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2011年1月選評雑感・優良作品

2011-02-21 (月) 22:51 by gfds

2011年1月選評雑感・優良作品 

文責/浅井康浩  編集/織田和彦

◆4935 : The Wasteless Land.  田中宏輔 ('11/01/01 00:35:57 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110101_928_4935p

一見すると読書ノートのような引用(の織物)がスタイルとして注目を引くような形になっているけれど、それは表面的な見方だという気がしました。まず情欲があり、それが所有欲へと転じ、語り手が情欲の対象と対峙したとき、鋭く自らの存在とは何かということが突きつけられるという。田中さんが詩を書くという行為に駆り立てられる動機が、ここに表現されているという印象を受けました。書くことはエロスなのだ、という前提がまずあります。欲望を感じるとそれを所有したいという具体的な願望となって現れ、その時突きつけられるのが存在です。欲望する対象の前で自分という存在が何かということが突きつけられるわけです。引用が前面に出てくるスタイルは、オリジナリティへの懐疑を示すものですが、あるいはオリジナリティそのものを否定している。そして何をどのように組み合わせて引用するかに個性が現れ、私とあなたの違いを示す存在の在りようも、その程度のものに過ぎない。ならば引用の仕方に徹底して拘ることで、「私」というものを他と差別化して「同定」することができる。この作品にはそういったメッセージが込められているような気がしました。エロスに引用という知の意匠をまとわせ、存在の探求に赴くところのこのテクストの可能性が見出されます。

◆4943 : 図書館の掟。  田中宏輔 ('11/01/03 00:15:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_961_4943p

エミリ・ディキンソンの書斎、川端康成の書斎、ヴァージニア・ウルフの書斎の遺書。
かずかずの作家の書斎が、持ち主の死後に、保存され、公開されている。
そこに身を置くときに感じるのは、まずなにより、作者の不在、ということと、それでもなお、その書斎という場所が、書き手に属する空間としてあり、彼らの息吹が濃厚に感じられるということだろう。書斎に並べられた本は、その濃厚な気配に包まれながら、いつの日か不在となった主人がページを繰る日を待ち望んでいるかのように、そこに並んでいる。
それに対して、図書館の機能はというと、アレクサンドリア図書館の時代から、記録できることのできるものを記録することであり、そして続く注釈、読解であり、読者の作業場ということだろう。過去の出来事を発展させ、未来をかたちづくるための。そうやってアルキメデスはアレクサンドリアの図書館に招かれ数学、物理学等の未来を形づくる。
そこでは、作家の位置は従属的にならざるを得ない。アレクサンドリア図書館において、アリストファノンは、後学のために、読むべき本の目録を作成する。それは、「規範」となり、それに載っている人々を記憶させるかわりに、そこに載せられていない人々の著作の存在を抹殺させる役割を担った。
図書館の存在はつまり、作者の書斎から本をひきはがし、作者という存在を消し、かぎりなく膨張してゆく。

そのような意味で、この作品の最初に書かれたのが
>人柱法
というのは興味深い。
しかし、図書館は、記憶するに値するものを記憶している、ということもできる。
図書館の膨大なリストは、私たちと関わりをもつ点について、作者の記憶の結晶である著作を読むことによってつながるのではなく、それを読むかもしれないという可能性が無限にある、という関わりにおいてつながっている。

それは、記憶を貯蔵するものが、書物であれ死体であれ、変わりはないように思う。

そして、図書館は、そのシステムがどのように詳細に語られようと、各人の利用してきた個人の記憶のなかでしか生き続けられないものとしてもある。
個人のなかの記憶としての図書館。雰囲気としての図書館。

自分にとって、紙媒体の図書館において感じる喜びは、パラパラと読んでいくことと、背表紙による出会い、分類方法を見てゆくことなのだけれど、死体が本代わりとなっている図書館での、そのようなささやかな喜び、というのはどのようになるのだろうか、気になった。

はやり、
>美しい女性の死者の視線を感じた
というように、顔による出会いなのだろうか。

図書館という場所における個人のよろこび、というものに興味をもつものにとって、この作品は、詳細ではあるけれども、ストーリーの整合性にこだわった緻密な作品としてあらわれ、感嘆はするけれども、感心はできないという微妙な心理に陥らされてしまう。

