文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2011年9月度選評

2011-10-25 (火) 11:09 by 文学極道スタッフ

2011年9月度選評

(文/編)前田ふむふむ

一条さんやcaseさんがまた「復帰」されて、泉さんも独特の味のある作品を出されています。瀬島さんも以前少し投稿されていましたけれど、面白い方だと思います。皆さん過ごしやすい季節になってきたので筆の方も進むのではないでしょうか。(織田)

泉ムジさん、一条さんが復帰されて、改めて思うのは、書いたものが詩になってしまう人と、いくら書いても詩にならない人との、圧倒的な差についてです。吉本隆明がどこかで、「詩は練習すれば誰でも上手になる」というようなことを言っていましたし、文学極道も鍛錬、切磋琢磨を提唱していますが、努力だけではどうにもならない「何か」が在ることは確かです。これは詩に限らずどのジャンルでもあることですが、この狭い文学極道の中で、そんな感覚を味わうことができるのは、悪くないことだと思います。「何か」に対する憧れや絶望や妬みや焦燥が、次の詩を書く衝動になる、文学極道で詩を書くことは、そんな情緒不安定な自分と、どう付き合っていくのか、そんなことも試される、修練の場になっていると感じます。(りす)

今月は、素材として、魅力的な作品が多かったと思います。
それぞれの素材に対する書き手のもの捉え方の、多様性を
楽しみながら読みました。
ただ、それが、批評に耐えうるテキストではない場合、
作者の雑な推敲によるものである場合が多く、とても、
もったいないと思われるのです。
作者の詩を書く手法も、それぞれであると思いますが、
テクストを一度、あるいは、二度、寝かせて、
あらためて、読みなおしてみることが必要でしょう。
推敲の仕方によって、優良作品に大化けするようなテクストが
いくつかありました。
選外の方も、肩を落とさずに、
今後の健闘を期待しております。(前田ふむふむ)

【優良作品】

14.5563 : 風切羽  yuko ('11/09/28 11:18:56)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110928_317_5563p
評1
職人としての上手さに内面が挟み込まれていて手癖の上手さに挟み込みが追いついていないことを解らせてしまうように思える。
評2
この詩は、改訂版らしいけれど、前作より、内面にむかって、より鋭角に
なっていると思います。
夜の暗い底のほうから、鳥だろうか、羽ばたく音、静かな世界。
いろいろな静物が、その個をかたちづくっている夜。
その中で、
>僕の半身。

>足元が見えない。

>増殖していく、影に境目はなく、一人ではない、二人でもない、細胞の
>かたまり。

>これは僕か、君か、人間のレプリカがふたつ、
>涙を模して並んでいる、窓辺。飛び立つものだけが生きている。

>雪解けを待たずに産まれ、死んでいった、僕。
のように、
夜の中で、個として浮かび上がらない、曖昧な幽霊のような
僕とその身体性。そのあり方が、哀しく響いてくる、ときに、エロスを含んで。
そのような不完全な負を含んだ現代的個性としての個人である、語り手の叫ぶような思いが、
>だれでもいいからはやく!僕たちの名を呼んで?ください!
だろうか。
?は、存在としての幽霊のような半身の僕に、果たして名前などあるのだろうか。
という?に思える。
曖昧な自己と対峙する閉塞感に満ちていると同時に、不思議なほど、
静かな佇まいの中で、語られる多くの言葉と、言葉の比喩の切れ味が鋭く美しい。

思うに、作者は、
萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の中の詩「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」
でいっている幽霊にも例える欠落した身体的な「わたし」(これは、身体で偽装した内面の喩であると思うけれど)の孤独と似たような孤独を
感じており、捉えている角度は違うかもしれないが、
それを、21世紀の現代詩で描きだそうと試みたようにも思える。

67.5496 : PASTICHE。  田中宏輔 ('11/09/01 00:02:03 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_243_5496p
鳥籠と鳥の比喩。
美しい鳥と鳥籠における、哲学的な思弁の世界が
広がっている。
後半に、それを三つの出展元の引用の文章が、
並び、それを参考にして、書き換えたのが、
前半部の、三つの鳥籠と、鳥の詩であることが
わかる。
大がかりで、壮大な詩編として、
読み手に提示されている。言葉の創造とは、
このような高度な思いつきによるものかもしれない。

北川透が、「思いつき」とは、膨大な知識や経験の集積が、あるから
可能であると言い、なんの知識もなければ、なにも「思いつき」もしないと
いって、その先行するものの知識や経験の断片をすくいあげた、
「思いつき」は「発想」のことであり、それは詩を書く上での
重要なファクターであると言っているが、
多分、作者の博学が可能にしたテクストだと言えるだろう。

4.5526 : でたらめ  泉ムジ ('11/09/10 22:46:40 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_571_5526p
評1
久しぶりに読んだけれども特に問題はない位置にある。

評2
よく書けていると思いますが、
>男はポエムを書き終えた。
以降、語り手の視点が、猫のにゃん太郎から、
男に突然、移ってしまう。
その不自然さに違和感がある。
にゃん太郎が、三日三晩眼を離さない、ポエムを書く男とのスリリングな緊張感、
また、男は、にゃん太郎を知らないのであるから、つまり、にゃん太郎は、
「のぞき」をする本来知られてはならない存在が、
自らを詩で描いてほしいという願望が、
切実な滑稽さで、書かれている。それは、
どんなものであれ在るべきものは、心の深部において、
存在を認められたいという、その究極の姿を想像させるのです。

前にもふれたように、最後は、ハピーエンドのような緊張感のない
終わり方をしているので、
最後まで、にゃんたろうの視点で通してほしかった。と・・・

でも、そう読むと当たり前すぎるので、 もう少し、
別の読み方もあるのではないだろうか。と思う。
それは、
猫のにゃん太郎という特殊な視点である。
普段考えない、
男すなわち書き手の反対である書かれる対象者の側面からの見方である。
書き手の対象から除外され、漏れ続けている他者。
常に書き手の認識に上らず、書き手の世界の外部にしか
居られない存在の不毛さを、
人格的比喩により、
>しかしこの男、飯も食わずに眠りもせず、トイレに
立つことさえせずに、朝から晩までもう3日間こんな生活を続けている。
というように、
男同様、いかに、一般の書き手は、それほどしてまでも、
米粒ほどの、主観的なわずかな世界にしか、
描けていないという揶揄のようなものが、アレゴリーとなって、
>窓を開けると、猫が飛びこんできた。
いわゆる、
書き手の対象者のほうから、
書き手に書けと訴えてくるという比喩ならば、
滑稽であり、
そういう意味で、題名が「でたらめ」としたならば、
なにか、読み手として、とても痛快でもある。

40.5544 : (無題)  debaser ('11/09/17 19:44:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_836_5544p
評1
文句なく素晴らしい。珍しく感情を面にしているが、アンチロマンの手法で斜めに見るだけではなく、時代精神の異常を鋭利に描き出している。一条氏の空虚の中心には、サラリーマンの日常からダークエネルギーの充溢まで、絶えず加速することを強いられ続ける実存の怨念がある。

評2
過去の一条様式であり、何も変えていない。何も足さない。何も引かない

評3
比喩、暗喩が、盛りだくさんに積まれたテクストである。
それは、積まれながら、同時に、外にむかって剥がれていくような
イメージを含んでいる。
そこにある残存感は、
現代詩が振り返りながら、躊躇している、
難解という課題を、読者の内部に、無造作に放り込んでいくが、
詩という像として、冷徹に立ち上がっている。
テクストは、
3.11以降の現代の日本の社会事情や人々のあり方を通して、
語り手の心情が、
批判的に語られているようです。

>明後日は体育座りみたいなもんでございます
といっているのは、象徴的で、3.11以降、崩れ去る国家の権威を
喜ばしいものとして揶揄しているようである。

69.5503 : 休日のすごしかた  泉ムジ ('11/09/02 19:33:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110902_278_5503p
評1
食い足りないという見解があるが冗漫病ではないのか。まっとうな作文とはこういうのをいう。端麗清楚、文体も中身も清潔で実に良い。

評2
二連目は、語り手が、世界と多角的に近接して、対峙し、関係性を
切り絵の断片のように、読み手に伝えている。
都会の喧騒、一瞬の静寂、静と動の広がり。それは、音と関連づけている
語彙を含んで、日常の擬音を含んだ前衛的な現代音楽が聞こえるようでもある。

唯、もう少し、書いてほしかった。

【次点佳作】

58.5508 : 陽の埋葬  田中宏輔 ('11/09/05 06:43:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_356_5508p
聖書の言葉の、キリストの言葉を、父親の言葉として、
捉えているところがユニークである。
肉欲とくに男色の問答は、作者の独自の発想が
面白く、言外に、聖書の言葉を信じない、現代人のナマの思考のなかでは、
ほとんど無力に近いことが述べられている。
また、父親の権威にたいする抵抗か、神の権威に対する反抗か、
それらが、鮮鋭に描き出されている。

13.5543 : 蝮のピッピ  大ちゃん ('11/09/17 12:17:10 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_809_5543p
平易な言葉で、アレゴリーを効かせている。
語り手に、鳥籠で庇護されて、育った小鳥のピッピ。
この、ピッピを食べた蛇の、その後の変身を、
>大空の自由を堪能したら
>また帰っておいでよ
と、脱皮するという蛇の特徴を喩として、
新たな成長を歩む子供を、
親が見守るような詩的メタフアーが、受け取れる。

28.5546 : 彼の鞄  瀬島 章 ('11/09/19 14:55:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_898_5546p
靴の比喩。
擬人化の方法ともいえる。
仮説で、
彼とは、「親」かそれに近い大切な人であるかもしれない。
仮に、「親」だとして
靴は、「親」が家族を含めた人生であり、「親」が相続してきたものであり、
語り手が、相続するものなのだろうか。
来なくなった親は亡くなったのか、靴を相続しなけなければならない
もっと早く気付くべきであった後悔を感じつつ、
最終連で、
責任のようなものが、
よく表現できている。

38.5524 : 志向  ゼッケン ('11/09/10 18:48:16 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_563_5524p
評1
いつも面白いが、文章の流麗さということに於いては筆致が安定しない。著しく跳んだり跳ねたりしているので、凡筆では流麗に届くのは大変だろう。サービス精神旺盛だし若い人だろうから、まだまだこの先驚かせてくれるものと思う。

評2
夏目漱石の「吾輩は猫である」のフレーズが出てきて、風刺性を暗喩であらわしているが
強盗、地下の下水道の比喩のように、常にアウトローに身を置く語り手の、鰐の比喩も面白く、
テクストは安定性を求めず、不安定さの中で、
ダイナミックに展開している。

21.5548 : これは批判ではありませんという嘘をつくための詩  01 Ceremony.wma ('11/09/19 17:14:53 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_910_5548p

全体的に、語り手の、
発話調の会話の文体で、議論形式を取りつつ、物事の本質に近接しようと試みられている、
とてもユニークなテクストである。
朗々と饒舌に自由奔放に語りきっているところが良い。
ただ、
最初の2連と17,18連が、発話調になっておらず、叙述調なので、
徹底的に、発話調で通してほしかった。
そういうところが、形式から見た場合の詩の完成度だと思う。

46.5504 : makura  01 Ceremony.wma ('11/09/03 00:55:51)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110903_284_5504p
評1
作者の集中力が途切れれば読者も集中力を失う。今回は少しそういうことがあった。だが詩人の視座、その射程そのもののある場所の深さや鋭利さは、現在他を抜きん出ている。

評2
このテクストが長いのは、途中に、意味のない、無駄な文章が
多く含まれているからであるとおもわれる。
五連、六連の風景抒情は全くいらないのではないだろうか。
「まくら」の比喩と、関連する雨=罵声は、
過激であるが、個人と社会との関係性のなかで、
語り手は、既存なものからの境界に、際どく触れていく。
幽霊の比喩は、魅力的である。
ただ、
よく書けている所と、無駄な部分の混在した
もったいないテクスト。
終わり方も、強制終了のようであるが、
この即興的なテクストの成り立ちならば、
それも良いようにも、思える。

26.5542 : 「明眸」と名付けられた少女の肖像  鈴屋 ('11/09/17 09:59:59 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_807_5542p
回顧的な、感傷的なのですが、
とても静寂のイメージを伴ったテクストです。
語り手と、お婆さんが、重層して、
発話しているが、それが、不思議な詩的メタフアーをつくりだしている。
最終連で、語り手とお婆さんの両者の通時的な世界が、共時性の空間のなかで、
詰め込まれている。
そこに、詩の佇まいを発見する。
しかし、
題名の「少女の肖像」ですが、その像としてのイメージが、
印象的な語句で語られておらず、なにか曖昧のまま、
伝わってこない。

