まずはこっちを引用――
《父上さま母上さま三日とろろ、おいしゅうございました。干し柿、もちもおいしゅうございました。/父上さま母上さま幸吉はもうすっかりつかれ切ってしまって走れません。なにとぞお許しください。/気がやすまることなく、ごくろうご心配をおかけいたし、申し訳ございません。幸吉は父上 母上のそばで暮しとうございました。》
次に宏輔詩篇のラストの爆発部分を引用(方向性は逆だが、似ているはずだ)――
《●あっちゃん●少しですが食べてね●バナナ置いてくからね●これ食べてモリモリ元気になってね●あつすけがしんどいと●おれもしんどいよ●二人は一心同体だからね●愛しています●なしを●冷蔵庫に入れておいたよ●大好きだよ●お疲れさま●よもぎまんじゅうです●少しですが食べてくだされ●早く抱きしめたいおれです●いつも遅くにごめんね●ごめりんこ●お疲れさま●朝はありがとう●キスの目覚めは最高だよ●愛してるよ●きのうは楽しかったよ●いっぱいそばにいれて幸せだったよ●ゆっくりね●きょうは早めにクスリのんでね●大事なあつすけ●愛しいよ●昨日は会えなくてごめんね●さびしかったんだね● 愛は届いているからね●カゼひどくならないように●ハダカにはしないからね●安心してね》
涙。

4041 : 私家版・死者の書  右肩 ('09/12/23 20:35:33)
第一聯において、主体は唐突に事故死する。
それでコクトーのいう「天使」の資格を得る。
以下は離人的な位置に立って、主体が「再生」を獲得するための冒険譚が描かれるが、
小さな鳥人となった、臨死体験中の主体がコーヒーカップの縁に座り、
そのまま女に飲まれることで女の受胎を導く(あるいは受胎告知をする媒質になる)、
というくだりがものすごくよかった。
――というふうな評言を連ねると、
ここで取り扱っているものが物語詩と誤解される危惧があるが実際はそうではない。
「人間」が誕生(再生)するときにどのように世界が巻き込まれ、
その「人間」が世界とどのように区分不能かを詩篇は奥行のある修辞で語っていて、
だから「私家版」と銘打たれていても、チベットの「死者の書」や
折口信夫の「死者の書」との並行性を分泌しだすのだとおもう。
たとえば以下の聯に連なっている言葉のすごさとは何だろう。

 部屋の窓から、青紫の山なみや蛇行する川のきらめきが見える。地形の起伏に沿って緩く波打つ麦畑。麦秋。正確に発声されるソプラノの旋律のような、麦の色。所々の立木がひらひらと新緑を翻している。近景は窓枠で唐突に切断されているが、こちらへ向かう径をゆっくり歩いてくるいくつかの微小な影も見える。あれが人間である。これから誕生する何かによって、大きく揺さぶられる群体のかわいそうな一隅だ。あれらもやがて赤い雲へと流れ込むべきものの一部だ。

「あれが人間である」。この「人間」はものすごく研ぎ澄まされた概念だとおもう。
実体性を超えているのだ。
フーコー『言葉と物』のラストで消滅を語られる「人間」とも
正対比しているのではないか。

4025 : 池で  荒木時彦 ('09/12/16 00:34:45)
論証のため全文を便宜的に引く。

いつまでも
封印しておきたい記憶がある

カワセミの着水を
捕える眼

靴底の泥をはらう

一読、俳句の英訳を再度日本語に変換した詩篇のように錯視されるが、
そうだとすれば句は二句ある。
「眼」が湖などの水面(秋日そのものが青眼のように晴れ渡って
それをさらに湖面が映している)、
「靴底」がカワセミの芒星形の肢を下からみた際の修辞だとして、
その眼とその足裏が触れ合う、「時間の一致」の微小にして無限の感触を
詩篇は最も簡潔な語法で提示しているのではないか。
第二聯、第三聯のふたつを
倒置法で第一聯が《いつまでも/封印しておきたい記憶がある》と心情総括する。
なぜか。上述「一致」と、「封印」は接触−瞬時の閉じ、という点で運動論的に同じで、
記憶機能はそのアナロジーにこそ同調しようとして自らを封印しようとするのだ。
それで「真に憶えておくべきことは記憶野に再浮上させない」という戒律が生まれる。
美しい。第一聯は必要なさそうで、絶対に不可欠な導入だろう(それも転倒的な)。
荒木短詩の精髄をここに見た。
むろん西脇とも安西冬衛とも次元がちがう個性だ。しかも普遍的な個性だ。

4043 : 星かごのなかで  ひろかわ文緒 ('09/12/25 00:08:49)
美しい詩篇だ。冬の時間の推移によって切られた部分が連結され、
茫洋とした全体像が、喪失感と希望の遠望のなかに広がってゆく。
部分連結という全体組成のなかに、すでに「星座」がひそんでいる。
世界は刻々と失われるから、冬草を「わたし」は刈る。
刈ってもそれらが蒐集物とならないから刈る。
途中に現れる「三毛猫」のやらわかい異物性も何とも魅力的だが、
人間と次元を異にすることで人間に定位される星こそが
出番が限られているだけにかえって素晴らしい。
そういえば、ベンヤミン『パサージュ論』第二巻「ボードレールのパリ」に
《人間の顔は星の輝きを反射するために作られているという箇所は、オヴィディウスのどこにあるのか》
という不安定さゆえに美しい疑問文があって、そんな感じだ。
ひろかわ詩篇でそれに拮抗する詩句を以下にふたつ引いておく。

やがて立ちなおり路をかえりながら
数えたあとの汚れたゆびのまま
伸ばしかけの髪を摘む
ぽろぽろと
星の抜け殻がすべり落ちる

 (A swing boat)
星のはじまりもおわりもまだ覚束ないまま、誤った腕をすり抜けてばかりいる

ひろかわ詩篇では、髪が星の反射場所(集中の場所)だ。
そして星は「発端と終末の区分不能」を意味する。だから愛の遠点なのだ。
わたしたちの愛はそういった星を意識することで
その誤謬をうつくしさにつくりかえる。
むろんわたしたちが星だというのも誤謬で、この誤謬は誤謬ゆえにうべなわれる。
そう、わたしたちは「星かご」にとらわれているが、これを「愛の籠」といってもいい。
むろん「籠」には「過誤」がひそんでいる。