◆4947 : キューピーと  右肩 ('11/01/03 19:19:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_974_4947p

キューピー人形が象徴するものへの作者なりの語りかけなのだと思います。キューピーは
「素っ裸」なので、本当ならば日常の空間の中では秩序紊乱者として「取締り」を受けるべき存在なのに、このキューピットの形をしたキャラクターは、その毒が抜かれることによって、日常の中に納まることを許された存在です。

>君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。

この語りかけは、しかしいつもシニカルな調子を帯び、

>短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。

明らかにバカにしている調子さえあります。

>頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。

そしてどうも頭部ももがれてしまっているキューピー。

>いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。

ここにきてどうやら作者はキューピーに嫉妬しているらしいことがわかります。キューピーという愛らしいキャラクターに対して。キューピーというキャラクターに仮託されているシンボルに対して。そしてこの嫉妬は循環的に憧憬へ接続していくことで、この作品はある種の賛歌としての特色を帯びてきます。

◆4971 : いちじつ  葛西佑也 ('11/01/17 14:06:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110117_179_4971p

昨日会ったばかりなのに
「久しぶりだね」なんて
おかしいんじゃないの?
そう思ったのはほんの一瞬で
ぼくたちは
その短いフレーズで
全て了解しあった/のです。

……不在着信二件、先ほどまでそのように表示されていた携帯電話のディスプレイは、今ではすっかり寂しくなった。

もっとも共感できるのは、この一連ではないだろうか。
昨日、会ったばかりなのに、別れた途端に、もう、ケータイでつながろうとしている心理。
会わなければ埋められない溝をすこしでも埋めようとし、つながろうとする心理は、なにを求めているのだろうか。その不完全な、声だけの、つながりは、僕の心理のどの部分を埋めるのか。

たくさんのものを失いすぎたぼくたちは、もう「無」と呼ぶには溢れすぎていて、あふ、れ過ぎて、い、て、なにも始めることのできぬまま、夜が明けるのを何度も何度も待ち続けるだけなのです/でした。(誰かが言ってたんだ、「ぼくたちは待つことをわすれてしまった」って。でもね、断言するよ。忘れてなんかいない。忘れてなんか。ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。ただ、ひたすらに。ほら、たとえば雨がやむのとか、夜が明けるのとか……)

僕は、おそらく「僕」自身になりたくないのだ。
僕の身体から「僕らしさ」をどんどん消失させてゆく。
>(生きている意味がぼくにはあるのですか)
僕らしさをどんどん無くしていったその先に、なにがあるのか
>ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。
僕の身体にまといつけたいのは、他者とのコミュニケーションではなく、また他者の存在でもない。
おそらくは、一度、脱ぎ捨てた「僕らしさ」を、ふたたび纏おうとするのだろう。
そのような意味で、次のような短歌は、示唆的だ。

>雨を待つ気分でさわぐ僕たちが ほんとうは誰もいないということ

失っているのは、接触という出来事なのだろう。
僕と、あなた/誰かの間に挿しこまれるはずの接触という出来事。
あなたの「息遣い」「はずんだような声」「心配そうな」「うれしそうな」「いらいらしている」様子。
僕/あなたのなかで、別れた途端に埋めなければならなかったものを、みたすのはおそらく、電話の向こうから聞こえてくる「声」そのものではなく、彼女の「存在」そのものだったのだろう。

彼らはもうすでに少年ではありません/でした。(いつかの少年は女装をしていた。正確にはもう少年という年齢ではなく、女装をすることによって女装をした少年のように見える青年になっていたんだ)
歌声は音声であり、音色からは色が失われ、切り取られたたくさんの風景があちらこちらにちりばめられてい、る。

もう、いやだよ、

と誰かがつぶやいて、ねぇ/聞こえますか?お電話の向こうのあなた/ねぇ、聞こえますか?どんなに悩んでいたって、眠気には勝てないよ。

しかし、上記の文は、過去の互いの接触によってでも、僕自身の空白が埋まらなかったことを示唆している。

「彼」と「彼女」のカテゴリーのなかに自身を位置させること。
(いや、これはかなり安易な考え方なのだが)

