年間総評、初めてぼくは本当に批評する。
船頭多くして船は山に登る。山どころか、空の果てまで行ってしまうような選評だったと言って間違いないだろう。ご存知の通り、発起人諸氏はかなり癖の強い人間が集まっている。ぼくのような無個性極まりない人間には辛い選評であったとまず雑感を述べたい。要するに、モメまくったのだ。おかげで発起人達は長い時間を悩み、ぼくはシャンプーとトイレットペーパーを三度も買い忘れた。この批評文は、文学極道に於ける本賞を受賞した諸氏に贈る純然たる感謝と賞賛の言葉だ。
発起人には当然ながら、気に入った書き手がいる。それは、例えばぼくの場合にすると吉井氏なのだけれど。個人の評価と全体の評価というのは凡そにして噛みあわない。そして、これはもっと確実なことだけれど、意見のすり合わせは限りなく不可能に近い。密接した小国の領地争いのような戦いが日々繰り広げられ、ぼくはダーザインに背中を撃たれたりもした。ただ、それでも今回の選評に於いて、その最も軸になる部分「ずば抜けた作品はどれだ?」という部分において、発起人の意見はほぼ完全と言っていいほど一致した。皆まで言う必要も無い。
見事な作品である。創造大賞の一年目はぼく、二年目はコントラ氏が受賞しているわけなのだが、三年目にして最も完成度の高い、練熟にしてリーダビリティに優れた豊穣なる作品である。コントラ氏と初年度のぼくは、全く逆の欠点をそれぞれ有していた。ぼくはイメージを比喩の形で一つのイコンとして結実させ、飛び石のように重ねていくスタイル。コントラ氏はベタ足のインファイト・ボクサーのように一歩ずつ前へ前へと描写を重ねていくスタイル。それぞれの作品を読み直せば、この特徴は容易に理解されるだろう。そして、宮下倉庫はそのいずれのスタイルも使いこなす。「なるほど、君たちのいいところはそれなりにわかった、ではこんな具合でどうだろう?」とでも言いたげな筆致。もちろん、この書き手がぼくらに影響を受けたなんて大それたことを言う気はない、スタイルのバランス感覚があまりにも適切である、ということだ。この書き手についてはいずれ独立した形で批評文を献じたいと思っている。学ぶことが最も多い書き手であることを、もはや誰も否定出来ない。この作品を一番高い位置に持ち上げるということは、即ち読者への無言の(それでいて明確な)主張を表す。「この作品に学べ」ということだ。
それを追いかける形で創造大賞を同時受賞したりす氏。誰もが常に高く評価し続ける寡黙な書き手、常にスタイルを破壊し続けていく書き手、その作品に通底するのはあくなき実験精神であろう。作品の主軸ではなく、方法論を問い続ける書き手として、宮下氏の創作方向とも似たものを感じる。そして、この文学極道が鍛錬―それは即ち実験を意味する―の場であることからしても、氏の実力と精神性は受賞には十分足る。しかし、この書き手は何故かナンバーワンから常に一歩退く。批評に向かい合う姿勢は常に真摯そのもの、自己模倣を嫌い続けスタイルに安住しない精神、そして確かな技術。ありとあらゆる技巧を軽やかに使いこなす妙手。全てが満ちているはずだと誰もが思っている。多くの人が心の中で密やかに思っているはずだ「みんなあんまり声高に言わないけれど、あの人の作品っていいよね」その通り、そんな書き手である。この書き手に不足するものはなんだろうか、それはぼくにはわからないけれど(わかるわけがない、そうじゃないか?)ぼくはこの書き手が「何か」を獲得する日が近いことを、追いすがる全てを振り切る何かを獲得することを、強く信じている。いや、そうでなければならない。
