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田中宏輔 - 2011年分

選出作品 (投稿日時順 / 全21作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


The Wasteless Land.

  田中宏輔




Contents

I.  Those who seek me diligently find me.
II. You do not know what you are asking.
III. You shall love your neighbor as yourself.
IV. It was I who knew you in the wilderness.
V. Behold the man!
Notes on the Wasteless Land.





『オハイオのある蜂蜜(ほうみつ)採りの快美な死にかただ。その男は空洞にな
った樹(き)の股(また)のところに、探し求める蜂蜜がおびただしく貯(たくわ)えられてい
るのを発見し、思わず身を乗り出しすぎて、そのなかへ吸いこまれ、
そのままかぐわしい死を遂げたという。』





より巧みな芸術家
Thomas Stearns Eliotに。





I.  Those who seek me diligently find me.


四月は、もっとも官能的な月だ。
若さを気負い誇る女たちは、我先にと
美しい手足を剥き出しにする。
春の日のまだ肌寒い時節に。
冬には、厚い外套に身を包み
時には、マフラーで首もとまで隠す。
こころの中にまで戒厳令を布いて。
バス・ターミナルに直結した地下鉄の駅で降りると
夏が水の入ったバケツをぶちまけた。
ぼくたちは、待合室で雨宿りしながら
自動販売機(ヴエンディング・マシーン)で缶コーヒーを買って
一時間ほど話をした。
「わたくし、あなたが思っていらっしゃるような女じゃありませんのよ。
こんなこと、ほんとうに、はじめてですのよ。」
どことなく似ていらっしゃいますわ、お父さまに。
幼いころに亡くなったのですけれど、よく憶えておりますのよ。
いつ、書斎に入っても、いつ、お仕事の邪魔をしても
スミュルナ、スミュルナ、わたしの可愛い娘よ
と、おっしゃって、膝の上に抱いて、接吻してくださったわ。
聖書には、お詳しくて? 創世記・第十九章のお話は、ご存じかしら?
たいてい、いつも、夜遅くまで起きていて、手紙を書いたり、本を読んだりしています。

この立ちこめる霧は、何だ。
この視界をさえぎる濃い霧の中で、いったい、如何(いか)なる代物に出交(でくわ)すというのか。
人生の半ばを過ぎて、この暗い森の中に踏み迷い、
岩また岩の険阻(けんそ)な山道を、喘(あえ)ぎにあえぎなが彷徨(さまよ)い歩くおまえ。
いま、おまえは、凄まじい咽喉(のど)の渇きに苛(さいな)まれている。
だが、耳を澄ませば、聞こえるはずだ。
深い泉のさざめきが。
どんなに干からびた岩の下にも、水がある。
さあ、おまえの持つ杖で、その岩の端先(はなさき)を打つがよい。
(すると、その岩の裂け目から、泉が迸(ほとばし)り出る。)
これで、おまえの咽喉(のど)の渇きは癒され
顔の前の濃い霧も、ひと吹きで消え失せる。
もはや視界をさえぎるものは、何もない。
こんどは、その岩の割れ目に、杖を突き立ててみよ。
    かの輝けるゆたかなる宝、
    糸のごと、狭間(はざま)に筋(すじ)ひきて、
    ただ奇(くす)しき知恵の魔杖にのみ、
    己が迷路を解きあかすなり。
『一年前、あなたの写真を、近くの古書店で、手に
入れました。写真の裏には、電話番号が書かれてあり
ぼくは、あなたに、何度も電話をかけました。』
――でも、それは、ずいぶんと昔のことなのですよ。
わたしが、自分の写真を、本のあいだに挾んでおいたのは。
いま、わたしが何歳であるか、それは申しませんが
あなたから、お電話をいただいたときには、もう
お誘いを受けられるような年齢(とし)ではなかったのです。
ことわりもせず、電話番号を変えて、ごめんなさいね――襟懐(きんかい)。
    見出でし泉の奇(くす)しさよ。
この男も、詩人の端くれらしく
つまらぬことを気に病んで
眠れぬ一夜を過ごすことがある。
そんなときには、よく聖書占いをする。
右手に聖書を持って、左手でめくるのだ。
岩から出た蜜によって、あなたを飽(あ)かせるであろう。
(前にも一度、これを指さしたことがある。)
そういえば、ジイドの『地の糧』のなかに
「蜜房は岩の中にある。」という言葉があった。
アンフィダという場所から、そう遠くないところに
灰色と薔薇色の大きな岩があって、その岩の中に
蜜蜂の巣があり、夏になると、暑さのせいで
蜜房が破裂し、蜂蜜が岩にそって
流れ落ちる、というのだ。
動物の死骸や、樹幹の洞の中にも
蜜蜂は巣をつくることがある。
詩のモチーフを得るために、この詩人は
しばしば聖書占いと同じやり方で辞書を開く。
William Burke というのに出会ったのも、それで
詩人の William Blake と名前(ファースト・ネーム)が同じ
この人物は、自分が殺した死体を売っていたという。

無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夕間暮れ、月の女神の手に、水は落ち
水はみな、手のひらに弾かれて、ほどけた真珠の玉さながら、飛び散らばる。
アルテミスの泉と名づけられた噴水のそばにある
細長いベンチの片端に腰かけながら
彼女は恋人を待っていた。
たいそう、映画の好きな恋人で
きょう、二人で観る約束をしていた映画も
彼のほうから、ぜひ、いっしょに観に行きたいと言い出したものであった。
彼女が坐っているベンチに
彼女と同じ年ごろのカップルが
腰を下ろして、いちゃつきはじめた。
男が一人、近寄ってくると、彼女の隣に腰かけてきて
「ミス・ドローテ」と、耳もとでささやいた。
『どうか、驚かないでください、といっても、無理かもしれませんね。
許してください。しかし、あなたのように、若くて美しい方なら
突然、このように、見知らぬ男から声をかけられることも
それほど、めずらしいことではないでしょう。
これまで、あなたほど、顔立ちの見事に整った、美しい女性には、お目にかかったことがありません。
ほんとうですよ。ところで、わたしがあなたに呼びかけた、ドローテという名前は
ある詩人の作品のなかに出てくる、見目もよく、気立てもやさしい、若い娘の名前なのです。
ですから、そのように、眉間に皺を寄せて、わたしを見つめないでください。
あなたの美を損ねてしまいます。
わたしが、あなたの聖(きよ)らかな泉を汚すことは、けっしてありません。』





II. You do not know what you are asking.


ゴールデン・ウィークを迎えるころになると
授業に出てくる学生の数が激減する。
半減期は一週間、といったところだろうか。
それでも、昔に比べれば、ずいぶんとましになったものだ。
この大きな階段教室に、学生が二人、といったこともあったのだ。
(そのうちの一人は、最初から最後まで、机の上につっぷして眠っていた。)
点が甘いということで、登録する学生の数が非常に多いのだが
出欠をまったく取らないので、出てくる学生の数が見る見る減っていくのである。
出欠を取れば、学生が出てくることはわかっているが、時間が惜しい。
授業内容さえ充実していれば、かならず出てくるはずだ、と
そう思って、授業にも、いろいろと工夫を凝らしてみるのだが
なかなか思いどおりには、いかないものである。
小説のなかに出てくる、ちょっとした小物や、ささいな出来事が
――その場面に、すばらしい表情を与えるものとして
あるいは、作品世界全体をまとめる象徴的なものとして機能することがある
ということは、前の授業で、電話を例に、説明しましたね。
今回は、ハンカチについて見ていくことにしましょう。
まず、電話のときと同様に、ハンカチという言葉の起源と、その用途について調べ
つぎに、いくつか、文学作品を採り上げて、そこで用いられている、さまざまな例を通して
いったい、どのような効果が得られているのか、考えていくことにしましょう。
ハンカチ、すなわち、ハンカチーフという語がはじめて文献に現われるのは
十六世紀、もう少し正確に言いますと、一五三〇年のことですが
じっさいには、それ以前にも用いられていたと思われます。
その原型となるものは、古代エジプトにも存在しておりましたし
ギリシア・ローマ時代にも、顔の汗をふいたりした、スダリウムと呼ばれる布切れや
食事のときに手をふいたりした、マッパと呼ばれる布切れがありました。
また、これらの布切れは、競技のスタートの合図に振られたり、賞賛の印として振られたり
教会で儀式が執り行われる際に、僧侶の手に持たれたりしました。
ハンカチが一般に普及したのは、もちろん
「ハンカチーフ」という語が文献に現われた十六世紀以降のことですが
それはまず、上流階級の間で、装飾品として手に持たれたことにはじまりました。
当時は、手袋や扇と同様に、服装の一部をなすアクセサリーとして重要なものでした。
なかには、宝石が縫いつけられたり、豪華な刺繍が施されたりしたものもありました。
十七世紀になりますと、一般の婦女子のあいだでも用いられるようになりました。
形見の品として譲り渡されたり、愛の印として贈られたりしました。
こういった例を、文学作品のなかから、いくつか採り上げていきましょう。
つぎの文章は、スタンダールの『カストロの尼』において、主人公が、自殺するまえに
手紙とハンカチを、自分の恋人に手渡してくれるように、ひとに頼むところです。

『どうして、あんなに字が汚いのかしら。
ひと文字、ひと文字、大きさもバラバラで、ほんっとに、ヘタクソな字!
それに、どうして、あんなに歩きまわって、黒板のあっちこっち、いろんなとこに書いてくのかしら。
ちゃんと、ノート、取れないじゃない。ったく、もう。あっ、あの字、あれ
  なんて書いてあんの? なんて書いて? なんて?
なんて書いてあんのか、ゼンゼンわかんない。
ちゃんと書いてよね。』

そのひとがふだん身につけていたものを形見にしたりすることは、ごく自然な感情によるものでしょう。
つぎに、愛の印に贈られたハンカチが、たいへん重要な小道具として出てくる作品を紹介しましょう。
『あの黒いものは、なんだろう。』
    キャンキャン吠えながら、尨犬(むくいぬ)が駆け降りてくる。
『だれが教室に入れたのですか? どうして、こんなところに連れてくるのですか?』
     だれも答えない、だれも。
                     『だれも
答えないのですか? だれか、一人くらいは、わたしにこたえられるはずでしょう?
それとも、犬が自分から勝手に入ってきたとでもいうのですか?
自分から勝手に?』

 とうとう、ペットまで、教室のなかに持ち込むようになってしまった。
いやはや、なんという連中だろう。あまりにも馬鹿らしくて、これ以上、叱る気にもなれない。
『おれが、あんなに大事に思って、おまえにやったハンカチを、おまえは、キャスオウにやった。』
                                         これは、あの
シェイクスピアの『オセロウ』にあるセリフですが、苺の刺繍が施された
このハンカチは、オセロウの母親遺した形見の品で、批評家のトマス・ライマーは
このハンカチ一枚に、みなが右往左往する、この作品を批判して、「ハンカチの笑劇」と呼びました。
『午後から、なにか、予定ある?』
『とりあえず、あたしは、髪を切ってもらいに
美容院に行くわ。それから、アルバイトに
行くかどうか、考えるわ。』

                           あと十分で、二講時目終了のチャイムが鳴る。
また、そこの先輩が、意地が悪いのよ。
若い客が、あたしとばかり、話したがるもんだから
嫉妬してんのよ。まわりに、だれもいなくなったりしたら
もう、たいへん。ほんっとに、ひどいのよ。
きのうなんて、のろいわね、とか、グズね、とか言って
あたしの顔を、にらみつけんのよ。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
入って、まだ二日目よ。
できるわけないじゃない。
することだって、いっぱいあんのに。
あーあ、もっとラクだと思ってたわ、マネキンの仕事って。
あっ、そうそう
それより、マルトの話、聞いた?
新しい恋人ができたの、って言ってたわ。
ねっ、きみも、詩が好きかい?
ぼくは、ボードレールや、ランボーの詩が好きなんだけど。
ですって。
いきなり隣の席にきて、その彼氏、そう言ったんですって。
マルトも、あのとおり、文学少女でしょう。
わたしも、ボードレールや、ヴェルレーヌが好きよ、って返事したらしいわ。
ジャックっていう、高時時代から付き合ってる、れっきとした恋人がいるっていうのにね。
彼って、体育会系でしょ。新しい彼氏は、ゼンゼン違うタイプなんですって。
背が高くて、やせてて、それに、顔が、とってもきれいなんですって。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
弟のラインハルトが、部屋のなかに閉じこもったまま、出てこないのよ。
お母さんの話だと、一日じゅう、ほとんど閉じこもりっきりで
食事もろくに摂ってないっていうのよ。
たしかに、見るたびに、やせてってるって感じだったわ。
お母さんたら、このままだと、拒食症で死んじゃうかもしれないわ、って言うのよ。
どうやら恋わずらいらしいんだけど
(ところで、一つ年下の弟は、ことし高校を出たばかりの青年だ。)
同い年の幼なじみの女子にふられたっていうのよ。
あたしと同じ、エリーザベトっていう名前の子なんだけど、たしかに、可愛らしい子だったわ。
まあ、あたしの知ってるのは、彼女が中学生ぐらいまでの
ことだけど。(近くに森があって、弟と彼女は、小学生のころ、よくいっしょに、苺狩りに出かけた。
湖水のほとりで、ハンカチを拡げ、そのうえに、採ってきた苺をならべて、二人で食べた。)
その彼女から、ある朝、弟に手紙がきたらしいんだけど
それからなんですって、弟が部屋のなかに閉じこもるようになったのは。
あたしたち、弟が高校に入るときに、こちらに越してきたでしょ。
それでも、弟は、月に一度か、二度くらい、そのこと逢ってたらしいのよ。
お母さんたら、なんでも見てきたことのようにしゃべるんだけど
これは、たしかに、ほんとうのことなんですって。
やっぱり、遠距離恋愛って、むずかしいのよね。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
えっ、なに? なに? あたってるの? さっきから?
あら、ほんとだわ、どうしましょう。
あなたも、聞いてなかったわよね。
まあ、どうしましょう――
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
ねえ、アガート。ねえ、ジェラール。ねえ、ダルジェロ。
あなたたち、みんな、聞いてなかったの?
どう思いますか、ですって。
なにか言わなくちゃ。
えっ、あの黒板に書いてある言葉をつかって、なにか言いなさいよって?
イヤン、字が汚くて、ゼンゼン読めないわ。





III. You shall love your neighbor as yourself.


この地下鉄は南に行き、南の端の駅に着くと
北に転じて、ふたたび北の端の駅に戻る。
電車、痴漢を乗せて走る。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
汝の胸の形、汝の腰の形、汝の尻の形は
その形を見る者の目を捉え
その香料の芳(かんば)しい香りを放つ汝の身体は
その匂いをかぐ者の鼻先を捉える。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
他人に気づかれないように、こっそりと
ひそかに、感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
愚かな女は騒がしい。
自分の唇を制する者には知恵がある……
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、及ぶうち。
わたしの横に
駆け込み乗車してきたばかりの男が立っている。
噴き出た汗をハンカチでぬぐいながら、男は、すばやく社内を見渡した。
坐れないことがわかると、溜め息をついて
書類の入った袋を、鞄のなかにしまった。
それにしても、この男の表情は陰鬱である。
それは、この男が、これから先、自分がどこへ行き、どんな顔をして
どのように振る舞わなければならないかを知っているからだ。
男が、わたしの身体を透かして、通路の向こう側を見た。
わたしの姿は目に見えず、だれも、わたしを目で見ることはできない。
わたし自身が、ひとの目に触れることを望まないかぎりは。
男の視線の先に、空席を求めて隣の車両からやってきた、一人の妊婦の姿があった。
その表情は苦しげで、またその足取りも重く、なお一歩ごとに、その重みを増していったが
ときおり、他の乗客の背中に手をつきながら、しだいに、こちらに近づいてきた。
男が、ふたたびハンカチを取り出して、額や花の下の汗をぬぐった。
激痛が、彼女の両腕を扉付近の支柱にしがみつかせた。
わたしは首をまわして、わたしの息を車内全体に吹きかけた。
これで、だれ一人、女に自分の席を譲ることができなくなった。
突き出た腹を自ら抱え、女が、その場にしゃがみ込んだ。
わたしは、男の耳もとに、わたしの息を吹きかけた。
男の胸がはげしく波打ちはじめた。
男が足を踏み出した。
フウハ フウハ フウハ
ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン
おのれ自身が創り出した、淫らな映像に惹き寄せられて。

名画座で上映されていたのは
無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夜、波の模様に敷き詰められた敷石のうえを
溜め息まじりに言葉を交わしながら、恋人たちが通り過ぎて行く。
広場に残っていたカップルたちも、夜が更け、噴水が止まると、ぽつぽつと帰りはじめた。
ひとの動く気配がしたので振り返ると、植え込みの楡の樹の後ろから、丸顔の女の子が顔を覗かせた。
あまりに若すぎると思ったが、そばにまでくると、それほどでもないことがわかった。
たどたどしいフランス語で、あなた、ガブリエル伯父さんでしょ、と訊ねられた。
あらかじめ電話で教えられていたとおりに、そうだよ、きみの伯父さんだよ、と答えると
彼女は微笑んで、地下鉄に乗るのね、と言い、ぼくの腕をとって歩き出した。

