文学極道 blog

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ミドリ

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9月選考雑感 選評 パート1

2010-10-23 (土) 10:42 by gfds

「9月選考雑感 選評 パート1」 文責 泉ムジ

※9月投稿作の選評雑感担当は泉ムジさんです。9月は総体的にレベルが低いと感じましたが、5作品を優良作としました。詩や文学の世界に絶対評価など存在しません。それでも稀に誰もが欲するような作品に出会うことがあります。言語芸術の世界にも、どこかに見えないピークがあるようです。作品を篩いにかけるということは、つまりそれを探す行為なのだと最近感じています。選評はパート2へと続きます。
(by織田和彦)

#
4688 : Pooh on the Hill。  田中宏輔 ('10/09/06 00:12:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100906_201_4688p

引用とは、原文の”核”を抜き、新しいコンテクストで引用を再生させる、いわば”臓器移植”のようなものではないだろうか。
このような作品のおもしろさの一つは、全文に引用元(臓器提供者)を明記することによって、 核を再形成し、バラバラだった引用文の重要性が等価であると思わせるところである。原文にとっての重要性、また、引用文にとっての重要性が等価値のものとしてつり合うのである。

本作品では、「クマのプーさん」や泉鏡花の引用が前文の引用に対して、
 >「こりゃまた、なんのこっちゃい。」と、イーヨーがいいました。
 >何を言ってるんだか分からないわねえ。
のように、対応することによって、ユーモラスな軽さを出している。しかしそのことは、読みやすさの反面、コンテクストの欠損が流し読みされる原因となるだろうなと思う。
意図された引用詩は、意外な文章のつなげ方を容易にしている、という利点もある。
 >饂飩(うどん)の祟(たた)りである。
 >ラザロはすでに四日も墓の中に置かれていた。
などは、あるいは、「花」によって結ばれるのかもしれないが、急な話題の転換であり、その飛躍が、読み手の興味を誘う。
他に、本作品で興味を引くのは、
 >これらはことばである。
 >「きみ、気にいった?」
という、本文自体に言及するメタ視点とも読める箇所だろうか。後者が最後に置かれることにより、本作品がひとつのエンターテインメント(プーさんのハニーハント)だった、と明かされているようで、少し爽快だ。 

他の発起人の意見では、
前回の作品より、やりたいことが分かりやすい。や
文学極道の理念の対極にある。まっとうな作文をなす気が無い、言語遊戯であり、
本作品を優良作品とするなら、文学極道の看板を下ろすべき。や 
引用による詩について、独創的で、入沢康夫の「わが出雲、わが鎮魂」に見た、新しい詩を書く、などとという詩人の思い上がりに対する謙虚さを本作品からも感じて評価した。や、田中さんの詩の中にある、ある種の明るさ、ユーモアは、何かとても磨かれたものであるような気がする。読んでいて心地良い。などがありました。
割愛するが、発起人の間で、評価に対する議論がなされました。
以上です。

#
4700 : ふゆのてがみ  リフレイン狂 ('10/09/13 05:31:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100913_291_4700p

本作品の特徴の一つに、まさに首「だけ」がある、という点があげられる。それは、胴体だけでなく、「きちんと」頭まで失われている。匿名の、千の首の中から、ほくろを頼りに、母の首を見つけ、また自らも、千の首の中で、同じ、くさいにおいを放ちながら「お話」できる「トモダチ」に、見つけられることを祈る。

その「トモダチ」は、「ヒト」ではなく、(「ヒト」に対しては、積極的に干渉せず、見ることに終始している。)「オヤコヅレ」の会話に登場した、かたちもわからない「あなた」、である、と私は読みました。

首だけにする、ということが、いったいどのような意味を持つのか。

例えば、「首にする」とかいった慣用句を手がかりにしてみるか、「先祖代々の首」という本作品に寄せられたコメントを手がかりにしてみるとか、どうも、遠回りしていくように思える。

