文学極道年間各賞 総評
文学極道年間総評2011
序文にかえて
たとえば、あなたが何かの、誰かの作品を読んだとする。(これは小説でも詩でもなんでも構わない)それを、あなたは良いと思った。とても、とてもよいと思った。でも、それを適切な形で言葉にすることは難しい。だから、結局あなたは言葉にしないことにした。そして、あなたは時々その作品のことを思い出す。日常の中に深く静かにしみこんだ言葉が、指先で押されたスポンジみたいに何かを滲み出すことがある。
街を歩いている時のこと。路地裏のほつれあった縫い糸のような道をあるいていると、不意に小さく空間が開けて太陽がさすことがある。何かの間違いみたいな形の空間のスポットがあって、室外置きの洗濯機や窓から窓に通された物干し竿からはためく洗濯ものが見えたりもする。
僕はそういう瞬間が好きだ。それさえあれば、神経を蝕むような雑居ビルの群れも、絡まりあった電線で滅多切りにされた空も、耳障りなクラクションの音もみんな好きになれる。つまり、僕は東京が好きだし、バンコクが好きだし、ホーチミンが好きだし、究極的にはそれなりに世界と分かり合うことができるような気がする。
詩も、僕にとってはそういうものだ。難解な詩も、平易な詩も、シンプルな詩も、複雑な詩も、エモーショナルな詩も、静謐な詩も、みんなひっくるめて「良い」と思える詩に出会ったとき、僕は少しだけ世界とうまくやっていける気がする。
正しい言葉を書こうとする。でも、正しくあることと、正直であることは一致しない。また、語りたいことと語るべきことも一致しない。何かについて語るということは、ある一つの正しさを得るとともに(もちろん、これはある一つの正しさなんてものを望むことが出来ると仮定してのことだが)また一つ失うことだと思う。
それでも語らなければいけない段になって、僕は何を約束することができるだろう。「正直であること」?これは一見出来そうに見える、でもムリだ。読まれることを意識した瞬間に、正直さは望むべくもない地平に退いてしまう。「誠実さ」?それも同じく無理だ。
結局、僕は何も約束できないと約束したところから、始めるしかないのだ。こんな、くだらないロジック遊びから始めるしかない。
ここにこれから書く批評は、正しさなど望むべくもない。また、それぞれの作品の魅力を損なうことになる可能性も高い。少なくとも、僕の目指す「作品が作品であることに奉仕する」というものには程遠い。
言い訳から始まる総評で、誠に申し訳ないと思う。ただ、願わくばこの評がそれぞれの作品のために何かの役に立てていれば、それに勝る幸福はない。
2012年 10月 文学極道代表 ケムリ
文学極道創造大賞
小細工一切なし
泉ムジ「青空のある朝に」
bungoku.jp/monthly/?name=%90%f2%83%80%83W;year=2011#a04
今年度の選評を始めるにあたって、この作品から始めることはとてもてきせつなことだと思うし、また泉ムジという書き手が創造大賞及び最優秀作品賞を同時受賞したことも、別段驚くべきことじゃない。あくまで僕個人としてはだけれど、今年度最優秀作品に推すとしたらこの作品しかないと考えていたし、実際その通りの結果になった。
誤解を恐れず言えば、この作品には際立った技巧的特徴はない。描き出すべき総体があり、それを実行する描写・構築の技術があった。そこで評は尽きる。
空を埋め尽くす「感染者」のイメージ。極大のイメージ。風に舞って流れていく包帯や舞い飛ぶ羽毛の極小のイメージ。限りなく最短の手数言える構築手法で描き出された世界観の完成度に舌を巻く。圧倒的だ。また、この作品を一作の寓話として読むこともできる。そこから何かの意味を汲み出すこともできるだろう。
単純にして、強靭。細部までの作りこみ。技巧の奇抜さや手数の多さ、複雑さに偏りがちな創作の中で、敢えて余計なものを徹底的に削ぎ落とし、基本に忠実に最大限書かれたこの作品は、一つの指標になり得るだろう。
繰り返しになるけれど、泉ムジ氏の使う技法は、僕に限らず多くの人が常に当たり前に使っているものであり、目新しさはない。しかし、僕も含めた多くの人々にこの作品はかけないだろう。少なくとも、僕は書けない。
泉ムジ氏は同年の投稿作品を一通り読めばわかるとおり、技巧的挑戦に意欲的な作者だ。ややもすれば、技巧や方法が前に出て読者としての僕には疑問が残る作品を書くことも少なくない。しかし、その挑み続ける姿勢は「創造大賞」にふさわしい。これから先も、良い作品を書き続けて欲しい。
積み上げられる詩
田中宏輔 The Wasteless Land.
bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8dG%95%e3;year=2011#a01
正直に述べることにする。僕は年間選考に関して、自分が推す作者への評しかつけたくないしここで僕が日頃行っているような評を行うことは適切ではないと思う。
故に、㒒自身が創造大賞に推したわけではないこの作者へのコメントは差し控えたい。ただ、詩の形式にこだわりながら、詩それ自体のあり方に迫っていくような創作の手法そのものは、非常に面白く読んでいる。その執念と執筆のち密さも敬意を表す。また、氏の作品が「良い」と思えないことは、㒒自身の能力・素質に起因する可能性も否定しない。
実際、僕の反対を押し切る形でこの作者は創造大賞に推挙されている。選考委員の多くは、それだけ氏を高く評価している。僕は現在代表などという肩書を与えられているが、選考に関してはあくまで一選者としての発言権しか付与されていない。それでも、選者の一人が明確に反対を表明している投稿者がこの賞をとることは、決して容易ではない。
それは、田中氏が文学極道に於いて高く評価されている事実を端的に表すだろう。
各賞におけるタイトルについて
正直に述べさせてもらえば、文学極道における創造大賞以外のタイトルはあまりてきせつな名前ではない。これから先コメントを述べさせていただく作者諸氏が必ずしも「抒情詩の書き手」と定義されるわけではないだろうし、実存主義的な思想を持って創作に臨んでいるとも限らない。「新人賞」にしても、当該受賞者の創作歴が短いとは限らない。そもそも、「抒情詩」の定義を始めたら、あるいは「実存的な詩作」の定義を始めたら、多分この原稿は永遠に終わらない。故に、個人個人への僕からのコメントを述べる形にとどめさせていたくことをご了承願いたい。
文学極道最優秀抒情詩賞
語りのスイング
村田麻衣子 「インファントフロー」
bungoku.jp/monthly/?name=%91%ba%93c%96%83%88%df%8eq;year=2011#a03
リズミカルに継がれる言葉の中に挿入された表現、比喩が秀逸。流れるように淀みなく続く言葉のフローの中に、思わず足を止めたくなる表現が転がっている。イメージの連鎖はつながるかつながらないかのギリギリのラインだが、奔流のように継がれる言葉の勢いの中で、少しずつ繋がりが感じられてくる。悪く言えば、多少のイメージの断裂は、言葉のリズムで埋め合わせてねじ伏せてしまう。
誰しも文章のリズムというものは持ち合わせているだろうけれど、この作者のリズムは書かれた作品とぴたり噛み合っている。むろん、丹念に読めば先ほども述べた「イメージの断裂」は容易に見つかるだろう。(もちろん、イメージの連鎖・つながりというのは読み手のリテラシーにも大きく左右される要素なので、見つからないという人もいるかもしれないが)しかし、この作品を最後まで読み終えるのに苦痛を感じる人はほとんどいないのではないかと思う。
おそらく多くの人はケムリという読み手は「作品の粗を探す」のが趣味の偏執狂、ミスタッチの度に指揮棒で指先を叩く神経質な年増のピアノ教師みたいなイメージをもたれていると思うし、それはある意味間違いではないのだけれど。実際のところ、ミスタッチを味に変え、エモーションに、スウィングに変える書き手は嫌いではない。むしろ好きである。問題は、それを技術論に還元するのが難しいので教えることができないだけだ。その方法を知ってる人がいたら、是非僕にもご教授願いたい。
村田さんの作品はノれる。頭が振れる。実に楽しい。
語りの年輪
鈴屋 「厨房」
bungoku.jp/monthly/?name=%97%e9%89%ae;year=2011#a08
村田さんの作品と正反対と言っても間違いではないだろうこの作品。多分、僕が今年一番読み返した作品だろうと思う。もちろん、この鈴屋という作者はどの作品を読んでもほとんどハズレはないし、楽しませてくれるのだけれど。「評価」という軸を離れて、単に「気に入っている」という点ならこの作品が一番だ。何故なら、僕もかつては厨房で酒を飲んで明け方に家に帰る暮らしをしていからだ。この描写の一つ一つが、なんとも沁みる。
