文学極道 blog

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「12月選評雑感・次点佳作作品」

2011-01-24 (月) 22:24 by gfds

「12月選評雑感・次点佳作作品」  文責/浅井・織田 編集/織田

「Jumpin' Jack Flash。」‐田中宏輔 

◆ナンセンス、ノイズ、騒音、カオスといったことがこの詩作品の要素になっている。例えば私たちの生活にある余白。朝起きて顔を洗う。朝食をとる。新聞を見る。意味を持った一つ一つの動作、行為の間に隙間が生まれる。何もしていない時間がある。行為と行為の間にある「余白」の時間。この空隙を禍々しい言葉たちによって埋め尽くしていく。埋め尽くしてやる。この作品からそういう欲望のようなものを感じます。
文脈というものがさしたる重要な要素となっていないこの作品。それを逆手にとると、どこから読み始めても楽しめる。そういう作品になっている。どこから読み始めても良いし、どこで読み終えても良い。詩を読むという行為にエコロジーの概念を導入した最初の作品(?)と言えるでしょう。

「血涙」- 破片

◆10代の学生の頃、下宿で自分にしかわからないようなランダムなメモを、たくさんノートに殴り書きしていたことを思い出しました。ひるがえって現代、インターネットがくまなく普及し、かつて少年のノートの片隅に追いやられていた独り言が、公共空間で共有される。そのことの功罪について考えたくなります。
この作品では「くだらねえ」という呪詛と、「何かない」という呟きが交互に繰り返されます。母親に「どうして生んだの」「どうして生きているの」と訊ねるのも、未成熟な子供のメンタリティでありそのメッセージです。

「わたしはわたしの痛みのために泣いたのに、どうしてでしょう、この涙が石畳全体に染み渡り、ほんの少しでも温度が伝わればいいと思っていたのでした。」

自分のために泣いただけなのに、隣人にその体温が伝わる。ここで「少年」はその体験を欲している。けれど体温を伝えるためには直接、他者の体に触れなければならない。言葉は体に触れることはできない。言葉によって他者の体温を得ることはできないのだ。ということを、この作品は切々と語ろうとしている。

「とりのは」‐津島 ことこ 

◆ なにか漠然としているけれど、取り返しのつかないことをした感じ。 意図したものと、わずかに違う出来事が目の前に現れ茫然としているさま。 例えばこのような出来事を表したものを他で参照するなら、

>りりあんを光のなかで編むように書いてしまった知らない手紙  盛田志保子
のようなものだろうか。

>金よう日、ラジウムみたいに放射して裸子植物を食む子にもどる
「子にもどる」(無邪気さを取り戻す)行為を、直接いいあらわすことのできない心象として感じ。 戯れでしてみた行為なのだろうか、ピアノの、

>黒鍵を人差し指と薬指で押さえたら
なにかが 、

>いちめん緑
となってしまうような、軽い意図と、それに見合わない劇的な変化。

>点描の夢をみました。
という出来事は「物語」がはじまりそうな予感をはらみつつ、それでいて、

>それだけです。ただ輪郭をみつめただけです。
というように、なにかが生まれてくることを、あるいは環境の側から私の側に働きかけてくる変化にたいして、「何でもない」ということを表明する態度。 あくまで、私自身が主体となって物語が進行してゆくことを、できるかぎり避けたいと願うような、そのような立ち位置のようにも見えるのだけれど、それでいて「何でもない」ことを表明している私は、

>ウエハース製の座卓をかじってるわたしの中のマトリョーシカたち
敏感な思春期の子供ように心穏やかではないことが示されている。 自己実現として現れる、こころのなかの動きは、

>満たされぬものがなにかも知らないで満たすエーテルひかりになりたい
と、ふくざつなものとなり。しかしそれは、「私」の最大限の素直さの表明にもなるのだろう。 しかし、そのような素直さも、話者の心に秘められたものとして現れるだけだ。
それが、「出来事」として現れるのは、

>一辺と一辺になる西の空 折り合いをつけた鳥が飛びたち
というように、おそらく、自己との「折り合い」を鳥たちの風景に託されるようにしてあらわれてくる。このような、環境の側がひとりでに作用し、出来事としてなにかが結晶するさまを、観察者としての「私」がそっと覗きこんで、その「世界」と「私」の重ね合わせのひとつひとつが、短歌表現というスタイルをとっている。

「存在の下痢」 ‐ 田中宏輔 

◆ >猫を尊敬するの
>だって
>猫って
>あんなに小さくて命が短いのに
>気にもとめない様子で
>悠然と
>昼間からただ寝てばかりいる
>きっと悟っているに違いない