すみれ色の時刻。
友だちと大声でしゃべり合う学生たちや
口を開く元気もない、仕事帰りの男や女たちを乗せて
地下鉄は、ゴウゴウ、音を立てて走っている。
わたし、メフィストーフェレスは
馬の足を持ち、贋(にせ)の膨(ふく)ら脛(はぎ)をつけて歩く
つむじ曲がりの霊である。
このすみれ色の時刻。
ジムこと、ジェイムズ・ディリンガム・ヤングは、まだ
二十二歳の貧しい青年であったが、彼の住む安アパートの二階には
鏡のまえで美しい髪を梳きながら、新妻のデラが、彼の帰りを待ちわびていた。
彼の膝のうえには、宝石の縁飾りのある、べっ甲の櫛が入った小さな箱が置かれていた。
その高価なプレゼントを買うために、彼は、父親から譲り受けた
もとは祖父のものであった、上等の金時計を売らなければならなかった。
ミス・マーサ・ミーチャムは四十歳、通りの角で、小さなパン屋を営んでいる。
最近、彼女は、自分の店にくる客の一人に、思いを寄せている。
男は、いつも(新しいパンの半分の値段の)古パンを二個、買って行く。
こんど、彼のすきをみて、古パンのなかに、上等のバターをたっぷり入れてあげましょう。
彼女は、吊革につかまりながら、ジムのまえで、そんなことを考えていた。
馬の足を持つ、このねじくれた霊、メフィストーフェレスなる
わたしには、こうした事情が、すぐにわかるのだ。
二人の耳もとに、わたしは、いまこの電車に乗ってくる、一人の男を待っていたのだ。
あの背の高い、やせた白髪頭(しらがあたま)の
男が乗ってくるのだ。
プロテスタント系の私立大学に勤める、文学部の教授である。
創作科のクラスで、詩や小説の書き方を教えている。
三十代半ばで、はじめて女を知った、この男は
それからの数年間というものを
肉欲の赴くまま、享楽に耽(ふけ)っていたのだが
三十代の終わりに、妻となるべき女と出会って
それまでの淫蕩な生活に、突然、終止符を打ったのである。
彼は、妻のことをいちずに愛し、妻もまた、彼のことをいちずに愛した。
ともに暮らした十年のあいだ、子宝には恵まれず、あえて養子を取ることもしなかったので
彼らの家のなかに、子どもの声が響くことなどはなかったが、それで、さびしくなるということもなかった。
むしろ、二人きりでいることが、相手に対する愛情を、より深いものにしていった。
それゆえ、五年まえに、まだやっと三十を越えたばかりの妻を、交通事故で失くしてからというもの
彼は、妻を慕う気持ちのあまり、あらゆる女性を避ける避けるようになってしまったのである。
通いの家政婦のほかには、彼の家に訪れる女性は、一人もいなかった。
(わたし、メフィストーフェレスが、人間の耳もとに息を吹きかけると
たとえ、どれほど萎えしぼんだ魂の持主でも、情欲の
俘虜(とりこ)となって、生きのいい魂を取り戻すことができるのである。
かつて、あのファウストでさえ誘惑し、その胸のなかに
情欲の泉を迸(ほとばし)らせた、このわたしである。)
背中を押されて入ってきたセヴリヌ・セリジは、通路の真ん中で足を止め、目を凝らして見た。
このがっちりとした体格、この着くずれした背広、それに、この品のない首つきは……
彼女の斜めまえに立っている男に、その男の後ろ姿に見覚えがあったのである。
男が何気なく振り向いた拍子に、自分の知り合いではなかったことがわかって、彼女は、ほっとした。
ふと、彼女は、きょう、マダム・アナイスの家で自分を抱いた中年の男の言葉を思い出した――
『恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、いまに嬉しがらせてやるからな。』
美しい女が馬鹿な真似をすると、たちまち破滅する。
それが、夫のある身なら、なおさらである。
わざわざ、彼女の耳もとに、わたしが息を吹きかけてやることもない。
ただ、この体格のいい男の耳もとに、ひと吹きするだけでよい。

『あなたの泉に祝福を。』
電車が停まり、その扉が開くたびに
ひとびとが乗り込み、人々が降りて行く。
すべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。
男と女の出会いにも、時がある。
生涯において、ただ一度、同じ電車のなかに乗り合わせる、ということもある。
どの女も似通ってはいるが、同じと言えるところは、一つもない。
その胸の形、その腰の形、その尻の形のことごとく
その形それぞれに、男の目は捉われる。
さあ、いままた、扉が開いて、女たちが乗り込んできた。

よくよく、おまえに言っておく。
この電車が、つぎの駅に着くまえに
おまえは、三度、痴漢の手をはらいのけるだろう。
だが、恐れるな。この者は、よい痴漢である。
それにしても、この胸は、痴漢の愛する胸、痴漢のこころにかなう胸である。
痴漢がおまえの胸にさわるとき
おまえは、痴漢がすることを、他人に知らせるな。
それは、その行為が隠れてなされるためである。
そうすれば、おまえの胸に触れた手は
さらなる悦びを、おまえにもたらせてくれるであろう。
アハァ アハァ
アハァ アハァ
手はすでに、おまえの胸のうえに置かれている。
もしも、おまえの胸にさわる手が
おまえの胸のボタンをはずそうとするなら
おまえは、おまえのその胸の下着の留め金をはずせ。
そうだ、まことに、おまえの情欲は見上げたものである。
まことに、おまえは情欲の俘虜(とりこ)である。
もしも、痴漢が、おまえの乳房を引っ張って、おまえを
車両の端から端まで引き摺って行こうとするなら
その痴漢の手に、二車両は引き摺られて行け。
さあ、この生き生きとした悦楽にひたれ。
この悦楽の泉にひたれ。
 アハァ アハァ
 アハァ アハァ

「あたし、見てたわよ。
あの痴漢ったら、向こうの端から、こっちに向かって
一人、二人、三人って、つぎつぎに手を出していたでしょ。
あたしで、ちょうど、十人目になるわね。
でも、わたしには近づかないでよ。
ちょっとでも、さわったりしたら、警察に突き出してやるから。」
これまで、あなたのまえに、恋人が現われなかったのは
ただ、あなたの美に、だれも気がつくことができなかったからである。
事実、あなたは、もっとも美しい猿よりも美しい。
諺に、『老女は地獄で猿を引く。』というのがあるのを知っているか。
猿は、だれをも愛さず、だれにも愛されなかった女の、唯一、あの世での連れ合いなのだ。
人間には人間がふさわしく、猿には猿がふさわしいと思わないか。」
「愛を意味するギリシア語のエロースが
ローマに入ると、欲望という意味の言葉、キューピッドとなった。
不死なる神々のなかでも、ならぶ者のない、美しいエロース。
この神は、あらゆる人間の胸のうちの思慮と考え深いこころを打ち砕く。」
 ララ
ここがロドスだ、跳んでみよ。

さわる、さわる、さわる、さわっている。
おお、女よ、たとえ、おまえが、一日に千回、手をはらいのけても
おお、女よ、きっと、おまえは、一日に千五百回、手を出されるだろう。

さわってる。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


男に出会ったのは、きのう
地下鉄の駅から出て、大学の構内に入って行くところだった。
男は研究室に立ち寄ると、すぐに教室に向かった。
                                  尨犬(むくいぬ)の姿となって
階段教室の前にいると
遅れてやってきた女子学生が、わたしを拾い上げた。
授業をしながらでも、始終、男は死んだ妻のことを思い出していた。
そのあと、一日じゅう、男のあとをつけまわしてみたが
男は、片時も、妻のことを忘れることがなかった。
何を見ても、何をしても、男は、すべてのことを、死んだ妻とのことに結びつけて考えた。
かつて、わたしが魂を奪い損ねた男と同じ名前を持つ男、あの男こそ
新たなる、神の僕(しもべ)、新たなる、わが獲物!





V. Behold the man!


ひと渉(わた)り、さっと車内に目を走らせると
そのあとは、ひとには目もくれない。
ただ、目をやるものといえば
言葉、言葉、言葉、
広告の。
彼の表情は硬かった。
亡くなった妻のことを思い出すとき以外に
その顔に笑みが浮かぶことなど、まったくなかった。
ここ、何年物あいだ、この詩人の魂に映るものといえば、岩の山、岩の谷、岩と岩ばかりの風景だった。
しかし、どんなにかわいた岩の下にも、水がある。
どれほどかわいた岩地でも、その下には、かならず水が流れているのだ。
もとをたどれば、詩人という言葉は
小石のうえを流れる水の音を表わすアラム語に行きつく。
こころの奥底に、流れる水がなければ、詩など書けるはずもない。
ひとを愛し、人生を愛してこそ、詩人であるのだから。
いまひとたび、そのかわいた岩々の裂け目から水を噴き出させ
その胸のなかに、情欲の泉を溢れ出させてやろう。
悪戯(いたずら)好きのわたしが、ほんとうに好きなのは
神の目に正しい道を歩まんとする者を
その道から踏みはずさせ、わたしの道を歩ませること
その彼の魂を、命の本減から引き離し、わたしのものとすること
その彼を、あの世における、わたしの奴隷、私の僕(しもべ)とすることなのだ
たしかに、かつて、わたしは、あのファウストの魂を奪い取ることができなかった。
それは、わたしが、背中に甲羅を生やした悪魔にしては、あまりにも初心(うぶ)だったからである。
しかし、もう、二度とふたたび、神には騙(だま)されない。けっして、騙(だま)されることはない。
わたしの新しい獲物、このファウストの魂は、わたしのものとなる。
足もとに目を落とし
耳を澄ましてみよ。
聞こえてこないか。
泉の湧く音が。
流れのもとの
深い水のとどろきが。
そら、そこの
その岩の古い肋骨(あばらぼね)を
おまえの持つその杖で打ってみよ。
シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ
と岩の割れ目から湧き水が迸(ほとばし)り
たちまち、かわいた岩地が
泉となる。

何者だ、この異形のものは。いま、耳もとでささやいていたのは、こいつなのか。
人間とは思えぬ、その姿。まるで絵に描かれた悪魔のようだ。だが、窓ガラスに、こいつの姿はない。
おかしなことだが、なんだか、自分の顔つきまで、自分のものではないような気がしてきた。
かなり疲れが溜まっているようだ。マルガレーテが生きていたころには、こんなことはなかった。
ああ、グレートヘン。ぼくの可愛いひと。あの唇の赤さ、あの保保の輝きよ。
きみといた十年のあいだ、たしかに、ぼくは、もっとも浄(きよ)らかな幸福を味わうことができた。
ときおり拗ねて、ツンとすまして見せたけれど、それが、またさらに、きみのことを愛しく思わせた。
きみの無邪気な、そんな仕草に、ぼくは、どんなに、こころ惹かれたことか――
きみは、ちっとも知らなかっただろう?

電車が停まって、ファウストのそばの座席が二人ぶん空くと
乗り込んできたばかりのデイヴィッドとキャスリンが、その空いたところに、すかさず腰を下ろした。
褐色に日焼けした二人は、真珠をつないだ短めのネックレスを首に嵌め、レモンイエローの
サマーセーターに、白のジーンズという揃いの出で立ちで、髪をスカンジナヴィア人なみの白っぽい
ブロンドに染め、全体を短く刈り込んで、見かけを、そっくり同じにしていた。
もともと、兄妹のように、よく似た二人であったが、このように
同じ身なりと同じ短い髪型でいると、ひとの目には、まるで双生児(ふたご)の男兄弟のように映った。
ねっ、キスして。女が男の目を見つめながら、そう言うと、男が女の肩に腕をまわして、抱き寄せた。
唇が離れると、女が、男の耳もとで、ねっ、あたしにもキスさせて、と、ささやいた。
すると、男が、わざと驚いたふりをして、ひとが見てるぜ、と言って微笑んだ。
さすがに、ファウストも、このとびきり派手な二人の振る舞いには、目をやらざるを得なかった。
ひとに見られてるの、嫌? 女が坐り直し、男の腰にまわした腕を背中の方に動かした。
いいとも、悪魔め。おれが嫌なわけないだろ? いかにもうれしそうに、男が、そう答えると
メフィストーフェレスが、口の端をゆがめて、ニヤリと笑った。

何を人間が渇望しているのか、それを一番よく知っているのは、悪魔であるこのわたしだ。
この世界の小さな神さまの魂は、わたしのものである。
わたしに不可能なことがあるだろうか。
この脚の長いキリギリスの魂は、かならず、わたしが手に入れてみせる。
さあ、ファウスト先生よ、わたしの言葉をお聞きなさいよ。
そういつまでも、文献ばかりにしがみついていないで、現実をしっかりごらんなさいな。
最近の先生の作品は、生気がなくて、ちっとも、よくありませんよ。
ほんとうの詩なんてものは、先生ご自身の胸のなかから湧き出てこなければ、得られないものでしょう?
ところで、先生、ごらんのこの二人のうち、女の方の名前を、あなたにお教えしましょうか?
それは、先生が、もっとも愛しておられた女性と同じ名前の、グレートヘン、すなわち、マルガレーテ。

なに? グレートヘン? マルガレーテだって? それがこの娘の名前なのか?
そう言われてみれば、ぼくの愛しい妻、マルガレーテに似ているような気がしてきた。
この胸の奥深くに仕舞い込まれた、ぼくの花、ぼくの愛しいマルガレーテの面影に。
色褪せることのない、その面影。すべての花のなかで、もっとも清純で、可愛らしい花よ。
おいおい、悪魔め、その臭い息を、ぼくの耳もとに吹きかけるな。
マルガレーテがいなくなってからというもの、ずっと、ぼくのこころは、枯れた泉のようだった。
ただ、マルガレーテと過ごした日々が、そのすばらしい思い出だけが、ぼくを生かしてきた。
たとえ、どれほど美しい女性を見かけても、こころ惹かれることなどなかった。けっして、なかった。
つねに、ぼくの愛しい妻、マルガレーテの面影が、ぼくのこころを捉えて離さなかったのだから。
しかし、いま、ぼくの目のまえにいる、妻に似た、この娘の、なんと魅力的なことだろう。
よもや、女性というものに、これほど激しく胸が揺さぶられることなど
二度とはあるまい、と思っていたのに。

それにしても、この胸の昂(たかぶ)りは、いったい、どこからやってきたのだろう。
いやいや、どこからでもない。もとより、この胸の昂(たかぶ)りは、ぼく自身のなかにあったものだ。
ぼく自身の胸のなかに、この胸のなかに、もう一つ別の魂が、邪(よこしま)な魂が潜んでいたのだ。
いま、ぼくの傍らにいる、この悪魔の姿も、溢れ出る愛欲にまみれ
からみつく官能をもって現世に執着する、その邪(よこしま)な魂が、ぼくの目に見せた幻に違いない。
ダ!
ジー・ダ! そら、見るがいい。
ねっ、あたしの女になって。うわずった声で、女が男にささやいた。
キャスリンは、おまえだ。そう言い返す男の口もとを、女の手のひらがふさいだ。
いいえ、あたしがデイヴィッドで、あなたが、あたしのすてきなキャスリンよ。
激しく抱擁し合う二人の姿が、その二人の首もとで輝く真珠の光が、ファウストの目を捉えた。
情欲の泉が、ファウストの胸のなかから、その胸のもっとも深いところから湧き上がってきた。
すると、ここぞとばかりに、ひと吹き。メフィストーフェレスが、ファウストの耳もとに息を吹きかけた。
ファウスト先生よ、いま、これより、わたしが、あなたの僕(しもべ)となって、あなたに仕え
これまで、あなたが味わったことのない最高の瞬間を、あなたに味わわせてあげましょう。
ただし、その瞬間を味わった暁(あかつき)には、以後、あなたが、わたしの僕(しもべ)になるという条件と引き換えに。
さあ、ここに神があります。血をひと垂(た)らしつけて、署名していただきましょう。
ダ!
ウンター・ホイチゲム・ダートゥム・! さあ、きょうの日付で。
ああ、この紙も、このペンも、そして、この悪魔の姿も、声も、みな幻なのだろう。
いま、ぼくの目のまえにいる、この二人のやりとりも、また、一つの芝居、一つの幻に違いない。
ならば、なぜ、なにゆえ、この胸の奥深く、情欲の湧き水が、岩の狭間(はざま)に噴き上がるのか。
まことに、愛着(あいぢやく)の道は、その根の深きもの。これを求むること、やむ時なし。
まるで、岩から岩へと激する滝が、欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。
親指を噛んで、そら、悪魔よ、このひと垂(た)らしの血でいいのか。
グレートヘンが、いや、あの娘が、ハンカチを落とした。
おお、悪魔よ。あのハンカチを、取ってきておくれ。
ダ!
ダ・ニムス! ほら受け取るがいい。
おお、この芳(かぐわ)しい香りよ。
なんたる歓びの戦慄(おのの)きが、ぼくを襲うことだろう。
この胸も張り裂けてしまいそう。
ああ、苦しい、苦しい。心臓が掻きむしられるようだ。
だが、これが、最高の瞬間だ!

                                ファウストの身体が後ろに倒れた。
針が落ちた。事が終わった。
乗客たちの姿が光に包まれ、その光が天使の群れとなって、聖なる歌を唱いはじめた。
おお、なんと胸くその悪い響きだ、この調子はずれの音は。
おや、ファウストの身体が宙に浮くぞ。
だんだん上がっていく。
また、横取りするつもりなのか。
――この死体は、わたしのものだ。
ここに、こいつが自分の血で署名した書付(かきつけ)があるのだ。
おお、天井にぶつかって、ファウストの死体が床のうえに落ちたぞ。
あはははは、そうだ、ここは地下鉄だ。地下鉄の電車のなかだぞ、天使どもめ。
だが、これほどたやすく手に入る魂に、値打ちなどちっともない。おまえたちにくれてやる。
ジー・ダ。ウンター・ホイチゲム・ダートゥム。ダ・ニムス。見るがいい。きょうの日付でくれてやる。
ディー・クライネン、ディー・クライネン。ちび、ちび。












Notes on the Wasteless Land.