自己と身体のなかに、他者の意味を差し込むことで受け身となってゆく、それでいてそれを主体的に生きてゆくという事態。しかし、そのことによって自己が発現するという事態。
自己が他者となってしまった自己を抱きしめてあげることのできる事態。

>ぼくには彼らのことばがわからないけれども、少なくとも彼らの考えていることはわかる。これは通じ合っているということではない/ありません、
>落下したら電子機器からは音声ではなく、声が歌うような声が、ぼくを染める声が、ひびいてい、る。

ぼくは、あなたの「存在」あるいは接触できる「皮膚」とが遠ざかる事態に対応できない弱さがある。
だからこそ、内側に、「彼」「彼女」を閉じこめ、そのあわいを積極的に生きようとする。

>これは通じ合っているということではない/ありません、を拾い上げて、電池パックのある面をズボンの太もものあたりに擦りつける、

世界を自己と接触させる、あるいは距離をおけば痛むものを皮膚に近づける。

◆4980 : I-my-me [pupet makes people]  村田麻衣子 ('11/01/20 06:53:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110120_231_4980p

ディスコミュニケーションがあたり一面を覆っている。例えば引用する。

>かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫   松木秀
このあたりのニュアンスに通底してくるような、ファンシーな対面認識さえもなく。

ティディベアを媒体として通し、その奥に自分をみる、だとか、そのようなものでもなく。
>360°をまのあたりにしたあらゆる内角だから
ティディベア≒自分、というような目線を設定し、その先に、大人の視線を対置しているようにも見える。

けれど、ティディベア≒自分、という図式から発生するイマージュを徹底的に嫌って、ほとんど意味が浮遊してしまっている文章を書きながらも、この作品が実現しているのは、私の眼から発せられる視線の快楽であって、さらにナルシズムまで感じられると言っていいのかもしれない。
もちろん、私とティディベアのあいだには、コミュニケーションが発生するわけではない。
しかし、コミュニケーションが発生しないがゆえに生まれてくるティディベアとしてのキャラクター性(「かわいらしさ」など表層的な特徴)は、わたしによって摘み取られている
>顔の付近がきゅうきゅうになるくらい綿をつめこまれて、目が×になっちゃう
だからこそ、わたし≒ティディベアに近づくのだけれど、
>あのこだってぴんときてないって顔してるでしょ わたしはかおをかく めをくろくして あんな代物、まのあたりにして生存してるなんてひとでないから
という言葉が示すように、それが達成されるわけでもなく、非常に屈折していて、わかりづらいことが多い。しかしその手法は鮮やかで、洗練されている。

◆4985 : アメリカン・ルーレット  ぎんじょうかもめ ('11/01/22 16:57:28 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110122_267_4985p

イギリスのパンクシーンのヒエラルキーの頂点にあるのがピストルズだとするのなら、その入り口あたりに位置するのは、初等教育を卒業したthe ladsであって、もちろんそれらはfailedな奴らだし、そいつらにとって、「アメリカン・ルーレット」は、

ぼくは目をきらきらさせて思った。
かならず死ぬ。
すごい。
そうだよ。

くらいの「やってみる価値がある」ことで、やる、やらないは別にして、将来、その目撃した出来事に尾ひれがつき、何度となくガテン系職場での自分の語り草となることになるくらいだろう。
学校で行われる道徳的規範の、その灰色の、遠回りした、直接的でない、権威主義的な、もってまわしたようなやりかたに対して、対抗するthe ladsにとって、
>かならず死ぬ。
とはわかりやすく、みずからの文化との親近感を感じさせるのに十分だし、「タフさ」を階級文化とするものにとってはなおさらだろう。
だからといって、それを、するかしないか、とは別問題で、アメリカン・ルーレットをすること自体より、the lads、ひいてはそのカルチャーにとって重要なのは、どのように内面化されるか、つまり、ルーレットを前にびびったり、拳銃を持つ手が震えていたり、クソをもらしたりしないかであって、つまり男の尊厳をどのように保ちつつ、トリガーを引く寸前までいき、そこで、どちらともが、死ぬことになるのを防ぐか、トリガーを引いた日には大事件になって警察に尋問されることがオチだし、そんなことはしたくないのだから。
だから、
>だけど、死ぬことなんて簡単『だった』