冒頭から「うん、きっと猫は悟っているに違いないな(笑)」などと話者と同じ視点に立ち、思わず頷いてしまいそうな軽やか書き出しがいい。しかし安直に猫と人を比較するのもおかしな話でもあり、また作品の中で「存在の哲学」について考察が深められているわけでもない。タイトルはおそらくサルトルの「嘔吐」が意識されたものだと思うが、概ね、駄洒落やユーモアに横滑りしていくのが主筋になっており、そこを楽しめるか否かが作品の「価値」にかかってくる。

「橋」 ‐  早奈朗 

◆「物語」、という枠で見たときに、どのような場所に辿りつこうとしているのかという疑問があります

一言で言うと、最後の
>「橋をかけてやるぞ」.
ということで実現される「橋の向こう側」の世界をどのように認識しているのかな、ということです。

「橋のこちら側」の世界で、

>ぼくはすべてになりゆくためにまずいっこの名前が定まらない。口を開けてあるくために、龍の名前がぼくにはひつようだ。

というように、欠損がまず提示され、目的が語られる。
その手段として、橋をかけ、向こう側へと向かうわけですが、おそらく向こう側の世界で「僕」は「りゅう」や「なまえ」などの大きな物語と葛藤してゆく予感が書かれています。

思うのは、「僕」や、
>ぼくは 詩になりたい
という「私」をめぐる願望や成長が、個人的な事柄や狭い範囲での環境の影響を設定することなく、そのまま、「向こう側の世界」での出来事と直結してしまうクエスト的な構造をとっている様式というのは、もはややりつくされた感じがある、ということです。

個々人の、「僕」「私」としての自己実現が、「世界」や「向こう側」と無条件に繋がってしまう構造という物語をつくるときには、それ相応の注意が必要ではないかな、と感じました 。

「愛しくて。」 ‐  岡崎那由他

◆反復とはつねに、一回性への断念としてあらわれざるをえないし、それがもたらすのは、質から量(塊)への移行とならざるをえない。けれども、反復することで(記述の、あるいは黙読の)時間が滞留し、そのことがもたらす本来のなめらかな記述を読むための視線との「ずれ」が、物語を展開する筆記の運動の停滞にいらだちを感じつつも、どこかで繰り返され、もはや「塊」となった言葉が露呈してしまう「なにか」を、かいまみてしまうための瞬間が、この馬鹿げた試みを読んだ人に現れることが、数少ない酬いのうちのひとつになるのだと思う。反復は、同じ言葉の、それが短ければ短い文章であるほど、本質的にシニフィエが壊死してしまう作用を担っているし、だからこそ、壊死してゆくプロセスに反するために、反復がシニフィアンを変貌させてゆかないかぎり、「なにか」を生み出すことはできない。だけどそれは、反復により生起するものの微細な運動をしめしているかぎりにおいて、反復によってつくられるフレームの外側へとのがれることもない。
5回繰り返される 。

>笑ったまま死んでいる死体
>君が愛しくて呼吸を忘れてしまったよ

などの言葉は、モーションとならざるを得ないけれど、その運動の弾力性はとぼしいものとしかいえず、何度も現れてくる反復された分によって、こごってゆくように感じられてしまう。

「花々」 ‐  yuko 


>好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子

引用の短歌は「みんな連れてゆく」というふうに描かれているが、それでもなお喪失が主調となっている空気を、この作品も共有しているのではないか。
けれど、それが、喪失として書かれてはいるけれど、その喪失からも隔てられているという意識が主調としてある。

>森を抜けると、
>あたりは一面の
>花、が、光のようで。

「私」は、「森」という世界から抜け出す。
そして、「花」のある世界へとやってくる。
それは、「森」⇔「花」=「自然」⇔「村(人間)」という図式があてはまるだろう世界観だと思われる。
>それがきみには見えなくて
とは、どのような事態か。

たとえば、想定する。「私」が、もとは「花(人間)」側における存在であり、それがなんらかの理由か目的で、「森(自然)」側における存在になるために、
>きみの森
へと入り込んだのだと。
しかし、「森」としての世界のなかにとどまることができなくて、「花」としての世界にもどってきたのだと。
そして、その私の存在が「きみに見えない」という事態は、「森」と「花」が対極にあるためではなく、私自身が、そのどちらにも属さない存在となってしまったからにほかならないと想定すること。

>彼は文化なき人間として、本能なき動物として、つまりまさしく存在しないものとして長い間さまよう(M・フーコー)

そしてそのような事態になるからこそ、

>誰もゆるさなくていい
>祈ることはない
>蝶の羽ばたきが
>止まることはない
>ぼくはきっとすべてではない
>漱がれていけ

このように多用される否定と、諭しが、「亡霊」のようにさまよう私に対して、親密さを持ったものとして、あるいは私へのどちらかの世界へと直接触れ合うためのアドバイス的なものとして響くのではなく、私を世界から隔てるものとして、私自身を限りなく世界性から、あるいは周囲から切り取るための疎外の言葉として響いてくるものとして読みとること。 喪失感をもった世界にいながら、その喪失からも「私」自身が切り離されてしまう世界観がみえてくる。

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