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ゼッケン - 2011年分

選出作品 (投稿日時順 / 全7作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


金曜日

  ゼッケン

おれに運転されるタクシーはブレーキペダルを踏まれることなく前方の路肩に停止したバンの後部に追突した
つまりおれはわざとぶつかった、わざととは明確な目的があったという意味だ、ふたりの男がひとりの子供をクルマに連れ込もうとしているのを見たら、
タクシードライバーならそうする、うしろの客がわめいたのでおれは振り返ってパンチして黙らせる
客にパンチしたのはこのときすでにおれが並みのタクシードライバーではなくなっていたからだ
運転席から降りたとき、男のひとりが腰の裏側に手をまわしたのが見えた、刃物だろうか
銃かもしれない
おれは跳躍し、タクシーの車体を飛び越えて男の背後に降り立つと男が振り向く前にその首に腕をまわし、頚椎を脱臼させる
倒れた男が握っていたのは手錠だった、子供に手錠をかけるつもりだったのかと思うと吐き気がしたので痙攣する男の後頭部を思い切り踏みつける
あっけにとられていたもうひとりの男がようやく動いたことを背後の気配で感知し、間合いに入ったところでおれの後ろ回し蹴りの餌食にする
子供の手をとり、タクシーの助手席に乗せるとおれたちは出発した
背後に遠ざかるバンの運転席に座った男たちの仲間が無線機に向かってなにか喋っているのをバックミラーで確認したおれは
タクシーに備え付けた暗号解読無線を使って男たちの会話を傍受する
男たちはヤクザでもケーサツでもなく自衛隊だった
おまえ、何者だ?
けっきょくおれは子供にきいた
もと金融破壊兵器。ある種の直感に優れた子供たちに相場を張らせていた、これがよく当たるという評判がひそかに広がり、
大手の顧客が続々ついたところで予想を外す、評判も意図的に流したものであり、計画的にある層を破滅させたわけだった
子供は、用済みになったので始末されるところを逃げ出したのだという
こうなることは分かっていたの、だってぼくのは本物の予知能力だったんだもの
おれが現れることも分かっていたのか?
あなたの名前はジョーンズ、でも、あなた、が何者なのかは知らない、ぼくの予知はここで終わっちゃった、あなたに会って終わり。ぼくは死ぬの?
ジョーンズ調査官、
うしろの客が白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる
いつになったら本部に向かうのかね? 
おれは催促され仕方なくギアをトップに入れる
タクシーは大気圏から脱出する、おれは助手席の子供に言った
おれたちは光速を越えてるからな、予知なんかできないさ、わくわくするだろ?
子供はえへへと笑った
やったね、生まれたときからずっとこうなる気がしてたんだ、これは予知なんかじゃないんだけど、子供はおれにウインクを返してよこした


木曜日

  ゼッケン

すでに
イヌもサルもキジも消されてしまったにちがいない、とおれは思っていた
鬼ヶ島を襲撃し宝物を強奪したおれたちには
昔話のようにシアワセな勝ち逃げは準備されていなかった
鬼たちの追跡は執拗で報復には容赦がなかった
三匹がさらわれた後、おれのもとに箱がみっつ届いた
箱の中にはそれぞれの身体の一部が入っていた
イヌは歯を、サルは指を、キジは眼を奪われた
三匹はとっくに殺されてるんだから、と、じいさんとばあさんはおれに懇願した、
宝物を持って逃げよう、しかし、
おれは宝物を鬼たちに返そうと思った
返せば、まだ、助かるかもしれない、おれは死にたくなかった
後頭部につよい衝撃を受けておれは昏倒し、目を覚ましたとき、
家の中にはじいさんとばあさんの姿はなく、宝物も消えていた
夜明け前におれは
顔を火で炙って家を後にした
以来、おれには顔がない
おれの顔は家に置き去りにされている

いま考えてみれば、三匹の肉片を箱につめて送りつけてきた鬼たちが
あの家を見張っていないわけはなかった
じいさんとばあさんだけであの莫大な宝物をこっそり持ち出すことなどできただろうか
そもそも、箱の中の肉片は三匹のものだったのか? 犬と猿と雉など、
他にいくらでもいる、おれは三匹と他の動物を見分けられただろうか

鬼なんて、ホントは、いたのかい?