なんて、警察という官僚機構にどっぷり逮捕されてはまりこんだアホがぬかす言葉なんだろう。
だからこそ、
>ここは日本でスーパーマーケットで拳銃を購入することさえできないのよ。
という言葉につづく
>だからわたしにローラーシューズを買ってよ。

なんて言葉は、中産階級、って、階級なんてそもそもないやん、みたいな日本の平均的児童を視覚的に見分けるツールとしては最適だから、すごく「クール」だし、
>メンヘラみたいな遊びはやめる。
だなんて、勝手に自分でヒエラルキーつくっといて飛び越えてゆく姿が輝いてる。
The ladsなんて、権力者を前にして「あちら」と「こちら」に分けて、自分のマッチョさを、「権力者」が持ってない者として優越感を感じてるだけで、そのじつ労働者として搾取されてたりとかしてるのかもしれないしね。

それにしても、「3」の位置づけはわからない。

>またわたしはその地図上の、その古いことばを読むことなんてほんとうはできなかったのです。

ここが一つのがキ―になりそうだけど、つながりは最後まで判然としなかった。

◆4998 : 白亜紀の終わり  右肩 ('11/01/31 22:42:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110131_365_4998p

>その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、

そのように考えることの、なんと空虚なことだろう。

>どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。

という言葉のあっけなさ、そらぞらしさ。だからこそ、そこから発想されるものに心を打たれるのだろう。
たとえば、それは、「ヒロシマ・モナムール」における岡田英次の「君は、ヒロシマを、見なかった」というささやきなどに通じているのかもしれない。
理解できない事柄のなかをさまようように切りぬけながら、そしてその節々に置いて、あるいは自己としての確固とした決断を重ねながら、それでもなお、

>何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった
という事態をその先に迎えてしまうことがふさわしい、とみずからに感じながら、日々をおくること。
みずからの思考をかさねながら、「異常巻き」が弱い思考をつねにこわしてゆくのだが、それでも思考をやめないでいることでたどりつくのは、

>そのことも「素直に」納得できるようになった
というように、異常巻きにたいする抵抗であり記された言葉が重みを持つとするならば、

>個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎない

つまるところは意味の外側に達したところで屈折し、寒々とした人間の条件をあからさまにあらわしているから、という部分に求めることができるかもしれない。

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2011年1月分月間優良作品・次点佳作発表

2011年1月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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「12月選評雑感・次点佳作作品」

2011-01-24 (月) 22:24 by gfds

「12月選評雑感・次点佳作作品」  文責/浅井・織田 編集/織田

「Jumpin' Jack Flash。」‐田中宏輔 

◆ナンセンス、ノイズ、騒音、カオスといったことがこの詩作品の要素になっている。例えば私たちの生活にある余白。朝起きて顔を洗う。朝食をとる。新聞を見る。意味を持った一つ一つの動作、行為の間に隙間が生まれる。何もしていない時間がある。行為と行為の間にある「余白」の時間。この空隙を禍々しい言葉たちによって埋め尽くしていく。埋め尽くしてやる。この作品からそういう欲望のようなものを感じます。
文脈というものがさしたる重要な要素となっていないこの作品。それを逆手にとると、どこから読み始めても楽しめる。そういう作品になっている。どこから読み始めても良いし、どこで読み終えても良い。詩を読むという行為にエコロジーの概念を導入した最初の作品(?)と言えるでしょう。

「血涙」- 破片

◆10代の学生の頃、下宿で自分にしかわからないようなランダムなメモを、たくさんノートに殴り書きしていたことを思い出しました。ひるがえって現代、インターネットがくまなく普及し、かつて少年のノートの片隅に追いやられていた独り言が、公共空間で共有される。そのことの功罪について考えたくなります。
この作品では「くだらねえ」という呪詛と、「何かない」という呟きが交互に繰り返されます。母親に「どうして生んだの」「どうして生きているの」と訊ねるのも、未成熟な子供のメンタリティでありそのメッセージです。

