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文学極道年間各賞 総評

2012-10-12 (金) 04:05 by kemuri

文学極道年間総評2011

序文にかえて

 たとえば、あなたが何かの、誰かの作品を読んだとする。(これは小説でも詩でもなんでも構わない)それを、あなたは良いと思った。とても、とてもよいと思った。でも、それを適切な形で言葉にすることは難しい。だから、結局あなたは言葉にしないことにした。そして、あなたは時々その作品のことを思い出す。日常の中に深く静かにしみこんだ言葉が、指先で押されたスポンジみたいに何かを滲み出すことがある。
 街を歩いている時のこと。路地裏のほつれあった縫い糸のような道をあるいていると、不意に小さく空間が開けて太陽がさすことがある。何かの間違いみたいな形の空間のスポットがあって、室外置きの洗濯機や窓から窓に通された物干し竿からはためく洗濯ものが見えたりもする。
 僕はそういう瞬間が好きだ。それさえあれば、神経を蝕むような雑居ビルの群れも、絡まりあった電線で滅多切りにされた空も、耳障りなクラクションの音もみんな好きになれる。つまり、僕は東京が好きだし、バンコクが好きだし、ホーチミンが好きだし、究極的にはそれなりに世界と分かり合うことができるような気がする。
 詩も、僕にとってはそういうものだ。難解な詩も、平易な詩も、シンプルな詩も、複雑な詩も、エモーショナルな詩も、静謐な詩も、みんなひっくるめて「良い」と思える詩に出会ったとき、僕は少しだけ世界とうまくやっていける気がする。
 正しい言葉を書こうとする。でも、正しくあることと、正直であることは一致しない。また、語りたいことと語るべきことも一致しない。何かについて語るということは、ある一つの正しさを得るとともに(もちろん、これはある一つの正しさなんてものを望むことが出来ると仮定してのことだが)また一つ失うことだと思う。
 それでも語らなければいけない段になって、僕は何を約束することができるだろう。「正直であること」?これは一見出来そうに見える、でもムリだ。読まれることを意識した瞬間に、正直さは望むべくもない地平に退いてしまう。「誠実さ」?それも同じく無理だ。
 結局、僕は何も約束できないと約束したところから、始めるしかないのだ。こんな、くだらないロジック遊びから始めるしかない。
 ここにこれから書く批評は、正しさなど望むべくもない。また、それぞれの作品の魅力を損なうことになる可能性も高い。少なくとも、僕の目指す「作品が作品であることに奉仕する」というものには程遠い。
 言い訳から始まる総評で、誠に申し訳ないと思う。ただ、願わくばこの評がそれぞれの作品のために何かの役に立てていれば、それに勝る幸福はない。

2012年 10月     文学極道代表 ケムリ

文学極道創造大賞

小細工一切なし
泉ムジ「青空のある朝に」
bungoku.jp/monthly/?name=%90%f2%83%80%83W;year=2011#a04

 今年度の選評を始めるにあたって、この作品から始めることはとてもてきせつなことだと思うし、また泉ムジという書き手が創造大賞及び最優秀作品賞を同時受賞したことも、別段驚くべきことじゃない。あくまで僕個人としてはだけれど、今年度最優秀作品に推すとしたらこの作品しかないと考えていたし、実際その通りの結果になった。
 誤解を恐れず言えば、この作品には際立った技巧的特徴はない。描き出すべき総体があり、それを実行する描写・構築の技術があった。そこで評は尽きる。
空を埋め尽くす「感染者」のイメージ。極大のイメージ。風に舞って流れていく包帯や舞い飛ぶ羽毛の極小のイメージ。限りなく最短の手数言える構築手法で描き出された世界観の完成度に舌を巻く。圧倒的だ。また、この作品を一作の寓話として読むこともできる。そこから何かの意味を汲み出すこともできるだろう。
単純にして、強靭。細部までの作りこみ。技巧の奇抜さや手数の多さ、複雑さに偏りがちな創作の中で、敢えて余計なものを徹底的に削ぎ落とし、基本に忠実に最大限書かれたこの作品は、一つの指標になり得るだろう。
 繰り返しになるけれど、泉ムジ氏の使う技法は、僕に限らず多くの人が常に当たり前に使っているものであり、目新しさはない。しかし、僕も含めた多くの人々にこの作品はかけないだろう。少なくとも、僕は書けない。
 泉ムジ氏は同年の投稿作品を一通り読めばわかるとおり、技巧的挑戦に意欲的な作者だ。ややもすれば、技巧や方法が前に出て読者としての僕には疑問が残る作品を書くことも少なくない。しかし、その挑み続ける姿勢は「創造大賞」にふさわしい。これから先も、良い作品を書き続けて欲しい。

積み上げられる詩
田中宏輔 The Wasteless Land.
bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8dG%95%e3;year=2011#a01

 正直に述べることにする。僕は年間選考に関して、自分が推す作者への評しかつけたくないしここで僕が日頃行っているような評を行うことは適切ではないと思う。
 故に、㒒自身が創造大賞に推したわけではないこの作者へのコメントは差し控えたい。ただ、詩の形式にこだわりながら、詩それ自体のあり方に迫っていくような創作の手法そのものは、非常に面白く読んでいる。その執念と執筆のち密さも敬意を表す。また、氏の作品が「良い」と思えないことは、㒒自身の能力・素質に起因する可能性も否定しない。
 実際、僕の反対を押し切る形でこの作者は創造大賞に推挙されている。選考委員の多くは、それだけ氏を高く評価している。僕は現在代表などという肩書を与えられているが、選考に関してはあくまで一選者としての発言権しか付与されていない。それでも、選者の一人が明確に反対を表明している投稿者がこの賞をとることは、決して容易ではない。
 それは、田中氏が文学極道に於いて高く評価されている事実を端的に表すだろう。

各賞におけるタイトルについて

 正直に述べさせてもらえば、文学極道における創造大賞以外のタイトルはあまりてきせつな名前ではない。これから先コメントを述べさせていただく作者諸氏が必ずしも「抒情詩の書き手」と定義されるわけではないだろうし、実存主義的な思想を持って創作に臨んでいるとも限らない。「新人賞」にしても、当該受賞者の創作歴が短いとは限らない。そもそも、「抒情詩」の定義を始めたら、あるいは「実存的な詩作」の定義を始めたら、多分この原稿は永遠に終わらない。故に、個人個人への僕からのコメントを述べる形にとどめさせていたくことをご了承願いたい。

文学極道最優秀抒情詩賞

語りのスイング
村田麻衣子 「インファントフロー」
bungoku.jp/monthly/?name=%91%ba%93c%96%83%88%df%8eq;year=2011#a03

 リズミカルに継がれる言葉の中に挿入された表現、比喩が秀逸。流れるように淀みなく続く言葉のフローの中に、思わず足を止めたくなる表現が転がっている。イメージの連鎖はつながるかつながらないかのギリギリのラインだが、奔流のように継がれる言葉の勢いの中で、少しずつ繋がりが感じられてくる。悪く言えば、多少のイメージの断裂は、言葉のリズムで埋め合わせてねじ伏せてしまう。
 誰しも文章のリズムというものは持ち合わせているだろうけれど、この作者のリズムは書かれた作品とぴたり噛み合っている。むろん、丹念に読めば先ほども述べた「イメージの断裂」は容易に見つかるだろう。(もちろん、イメージの連鎖・つながりというのは読み手のリテラシーにも大きく左右される要素なので、見つからないという人もいるかもしれないが)しかし、この作品を最後まで読み終えるのに苦痛を感じる人はほとんどいないのではないかと思う。
 おそらく多くの人はケムリという読み手は「作品の粗を探す」のが趣味の偏執狂、ミスタッチの度に指揮棒で指先を叩く神経質な年増のピアノ教師みたいなイメージをもたれていると思うし、それはある意味間違いではないのだけれど。実際のところ、ミスタッチを味に変え、エモーションに、スウィングに変える書き手は嫌いではない。むしろ好きである。問題は、それを技術論に還元するのが難しいので教えることができないだけだ。その方法を知ってる人がいたら、是非僕にもご教授願いたい。
 村田さんの作品はノれる。頭が振れる。実に楽しい。

語りの年輪
鈴屋 「厨房」
bungoku.jp/monthly/?name=%97%e9%89%ae;year=2011#a08

 村田さんの作品と正反対と言っても間違いではないだろうこの作品。多分、僕が今年一番読み返した作品だろうと思う。もちろん、この鈴屋という作者はどの作品を読んでもほとんどハズレはないし、楽しませてくれるのだけれど。「評価」という軸を離れて、単に「気に入っている」という点ならこの作品が一番だ。何故なら、僕もかつては厨房で酒を飲んで明け方に家に帰る暮らしをしていからだ。この描写の一つ一つが、なんとも沁みる。

