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選出作品 (投稿日時順 / 全16作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


失語

  

三度目の寝がえりをうった、あんたを尻目に、分厚い本を捲る指先から、言葉が次々と滑り落ち、指落ち、手落ち、こくこくと時間をなでる、その古びた柱時計の中に、午睡がゆるやかに行進するのを、実は見ていたんだなって、そう気付いた時には遅く、頬にあてがわれた掌から、伝わる、体温が、一切を告げる、何かが始まる、何も始まらないかもしれないことも、全部含めて。(あんたは次に俺の手を握る)

手を握り締めて、開いたら、そこには夜が、更けていた、
夜が俺とあんたの顔に翳んで、瞳を、取り出そうとする
やめてと、繰り返しうめく、口から、言葉が夜に、次々と、墜落して
今夜、あんたと俺の手の中であらゆる言葉が重力を忘れる。

捩れる肉体から伝わる、嬌声が瞬間を、更新していく、そんな月並みな物語が、背骨をなぞりつつ、ゆくりなく、夜空に溶けて、絶えていく、もう二度と離さないと、誓った手が、情熱的に、お互いを撫で合う、悲しみの限りを尽くして、寄る辺なく漂う、二つの艀は、これから何度でも訪れるだろう災いを、振り切れるだけの櫂を探した、互いの身体へ、その櫂を探しにいく、俺はあんたを、あんたは俺を、もうすでに、裏切っていたというのに。(あんたは次に俺の手を離す)

離れた、手のひらから、気怠い朝が始まる
言葉たちは、すべて、撃ち落とされてしまった、殺戮の朝に
二人の物語は、ねじを巻かれる、気怠い朝の息吹に、繰り返される無為に、
剥き出しになった殺意を抜かれる
今、再び物語が始まる、終わらなかった、二人のための物語が始まる。

じとじとと、発芽する殺意のない、憎しみが、幼児のように、世界を吸収して、卵割を始める、幼児どもが、わらわらと、二人の裂け目から溢れだす。(あんたは次に、)増えすぎたにくしみが、熟れた柘榴の切り口のように、醜くとも、発話を求めているというのに。(あんたは次に俺の、)腐り切った、幼児どもの口々から、伝わる、臭気を帯びた、吐息が、またの墜落を予告し、朽ちた化石を掘り起こし、わらわらと、わらわらと、増え続ける、その口々から、わらわらと、わらわらと、零れおちては潰えてゆく、声。(あんたは次に俺の手を)掬う、その体温が、腐食して、腐食させ、腐食する。その手を


白紙

  

あなたは、箪笥の奥に丁寧に重ねられて、歳月に洗われて黄ばんだ原稿用紙を束に持ち、ポケットに忍ばせたジャックナイフで切り刻んで。「死にゆく驢馬の最後の吐息みたいね」って切り刻まれて「泣いている紙だよそれは」、とわたしはあなたに告げるのですが、今度は流星群が飛来したかのように、斜めに幾筋も切られてあなたの腕の運動とともにびらびらと揺れる「火星人みたいなやつだね」は思いのほか赤い血で端々が滲んでいるんだよ。

わたしは刻む、幾年もがふり。あなたの小さな渦巻き管の中にそっとレモンを囁くように、わたしは刻む。尖った鉛筆の芯で、急カーブを描いたと同時に停止して、またゆっくりと始まりが訪れる、レコードの針が落ちる時、白い紙に海が生まれて、そこには見上げる空があるのです。わたしは刻む、あなたのからだに、わたしの愛を、さめざめ泣いたあの時のこと。

あなたは切る、グラファイトの散らばる星座の隙間を、それともそれすら断ち切るように、あなたは切る、「まだ誰も見たことのない星雲から見える星座みたいね」とわたしのからだを裁断しながら、「君に伝わらなかったいくつものことだよ」を、あなたは愛するのです、わたしを愛するように。空を見上げる。「これが私に伝わった形」が赤い血に滲んでゆらゆらとゆれる、あなたに見上げる空があることがわたしに出来る唯一のこと。

わたしは刻む、あなたは切る、二人に取り交わされた神経細胞の刺激を。白い紙があり、海が生まれて、そこには見上げる空があり、二人の星座が入り乱れながら。「悲しみの色合いはこんな形かしら」をわたしは両手で受け取って、「君はもう許されるべきだよ」をあらたにあなたのジャックナイフの頂に乗せるのです。「降り出した雨のように」罪は消えない、「心に刺さったまま」ふたり、夜空の星と街燈とネオンを数えて、何度でも繰り返される白紙に、海が生まれて、見上げれば、また


刈りとりの歌

  

罪のつくりかたをしらなかったから、小さく祈る手の中で幸せを噛み砕くことしかできなかった、さつきもつつじも萎れてしまった、季節外れの白い梅が咲いた。藤棚からたわみおちる蔓をひとさし指にからませて、むらさき色の花の名残、棘ほどでもない小さな突起を、まだやわらかな皮膚に留めておくの、木漏れ日のベンチでつちかった緩慢な愛情は、はじまりを求めず、おわりを求めず、ほほえむのではなくにっこりと笑う、刈り取られていく庭石菖にも春紫宛にも花の名前があるのよと言って、形状記憶の悲しい笑顔に種を落とした、サザンカよりもツバキが好きなのと言って、日毎に種を落としていった、にっこり笑ってと無理を言った、雨の降る日は川沿いにアヤメが咲いた、黄菖蒲だってきれいなものよ、傘を持たない二人には、カキツバタはきっと冷たすぎた。泣いてもよかった、涙はどんな花も咲かせないわと言った、罪のつくりかたをしらなかった、僕はそれでも小さく祈る手の中で幸せを噛み砕くことしかできなかったから、来るべくして来たその日には、ほほえむことさえできないでいた。

手向けられた花々を刈りとれ


僕とマーメイド

  

マーメイドはキッチンが気に入りで
僕はろくろを回すのが下手糞だった
あんな歪に出来あがった器に
マーメイドの目から落っこちた真珠が
カララン、と二重に音を立てた時
今のは砂浜で蟹が貝殻に落っこちた音に似てるよ
って言ったのが少しかなしそうで
僕はどういう顔をすればいいかわからなかった

マーメイドは怖い顔していた
右手に包丁を持って
めちゃくちゃにしてやるわ
って言ったのが聞こえたけど
ちょっと笑っただけで気のきいたことが言えるほど
僕のろくろ回しは上達していなかった
後ほど宣言通りみじん切りにされたニンジン入りハンバーグを
二人でおいしいと言いながら食べた

マーメイドはキッチンの曇りガラスの隙間から
下校中の小学生をみていた
上達のきざしが見え始めていたろくろ回しは
子供が欲しいな
って声でちょっと乱れた
彼女は笑いながら、土くれでいいじゃない
神さまだってそういうふうにつくったのよ
っていうから、ハーフだねっ、て言ったら
クォーターです、って笑った
いつの間にか居間には
ちょっとだけサカナな生物であふれ返った

マーメイドはサンドウィッチを作っていた
大分ましになったろくろ回しは順調だった
どっかに行くの、って聞いたら
あなたも行くの、って言う
どこに行くの、って聞いたら
お散歩、って言う
ホッキョクグマに会いたいなって言う瞳が
深い深い海のようで僕はまた変な器を作ってしまった

マーメイドは海が恋しくないの
って聞いた時、ろくろはスムースに動揺していた
わたし川専だから、と言われてお茶碗のなりそこないが土に後戻りした
あー、そこの天白川管轄だがね
え、どえりゃあ近いがや
たまには行くの、と聞いたら
あなたがいない時はしょっちゅうね、って言った
僕はお茶碗のなりそこないをまた作り始めた

マーメイドはうたを歌っている
曇りガラスの隙間から差しこむ太陽を助動詞にして


溺れる

  

彼女の趣味は緑黄色野菜を育てることでも青少年の腐った性根を叩きのめすことでもなくて。僕は未だ嘗てその母の寝息を聞いたことがなかった。日がな一日縁側に居座り、どうにも退屈そうな夕焼け空が明日の方向へ段々と陳列されているのを、いつまでも飽きずにみつめている母は。僕は彼女の涙を見たことがない、それはとても悲しい物語なのかもしれないし、全然そんなものではないのかもしれない。
ある日イシスはばらばらになったオシリスの身を嘆き、彼の体をかき集めたのでした。

ヴァギナの海に溺れていたんだ、
夜に、夜々に僕は磨り減る体を水面に浮かべて、ずいぶん画期的な夜空を拝見していた、これが宇宙、これが夜、これが散らばった僕の体。土嚢を敷き詰めて海の中に塁を作った、そこで僕が見つけたのは僕の体の一番大事な部分で、
僕はそれを拾う。

母のいないアパートの4階から僕は監視を命じられた女を見つめていた。台風のさなかにオレンジの傘をさしながら自転車をこぐ彼女の横から一塊の暴風がしたたか彼女を打ち付けて遠く、大気圏の外まで彼女を吹き飛ばしたよ。やれやれ空を見上げたら、思いのほか斬新な空と空と空と空とが明日の方向に向かってくだらない雑貨屋の品物みたいに月並みに陳列されていたんだ。僕はそのひとつを指差して、お前は美しい、と叫んだ。そこから彼女は降ってきた、彼女の名前はキャスリンで、まるでメルヒェンみたいに、つまりばかみたいに降ってきた、右手に傘をしっかり掴んで、とはいえそれなりのスピードを伴って、傍に広がる田園風景に交じり合いながら消えていったよ。

ある朝、パソコンの修理業者の声で目が覚めた。襖越しに、
このパソコンUSBポートが一つしかないぞ
馬鹿いうなこっちにもあるだろ
ああ、なるほど、こりゃ美味そうだ
その後聞こえた母の嬌声が妙に疎ましくてそのまま散歩に出かけて11ヶ月が経ったころに、お前、妹ができたよ、って、名前はふた子にしようかなと言うから、へんな名前はよしときなよ、と。だって二人目だからさ、という言葉が聞こえたとき、僕は自分の名前が三郎であることに驚愕した。それから僕は母が一人縁側で空を眺めている時を見計らって友達を呼んで、500円玉を受け取って、散歩に出かけた。斬新な空が段々と明日の方向へ伸びていって、僕は、

