続、総評。
一条という書き手は、わからない。一条氏について語れる書き手など一人もいない。それほど、氏の作品は強固に批評を拒む。着目すべきガジェットは巧妙に隠蔽されている、ないしは存在しない。意味性や外部との連なりはあと一歩で指先から滑り落ちていく。しかし、この書き手ほど解答不能の喜びを読者に与えてくれる書き手もいない。それは、抒情ではない。あるいは個人性でもない。なんだかわからない、答えようがない。しかし、それはどこにも接続されないテクスト、読者と無関係に荒野に立つ塔を意味するのではない、氏のテクストには入り口がある。どうぞ、立ち入りは自由ですよ、とこの作品は言う。そして、実際に我々はどこかに辿り着く、氏の作品が「いい作品だ」という答えだけは提示される、何かが掌の上に残っている。しかし、読者はその道程を踏破したにも関わらず、自らの感覚の根源が見つけられない。「鴎」、「黒い豆」…この書き手に対して与えられた「殿堂入り」という称号は、言ってしまえば発起人の敗北宣言にすら近い。誰一人として、自分が歩いた道を説明出来ないのだから。一年目、ぼくは「創造大賞」を受賞させていただいた。しかし、ぼくはここに認めてしまって一向に構わない、真に一年目最も優れた書き手として表彰されるべきはこの書き手だったと、ケムリは思う。批評には、作品と自己その両方に対するディスクリプションが常に必要とされる。作品と自己は対置され、批評すべきは作品ではなく、あるいは自己ですらなく、自己―作品の間に交わされた交歓そのものだ。しかし、この書き手の作品に触れたとき、読者は気づく。私達は自らについてすら語りえない場所を持っている、この作品が言葉を交わしているのは、我々のどこかにある語り得ないブラックボックスそのものだ。「殿堂」という称号は、「棚上げ」のような意味を持ってしまうかもしれない、しかし同時に言えば批評の限界は今のところ、ここにあるのだ。一条氏という存在は、文学極道の喉に刺さったさかなの骨である。発起人はもちろん、この骨を抜こうとしている。氏の作品に見られるムラがさらに悪化するようなら、この称号からは落下するであろうし、また我々の批評力の向上にも期待していただきたい。今年は魚の骨を引っこ抜くことは出来なかった、だが来年は引っこ抜いてやる。これは、批評をする者にとって大いなる喜びであることを隠す必要はない。我々は、沈黙しない。待ち続け、挑み続ける。
生命が去っていく、あなたが去っていく、深い森の底へ。この書き手の中で「生」と呼びえるものは「あなた」しかいない。バシュラール的な象徴的語彙、風の終わりとは即ち死を顕し、森の奥は人の知り得ない世界だ。彼は宙吊りにされている、圧倒的な死を与えられながらも、作中主体と死の森の間で僅かな猶予が与えられている。その猶予は音として表される。繋がれる音、それは掌に残った記憶の雫が乾いていくまでの、草に覆われていく(外部的な記憶―例えば彼は猫が好きできゅうりのピクルスが食べられなかった…そういった明晰なる歴史的事実に包まれていく)「彼」の身体が一本の道へと形作られていくまでの残滓。作中主体、「わたし」の中にほんの僅か残った彼の遺骸。人は、忘れていかなければならない。死人と向かい合ったままでは生きていけない、死人はいずれたった一つの道となる。それはもちろん、ぼくたちがいずれ歩かなければならない道程、即ち死(=森)への矢印なのだけれど、でもその道を前にしたときぼくたちはやはり、声を繋ぐことを選ぶのだろう。叫ぶべきものがなくても、掌に残った雫が全て乾いてしまっても、生きるならばぼくらは声を繋がなければならない。不恰好でも、唄にならなくとも、それでも声を上げなければならない。生命の音が途絶えた森の中で、歌わなければならない。示されている内容は切実であり、また共感も強く得られる、モチーフへの目の向け方も実に正しい。だが、この作品は象徴的語彙の形作る構造性に比して、描写に甘い点が多く観られることも最後に指摘させていただきたい。抽象性と具象性の入り混じりが、単なる空疎な行稼ぎ、「それっぽい語彙」の連なりに見えないこともない箇所がある。その部分に、一層の鍛錬を願いたい。もっとも、こういった作品は何らかの強い動機の上に成立している(リライトをするような、あるいは技術を問題点として取り上げるような性格のものではない)可能性が強いことも、同様に認めねばならないけれど。
最優秀レッサーミドリ
レスというのは、報われない作業だ。真摯であればあるほど、作品に対しては厳しくなる。そして、「正当な批評」というものはきっと、この世のどこにも存在しない。強いて言えば、ぼくたちが属している世界の構造的な決定事項、つまり資本主義的批評―売れれば正義ということ―くらいが一面的には正しいのかもしれないけれど…。(なにせ、ぼくらはカネがなければ死ぬのから)でも、そんなのクソ食らえだ、そうじゃないか?
