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ミドリ

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東北地方太平洋沖地震 

2011-03-15 (火) 01:43 by gfds

「100年に一度の不況」などと言われる社会状況下で起こった今回の地震。被害の状況が今も刻々と報じられています。節電や義援金、物資の支援といった形で被災地の復興を支えるとともに、今後ボランティアの方々の活動が大きな力になってくる場面が出てきます。少し先走った議論をすると、私たちは苦境に立たされたとき、そこから何かを学んで乗り越えてきたのではないでしょうか。しかしこの国は本当に、本当に大丈夫なのか?唖然とするばかりの光景が日々報じられています。

はっきりしていることがあります。私たちは大きな自然の力の前で無力だということです。もう一つはライフラインとなっている原子力発電所のあり方です。(いま現在も危険な状況ですが)今回のような地震がまた起こりうることが当然予想されます。その時このような”二次災害”を生むようなものはとうてい許容できるものではありません。そして組織に縛られない生活形態を営む詩人や作家、ジャーナリストは被災地へ赴き言葉で闘うものとして行動して欲しいと思います。

「生きているだけでいい」

被災地でそう叫んだ女性の言葉が突き刺さります。
「東北地方太平洋沖地震」が私たちに突きつけている事は、決して「自然災害と人間」という図式だけにとどまらない事柄を含んでいるように思えてなりません。悪しき個人主義の跋扈や公共性に対する想像力の欠如。もう一度、底の底の部分から見直していくところから、この先の長い長い復興の道のりを歩んでいかなければならないと思うのです。(織田和彦)
                  

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2011年1月選評雑感・優良作品

2011-02-21 (月) 22:51 by gfds

2011年1月選評雑感・優良作品 

文責/浅井康浩  編集/織田和彦

◆4935 : The Wasteless Land.  田中宏輔 ('11/01/01 00:35:57 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110101_928_4935p

一見すると読書ノートのような引用(の織物)がスタイルとして注目を引くような形になっているけれど、それは表面的な見方だという気がしました。まず情欲があり、それが所有欲へと転じ、語り手が情欲の対象と対峙したとき、鋭く自らの存在とは何かということが突きつけられるという。田中さんが詩を書くという行為に駆り立てられる動機が、ここに表現されているという印象を受けました。書くことはエロスなのだ、という前提がまずあります。欲望を感じるとそれを所有したいという具体的な願望となって現れ、その時突きつけられるのが存在です。欲望する対象の前で自分という存在が何かということが突きつけられるわけです。引用が前面に出てくるスタイルは、オリジナリティへの懐疑を示すものですが、あるいはオリジナリティそのものを否定している。そして何をどのように組み合わせて引用するかに個性が現れ、私とあなたの違いを示す存在の在りようも、その程度のものに過ぎない。ならば引用の仕方に徹底して拘ることで、「私」というものを他と差別化して「同定」することができる。この作品にはそういったメッセージが込められているような気がしました。エロスに引用という知の意匠をまとわせ、存在の探求に赴くところのこのテクストの可能性が見出されます。

◆4943 : 図書館の掟。  田中宏輔 ('11/01/03 00:15:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_961_4943p

エミリ・ディキンソンの書斎、川端康成の書斎、ヴァージニア・ウルフの書斎の遺書。
かずかずの作家の書斎が、持ち主の死後に、保存され、公開されている。
そこに身を置くときに感じるのは、まずなにより、作者の不在、ということと、それでもなお、その書斎という場所が、書き手に属する空間としてあり、彼らの息吹が濃厚に感じられるということだろう。書斎に並べられた本は、その濃厚な気配に包まれながら、いつの日か不在となった主人がページを繰る日を待ち望んでいるかのように、そこに並んでいる。
それに対して、図書館の機能はというと、アレクサンドリア図書館の時代から、記録できることのできるものを記録することであり、そして続く注釈、読解であり、読者の作業場ということだろう。過去の出来事を発展させ、未来をかたちづくるための。そうやってアルキメデスはアレクサンドリアの図書館に招かれ数学、物理学等の未来を形づくる。
そこでは、作家の位置は従属的にならざるを得ない。アレクサンドリア図書館において、アリストファノンは、後学のために、読むべき本の目録を作成する。それは、「規範」となり、それに載っている人々を記憶させるかわりに、そこに載せられていない人々の著作の存在を抹殺させる役割を担った。
図書館の存在はつまり、作者の書斎から本をひきはがし、作者という存在を消し、かぎりなく膨張してゆく。

そのような意味で、この作品の最初に書かれたのが
>人柱法
というのは興味深い。
しかし、図書館は、記憶するに値するものを記憶している、ということもできる。
図書館の膨大なリストは、私たちと関わりをもつ点について、作者の記憶の結晶である著作を読むことによってつながるのではなく、それを読むかもしれないという可能性が無限にある、という関わりにおいてつながっている。

それは、記憶を貯蔵するものが、書物であれ死体であれ、変わりはないように思う。

そして、図書館は、そのシステムがどのように詳細に語られようと、各人の利用してきた個人の記憶のなかでしか生き続けられないものとしてもある。
個人のなかの記憶としての図書館。雰囲気としての図書館。

自分にとって、紙媒体の図書館において感じる喜びは、パラパラと読んでいくことと、背表紙による出会い、分類方法を見てゆくことなのだけれど、死体が本代わりとなっている図書館での、そのようなささやかな喜び、というのはどのようになるのだろうか、気になった。

はやり、
>美しい女性の死者の視線を感じた
というように、顔による出会いなのだろうか。

図書館という場所における個人のよろこび、というものに興味をもつものにとって、この作品は、詳細ではあるけれども、ストーリーの整合性にこだわった緻密な作品としてあらわれ、感嘆はするけれども、感心はできないという微妙な心理に陥らされてしまう。

◆4947 : キューピーと  右肩 ('11/01/03 19:19:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_974_4947p

キューピー人形が象徴するものへの作者なりの語りかけなのだと思います。キューピーは
「素っ裸」なので、本当ならば日常の空間の中では秩序紊乱者として「取締り」を受けるべき存在なのに、このキューピットの形をしたキャラクターは、その毒が抜かれることによって、日常の中に納まることを許された存在です。