なんだか、ばかばかしい話ですね
都の遊郭で下男をしていたおれの前に元三匹が現れたとき、三匹は三匹ではなく、
獲物の喉元に食らいつく歯と風となって樹々を渡る手足の指と蒼穹から地上を走査する眼
をなくした三匹は代わりに
よく利く鼻、ひょうきんな面、通りやすい声を持ち寄ってひとりになったと言った
じっさい、こちらの方が商売向きです、きびだんごの製造販売で業績はあがってます
おれはうなずいた
そんな昔のことより、こんど、桃の缶詰を売り出すんですが、その
イメージキャラクターにあなたを起用したい、あなたがCMに出るんです
おれはうなずいた
引き攣れた顔の皮膚はおれに表情をつくらせず、おれは
表せない感情を覚えるのが億劫になっていた

皮膚移植で顔を戻し、おれは自分の顔をずいぶんひさしぶりに鏡で見た
他人には自分の顔はこんなふうに見えていたのかと思った

五月人形のような衣装を着て片手に桃の缶詰を持ったおれは
カメラの前に立って台本どおりにせりふを言う 足元の
犬と猿と雉の置物がにやにや笑っている
カーット! 監督がメガホンを振り回す
あんた、本物のあの人なの? 元スターが大事故から奇跡の復活
ってドキュメンタリーともカップリングしてるんだから、ちゃんとヤレよ
ほらあ、こんなふうにさ、監督はおおげさに身振り手振りする
じいさんとばあさんをどうにかして宝物を独り占めにしたんじゃないかって
疑惑、ありますけど、これね、週刊誌がね、ほらほら
監督の振り回すメガホンはいつのまにか金棒に変わっていた
視線を巡らせるとカメラマンもタイムキーパーも鬼だった
宝物はどこに行ったの?
回せ、本番!

桃から生まれた、アッ、もーもーたーろーぅ、ちょん!
 ト、
ta、
ha、いよ〜う

スタジオの半分を仕切っていた暗幕が勢いよく左右に引かれ
その向こうには鬼ヶ島のセットが組まれていた
ももたろう、みぃーつけた
鬼たちが張りぼての岩場の陰からぞろぞろと姿を見せる
おれは言った
てめぇら、もういっぺん痛ぇ目にあいてぇようだな?
桃缶を投げ捨て、腰の刀を抜く
ばかやろう、しつこいんだよ
おれは作り物の鬼ヶ島に突撃する

元三匹はスタジオの片隅に置かれた椅子に座り
キセルをふかす
あららー、自分らしさにこだわれるなんて
なんとも楽しげでいいですね

スタジオは血の海だった
床の上に落ちた笑顔を踏むとずるりと滑った


まんどらごら

  ゼッケン

マンドラゴラは根っこが人のかたちをしていて
引き抜くと悲鳴をあげる
植物の悲鳴を聞いた人間は発狂するので
マンドラゴラを引き抜くときには
代わりに犬に引かせるといいらしい

先日、庭に生えたマンドラゴラを犬に引かせたときの映像です
!注意! 再生するときには音声をミュートに設定してください
マンドラゴラの悲鳴が含まれている可能性があります
私自身は確認していませんのであしからず^^

ブログの動画を何回か再生してみたおれは
引き抜かれた植物の根っこは言われてみれば人のかたちをしているように見えた
それも一瞬で、首輪に結ばれた縄の先に地面から引き抜かれた植物をひきずったまま、
犬は画面の外に走り出ていった
おれは何度か指先を往復させたすえに、ミュートボタンを解除した

このブログの持ち主はこの動画をアップして直後、失踪した
おれの職場の同僚だった
失踪の謎を解く鍵はこの動画しか残されていない
再生すると庭の向こう、どこかをバイクが走っていった
犬が一度ちいさく吠えた
日付けは日曜日の昼間で同僚は
出かけていた奥さんと子供を残して消えた
子供はこのちょこまか動く毛の長い犬をかわいがっている、と同僚は言っていた
たぶん、おれにだけ言っていた
植物を懸命に引っ張っているのが子供の可愛がっている飼い犬だということを知っているのは
おれだけだろう、口数が少なくいつも曖昧な笑みと返事で何を考えているのか分からない男
というのが職場での同僚の評価だった、気味がわるいという人間もいた、そんな同僚におれは
分け隔てなく声をかけ、会話した、それがおれの印象をよくすることをおれは理解していた
おれは
子供の可愛がっている飼い犬が狂うかもしれないようなことを
このとき、犬にさせている同僚を
心底、怖ろしいと思った
自分がこんな人間だということを同僚はおれに打ち明けたかったのだろう
引き抜かれても植物はべつに悲鳴をあげなかった
手がかりをなくしかけていることにおれは安堵を覚えていた
これでつながりは消え、おれは同僚のことを忘れるだろう
映像の終わり間際、かすかにおれの名前をつぶやく同僚の声が聞こえた
おれはPCの音量を最大限にあげて動画をもういちど再生する
同僚はおれの鞄に入っていた実印をつかっておれを借金の保証人にした
相手は暴力団だ、自分は逃げるがあんたは頭がいいからどうにかするだろう、と述べていた