66.5505 : 仲直り  美裏 ('11/09/03 10:15:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110903_291_5505p
ほのぼのとする牧歌的なテクスト。
こういう詩を読んでいると、何か、ほっとするものがあり、
詩の領域として、十分な可能性のある
方向である。

【選外作品】

12.5566 : 水の炎上  雛鳥むく ('11/09/30 17:53:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_386_5566p
良く、書けていると思います。
尖閣諸島問題など、ナショナルテックな問題が
我が国にありますが、
そういう日本国のもつ独特の身体性の諸問題を、真正面から、書こうとしているところに、
好感が持てます。
「あなた」と「わたし」の境界を、ときに符合し、ときに近接し、
ときに対立する、微妙なあり方が、よく書けている。

19.5559 : 書かれた ‐父‐  瀬島 章 ('11/09/26 19:43:32)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110926_256_5559p
オノマトペとして響く「父」は、テクストにリズミカルな音楽性を
与えている。鳥の鳴き声のようにユニークです。
父と息子の存在が不明確で重層的に、家父長的な父の存在、父の子殺し、
子の父への殺意、それらが鏡のように溶け合って、
救われない底のところで、重苦しく、蠢いていて
それが、オトマトペの軽やかさと対照的に、
記述されているので、テクストに豊かさと奥行きを出している。

41.5540 : 変態2  山人 ('11/09/16 18:02:19)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110916_789_5540p
語り手が、自己を虫に仮託して、極端に生命の本質的なあり方を、
提示したのだろうか。かなり自虐的に自己を晒すことに、美意識があるのか、
そこに、不思議な快楽主義を読み取れるが、それが、題名の、
変態を、彷彿とさせる。

8.5556 : 木登り  case ('11/09/22 15:22:05 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110922_114_5556p
評1
以前、自己満足な脳梗塞気味の若ハゲだったが、
今は読者を念頭において文章を書いているようで、良いことだと思う。
評2
麻痺した創作迎合の表皮としては、
不可思議に機能していると思う。
凡庸さを選択したために、その機能は倒錯へも傾倒することが出来ていないように思える。
評3
>これがノスタルジーだなんて認めたくないんだけど、つまり、あたしは仕事に疲れているんだと思う。
この言葉に尽きている。
現実の大人としての閉塞感を、子供のころの感傷的な回顧によって、癒そうとする
語り手の心象が書かれているが、
語り手は、もう一度、子供のころに立ち返り、
>・・・・・それで作ったジャムがとってもおいしかったことだけは絶対に忘れないような大人になってると思うんだ。
というように、やり直してみたいというような願望があるのだろうか。
テクスト全般を読んで、
丁度、語り手は、「世界の中心で愛を叫ぶ」の主人公サクと同一位置の内向で閉塞的な心象世界にいると思う。
僕としては、
作者には、もう一皮剥けて、たくましく、あるいは、いやいやでも良いが、
現実のナマの世界の中から、新しい言葉を紡ぎだしてほしかった。

17.5565 : いないいないばぁ  case ('11/09/29 21:41:51)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110929_371_5565p
評1
作品自分の無さを形骸化させている。ただ、それだけなので特に問題もない。けれども最後の位置に効果をもたらせていないように思える。

評2
「ゆいめーろん」という言葉に表れているように、
言葉遊びと、それぞれの言葉との関係性が面白いし、
語られる言葉の中から、背景がさり気なく比喩をつくっていて
巧みであると思います。
>机のまわりには誰もいない
>誰もわたしを呼んでくれない
いわゆる、時間とともに、
自分の周りに誰もいなければ、語り手は、名辞されないのだから、
名前がないのなら、
もはや「クロ」という普遍的なものでは、ないのだろう。

37.5529 : 銀河の下で  砂木 ('11/09/12 07:23:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_625_5529p
評1
視点移動のスムーズさが良質かもしれない。
タイトルは大風呂敷過ぎるかも。
けれども、それなりにきちんとまとまっています。
評2
優しさが滲み出るような、暖かい詩です。
「あとは知らけど」と、先月の前作と同じ手法を使っているので、
頂けないです。
「あとは知らないよ」という新鮮なフレーズは一回きりであるのが、
良いと思います。別の表現の新しい言葉を編み出すべきでしょう。
でも、前作ととても内容が似ているので、前作の改訂版なのだろうか。

53.5531 : ゆうきまおみ  鈴原ミク ('11/09/12 12:44:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_629_5531p
評1
そういう作風として特に問題もない位置にある。
評2
徹底的に滑稽なほど、無意味性を含んだ、非現実的なエンターテイメントが
提示されている。
語り手は、テクストの中で
自虐的に、自己を誇張することが、現実の鬱屈した日常のなかでは、
ひとつの自己解放であるかのようである。
テクストの疾走感が、小気味よく、
平易な文体に、好感をもてる。

22.5500 : 闘争のエチカ  かもめ ('11/09/01 22:56:41 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_256_5500p
評1
もう一作は出来不出来が大きく何のための15首かも見えないが、
これはまとまっており、某かの全体性も醸している。
若干おとなし過ぎて食い足りない気もするが、
今回は下手ではないので、それもシックと解釈できる。

1.5570 : すきま風  ばかもの ('11/09/30 23:00:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_401_5570p
こういう難解なテクストに出会うと、いろいろと考えてしまいます。
H氏賞詩人、松岡政則の詩集「草の人」の「痛点まで」という詩に出てくる、
「歩く」を思い出します。
それは、イメージとして伝わる動詞を固有名詞のように扱う用法である。

「痛点まで」
遠くで
草が騒いでいる
胸の中でもざわざわする
あれはたぶん
父に酷く叱られた日の
星明りの青い青い歩くだ
何度振り返ってみても
誰もいなかった青い青い歩くだ
(中略)
夜がくるまでじっと動かずにそこに立って
青い青い歩くをみてみたい

この作者もきっと、この用法を編み出し、もちいたのだろう。
「行く」「来る」という言葉を名詞的に用いている。
但し、テクストの中では、とてもイメージしづらかったし、
こういう用法は、ひとつの言葉で十分であると思うが、
さらに、「本当」という抽象用語も、固有名詞のように用いている。

あるいは、荒川洋治か松下育男か誰かわすれたが、
ある言葉に、その言葉と関係ない別の言葉を、入れ替えて、
詩的メタフアーを作り出す方法を、つまり、
ある言葉、「行く」の前の言葉に、その言葉と関係ない別の言葉「行く」を、入れ替えて、
詩的メタフアーを作り出す方法を
ここで用いたのかもしれません。

想像ですが、
いずれにしても、
この詩は、比喩というより、イメージで読ませる詩であると思いますが、
読んでいくうちに、この用法を使いすぎて煩雑になり、
像としてのイメージが、とても湧きにくいのです。
そういう意味で、
とても実験的なチャレンジは十分に良いのですが、
結果として、成功したかは疑問です。

ただ、個別的には、
>割れた子猫
という表現は、個人的には、新しい発見のような、
魅力のある言葉であると思います。

5.5568 : 原風景 1  草野大悟 ('11/09/30 20:40:32)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_394_5568p
続き物の、冒頭部分だけの記述で、医療ミスのこと、医者に対する嫌悪以外、
何もわからないので、続きを読まないと、何とも言えない。

6.5564 : jibungatari  南 悠一 ('11/09/29 16:40:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110929_362_5564p
どうしたものでしょうか。
良い連と、悪い連が極端なように思われます。

日記のように、無説明で、
淡々と記述している連は、異様な死の光景で、魅力的な詩の世界を
描けていると思います。
墓石と死者の比喩が徹底していて、凄味がある。
世界を見る、知ることは、新しい発見であるけれど、同時に、既存になった世界は、
過去であるから、死にゆく世界でも有るわけですが、
そのようなことを感じ取れます。
2011/09/25 16:02
2011/09/26 9:34
2012/08/19 12:13

でも、冒頭の2連を除くと、それ以外は、
ほとんどが、「私は・・・思う」、で括られる記述で、
語り手は、そのテクストの外部にいて、「君たち」のこととして、
他人事のように語られている。さらに、ニーチェの引用は、
説教じみていて、テクスト全体を、皮相なものにしている。
語り手は、少なくても「君たち」と同じところに降りてこなくては、
新しい言葉の発見は、生まれないと思います。
題名がjibungatari 「自分語り」なのだから、「君たち」ではなく、「僕」か「僕たち」
で語ったらよかったと思うが、いずれにしても、
9月の選考で書きましたが、
詩とは、面白いもので、自分の言いたいことを、思っていることを、直接に書いてしまうと、つまらないものになってしまうのです。
ただ、ここでいう直接というところが、大事なところで、
例えば、意見陳述のような、だれでもすぐわかってしまう、
そこの浅い書き方が問題なのです。
詩の上手な書き手は、詩的メタフアーで、さり気なく、
語るスマートさがあるのです。
それが、詩情となって、テクストに逆に厚みを与えるのです。
唯、言いたいことを直接的に書くだけなら、散文や論文を書けばよい。
また、
僕としては、多くの心ある詩人は、
ライターを着火するように、言葉を生み出し、同時に言葉を殺すように
言葉を紡いでいると思いたいですね。

7.5557 : 亀裂  藻朱 ('11/09/24 02:53:51)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110924_181_5557p
評1
惜しいけれども充分。
意味不明羅列を行っていたの作者が、どこへ行くのか見届けたくもある。

評2
荒唐無稽な性的な夢の出来事のようであるけれど、
読み物として面白い。
最後の一行で、現実の世界と結びつけるようにして、
単なる夢の記述を、詩に変えているところが秀逸である。
でも、このようなテクストは、内包するものに、アレゴリーを
持っていないと、詩としての価値が、果たしてどのくらいあるのか
疑問である。

11.5533 : 葬送曲を探して  RetasTares ('11/09/14 09:24:43 *4)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110914_697_5533p
アメリカのクールで乾いた動的なイメージで始まり、
人々の生きた声も聞こえるようだったが、
後半、老いた男の、感傷的で、内向な静的な世界に
閉じてしまっていくのが、
構成的には、よくありそうな、
短絡的な方法なので、少し残念です。

15.5551 : だれがと  小波 ('11/09/21 16:37:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_056_5551p
評1
こういう作風の中では特に問題もない位置にある。
評2
AとかIとか、「「水晶かな」
「冬の湖ってのは」
「かもしれない」など、言葉から何かをイメージできずに
それらの言葉から、読み手が、置いてきぼりを食う。
もう少し、言葉を大切にあらわした方が良いと思う。

16.5549 : たばこ  森田拓也 ('11/09/19 17:17:46)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_911_5549p
評1
もう少し(後3年くらい)書くと、きっと良くなるのだろうと思わせられる。
作者の成長は、ゆっくりだが面白い。
評2
人生の不条理、人生の矛盾をよく書いてある。
>たばこに
>火を点けようとするけど
>うまく火を点けることが
>できないんだ。
というリフレインの比喩が、自己と社会の関係性のむずかしさという
語り手の気持ちが出ていて良い。

18.5545 : ターヤ  atsuchan69 ('11/09/17 23:48:36)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_851_5545p
バーチャルなSFチックな物語です。小説をコンパクトに
して、詩のような体裁にしたものです。
こういう物語は、小説にした方がよいでしょう。

20.5507 : 生業の思いで  笹川明彦 ('11/09/05 00:47:50 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_351_5507p
相当古い、ベトナム戦争時代のヒッピー全盛の頃の
サンフランシスコのイメージが伝わる。
作者が、このテクストを、どのように共時的に捉えているか
良くわからない。

22.5561 : 峰という煙草がいつのまにか無くなっていたから。  DNA ('11/09/27 15:56:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_282_5561p
評1
こういう作風の中では特に問題もない位置にある。

評2
煙草をすわない語り手の目線で書かれた世界が、実験的な手法で書かれているのは、
興味深かったが、
四連目は、仮説としては成り立つが、実体としては、少年一般だったら、
語り手の認識では、いくらでも存在するはずであるから、
この論理的なテクストには、不釣り合いになってしまう。
ただ、このテクストが、詩であるから、
そのずれが逆に、不思議さを出している。

23.5562 : hospitality  十一面観音 ('11/09/27 17:07:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_291_5562p
評1
最後の韻は変えた方が切り刻めると思う。作品自傷の方向性として特に問題もない位置にある。

評2
句読点を、短く打つことにより、視覚に言葉が、力強く訴えてくる。
そして、テクストの言語を、日常言語的なイメージから、
剥離させて、音楽的なリズムを含んだ、詩的言語的なイメージを
つくり出していく。