4019 : CHANT OF THE EVER CIRCLING SKELETAL FAMILY。   田中宏輔 ('09/12/11 22:22:16 *14)
ほとんど詩集一冊がアップされている(笑)。
後半は懐かしや、僕が二年前のmixiで親炙した
宏輔「卵」詩の惜しげもない全面転載。
こういうアップを「蕩尽」というのなら、田中宏輔がそれを厭わない理由は何かと考える。
たぶん詩作の無限量産性の自覚が彼にあって、
その無限量産のために無限蕩尽が前提されるのだろう。
それが何気ない振舞なのか、厳しすぎる自己励起なのかは吟味される必要があるが。
さて「卵詩」が「点詩」に加わる理由は形状的な類似からだろうが、
ここでは焦点を絞るため、「卵詩」は措く。「点詩」のほうのみ俎上にのせる。
「点詩」の構成は、不眠をかこつ王妃があるとき「点」を懐胎し
その「点」が出産されるまでの寓意物語詩としてまず生起する。
そして「点」の数学的記述が連鎖したのち、
「点」の転移という問題が生じ、額に点のあるすべての者を
王が皆殺しにする恐怖譚が、寓意物語詩の第二段階として起動してゆく。
むろんイエス誕生を意識したヘロデ王の虐殺の聖書記載が二重写しになっている。
「点」は運命の指示であり徴であって、ものみな(ひとみな)が等しくもつ。
「点」は星で、星をもつ者が人類全般だとすれば
王のこの皆殺しは人類の全否定なのだということ。
むろん「点」は数学的には無面積な抽象であって、それ自体は操作概念にすぎない。
そのままではのっぺらぼうの空間は、点によってこそ空間内を座標化されるが
(それは線よりも面よりも先験的だ)、
点の布置自体の任意性を考えたとき、
点を媒介に今度は空間のほうが把握にたいし無限変貌を遂げてゆく。
しかも把握そのものにこそ認知の支配構造が起動するから、
点とは認識の業病みたいなものなのだ。
点点点・・・と空間に点を置いてゆくと「規則」「リズム」「規則外」「かわいさ」など
多様なものが生じてゆくとすれば、点は同時に無にしるしづけられた劫初であって、
世界の無限大は点の極小(無)と釣り合うことにもなる。
認識それ自体の恐怖はこの点からこそ感じられなければならない。

さて
ここで
「あらゆる」という言葉が禁句であったことに思いを馳せよう。
「あらゆる」という時点で、(時と点で)
その書かれた文章は
メタ化された次元で無効となる恐れがあるからである。
間違い。
メタ化された次元から見ると無効となる恐れがあるからである。
(ほんとかな? 笑。)
上に書かれた文章には、穴が、ポコポコと、あいている。
それも、みな点だけれど。
点には大きさがないということは
いくらあいてても
あいてないのか?
笑けるわ。
ぼくは
笑わないけど。
点は、存在し、かつ、存在しないものである。

上記部分は僕の乏しい数学的知見からいうと、
例の「ゲーデル問題」への言及を含んでいる。
論理閉鎖系はその系内部の論理適合性が磐石であることで
逆にその外部系から突き崩される。
一系の無矛盾は他系では矛盾(不成立)の証明にすぎない、とでもいったもので、
しかも点には内部がないから外部もない、という点がミソだろう。
人は点を考える習癖をもちながら、
点とは結局は思考不能性の極「点」でもあるということ。
それでこの詩篇にも、ヴィトゲンシュタインのように、
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という命題が用意されることになる。
だがその言葉は宏輔的な詩の言葉で書かれ、そこが
寓意物語の「可愛さ」とは別次元で、この詩篇の結晶的な美しさを証しだてている。
しかもそれが不安定な構文によっている点が見事なのだった。以下――

点と虚無。

それはイメージにしかすぎない。
それに相当する現実の実体は存在しない。

しないのか?

脳髄は存在しないものを考えることができる。

ほんとうに?

脳髄は存在するものを考えることができる。

ほんとうに?

存在しないものは考えてはならないのに、考えうる。
脳は思考において「点」を含みうる。その脳は点の集合体、つまり無の集合体ではないか。
この脳髄の無限性はまず田中宏輔のものだが、同時にそれも人間の所与にすぎない。
――さて以上は「点詩」部分に引いた理解のための補助線にすぎず、
選評の要請をみたしていないかもしれないが、
僕自身がここで無限大の記述をするわけにもゆかず、
とりあえずはここで論評めいたものを中断しておく。

4007 : かもめ  はかいし ('09/12/08 18:56:26)
男、女、水といった三題噺で詩篇をつくるなら
通常の想像力では野坂昭如・長谷川きよしで知られる「黒の舟唄」になってしまうだろう。
このはかいしさんの詩篇は、それを奇蹟的にまぬがれ、
海を媒介に男・女が対置されて、その対置ごとに両性のせつなさがいよいよ響いてくる。
女の包容力、種族的連続性にたいし、男の精力、単独性、孤独。
部分的にみたことのない詩想にまで広がってゆく感触があるが、
ひらがな書きにより抽象概念がすべて廃そうとした書法の選択によってこそ
この美点が導かれたとおもう
(唯一の漢音、「四分休符」のひらがな化も詩篇に楔を打ち込んですごく効果的だ)。
全体に、詩句のやさしさと書き手の心情のやさしさが相即している。

ひとりきりですごした
しおみずのかおりが
おとこたちをかたむけて
おんなたちにそそがれていく
〔・・・〕
やがてかもめのなきごえがきこえ
おんなたちはおりかさなって
うみにはいりこむかわのながれになり
としおいたおとこたちが
かさをふたたびひろげ

4017 : 金曜日のフライデー  りす ('09/12/10 23:38:06)
疎外されている心身の状態が2パートで描かれていて(「遠くで水を使う音」「フライデー」)、
このABメロ形式が意味のロンドを起こしつつ不安を高める。
しかも語法自体は暗喩がつかわれていても平明に「開いて」いて、深刻味が消えている。
いつもどおりの手練の詩法で、今回も堪能した。
いちばん「狂っている」のが「フライデー」と「金曜日」の弁別。
その基準が終始(たぶん作者にも)はっきりせず、
「そう書かれてしまった」だけのことから
詩篇の論理性にはサイケなひずみが出てくる。そこには恐怖感覚があっても美味なのだ。
「ロビンソン・クルーソー」の下味が効いている。

フライデー
金曜日の絶壁に立つ野蛮人
孤島に時間は溢れ
過剰な時間はロビンソンが喰う
喰いきれない時間が
フライデーを追いつめる

こういう言葉の運びは才能ある者にしか駆使できないが、
それがあっさりクリアされている。認識への脅威なら以下だろう。

この島の海岸では
水でさえも
不純な漂着物にすぎない

感銘しすぎて全篇をおもわず引用してしまいたくなるが(笑)、
最後に飛び切りの美味フレーズを引いてみよう。
そこでは時間・身体・心情のすべてが新発見されている
(「鳩尾」と「愁訴」という語の最高用例だとおもう)。
暗い文脈のはずなのに、新発見が明るいからこそフレーズも心にずっと残ってゆく。