このとき、植物の悲鳴を聞くと発狂してしまうので
代わりに犬に引き抜かせるといいらしい


ロビン村

  ゼッケン

遭難信号を発信した直後に海に投げ出されたおれが目覚めたのは
入り江の奥の白い砂浜だった
海図では周辺に人の住む島はなかった
捜索隊は明日にはおれを見つけるだろうが、おれは
すでに空腹であり、海水で下がった深部体温を取り戻すにはすぐになにか
を食べなければならなかった
陽光から逃げ場のない砂浜は岩場を廻って森の暗がりへと変わり、
いつまでも目が慣れない純白の反射光から逃れたおれは
叛乱を鎮めて凱旋してきた将軍のように疲労と高揚を覚えた
すぐにちからを取り戻してみせる
森に水があるのは分かっている、それと肉だ
ちからを取り戻すには肉がいい
果物が実っていればなお喜ばしいと思いながら森をすすむ

くいなッセ

翼の退化した飛べない小さな鳥たちがおれの足元に集まってきた

くいなッセ

人間を知らない
天然記念物に指定されているものに似ているが、おれに詳しくは分からない
おれはまたたく間に囲まれる
頭部に赤い羽根飾りがあり、嘴は細く長い、胴体はずん胴で茶色の縞がある
おれはひとつの仮説を立てる
この鳥がほんとうはなんだとしても
この鳥をおれが食べても世間は非難しないだろう
人間についての極限状態とは
人間が自然の一部として環境化される
すなわち自然が対象化から解除される
ひとりの遭難者が鳥を食べることが許されるなら
ふたりの遭難者はどうだろう、さんにんなら?
遭難者が100億人ならどうだろう
100億人の遭難者を食わす鳥たちはこの島にいない
共食いするのか
焚き火にかざした木の枝の先では肉が焼けている
脂がぽとりと落ちるたびに火がぱちりとはじける
夜になっていた
舞い上がった火の粉は粒状の闇に転換される
空間は150億年分の時間とともにあった
おれは焼けた肉をほそく千切って鳥たちにも分け与える
鳥たちはうまそうについばんでいた
拾ってきた小枝を火にくべるものが鳥たちのなかに出始めた
おまえたち、これが火と肉だよ、と、おれは思う、おれが去った後も
火と肉は続くか
この島から飛べない鳥たちは姿を消すだろう

くいなッセ

おれはふくらはぎに刺されたような痛みを覚えて跳ね上がった
おれを包囲した鳥たちの丸い目玉がおれを欲している
火のついた小枝を嘴ではさんでおれに向かって突き出す
おれは焚き火から手頃な太さの枝を抜いて大きく振り上げた
おまえたち、いくさのしたくはととのったのか?
すでにちからを取り戻したおれは、ならば一晩中、
文明の先達として残酷に鳥たちを殺戮するだけだ
鳥たちはちょこまかと走って隊列を組むと道をつくるように左右に分かれた
火で縁取られた鳥たちの道を通って
森の奥から姿を現したものを
おれは
ゆっくりと

見上げた
恐鳥という種類だろう、おれに詳しくは分からなかったが
おれの頭上で嘴が開き、紫色の筋肉の槍は発射された、おれは
す、
と言って死んだ。恐鳥の舌端は
おれの顔面をほぼすべて
ぽっかりと口を開けた穴に変えた
恐鳥が人間の顔を食う、そのことを悟ったときのおれは
すみませんと言いたかったのか
すげえと言いたかったのか
言えなくてその両方をおれは言うことができたと思う


志向

  ゼッケン

' 水素60% 酸素26% 炭素11% 窒素2.4% その他
' ぼくの身体を構成する原子は宇宙の始まりから在る
' ぼくの身体を構成する原子は宇宙の終わりまで存る