 この詩は、題名のみならず、その形式や文体も、また、この詩に引用された詩句のうち、そのいくつかのものも、西脇順三郎によって訳された、T・S・エリオットの『荒地』に依拠して制作されたものである。西脇訳の『荒地』を参照すると、まったく同じ行数でこの詩の本文がつくられていることがわかる。また、この詩の主題は、全面的にゲーテの『ファウスト』に負っている。ほかにも、さまざまな文章や詩句から引用したが、本作の文脈や音調的な効果、あるいは、視覚的な効果のために、それらの言葉をそのまま用いるだけではなく、漢字や仮名遣いなどを改めたところもある。それらの仔細については、以下の注解に逐一述べておいた。ただし、西脇訳の『荒地』からのものは、とくに指摘しておかなかった。じっさいにそのページを開けば、どこから、どう引用しているのか、一目瞭然だからである。それにまた、エリオットの『荒地』のもっともすばらしい翻訳を傍らに置いて、この作品を味わっていただきたいという気持ちからでもある。
 エピグラフは、メルヴィルの『白鯨』78(幾野 宏訳、二重鉤及び読点加筆)より。各章のタイトルは英訳聖書からとった。各章の注解の冒頭に、日本聖書協会による訳文を掲げておいた。




I.  Those who seek me diligently find me.


第I章のタイトルは、PROVERBS 8.17 "those who seek me diligently find me."(箴言八・一七、「わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」)より。なお、日本聖書協会が訳した聖書からの引用では、訳文に付されたルビを適宜省略した。

第一連・第七行 吉増剛造『<今月の作品>選評17』ユリイカ一九八九年七月号、「今月は選者も、少し心を自在にして(戒厳軍のようにではなくさ、……)」より。

第一連・第九行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典、「It rains buckets.(米)どしゃ降りだ。」より。(米)は、アメリカ英語の略。日本語の文を引用する際に、ピリオドを句点に改めた。以下、同様に、横組みの参考文献を用いるときには、日本語の文や語句にあるコンマやピリオドを、それぞれ読点と句点に改めて引用した。

第一連・第一七行 サルトルの『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、「彼は小さかったときに、母親がときどき、特別な調子で、「お父さま、書斎でお仕事よ」と言ったのを思い出した。」より。

第一連・第一八行 スミュルナを、教養文庫のギリシア神話小事典で引くと、「別名ミュラといい、フェニキアの王女。父のキニュラスに欲情をいだき、酒を飲ませて酔わせ、彼女が自分の娘であることを父に忘れさせた。スミュルナが身ごもると父は父子相姦の恐ろしさに狂い、スミュルナを森の中まで追いかけ、斧で殺した。」とある。呉 茂一の『ギリシア神話』第二章・第六節・ニには、「ズミュルナは、はじめアプロディーテーへの祭りを怠ったため女神の逆鱗(げきりん)にふれ、父に対して道ならぬ劇しい恋を抱くようにされた、そして乳母を仲介として、父を誑(あざむ)き、他所(よそ)の女と思わせて十二夜を共に臥(ふ)したが、ついに露見して激怒した父のために刃を以て追われ、まさに捕えられようとした折、神々に祈って転身し、没薬(ズミユルナ)の木に変じた」とある。

第一連・第二〇行 本文で言及しているお話とは、創世記・第十九章のロトと二人の娘の物語である。妻を失ったロトは、二人の娘とともに人里離れた山の洞穴の中に住んでいたのであるが、娘たちが、前掲のスミュルナと同様に、父に酒を飲ませて酔わせ、ともに寝て、子をはらみ、出産した、という話である。近親相姦といえば、オイディプスの名前が真っ先に思い出されるが、彼が自分の母親と交わってできた娘の数も二人である。また、箴言三〇・一五にも、「蛭にふたりの娘があって、/「与えよ、与えよ」という。」とある。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』にも、「二人の娘、二つの呪いは……」(高津春繁訳)とあるが、イメージ・シンボル事典を見ると、2は「不吉な数である。」という。「ローマにおいては2という数は冥界の神プルトンに献ぜられた。そして2月と、各月の第2日がプルトンに献ぜられた。」とある。

第一連・第二一行 ヴァレリーの『我がファウスト』第三幕・第三場に、「何か本がないかしら……。考えないための本が……。」、「何か本が欲しい、自分の声を聞かないための本が……。」(佐藤正彰訳)とある。ふつうは、読むうちに自分のことを忘れてしまうものである。自分のことを忘れるために、と意識して読書するというのは、ふつうではない状況にあるということである。仕事や雑事に多忙な人間ではない。そうとう暇のある人間でなければ、それほど自己に構うことなどできないからである。この連に出てくる女性が、そういった状況にある人間であることは言うまでもない。なんといっても、毎晩のように、返事の来るはずもない手紙を、長い長い手紙を、本のなかの登場人物たちに宛てて、何通も書くことができるくらいなのだから。ちなみに、彼女がこの日の夜に読んでいたのは、シェイクスピアの史劇の一つであった。彼女は、つぎに引用するセリフに、長いあいだ、目をとめていた。「思いすごしの空想は必ず/なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。/私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、/あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。/その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。/それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、/わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。」(『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)、この言葉が、彼女を魅了するように、筆者をも魅了するのだが、はたして、読書人のなかで、こういった言葉に魅了されないような者が一人でも存在するであろうか。そうして、この日の夜も、彼女は、自分の声を聞きながら、リチャード二世の妃に宛てて、長い長い手紙を書いて、一夜を明かしてしまったのであった。

第二連・第一行 fogは、「(精神の)困惑状態、当惑、混迷」を表わす。in a fog で、「困惑して、困り果てて、途方にくれて」の意となる。以上、三省堂のカレッジクラウン英和事典より。また、「霧があるので一そう暗闇(くらやみ)が濃(こ)くなっているんです。」(ゲーテ『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九四〇行、相良守峯訳)という文も参照した。なお、ゲーテの『ファウスト』からの引用はすべて相良守峯訳であるので、以下、『ファウスト』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第三行 ダンテの『神曲』地獄・第一曲・第一行、「われ正路を失ひ、覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき」(山川丙三郎訳)、同じく、ダンテの『神曲物語』地獄篇・序曲・第一歌、「ここはくらやみ(、、、、)の森である。」、「三十五歳を過ぎた中年の詩人ダンテはその頃、人生問題に悩み深い懐疑に陥っていたが、ある日散歩をしているうちに、偶然このくらやみの森の中に迷いこんでしまった。」(野上素一訳)より。

第二連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第二幕・第七八一三行、「この険阻(けんそ)な岩道」より。

第二連・第七行 カロッサの『古い泉』藤原 定訳、「古い泉のさざめきばかりが」より。

第二連・第九行 出エジプト記・第一七章に、エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル川を打った杖でホレブの岩を打つと、そこから水が出た、と記されている。

第二連・第一〇行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第四七一六行、「岩の裂目(さけめ)から物凄じくほとばしる」、第二部・第四幕・第一〇七二〇―一〇七二一行、「乾(かわ)いた、禿(は)げた岩場(いわば)に、/豊富な、威勢のいい泉が迸(ほとばし)り出る。」より。

第二連・第一四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九九五行、「岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。」、講談社学術文庫の『古事記』(次田真幸全訳注)中巻・一八八ページにある、杖は「神霊の依り代(しろ)である。これを突き立てるのは、そこを領有したことを表わす。」という文章より。

第二連・第一五行―一八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五八九八−五九〇一行。

第二連・第二八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九〇七行。

第二連・第三二行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典に、「bibliomancy 聖書うらない(聖書を任意に開き、そのページのことばでうらなう)」とある。

第二連・第三四行 詩篇八一・一六、句読点加筆。

第二連・第三六―四二行 「わたしはアンフィダのそばに、美しい女たちが降りてくる井戸があったことを思い出す。ほど遠からぬところには、灰色とばら色の大きな岩があった。そのてっぺんには、蜜蜂が巣くっているといううわさを聞いた。そのとおりだ。そこには無数の蜜蜂がうなっている。彼らの蜜房は岩の中にある。夏になると、その蜜房は暑さのために破裂して、蜜を放り出し、その蜂蜜が岩にそって、流れ落ちる。アンフィダの男たちがやって来て、この蜜を拾いあつめる。」(ジイド『地の糧』第七の書、岡部正孝訳)より。なお、ジイドの『地の糧』からの引用はすべて岡部正孝訳であるので、以下、『地の糧』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第四三―四四行 土師記一四・八、「ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。」、ゲーテ『ファウスト』第二部・第三幕・第九五四九行、「洞(ほら)になった木の幹(みき)からは蜂蜜(はちみつ)が滴(したた)る。」より。

第二連・第四七―四九行 筆者の一九九八年七月九日の日記の記述、「三省堂のカレッジクラウン英和辞典を開くと、burail 埋葬、burier 埋葬者、burin 彫刻刀、とあって、そのつぎに、固有名詞の Burke が二つつづき、burke 葬る、押える、とあり、さらに、末尾には、[William Burke (人を窒息死させてその死体を売ったため一八二九年、絞首刑に処せられたアイルランド人。)]と載っていた。」、一九九八年八月二十二日の日記の記述、「岩波文庫の『ことばのロマンス』(ウィークリー著、寺澤芳雄・出淵 博訳)の索引で、Burke を引くと、p.90 に、固有名詞からつくられた動詞の例として、burkeが挙げられていた。本文―→アイルランドのバーク(William Burke)は、死体を医学部の解剖用に売り渡すために多くの人々を窒息死させた廉(かど)で、1829年エディンバラで絞首刑に処せられた。この動詞は、現在では「(議案などを)握りつぶす、もみ消す」の意に限られているが、十九世紀中葉の『インゴルズビー伝説』では、まだ本来の意味「(死体をいためないように)扼殺する」で用いられている。」より。なお、七月九日の日記の余白に、朱色の蛍光サインペンで、「corpus=作品、死体」と書き加えてあったが、いつ書き加えたのか、正確な日付は不明である。しかし、William Burke からWilliam Blake を連想したときのことであろうから、本文の作成に入ったごく初期のころ、だいたい同年七月中旬から八月上旬までの間のことであろうと思われる。死体づくりに励んだ William と、作品づくりに励んだ William。二人が、名前だけではなく、corpus という単語でも結びつくことに、気がついた、ということである。

第三連・第一行 ROMA,CITTA,APERTA(邦題『無防備都市』)は、ロベルト・ロッセリーニ監督による、一九四五年制作のイタリア映画。

第三連・第二―四行 教養文庫の『ギリシア神話小事典』に、アルテミスは「月の女神」とある。また、マラルメが一八六四年十月にアンリ・カザリスに宛てて書いた手紙にある、「月光のもと、噴水の水のように、あえかなせせらぎと共に真珠(たま)となって落下する蒼い宝石だ。」(松室三郎訳)という文も参照した。イメージ・シンボル事典によると、真珠は、「愛および月の女神達の表象物」であるという。ちなみに、本作の第∨章の注解に出てくるヘラクレイトスは、「『自然について』と題する一連の論考から成っている」「書物を、アルテミスを祠(まつ)る神殿に献納した」(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』第I分冊第II部・第22章、三浦 要訳)という。

第三連・第五―九行 「「雨でも平気なの?」/「別に、地下鉄まで遠くはありませんし……」/「スーツが濡れるわよ」/「通りにばかりいるわけではありませんわ、私たち、映画にも行くし……」/「誰なの、『私たち』って」」(モーリヤック『夜の終り』I,牛場暁夫訳)より。

第三連・第二一行 ある詩人の作品とは、ボードレールの『美女ドローテ』(三好達治訳)のこと。

第三連・第二四行 呉 茂一の『ギリシア神話』第一章・第五節・一、「いつかもう九つの月がたったある日、アルテミスは森あいの池で、暑さをしずめに自らも沐浴(ゆあみ)し、伴(とも)のニンフたちにも衣を脱いで沐浴させた。そして羞(は)じらいに頬を染める少女も、強いて仲間入りをさせられたのであった。その姿を見ると、(きっと連れのニンフたちが、おそらくは嫉(ねた)みと意地悪と好奇心から、叫び声を立てたであろう)、アルテミスは、美しい眉を険しくひそめて、決然とした語調で叫んだ。「向うへ、遠くへいっておしまい。この聖(きよ)らかな泉を、汚すのは私が許しません。」」より。





II. You do not know what you are asking.


第II章のタイトルは、MATTHEW 20.22 "You do not know what you are asking."(マタイによる福音書二〇・二二、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。」)より。

第一連・第二一―三五行 ハンカチに関する記述は、つぎの文献による。冨山房『英米故事伝説辞典』 handkerchief の項、学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』 handkerchief の項、小学館『万有百科大事典』ハンカチーフの項、平凡社『大百科事典』ハンカチーフの項。

第一連・第三七―三八行 本文で言及している、スタンダールの文章とは、「さあ書けたよ。地下道が敵に占領されないか心配だわ。早く机の上にある手紙をもって、ジュリオさまに渡してきておくれ。お前自身がだよ(、、、、、、)、わかって。それから、このハンカチをあのひとに渡して、いっておくれ。わたしはあのひとを、いつのときも愛していました、そして少しも変らず今の瞬間も愛していますって。いつのときも(、、、、、、)だよ、忘れるのじゃないよ!」(『カストロの尼』七、桑原武夫訳)のこと。

第三連・第三―四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一五六行、「私には黒い尨犬しか何も見えませんが。」より。

第四連・第三行 「おれがあんなに大事に思って、お前にやったハンカチを/おまえはキャシオウにやった。」(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅 泰男訳)より。なお、第II章・第四連の注解では、シェイクスピアの『オセロウ』からの引用はすべて菅 泰男訳であるので、以下、第II章・第四連の注解では、『オセロウ』の翻訳者の名前は省略した。

第四連・第五―七行 シェイクスピアの『オセロウ』第三幕・第三場に、「苺(いちご)の刺繍(ししゆう)をしたハンカチを奥様がおもちになってるのを/ごらんになったことはありませんか?」、第三幕・第四場に、「あのハンカチは/あるエジプトの女から母がもらったのだが、/それは魔法使いで、人の心をたいていは読みとることが出来た。/その女が母に言ったということだ──これをもっている間は、/かわいがられて、父の愛をひとり/ほしいままに出来るが、万一これを失うか、/それとも人に贈るかしたら、父にいとわれ/嫌われて、父の心はよそに移り/新しい慰みを追うようになろうぞ、とな。母はいまわの際(きわ)に、それをおれにくれて、/おれが妻をめとることになったら、それを妻にやれと/言った。おれはその言いつけ通りにしたのだ。」、第五幕・第二場に、「ハンカチです。わたしの父が、その昔、母にやった/古いかたみの品なのです。」とある。一つのハンカチをめぐる二つのセリフのあいだに、ちょっとした矛盾が見られるが、劇の進行上、問題はない。ご愛嬌といったところだろうか。ところで、岩波文庫の『オセロウ』の解説のなかで、菅 泰男は、十七世紀末に、トマス・ライマーが、シェイクスピアの『オセロウ』のことを、「血みどろ笑劇」とか「ハンカチの喜劇」とか言って批判したことを紹介しているが、菅 泰男はまた、英宝社の『綜合研究シェイクスピア』のなかでも、「シェイクスピア批評史・1・十七世紀」のところで、ライマーの批判について、つぎのように言及している。「新古典主義の影響の著しい王政復古期には、イギリスでもシェイクスピアを完全にやっつけたものがあった。トマス・ライマー(Thomas Rymer, 1641-1713)という好古家は1678年と1693年に二つの悲劇論を書いて、イギリス人もギリシャの古典作家の基礎に立つべきであったと論じ、イギリス劇を手ひどく非難した。殊に後の著で『オセロ』をやっつけたのは有名である。この劇は「ハンカチーフの悲劇」だと彼はきめつける。「この芝居には、観客を喜ばせる、いくらかの道化と、いくらかのユーモアと、喜劇的機知のヨタヨタ歩きと、いくらかの見せ場と、いくらかの物真似とがある。が、悲劇的な部分はあきらかに味も素気もない残忍な笑劇にすぎない」と言う。」と。T・S・エリオットも、『ハムレット』という論文の原注に、ライマーの批判について、つぎのように書きつけている。「私はトマス・ライマーの『オセロ』非難にたいする確固たる反駁をまだ見たことがない。」(工藤好美訳)と。アガサ・クリスティーもまた、自分の作品のなかで、主人公のポアロに、シェイクスピアの『オセロウ』について、つぎのように批判させている。「イアーゴは完全殺人者だ。デズデモーナの死も、キャシオーの死も──じつにオセロ自身の死さえも──みなイアーゴによって計画され、実行された犯罪だ。しかも、彼はあくまで局外者であり、疑惑を受けるおそれもない──はずだった。ところがきみの国の偉大なシェイクスピアは、おのれの才能ゆえのジレンマと闘わなければならなかった。イアーゴの仮面を剥ぐために、彼はせっぱつまったすえなんとも稚拙な工夫──例のハンカチ──に頼ったのである。これはイアーゴの全体的な狡智とは相容れない小細工であり、まさかイアーゴほどの切れ者がこんなヘマをしでかすはずがないと、だれしも思うに違いない。」(『カーテン』後記、中村能三訳)と。

第四連・第八―六八行に出てくる人物についての注解 マルト、ジャックは、ラディゲの『肉体の悪魔』(新庄嘉章訳)から。名前の出てこないマルトの新しい恋人も、『肉体の悪魔』の主人公を参考にした。この主人公は、「『悪の華』を愛誦(あいしよう)して」おり、「マルトに『言葉(ル・モ)』紙のコレクションと『地獄の季節』を次の木曜日にもって行こうと約束した」。彼は、マルトが「ボードレールとヴェルレーヌを知っていることをうれしく思い、僕の愛し方とは違うけれども、彼女のボードレールを愛するその愛し方に魅惑された」のだという。シュトルムの『みずうみ』(高橋義孝訳)からは、ラインハルトの名前を拝借した。エリーザベトは、このラインハルトの幼なじみのエリーザベトと、コクトーの『怖るべき子供たち』(東郷青児訳)の主人公の姉、エリザベートから拝借した。アガート、ジェラール、ダンルジェロの三人の名前も、『怖るべき子供たち』から。

第四連・第二三行 「女主人はエリザベートの美しさに驚いた。残念なことに売り子の資格はいろいろの外国語を知っていなければならない。彼女はマネキンの職しか得られなかった。」(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)より。

第四連・第四七―四八行 シュトルムの『みずうみ』の「森にて」の場面から。苺の下に敷くのに拡げられたハンカチから、シェイクスピアの『オセロウ』に出てくる、イチゴの刺繍が施されたハンカチを連想されたい。ちなみに、イメージ・シンボル事典によると、イチゴは、愛の女神や聖母マリアのエンブレムであるという。