「ホールの照明を消し、コック服をスーツに着がえ、厨房に戻る。ショットグラスにウイスキーを注ぎ、一息にあおる。調理台に椅子を引き寄せ座り、一度締めたネクタイをゆるめ、調理台に片肘をつき脚を組む。」

この何気ない一文。そこから浮かび上がってくる情景。この端正で素っ気ない書き味を抒情と呼ばずなんと呼ぶか。この後も作者の端正で目の行き届いた描写が続く。厨房で男が酒を飲む、という一事に対して惜しみない目線が注がれる。見落としのないよう、かといって不要な物の入り込まぬよう。
 そして、その描写はいつしかイメージの、思考の飛躍へと導かれていく。少しずつ、急がず、かといって不要な饒舌さは一切許さない厳しさで。
 この書き手の書くものは、派手ではない。しかし、そこには静かに事物を見つめてきた重さがある。続けられて来た方法論への積み重ねがある。この書き手の年齢は存じないが、文章を書くということに対して誠実に重ねて来た年輪を感じずにはいられない。良い書き手だ。

そこにあるべき断片
Yuko 「春と双子」
bungoku.jp/monthly/?name=yuko;year=2011#a02

春が来ます
しあわせの羽を落として

この二行が、抽象的な観念の断片をまとめ上げる作品。この書き手はややもすると凡庸さの烙印を押されてしまいかねない単語を上手に使う。言葉から言葉への飛躍とイメージの連鎖に関してはやや接続の読み取りにくさが感じられることはあるものの、総体としての作品イメージをきっちりと縛り付けながら終始させる。
この書き手を評するときはいつも、どことない気恥ずかしさを覚える。それは、多くの書き手の影響が作品から読み取れるからで、また㒒自身の作品もそこに含まれているであろうからだ。もちろん、書き手としての感想を言えば、これ以上嬉しいことはないのだけれど。
「春と双子」に戻ろう。イメージの細部が、とても面白い。雪解け水を飲む母から始まり、花をついばむくちばしは生年月日を刻印する。小さな小さなイメージと巨大なイメージをいわゆる「描写」とはまた違ったやり方で提示していく。作品としての全体性は、「春」のトータルイメージに一任し、部分と部分をつなぎ合わせることなく提示していく。日本画の手法で、一枝を描くことで樹全体を表現するやり方があったけれど、そんな感じだ。難を言えば、ある種のツギハギ感は否めないところはあるが、より良い方向へ進んでいって欲しい書き手だ。影響を受けた、糧とした作品・作者の要素をより自己のものへと消化し昇華していって欲しい。

文学極道実存大賞

いや、上手くて当たり前ですよね
Q 「世界の終わりに」
bungoku.jp/monthly/?name=01%20Ceremony%2ewma;year=2011#a09

 この書き手はもうずいぶん長いことここで書いている方で、名前は色々変わっていても今更なんというか、上手いのはわかっているというか。「実存賞」しか取れなくて残念でしたね、と言うべきか。
 「夢の話」というのは、面白くない話の鉄板みたいなもので。聞かされても困るものだし、また僕もこの作品を読み始めた時はなんともまた陳腐化された様式で来たものだと思ったけれど、その陳腐な形式の中にそれなりのギミックが入っていて読んでいて飽きない。ラストの瞼から光が溢れる、という落とし込み方も余韻を残していく。いや、上手です。とても上手です。文句をつけるところはほとんどない。強いて言えば、会話文を書きなれていないせいなのか説明臭くなっている箇所が多少見受けられるくらいか。
 話は変わるけれど。僕はこの書き手が人間的に嫌いです。死んだら祝電打ってやりたいくらい嫌いです。色々ありましたが、本当に嫌いです。本音を言えば、評価なんかしたくないです。とはいえ、それでも評価せざるを得ない作品を投稿し続けている書き手でもあります。僕も人間なので、この書き手を見る目は他の人よりどうしても厳しくなってしまっているでしょう。それでも、圧倒的な評価をとり続けて来たのがこの書き手です。
 それを踏まえて過去の作品と比べると、些か今年は振るわなかったと僕個人は思っている。実際問題、僕は年間最優良作品賞を取ったことがなく、この書き手はとっているので、作者としての評価はせいぜい同格、作品単位でみればこの書き手の方がむしろ上。(それは自分で認めてもいる)だから、書き方のアドバイスなんてむろんできない。それを踏まえて、今年の作品も絶対評価としては決して悪いわけではなかったが、それでも過去作品と比べるとまるで奮わなかった、と書き加えておく。

成り立ちについて
右肩 「白亜紀の終わり」
bungoku.jp/monthly/?name=%89E%8c%a8;year=2011#a02

 おそらく、この作品はこの書き手のベストではない。同じ一年に区切っても、より創作性に満ち、より高度な技術を惜しみなくつぎ込んだ作品がいくつかある。では、何故ここでこの作品を提示するのかと言われれば、おそらく「入り口」として最も入り込みやすいだろうと考えるから。右肩作品への最初の一歩として。
 作品の構造、技術、表現…。内実よりその作品の成り立ちについて、語られる内容よりはむしろその語られ方について考える書き手、と僕はこの作者を評価しているのだけれど。そういったものを楽しむのはそれなりに難しい。難渋さの中に沈み込んでしまうことは、出来る限り避けられなければいけない。何故なら、僕はこの書き手の作品が好きなのだから。
 この作品は、右肩氏の創作物の中では比較的シンプルな構造をしている。一人の人間の視点からの複数のエピソードと、古代の生物がいかに滅んだか、そんな歴史的逸話との重ね合わせ。むしろ抒情性すら匂わせる作品と言えると思う。逆に言えば、ある種の凡庸さ、「どこかで読んだことがある気がする」と思う人もいるかもしれない。
 では、次の作品に行こう。次の作品にこそ行くべきだ、そこであなたはまた考えるべきだ、作品の成り立ちについて、もし風呂敷を広げるのであれば、詩の成り立ちについて、あるいは世界の成り立ちについて。
 あなたは、おそらく右肩作品に感動の涙を流すことはないだろう。また、頭を殴りつけられるようなショックを受けることも、おそらくはないだろう。しかし、そこには何かの入り口が残るはずだ。考え始めることに対しての。読むことへ対しての。

文学極道新人賞

技法の向こう側
Zero 「空間の定義」
bungoku.jp/monthly/?name=zero;year=2011#a03

 僕はこの作者をとても好ましく思っている。もちろん、この書き手が技法に実に自覚的で、また高い水準で方法論を駆使出来るということも事実だし、実際この「空間の定義」の投稿欄に於いては僕と方法論的論議を繰り広げているのだけれど。(あれは心躍る経験だった。是非、またやりたいと思う)
 実を言えば、現在僕はこの書き手についてこの作品が投稿された当時と少し違う感想を持っている。これは一つのお願いなのだけれど。是非この文章をお読みの皆様にもこの「空間の定義」から、zero氏の一連の作品を追ってみてもらいたい。もちろん、本稿の扱う2011年度だけではなく、2012年度まで。
 2012年に投稿された「一二三」を読んでから、僕はこの書き手の作品をもう一度読み直してみた。本当に技術論に特化した書き手か、と。おそらく、その考え方は間違っていたのではないかと現在では思っている。この作者は、むろん技術的に高い水準にある。しかし、その真の魅力は、この作品群からあふれ出してくる作者の「作者らしさ」ではないか。丹念な技法に包みあげ、徹底して隠蔽された奥から、僕はこの作者の何とも言えない(これは、怒られてしまうかもしれない表現だが)チャーミングさを感じる。この感覚は表現するのが難しい。きっと読み手には伝わっていないんだろうな、とは薄々思う。
 しかし、技術のベールの向こう側から僕にはこの作者の実存性としか表現しようのない、好ましい何かが見えている気がしてならない。(もちろん、それがそこに存在することは照明不可能なのだけれど)いわば、包み隠すことによってより顕かになる何か。僕はきっと、それが好きなのだろうと思う。
 今回の年間総評の中で最も抽象的で感情的な、読み手の役に立たない批評になってしまったが、お許し願いたい。だが、考えてみれば僕ごときがこの書き手にとって「役に立つ」ことを書こうというのが土台ムリなんだ。

祝祭の果てへ
コーリャ 「川沿いの聖堂」
bungoku.jp/monthly/?name=%83R%81%5b%83%8a%83%83;year=2011#a02