>君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。

この語りかけは、しかしいつもシニカルな調子を帯び、

>短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。

明らかにバカにしている調子さえあります。

>頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。

そしてどうも頭部ももがれてしまっているキューピー。

>いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。

ここにきてどうやら作者はキューピーに嫉妬しているらしいことがわかります。キューピーという愛らしいキャラクターに対して。キューピーというキャラクターに仮託されているシンボルに対して。そしてこの嫉妬は循環的に憧憬へ接続していくことで、この作品はある種の賛歌としての特色を帯びてきます。

◆4971 : いちじつ  葛西佑也 ('11/01/17 14:06:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110117_179_4971p

昨日会ったばかりなのに
「久しぶりだね」なんて
おかしいんじゃないの?
そう思ったのはほんの一瞬で
ぼくたちは
その短いフレーズで
全て了解しあった/のです。

……不在着信二件、先ほどまでそのように表示されていた携帯電話のディスプレイは、今ではすっかり寂しくなった。

もっとも共感できるのは、この一連ではないだろうか。
昨日、会ったばかりなのに、別れた途端に、もう、ケータイでつながろうとしている心理。
会わなければ埋められない溝をすこしでも埋めようとし、つながろうとする心理は、なにを求めているのだろうか。その不完全な、声だけの、つながりは、僕の心理のどの部分を埋めるのか。

たくさんのものを失いすぎたぼくたちは、もう「無」と呼ぶには溢れすぎていて、あふ、れ過ぎて、い、て、なにも始めることのできぬまま、夜が明けるのを何度も何度も待ち続けるだけなのです/でした。(誰かが言ってたんだ、「ぼくたちは待つことをわすれてしまった」って。でもね、断言するよ。忘れてなんかいない。忘れてなんか。ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。ただ、ひたすらに。ほら、たとえば雨がやむのとか、夜が明けるのとか……)

僕は、おそらく「僕」自身になりたくないのだ。
僕の身体から「僕らしさ」をどんどん消失させてゆく。
>(生きている意味がぼくにはあるのですか)
僕らしさをどんどん無くしていったその先に、なにがあるのか
>ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。
僕の身体にまといつけたいのは、他者とのコミュニケーションではなく、また他者の存在でもない。
おそらくは、一度、脱ぎ捨てた「僕らしさ」を、ふたたび纏おうとするのだろう。
そのような意味で、次のような短歌は、示唆的だ。

>雨を待つ気分でさわぐ僕たちが ほんとうは誰もいないということ

失っているのは、接触という出来事なのだろう。
僕と、あなた/誰かの間に挿しこまれるはずの接触という出来事。
あなたの「息遣い」「はずんだような声」「心配そうな」「うれしそうな」「いらいらしている」様子。
僕/あなたのなかで、別れた途端に埋めなければならなかったものを、みたすのはおそらく、電話の向こうから聞こえてくる「声」そのものではなく、彼女の「存在」そのものだったのだろう。

彼らはもうすでに少年ではありません/でした。(いつかの少年は女装をしていた。正確にはもう少年という年齢ではなく、女装をすることによって女装をした少年のように見える青年になっていたんだ)
歌声は音声であり、音色からは色が失われ、切り取られたたくさんの風景があちらこちらにちりばめられてい、る。

もう、いやだよ、

と誰かがつぶやいて、ねぇ/聞こえますか?お電話の向こうのあなた/ねぇ、聞こえますか?どんなに悩んでいたって、眠気には勝てないよ。

しかし、上記の文は、過去の互いの接触によってでも、僕自身の空白が埋まらなかったことを示唆している。

「彼」と「彼女」のカテゴリーのなかに自身を位置させること。
(いや、これはかなり安易な考え方なのだが)

自己と身体のなかに、他者の意味を差し込むことで受け身となってゆく、それでいてそれを主体的に生きてゆくという事態。しかし、そのことによって自己が発現するという事態。
自己が他者となってしまった自己を抱きしめてあげることのできる事態。

>ぼくには彼らのことばがわからないけれども、少なくとも彼らの考えていることはわかる。これは通じ合っているということではない/ありません、
>落下したら電子機器からは音声ではなく、声が歌うような声が、ぼくを染める声が、ひびいてい、る。

ぼくは、あなたの「存在」あるいは接触できる「皮膚」とが遠ざかる事態に対応できない弱さがある。
だからこそ、内側に、「彼」「彼女」を閉じこめ、そのあわいを積極的に生きようとする。

>これは通じ合っているということではない/ありません、を拾い上げて、電池パックのある面をズボンの太もものあたりに擦りつける、

世界を自己と接触させる、あるいは距離をおけば痛むものを皮膚に近づける。

◆4980 : I-my-me [pupet makes people]  村田麻衣子 ('11/01/20 06:53:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110120_231_4980p

ディスコミュニケーションがあたり一面を覆っている。例えば引用する。

>かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫   松木秀
このあたりのニュアンスに通底してくるような、ファンシーな対面認識さえもなく。

ティディベアを媒体として通し、その奥に自分をみる、だとか、そのようなものでもなく。
>360°をまのあたりにしたあらゆる内角だから
ティディベア≒自分、というような目線を設定し、その先に、大人の視線を対置しているようにも見える。

けれど、ティディベア≒自分、という図式から発生するイマージュを徹底的に嫌って、ほとんど意味が浮遊してしまっている文章を書きながらも、この作品が実現しているのは、私の眼から発せられる視線の快楽であって、さらにナルシズムまで感じられると言っていいのかもしれない。
もちろん、私とティディベアのあいだには、コミュニケーションが発生するわけではない。
しかし、コミュニケーションが発生しないがゆえに生まれてくるティディベアとしてのキャラクター性(「かわいらしさ」など表層的な特徴)は、わたしによって摘み取られている
>顔の付近がきゅうきゅうになるくらい綿をつめこまれて、目が×になっちゃう
だからこそ、わたし≒ティディベアに近づくのだけれど、
>あのこだってぴんときてないって顔してるでしょ わたしはかおをかく めをくろくして あんな代物、まのあたりにして生存してるなんてひとでないから
という言葉が示すように、それが達成されるわけでもなく、非常に屈折していて、わかりづらいことが多い。しかしその手法は鮮やかで、洗練されている。

◆4985 : アメリカン・ルーレット  ぎんじょうかもめ ('11/01/22 16:57:28 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110122_267_4985p

イギリスのパンクシーンのヒエラルキーの頂点にあるのがピストルズだとするのなら、その入り口あたりに位置するのは、初等教育を卒業したthe ladsであって、もちろんそれらはfailedな奴らだし、そいつらにとって、「アメリカン・ルーレット」は、

