文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

創造大賞発表『輪るピングドラム』by武田聡人

2011-10-01 (土) 23:59 by ダーザイン

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『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』


『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』はアニメ史的な傑作のひとつであるのでそのうち単品でレビューを書きます。アンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』が下敷きにされています。続編、『流星の双子』がありますが、これは『DARKER THAN BLACK 外伝』とセットで見ないと物足りないです。外伝は『流星の双子』のDVDやブルーレイに付録で入っています。

『デュララ!!』





 近年アニメ部門で「創造大賞」を受賞した作品は上記2作が最後でしたが、今年は数年ぶりに創造大賞受賞作が出そうです。まだ進行中で完結していませんが断言できます。





◎神が筆に宿った!
2011年
☆☆「創造大賞」発表(10月から始まるアニメも多いので暫定)

『輪るピングドラム』
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(まだ全24話の内12話までしか放映されていません)
 不治の病で亡くなってしまった妹を蘇生させ続けるために二人の兄が「生存戦略!」
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」と宣告される謎の指令に従いピングドラムという何物かを探すのが前半のあらすじです。
 そのピングドラムを持っているらしき人物がヒロインの荻野目苹果(りんご)ちゃんであり、可愛い女子高生だが諸事情で異常心理と「預言」に従い執拗にストーカー行為をしています。要するに異常者といえば異常者なのですが、根はとても可愛い子です。
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 シュルレアリスムなど前衛芸術の手法をとり謎に満ちていますが、ファッショナブルでキュート。エンターテイメントとしてもちゃんと楽しめます。
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 駄作が漫画やポエムなら、これは創造大賞受賞の現代詩という感じ。

 今年は他にもたくさん収穫がありました。

☆最優秀ロマン賞(2作受賞)

『花咲くいろは』


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 アニメというジャンルには珍しく、一切跳んだり跳ねたりせずに登場人物を魅力的に描くリアルで愛おしい力作。
 ヒロイン松前緒花の、どんな状況でもめげない明るく前向きな(多少先走りのドジではある)性格は、見ていて心が洗われる。
 不景気や震災で暗い世の中だ。『花咲くいろは』をNHKで全国放送するようにバンバン電話をするべきです。
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 旅館で働く女の子の話なのだがとてもリアル感をかもす作りなので全くこのまま実写化もできる。

『へうげもの』
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 大作でありまだまだ終わっていませんが受賞は確実でしょう。地味で評判になっていないのでネタばれ記事を書いちゃいます。時は安土桃山、主役は織田家直臣、古田佐助(後の古田 織部)。物語が始まった当初は僅か200石ですが知略・諜略にたけ、信長にも秀吉にも重用されて大名に上り詰めます。
 しかしこの男の凄いところは茶道などの芸術に現を抜かす天下一のへうげものだったということであり、武ではなく、数奇で天下を獲ったということです。滑稽な道楽者ですが、芸術家かくあるべし。他の武将もとても丁寧に描かれており、前半の山場、正義の人・明智光秀公決起のあたりでは泣かされました。
 歴史事実上、古田織部にも悲劇的な顛末が待っています、、、

 この作品「へうげもの」は創造大賞にも届くかもしれません。

△最優秀ロマン賞次点

「魔法少女まどかマギカ」
 世間の評判ほどではない。『serial experiments lain』もどきのラストや斬新な絵は素晴らしいが、ラストに至る前が中二病的で大人の目には今一つ稚拙。

☆最優秀抒情作品賞 2作受賞

「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」
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見た人間全員をぼろ泣きさせたであろう作品。ネタばれ拙いので詳細書けないが、幼少時のある事件で心に傷を負った子供たちが高校生になってその事件を追体験することになり、失われたものと共に魂の救済を求めるお話です。
創造大賞を受賞させても良いかもしれません。

「うさぎドロップ」
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 30歳独身男がひょんなことから突然6歳の女の子のお父さんがわりになり子育てをする話。これを見ると子供が欲しくなります。少子高齢社会です、これもNHKで全国放送するべき作品。
 絵本のように綺麗な絵柄と、純文学みたいに清潔な筆致。