「ホールの照明を消し、コック服をスーツに着がえ、厨房に戻る。ショットグラスにウイスキーを注ぎ、一息にあおる。調理台に椅子を引き寄せ座り、一度締めたネクタイをゆるめ、調理台に片肘をつき脚を組む。」
この何気ない一文。そこから浮かび上がってくる情景。この端正で素っ気ない書き味を抒情と呼ばずなんと呼ぶか。この後も作者の端正で目の行き届いた描写が続く。厨房で男が酒を飲む、という一事に対して惜しみない目線が注がれる。見落としのないよう、かといって不要な物の入り込まぬよう。
そして、その描写はいつしかイメージの、思考の飛躍へと導かれていく。少しずつ、急がず、かといって不要な饒舌さは一切許さない厳しさで。
この書き手の書くものは、派手ではない。しかし、そこには静かに事物を見つめてきた重さがある。続けられて来た方法論への積み重ねがある。この書き手の年齢は存じないが、文章を書くということに対して誠実に重ねて来た年輪を感じずにはいられない。良い書き手だ。
そこにあるべき断片
Yuko 「春と双子」
bungoku.jp/monthly/?name=yuko;year=2011#a02
春が来ます
しあわせの羽を落として
この二行が、抽象的な観念の断片をまとめ上げる作品。この書き手はややもすると凡庸さの烙印を押されてしまいかねない単語を上手に使う。言葉から言葉への飛躍とイメージの連鎖に関してはやや接続の読み取りにくさが感じられることはあるものの、総体としての作品イメージをきっちりと縛り付けながら終始させる。
この書き手を評するときはいつも、どことない気恥ずかしさを覚える。それは、多くの書き手の影響が作品から読み取れるからで、また㒒自身の作品もそこに含まれているであろうからだ。もちろん、書き手としての感想を言えば、これ以上嬉しいことはないのだけれど。
「春と双子」に戻ろう。イメージの細部が、とても面白い。雪解け水を飲む母から始まり、花をついばむくちばしは生年月日を刻印する。小さな小さなイメージと巨大なイメージをいわゆる「描写」とはまた違ったやり方で提示していく。作品としての全体性は、「春」のトータルイメージに一任し、部分と部分をつなぎ合わせることなく提示していく。日本画の手法で、一枝を描くことで樹全体を表現するやり方があったけれど、そんな感じだ。難を言えば、ある種のツギハギ感は否めないところはあるが、より良い方向へ進んでいって欲しい書き手だ。影響を受けた、糧とした作品・作者の要素をより自己のものへと消化し昇華していって欲しい。
文学極道実存大賞
いや、上手くて当たり前ですよね
Q 「世界の終わりに」
bungoku.jp/monthly/?name=01%20Ceremony%2ewma;year=2011#a09
この書き手はもうずいぶん長いことここで書いている方で、名前は色々変わっていても今更なんというか、上手いのはわかっているというか。「実存賞」しか取れなくて残念でしたね、と言うべきか。
「夢の話」というのは、面白くない話の鉄板みたいなもので。聞かされても困るものだし、また僕もこの作品を読み始めた時はなんともまた陳腐化された様式で来たものだと思ったけれど、その陳腐な形式の中にそれなりのギミックが入っていて読んでいて飽きない。ラストの瞼から光が溢れる、という落とし込み方も余韻を残していく。いや、上手です。とても上手です。文句をつけるところはほとんどない。強いて言えば、会話文を書きなれていないせいなのか説明臭くなっている箇所が多少見受けられるくらいか。
話は変わるけれど。僕はこの書き手が人間的に嫌いです。死んだら祝電打ってやりたいくらい嫌いです。色々ありましたが、本当に嫌いです。本音を言えば、評価なんかしたくないです。とはいえ、それでも評価せざるを得ない作品を投稿し続けている書き手でもあります。僕も人間なので、この書き手を見る目は他の人よりどうしても厳しくなってしまっているでしょう。それでも、圧倒的な評価をとり続けて来たのがこの書き手です。