マリーは屋上が好きで、三十前半の男性がまだ仄かに瞳に野生を湛えながら次から次へと落っこちていくのが好きだった。
ケイトはサリーの友達で笑袋みたいなやつだったから、首を絞めながらアレする快楽を教えてやった。
ジェシーはイボ痔が男性器を歓ばせることを知って以来、いぼ痔の痛みはすっかり忘れてしまった。
京子は虫風呂に入るのがいやでいやでたまらなくなって発狂してしまった。
セイラは警官である父親のレイプに耐えられるようになったことに耐えられなかった。

縁側で母の隣で夕暮れ空を見ていたんだ。空のグラデーションはそれぞれ画期的で斬新な毎日がいかにも月並みに配列されて、二人は飽きずにそれを見つめて。彼女が、五郎は元気にしてるかな、って言った時、僕はそれを聞こえないふりして、空に向かって、お前は美しい、と叫んだ

したら、あいも変わらず斬新で退屈な空と空と空と空と空から
キャスリンが降ってきた、傘を広げて
ケイトが降ってきた、笑い転げて
ジェシーが降ってきた、京子が降ってきた、セイラが降ってきた
それなりのスピードで、まるでメルヒェンみたいに、つまりばかみたいに、
楽しそうなとこ悪いけど、ばかみたいにばかじゃすまないリアルを地面の上にぶちまけられても、ハロー、マリー、お前も来るかい?
もの拾いしてくる、母にそう言って、くすんだ玄関の扉を開いた途端射し染める光がとりとめもなく僕を集めていたんだ。


独り言

  

俺の親父ってのが酷い奴でよ、酒と煙草と女と博打と暴力の全部で確立変動おこしてやがって、中学の頃かな、俺の預金通帳勝手に作りやがってそのまま親父の会社の下請けで労働フィーバー、笑っちゃうよね、おふくろは頭がパーだから、毎日弁当よこしながら笑顔で「がんばって」と毎朝毎朝、すれ違う小学生の頃の同級生だとか、好きだった女の子だとか、俺の作務衣見て何を思ったんだろうな、なぁ、中学生並みの世界ってあるじゃん?多分、映画で見たような、まだ自分が世界の中心にいて、笑ったりすることが許される類の、消しゴムのカスをさらっと机の上から払いのける類の、なぁ、君がいてくれなかったら俺は居場所なんて一生無いんだと勘違いしたかもしれない、君は俺に逃げ場をくれた、ギターをくれた、参考書をくれた、覚醒剤をくれた、「愛してる」って言葉をくれた、愛してる、多分俺も、確かに今もたまに蛍が光る綺麗な池のほとりで君に宛てた言葉を繰り返し繰り返し喚くこともある、「真っ当に生きて私を幸せにして」って言葉は今でも俺を支えながら縛っているんだ、君がその言葉を自分のためにかそれとも俺のためにか、どういう意図で言ったのかはもういまさらどうだっていい、俺は君のおかげか、君の残酷な慈悲のためか、ゆっくりと歩き始めた、いつだか、道路に引かれた白線をたどって海まで行こうって言ったあのときの笑顔が俺をいつまでもこの白線に戻らせるし、君がいなくなったこの世でも俺はいつでも君の隣を歩いている。なぁそれからだよ、糞みたいな生活が始まって、廊下を歩けば唾を吐きかけられて、あの人がくれた参考書は校庭の真ん中で燃えていた、あああ、それとは別問題かな、授業中誰彼かまわず俺を呼ぶんだわ、名前だけ、たまに憎悪の言葉、「ねえねえよしき?お前の背中に」ああ、わかってるよ、わかってる、何もかもわかってるって気付いたのは、救急車の中?もうちょっと後だったか、医者がリスパダールって薬を処方した瞬間か、ごめんよ、少しだけ遅れるかもしれない、あの人に伝えて、いつか俺も海まで辿り着くからって、そう思ったのは先輩の三十路の彼氏の家の中で二人でギターを弾きながら、歌いながら、スリーピー・ジョン・エステスをさ、やっぱ駄目らしいわ、高校とか、セックスのほうが何万倍も気持ちいいから、わるい、少し遅れる、ところで君のえげつないブルースを聞いて俺はどうやら嬉しかったみたいだ、堕胎手術を今まで3回、それも全部自分の父親の種だって、笑える、あ、プラネタリウム行きたいね、そんで星のことなんてどうでもいいから君の身体をずっと触っていたい、夜はいつだって綺麗だ、かなしい言葉が全部とうめいになって消えて行ってくれるから、今度の君はとてつもなく現世的な翼に乗ってロンドンに行った、なぁ、知っているかい?君が好きだった窒息プレイの最中に俺が何度でもこのままほんとうの翼を手に入れたいと思っていたこと、もっと強く締めてよかったのに、俺はあのあと高校卒業したんだわ、嘘かと思うだろ?模試の全国平均が70越えててさ、単位足りなかったけどうちの高校創立以来始めての旧帝っつーことでどーにかなった、あの人がくれた金を軍資金にして、俺はまた白線の上に立って、どっちの方向にあの人が消えていったのかもう分からなくなって。それで通い始めた大学は予想通り糞で、とりあえず山塚アイに会いたくなって東京行った、わるい、また遠回り、というかもうどうでもいいや、もうずっと前からなんとなく、なんとなくだけど気付いてるんだよね、誰も俺のことなんて待ってやしないし、海なんてどこにもない、適当にバンド組んでさ、なんていうの?ロックでもないしブルースでもないし、ああ、ライブハウス壊す系?それそれ、かなしかったのはさ、バンドメンバー全員で一緒の部屋に住んでたんだけど、全員で貯めた家賃と食費と光熱費と雑費、全部、おんまさんに乗せてみたら、あいつ上がり3ハロン普段よりも3秒も遅く走りやがって、ああああ、そういうことじゃない、俺が誰の子供かってことがさ、そんで追放、馬鹿じゃねぇのか、お前らバンドやってんだろ?だったら許せよ、ジーザスクライストの要領で許せよ、馬鹿じゃねぇの俺、そんで全員死にやがれ、って電話したら、横浜のパチンコ屋で住み込みで働いてた彼女は、ありったけの愛情をこめて、電話を切りやがった、笑える、君のこと結構好きだった、バンド辞めてまじめに働くからいつか一緒に暮らそうって言ってた矢先に飯場の環境に耐え切れなくなって逃げ出した俺みたいな甲斐性なしのクズにはお誂え向きってやつ、煙草ってやっぱ体力無くなるのな、雲の切れ目、さようなら、さようならとーきょー、ばいばい君たち、俺を指し示してくれた君たち、俺の先を指し示してくださったビッチたち、この糞と汚物のミルフィーユみたいな世界に刳り貫いた乳首でできた首飾りをかけてあげよう。なぁ、あの人の指し示した白線はいつの間にか10tトラックのブレーキ跡で消えちゃったみたい、ああ、分かってる、あとはあの人がくれなかった翼を、拵えて、ああ、そのまえに殺しておかないといけない奴がいたな、と思ったらそいつは女と博打のダブルリーチで失踪中、ついてないな、出来れば鈍器がいい、すぐに死ねないから、ああ、俺は楽にいきたいね、親父の話さ、そういえば話すのを忘れてたな、父親が自称画家の先物トレーダーで躁うつ病のクズ、母親は失踪中、高校の頃知り合ったんだ、彼女は一言でいっちゃえばブス、制服の隙間から10日前の体育の授業の汗のにおいを発散させていた、俺が玉砕した多分金平糖一袋よりも多い女の子のうちの1人なんだけど、君のこと話すのを忘れていたよ、君の実家と俺の実家は近くて、俺がフルメタルジャケットで実家帰りしたのに、ハートマン軍曹がいなくて途方にくれてて、とりあえず酒でも飲むかって向かったスーパーで社員として働いていた、初めて知ったよ、君が考古学なんてやってたとか、シルクロードを何度も歩いたんだってな、砂漠の夜に瞬く星の話しをしてくれよ、砂漠の夜も三たび微笑むのかい?俺には三たび微笑んだ後、ふぁっく・ゆーっていう星座になってぐるぐる回っていつのまにか馬鹿にするようなすずめの囀りがふけみたいに降り注いでいるよ、それから砂漠の見えない道をふたりで歩く、なんてことはなくってさ、玉砕、たとえば君はその絹の白い道を歩き続けることはしなかったのかい?こんなスーパーで白髪ばばあをあの道に譬えたりしたのかい?その白線の先に何を見ていたんだい?俺とばっくれる誘いを断ってさ、何も示してくれなかった、シルクロードが夜に輝く乳の川になってあらゆる星がそこに落ちてきてきらきら光る、君は白線を歩いていた、俺は。きっとどこにもいけない、その絹の道にしたって俺の白線にしたって、どっちみちどこにも辿り着けないように出来ているんだよ、って君に話した時、君が言った「わたしがどこかに行っちゃったら誰がお父さんの面倒を見るの?」
シルクロードって相当やばいらしいね、あ、放射線的な意味で、あの人は甲状腺癌で死んだよ、砂漠の夜は一瞬で、きる・ゆーって星座になったってこと、あの人があの時言った言葉が何度もわたしに反響する、なぁ、かなしみってなんだろう、わたしは幾重にも重なった白い道の上でいつまでも佇んでいたんだね、あの人に一つだけ聞きたい、ダルビッシュは今年何勝するかな?じゃない、愛を


怪物

  

生まれたての八月を片手でスクラッチしながら、蝉に能う限りのディストーションをかけていたら、いつのまにかの夏が終わった。
空がぶち折れる音がしてとても長い雨が降る、あまりにも長いものだからそれは引き伸ばされた飴細工なのではないかという疑念が中華街のゴミ箱の隣で浮かび上がった。
彼はその飴を掴み、自らの推測が的中したことに幾許かの歓喜をおぼえ、その勢いのまま飴をするするとよじ登っていった。

雨雲の真ん中にマンホールの蓋があり、開けようとしたが徒労に終わったので諦めてこのまま雨になってしまおうかと思ったが、自棄になり思い切り蓋を反対に押してみると、マンホールはずいぶんと呆気なくその中身を披瀝した。
その中身というのは小さな部屋で、絵の具がそこかしこに散乱し産卵し燦爛している。彼は20代前半の美大生を想定して、部屋の片隅に置かれたソファー兼ベッドと思しき場所に悠々と背骨を伸ばした。