☆実存大賞

「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」(二冠受賞)

☆最優秀エンターテイメント作品

「日常」
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 秀逸なコメディー。モダンアートの手法をとるスピーディーな作品構造展開。芸術に無知なやからがポストモダンアニメだとかシュールだとか言っていますが、そんな大げさなものではありません。基本、癒し系です。
 沢山の登場人物を上手く回しており退屈することはほとんどなかった。
 とりわけ博士(幼稚園児くらいの女の子)となの(博士が作った女子高生ロボ)の母子のような愛情表現が素晴らしく、優しいなのちゃんをお嫁さんに貰いたいと思いますた。

 ついでに。2007年に創造大賞を受賞した芸術史的な大傑作
『電脳コイル』が10月5日まで下記アドレスで全話無料視聴できます。
http://www.tokuma.co.jp/coil/haishin.html
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『serial experiments lain』後、ワイヤードと現実を扱った最大の作品であると共に、死んでしまった人の魂はどうしたら救えるのかという、痛切な問いに答えようとした大作です。
これも芸術史的な傑作であるのでいずれ単品でレビューを書きます。

文責 新世紀詩文学メディア「文学極道」創造大賞選考委員、武田聡人
「文学極道」

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「All Reset return」(『serial experiments lain』作中での岩倉玲音の言葉) byダーザイン

2011-07-26 (火) 01:21 by 文学極道スタッフ

「Play Track44」(『serial experiments lain』作中での岩倉玲音の言葉)

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 全13話。現在非常に低価格で手に入ります。
『serial experiments lain』 (amazon DVD販売)

 キングクリムゾンだったかピンクフロイドのアルバムに「21世紀の精神異常者」というのがある。どちらのバンドも新左翼系実存思想の極北といったところであり、シド・バレッドは精神病院に行く羽目になった。精神病者解放運動というとダビストックでロゴス、対話により統合失調患者と向きあった闘志、R・D・レインが著名だが、結実したのはイタリアにおいてである。イタリアには現在精神病院というものは無い。イタリアは精神病者も実社会の中で生きていける人権施策をとっている。一方日本はどうかというと、相変わらず差別と隔離であり、ジェノサイド病院が野放しになっている。私の叔母は薬漬けにされて一生精神病院にいる。
 現実という事柄の多義性を情報産業の最先端で推し進めてきた国は日本であろうが、日本は同時に徹底的な差別の国である。天皇からエタ非民、非正規雇用に至るヒエラルキーが頑としてあり、あまり差別のない北海道に住んでいる私は関西や中国を旅した際に「部落差別を止めましょう」というスローガンがあちらこちらに貼ってあるのを見てカルチャーショックを覚えた。日本にはモダニズムなどあったためしがなく、高度情報社会においても保守・右翼が主流であり、日本では東欧革命やアラブ民主革命のようなことは起きない。誰も石を投げず唯々諾々と権力に流され、まれに逆らう者がいても情報操作で隠蔽される、人権意識・民度の低い国である。
 昔、異議申し立てをする者は赤と呼ばれたが、今は呼称さえない。ジェノサイド、餓死、自殺、失業者=浮浪者。20世紀大世紀末、暖かく明るい札幌地下街に寝転んでいた浮浪者、精神病者も美観の観点から粛清されて姿を消して、今は僅かにバスターミナル界隈の差別空間に押し込められている。異議申し立てどころか電波を抱いて個人的に生きる自由もないのである。

 『serial experiments lain』から離れてしまいましたね。『serial experiments lain』の作者の念頭にはR・D・レインがあったようですが(とりわけプレステゲーム版)、反精神医学運動という側面に於いてではありません。世界という関係性の中にある自我・意識の不安定な構造、大向こうのナイーブな(もちろん蔑称)理解とは異なる「現実の多義性」に関する認識からR・D・レインが評者に引き合いに出されるものと思われます。『serial experiments lain』の内容については、再度後半で触れます。