ぼくは目をきらきらさせて思った。
かならず死ぬ。
すごい。
そうだよ。

くらいの「やってみる価値がある」ことで、やる、やらないは別にして、将来、その目撃した出来事に尾ひれがつき、何度となくガテン系職場での自分の語り草となることになるくらいだろう。
学校で行われる道徳的規範の、その灰色の、遠回りした、直接的でない、権威主義的な、もってまわしたようなやりかたに対して、対抗するthe ladsにとって、
>かならず死ぬ。
とはわかりやすく、みずからの文化との親近感を感じさせるのに十分だし、「タフさ」を階級文化とするものにとってはなおさらだろう。
だからといって、それを、するかしないか、とは別問題で、アメリカン・ルーレットをすること自体より、the lads、ひいてはそのカルチャーにとって重要なのは、どのように内面化されるか、つまり、ルーレットを前にびびったり、拳銃を持つ手が震えていたり、クソをもらしたりしないかであって、つまり男の尊厳をどのように保ちつつ、トリガーを引く寸前までいき、そこで、どちらともが、死ぬことになるのを防ぐか、トリガーを引いた日には大事件になって警察に尋問されることがオチだし、そんなことはしたくないのだから。
だから、
>だけど、死ぬことなんて簡単『だった』

なんて、警察という官僚機構にどっぷり逮捕されてはまりこんだアホがぬかす言葉なんだろう。
だからこそ、
>ここは日本でスーパーマーケットで拳銃を購入することさえできないのよ。
という言葉につづく
>だからわたしにローラーシューズを買ってよ。

なんて言葉は、中産階級、って、階級なんてそもそもないやん、みたいな日本の平均的児童を視覚的に見分けるツールとしては最適だから、すごく「クール」だし、
>メンヘラみたいな遊びはやめる。
だなんて、勝手に自分でヒエラルキーつくっといて飛び越えてゆく姿が輝いてる。
The ladsなんて、権力者を前にして「あちら」と「こちら」に分けて、自分のマッチョさを、「権力者」が持ってない者として優越感を感じてるだけで、そのじつ労働者として搾取されてたりとかしてるのかもしれないしね。

それにしても、「3」の位置づけはわからない。

>またわたしはその地図上の、その古いことばを読むことなんてほんとうはできなかったのです。

ここが一つのがキ―になりそうだけど、つながりは最後まで判然としなかった。

◆4998 : 白亜紀の終わり  右肩 ('11/01/31 22:42:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110131_365_4998p

>その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、

そのように考えることの、なんと空虚なことだろう。

>どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。

という言葉のあっけなさ、そらぞらしさ。だからこそ、そこから発想されるものに心を打たれるのだろう。
たとえば、それは、「ヒロシマ・モナムール」における岡田英次の「君は、ヒロシマを、見なかった」というささやきなどに通じているのかもしれない。
理解できない事柄のなかをさまようように切りぬけながら、そしてその節々に置いて、あるいは自己としての確固とした決断を重ねながら、それでもなお、

>何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった
という事態をその先に迎えてしまうことがふさわしい、とみずからに感じながら、日々をおくること。
みずからの思考をかさねながら、「異常巻き」が弱い思考をつねにこわしてゆくのだが、それでも思考をやめないでいることでたどりつくのは、

>そのことも「素直に」納得できるようになった
というように、異常巻きにたいする抵抗であり記された言葉が重みを持つとするならば、

>個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎない

つまるところは意味の外側に達したところで屈折し、寒々とした人間の条件をあからさまにあらわしているから、という部分に求めることができるかもしれない。

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「12月選評雑感・次点佳作作品」

2011-01-24 (月) 22:24 by gfds

「12月選評雑感・次点佳作作品」  文責/浅井・織田 編集/織田

「Jumpin' Jack Flash。」‐田中宏輔 

◆ナンセンス、ノイズ、騒音、カオスといったことがこの詩作品の要素になっている。例えば私たちの生活にある余白。朝起きて顔を洗う。朝食をとる。新聞を見る。意味を持った一つ一つの動作、行為の間に隙間が生まれる。何もしていない時間がある。行為と行為の間にある「余白」の時間。この空隙を禍々しい言葉たちによって埋め尽くしていく。埋め尽くしてやる。この作品からそういう欲望のようなものを感じます。
文脈というものがさしたる重要な要素となっていないこの作品。それを逆手にとると、どこから読み始めても楽しめる。そういう作品になっている。どこから読み始めても良いし、どこで読み終えても良い。詩を読むという行為にエコロジーの概念を導入した最初の作品(?)と言えるでしょう。

「血涙」- 破片

◆10代の学生の頃、下宿で自分にしかわからないようなランダムなメモを、たくさんノートに殴り書きしていたことを思い出しました。ひるがえって現代、インターネットがくまなく普及し、かつて少年のノートの片隅に追いやられていた独り言が、公共空間で共有される。そのことの功罪について考えたくなります。
この作品では「くだらねえ」という呪詛と、「何かない」という呟きが交互に繰り返されます。母親に「どうして生んだの」「どうして生きているの」と訊ねるのも、未成熟な子供のメンタリティでありそのメッセージです。

「わたしはわたしの痛みのために泣いたのに、どうしてでしょう、この涙が石畳全体に染み渡り、ほんの少しでも温度が伝わればいいと思っていたのでした。」

自分のために泣いただけなのに、隣人にその体温が伝わる。ここで「少年」はその体験を欲している。けれど体温を伝えるためには直接、他者の体に触れなければならない。言葉は体に触れることはできない。言葉によって他者の体温を得ることはできないのだ。ということを、この作品は切々と語ろうとしている。

「とりのは」‐津島 ことこ 

◆ なにか漠然としているけれど、取り返しのつかないことをした感じ。 意図したものと、わずかに違う出来事が目の前に現れ茫然としているさま。 例えばこのような出来事を表したものを他で参照するなら、

>りりあんを光のなかで編むように書いてしまった知らない手紙  盛田志保子
のようなものだろうか。

>金よう日、ラジウムみたいに放射して裸子植物を食む子にもどる
「子にもどる」(無邪気さを取り戻す)行為を、直接いいあらわすことのできない心象として感じ。 戯れでしてみた行為なのだろうか、ピアノの、