「わたしはわたしの痛みのために泣いたのに、どうしてでしょう、この涙が石畳全体に染み渡り、ほんの少しでも温度が伝わればいいと思っていたのでした。」

自分のために泣いただけなのに、隣人にその体温が伝わる。ここで「少年」はその体験を欲している。けれど体温を伝えるためには直接、他者の体に触れなければならない。言葉は体に触れることはできない。言葉によって他者の体温を得ることはできないのだ。ということを、この作品は切々と語ろうとしている。

「とりのは」‐津島 ことこ 

◆ なにか漠然としているけれど、取り返しのつかないことをした感じ。 意図したものと、わずかに違う出来事が目の前に現れ茫然としているさま。 例えばこのような出来事を表したものを他で参照するなら、

>りりあんを光のなかで編むように書いてしまった知らない手紙  盛田志保子
のようなものだろうか。

>金よう日、ラジウムみたいに放射して裸子植物を食む子にもどる
「子にもどる」(無邪気さを取り戻す)行為を、直接いいあらわすことのできない心象として感じ。 戯れでしてみた行為なのだろうか、ピアノの、

>黒鍵を人差し指と薬指で押さえたら
なにかが 、

>いちめん緑
となってしまうような、軽い意図と、それに見合わない劇的な変化。

>点描の夢をみました。
という出来事は「物語」がはじまりそうな予感をはらみつつ、それでいて、

>それだけです。ただ輪郭をみつめただけです。
というように、なにかが生まれてくることを、あるいは環境の側から私の側に働きかけてくる変化にたいして、「何でもない」ということを表明する態度。 あくまで、私自身が主体となって物語が進行してゆくことを、できるかぎり避けたいと願うような、そのような立ち位置のようにも見えるのだけれど、それでいて「何でもない」ことを表明している私は、

>ウエハース製の座卓をかじってるわたしの中のマトリョーシカたち
敏感な思春期の子供ように心穏やかではないことが示されている。 自己実現として現れる、こころのなかの動きは、

>満たされぬものがなにかも知らないで満たすエーテルひかりになりたい
と、ふくざつなものとなり。しかしそれは、「私」の最大限の素直さの表明にもなるのだろう。 しかし、そのような素直さも、話者の心に秘められたものとして現れるだけだ。
それが、「出来事」として現れるのは、

>一辺と一辺になる西の空 折り合いをつけた鳥が飛びたち
というように、おそらく、自己との「折り合い」を鳥たちの風景に託されるようにしてあらわれてくる。このような、環境の側がひとりでに作用し、出来事としてなにかが結晶するさまを、観察者としての「私」がそっと覗きこんで、その「世界」と「私」の重ね合わせのひとつひとつが、短歌表現というスタイルをとっている。

「存在の下痢」 ‐ 田中宏輔 

◆ >猫を尊敬するの
>だって
>猫って
>あんなに小さくて命が短いのに
>気にもとめない様子で
>悠然と
>昼間からただ寝てばかりいる
>きっと悟っているに違いない

冒頭から「うん、きっと猫は悟っているに違いないな(笑)」などと話者と同じ視点に立ち、思わず頷いてしまいそうな軽やか書き出しがいい。しかし安直に猫と人を比較するのもおかしな話でもあり、また作品の中で「存在の哲学」について考察が深められているわけでもない。タイトルはおそらくサルトルの「嘔吐」が意識されたものだと思うが、概ね、駄洒落やユーモアに横滑りしていくのが主筋になっており、そこを楽しめるか否かが作品の「価値」にかかってくる。

「橋」 ‐  早奈朗 

◆「物語」、という枠で見たときに、どのような場所に辿りつこうとしているのかという疑問があります

一言で言うと、最後の
>「橋をかけてやるぞ」.
ということで実現される「橋の向こう側」の世界をどのように認識しているのかな、ということです。

「橋のこちら側」の世界で、

>ぼくはすべてになりゆくためにまずいっこの名前が定まらない。口を開けてあるくために、龍の名前がぼくにはひつようだ。

というように、欠損がまず提示され、目的が語られる。
その手段として、橋をかけ、向こう側へと向かうわけですが、おそらく向こう側の世界で「僕」は「りゅう」や「なまえ」などの大きな物語と葛藤してゆく予感が書かれています。

