「12月選評雑感・優良作品」文責/浅井 編集/織田
「12選評雑感」
【優良作品】
4892 : ぱぱぱ・ららら 進谷
◆若さ、軽薄さ、危うさ、遊び、といったものが、確かな文章力の上に散乱していて、 鼻白むことなく、とても面白く読めました。
私たちの感情の、それほど深くない部分に、そっと手が差し込まれるような、心地よさと不安があります。深すぎず、浅すぎず、あくまでも足取りは軽やかに、それがこの作者の持ち味なのでしょう。詩にも引用されていたカート・ヴォネガットを彷彿とさせる巧さとユーモアを感じます。
「詩を書くこと」が「生きること」に直截的に繋がる若い世代の、はにかみと自負のような感情は、それなりに書き手を苦しめる重さを持っていると思いますし、この作品の出発点も、それほど明るい場所とは思えないのですが、それをモノローグに堕すことなく「文芸」として突き放してくるところが、作者の優れた資質だと思います。
4906 : したく ゼッケン
◆この作品を元ネタに映画のシナリオを一本書けそうなくらいに濃密な場面描写がなされています。主題の扱い方もとてもアクチュアルで且つクール(危険)です。高校で理科の科目を教えている教師が科学と道徳の境界にあるタブーを侵犯するような実験を学校で行ってしまう。
シチュエーションからして良くも悪くもグッと惹きつけてくるモチーフです。ところがこの種の問題というのは、どこからが犯罪にあたり、そうでないのか?ここがわかりにくいという問題があり、そこに切り込むことで主題のエレメントが浮き彫りにされます。その手わざはさすがです。
高校の生物部の顧問である「おれ」がレズビアンの女生徒2人の卵子を試験管の中で反応させて子供をつくってしまう。
>先生、つかまるんでしょ?
>ぼくらも逮捕されますか?
>赤ん坊は週イチの世話じゃ済まないからね
>わかってる?
このしらけた空気感は読者に怖い印象を与えると同時に、時代を批評する言語としての機能を作品に与えています。
4912 : (頭を置き去りにして歩く、) 田中智章
◆>頭を置き去りにして歩く
とまず、明言される。そのあとにつづく何気ない文章を読みながら、
>また、夜空から見つめられる
という文章を目にする。
「また」夜空からみつめられる、という認識は、過去にさかのぼって「私」になにかのプロセスがひとりでに始まっていることを示しているそれにつづく文章 、
>ふたたび足あとを追うようにして歩き出す
>でもまた降り出せば、足あとは消える
>そのときは、まるで足あとをつくるために歩く
「世界」と「私」とが相互に連動している認識。
シンプルにその空間の循環の認識だけが投げ出されているようにも見えるざくざくと歩く足音が、「世界」の側にかたむきつつある夜を、音を、からめとってゆき無化させてゆくように、どこまでも継続し、継起してゆく。
シンプルなほどなにも書かれていない。だけれど、循環する運動性が永遠につづいてゆくように見えるそしてその歩みの質を、
>雪の中に頭を置き去りにして
という言表のゆるぎなさが保証している。
4918 : 日常的な公園 リンネ
◆リンネさんの作品を面白く感じる理由の一つは、この作品もそうですが、最初から最後までおかしな出来事の連続で構成されているのにも関わらず、それが、ただ、荒唐無稽な話として終わるのではなく、我々の存在する現実の本質を、ときにシンボリックに、ときにアイロニカルに、「説明」してくれているように感じるためではないか。「わかる」という感覚を、リンネ流ロジックにはめ込んで提示してくれる作品として読める。
「日常的な公園」
大人が公園で鬼ごっこをするのも変な話です。また女が股間に鏡を挟んでしゃがんでいるというのも現実世界では全く意味不明なことです。しかしそのナンセンスを通して意味を語りかけてくる。何かが腑に落ちてくる。そこに嵌ればあなたもリンネワールドの住人の一人だというわけです。
>Kは鬼ごっこをしているが
>妙なことに、
>およそ鬼と呼べるような人間がどこにも見当たらないのである。
>そういって悪ければ、
>Kはすっかり鬼の顔を忘れてしまったのであった。
鬼ごっこをしているつもりが、鬼が見当たらない、鬼の顔を忘れてしまった。