美大生はバスタオルを体に巻きつけてシャワーからあがった。寝台に居座る彼を見ても何も動じなかった。
どこから来たの?と聞かれたので、そこのマンホールから、と答えた。
マンホール?そこの?二人は当然アパートの一室と思しきスペースに設置されるはずの無いものに目をやった。
これは確かにマンホールだけど、この間わたしが書いた落書きなんだけどなあ、というのが彼女の答えだった。けれども結果としてこういうことになったわけだからお互い了解してしまうほかに事態を収束させる術はなかったので、マンホールって本当にman holeなんだね、という冗談がどちらからというわけでもなく発せられ、次第にそんなことはどうでもよくなってしまった。

3本脚に支えられたキャンバスには現在進行形の絵画が描かれていた。もっともそれが現在進行形であるということは彼女の指摘を受けるまでは分からなかったのだが。
キャンバスにはピーナツバターの下塗りに正確な円が描かれ、そこかしこにエリック・サティを彷彿させる貝殻と思しき具象が散りばめられていた。
これは抽象画?と彼は聞いたが、彼女はその質問をまるで「般若心経はプログレ?」と聞かれたかのように、イエスともノーともつかない返事をした。

彼は詩人だったので、問題を言語芸術に置き換えて理解しようと努めた。言語は後天的に獲得されるものであるという基盤に立ってこの考察を推し進めると、事態はこのようになる、つまりはじめに獲得される言葉は(この際唯名論やアダムの言語などの議論は忘れて)写実絵画のようなもので言葉と物は素朴に一致する。しかし指し示されるものが「物」ではなくなった時に、人間の言語活動は極めて複雑になる。たとえば「愛」がその対象となるとき、人間は愛の本質をダイレクトに名指しすることはできない。たとえば、「愛とは略奪である」とか「愛とはオレンジジュースの中の氷である」とか、そのようなメタファーによって示されることに留まる、換言すれば、「愛」という抽象は言葉との素朴な照応関係を持ち得ないので、前者の場合「愛とは行為である」といったメタファーが先立っており、その性質に応じて「略奪」のようなメタファーが「愛」という観念を照らすことになる。この系譜には「愛とは贈与である」というような言明も存在し、「愛」という観念の別の側面を照らし出している。一方で「愛とはオレンジジュースの中の氷である」といった言明には、「愛とは物である」というメタファーが先立っており、事態を分かりやすくするためには「愛とは南極大陸である」といった言明を対置することによって、存在する「物」としての「愛」というメタファーをそれぞれ、まったく違った側面から照らし出していることが出来る。抽象絵画とは、結局そのようなメタファーを含有しており、先ほどの自分の質問も、この素朴的命名と、メタファーを介した命名とを分かつという点において必ずしもナンセンスだとは言い切れないのではないか。と彼女に問おうとしたとき、自らがここに辿り着いた経緯を思い出し、もしこの指摘をしたならば、この物語はたちどころに消えてしまうことに気付き、彼は口を閉ざした。

彼女はやおら口を開いた、この絵のタイトルは『怪物』というの、あなたの先の質問は、結局のところ、怪物というものが抽象であるか具象であるかということに尽きると思うのだけれども、もし「怪物」それ自身が具象であるならば、この絵画は抽象画になるわね、というのもわたしは具象を具象で描くということにどうしてもナンセンスだという感情を抱いてしまうの、というか不可能よね。例えば「交差点」という具体的な風景を写実で描くとするでしょ?あなたならどうする?右折待ちの車を描くかしら?だけどそれの「車」という個別的な事象って結局のところ抽象よね。というのも「交差点」という具象を表現するために描かれたその「車」は車自体では有り得ないのよ。だって車っていつも右折待ちをしているわけではないじゃない?具象に合目的に奉仕させられた「物」はその奉仕する対象の具象にそぐわない事象を捨象するという意味において抽象なのよ。だからもし「怪物」という具象を描くならば、抽象を描かなければならないの。今度は仮に「怪物」それ自体が抽象であるとしましょうか、するとこれは写実絵画になるわけね。例えば「スピード」という抽象的概念を抽象的に描こうとしたってやっぱりナンセンスよ。風を描くとするじゃない?今度は風に靡く何かを描かなければならなくなるわよね?さっきとは違って、この「風に靡く何か」というのは具象なのよ。というのもさっきは個別的な対象に奉仕するように具象を描くことが、結局は抽象だと言ったけれども、抽象的な対象を表現するにあたって捨象は起きないの、ここがポイントなんだけど、仮に「風に靡く何か」を「走っている車の窓から出した頭髪」だとして、さっきの論点に戻れば、この「頭髪」もまた合目的に奉仕された物だといえるかしら?言えないわ「交差点」の場合、それは「わたしたち」の経験の中に「了解的」に存在するものだから「合目的」という考えが存在したけれども「スピード」はそうではないわ、「スピード」という抽象的概念は確かに「わたし」の経験の中に存在するけど、それは「了解的」ではないの、つまり「スピード」は「目的」足り得ないということよ。いい?抽象絵画の場合、それを表現しようとする個物は奉仕すべき「目的」を未だ持っていないの、つまり純粋な個物、捨象は起きない。だからもし怪物という抽象を描くならば、具象を描かなければならないのよ。

彼女はそう言って『怪物』を撫でた、
あなたは怪物をどのように理解するかしら?
彼は『怪物』をもう一度見た。
怪物とはつまりそれを「怪物」と了解「した」瞬間に怪物ではなくなり、逆に「怪物」と了解「させられた」瞬間に怪物足りうるものなのか?
と彼は自信なく答えた。
彼女は60点かしらね、といった表情をしながら、歯ブラシで奥歯を磨いていた、いつまにかにパステルオレンジのワンピースに着替えていたのに彼は少し驚いた。
あなたはきっと詩人ね、そういう風にメタファーの方に重きを置きたがるところがなんとなくそういう風に思わせるわ。
彼女はオレンジ色のワンピースのジッパーを探した。
いい?フランスサンボリズムの議論だけれども、その議論において「メタファー」と「アレゴリー」の区別をあなたは今しようとしている、
もちろんワンピースの下には何も着ていなかった。
いい?あなたは感覚器官を持っているわね、あなたが感覚した世界が世界なのよ。あなたはひょっとしたら愛を感覚することは出来ないと思っているかもしれない。
乳首はピンク色で彼が指で触れる前からピンピンに立っていた。
いい?感性と理性だなんて話はやめにして、構造主義者じゃあるまいし、わたしたちが感覚する世界が、わたしたちの世界なの。
言うまでもなく、彼女の割れ目はもうびしょびしょに濡れていた。
いい?これはメタファーでもアレゴリーでもないわ、同時にメタファーでもありアレゴリーでもあるけど。
わーい!パイパン!いただきます!
「愛とは50kgのベンチプレスである」
「50kgのベンチプレスとは愛である」
もちろん後者のセンテンスは文脈が無ければ意味を成さない。即ちこれはわたしたちが「愛」を知らないことの証左なのだ。


(怪物とは怪物である)

生まれたての幼児を片手でスクラッチしていると、あなたの右手はまるでディストーションね、
という聞きようによればとてもえっちな言葉を彼は投げかけられた。
彼女は歪んだ幼児をマリアの笑顔であやしている。
空がぶち折れた音がしたので彼は窓から空を見上げた。
さわやかな風が吹いて絵の具で散々汚れたカーテンが翻り、
光が彼の額に戯れていた。
彼女が彼の隣に席を求めると、彼は快く承諾した。
赤ちゃんを二人で抱いている夫婦に青い空は微笑み、
惜しみなく目映い陽光を差し出した。
『怪物』はまだ文字通り目下進行中だ。


びゃくしんの木

  

ねえ メルヒェン
刺すのと刺されるのと
どっちがいい?

きょうぼくは
花をみてきたよ
きみたちは花をみたことがないだろ?

人間のくちからは
あくびしか出てこないね
美しくうたうのが
花だよ

だから花みたいに
人間もくちなんかなくして
臓器になれば
美しくうたうことができるね


結婚、とかなんとか

  

 目の前にした風景にはどこまで行っても途切れることのないような海が広がっている、無論水平線によってそれは切り取られているのだが、その切り取り線が余計に永遠と言う観念を頭の中に固定させる。視線を落とすと、砂という言葉の持つ粒子的なイメージがほとんど取り去られた絹のように柔らか気な砂浜が無造作にへこんだり隆起したりして広がっている。
 少しの間――とはいえ時間の感覚などほとんど無いに等しいのだが――が経っただろうか、まるで表情を変えようとしないこの風景を眺めながら男は風が吹いていない事に気付いた、描かれた静物画のような風景にただただ圧倒されながら無意識に右手で額を掻いて下ろすと、丁度腰辺りの高さだろうか、何かにぶつかる、反射的に顔をそちらに向けると、長い黒色の髪の女の子の頭の上に彼の手が置かれていることが判る。
「動きが無くて戸惑っている、そうでしょ?」
「ああ」
 考えていることを読まれたのだろうか、彼は少しく動揺しながら視線をまたもとの方へ戻す、すると砂浜が所々微かに揺れているのがわかる。その砂の揺れの中から、幾つもの光る目が覗いている、赤く、それこそルビーのように煌びやかに。ああこれは、と男は思った、蟹だ、砂の中に隠れていたその生き物の赤い体が砂浜に斑点のように現れる。この時はじめて、砂のその粒子的な特徴も目に入り、視線を上げると、先ほどまではどこまで行っても青いだけだった海に段々に切れ目が走りその頂点が白んでいる。風景が流動を始める。幾らかほっとして、女の子の頭に置かれた右手の感触を確かめようとすると、そこにはただ虚しく空を掴む感触があるばかりだ。
 また、男は額を滴る汗の感触を確認する、これによってそれまで知覚できなかった時間の感触が幾分か現実味を帯びて彼に迫る。焦り、というものを感じていたのだろうか、彼は時間を取り戻してすぐに、額に滴る汗をぬぐうために、そしていつの間にか煌めきはじめた太陽の焦がすような視線から逃れるために、左手を顔に翳す、拭った汗は確かに湿度を帯びて彼に身体の内部もその活動を止めていないことを知らせる。左手を無為に下ろした、再び、腰のあたりだろうか、今度は短かい黒髪の男の子の頭と左手とが柔らかに接触する。
「ここはどこだい?」
「ここはえいえん、そして、こどく、なんてね」
「どういうこと?」
「振り向けばわかるよ」
 今度は、彼は躊躇なく振り向く、そこに広がっているのは先ほどまで目にしていたものとまるで同じ光景だ、太陽までもが。知らぬ間に離してしまった男の子の所在が気になり、視線を落とすとそこにはまたしても男の子の姿は無かった。脚元ではどうやら蟹らしい赤い斑点が体にまとわりつく砂粒を振り解きながら横歩きを始める。
 もう一度振り返る、そしてもう一度、何度か繰り返しただろうか、二つの太陽が網膜の底で重なり合い、波打つ海が四方八方から彼を責め立てるような感慨を呼び起こすのだが、それもいつの間にか慣れてしまった、砂浜では赤く煌めく瞳が無造作に入り乱れている、彼は星空の下でいつだか狂ったように回転してみた時のことを思った。いつだか? それはいつのことだろうか。
 37回目の回転を止めた時、ゆっくりと彼の身体は砂浜に墜落する、はずだったんだけど、しなやかな女のにの腕が彼の腰と首を支えている、しどけなくたわみ落ちる彼の右手と右足、眩い太陽に照らされながら、どうにも不細工なピエタが完成する。女は緩やかに唇を彼の口元に近づける、彼は目を閉じながらも、このロマンスの成就を祈る。