 イメージと表現の花束。まさにそう形容するのが相応しい作品。祝祭的なイメージの中で、ショート・センテンスでリズミカルに重ねられる表現の中で、煌めく光が踊り、人々がざわめき、影は影としてその深さを顕す。
 文章は加速を止めない。練りこまれた表現が、イメージが飛び石のように連なり、読み手としての僕は驚くほど軽い身のこなしで、風のようなスピードで、走り抜けていく。祝祭の中を駆け抜けていく。加速、酩酊、そして光の明滅。
 僕はこの書き手と多分、波長が合うというかイメージの親和性が極めて高いのだろうと思うのだけれど。それだけに、何とも抽象的な表現になることをお許しいただきたい。
 この作品のトリップ感(我ながらなんと芸のない表現だろうか…)は生半可ではない。もちろん、表現の一つ一つや作品の構造やそんなあれこれについて語ることはいくらでもできる。もちろん、語る価値もある。学ぶべきものは山ほど詰まっている。
 だが、そんなことは無粋だ。この作者は一杯のグラスを差し出した。僕はそれを飲み干した。花束を、僕は受け取った。それは、素晴らしい体験だった。それでいいのだ。いわば、この作品は僕が見た楽しい夢だったのだ。目が覚めて、自分が今ここにいることが悲しくなってしまうような、夢。空を飛ぶ夢、子どもの頃の夢…。
 それ以上、何も言いたくない。

文学極道エンターテイメント賞

定型のカタルシス
ゼッケン 「まんどらごら」
bungoku.jp/monthly/?name=%83%5b%83b%83P%83%93;year=2011#a03

 文学極道というサイトは、おそらくこの作品のようなタイプの作品が投稿されることを、前提にしていなかったように思う。しかし、「エンターテイメント賞」という括りがあったことは、とても幸福な偶然だった。この作品を評価することに名前を冠すなら、これしかない。
 実にシンプルな筆致で、端的に過不足なく、エンターテイメント。僕が思うに、エンターテイメントとはある種の定型を持ったものなのだ。悪党は銃撃戦の果てに殴り合いに敗れ、ミサイルは着弾寸前でヒーローの身を捨てた一撃に街を逸れ、人の心を理解したロボットは静かに動作を止める、エンドクレジットが流れる。人々はふぅ、と息をつき残ったポップコーンを口の中に放り込み、すっかり氷の溶けたコーラを飲み干す。
 この作品もまた、そんな楽しさを読み手に与えてくれるはずだ。もっとも、それは楽しさではなく、ホラーの作法に則った「こわさ」かもしれないが。「オチ」まできっちりやる。ある種の凡庸さを受け止め、定型の不自由さを甘受しながら書ききる。
 もちろん、このゼッケンという書き手がぼくの言うようなエンターテイメントの定型に従った作品ばかり書いている、というわけではない。しかし、「詩のサイト」で、限られた分量で、きっちりエンターテイメントをやりきる、というのは実はかなりの離れ業だ。文章量を抑えるため余計なものを削りきっても、きっちりとラストのカタルシスを与えてくれる。
 その技術と「敢えてここでこれをやる」という挑発的な挑戦に、拍手を。

文学極道年間最優秀賞

語り得ない
debaser (一条) 「スロープタウン」
bungoku.jp/monthly/?name=%88%ea%8f%f0;year=2011#id-20111116_719_5702p

 最後に持ってきたこの作品。年間最優秀作品賞最後の一作。(最優秀が三作ある、ということは複数の選者が評価するということの難しさの表れ、文学極道審査員の多様性のありようと受け止めていただければ幸いである)
 さて、何を語ればいいのか。この一条という書き手、㒒自身も多大なる影響を受けて来た書き手、ある種の目標として書き続けて来た書き手。正直に言えば、批評するのに圧倒的に手に余る。Q氏もそうだったが、この書き手は更に余る。
 さて、この「スロープダウン」。実に面白い作品である。僕も、大好きな作品だ。(ただ、一条作品については初期のものが更に僕の好みに合うのも一つ事実であるが)最優秀に選ばれて、実に妥当な作品だ。
 字数稼ぎはこんなものでいいだろうか。
 もちろん、僕だってこの書き手の作品にただただ圧倒されたころの僕ではないし、あれから数年それなりの成長はしたつもりだ。この作品について、例えば構造的に読解する、象徴性について語る、寓意を読み取る。いろんな読みのパターンは手に入れた。
 しかし、「それをする気が起こらない」のがこの書き手なのだ。もちろんこれは、悪い意味ではない。そんなことをせず、「読んだ。面白かった」で全てを終えるのが、最も良いあり方だと思えて仕方がないのだ。
 使い古されて手垢がベタベタの定型句を持ってきて、お茶を濁すしかない。この書き手がいなければ、現在の僕の作品の多くは存在しないのだ。それだけの影響を受けた書き手に向かって、何かを言うなんて出来やしない。ただ、これからも書き続けてくれることを望むのみだ。

文学極道最優秀レッサー賞

今年度の受賞者は、右肩氏、菊西夕座氏、zero氏の三人となった。
作品と同様、あるいはそれ以上に文学極道にとって重要な存在であるレッサー。
読み手にとって価値のあるレス、批評を行うということは、作品を書くことと同じく創造的な行為である。
また、文学極道が「罵倒・酷評」を大いに認めるサイトであるということを鑑みても、優秀なレッサーの存在なしにサイトは存続し得ない。
単なる「つまらない」「面白くない」そんなレスが並ぶようでは、やはりこれもまた「つまらない」のである。
高い水準の知識と技術を惜しみなく注ぐzero氏、独自の見解から作品と寄り添っていくような評を行う右肩氏、評それ自体をエンターテイメントとして創造していく菊西氏。
いずれも、文学極道の投稿掲示板を大いに盛り立ててくださった功労者だ。
レスという作業は、ある意味で報われない作業だ。作者に受け入れられるとも限らない。
しかし、それでも意義ある評を書き続けてくれた三氏に、感謝と敬意を。
良い評は、良い作品と同じく、あるいはそれ以上に、文学極道にとって大事なものであることを、ここに表明したい。
繰り返しになるが、感謝と賛辞を。

各賞次点、及び審査員特別賞受賞者へ

 これらに名前の挙がる作者諸氏は、それぞれ発起人一人以上の推薦がありながらも惜しくも受賞を逃す結果になってしまった。
発起人それぞれが「この人への評価が不当」と不満を残して選考を終えることになってしまったのである。
複数人数での選考の宿命だが、なんともやりきれないものだ。
例えば、ぼくはおかのひとみさんの疾走感あふれる作品にはとても楽しませていただいたし、sampleさん、岩尾忍さんの作品も印象深い。
ズーさんの作品も好みだった。中田満帆さんの文章も実に楽しく拝読させていただいた。
他の発起人も、思いはみな同じだろうと思う。だからこそ、皆さんのこれからの文学極道でのご活躍を、心より期待している。

最後に

 2011年度総評の発表が遅れに遅れて、秋も深まる10月にまで延びてしまったことをここにお詫びいたします。
 これは全て、代表ケムリの不徳の致すところです。申し訳ございませんでした。
 これから先も、文学極道は良い書き手、良い評者のための鍛錬の場、そして才能発掘の場、何よりも良い作品を保存し顕彰する場でありたいと思い続けております。文学極道にご参加くださった全ての書き手、読み手に、心から御礼申し上げます。そして、これからも文学極道をお引き立てくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 僕は、大した能のない男です。皆様の力がなければ、何一つできません。文学極道は、どれだけ過激なポリシーを掲げようと、究極的には参加者ありきの場所です。皆様のご助力のおかげで、ここまでやってこれました。これからも、よろしくお願いいたします。出来る限り、皆様にとって良い「場」であれるよう、努力していく所存です。