>黒鍵を人差し指と薬指で押さえたら
なにかが 、

>いちめん緑
となってしまうような、軽い意図と、それに見合わない劇的な変化。

>点描の夢をみました。
という出来事は「物語」がはじまりそうな予感をはらみつつ、それでいて、

>それだけです。ただ輪郭をみつめただけです。
というように、なにかが生まれてくることを、あるいは環境の側から私の側に働きかけてくる変化にたいして、「何でもない」ということを表明する態度。 あくまで、私自身が主体となって物語が進行してゆくことを、できるかぎり避けたいと願うような、そのような立ち位置のようにも見えるのだけれど、それでいて「何でもない」ことを表明している私は、

>ウエハース製の座卓をかじってるわたしの中のマトリョーシカたち
敏感な思春期の子供ように心穏やかではないことが示されている。 自己実現として現れる、こころのなかの動きは、

>満たされぬものがなにかも知らないで満たすエーテルひかりになりたい
と、ふくざつなものとなり。しかしそれは、「私」の最大限の素直さの表明にもなるのだろう。 しかし、そのような素直さも、話者の心に秘められたものとして現れるだけだ。
それが、「出来事」として現れるのは、

>一辺と一辺になる西の空 折り合いをつけた鳥が飛びたち
というように、おそらく、自己との「折り合い」を鳥たちの風景に託されるようにしてあらわれてくる。このような、環境の側がひとりでに作用し、出来事としてなにかが結晶するさまを、観察者としての「私」がそっと覗きこんで、その「世界」と「私」の重ね合わせのひとつひとつが、短歌表現というスタイルをとっている。

「存在の下痢」 ‐ 田中宏輔 

◆ >猫を尊敬するの
>だって
>猫って
>あんなに小さくて命が短いのに
>気にもとめない様子で
>悠然と
>昼間からただ寝てばかりいる
>きっと悟っているに違いない

冒頭から「うん、きっと猫は悟っているに違いないな(笑)」などと話者と同じ視点に立ち、思わず頷いてしまいそうな軽やか書き出しがいい。しかし安直に猫と人を比較するのもおかしな話でもあり、また作品の中で「存在の哲学」について考察が深められているわけでもない。タイトルはおそらくサルトルの「嘔吐」が意識されたものだと思うが、概ね、駄洒落やユーモアに横滑りしていくのが主筋になっており、そこを楽しめるか否かが作品の「価値」にかかってくる。

「橋」 ‐  早奈朗 

◆「物語」、という枠で見たときに、どのような場所に辿りつこうとしているのかという疑問があります

一言で言うと、最後の
>「橋をかけてやるぞ」.
ということで実現される「橋の向こう側」の世界をどのように認識しているのかな、ということです。

「橋のこちら側」の世界で、

>ぼくはすべてになりゆくためにまずいっこの名前が定まらない。口を開けてあるくために、龍の名前がぼくにはひつようだ。

というように、欠損がまず提示され、目的が語られる。
その手段として、橋をかけ、向こう側へと向かうわけですが、おそらく向こう側の世界で「僕」は「りゅう」や「なまえ」などの大きな物語と葛藤してゆく予感が書かれています。

思うのは、「僕」や、
>ぼくは 詩になりたい
という「私」をめぐる願望や成長が、個人的な事柄や狭い範囲での環境の影響を設定することなく、そのまま、「向こう側の世界」での出来事と直結してしまうクエスト的な構造をとっている様式というのは、もはややりつくされた感じがある、ということです。

個々人の、「僕」「私」としての自己実現が、「世界」や「向こう側」と無条件に繋がってしまう構造という物語をつくるときには、それ相応の注意が必要ではないかな、と感じました 。

「愛しくて。」 ‐  岡崎那由他

◆反復とはつねに、一回性への断念としてあらわれざるをえないし、それがもたらすのは、質から量(塊)への移行とならざるをえない。けれども、反復することで(記述の、あるいは黙読の)時間が滞留し、そのことがもたらす本来のなめらかな記述を読むための視線との「ずれ」が、物語を展開する筆記の運動の停滞にいらだちを感じつつも、どこかで繰り返され、もはや「塊」となった言葉が露呈してしまう「なにか」を、かいまみてしまうための瞬間が、この馬鹿げた試みを読んだ人に現れることが、数少ない酬いのうちのひとつになるのだと思う。反復は、同じ言葉の、それが短ければ短い文章であるほど、本質的にシニフィエが壊死してしまう作用を担っているし、だからこそ、壊死してゆくプロセスに反するために、反復がシニフィアンを変貌させてゆかないかぎり、「なにか」を生み出すことはできない。だけどそれは、反復により生起するものの微細な運動をしめしているかぎりにおいて、反復によってつくられるフレームの外側へとのがれることもない。
5回繰り返される 。

>笑ったまま死んでいる死体
>君が愛しくて呼吸を忘れてしまったよ

などの言葉は、モーションとならざるを得ないけれど、その運動の弾力性はとぼしいものとしかいえず、何度も現れてくる反復された分によって、こごってゆくように感じられてしまう。

「花々」 ‐  yuko 


>好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子

引用の短歌は「みんな連れてゆく」というふうに描かれているが、それでもなお喪失が主調となっている空気を、この作品も共有しているのではないか。
けれど、それが、喪失として書かれてはいるけれど、その喪失からも隔てられているという意識が主調としてある。

>森を抜けると、
>あたりは一面の
>花、が、光のようで。

「私」は、「森」という世界から抜け出す。
そして、「花」のある世界へとやってくる。
それは、「森」⇔「花」=「自然」⇔「村(人間)」という図式があてはまるだろう世界観だと思われる。
>それがきみには見えなくて
とは、どのような事態か。

たとえば、想定する。「私」が、もとは「花(人間)」側における存在であり、それがなんらかの理由か目的で、「森(自然)」側における存在になるために、
>きみの森
へと入り込んだのだと。
しかし、「森」としての世界のなかにとどまることができなくて、「花」としての世界にもどってきたのだと。
そして、その私の存在が「きみに見えない」という事態は、「森」と「花」が対極にあるためではなく、私自身が、そのどちらにも属さない存在となってしまったからにほかならないと想定すること。

>彼は文化なき人間として、本能なき動物として、つまりまさしく存在しないものとして長い間さまよう(M・フーコー)