とは言え、千の首。父親が変わった嗜好の犯罪者だと考えても、無理がある。本作品は、秋、冬を「どんぐり」、「ジャノメエリカ」であらわし、夏が腐敗臭、秋が軒を鳴らす音、冬が花のきれいさ、と、感覚を使い分けていたりして、単調さを回避しようとしている。しかし、起承転結がすっぽり四季にあてはめられ、そう考えると、においに重点を置きたかったのだろうが、後半は力尽きたのかな、と思わないでもない。他に少し気になった点は、カップラーメンをつくるために、どうやってお湯を沸かしているのかな(笑)、など。

他の発起人の意見では、
着想がおもしろい。異様な気持の悪さというものもあるが、ある種の詩的センスがあり、こういうものを詩にしてしまうのはある種の詩的力量が必要なのでしょう。
や、最終行が不要に思える。ただ、あまり巧くはない綴りと流れが素材の異化を増幅させて均しながら馴染ませているように思える。細部が雑なのが気になります。
もっと十分に着想を温めてから書き出して欲しい。潜在能力はまだまだあると感じます。や、この詩は、読みすすめていくうちに、これはいわゆる、社会批判というより、社会から、はみ出した異邦人、今は死語となった、部落民、あるいは、ホームレス、社会の一般生活者から、完全に差別された(精神的に、物質的に)人の、矛盾や、悲哀、かなしみを描いているように思えてくる。世界的にみれば、アラブとユダヤの問題などにも通じる。
また、現在の閉塞した社会にいる、底辺にいる人たちを描いていると思える。などがありました。

個人的に、今後の作品が楽しみです。
以上です。

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文学極道代表就任記念コラム

2010-09-28 (火) 22:21 by gfds

「文学極道代表就任記念コラム」

ポエジーの周辺  ミドリ

詩を理解できると人の心もより深く理解できる。なぜなら愛と詩は双子の兄弟のようなものだからだ。言葉(詩)を持つということは考え方や感じ方を手に入れることだ。それは同時に世界を変えるということだ。ぼくらは本能的により良い世界を手入れたいと願う。それが詩を書いたり読んだりすることの道理だ。

インターネットの普及によって詩が読まれ書かれる環境がより広がった。ぼくもその一人だ。この道具が無ければぼくの人生に詩が入り込む余地はなかっただろう。ストリートでも詩は書かれる。それも随分見てきた。自分で書いたりもした。世の中は詩で溢れかえっている。

車のタイヤがアスファルトに擦れる音、クラクション。マナーの悪い歩行者を怒鳴りつける自転車のおじさん。ものの見方一つで不愉快にもユーモラスにも見える世界。詩を理解することでぼくらはそれらを豊かに表現する術を身に付けることができる。それは言葉と人間と、人間と人間の生きる世界を洞察する術だ。

だから詩書きになろうと思ったら、たくさん色んな経験をしなくちゃならない。たくさん辛い思いをしなければならない。たくさん楽しい思いをしなければならない。それを一番良い方法で伝える努力をしなければならない。「文学極道」はそういう詩書き達のための場所だ。

ところでどういう風の吹き回しで発案者にして代表発起人であるダーザイン氏が、よりによってこのぼくに「代表」のバトンを渡したのか?もっと他にこの「ラブレター」を渡すべきふさわしい人間が居たのではないか?疑わしげな声も聴こえてきそうだ。

ぼくが言えるのは次の2点。組織に新陳代謝があるというのは健全である証拠だ。そしてそれを言い出したのだダーザイン氏本人だということ。次にこのサイトがやらなければならないことは、この詩書き達の“ヤドリギ”をもっと魅力的な場所へと変えていくことだろう。それを中心的な役割で引き受けていくことが発起人に課せられた役割だ。

ぼくはらはまた明日ここでひょっこりと現れた才能に出会うことを期待して、眠りに就くことにしよう。
                       2010年9月28日
                           PM 10:15