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続、総評。

2008-05-03 (土) 07:23 by kemuri

一条「milk cow blues」

 一条という書き手は、わからない。一条氏について語れる書き手など一人もいない。それほど、氏の作品は強固に批評を拒む。着目すべきガジェットは巧妙に隠蔽されている、ないしは存在しない。意味性や外部との連なりはあと一歩で指先から滑り落ちていく。しかし、この書き手ほど解答不能の喜びを読者に与えてくれる書き手もいない。それは、抒情ではない。あるいは個人性でもない。なんだかわからない、答えようがない。しかし、それはどこにも接続されないテクスト、読者と無関係に荒野に立つ塔を意味するのではない、氏のテクストには入り口がある。どうぞ、立ち入りは自由ですよ、とこの作品は言う。そして、実際に我々はどこかに辿り着く、氏の作品が「いい作品だ」という答えだけは提示される、何かが掌の上に残っている。しかし、読者はその道程を踏破したにも関わらず、自らの感覚の根源が見つけられない。「鴎」「黒い豆」…この書き手に対して与えられた「殿堂入り」という称号は、言ってしまえば発起人の敗北宣言にすら近い。誰一人として、自分が歩いた道を説明出来ないのだから。一年目、ぼくは「創造大賞」を受賞させていただいた。しかし、ぼくはここに認めてしまって一向に構わない、真に一年目最も優れた書き手として表彰されるべきはこの書き手だったと、ケムリは思う。批評には、作品と自己その両方に対するディスクリプションが常に必要とされる。作品と自己は対置され、批評すべきは作品ではなく、あるいは自己ですらなく、自己―作品の間に交わされた交歓そのものだ。しかし、この書き手の作品に触れたとき、読者は気づく。私達は自らについてすら語りえない場所を持っている、この作品が言葉を交わしているのは、我々のどこかにある語り得ないブラックボックスそのものだ。「殿堂」という称号は、「棚上げ」のような意味を持ってしまうかもしれない、しかし同時に言えば批評の限界は今のところ、ここにあるのだ。一条氏という存在は、文学極道の喉に刺さったさかなの骨である。発起人はもちろん、この骨を抜こうとしている。氏の作品に見られるムラがさらに悪化するようなら、この称号からは落下するであろうし、また我々の批評力の向上にも期待していただきたい。今年は魚の骨を引っこ抜くことは出来なかった、だが来年は引っこ抜いてやる。これは、批評をする者にとって大いなる喜びであることを隠す必要はない。我々は、沈黙しない。待ち続け、挑み続ける。

さちこ(藤坂知子)「繋音」

 生命が去っていく、あなたが去っていく、深い森の底へ。この書き手の中で「生」と呼びえるものは「あなた」しかいない。バシュラール的な象徴的語彙、風の終わりとは即ち死を顕し、森の奥は人の知り得ない世界だ。彼は宙吊りにされている、圧倒的な死を与えられながらも、作中主体と死の森の間で僅かな猶予が与えられている。その猶予は音として表される。繋がれる音、それは掌に残った記憶の雫が乾いていくまでの、草に覆われていく(外部的な記憶―例えば彼は猫が好きできゅうりのピクルスが食べられなかった…そういった明晰なる歴史的事実に包まれていく)「彼」の身体が一本の道へと形作られていくまでの残滓。作中主体、「わたし」の中にほんの僅か残った彼の遺骸。人は、忘れていかなければならない。死人と向かい合ったままでは生きていけない、死人はいずれたった一つの道となる。それはもちろん、ぼくたちがいずれ歩かなければならない道程、即ち死(=森)への矢印なのだけれど、でもその道を前にしたときぼくたちはやはり、声を繋ぐことを選ぶのだろう。叫ぶべきものがなくても、掌に残った雫が全て乾いてしまっても、生きるならばぼくらは声を繋がなければならない。不恰好でも、唄にならなくとも、それでも声を上げなければならない。生命の音が途絶えた森の中で、歌わなければならない。示されている内容は切実であり、また共感も強く得られる、モチーフへの目の向け方も実に正しい。だが、この作品は象徴的語彙の形作る構造性に比して、描写に甘い点が多く観られることも最後に指摘させていただきたい。抽象性と具象性の入り混じりが、単なる空疎な行稼ぎ、「それっぽい語彙」の連なりに見えないこともない箇所がある。その部分に、一層の鍛錬を願いたい。もっとも、こういった作品は何らかの強い動機の上に成立している(リライトをするような、あるいは技術を問題点として取り上げるような性格のものではない)可能性が強いことも、同様に認めねばならないけれど。

最優秀レッサーミドリ

 レスというのは、報われない作業だ。真摯であればあるほど、作品に対しては厳しくなる。そして、「正当な批評」というものはきっと、この世のどこにも存在しない。強いて言えば、ぼくたちが属している世界の構造的な決定事項、つまり資本主義的批評―売れれば正義ということ―くらいが一面的には正しいのかもしれないけれど…。(なにせ、ぼくらはカネがなければ死ぬのから)でも、そんなのクソ食らえだ、そうじゃないか?
 もちろん、この批評を書いているぼくのように、賞賛すべき対象に対してのみレスをつけるのであれば、それはそれほど苦痛な作業ではない。それどころか、大いなる悦びですらありえる。しかし、誰かの作品―それは、時には作者の人間ともイコールであると考えられることすらある―について、なんらかの批判やアドバイスを行うということは極めて苦しいことだ。もちろん、ミドリ氏の批評に対して納得のいかない思いを抱えている人間も決して少なくはないだろう、なにを隠そうぼくもその一人である。ついでに言えば、ぼくの批評に対して同様の思いを抱えている人間はもっと多いはずだ。しかしぼくは役柄という仮面をかぶり、やるべきこととして批評をする。尻をムチで打たれて走る人間は、常に評価になど値しない。それがぼくだ。だが、ミドリ氏は違う、なんの強制性もない場所に立って、自らの語彙を他人に対して与え続けている。それも、感謝されるとは限らない、それどころか多くの場合に於いて反感を買うような場所で。言うまでもなく、批評を続ける人間は磨り減っていく、語るべき語彙が、あるいは動機がそんなにあるはずがないのだ、普通は。豊富な語彙で衒学自慢に陥ることなく、語りかけ続けるレッサー、ミドリ氏に。感謝を述べたい。またこの賞に関しては、敢えてその役柄だけを選び取り精力的にレスをつけ続けてくれたひふみ氏、実感的な言葉で日常のうちに、身体感覚と不可分の率直さでレスをつけてくれたCanopus(角田寿星) 氏、そして多くのレスを続けてくださっている諸氏に、ありったけの感謝を。

最優秀抒情詩賞及び実存大賞次点
紅魚ピクルスいかいか葛西佑也、そして候補に名を連ねた書き手達。

  それぞれ本賞受賞に一歩及ばなかったものの、発起人の票を集めた書き手達。選考者によっては、それぞれの本賞における第一候補として名前を取り上げられている方ももちろんおられます。しかし、悩んだ末のことであると了承していただきたいのですが、ここに列挙された一級の書き手たちについて、ぼくは批評を書く資格がありません。ぼくは「推した側」に入っていないからです。この選評について、ぼくは正直に、本来の意味で「称える」あるいは「価値を語る」批評をしたいと思っています。であるからこそ、惜しくも次点に留まった皆様へ賞賛を贈る仕事は、ぼくがすべきではありません。選評を散々に遅らせた上、このような形は申し訳ないのですが、やはり「推した」発起人の方々がこの場で語るべきだと感じます。ぼくの口から語るべきことは、ここに列挙された書き手を強く推す発起人は確かに存在し、我々は長い期間を喧々諤々に争った、ということ。また、列挙するのみに留まってしまいますが、最優秀抒情詩賞の候補には夕美氏、実存大賞にはsoft_machine氏ためいき氏はらだまさる氏。新人賞にはレルン氏レモネード氏の名前が挙がっていたことを述べさせていただきます。上段に構えた物言いが自分の中では非常にムズ痒いのですが。より一層の躍進を心から望みます、良い作品を切磋琢磨する場であるためには、皆様の作品が必要です。来年は、今年度の受賞者から賞をムシりとってやってください。また、流離ジロウ氏「にじゅう年の熱帯の鳥」haniwa氏「よるにとぶふね」の二作は、賞の基準には及ばなかったものの、名前をここに記すべき作品であると選考の中で複数の発起人に語られていたことも付け加えさせていただきます。「にじゅうねんの熱帯の鳥」はぼく自身も大好きな作品です。このブログがあって、良かった。

吉井「れてて」

 最後になりましたが、ケムリ選。ええと、これだけは言わせてくれ。この書き手に対する評価が不当に低いとは思わないか。いや、俺は思うんですけどね。この書き手に対して、俺は批評なんかしたくないです。ここまで書き上げて、気がついたら夜が明けていたりもするし、ビールが五本空になり、オールド・グランダッドが一瓶空いてしまったわけなんですが。今日はこれからバイトだよどないしよう。そんなときに読む「れてて」はじんわりと心に染み入ってくる、なんだかわからないものが、じんわりと。うひぃふふほーういい天気だ、雨降ってますけど。言っちゃなんですが、ここまでつけた選評はぼくの全てをこめました、いささか拙いであろうし、誤字チェックも甘いですが、それでもこれはぼくの全てです。そういうわけで、本当に疲れました、灰皿がサボテンみたいなことになってるし。それでも、「れてて」は染み渡って来る、もう、それでいいんです。批評は出来ないししたくない、でもとにかく俺はこの書き手の書く文章が好きなんだ。それでいいじゃないかということでケムリ選。うひぃふふほーう疲れた。れ れて れてて、何度も読み返してください。ほら、何かが染み出して来ませんか?来るだろ?来るはずなんだよ!