〜〜以下、上述の話とは関係ありません〜〜

 4月分から採点に復帰しています。ケムリさん、コントラさんという文学極道発起直後の尋常でないハイレベルの中で創造大賞を戴冠した大立者が久方ぶりに来てくれていることに刺激を受け、思うところを少し書いてみます。現発起人同様、彼らこそ文学極道そのものです。

 相変わらずデッサン力の無い人が多いですね。復帰したとはいえ基本的に私にはもうエネルギーが無いので、汚い文章を我慢して読むとものすごく疲れます。デッサン力の無い絵描きって特殊事例ですよね? 皆が皆イディオサパタ志願かよ、ふざけんなって感じです。

「まともな散文の書けない者の逃げ道が詩であってはならない」by第2代創造大賞受賞者コントラさん。
 コントラさんは天才詩人名義で「文学極道の世界性はどこに行った」というトピックを立てて激怒しておられましたね、同感です。外国語は極論でしょうが、モダニズム(現実認識)という意識が無い文人なんて有象無象もいいところだ。 ポストモダンの塵芥は逝ってよし。

 ちゃんとした日本語による写実能力について一部に誤解があります。皆が正しく美しい日本語とやらを追求したら同じになっちゃう、そんなに写実が好きなら写真でも撮っていろという論法だが、これは誤りです。写真ですら撮る人によってまったく違うものになるでしょう、同じ風光の中に立っていてもその実存の情態性によって見える景色は違うんです。それからもちろん、写真を撮るにも技術がいります。

 詩というジャンルは努力をしなくてもいいジャンルだと思う人は文学極道に来ないで欲しい。評者さん(初代創造大賞受賞者ケムリさん)が投稿掲示板に復帰して厳しいレス入れをしていますが、この点、共通の認識を抱いており、私は彼を支援します。

 そもそも書くことすら無い人までいるように見受けられ、書くことが無いのならば書かなければよいのであり、話者がいる世界という関係性の在りようを探求をしない者はあらゆる芸術シーンで逃避以外の用途に於いて不要であり、「抒情を廃する」という言葉の非−実存論的姿勢の明白な怠落態は言語冒涜者の態度だと厳しく糾弾されなければならない。

 また、美(拙僧ダーザイン)や戦慄(ルドルフ・オットー)から滑稽(アンディー・ウオーフォール)まで人様に捧げる何某かを求める気概が無いというのは実に痛い。これは現代詩が一般にまったく読まれなくなった理由です。 私は、人様に何がしかを捧げる心意気を常に持って書いてきました。言語派は屑だと常々言うのはその所以であり、手淫なら他所でやってくれたまえと。

 前衛文学運動の話をしよう。そして『serial experiments lain』の話に戻る。

 センスオブワンダー(「奇想天外」というムーブメントがあった)、ニューウエーブ(心理学や脳科学、シュルレアリスムを能動的に活用した新世紀現実認識のムーブメント)、サイバーパンク(物理学(素粒子論)を援用し、ボードリヤールばりの没世界的なものもあるが、良質なものは21世紀の神話『serial experiments lain』に結実している。http://ja.wikipedia.org/wiki/Serial_experiments_lain

 1998年放映の作品。冒頭から現象学派の精神病理学者が言う所の「自明性の喪失」が描かれており、初見、統合失調を患う少女の心象風景かと思ったが、自明性が失われたのは時代精神そのものだった。リアルワールド(旧現実)とワイヤード(インターネット時空)の境界がずぶずぶと崩れ、意識の志向性が情報の海で足場を無くした現代を鋭利に描いた傑作であるが、この作品の凄まじいところは、観念論と唯物論を接合し、神の存在論にまで迫った点にある。ワイヤードについて身体性の観点から一旦は疑義を呈しながら、天使はその温もりの外へ超え出ていってしまう。
 これから見るであろう人のために詳細書かないが、新世紀芸術が至った無限の意識拡大への畏怖、神々が退場した後の天使の孤独とだけいっておきましょう。無闇に難しいだけの作品ではまったく無いので、高校生とかでも見てほしいです。