27.5513 : 夜の変容 トリプティク  大ちゃん ('11/09/05 18:44:11 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_397_5513p
短歌形式の夜のイメージを繋げたテクストのようだけれど、
過去の散文詩にあったような、動的なイマジネーションが
欠けているように思われる。

29.5555 : 夜道  J ('11/09/21 19:24:48 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_071_5555p
不幸の比喩についてのテクストだけれど、
上手に表現できていないというより、ほとんど滑稽でさえある。
それが狙いなら、
別の角度で読むのも面白いが、お笑い系なら、
それも有りかなと思う。

30.5517 : 無題  ズー ('11/09/06 12:57:03)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_420_5517p
「ミサイル」という言葉は、牧歌的なイメージでつながるテクストのなかで、
異様な光を放つ。
人の内部に潜む暗部を表現しようとしているようにも取れる。

32.5530 :  LAUGH LOUDLY ON THE ROCK   光/理 (ひかり) ('11/09/12 09:40:33 *23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_627_5530p
ロックとかアウトサイダー風のエンターテイメントな作風の散文詩は、
通俗性という面では、際立っているし、
ネット詩の大きな領域を占めているので、
詩の可能性というところから、注目はしているけれど、
これが、文芸という高さまで、
持っていけるか、今後のこの方面の多くの書き手の
大きな課題だろう。

33.5520 : 戦闘着  ちーちゃん ('11/09/07 21:26:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_495_5520p
赤と黄色と茶色、緑とか色の比喩が、抽象的で、
イメージがわかず、安易な色を使わず、別な表現方法が
あったのではないだろうか。
また、飛行の様子も、冬、夏などの抽象的な言葉のため、
飛行している感じが湧きにくい。

34.5516 : 幻日  字ぇ ('11/09/06 07:18:54 *18)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_416_5516p
感傷的ではあるが、こころの揺らぎを、言葉を付け加える手法で、
上手く書けていると思います。
希望のない閉塞的なこころのあり方を、
幻のように辿っているが、
>目覚めれば季節、白々と臨む朝の
ない、輝きだけは、忘れなかった 。
と、テクストが、語り手とともに、垂直に立ち上がった
瞬間に出会う。

35.5499 : 瑪瑙の島  るるりら ('11/09/01 08:56:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_249_5499p
>青に抱かれて
>プランクトンは
>雲は
>ワタシは
>銀に光る内側から  あらわれた
>乳白色のアワビは
> 青
のところでは、わたしを内部としている青といういのちの世界の
イメージを平易に視覚的にとらえていて、言葉が外にむかって
放たれている。
美しい青のイメージのテクストである。

36.5550 : 雨降り  破片 ('11/09/21 08:44:03)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_007_5550p
評1
別に次点でも良い位置。破片さんは初投稿作品が一番良かったと思う。
手癖は合わないのかもしれない。
評2
語り手の雨降りのときのような内的で鬱屈した心象風景が、よく書けている。
口笛が時事的な問題の比喩であるなら、
現代の世相のすがたを、その時の語り手の怠惰に白みを増していく位置を
テクストで試みたのだろうか。

39.5539 : 痴呆  大丈夫 ('11/09/15 23:31:37)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_755_5539p
痴呆について書かれているところは、読み手として共感するところがあるが、
痴呆について語り手の主観的な思いを書いたところは、
つまらない自己愛的な記述になってしまって、
テクストをしまりのないものにしている。

42.5502 : 生殖  ぷう ('11/09/02 16:09:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110902_270_5502p
分厚い濃厚な比喩で、イメージを重ねていく、
とくに虫や植物に重層させることにより、
最後の
生と死の境界に近接する試みは、美しさを帯びています。

43.5498 : 詩人生活  笹川明彦 ('11/09/01 05:16:29 *5)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_246_5498p
評1
どうでもよい感覚というか形骸でしかない在り方が別に問題もない位置にある。
最近、この種の作風が増えていることは悲しい現実だと思っています。
タイトルどうりに悲しい。
評2
語り手は、詩人として、比喩を多用することにより、
詩人生活を満喫しているのであろうけれど、
途中から、ほとんど比喩のあり方が、理解不能となり、
支離滅裂なテクストになってしまっている。
極端な遠近法を排した絵画をみているようです。

44.5538 : 月。夜の白い雲  右肩 ('11/09/15 22:22:11 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_750_5538p
言葉は不思議なもので、こうして、
短くし、限りなく、余白と対峙してくると、
一言一言が、イメージとして重みを増してくる。
それは、感覚的な繊細さが、鋭利になることだろう。
言葉のリフレインは、オノマトペのように、リズムや
音楽性を与えてくる。
視覚的にもオシャレな佇まいをしている。

45.5537 : 縁側  kizuna ('11/09/15 22:16:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_749_5537p
評1
最終連がよろしくない。それまでは、その分野として特に問題はない。
評2
とても、残虐で、性的なイメージが、伝わるが、
途中で、尻切れトンボのように終わってしまうので、
読み手は、置いてきぼりにされてしまう。
構成を考えて、もう少し読ませるものにしてほしかった。

47.5536 : 性欲  ちーちゃん ('11/09/15 12:05:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_725_5536p
漢字が多いのがとても気になった。
ひらがなを多用することで、柔らかな文体に近づけるかもしれない。
言葉にポエジーがなく、カサカサした乾いたつまらなさしか
残らなかった。

48.5519 : 鍾乳洞がえり  る ('11/09/07 02:32:49 *6)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_470_5519p
鍾乳洞は死の世界、あるいは閉塞した世界、象徴的には、女性の性器を想像させるが、
裏返ることにより、つまり、心を脱皮させることにより、生きた世界に帰還することができたという比喩だろうか、あるいは、そこで、男性としての自信を獲得する心理的な比喩か。結果、
うららかな春の午後に、蝶が番い合い、
翅を羽ばたかせることが出来たという、語り手の願望と、心象が
読み取ることができる。

50.5497 : 詩人へ  J ('11/09/01 03:29:37 *59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_245_5497p
何か、その森の村に多くの人が死んだ悲劇があつたのだろうか。
父親としての語り手の、息子への哀しい思いと、死んだ息子の妹への
かすかな希望が、書かれているのだろう。
それらのコンテクストの動機が、もっと鮮明であったなら、
詩としても、広がりのあるものとなっただろう。

51.5528 : 世界の色彩  无 ('11/09/12 06:48:45)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_623_5528p
これは、引用部分も、載せて、完全に完成された作品になるので、
それを乗せる必要がある。そうしないと、
萩尾望都の作品の盗作になってしまうのではないか。
なるほど、
新しい試みには、好感をもてます。

52.5534 : 卒塔婆と銀河  黒髪 ('11/09/14 18:34:15 *1)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110914_704_5534p
「卒塔婆」と「銀河」が結びつくイメージがとても、難しいが
個人の死と、対極をなす、巨大な宇宙の精神のような「銀河」を
対比させたのだろうか。同時に、「卒塔婆」は、「銀河」の一部でもあるわけだろう。
でも、それ以上に、読み手に響いてくるものがなく、
この接点は、
少し、強引過ぎたのではないだろうか。

55.5522 : 腹を裂く  RetasTares ('11/09/08 09:11:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110908_508_5522p
評1
どこかの連を集中して掘り下げてみても良かったかもしれない。
評2
腹を裂く行為の、あれこれを並べて列挙しただけで、
腹を裂くことを比喩により、内的に深めていこうという
詩的言語を編み出す行為がなされていない。

56.5511 : 緑が燃えている  メタボでGO!! ('11/09/05 17:48:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_392_5511p
「糞緑」という造語は、汚くて美しくないが、
暑さのは、テクストから、十分感じられる。
鮮鋭な言葉も交えながらも、書かれているのは、
単純な夏の風景詩である。


59.5518 : 廃人其の1, 其の2  大丈夫 ('11/09/07 01:11:26)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_462_5518p
評1
下手だけれども素直に等身大で描いていることと以前の作品を上回っていることが、良い兆候かもしれないと思った。タイトルとモチーフの扱い方に気を付けて欲しい。
評2
廃人、狂人は、普通忌み嫌うものですが、ある時、自分の中に、
狂人の姿を見つける。その異様な、内面の複雑な、黒い精神構造を見つけるのでしょう。
粕谷鋭市の「悪霊」等の散文詩に、
多く書かれている心象心理に共通のものを発見する。

61.5514 : 酔生夢死  无 ('11/09/05 19:23:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_400_5514p
酔生夢死のようなことが、書かれているのだろうが、
一連目から、どういうイメージを読み手に、伝えたかったのか、
判然とせず、引きずられるように
読んでいくが、
最後まで、新鮮な語句に出会うことはなく、
読後に残るものがあまりない。
だからと言って、出来の悪いテクストと言ってしまうのは、
少し違うようです。
多分、足りないものは、像としての詩的イメージ力のようなものの
強度であるのだろうか。

63.5509 : でんでん太鼓  黒髪 ('11/09/05 11:40:03)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_368_5509p
昔を懐かしむ感傷的な抒情詩。
丁寧に書いているが、外部に向かって、広がるような
動的なイメージが
もう少し欲しかったように思う。

64.5527 : 手のひら  Tora ('11/09/12 00:12:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_610_5527p

青年期は、多くの教養主義的な人生観のなかで揺らいでいますが、

>腕が辛くなった私は腕を降ろし
>手のひらを見たのでありますが
>三半規管はどこにもなく
ところから、大人として自律的な人生観をもつことができるように
なったのだろうか。
そのような詩的メタフアーが、
エアホースワンの力強さに繋がっているのだろう。

65.5525 : ぷるぷる鳥の結晶  千手観音 ('11/09/10 20:48:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_566_5525p
日常の身辺雑記的な散文である、小説の断片のようでもあるが、
最後のところで、詩的比喩をこころみているが、
逆に、謎めいているというより、
思いつきのつまらなさを感じてしまう。

24.5560 : 獏  ロボット ('11/09/27 00:12:09)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_270_5560p
ほのぼのとした情愛のこもった親子愛のテクストである。

28.5515 : あいてぃおぴあ  進谷 ('11/09/06 05:59:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_414_5515p
作者アイコンが機能しているのだけれども、単品としては物足りない。
作品集の中では映えると思う。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

8月分月間選評

2011-09-28 (水) 03:30 by 文学極道スタッフ

8月分月間選評  (文/編) 前田ふむふむ (文)浅井康浩 (編)織田和彦

今回は、エンターテイメント性のある詩にも、詩の可能性を感じることができる
詩が、いくつかあったのが、とても収穫でした。
また、今回は、優良作品、次点佳作以外の選外作品にも、
魅力的な詩が、割合多くあったように思います。それは、喜ばしいことであると思います。
ただ、エンターテイメント性のある詩に多いのですが、無理に汚い、あるいは強い表現を使って、意図的に、詩に強度を与えようとしているテクストが見受けられますが、それは、逆に、言葉群から、そのものが持つ繊細さや色気のような言葉の魅力を奪っているように思われます。
それから、
詩を書く上で注意しなければならない基本的なことを、あまり理解されていない投稿者が
いるようなので、少し気になります。
詩を書くとき、まず、作者がどうしても書きたいことは、極力、書かないこと、
一番書きたいことは、直接書かないこと、
また、詩の内容を説明しないこと。
こういうことを理解していないと、一義的な結論じみた詩になり、読み方を、読み手に強制してしまう、脆弱なテクストになってしまうということを、
分かってほしいと思います。
良い意味での詩の曖昧性と、詩の多様性は、詩のいのちでもあると思うのです。
また詩は、言葉を創造する作業でもあり、言葉を捨てる作業でもあるのです。
若干を残して、ほぼ作品にコメントを付けましたので、今後の詩作の参考になればと思います。

【優良作品】

35.5459 : 姉のいない夜に書かれた六行  泉ムジ ('11/08/17 19:11:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110817_866_5459p

▼ここに出てくる「詩人」は、オルフェウスを想起させられるところがあります。
過去において、多くの詩人が、例えばランボー、マルラメ、リルケ、
入沢康夫、吉増剛造、などによって、詩的メタフアーとして、
オルフェウスの神話の愛と死の物語が、幾度か語られてきましたが、
その普遍的なテーマが、
作者の新しい感性によって、編曲されたオルフェウスの物語が、
登場しているようです。地獄から、手をつないでこの世に戻ろうとする二人、
オルフェウスによるエウリデーチェへの振り返り、死の確認、メタファーとしての死体を埋める行為。
死の確認は、直接には、書かれてはいないけれど、
語り手は、姉とともに、詩人を埋めようとしたが、手が硬直してできなかった、
そこで姉が埋めたのだ。つまり、
エウリデーチェへの振り返ることが出来た者、埋葬出来た者が、オルフェウスなのだ。
語り手は、詩人を殺すことができなかった。
そして、
>やっぱり私が詩人になることはなく、永遠にできそこないの詩を書き続ける、
>私はまだ、終わりの言葉を探していた、
と言っているように、
詩人を埋葬するために、つまり、新しい言葉の発見するために、
地獄くだりの旅をつづけることになる。
もう、姉はいないのだ。