そしてそのような事態になるからこそ、

>誰もゆるさなくていい
>祈ることはない
>蝶の羽ばたきが
>止まることはない
>ぼくはきっとすべてではない
>漱がれていけ

このように多用される否定と、諭しが、「亡霊」のようにさまよう私に対して、親密さを持ったものとして、あるいは私へのどちらかの世界へと直接触れ合うためのアドバイス的なものとして響くのではなく、私を世界から隔てるものとして、私自身を限りなく世界性から、あるいは周囲から切り取るための疎外の言葉として響いてくるものとして読みとること。 喪失感をもった世界にいながら、その喪失からも「私」自身が切り離されてしまう世界観がみえてくる。

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「12月選評雑感・優良作品」文責/浅井 編集/織田

2011-01-20 (木) 22:56 by gfds

「12選評雑感」

【優良作品】

4892 : ぱぱぱ・ららら  進谷 

◆若さ、軽薄さ、危うさ、遊び、といったものが、確かな文章力の上に散乱していて、 鼻白むことなく、とても面白く読めました。
私たちの感情の、それほど深くない部分に、そっと手が差し込まれるような、心地よさと不安があります。深すぎず、浅すぎず、あくまでも足取りは軽やかに、それがこの作者の持ち味なのでしょう。詩にも引用されていたカート・ヴォネガットを彷彿とさせる巧さとユーモアを感じます。
「詩を書くこと」が「生きること」に直截的に繋がる若い世代の、はにかみと自負のような感情は、それなりに書き手を苦しめる重さを持っていると思いますし、この作品の出発点も、それほど明るい場所とは思えないのですが、それをモノローグに堕すことなく「文芸」として突き放してくるところが、作者の優れた資質だと思います。

4906 : したく  ゼッケン

◆この作品を元ネタに映画のシナリオを一本書けそうなくらいに濃密な場面描写がなされています。主題の扱い方もとてもアクチュアルで且つクール(危険)です。高校で理科の科目を教えている教師が科学と道徳の境界にあるタブーを侵犯するような実験を学校で行ってしまう。
シチュエーションからして良くも悪くもグッと惹きつけてくるモチーフです。ところがこの種の問題というのは、どこからが犯罪にあたり、そうでないのか?ここがわかりにくいという問題があり、そこに切り込むことで主題のエレメントが浮き彫りにされます。その手わざはさすがです。
高校の生物部の顧問である「おれ」がレズビアンの女生徒2人の卵子を試験管の中で反応させて子供をつくってしまう。

>先生、つかまるんでしょ?

>ぼくらも逮捕されますか?

>赤ん坊は週イチの世話じゃ済まないからね

>わかってる?
このしらけた空気感は読者に怖い印象を与えると同時に、時代を批評する言語としての機能を作品に与えています。

4912 : (頭を置き去りにして歩く、)  田中智章 

◆>頭を置き去りにして歩く
とまず、明言される。そのあとにつづく何気ない文章を読みながら、

>また、夜空から見つめられる

という文章を目にする。
「また」夜空からみつめられる、という認識は、過去にさかのぼって「私」になにかのプロセスがひとりでに始まっていることを示しているそれにつづく文章 、

>ふたたび足あとを追うようにして歩き出す
>でもまた降り出せば、足あとは消える
>そのときは、まるで足あとをつくるために歩く

「世界」と「私」とが相互に連動している認識。
シンプルにその空間の循環の認識だけが投げ出されているようにも見えるざくざくと歩く足音が、「世界」の側にかたむきつつある夜を、音を、からめとってゆき無化させてゆくように、どこまでも継続し、継起してゆく。
シンプルなほどなにも書かれていない。だけれど、循環する運動性が永遠につづいてゆくように見えるそしてその歩みの質を、

>雪の中に頭を置き去りにして
という言表のゆるぎなさが保証している。

4918 : 日常的な公園  リンネ 

◆リンネさんの作品を面白く感じる理由の一つは、この作品もそうですが、最初から最後までおかしな出来事の連続で構成されているのにも関わらず、それが、ただ、荒唐無稽な話として終わるのではなく、我々の存在する現実の本質を、ときにシンボリックに、ときにアイロニカルに、「説明」してくれているように感じるためではないか。「わかる」という感覚を、リンネ流ロジックにはめ込んで提示してくれる作品として読める。
「日常的な公園」
大人が公園で鬼ごっこをするのも変な話です。また女が股間に鏡を挟んでしゃがんでいるというのも現実世界では全く意味不明なことです。しかしそのナンセンスを通して意味を語りかけてくる。何かが腑に落ちてくる。そこに嵌ればあなたもリンネワールドの住人の一人だというわけです。

>Kは鬼ごっこをしているが
>妙なことに、
>およそ鬼と呼べるような人間がどこにも見当たらないのである。
>そういって悪ければ、
>Kはすっかり鬼の顔を忘れてしまったのであった。
鬼ごっこをしているつもりが、鬼が見当たらない、鬼の顔を忘れてしまった。
一見、幼稚な論理矛盾から始まるようなこの作品。我々も職場や学校などで体験する要素がぎゅっと詰まっているのではないでしょうか。

>どいつもこいつも鬼であるかのようであった。
鬼ごっこというのは誰もが鬼になりうるルールですが、この作品では、k本人は「鬼になり得ない」と思い込んでいる節がギミックになっています。
自分だけは鬼にはならない。そう思った瞬間すべての「ゲーム」は破綻してしまうのではないでしょうか。

4919 : あとは眠るだけ  右肩 

◆ラヴェルの眠りがあり、プルーストの眠りがある。
眠りを主題にした本も、きっと腐るほどある。
ラヴェルなら、旅先に25着のパジャマを持ってゆき、眠れない夜を数を数えることで過ごし、やがてそれも退屈となり、その退屈こそが眠りを誘ってくれるだろうことを期待し、だがそれはかなえられず、翌日には必ず不機嫌となるような眠りだろうし、プルーストの眠りなら、物語の書き出しが眠りについて書きだされているように、母親がそばにやってくるのを待つための時間をさししめしているのだろう。
この作品がこれらの眠りと違うのは、眠りというものが「やってくる」ものではなく、起きているうちから、夢を規定してゆこうという意志があることではないだろうか。

>(眠ること=)冒険、とは主体と世界そのものの運動なのだ

というように。
マンディアルグは、夜の夢=観劇の時間が面白いものとなるための必須の条件として、ごちそうを腹いっぱいに食べてからすぐ眠る親子の習慣を描いていたが、この作品の「私」も、夢のなかにはいるために