さ。
さて。
さてて。
文学極道三年目、いささか遅れましたが総評は以上となります。いや、まだ不足があったり「あれ書き忘れてる」とか「この人忘れてる」とかの可能性もあるかもしれませんし、ぼく自身が大慌てで加筆する可能性もありますが。それでも、これをひとまず幕とさせてください、少なくともケムリの下手糞で長ったらしい語りはここで終わる予定です。でも、まだまだやります。まだ、きっとやれる筈です。そして、来年もこういった総評を、本来の意味での批評をぼくに書かせてください。その時を楽しみにしています。ぼくは、批評をするに足りる人間ではないかもしれない、いやきっと足りないだろう。でも、足る人間であろうと努力します。そして、必死で作品を読みます。それだけは、約束させてください。

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年間総評、初めてぼくは本当に批評する。

2008-05-02 (金) 21:18 by kemuri

 船頭多くして船は山に登る。山どころか、空の果てまで行ってしまうような選評だったと言って間違いないだろう。ご存知の通り、発起人諸氏はかなり癖の強い人間が集まっている。ぼくのような無個性極まりない人間には辛い選評であったとまず雑感を述べたい。要するに、モメまくったのだ。おかげで発起人達は長い時間を悩み、ぼくはシャンプーとトイレットペーパーを三度も買い忘れた。この批評文は、文学極道に於ける本賞を受賞した諸氏に贈る純然たる感謝と賞賛の言葉だ。

 発起人には当然ながら、気に入った書き手がいる。それは、例えばぼくの場合にすると吉井氏なのだけれど。個人の評価と全体の評価というのは凡そにして噛みあわない。そして、これはもっと確実なことだけれど、意見のすり合わせは限りなく不可能に近い。密接した小国の領地争いのような戦いが日々繰り広げられ、ぼくはダーザインに背中を撃たれたりもした。ただ、それでも今回の選評に於いて、その最も軸になる部分「ずば抜けた作品はどれだ?」という部分において、発起人の意見はほぼ完全と言っていいほど一致した。皆まで言う必要も無い。

宮下倉庫「スカンジナビア」

 見事な作品である。創造大賞の一年目はぼく、二年目はコントラ氏が受賞しているわけなのだが、三年目にして最も完成度の高い、練熟にしてリーダビリティに優れた豊穣なる作品である。コントラ氏と初年度のぼくは、全く逆の欠点をそれぞれ有していた。ぼくはイメージを比喩の形で一つのイコンとして結実させ、飛び石のように重ねていくスタイル。コントラ氏はベタ足のインファイト・ボクサーのように一歩ずつ前へ前へと描写を重ねていくスタイル。それぞれの作品を読み直せば、この特徴は容易に理解されるだろう。そして、宮下倉庫はそのいずれのスタイルも使いこなす。「なるほど、君たちのいいところはそれなりにわかった、ではこんな具合でどうだろう?」とでも言いたげな筆致。もちろん、この書き手がぼくらに影響を受けたなんて大それたことを言う気はない、スタイルのバランス感覚があまりにも適切である、ということだ。この書き手についてはいずれ独立した形で批評文を献じたいと思っている。学ぶことが最も多い書き手であることを、もはや誰も否定出来ない。この作品を一番高い位置に持ち上げるということは、即ち読者への無言の(それでいて明確な)主張を表す。「この作品に学べ」ということだ。

りす(袴田)「赤い櫛」

 それを追いかける形で創造大賞を同時受賞したりす氏。誰もが常に高く評価し続ける寡黙な書き手、常にスタイルを破壊し続けていく書き手、その作品に通底するのはあくなき実験精神であろう。作品の主軸ではなく、方法論を問い続ける書き手として、宮下氏の創作方向とも似たものを感じる。そして、この文学極道が鍛錬―それは即ち実験を意味する―の場であることからしても、氏の実力と精神性は受賞には十分足る。しかし、この書き手は何故かナンバーワンから常に一歩退く。批評に向かい合う姿勢は常に真摯そのもの、自己模倣を嫌い続けスタイルに安住しない精神、そして確かな技術。ありとあらゆる技巧を軽やかに使いこなす妙手。全てが満ちているはずだと誰もが思っている。多くの人が心の中で密やかに思っているはずだ「みんなあんまり声高に言わないけれど、あの人の作品っていいよね」その通り、そんな書き手である。この書き手に不足するものはなんだろうか、それはぼくにはわからないけれど(わかるわけがない、そうじゃないか?)ぼくはこの書き手が「何か」を獲得する日が近いことを、追いすがる全てを振り切る何かを獲得することを、強く信じている。いや、そうでなければならない。

浅井康浩「No Title」

 ぼくも明日にはチェンバロの歩く平野に帰りたいと思う。文体という名の草木が芽吹き、やわらかい水がつま先を濡らす、暖かで小気味良い砂利を含んだ土に足を沈めるとき、人は思う。スタイルとはこれほどに抒情性を帯びるものなのかと、技巧とはこれほど豊かなものなのかと。それは、例えば八月の潮風に似ているし、目を覚ました時の一杯の水にも似ている、太陽の匂いがする毛布にも似ている。浅井康浩氏の作品が「最優秀抒情詩賞」を受賞したことについて、ひょっとしたら異論がある人もいるかもしれない。この書き手の技巧とスタイルについて異論を挟める人間は一人もいないとしても。詩が、もしも何かを―書くものだとしたら、抒情というのはモチーフにアプリオリに根ざすものだと考えるとしたら、それは間違っている。この作品と不可分の場所に生まれて来る感情を揺らす作用、それこそがより原初的な形での抒情なのだ。ぼくたちは海のために泣くことが出来る、飛んでいくからすのために泣くことが出来る、九月の夕暮れのために泣くことが出来るのだ。そして、その名状しがたい抒情性を扱いこなす技巧、それこそが浅井文体の魅力である。氏は、今年度圧倒的に抒情性を増した、我々批評する者を泣かす「出所のわからない情感」を見事に使いこなして。技巧に沈潜するのではなく、技巧の持つ意味をはっきりと示した、ぼくはこの作品から与えられた感情を比喩の限りを尽くして「良く似たもの」として表象する、でももちろんそれは間違っている。だから、誰もがこの作品を読むといい。最優秀抒情詩、毛先一つの間違いもない。

泉ムジ「corona」

 今年度の選評における、最大の論点。最後の最後まで宮下倉庫と鎬を削り続けた名作。そして、たった一作にして最優秀抒情賞を獲得した書き手。泉ムジという書き手について、ぼくは多くのことを知らない。ほとんど何も知らないに等しい、それは発起人諸氏の全てが同じだった。にも関わらず、この作品は我々にとって永久に顕示し続けるべき魅力に満ちている。この作品は、幾つかの解釈の迷宮を我々に投げかける。そして、どのような読み方をしようとも流れていく時間性、永劫に僅かに触れた感触が指先に残る、端的でありながら十分な描写、多様な解釈を許しながらもテクスチャとして立ち続ける強度。そして、豊穣なるイマージュ。描写の節々が、永劫の一切れが静止し視界を埋め尽くす瞬間、我々は詩の中で立ち止まる。語られるものの中で立ち尽くす、そして膝を折り、無言の下に祈る。そこには、語られたものと聞き取ったものを越えた何かが浮上する、一枚の絵、あるいは一つの構造、そして一つの作品。その中には永劫が満ちている、鳥の羽根としての我々が触れたのはあまりにも巨大なえいえん。名状しがたい何者かを連れて、この作品は永劫を誇示し続ける。人間の持つ永劫を誇示し続ける。それを抒情と呼ばずして何と呼べばいい?Sein―ただ「ある」ということ。そう、この作品はここにあり続ける、永遠の一片が折り重なる場所に。

軽谷佑子「晩秋」

 ぼくたちは同じものを見ることが出来るだろうか。ぼくは机を窓際に置いて、いつも半分だけ開けているカーテンの光が差し込む場所に灰皿を置いているんだけれど。そこから無数に突き立った吸殻の陰影を、そういう確かにあるものを、ありのままに書くことがあまりにも難しいことを知っている。ねぇ、気づいているんだろ。ぼくときみはわかりあえない。同じものを観ることが出来ないからだ。ぼくはこの書き手に尋ねたことがある、「そのイマージュは何らかの比喩性や、あるいは意味を持っているのか?」と。言うまでもなく答えはNOだった。「鳩が垂直に降りていったんです、すーって」ぼくたちはそろそろ気づかなければならない、断絶された自己と他者、「違い」というものはこれほどに豊かなことなのだ。そして、世界を観るということは容易なことではない。ぼくたちの世界のあらゆるものは、意味に汚されている。モネの絵をみたことはあるだろうか。我々は光を介して世界を見る、つまり世界の「見え方」は常に、光とともに変化し続けている。にも関わらず、我々にとって青は青でなければならないし、赤は赤でなければならない。(そうでなければ、世界は交通事故で満ちる、もちろんコミュニケーションの上でも)語られた世界というのは、通じ合うためにその豊穣さの多くを削り落としている。ただ真っ直ぐに世界を観るということ、介在して来る意味に汚されない目線、エポケーされた世界。これは、実存という言葉と強く結びついている。そして、その世界からあなたは何を汲み取る?この古典的でありながら、実存的という意味を体現した書き手の目は、一体何を示唆する?(あるいは何を示唆しない?)その全てはあなたに託されている。そのディスクリプションの透明さ、それは実存なんて語彙ではむしろ不足だ。気づけよ、他者はこれほどに豊穣だ。