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8月分選考雑感

2010-09-26 (日) 11:54 by gfds

「8月分選考雑感」 文責 浅井康浩

4585 : 「LA LA MEANS I LOVE YOU。」  田中宏輔 

まず「●」が視覚的な注意を引く作品になっています。もしかしたら色盲のテストのように、よくみると数字でも浮かび上がるのではないか?そう思って見ていても、一向に数字も文字も浮かび上がらないので、おそらく私が”色盲”で無い限り、この作品にはそういった仕掛けはないようです。詩の内容からすると「血の斑点」として見た方がしっくりくるような気がします。またその方が作品として立体的な構造を見出すこともできるでしょう。詩の世界では時折こういった視覚的な遊びが為されることがありますが、この作者も、そういった戯れは、けっして嫌いではないようです。

>いったい●自我はどこにあるのだろうか
>ページをめくる指の先に自我があると考える
>違うな●右の手の人差し指の先にあるに違いない
>右の手の人差し指の先が記憶をたぐる
この作品では自我をめぐる「考察」が行われています。「自我」などというと、思春期の宿題として、15歳までに済ませておくべきだ。ともすると我々はそのように考えがちですが、自我はやはり一生つきあっていくもので、ここでは自我は指先の向こう側。つまり他者の中にも自我は存在する、という括りの中で文脈が綴られていきます。そして、

>子供たちの足がぐちゃぐちゃと踏みつぶした
>子供たちの真っ赤な金魚たちの肉片を
>病室の窓の外から
>ぼくの目が見つめている
自我というのもは自己と他者の中に併記されているものだ。という主題を展開するこの詩において、他者性が希薄な子供には、自我はまだ外在化された「金魚」としてシンボル化されています。また上記引用部には、大学生の「ぼく」が友人に振るった暴力で返り血を浴び、怪我をした友人ではなく、あべこべに暴力を放って血を浴びた「ぼく」が方が入院し、子供の自我と青年の自我を対比する場面となって描写されています。荒削りな作品ですが、透徹した思考の働きがよく見える、良作に仕上がっています。

4619 : 「道のはた拾遺 7.」  鈴屋 

この作品は、内容そのものとして読まれることを拒む作品として存在することになるのだろう 。
連作における間の空間そのものが読まれることによって、あるいは、意味そのものが問題になるのではなく、言葉と言葉の置かれている諸関係そのものの問題として。
題名「道のはた拾遺7」
作品そのものに意味を導きいれることを飄々と、しかし毅然と拒むことを標榜しているこの題名にたいして、どのように接近していけるのか、という試みとなるだろう。
みちの「はた」「拾遺」7
みち、という(意味の)中心あるいはメインストリームに対する「はた=端」という位置づけ、それにくわえて、それが「拾遺」にすぎないということ。
この「みち」にたいする二重の否定は、ドゥルーズ的思考へとわれわれをみちびくのでなく、ひとりの詩人へとひとりでに漸進してゆくことになる。

>(覆された宝石)のやうな朝、何人か戸口にて誰かとささやく、それは神の生誕の日。
西脇順三郎。しかし、上記のAmbarvaliaのころのような作風でなく、(なぜなら、道のはた拾遺7では、神は
>言葉の要請にすぎぬ
のだから。 )

>この実こそ詩であらう
>王城にひばり鳴く物語も詩でない
「旅人かへらず」の時期の。この題名も、意味の中心への二重の否定をもっている。
中心でなく周縁へと向かう「旅人」という文字。それでいて「かへらず」という言葉。
この作品も、というかこの作品こそ、作品の意味内容そのものでなく、言葉の布置そのものが問題群として山積する作品であり、だからこそ、道のはた拾遺という作品群もそこに接近することによって、なんらかの理解ができるようになる、そう思える。