>それは今さっきスターバックスの女性店員から黄色のランプの下で受け取ったマグカップの中にあってもよい
というように、食べ物でなく、出来事を夢見のエンジンとして認識している。

だとしたらどうだろう、現実と夢の対比はどうなっているのか、が重要なのか、それとも、夢のディティールが、出来事を侵食してしまうように書かれていることが重要なのか、このような形態では、どこに焦点を当てることが重要となってくるのか。

>冒険には語りうる一切の内容がない。
といいつつ、どのように夢を提示してゆくのか、というのがあって、かなり詳細に記されている昼間の出来事に対して、夢はどのような対価を払うのか。

>眠りはまた浅緑の蔓である
といい、本格的な夢は書かれていないにしても、結論だけ言うとやはり、失敗しているようにみえる。おそらくそれは、

>僕は神のように明晰に眠り
と書かれる「明晰な眠り」というものが、覚醒→眠りへと移行してゆく私の意識が、みずから統御しようという意思をもっているのを前提としたうえで、やはり、リニアな時間軸として認識されているのではないか、と思うからだし、夢の時間が、現実の時間を包みこむような時間の伸縮性の予感がしないからでもある。

4932 : 一の蝶による五の夢景  リンネ 

◆不気味なもの。
ここに書かれている文章が、不気味なものとなっているのは、書かれているものが荒唐無稽な内容であるからではなく、荒唐無稽な内容をあくまで主観的に、ではなく、客観的にとらえようとし、それが語り口によって成功しているということだろう。

このような物語がリニアな物語としてコード化されていない、ということはよく見られることであって、それはそれで興味深い。視線はそれ相応の準備をして解読してゆくことができるのだけれど、それが客観的に語られ、かつうまくコード化されている、という事は、生身の語り手の、社会を眺める目線がうまく適応をおこしていないのではないか、という逆説的な感覚を読み手にもたらし、記述の平静さも、書き手への知覚の鈍磨によるもの、あるいは、生身の出来事に対する正常な適応行動を逸脱してしまった結果ではないだろうか、という突飛な予感をもたらすためではないか。

内容も、「悪い夢」、いずれは目覚めるであろうと心の片隅で意識しながらも、そう意識するがゆえに耐えられてしまう倒錯した現実を、なんらかの歪んだかたちで反映したものではないかとも思える。しかし、読み手は、そのような構造が埋め込まれているストーリーが持つ「受け身性」が、最後になるに従って供出していくのを確認し、いささか安堵するとともに、作者に対する技術の一定の高さに脱帽せざるを得なくなるのだろう。

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「11月選評雑感・次点佳作作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

2010-12-27 (月) 18:50 by gfds

「11月選評雑感・次点佳作作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

4800 : 熊のフリー・ハグ。  田中宏輔 ('10/11/01 05:18:29 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101101_008_4800p

◆この作品を強く「推している」発起人がいたので、次点佳作に入っているわけですが、はっきり言ってぼくもよくわかりません。内容も面白いと思わない。ただ、まあ、ゲイの人のセクシャリティに言及されているところは(自分には無い感覚や体験という意味において)興味を惹かれる部分でした。

◆ 詩が次々と展開していく面白さ、内容も面白いですが、
いかにも長いです。もう少し短くないと、読むのがきついです

4826 : アレルギー性恋愛過敏症  ゼッケン ('10/11/13 15:39:56)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101113_166_4826p

◆>ヴぁ、ヴぁ、ヴぁっくしょい! 好きです
 >つきあって、ヴぁっくしょい、ちーん! ください
とても、独創的な、オノマトペが、とても良いですね。
そのあとに続く詩文が、小気味のいいリズムで、続いていくので、
気持ち良さを体感できる詩でした。また、恋愛詩にある、べとべと感がなくて、えらく底抜けにさわやかなのが良いです。
ただ、一遍の詩にすると、簡単に読めてしまい、物足りません。

4828 : 旅への誘い  右肩 ('10/11/15 05:42:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101115_186_4828p

◆巧いけれども、読者に近づく姿勢はなくても良いと思う。

◆「あなたは死の世界にいる。」今日はあなたが死ぬのに良い日和であった。刺激を差異として陳列する「世界」で自己充足するのが人間だ。あなたはそう考えてきたとする。だから、あなた自身がいない「世界」はあり得ない、と。」
と言っている部分は、説明的であると思います。
哲学的な考えは、直接的な言葉では出さずに、別の詩の言葉で表現した方が、心に響くと思います。
また、
「あなたは死の世界にいる。」というのは、唐突としていて、違和感が突然に、生じてしまうのが、気になりました。
でも、最終連は、濃密な表現で、秀逸であると思いました。

4837 : 工場  熊尾英治 ('10/11/18 23:35:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101118_226_4837p

◆「あなた」と「君」は違うのか、同一なのか、よくわからないが、
そういう欠点が図らずも露出してくるということは、
この詩が、とくに語る強い言葉を、持ち合わしていないということにもなる。

けれども、抒情詩として、作者の気持ちがよく出ていると思う。

4838 : 羊飼い  J ('10/11/19 20:38:05 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101119_232_4838p

◆各連の後半の反復のフレーズのところは、遠近法の感覚を与えていない。
羊飼いは、どこのいるのか、また、牧歌的な詩の風景に、羊飼いの黒い目線は、時間空間を切り裂いて、異様である。抒情性の寸断みたいのことが露わになっていて、詩の安易な安定性を避けようとしている工夫が伺えます。その所に、この詩の非凡なところが現れていると思います。

4840 : サマー・ヴァケイション  bananamellow ('10/11/20 00:24:56)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_243_4840p

◆一連目は、比喩が面白く、暗喩が散りばめられて、よくできている。この後が、持続しないで、尻つぼみの感がある。二連目は、まったく余分で、書かなくても良いと思う。あとは、粗削りであるが、丁寧に書いている。
最後の連の 「焦点の深い写真をもらった」は意味がくみ取れないので、戸惑ってしまい、台無しである。

4854 : 風切羽  yuko ('10/11/24 02:18:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101124_342_4854p

◆器用ですね。

◆羽に、色を感じ取ることが出来る。例えば、雪に関連して、白色とかです。
聴覚的にも、羽の音が聞こえます。
とても、静かな世界を、イメージできます。それと厭世的な世界観が混在して、不思議なイメージの世界が見えてきます。