でも、詩全体から醸し出されているイメージは、メルヘンのような世界で、
水野るり子の「ヘンデルとグレーテルの島」を
思い出されるような美しさもあります。

▼レヴィ・ストロースの「鳥の巣あさりのアリア」を思い出してもいいだろう。
単純な対立項は、いくらでも作中にうめられている。

蝉のざわめき/ぴたりとやむ蝉の声
「湖面がかえす明かりを頼りに」という水で充填された穴/できそこないの私の詩を、まんべんなく敷きつめた穴/詩人が埋められるための穴
草の汁が、はねた泥/とりかえしのつかない速さでかわいてしまう汗

さまざまに対立するコンテクストのなかに、詩人を埋める、という行為をひそませ、埋められるための穴と関連させることで、ある程度の読みは完成するけれど、この作品のなかで大事なのは、
「やっぱり私が詩人になることはなく、永遠にできそこないの詩を書き続ける」のだとしても、それが埋められた詩人の言葉の変形であり、翻訳である限りにおいて、「私」へと伝播されてゆくことだろう。
「あれほどさわがしかった蝉の声が、ぴたりと止む」という事態によって生まれる空洞が充填されるのは、おそらく「両親の耳にはとどかない声で、どれほど素敵な詩だったか、でも夜だから、あなたは連れていけないわ、とささや」く姉の、空洞としての「私」の鼓膜へと響く残響から、分岐し、こみあげてくる「私」の「終わりの言葉」のささやきだろう。(by浅井)

19.5447 : 夏日  鈴屋 ('11/08/13 13:24:26 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110813_700_5447p

▼>世界が人を失っているのは歓迎すべきことだが私がいる

世界からわたしが、そして人が消えた後は、叫びのような明白さで風景が残されるにしても、おそらく作者は、歓迎することはしても、満足はしないだろう

世界から消えるべきなのは、「調和」をみだす「わたし」なのであってすくなくとも
>村は蝉の解体に祭りの賑わい
という季節に調和している行為そのものには、あたたかい眼差しをそそいでいるのだから。

現実に接近してゆくからこそ、
>人は壊れやすい
>もしかしたらこれは暗黒ではないのか
というべき、「原初」への気づきのプロセスが書かれることになるが、この気づきが
現実に接近しながら、「私」を消してゆくステージへと飛躍するには、さらに「村」の方へと向かう宮本常一的な歩みを再開しなければならないだろう。

だからこそ、速度を必要としていない、ということが作品そのものによって示されている。(by浅井)


事故死への思考と垂下が感覚の蒸気で炙り出されていく。


このサイトでは、新鮮である。
文語的な言い回しが、格調高く言葉を運んで、
落ち着いた抒情文学的な雰囲気が、出ている、

>遊ばない夏
という冒頭のフレーズがテクスト全体を暗示していて
語り手の重い内面性、重い社会性も垣間見ら得る。

>炎天にネムの花は動かず
>うつむけば汗の二雫、舗石に染む

>見えるがごとく
などの言い回しは、さすがに古いという印象は
免れないが、破たんせずに、無難にまとめている。

4.5495 : インファントフロー  村田麻衣子 ('11/08/31 23:59:56)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110831_242_5495p

▼粘膜、被膜、内部、など、女性的なデリケートな語彙が、
女性的なエロスの世界をつくっています。
言葉が、感覚的に、また自由に運ばれていて、
全く予定調和的な構成がとられていないところが、
詩を難解にしていますが、
詩を感覚的に受け取れという、作者のメッセージが、
文体から、ひしひしと伝わってきます。

細かいですが、
>ぶかぶかのバレエダンサーが身につけるような ソックス

上手くないと思う。もう少し、良い言葉を選べなかったのだろうか。
こういう直喩は、頂けないです。

▼>ガーゼをまとっていたあのこの手や足を見つけては わたしがやさしく包みこんであげるから、

病むものに手を差し伸べる経験。あるいは「病んでいる」人をみる視線。
「あなた」の病いは、「わたし」があなたに注ぐ視線のなかに、その苦悩を甘受してしまうことによって、見ている「わたし」にも、その「病い」が経験される。

前半部分における過剰な装飾は、終盤に書かれる「あなた」が
>貪欲にやせっぽちだから
という視線の「痛み」によってひきおこされる「わたし」の「身をくるんであげたい」という、苦しみに手を差し伸べようとする者のもつ願いのあらわれだろう。

>ぶかぶかのバレエダンサーが身につけるような ソックス
>粘膜をひたひたにしてさわられたい
>ひたひたの神経回路に浸かってて
>羽毛よりやわらかい
>洩れなく溢れた酸素が

だからといって、

「わたし」は、「病い」をもつ「あなた」のために何もしてあげることができないわけではない。そして、「病い」を得ている「わたし」がマイナスの存在として描かれているわけでもない。

>あのこの手や足を見つけては わたしがやさしく包みこんであげる
という視線は、
>パパはいませんママもいません
>ママにあらう順番を教えてもらったのに やぶってムービーヒロインみたいにてきとうに石鹸でからだを洗ってた
>常軌を逸して高ぶるわたしたち

現実が「マイナス」の状態にあるにもかかわらず、だからこそ、良い方向へと飛躍できる、という感覚をもっていることが、この作品を単調にさせずにいることの要因だろう。(by浅井)

43.5415 : 青空のある朝に  泉ムジ ('11/08/02 02:47:21)  
URIjp/: bungoku.ebbs/20110802_323_5415p

一般に荒唐無稽な物語を書く投稿者は、ぜひ、こういう作品を参考にしてほしい。
滅びるということ、世界の終末を思わせるような壮大な場面です。
また、人間が避けることが出来ない、待ってはくれない死というものを、
説明のないものとして、表そうとしているのだろうか。
伝わってくるものは、避けがたい伝染病による、鳥のように変貌する不条理であり、
その不条理が、
説明なしに、読み手に伝わってくることです。
無説明において、読み手としては、沈黙に似たもっとも饒舌な言葉を受け取るのです。

良い詩です。

51.5431 : 糞迷宮  大ちゃん ('11/08/08 20:18:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110808_548_5431p

言葉のエンターテイメント性を効果的に使い、
滑稽さがよい、また、そこから突き抜けて、人間の悲哀のようなものが
感じられる。それは、時間的なものをこえて、幼少期のころの記憶、父親としての現在と、未来の介護される老人と、そして不在、を共時的に捉えている構成で、できているからだろう。
「便意」を通じて、幼児から死に至るまでの、人間の一生が、小気味いいスピード感で、見事に書かれている。
また、
読み物としても、大変楽しく読めた。
「便意」のがまんで、
長谷川龍生の「瞠視慾」を思い出してしまう

【次点佳作】

12.5490 : とんぼ達と  砂木 ('11/08/30 05:11:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110830_208_5490p


悪くないです。惜しいのは、
 りんごもぎ
 林檎もぎ   の差です。

ほのぼのとして、とてもよい詩です。
>あとは知らないよ
とてもセンスのある表現に出会えました。
ここが、この詩のすべてと言っても良いと思える部分です。

>あとは知らないよ
>それっきり忘れて
>りんごもぎに集中した

と、語り手の意識の切断という正直さが、アクセントとなって、
のちの、主観的な体験、回想が、
個人の内面には、他者に貢献したいという願望があることを
より強く表していると思われます。

16.5488 : 旅路  yuko ('11/08/29 10:59:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110829_195_5488p

作者の詩のなかでは、平易な部類でしょうか。
言葉が、よく選びこまれていて、詩作のセンスを感じます。
美しい抒情詩です。
ただ、書きこまれてる情景は、特に目新しいものではなく
「遠い夏」を回想している、よくあるパターンの詩であると
思われます。

19.5432 : MOVE  進谷 ('11/08/08 20:27:17 *9)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110808_550_5432p

全般的には、感傷的な、空想的な回想作品のようにもみえるが、
会話の部分は、小気味よく、極めて口語的でユニークです。
また、「海」の潮風のイメージと、初期の村上春樹の作品のような軽快なイメージが
まざりあったような、哀愁を帯びたさわやかな作品です。

20.5450 : LET THE MUSIC PLAY。  田中宏輔 ('11/08/15 11:14:20 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110815_743_5450p

一冊の詩集ができてしまう、分量です。
こういう詩ばかりだと、流石に詩の一回性、創造性などを
考えると、果たして、同じ手法の詩を書き続けるのが良い事か、疑問に
残りますが、
作品自体は、石をひとつひとつ積み上げている作業のあとにできた
大がかりな建築物のように、
できていると思います。

40.5409 : LET THERE BE MORE LIGHT。  田中宏輔 ('11/08/01 01:09:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_243_5409p

「LET THE MUSIC PLAY。」とおなじ手法を使って書かれているが、
こういう詩は、一作か二作あれば、十分のように思われるが、
作者は、別の新境地に向かうつもりはないのだろうか。

7.5494 : 蜂塚さん  case ('11/08/31 21:34:08)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110831_238_5494p

>添乗員は無駄に喝采して 本朝に埋ずまる蜂に似ている
いきなり、最初から、
難しい表現で、感覚的にも伝わるものがないので、困惑する。
世間で、ひたすら牙をかくし、主体性を持たない、刺さない蜂のような迎合する
生き方のことだろうか。
上手な比喩ではないと思う。
本朝=我が国のことだったら古い表現だと思う。

テクストは
高校、大学、社会人、という歴史的連続性のなかから、
性的な通俗的な物語が
展開されている。
全般的に比喩は巧みでよく書けていると思う。
高校のときは、耳たぶを針が貫通しないのだから、男性を知らなかったのだろうか。
大学では、不意に蜂に刺されたのだから、不本意な性行為を経験したのだろう。
音信不通というところで
蜂には逃げられ泣き寝入り、社会人になって、蜂塚さんとsex
において充実しているのだろうか。
冒頭から見ると、蜂塚さんを紹介した添乗員のおねいさんから、蜂塚さんを、奪い取ったと読めなくもない。
いかようにも読める良さがあり、開かれている。

13.5478 : ラブソング  01 Ceremony.wma ('11/08/25 22:46:04 *3)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110825_081_5478p

横文字ラクリ、ファトナの名前と聖母マリアと天使、悪魔が出てきて、
読む気が失せてしまうが、
ラクリのテニスラケットと、ファトナの祈りの部分は、
詩的メタファーとしてとらえると、言葉の裏側を、もっと覗きたい
衝動に出会う。

細かい部分では、
>地獄のような、天国を

この直喩になっている比喩は、非常に良くないです。
良いフレーズが思い浮かないので、やっつけ仕事をしたのだろう。

「隠喩を閉じる」以降の
各連は、やや感傷的だが、
「ラブソング」の題名のように、
切れの良い歌詞のフレーズのようで、かっこいいと思う。

74.5410 : JAPAN?  進谷 ('11/08/01 01:51:38 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_244_5410p

間違いかな? をリフレーンすることにより、
理想と現実との落差を、軽妙に皮肉っているが、
とても、平易に表現できているところが秀逸である。

17.5448 : 冬  ズー ('11/08/13 22:19:40)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110813_717_5448p

少しずつずらしていく作詩法は、言葉が違いを見せながら展開するので面白い、
言葉の多様性が浮き上がってくる。
でも、
>こどもが眠りながら、からっ風に乗り、屋上に旋回を繰り返している。
は、少し無理があると思うけれど、
(夢のなかでという)比喩であれば、それも良いと思う。

【選外作品】

48.5452 : 罪人は夢を見る  五月(gogatu) ('11/08/15 18:02:40 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110815_754_5452p

この詩で「罪」とは、
勿論、詩のあり方として、解釈は、読み手はゆだねられているわけですが、
とても、分かりづらいのは、事実として、罪の背後にあるものを
読み解きたい衝動にかられるものがあります。
このテクストのように、不明な罪を、次々と書き続けることを、
ひとつの手法として、良いものとして考えて、
その方面から、感想をいえば、

まず、より良い詩を書くための、
詩のエクリチュールとして、極力、詩の内容を説明しないこと。
作者が書きたいことを、極力書かないこと。
というようなことが詩作の方法論としてあげられるのですが、