どちらの連作においても、意味を作品に導かない身振りそのものは、植物への目配せとして、あるいは素肌に感じる季節のうつろいとして、あるいは、道端で交わされる会話として、何気なさを装いながら記されるだろう。読むことが、そのまま散歩者の系譜ともいうべき一連へとつらなり、作者の端正な後ろ姿のあとを追いながら、あるくことと同義になる作法について、作者ほど知悉されている人はなかなかいないのではないか。

ほかにも
「小さな名作。じんわりと良い」
『小品ですが、落としたくないので、優良に推薦します。「姿は蚊柱、顔は砂、神とはそんなものだ」そうとう面白いです。「言葉の要請にすぎぬ」は蛇足と感じます』との意見がありました。

4634 : 「メシアふたたび。」  田中宏輔 

楽しく読ませて頂きました。選考でも一番評を集めた作品です。物語的には文脈の構成や伏線の回収といったセオリーが十分に踏まえられていない箇所があるものの、遊び心一杯のパロディとして楽しめる作品といえるでしょう。
この作品における語り手は「マグダラのマリア」ということになっていますが、彼女のイエスへの嫉妬や不信、「天の裂け目」、天国の門の前でうろうろする「クラマテング」etcといった事柄がキーになるモチーフとして描かれています。
作品世界に流れる田中氏のシニカルな筆は、イエスを地獄へ突き落とし、クラマテングを天国の前を徘徊する臆病な老人として描き、ブッタを(”アクタガワ”を引用しつつ)まるで罪人をキャッチ&リリースする釣り人のごとく描写します。
それを「マグダラのマリア」の口を借りて語るのですから、我々のような信心深い人間には、頭の隅にも浮かばないアイディアが満載の作品となっているわけです。

ところで、田中作品がより多くの読者に読まれるために「提言」してみたいことがあります。一つはこの作品で扱われる「天国と地獄」には、殆どその「場所」に性格付けが行われていません。天国、或いは地獄という単語から想起される読者の一般的な想像に寄りかかり、もしくは、記号としての「天国と地獄」が機械的に配置されているだけで、それらのモチーフをもう一度掘り下げる描写がなされていません。その為、主要な題材である筈のこれらの「場所」が、ある作用を起こし、展開し、といった詩的連鎖を生む機能として役割を果たしていません。その為作品そのものをも平板にしています。
最後に一人残った「マグダラのマリア」の天国とは、それはいったいどのような場所であるのか?こういう問いかけがこの作品の奥行きを作り出し、パロディに底を与え、背骨と骨格を形成するのではないでしょうか。でなければこの作品は、話者である「マグダラのマリア」の嫉妬から生まれた単なる皮肉として語られ、その卑しい印象しか読者に残さないものになりかねません。読者は話者の背景に作者を無意識下に感じ取っています。ここに田中作品の限界と可能性が見えてきます。

4639 : 「●●●●の回帰」  リンネ 

記憶の喪失に関して、主題になりそうな症状を挙げるとするならば、認知症、高次脳機能障害、高機能自閉、PTSDくらいだろうか。
そのなかでも、この作品で書かれているだろう高次脳機能障害におけるものは、扱われる頻度は高いけれど、主題の掘り下げ方という点において、新鮮な切り口を提示するということは、なかなか難しい。

>どうやら、はっきりとしてきた。

という、うしなわれた記憶をもういちど取り戻す過程に関して、言葉で書こうとすることの努力をすこしでもするならば、取り戻されてゆく記憶を言葉として定着させることで過去の記憶を確定してゆく自己が、どのように書かれているか、というのがポイントとなる。
それは、記憶を取り戻してゆくときに
>さっきまで感じていた朦朧感が、蒸発するようにじわりと消えていく。
というように書かれるのではなく、(それはプロセスそのものを書いていない)
現在と過去との連続性の切断において成り立っている「私」にとって、忘れたれた過去とはどのような存在なのか。また、現在という時間を生きながら、直接的に意識にはのぼらなくても深層において忘れられた過去の無時間性によって自己の行為が規定されている出来事がどのように語られ、どのような言葉にできないような手触りで、「過去の私」から「現在の私」へと失われた記憶を超えて到来するのか、という点について書かれなければならないと思う。