4856 : プラットホーム最前列  久石ソナ ('10/11/25 23:47:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101125_369_4856p

◆全く悪くない。
かといって飛びぬけてはいない。
けれども等身大の中の最高を、どうにかして探り当て作品に昇華している。

◆落ち着いた佇まいの抒情詩であるが、一連目の言葉の整理が必要であると思う。句点まで、息の長い文章をつくるので、間延びしないことに注意が必要であるかと思います。
日本語の生理として、長文に耐えられない、言葉の貧しさを持っています。
だから五七調が、今まで長く生き続けているのであり、詩の言葉も、読みに堪える、息継ぎのような部分が必要です。
息継ぎ=余白のような感覚です。そういうものがないと、読み手に取ってとても辛いものが出てくると言えるでしょう。

4858 : 星霜  破片 ('10/11/27 08:30:21 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101127_383_4858p

◆「星」に焦点をあてて、話が進行するが、「星」というメルヘンチックな語なので、
詩の含意が深まっていかないようであり、表層的な詩に読めてしまう。
きれいに書こうという試みも感じますが、キラキラ感はないです。

◆「こんな風に小説的(散文的)な修辞をある程度組み込んでいる(ように思えました)方が、一般的に評価は上がるのかもしれないですね、もしかしたら。」(田中さん)

「評価が上がるかどうかよりも、どうしたら綺麗に美しく書けるかという模索、また今回はいつもの改行詩では書いてて物足りないかなという気があったのでこういう文体にしました。」(破片さん)

<投稿掲示板でのレスポンスより>

しかし詩と小説の境界を破るような散文体の文章が詩として評価され始めたのはどこを契機とするのでしょうか?おそらく詩が物語を求めたのと同時期に、小説が物語を失ったことが大きいのでしょう。

この「星霜」という作品のテーマとなっているのは。

「生きてるってこと」

>青く開けていくビル群に横たわるアリアが名前を欲しがる。
>耳打ちは誰にも聞かれてはいけないよ、
>人々はいつだって起きるのではなく、起こされるのだから。

ところで作品はそこで「生きる」ことを考えながらその主体性の否定から入っています。

「起きるのではなく、起こされるのだから。」

>雨が降ってくると星たちがいないから、
>人間っていうのはね、動きたくなくなる

そして人間主体の還元先を、環境や自然の中に求めている。いわゆる自然主義的な立場に立ちながら、同時にロマンのあり方も模索されていく作品となっています。

4860 : Une serie de l'homme 3〜En Iriyamada  はなび ('10/11/29 05:24:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101129_412_4860p

◆入山蛇さんの発言に興味を感じます。0の起源とか、
でも、このシリーズは、あまり成功しているとは思われないので、
普通に詩を書いても、良いと思いました。

4865 : あなたへ  yuko ('10/11/30 12:24:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101130_437_4865p

◆詩学の投稿欄の頃から変わらずフォロワー文学を突き通していますね。
巧さがあるのだけれども、なんというか。
書きたい衝動よりも表現の表面にばかり気を取られてしまっているところが気になります。
吹っ切れていないというか。タイトル変更は非常に良い方向へと働いたのかもしれません。空洞化を推し進め、表象を差し出しています。

◆詩人の遺言書、詩人の引退宣言みたいですが、広くメタファーとしてとらえると、これは、作者の現在の詩を書く状況のようなものが描かれている。そう考えると、作者が語り手の言葉で、今、詩を書くことに行き詰っている事を述べている、そういう作品として解釈できるのでしょうか。そして「この小さな部屋でまた新しい命が生まれようとしている」のですから、新しい詩の進むべき方向が見えているといったところだろうか。
そういう風に、全文読むことが可能ですが、とても、難解であることには変わらない。

4866 : サンクティティ  しりかげる ('10/11/30 17:42:43)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20101130_440_4866p

◆いろいろな方の影響を良い方向に受け取って自分なりに咀嚼していけている気がします。
しりかげるさんは、冊子になにかしらの形で載っていても特に違和感がない作品を書かれますね。

◆「神聖とは、騙されることでしたから」という言葉が、この詩を表している。
このような時代的な懐疑なものと、時代に対する厭世観に似た無気力感は今の時代性を表しているが、こういう詩が、極めて多く書かれるが、このように時代に寄り添うような思考に、詩の可能性はあるのだろうか。考えさせられる問題です。

▼以下落選作品から

4843 : あそこらへん  藤崎原子 ('10/11/20 18:45:05 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_261_4843p

◆拡大解釈を許す狭さが、象徴的。

◆これは、メタ詩のような様相を呈しています。いわゆる詩のための詩というところです。
もっといえば、詩的言語が、傷口を開いて露出している場についての詩でしょうか。
でも、この手法は、多くの詩人が必ず手がけている手法ですので、特別なものではありません。しかし、歴史に名を残す詩人も多く書いています。
多くのメタ詩は、その詩人の自らの詩の理論の実践として、書かれる場合でありますが、この詩には、それは強く表れてなく、憧れのような、詩の出会う現場を詩の存在場所を、詩の中で書いているのでしょう。
「あそこらへん」は、通常言語とは違う、詩的言語の存在、そのものの場所なのでしょう。

>たくさんのあそこらへんたちを
>僕たちはどんな言葉でくくれるのだろう
>前に何回か行ったことがある
>でも知ったかぶりだったりする

何度も書いてみたが、詩的言語の傷口の露出現場をうまく作者のものにできなかったことへの反省でもあり、どんな言葉で表せばよいか、作者の苦悩みたいなことでしょうか。

>うなづきながらひたひたと
>話を変えようとにらんでいる
>整えるために用いられるそれぞれの代名詞の感覚は
>それぞれに同じで無い

これは、詩のほうから、差異と反復を孕んだ詩的言語が、藤崎さん(作者)が書いた言葉とは違うコノテーション、いわゆる、言外の意味、意味のズレを含んで語りかけてくることでしょうか。
この四行があるから、この詩は、大変、奥行きを持って読めますし、詩的言語が、作者に語りかけているという、詩的言語の謎めいたあり方が述べられていて、この詩の核心部分ですね。

>だから僕は多用する
>きびしく限定したくない

前に作者の憧れと書いたが、この二行で、作者の詩論のようなものが、垣間見られます、しかし、僕には、それが何か、よくわからないが、修辞技法の、いわゆる、隠喩や直喩の多用を言っているのだろうか。その宣言なのだろうか。