遠くで
水を使う音
近くには
さらさらと病の糸屑が集まる
鳩尾の入口がいつになく涼しい
愁訴が終わった体で
そろそろ何かが始まり
そろそろ何かが終わる

4053 : 指輪  はかいし ('09/12/31 12:47:52)
惜しい、のではないか。イメージの飛躍が第一聯などは素晴らしいのだが、
カリブ海、ビー玉などから
葬列、棺桶、少女、指輪などに間口が広がるにつれて
得たイメージを収斂させようとする努力が
自分(僕自身)のなかで流産しつつあると感じ出した。
指輪を中心に、作品の指示する空間性にうまく了解が結ばないのが一因かもしれない。
一般的には「盛り込みすぎ」といわれるのだろうが、
盛られるものの順序と、選別がまだ足りないと考えたほうが
この作者のためには良いだろう。驚愕を覚えた第一聯を貼っておく。

カリブ海にビー玉が落ちる。ビー玉はひとり静かに笑っている。そんな気がして、その口を固く閉ざしてしまうように摘み、向こうからの潮風に曝している。瑠璃色の影が弾けたみたいに広がっている。葬式を終えた人々の足音がする。波が去っていくのが、とても羨ましい僕は、遠ざかっていく太陽にぎりぎりまで近づこうとして、届かないので力いっぱい投げ飛ばす。やさしく撥ねて、ビー玉のなめらかな光沢が溶け込んでいく。すると、どこからか指輪が流れ着く。僕はその輪の向こう側を覗くと、どこかの国の少女が、僕と同じように指輪の中を覗き込んでいる。

4046 : 山岳地帯(マリーノ超特急)  Canopus(角田寿星) ('09/12/26 22:10:38)
乾いた文体で、地質学的にして象徴的、しかも何かが欠落した地勢がうたわれる。
山上にかつて子供たちの住んだぼろ小屋がある、という指摘ののち
それらが防寒具を争ったのち壊滅したと語られるが
それで隠喩的に何かが解決されるわけではない。
特急列車の幻が出てきて、サハリンのラム酒とそれが結ばれるが
それで対象となっている場所の説明が着地するわけでもない。
ただし「北の逼塞」が出て、「南へ」という方向指示が詩篇全体をかすめはじめる。
エリセの傑作映画『エル・スール』のことをすこしおもった。
風がすべてを浸食し、傷跡をのこすこの世界がとりあえず定着されて
「ここではないどこかanywhere out of this world」への希求が確かなものとなる。
いうまでもなくこの希求はボードレール『巴里の憂鬱』のラストを飾ったものだが、
してみると描かれているこの無名の場所(=山岳地帯)を
巴里の光景と捉えてもいいのかもしれない。
つまりこの詩篇は局所的なものではなく、
コスモポリタンにとっての風景を歌ったものではないか、ということだ。

4044 : ドップラー  ゼッケン ('09/12/25 20:35:02)
二人称主語構文を連打する表現にはまだ汲み尽くされていない可能性がある。
「あなたは○○する・・・あなたは××する」という文の連鎖は、
一見、命令法の構えをもちながら宙吊られる中間体としてとどまり、
「あなた」はあなたを主役にした幻の映画台本のト書を
他人事のようにみつめさせられるがままになる。
この場合、二人称から属性を奪う措置が必須要件となる。
そういう達成を唯一しるしたのがデュラス『死の病い』で、
ボブ・ディランの「ミスター・ジョーンズ」ならば、
具体性から二人称を「追い込む」運動がもっと明示的に生起していた。
幼稚園送迎バスの運転手。乗せているのは金満家子息の園児たち。
一方で家庭の不幸。(貧しい)自分の子供の不幸。
ここにあるのは、黒澤明『天国の地獄』的な二元論にすぎないが、
やがてそのバスが園児たちを乗せて暴走しだす(黒澤明的『暴走機関車』)。
それでもまだ小説的結構がつづいている。
だがやがて園児の吐瀉などの描写で撞着語法がついに混ざりはじめて
書かれたものは、詩篇の様相を帯びだした、と僕は掴んだ。
そういう点に作者の意欲は感じられる。ただ僕は同時に退屈も感じた。
なのであえて引用はおこなわない。

4006 : 心境変化  がれき ('09/12/08 00:54:22)
事実列挙を叩きつけながら、時空が過激に飛躍してゆく。
そのなかで反転がくるくる渦巻いているというのは
自註性のつよい一文が定期的に挿入されてゆくからで、
これが選択された文体なのか書き癖なのかよくわからない。
異郷性のつよい脱色・無名化されたイメージの、パーツごとの連鎖はそれ自体魅惑的で、
作者の「想像」はそういう場所を遍歴しながら、
「野晒し」になりうる自分と、そうでなく自分の「差異」こそを
分岐的に、複雑に分泌していっているような気になる
(難しい詩篇なので正しい読みではないかもしれないが――
とくにタイトルの真意は二度読んでもつかめなかった)。
そうそう、異郷という言葉をつかったのは、
芭蕉を嚆矢とする俳諧性の「野晒し」とはちがう詩境が実現されているとおもったからだ。
好きな一節を抜いておく。

次に私は、この国で最もうろんな断崖をはなれ、都市へと帰ってきた。そこに待っていたのは、ある友人からの手紙だった。〈わたしは投獄されて檻のなかにいる。わたしはサーカスの野獣ではない。まず弁護士との面会をした。そこで凶悪な表情になった。それから家族に嫌気がさした。君にも飽き飽きしている〉。思い出されたのは、あるビジョンを伴う記憶だ。タバコの煙に沈殿する教会のステンドグラス、それを黄褐色に塗り替える!ルネッサンスの職人たちのある雄々しい情熱をもって、私たちは二時間以上も煙突崇拝のタバコを吸い続けた。