もちろん、この批評を書いているぼくのように、賞賛すべき対象に対してのみレスをつけるのであれば、それはそれほど苦痛な作業ではない。それどころか、大いなる悦びですらありえる。しかし、誰かの作品―それは、時には作者の人間ともイコールであると考えられることすらある―について、なんらかの批判やアドバイスを行うということは極めて苦しいことだ。もちろん、ミドリ氏の批評に対して納得のいかない思いを抱えている人間も決して少なくはないだろう、なにを隠そうぼくもその一人である。ついでに言えば、ぼくの批評に対して同様の思いを抱えている人間はもっと多いはずだ。しかしぼくは役柄という仮面をかぶり、やるべきこととして批評をする。尻をムチで打たれて走る人間は、常に評価になど値しない。それがぼくだ。だが、ミドリ氏は違う、なんの強制性もない場所に立って、自らの語彙を他人に対して与え続けている。それも、感謝されるとは限らない、それどころか多くの場合に於いて反感を買うような場所で。言うまでもなく、批評を続ける人間は磨り減っていく、語るべき語彙が、あるいは動機がそんなにあるはずがないのだ、普通は。豊富な語彙で衒学自慢に陥ることなく、語りかけ続けるレッサー、ミドリ氏に。感謝を述べたい。またこの賞に関しては、敢えてその役柄だけを選び取り精力的にレスをつけ続けてくれたひふみ氏、実感的な言葉で日常のうちに、身体感覚と不可分の率直さでレスをつけてくれたCanopus(角田寿星) 氏、そして多くのレスを続けてくださっている諸氏に、ありったけの感謝を。
最優秀抒情詩賞及び実存大賞次点
紅魚、ピクルス、いかいか、葛西佑也、そして候補に名を連ねた書き手達。
それぞれ本賞受賞に一歩及ばなかったものの、発起人の票を集めた書き手達。選考者によっては、それぞれの本賞における第一候補として名前を取り上げられている方ももちろんおられます。しかし、悩んだ末のことであると了承していただきたいのですが、ここに列挙された一級の書き手たちについて、ぼくは批評を書く資格がありません。ぼくは「推した側」に入っていないからです。この選評について、ぼくは正直に、本来の意味で「称える」あるいは「価値を語る」批評をしたいと思っています。であるからこそ、惜しくも次点に留まった皆様へ賞賛を贈る仕事は、ぼくがすべきではありません。選評を散々に遅らせた上、このような形は申し訳ないのですが、やはり「推した」発起人の方々がこの場で語るべきだと感じます。ぼくの口から語るべきことは、ここに列挙された書き手を強く推す発起人は確かに存在し、我々は長い期間を喧々諤々に争った、ということ。また、列挙するのみに留まってしまいますが、最優秀抒情詩賞の候補には夕美氏、実存大賞にはsoft_machine氏、ためいき氏、はらだまさる氏。新人賞にはレルン氏、レモネード氏の名前が挙がっていたことを述べさせていただきます。上段に構えた物言いが自分の中では非常にムズ痒いのですが。より一層の躍進を心から望みます、良い作品を切磋琢磨する場であるためには、皆様の作品が必要です。来年は、今年度の受賞者から賞をムシりとってやってください。また、流離ジロウ氏「にじゅう年の熱帯の鳥」とhaniwa氏「よるにとぶふね」の二作は、賞の基準には及ばなかったものの、名前をここに記すべき作品であると選考の中で複数の発起人に語られていたことも付け加えさせていただきます。「にじゅうねんの熱帯の鳥」はぼく自身も大好きな作品です。このブログがあって、良かった。
最後になりましたが、ケムリ選。ええと、これだけは言わせてくれ。この書き手に対する評価が不当に低いとは思わないか。いや、俺は思うんですけどね。この書き手に対して、俺は批評なんかしたくないです。ここまで書き上げて、気がついたら夜が明けていたりもするし、ビールが五本空になり、オールド・グランダッドが一瓶空いてしまったわけなんですが。今日はこれからバイトだよどないしよう。そんなときに読む「れてて」はじんわりと心に染み入ってくる、なんだかわからないものが、じんわりと。うひぃふふほーういい天気だ、雨降ってますけど。言っちゃなんですが、ここまでつけた選評はぼくの全てをこめました、いささか拙いであろうし、誤字チェックも甘いですが、それでもこれはぼくの全てです。そういうわけで、本当に疲れました、灰皿がサボテンみたいなことになってるし。それでも、「れてて」は染み渡って来る、もう、それでいいんです。批評は出来ないししたくない、でもとにかく俺はこの書き手の書く文章が好きなんだ。それでいいじゃないかということでケムリ選。うひぃふふほーう疲れた。れ れて れてて、何度も読み返してください。ほら、何かが染み出して来ませんか?来るだろ?来るはずなんだよ!
さ。
さて。
さてて。
文学極道三年目、いささか遅れましたが総評は以上となります。いや、まだ不足があったり「あれ書き忘れてる」とか「この人忘れてる」とかの可能性もあるかもしれませんし、ぼく自身が大慌てで加筆する可能性もありますが。それでも、これをひとまず幕とさせてください、少なくともケムリの下手糞で長ったらしい語りはここで終わる予定です。でも、まだまだやります。まだ、きっとやれる筈です。そして、来年もこういった総評を、本来の意味での批評をぼくに書かせてください。その時を楽しみにしています。ぼくは、批評をするに足りる人間ではないかもしれない、いやきっと足りないだろう。でも、足る人間であろうと努力します。そして、必死で作品を読みます。それだけは、約束させてください。