>どうしてか落ち着かないここもいつかはあそこらへんになる
>もっともらしく、色づく
詩人として、詩的言語を希求しており、それを獲得する作者の自信が伺えます。

4841 : 僕らは境界線の上で眠る  如月 ('10/11/20 11:20:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_252_4841p

◆ヒダリテさんからの影響を受けすぎなのは別に良いのですが、その上で自分なりの視点が「生活の雪崩」にしかないことが気になります。
綺麗な作品を書いていますが、作品の拙さが目立ちます。
次点に残しても良いとは思います。

◆「境界線」という難しそうな題名であったが、詩の内容は、牧歌的な家族(夫婦)の情景詩である。力まずに読めた。
ただ、「夜」が境界線というのは、あまりに普通すぎるので、何か工夫が欲しかったと思います。

4818 : 『防空壕』  はゆ ('10/11/10 12:22:42)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101110_130_4818p

◆戦争詩。復員兵の悲惨さと、その語り手の思いを書いている。この場合、「僕ら」で語られているが、読み手の共感の事前承認が「僕ら」の中に含まれている、だから、この場合、その戦争を知らない世代なら、猶更、「僕」で書くべきだろう、戦争世代の人に、「君らに、僕らの気持ちがわかるのか、何がわかる」といわれるだろう。
だから、「僕」で書くのです。
また、この通時的にしか、語れないことを、共時的に語るのだから、猶更であると思う。
そして、こういう深刻な問題を、詩人の自分の言葉で書かなければ、説得力のある言葉は生まれず、つまらない散文と同じではないだろうか。
(唯、勿論、逆に詩の現場の状況にもより、「僕ら」と使うことが良い場合も勿論あると思うのですが)

9.4857 : 小さな冬、の  はるらん ('10/11/27 05:42:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101127_381_4857p

◆yukoさんへの評は、自分へのメッセージなのでは、とも思えます。
書きたいことはある、というのは分かります。
綺麗に書かなくてもよいのですが、綺麗に書いても良いとも思います。
ただ、中がたるんでいるので、毎回、削ぐことを意識して欲しいと思っています。

◆恋愛のエクリチュール。
このようなトレンディー・ドラマの場面を、上手に書かれているが、これを現代詩と呼ぶかどうかは、別として、このような詩は、詩に親しまない人(そういう読者層)でも、共感を持って読めると思うと、詩と散文の境界線が、この詩の芸術的であるかを別にして、あるのではないかと提示したくなる。

4833 : Night Wind  丸山雅史 ('10/11/16 18:51:28)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101116_200_4833p

◆来世という夢の世界のオルフェウス物語、「来世に招待された指揮者はアイドリング・ストップし、」これが、オルフェウスがエウリュディケに振り返る場面にあたるのだろうか。
シュルレアリズム風な表現を使っているのは面白い。

ただ、漢字が多い気もする。

4806 : わたしの  帆かけ ('10/11/04 09:51:40 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101104_046_4806p

◆「そうして君は ひとになる」
「私」が「君」になるわけですね。
ここで、語り手の場所が、大反転すると、詩に劇的な効果を
出しています。遠近法的思考を、ぶち破った、まさに、詩の誕生というところでしょうか。
短い詩ですが、味わいがあります。

4835 : コスモスと鰯雲  はるらん ('10/11/17 04:42:23 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101117_212_4835p

◆毎回、悪くはないのですが。
生活の中で、爽快なファンタジーに展開させていきたい気持ちは分かるのですが。分かりすぎるというか。
悪くないのですが・・。

◆青春のメランコリーという物語です。
こういう閉ざされたテクストを読むと、一義的に読めるので、読んでいると、さわやかな気持ちになるのは、多様すぎる現代詩ばかり読んでいるからだろうか。

4845 : THE 0ー  榊 一威 ('10/11/22 00:13:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101122_291_4845p

◆はっきりと書かなくても良いのだけれども、作者の存在は大切。
内実は良い。

◆一種の独白ですか。終始、厭世的に思うところを述べていく。
時々、問いかけるような語りが、この作品に反復性のある詩的な余白を生みだしている。

4823 : 足跡を踏む  谷垣 ('10/11/12 13:20:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101112_152_4823p

◆新緑の大地に沈む夕日に照らされてなど、ベタにいかなくても良いのでは。書いてある内容は非常に分かりやすい。

◆典型的な抒情詩です。
とても、切ない思いが出ていると思いました。

>新緑の大地に沈む夕日に照らされて

なんかの歌謡曲のフレーズにあったようで、あんちょこな表現なので、もう少し工夫が必要でしょうか。

>木漏れ日のような眩しさ

直喩を使った比喩なのでしょうか。でも、この詩の内容からすると、全然比喩になってなくて、そのままです。

>忘却の彼方に

詩全体の流れからすると、このフレーズだけ、大げさな言い回しで、言葉が、浮き上がってしまってます。

>抜け落ちていた私の大切な一部だから、と
>何度も繰り返し色を塗り重ねて
>もう一度、胸にしまいこんだ

ここは、抒情詩の特徴が出ていると思いました。

もう少し、全体を見ながら、工夫して書かれたほうが良いと思います。

4819 : ナス トマ キュっ!!  ヨルノテガム ('10/11/11 23:28:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101111_144_4819p

◆もう少し振り切れると良いような気もしました。悪くはない。

◆言葉の遊びとして、とてもユニークで面白いと思うが、散文詩体の4連はあまりにも、長い、さらに、ナス、トマト、キュウリ、肉の多用によって、クドクなっていて読み手としては、かなりキツイと思います。
もう少し、短くして、言いたいことを、全部いうのではなくて、
読み手に、読む余白のようなものを与えると良いと思います。

4814 : 映画  丸山雅史 ('10/11/08 01:16:57 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101108_099_4814p

◆文章の密度を濃くしたらよいという問題ではない。

◆色々な言葉を装飾して使っているが、語彙の反乱があるということ以外、魅力的なものが、詩から感じられない。

4802 : Crying lost child  黒髪 ('10/11/02 17:31:18)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101102_020_4802p

◆童話の世界のようで、良くできている。「今凱旋の朝」に集約される、刻々と移りゆく、詩の臨場感があります。
「幸福になること」から比べると、全然出来が良い。

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