4035 : 珊瑚礁ヶ額  プリーター ('09/12/23 01:16:40)
超絶的な短詩だが、「ありうる」とおもう。
「発症」して「気化」するのか、
「発症」そのものが「気化」のかたちをとっているのか、
「発症」という事態が「気化」して消滅したのかは
そのときの読み手の心情によってこそ分岐するとおもう。
この意味では言葉の最小限連鎖はリトマス試験紙のようなものだ、という
読者を挑発する作者の知見がここに底流していると考えた。
ただ僕は「発症」になぜか「発疹」のイメージを感じた。
その気味悪い発症者の皮膚斑が空中に飛散し、
飛散の主体だった発症者がむしろ消えてゆく、というような。そうして空中が病む。
モダニズム短詩のような作例だが、しかしそうではないのかもしれない。
最小の二単位で意味を形成するのなら映画でいうクレショフ効果のような構造的発想だ。
「食べ物の画」→「紳士の顔アップ」=「紳士は空腹」
「美女の姿態」→「紳士の顔アップ」=「紳士の欲情」、というあれだ。
ところがそういうモダニズム的「構造化」をこの詩篇は逃れている。
つまり意味は「形成」ではなく「分岐」のほうにこそ力点が置かれているのだった。

4030 : T/ERROR TWILIGHT  藤本T ('09/12/19 02:26:39)
象徴性を高めることで曖昧化した修辞。部分的にハッとするところがあるのだが、
「イモリ」「魚」といった別の象徴系の語群が混在するにおよび
全体印象が拡散してゆくとおもった。
惜しい。最初の「*」のところで終わっていれば評価はあがっただろう。
そこまでをまず引いてみる。

わたしたちの体腔
は既に閉じられた花弁
から残馨を発し、軋んだ
屋根のうえへと
生き急ぐ者もあった。

切迫した片足がなお、吼えているのだ。
   
  (イマダ 
   アケル、 
   コトハナク

仮定された 
眩くもある錯乱、の
後塵で歌っていた
昨日までの発火者 は
もういない。
 

「身体」が歌われている。「身体」は空洞で(よって「体腔」の語が出てくる)、
しかし身体の全体が花弁状に閉じているというのはロマンチックな身体観だ。
このロマン主義を詩篇自体が許さない。
「屋根のうえへと/生き急ぐ者もあった」という提示はそういう文脈から出てくる。
投身自殺が歌われているようで、身体の孤独の上位化だけが目論まれているともおもった。
「後塵で歌っていた」という修辞の危うさは、
「後塵を拝する」という成句中の「後塵」が単純な場所の修辞に移管されて起こる。
そこで「昨日までの発火者 は/もういない。」という否定断言がくる。
身体の自足にもう満足できないとして、ではここで何が起こったのか。
とうぜん詩篇中に明言はない。ないが、字下げされた
(イマダ/アケル、/コトハナク)にヒントがあるのかもしれない。
身体は開陳されず、逼塞に導かれた、ということ以上に、この行並びが不安定で
(「今だ」/「未だ」の二重性は三行目「コトハナク」が出現するまで解決されず、
むしろ二行目は「開ける」の肯定宣言に一旦は傾く――
同時に「アケル」のカタカナ書きは「開ける」以外に
「明ける」「空ける」など同音語のゆれまでも呼び込んでくる)、
この括弧内にカタカナ書きされた「内容」そのものが
詩篇全体を覆う「身体論」なのではないだろうか。
語句が括弧に包まれているというのも、身体の内包性にひとしい。
ともあれ身体の規定不能性、未然性に詩篇全体が焦燥している――そう読んだのだ。
そしてそう読むと、*以降の詩行の流れが僕にはつかめなくなってしまったのだった。

4018 : 遺影  ゼッケン ('09/12/11 19:08:22)
この詩は面白い。みのもんた司会「クイズ・ミリオネイア」の細部が
文明批評的な悪意によってゆがめられ、
しかも回答者に、一年前に失踪した自分の姉が出てきて、
主人公はカップラーメンを噴き出しながら、自分の家族に連絡をつける。
そうすると、空間的理路が続々壊れてゆく惨劇がさらに結果されてゆく。
こういう詩篇はありうる。僕などはとても真似できないけど

4024 : 荷札の顔  鈴屋 ('09/12/15 22:59:58)
他者性に終始する領域の「女」を、その空間を、
他者性に領された厳密な修辞で描いてゆく。
このことでかえって、愛着が(読み手に)湧き出る見事な逆転。
詩的修辞の綿密さがここに結実している。どの部分を引いてもいいのだがやはり冒頭――

電柱がかたむいていて
煙りもかたむいてのぼる田舎の町で
女が荷札の顔して
ひとりくらしてた 
路地には蜆の殻がしいてあって
木のサンダルがばちばち鳴った
晴れた日には
顔がかわいてめくれるから
頬に両手をあててた

4008 : 窓をあければ  鈴屋 ('09/12/08 22:13:44)
修辞の厳格さは、その前の「荷札の顔」のようにはないが、やはり心を打たれた。
ただし全体構成は甘くなっている。
現在は初老と呼ばれる世代の「my back page」だとおもうが、
自己粉飾する言葉がどこにも見当たらず、それが往年世界の慎ましい空気そのものも伝え、
結果、詩的時空がいまはなきものとして痛切に広がってくる。
昭和20年代そのものの人体と人心と空間のありようを伝える第二聯がとくに良い。

ふたたび日は昇り、日は落ち
タールまみれの群衆が湧きだし
行列し、行進し、ひしめきあい
海にこぼれる者も汽車に轢かれる者もいた

鈴屋さんの場合、次に来るべきなのは暴力性も介在させた省略だろう。
私を主語にしてその主語を消す。それで動詞が行末に林立して
詩篇がもっと歩行的に動き出すようになるはずだ。
恰好の規範がある。西中行久。彼の語法の厳しさが学ばれるべきではないか。
とくに『街・魚景色』(思潮社刊)という詩集をお薦めしておく。

4022 : ここから始まっていく  ナツイロ ('09/12/14 00:39:09)
「女の子の詩」が偽装されているのだろうか、
あるいはベタに「まんま」なのだろうか?
最初、愛着を注がれている対象の正体が判明しない点がサスペンスフルだが、
「たぶん犬だろう」と予想していると案の定、予想どおりの結果になる。
そこでサスペンスが消滅するかとおもうと、
「ケンタロウ」の死、という新事実が舞い込んできて
サスペンスは別方向へとさらに接続されてゆく。
その妙味を賞玩してほしい、という詩篇なのだろうが長すぎる、とおもう。
この詩篇では主体の心情が
対象の死が前提されずに語られた(事後的に意味判明する)箇所のほうが
むしろ清潔で胸に迫る。たとえば――

明日にはもうなにもかも忘れてしまっている
身分も名前も学校までの道のりもなにもかも
目覚まし時計が鳴らなくても自然に起きられる
朝ごはんの目玉焼きの味をまた始めから覚え直すことができる