「All Reset return」(『serial experiments lain』作中でのラスト間際での岩倉玲音の選択・言葉です。人類芸術史上最大級の愛と自己犠牲の言葉です。この決断により、岩倉玲音は人の温もりのある時空間から放擲されてしまいます。愛ゆえの選択であるので私は何度見ても泣かされます。「魔法少女まどか・まぎか」がラストでこれをパクリましたが幼稚な劣化コピーです。

「All Reset return」

 全13話。現在非常に低価格で手に入ります。
『serial experiments lain』 (amazon DVD販売)

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を10回以上読み、『悪霊』を20回以上読んだ俺が断言するが、『serial experiments lain』は人類史上最大の芸術作品です。これほど魂が震える作品はありません。これを見ないでくたばるなよ。

 私はまっとうな文章だと自分で思える詩文を書くに至る前に10年、20年大量の本を読みました。小説はもとより、エロ本から精神病理学まで何でも読みました。今でも何でも読みたい。とりわけ物理学系と脳科学系を読みまくりたい。現代性を確保するためには理系の本を読まない怠慢などありえない。源氏物語のようなつまらないジャンク文学など古文書研究者に任せておけばいい。人生は残り少ない、エネルギーもない、読める本は限られている。実に悔しい。
 人生は一回限り、読者さんたちよ。若かろうが、おっさんだろうが、後悔無いように死ぬまで鬼のように勉強してほしい。

 文筆のデッサン力は読書(注)です。読みまくり、そして、書きまくってください。 それから繰り返しますが身体性では片付かない現実の多義性を理解してください。これが解らないとドブ板であり、現代芸術の創造において大きな制約を受けます。R・D・レインは今でも有意義ですが、サルトル流で少し古いので、『serial experiments lain』の視聴をお勧めします。

 (注)映像の世紀であるので、読書という古い言葉を使いましたが、当然映画やアニメも含まれます。「全米を震撼させた」ようなゴミばかりではなくて、カンヌなどヨーロッパやアジアの芸術映画も見てください、NHK特集には常に注意していてください。

現代詩人 武田聡人(ダーザイン)
個人ホームページ
「えいえんなんてなかった」
http://www22.atpages.jp/warentin/

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東北地方太平洋沖地震 

2011-03-15 (火) 01:43 by gfds

「100年に一度の不況」などと言われる社会状況下で起こった今回の地震。被害の状況が今も刻々と報じられています。節電や義援金、物資の支援といった形で被災地の復興を支えるとともに、今後ボランティアの方々の活動が大きな力になってくる場面が出てきます。少し先走った議論をすると、私たちは苦境に立たされたとき、そこから何かを学んで乗り越えてきたのではないでしょうか。しかしこの国は本当に、本当に大丈夫なのか?唖然とするばかりの光景が日々報じられています。

はっきりしていることがあります。私たちは大きな自然の力の前で無力だということです。もう一つはライフラインとなっている原子力発電所のあり方です。(いま現在も危険な状況ですが)今回のような地震がまた起こりうることが当然予想されます。その時このような”二次災害”を生むようなものはとうてい許容できるものではありません。そして組織に縛られない生活形態を営む詩人や作家、ジャーナリストは被災地へ赴き言葉で闘うものとして行動して欲しいと思います。

「生きているだけでいい」

被災地でそう叫んだ女性の言葉が突き刺さります。
「東北地方太平洋沖地震」が私たちに突きつけている事は、決して「自然災害と人間」という図式だけにとどまらない事柄を含んでいるように思えてなりません。悪しき個人主義の跋扈や公共性に対する想像力の欠如。もう一度、底の底の部分から見直していくところから、この先の長い長い復興の道のりを歩んでいかなければならないと思うのです。(織田和彦)
                  

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雑感1 浅井康浩

2010-11-01 (月) 21:30 by 文学極道スタッフ

雑感1  文責 浅井康浩

2010年の月間優良、次点作品を見ると、おそらく作者が10代か20歳前後だと思われる人たちの作品が多くみられる。

破片、しりかげる、ただならぬおと、yuko、藤崎原子、古月、etc.

