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りす - 2007年分

選出作品 (投稿日時順 / 全10作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


赤い櫛 

  袴田

  あたしに痛んだ赤い櫛を 誰も近寄らない路地に捨て 誰にも拾われないために髪をからませ 青草などぱらぱらとまぶしておくと 見あげる細長い青い空は 色見本の短冊のように美しすぎて 眼差しで色をはじいてしまえば ぺらぺらと軽々しく剥がれて 私の首に落ちて絡まってきそう あたしその無色を支えようと いつまでもあたし たった一度の瞬きができないでいた、

  生まれたからには生まれた時より 少しでもましな人間になって死にたい だって てめー そうは言うけどよ 考えてもみろ この現場で足場組んでる奴ら みんな堅気の人間じゃねえよ さっき飯場で汗拭ってる時 背中に彫り物があってよ 龍がこう 首を持ち上げてよ 赤い舌出してよ オレのこと こう睨みやがってよ 奴らの背中 血が通ってねえよ 奴らがまともに板組めると思うか 奴らに命預けてるんだぜ 前の現場でよ 落ちた奴いてよ ボルト何本か抜いてあってよ 死んじまったよ まったく ひでえ話もあったもんだって そんなんでよ ましな人間になる余裕なんて あるわけねーべ オレのコレに赤んぼできてよ オレだって今 大変だけどよ、

  子供と視線の高さを合わせることが必要でしょうね 怯え という膜が 子供の心の表面を覆っていまして 何かに触れた時にそれが震えてしまう 破れてしまうことがあります いや コーヒーはもう結構ですから 胃を悪くしますのでね それで 視線の高さを合わせるというのは 別に意識の問題だけではなく 実際に姿勢を低くして 中腰とか片膝をつくなどして 子供とあなたの眼球の位置を水平に保つようにすることです この力の均衡が先程の膜を 穏やかな状態に保つのですね 静かな湖のように像を結ぶのですね 子供はあなたが考えている以上に 瞳の暗闇をよく見ています 暗闇に映る自分の姿を見ています ああ お茶を頂くことにしますよ どうかあまりお気遣いなく しかし暑いですね毎日 やっと五月だっていうのに、

  膝を折って光を避け 首を折って湿った苔を爪で削り パンプスの先端に擦りつけると 青臭いだけの気流が生まれて 無遠慮に首筋へ滑り込む気配がして しばらくあたし たった一回の呼吸ができないでいた 無計画に並んだ室外機がビル風でカラカラと回り 回りそうで回らない羽根があってもどかしいので 唇を尖らせて息を吹きかけると キャベツの葉っぱのように重たくて このまま今日は回らないつもりなのだろうと諦めていたら 突然勢いよく回転し始めるので 青臭い匂いは千切れて消えて あたしの爪の中にだけ深い緑となって残った、

  そういえばよ あのマンション 全然買い手がつかないらしいんだ そうそ あの横長の 白い建物さ 珍しいべ 東京23区でよ 駅から近くてよ まだガラガラなんだって 気持ちわりーな スカスカのマンションて なんか気持ちわりーな たまにあるんだってよ エアポケット っつーのかな よくわかんない理由で人が住みたがらないマンションがあるんだってよ てめー どうよ あそこ絶対お買い得だぜ 辛気臭い顔してないでマンション買っちまったらどうよ 今のアパートよりましだべ かみさん喜ぶべ なあ 今よりましだべ オレが? オレは駄目さ オレ コーショ キョーフ ショー だから 駄目なんだオレは コーショ キョーフ ショー だからよ、

  放熱するモーターの唸りが聞こえてくると ここはもうあたしの領域ではなく それは赤い櫛にふさわしい騒々しい情動のはしくれで 切り取っておくべき余計な部分として存在して どこかに寄せ集めて放っておくより手立てがないみたいで ああ なんだ あたし息してる 寄せ集めたら息してる でも瞬きができない、