それを踏まえて過去の作品と比べると、些か今年は振るわなかったと僕個人は思っている。実際問題、僕は年間最優良作品賞を取ったことがなく、この書き手はとっているので、作者としての評価はせいぜい同格、作品単位でみればこの書き手の方がむしろ上。(それは自分で認めてもいる)だから、書き方のアドバイスなんてむろんできない。それを踏まえて、今年の作品も絶対評価としては決して悪いわけではなかったが、それでも過去作品と比べるとまるで奮わなかった、と書き加えておく。
成り立ちについて
右肩 「白亜紀の終わり」
bungoku.jp/monthly/?name=%89E%8c%a8;year=2011#a02
おそらく、この作品はこの書き手のベストではない。同じ一年に区切っても、より創作性に満ち、より高度な技術を惜しみなくつぎ込んだ作品がいくつかある。では、何故ここでこの作品を提示するのかと言われれば、おそらく「入り口」として最も入り込みやすいだろうと考えるから。右肩作品への最初の一歩として。
作品の構造、技術、表現…。内実よりその作品の成り立ちについて、語られる内容よりはむしろその語られ方について考える書き手、と僕はこの作者を評価しているのだけれど。そういったものを楽しむのはそれなりに難しい。難渋さの中に沈み込んでしまうことは、出来る限り避けられなければいけない。何故なら、僕はこの書き手の作品が好きなのだから。
この作品は、右肩氏の創作物の中では比較的シンプルな構造をしている。一人の人間の視点からの複数のエピソードと、古代の生物がいかに滅んだか、そんな歴史的逸話との重ね合わせ。むしろ抒情性すら匂わせる作品と言えると思う。逆に言えば、ある種の凡庸さ、「どこかで読んだことがある気がする」と思う人もいるかもしれない。
では、次の作品に行こう。次の作品にこそ行くべきだ、そこであなたはまた考えるべきだ、作品の成り立ちについて、もし風呂敷を広げるのであれば、詩の成り立ちについて、あるいは世界の成り立ちについて。
あなたは、おそらく右肩作品に感動の涙を流すことはないだろう。また、頭を殴りつけられるようなショックを受けることも、おそらくはないだろう。しかし、そこには何かの入り口が残るはずだ。考え始めることに対しての。読むことへ対しての。
文学極道新人賞
技法の向こう側
Zero 「空間の定義」
bungoku.jp/monthly/?name=zero;year=2011#a03
僕はこの作者をとても好ましく思っている。もちろん、この書き手が技法に実に自覚的で、また高い水準で方法論を駆使出来るということも事実だし、実際この「空間の定義」の投稿欄に於いては僕と方法論的論議を繰り広げているのだけれど。(あれは心躍る経験だった。是非、またやりたいと思う)
実を言えば、現在僕はこの書き手についてこの作品が投稿された当時と少し違う感想を持っている。これは一つのお願いなのだけれど。是非この文章をお読みの皆様にもこの「空間の定義」から、zero氏の一連の作品を追ってみてもらいたい。もちろん、本稿の扱う2011年度だけではなく、2012年度まで。
2012年に投稿された「一二三」を読んでから、僕はこの書き手の作品をもう一度読み直してみた。本当に技術論に特化した書き手か、と。おそらく、その考え方は間違っていたのではないかと現在では思っている。この作者は、むろん技術的に高い水準にある。しかし、その真の魅力は、この作品群からあふれ出してくる作者の「作者らしさ」ではないか。丹念な技法に包みあげ、徹底して隠蔽された奥から、僕はこの作者の何とも言えない(これは、怒られてしまうかもしれない表現だが)チャーミングさを感じる。この感覚は表現するのが難しい。きっと読み手には伝わっていないんだろうな、とは薄々思う。
しかし、技術のベールの向こう側から僕にはこの作者の実存性としか表現しようのない、好ましい何かが見えている気がしてならない。(もちろん、それがそこに存在することは照明不可能なのだけれど)いわば、包み隠すことによってより顕かになる何か。僕はきっと、それが好きなのだろうと思う。