一見、幼稚な論理矛盾から始まるようなこの作品。我々も職場や学校などで体験する要素がぎゅっと詰まっているのではないでしょうか。
>どいつもこいつも鬼であるかのようであった。
鬼ごっこというのは誰もが鬼になりうるルールですが、この作品では、k本人は「鬼になり得ない」と思い込んでいる節がギミックになっています。
自分だけは鬼にはならない。そう思った瞬間すべての「ゲーム」は破綻してしまうのではないでしょうか。
4919 : あとは眠るだけ 右肩
◆ラヴェルの眠りがあり、プルーストの眠りがある。
眠りを主題にした本も、きっと腐るほどある。
ラヴェルなら、旅先に25着のパジャマを持ってゆき、眠れない夜を数を数えることで過ごし、やがてそれも退屈となり、その退屈こそが眠りを誘ってくれるだろうことを期待し、だがそれはかなえられず、翌日には必ず不機嫌となるような眠りだろうし、プルーストの眠りなら、物語の書き出しが眠りについて書きだされているように、母親がそばにやってくるのを待つための時間をさししめしているのだろう。
この作品がこれらの眠りと違うのは、眠りというものが「やってくる」ものではなく、起きているうちから、夢を規定してゆこうという意志があることではないだろうか。
>(眠ること=)冒険、とは主体と世界そのものの運動なのだ
というように。
マンディアルグは、夜の夢=観劇の時間が面白いものとなるための必須の条件として、ごちそうを腹いっぱいに食べてからすぐ眠る親子の習慣を描いていたが、この作品の「私」も、夢のなかにはいるために
>それは今さっきスターバックスの女性店員から黄色のランプの下で受け取ったマグカップの中にあってもよい
というように、食べ物でなく、出来事を夢見のエンジンとして認識している。
だとしたらどうだろう、現実と夢の対比はどうなっているのか、が重要なのか、それとも、夢のディティールが、出来事を侵食してしまうように書かれていることが重要なのか、このような形態では、どこに焦点を当てることが重要となってくるのか。
>冒険には語りうる一切の内容がない。
といいつつ、どのように夢を提示してゆくのか、というのがあって、かなり詳細に記されている昼間の出来事に対して、夢はどのような対価を払うのか。
>眠りはまた浅緑の蔓である
といい、本格的な夢は書かれていないにしても、結論だけ言うとやはり、失敗しているようにみえる。おそらくそれは、
>僕は神のように明晰に眠り
と書かれる「明晰な眠り」というものが、覚醒→眠りへと移行してゆく私の意識が、みずから統御しようという意思をもっているのを前提としたうえで、やはり、リニアな時間軸として認識されているのではないか、と思うからだし、夢の時間が、現実の時間を包みこむような時間の伸縮性の予感がしないからでもある。
4932 : 一の蝶による五の夢景 リンネ
◆不気味なもの。
ここに書かれている文章が、不気味なものとなっているのは、書かれているものが荒唐無稽な内容であるからではなく、荒唐無稽な内容をあくまで主観的に、ではなく、客観的にとらえようとし、それが語り口によって成功しているということだろう。
このような物語がリニアな物語としてコード化されていない、ということはよく見られることであって、それはそれで興味深い。視線はそれ相応の準備をして解読してゆくことができるのだけれど、それが客観的に語られ、かつうまくコード化されている、という事は、生身の語り手の、社会を眺める目線がうまく適応をおこしていないのではないか、という逆説的な感覚を読み手にもたらし、記述の平静さも、書き手への知覚の鈍磨によるもの、あるいは、生身の出来事に対する正常な適応行動を逸脱してしまった結果ではないだろうか、という突飛な予感をもたらすためではないか。
内容も、「悪い夢」、いずれは目覚めるであろうと心の片隅で意識しながらも、そう意識するがゆえに耐えられてしまう倒錯した現実を、なんらかの歪んだかたちで反映したものではないかとも思える。しかし、読み手は、そのような構造が埋め込まれているストーリーが持つ「受け身性」が、最後になるに従って供出していくのを確認し、いささか安堵するとともに、作者に対する技術の一定の高さに脱帽せざるを得なくなるのだろう。