ラスコーリニコフは
身体を道具主義的に
鍛えようとは思いつかなかったのだろう
誰にも身体は生まれたときから貸与されている
真昼、おれはパチンコ屋の景品交換所を襲う

国家X

景品所の小窓に向かって包丁を突き出したおれを見て
ばあさんの表情筋が垂直に落下した
もう、うんざり
窓に防弾仕様のシャッターが降りる
おれはダイナマイトで壁を爆破後、侵入して50キロの金庫を担ぎ上げる
筋肉がおれの中に快感を放出した
真昼の繁華街ではあらゆる種類の警報音が錯綜している
サイレンと悲鳴と火災を知らせるアラーム
ジャンジャンバリバリッ ジャンジャンバリバリッ
若い男が婆殺しをする場合、それは経験を積むことへの嫌悪だ
経験は同じ顔をしているからだが
経験と同様にダイナマイトも選り好みをしない
経験にとってはおれもばあさんもただの巻き添えだ
おれはマンホールの蓋を引きずりあげる
逃走経路は地下だ
下水道を走って張り巡らされた非常線の外を目指す

朕は国家なり。名前はまだない

おれには
人語を話す猫にしか見えないが
と思った、膨れ上がった胴体は暗渠の行く手を阻んでいる
下水道に流された猫たちの恨みがわたくしなのです
コッカは自らの由来を簡潔に説明した
下水でワニの養殖をしています
とも、つけ加えた
おれは超常現象に巻き込まれている
おまえたちは運命を横領している
横領するぐらいなら強奪すべきだ
横領犯は犯行後も居座り続ける
図々しさを我慢してはならない、おれが金庫を下ろすと
腐臭のする薄い流れは嵩を上げて左右をすり抜けていく
おれは金庫の前に演出を意識してどかりと胡坐をかき、右肘の位置を慎重に天板上の一点に定める
腕相撲で決着をつけてやる
コッカは前足をのそりと差し出した、おれの熱い蒸気を吹き上げる掌を
ひんやりとした肉球がぎゅっと包み込む
ムフ、朕はやさしいです
コッカはおれの右掌を握りつぶした

全身の皮膚を引き剥がされワニ革を移植されたおれに
下水道の国民にはワニの強力な免疫が付与される
とコッカは言った
宰相となったおれは捨てられたマネキンたちの軍閥を打倒し自在につながる暗渠に帝国を建設する
地下に埋められた膨大なコンクリートを叩くチューブエンパイアの行進が
すぐに直下型の激甚衝撃波となって地表の都市に永久浮力を与え、
区民たちは磁力船で互いの区を行き来するようになる
新たにむき出しになった地表はかつての下水からあふれたワニたちに覆われ
関心の欠如した垂直なやさしさを保持しつつも
強力な免疫をもった帝国が水平に跋扈する
コッカはおれを教育した、おれは腕相撲の決着を握りつぶされた右手の代わりにワニ革の財布のようになった下品な左手でつけるために
左手にもったダンベルを上げ下げするのが日課になった

' 借りていたので
' 返す、それだけだ

おれの筋肉が膨れ上がるたびに
ワニの皮がぎゅっぎゅっと音を立てている


包む

  ゼッケン

万引きの時間だった
いつものコンビニエンスストアで男梅を万引きして帰る
ぺたぺたとサンダルを引きずって帰るおれを
きみは途中で呼び止めた
おれのジャージのズボンのすそは擦り切れていた
ゴムがゆるんで腰から下がっているからだ
証拠の写真を持っている
きみはおれに言った
おれは買えと言うのかい?と言った
おれは肩をすくめてカネはないんだ
男梅の袋を代わりに差し出す
きみはついて来いと細い顎をしゃくった
きみはインド人だろう? 美少年ですね
きみはおれをよくあるアパートの二階の部屋に
金属の柱と踏み板だけの屋外の階段を昇って招きいれ、
手作りのぎょうざを焼いてくれた
おれは象牙の箸でぎょうざを大皿からひとつつまんで口に運ぶ
酢醤油はなかった
一口でほおばった、とたんにさわやかなミントの香りが
さわやかではないふうにぎょうざのもっちりした皮を破って口中にあふれた