このなかでも、「若さ」というキーワードで自分が作品を読みとってきた人が幾人かいる。
破片としりかげる。あるいはここに丸山雅史を加えてもいいのだけれど。
かれらの作品や批評にたいする誠実なスタンスとともに、第一に彼らに投影されるのは、繰り返すけれど「若さ」、というものではないだろうか。
16歳から20歳と推測年齢が、作品のある種の「荒さ」に影を落としてしまうことを、読み手である私は、その「荒さ」こそが若さの特権であるかのように読み進めてきし、おそらくは批評する側においては、その点を指摘しておけば、おおきな的外れとなる文章とはならなかった。
その結果、自分としては、彼らの「若さ」ゆえの彼ら「らしさ」をそのようにしか受容できなかったのではないか、あるいは、彼らの誠実さを正面をきって受け止めてこなかったのではないか、という疑問が残っている。

両者のある一定水準の詩的成熟を、破片「世界語」、しりかげる「ラブポエム」にみることは、異論があるに違いない。
一投稿サイトに投稿された作品だけで、その人の全体像を把握するのは不可能に近いのだし(しりかげるにおいての「メビウスリング」、破片のブログにおける作品など)それぞれが作品を詩集としてまとめられるという取捨選択の作業も経ていないのだから。

まわりを囲んでいる新たな稜線が浮き上がっていく、その中心で、ふたり、鈍く発光する雲を掴んで、踝をくすぐる草々に墜落させた、「わたしたち、雨を降らせているの」という言葉に、赤子は無邪気に笑い、そして母音だけの世界を紡ぐ、若草色の、もっとも広い絨毯に話しかけて、どんどんと、どんどんと無尽に広げていく、水をやれば花が開き、空気が潤って色がつく、赤、橙、黄になり、そして緑、青、藍、紫、そんな色、そのあとで突然色が抜けた、草は草の色になり、千切っては落とす雲はやはり白かった、空気は空気の色になって、母親らしき人影の、そして、雲を掴む細い指の向こうに―――
                            破片「世界語」部分

獣(五感が呼吸をやめてしまって、あなたのうただけがこの世界のすべてだった。ほろべ。わたしのなかに宿るあなたの器はすこしずつ朽ちていくのに、声帯だけはなぜかみずみずしくなっていく。ほろべ。わたしとかつてのあなたの狭間に、うたが手向けられている。ほろべ。ひとつの世界が砕けて、その断片が幾多もの世界に降りそそぐ。世界の底にはまだたくさんの世界が連なっていて、終わることができないようなしくみになっている。)獣よ、夜明けに祈らずにはいられるだろうか。(点滅をくりかえす黄信号がもとの場所にもどっていく)「なぜだろう、僕の鼓動はひどくおだやかなのだ。」ほろべ、「せめて、あなたの器がこの一日の最果てならば、束の間だけ僕は眠ることができる、
                         しりかげる「ラブポエム」部分