みつとみ(光冨郁也) 「サイレント・ブルー」

 ざくざくと切られた素っ気無いとすら思える文章。読点によって整えられたリズムは時々破綻を感じさせるものの、ざらついた主体のありようを明確に立ち現す。書き手の調律された自意識が描写の中に滲みだす。自己と作品の癒着や、どうしても滲み出してしまう自意識は描写で対価を払う。作中主体を中心として描きあげられた心象世界。地に足がついている、描ききろうとしている。みつとみ氏のとる手法は古典的であるが故に、ある意味で最も難しい。この書き方で、書き手のナルシズムを殺しきる、あるいは昇華させ切るのは容易いことではない。(氏の作品の中にはこの失敗を免れていないものも多いことを、ぼくは否定しない)しかし、連ね続けた描写と詩の原動力としての自己、その二つが分離でもあるいは完全な同一化でもない場所に辿り着いたとき、語り得ぬものは生まれ、陳腐な自意識は舞台の袖に下がるだろう。内省と自意識、そしてナルシズム。詩を書く上での最大の敵は同時に詩そのものの生まれる場所でもありえることは誰にも否定出来ない。「サイレント・ブルー」を読む時、みつとみ氏という書き手、そして作中主体、そして読者。この三つは寄り添うことを拒否しながらも近寄り続けていく、まるで冬のはりねずみみたいに。孤独の青みが満ちた世界性の中で、沈黙が重なる場所を探っている。いつかその手が自己の、あるいは他者の魂を捕えることを願ってやまない。わたし、しかいない場所には、やはりわたししかいない。だが、そのわたしが誰を指し示すか。

兎太郎「地蔵盆」

 技巧と本質、形式と内容…この二項対立について考えない書き手は存在しないだろう。それらは独立しては存在しえない。というのも言葉は何か―を語るものであることを禁じえないし、何か―が言葉と密接に結びつき合っていることも同時に否定出来ないからだ。あらゆる書き方は技巧のうちに語ることが出来るし、あるいはあらゆる内容は外部コンテクストの内に語ることが出来る。兎太郎氏の作品には極めて不足が多い、文章はリズムを欠いているし描写には無駄や不足も多く見られる。しかし、その語り口(そう、不足すらも技術の文脈で語りえる)の内に明晰なイメージと飛躍が、不可分の形で生まれて来る。だから、我々は悩むのだ。「技巧の不足は確かに感じる」(しかし)「その不足そのものが魅力と分かちがたく結びついていることも感じる」。無論、より突き詰めた物言いをすれば、「不足」を感じさせることはマイナスである、しかし生まれて来るイメージはその不足を前提として結実している。言いたいことはたくさんある、でもぼくはこの書き手を否定出来ない。巨大な伸びしろを持った書き手、新人賞の意味はそこにある。ぼくはあなたを認める、あなたの書くものを認める、それを失わないで欲しい。しかしその一方、不足も多く感じる。どうか、その魅力を失わないままに鍛錬を続けて行って欲しい、その願いをこめてこの賞を贈る。もし、ぼくの役目が「良い詩を書くためのアドバイザー」だとしたら、ぼくはその任に値しない人間であることをここに認めなければならない。ぼくに出来ることは、兎太郎氏の独自の魅力を高く評価していること、そして発起人諸氏に共通する強い期待を伝えることだけだ。

近日中に、選考過程のあれこれを記した文章、並びに本賞に近い位置に並ぶ書き手達への批評文、あるいは賞からこぼれた作品について書かせていただく。(本当はそっちが主題なのだ、実は)でも、ぼくはこの批評を書きたかった。そして、これを書かないことには何も始まらない気がしていた。ぼくは初めて、本当に批評をしたような気がする。もちろん、それほど優れたもの、これらの書き手達を賞賛するに足りるものではないにしても。

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投稿についての幾つかのこと。

2007-12-04 (火) 21:25 by kemuri

あまり、この場ではルールを制定していないし、今後ともそれほど締め付けを厳しくする気も多分、発起人諸氏に関しても無いと思うんですが、常識的な範囲で幾つかのことを告知します。あくまで、常識のレベルとして。書くまでもないことばかりですが、是非ご覧ください。

(1) 作品投稿は自作品に限ります。
―しかし、代理投稿やその他、やむを得ない事情のある場合はその限りではありません。
要するに、他人の作品を勝手に投げちゃダメですよ、また他人の作品を自作だと偽ってもダメです。ってことです。一応、著作権とかありますから。投稿の場として運営している以上、その辺は守る必要が常にあります。ご理解を。

(2) 「誤解を招く」発言は、ご容赦ください。
―他人の作品を無断で投稿した可能性がある場合、当然ながら対処をとらなければならなくなります。
そういった可能性を示唆するような発言があった場合は、一律の判断となります。これは、自衛の意味もこめての判断ですので、ご容赦を。それが現実に盗作であったか、というのが問題なのではなく、その可能性が示唆されたものを放置することは出来ないという風にご理解ください。

(3) 複数のペンネームを使うことについて。
―これは、別段問題があると慣習的には思われていません。そういうことが、例えば「名前の先入観を排した状態での評価が受けたい」のような場合、推奨しているわけでもありませんが、経緯の上では許容されています。しかし、悪意を感じさせるような(抽象的な言い方ですが、例えば名前を複数個使った上で場を混乱させるような)使用方法は、常識的な問題としてご遠慮ください。例えば、同一の作品に対し、Aという名前で賞賛を、Bという名前で酷評を、というのはあまり望ましくありません。無論、明確なルール違反というところまでは規定しませんが。

(4) 引用やオマージュについて。
―引用については、法に準拠します。作品中で引用をする場合は、それが引用であることをレスでも構いませんので示すようにしてください。詳しい基準に関しては、ウィキペディアが安直ですが、わかりやすいかと思います。簡単に言えば、「その文章が自分の筆によるものだと偽ること」を禁止する、ということでいいかもしれません。また、「これくらい知ってて当たり前」といった姿勢はトラブルの種です。どうぞ、そのようなことで作者様が磨耗することのないよう、適切な配慮を心がけください。神経質に過ぎるくらいで丁度いいかと思います。
また、どこまでがオマージュであるか(どこからが盗作か)というのは非常に曖昧なものですが、文学極道に関してはこれは適宜協議をもつ形で、クレームがあった場合には対処させていただきます。基本としては、創作手法としてのオマージュその他は、かなり容認されています。こちらの場合も〜へのオマージュと出典を明記することで、トラブルは避けられるかと思います。

なんにせよ、文学極道はルールをガチガチに制定する場ではありません。
問題が起きるごとに(これからも起き続けると思いますが)、対処していくというのが基本姿勢である、とぼくは思っています。そういうわけで、上記のようなことにだけ注意していただき、ご不明な点があればフォーラムでご質問ください。また、問題を発見された場合も、お手数ですがフォーラムの当該トピックにて報告いただけると助かります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