ハローホワイト

歯磨き粉だった
ぎょうざの中身はおれがいままでに万引きしてきた品物らしい
きみは証拠の写真がある、とおれにそっとささやいた
耳元で言った
乾電池は食えないよ、とおれは言った
いくら水銀0使用だといってもね
するときみは帰れ、と言った
おれは帰った
がんばって食べてみればよかったかもしれない
そうすればおれときみのひそやかな共犯関係はいまも続いていた?
いま、おれはちょっと懇願するような気持ちだ

きみの歯はとても白かった


電話

  ゼッケン

事務机の上の日に焼けて褪色した古い電話機は
いつまでも鳴り止まない、小さな液晶の画面に表示されている
電話を鳴らしている番号に心当たりはない
おれの他に電話をとる人間はいない、いっしょに残業していた同僚は
ビル一階のコンビニに夜食を買いに出た
いつまでも鳴り止まない日差しに焼けた古い電話機、おれはこれ以上
作業に集中できない、受話器を取り上げ、ひとこと
まちがいだ、
と言ってやれば作業
の続行はたやすい
そのように思ったおれは
受話器を取り上げ耳に当てた
きみはすでに喋りだしていた
あの、どちらにおかけですか? おれはきみを遮った
あれ? 誰よ、おまえ? きみは言った
おれは
あの、どちらさまでしょうか?
と言った
しょうがねえな、じゃ、これから番号言うから
こっちにかけ直すように言ってくれ
きみは番号を言って電話を切った
おれはきみの言った番号を覚えられなかった
おれはしばらく受話器を握ったまま
男だということしか分からないきみが
おれを目下に扱ったことに腹を立てていた
おれが中断した作業を再開するためには
おれは新品のペットボトルの蓋を開け、水をひとくち
口に含み、口中の水が充分にぬるまった頃、水を飲み下さなければならなかった、電話が鳴った
おれは受話器を取った
なに、向こうは出なかったの?
きみの詰問する口調におれはなんと答えていいか分からなくなった
いえ、あの、番号、ちょっと分からなくて
はあ? ふつうメモぐらいとらない? ふつうメモぐらいとるよな?
ふつうメモぐらいとらないのかって聞いてんだろ! 

きみはメモをとらなかったおれのことを
きみはあきれた表情をつくって
おもしろおかしくきみの周りに吹聴するのだろう

もういいよ、今度はメモとれよ、もう一度言うから、紙とペンだよ、すぐに用意して
紙とペン、用意して
きみは一度沸騰した感情を抑制するよう努力した
そのことがおれには分かった
きみは思ったより訓練を積んでいる人間なのかもしれない
おれは訓練されていない人間なのかもしれない
おれは電話機の横にメモ用紙が並んでいることに初めて気づき、きみの言う番号を書きつけた
おれがメモ用紙の数字を読み上げるときみは電話を切った
おれは番号をプッシュして相手が出るのを待つ
ばからしかった、まちがい電話をしてきたのはきみじゃないか、なぜ、きみが
電話をかけ直さないんだ、直接かけ直せばいいだろう、おれを支配下に置いて経由するより、
そっちの方が効率はいいはずだ
3分経って、おれは作業に戻らねばならなかった、受話器を置く
おれは忙しいんだとおれはおれに言いきかせねばならなかった
つけっぱなしにして夜食を買いに出た同僚のパソコンに向かい、
ワード、パワポ、PDFを片っ端から覗いてゆく
同僚はきっとおれのアイデアを盗んでいる、その証拠を探す
え? もしかしてぼくのパソコン、覗いてました?
オフィスのドアが開き、コンビニの袋をぶら下げた同僚が立っていた
おれはいちど開いた口を閉じて、それからもう一度開いた
あれさ、このまえの企画さ、おれも同じこと考えてたんだけど、どうして?
ああ、先輩の出しっぱなしになってたUSBからちょっと拝借しました
おれは安堵した、やはりあれはおれだけのアイデアだったのだ、盗まれただけだ
おれが考えたのだ、おれだけが考えた、おれだけで考えた
部長はボツだって言ってましたけど
同僚はおれを押しのけるようにして椅子に座った
ビニル袋から出したコンビニ弁当を机の上に広げる
いや、べつにかまわないし
おれは機嫌をとるように言った
今度から言ってくれればアイデアとかいくらでも貸すから、言ってよ
いや、自分で考えた方が採用されたんで
あ、そうなの? よかったじゃん、すごいね、おつかれ
おれは鞄を持って職場を出る
もういちどきみから電話がかかってくるかもしれない
そのことをおれは同僚に言わなかった
きみのことを同僚に説明するのは億劫だった

文学極道

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