>記憶は連想によって甦ってくる

ことを体験する限りにおいて、「私」は現在における時間と、過去における自己を形成してきた、あるいは記憶をうしなわせるほどのインパクトのある体験をした過去の瞬間の、ふたつの時間帯を同時に生きることになるのだが、その点がどのように書かれているか、そして、語りえないことに関しての体験をどのように明記してゆくのか、という点に注意を払いつつ、語りえる、もしくは思い出しうる出来事よりも、忘れられたままの出来事の方に関して、書けないでいることのみずからの身体の震えをどのように伝えてゆくかの努力を見ていたいと、そう感じている。

ほかにも、
「ファニーな、ちょっと考えにくい出来事(世界)を、日常の中の思わぬ視点から引っ張り出してくる発想が生かされています。自分の名と家を忘れてしまうことで、「不安」から逃れられるというのはあながち逆転の発想というよりも、本質をついているのかもしれないという。考えさせられる作品でした。」
「パラレル的思考の「1Q84」以来、倍増中の今年を代表する主題の作品。
 どうやら、はっきりとしてきた
からの輪郭は、もう少しボヤカシテモよい。最後の切れはもう少し、やり方があった気もする。
途中ものすごく面白い。」

との意見がありました。

4646 : 「こいびと」  はなび ('10/08/21 22:19:44)

「かわいらしい」という言葉を立脚させずよむためのレッスンとして聴いてほしい一曲。

http://www.youtube.com/watch?v=PXOVG30J4zU

作品の語り手が女だということと、歌い手が男という差や、イメージの違いを飛び越えて、共通点を探すとすれば、どこまでも続くんじゃないかな、と思わせてしまうようなリフレインの繰り返し。
Hey, I solemnly swear, Lord, I raise my right hand
That I'm goin' get me a woman, you get you another man
I solemnly swear, Lord, I raise my right hand
That I'm goin' get me a woman, you get you another man
I got a letter this morning, how do you reckon it read?
"Oh, hurry, hurry, gal, you love is dead"
I got a letter this morning, how do you reckon it read?
"Oh, hurry, hurry, gal, you love is dead"

どちらも恋愛に関するものですが、SON HOUSEの初期ブルースにおけるグダグダのメロディラインとこの作品のささやかなリピートのどこが似ているかという点ですが、煮詰められ感、というか、繰り返してゆくうちに、かもしだされていくもの、ですか。
SON HOUSEの歌い方が、楽しいのか悲しいのか、沈んだ感じなのか高揚している感じなのか、それともその相反する感情が混ざり合わさったものなのかわからないように、はなびさんのこの作品も、恋愛の最中の楽しい感じなのか、それとも別れた後の、でもまだ相手のことが好きで忘れられない気持ちを書いたものなのかわからない。ただわかるのは両者とも、繰り返されるリフレインの集積から、たしかな手ごたえを感じられるということ。
SON HOUSEの話は置いておくとして、はなびさんの作品の場合、好き、と繰り返されている言葉のひとつひとつの細部(てくびのそとがわのほねがでてるところ、かいだんをのぼるときのあしおと、など)のイメージからとらえようとするのではなく、繰り返されるリフレインから生成してくるメロディの運動としてとらえようとするとき、その言葉がなぞるものは、好きなひとのおぼろげな輪郭ではなく、身体から洩れでてくる疼き(それが喜びによるものか、かなしみによるものかはさておき)や震えとして、はなびさんの感情としてではなく、読み手みずからの記憶とリンクして立ちあがってくる可能性をもっていることが、この作品のひとつの「かわいい」と矮小されないための価値だと思う。
ほかにも、
「かわいらしい小品。もっと色々仕掛けをつくって、楽しませることもできる作品だと思います。ただそこに遊びが入ると、逆に「難解」な方向にいくのがはなびさんの難点。」
「素敵です。時間が朽ちさせていくから今ここにいる、こいびとはきれい。
おおきなこえをだすから、きっと二人は長くは続かないような位置をにおわせ、そんなことはないと信じる部位もにおい、はかなさが麗涼を押し上げています。」
「私も、恋人の「ごはんのたべかた」はとても気になる、というのは余談です。わざと幼くふるまう女性のあざとさを感じ、それにしてもちょっと言葉選びが手ぬるいと感じました。」
という選評の言葉がありました。