思うのは、「僕」や、
>ぼくは 詩になりたい
という「私」をめぐる願望や成長が、個人的な事柄や狭い範囲での環境の影響を設定することなく、そのまま、「向こう側の世界」での出来事と直結してしまうクエスト的な構造をとっている様式というのは、もはややりつくされた感じがある、ということです。

個々人の、「僕」「私」としての自己実現が、「世界」や「向こう側」と無条件に繋がってしまう構造という物語をつくるときには、それ相応の注意が必要ではないかな、と感じました 。

「愛しくて。」 ‐  岡崎那由他

◆反復とはつねに、一回性への断念としてあらわれざるをえないし、それがもたらすのは、質から量(塊)への移行とならざるをえない。けれども、反復することで(記述の、あるいは黙読の)時間が滞留し、そのことがもたらす本来のなめらかな記述を読むための視線との「ずれ」が、物語を展開する筆記の運動の停滞にいらだちを感じつつも、どこかで繰り返され、もはや「塊」となった言葉が露呈してしまう「なにか」を、かいまみてしまうための瞬間が、この馬鹿げた試みを読んだ人に現れることが、数少ない酬いのうちのひとつになるのだと思う。反復は、同じ言葉の、それが短ければ短い文章であるほど、本質的にシニフィエが壊死してしまう作用を担っているし、だからこそ、壊死してゆくプロセスに反するために、反復がシニフィアンを変貌させてゆかないかぎり、「なにか」を生み出すことはできない。だけどそれは、反復により生起するものの微細な運動をしめしているかぎりにおいて、反復によってつくられるフレームの外側へとのがれることもない。
5回繰り返される 。

>笑ったまま死んでいる死体
>君が愛しくて呼吸を忘れてしまったよ

などの言葉は、モーションとならざるを得ないけれど、その運動の弾力性はとぼしいものとしかいえず、何度も現れてくる反復された分によって、こごってゆくように感じられてしまう。

「花々」 ‐  yuko 


>好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子

引用の短歌は「みんな連れてゆく」というふうに描かれているが、それでもなお喪失が主調となっている空気を、この作品も共有しているのではないか。
けれど、それが、喪失として書かれてはいるけれど、その喪失からも隔てられているという意識が主調としてある。

>森を抜けると、
>あたりは一面の
>花、が、光のようで。

「私」は、「森」という世界から抜け出す。
そして、「花」のある世界へとやってくる。
それは、「森」⇔「花」=「自然」⇔「村(人間)」という図式があてはまるだろう世界観だと思われる。
>それがきみには見えなくて
とは、どのような事態か。

たとえば、想定する。「私」が、もとは「花(人間)」側における存在であり、それがなんらかの理由か目的で、「森(自然)」側における存在になるために、
>きみの森
へと入り込んだのだと。
しかし、「森」としての世界のなかにとどまることができなくて、「花」としての世界にもどってきたのだと。
そして、その私の存在が「きみに見えない」という事態は、「森」と「花」が対極にあるためではなく、私自身が、そのどちらにも属さない存在となってしまったからにほかならないと想定すること。

>彼は文化なき人間として、本能なき動物として、つまりまさしく存在しないものとして長い間さまよう(M・フーコー)

そしてそのような事態になるからこそ、

>誰もゆるさなくていい
>祈ることはない
>蝶の羽ばたきが
>止まることはない
>ぼくはきっとすべてではない
>漱がれていけ

このように多用される否定と、諭しが、「亡霊」のようにさまよう私に対して、親密さを持ったものとして、あるいは私へのどちらかの世界へと直接触れ合うためのアドバイス的なものとして響くのではなく、私を世界から隔てるものとして、私自身を限りなく世界性から、あるいは周囲から切り取るための疎外の言葉として響いてくるものとして読みとること。 喪失感をもった世界にいながら、その喪失からも「私」自身が切り離されてしまう世界観がみえてくる。