>そもそも一切に意味はない

>在るのは事実と事実の積み重ねだけだ

と、上記のように、
このテクストは、最後の記述で、説明してしまったので、また、
最後に、作者が一番言いたいことを書いてしまったので、
このテクストの生命線である、ひたすら言葉を記述することという
多様性を内包した、詩的効果がなくなってしまいました。

詩とは、言葉を捨てる行為でもあるのです。

つまり、
>そもそも一切に意味はない
と結論づけていますが、詩を書くことにも、意味がないのだろうか。
随分と、短絡的であると思いますが、
作者が、そもそも一切に意味がないと考えており、このテクストでは、その読み方しか
読み手に許していないということです。
また、
>在るのは事実と事実の積み重ねだけだ
と結論づけていますが、
在るものは、現象として現れない、事実として形作れなかったものも含まれるのでは
ないでしょうか。
作者は、在るのは事実と事実の積み重ねだけだ、と考えており、
このテクストでは、その読み方しか、読み手に許していないのです。
すなわち、作者は、意図したか、無自覚か、わかりませんが、
詩を説明したため、作者が一番言いたいことを書いたために、
この詩の多様性を捨てさり、一義的にしか読むことを
許さないテクストにしてしまったのです。

55.5438 : 見えない鳥  破片 ('11/08/10 06:56:04)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110810_588_5438p

語り手に限らず、現代社会では、個人は希薄になり、「見えない鳥」のような、
立ち位置にいるのかもしれません。
作者の独特の感性で、粒子のふる不思議な世界が出来上がっています。
最終連は、
飯島耕一の「他人の空」のように、暗い、
言いようのない内部の傷を感じます。

23.5470 : 囀り屋  case ('11/08/23 08:17:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110823_994_5470p

方法論の枠組みだけなので何篇か編んでいく中だと、
側面を出していけるかもしれないけれども、
この長さで単体だと脆弱さが勝る。
方法論の網目を見つめていくと面白い効果が出せると思う。


鳥籠の比喩、
恋人同士の人間関係で、鳥籠は緩衝物のようなものなのだろうか。
奔放で自己愛の強い恋人と、恋人の気持ちを受け取ることすら
できない語り手の存在の希薄さが、象徴的に、人間は、最終的には、こころを
通じ合うことができないと言おうとしているだろうか。
鳥籠を、とてもよく詩的メタフアーとして使われている。

24.5465 : 天の川を踏みながら  長押 新 ('11/08/20 20:35:18)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110820_948_5465p
スラッシュは、語り手の詩のリズムや呼吸のようなものだと思う。
何やら、風俗小説風な、うらぶれた、哀愁のようなものがあり、
それが、長文において言葉を塗りつぶすように、書いてある。
意味がくみ取れなかった部分も少しありましたが、
言葉を次々と展開させていくさまは、よく書けていると思います。

26.5460 : 歩いて移動する  右肩 ('11/08/18 03:59:53 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110818_882_5460p
歩くことにより、
目に映る実体感覚
その実体感覚における語り手の内面的な思考、
そして、その思考のあり方、
と、
大ぶりなタッチで書かれていくのが魅力的である

ただ、最終連が、たぶん蜘蛛と雲をかけただけで、風景描写で
終わらせているのは、少し物足りない。

18.5471 : 食卓に飾る花  ズー ('11/08/23 09:46:06)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110823_997_5471p
アレゴリーを効かせた詩である。
「空」というメタファーにより夫婦の姿を描いたのであろうか。
>あなたの、口は、いくつ
>もあって、だから、嘘つ
>きには、ならないのです
何気ない比喩だが、魅力的な言語空間だ。

67.5423 : ワンコイン フォーチュン  大ちゃん ('11/08/04 17:52:04)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110804_418_5423p

ヘタウマな方。エンタメとして、ありな方向。


このくだらなさ、ここまで書くと、馬鹿馬鹿しいのを
通りこえて、感心してしまう。
詩のジャンルにも、お笑い芸人系というのも、あっても良いかもしれない。
ねじめ正一のような世界を彷彿とさせるところがある。
いや、それ以上かもしれない。

1.5484 : 世界の終わりに  koe ('11/08/26 21:37:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110826_113_5484p

この世界のような事は、実際の世界で、極地的に起きていることで、
「永遠に終わることはなく」、というのは虚構で、そのうち、
振り子のように、混乱の中から、心あるものは、飽きて、秩序を求めるでしょう。
それが、普通の人間の性向であると思う。だから、
題名は「世界の終りに」ではなく「世界の始まり」にしたならば、
詩的メタフアーとして可能性も見出されて、面白かったと思うが、
こういう、直球の当たり前の題名にした作者は、
多分そんなことはありえないと思っていて、
遠近法的な常識的な思考の持ち主であると
思ったりする。

2.5486 : 亞流気眼出巣の瞑想  一人の少年 ('11/08/27 19:46:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110827_150_5486p
>規則は簡単、百メートルの円環グラウンドを速く走った方の勝ち。
という競争ならば、逆走しても、百メートル先に走ったものが勝つというのは、
面白いけれど、それ以外に、アレゴリーとしての風刺があるわけでもなく、
亜流にもなっていない

3.5483 : 母  大丈夫 ('11/08/26 16:18:22)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110826_103_5483p
年老いたお母さんを思う素直な気持ちが出ていると思います。
こういう詩もあっても良いです。

6.5491 : 『 DREAMS COME TRUE 』  気化/理。 ('11/08/30 21:27:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110830_219_5491p
死について、語を記号のように語呂合わせしているだけで、
とくにこれだというものがない。

8.5493 : パーティ(Party)  んなこたーない ('11/08/31 09:44:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110831_227_5493p
誕生日祝いに疲れて、最後はブチ切れたのストーリーですね。
詩というには、もう少し、言葉を書けなかっただろうか。

9.5489 : 『コッペルのSilent』  はゆ ('11/08/29 14:10:38 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110829_197_5489p
物語が事実かどうか、別にして読み物として面白いけれど、
これは、詩ではなく、散文の範疇でしょうか。

10.5472 : 校舎  草野大悟 ('11/08/23 21:11:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110823_015_5472p
石垣りん「崖」の”影響”が大きいようです。
構成は大変似ています。
ただ、テクストのなかの彼らは、実際に飛び降りていないし、
多くのものが、生きていて、転向しているのだから、
読み手に迫るものは、あまりないですね。
あえて、似せて書いたのなら、
このアレゴリーは、
戦争と比べれば、この程度であると、
全共闘世代を揶揄している詩なのだろうか。

11.5492 : 水平線  柑鶴ゆうり ('11/08/31 06:58:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110831_225_5492p
人生を肯定的に見ている詩は、割合少ないので、新鮮に読めました。
谷川俊太郎の「かなしみ」の解決編のようで、

>子供らしい自由を水平線に置き忘れてきてしまったんだね

と答えを出してしまうのは、詩の多様な広がりからして
どうだろうか、疑問です。

14.5440 : バーリャ  J ('11/08/10 17:53:30 *30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110810_602_5440p
荒唐無稽で、バーチャルなコンピュータゲームRPGにありそうな
筋書きです。
そういうものも有りかと言えば、それも良いけれど、
冒険物語の始まりの部分のようでもあり、
いっそう、小説にしたらどうだろうか。
但し、エンターテイメントのつくりものという以上のものではないと思う。

15.5453 : かざぐるまが回っています  RetasTares ('11/08/15 19:22:25 *4)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110815_760_5453p
推論ですが、
他の投稿者にも言えるのですが、
この詩もそのひとつです。
「追憶」の部分、言葉に強度を与えようと、好んで、無理に、
強い口調の語を選んでいるので、全体的に、言葉に色気がないのです。
例えば、
>思い出が次々と脳細胞から沁みだし
>忘却の羽根をひろげ私の世界から飛び去ってゆく
>こういう事だけは無差別的なんだよなぁ
>無生物なんだから当たり前なんだけども
>こいつには思いでも糞も無い
>噛み殺されて死んだ仔犬のこと等も

21.5481 : 海辺の蜂  るるりら ('11/08/26 15:16:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110826_098_5481p
女性特有の物腰のやわらかい語り方で、
人生を肯定的にみている好感のできる詩です。

>おなかが空いたとか そんな ちょっとしたピンチのときに
>大切な人に笑ってもらえることを願う
>そんな単純なことで 恍惚が一個のまるいジェリーみたいに 光を帯びる

ここのところが、一般的普遍的なテーマから、
もっとも身近な問題に展開させる手法は非凡である。

22.5479 : 奴  ようぐそう ('11/08/26 11:19:23)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110826_092_5479p
あまり親しくない知人にたいする懐疑的な見方が書かれているのだろうか。
それ以上でも、それ以下でもない。
懐疑的な説明に終わっていて、その後がどうなるかを知りたかった。
もう少し、掘り下げて工夫が欲しかった。

25.5434 : ハッピーちゃんに  美裏 ('11/08/09 06:11:51)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110809_558_5434p
東北大震災についての詩的言語表現なのだろうか。
「おはよう」という言葉には、未来と、希望、可能性をイメージできる
言葉であると思う。

27.5461 : ぱおーぷる SEA  熊尾英治 ('11/08/19 23:20:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110819_933_5461p
>遠くにはストロボを焚いた弓なりの波
という表現が、
夜の海の異様さをよく現している。
でも、この詩ですと、「崖のような空」といっているので、
圧倒されているのは、空なのだろうか。

でも、圧倒されているのは、海として、読めてしまうので、
「崖のような空」というのは、謎めいた違和感があります。

29.5462 : 無題  大丈夫 ('11/08/20 02:30:11 *1)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110820_934_5462p
きちんと作者の主張は書かれているが、これは、詩ではなく、
小論文というところでしょうか。

32.5467 : 種  小波 ('11/08/22 04:00:18)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110822_974_5467p
種を擬人化した作品だろうか。
「それ」、とか「アレ」とかの指示詞、指示代名詞の多様は、テクストをアバウトなものし、
脆弱にするので、具体的な用語を用いた方が良いと思う。

33.5408 : 新雪の白さと空気の冷たさ  笹川明彦 ('11/08/01 00:02:24 *21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_242_5408p
とても、通俗的な小説風散文、そして、ひらがなのところの会話風低俗的な文章、
総じて、纏まりがなく、文章もぎこちなく上手くはない。

34.5466 : リミテッドラヴ  ブルーベリー ('11/08/22 00:15:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110822_971_5466p
お見合いの場面ですね。
語り手のこころの内面を露骨にあらわしているのは、
おもしろいが、
語り手の中年男を含めた対人的な意識の露骨さに、偏見と軽蔑を
描いているのでしょうが、
別の言い方をすれば、
また、いわゆるセケンテイという日本人独自の保守的で皮相な意識を
皮肉に述べているようにも見えます。

36.5468 : Taroとフランス人形  字ぇ ('11/08/22 20:47:07 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110822_983_5468p
戦前からのシュルレアリズム等の近代的モダニズムの影響を
受けている詩ですが、
ときに、ナンセンスも交えて、選考者に「どうだ」と提示している
様が伺える挑発的な詩です。

37.5429 : Tomorrow's garden  Lisaco ('11/08/08 10:17:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110808_533_5429p
コンパクトに纏めているので好感をもてる詩です。

でも、時間の移動を内容に盛り込んだのだろうけれど、
通時的な言葉が多用されて、そこまで、
時間にこだわるのも逆に不自然です。
「昨日の」「今も」「今日も」「明日が」「明日の」これだけ時間の言葉を
この短い詩に乱発している。

38.5457 : 遅すぎた、恋。  一人の少年 ('11/08/17 00:51:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110817_838_5457p

恋は盲目というけれど、
恋心が強ければ、強いほど、語り手の一方的な願望として、また思いとして
語り手の都合の良い彼女像をつくるものです。そして、
その正当化が自己愛の恋愛エクリチュールになる。
恋愛詩は、そういうものになってしまう傾向になるのだろうか。
ひとつの方法として、
それを防ぐなら、自分を書くのではなく、彼女のことを書けばよいでしょう。
彼女のあり方を通じて、自分を知れば、べたべたなものでない、大人の
客観的な目線の自分の内面が表れてくるのではないだろうか。

39.5445 : * a ceremony *  未来子 ('11/08/12 10:39:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110812_657_5445p
戦前の文語調の詩の方法を用いて、書かれたのだろうか。
古い抒情詩である。

40.5464 : akane  南 悠一 ('11/08/20 13:14:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110820_943_5464p