そういえばケンタロウの死が事実となって、次のくだりが
ものすごいことを語っていたともわかる。

矢印の方向がめちゃくちゃだ
庭に作った即席の穴の中に
おかしいね
自分で作った穴のはずなのに
わたしがすっぽり納まる
ちょうどいい

愛玩物の墓に自ら入ること。そのサイズが自らにフィットしてしまうこと。
このことを「矢印の方向がめちゃくちゃだ」と考えること。
これらすべての奥に、深甚な哀しみが伏在している。

4005 : 帰れる土地で  荒木時彦 ('09/12/08 00:46:14)
第四聯がどうしても不要だとおもう。第三聯までは
世界表面のやさしさを撫でながら時空が飛躍し、「農夫」にも実在性がある。
考えてみれば晴雨のゆっくりとしたリズミカルな交代こそが
「永劫回帰」の恩寵で、万物もまたこの点にこそ照応している。
こういう認識が裏側にあって第四聯、
「形而上」→「形而下」の発語衝動も生じたのだろうが、
用語はたしかにナマすぎた。
冒頭、無媒介に「しかし」の逆説接続詞ではじまるのは新規にみえるが、
実は椎名林檎などはその歌詞で多用している。この「しかし」も要らないとおもう。

4055 : (無題)  マキヤマ ('09/12/31 15:46:16)
語をあいまいにし、植物性の語彙に時間を接続、
「未生」と「決定性」のあわいで発語を組織しようとして
詩篇が透明にのたうっているようにみえる。
こういう詩篇の場合、不透明が昂じれば詩格もあがるように錯覚されるが
何か運命のように出現してしまった決定性が
どこかにないと、とりつく島がないともいえる。
ただ作者が「循環」を描こうと悪戦しているのもたしかだろう。
ひとつの詩行が他の詩行への干渉を弱める(連句的な跨りがある)ことで
「みえないもの」を浮上させようとするこの手つきは記憶されていいかもしれない。
《こうのとりに/運ばれるよりも先に/明かされていたことも/その明るさのかなた/流産した声や/綴られなかった/文字も/ここに語られる/生い立ちのかなたに/活けられては/そこここで/静かだったのも/笑うということ/句読点を打っては/駆けてゆく/馬の顔が/忘れられなかったこと/暦もまだ/古く/絶え間ない/しゃべり声に/満ちていたころ》

4032 : 英国式紅茶  はなび ('09/12/22 13:55:41)
作者の「好きなもの」(キッチュもふくむ)がロマンチックに列挙されたうえで、
幻想譚の全体性が負わされている。
前半の直喩連打のように、自己愛的でなおかつ幼い語法が確信犯的にもちいられ、
そのなかで「ですます」調と「である」調の混用も目論まれているとおもう。
語法や描写世界の「破れ」に同調してくださいという目配せがあるが、
その分だけ、作品世界が好事家向きに閉じてしまったのではないか。
この詩篇を美学的というひとは多いとはおもうが、
それだけで現在の詩が成立するわけでもないだろう。
ただし僕が感知しない引用出展があるのかもしれない。
映像的な印象としては、僕は初期のケネス・アンガーを感じた。

4033 : (無題)  小禽 ('09/12/22 21:06:18 *1)
夕闇迫る川の叙景にたいし
リズムよく父娘の対話が刻まれて、抒情味たっぷりの作品。
好きなひとはいるだろう。ただ「スレた」僕には素朴にすぎる気がする。
唯一、詩的思考の可能性となる語が「はしご」だったのではないか。
ただそれは詩篇中、娘の幼い年齢という加護を受けてスルーされてしまっている。

4013 : 男が自分の性欲について考えるとき  snowworks ('09/12/09 23:58:54)
笑った、とんでもなく奇異な語彙が出てくる点もふくめて。
ユーモアと余裕がある。
欲望は対象そのものを実はもとめない、むしろ対象までの過程か、
対象獲得の失敗のほうを実際にはもとめている、というのは
ラカン派が完成した欲望理論だとおもうが、
詩篇はその知見とも高度に通じている。
それと題名のセンス。誰もが「男が女を愛するとき」という
著名なソウル・バラードからの転位を類想するとおもう。

4051 : 小品2(人の一人であること)  破片 ('09/12/30 12:37:19)
小説的散文として遇するべきだろうとおもう。
夜の公園の描写、そこで浮遊する光源をみて、煙草に火をつけた主体に何かが作用する。
その錯覚の中心に、以下の文がある。構文が乱れていて、その乱れだけが
書かれたものを詩と指標する。

 すると、炎は、血管の一本一本に、しみていき、心臓が温度を力にして、俺はただ、錯覚をした、半身から、全身へと交換されると、熱が、持っている、生命と繋がると、それはさっかくなんかでなく、さっかくでしかない。

「他」の領域にある「炎」との一体化。それは希求されるものだろう。
だが読み手はそこにいたる事情や言葉の理路を知りたい。
たぶんこの詩はいくら読み込んでもその欲求に答えない。
作者自身のモチベーションがないからだ。
だから題名も「小品」と名づけられているのだとおもう。

4045 : 紅い花  寒月 ('09/12/26 13:09:01)
形容詞を名詞化するというのは松岡政則さんがものすごく真率な精度でやっている。
それと「せつないです」はたぶんつげ義春のマンガからの引用
(おかっぱ少女の科白)だろう。
それで題名が『紅い花』。
そのふたつの要素によって瞬間的短詩がしつらえられたが、
これは詩的論脈の放棄だとおもう。
詩篇の余白が僕にはすごくだらしなく感じられる。
それとつげのおかっぱ少女はキャロルのアリスと同様に
70年前後の日本での少女論の定番アイテムだった。
ただ異界の入口としての少女にたいしてはもっと複雑な言説、
独身者の欲望の流産めいたものが取り巻いていたはず。

4057 : しあわせについて  はなび ('09/12/31 22:21:17)
結局、「ほんもののおばかさん」といることが「しあわせ」という主張なのだろうか。
乗れない。
優等生の級長の哀しみとか聖歌隊の最年長の少年の哀しみというならわかるし
頭に蜘蛛の巣の張った者の他者的な不気味というのもわかる。
ところがこの詩篇が親愛を装う対象は「ほんもののおばかさん」、
それは詩篇主体の優位性によって担保された「まぼろし」にしかすぎないだろう。
その証拠が第一行めだ。
誰もが知っていることだ、「あたまのよいひと」は好きでも嫌いでもある。
つまり頭脳の明晰さは真の個別性などとは関係がなく、
たしかな親愛の弁別基準にはならないということ。
明晰さの性質のほうが問題なのだ。
そういう真実をスルーしているこの詩篇の立場は
じつは敗者のための逆「優生学」でしかない。怖いものが内在している。
実際は詩篇の主張など相田みつを的なものにたいしてでもないがどうでもよいことだ。
そういうのはいつも僕の「読み取れないもの」にすぎない。
僕は言葉の連続性だけを読む。そしてここにはその連続性が皆無だ。

4040 : 痴的探求欲求不満  けーおん ('09/12/23 15:10:00)
「ナンセンス軽妙詩」というジャンルの詩はたしかにあり、
僕もそれに類したものは書くのだが、
真っ当な書き方をするとこの詩篇は「不真面目さ」によってまったく駄目だとおもう。
「穴の膜」=ヒーメン、という言葉の不真面目(実際はそんなものカモノハシにしかない)
を書いた同じ手から「知的白内障」が出てきている。
僕はじつは緑内障で、それは眼圧の高さから眼底神経叢が阻害され視野欠落を招く。
欠落部分が拡大されると失明が結果される。
これにたいし白内障は眼のレンズが白濁することによっている。
だから「知的白内障」とは認識の濁りにより
世界の真実に触れ得ないことを指すのだろうが、
この用語はたとえば「美的ハンセン氏病」「倫理的エイズ」などの用語にちかい。
病という喩が実際の患者を隔離し、
最低の文学性がそこに再生産される機微に通じてゆくのだ。
そのようなものは詩語といえないし、
詩語なしで詩を書こうとしている現在の先鋭からは用語成立の基準すら疑われるだろう。

4028 : 祈り  凪葉 ('09/12/17 22:54:20)
自己疎外を「意味」として書いてもポエムにしかならない――
この単純な禁則の周囲をこの作者はいつも旋回しつづけているだけにみえる。
言葉を物質化して、論脈をスパークさせ、
そこから再読誘惑性を組織してください、としかこの作者にはいえないです。

4031 : 夜の帳(供法 如月 ('09/12/21 22:32:09)
春への予感を遠く抱える季節に放つ叙景詩という基本理解でいいのだろうが、
とつぜん詩空間に嵌入してくる二人称「あなた」に納得されない。
「ねんねこよ」のくだりなどには曖昧さと無残さの双方も感じてしまう。
「骨」にたいする詩想がよいだけに、夾雑物が多すぎるという感想もぬぐいきれない。
その「骨」の部分を二箇所、抜いておこう。

いつまでも終わらない
道路工事の
鳴りやまない金属音が
私たちの
美しい骨格

私たち
輪郭のない命を燃やして
いつかの夜に
こぼれ落ちる美しい骨

語連絡を圧縮して怖くなる詩があると知るべきかもしれない。
掲出した部分にはそういう詩の可能性の萌芽がすこしある。

4049 : ひょっとこ  がれき ('09/12/29 14:21:31)
「ひょっとこ」の語が隠喩ではなく何かの冗談だという第一印象が終始つづいてしまった。
修辞的に甘い部分が頻出していて、それでそうなったのだとおもう。
故意に不全であることと推敲の余地が無限にあることとはちがう。
たとえば「地方都市」という曖昧な言い方がなぜ具体的地名に置き換わらないのか。
「地方都市」とは地方をリアルに認識しないものの言い方だ。
個別性を尊重しないのだから。
そういう引っかかりがあって「ひょっとこ」の印象も悪くなってしまう。

4056 : (無題)  大塚龍平 ('09/12/31 18:18:00)
ロック(パンク)歌詞的なものを目論んだのだろうが機能していない。
歌詞、朗読用の詩、紙に印刷される詩、それぞれの権能はちがう。
そこにさらにパソコン画面上のネット詩を定位しようという「文学極道」の流れのなかで
この作者の無自覚な振舞には憤りを感じる。

4047 : 昨晩から迷子  snowworks ('09/12/26 23:57:38 *1)
これみよがしな書き方だとおもう。「内容」を感じられない。
むろん「みんなで行った焼肉」の聯に語ろうとするもの(動機)がみえるのだが、
「マッコリ」を飲みすぎ
仲間とはぐれ迷子になってしまった「夜道」の「二人」に
「暗闇を隠しあう」という事態が訪れたとして
この寸止め的な修辞の裏側に、性愛的交渉があったのか否かを詮索する気が起こらない。
最終的に煙草と二日酔いの気分が漂うだけで、主題がつまらないのだ。
「焼肉」の語の散文性が、とても悪く響いているとおもう。

4042 : こがらし  なぎや ('09/12/24 21:43:07)
さまざまな分野の言葉が一同に会され、その衝突から異世界がつくられようとしているが
たぶん書き手のその確信が読み手に承認されないでいる。
詩篇そのものに不幸さを感じてしまう。というかこれは詩篇ではない。
モチベーションと言葉がからまらないと、詩は成立しない、ということだろう。

4038 : 拝啓、灰のひよこ。  しりかげる ('09/12/23 04:43:45)
自己の不幸意識がその者を不幸にとどめるというのはループ構造の構文で、
このループを詩の文法に活用しようとするのがこの詩篇のモチベーションだが、
作者の手つきがこれまた変に確信的で、魅力が感じられなかった。
メビウスの輪は一見、悪無限だが、その「帯の正中線」に鋏を入れてゆくと
輪が二本できるという「希望」がある。この希望は眩暈に似ている。
僕ならそれを書くだろう。

4029 :                          先照 深夜 ('09/12/18 23:21:40)
語調がだらしなさすぎて乗れない。それだけ。詩が誤解されている。

4039 : ルーアハ  かとり ('09/12/23 12:44:58 *1)
身体が部分としてバラバラになった者が
失われた部位を取り返そうと掘削をおこなううち、
その行為が「新興住宅地」として領土化される、というのが詩篇の意味なのだろうか。
まずその着眼そのものに伝達不能性が横たわっている。
同時に、詩篇内の語法も、何かを読者に正確に伝えようとは振舞っていない。

4026 : Time is moneyまたは放蕩息子の歌える  んなこたーない ('09/12/17 17:00:02 *1)
「朝の歌」についてはザ・バンドの曲の幾つかから着想を得ているようだが、
その実現がだらしなさすぎて、ザ・バンドファンとしては情けなさを感じてしまう。
I spend my whole life sleepingのフレーズのあるザ・バンド「スリーピング」、
その歌詞の拙訳のみ下に掲げておこう
(「阿部嘉昭ファンサイト」「未公開原稿など」中「ロック訳詞集」から)。

●「スリーピング」(『ステージ・フライト』より)