4594 : 「動物園にて」  yuko 

>動物園に行こうときみが言って
>その足でぼくたちはここへ来た

そこで私たちはなにを見るのか

>揺れるしっぽの先は、たぶん懐かしい匂いがする。
>きみは、まるで今ここで生まれたみたいに見えるよ。

動物のしっぽの先に、人間としての私のなつかしい匂いがつながり、そして、動物にかこまれた世界に溶け込むように違和感なく生まれたようにみえるきみ。
それは、柵のこちらとあちら、わけへだてるもの(それはたとえば時間とか空間とかをふくめたすべてだろう)をなくして綿々とひとつながりとなった生命誌そのものだろう。

わたしたちは動物を見ることによって
>どうして彼らは飛び降りるのを躊躇するんだろうと、ぼくは思ったけれど、考えてみればぼくたちも、そんなに変わりはなかった。
というふうに、私たち≒動物たちという風に同一化してしまうことができる。
同一化、という言葉の意味するものが広く薄っぺらいのなら、信頼、と置き換えてもいい
「きみ」が見ているのは動物の「顔」であることは疑いがない
「きみ」は動物の「顔」から派生してくるイメージを信頼している
しかし、その信頼は、おそらく、表層的な「顔」への信頼としてしか現われてこない
>あの皇帝ペンギン卵を抱えてるよ、と歓声を上げた
>きみはただキリンの首筋を眺めている。
そして、その動物の「顔」への信頼の深さの違いによって、「私」と「君」の断絶がもっともよく現われてくる
たとえば、「きみ」は、遠い場所において、アザラシが、年間どれだけの魚を食べ、害獣として人間たちに殺傷されているのか、を知るひつようはない。
どのような方法でアザラシが獲物を追い詰めるのかも。
それは、「動物園」における動物の顔から派生する「信頼」を裏切るものだからだ。

そのような「裏切り」によって、かわいらしく見えるけれど本当は違う、とか、あいらしくおもえた行動が、そのような愛情からうまれてきたものではない、とかいうふうに、気づいてゆく。
そのようにしてひとつひとつ剥がされていった、「動物の表層的な顔」に対するわたしたちの「信頼」であるけれど、そのような裏切りを、動物からでもなにからでもいい、積み重ねて経験してなお、「信頼」できるものが、おそらく「動物」にはあって、私はおそらくそれを感受している。

>人間の首骨の数と、キリンの首骨の数は一緒だって、

そのように認識するわたしの動物への「信頼」は、かわいさやあいくるしさなどを投影する「信頼」ではおそらくないだろう。
生命が誕生し、キリンと人間が発生し進化してきたプロセスの中で、偶然として現れる首骨の数の一致。その、生命誌としての果てしない時間軸を経てあらわれてきた「出来事」への信頼。