 
 目覚まし時計は本当に鳴っているのだろうか? 予め自分の目を覚まさせるために指し示した7の数字から約2時間、時針が動き続けたことは未だぼんやりとした視界からでも容易に確認することができた。とにかく美里に電話をしなければならない、床に脱ぎ捨てられたままの背広のポケットから携帯を取り出して、発信履歴にずらりと並んだ高木美里という名前をまだ完全には目覚めていない視線で確認して電話をかけた。
「いつもごめんね」
「いえ、部長にはいつもの通り言っておきます」
 美里は丁寧に「失礼します」と告げて電話を切った、つーつー、と耳の中に無機質に鳴り続ける音をぼうっとしながらしばし聞き呆けた。彼女のことだから電話の向こうでも頭を下げているのだろうか、いつの間にか米からパンに変わった朝食を取りながら、ふと気になり寝室に戻って枕に手を当ててみた、もちろん濡れてなどいない。今年の冬の寒さも緩み、開け放しているテラスに続く大窓から、こぞって小学校の朝礼集会にでも出かけるのだろうか、子供たちの甲高い声が静かな居間の中にも響き渡る。子供は嫌いだった、大股で窓の傍まで歩みより思いっきり窓を閉めた、ややもすれば石でも投げつけてしまうほどの動揺を抑え込むように、拳を握りしめて窓の横の壁に自分でも驚くほど激しくそれを叩きつけた、痛みは感じなかった、事実その衝突の激しさに気付いたのはシャツを着る時に確認した手の甲に滲む血の赤さ故で。
 美里とは外で待ち合わせをした、彼女が外回り用の書類を持ってきてくれるのはいつものことだった。会社には居辛かった。
「ごめんね、いつも」
「ちょっとだけ、うんざりしてますよ」
 彼女らしくない台詞だったけれども、彼女が同時にうかべたはにかみが全てを説明しているように思えた。あまり口数の多くない二人はそれきり無言で車に乗り込む。車内でもずっと俯いたまま、流れ過ぎる景色の数々を眺めていた、彼女が時折交差点の赤信号の合間に自分のことをちらりと見ていることには気がついていたけれども。
 真っ暗な画面にぼんやりと浮かび上がるプログラミング言語を前に、狼狽した。これを書いたのが以前の自分だなんてことが信じられないほどだった。結局美里に予め要因の分かっていたのだろう、デバッグを任せて、自分はそれをぼんやりと見つめていた。彼女が自分の直属の部下であることを有難く感じた。彼女は当時のままおどおどした態度は変わらずとも、おそらく技術の伝達には成功したのであろうか、随分と頼れる存在になってくれた。彼女の指導役を始めて一年と半年、ここ三カ月の間に彼女の私に対する態度は驚くほど変わった、ただいきなり親密になったとか、疎遠になったとか、そういうことではなく、彼女は私に対して色々な態度を取り始めた、初めて出来た赤ん坊の対処にどんな母親でも最初は戸惑うかのように。陽が傾きかけていた、上司に業務連絡を送った。
 家でカップラーメンを食べ続けるのにはやはり限界がある、最近一カ月はよく彼女を誘って仕事帰りに蕎麦を食べに行った。しかし、これも最初に誘ったのは意外にも美里の方だった。いつもなら私の蕎麦をすする音だけが響く時間、彼女はとても静かに食べる。
「仕事、出来るようになったね」
「ありがとうございます」
 少々どもりながら答える彼女に少し愛情のようなものを感じたことが私をちょっと動揺させた、その動揺が私を少しだけ自暴自棄にさせたのだろうか。
「美里は彼氏とかいるの?」
 彼女の箸の動きが止まった。
「いませんよ」
 そう答えた彼女に何か決然としたものを感じたけれども、私は気付かないふりをして言ってみた。
「それなら立候補しようかな」
 まるで小説に時折書かれるみたいに彼女の瞳が見開いた、私をじっと見据えて、そして彼女の瞳が一瞬潤んだのを見逃さなかった。私は彼女の心を支配して楽しんでいるのではなかろうか、そんな罪悪感もいまの私には何の効力も無いらしい。
「山村さん…」
 それきり彼女は黙ってしまった。もう夜がそこまで迫ってきていた。私は彼女をアパートまで送って、部屋に戻る彼女をいつも通り見送ろうとしてエンジンを切ったが、彼女は何時まで経っても助手席から離れようとしなかった。
「明日、朝七時に電話します」
 彼女は自分でも思い切ったことを言ってしまったという表情を浮かべながら私を見つめていた。
「ありがとう。だけどわたしも、一応男ですから、そんな甘ったれたことはしてもらえないよ」
 そう言うと、彼女は誰もいない空間に向け少しだけ顎をあげて瞼をゆっくりと結んだ、これが彼女にとっての喜びのしるしだということは一年半の付き合いの中でなんとなく分かっていた。


 目覚めた時に目に映ったのは柔らかな光のシャワー。身を起こすと室の真ん中に設えられたベッドに今まで寝かされていたことに気付く、木でできた部屋、しかし彼はすぐに部屋というよりもむしろ宮殿の中にいるような印象を受け取る、天井には更紗のようなものが穏やかな風にくすぐられて二つの太陽の光をその繊維の表面で踊らせている。彼は眠りに落ちる前に抱かれた女の柔らかいにの腕の感触をもう一度確かめたいかのように両腕で目の前の空気を抱きしめてみせる。すると、四隅にある柱の一つが動いたような気がして、すぐに両腕をほどく、今、太陽は一つしか出ていないのだろうか、動いたのは柱では無く柱の影であることに気付き、さらにその影が軽やかな足取りで自らに近づいていることを確認しながら、その正体はきっと眠りにおちる前に彼を抱きとめた女であろう、と思って少しく後ろめたい気持ちを催したが、すました顔を崩さぬまま迷いのない視線で彼女を見据える。光の加減で足元から緩やかに彼女の身体が現れてゆく、丈は長いが軽そうな素材で出来た黒いスカートの裾が小さく揺れるのに合わせて、肩甲骨まですらりと伸びた黒髪がしなやかに左右している、あの時の女の子に少し似ているような気がする、黒いドレスに身を包んだ身体は自然にすらりと痩せて見える。彼女は穏やかに微笑んでいた、両の手で水の入ったガラスのコップを支えながら、彼がまだ眠っているかどうかを少しだけ顔を傾けて確認しようとしている。宮殿のように設えられたこの室に一条の風が迷い込んで四つある入口にかけられた透明質の布のうちの一つを揺らした、逃げ道を見つけ出したようだ、残りの三つの入口の布が微妙なカーブを描きつつ室の外側に一瞬膨れ上がって、すぐに元通りになった、彼女の視線と彼の視線が重なる。
「喉、渇いていないかしら」
「え、ああ」
 彼は問われると同時に、身体の渇きを感じた、室の外を見やると、やはり砂浜と番った海がどこまでも広がっていて、そこに埋め込まれたようなルビーが太陽からの光を蓄えながら辺り一面に放射している。もう一度女に視線を送る、彼はどこかで見たような気がしたがそれが誰なのかは思い出せない。
「ありがとう」
 そう言って、女の両手からコップが彼の右手に渡る、その際、中の水が少しだけ揺れた。飲み干すとそれは紛れもなく真水であり、彼はこの水がどこから得られるのかという疑問を抱いたが、この砂浜だけの島にそのような疑問を持ちこむようなことはどこか野暮な気がして、何か別の話題を探す。
「子供が、いるのですか?」
「ええ、私の子よ。多分今頃は砂浜で遊んでいるんじゃないかしら」
 視線を反対側に移すと、そこにはあの時の二人の子供が砂浜で屈みあって何やら砂の表面を見つめている。
「もしよろしければ一緒に遊んであげて下さらない?」
「ええ、喜んで」
 彼はベッドから軽く身を躍らせて、砂浜までゆったりと歩いて行く。子供たちは何をしていたのだろうか、と言う疑問は彼らが蟹を中心にして屈んでいることから、すぐに氷解した。
「この赤い生き物の名前は知ってる?」
「知らない。」
 二人は声を揃えて喋った、嬉々とした表情が顔いっぱいに咲いている。彼は「かに」のことを子供たちに教えながら、それが何故ルビーに見えるのかをどうやって説明したらいいのか少々戸惑っていた。
「お好きなんですね、子供が」
「ええ」
 ふと視線をあげると先ほどの女性が日差しに手を翳しながら彼らの方を見つめていた。
「この子がお姉さんで、この子が弟なのよ。あなたにちょっと似ていると思わない?」
 不意の問いに彼は言葉に詰まってしまう、話の途中で突然立ち上がった彼に対して不服を言い表すかのように、二人の子供は彼のズボンを引っ張っている、けれども聞こえる声はとても幸せそうだ。
「私に似ていますか?」
 彼はそう呟いたきり、あたりに散らばるルビーの煌めきのあまりの眩しさの中に自らが永遠に閉じ込められてしまうような錯覚に陥る。