狙い過ぎな部位が不安定な作者の筆圧と共鳴していて内部を見せていく。
表記の位置が作者等身に一致しているため不可思議な化合を起こしている。


一連目のこころの動きの表現が、上手だと思いました。

回顧的恋愛抒情詩。
詩の手法として、もっとも書きたいものを、いかにして
書かないようにするか。というものがありますが、
それは、作者の主観的な、その一義的な表現を排して、詩の可能性を広げるからです。

>秋、飽かねえ、なんて洒落てみせた僕に
>バカね、と言っていた君を思い返す
こういう表現は、作者は言いたいだろうけど、読み手にとっては、
直接的で、どうでもよい、つまらない表現のように思えます。

四連目の、屋上のくだりは、滑稽な部分ですが、
語り手が、真面目な表情でエクリチュールしているので、
おもしろかったです。

41.5458 : 竜の匂い  るるりら ('11/08/17 10:11:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110817_855_5458p
コミカルに、軽快に言葉が運ばれていくので、
ここちよく読めていきます。
後半の龍のくだりは、
日本の神話の「産む」のあり方を暗示しているようで
興味深かった。

43.5455 : パパの日曜日  atsuchan69 ('11/08/16 00:20:23)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110816_779_5455p
家族の日常にたいして、語り手パパが非日常の世界の
旅をしているのでしょう。
世界の終末のようなところまで行ってしまうのだから、荒唐無稽だけれど、
非現実的なのは、広義にいえば、
荒川洋治の初期の地図の旅の手法の、延長上にあるのでしょうか。

この詩のユニークなところは、語り手がユーモアを交えて、
一人ボケ、突っ込みをしているところです。
詩のひとつの手法として、新しい手法だと思う。

45.5449 : 反り返る筒  ちーちゃん ('11/08/13 22:37:28)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110813_718_5449p
名詞の持つ特性をトリッキーに組み合わせた、一種の洒落でできているが、
それ以上のものではない。

46.5411 : 中央広場  美裏 ('11/08/01 06:16:51)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_246_5411p
作品から特に目立つのは、
他者への偏見、その他者にたいするサデステックな感情が
書かれているということだろうか。

47.5456 : 再建  无 ('11/08/16 00:38:46 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110816_781_5456p
これは、メタ詩でしょうか。
随分と挑発的な詩論にもみえる。

49.5446 : 母への追憶  furance ('11/08/12 23:20:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110812_680_5446p
暖かい愛情が伝わる良い詩です。

52.5443 : 凹廓然無聖凸  RetasTares ('11/08/11 23:38:46)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110811_645_5443p
文字をパズルにした絵画のようです。

どういうわけか、題材として糞尿が好きな投稿者が、
多いですね。こういう言葉は、ごく稀に使うと大変、効果的なのですが、
垂れ流すように使っては、頂けません。

53.5430 : 下肢金かし女  ひかり。 ('11/08/08 19:52:25 *16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110808_544_5430p
どもり、失語症の言語感覚を文字化したような作品ですね。
詩のありかたとして、
こういうものもあってもよいと思う。

54.5426 : 蜂  右肩 ('11/08/05 06:12:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110805_435_5426p
語り手が、他者に対する、また他者が自己をみる目線には
寛容であるけれど、自己が自己を見ることには、
厳しいというこころの動きを、
表しているのだろうか。それが「涙」の表現で
「恐ろしい渇き」となって感得されるのだろうか。

なぜ、蜂でなければならなかったのか。
詩の多様性が持つ、
この謎めいて分からない心地よさは、この詩から
感じられませんでした。

56.5436 : (無題)  かもめ ('11/08/09 20:34:10 *4)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110809_573_5436p
未経験な世界の「  」を、日常語の比喩で巧みにあらわしている
のが新鮮でした。
テクストから、言葉の揺らぎみたいなものを感じられて、
不思議な後読感です。

59.5435 : 鼻血  笹川明彦 ('11/08/09 09:49:17 *13)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110809_562_5435p
鼻血のことで、だらだらと、散文調で書いていくが、読んでいるうちに、
どうでもよいことが、馬鹿馬鹿しいことが、
実際にありそうな設定なので、案外リアルさを
感じて読めました。
最後の一行で、この散文は詩になったようです。

60.5420 : 希望氏  森田拓也 ('11/08/04 03:39:07 *1)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110804_404_5420p
いつもより、良い出来栄えだと思います。

>なぜ、悲しく見えるのか?
>ぼくは、その理由を知っている。
>けど、言わない。
>きっと、馬鹿にされるから

言ってみると良いかもしれない。
新しい世界が、見えてくるかもしれない。
詩を書くということは、実際恥ずかしいことでもあります。

61.5433 : 孵卵する朝の白い  サティ ('11/08/09 00:31:36 *2)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110809_557_5433p
世界の姿と、作者の心境を「白い朝」「美しい朝」の比喩に託して
表そうとしたのだろうか。
静かな趣をもって、語られているので、抒情的な好感がもてる。

62.5442 : 野菜  黒髪 ('11/08/11 00:03:28)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110811_617_5442p
擬人化をもちいて、暴力を書いているのだろうが、
かなり自虐的である。

64.5416 : やま  サティ ('11/08/02 08:47:22 *1)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110802_327_5416p

>君は僕を許してあげてほしい
>あせらずとも
>哀しみはいずれ訪れるから
>君は僕を許してあげて
自己愛の極みを書いているのか。
こんなセリフをはいて、女性に迫ったら、どんな女性も
気持ち悪くて逃げてしまうだろう。
作者の精神構造が心配になります。 

65.5413 : 自分は見た  んなこたーない ('11/08/01 23:15:03 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_305_5413p

最後まで、きちんと読める。
この既視感を既視感のまま紡いだのは、ただただ勿体なく感じる。


物語のサビの部分を、いくつもの断片をつなぎ合わせて、作られているようで、
バラバラで纏まりがない。
でも、それぞれの、詩的メタフアーは、ユニークで、
男が便器に顔を突っ込んでいる場面の断片が、
ホラー風であり、
ナンセンスで、面白い出来ばえになっている。

66.5418 : 犬  ちーちゃん ('11/08/03 01:17:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110803_369_5418p
犬について、だらだらと書かれた散文である。
自分が書きたいことを書いているのだろうが、
読み手としては、多分大方は、興味のない事を書いていて、
語り手と読み手との距離が離れすぎているような作品である。

68.5412 : おかあさん  蓮枯 ('11/08/01 22:44:08)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_299_5412p
ダムの比喩と、多分、すべての成果が、間もなく水没する女たちの家族の苦悩が、
対比的で、効果的に良くできていると思います。
三連で結論的になり、急ぎ過ぎて、最後の「・・・・・・」は、
別の違う表記を考えた方が良いでしょう。
この詩の場合、女を、題名にこだわらずに、
いかようにも解釈出来るところが
興味深いです。

70.5414 : 八月の印象  かもめ ('11/08/01 23:22:38)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110801_310_5414p
短歌集のようです。
>すくわれて すくわれなくて小金魚 明日の方へと一斉に向く
この短歌が良い出来だと思います。

71.5422 : MMO  J ('11/08/04 17:15:08 *9)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110804_417_5422p
RPG、コンピューターゲーム風物語で、
これを詩という枠でとらえてよいのか疑問です。

73.5427 : 系統樹  yuko ('11/08/05 11:25:46)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110805_437_5427p

一定の位置は保てている。ただ単体として最後に行くにつれ痩せている。構成と言葉の記号性を操作できていない不安定さがベースフォーマットに記号体系を変更しフォロワー文学を為していく一定量産の中で揺動している。洋服を着ていて、それがはっきりしている技術作品であり、多用性にプラスティックの歪みも廃棄されない位置に居るように見える。フォロワー文学の側面態度として一定の部位には居る。


ただ、鮮烈な語彙がいくつか現れるのが、極めて印象的である。
そこには、きわどいまでの残忍性を含んだエロスのようなものが
漂っています。
ただ、詩がイメージとして伝わりにくい。
あまりにも、懲りすぎた表現になっていて、
何に、焦点を当てた作品なのか、分からなくなっているのではないか。

75.5424 : 地獄博士  黒髪 ('11/08/04 18:57:35)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110804_423_5424p
たわいのないエンターテイメントな物語です。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

5月分選評雑感・優良作品

2011-06-28 (火) 20:40 by 文学極道スタッフ

(文)浅井 康浩 /平川 綾真智 (編)織田和彦

19.5172 : カラカラ帝。  田中宏輔 ('11/05/02 03:52:49 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110502_441_5172p

今、機会がありケージに関する文章を書いています。呼応するものがあり、興味深かったです。

未来派があり、機械賛美戦争肯定が芸術に反映され、ダダで全てが覆され、オリジナルと統合の概念が曖昧になり、シュルレアリズムに引き継がれ、機械やコンピュータの日常進出は、エリオット等の「荒地」を用意し、生と死が輪切りの瞬間対象へと横滑りしていきます。

反芸術、反詩という側面が切断された言語統制から人称の横滑りへと派生し、メール、SNSなどの発展に「瞬間(刹那)」が生む人格と対象が言語という他者を拠っていきます。言語操作とは他者という鏡体からの自己操作です。 切断と糊付けは、解体と新たなる極地への自己眺望です。 横滑りと脱線に還ってくるのが、不思議でたまりません。

12.5193 : 骨。  田中宏輔 ('11/05/09 00:01:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110509_777_5193p

生殖行為によって命を生み出すという営みは多くの動物に共通する創造行為ですが、さらに衣食住をも高度な技術によってつくり出す行為は人間存在を現し、かつその存在基盤となってくるものです。

「どの、骨で、・・・・つくらうか。」

このフレーズでリフレインされる作品には、何か神的な力を持った話者が「骨」をガシリと握りしめ、あたかも工作でもするかのごとく似非の生命の形を組み立てていきます。
ここに示されるシンボリックな意味あいは多様な解釈性を含み、単調な言葉の構成の中にも奥行や深さを伴っていて、作品の雰囲気を作り上げています。

5204 : コードネームはカモメ  草野大悟 ('11/05/10 22:50:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110510_842_5204p

「可愛い。 」という評価によって推されています。
が、ただ本当にそれだけです。

物語がかたられるモチベーションは、ただ、

どこかの国のエージャント、そしてコードネームという物々しい名称と、
>おかあさんの髪ひっぱったり男の子をけとばしたり
という行為のギャップと、そのギャップを印象づけるための

>あたしの かかとおとち(し)は すごいのだ
>ほら、あれよ 上からの指令っていうの? あれ
>まいにち 超いそがしいあたしの ただひとつの息抜きはおふろと湯上がりの一杯ね
>うふっ

という動きやセリフは、名称とのギャップによる上から眺められた「可愛い」という感想をひきだすにすぎないように思える。

少年が、少女が「何か」に対してたたかう、という設定がなされる場合、もちだされてくる疑問は「なぜ成年でなく、少年があるいは少女が戦うことになるのか。その合理的な理由はなんなのか」という問題提起がされていたように思う。

それは、ガンダムのアムロから、エヴァの碇シンジまでに通底している。
もちろん、この作品の「あたし」も,

>だって いつ 例の、「上からの指令」がきて 任務につくかわからないじゃない

という以上、その系譜につらなることになる。

なぜ、少女たちは、「戦う物語」において、被弾したり、傷ついたり、死ななければならないのか?
この作品においても、なぜ「あたし」は、「上からの指令」で、

>パキラをやっつけたり
>おかあさんの髪ひっぱったり
>男の子をけとばしたり

しなければならないのか。

問われなければならないのは、「上からの指令」を受けて「任務」のために動き回る「あたし」の身体の動きそのものの矮小さと、「エージェント」「コードネーム」の誇大さのギャップの「可愛らしさ」ではなく、
動き回る「あたし」の身体の物質的な運動と、それを引き起こす「上からの任務」の「意味」の乖離ではないだろうか。

アムロや碇シンジは、あるいはララァ・スンやアスカ・ラングレーは、なぜ戦っているのか?
戦っている身体的な運動は、戦闘を引き起こすことになった数々の言説や、無数の意味と地続きになっているのだろうか?それとも、どこのだれとも知らない「大人」が犯した失敗によって引き起こされた拡大する戦線に、局所的に投げ込まれただけなのだろうか

少年や少女らは、みずからが局所的に戦っている戦闘の意味を、(なぜ起こったのか、なぜ戦わなければならないのか、等)みずから理解しているというよりは、「上の」レベルの人間が「和解」なり「降伏」なり「勝利」なりを宣言しない限り「戦闘」を中止することのできない空間に投げ込まれたまま、ひたすら疲弊してゆくだけの存在にすぎないのではないだろうか。