今回の年間総評の中で最も抽象的で感情的な、読み手の役に立たない批評になってしまったが、お許し願いたい。だが、考えてみれば僕ごときがこの書き手にとって「役に立つ」ことを書こうというのが土台ムリなんだ。
祝祭の果てへ
コーリャ 「川沿いの聖堂」
bungoku.jp/monthly/?name=%83R%81%5b%83%8a%83%83;year=2011#a02
イメージと表現の花束。まさにそう形容するのが相応しい作品。祝祭的なイメージの中で、ショート・センテンスでリズミカルに重ねられる表現の中で、煌めく光が踊り、人々がざわめき、影は影としてその深さを顕す。
文章は加速を止めない。練りこまれた表現が、イメージが飛び石のように連なり、読み手としての僕は驚くほど軽い身のこなしで、風のようなスピードで、走り抜けていく。祝祭の中を駆け抜けていく。加速、酩酊、そして光の明滅。
僕はこの書き手と多分、波長が合うというかイメージの親和性が極めて高いのだろうと思うのだけれど。それだけに、何とも抽象的な表現になることをお許しいただきたい。
この作品のトリップ感(我ながらなんと芸のない表現だろうか…)は生半可ではない。もちろん、表現の一つ一つや作品の構造やそんなあれこれについて語ることはいくらでもできる。もちろん、語る価値もある。学ぶべきものは山ほど詰まっている。
だが、そんなことは無粋だ。この作者は一杯のグラスを差し出した。僕はそれを飲み干した。花束を、僕は受け取った。それは、素晴らしい体験だった。それでいいのだ。いわば、この作品は僕が見た楽しい夢だったのだ。目が覚めて、自分が今ここにいることが悲しくなってしまうような、夢。空を飛ぶ夢、子どもの頃の夢…。
それ以上、何も言いたくない。
文学極道エンターテイメント賞
定型のカタルシス
ゼッケン 「まんどらごら」
bungoku.jp/monthly/?name=%83%5b%83b%83P%83%93;year=2011#a03
文学極道というサイトは、おそらくこの作品のようなタイプの作品が投稿されることを、前提にしていなかったように思う。しかし、「エンターテイメント賞」という括りがあったことは、とても幸福な偶然だった。この作品を評価することに名前を冠すなら、これしかない。
実にシンプルな筆致で、端的に過不足なく、エンターテイメント。僕が思うに、エンターテイメントとはある種の定型を持ったものなのだ。悪党は銃撃戦の果てに殴り合いに敗れ、ミサイルは着弾寸前でヒーローの身を捨てた一撃に街を逸れ、人の心を理解したロボットは静かに動作を止める、エンドクレジットが流れる。人々はふぅ、と息をつき残ったポップコーンを口の中に放り込み、すっかり氷の溶けたコーラを飲み干す。
この作品もまた、そんな楽しさを読み手に与えてくれるはずだ。もっとも、それは楽しさではなく、ホラーの作法に則った「こわさ」かもしれないが。「オチ」まできっちりやる。ある種の凡庸さを受け止め、定型の不自由さを甘受しながら書ききる。
もちろん、このゼッケンという書き手がぼくの言うようなエンターテイメントの定型に従った作品ばかり書いている、というわけではない。しかし、「詩のサイト」で、限られた分量で、きっちりエンターテイメントをやりきる、というのは実はかなりの離れ業だ。文章量を抑えるため余計なものを削りきっても、きっちりとラストのカタルシスを与えてくれる。
その技術と「敢えてここでこれをやる」という挑発的な挑戦に、拍手を。
文学極道年間最優秀賞
語り得ない
debaser (一条) 「スロープタウン」
bungoku.jp/monthly/?name=%88%ea%8f%f0;year=2011#id-20111116_719_5702p
最後に持ってきたこの作品。年間最優秀作品賞最後の一作。(最優秀が三作ある、ということは複数の選者が評価するということの難しさの表れ、文学極道審査員の多様性のありようと受け止めていただければ幸いである)
さて、何を語ればいいのか。この一条という書き手、㒒自身も多大なる影響を受けて来た書き手、ある種の目標として書き続けて来た書き手。正直に言えば、批評するのに圧倒的に手に余る。Q氏もそうだったが、この書き手は更に余る。