 目覚まし時計は三十秒ほどけたたましい断末魔を上げて、沈黙した。時針はきっちり7の数字を指し示していた。妙な悪戯心が沸いたのだろうか、朝食のパンを取りながら、美里に電話をした、とはいえワンコールで切ったので彼女と話すことは無かったけれども。
 出社した途端、同僚たちが何か驚いたような、労わるような視線を私に投げかけてくる、その中で我知らずと美里の姿を探していた。目が合うと彼女はさっと視線を落としたけれども、彼女が嬉しそうな表情をしていたことは決して見逃さなかった。業務に就く前に、産業医の所によることになっていたので、荷物をデスクに置くとすぐさま足をそちらへ向けた。
「有給休暇はもう残り無いですが、やはり休んだ方がいいのではないでしょうか。」
「会社には迷惑かけてると思ってます。だけど休みたくないんです。」
 私は三カ月前から心療内科にかかっていた、軽い鬱と睡眠障害。そのままデスクに戻ると背広のポケットから煙草を取り出して喫煙室に向かった。同僚は私のこの行為に驚きを感じているかもしれない、というのも私は一年前に煙草をやめたのだった。幸運にも喫煙室には誰もおらず、部屋の真ん中にある灰皿の周りに置かれたパイプ椅子の一つに腰掛けて一年ぶりの煙草に火をつけた。
 知らずと、涙が頬を伝った。一年前の妻との会話がありありと目の前に浮かんでくる。まるで子供のように、嬉しそうに、一年前のその日、私は妻に煙草をやめることを宣言した。「生まれる子供のためにね」と嬉々として私は言ったのだった。「最初の子は女の子がいいね、その次は男の子が欲しいかな」そんな私の無邪気な台詞が今になって痛いほどに自分を絞めつける。白い煙を吐き出しながら、妻がどれほどその言葉に縛りつけられてしまったかを、想像しようとしてみては、それを拒絶するように、眼下に横たわる底の見えぬ断崖のイメージが私を立ち竦ませる、決して、向こう側に行くことなんてできない。四カ月前に、妻は、長女と、子宮を、摘出された。私は、有給休暇を使い果たして毎日病院に通った。けれども退院後、妻は二人の家ではなく、実家で養生することを決めた。「ごめんなさい」妻は私に対してそれしか言わなかった、言えなくなっていた。妻の両親は、実の子のように私に接してくれた、けれども毎日のように見舞いに来ようとする私に、「今はあなたが来ても逆効果だから」と言って、門を閉めた。妻は自殺した。私に宛てた遺書には「ごめんなさい。」で締めくくられた二人の愛の記憶が綴られて、彼女の誕生石のルビーが嵌められた結婚指輪が入っていた。
 喫煙所のドアが開いて、そこには美里がいつもの調子で頼りなく佇んでいた。外回り用の書類を持っているのでおそらく私を呼びに来たのだろうか、だが視線は床の方を見ている、私は涙を裾で拭いながら、美里には私がここで何を思っていたのかわかっているのだろうな、と感じた、美里は涙を拭う私の方は決して見ないようにただただ下を向いていた。
 車内ではいつものように黙っていたが、来年度の配置換えのことを思い出した。もともとは一人でやる仕事だから、指導役もおそらく今年度で終わりだった。
「一年と半年、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
 そう言うと二人とも黙ってしまった。車窓にゆっくりと白い雪が、風に揺られるようにして落ちて、とけた。そういえば今年一番の冷え込みが、とテレビでやっていた。
「いや、そうじゃなくて、本当にありがとうね」
「いえ…もう大丈夫ですか…ごめんなさい、大丈夫だなんて…」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 彼女の言葉を遮るように、私は言葉を吐き出した。隣にいる彼女の様子を窺うことは敢えてしなかった。ただ「大丈夫」という言葉が頭の中でずっと回っていた、視線の先では降り始めた雪が次から次へとアスファルトに突撃して、次から次へととけていった。不思議なことに、妻が死んでから妻の夢を見たことは無かった、今日、一日が終わったら、ベッドに横たわり、たくさん妻の夢を見たい、そう思った。




「もしもし敦子?元気してた?」
「どうしたの、あんた突然」
「あたしゃもう二月は冬だと諦めることにしました。外見てる?雪降ってるでしょう?
 二月になるとさ、気候もあったかくなって、もうすぐ春だなぁ、って思ったりするん
 だけど、やっぱり二月は冬だね。突然雪が降るんだもん」
「はいはい、春は遠いね」
「うん、春は遠いよ」


わたしはヘルメスの鳥。わたしは自らの羽を喰らい、飼い慣らされる。

  

風を振り出しに戻す始原の虹でもってわたしの羽を何度でも漂白してください
気詰めた風景に寄り添うかたちで光線的なフォルムを暴き続ける
振り乱したメランコリアがどうしてもついてこれない速度をください

わたしの声帯を奪う光にきらやぎながらあなたは土気色の体躯でもって
ありとある風に愛されなかった生命の一つとして、その
しなやかでない稜線で死せるべき生を精一杯の輝きで装飾してください

神々と死すべきものの一つの境界として生きるものを装飾する
その「飛ぶ」と言う文字のfとlがいつまでもわたしをわたしというわたしから
置き去りにする(flie floh flie floh)

(自らの体躯を喰っても蛸は死なぬ  (蛸の自殺 小林秀雄
 死は死への抗体だよ         (転落  カミュ
 )))

死を孕む羽がどうしようもなくわたしを殺すことでもってながらえる
非-詩としての大文字の「I」がいつしかfとlで震える舌先をとらえて
わたしはわたしというわたしから飛び去る術を無限に忘れてしまう


雷の内部

  

 だんだんか細くなってゆく未来も口で咥えてカスタネットの軽快なリズムで踊ってしまえば何もかも許されてしまうような夜に不意に訪れた不思議な瞬間は真っ昼間の草原に咲くたんぽぽみたいで私は永遠です、と言ってはみたものの狂ったように笑う女たちからしてみればそれはそれで狂っているってことになって、未来も電池切れのレーザーポインタが地球に寄り添いながら力尽きるみたいに、白けちゃったからソファーに横になってエレキギターと電子バイオリンが踊り狂う全ての人のどうしようもない心の隙間を埋め尽くそうとしているのを仙人みたいに見ていた。競馬で大勝ちした日ってのは夜の街を通り過ぎる女たちの頭上に値段がポコン、と浮かび上がってるのが見えて、そいつとオネンネするにはいくら払えばことたりるかってのが瞬間的に分かっちゃったりするわけで、ちなみに脚がきれいなお姉さんってのはやっぱ相場が高いわけだ。とはいえ、借金取りがガチで怖いからコンビニのATMでアコムやらアイフルやらのカードを財布から取り出して十万単位で入金する、したら途絶えていた未来がぽつぽつと降り始めて掌を差し出すと冷たいけど皮膚を優しく愛撫するようにいつのまにか馴染んでいく。私が蹴りだした足の行方がたとえ真っ暗闇の路地裏で袋小路にぶち当たってもそれはそれでハッピースカイ、全ての人に平等に与えられた死をその時は喜んでフェラチオしようじゃないか。

 私が世界で最も愛していた曾祖母が病院のベッドで死ぬ前の人間がみんなそうであるように顔をパンパンにさせながらチューブを体中に巻きつけられている時、天井から黒い鉄の棒がゆっくりと下りてきて彼女の口の中に突き刺さろうとしていたのを見てから、死ぬってのはあの棒がゆっくりと口の中に突き刺さっていくものなんだなって知った。彼女に意識はなかったけど懸命にその黒い鉄の棒を吐き出そうとしている姿がどうにも惨めったらしくてさっさと病室を後にしたその時に体に纏わりついた慣性の法則が安アパートの一室を缶ビールの空き缶とタバコの吸殻で埋め尽くしている。

 腐敗、ってのはオデュッセイアに出てくる求婚者に似ていて貞操たるペーネロペイアは私の脳みそのどこかの神殿で寝そべっていて、夫たるオデュッセウスを待ちながら一方ではそのどうしようもない腐敗に身を任せてしまってしまいたいという願望を抱き続けている。そんな一人三役を演じながら今日という日だってチューニングはフラットのまま、かなしい予感と幸せな瞬間を煮込んだ何となくマジカルなシチューを啜りながらオレンジのミニスカートに包まれたウェイトレスの奇跡的なお尻の揺れ方の法則について頬杖をつきながらいつまでも思いを巡らしているこの夜の始まりのウェットな時間。お尻ぺろぺろしたい。

 死の対義語が生であるという、いささか古めかしい見解に寄り添って言うならば、腐敗とは生活の対義語であり、生のスタイルにおいて私は腐敗のミニスカートを履いていることに他ならず、意味も無く差し出される諸価値にえげつないパンチラをプレゼントする、という方法論によって幾多の価値の抱擁を拒んできた。だんだん暗くなる空はひとときの間、人文学を忘れる、社会学を、抱擁を。生物学が街に溢れる、「生活」はベッドで眠り、物理学が夜に蔓延る。

 脳みその機能のうちで一番重大なのは五感に伝達される膨大な情報の中から何が現実なのかを選択することに尽きるわけで、その様子は溢れかえる情報の中から確かなものを積み上げて一つの頂点を形作る、という意味において、私たちはとんがりコーンの先端部分で不自由なダンスをいつまでも踊り続けてゆく、ということに他ならず、ケミカルな作用で脳みその機能を揺さぶっても私たちはどこまでも現実のありかを知ってしまっているし、そうでなければ狂人だということ。私は両足で地面を踏みしめる、歩き出す、こける、立ち上がる。多分頭に詰めこまれたものが少しだけ重過ぎる、そういうリアル。