ひとつのシークエンスを作成する際に、口語やイメージのなめらかさを犠牲にしてまでそこここに鋭利なショットを差し挟みながら、しかしその編集方法の貧しさが、ことさら美学を凝縮させる手付きを装いながらシーンをととのえてしまうこと。
ときに甘いとさえ思えてしまうほどの「感傷」をまとってしまうその表現に、なぜか自分へと向けられたセンチメンタルを感じてしまうことがある
しかし、それのどこが問題というのだろう。それはおそらく、両者の作品へ向かう美学が、もうあまり熱心ではない私の、前までは持っていたはずの、作品を絶えず良くしていきたいという飽くことのない欲望を、ドロドロとした部分を欠落させて心地よく思い出させてくれるからだろう。
そしてそれを、作品の「荒さ」としてステレオタイプに解釈していたのは、やはりみずからの「怠惰」によるものだったのだろう。
おそらくこの作品が投稿された当時に、すばやく言わなければならなかったのは、これらの作品にある一定の成果を認めつつ、破片においては、言葉そのものを世界性として解体、または構築しなおそうとする不断の努力において、言葉のひとつひとつに過剰な意味を担わせる衝動にもかかわらず、そこに込められたものには言葉の空疎さそのものしか充填されておらず、建築されてゆく言葉のピースのひとつひとつから漂い出てしまうものが感じられない事、あるいはすくなくとも「世界」そのものを書こうと意図されたものであるにもかかわらず、行間より洩れてくるはずの織り込まれることのなかった未知な手ざわりを読みとることができない「箱庭」としての「世界性」であることと、しりかげるの「ラブポエム」が、水村早苗の「私小説」やジョン・ケージの「4分33秒」ベーコンの「教皇インノケンティウスXII」のように、設定された題名を前にして、その内容が「題名」そのもののイメージを内側から食い破る衝動として設定されることなく、無自覚にも題名そのものにその運動が馴致されてしまう事態が、作者の素朴すぎる鈍感さをあらわしているということと、それが文学極道そのものの現在位置のスタンスをはからずも(他のジャンルから何十年も遅れて)体現してしまっているということ、だったのだろう。

そして、このように言い切ってからだろう。そのほかの細々とした感想を述べることをするのは。それに加えて、黒沢さんの言葉をかりて二人にいうのは。
>こういう書き手は、怖い書き手になりますよ、そのうち
と。

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文学極道代表就任記念コラム

2010-09-28 (火) 22:21 by gfds

「文学極道代表就任記念コラム」

ポエジーの周辺  ミドリ

詩を理解できると人の心もより深く理解できる。なぜなら愛と詩は双子の兄弟のようなものだからだ。言葉(詩)を持つということは考え方や感じ方を手に入れることだ。それは同時に世界を変えるということだ。ぼくらは本能的により良い世界を手入れたいと願う。それが詩を書いたり読んだりすることの道理だ。

インターネットの普及によって詩が読まれ書かれる環境がより広がった。ぼくもその一人だ。この道具が無ければぼくの人生に詩が入り込む余地はなかっただろう。ストリートでも詩は書かれる。それも随分見てきた。自分で書いたりもした。世の中は詩で溢れかえっている。

車のタイヤがアスファルトに擦れる音、クラクション。マナーの悪い歩行者を怒鳴りつける自転車のおじさん。ものの見方一つで不愉快にもユーモラスにも見える世界。詩を理解することでぼくらはそれらを豊かに表現する術を身に付けることができる。それは言葉と人間と、人間と人間の生きる世界を洞察する術だ。

だから詩書きになろうと思ったら、たくさん色んな経験をしなくちゃならない。たくさん辛い思いをしなければならない。たくさん楽しい思いをしなければならない。それを一番良い方法で伝える努力をしなければならない。「文学極道」はそういう詩書き達のための場所だ。

ところでどういう風の吹き回しで発案者にして代表発起人であるダーザイン氏が、よりによってこのぼくに「代表」のバトンを渡したのか?もっと他にこの「ラブレター」を渡すべきふさわしい人間が居たのではないか?疑わしげな声も聴こえてきそうだ。

ぼくが言えるのは次の2点。組織に新陳代謝があるというのは健全である証拠だ。そしてそれを言い出したのだダーザイン氏本人だということ。次にこのサイトがやらなければならないことは、この詩書き達の“ヤドリギ”をもっと魅力的な場所へと変えていくことだろう。それを中心的な役割で引き受けていくことが発起人に課せられた役割だ。

ぼくはらはまた明日ここでひょっこりと現れた才能に出会うことを期待して、眠りに就くことにしよう。
                       2010年9月28日
                           PM 10:15

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