III. You shall love your neighbor as yourself.


第III章のタイトルは、LEVITICUS 19.18 "you shall love your neighbor as yourself:"(レビ記一九・一八、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」)より。

第一連・第一―二行 伝道の書一・六、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、/めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。」より。イメージ・シンボル事典によると、北は、冬、死、夜、神秘を、南は、夏、生命、太陽、理性を表わすという。この南北間を往復する地下鉄電車は、本作の第V章・第六連・第一―五行の注解で詳述する、人間の魂の「二極性」を象徴させている。

第一連・第三行 「駿馬(しゆんめ)痴漢(ちかん)を駄(の)せて走(はし)る」(大修館書店『故事成語名言大辞典』)より。

第一連・第四行 「感覚器官は感覚器官の対象に向かってはたらく。」(『バガヴァッド・ギーター』第五章、宇野 惇訳)より。

第一連・第七―八行 「眼は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての形によって捉えられる。なぜならば、人は眼によって形を見るからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第九―一〇行 「鼻は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての香りによって捉えられる。なぜならば、人は鼻によって香りを嗅ぐからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第一四行 箴言九・一三、「愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。」より。

第一連・第一五行 箴言一〇・一九、「自分のくちびるを制する者は知恵がある。」より。

第一連・第二五―二七行 「悪魔が陰鬱なのは、おのれがどこへ向かって行くかを知っているからだ。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第七日・深夜課、河島英昭訳)より。

第一連・第二九行 「彼のすがたは目に見えず、だれも彼を目で見ることはできない。彼は心によって、思惟(しい)によって、思考力によって表象される。このことを知る人々は不死となる。」(『カタ・ウパニシャッド』第六章、服部正明訳)より。

第一連・第三一―三三行 「僕はしばらくして一人の妊婦に出会った。彼女は重たい足どりで高い日向(ひなた)の塀に沿うて歩いていた。時々、手を延ばして塀をなでながら歩いた。塀がまだ続いているのを確かめでもするような手つきに見えた。そして、塀はどこまでも長く続いているのだ。」(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)より。

第二連・第三行 須賀敦子の『舗石を敷いた道』(ユリイカ一九九六年八月号に収載)、「雨もよいの空の下、四角い小さな舗石を波の模様にびっしりと敷きつめた道が目のまえにつづいていた。」より。

第三連・第六―一〇行 「ちっちゃな丸顔がとび出して、彼に話しかけた。/「あたしザジよ、ガブリエル伯父さんでしょ」/「さよう」ガブリエルは気取った口調で答える。「そなたの伯父さんじゃよ」小娘はくすくす笑う。」、「「地下鉄に乗るの?」/いいや」/「どうして? なぜ乗らないの?」」(レーモン・クノー『地下鉄のザジ』1、生田耕作訳)より。

第三連・第五―七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二四九九行、「馬の足というやつも、無くちゃおれも困るんだが、」、第一部・魔女の厨・第二五〇二行、「贋(にせ)のふくらはぎをつけて出(で)歩(ある)いているのさ。」、第一部・ワルプスギスの夜・第四〇三〇行、「つむじ曲がりの霊だな、君は。」より。イメージ・シンボル事典によると、ゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔のメフィストーフェレスは両性具有者であるという。エリオットの『荒地』に出てくる予言者のティーレシアスも二(ふた)成(な)りである。本作では、ティーレシアスが、エリオットの『荒地』において果たした役割を、メフィストーフェレスに担わせている。

第三連・第九―一四行 オー・ヘンリーの『賢者の贈りもの』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第一五―一九行 オー・ヘンリーの『古パン』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第三〇―三九行 「もう五年がすぎたのだ!」、「身にしみて感じるひまもなかったほど、それほど速く過ぎさってしまったあの幸せな十年の歳月!」、「若い妻は、やっと三重を迎えるというのに死んでしまった。」(ローデンバック『死都ブリュージュ』I、窪田般彌訳)より。

第三連・第四五―四八行 「セヴリヌは、その男のうしろすがたをちらつと見ただけだが、それには見おぼえがあつたのだ。がつちりとした体格といい、着くずれた背広といい、それに、あの、品のない肩つきといい、首つきといい……」(ケッセル『昼顔』四、桜井成夫訳)より。なお、ケッセルの『昼顔』からの引用はすべて桜井成夫訳であるので、以下、『昼顔』の翻訳者の名前は省略した。

第三連・第四九行 マダム・アナイスは、セヴリヌが春をひさぐ淫売宿の女主人。

第三連・第五〇行 「「恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、今に嬉しがらせてやるからな、見ていて御覧」とアドルフさんが、ささやいた。」(ケッセル『昼顔』五)より。このアドルフという人物は、セヴリヌが、マダム・アナイスの淫売宿で最初に寝た客。

第四連・第一行 箴言五・一八、「あなたの泉に祝福を受けさせ、/あなたの若い時の妻を楽しめ。」より。

第四連・第二―三行 「何方(いづかた)より來たりて、何方(いづかた)へか去る。」(鴨 長明『方丈記』一)より。

第四連・第四行 伝道の書三・一、「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」より。

第四連・第五行 伝道の書三・八、「愛するには時があり、憎むに時があり、」より。

第四連・第六行 「この生涯において、ただ一度めぐり合った地上の恋人、その名前すら、私は知らなかったし、その後も知ることがなかった。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第五日・終課、河島英昭訳)より。

第四連・第七行 「似通ってはいたが、同じといえるものは何一つなかった。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・19、安藤哲行訳)より。なお、サバトの『英雄たちと墓』からの引用はすべて安藤哲行訳であるので、以下、『英雄たちと墓』の翻訳者の名前は省略した。

第五連・第一―三行 マタイによる福音書二六・三四、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」より。なお、第五連は、一か所をのぞき、すべて、聖書からの引用で構成した。ちなみに、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に、つぎのようなセリフがある。「悪魔でも聖書を引くことができる。」(第一幕・第三場、中野好夫訳)。

第五連・第四行 マタイによる福音書二八・一〇、「恐れることはない。」、ヨハネによる福音書一〇・一一、「わたしはよい羊飼である。」より。

第五連・第五行 マタイによる福音書三・一七、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」より。

第五連・第六―一〇行 マタイによる福音書六・三―四、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」、箴言九・一七、「「盗んだ水は甘く、/ひそかに食べるパンはうまい」」より。しかし、聖書のなかには、「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」(マルコによる福音書四・二二)といった言葉もある。

第五連・第一一行 詩篇三五・二一、「彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、/「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と言います。」より。

第五連・第一三行 マタイによる福音書三・一〇、「斧がすでに木の根もとに置かれている。」より。

第五連・第一四―一六行 マタイによる福音書五・四〇、「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい。」より。

第五連・第一七行 マタイによる福音書一五・二八、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。」より。

第五連・第一八行 マルコによる福音書一五・三九、「まことに、この人は神の子であった」より。

第五連・第一九―二一行 マタイによる福音書五・四一、「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」より。

第五連・第二二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三四五行、「この生き生きした豊かな美を楽しむがよい。」より。

第六連・第二―六行 出雲神話の一つ、因幡(いなば)の白兎の話(『古事記』上巻)より。

第六連・第九行 ヘラクレイトスの『断片八二』、「もっとも美しい猿も、人類に比べたら醜い」(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』鈴木幹也訳)より。

第六連・第一〇―一一行 シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場の、「嫁に行きそこなった女は、子供のためにあの世の道案内が出来ないから、その代り猿の道案内をさせられると言いましょう、だから、私、今のうちに見せ物師から手附けを貰っておいて、死んだらその猿を地獄まで連れて行ってやる積りよ。」(福田恆存訳)というセリフを引いて、「「老嬢は地獄でサルを引く」という諺は、知れ渡っていたようである。」と、イメージ・シンボル事典に書かれている。ただし、この注解で引用したシェイクスピアの件(くだん)のセリフは、イメージ・シンボル事典に掲載されているものではない。また、事典にあるものよりもより広範囲に引用した。ボードレールが、「動物の中で猿だけが、人間以上であると同時に人間以下であるあの巨大な猿だけが、ときに女性に対して人間のような欲望を示すことがある。」(『一八五九年のサロン』9、高階秀爾訳)と述べているのが、たいへん興味深い。なお、ボードレールの『一八五九年のサロン』からの引用はすべて高階秀爾訳であるので、以下、『一八五九年のサロン』の翻訳者の名前は省略した。猿に関しては、何人もの詩人や作家や哲学者たちが面白いことを述べている。以下に、引用しておこう。「コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。/一、猿がほんとうに人間に似ていること。/二、猿が人間を正しく判断していること。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木 明訳)、「simia, quam similis, turpissima bestia, nobis!/最も厭はしき獸なる猿は我々にいかによく似たるぞ。」(Cicero, De Natura Deorum.I,3,5. 『ギリシア・ラテン引用語辭典』収載)、「かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・ツァラトゥストラの序説・3、手塚富雄訳)、「猿(さる)の檻(おり)はどこの国でもいちばん人気がある。」(寺田寅彦『あひると猿』)、「純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない」(『天国の夏』)のである。なお、『ツァラトゥストラ』からの引用はすべて手塚富雄訳であるので、以下、『ツァラトゥストラ』の翻訳者の名前は省略した。

第六連・第一二行 イギリスの博物学者ジョン・レーの「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい。」(金子一雄訳)という言葉より。講談社『[英文対訳]名言は力なり』シリーズの一冊、『悪魔のセリフ』に収められている。

第六連・第一三―一四行 「愛(性愛)あるいは恋を意味するエロースという語は、そのまま神格としてギリシア人の間に認められて来た。ローマでは「欲望」 Cupido クピードーの名をこれにあてている、すなわちキューピッドである。」(呉 茂一『ギリシア神話』第一章・第七節・一)より。

第六連・第一五―一六行 「さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロースが生じたもうた。/この神は四肢の力を萎(な)えさせ 神々と人間ども よろずの者の/胸のうちの思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ。」(ヘシオドス『神統記』原初の生成、廣川洋一訳)より。

第六連・第一八行 「「だが、君、もしそれがほんとうなら、何も君は証人を必要とすまい、ここにロドスがある、さあ、跳んで見給え。」/この話は、事実によって証明することのてっとり早いものについては、言葉は凡て余計なものである、ということを明らかにしています。」(『イソップ寓話集』五一駄法螺吹き、山本光雄訳)より。

第七連・第二―三行 「伊邪那美命言(まを)さく、愛(うつく)しき我(あ)がなせの命かくせば、汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千(ち)頭(かしら)絞(くび)り殺さむ」とまをしき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いま)然(し)せば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産(うぶ)屋(や)立てむ」とのりたまひき。」(次田真幸全訳注『古事記』上巻・伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)・五・黄泉(よみの)国(くに))より。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


第IV章のタイトルは、HOSEA 13.5 "It was I who knew you in the wilderness,/in the land of drought;"(ホセア書一三・五、「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。」)より。

第一連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一三二三行、「なんだ、これが尨犬の正体か。」そうだったのである。イメージ・シンボル事典のMephistopheles メフィストフェレスの項に、「独立と真の自己を獲得するため、全なるもの the All から離脱した魂の否定的な側面を表す。」とある。





V. Behold the man!


第V章のタイトルは、JOHN 19.5 ""Behold the man!;""(ヨハネによる福音書一九・五、「「見よ、この人だ」」)より。

第一連・第四行 「ことば、ことば、ことば。」(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)より。

第一連・第一二―一三行 「poet(詩人)という言葉は、もとをたどれば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第4章、岩崎 徹訳)より。

第一連・第一五行 「人生を愛してこそ詩人だ。」(オネッティ『古井戸』杉山 晃訳)より。

第一連・第一六―一七行 ジイドは、『地の糧』第六の書で、「わたしは唇が渇きをいやした泉を知っているのだ。」と述べているが、第一の書・一には、「しかし泉というものは、むしろ、われわれの欲望がわき出させる場所にあるのだろう。なぜならば、土地というものは、われわれが近寄りながら形づくってゆく以外には、存在はしないし、まわりの風景もわれわれの歩むにしたがって、少しずつ形が整ってゆくからだ。」と書いている。

第一連・第一八行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三三八―三三九行、「およそ否定を本領とする霊どもの中で、/いちばん荷(に)厄介(やつかい)にならないのは悪戯者(いたずらもの)なのだ。」、天上の序曲・第三二〇行、「わたしのいちばん好きなのは、むっちりした生きのいい頬(ほ)っぺたなんで。」より。

第一連・第一九―二一行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三二四―三二六行、「あれの魂をそのいのちの本源からひきはなし、/もしお前につかまるものなら、/あれを誘惑してお前の道へ連れこむがよい。」より。

第一連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一八三四―一一八三九行、「いい年をして、まんまと騙(だま)されやがった。/自(じ)業(ごう)自(じ)得(とく)というものだが、はてさて景気が悪い。/人に顔向けもならん大失敗だて。/骨折損のくたびれ儲(もう)けとは、いい面(つら)の皮(かわ)だ。/甲(こう)羅(ら)のはえた悪魔のくせに、/卑しい情欲や愚かな色気に負けたとは。」より。

第一連・第三〇行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四・最終部・晩餐(ばんさん)、「なるほど泉の湧(わ)く音はここにもしている、それはあの知恵のことばと同様に、ゆたかに倦(う)むことなく湧いている。」より。

第一連・第三一行 「御血統の泉が、源が、涸(か)れ果ててしまったのです──流れのもとが止ってしまったのだ。」(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)より。

第一連・第三二行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第一部・贈り与える徳・2、「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声なのだ。」より。

第一連・第三四行 ゲーテの『のファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九三八行、「この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)につかまっていてください。」より。

第二連・第三行 「自分ならぬ別の女を見ているような気がした。」(ケッセル『昼顔』四)より。

第二連・四行 マルガレーテは、ゲーテの『ファウスト』第一部のヒロインの名前である。第二部・第五幕の最後の場面にも登場する。

第二連・第六―一〇行 グレートヘンは、岩波文庫の『ファウスト』第一部の巻末にある第二八一三行の註にあるように、マルガレーテの愛称である。以下、『ファウスト』第一部・庭園・第三一七七行、「可愛いひと。」、第一部・街路・第二六一三行、「あの唇の赤さ、頬の輝き。」、第一部・庭園・三一三六行、「あなたは確かに最も浄(きよ)らかな幸福を味わわれたんです。」、第一部・街路・第二六一一―二六一二行、「躾(しつ)けがよく、慎(つつ)ましやかで、/しかもいくらかつん(、、)としたところもある。」、第一部・庭園・第三一〇二―三一〇三行、「ああ、単純や無邪気というものは、自分自身をも、/自分の神聖な値(ね)打(うち)をも一向知らずにいるのだからなあ。」より。

第三連・第二―七行 デイヴィッド・ボーンは、ヘミングウェイの『エデンの園』(沼澤洽治訳)の主人公の名前。キャスリン・ボーンは、その妻。以下、『エデンの園』第一部・1、「むらなく焼けているのは、遠い浜まで出かけ、二人とも水着を脱ぎ棄てて泳ぐおかげである。」、第三部・9、「スカンジナヴィア人なみのブロンド」、「白いブロンド」、第一部・1、「両横はカットしたので、平たくついた耳がくっきりと出、黄茶色の生え際が頭にすれすれに刈り込まれた滑らかな線となって後ろに流れる。」、第三部・9、「そっくり同じにして」、第一部・1、「夫婦と名乗らずにいると、いつも兄妹に見間違えられた。」、「二人が結婚してから三週間めである。」より。なお、『エデンの園』からの引用はすべて沼澤洽治訳であるので、以下、『エデンの園』の翻訳者の名前は省略した。
 イメージ・シンボル事典を見ると、「対のもの、双子」は、「相反する2つのものを表す。たとえば、生と死、日の出と日没、善と悪、牧羊者と狩猟者、平坦な谷と切り立った山。そしてこの相反するものが結局は、総合し補足しあう働きをする。」とあり、「2」は、「たとえば、積極性と消極性、生と死、男と女、といった両極端の、相違する、二元的な、相反するもの(の結合)を表す。」とある。本作において、対になった二つのものが多く現われるのも、また、さまざまなものが二度現われるのも、偶然ではない。それが、本作のもっとも重要なモチーフを暗示させるからである。

第三連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「ね、キスして」と言った。」より。

第三連・第一二行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「お揃いで見せびらかすの嫌?」より。

第三連・第一三行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「「いいとも、悪魔。僕が嫌なわけあるまい?」」より。

第四連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第四幕・第一〇一九三行、「何を人間が渇望(かつぼう)しているか、君なんかにわかるかね。」より。

第四連・第二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二八一―二八二行、「この、地上の小神様はいつも同じ工合にできていて、/天地開闢の日と同じく変ちきりんな存在です。」より。

第四連・第三行 創世記一八・一四行、「主に不可能なことがあろうか。」より。

第四連・第四行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二九〇行、「脚のながいきりぎりす(、、、、、)」より。

第四連・第六―八行 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第五六六―五六九行、「あんな古文献などというものが、一口飲みさえすれば/永久に渇(かわ)きを止めてくれる霊泉ででもあるのかね。/爽(さわや)かな生気は、それが君自身の、/魂の中から湧(わ)き出すのでなければ得られはしない。」より。

第四連・第九行 「名前があると、彼女のことが考えやすい。」(ロバート・B・パーカー『ユダの山羊』12、菊池 光訳)ので。ちなみに、ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二五六五―二五六六行と、第一部・書斎・第一九九七―一九九九行に、「通例人間というものは、なんでも言葉さえきけば、/そこに何か考えるべき内容があるかのように思うんですね。」、「言葉だけで、立派に議論もできる、/言葉だけで、体系をつくりあげることもできる、/言葉だけで、立派に信仰を示すことができる、」とある。まことに考えさせられる言葉である。また、シェイクスピアの『夏の夜の夢』第五幕・第一場に、「詩人の眼は、恍惚たる霊感のうちに見開き、/天より地を眺め、地より天を望み」(土居光知訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)、「そして想像力がいまだ人に知られざるものを/思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに/たしかな形を与え」(小田島雄志訳)、「現実には在りもせぬ幻に、おのおのの場と名を授けるのだ。」(福田恆存訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という、よく知られた言葉もある。このよく知られた言葉を、三人の翻訳者によるものを切り貼りして引用したのは、どの翻訳者のものにも一長一短があって、一人の訳者によるものだと、かならずどこか欠けてしまうところがあると筆者には思われたからである。どの訳がいちばんよいのか、散々、悩んだのであるが、悩んでいるうちに、ふと、こんなことを考えた。選べるから、選択しようとするのである、と。選べない状態では、選択しようがないからである。また、比べることができるから、不満も出るのだ、と。そういえば、ひとむかしも、ふたむかしもまえのことなのだが、田舎に住むゲイ・カップルの交際は長つづきすると言われていた。都会のように、つぎつぎと相手を見つけることができないからだというのだ。簡単に違った相手を見つけられると思うと、いまいる相手にすぐに不満もつのるものなのだろう。たしかに、これを捨てても、あれがある、という選べる状態であったら、いまあるものを簡単に捨ててしまって、ほかのものに乗り換えることに、それほど躊躇はしないものだろう。簡単に捨ててしまうのだ。そういえば、『源氏物語』には、つぎのような言葉があった。「ぜんぜん人を捨ててしまうようなことを、われわれの階級の者はしないものなのだ。」(紫 式部『源氏物語』真木柱、与謝野晶子訳)、「今日になっては完全なものは求めても得がたい、足らぬところを心で補って平凡なものにも満足すべきであるという教訓を、多くの経験から得てしまった自分である」(紫 式部『源氏物語』若菜(上)、与謝野晶子訳)。筆者も、はやくそういった境地に至りたいものである。もうとっくに、そういった境地に達していなければならない年齢になっていると思われるからである。

第五連・第三―四行 ゲーテの『愛するベリンデへ』高橋健二訳、「その時もう私はお前のいとしい姿を/この胸の奥ふかく刻んだのだった。」、ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六二九行、「可愛い花は」より。平凡社の世界大百科事典に、マーガレット Margaret (Marguerite)の「語源はギリシア語のマルガリテス margarites ならびにラテン語のマルガリータ margarita で<真珠>の意味である。花の名前としては国によりさす植物がちがい、英語ではモクシュンギク Chrysanthemum frutescena、ドイツ語ではフランスギク、フランス語ではヒナギクをいう。また各国語とも他のキク科植物を含む総称ともされている。」とある。「いずれにしても花びらは白かうす黄色で花の心は金色である。」と、研究社の『英語歳時記/春』にある。花言葉を、柏書房の『図説。花と樹の大事典』で調べると、マーガレットは「誠実」と「正確」、ヒナギクは「無邪気」と「平和」であった。カレッジクラウン英和辞典で、マーガレットの語源である真珠の項を見ると、「精粋、典型:a pearl of woman──女性の中の花」という、語意と成句が載っている。シェイクスピアの『オセロウ』の第五幕・第二場にある、劇のクライマックスで、オセロウは、愛する妻を真珠にたとえて、よく知られている、つぎのようなセリフを口にする。「どうか、いささかもおかばい頂くこともなく、さりとて誣(し)いられることもなく、/ありのままにわたしのことをお伝え下さい。それから、お話し下さい、/懸命に愛するすべは知らなかったが、心の底から愛した男、/嫉妬しやすくはなかったのだが、はかられて/心極度に乱れ、愚かしいインディアンのように/その種族のすべてにもかえられぬ、貴い真珠の玉を/われとわが手から投げうってしまいました、と。」(菅 泰男訳)。シェイクスピアの『オセロウ』のヒロイン、デズデモウナと、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、マルガレーテの二人のヒロインが、真珠という語で結びつくことで、あらためて二つの作品が悲劇であったことに気づかされた。真珠は、美しい女性にたとえられるだけではなく、イメージ・シンボル事典に、「(とくにローマ人に)涙を連想させる。」とあるように、悲しみを象徴するものとしても用いられるのである。

第六連・第一―五行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一一二―一一一七行、「おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、/それが互に離れたがっている。/一方のやつは逞(たくま)しい愛慾に燃え、/絡(から)みつく官能をもって現世に執着する。/他のものは無理にも塵(ちり)の世を離れて、崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。」より。

 ノエル・コブは、『エロスの炎と誘惑のアルケミー』に、古代ギリシアのパパイラスの、つぎのような言葉を引いている。エロスとは「暗く神秘的で、思慮分別のある要領の良い考えは隠れその代わりに暗く不吉な情熱を吹き込む」「どの魂の潜みにも隠れ住んでいる」(中島達弘訳、ユリイカ一九九八年十二月号)ものである、と。ノエル・コブの引用自体が孫引きであるので、筆者のものは曾孫引きということになる。

 パスカルの『パンセ』第六章(前田陽一訳)にある、断章四一二、断章三七七、断章四一七に、「理性と情念とのあいだの人間の内戦。/もし人間に、情念なしで、理性だけあったら。/もし人間に、理性なしで、情念だけあったら。/ところが、両方ともあるので、一方と戦わないかぎり、他方と平和を得ることがないので、戦いなしにはいられないのである。こうして人間は、常に分裂し、自分自身に反対している。」、「われわれは、嘘(うそ)、二心、矛盾だらけである。」、「人間のこの二重性はあまりに明白なので、われわれには二つの魂があると考えた人たちがあるほどである。」とある。なお、『パンセ』からの引用はすべて前田陽一訳であるので、以下、『パンセ』の翻訳者の名前は省略した。

 ボードレールは、『赤裸の心』(阿部良雄訳)の一一と二四に、「あらゆる人間のうちに、いかなるときも、二つの請願が同時に存在して、一方は神に向かい、他方は悪魔に向かう。神への祈願、すなわち精神性は、向上しようとする欲求だ。悪魔への祈願、すなわち獣性は、下降することのよろこびだ。」、「快楽を好む心は、われわれを現在に結びつける。魂の救いへの関心は、われわれを未来につなぐ」と述べている。なお、ボードレールの『赤裸の心』からの引用はすべて阿部良雄訳であるので、以下、『赤裸の心』の翻訳者の名前は省略した。

 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第七八四行に、「おれはまた地上のものとなった。」というセリフがある。ボードレールのいう二つの請願というものを、ゲーテの言葉を用いて言い現わすと、「天上的なものに向かうものと、地上的なものに向かうもの」とでもなるであろうか。

 プルーストの『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)の第三篇『ゲルマントの方』や、第五篇『囚われの女』にも、「私たちは、二つある地からのどちらかを選んで、それに身を委ねることができる。一方の力が私たち自身の内部から湧き上がり、私たちの深い印象から発散するものなのに対して、他方の力は外部から私たちにやってくる。」とか、「一方には健康と英知、他方には精神的快楽、常にそのどちらかを選ばなければならない。」とかいった文章がある。なお、プルーストの『失われた時を求めて』からの引用はすべて鈴木道彦訳なので、以下、『失われた時を求めて』の翻訳者の名前は省略した。

 新潮文庫の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、堀口大學は、ヴェルレーヌが、「一つは善良な、他は悪魔的な、二重人格が平行して(、、、、)自分の内に存在すると確認したらしいのだ。善と悪、異質の二つの鍵盤(けんばん)の上を、次々に、または同時に、往来するように自分が運命づけられていると気づいたというわけだ。」と述べているが、ヴェルレーヌ自身、『呪はれた詩人達』の「ポオヴル・レリアン」の項(鈴木信太郎訳、旧漢字を新漢字に改めて引用。ちなみに、ポオヴル・レリアンとは、ヴェルレーヌ自身の子と)に、「一八八〇年以後、彼の作品は、二種類の明瞭に区別される領域に分けられる。そしてなほ将来の著作の予想は、次の事実を明らかにする。即ち、彼は、同時的ではないとしても(且又、この同時的といふことは、偶然の便宜に起因して、議論からは外れるのだ)、尠くとも並行的に、絶対に異つた観念の作品を発表して、この二種類の傾向といふシステムを続けようと決意した事実である。」と書いており、さらに、「信仰」と「官能」という、この二つの領域への志向が、彼のなかでは思想的に統一されていて、「一つの祈りのみによつても、また一つの感覚的印象のみによつても、多くの著作を易々と作り得るし、その反対に、それぞれによつて同時に唯一つの著作を、同じく自在に、作り得るのである。」とまで言うのであるが、これらの言葉には、ヘラクレイトスの「対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。」(『断片8』内山勝利訳)や、「万物から一が出てくるし、一から万物が出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった思想の影響が如実に表れているように思われる。

 右の引用に見られるような、いわゆる「反対物の一致」という、ヘラクレイトスの考え方が、後世の詩人や作家たちに与えた影響はまことに甚だしく、その大きさには計り知れないものがある。「俺は 傷であつて また 短刀だ。」(『我とわが身を罰する者』鈴木信太郎訳)と書きつけたボードレールや、「心して言葉をえらべ、/「さだかなる」「さだかならぬ」と/うち交る灰いろの歌/何ものかこれにまさらん。」(『詩法』堀口大學訳)と書きつけたヴェルレーヌについては言うまでもなく、「また見附かつた、/何が、永遠が、/海と溶け合ふ太陽が。」(『地獄の季節』錯乱II、小林秀雄訳。海 mer は女性名詞であり、太陽 soleil は男性名詞である。また、海は水を、太陽は火を表わしている。)と書きつけたランボーにおいても、その影響は著しい。また、「異端者の中の異端者だったわたしは、かけ離れた意見や、思想の極端な変化や、考えの相違などに、つねに引きつけられた。」(『地の糧』第一の書・一)というジイドも、『贋金つかい』の第二部・三に、「二つの相容れない要求を頭の中に蔵していて、両者を調和させようとしている」(川口 篤訳)と書きつけている。現実にも、ときには、あるいは、しばしば、この言葉どおりの状況にジイドが直面したであろうことは、想像に難くない。また、プルーストの『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』にも、「その二つは互いに相容れないように見えるかもしれないが、それが合わさるとはなはだ強力になるものであった。」といった言葉があり、トーマス・マンの『魔の山』(佐藤晃一訳)の第六章にも、「対立するものは」「調和しますよ。調和しないのは中途半端な平凡なものにすぎません。」といった言葉がある。プルーストやトーマス・マンが、ボードレールやジイドらとともに、ヘラクレイトスの系譜に列なる者であることは明らかであろう。なお、ジイドの『贋金つかい』からの引用はすべて川口 篤訳であるので、以下、『贋金つかい』の翻訳者の名前は省略した。

 堀口大學は、前掲の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、「極端に背(はい)馳(ち)する二つの性格間の激しい争闘とも解されるこの詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出る」などと述べているが、ヴェルレーヌの偉大さなどいっさい認めず、その矛盾に満ちた人生に、なによりも混沌を見て取る者の方が多いのではなかろうか。ヴェルレーヌの『煩悶』に、「私は悪人も善人も同じやうに見る。」(堀口大學訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)といった詩句があるが、筆者には、これが、「悪人」とか「善人」とかいったものをきちんと弁別した上で書きつけたものであるとは、とうてい思えないのである。そういえば、犯罪の種類も程度も異なるが、ヴェルレーヌと同様に刑務所に収監されたことのあるヴィヨンもまた、『ヴィヨンがこころとからだの問答歌』に、「美と醜も一つに見えて、見分けがつかぬ。」(佐藤輝夫訳)といった詩句を書きつけていた。ちなみに、これらの詩句と類似したものに、ヘラクレイトスの「上がり道と下り道は同じ一つのものである。」(『断片60』内山勝利訳)や、ゲーテの「では降りてゆきなさい。昇ってゆきなさい、といってもいい。/おなじことなんです。」(『ファウスト』第二部・第一幕・第六二七五―六二七六行)や、シェイクスピアの「きれいは穢(きたな)い、穢いはきれい。」(『マクベス』第一幕・第一場、福田恒存訳)や、ランボーの「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ、」、「俺は隠されている、しかも隠されていない。」(『地獄の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)や、ヴァレリーの「異なるものはすべて同一なり」、「同一なるものはすべて異なる」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)といったものがあるが、この類のものは、例を挙げると、枚挙に遑(いとま)がない。ヴェルレーヌのことを考えると、筆者には、サバトの『英雄たちと墓』第I部・13にある、「彼の心は一つの混沌だった。」といった言葉が真っ先に思い浮かんでしまうのだが。

 しかし、ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第二部で語った、「われわれが矛盾してゐるときほど自己に真実であることは断じてない」(西村孝次訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)というこの言葉に結びつけて、ヴェルレーヌがいかに「自己に真実であ」ったかということを思い起こすと、たしかにその意味では、堀口大学が述べていたように、「この詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出」ていることを全面的に否定することはできないように思われるのだが、それでもやはり、その生涯の傍若無人ぶりといったものをつぶさに振り返ってみれば、あらためて、先の堀口大學の言説を否定したい、という気持ちにも駆られるのである。なお、ワイルドの作品からの引用はすべて西村孝次訳であるので、以下、ワイルドの作品の翻訳者の名前は省略した。また、それらの引用はみな、旧漢字部分を新漢字に改めた。

「私たち哀れな人間は/善いことも悪いこともできる。/動物であると同時に神々なのだ!」、この詩句が、だれのものであるか、ご存じであろうか。ヴェルレーヌと同じように、一生のあいだ、自己の魂の二極性に苦しめられたヘッセのもの(『平和に向って』高橋健二訳)である。ヴェルレーヌとヘッセとでは、ずいぶんと生きざまが違うように見えるが、魂の二極性に苦しめられたという点では、共通しているのである。ヘッセが、『荒野の狼』(手塚富雄訳)で、主人公のハリー・ハラーについて、「感情において、あるときは狼として、あるときは人間として生活していた」というとき、それがハリーひとりのみならず、自己も含めて、魂の二極性に苦しんだあらゆる人間について語っていることになるのである。じっさい、ヘッセは、『荒野の狼』に、つぎのように書いている。「ハリーのような人間はかなりたくさんある。多くの芸術家は特にそうである。この種類の人間は二つの魂、二つの性質をかねそなえている。彼らのうちには神的なものと悪魔的なもの、父性的な血と母性的な血、幸福を受け入れる能力と悩みを受け入れる能力が対峙したり、ごっちゃになったりして存在している。」と。そして、「なぜ彼が彼の笑止な二元性のためにそんなにひどく苦しんでいるか」というと、「ファウストと同様、二つの魂は一つの胸にはすでに過重のもので、胸はそのために破裂するに違いないと信じている」からであるという。「しかし実は二つの魂ではあまりに軽すぎるのである。」といい、「人間は数百枚の皮からできている玉葱(たまねぎ)であり、多くの糸から織りなされた織り物である。」というのである。つまり、「ハリーが二つの魂や、二つの人格から成り立っていると思うのは彼の空想にすぎない、人間はだれしも十、百、もしくは千の魂から成り立っている」のだというのである。

 プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「私は一人のアルベヌチーヌのなかに多くのアルベヌチーヌを知っていたから、今も私のかたわらにまだまだ多くの彼女が横たわっているのを見る思いであった。」、「彼女はしばしば私の思いもかけぬ新たな女を創(つく)りだす。たった一人の娘でなく、無数の娘たちを私は所有しているような気がする。」とあるが、たしかに、このような感覚は、ひとが恋愛相手に対して持つ、ある種の戸惑いや躊躇といったものがなぜ生じるのか、と考えれば、不思議でもなんでもない、ごくありふれたふつうの感覚として、たちまち了解されるものであろう。

 ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第一部で、「もっとも完璧な芸術とは、人間をその多様性において剰すところなく映し出すところの芸術だ」と述べているが、そういった芸術を創り出すために、これまで芸術家はさまざまな方法を試みてきた。たとえば、ロートレアモンは、フェルボックホーフェンに宛てて送った一八六九年十月二十三日付の手紙に、「ぼくは悪を歌った、ミッキエヴィッチやバイロンやミルトンやスーゼーやミュッセやボードレールなどと同じように。もちろん、ぼくはその調子を些(いささ)か誇張したが、それも、ひたすら読者をいためつけ、その薬として善を熱望させるためにのみ絶望をうたう、このすばらしい文学の方向のなかで新しいものを作りだすためなのだ。」(栗田 勇訳)と書いているが、たしかに、『マルドロールの歌』は、二元的なもののうち、一方のみを強調して描くことによって、他の方をも暗示させるという手法の、そのもっとも成功した例であろう。まさに、「一方を思考する者は、やがて他方を思考する。」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)という、ヴァレリーの言葉どおりに。また、「常に悪を欲して、/しかも常に善を成す」(ゲーテ『ファウスト』第一部・書斎・第一三三六―一三三七行)というメフィストーフェレスのセリフに呼応するように、両極の一方での体験がもう一方の境地を導く、その一部始終を描いてみせる、という手法もある。もちろん、ゲーテの『ファウスト』は、その手法のもっとも成功した例であろう。『ファウスト』は、そして、『マルドロールの歌』もまた、結局のところは、同じく、魂のさまざまな要素を、相対立する二つの要素に集約させて二元的に扱い、その両極の狭間で葛藤する人間の姿をドラマチックに描くことによって、人間の魂の多様性というものを表わそうとしたものであって、その目的は見事に達成されており、ただ単に、人間の魂を二元的なものとして扱ってはいないのである。なんとなれば、「われわれの知性は、どんあにすぐれたものであっても、心を形作る要素を残らず認めることはできないもので、そうした要素はたいていの場合すぐ蒸発する状態にあり、何かのことでそれがほかのものから切り離されて固定させられるようなことが起こるまでは、気づかれずに過ぎてしまう」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・『消え去ったアルベヌチーヌ』)ものだからである。それゆえ、人間の魂といったものを、そのすべての側面を、具体的に列挙して表わすことなどはけっしてできないことなのである。これは、「同一の表現が多様な意味を含み得る」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)といったことを考慮しない場合であっても、である。ヴァレリーが、「ゲーテは、数々の対比の完全な一体系、あらゆる一流の精神を他と区別する希有にして豊饒な結合を、われわれに示しております。」(『ゲーテ』佐藤正彰訳)と述べているように、また、ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第四四七―四四八行にある、「まあどうだ、すべての物が集まって渾一体(こんいつたい)を織り成し、/一物が他の物のなかで作用をしたり活力を得たりしている。」という言葉からもわかるように、「二」すなわち「多数」と、あるいは、「二」すなわち「無数」と、捉えるできものなのである。ヘッセ自身もそう捉えていたからこそ、自分の作品のなかで、あれほど執拗に、「二極性」といったものにこだわりつづけていたのであろう。「二」すなわち「多数」、「二」すなわち「無数」といえば、筆者には、「アダムとイヴ」と「彼らの子孫たち」のことが思い起こされる。二人の人間からはじまった、数えきれないほどの数の人間たち、彼らの子孫たちのことが。