そのような構造を、「少年あるいは少女の戦い」という物語は抱えてしまうのだが、
「あたし」はといえば、

>任務を完遂したわ
>うふっ

という無邪気さを振りまいてばかりの、そして、任務を終えたあとの葛藤でさえ、

>むじゃきをよそおってなんなくのりこえ
れる程度ことであり、作者の興味やモチベーションもそこにとどまることでしか維持されていない程度のものだと感じる。

5234 : 火の始末  Q ('11/05/21 00:09:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110521_188_5234p

非常に大雑把に分類してみる。
この作品を4つのカテゴリーに分けるとするならば、
1 一行ごとに「 」で閉じられている発話の連続体
2 最終に現われる引用群
3 「 」で閉じられることのない発話の集合体
  ある程度の行数が「 」でまとめられている発話体
4 その他

そして、この作品を読むうえで、中心となるのが、1と3のように思う。

>土の中に、
>埋められた、震災の犠牲者のその瞳が、
>いっせいに、この、東京の、
>道路やビルの壁に花開いたら、
>きっと多くの人が、気持ち悪いって言って、
>逃げ出すだろうけど、
>正直、そんな風景を望んでいる

物語の構造は、ここに簡潔に描かれている

東北大震災、という物語がまずある。
そして、中心/周辺 (東北/東京)。

そして仮定する
1 がおそらく中心(東北)の言葉であることと
3 がおそらく周辺(東京)の言葉であることを。

ここまでは容易に理解できる。
では、なぜ、このような一見まわりくどい書き方がなされるのか。
それぞれのカテゴリーの文章を抜き出してみる


「明るいね」
「冷蔵庫も、扇風機も、すべてが明るいね」
「ここにある言葉は全部がらくただけど、」
「それが明るいね」
「優しい言葉を」
「うるせぇ!世界中のろくでなしが、
 まとめてかかってきても、
 逃げちゃうから!」


「ょ、ってつけたらかわいくなるって思ってる
 糞みたいな書き手を全部ぶっ殺したい
こんな俗っぽい本音を正当化するために、
長々と書くんですよ!
分かりますか、諸君、世界は、くだらない
描写で埋め尽くされて、
まさに、ウンコカスですよ、諸君!」

1のカテゴリーに現われる特徴は、
A→B B→C A→C でもなく、A→B C→D でもない。
はじめの発話は、次につながる文章によって、次から次にずらされてゆきます。
そして発話される言葉は、肉体にまとわりつくような「私性」が強く感じられます。

3のカテゴリーに現われる特徴は、

>世界は、くだらない描写で埋め尽くされて、まさに、ウンコカスですよ

>はっきりいますが、日本語が大嫌いなんですよ、
>この不器用な言葉が、いつだって、草葉の陰で、泣いているのを、「うえーんうえーん」と、(変換することしかしない)

というように、「世界」の、あるいは物語全体の意味を、語ろうとします。

ではなぜ、中心/東北を語る言葉は、「私」性を強く感じられる言葉の断片としてしか現われることができないのでしょうか。

たしかに、それを納得させる説明は、多数考えつくとおもいます。

そして、そのなかのひとつの読みとして、ジャベスの言葉を接続させたいと思います。

ジャベスについては、ユダヤ人である、といえばだいたいわかります。
「問いの書」「ユーケルの書」という著作があり、特異な書き方の書物を出しています。

「問いの書」における見取り図はこうなります。

恋人たちの物語の不在、中心の不在 / 周縁の過剰、物語の注釈を繰り返し語るラビ

ジャベスは、「問いの書」で、二人の男女を登場させています
ユーケルとサラ。この二人の物語。それはユダヤ人として収容所に送られる恋人であり、書物はこの二人の名前を繰り返し呼び、進んでいきます。
しかし、書物には、二人の恋人としてのエピソードなどは、ほとんど書かれてはいません。
そして意外ですが、この二人を中心にしながら、物語の全編を覆い尽くしているのは、ユダヤ教のラビ(律法学者)の注釈としての言葉となっています。
中心となる二人が不在の物語。そしてその空白を埋める無数のラビの言葉。

ユーケル 白いページは、まさに己の痕跡を見いだそうとしている足跡でひしめいてる
     存在とは、徴し(シーニュ)からなるひとつの問いだ
サラ   夢とは、ユーケルよ、すでに死ではないでしょうか?あなたは余白に暗影を
     賭けます。人間は時を担っています。わたしたちは互いに勝負しているのです。
     時、それは生成であり、一瞬が繰り返す燃え上がる炎なのです

ふたりがこのように交わす会話も、物語の後半もだいぶ過ぎた時に、ふいに現われてきます。そしてこの恋人同士の会話も、A→B C→Dという会話ではなく、つねにずらされながら進んでゆきます。

そして、全編をおおう無数のラビたちの会話

≪おまえは、書物に名をとどめることを夢見る。そして直ちに、おまえは眼と唇が分かち合うひとつのことばとなる≫ レブ・セニ
≪同じインクで書かれた問いと答えは、徴しであり皺である≫
≪おまえが選んだのだ≫とレブ・エローダは言うのだった。≪そしておまえは今、自分の選択の意のままだ
ところでおまえはユダヤ人であることを選んだのだろうか?≫
≪おまえが黙る、私は在った。おまえが語る、私は在る。≫ レブ・モリーヌ

ラビたちの会話は、サラとユーケル、この二人の物語でさえ、ユダヤ人社会においては、過去からずっと語り継がれてきたユダヤ人としての経験の一片であるかのように、「ユダヤ人の歴史」の一ページとして包摂し、語ることが可能であることを示しています。

ではなぜ、ホロコーストの犠牲者である恋人たちの物語は、恋のエピソードや、それぞれの人柄を書くことで、ふたりの事実に接近する方法をとらずに、語られるエピソードもなく、常にずらされながらでしか会話が成立しないのでしょうか

ジャベスはこう言います
「不幸にもユダヤ人にとって、強制収容所、ホロコーストを経たあとでは、あの物語(サラとユーケルの物語)もありふれたものでしかない。細部まで語る必要はない。彼らは収容所に送られたと、と言えば、それだけでユダヤ人には物語全体がわかる」

そう、中心の物語は、主体を設定することなく、声さえ響いていれば、細部まで語る必要はないのだといいます。

だとすれば、「火の始末」の 1のカテゴリーである声も、細部を語ることがなくても成立するのかもしれません。

では、3のカテゴリーである声は、世界を、そして物語全体を語ろうとする声は、
ラビの会話のように、震災の当事者の物語を、大きな物語のなかのひとつのエピソードとして語るような形で響いているでしょうか。
もちよん、読めばわかるように、そのような可能性は感じられません。
それはなぜでしょうか。
きれぎれの声となった当事者の言葉を、周縁の大きな物語を形成する「世界」は、つつみこむことができない。
この事態は、非常に興味深いものであり、また、東北大震災を語る「作品」としても、
いままでにあらわれてきた「震災作品」とは一線を画すものであるように思います。

5235 : 金曜日  ゼッケン ('11/05/21 15:13:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110521_217_5235p

ジョーンズ調査官、か。
わかりやすい、缶コーヒー「ジョージア」のCMでおなじみの、だろ?

15秒枠のCMなら、これ、スピード感あっていけますよ。シリーズ化も可能じゃないですか、この書きだし。

シリーズ化、できそうか?

ええ、ただ問題がありまして。
この書きだしじゃ、トミー・リー・ジョーンズが、「演じたい」といわないとおもうんですよね。
いやいや、年齢的にアクションがムリ、とかじゃなくて、この「おれ」なんですけど、人物造形が、ほとんどないんですよね。
いままでの、「宇宙人ジョーンズ」のキャラに頼りすぎ、っていうか。
主人公の作りが浅い、っていうか、ディティールはいってないでしょ。
だから、読み手を一瞬アクションで引き付けても、人物が書けてないから、CM観たひとも興味が持続しないと思うんですよね。

厳しいの?

厳しいですよ。「子供」にしても「個性」がないですしね。
セリフが磨かれていないのもイタイですけど、
これは、なんとかいじることできますけど、

>うしろの客が白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる
>いつになったら本部に向かうのかね? 
>おれは催促され仕方なくギアをトップに入れる

このチョイ役なんて、ただ、物語をすすめるための駒ですもんね。
上司なんだけど、人物に特徴がない。
「白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる」だけで
「いつになったら本部に向かうのかね? 」がセリフの役なんて、どう魅力的なんです?
このチョイ役は、「柳葉敏郎」あたりが適任だと思うんですが、まず、こんな人物設定なら、断ってきますね。もっと魅力的な人物にしないと。
いや、別に大幅にイジル必要はないんです。
言葉のクセ、ちょっとした仕草、その人物のこだわり、なんかを入れるだけで、魅力はグッと上がるもんです。

つまりこのままじゃ、キャストさえ決まらない、と?

ええ、アクションと突飛な設定だけじゃ、すぐ飽きられますよ。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

4月分選評雑感・優良作品

2011-05-28 (土) 22:41 by 文学極道スタッフ

4月分選評雑感・優良作品
(文/編集)浅井 (文)織田 (文)りす

5110 : 四月になると  田中宏輔 ('11/04/01 01:58:22 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110401_466_5110p

これは田中さんの初期の作品だということですが、ぼく的には、余計なことまで「語りすぎている」近年の作品より、うまく語れない事柄を前にして、言葉の前で立ち止まっているこの作品の方が好みです。
特に授業風景をモチーフに、周囲の同級生に同調できない感性をもった少年が、教科書や授業とは関係の無いところで、下敷きに陽光を反射させ天井に光を当てる遊びを通して、同級生たちとある種の感応を行なっている。
このあたりの表現の露出に、普遍的な何かとの接点を見出すことのできる作品だと思います。

5131 : シャットダウン(#idou doubutsuen.)  村田麻衣子 ('11/04/07 22:19:55 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110407_728_5131p

たいしたことが起こってる わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。なんなのなんなのっっ
だれのかわかんない毛布かぶってたらもう

わたしだれだかわかんなくなってパジャマのなかのふわふわを感じるあのいっしゅんをうわまわってくれないし わたしがこのかんかくに囚われてないとってあわてて部屋を片付けて、鏡をみたら知らないひとみたいな顔してるから、しらんぷり 

この一度読むだけでは意味を把握できない感じ、重要なことのようにも思えるけれどもそれがグダグダ感でまみれている感じは、最後に「あなた」に抱きしめてもらうことで物語を回収させてるんで、読み終わった後に、ちょっとザラつく感じにしか残らないかもしれません。けれど、何度か読んでいると、

>たいしたことが起こってる
>わたしがこのかんかくに囚われてないとって
という一文が非常に際立ってくる。この切迫感は、どこからきて私をとらえているのか、っていう疑問もわいてきます。これは
>わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。
という言葉が示す通り、「私」⇔「あなた」の図式にすっぽりとおさまってしまうように見えます。

実際の作者が、どこまで意図的にこの図式から抜け出そうとしていたのか、それとも当てはめようとしていたのかは分からないですが、「私」側の自己やアイデンティティ、あるいはリアルさはあえてカラッポに設定してある。

>(自分の部屋にも関わらず)電気も朝までつけっぱなしだし デスクのうらがわにはなにがあるかわかんない 
>だれのかわかんない毛布かぶってたらもうわたしだれだかわかんなくなって
>わたしいまマネキンみたいな顔してたの

この「私」のカラッポさは、一見、「あなた」に「毛布ごと抱きしめてくれ」たために満たされるのかと思いますが、どうも、抱きしめるだけではみたされないものを感じさせる切迫感です。

個人的な感想を言えば、この作品において主題は「世界性」だと思っています
ただ、世界性と言うものをぱっと見わからないようにしてある。それはおそらく「世界性」というものを把握しきれていないからでもあるし、扱いきれないからでもある。
だから、「私」「あなた」という読み手にとって受け取りやすい物語に仕立てて、しかしなおかつ、「私」「あなた」の内容はカラッポにして物語が発動しないようにされているという、結構、倒錯的なアレンジがなされている。
この「世界性」というのは、「東北大震災」でもいいし「アメリカ/イスラム」でもなんでもかまいません。

岡田利規は「三月の五日間」でそのような「世界性」を書いています。
内容は、「ブッシュがイラクに宣告した「タイムアウト」が迫る頃、偶然知り合った男女が、渋谷のラブホテルであてどない時を過ごす」物語。