われわれの選んだ人生の代わりに
夜にこそ われわれは昇りつめた
一晩中 恋を語らいあって。
何ものにも代え難かった
外界は その中に住むにはヒリヒリしたので

悲哀の老船、朝の日蝕
私は人生すべてを懐疑に費やした
それから私は太陽に背を向け
万民が私を探していると認めた

梟(ふくろう)が鳴き 旭日が昇り
君は外界に繰り出すが
地上のほかのどの場所も行きたい所ではなかった
私たちは この憎悪から離れねばならぬ
遅きに失する前に。
何故われわれは回帰をおこなうのか

枕には蜘蛛の巣が張る
柳が揺れるのも眼にした
私は一生をアダや睡眠に費やした
正午までに呼び出されるということは
実は直ちに来いと命じられたということ
私にとっては、だ。

嵐が通過し ついに平安が戻る
私は一生をアダや睡ることに費やした
いまや物音一つとてない静寂の世界
人っ子ひとり見当たらぬ――どこにも。

牧羊犬のシェパードと羊たちが
君を眠りへ導くだろう
地上のほかのどの場所も行きたい所ではなかった
驚異に満ちた真実の国、
君がそこを通るとき
どうして此世に戻りたいと思うだろう
思わないはずだ

4021 : 太陽の割れる音  WHM ('09/12/12 06:45:24)
雪国の生活細部が書かれているが
そういうものがどういうものか知らない僕には像の結べないところが多々あった。
《暖の元となる薪は、夏の間から少しずつ準備しなければならない》の聯では
冬を準備する夏の情景が書かれているのだが、
ここで詩篇の書法の正体というべきものが判明したとおもう。
つまり冬にたいして一箇所の夏の混入は、作者の不用意さというか
詩的展開の純粋な積み上げをもともと予定していなかったという証拠なのだ。
僕がうまく詩篇のイメージを結べなかったのも、こういう部分と
修辞の不正確さが対になっていたためではないか。放言かもしれないが。

4023 : 暴力とタルタルソース  ヒダ・リテ ('09/12/14 01:04:56)
日常的に流布している口語口調の枠組に
動物名な食べ物名など卑近な語群を暴力的に代入し、論脈を煙に巻く。
瞬間的なイメージの成立と、その破砕。
シュルレアリスティックにはデクパージュというべきなのだろうが、
こうも同じ語法が連打されると「飽きる」。
それでも傑作を書いている、というしたり顔の充実が伝わってきて、
それが体感的に重くもある。趣味の問題に属するが僕はもっと真率な詩のほうが好きだ。
一箇所、いいなあとおもった箇所のみ抜いておく。
《君や君たちが、黄色いベッドの上で恋人や牛の心配をしている頃、夜空の全ての星座が流産したとしても僕らには僕らの愛があり、愛、そのものはアルカリ性の美しい肝臓のごとき輝きを決して失ったりはしないのだ。》

4027 : 夜に願う  如月 ('09/12/17 19:44:36 *1)
平易な言葉・言い回しがつらねられ、「やさしい詩」が書かれようとしている。
その意気は買うのだが、かわりに情感の凡庸さが引き寄せられてしまったのではないか。
歌詞の可聴性にちかいものを感じるのだが、
それが詩性にとっては「不足」になっている、といってもいい。
歌詞としてなら、たとえば以下の言い回しも抜群なのだが・・・
《あなたによく似た人と/あなたとよく似た夜を重ねる》

4002 : 雨  丸山雅史 ('09/12/07 00:07:26 *3)
夜の豪雨の描写と、その後の朝の晴れ。
硬い用語によって詩篇が引き締められようとしているが
言葉は空回りして、空間も時間も開いてゆかない。
「描写の勉強を」というと小説的課題になってしまうのだが・・・

4020 : 成り変わり  古月 ('09/12/11 23:31:09)
和語的詩語と七七リズムなどによる蒼古な装いによって
逆に詩風の沈潜に新風を吹き込もうとした試みは
往年は園田恵子や林あまり「夜桜お七」の歌詞の試みなどにもみられたが、
その手つきの浅はかさはすぐに倦厭の対象になった。
この詩も主題がどうであれ、同じ倦怠を僕は感じてしまう。
そういう風潮の流れのなかに椎名林檎の擬古文歌詞などもあるが、
異物性の盛り込みがその場合だけ奏功していてレベルがちがうようだ。
だがJポップにおいてもこういう着眼はおおむね流産している。
そんな反面教師であるGO!GO!7188の歌詞もこの詩篇に接し、憶いだした。

4015 : 訃報  イモコ ('09/12/10 16:13:38)
明日のお別れ会とは一種の葬儀なのだろう(タイトルからしても)。
ただし修辞に混乱が意図的に導かれようとしている。
もっとも語法はおさなく綻んで、効果がほとんどあがっていない。
「あの人」「あなた」の、詩の主体にたいする位置関係もみえず、
「何もない詩」のように感じられてしまう。
隠喩をつかいこなしているというだけの修辞の厳格さがどこにもないということだ。
「文字列」という言葉に愛着があったのだろうか。
しかし連打されすぎていて胃がもたれるなあ。

4016 : セッションーカタストロフィ  ぷう ('09/12/10 19:08:47)
大仰な言葉がつらねられているが失恋ソング。
あなたの喪失後、あなたの「影」を素材に
あなたの再構成がコンピュータを前にしておこなわれるが、
それが具体的に書記なのか、たとえば作曲なのかは「現在的に」分明ではない。
この点と、喪失が創造の原動力となるという逆転的主題がこの詩篇の命なのだろうが、
情(景)の伝達性が弱いとおもう。客観性がないからだ。

4012 : 海辺の休日  はるらん ('09/12/09 14:13:34 *1)
ときに無理無理の比喩ももちいられるが
総体は日常性の叙景詩にすぎないだろう。
「同級生の石橋」に少しびっくりしたがそれだけ。
詩的モチベーションはどこにあるのだろう。

4014 : 白荊  白い黒髪 ('09/12/10 01:06:32)
荊冠というなら聖書からの引用があるのか、ともおもうが、
実際は聖書世界特有の焔が感じられない。
恋愛生活上の非倫理的な捨て科白が
耳にこびりつくように厭な感じで残るだけだ。

4009 : 工業事典  Anonymous ('09/12/09 00:13:03)
詩語のだらしない列挙と少女性抒情が野合しただけ。
たとえば「水銀の口」といった所有格で結ばれる詩語の意外性を
いまや誰も信じていないのではないか。安直な量産が効くからだ。
となって、「トランプの廊下」と冒頭書かれた時点で詩篇の運命が決まってしまった。
なお選評中の「水銀の口」はディラン「ローランドの悲しい瞳の淑女」から。
この例示も、この作者の詩世界がディラン『ブロンド・オン・ブロンド』を
髣髴させるとおもったためだ。
あ、「アサシン=暗殺者」の語は同題のフランス映画からだろうか。
「ハシッシュ」と語源が同じだということは
70年代後半の文学少年少女には知れ渡っていた。