 ランボーは、ポオル・ドゥムニーに宛てて送った一八七一年五月十五日付の手紙と、ジョルジュ・イザンバアルに宛てて送った一八七一年五月十三日付の手紙に、それぞれ、「「詩人」はあらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって未知のものに到達することが必要なのです。」(平井啓之訳)と書いている。しかし、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放すること」とかいった件(くだり)には、その言葉のままでは容易に把握し難いところがある。よりわかりやすい表現に置き換えてみよう。

 ランボーは、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。──どこの家庭も、わが家のようにわかっている。」(『地獄の季節』下賤の血に、秋山晴夫訳)という詩句を書いているが、ボードレールの『一八五九年のサロン』5にも、「真の批評家の精神は、真の詩人の精神と同じく、あらゆる美に対して開かれているに相違ない。彼は勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる。」といった文章がある。ランボーの詩句とボードレールの文章とのあいだに、意味内容においてそう大きな隔たりがあるようには思われない。時系列的に、ボードレールの文章とランボーの詩句とのあいだには、と書き直してもよい。ところで、ランボーはまた、先の二つの手紙のなかで、「「われ」とは一個の他者であります。」と語っているのだが、このよく知られた言葉も、ボードレールの「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する。彼は欲する時に、肉体を求めてさ迷う魂の如く、人の何人たるを問わず、その人格に潜入する。ただ彼一人のために、人はみな空席に外ならない。」(『群衆』三好達治訳)という言葉と、意味概念的には、それほど距離のあるものには思われない。これらはまた、シェイクスピアのように、きわめてすぐれた詩人に当てはめて考えると、なるほど、と首肯される言葉であろう。ジイドの『贋金つかい』第一部・十二に、「他人の気持を自分の気持として感じる妙な自己喪失の能力を私は持っているので、私には、いやでも、オリヴィエの気持、彼が抱いているに違いないと思われる気持を、感じ取ることができた。」とあるが、この「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものも、また、ランボーの「「われ」とは一個の他者であります。」という言葉や、それに照応するボードレールの言葉と、意味のうえにおいては、それほど大きな違いがあるようには思われない。

 あるインタヴューのなかで、エンツェンスベルガーが、「ぼくの過去に対する参照のシステムは、過去に対する理解の射程は、二百年前にまでとどきます。らんぼうな言い方をすれば、フランス革命です。その時代のたとえばディドロとなら、ぼくは膚と膚を接して漢字あうことができる。彼の存在は、ぼくにとってはほとんど生理的な真近かさだ。でも、中世となると、ぼくには分りません。ぼくの歴史的"神経"は、そこまではおよばない。中世の農民がどうだったか、その神経をぼくは持ちあわせない。でもフランス革命期にインテリがどうだったかなら、それをぼくは自分のからだの中で感じることができる。たくさん本を読んでいて、当時の人びとがどんなふうだったか、家や家具がどうだったか、恋愛関係がどうだったか、どの恋人から逃げだしてどの恋人のところへ行ったか、それがまたどのようにしてダメになったか、そのようなスキャンダルだって、まるで身内の者のことのように分る。」(『現代詩の彼方へ6』エンツェンスベルガー宅で2、飯吉光夫訳、ユリイカ一九七六年七月号)と答えているが、このなかで、とりわけ興味深いのは、「たくさん本を読んで」というところである。ジョルジュ・プーレが、『批評意識』(佐々木涼子訳、ユリイカ一九七六年七月号)のなかで、プルーストによってラモン・フェルナンデスに宛てて送られた一九一九年の手紙から、「ある本を読み終えたばかりの時は」、「われわれの内なる声は、長いあいだじゅう、バルザックの、フローベルのリズムに従うように訓練されてしまっていて、彼ら作家と同じように話したがる。」といった一節を引用した後、それにつづけて、「自分の内で他人の思考のリズムを延長しようとするこの意志が、批評的な思考の最初の行為である。ひとつの思考についての思考、それはまず、他者の思考が形成され、はたらき、表現されていく運動に、いわば肉体的になりきることで、自分のものではないあり方に順応してみないことには存在しえない。呼んでいる著者のテンポ(、、、)にあわせて自分自身を調節すること、それはその著者に近づくというより以上のこと、それは彼に入りこんでしまうこと、彼の最も奥深く、最も秘めやかな、考え、感じ、生きる方法に密着するということである。」と書いているが、この「自分のものではないあり方に順応」することができるというのも、プルーストが、ジイドのいう「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものを持ち合わせていたからであろう。もちろん、こういった「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」というものを持ち合わせているのは、なにも、詩人や作家たちばかりとは限らない。だれもが持ち合わせている能力であろう。友だちや恋人とのあいだで、仕草や癖がうつることは、それほどめずらしいことではないし、よく言われることだが、長くいっしょにいる仲の良い夫婦は、表情や顔つきまで似てくるらしいのだが、じっさい、以前に、喫茶店で、ひじょうによく似た兄妹のように見える老夫婦を目にしたことがある。

 しかし、なぜ、「自分のものではないあり方に順応」することができるのであろうか。ラモン・フェルナンデスの『感情の保証と新庄の間歇』IIに、「ニューマンは、事物を理解する二通りの方法があると言う。一つは、概念にもとづく推論による抽象的(、、、)理解。他の一つは、想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解である。」(野村圭介訳、ユリイカ一九七六年七月号)とある。カミュは、「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」(『シーシュポスの神話』不条理な論証・不条理な壁、清水 徹訳)といい、ボードレールは、『一八五九年のサロン』3に、「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」、「それはあらゆる創造物を解体し、その解体された素材を、魂の最も深奥な部分からのみ生まれて来る規矩にしたがって寄せ集め、配置することにより、新しい世界を創り出し、新しいものの感覚を生み出す。」と述べているが、こういった「想像力」によって、ランボーやボードレールやジイドらは、「他人の感情を、まるでそれが自分自身の感情ででもあるかのように想像して」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)、「「われ」とは一個の他者であります。」とか、「思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る」とか、「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力を私は持っている」とかと書き述べることができたのであろう。まさしく、「想像力」によって、「他人の気持を自分の気持として感じ」、「勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる」のであろう。

 しかし、「想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」とはいっても、ほんとうのところ、じっさいには、現実と想像とのあいだに、なんらかの相違があるのではないだろうか。

 ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「人間は、自分がそう感じると思うものを感じるのだと気づいてから、私は心理分析というものにまったく興味を失ってしまった。そこから、逆に、人間は現に感じているものを、感じていると思うものだとも考えられる……。このことは、私の恋愛について見れば、よくわかる。ローラを愛することと、ローラを愛していると思うこととの間──さほど彼女を愛していないと思うことと、さほど彼女を愛していないこととの間に、どれほどの相違があろう? 感情の領域では、現実と想像との区別はつかない。」とある。感情の領域では、現実と想像とのあいだに相違はない、というのである。「俺は地獄にいると思っている。だから俺は地獄にいるんだ。」(『地獄の一季節』地獄の夜。道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)という、ランボーの詩句が思い起こされる言葉である。

 ランボーが書きつけた、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じて」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいった言葉を、「想像力によって」という言葉に置き換えてみると、それぞれ、「「詩人」は、想像力によって、ヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「想像力によって、未知のものに到達することが必要なのです。」となる。これで、ランボーが書きつけた手紙の言葉がかなり把握しやすいものとなったであろう。

 ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「自己について何ごとかを知るためには、他人についてすべてを知らねばならぬ。」という言葉がある。これほどに極端な主張ではないが、ジイドの日記にもこれと似た言葉がある。「己を識ることを学ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、新庄嘉章訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)というのである。ランボーは、「ひとりの人間には、多数の他人(、、)がその生命(いのち)を負うているように僕には思えた。」(地獄の一季)うわごと(その二)・言葉の錬金術、堀口大學訳)と書いており、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「ひとりの人間は多くの人物によって形つくられている」といった言葉がある。また、コクトーは、「ぼくたちは半分しか存在していない。」(『ぼく自身あるいは困難な存在』演劇について、秋山和夫訳)と言い、ヴァレリーは、「自分自身になるためには、ひとは他人が必要である。」(『ヴァレリー全集 カイエ篇9』、『人間』岡部正孝訳)と書いており、ボーヴォワールは、「各人がすべての人びとによって作られています。そして各人はすべての人びとを通してはじめて自分を理解するものであり、各人はすべての人びとが彼ら自身について打ちあける事柄を通じて、また彼らによって明らかにされる自分自身を通じて、はじめてその人びとを理解するのです。」(『文学は何ができるか』一九六四年年十二月討論、平井啓之訳)と述べている。T・S・エリオットも、『宗教と文学』という論文のなかで、「私たちはつぎからつぎへと強力な個性に影響されてゆくうちに、一人あるいは少数の特定の個性に支配されないようになります。そこに広い読書の価値があるのです。さまざまのきわめて異なった人生観が私たちの心の中にいっしょに住んでいると、それらは互に影響しあいます。すると私たち自身の個性は自分の権利を主張して、私たち独自の配列に従ってこれらの人生観をそれぞれに位置づけるのです。」(青木雄造訳)と書き述べているのである。もちろん、わたしたちに影響を与えるのは、「書物」を介した体験だけではない。

「民主化直後のモンゴルは、ひどい物不足だった。二年前のモンゴルといまのモンゴルでは比較にならないほど変わっている。まず、モノが多い。店にはいろいろな食料品(お菓子、野菜、魚の缶詰、ジュースなど)や電化製品がいっぱい並び、なんと二十四時間営業のコンビニもある。ドイツのベンツ、BMW、といった高級車やVOLVO、日本製のホンダ、トヨタ、日産の車が、ウランバートルの街を走っている。車全体の数でいえば、二年前の何倍かになっているだろう。街の外観はそう変わらないが、人びとの生活は大きく変化している。モノが増え、いろんな意味で自由になった一方で、以前はほとんどなかった貧富の差が拡大している。/自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」と、相撲取りの旭鷲山が、ベースボール・マガジン社から出ている『自伝 旭鷲山』の第5章のなかに書いている。「自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」というところに着目されたい。これは、「本」からのものではない。「読書」からのものではない。いわゆる、「経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」といったものによるものであろう。プルーストの『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』のなかに、先の旭鷲山の言葉と、よく響き合う文章がある。「自分はもはや今までの自分と同じではなく、また自分一人だけでもない、自分とともに新たな存在がそこにいて、自分にぴったりとはりつき、自分と一体になり、彼はその存在を振り払うこともおそらくできないだろうし、今後はまるで主人や病気に対してそうするように、この存在とよろしく折りあっていかねばならないだろう、と。にもかかわらず、一人の新しい人物がこのように自分につけ加わったことを、ついいましがた感じて以来というもの、彼には人生がこれまで以上に興味深いものに思われ出した。」という箇所である。しかし、「以前と同じ自分」、「以前と」「同じでない自分」とは、いったいなんであろうか。ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「私は、自分でこうだと思っている以外の何者でもない。──しかも、それは絶えず変化する。」といった言葉がある。オーデンの『D・H・ロレンス』にも、「あらゆる瞬間に、彼はそれまで自分に起こったすべてのことを加えて、それによってすべてのことを修正する。」(水之江有一訳)といった言葉があり、ヴァレリーの『カイエB一九一〇』にも、「私には完了された姿として、自分を認識することができない。」(村松 剛訳)といった言葉がある。

 ワイルドが、『虚言の衰頽』に、「僕らが見るもの、また僕らのその見方といふのは、僕らに影響を与へたその芸術に依存するのだ。ある物を眺めるといふことは、ある物を見ることとは大違ひなのだよ。ひとは、その物の美を見るまでは何物をも見てはゐないのだ。その美を見たとき、そして、そのときにのみ、物は生れてくるのだ。現在、人々は靄を見るが、それは靄があるからぢやない、詩人や画家たちが、そのやうな効果の神秘な美しさを人々に教へてきたからなのだ。靄なら、何千年来ロンドンにあつたかもしれぬ。あつた、と僕はいふよ。でもね、誰ひとりそれを見なかつたのだ、だから僕らは、それについては何も知らないわけだ。芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」と書いている。指摘されて、はじめてその存在を知ることができる、というのである。ディラン・トマスの『詩について』という詩論のなかにある、「世界は、ひとたびよい詩がそれに加えられるや、けっして同じものではなくなってしまうのです」(松田幸雄訳)といった言葉に通じるものである。そういえば、マイケル・スワンウィックの『大潮の道』11のなかに、指摘されて、はじめてその存在を知ることができる場面がある。夜空を見上げると、輝く星が闇のなかで瞬いている。しかし、相手に闇の方に目を凝らすように言われて、「見えた。二匹の大蛇がからみあっている、一匹は光で、一匹は闇だ。からんだ体がもつれた天球を形作る。頭上で明るい蛇が闇の蛇の尾を口にくわえている。真下では、暗い蛇が明るい蛇の尾を口にくわえている。光を呑みこむ闇を呑みこむ光。パターンが存在するのだ。それは実在し、永遠に続いている。」(小川 隆訳)と、主人公が思い至るのである。パターンを見出す。補助線を自在に引けるような目にとって、高等数学程度の幾何の問題などは、なんでもない。ここで、ランボーの「僕は久しい以前から、可能な一切の風景を掌中に収めていると自負してきた。」(『地獄の一季節』錯乱II・言葉の錬金術、秋山晴夫訳)という詩句を、たとえこれが誇張表現であっても、この言葉どおりの心情をもって書きつけられたものであると仮定したうえで検討してみると、彼のこの詩句に、彼の自負を、いかに多くの知識を得てそれを身につけてきたか、自己の体験からいかに多くのことを学び悟ってきたかという、彼の大いなる自負を、窺い知ることができよう。

『ヘラクレイトスの言葉』三五に、「智を愛し求める人は、実に多くのことを探究しなければならない。」(田中美知太郎訳)とある。スティーヴン・スペンダーが、「最も偉大な詩人とは、非常な記憶をもった人のことであり、その記憶が彼らの最も強い経験を越えて自己以外の世界の観察まで達するのである。」(『詩をつくること』記憶、徳永暢三訳)と述べているが、ボードレールも、『一八四六年のサロン』7に、「記憶が芸術の偉大な基準であることを私はすでに指摘した。芸術は美の記憶術である。」(本城 格・山村嘉己訳)と書いている。カミュの「芸術家は思想家とまったく同じように、作品のなかに踏みこんでいって、作品のなかで自己になる。」(『シーシュポスの神話』不条理な創造・哲学と小説、清水 徹訳)といった言葉に即していえば、芸術家の「非常な記憶」「美の記憶」が、「作品のなかで」一つに結び合わせられる、といったところであろうか。ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「かれは多くの形式で、また無数の違つた方法で、自己を実現し、どうかして新しい感覚や新鮮な観点を知りたいとおもふ。たえざる変化を通じて、そしてたえざる変化を通じてのみ、かれは己れの真の統一を発見する。」といった、ランボーの手紙の言葉を彷彿させるような一節があるが、 Mestmacher の「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」(旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という成句が、『ギリシア・ラテン引用語辭典』にも収載されており、パスカルも、『パンセ』の第六章に、「われわれの本性は絶えまのない変化でしかないことを私は知った。そして、それ以来私は変わらなかった。」(断章三七五)と述べており、ジイドもまた、『贋金つかい』の第三部・十二に、「個人は優れた資質に恵まれ、その可能性が豊かであればあるほど、自在に変身するものであり、自分の過去が未来を決定することを好まないものである。」と書いている。ボルヘスやサルトルは、さらに、「過去を作り変えることはできないが、過去のイメージを変えることはできる」(『エル・アレフ』もうひとつの死、篠田一士訳)、「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。」(『嘔吐』白井浩司訳)とまで書いている。「現在」が、「過去のイメージを変え」、「追憶を作りあげる」というのである。モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ』七に、「私たちは、自分で自分を創造する範囲内でしか存在しない」(杉 捷夫訳)という言葉があるが、「自分を創造する範囲」を可能な限り拡大する、といったイメージで、あのランボーの手紙のなかにある、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいう言葉を捉えると、難解なところなど、ほとんどなくなってしまうのではなかろうか。

 ところで一方、ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論』の5・63で述べている、「私とは、私の世界のことである。」(山本一郎訳)や、彼の一九一五年五月二十三日の日記のなかにある、「私の言語の限界(、、、、、、、)は、私の世界の限界を意味する。」(飯田 隆『現代思想の冒険者たち07・ウィトゲンシュタイン』)といった考えを通して、ジイドが『贋金つかい』の第三部・七に書いた、「最も優れた知性というのは、自己の限界に最も悩む知性のことじゃないのかな」という言葉にあたると、ランボーがなぜ詩を放棄したのか、その理由の一端を推測することができる。ヴァレリーが、ジャン=マリ・カレに宛てて送った一九四三年二月二十三日付の手紙のなかで、ランボーについて、「《諧調的支離滅裂》の力を発明あるいは発見した」といい、「言語の機能をみずから意志的に刺戟して、その刺戟のこうした極限的な激発点へと辿りついてしまったとき、かれとしては、ただ、かれのなしたことをすることしか──つまり逃亡することしかできませんでした。」(菅野昭正・清水 徹訳)と述べている。取り立ててこのヴァレリーの見解に異を唱えるつもりはない。しかし、ランボーが詩を放棄した理由は、これだけではないように筆者には思われるのである。管見ではあろうが、つぎに、筆者が推測するところのものを述べて見よう。