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「12月選評雑感・優良作品」文責/浅井 編集/織田

2011-01-20 (木) 22:56 by gfds

「12選評雑感」

【優良作品】

4892 : ぱぱぱ・ららら  進谷 

◆若さ、軽薄さ、危うさ、遊び、といったものが、確かな文章力の上に散乱していて、 鼻白むことなく、とても面白く読めました。
私たちの感情の、それほど深くない部分に、そっと手が差し込まれるような、心地よさと不安があります。深すぎず、浅すぎず、あくまでも足取りは軽やかに、それがこの作者の持ち味なのでしょう。詩にも引用されていたカート・ヴォネガットを彷彿とさせる巧さとユーモアを感じます。
「詩を書くこと」が「生きること」に直截的に繋がる若い世代の、はにかみと自負のような感情は、それなりに書き手を苦しめる重さを持っていると思いますし、この作品の出発点も、それほど明るい場所とは思えないのですが、それをモノローグに堕すことなく「文芸」として突き放してくるところが、作者の優れた資質だと思います。

4906 : したく  ゼッケン

◆この作品を元ネタに映画のシナリオを一本書けそうなくらいに濃密な場面描写がなされています。主題の扱い方もとてもアクチュアルで且つクール(危険)です。高校で理科の科目を教えている教師が科学と道徳の境界にあるタブーを侵犯するような実験を学校で行ってしまう。
シチュエーションからして良くも悪くもグッと惹きつけてくるモチーフです。ところがこの種の問題というのは、どこからが犯罪にあたり、そうでないのか?ここがわかりにくいという問題があり、そこに切り込むことで主題のエレメントが浮き彫りにされます。その手わざはさすがです。
高校の生物部の顧問である「おれ」がレズビアンの女生徒2人の卵子を試験管の中で反応させて子供をつくってしまう。

>先生、つかまるんでしょ?

>ぼくらも逮捕されますか?

>赤ん坊は週イチの世話じゃ済まないからね

>わかってる?
このしらけた空気感は読者に怖い印象を与えると同時に、時代を批評する言語としての機能を作品に与えています。

4912 : (頭を置き去りにして歩く、)  田中智章 

◆>頭を置き去りにして歩く
とまず、明言される。そのあとにつづく何気ない文章を読みながら、

>また、夜空から見つめられる

という文章を目にする。
「また」夜空からみつめられる、という認識は、過去にさかのぼって「私」になにかのプロセスがひとりでに始まっていることを示しているそれにつづく文章 、

>ふたたび足あとを追うようにして歩き出す
>でもまた降り出せば、足あとは消える
>そのときは、まるで足あとをつくるために歩く

「世界」と「私」とが相互に連動している認識。
シンプルにその空間の循環の認識だけが投げ出されているようにも見えるざくざくと歩く足音が、「世界」の側にかたむきつつある夜を、音を、からめとってゆき無化させてゆくように、どこまでも継続し、継起してゆく。
シンプルなほどなにも書かれていない。だけれど、循環する運動性が永遠につづいてゆくように見えるそしてその歩みの質を、

>雪の中に頭を置き去りにして
という言表のゆるぎなさが保証している。

4918 : 日常的な公園  リンネ 

◆リンネさんの作品を面白く感じる理由の一つは、この作品もそうですが、最初から最後までおかしな出来事の連続で構成されているのにも関わらず、それが、ただ、荒唐無稽な話として終わるのではなく、我々の存在する現実の本質を、ときにシンボリックに、ときにアイロニカルに、「説明」してくれているように感じるためではないか。「わかる」という感覚を、リンネ流ロジックにはめ込んで提示してくれる作品として読める。
「日常的な公園」
大人が公園で鬼ごっこをするのも変な話です。また女が股間に鏡を挟んでしゃがんでいるというのも現実世界では全く意味不明なことです。しかしそのナンセンスを通して意味を語りかけてくる。何かが腑に落ちてくる。そこに嵌ればあなたもリンネワールドの住人の一人だというわけです。

>Kは鬼ごっこをしているが
>妙なことに、
>およそ鬼と呼べるような人間がどこにも見当たらないのである。
>そういって悪ければ、
>Kはすっかり鬼の顔を忘れてしまったのであった。
鬼ごっこをしているつもりが、鬼が見当たらない、鬼の顔を忘れてしまった。
一見、幼稚な論理矛盾から始まるようなこの作品。我々も職場や学校などで体験する要素がぎゅっと詰まっているのではないでしょうか。