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コンテクストと強度について、あとコラムの補足の意味も

2007-11-14 (水) 23:21 by kemuri

billigen Rock

とても安っぽいことだ
とても簡単なこと、いつだって脱ぎ捨てられる
俺は、俺をいつだって脱ぎ捨てて
新しい世界に着替えて、ほら一つお辞儀を

10ダラーズ、1000円、10ユーロ
まぁ、なんだっていいさ
Billigen Rockだよ、それ一つでいい
薄っぺらなそいつで、何もかも変われる

今、おまえが立っている地面が
今、見ている窓と空と電線の重なりが
ママとパパと歴史の授業が
くるくる回って叫んでやれよ Billigen Rockで

くだらない詩ですよね。文学極道にこんなの投稿したら、ボッコボコ間違いなしです。今、40秒くらいで書き上げました。ええ、ひどいですよね。でも、この作品には一つだけ、劇薬的な効能があるんです、リトマス試薬的なといってもいい。真面目に勉強してる大学生とそうじゃない大学生を見分けるっていう。
 はい、皆さんこの作品の主題、なんだと思いましたか?ドイツ語の授業に真面目に出た人だけが気づいたと思うんですが、「ジェンダー」もしくは「クィア」です。billigen Rockはドイツ語で「安いスカート」ですね。一昔前に流行ったような作品です。ドイツ語を履修しているお子様を持つお母様、学費が生きているかどうか試すチャンスですよ。
 はーい、正直に「ROCK」に引っ張られて、まぁなんかわからんけどブレイクとかその辺の仲間の形容詞プラス「ロック」だと思って読んだ人挙手。いや、俺としてもドイツ語のひっかけに気づかなかったことはどうでもいいんですよ。大体、文法的というか形容詞の使い方的に怪しいし、フランス語でやられたら俺も引っかかるわけでね。こんな引っ掛け、幾らでも作れるし、引っ掛けてニヤニヤするくらいしか使い道ありません。この程度のことやって「こんなことにも気づかないのかよ」って批評から逃れようとする糞への牽制でもある。未だにいますよねぇ、こういう人。もっと抽象的な内容で「おまえの読みはその程度か」とか、アホちゃうか、と。読ませられないおまえの実力が無いんだよ、と。ちなみに、この作品に関しては、ドイツ語の意味と「ロック」の文脈の両方を読めることを前提に書いてます。既存社会への反抗、っていうロックの文脈と意味と音の重ね合わせ。まぁ、一応ね。作品と最低限呼べる「構造」はある。くだらないけど。
 まぁ、そんなこたーいいんですよ。今日、俺が問題にしたいのはそういうことではなく(ついでに、そういうアホは文学極道にはお呼びでないとアピールしたりしつつも)このコラムで問題にするのは「文脈」(コンテクスト)についてです。
 まず、コンテクストってなに?ってところから。
一般に、コンテクスト(あるいはコンテキスト)は、日本語では「文脈」と訳されることが多いが、他にも「前後関係」、「背景」などと訳される。コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であればお店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。
                             ――ウィキペディアより
 ま、こういうもんなんですね。便利な時代です。これと類似した概念で、「コード」ってのがあります。上記の作品とこのコラムにおける「ドイツ語」みたいなもんですね、両者が知っていないと話が通じなくなる暗黙の知識。文化のコード、慣習のコード、知識のコード、立場のコード、まぁこれはここまで。
 んで、俺が何故「文脈」って書かずに「コンテクスト」って言葉を多用するかっていうと、「文脈」って訳語には、上の引用を見て貰えば判る通り限界があるんです。かなりの意味がそぎ落とされる。意味もなくヨコモジを使う人間は(笑)をつけて嘲ってやるのが俺の趣味ですが、こればっかりは使わざるを得ない。ハイデガーとか読んだ人にはわかると思うんだ。「変に和訳すんなボケが!脚注つけろ、意味わかんねーわ!」みたいなね。仏教用語とかマジ無理、しかもその用語本来の意味を調べても出て来ないイジメ。ああ、また話がぶっ飛んだ。戻ります。
 詩を書くときには、様々なことを意識しなければならない。例えば、単語の一つ。例えば、上に出した「ロック」なんて単語には、付随するものがたくさんあります。ロックと言う言葉には、カートコベイン、社会への反抗、ギターのFが抑えられた喜び…無限に近い「コンテクスト」がついてくる。他の単語も同様です。例えば「愛」なんて考えてみてください、愛の観念は個人的なものから「隣人愛」みたいな超メジャー級まで、非常に多様なコンテクストが芋づる式にくっついてくる。そういう言葉、例えば「悪魔」とか「夢」とか「血」とかもそうですけれど、こういうものを作品に無造作に放り込むとひどいことになるのは、ある程度書き慣れた書き手なら言わずと知れたことでしょう。
 だからこそ、作品を一個作るときには言葉を選び、文脈を「絞り込む」。言葉の回りにあるもの、付随するものを内容の上で絞込み、見せたい箇所を提示する。そういう努力が常に必要になるわけです。
 ここで、便宜的に名前をつけることにしましょう。「明示されたコンテクスト」「暗示されたコンテクスト」とでも。明示されたコンテクストは字義通りの内容、辞書に記載されたもの、暗示されたコンテクストは前述したようなものです。そして、詩を書くときはこの両方に常に意識を払わねばならない。まぁ、こんなもんは常識です。「考えたこともねーよ」って人は反省してください、意識的・無意識的は人にもよりますが、普通はこの程度のこと考えて書いてます。言われてみて「まぁ、そうだよな、やってるわ」って人も多いでしょう。
明示されたコンテクストのみで構成された作品は、おそらく「法律」のような無味乾燥なものだし、その逆は「全く以って意味がわからない」「どうとでも解釈できる」代物に成り果てることでしょう。暗示されたものと明示されたもの、この二つのサジ加減は、作品構築の一つの要です。もちろん、一番大事な要素というわけではないですがね。ちなみに、法ってのは全て「明示」されてないとまずいんです。だから、法学ってのは言葉の定義に必死になる。明示されていないものは定義し、整理して明示しないと機能しないわけですね。でも、詩や文学に関してはその限りではない。
さて、当然の話はここまでとして。では、ここで少し話を戻します。
「スイーツ(笑)」って、言葉の使い方を皆さんご存知でしょうか。これ、女性誌の通俗的…というかなんというか、薄っぺらさというか、そういうのを笑い飛ばすために、名も無き2ちゃんネラーが開発した手法なんですが、これモダニズム的に分析すると、結構面白いんです。風刺やパロディ、脱構築なんて言葉で語りたい人もいるかもしれない。俺自身も、批評方法として即物的に使いましたが、面白く使えました。さて、まず何故甘いもの、ケーキやシュークリーム、はたまたプリン、そういうものを「スイーツ」と呼ぶか、ここから解説は始まります。まぁ、端的に言えば「格好いい」わけですよね、ヨコモジで。デザートなんていうありふれた言葉でなく、また意味の上でも「甘いもの」なわけですから、「食後の」って意味を内包する「デザート」よりは使い勝手が良い。実際、バカにされつつも便利な言葉だと思います。しかし、そこに含まれる「こう呼べばカッコいいだろ?」っていう気配を、(笑)は嘲笑する。
 この用法、少しでも「かっこつけ」の気配のする外来語、あるいは単語もしくはセンテンスの全てを笑い飛ばすだけのパワーを持ってます。「差異と反復(笑)」「零度のエクリチュール(笑)」「傷だらけの天使(笑)」いや、別にドゥルースやバルトに恨みはないですけれど。さて、何故こういうことが起きるんでしょうか?
 もちろん、皆さん感覚的にはわかると思います。しかし、何故起きるのだろうか。実際、「スイーツ」って言葉は「ダサい」のか?それは、元からダサかったのか?そうでもないと思うんですよ。元々はそれなりに「格好良かった」んだと思います。羽根の折れたえーんじぇー!って叫ぶのが格好良かったことも、あったんでしょう。
 「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉があります。まぁ、有名ですよね。解釈も色々あると思うんですが。この際、「意図主義」的な解釈論争は抜きにしましょう、稲垣足穂が何を考えてこの言葉を書いたのか、という方向ではなく「どう解釈すると意味が通るか」という視点でこれを語っていく。すると、議論の基本は「単語の整理」ということになる。「詩」は、詩作品という全体としてひとまず置いておいて(めんどくさすぎるから)、「歴史性」と言う言葉について考えてみる。さて、これどっちだと思う?新しいほう?それとも、古い方?旧来の「歴史」というコンテクストか、「新歴史主義」(ニューヒストリズム)の方か。もちろん、発言の年代を調べると答えは出そうな気がしますが、それはちょっと置いておく。つまり、どちらを「挿入すると」より「使える」言葉になるか。プラグマティックな観点で考えてみましょう。新歴史主義、というのは…あー、説明すんのめんどくせ、でも適当な解説がネットにねえなぁ…。えーとまぁ、てきとーに言うと、歴史というのは「それが在り解釈される」ものではなく「解釈されたもの」である、つまりね、日本軍が攻め込んだぜおういえ、日本最悪さぁ、っていう風に「意味づけされた作品」が歴史だっていう考え方です。純粋な記述としての歴史なんてありえない、恣意的に解釈されたものでしかない、という立場。つまりね、テクストに外部無しで権力構造、規律=訓練的な…、あーもういいや。みんな買ってくれ「文学批評用語辞典」。便利だから。実は、このコラム二つ目でね、一つ書いて用語全部に脚注つけたら本文よりそっちが長くなったってコンテクストがあるのよ。(必然性のないヨコモジの例)