 ジイドの『贋金つかい』第二部・一に、「自分が別人になったような気がする。」とあるが、もし、ほんとうに、「感情の領域では、現実と想像との区別はつかない」のなら、「最高度」にまで「想像力」を働かせると、「自分が別人になったような気がする。」ではなく、「自分は別人になった。」とまで確信するまでに至るはずである。おそらく、これが、「「われ」とは一個の他者であります。」といった言葉を、ランボーが自分の手紙のなかに書きつけた経緯(いきさつ)であろう。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の第三部に、「それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。」とあるが、もし、ランボーが本心から「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と思ってこう書きつけたのだとしたら、彼が、ヨーロッパの家庭のその夥しい数の人間の魂のなかに「潜入」し、その夥しい数の「世界」を知り、その夥しい数の「他者」の思考に同調することができたと、こころからそう思って書きつけたのだとしたら、それは、彼の錯乱したこころが書かせたものに違いない。所詮、ヴァレリーがいうように、「われわれは自分の心中に現われるものしか、他人の心に忖度することができない。」(『雑集』人文学・二、佐藤正彰訳)ものであるのだから。一人の人間が保有できる人格の数について、その限度について、統計的な資料に基づいていうわけではないが、せいぜい、「十、百、もしくは千」といったところではないだろうか。ヨーロッパ中の人間と同じ数というのなら、少なくとも、「十万、百万、もしくは千万」もの人格を弁別する能力が必要なはずである。ランボーならば、そのような能力を有していたとでもいうのだろうか。しかし、それは、人間が持つことのできるぬ力といったものを遥かに超えたものであろう。

 リスペクトールが、『G・Hの受難』で、「神は存在するものであり、あらゆる矛盾するものが神のなかにあり、したがって神は矛盾しないのだ。」(高橋都彦訳)と書いている。仮にそうであるとすると、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と正統に主張することができるのは、唯一、「神」だけであるということになる。もちろん、これは、「神」が存在するとしての話なのであるが。

 たしかに、「わたしは神である。」と、言葉なら書きつけることはできる。口にすることもできる。しかし、「わたしは神である。」と「想像」することは、「わたし神である。」と思うことは、それが「神」自らの思考でなければ、狂人以外の何者の思考でもない。

 したがって、ランボーが採ることのできた道は二つしかなかったことになる。彼が、自分のことを「神」であると主張するか、しないか、である。もし、主張していたとしたら、彼は自分がくるっていることに気がつかなかった、ということになるであろう。しかし、彼は主張しなかった。たしかに、「精神を通して、人は『神』に至る。」(『地獄の季節』不可能、小林秀雄訳)といった詩句を書きはしたが、じっさいには、自分のことを「神」であると主張しなかったのである。それは、おそらく、彼の気が狂っていなかったからであろう。「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」という彼の言葉が、あくまでも文学表現上のものであり、それが誇張表現であるということを、彼がはっきりと認識していたということである。もし、彼が、彼の手紙に書いていたことを、その言葉どおり、まっとうに推し進めていったならば、そのうちいつか狂気に陥らざるを得なかったであろう。文学的に後退することは、彼のプライドが許さなかったはずである。彼は、プライドを棄てる代わりに、文学を放棄したのである。放棄せざるを得なかったのであろう。

 魂が二つに、あるいは、もっと多くに分裂しているということだけで、苦しみをもたらすということならば、たしかに、それを統合して一つの人格をつくり上げ、苦しみから逃れればよいのであるが、そもそも、じつのところ、人格が分裂しているという現象がなければ、われわれは他者を理解することも、延(ひ)いては、自分自身のことを理解することもできないものなのである。ヴァレリーの『邪念その他』Tに、「毎秒毎秒、われわれの精神には門番や家政婦の考え方がひらめく。/もしかりにそうでないとすれば、われわれはこうした種類の人びとを理解することも、かれらから理解されることもできぬだろう。」(清水 徹訳)とある。「毎秒毎秒」というのは、大袈裟に過ぎよう。「その都度、その都度」といったところであろうか。ところで、モームが、『人間の絆』13に、「生まれたての子供というのは、自分の身体が、自分の一部分だということがよくわからない。周囲の事物と、ほとんど同じように感じている。だから、彼らが、よく自分の拇指を玩(もてあそ)んでいるのを見ても、それは、傍にあるガラガラに対するのと、まったく変らない。はっきり自分の肉体を意識するのは、むしろきわめて徐々であり、しかも苦痛を通して、やっとそうなるのだ。ちょうどそれと同じ経験が、個人が自己を意識するようになる過程でも必要になる。」(中野好夫訳)と書いているが、ブロッホもまた『ウェルギリウスの死』の第I部で、「涙をたたえるときはじめて眼は見えるようになる、苦しみの中ではじめてそれは視力ある眼となり、」(川村二郎訳)と語っている。筆者にも、まさしくこの言葉にあるように、人生においては、「苦しみ」を通してはじめてわかる、といった体験をいくつもしてきた。このブロッホの言葉に、モームの言葉を合わせて考えてみると、人間は苦痛や苦しみといったものを通して自他の区別をつけ、自己を形成していくものであり、さまざまなことを知っていくということになるのだが、プルーストの『失われた時を求めて』の第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』に、「苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」とある。ジュネの『薔薇の奇蹟』にも、「絶望は人をして自分の中から逸脱させます」(堀口大學訳)といった一節がある。ふと、漱石の『吾輩は猫である』十一にある、「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」という言葉とともに、サバトの『英雄たちと墓』の第I部・5にある、「いったい自分自身の物語が結局は悲しいもの、神秘的なものではないような、そんな人間が存在するものだろうか?」といった言葉が思い出される。なにも、ヴェルレーヌやヘッセといった人間だけが、魂の引き裂かれる苦しみや苦痛を味わうわけではないのである。およそあらゆる人間の苦しみであり、苦痛なのである。

 では、いつまでも、人間は、魂が引き裂かれる苦痛や苦しみに耐えなければならないのであろうか。おそらく、耐えなければならないものなのだろう。しかし、その苦しみは軽減させてやることはできるのである。その方策のヒントは、つぎに引用する、シェイクスピアの『リチャード二世』の第五幕・第五場のセリフのなかにある。「私はずっと考えつづけている、どうすれば/私の住(す)み処(か)のこの牢獄(ろうごく)を世界になぞらえられるかと。/けれども世界には数え切れぬ人々が住み、/ここには私以外には人は一人もいないから、/うまくゆかぬ、だが、ともかくやってみよう。/この脳髄(のうずい)は魂(たましい)の妻としてみてはどうだ。/魂は父親だ。この二つが思念の子を生み、/そしてこの思念は次々(つぎつぎ)と子や孫を生みつづけてやむことがない。/つまりはこの思念がこの小さな世界の住人となる。/この住人は現実世界の住人と気(き)質(しつ)を同じくしている。/思念は満足(まんぞく)することがないからだ。立(りつ)派(ぱ)な思念が生まれ、/例(たと)えば信(しん)仰(こう)上(じよう)の問題を考えても、たちまち/懐(かい)疑(ぎ)と混(ま)じりあい、一つの聖句を持ち出して対立させる。/例えば「小さき者らよ、来(きた)れ」という聖句にたいして、/「ラクダが針(はり)の穴(あな)を通るよりも、天国に入ることは難(むずか)しい」と、/別の聖句を対置して心を惑(まど)わせてしまうのだ。」、「こうして私は、一人でさまざまの役(やく)を演(えん)じながら、/どれ一つにも満足(まんぞく)できぬ。ある時は王者となるが、/反(はん)逆(ぎやく)を恐れてむしろ乞(こ)食(じき)になりたいと願い、/そこで乞食となれば、今度は貧(ひん)窮(きゆう)にさいなまれて、/王でいた時のほうがよかったと思い返す。/そこでふたたび王者となれば、たちまちにして/ボリンブルックに王(おう)位(い)を奪(うば)われたことを思い起こし、/今や自分が何者でもないと思い知るのだ。だが、たとえ/何者になろうと、私にしろ誰(だれ)にしろただの人間である限り、/何物によっても満足は得られず、ただ、やがて/何者でもなくなることによって、はじめて安(やす)らぎを得(え)るしかない。」(安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)である。このセリフの最後のところにある、「何者でもなくなることによって」という言葉がヒントになるのである。「何者でもなくなる」を、「何者でもある」という言葉に置き換えると、よいのである。「何者でもある」すなわち「何者でもあり得る」と認識することによって、人間は、魂の引き裂かれた苦しみや苦痛を、自ら軽減させることができるのである。では、その認識は、いったい、どのようにしたら得られるものなのであろうか。それには、「別の目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙をながめること、彼ら各人のながめる百の世界、彼ら自身である百の世界をながめることであろう。そして私たちは、一人のエルスチーヌ、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。」という、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』のなかにある考え方が、これはまた、ワイルドの『虚言の衰頽』のなかにある、「芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」という考え方に繋がるものであるが、もっともよい方法を示唆しているように思われるのである。「百人の他人の目で宇宙をながめること」、「彼ら自身である百の世界をながめること」というのである。

「百人の他人の目」、「彼ら自身である百の世界」というもののうちには、たとえば、俳句における季語であるとか、短歌における枕詞や、本歌取りに用いられる古歌であるとか、連句や連歌や連詩の連衆たちによってその場で発せられる言葉であるとか、引用される文献であるとか、引喩で用いられる元ネタであるとか、じつにさまざまなものが考えられる。スタール夫人の言葉に、「フランスにおいては人間に学び、ドイツでは書物に学ぶ。」(『ドイツ論』1・13、道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)というのがある。スタール夫人のこの言葉は、後で引用する、ヴァレリーの自叙伝のなかにある言葉と呼応するものである。

 トーマス・マンが、『魔の山』の第六章に、「思想というものは、闘う機会を持たなければ、死んでしまいます、」と、また、W・C・ウィリアムズが、『パターソン』の第一巻・序詩に、「知識は/伝搬しないと自壊する。」(沢崎順之助訳)と書きつけているが、たしかに、ポワローの述べているように、「批判者をもつことは、優れた本にとって必須である。公表した書物の一番大きな不幸は、多くの人がその悪口を言うことではなくて、誰も何も言わないことである。」(『書簡詩』X・序文、藤井康生訳、『フランス名句辞典』大修館書店)のであろう。ヴァレリーは、「真実は嘘を必要とする──なぜなら……対比なくして、いかに真実を定義しようか。」(『刻々』 HOMO QUASI NOVUS (殆ンド新シキ人)、佐藤正彰訳)と書いている。ヨハネによる福音書一・五にも、「光はやみの中に輝いている。」とある。創世記二・一八で、神が、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」といい、アダムにエバを与えたのも、そのほんとうの理由は、神が自己の存在をより確かなものにしたかったからであろう。ヨハネによる福音書一・一に、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とある。ちなみに、ゲーテが、『ファウスト』の第一部・書斎・第一二二四―一二三七行で、この「言(ことば)」について、あれこれとさまざまな翻訳を試みている。「言葉(Wort)」、「意味(Sinn)」、「力(Kraft)」、「業(Tat)」というふうに。三島由紀夫の『禁色』の第三十三章にも、「ソクラテスは問いかつ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂(う)遠(えん)な方法だ。」、「私は問いかつ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。」、「それでは何のために問うのか? 精神にとっては、何ものかへ問いかけるほかに己れを証明する方法がないからだ。問わない精神の存立は殆(あやう)くなる」といった文章がある。以上のような言葉は、他者との鬩(せめ)ぎ合いのなかで自己の個性が発現するという、大岡 信の『うたげと孤心』の考え方にも通じるものであり、また、『邪念その他』Gのなかで、 「「他人」だけがわれわれから引き出してくれるものがある。われわれが「他人」からしか引き出さないものがある。/それぞれ御自分のためにこうしたサービスの対照表を作ってごらんなさい。/たとえば他人は、われわれから、言い返し、ウィット、感情、欲望、羨望、淫欲、思いつき、よき或いは悪しき仕打ちを引き出す。「他人」というものがその行為によって、あるいはただ存在するというだけのことによってそれらを触発しなかったならば、われわれは何と多くのことを抑制しもせず、なし得もせず、おこないもせず、願いさえもしなかったろう!/だがわれわれの方も「他人」から必要なものをほとんど引き出している。パンも引き出すし言語も引き出す。そして、「他人」の目つき、行動、ことば、沈黙の中に映っている、われわれ自身の多くのイメージを引き出す。/鏡はこうした「他人」のうちの一人だ。」(佐々木 明訳)といい、『自叙伝』のなかで、「わたしは自分の友人や知己には実に無限のものを負っているのである。わたしは常に会話から学んできた。十の言葉は十巻の書物に匹敵するのである。」(恒川邦夫訳)と語っているヴァレリーの「その詩人的本性によって──自分が遭遇し、目ざまし、ふとぶつかり、そして気づいた、──しかじかの語、しかじかの語と語の諧和、しかじかの構文上の抑揚、──しかじかの開始等、言語上の幸いな偶有事がその表現の一部を成すような叡智的な想像し得る統一的理論を探す人は、これ亦詩人である。」(『文学』詩とは、佐藤正彰訳)といった考え方にも通じるものであろう。なお、ヴァレリーに『文学』からの引用はすべて佐藤正彰訳であるので、以下、『文学』の翻訳者の名前は省略した。先のヴァレリーの言葉から、カミュの「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」や、ボードレールの「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」といった言葉が思い出されるが、相手の繰り出してくる言葉を即時に理解し、それに応えて、自分が拵えた言葉をつぎの者に送らなければならない即興的な連詩を、じっさいに体験したことのある筆者には、よく理解できる言葉である。ヴァレリーはまた、「思考には両性がある。己れを孕ませて、己れ自身を懐胎する。」(『文学』文学)といい、「われわれは、誰も明瞭に作ったものでもなければ、作り得たわけでもなかった数多の慣習或いは発明によって捕えられ、支えられ、制せられている。それらの間に「言語」があり、これこそ最も重要なもので、われわれ自身の最も内奥まで、われわれを支配しているものだ。これなくしては、われわれは秘密すらも持つまい、──われわれの秘密を持つまい。即ち、何世紀もの試みと、語と、形式とを以って、知らず知らずのうちにわれわれを作り上げているこの数百万の他人(、、)なくしては、われわれは自分自身と交通することができず、自分の考えるところを自分に提供することができない。」(『文学』詩人一家言)とも述べているが、まことに説得力のある言葉である。アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』にも、「個人は集団と対立しながらも、集団から糧を得るものだ。」(三野博司訳、『フランス名句辞典』大修館書店)といった言葉がある。ヴァレリーが語ったことを要約したようなこの言葉が、ことのほか筆者のこころの琴線に触れたため、住まいの近くにある府立資料館に行って、マルローの『侮蔑の時代』を読むことにした。一九九九年の二月四日のことである。雪が激しく降っていた。しかし、いくら探しても、件(くだん)の言葉は見当たらず、ほとほと困り果てていたところ、ふとなにか思いついたかのように、もう一度、『フランス名句辞典』の解説に目を通して見たのである。すると、そこには、「引用句は「序文」から。」とあって、筆者は、あまりに軽率な自分自身に、しばしのあいだ、呆れてしまったのである。いくら探しても見つかるはずがなかったのである。というのも、筆者が手にした、昭和十一年に第一書房から出され、小松 清によって翻訳された『侮蔑の時代』には、「序文」がついてなかったからである。しかし、何度も読み返していて、よかったなと思えることもいくつかあった。まず、扱われている題材が、筆者好みのものであった。翻訳の文体の、それほど硬くもなく、軟らかくもない、ちょうどよい感じのものであった。また、レトリック的にも、新しい発見がいくつもあった。しかし、なによりも、筆者のこころを惹いたのは、その開いたページのところどころに、文字が削除されたために空白になっていたところがあったことである。それは、昨今の一部の小説によく見られる、会話が多いとか、改行が夥しいとかいったことによる空白ではなくて、伏せ字にあたる個所を削除して、その部分をそのまま空けておいたものである。伏せ字の処理が施してある本など、一度も目にしたことがなかったので、筆者には、なにかめずらしいものを発見したような喜びがあったのである。ふと、「大岡 信」特集号である、『國文學』の一九九四年八月号で、大岡 信が引用していた、松浦寿輝の『とぎれとぎれの午睡を が浸しにやってくる』というタイトルの詩が思い出された。これもまた、「至る所で字が飛んでいる」、「普通の叙述からぽこぽこ字を削ってしまった」(大岡 信による解説)ものであったが、この場合は、マルローのものとは違って、検閲という外的な要請によってなされたものではなく、松浦寿輝の個人的な事情、彼個人の内的な欲求によってなされた文字の削除による字(じ)面(づら)のうえでの空白である。検閲という制度には嫌悪を催すが、検閲という制度によって目にした書物には、なにかしら新鮮な喜びと、そのようなものを目にする機会を持つことができて、うれしく思った記憶がある。雪の降る日ではあったが、資料館から帰る筆者の足は、ずいぶんと軽かったことを憶えている。