  ところでご主人は銀行にお勤めでしょう いえね 本棚に金融関係の専門書を見かけたものですから たぶんそうだろうと では ご帰宅はいつも遅いでしょう お子さんと顔を合わせる機会があまりないでしょうね 私だってそうですよ 平日は子供の顔なんて見たことがない 土曜日に一週間ぶりに再会しては お互いの安否を確認しあうといった感じでして 勿論そうですね その時も 目線を合わせてお互いがお互いの瞳に映っているかどうか きれいに映っているかどうか 確認するわけです いえね 実は妻とは死別しましてね 早いものでこの五月で もう七年になりますが まだ赤ん坊だった息子を残して 逝ってしまいましてね、

  いや 奴が落ちたのはあのマンションじゃねーよ 別んとこでさ そこはちゃんと全部売れたってさ 結構死ぬんだぜ現場でさ そんなんは隠すにきまってっからよ みんな知らねーで買うわけだけどよ だからって関係ねーよ そんなんは気持ち悪かねーよ たくさん人間住んでんだから さっきもいったけどよ スカスカのマンションが 気持ちわりーのよ そんなの建てちまったらオレ この商売やんなるね なんかでっかい墓でも建てたみたいでね あ ほら見てみろ あいつの背中に龍がいるんだぜ 雲の上に長い首だしてよ 赤い舌べろんと出してよ 汗かいても冷たいんだぜ あの背中は ほんと気持ちわりーよな、     

  ちょっとそこまで と言い置いて部屋を出たわりには あたしはとてもきちんとした身なりをしていて どこに出しても恥ずかしくないから どこまでも行くつもりでいたのに 案外近くであたしは諦め 髪をほどいてばっさりと背中に落としたら急に 広い道は歩けなくなって何だか 整えたいものがあるような気がして 体ひとつぶんくらいの路地に嵌まり込んでみたのだけれど 薄い胸が空間を持て余してするすると あたしするすると入り込んでしまい ああやっぱりどこまでも行けるのだ思っていたら ここから先 私有地です という看板に遮られて ああやっぱりあたしそのへんまでしか行けないんだと諦め そういえば整えたいものがあったんだと 手鏡を鞄から出して襟元を直して 手櫛で重たい髪をとかしていたら あたし何であの赤い櫛を使わないんだろうと思い出して 暗い場所で冷たい胸元に手を突っ込んで長い時間 赤い櫛を探していたんだっけ。」」



剥き海老

  袴田

海老の背綿抜く 
あなた どこのひと
こんなに並べてしまって
今夜は果てしなく
召しあがるつもりですか

あいにくの断水で
(ほら 蛇口から遠いせせらぎが 聴こえてくるでしょう)
手を洗うことは叶いませんが
盥に水を張ってあるのは
ご存知でしょう 勝手口のよこに

そのクロッカス 造花だと
教えませんでしたか
植物にしてはすこし
瑞々しすぎるとあなた 
茎を撫でていきました

海老の足毟る
あなた どこのひと
足のなかに手が何本かあると
今夜はずいぶん丁寧に
えりわけていくのですね

あいにくの断水で
(ほら 蛇口からせせらぎの匂いが 洩れてくるでしょう)
お茶の支度もままなりませんが
喉をうるおすのなら何か
果物でも切りましょうか 戴き物があるので

そのクロッカス 生花なら
早春に花を咲かせるそうです
寒さに強いので冷えた
あなたの帰るすみかに
植えてもきっと咲くでしょう

盥からひと掬い
あなたは 水を運んでくる
あなたの 椀にむすんだ手のなかで
あなたに 背綿抜かれた桃色の
海老のからだ 
きれいにあらって
見逃されたかぼそい手足
きれいにもいで
あなたが剥いた順に
きれいにならべて
透きとおった海老の整列を
あなたとしばらく眺めていた