そして、この認識は、時間軸の認知だけでなく、空間の認知についても、私に信頼を与える。

「夜の果てるところに向かって旅立って行った友達」がかたる

>少しずつ骨がずれていく感じがするんだって
>周りのひとたちがみんな同じ顔に見えて
>交差点で信号が明滅すると死にたくなるんだって

という世界は、出来事よりも、徴候そのものがおこりそうな予感としての世界であり、眼前に起こっているできごとは、それそのものを意味するものでなく、これからおこるであろうさらにおおきな出来事の徴候としてしか意味を持たない世界を意味している。
そこでは、存在そのものの価値は、やがて訪れる出来事をさししめすだけのものでしかない。
そして私が、そのような認識を思い返しつつ、徴候として現れる世界に侵されることなく、距離をとることができるのは、
現実にこうして目の前に現れている生命誌への、現前にはっきりと存在している「キリン」の首骨と自己への、信頼が基底に存在するからだろう

このような認識の下、「君」との認識の決定的なずれをかんじつつも「私」は

>靴ずれしたかかとを持て余して
>それでもどこへでも行けそうな気がする

のはなぜか。
最後に現れるこの文章は、やはり、周りの者に対する靴ずれ(=認識のずれ)をかかえつつも、 時間軸の認識において「君」との隔たりを、空間の認知において「旅立って言った友達」との隔たりを、私は動物園という場所に行くことではっきりと認識し、「私」そのものへの「信頼」を、私自身で取り戻したすがすがしさから湧いてきた感慨ではないだろうか。
ほかにも、
「動物園と友達についての記述のバランスが良くないと思う。友達について、もう少し書きようが在るのではないか。故に、終連が投げ出されたようになっていると感じた。」
「毎回、器用な方だな、と思う。」
「薄っぺらくて、ちゃっちー、「アニメ-ラノベ的」な作品世界が表現されていますが、別に難しいことを考えなくても、こういう(頭の中の)構造の中で、十分生きていけるし、楽しいと思う。」
という意見がありました。

4649 : 「津田さんと僕。それぞれ」  右肩 

>私、うつむいて自分の足もとを見た
>私、決定的に乱れている。

この行為はどのような意味をもち、どのような状況によって記されたのか。なにより大切なのは、「私、」と区切られ後に続く言葉の切迫感はどの方向へシフトしているのか。

「私、」との呟きに、すぐに思い出されるのは、中平卓馬だろう。
以下に中平の文章を抜粋する。

8月10日/午前0時10分だ.父,“母”かなり前から寝てしまった.もう 1時だ.元君,姉,みど里眠り始めた.もう1時20分だ..私,トイレに行き,TELで 時計の進行を的確化し,3時45分近くもどった.もう4時17分だ.それから 眠り始め,私,妻,鐐子共に8時17分覚醒.私,昼寝極力阻止!! 父, “母”,姉,みど里,元君,先に覚醒.姉,みど里出発.“母”,8時32 分過ぎ埼玉へ出発.父,1番先に朝飯を食べ上げた.元君,朝食を食べ上 げた.私,妻,鐐子と共に9時24分から朝食を食べ始め,私,元君の次, 食べ上げた.10時1分半,元君,内田氏宅へ出発.昨夜,現像し上げ,水 洗いしておいた作品5枚,10時13分から乾燥し始め,10時37分乾燥し上が った.作品3枚現像し直さなければならぬ.父1番先に昼飯を食べ上げた. 午後12時8分から私,妻,鐐子30分ほど昼寝していた.父1番先に晩飯を食 べ上げた.私,妻,鐐子と共に7時16分から晩飯を食べ始め,私かなり先 に食べ上げた.7時26分,姉,みど里帰宅.8時37分から私作品現像開始. 10時42分,作品5枚水洗に廻した.11時45分,もう父,“母”寝てしまっ た     中平卓馬 「新たなる凝視」