さて、この「スロープダウン」。実に面白い作品である。僕も、大好きな作品だ。(ただ、一条作品については初期のものが更に僕の好みに合うのも一つ事実であるが)最優秀に選ばれて、実に妥当な作品だ。
字数稼ぎはこんなものでいいだろうか。
もちろん、僕だってこの書き手の作品にただただ圧倒されたころの僕ではないし、あれから数年それなりの成長はしたつもりだ。この作品について、例えば構造的に読解する、象徴性について語る、寓意を読み取る。いろんな読みのパターンは手に入れた。
しかし、「それをする気が起こらない」のがこの書き手なのだ。もちろんこれは、悪い意味ではない。そんなことをせず、「読んだ。面白かった」で全てを終えるのが、最も良いあり方だと思えて仕方がないのだ。
使い古されて手垢がベタベタの定型句を持ってきて、お茶を濁すしかない。この書き手がいなければ、現在の僕の作品の多くは存在しないのだ。それだけの影響を受けた書き手に向かって、何かを言うなんて出来やしない。ただ、これからも書き続けてくれることを望むのみだ。
文学極道最優秀レッサー賞
今年度の受賞者は、右肩氏、菊西夕座氏、zero氏の三人となった。
作品と同様、あるいはそれ以上に文学極道にとって重要な存在であるレッサー。
読み手にとって価値のあるレス、批評を行うということは、作品を書くことと同じく創造的な行為である。
また、文学極道が「罵倒・酷評」を大いに認めるサイトであるということを鑑みても、優秀なレッサーの存在なしにサイトは存続し得ない。
単なる「つまらない」「面白くない」そんなレスが並ぶようでは、やはりこれもまた「つまらない」のである。
高い水準の知識と技術を惜しみなく注ぐzero氏、独自の見解から作品と寄り添っていくような評を行う右肩氏、評それ自体をエンターテイメントとして創造していく菊西氏。
いずれも、文学極道の投稿掲示板を大いに盛り立ててくださった功労者だ。
レスという作業は、ある意味で報われない作業だ。作者に受け入れられるとも限らない。
しかし、それでも意義ある評を書き続けてくれた三氏に、感謝と敬意を。
良い評は、良い作品と同じく、あるいはそれ以上に、文学極道にとって大事なものであることを、ここに表明したい。
繰り返しになるが、感謝と賛辞を。
各賞次点、及び審査員特別賞受賞者へ
これらに名前の挙がる作者諸氏は、それぞれ発起人一人以上の推薦がありながらも惜しくも受賞を逃す結果になってしまった。
発起人それぞれが「この人への評価が不当」と不満を残して選考を終えることになってしまったのである。
複数人数での選考の宿命だが、なんともやりきれないものだ。
例えば、ぼくはおかのひとみさんの疾走感あふれる作品にはとても楽しませていただいたし、sampleさん、岩尾忍さんの作品も印象深い。
ズーさんの作品も好みだった。中田満帆さんの文章も実に楽しく拝読させていただいた。
他の発起人も、思いはみな同じだろうと思う。だからこそ、皆さんのこれからの文学極道でのご活躍を、心より期待している。
最後に
2011年度総評の発表が遅れに遅れて、秋も深まる10月にまで延びてしまったことをここにお詫びいたします。
これは全て、代表ケムリの不徳の致すところです。申し訳ございませんでした。
これから先も、文学極道は良い書き手、良い評者のための鍛錬の場、そして才能発掘の場、何よりも良い作品を保存し顕彰する場でありたいと思い続けております。文学極道にご参加くださった全ての書き手、読み手に、心から御礼申し上げます。そして、これからも文学極道をお引き立てくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
僕は、大した能のない男です。皆様の力がなければ、何一つできません。文学極道は、どれだけ過激なポリシーを掲げようと、究極的には参加者ありきの場所です。皆様のご助力のおかげで、ここまでやってこれました。これからも、よろしくお願いいたします。出来る限り、皆様にとって良い「場」であれるよう、努力していく所存です。
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