あいにくの断水で 
あなた 留め置く
じゅうぶんな水を 調えられず
あなた 勝手口から帰っていった
盥の水で 足の汚れをすすいで
冷たいすみかへ 帰っていった 

そのクロッカス あなたから
戴いたような気がします


鈴が来る

  袴田

純木の廊下をしのび歩く おそらく五、六人の 衣擦れの音 迂回して 囲みに来る 枕元 テレビ サンドストーム 汚れた光で 壁が読める あらかたの結末など 襖に白く走って 裸足なのだろう 床に馴染んで離れる 落とし切れなかった肌たち 湿りが足りない足音 言葉なく 衣擦れの音 それとわかるように 鈴を鳴らす一人 鈴と鈴のあいだ しだいに狭くなり 通過できない者は あからさまに 鈴を結われる 茶碗に放り込まれた 食べかけのワッフル 神楽坂 石畳 細い坂道 並んで買った 焼けたシロップの香り 喉に絡ませたまま 行列は胴をのばし 首尾の区別なく 黒塀に凭れて 簡単に 気が遠くなる 白い手袋を拾い 見咎められる ためらわずに 嵌めて 見ぬふりを引き出す 手が白く なればいい 頷きあっている母娘 首が外れそうな気配に 手を添えて 支えて あげたい それから ワッフルを割りたい 格子柄に沿って 砕いて 口に運んで そこは食べる所ではないと 注意されるまで ワッフルを齧りたい やがて手がいらなくなり 手袋を外す そのような用向きで 白い手袋を拾う また少し 気が遠くなる ワッフルを退けて 水を呑む 闇を集めて光る この水が 欲しいのだろうか 水はもう首を流れた 胸を触る おなかを触る 動物と思う 至らない 動物と思う しっぽがあった所 体毛があった所 貧しい硬さ 貧しい柔らかさ まっとうできなかった性器 冷たい生え際を撫でる 手触りを 剥きだしにする 最後の水が 通過していく 鈴が近い 鈴が近い


鰐の仕組み

  りす

空ノ広サハ ソノヒトノ心ノ広サニ 正確ニ一致シテイル
ナンテ アンタガ余計ナコト 言ウカラ
アタシ 空ガ恐クテ 上ヲ向イテ歩ケナイノヨネ


今日 雨ガ降ッテキテネ
ツメタイ雨ガ降ッテキテネ
傘ナクテ
鰐ガ居タノヨ
クロコダイル ダカ
アリゲーター ダカ
知ラナインダケド
口ヲパックリ開ケテネ
少シ休ンデケヨ ナンテ言ウワケ
食ベラレチャウ ト思ウデショ?
鰐ノヤツ 上手イコト言ッテ
アタシヲ食ベル気ナンダッテ フツー 思ウデショ?
デモ 雨降ッテ ブラウスガ濡レルト イロイロ アレデショウ?
ソウ アレナンデ トリアエズ イツデモ ダッシュデキルヨウニ
アタシ 右足ニ体重ヲ乗セテネ 雨宿リシタノヨ


ソレガ 案外 イイ奴ナノヨ
誰?ッテ 鰐ヨ 鰐 鰐サン
食ベナイノヨネ アタシヲ
ジット口ヲ開ケタママ動カナイノヨ
デモ 安心デキナイジャナイ?
アタシガ気ヲ許シタ途端ニパックリ ナンテ
アリガチジャナイ? アリガチヨネエ
ソレガ意外ト ナイノヨ
何ガッテ? 
パックリトカ ムシャムシャトカ
ソノヘン? ナクテ


鰐ガ言ウノヨ
モウ一人クライ 入レルカラ 呼ンデオイデ
優シイノヨ 鰐ッテ
ソレデ アンタヲ呼ンダノ
ナノニ 傘モッテコナイノネ アンタ
ソウイウトコ キライ
ウソ
ソウイウトコ スキ
ホラ 鰐 食ベタリシナイデショ?
コンダケ大丈夫ナラ 大丈夫デショ?
アタシ ココデ 産ンジャオッカナ
アタシ ココデ 死ンジャオッカナ
ウソ


アタシ サッキ 久シブリニ上ヲ見タノヨ
鰐ノ歯ガ スゴクテ 虫歯ガネ スゴクテ
コレジャ 食ベタイモノ 食ベラレナイモノ
カワイソウヨ カワイソウジャナイ?
歯医者ヘ? 行ケナイデショ 鰐ダモノ
往診ヨ 往診 ココニ歯医者ヲ呼ブノヨ
アンタ 電話シテクレナイ?
アタシ 説明トカ苦手ダシ
アンタ 電話シテクレナイ?
患者サンハ 鰐ダッテコト
アバウトニ 伝ワレバイイカラ