ぼくも明日にはチェンバロの歩く平野に帰りたいと思う。文体という名の草木が芽吹き、やわらかい水がつま先を濡らす、暖かで小気味良い砂利を含んだ土に足を沈めるとき、人は思う。スタイルとはこれほどに抒情性を帯びるものなのかと、技巧とはこれほど豊かなものなのかと。それは、例えば八月の潮風に似ているし、目を覚ました時の一杯の水にも似ている、太陽の匂いがする毛布にも似ている。浅井康浩氏の作品が「最優秀抒情詩賞」を受賞したことについて、ひょっとしたら異論がある人もいるかもしれない。この書き手の技巧とスタイルについて異論を挟める人間は一人もいないとしても。詩が、もしも何かを―書くものだとしたら、抒情というのはモチーフにアプリオリに根ざすものだと考えるとしたら、それは間違っている。この作品と不可分の場所に生まれて来る感情を揺らす作用、それこそがより原初的な形での抒情なのだ。ぼくたちは海のために泣くことが出来る、飛んでいくからすのために泣くことが出来る、九月の夕暮れのために泣くことが出来るのだ。そして、その名状しがたい抒情性を扱いこなす技巧、それこそが浅井文体の魅力である。氏は、今年度圧倒的に抒情性を増した、我々批評する者を泣かす「出所のわからない情感」を見事に使いこなして。技巧に沈潜するのではなく、技巧の持つ意味をはっきりと示した、ぼくはこの作品から与えられた感情を比喩の限りを尽くして「良く似たもの」として表象する、でももちろんそれは間違っている。だから、誰もがこの作品を読むといい。最優秀抒情詩、毛先一つの間違いもない。
今年度の選評における、最大の論点。最後の最後まで宮下倉庫と鎬を削り続けた名作。そして、たった一作にして最優秀抒情賞を獲得した書き手。泉ムジという書き手について、ぼくは多くのことを知らない。ほとんど何も知らないに等しい、それは発起人諸氏の全てが同じだった。にも関わらず、この作品は我々にとって永久に顕示し続けるべき魅力に満ちている。この作品は、幾つかの解釈の迷宮を我々に投げかける。そして、どのような読み方をしようとも流れていく時間性、永劫に僅かに触れた感触が指先に残る、端的でありながら十分な描写、多様な解釈を許しながらもテクスチャとして立ち続ける強度。そして、豊穣なるイマージュ。描写の節々が、永劫の一切れが静止し視界を埋め尽くす瞬間、我々は詩の中で立ち止まる。語られるものの中で立ち尽くす、そして膝を折り、無言の下に祈る。そこには、語られたものと聞き取ったものを越えた何かが浮上する、一枚の絵、あるいは一つの構造、そして一つの作品。その中には永劫が満ちている、鳥の羽根としての我々が触れたのはあまりにも巨大なえいえん。名状しがたい何者かを連れて、この作品は永劫を誇示し続ける。人間の持つ永劫を誇示し続ける。それを抒情と呼ばずして何と呼べばいい?Sein―ただ「ある」ということ。そう、この作品はここにあり続ける、永遠の一片が折り重なる場所に。
ぼくたちは同じものを見ることが出来るだろうか。ぼくは机を窓際に置いて、いつも半分だけ開けているカーテンの光が差し込む場所に灰皿を置いているんだけれど。そこから無数に突き立った吸殻の陰影を、そういう確かにあるものを、ありのままに書くことがあまりにも難しいことを知っている。ねぇ、気づいているんだろ。ぼくときみはわかりあえない。同じものを観ることが出来ないからだ。ぼくはこの書き手に尋ねたことがある、「そのイマージュは何らかの比喩性や、あるいは意味を持っているのか?」と。言うまでもなく答えはNOだった。「鳩が垂直に降りていったんです、すーって」ぼくたちはそろそろ気づかなければならない、断絶された自己と他者、「違い」というものはこれほどに豊かなことなのだ。そして、世界を観るということは容易なことではない。ぼくたちの世界のあらゆるものは、意味に汚されている。モネの絵をみたことはあるだろうか。我々は光を介して世界を見る、つまり世界の「見え方」は常に、光とともに変化し続けている。にも関わらず、我々にとって青は青でなければならないし、赤は赤でなければならない。(そうでなければ、世界は交通事故で満ちる、もちろんコミュニケーションの上でも)語られた世界というのは、通じ合うためにその豊穣さの多くを削り落としている。ただ真っ直ぐに世界を観るということ、介在して来る意味に汚されない目線、エポケーされた世界。これは、実存という言葉と強く結びついている。そして、その世界からあなたは何を汲み取る?この古典的でありながら、実存的という意味を体現した書き手の目は、一体何を示唆する?(あるいは何を示唆しない?)その全てはあなたに託されている。そのディスクリプションの透明さ、それは実存なんて語彙ではむしろ不足だ。気づけよ、他者はこれほどに豊穣だ。