中平の文章は、つねに自分からこぼれおちてゆくなにかを、具体的にはアルコール中毒による記憶喪失という深淵の中で、行為をおこなったと同時に忘却されてゆく深淵に抵抗するために、写真的的確さでなく、行為と時間をよりあわせることをつみあげてゆくなかで、とどめられた過去の痕跡が、自身そのものとして立ちあがってくることに意味を見いだし、書かれたものとして現われる。
とりあえず、この文章で注目するところは、行為がただ単に書かれていることでなく、
>10時1分半,元君,内田氏宅へ出発
のところにある「10時1分半」という記述だろう。
この記述からどのような世界が立ちあがってくるのか。
秒単位で把握されるべき認識においては、世界は常に、ひとりでに前進するプロセスであり、私そのものを置き去りにしてゆく世界でもある。つねに私とのずれを孕み、だからこそ、時間という正確さによってずれを埋め、私⇔行為⇔時間を的確化しなければ、私自身の存在自体が不透明なものになる世界。

そこでは
>私、うつむいて自分の足もとを見た
>私、決定的に乱れている。

振り返る、自身を客観的に見る、という事態は存在することが難しい。

「私、」というふうに自己をたえまなく規定し、世界とのずれをたえず補おうとしながらも、 中平との文章と比べた時に、おそらくこの作品のなかの私が、切迫感において、まったくのリアリティをもっていないのはなぜか。リアリティをもっていない、というのではとりこぼしがあるなら、切迫感を自身の中に感じながらも、それが身体からつねに洩れでており、その洩れでたあとの空白としての自己が捉えられているのはなぜか。

それは、世界が時間や記号によって構築されているという一般的な了承事項を、私自身が受け入れられていない、つまり、世界は記号によってあらわれているのではなく、徴候としてあるいは予感として私の前にあらわれるものだから、だろう。
眼前にある世界はそれそのものでなく、未来においておこるなんらかの徴候としてしか私自身に感知されないという世界。
おこる事態そのものが「なにか」というよりは、おこる事態そのものが「何を意味しているか」という解釈が、横滑りしながら、未来へと解決をもたないままなだれこんでゆく事態がここでは起こっているのではないか。
そこでは中平のように「私」そのものが問題にされることはない。

「私」が世界との関係性の中で、どのように変容してゆくのか、という点については、
>変容していく
とは、なんにでも変容できる、という意味とは正反対で、何にも似ていないようなものに、つまり自身として名付けられないものにシフトしてゆくこと、あるいは「雨」だったら、その意味づけから極力逃れられるもの、回収できないものへと厳密に変容してゆくことを構築することが大事なのだと思う。
>私が雨を降らせている。今は私が、風のない町にぱらぱらと降り注いでいるものの正体だ
ここでは、雨への変容が書かれているが、ここまで明快に書かれることで、言語化されない余剰部分が消されているという事態は起こっていないだろうか。
変容するというのはおそらく、以前までの自らを暴力的に馴致させるプロセスそのものだと思うのだけれど、
>僕はあなたが好きでした
ここで書かれる言葉は、変容する前の(つまり死ぬまえの)私の言葉そのものが吐かれているのだろうか
僕が、本質として、鴉や雨などに変容して、その内部をくぐりぬけてきた後に地霊となって吐かれる言葉は、それらのくぐりぬけた痕跡をとどめていないのだろうか。
変容とは、この作品においてどのような意味をもっていたのだろうか。

ここで書かれている私は、書かれている世界の認識において、
また、変幻する人称の切断面からなにがにじみ出てくるのか、といった出来事のプロットからひきおこされる手ざわりというものにたいして、無頓着なのではないか、という感慨を抱いてしまう。
ほかにも、
「だんだんと右肩さんの作品が変わってきたように思えます。少し職人ではなくなってきている。
けれども分かりやすく接する説明箇所は考えた方がよいと思う。なくてよい。」
『 「もう私、地霊になってしまった。」「僕は変容していく。津田さん、あなたも、木部も杉浦も三浦も。死者も生者も変容していく、そのことに変わりはありません」こういうのを書かずにいられないのが右肩さんなんだろうな、と思う。こっからもう一個展開しないと、台無しと思います。』という意見がありました。

     ※田中宏輔氏の2作品は織田が担当

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