群馬のイタチ

  りす

きのう桐生市(群馬県)でイタチに出会い
お前に惚れたと言われた

そんな大事なこと 
突然告白されても困ると追い払い
国道で路線バスを待っていると
イタチもバスに乗りたいと言いだして
僕の隣に並んだ

錆びた背の低いバス停を挟んで 
僕とイタチはしばらく無言で
国道を歩いて横断する 一匹のトノサマバッタを見ていた
「あいつ、バッタの癖に殿様なんだぜ」イタチが言う
「ちがう、殿様の癖にバッタなんだ」僕は反論する
中央分離帯の陰に トノサマバッタが消えた時
お前に惚れちまったんだ
イタチがまた繰り返す

ひとめ惚れか?
そうだ。
イタチにも可愛い子はいるだろう?
いないね。
出会いが無いわけじゃあるまい?
ないね。
考え直す気はないか?
ないね。

トノサマバッタは中央分離帯によじ登り
首を傾げながら 左右を見回している
「あいつ、なんで飛ばないんだろう?」僕が呟くと
「そりゃ、家来を探してるからさ」とイタチが答える
車が激しく行き交う車道へ
トノサマバッタはまた 歩き出していく
僕とイタチは無言で見守る
黒いタイヤの流れの隙間に
見え隠れする緑色のトノサマバッタ
「飽きないね」とイタチ
「飽きないね」と僕
トノサマバッタは近づいてくるが
バスはなかなかやって来ない

お前に惚れちまったんだ
イタチは懲りずに繰り返す

僕はイタチを問い詰める
本当はバスに乗りたいだけなんだろう
僕に小銭を貸して欲しいだけなんだろう
東京にはイタチがいないから寂しいぞ
いたとしても群馬出身とは限らないからな
同じイタチでもこうも違うものか!
なんてイタチ同士の温度差にショックを受ける
なんてことは東京ではよくあることだぞ

イタチは悲しそうに僕を見上げる
そういう嘘でお前を諦めたイタチは多い
お前に惚れた
この気持ちを大事にしたいんだ

国道を渡り終えたトノサマバッタは今
僕の横でバス停によじ登っている
このあたりではバス停の上が
一番見晴らしがいい
「バス停の名前を隠すなよ」
イタチがトノサマバッタに注意する
「バスが停まらない可能性があるからな」

やがてバスがやって来た
扉が開くとイタチは 
イタチのようにシュルルとバスに乗り込み
後部座席にコロンと寝そべる
バスが発車すると同時に
バスを追いかけるように
トノサマバッタが飛び立つ
僕はバスに乗らなかった
隣に別のイタチが立っていて
お前に惚れたと言っている


  りす

月あかりを踏んでも
つまさきは冷たく
閉めわすれた窓に
あとすこし 手が届かない
またひとつ 星を噛み砕いた犬が
青い光を零しながら路地の
ほそながい暗がりを横切る
あした あのあたりで あなたは
冷めた星の破片を拾うだろう、そんな
うそをつく
あいてもなく
すきま風が膝を撫でて
かたい骨からなにか一本
抜いていった


ふしぎと猫が寄りつかない庭で
ひるま 鉄砲ゆりが咲いた
三番目の来客は
煙草を吸っていった
ゆりの株をわけてほしいと
乾いた土を掘り返す背中に
根は洗わないようにと 言おうとして
どこにでも咲く花だと 言っていた
煙草と土の匂いが庭を渡り
またひとつ 
まぶしいだけの 午後をかぞえた


名刺を畳んで青銅の
灰皿へ放り込むと 
ゆっくり
かぶった灰を押しのけながら
はじめの 
かたちへと 
戻ろうとする 
うごくので
燃やそうと
火をつけて 
ふと
生まれかわりたいと
おもった


一番目の来客は 
白い箱を置いていった
つまらない箱だと言いながら
置いていった
この箱を開けるにはどこから
破りはじめればよいか
四隅が とても似ている
四隅を 鼻の先でさわる
いちばん痛かった角をつぶして
きょうの目印にして
戸棚の奥に仕舞いこむとうしろで 
廊下をさすらってきたあなたが
降ってきたよと
窓を閉めていった


悪書

  りす

目が悪くて ちょうどそのあたりが読めない
世田谷区、そのあたりが読めない
悪書でお尻を突き出している女の子の
世田谷区、そのあたりが読めない
もはや 言葉の範疇ではない
もはや ストッキングが伝線している
伝線を辿ると たぶん調布なのだ
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
ストッキングを被ったような詩ですね
と書いてしまい アクセス拒否をされたのは 
世田谷区、ちょうどそのあたりだと思うのだ

眼球が腰のくびれに慣れてしまい
女を見れば全て地図だと思い
上海、そこは上海であると決めつけ
あなたの上海は美しいですね、と褒めておくと
行ったこともない癖に、と怒られた
この場合の「癖に」は、逆算すると
北京、だろうか
やはり 言葉の範疇ではない
やはり 世田谷区はセクハラしている
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
かわりに読んでもらおうとしたら
上海は書く係で 北京は消す係で
読む係はいないのだと教えられ
どうしても読んでほしければ
世田谷区、そのあたりで読んでもらえると
悪書を一冊渡された


  りす


浅い日暮れに 顔をあげて
低く飛ぶ鳥を 追っている部屋
星の来歴の微粒が 音もなく降り
手の届かない椅子に
遠近法を残していった


あかるい器に 居たことがある
うわぐすりを焼き付けた壁に
コツコツと爪を立てると
ときおり器が傾いて
人々がこぼれた


長いせせらぎの 持続がある
泣いた骨は乾くと 岸を転がる 
夜のある朝を 支度した目覚め
時間の撚糸で 編んだ心が
足場の悪い 林道を拓いて


秋に馴染んだころには
秋の話はしない
もみじ狩りから帰った人が
遠山に雪を見たと言う
椅子をすすめて お茶を淹れる


遠い空で私有の 星が破裂する
広がった空を 誰か横切る
最初の風が 走って消えた
ことしは麓も 色づきが早いと 
さらさらと枝が 目の前で揺すられ


編みあげたものに 袖を通す
鳥の背景で 夕日が潰れる
器の外には 座る人がいない
暗くなれば私の 母船は戻るだろう
こぼれた人々を 平らに積んで


器II

  りす

みなもに鮎が跳ねて 手鏡のように光り それが何かの合図であるかのように ふと背景が居なくなってしまう初夏の岸辺や シティホテルの最上階で 冷えたプールを眺め 陽射しもないのにサングラスが欲しくなる 第4コースの深い揺らめきが 容積にしておよそ1リットルの器の中に身を寄せ おそらく忘れ物でもしたのだろう プールサイドでは少年がランドセルの中身をあらためながら 筆箱の収め場所に悩んでいる プールの底には教室があるのだろうか(水色の黒板の上、立ち泳ぎで方程式を解いたり?)そのような疑いに 私が少し首を傾けるだけで 少年の黄色い学童帽はバランスをなくして みなもに落ちてまずは やわらかく浮くだろう 浮いたらゆっくり水を吸いとり 沈むまでの清潔な待ち時間に 傾けた首をそっと元に戻しておくこともできる とっさに手を伸ばせば繕ってしまう綻びのはじまりに 少年は塩ビ製の筆箱の角を潰して ランドセルの空間の造形に余念がない 乾いた黄色から濡れた黄色へ ゆるやかな布地の変色にも気づかず 学童帽に留まっていた少年の小さな頭の名残も とっさに手を伸ばさなかった という理由で失われていくとすれば 首を傾げる前に忘れ物を手渡すことを 忘れ物はありません そうひとこと云い添えることを あの朝に忘れていたのではないかと 親でもないのに少年のことを気遣っていることが とくに不自然な心持ちでもない冬のはじまりだった 初霜が平等に降りて もの思いに招かれる朝の 半歩手前の暗がりには それとわかるように 藁のような乾草が盛られた あたたかい膨らみがある 今日の暖をとるために その狭い温もりを掻き分け 冬支度に忙しい真面目な地虫たちを掘り出し いちいち名前を尋ねて きちんと整列させるわけにもいかず 踏みしめても身を硬くして生き延びる 強い生命への気安さから 固い靴底で膨らみに踏みこんでしまう私は 器にわずかばかり残ったコーヒーを 電子レンジで温め直す儀式を 家人に疎ましがられても やめることができない 少量を適度に加温することは難しく 目盛のついたスチールのツマミに 秒の単位まで分け入っていく はりきった指先と視線の 愚かさと自愛を量る天秤が チンッという音と同時につりあってしまう瞬間に つとめて無関心でいることで 残り少ないコーヒーを 美味しく頂くことができた 空の器を覗いていると 対岸の町が見えてくる そこはかつての学区外で 知らない人ばかりが暮らしている 石を遠投して様子をうかがうと ときどき届いたという合図が送られてくる 合図があった日には おろしたての新しい器に手をかけて 冷たい縁を円にそってなぞりながら 最初に口をつける場所を 決めることにしている


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  りす


未明、街中のマンホールの蓋が持ちあがって打ちあけ話をはじめる。
人々は眠っているので気の利いた相槌が打てない。その代わりに透
明な付箋(貼って剥がせる)を夢の中に飛ばして、告白を聞いたこ
との証明を立てる。そして朝、気持ちよく目覚めることができる。
(蓋を閉めるとき、手を挟まないでね)


 寝ることにも寝かされることにも疲れ
  読むことにも読まされることにも疲れ
   読み終えた小説のような枕を耳が嫌う
    蝋燭に手を翳して火を守る優しい人よ
     どうしても僕は風を捨てられないのだ
      Blackbirdを狙って寝具の陰で息を殺す


未明、佐々木は街中の鉄塔に名前を付けてまわる。鉄塔(遠藤)は、
鉄塔(渡辺)を、佐々木を介して知っている。鉄塔(渡辺)は、鉄
塔(川嶋)を、佐々木を介して知っている。佐々木(人間)は遠藤
を囲む高い鉄柵を乗り越えるために、今まさに冷たい手摺に手をか
けようとしている。鉄塔(渡辺)と鉄塔(川嶋)は、今夜は珍しく
佐々木が訪れないので、どうせ田中に登っているのだと考えている。
(お願い、登ったら、必ず降りてきてね)


 狙いが定まらない獲物はいつの時代も
  Blackbirdと呼び習わすのが僕達の夜だ
   翼を広げるとちょうど人間の大人位で
    翼をたたむとちょうど人間の子供位で
     つまり無責任な黒鳥が野放しになって
      僕達という未明を旋回している地と図


未明、街中の新聞配達が空き地に集まって三面記事を朗読している。
「業務上過失致死」という言葉が出てくるたびに、一人ずつヘルメ
ットを被る。全員がヘルメットを被り終えると、朝を迎えることが
できる。最後までヘルメットを被れなかった僕は、夜明けまでに明
日の三面記事をでっちあげなくてはならない。今日の安全運転の為。
(包丁で新聞を切り抜くのは、あまり上品じゃないね。)


 どうにかして未明の嘴をこじあけたい
  どうにかして栞を挟んで印をつけたい  
   犯行現場に戻ってくる佐々木のように
    枕の代わりに固いヘルメットを被って
     圧着した嘴の隙間に風を差し入れたい
      田中がそれを目撃すればそれで充分だ



未明、Blackbirdの雛が僕のベッドに迷い込んできた。雛の心に僕の
姿が刷り込まれて、雛の羽毛に僕の指がくすぐられて、僕はまだ、
疲れてなんかいないと、読みかけの小説があったことを思い出す。
未明、
 未明、
  未明、

          (鳥の羽なら、栞にうってつけじゃない。)

文学極道

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