 街のネオンに夜が馴染んできた頃、空は突如亀裂を生じてその内部が鮮やかに光った。遠雷はもったいぶった末にその音の轟きを差し出す。素敵なプレゼントをありがとう、その亀裂はピスタチオの殻のそれのように思わせ振りな様子で視線を吸い込んでゆく、雷の内部へ、何かしら神聖なものとして差し出されたものへと、それを娼婦のクリトリスと同等のものとして舐るものたちをノーマルと呼んで丸く収まっている世界で、ピスタチオの殻を丁寧に剥ぎ取って中身を上品に召し上がる流儀で破綻無く進行していくあの素晴らしい世界に降り続ける黒い鉄の棒はどこまでも優しく、雷の内部で、光になっていったものたちを光のまま摘み取ってゆくのだろうか。とんがりコーンの先端を並べて、ほら、あそこまでは自由に歩けるよ、というやり口で、手と手を携えながら感じる永遠。ディズニーランドの手口で全てを招き入れる真っ昼間のたんぽぽ野原は悲しいほどに不可侵。それは消え去ってゆくものたちに素敵なかたちでさよなら、と手を振れなかったものたちへの報いとしてどこまでも眩しく、差し出されたピスタチオに触れることすら出来ずに佇むものたちを外部としてあくまで外部のままその光で包み込んでしまう。

 ステータス欄にずらっと並んだ膨大な「私」と銘打たれた設定を延々とジョブチェンジし続けながら放浪する夜がかりそめの優しさを露呈してくれるのに任せて、私という設定は強い酒を呷り続ける。その傍に一人の女の子がいたっていい。パステルオレンジのワンピースに身を包んだ軽薄な女の子で、マクドナルドの流儀で顔に貼りついたスマイルが何か重大なことを隠していて、夜みたいに私という異物もからから笑いながら飲み干してくれる。そんな女の子が。

 そしてたくさんの夜を一緒に過ごす。もうほとんど見えなくなったか細い糸を互いに縫い合わすような会話を続けて、夜に縫い合わされた私はもう完全にほつれながら、そこで初めて許された言葉で数篇の詩を紡ぐことが許されるだろうか? 君はきっと優しく頷いてくれたり、言葉の意味を尋ねてくれたり、時には気紛れに涙を流してくれたりする。けど知っているだろうか、そのジョークみたいな涙でさえ驚くほど光に溢れていることを。そしてその涙を拭うには余りにも私の手は穢れていて。

 女の子を置き去りにして飛び出した右足が踏みしめるアスファルトを貫く朝の光が怪物的な言葉でもって私を問いただす、お前の名は? お前の意味は? お前の向かう先は? 私は「コケコッコー」と太陽にカモフラージュをかましながら、息も絶え絶えになって寝床に辿り着き、女の子の涙がその神聖さにおいて恐ろしいほど雷の内部と同じだということに驚愕し、もう一度それを思い描き、触れようとしては、それに触れることなど出来ないことに気付く。まるで指先と指先を合わせるとたちまちショートして焼け焦げになってしまう恐怖から神に祈ることが出来なくなってしまった最も信心深い修道女みたいに。私は穢れている。

 ある時分、とんがりコーンの先端から滑り落ちた私は、夢の世界の招待人ファンタジアーンと名乗る小太りの中年男と話をしていた。ファンタジアーンはよく汗をかく男だったのでいっそのことバスタオルを渡すと、「これは、これは、あなたは本当に心の綺麗なお方だ」と誰に言うでもなく呟き、私はあの夜彼女の涙を拭えなかった手を見つめていた。ファンタジアーンは実に合理的かつ嘲笑的な男であったので、私が例えば天国のことについて話すと、彼はすぐさま天国というのはいわば混浴の露天風呂みたいなものですな、と言った。その後、やつらはおまけに潔癖症でしかも羞恥心が無いときてる、あなたのほうがよっぽど人間的だし、こういったらなんですが「天国」というものに一番近いのも……と継ぎ足そうとしたが、混浴という言葉に興奮した私は、すぐさまかの男を玄関口から突き飛ばした、ファンタジアーンはあーんと言いながら玄関の扉にその体を抉り取られながら視界の内から消えてなくなった。

 その夜再び遠雷を見た、私はもう知っていた、私があの裂け目から生まれてきたことを、黒い鉄の棒はもう私の喉もとまで刺さっていた。部屋に戻って狂ったように泣き叫び、X-videosで大量のエロ動画を鑑賞し、もう幾分と黄ばんだ曾祖母の写真をある本の中から見つけた、栞にしていたのだった。それを幼い少年が憧れの女性の自転車のサドルを盗むときの慎ましさで取り出し、懐にしまった。そのままパチンコ店に行った、爆ヅキした。曾祖母の顔を指先で撫でた、精液を拭き忘れた手はカピカピになったあと、度重なった大当たりの熱量によって染み出た汗と混じりながらぬめっていた。すると、彼女の表情はその白い液体でほんのりぼやけながら何かを許すように微笑んで見せた、なんていうことはもちろんなくて、けれど私はそれでよかった。

 「さよなら」って呟いて、いつまでも見つめていた。


おはよう、人類

  

 寝付けなくて、いつの間にかベランダで煙草を吸いながら朝焼けを見ている。温度が交差する。畦に沿いながら暖かな温度が侵入して夜は撤退してゆく。小さな音楽が始まるみたいに、誰にも聞こえない音楽が始まるみたいに、雀のちゅんちゅんという囀りが押し並べて等しく人家の屋根に降り注いで、しあわせの角度を測り予ている人達の頬にゆっすらと感触を残して、まるでそんな事件は起こらなかったかのように、今は穏やかな風が煙の鼻先を曲げてしまったところ。

 小さく噛み砕かれた笑顔が、最先端の技術で復元されて、世界中の小さな子どもたちの眦に降り注ぐような嵐があってもいいじゃないか。この国では桜という花がもうすぐ咲くのです。小さく、薄っすらとピンクをさした色合いの花弁が開いては、無力に風に吹かれながら、たくさんの人に踏まれたりして土に戻ります。円らかなお顔が水たまりに映っているのを見ている小さい女の子よ、君の唇に桜の花びらが止まった時、君は一体何を思うのだろうか。

 青色を薄くさした空に、白く刻印されているのは、かつていたと言われている巨鳥、飛べなかった今日の空にその白い骨の残りかすだけを悔しそうに漂わせている。翼はもうない。現代日本人は翼を持たない種族だ。空を飛びたいと思うことができることと実際に翼を持っていることには反比例の関係があるのかもしれない。哀しむこと勿れ、空を飛ぶに能はずと知り、なお空を飛んだ人たち。もしそうならば、あなたたちの背中には等しく白い翼が生えていることだろう。ある時雀に訪ねたんだ、「空ってどうだい?」「空ってなに?」

 おはよう、人類。などとふざけたことを言いながら今、煙草を吸っていて、畦に沿って、春とか目覚めとか幸せとかそれとは正反対の惨事だとかが、じりじり畦に沿って、進むのを、ふざけながら見ている。自分が道化だと思うような人間には自分を後頭部から眺めることができるという、なんとも悲しい機能がついていて、ふざけている自分をふざけながら見ている自分はやっぱりふざけていて、どうせふざけているのならば、もう少しだけこの世に居座って、空を飛ぶのはまた今度、とお茶らけてみようかな。桜が咲いたって何も変わりはしないのだけれども。

 夜通し見ていたドキュメンタリーのことをまだ覚えている。タンザニアの有名なやつ。元傭兵でその当時は警備員だったおっさんが、政府が戦争さえ起こしてくれれば妻も子も喜ぶのにな、って笑ったのを覚えている。


生理がこねぇ

  

 気付いたこと、俺は芸術について語ってる時より、どの馬が一番速いか語るときの方がいきいきしてらぁ、ってこと。上がり3ハロンで人生決まると思ってますよ、といつまで俺はくすぶってりゃ気が済むんだ?

 婚約者に買ってもらった婚約指輪の裏側には「禁煙しろ」ってアルファベットで刻まれてるんだけど、そもそも煙草吸わないあなた、禁煙してますか? してませんよね、そうなんですよ禁煙って煙草吸ってるから出来るわけで常に細胞レベルでニコチンにうずうずしてないと禁煙って言えないわけでさ、煙草吸わないと出来ないんだよ、っつったら、殴られた、グーで、いてぇよ。

 セックスするときコンドームを使用しない様に神様から作られたタイプの人間、つまり俺みたいなやつが一番こころにぐさっと来る言葉ってのが、「生理が来ない」、こいつはもう核兵器、そもそも生活不能者ってほどでもないけど定職につけない奴にそんなこと持ちだしてどうする? こちとらアコムとアイフルに挟み撃ち喰らって目の前には奨学金というヌリカベが迫っててよ、生理がこねぇんじゃそりゃ末脚も糞もねぇ、追い込みどころか追い込まれじゃねぇか、って毎回思うんだけど、なんとなく毎度スルーして生きてきたんだよね。

 つーのもこれまでは恋愛も糞もねぇから、やりたいやつとやられたいやつがやりあってただけであって、んなもん俺が親父だなんて誰にも証明できねーのばっかだったから、華麗にスルー、女の敵だね、いやいや、女ってそんなもんだろ? 「糞ビッチ」とか馬鹿じゃねぇかなぁと思う、女は糞ビッチだろうが、そっから始まるんじゃねーの?

 そんでだ、なんだか婚約しちゃったんだよね、もちろん婚約者に彼氏も愛人も売春も認めてるから俺の種じゃねぇだろっつーベースは変わんねぇんだけどさ、「生理がこねぇ」、ぞくぞく来たね、だって逃げ場ねぇもん、永遠の愛を誓い合っちゃったもん、ニーチェ風に言えば、「愛情の見せかけを永遠に約束」しちゃったもん。一応いまんところ学生という仮面被って色々やってたんだけど、全部おじゃん、これ最高じゃね? 一生懸命になって人生のチキンレースに参加しながら、歯ぁガタガタ言わせて誰の子ともしれねぇ野郎の面倒をみるなんて、なんて素敵。脳裏をよぎった言葉、てめぇの敵を弱り切ったカスだと思うなよ、てめぇの敵はいつでもてめぇにとって最も恐ろしい敵であれ。速攻でやぶりすてた就職相談会の案内を吸い殻やらでぐしゃぐしゃになった屑かごから拾い集めてきてパズルしてさ、次は公務員試験の日程の調査よ、ここまできたらもうマジだろ、俺は俺がもっとも恐れていたものになるんだ、これほど胸が躍る瞬間なんてないだろ?