4011 : 氷嚢  常悟郎 ('09/12/09 05:21:28)
「無頼派」「煩悩」「零落」「子宮」などという言葉がナマでつかわれてしまう
この作者の大時代な用語癖をまったく受け付けない。
その用語と同等に、暗い恋愛情念がこれまた大時代に主題化されただけ。
一箇所、面白いとおもった言葉の運びのみ引いておこう。
《湯垢の吠え猿たちは/温かな骸に泣けばよい》。
詩は詩語とおもわれるものを並べてできるものではない。
まずは論脈が詩をつくる。次に律動がつくる。

4003 : 霧が晴れたら濃霧  ナツイロ ('09/12/07 00:46:34)
第一聯の低劣な類似音韻と不真面目さは、パロディとかジャンクとかいった美学の
はるか低空を飛行している唾棄すべきものだとおもう。
それだけで全体を論評する気になれない。
詩篇の第一行は天がもたらし、第二行以降を知性と注意力がつくるという、
よく知られた格言だけをこの作者には捧げよう。

4004 : ≠understand  高階 ('09/12/07 01:49:27)
「論語」的な構えの問答詩に西洋哲学が接木されているのではと期待したが
腰砕けとなった。
不透明なものこそが可視的である、という揚言は
ある(散文的)レベルでは真実だろうが、詩的水準では虚偽的な言挙げだとおもう。

4010 : 被験者:109号/接見二回目【修正済】  先照 深夜 ('09/12/09 01:06:40)
「混乱」が描きたいのだろうが、語調の自嘲性がまずつらく、
次に*や/を多用する効果を作者当人がどうおもっているかかがつかめない。
選評にあたり熱心な解読をしなかったが、
僕の疲れより先に、書法に問題があるはずだ。

4001 : 僕と電柱と日食と  藻朱 ('09/12/05 20:27:10)
「皆既日食」を話題性にしながらユーモア詩をなそうとした意図は伝わるが精度が低い。
同語反復はたしかに脱力的な笑いを導くこともあるが、
ここでは「もたれ」を覚えてしまう。
天上界の「皆既日食」と「僕」が眼前にする「目玉焼き」の対比も
喩的衝突というにはあまりにも陳腐、「つきすぎ」と俳句短歌では嫌われるものだろう。

3994 : 花氷り  結城森士 ('09/12/01 08:42:29)
古風な言葉運びで叙景詩的にはじまったが、
異世界への案内役として「少女」が出るにおよび、いつの時代の詩篇だろうと疑った。
たしかに詩作をはじめだすと、
多くの者が「抒情詩」「モダニズム詩」「現代詩」と系統発生的な変化を辿ってゆく。
ただ「自分の詩」ができあがったと信じられるまでは習作期間であっていい。
ネット詩は発表までの熟成と注意が皆無、とよく揶揄される。
そういうネット詩にたれこめている暗雲は、投稿者全員が自覚すべきだろうとおもう。

3999 : (無題)  イモコ ('09/12/02 21:37:39)
まずは語尾の「の」「のよ」を受け付けない。
実際に作者は学生で詩も教室内で発想されたのだろうか。
筆箱からはじまる筆記用具に作者特有のフェチも感じるが、
「丸無視」という乱暴な修辞を世代的とうべなっても、
「エンバーミングされた幼い少女みたいな頬」といった気張った修辞に
幼さが透けてみえる点が気づかれているかなあと危惧した。
しかしラストの二個聯には可能性があるかもしれない。ペースト。

柔らかな
今にも拡散しそうなたよりない、かげ

空気みたいにしゅるっとすする
細い糸の群れが舌の上をかけてゆくのびてゆく

4000 : 海夢遊  凪葉 ('09/12/03 12:55:03 *4)
鯨を抱きしめる夢をみての悲哀という機軸だが、
結局は愛着対象を手許に保持していないという例のよっての自己疎外ポエムにすぎない。
この手の詩はいくら量産されてもいつか詩境が成熟すれば
すべて無駄な繰言だったと気づくはずだ。
ポエム的な情感は通用性があるようにみえて実際にはない。
自己慰撫が書記動機になっているものはつねに他者には向かっていないのだ。

3991 : 冬の初めに夏の日を思う  19 ('09/12/01 00:31:13)
回顧されるべき事柄が作者にあり、
そのことが誠実な平叙体で書かれているが、
状況にたいしての作者の感慨は読者には共有されない。
修辞に問題があるのではなく、書かれていることがたんにつまらないためだ。

3992 : 水  丸山雅史 ('09/12/01 02:57:50 *1)
灼熱の砂漠にいる、という状況が具体的体験材料ではなく比喩だったという点は
「カラス」が詩篇内に登場する時点であらわになる。
途端に読み進む気力が萎えてしまう。
そういう陳腐な比喩状況の描出がモチベーションだと理解したとき
書かれている何事にも詩的信頼が置けなくなってしまうということだ。
事実、モチベーションの無理と相即するように語法個々も幼い。

3996 : のびてゆく、  ぷう ('09/12/01 12:53:53)
手の込んだ曖昧語法だが「何もない」のではないか。
スカスカ。詩篇全体が何かの運動になって言葉が動かされているとはおもえない。

3997 : 空色はボクのかたち  常悟郎 ('09/12/01 16:27:11)
上に同じ。

3995 : things are all closed  白い黒髪 ('09/12/01 12:18:01)
閉店の看板が詩篇の主体の進行可能性を拒絶する。
そういう着眼の疎外ポエムかと構えると、
「親が死んだ」という事実提示らしきものが出てくる。
それにしては痛切な心情描写がどこにもない。
よって「親が死んだ」という提示を事実と受け取るべきか否かで
読み手は宙吊りにさせられてしまう。この宙吊りは一言でいえば不快なものに属する。
ラスト、主体が天涯孤独になったという事実補強が加わるようにみえても
不透明なものに接したというこの不快感が変更になることもない。無残。

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ミドリさん発起人に就任

2010-01-23 (土) 22:30 by 文学極道スタッフ

2005年実存大賞、2006年エンターテイメント大賞、最優秀レッサー賞フォータイムチャンピオンである、ミスター文学極道、ミドリさんを発起人としてお迎えしました。
よろしくお願いいたします。

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12月分月間優良作品・次点佳作発表

2009年12月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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