 んでまぁ、そういう風に「詩は歴史性に対して垂直に立つ」を解釈していく。まずは「歴史」の方から。歴史っていうのを、「実際にあったことの連続」として捉えて。するとまぁ、歴史っていうのは「直線」の概念になるよね。過去から未来へと流れて行く時間、そこから詩は「垂直」に立つ。飛躍する作品、「歴史」は常に土台に存在するが、それと同じ方向、過去でも未来でもない、そのどちらからも等しく最も遠い方向(垂直)へと、「歴史を土台に」、詩は構築され、志向する。これ、面白い考え方で、見ようによってはヒューマニズムっぽかったりもするね。人の織り成した時間の流れが詩の根底である、と。
 じゃあ、別の方。歴史というのは、イデオロギーであるという考え方から。歴史が恣意的な構築物であり、常になんらかの政治的主張をまとっているならば、これは全く意味が変わってくる。となると、「歴史性」は時間軸ではなく「構造」という解釈が妥当になってくるかな。構造、というのは今ある世界の全てです。一番わかりやすいのが「言語」ですね。ソシュール(構造主義の親玉です)の見解に立って、言葉というのはシステムであり、それ自体、例えば「あ」という音自体に意味は含有されず、それらの「システムとしての構造」の上で意味が生まれるわけですから、詩というのが常に言語で表現される以上、歴史性の上に立つのは間違いがありません。そして、この考え方に依存すると、我々の思考、例えば「日本軍は悪い奴」とか「先祖は大事」とかそういうのも、「日本」というシステムの上で、主体(俺とかあんたのことね)の外部からの影響の上で構築された思考方法なわけですから(こっちも構造主義の親玉、レヴィ・ストロースさん(存命してます)の考え方)そんな我々が書く詩は「歴史性」に立つに決まってます。そんで、文学は例えば、シュールレアリスムなんかそうですけれど、言語構造の枠組みすら解体していくし、イデオロギーも解体しようとするわけですから、これもまた「垂直」で正しいことになる。うん、稲垣さんすごいねぇ、という結論が残る。色んな読みに耐えて意味を通してしまう。これ、歴史を越えていく言葉の一つの特徴でもあります、時代が変わり思考の枠組みが変わっても淘汰されない言葉。もちろん、抽象的な言葉であればあるほど色んな読みに耐える傾向がありますが、逆に言えばそれは「意味がとりにくい」「解釈しにくい」ということに他ならず、この絶妙なサジ加減が大事なわけです。ただ、この「詩は歴史性…」の言葉に難癖をつけるとしたら、これは詩の持つ一面を端的に(しかも多様な読みに耐える仕方で)示したものに過ぎず、詩の全体像、詩の「本質」みたいなものを示した言葉ではない。まぁ、もちろん言うまでもないんですが、んなこと不可能ですよね。ズバリ本質、本質主義、詩とは何か、そんなもん示せたら苦労ねえよボケが。というのが俺の見解。
 結局オマエは何がいいてえのよ?と言いたい気持ちはわかります、でももうちょい読んで。詩に本質なんか無い、ってことですよ。日本人に限らず、何かには本質がありそれを捉えようとすることが大事だ、みたいな考え方は根強くありますが、こと「詩」に関してそれはあまり「便利な」考え方ではない。むしろ、上で示した(笑)のような、変化していく、変化させていく、昔格好良かったものがちょっと時間が経つと格好悪くなる、そういう変化に対して機敏に反応し、常に時代のベストを狙っていく、あるいはどんな読みにも消尽しない「普遍に近い」方法を探っていく、これこそが「詩作の方法論」だと思うんですね。両方の意味で「歴史性」を意識すること。垂直に屹立する作品であるために。
 ダーザインがよく使う「強度」という言葉。俺は、これを「時代や思考の変化、あるいは読みの多様性によってもかき消せない良さ」と定義します。そういう意味で、稲垣足穂の言葉は非常に「強度」があると言える。あるいは、時代によって変化しにくいものに力点を置く。例えば「文体の美しさ」とかです。もちろん、時代時代で人々の文体は変化しますが、それでも美しい文体は美しいわけですよ。あるいは「作品の構造」や「絵的なイメージ」なんかも比較的やられにくい。「カラマーゾフの兄弟」読みましたか?あの人間描写と作品構造、あれがそう簡単に消えると思いますか?あるいは、宮沢賢治の描いたイメージ、あれだってそうそうは消えない。もちろん、永遠ではないと思いますけどね。人類が滅びるのとどっちが先かなー、ってレベルで。
 詩っていうのは、そのほとんどが「相対的」なものだと俺は思うんですよ。いや、わかる、「はいはいモダニズムモダニズム」みたいなのはよーわかる。でもさ、そうじゃないかね?逆に言えば、我々が「ひどい」と認識する作品があるからこそ、「良い」作品もある、と言い切ってしまおうか。我々が格好悪いと思う言語の使い方があるからこそ、その逆もある。そういうことです。そして、それらは固定されたものではない。
 ちょっと話を変えて、文学極道が「革新」のメディアか「保守」のメディアか、皆さんどっちだと思いますか?ちょっと混乱しませんか(笑)「基本的な文章力」「読者への作品」「難解な現代詩への敵対」、あれ…保守やん。と思った人もいるんじゃないかと思う。それは、間違いではないです。しかし、文学極道はそれでも「革新」のメディアなんです。それというのも、革新というのは「現在支配的なイデオロギーの転覆」ですからね。まぁ、正直「現代詩」が支配的かどうか、っていうかそもそも存在しないも同然じゃねーか、みたいなのもよくわかる。でもまぁ、我々は優しいんです。現代詩と我々は、断絶と言う形で接続されている、ということにしてやる。現代詩の逆を張る、ということは現代詩あっての我々ということで、考えようによっては俺たちは世界一現代詩を大事に扱ってるんだよ、わかれよマジで。そんで、その結果が保守っぽい主張になってしまった、ということなんですね。他に、揶揄的な意味で「ライトノベル」や「ケータイ小説」(もちろん、それらの中にも端的で不足のない描写や感嘆する作品構造を持つものもきっとあるだろう、ってのは「現代詩」と同じです)にも「逆張り」をしてるわけですね、そういう意味での反逆のメディアです。まぁ、主張は保守的ですが。どこのタームに対して反旗を翻すかだけの問題なんですよ、保守と革新なんて。
 俺は、文学極道の主張は、そういう形で意味があると思っている。文学ってものは、常に新しい手法の台頭や、過去作品への否定、あるいは死に掛けていた方法論の復活、そういう新陳代謝こそ、変化していく一つ一つや「本質」ではなく、変化し続けるその力、ああ、結局ここにもニーチェが顔を出すけれども、ぶつかりあい、常に動いていく。それこそが大事なことだと思ってるんです。だから、誰かが旗を振り、そしてその旗はいずれ踏みつけられて焼かれなければならない。変化していくこと、変化し続けること。
 そういうわけで、何か非常に散漫なコラムになりましたが。結局何を言いたいかと言うと、色々考えて書け、と。無造作に書くな、と。「コンテクスト」を意識しろ、ということです。コンテクストを意識して書かれた作品には必然的に、構造も生まれて来るし、それを意識している限りイヤでも自分のアラは目につくでしょう。他にも意識すべきは無限にありますが、コンテクストって言葉の広い意味を考えれば、これについて考えるだけでもかなりウンザリ出来ると思います。自分なりに色んなものを読み、他人の作品を読み、評を読み、方法論を模索しろと。酷い作品だ、と思ったら何故酷いのか考え、それに対して超克する方法論を考えろと。今何が格好いいのか、過去何が格好良かったのか、人は今何を好むのか。複眼的な視点を獲得すること。ファッション業界を少し見習うべきですよ、我々は。彼らなんて、常にそれを意識し、むしろ人を先導し扇動している。意識して、意識させている。迎合しているのではなく、むしろ引きずっている。文学だって、本来はそういうものだったはずです。ファッションに出来て文学にできねーわけねーだろうが!少なくとも、おまえら好きで書いてんだろ?やってのけろよ!
 くだらない「本質」に囚われるな。それは単なる信仰だ。今目の前に読者と、評者を見ろ。自分の作品と、他人の作品を見ろ。過去の名作を読め、同時代の有象無象を見ろ。あらゆる方法を模索しろ。そして、常に思考しろ。良いものを書こうとするんだ、そういうことじゃないか。
レーモン・クノーと二葉亭四迷。この二人の精神に近いものがあります。(正確に言えば、クノーはセリーヌの方法論を発展させた人ですが)方法の問題について意識すること。本質主義的、あるいは信仰的創作態度が必ずしも悪しき、とは言いませんが。なんかこうね、色々考えて書いてください。その工夫を、俺は評価しようとしています。無思考に書かれた作品は、ごく一部の例外を除いて(確かに、例外はある)総じてつまらないんです。そして、多分あなたも俺も天才ではないです。だから、工夫してください。新しい、そして「善い」作品を、書こうとしましょう、書きましょう。

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