「これは俺の、勝手な読みなんだけど、たぶんあともう数日で、俺らホテルを出て別れることになるっぽいじゃん。そしたら、俺の予想だけど、そのときには戦争も、たぶんもう終わってるんじゃないかと思うんだよね。甘いかな。でもどう考えたって力の差は歴然としているわけでしょ。それに湾岸戦争のときだって、一気にピンポイント攻撃で即終わったし」「それで、あれ? ということはもしかしてこれって、ウチら戦争のあいだずっとやりまくってたってことになるわけ? それやばくないか? みたいにね、思うわけ。もしかしてウチらがラブホですごいペースでやりまくっているあいだに戦争がはじまって、しかも終わっちゃったの? みたいなね」
「ホテル出て別れて、俺ら、それぞれ自分の部屋に戻るでしょ。それでそれぞれの、普通の生活を、またはじめるわけでしょ。そのときに久々にテレビつけるじゃない。ネット見たりね。それで、あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争、みたいなね。(略)でも、もしそういうことを思えたらさ、なんというか、歴史とリンクしてるじゃんウチら、みたいなさ。」

切迫性のレベルに濃淡はありますが、「世界性」を書くときに、それを正面に据えてかくことができないという事態がたしかに「現在」においてあります。
「世界性」を真正面から書くことが、あるいは扱うことが困難な現在において、いかに身体的なレベルに落とし込んで書くことが可能になるのか、という点で、村田さんの作品は良いと感じました。

5136 : 着床痛  yuko ('11/04/09 21:58:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110409_812_5136p

タイトルがとても良いと思います。
最近のyukoさんは、上手さを誇示することなく、自然な言葉使いを
重視しているように思います。

余談ですが、僕は、雛鳥さんとyukoさんの作風がとても似ているなと思っていて、
名前を隠して読んだら、どっちがどっちか区別できないかもしれません。

良い詩なのに無造作なところが調所にありもったいない。
>よわい角が脱皮して
>赤い伽藍を
>破る
>呼び声を軸索にして
こういうのは勘弁していただきたい。

19.5137 : 春と双子  yuko ('11/04/11 18:24:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_841_5137p

昨日友人3人と仕事帰りにスナックに飲みに行っていたわけですけれど、そこのママとマスターが実はダブル不倫の関係にあって、しかも二人とも50代半ばでそこそこの家庭もあり、などという非常にドロドロした話をえんえん聞かされ、あまりにもグロ過ぎて悪酔いして帰ってきたわけですけれど、このyukoさんの引き篭もり系少年少女の話を読んでいると、熟年ダブル不倫・絶倫スナック系の話とは文化的な構造が随分違う上、世界もまるで違ってきてしまっているような気がします。そこでぼくは思うわけです。生きるということは、もっとえげつないことなのではないか?
>網膜の欠損した
>わたしたちの眸
あらかじめ「視力を奪われている」というメタファーには、引き篭もり系と熟年ダブル不倫系には共通項があります。
あるいは、
>集約された嘔吐の
>王国
外の世界に恐怖心を抱き嘔吐する少女と、飲みすぎで嘔吐するおっさんの間に、メタファー的にはいかなる差異も見出すことができないわけです。ぼくは最初に文化的構造と世界の違いに触れる話をしたわけですが、メタファーには異なる文化と世界に、共通する同じカテゴリーを与える力があるということをこの作品が証明しているわけです。

5138 : (無題)  クラブ ('11/04/11 18:26:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_842_5138p

「簡潔シャープに面白くて何が悪いのか?」「これは大ちゃんのエンタメよりも切れ味鋭く更に良いと思う」という言葉によって推されています。

>以上全ての試みは除霊の失敗を物語るのみで終わった
という言葉がしめすように、

>パンダのイッサに殺意が芽生えた
>悪霊にとりつかれたパンダの除霊の為に鳥の祈祷師を多数呼び寄せる

と次々と繰り出されるのは、ひとつのショットが連なったシーンであることがわかります。

最悪なのは、「以上全ての試みは除霊の失敗を物語る」とか言っているのに、
ひとつの失敗が、さらなるドツボにハマるようになっていない点だろう。
一つ目で成功したら、終わっちゃうんだから、実行したら必ず失敗。これはいい。
失敗したら、その失敗をとりかえそうとして、さらに無茶をして、さらに失敗。
さらに、そのでっかい失敗をとりかえそうと、起死回生のアイディアを出すんだけれども、これも失敗。
さらにドツボにはまり込んで、状況が加速度的に悪化してゆくのが、お手本なんだけど、

悪霊にとりつかれたパンダ   → 何をするかわからないハラハラ感
精力剤のマカを飲ませる    → インポ(笑)
ミッキーマウスの首を刎ねる  → 幼児性、ねたみ
トラとリスを仲良くさせよとする→ バカ(笑)

というように、実行するギャグが、どれも、均質で、加速度的に状況を悪くしているように見えないことだろう。

もちろん、繰り出されるギャグシーンについて思いだされるのは、初期のエディー・マーフィあたりの路線。
エディは、自分の黒人としての弱い、あるいは低い立場を利用して、ブラックユーモアを織り交ぜてギャグにしたことが、アメリカ社会への批評となり笑いとなったのだけれど、
この作品では、ひとつのショットのもつネタは、「話者」自体のバカさ加減のドタバタ感を示すことはあっても、トータルとして、この馬鹿なギャグをやることで、「話者」自体が、ギャグをやる前と、ギャグが終わった後で、どのように変化しているのか、などや、
低い立場にある、馬鹿な「話者」が、このショットを撮ることで、どのような批評が可能になるのか、という点が突きつめられていない点が、粗雑さを感じさせてしまう。

5152 : 朝にのぼせる  葛西佑也 ('11/04/20 01:23:37)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20110420_044_5152p

ここではりす氏の簡潔で正鵠を射た批評をのせます。

最近、サンデル教授の『ハーバード白熱教室』のおかげで、「正義」という言葉が 流行になっている背景があります。そのなかで、「嘘」の数を「正」で数えるという 逆転的な発想が面白いと思いました。
また、その発想から理屈を導いていくのではなく、 古びたヒーター、見知らぬ女の足、鳴らない電話機、背中に文字を書くこと、バスソルトを 入れた風呂、といったあくまで私的な空間の中で、「正しさ」という曖昧な観念に触れながら、身体的に感受していく様が、気負いのない言葉で綴られているところが評価できると思います。

5157 : レディオウェーヴ ブラザーズ  大ちゃん ('11/04/23 17:49:03)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110423_103_5157p

「エンタメをきちんと作っている。」「おもしろければそれで良い」等の言葉によって推されています。
しかし、どうみてもつくりの中途半端感が否めないというのは誰もが感じてしまうでしょう。

>俺を好きだと言った口は動いてなかったけどダイレクトに伝わる
>「小沢元代表に車で3回轢かれた。」そう書いてあった
>「お前、熊田Yのとこに行くのか?」無表情に荷台を指差した
>高速道路を二人乗りで

路線としては、サイレント喜劇と幼児性がテイストとしてあり、その発展形としての系譜には、たとえば、ローワン・アトキンソンがいるわけですが、そこの系譜に連なるために必須の、「古い概念の破壊」などの創りこみが徹底的にないと感じます。

5159 : 祖母  Q ('11/04/25 06:57:42
URI: bungoku.jp/ebbs/20110425_162_5159p

読み手は常に書かれた作品の向こうに、書かれてはいないもの、書かれなかったであろう出来事や人物を想定するかぎりにおいて、書かれることで名指される人物を明瞭なものとさえ感じることができる

しかし、書き手においては、その書かれるべき実体は本来、失われようのないものとしてあるのかもしれず、だからこそ、
>あなたはもう、みえないばかりか、体からは煙を吐き出し、
という事態になったときに、書き手にとって「あるべきはずのものが失われてしまった事態」を書くことができないのではないだろうか。
それは、失われてしまって、もう現前しないのだから。喪失が書き手から言葉を奪う事態。
だからこそ、そこに具体的な「思い出」や人物像を当てはめることはできない。

「祖母」が書き手のなかでリアリティをもつのは、失われたものの大きさに対して、それを覆うことのできない言葉や思い出の矮小さではなく、日常的な言語感覚を解体してゆく仏教の、あるいは宗教の、リズムであり、その一語が膨大な解釈や経典を必要とする仏教用語であって、解体されてゆく言語の日常性が、さまざまな「祖母」に重ねられた意味をそぎ落としてゆくことで、わたしたちが見るものは、ほとんど骨そのもののようにそっけない「祖母」という二文字だけであるように思う。

人物の死という出来事は、その出来事のあっけないほどの結末に反して、「わたし」にさまざまな恣意的な記憶のストックを死の物語のなかに導入させてしまう
そのような事態が、死と言う出来事を踏みつけるようにして訪れてしまうとき、その死をどのように平易に、あるがままで書くことができるのか

5163 : 砂丘  久石ソナ ('11/04/26 23:13:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110426_234_5163p

各連の冒頭に近い部分を抜き出してみる。

>窓から零れる白昼夢は静かに蒸発する。

>時間を知る半透明な羽をなびかせて、

>にがい眠気を唆すとき、

そこには「蒸発する」。「なびかせ」る。「そそのかす」というように、時間の経過をあらわす動詞が織り込まれている。
これらの動詞は、時間の経過によって、何かが変わってしまってゆく様をあらわしている言葉なのだが、接続された言葉によって、意味を奪われてしまっている
「蒸発する白昼夢」「時間を知る半透明な羽」「にがい眠気」
このようにして意味を剥奪された言葉は、時間の経過からも離脱して、凍えたように孤立する。

このような時間の剥奪を意識的に行ったので有名なのは吉岡実の「静物」だが、これと比べると明らかに吉岡の手際の良さだけが目立つとだけ書いておくことにする。

この作品では、孤立した時間の中で、終わりに
>かたほうの夜は未熟となる。
>老いた雲間から、腐敗を咀嚼した花びらが降り続けても。

双方からの時間の経過が書かれているけれども、このような抒情的な書記法で、凍えた言葉を包みこみ回収する方法は、どのような積極的な意味を持ちえないということは誰の目にも明らかだろう。

意味を奪われた凍えた言葉たちが、一枚の薄い氷の膜のように、作品の表面を覆ってゆくことは、なにも新しい事態ではない。
問題は、その意味を奪われて作品の表面を覆っていった言葉の上に、どのような物語を配置してゆくのか、という手際の良否であり、その物語によって、凍った意味たちが、いかに違う文脈で躍動するのかを読み手が認めるのかだろう
したがって、この作品は、ナンセンスにさえなりえていない点で、手際の粗雑さだけが目立つ作品となっている。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

2月分選評雑感・優良作品

2011-04-05 (火) 21:02 by 文学極道スタッフ

2月分月間選評雑感・優良作品
(文)織田和彦

東日本襲った地震の影響等々、いま大変な状況がありますけれども、あまり胸を痛めて足をすくませてばかりにもいきませんので、今月も頑張っていきましょう。
遅くなりましたが2月分優良作品に選出された三作品について触れておきます。

「数式の庭。」-田中宏輔

田中宏輔は詩人なのか?
この「数式の庭」を優良に推したのは(私ではなく)別の発起人なのですが、改めてよく読んでみるとなるほどよく書かれている。よく書かれているのみならず、ずば抜けた思索力を有する詩人だと感じます。考える力です。詩人というものは感性で対象を捉えるものだと考えがちですが、感じるということもまたロジックの体系なのだということを田中宏輔のこの詩は教えてくれます。時代の潮目にはこれまでの秩序が解体され、新しい構造体が見るまに現れます。おそらくこれは彼のセクシャリティとは無関係ではないと思われるのですけれど、他の人間なら考えなくて済むような場面に数多く直面し、思索を深めてきたのことが今の彼を作っている。こういったゼロから発想し、思考する力はこれからもっとも求められてくる能力ではないでしょうか。
そういった意味で今前衛に立ち注目されるべき詩人の一人だと考えます。

「テーブルで一人パンを食べるということ」-右肩

小説とポエジーの間で揺れるような言葉の粒子を紡ぐのが彼の詩ではないでしょうか。その技芸は職人の域に達している。ワンフレーズで“すべてを”描写してしまう力。突飛な発想でたちまち世界をハートフルに包んでしまう造形力。どれもこれも何度も人生の深い闇を見てきた彼が、届けようとする人間肯定の詩なのだと思います。ニヒリズムを“売り”にする作家や詩人は過去にたくさんいますが、私たちの時代はある意味もっと“深刻”なものだと思います。この作品にも随所に現れるファンタスティックな表現は、時代と交じり合うたび強くなっていくものだと感じます。

「big america」-るるる

辛口の文明批判を含んでいるこの作品、しかし語り口はどこまでも甘く読みやすい。私には初見の人でしたが、その作品世界は、作者や背景の予備知識がなくても親しみやすく、これは教えてできる(あるいは持てる)ものではないので才能だと思われます。ここに安住することなくさらにその持てる才能を伸ばし、新しい世界の語り手として活躍してもらいたい。   

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL