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みつとみ - 2007年分

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


サイレント・ブルー

  みつとみ

自分すら他人に思える夜。わたしは無精ひげに、アクセサリーの水晶をつける。本を拾い読みし、起き上がりベッドにすわる。マリン・ブルーの表紙に手を置く。こめかみが痛い。胸に水晶の玉がゆれてあたる。外を走るバイクの音。遠くから救急車のサイレンがし、近くの駐車場から話し声がする。

眼鏡を床から拾い上げ、暗い階段を降りていく。狭い廊下をふらつきながら、浴室の戸を開ける。服を脱ぎ捨て、近くの、ラジカセで、FMをかけると、女性DJの、声が聞こえる。明かりが点滅している。カセットテープで、波の音を聞く。浴室に入り、アクセサリーをつけたまま、浴槽に、身を沈めていると、窓の外で、雨の音がしはじめる。眼鏡をはずし、棚に置く。頭の後ろ、港と海の写真が、正面の鏡に映る。

水をすくう手で、顔を覆う。鼻の両脇から、あごへと、指がなぞる。口内炎が傷む。閉じた目を開けると、明かりが切れ、窓の街灯の、青い光に、水面がゆらめいている。体についた、古い小さな傷を上からなぞる。左の手の平の、奥にあるほくろのような、鉛筆をさされた痕。右手首、化膿して盛り上がった痕。左足かかと近くの、肉のえぐれた痕。左腹部の大きな茶色のあざ。ひたいの疱瘡のくぼみ。二の腕の、赤く長い傷は、まだ痛む。手に、緑の長い髪がからまる。

胸にさげた、丸い水晶を指でさぐる。水からとりだし、斜めからさしこむ、夜の光にあてる。金の鎖と、鋭い爪につかまれた球体。

テープが途中でとまり、雨音だけがする。アクセサリーを沈め、浴槽に頭をあずける。正面にある、小さな鏡に映る、前髪のたれた顔は、ぼやけて見えない。水面に目を落とす、と、ゆらぐ湯が、体に手をまわす。濡れた髪がまつげにかかり、水滴が目に流れ込む。左の唇を吸い込む。内側でふくらみ、盛り上がっている。眉をひそめ、ふるわす。

膝を曲げたまま、壁に体を倒し、閉じた目に、静かな、青が、わたしを眠りにさそい、水晶を、唇におしつける。むせび、体をゆすり、水が波うつ。

入浴剤の青が、ゆれる、銀色の浴槽。子どものように身をちぢめ、暗い上を見る。見えない空、夜の海で眠ろうとしている。わたしを支え、静かに手をとって、沖に運んでくれる。曲げた四肢を伸ばし、届かない足の先に、海流がある。つかまれた手は伸びきり、ひきずられていく。風が星のありかを教え、斜めの空にまばたく。潮から、はねる水が、口に入り、口内炎にしみる。乏しい視力に、ゆく先は知れない。腰のくびれに、だれかの手がまわる。わたしを支えるだれかを、認められない。首をねじまげると、風が水滴とともに、目に入る。つむる。風の音がする。波がわたしの首筋をうつ。見えない手が、左の足首をつかむ。肉のえぐれた痕に爪がかかる。わたしの髪は海面の下で舞う。気泡が包む。暗い空が、一転する。下半身にうろこがあたる。青白い肌の女が、わたしをすくめる。彼女の筋肉が陰影をもつ。

太陽が海面の上で、光をはなっている。海中から見上げる空は、静かな青。いく筋もの光がわたしをつかもうとする。女の腕の中、乳房に頭をあずけ、浴室に置き忘れた眼鏡を気にしながら、わたしは子どものように、身をまかす。彼女のひれがわたしの足にあたり、彼女の緑の、長い髪が、わたしの首筋にからまる。海の底、女に抱かれた、はだかのわたしに、魚が、群がる、静かな青。女は、わたしの二の腕に唇をあて、舌をはわせ、歯をたてる。のぞきこむ彼女の目から、わたしは視線をそらす。

ふいに、車の音がする。母が庭先に車を駐車しようとしている。近視の目を開けると、窓から風が吹いている。わたしがよりかかっていた銀の浴槽から、頭を起こす。そのまま、長い吐息を水面につく。後ろの海の写真で、水がはね、鏡にオビレが映り、消える。わたしの、ぼやけた視界に、海がゆらめく。

わたし、しかいない浴室で、折った膝を抱える、アクセサリーの球面。


白の誕生日

  みつとみ

二月十三日、
雪が降るのを、
自室で待つ。
母から贈られた、
防寒コートをきて、
窓の向こうから、
薄い光がさしている。

コートの上に、
毛布をかぶり、
書いたばかりの、
自分の手紙を読み返す。
ひとりで、
グラスについだ、
リキュールを飲む。
冷めた空気が、
わたしをつつみこんでいく。

十年前、
わたしの上に、
降り注いだ雪は、
決して美しいだけの、
冬の情景ではなかったが、
ハクレンガの屋上から、
地平につもる雪を、
震えながら、
見つめつづけていた、
二十歳の誕生日。
それでも待っていた、
雪はまだ降らないのかと。
暖房をいれずに、
生まれたときと同じように、
雪が降りつもらないかと。

二年前からある、
パソコンの、
インターネットをしていた、
ディスプレイの脇、
(会ったことのない)
文通相手から、
はやめに届いていた、
チョコレートの、
紺の箱を、斜めにたてる。

そばの、
CDコンポから、
静かに音楽が、
エンドレスで流れ、
白い封筒に手紙を入れる。
二年前からあるパソコン、
昨夜、ネットをしていた、
(だれの顔も見なくてすむ)
ディスプレイ、
ワープロソフト、
点滅するカーソルを、
しばらく見つめつづける。

わたしは、
この身につもる、雪を待つ。


砂漠となる(改作)

  みつとみ

 血も抜けたのだろう、冬の空は乾いている。遠くで鳥の鳴き声がしている。車のデジタル時計を見る。空腹で気持ちがわるく、くらみを覚える。午前9時。いや10時だったろうか。もう時間など意味はないかもしれない。昨夜、車の周りにいた数頭の狼らはいなくなっていた。眼鏡のフレームを人差し指で上げる。ライターをジーンズのポケットに入れる。おぼつかなく、車の外に出る。荒れ地を歩く。だるい。ふらつく。空を仰ぐと、ただ青い。風が吹くたびに、荒れ地に点々とした錆びた色の草が波打ち、地平まで広がっていく。振り返るときのうまで、後方の草原という海原でひとり漂流していたのがわかる。空っぽの胸のなかまで、風が音を立てて、吹き込んでいく。

 荒れ地を歩いた、スニーカーがこんなに重いなんて。石をふみ、小さな枯れ木をまたぐ。茶色い鳥の羽根が落ちている。ただ歩く、そのざわつく肺に、吐き気がして、腰に手を置く。頭が熱くなる、視界に光の尾がいくつも回り出す。身体が固いものに押しつけられたように傾く。意識が渦のなかにのみこまれる。ゆっくりと地にひざを付け、わたしは倒れてしまった。
 寒い空の下で、わたしは汗をかいている。なにかの影が頭上を横切る。額から流れた汗がこめかみをつたう。幼子のように体を丸める。いだかれたい。枯れた草がわたしを包み込む。ずれた眼鏡の位置を直しながら、眠る。草の端が口の中にはいる。乾いた味だ。そのうちなにもわからなくなる、まぶたをとじた闇のなかで。

 手で宙をはらい、仰向けになる。うっすらと目を開けた。ぼやけた視界がしだいに明らかになる。地べたから見上げる空は、透明な青い色。眼鏡のレンズ一枚分隔たっている、距離。手を差し伸ばしてみる。何もつかめない。薄ぺらい雲の隙間から、太陽が現れてくる。ゆっくりと。なにかの影に隠れる。風が地を這ってわたしの顔を撫ぜる。空には何もない、風の音。手をおろす。乾いた砂地に指が触れる。砂をつかんでみる。その手のなかの砂から、わたしは浸食されていった、目をつむる。のどが渇く。水を飲みたい。口を開ける。水の代わりに乾いた風が口のなかに吹きこむ。風にさらされ、わたしはゆっくりと冬の砂漠になる。

 頭上で何かが鳴いた。片目を開く。わたしのまわりを旋回している。鳥らしい。大きい。その翼を見ながらも、身体は動かない。
(朽ちるのか)
 そうぼんやりと考える。骨になったわたしを、乾いた風が遠く海へと運んでくれるのだろう。
 両目を開けると、冷めたい太陽が空一杯に広がっていた。まぶしい。白い光の輪の中心から、斜めに光の槍がわたしに振り下ろされている。光の槍につらぬかれ、砂となったわたしの身体は、風に吹き飛ばされていく。
 細胞一つひとつが、砂となり、宙に吹き上げられていく。わたしの意識が、舞い上がり、四散して、ふいに脚を前にだした鳥が勢いよく突き抜ける。

 そしてわたしは、鳥の爪によって、地上に、叩き落とされた。


コミック雑誌

  みつとみ

その日、だれかに呼ばれたような気がして、家から外にでた。近所の、さくらの並木通り、書店でコミック雑誌を買う。花を見ながら、小学校の前を通りすぎ、病院へと向かう。となりのレストランの、外壁の大きな鏡に、通りすぎるわたしの姿が映った。

二十年前、ここを通ったときは、レストランはなかったが、この小学校も、通りをはさんだ病院もあった。わたしの前を小学生が走り去る。

わたしは少年の視線になる。
待ち合いの長椅子で、わたしはコミック雑誌を読んでいた。赤茶色の紙に、だぶった印刷で、絵が描かれている。父の個室から呼ばれて、雑誌を椅子の上において、部屋に入った。学校を見下ろせる、病室の窓に映る半透明な少年のわたし。休み時間になると、楽しそうな仲間たちの声が聞こえてくる。振り返ると、部屋の中央にベッドの父。明るい日差しの中で、わたしと母は、ずっと鼻ばかりかんでいる。ベッドの上の父を見下ろし、髪をなでつづけた。父はいつもと違い、微笑んではくれなかった。

医師の臨終を告げる声は、聞こえない。ただ空気でそれとわかる。めまいとともに、わたしの体は、宙にひきこまれそうになり、見えない渦にもまれた。
「どうしたの、ボク。さっきまで元気だったのに」
看護婦の声に、わたしの体は沈む。
「お父さんの体をいっしょにきれいにするかい」とだれかに聞かれ、わたしは首をふり、病室の外にでた。待ち合いの長椅子で、親戚たちが集まっている。空いている席に戻ると、読んでいたコミック雑誌はなく、そこで、わたしは大人の肩をかりた。
「お兄ちゃんの泣いているところはじめてみた」。
向かいの長椅子の、従妹の声が聞こえる。

四月十日、さくらの花は満開だった。葬儀を終え、三日して、わたしは登校した。みんなが校庭で遊んでいる。
「ねえ、みんなあ、仲間にいれてよ。ねえ」
微笑みながら、そばで大きな声で、何度も繰り返し、訴えたが、だれもわたしの方を、見ようともしなかった。ひとり、玄関の暗い廊下で、目を見開いて、足元を凝視していた。目に映るものが歪んでいた。
何日かあと、さくらの花が勢いよく散った。

病院の前で窓を見上げる。後ろの学校は静かだった。門のさくらの脇に、そっと、コミック雑誌をおいて、いまきた、さくらの並木通りに戻ろうとすると、後ろから吹く風が、わたしを追い越していった。

少年の声がわたしを追い越していく、あのときの、仲間にいれてくれるよう、訴える声、振り返ると、雑誌のページが風にめくれて、音をたてている。


ユニコーン

  みつとみ

 日曜日にわたしは、レジャーランドで、クリスタルのユニコーンを買い求め、夜のバスで家に帰る。窓の外は、暗がりの裂け目。
 窓には夜の空。自宅の浴室でうっすらとしたヒゲをそり、黒いセーターに着替えた。まだ肌が乾かないうちに、わたしは、部屋の窓から外を眺めていた。駐車場に、広く雪が積もっている。街路樹がわずかに揺れて、雪が落ちる。遠く、馬のいななきがある。近づく、ひづめの音は、雪に消されるかのように、静かに。明かりに照らされる馬の背から、だれかが降りる。ほかにひとのいない道に、影が歩く。ゆっくりと、下まで来て、止まる。影は上を向き、わたしに向かい手を差しのばす。冷たい窓ガラスを通り抜け、わたしの手の甲に、指を置く。
 ゆっくりと甲から内側へと、指をすべりこませ、温かい。握りしめる。
(−−落ちる)
 わたしの体が、ガラスを突き抜ける。下の駐車場は、森に一変する。声を出せずに、わたしは影に抱きとめられる。弓のように、影はわたしを迎える。手を回す、影の背は、細い。その顔にかかる髪に、わたしは顔をうずめる。甘い香りがする。白い光がわたしと、女を照らす。金色の、ウエーブした髪に、白い肌の、大きな目が、深い。わたしは、女にもたれかかったまま、息は荒い。額に汗がにじむ。
 素足の下には低い草が生えている。森の開けたあたりに、馬がいる。白いその馬にわたしたちは近づく。女に身をよせる馬の頭には、角がある。
(わたしはどこに行くんだろう)
 先に女が馬に乗り、わたしは女の手に引っぱられ、その馬に乗った。
 地を見下ろし、ゆっくりと、白いユニコーンは進む。
 地平を揺らすのは、深い森と、ユニコーンのひづめで、わたしを揺らすのは、女の背中だった。
 女はわたしの手を自分の胸に持っていき、
 頭上で/鳥が/鳴きながら飛んでいく/発音した。
 わたしの喉は渇いている。
 泉の前で、ユニコーンから降り、深い緑の葉の上で、わたしたちはもたれあう。女が縁の濃い目で見上げる。女はわたしを見つめ続ける。わたしはそっと視線を落とす。

 自宅の前に立っていた。戸を開けて、息をひそめるように部屋に戻り、あるもので朝食を済ませる。薄いカップに紅茶を入れる。湯気は見えない。母は田舎に帰っていることを思い出す。リモコンでテレビをつけるが、ミュートにして音は出さない。低い音が蛍光灯から聞こえる。窓ガラスのそばにある水槽で熱帯魚が一匹、水草を背景に泳いでいる。テレビには森が映されている。一人の女が歩いている。女は、森の開けたところに立ち、こちらを振り返る。女は無言のまま、その目が痛い。
 カップをそのままにし、わたしは洗面所に行く。指を鼻の上にすべらせる。歯を磨き、それからテレビを消し、わたしはアルバイトに出かける。雪の残る道を、自転車を走らせる。風が吹く中、空は電線で区切られている。白い風景が次第に、固いアスファルトと、コンクリートの色彩に変わっていく。手の冷たさに、コートのポケットに片手を入れる。駐輪場の前で、自転車を降りる。いつもの場所に置いて、わたしは駅に向かう。歩いていると、首が寒いので、手を当てると、金色の長い髪が指に巻き付く。わたしは、そっと、髪を風の中に、落とす。

 わたしの前を車が走り去る。
 冷めた街で、わたしは、胸のポケットから定期入れを探す。深い緑の葉がでてくる。わたしは、ゆらりと改札口を抜けた。女の名前を頭の中で繰り返す。あごを、一人さすり、ホームの人混みにまぎれる。乗車位置に立つ。わたしは、斜めに空を仰ぎ、待つ。

 白けた街並が続いている、その裂け目に、ユニコーンのいななきが聞こえる。鳥が/ホームの上で羽根を散らす。その小さな羽がズボンにつく。触れると、ゆっくりと落ちていく。ズボンのポケットのふくらみ、手を入れる。中から白い紙に包まれた、クリスタルのユニコーンをだし、手の平で、陽にかざす。
 白銀の景色、降り注ぐ金色の/
 女の髪の中で目覚めた、その朝に−−。


落下

  みつとみ

 荒れ地に伏していた。身体の自由が効かない。目を開けると、そばに灰色の蛾の死骸が見えた。風でうすい翅がゆらめいている。翅の鱗粉がかすかに光る。蛾の数本の細い脚が、宙をつかみ損ねていた。

 日が暮れはじめ、濃さをます闇に蛾が見えなくなる。自分の放りだされた腕、手、指も見えなくなる。暗がりのなかでわたしは呼吸をしている。石が当たるので、身体を反らす。風が周囲で、湿った音を立てている。枯れ草が互いに触れ合い、傷をつくる。胸が痛い。眼鏡のレンズを通して、暗い空を見つめる。

 息をする。まだ生きているらしい。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、真上の闇を見続ける。あの闇の厚みはいったいどれくらいあるのだろう。次第に闇は深さをましていく。
 湿った風が額をなでる。ほとんど何も見えない。
 落下してくる。まだらな雨が降り出した。顔や地面に当たる。指先にも。眼鏡のレンズにも雨粒が落ちる。周囲に音がつぎつぎとあがる。
 雨の激しさが加速する。体中にあたる水滴が痛い。耳元で破裂する。わたしは強く目を閉じる。閉じたまぶたから水がしみこむ。永く続くかのように、降りそそぐ水の玉。つかのま身体は熱く、そして次第に寒くなっていく。もう空腹感はない。麻痺したのだろう。濡れた体の重さ。地に埋もれる。わたしの重さで、地平がゆっくりと傾いていく。あの蛾も、きっと流されてしまったのだろう。
(わたしも、このまま雨に流されてしまってもいい)

 雨音が聞こえなくなった。目を開けると、眼鏡のレンズに雨が当たっている。けれども、自分の呼吸の音しか聞こえない。眼鏡のレンズは水に覆われている。耳元に流れる雨水。
 
 わたしはまた目を閉じる。ふたたび熱い。自分の体が熱をおびている。
(このまま燃えてしまってもいい)
 やみが自分を中心に渦をまく、そのくらみのなか、だれかが、わたしのジャケットをひっぱっている。が、動きがとれない。その闇には、光の帯がゆらめく。閉じた目を開き、首をわずかに曲げる。
 見ると、一頭の狼がわたしのコートの肩の部分をくわえている。食らう気はないのか、狼の目が、わたしに起きるようにうながしている。この狼は、月の目をしている。
 手を、伸ばす。濡れた狼の頬に触れる。柔らかな毛から水がわたしの指へと伝わり、しずくとなって落ちていく。狼は鼻をわたしの首筋におしつけ、匂いをかいでいる。手の感触で、狼が痩せているのがわかる。地に手をつくが、起きあがれない。手を伸ばすと、狼が自らの頭で下から支えた。

 稲光がして、地上にもたれるわたしと狼を照らした。流水で枯れ枝が流されていく。雨のなか、ふたり息をしている。地から仰ぐ、その雷光が、雷鳴とともに、わたしたちに向けて墜ちた。突き刺す槍に弾かれ、音もなく発火した。

 地上には、わたしたちの姿が見える。ひとりの人間と、いっとうの狼と、そしてあたりを包む暗がりと。ふたつの身体から炎だけが、闇のなかに舞う蛾のようにゆらめいている。


  みつとみ

 雷光の闇にくらみを覚えながらも、雨のなかに立ち、かすむ地平を、よりそう狼と見据えていた。雷で地に発火した炎は雨水で消えていた。眼鏡のレンズに大きな雨滴がたまっては落ちていく。
 行こう、わたしは狼にしずかに告げる。ふらつきながら、狼を見る。狼もわたしの目を見る。わたしたちは雨に打たれながら、互いにもたれあいながら歩む。

 白いもやの地に朽ちた樹が一本あった。ねじれた枝には葉はなく、幹は裂け目が走っている。その樹のしたで、わたしと狼は体を休めた。雨よけにもならない。灰色の毛から雨水が流れ落ちている。わたしは狼の背にそっと手を置く。やせている、感触でもそれがわかる。狼は雨でかすんだ彼方を見ている。賢そうな目で。口元はひきしまっている。わたしと狼は同じ地平を見つづける。

 灰色の毛皮のところどころに褐色の部分がある。鼻から額にかけては黒っぽい色をしている。わたしに牙をむくことはないが、ときおり覗かせる歯は鋭い。わたしは膝を折って、樹の根本に座り、狼の背に体をよせた。狼はわたしの匂いをかぎ、口元をなめる。互いの体温だけを頼りにした。 
 眼鏡のフレームをあげ、ジッポのライターの火をつける。狼の目は水で濡れている。火もとが熱くなり、ライターを閉じた。紺色の空気にまた包まれる。

 眠った。足下を流れる雨水の流れは、手の届かない空の雲から落ち、木やわたしたちの体をつたい、そして地表にたまる。雨水はいくからは地下にもぐり、多くは低いほうへと流れる。わたしたちは眠っていった。
 狼はわたしの首筋に顔を押しつけ、寝息を立てている。眠りながら、女の背。それもすぐに眠りの中で、流れていった。

 咳をして目が覚めた。雨は止んでいたが、寒い。暗がりのなかで、ジーンズのポケットのライターを取り出し、火をつける。女からの。いなくなってから、タバコはやめていた。味がしなくなってしまったから。銀色のライターに描かれた、片方だけの閉じたまぶたと長い睫毛。

 狼がわたしの顔を仰いでいた。何を考えているの、とでも問いたい目で。狼の首をなでる。灰色の毛に指先をいれる。もう片方の手でライターの火をかざす。暗やみに、ゆらめく。狼の目が濡れている。ライターのふたを閉じた。やみをわたしたちは見続けた。狼はわたしの膝に顔をのせた。

 それから、白い朝がくるまで、樹のしたでふたりもたれる。目を閉じると、どこまでも続く地平の彼方に、海がきらめいていたさまが見えた。あそこまで行ければ、助かるかもしれないと。そう思い、目を開けると、そこは果てのない大地。点々とした石、折れた枯草が風に吹かれて、ちぎれて空に舞う。遠くで鳥が叫び声をあげた。その声が火となって、乾きはじめた地の草を燃やしていく。



*8/9修正。「荒れ地」という言葉を「狼」シリーズ全編全面削除。第2連修正。


ペンギン

  みつとみ

一年に一度だけ、
わたしと母は、海草をとりに、
江ノ島に向かう、
その途中に、枯れ木の門がある。
昔、「厚生病院」と呼ばれた場所の前を、
母の運転する車で通る。
信号待ちで、助手席から、
裏庭はどこかと目で追う。
車窓にはりついた、
すねたペンギンのグッズが、景色の中に浮かぶ。

少年だったわたしは、
病院の裏庭で、
たったひとりで、
ウルトラマンの人形をもって、
笑いながら走り回り、
(あの曇った空を)
飛ぼうとすることに熱中した。

母が、急性の腎不全で入院し、
わたしは、ヒーローの人形を片手に、
父の手を、もう片手に、
強く握り締めながら、
母のベッドの脇で、
表情だけは笑いながら、うつむきそうになりながら、
必死な思いで立っていた。

六年後に、
父は、中古の家と、
だまされて購入した、別荘用地を遺し、
肝臓癌で他界した。

「お前は近所のひとが、
『お母さんの見舞いに、いっしょに行くか?』と声をかけても、
『ぼくはあとでお父さんと行くからいいんです』といって、
ひとをものすごい目で、にらむような子でね。
大人しそうに見えるけど、ほんとうはガンコで……」
母はハンドルを握りながら、
老眼で信号を注視する。
その脇で、
わたしは泣き笑うような顔を隠している。

走りだした車。
母の昔話を聞きながら、わたしは黙って、
窓の外を見る。
名前の変わった、病院の建物が遠くなる。
曇り空を背景に、ペンギンの黒い頭がゆれる。
(飛ぶことができずに)
海につくころ、雨が降りはじめた。


ペガサス

  みつとみ

太陽が隠れ、雨が降っている。
駅から、歩いて帰る途中、
だれもいない、
公園による。

幼いころ、よく公園で待たされた。
雨が降っていても、
寒さで凍えながら、
靴の中が水で濡れても、
汚れた指先で、
小石をつかみ、
地面に落書きをした、
なびく、たてがみの、
いっとうの馬。

公園のそばにある、
ソロバン塾には、
わたしの指を逆にそらせ、
手の甲につけては、
喜ぶ上級生たちがいた。
いつも、塾の授業が終わるまで、
わたしを、待たせている。

雨がひどくなれば、
塾ののきで、
水のはった地面を眺める。
いつまでも雨が、
降っていてくれれば、と。
塾の先生が心配して、
顔をだし、声をかけてくれても、
わたしは黙って、首をふり、
あいまいに微笑むだけ。

濡れた前髪からは、
しずくが落ちる。
足元の、
水たまりに映る、
空が小さくゆれる。
冷たい空気の中でも、
ひとりで笑っていた。

スーツの上の、
コートのすそを気にしながら、
公園の中に、
しゃがみこみ、
濡れた傘を肩にかけながら、
地面に小石で、
落書きをして遊んでいる、
わたしは、無力な子どものようで、
いつまでも、
だれもこないことを祈っている。

それでも、
あの雨雲の上は、
晴れているはずで、
羽根を付け足し、
地面の、
ペガサスが、
太陽に向けて駆けのぼる。

文学極道

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