 そんで思い出したのがこの前読んだ、河出の『ペット殺処分』って本、動物愛護センターの実務をノンフィクションっぽく書いたフィクションなんだけど、正直言っちゃうとさ、なんで罪のない犬や猫が心ない飼い主のせいでこんな目に合わんといかんの? とかおとめチックな感傷をもろだしして、ぼろ泣きしました、飼ってる猫抱きしめちゃいました。はい、俺の進路決定、生涯糞みたいなペット飼い主を呪い続けながら、感情ひた隠して犬や猫を安楽死させることにしました、公務員試験受かるくらいの脳みそは持ってんだよ、意外に。ってことをとある医学部の女性に相談してたら産むにしろ産まないにしろ母胎の安全のために妊娠検査はした方がいいよ、ってナイスアドバイスをされたので婚約者にしてもらった。自暴自棄になってんの? いや、わくわくしてる。

 はい白、はい生理不順、残念でした、シュウカツ関連グッズもう一度屑かごにぶち込んで、公務員試験関連のブックマーク一瞬で消し去った。あんな、「禁煙」って普通アルファベットにしたら「KINNEN」だろ? 「KINEN」になってんだけど、これじゃ「記念」じゃね? 知っててやってたんならあんたすげぇよ、とか思いながら、今日もスパスパ禁煙。コーヒー&シガレッツでそういうのあったね。実はもう一カ月煙草買ってねーのよ、金ためて、あんたと暮らす家買いたいからさ、シケモク吸ってんのよ、わかる?

 知ってる? 今でも世界中でわらわらと子供とか死んでんだよ? わらわらわらわら。
 知ってる。
 その無数の誕生と死のなかのひとつにてめぇの子かもわかんねぇ誕生と死を数えられないのが、わりかし人間なんじゃない? 犬とか猫とか毎日何十匹も殺しながら、ひとつの誕生を祝福する、この矛盾の中に隠されたなにかを、だれかわかったら俺に教えてくれ。


おりこうさんまつり

  

地道におつりをもらうので富豪になりそうだった男が逮捕された
俺はおつりは一度しか受け取らないし、万引きもしていない
というが、問題はそこではなく
彼は全裸だった

こうして富豪になりそうだった男の物語が終わった
まるでドストエフスキーの長編小説を読み終えたか
最初から読んですらいなかったかのような不思議な空気が街には漂っていた
僕は人差し指を立てて小刻みにふった
ノンノンノン
ビーチボーイズみたいに
ふった相手が悪かった
恵比寿クンだった

のんのんのん
と今度はひらがなで書くことによって
どこか中和される否定性
影ふみに夢中な女の子たちの一人がばたりと倒れた
かんぜんぼうぎょ!
一番小さい女の子が叫ぶと
女の子たちが一斉に集まってきて
ものすごい力をこめて彼女の頭を

俺、富豪になりそうだったんだ
缶コーヒーをシェイクしながら
男は言った
あたしなんか
影ふみでいちばんだったんだから
もうあんまり女の子には見えないけれど
女の子はそういって
スカートのおしりの部分をぱっぱっとはらった
僕はバンドを辞めたばかりだった

日が暮れてカラスが鳴いていた
金星が見えたけど
金玉も見えていた
かんぜんぼうぎょ!
そういって女の子は仰向けになって
富豪になりそうだった男は悲しそうにしていた
僕は指をふっていた
のんのんのん


木は旅が好き

  

 駅前に植わっていたニシキギの紅葉が終わった。錦鯉が鯉の代名詞であるように、錦木が木の代名詞であるか、といわれればそういうわけにもいかないけれど、秋の終わりによく色づき、その見事な様子は錦の名に恥じないものである。またその燃えるような葉が全て落ちてしまっても残された木々の枝には「翼」と呼ばれるものが具わっており、それは枝の中心から四方向に長方形の翼が広がり、見た目CGであるかのような視覚的効果を演出している。息子はよくニシキギを「マトリックスの木」と呼んでいたが、それも理由のないことではない、私もその名を知るまではそう呼ばせてもらっていたのだ。
 息子は、その年頃の男の子がそうであるように自動改札機の、現代において決してもう未来的とは呼べないその動作にやはり魅了されていた。子供が近未来に憧れるのとはまた違ったものが自動改札機にはあるのだろうか、幼い子供は外界が自分の思考によって支配されているかのような万能感を持っていると精神分析の本で読んだことがあるが、この古びた近未来は息子の差し入れる切符に端を発して魔法のようにその門を開く、息子の言語に翻訳すれば「ウイーン ガシャン」といったところだ、私はそんなふうに勝手なことを考えながら、「こども」というボタンを押す私の背後に注がれるはちきれんばかりの視線をくすぐったく受け取りながら私もまた早く振り返りたくて仕方ない思いを隠しきれなかった。何にせよ普段乗ることの無い路線に息子と連れ立って乗るのだから、そこには日常とは違った何かが存在するのだろうし、私もまた浮き足立っていないとは言い切れなかった。
 恋人、と言うと聞こえが悪いだろうが、夫は結婚して5年後に、大切にしていたトラックもろとも圧死してしまった。残されたものは息子だけ、なんてテレビドラマじゃあるまい、人並みにショックをうけ、人並みに落ち込んでしまって何も出来なくなった私と息子の生活を死亡保険は補償して余りあるものを残した。さて、男が子連れの女をその腫れ物ともどもひきうけてお茶に誘うのはよほど本気であるか、よほど怠惰な関係であるかのいずれかである。私の場合は後者であった。伸宏は私の幼馴染であり、一度奥さんに逃げられた経験が私と過ごした幼少時代を美しくみせたのであろうか、とにかく、子供は置いて出てこいよ、などとは決して口にしないところが救いであるような人物だった。もちろんタイなど締めては来ないが、それなりにちゃんとした格好をした伸宏を見て、幼い頃を知っているだけあって毎回何故だか少しふきだしそうな気分になった。それは電車の中の緊張が解ける瞬間でもあり、まるで恋の疑似体験をしているようでもあった。
 その伸宏に会うまでの少しの時間、電車が到着すると駅前のロータリーからカフェのある商店街へと続く散歩道にナンキンハゼが植わっている。ナンキンハゼは冬になると枝先にたくさんの白い実を実らせるので、それを見上げるとまるで雪がそのまま空中に固定されてしまったような印象を受ける。この時もいくつか雪が固定されていたが、息子に「雪みたいだね」などと言うと、息子はナンキンハゼを「雪の木」とでも呼びかねないと思い、私は少し躊躇ったが、ナンキンハゼを見上げている私を息子が発見してしまったので「雪みたいでしょ」と言ってしまった。以前、トウカエデという街路樹を見かけたときに枝の伸び方が猫の尻尾みたいだと言ったきり、息子はトウカエデを「猫の木」と呼び始め、挙句の果てには公園に植わったポプラを、柳の仲間だよ、と教えた途端に、不遜にも「柳の仲間」と呼び始めてしまった。 伸宏はなかなか現れない私たちを探しに来たところで出会ったのだ。息子が丁度「雪の木」の命名を終えたところであった。
「おーい明、何してんの」
 明とは息子の名である。恋の疑似体験はやっぱり疑似体験に過ぎず、そのことが私を安心させた。フランスの国民だって毎年フランス革命があっても困ることだろう、それと同じ原理で、恋なんていうものも一生のうちに一度あればいいものだ。伸宏もまたそのように感じているだろうことが私を安心させた。
「おじさん遅いよ」
 私たちが時間に遅れたせいで伸宏をここまで来させたにも関わらず、息子の言葉は確かに「おじさん」が悪いかのような気にさせるほど、子供らしい真実味を帯びて寒空に響いた。私たちは三人連れ立って、本来の待ち合わせ場所であるカフェに歩を進めた。三人とも天を仰ぎがちに歩いた。
 伸宏と過ごした幼年時代。とはいえ私の思い出が伸宏だけに占領されている訳ではない。伸宏はよく言えばマイペース、悪く言えばマヌケだった。要領の悪い伸宏は小学校の漢字テストですら勉強しても良い点が取れなかった。私も成績優秀というわけにはいかなかったが、良くも悪くも優等生であった。「家が近い」ただそれだけの理由で、私はよく伸宏を連れ出して昆虫捕りに出かけた。私はどちらかというと動くものよりもケヤキやスギなどの喬木に囲まれた空間にひっそりと息を潜めながら、水の中にでもいるかのようにゆっくりと体を動かすのが、なにやら秘密めいていて好きだった。伸宏はちゃんと本来の趣旨を忘れずに甲虫を探した。それでも見つけるのはいつもクワガタやカブトではなくカナブンだった。
 明は父親に似たのだろうか、伸宏のマイペースさとは違うが、勝手に自分の世界を作り出してそこに没頭する癖があった。
「明のお父さんも変な人だったなあ」
「お父さんってお前の旦那だろうが、もとは」
「そうだったそうだった」
 伸宏は私の発言を咎めるわけでもなく、ちょっとしたおかしさから私に物申したくなったのだろう。明は父親を知らない、明の父親が死んだのは明がまだ一歳の頃で、明に父親の記憶を話しても、なにやら知らない国の経済状況を聞かされている女子高生みたいに、キョトンとした表情を浮かべて、気付くと「こども辞典」を眺めていた。
 明と伸宏は30もの歳を隔てながらどこか友人めいたところがあった。「おじさん」が明の視線の先を読み取り、往来を走る車に対して、「あの車かっこいいな、明」と言うと、明は車には興味はないらしく、「おじさん、あの車の横にちょうちょみたいなのがついてるね」と言った。「おじさん」は一瞬サイドミラーのことかと思ったらしいが、どうやらそうではないらしい。私は明が車の側面まで迫り出したウインカーの点滅をさして、何故だかちょうちょのようだと感じたことを悟った。そんな二人のやりとりを見ていると、幼い頃の私と伸宏の関係を思い起こさせた。私はいつも変なことを言って伸宏を困らせていたし、伸宏は伸宏でそんなことお構いなしに次から次へとカナブンを捕まえた。
 そんな二人の関係を見ていると、明が「お父さん」に似ているのは気のせいで、結局、明が似ているのは私なのだということに気付かされ、根拠の無いかなしい気持ちが海の潮のように私の心をさらった。誰かを愛すると言うことは、その人に自らをさらわれることだと思っていた私は、「お父さん」の忘れ形見がどうしようもなく私であることに少しく悔しい思いをしたのだ。そんなことを思いながら窓から覗く街路樹を見つめていた。そこに植わっていたのはアメリカフウであったが、紅葉も過ぎ冬の装いをした寂しい木を見て、どこにもいけなかった私の感傷を重ね合わせていた。
 まだ高校生だった頃、私はよく詩を読んだ。ハイネやアイヒェンドルフなどの、優しい詩が好きだった。私はハイネの一篇の詩を思い出していた。