ざくざくと切られた素っ気無いとすら思える文章。読点によって整えられたリズムは時々破綻を感じさせるものの、ざらついた主体のありようを明確に立ち現す。書き手の調律された自意識が描写の中に滲みだす。自己と作品の癒着や、どうしても滲み出してしまう自意識は描写で対価を払う。作中主体を中心として描きあげられた心象世界。地に足がついている、描ききろうとしている。みつとみ氏のとる手法は古典的であるが故に、ある意味で最も難しい。この書き方で、書き手のナルシズムを殺しきる、あるいは昇華させ切るのは容易いことではない。(氏の作品の中にはこの失敗を免れていないものも多いことを、ぼくは否定しない)しかし、連ね続けた描写と詩の原動力としての自己、その二つが分離でもあるいは完全な同一化でもない場所に辿り着いたとき、語り得ぬものは生まれ、陳腐な自意識は舞台の袖に下がるだろう。内省と自意識、そしてナルシズム。詩を書く上での最大の敵は同時に詩そのものの生まれる場所でもありえることは誰にも否定出来ない。「サイレント・ブルー」を読む時、みつとみ氏という書き手、そして作中主体、そして読者。この三つは寄り添うことを拒否しながらも近寄り続けていく、まるで冬のはりねずみみたいに。孤独の青みが満ちた世界性の中で、沈黙が重なる場所を探っている。いつかその手が自己の、あるいは他者の魂を捕えることを願ってやまない。わたし、しかいない場所には、やはりわたししかいない。だが、そのわたしが誰を指し示すか。
技巧と本質、形式と内容…この二項対立について考えない書き手は存在しないだろう。それらは独立しては存在しえない。というのも言葉は何か―を語るものであることを禁じえないし、何か―が言葉と密接に結びつき合っていることも同時に否定出来ないからだ。あらゆる書き方は技巧のうちに語ることが出来るし、あるいはあらゆる内容は外部コンテクストの内に語ることが出来る。兎太郎氏の作品には極めて不足が多い、文章はリズムを欠いているし描写には無駄や不足も多く見られる。しかし、その語り口(そう、不足すらも技術の文脈で語りえる)の内に明晰なイメージと飛躍が、不可分の形で生まれて来る。だから、我々は悩むのだ。「技巧の不足は確かに感じる」(しかし)「その不足そのものが魅力と分かちがたく結びついていることも感じる」。無論、より突き詰めた物言いをすれば、「不足」を感じさせることはマイナスである、しかし生まれて来るイメージはその不足を前提として結実している。言いたいことはたくさんある、でもぼくはこの書き手を否定出来ない。巨大な伸びしろを持った書き手、新人賞の意味はそこにある。ぼくはあなたを認める、あなたの書くものを認める、それを失わないで欲しい。しかしその一方、不足も多く感じる。どうか、その魅力を失わないままに鍛錬を続けて行って欲しい、その願いをこめてこの賞を贈る。もし、ぼくの役目が「良い詩を書くためのアドバイザー」だとしたら、ぼくはその任に値しない人間であることをここに認めなければならない。ぼくに出来ることは、兎太郎氏の独自の魅力を高く評価していること、そして発起人諸氏に共通する強い期待を伝えることだけだ。
近日中に、選考過程のあれこれを記した文章、並びに本賞に近い位置に並ぶ書き手達への批評文、あるいは賞からこぼれた作品について書かせていただく。(本当はそっちが主題なのだ、実は)でも、ぼくはこの批評を書きたかった。そして、これを書かないことには何も始まらない気がしていた。ぼくは初めて、本当に批評をしたような気がする。もちろん、それほど優れたもの、これらの書き手達を賞賛するに足りるものではないにしても。