雑感1 浅井康浩
雑感1 文責 浅井康浩
2010年の月間優良、次点作品を見ると、おそらく作者が10代か20歳前後だと思われる人たちの作品が多くみられる。
破片、しりかげる、ただならぬおと、yuko、藤崎原子、古月、etc.
このなかでも、「若さ」というキーワードで自分が作品を読みとってきた人が幾人かいる。
破片としりかげる。あるいはここに丸山雅史を加えてもいいのだけれど。
かれらの作品や批評にたいする誠実なスタンスとともに、第一に彼らに投影されるのは、繰り返すけれど「若さ」、というものではないだろうか。
16歳から20歳と推測年齢が、作品のある種の「荒さ」に影を落としてしまうことを、読み手である私は、その「荒さ」こそが若さの特権であるかのように読み進めてきし、おそらくは批評する側においては、その点を指摘しておけば、おおきな的外れとなる文章とはならなかった。
その結果、自分としては、彼らの「若さ」ゆえの彼ら「らしさ」をそのようにしか受容できなかったのではないか、あるいは、彼らの誠実さを正面をきって受け止めてこなかったのではないか、という疑問が残っている。
両者のある一定水準の詩的成熟を、破片「世界語」、しりかげる「ラブポエム」にみることは、異論があるに違いない。
一投稿サイトに投稿された作品だけで、その人の全体像を把握するのは不可能に近いのだし(しりかげるにおいての「メビウスリング」、破片のブログにおける作品など)それぞれが作品を詩集としてまとめられるという取捨選択の作業も経ていないのだから。
まわりを囲んでいる新たな稜線が浮き上がっていく、その中心で、ふたり、鈍く発光する雲を掴んで、踝をくすぐる草々に墜落させた、「わたしたち、雨を降らせているの」という言葉に、赤子は無邪気に笑い、そして母音だけの世界を紡ぐ、若草色の、もっとも広い絨毯に話しかけて、どんどんと、どんどんと無尽に広げていく、水をやれば花が開き、空気が潤って色がつく、赤、橙、黄になり、そして緑、青、藍、紫、そんな色、そのあとで突然色が抜けた、草は草の色になり、千切っては落とす雲はやはり白かった、空気は空気の色になって、母親らしき人影の、そして、雲を掴む細い指の向こうに―――
破片「世界語」部分
獣(五感が呼吸をやめてしまって、あなたのうただけがこの世界のすべてだった。ほろべ。わたしのなかに宿るあなたの器はすこしずつ朽ちていくのに、声帯だけはなぜかみずみずしくなっていく。ほろべ。わたしとかつてのあなたの狭間に、うたが手向けられている。ほろべ。ひとつの世界が砕けて、その断片が幾多もの世界に降りそそぐ。世界の底にはまだたくさんの世界が連なっていて、終わることができないようなしくみになっている。)獣よ、夜明けに祈らずにはいられるだろうか。(点滅をくりかえす黄信号がもとの場所にもどっていく)「なぜだろう、僕の鼓動はひどくおだやかなのだ。」ほろべ、「せめて、あなたの器がこの一日の最果てならば、束の間だけ僕は眠ることができる、
しりかげる「ラブポエム」部分
ひとつのシークエンスを作成する際に、口語やイメージのなめらかさを犠牲にしてまでそこここに鋭利なショットを差し挟みながら、しかしその編集方法の貧しさが、ことさら美学を凝縮させる手付きを装いながらシーンをととのえてしまうこと。
ときに甘いとさえ思えてしまうほどの「感傷」をまとってしまうその表現に、なぜか自分へと向けられたセンチメンタルを感じてしまうことがある
しかし、それのどこが問題というのだろう。それはおそらく、両者の作品へ向かう美学が、もうあまり熱心ではない私の、前までは持っていたはずの、作品を絶えず良くしていきたいという飽くことのない欲望を、ドロドロとした部分を欠落させて心地よく思い出させてくれるからだろう。
そしてそれを、作品の「荒さ」としてステレオタイプに解釈していたのは、やはりみずからの「怠惰」によるものだったのだろう。
おそらくこの作品が投稿された当時に、すばやく言わなければならなかったのは、これらの作品にある一定の成果を認めつつ、破片においては、言葉そのものを世界性として解体、または構築しなおそうとする不断の努力において、言葉のひとつひとつに過剰な意味を担わせる衝動にもかかわらず、そこに込められたものには言葉の空疎さそのものしか充填されておらず、建築されてゆく言葉のピースのひとつひとつから漂い出てしまうものが感じられない事、あるいはすくなくとも「世界」そのものを書こうと意図されたものであるにもかかわらず、行間より洩れてくるはずの織り込まれることのなかった未知な手ざわりを読みとることができない「箱庭」としての「世界性」であることと、しりかげるの「ラブポエム」が、水村早苗の「私小説」やジョン・ケージの「4分33秒」ベーコンの「教皇インノケンティウスXII」のように、設定された題名を前にして、その内容が「題名」そのもののイメージを内側から食い破る衝動として設定されることなく、無自覚にも題名そのものにその運動が馴致されてしまう事態が、作者の素朴すぎる鈍感さをあらわしているということと、それが文学極道そのものの現在位置のスタンスをはからずも(他のジャンルから何十年も遅れて)体現してしまっているということ、だったのだろう。
そして、このように言い切ってからだろう。そのほかの細々とした感想を述べることをするのは。それに加えて、黒沢さんの言葉をかりて二人にいうのは。
>こういう書き手は、怖い書き手になりますよ、そのうち
と。