 北の果てには樅の木が
 不毛の丘に独り立ち。
 雪と氷の白い覆いで
 包まれながら眠ります。

 夢に見たのは椰子の夢、
 遠く向こうの朝の土地、
 独り黙って悲嘆に暮れる
 燃えだしそうな岩壁の上。

 何の変哲も無い詩だけれど、高校生だった私でも、この詩の意味を深く理解していたと思う。地中に深く根を下ろす木は風に転がされることも無く、鳥に運ばれることも無く、どこまでもその場所に根ざしている。私もまた、当時、そのどこへもいけない予感にうちひしがれて、けれど、いくらかの優しい諦めを伴って、この詩を読んでいた。木は、どこへも行けないけれど、夢を見るのだ。それは遠く朝の国の椰子の木の夢さえ。もちろん夢を託すのは人間の業であることはわかっている。自由に飛ぶ鳥が再び遠くへと飛び立つためにその羽を休める梢。風に舞って遥か遠くの地にまで運ばれる花粉。そのようなものが人間の想像力を培うのだろうか。小学校の国語の教科書には茨木のり子の「木は旅が好き」が載っているが、あの詩もまた、どこへもゆけない予感にうちひしがれ、それでも優しい諦めに根拠付けられた詩だ。私は「お父さん」と結婚して、明という大地に根を下ろした。「お父さん」はきっと生きていても私をどこにさらうでもなく、幸せなのか不幸せなのか分からない日々を平安と名づけて木のようにどこにもいかない毎日を続けるに違いなかった。それでも、私には私の突飛な世界を受け入れてくれる誰かが必要だ、なんてことを彼が死んでからはずいぶん思ったものだ。今では明が私を突飛な世界で驚かせてくれる。
 私は伸宏と明の会話を曖昧な意識で聞き流しながら、いつしかこの「おじさん」が「お父さん」に変わることを想像していた。移り変わる景色のなかでいつまでもひとりで立っていることしかできない樅の木という常緑広葉樹の甘やかな孤独をアイスコーヒーにつき立てられたストローでかき混ぜながら、二人のことをずっと見つめていた。名付けた先から零れ落ちてしまう、そんな二人を私は優しい諦めでもって見つめていたのだ。違う、二人ではなく三人を。
 伸宏があくびをする。子供のころから私の前でよくあくびをする人だったけれど、そこには退屈からのあてつけというよりも、もっと親しみのこもった何かがあるような気がしていた。事実、伸宏はあくびをするたびに笑った、子供のころははにかむように、大人になってからは微笑むように。すると、私は私の言葉が全部伸宏の口の中に吸い込まれていってしまったかのような印象を受け取るのだ。そうなると周りの世界は私の言葉を忘れて、まるで布団圧縮袋が開かれると同時に空気を吸い込むみたいに、私の口からもう一度名前を吸い込みはじめるのだ。あ、またあくびした。幼友達、腐れ縁、今度はどんな名前を与えてやろうか。恋? いやいや、それは違う。
 物を名付けてしまうことになんとなく寂しさを覚えるようになったのはいつ頃からだっただろうか。明が言葉を覚え始めてから私は今までなんと狭いところにうずくまっていたのかと驚愕する思いだった。「お父さん」にそのことを話すと、笑いながら「お前は大人になっても子供みたいだから」と笑われた。真冬の星空の下でなんとか流星群を待ちながら空のオリオンを見つめて、やっぱり砂時計みたいだな、と感じて、明や「お父さん」は一体何を思っているのだろうかと、ひそかに詮索する時、私はたとえ同じ場所に立っていても、何億通りもの物の見え方が存在すること、同じところに立っている木でさえ何億通りもの意味を生きていることの驚きを、どこへもゆけない不安と、優しい諦めに付け足した。
 その日、伸宏にプロポーズをされた日から数年の間、私は幸福でもあったし、同時に幸福であることが孤独でもあった。「お父さん」は相変わらずあくびをしたけれど、そのあくびは段々と私から飛び立つことの合図に思えてきたのだ。きっと、伸宏が「お父さん」になったからといって何かが変わったわけではない。けれどそう思うことによって、私は「お父さん」を伸宏として好きでいられるような気がしていた。明はちゃんと歳とともに花や木の名前を覚えていった。私は歳とともに色々なこと忘れていった。
 昔、大学生だった頃、詩の講義でゲーテの「植物の変態」という詩を読んだことがある。当時まだまだうぶだった私は、いったいどんな変態的な植物があるというのか、と戦いたけれども、その詩は、木の生育を描いた詩であった。仔細はもう到底覚えてはいないのだけれど、木に花が咲くとき、それがまるで天への捧げものであるかのような描写に強い印象を受けた。咲き零れた花冠が木でもなく空でもなくどこか幽玄な空間に漂うものとして空想されていることに私は驚きとともにどこか懐かしさを覚えたのだ。まだ花の名前を知らなかった頃の。
 ノヴァーリスというドイツの詩人が「木に咲く花は人間の思考のシンボルである」と記した書物を読んだのも大学生の頃だった。季節とともに移り変わりながら様々な色や容で先端から咲き零れる花を思いながら、私は「花す」という言葉を思いついた。まだ皮膚の一部が脳になるなんて世界の誰も知らなかった頃、フロイトは幼児の自我は皮膚にあるのだ、と言った。花、鼻、端、どれも先っぽにちょこんと座っている。私は歳とともに段々と花の名前を忘れていく。けれども言葉を話すことは、同時に言葉を放すことでもある。
 明がちゃんと大人になってゆく姿を見ていると、やっぱり「お父さん」に似たのだな、という思いがした。けれども、当然のように私という梢から飛び立っていく明を見ていても、決してつらいなどとは思わなかった。同じところに立っている木の、優しい諦めが私の胸を充たした。飛び立つ鳥もいれば、翼を休める鳥もいる。それは花のように、一番端の部分で取り交わされる木の儚い言葉、話したり、放したりする夢のようなもの。
 息子を預けられている間に伸宏のことをなんと呼べばいいのか戸惑ったが、その問題は自然と「おじいちゃん」と呼びはじめたことから呆気なく解決した。名前を与えることに関して子供ほどに戸惑いがない生き物はいないのだ。もし、あの日よりもう少し遅れていたら、思春期の難しさから伸宏が「お父さん」と呼ばれることも無かったのかも知れない、などと思いながら、「お散歩」の道すがら立ち寄った駅前の通りに植えられたニシキギを見ていた。秋の装いはすっかり北風に吹き飛ばされて、綺麗に刈り揃えられ、発送前の陳列済みダンボールみたいに整然と並んでいる。ニシキギという木の枝には「翼」と呼ばれるものが具わっているのだが、私はこの「翼を授かった木」を見ていると不思議なくらい親しみを覚えるのだ。ひとつひとつの翼がそれぞれに「遠く」を孕んでいて、それでもなお今ここにおとなしく植わっている。強く握られた右手はいつか訪れる別れを予感しながら、しぶしぶとそこに居続けることを肯うように小さな手を握り返していた。


ファミリアファミリア

  

 ピンク色のいかした車がハザードランプをパカパカつけっぱなしにしたまま大通りを派手に右に折れた隙間からレイチャールズみたいに笑ってみせたおっさんが口パクでお前の人生なんだお前が決めやがれ、と言った気がしてカーステレオから流れ出るミルフィーユをミキサーにかけたみたいな音楽をぶった切った左手が妙にいかしたギタリストみたいにしなやかに動くからちゃちな迷いごとは全部忘れてさっさと海にでも行こうよさっちゃん。

 オラウータンの巣ってどんな感じだと思う? とかさ 西部劇のアイラブユーはどう訳せばいいと思う? とかさ、答えを用意してないなら最初から聞くなよって言ったら西部劇のアイラブユーはあんたになら殺されてもいい、って意味なんだよねってまじめに言うもんだからまじかよ、って聞いたら知らない、ジョンフォードにでも聞いて、って言ったきり黙りこんで煙草を巻いているお前の裸の背中に浮き出る背骨の輪郭がいちいち白熱灯の光でいかした影を作るからお前だけには殺されたくないな、だってお前、別のやつのためにもそうやって朝から煙草巻くんだろって思っていたらアイラブユーって声がした。

 リローってのは小さいって意味の英語がそういう風に聞こえたってだけの理由でリローはかわいい赤ちゃんエプロンを馬鹿みたいに噛むからよだれだらけになるだろリローって妙にいかしたギタリストみたいな左手をリローの視界でひらひらさせたら釘付けになった小さい瞳の中で「マヨネーズとトマトケチャップギャング達のひゃくいちにち戦争」とか「バナナキャットのアンダーグランド物語」がもう既に終結していてどことなくバッファローソルジャーみたいな顔立ちに見えたリローが赤ちゃんエプロンを馬鹿みたいに噛むからよだれだらけになるだろリロー?

 そういえば海を目指していたんだわってさっちゃんのいつもの声を聞いたのを数え始めて73回目のハイウェイゲートを潜り抜けたら視界に鮮やかな虹が架かっていてなんだかカフカの小説のエンディングみたいだねって言うさっちゃんはきっと変身しか読んだことがないんだろって聞いたら助手席でこっちを向いて馬鹿にしてる? ってふくれっつらが結構かわいくって覗き込んだルームミラーの端っこでバッファローソルジャーが今にも世界の終わりだねとか言い出しそうな笑顔で窓の外を一心不乱で見つめ続けているから僕達はベクトルの加算法則に従って世界の終わりに向かっているらしいよ。

文学極道

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