>どいつもこいつも鬼であるかのようであった。
鬼ごっこというのは誰もが鬼になりうるルールですが、この作品では、k本人は「鬼になり得ない」と思い込んでいる節がギミックになっています。
自分だけは鬼にはならない。そう思った瞬間すべての「ゲーム」は破綻してしまうのではないでしょうか。

4919 : あとは眠るだけ  右肩 

◆ラヴェルの眠りがあり、プルーストの眠りがある。
眠りを主題にした本も、きっと腐るほどある。
ラヴェルなら、旅先に25着のパジャマを持ってゆき、眠れない夜を数を数えることで過ごし、やがてそれも退屈となり、その退屈こそが眠りを誘ってくれるだろうことを期待し、だがそれはかなえられず、翌日には必ず不機嫌となるような眠りだろうし、プルーストの眠りなら、物語の書き出しが眠りについて書きだされているように、母親がそばにやってくるのを待つための時間をさししめしているのだろう。
この作品がこれらの眠りと違うのは、眠りというものが「やってくる」ものではなく、起きているうちから、夢を規定してゆこうという意志があることではないだろうか。

>(眠ること=)冒険、とは主体と世界そのものの運動なのだ

というように。
マンディアルグは、夜の夢=観劇の時間が面白いものとなるための必須の条件として、ごちそうを腹いっぱいに食べてからすぐ眠る親子の習慣を描いていたが、この作品の「私」も、夢のなかにはいるために

>それは今さっきスターバックスの女性店員から黄色のランプの下で受け取ったマグカップの中にあってもよい
というように、食べ物でなく、出来事を夢見のエンジンとして認識している。

だとしたらどうだろう、現実と夢の対比はどうなっているのか、が重要なのか、それとも、夢のディティールが、出来事を侵食してしまうように書かれていることが重要なのか、このような形態では、どこに焦点を当てることが重要となってくるのか。

>冒険には語りうる一切の内容がない。
といいつつ、どのように夢を提示してゆくのか、というのがあって、かなり詳細に記されている昼間の出来事に対して、夢はどのような対価を払うのか。

>眠りはまた浅緑の蔓である
といい、本格的な夢は書かれていないにしても、結論だけ言うとやはり、失敗しているようにみえる。おそらくそれは、

>僕は神のように明晰に眠り
と書かれる「明晰な眠り」というものが、覚醒→眠りへと移行してゆく私の意識が、みずから統御しようという意思をもっているのを前提としたうえで、やはり、リニアな時間軸として認識されているのではないか、と思うからだし、夢の時間が、現実の時間を包みこむような時間の伸縮性の予感がしないからでもある。

4932 : 一の蝶による五の夢景  リンネ 

◆不気味なもの。
ここに書かれている文章が、不気味なものとなっているのは、書かれているものが荒唐無稽な内容であるからではなく、荒唐無稽な内容をあくまで主観的に、ではなく、客観的にとらえようとし、それが語り口によって成功しているということだろう。

このような物語がリニアな物語としてコード化されていない、ということはよく見られることであって、それはそれで興味深い。視線はそれ相応の準備をして解読してゆくことができるのだけれど、それが客観的に語られ、かつうまくコード化されている、という事は、生身の語り手の、社会を眺める目線がうまく適応をおこしていないのではないか、という逆説的な感覚を読み手にもたらし、記述の平静さも、書き手への知覚の鈍磨によるもの、あるいは、生身の出来事に対する正常な適応行動を逸脱してしまった結果ではないだろうか、という突飛な予感をもたらすためではないか。

内容も、「悪い夢」、いずれは目覚めるであろうと心の片隅で意識しながらも、そう意識するがゆえに耐えられてしまう倒錯した現実を、なんらかの歪んだかたちで反映したものではないかとも思える。しかし、読み手は、そのような構造が埋め込まれているストーリーが持つ「受け身性」が、最後になるに従って供出していくのを確認し、いささか安堵するとともに、作者に対する技術の一定の高さに脱帽せざるを得なくなるのだろう。

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2010年12月分月間優良作品・次点佳作発表

2010年12月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

「2010年・年間各賞」は3月末日発表予定です。

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