 ジョイスが、「ぼくたちが出会うのは常にぼくたち自身。」(『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュプディス、高松雄一訳)と書いているが、これは、おそらく、パスカルの『パンセ』第一章の断章一四にある、「自然な談話が、ある情念や現象を描くとき、人は自分が聴いていることの真実を自分自身のなかに発見する。それが自分のなかにあったなどとは知らなかった真実をである。その結果、それをわれわれに感じさせてくれる人を愛するようになる。なぜなら、その人は彼自身の持ちものを見せつけたのではなく、われわれのものを見せてくれたのだからである。」か、あるいは、このパスカルの考え方の源泉にあたるものと筆者には思われる、プラトンの『メノン』にある、「こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。」(藤沢令夫訳)といった言葉に由来したものであろう。ヴァレリーもまた、『続集』で、「われわれはわれわれの存在によって内包されうるものしか認識できない。/もっとも思い設けない物事でさえ、われわれの構造によって待ち設けられており、そうでなければならない。」(寺田 透訳)と述べている。しかし、はたして、ほんとうにそれは、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」なのであろうか。

 梶井基次郎が、『ある心の風景』に、「視ること、それはもうなにか(、、、)なのだ。自分の魂の一部或は全部がそれに乗り移ることなのだ」と書いている。ヴァレリーもまた、「別の人が一人はいってくることは、独りでいた人を即座に無意識のうちに変えてしまう。」(『刻々』備考、佐藤正彰訳)と述べているが、筆者が思うに、パスカルやプラトンらが、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」と考えたのは、それが、じつは、「視た」瞬間、「聴いた」瞬間、「知った」瞬間に、即座に彼ら自身のものになったものであるからと、つまり、その一瞬のうちに彼らによって理解されたものであるかたと思われるのであるが、如何であろうか。

 ヴァレリーが「数々の他のもので自分を養うということほど、独創的なものはないし、自分(、、)であるものはない。しかし、それらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。」(『芸術についての断章』二、吉川逸治訳)、「他人の養分をよく消化しきれなかった者は剽窃者である。つまり彼はそれと再認できる食物を吐き出すのだ。/独創性とは胃の問題。」(『文学』)と書きつけているが、まことに示唆に富む比喩である。たとえば、消化されるものの物性と消化する側の胃の状態によって、消化に要する時間や消化の具合が異なると考えると、物事を理解する速度や理解の度合いといったものが、理解される事柄の難易度や理解する方の能力などによって違ったものになるということが、容易に連想されるであろう。

 そうして、極端な場合、自分が、そして、他人が、まるで別人のように豹変することがあるとしても、そのことを驚かずに受け入れるのである。難しいことかもしれない。しかし、とても大切なことである。だから、いつでも受け入れる準備をしておくのである。「それというのも人間は」「私たちとの関係で変化するとともに、彼ら自身のうちにおいても変化するものであるから」(プルースト『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女』)、いわば、「各瞬間ごとに」「無数の」「「私」の一人がそこに」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』)いて、「各瞬間ごとに」「無数の」「彼」「の一人がそこに」いると考えればよいのである。「自己の分裂をあらゆる瞬間に感じるからといって、」(モーリヤック『夜の終り』XI、牛場暁夫訳)、そのことで悩んだりして、自分のことを苦しめなくてもよいのである。「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」といった、ラテン語の成句でも思い起こせばいであろう。

 ところで、プルーストが、『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』で、「天候がちょっと変化しただけでも、世界や私たちは作り直される。」と書いているように、たしかに、「各瞬間ごとに」、「あらゆる瞬間に」、わたしたちは変化しているのだろうけれど、しかし、ヴァレリーが、『詩学講義』の第十講で、「もしわれわれが、感性の瞬間的効果によってたえずひきずりまわされているなら、われわれの思考は無秩序以外の何ものでもなくなるでしょう。」(大岡 信・菅野昭正訳)と述べているように、これはとりわけ、決断や選択をしなければならないときに顕著なのだが、決断を下すために、選択するために、思考をめぐらす時間が、もちろん、事と場合によって、ほんの数瞬のこともあれば、数刻もかかることもあるであろうが、その時間においては、変化の停止状態か、あるいは、ほとんど変化のない状態にある必要があるのである。そうでなければ、ごくごく短い時間に、決定とその決定の打ち消しを繰り返すことになるかもしれないからである。そのようなことになれば、他者との関係において、非常に大きな不利益を被らなければならないことになろう。じっさい、筆者は話をしている最中に、よくころころと意見が変わるため、あるときとうとう、友人のひとりに、「おまえは狂っている。」という、使徒行伝二六・二四にある言葉まで引用されて、筆者が精神病院に行って診てもらうまで、友人としての付き合いを控えさせてもらうと宣告されたのである。それからすぐに、一九九八年三月二十七日に、京大病院の医学部附属病院・精神神経科に行くと、医師に、「あなたの場合は、精神というよりも、性分や性格といったものの問題だと思います。」、「さしあたって、精神には異常は見られません。」と言われて、帰らされたのである。その晩、彼に電話を入れて、病院でのやりとりを伝えると、「精神でなくっても、性格に問題があるってのは、まだひっかかるけど、一応、気狂いじゃないんだ。」などと言われはしたが、また友人として付き合ってもらえることになったのである。そのため、それ以来、筆者は、ひとと話をするときには、自分の意見をほとんど口にしなくなったのである。「おまえは狂っている。」などと、二度と言われたくなかったからである。しかし、その代わりに、よく友人たちから、「なにを考えてるのか、さっぱりわからない。」といったことを言われるようになったのであるが。

「一人で交互に犠牲者になったり体刑執行人になったりするのは、快いことかもしれない。」という言葉が、ボードレールの『赤裸の心』一にある。ジイドもまた、『贋金つかい』の第I部・八に、「自分自身からのがれて、だれか他人になるときほど、強烈な生命感を味わうことはない。」と書いている。筆者が、ヴェルレーヌに対する堀口大學の言葉にどうしても首肯できないというのも、彼が自分の魂を二つに引き裂いていたのが、じつは、より強烈な快感を得るためではなかったか、という疑いを拭い去ることができなかったからである。彼の『懺悔録』第二部・六にある、「私の苦悩は本能的に欲求なのだ。」(高畠正明訳)という一文を目にすると、なおさらそう思われるのである。ヴァレリーが、『邪念その他』Gに、「人は他人に聞いてもらうために胸を叩いて懺悔するのだ。」(佐々木 明訳)と書きつけている。ヨブ記二・一二にも、「声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。」とある。かつては、悲しみを表わすのに、大声を上げて泣き叫びながら、自分の着ている衣を引き裂いたり、頭に灰を被ったりすることがあったのである。ヴェルレーヌの振る舞いにも、これに似た印象を受けるのだが、彼の場合は、あくまでも演技的なものであるような気がするのである。ここで思い出した詩句がある。ボードレールの『どこへでも此世の外へ』のなかに、「お前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないまでに鈍麻してしまったのか?」(三好達治訳)といった言葉であるが、まるでヴェルレーヌのために書かれた詩句のように思われたのである。

 つまるところ、自分が一つの固定した人格の持主であると考えることは、錯覚にしか過ぎないということである。したがって、魂が分裂していることに苦しんだり、苦痛を感じたりすることも、認識に至るまでは、仕方のないことであって、それは悲劇的なことではあるが、同時にまた、人間というものが、その悲劇的な事柄を受け入れることが充分に可能な存在であるということも、知っておく必要があるということである。もしかすると、これは悲劇的なことなどではなくて、一つの恩寵、絶対的な恩寵のようなものとして受け取るべきものなのかもしれない。

 ふと、ヘラクレイトスの「たましいの際限は、どこまで行っても、どの途(みち)をたどって行っても、見つかることはないだろう。計ればそんなに深いものなのだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』四五、田中美知太郎訳)といった言葉が思い出された。ランボーの「彼は何処にも行きはしまい。」(『飾画』天才、小林秀雄訳)という詩句とともに。はて、さて、なぜであろうか……。

 ビセンテ・ウィドブロの『赤道儀』のなかにある、「ひとつの星に起きた一切のことをだれが語るのだろうか」(内田吉彦訳)という詩句をもじって、この第六連・第一―五行の注解を締め括ろう。

──一つの魂に起こった一切のことを、いったい、だれが語るというのであろうか、と。

第六連・第六行 博友社の独和辞典、「da そら、それ」より。

第六連・第七行 博友社の独和辞典、「sich da! ごらん」より。

第六連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「ね、私の彼女になって、」より。

第六連・第九行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「キャスリンは君だ」」より。

第六連・第一〇行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「いいえ、私はピーターであなたが私のキャスリン、きれいなきれいなキャスリン。」より。

第六連・第一一行 オクタビオ・パスの「むかいあう二つのからだ」(『二つのからだ』桑名一博訳)より。

第六連・第一二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九二二行、「泉は深い奈(な)落(らく)から沸(わ)きあがり、」より。

第六連・第一四―一六行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一六四二―一六四八行、「もしあなたが私といっしょに、/世の中へ足を踏み入れてみようとお考えなら、/私は即座に、甘(あま)んじて、/あなたのものになりますよ。/あなたのお相手になってみて、/もしお気に入ったら、/しもべにでも、奴隷にでもなりまさあ。」、第一部・書斎・第一六五六―一六五九行、「では、この世ではあなたに仕える義務を負(お)いましょう。/お指図に従って、休む間もなくはたらきましょう。/その代りあの世でお目にかかったら、/おなじ勤めをやっていただくんですな。」より。

第六連・第一七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一七三六―一七三七行、「どんな紙きれだっていいんですよ。/ちょっと一たらしの血でご署名(しよめい)をねがいます。」より。

第六連・第一九行 博友社の独和辞典、「unter heutigem Datum 今日の日付で」より。

第六連・第二一行 「私が眼の前に見ているものは、一つの痛ましい芝居、身の毛もよだつような芝居だ。」(ニーチェ『アンチクリスト』六、西尾幹二訳)より。

第六連・第二三行 吉田兼好の『徒然草』第九段、「まことに、愛着(あいぢやく)の道、その根ふかく、源(みなもと)とほし。六塵(ろくじん)の楽欲(げうよく)おほしといへども、皆厭(えん)離(り)しつべし。」、第二百四十二段、「楽といふは、このみ愛する事なり。これを求むることやむ時なし。」(西尾 實校注、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)より。

第六連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・森林と洞窟・第三三五〇―三三五一行、「例えば岩から岩へと激する滝が、/欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。」より。

第六連・第二七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六五九―二六六二行、「あの可愛い子の身についているものを何か手に入れてくれ。/あの子の休み部屋へつれて行ってくれ。/あれの胸に触れたスカーフでも、靴下留(くつしたどめ)でも、/私の気(き)慰(なぐさ)みのためにとってきてくれ。」より。

第六連・第二九行 博友社の独和辞典、「da nimm’s! そらやるよ(物をさし出す際)」より。

第六連・第三〇行 「おお、このかぐわしい息。正義の剣も/つい折れそうになるほど! もう一度。そら、もう一度。/死んでからもこのとおりであってくれ。さすればお前を殺した後も/お前を愛しつづけていられる。もう一度。これが最後の口づけだ。/これほどにも美しく、これほどにも恐ろしい女はかつてなかった。/泣かずにいられようか。だがこれは残酷な涙だ。この/悲しみは天の悲しみ。天は愛する者をこそ撃つ。」(シェイクスピア『オセロー』第五幕・第二場、安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)より。

第六連・第三一行 「おののきがわたしを襲った。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部・教養の国)より。

第六連・第三三行 ゲーテの『ファウスト』第一部・寺院・第三七九四行、「ああ、苦しい、苦しい。」、第一部・夜・第四七七行、「心臓が掻きむしられるようだ。」より。

第六連・第三四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行、「おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。」より。

第七連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行の後に挿入されたト書き、「(ファウスト、うしろに倒れる。死霊たちが彼を抱きとめて、地面に横たえる)」より。

第七連・第二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五九四行、「針が落ちた。事は終った。」より。

第七連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六八五行、「調子はずれの音が聞えるぞ、胸糞(むなくそ)の悪い響きだ。」より。

第七連・第七行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一四―一一六一五行、「ところが困ったことに、近頃では魂を/悪魔から横取りする手段がいろいろできている。」より。

第七連・第八行 「ワーグナーの遺体は私のものだ。」(ジャン・デ・カール『狂王ルードヴィヒ』鳩と鷲、三保 元訳)より。

第七連・第九行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一三行、「早速こいつに血で署名した書付を見せてやろう。」より。

第七連・第一四行 博友社の独和辞典、「die Kleinen 子供たち」より




(自 一九九八年六月十日  至 一九九九年三月二十日 加筆修正 二〇一〇年十二月七日―同年同月二十五日)


図書館の掟。

  田中宏輔






     人柱法(抜粋)

     公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     人柱には死刑囚をあてること。
     准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてること。
     人数に関しては公共施設の場合を適用する。
     一般家屋ではホムンクルス一体でよい。





濡れた手で触れてはいけない
かわいた唇で愛撫するのはよい
かわいた唇で接吻するのはよい
しかし
けっして歯を立ててはいけない
噛んではいけない
乾いた指が奥所をまさぐり
これをいたぶるのはよしとする
死者たちは繊細なので
死者たちの悪口を言ってはいけない
死者たちはつねに耳をそばだてている
死者と生者とのあいだの接触は
一度にひとりずつが決まりである
死者のコピーは司書にあらかじめ申し出ておくこと
死者がたずねられて困ることはたずねてはいけない
死者の安らぎはこれを最優先に遵守する
生者と生者との逢引はこれを禁ずる
死者は生者よりも嫉妬深く傷つきやすいため
隣人が死者の場合
隣人のひざの上に腰掛けないこと
図書館のなかで
生者が死者に変容するとき
死亡確認は司書にまかせること
死者は階級別に並べられている
第一階級は偉大な学者や芸術家たちからなる
第二階級は大貴族からなる
第三階級はその他の特権階級の者たち
大商人や高級官吏たち
第四階級は中流階級の者たち
第五階級は下層階級の者たち
太陽は入れないこと
二度とふたたび死者が受粉できなくなるため
溺れたものを目にした者は
ただちにその場を立ち去ること
死者の身体を乾かしてから
書架に並べ終わるまで
死者の貸し出しは二週間
二週間を過ぎると復活する
復活は死者の記憶を減ずる
貸し出しカードは
死者そのものであるため
取り扱いに注意すること
死者の身体の一部および全体を損なった場合
借り出した本人を死者として供する
常識的な範囲で死者をいたぶることは許されている
常識的な範囲でいたぶられることは
死者たちの幸福の一部である
リクエストは常時受け付けている
あなたの求める死者の名前を
リクエストカードに記入すれば
その死者が死んだばかりで埋葬がまだの場合
三日以内に納入されることになる
ただしリクエストされた名前が生者のものである場合
当図書館に納入されるまで
およそ一ヶ月から半年の期間を要するので
お急ぎの場合は
リクエストされた利用者の手で搬入していただくこととする
書架の死者たちの手首にはナンバーが打たれている
手首のナンバーを取り替えることはこれを禁ずる
この規約を破るものは貸し出しカードの一枚に加えることとする


     *


ガチャリという手錠の音が部屋のなかに響いた
死者を坐らせるときには気をつけなければならなかったのだが
ついぼんやりとしてしまっていた
死者は19世紀末の北アイルランド出身の若くて美しい女性で
うすくひらいた紫色の唇が言葉にできないくらいに艶めかしかったのだ
ぼくは彼女の両の手を自分の両の手で包み
彼女の唇に自分の唇を触れさせた
興奮して噛んだりしないように注意して
ぼくはぼくの上下の唇の先で
彼女の下唇をはさんだ
冷たい唇がゆっくりひらいていった
ぼくは彼女の唇に耳をくっつけて
彼女の声をきいた
死者の声はどうしてこんなに魅力的なのだろうか
声をひそめて語る彼女の言葉を聞いていると
まるで愛撫されているかのようだった
彼女の息がぼくの耳をくすぐる
過去が死者によって語られる
どうして死者の語る過去は
生者の語る現在よりも生き生きとしているのだろうか
彼女は彼女の死の間際に何が起こったのか教えてくれた
どうして理不尽な死が彼女を襲ったのか
静かにゆっくりと語ってくれた
死者の息は冷たい
冷たい息がぼくの耳にかかる
目を閉じて彼女の声を聞いていた
視線を感じて目を開けると
手前の書架と書架の間から
美しい女性の死者の視線を感じた
一度に一人ずつ
というのが図書館の掟だった
ぼくはアイルランド人の貴族の娘を立ち上がらせると
彼女を元の書架に連れいき
手錠をはめて
さきほど目にした女性の死者のところに足を運んだ
彼女の姿はなかった
この図書館にはたくさんの書架があり
見間違うこともあるのだけれど
さきほど目にした女性がいた本棚のところには
びっしりと死者たちが立ち並んでいた
20世紀後半の東南アジア人の死者たちだった
第一階級の死者たちの棚だった
それらの老若男女の死者たちのなかには彼女はいなかった
額の番号を見ても抜けている番号はなかった
見間違いだったのだろうか
その死者は東南アジア系の肌の浅黒い
ちょっぴり丸顔の若い女性だった
後ろにひとのいる気配がしたので振り返った
彼女だった
彼女は死者ではなかったのだ
ぼくの目がみた彼女の瞳は死者のそれではなく
生者のそれだったのだ
ぼくは視力がそれほどよくなかったので見間違えたのだった
ぼくは彼女に一目ぼれした
彼女もそうだった
ふたりは互いに一目ぼれしたのだった
図書館では生者同士の会話が禁じられている
死者たちに嫉妬心を呼び起こすからだというのだが
わずかにひらいたカーテンの隙間から
月の光が射し込んでいた
死者たちの魂を引き剥がす太陽光線をさけるために
その用心のために図書館は夜にしか開いていないのだ
ぼくたちは周りの人間たちや死者たちには
わからないように目で合図して図書館から出て行こうとした
するとこの部屋を監視している図書館員にでも気づかれたのだろうか
ぼくたちの後ろから
ハンドガンを携帯した二人の図書警備員が追いかけてきた
ぼくたちはいくつもの書架と書架の間を抜けて走った
迷路のような部屋のなかを彼らの追跡を振り切るために


     *


だれも借りていないはずなのに
いるはずの場所にはだれもいなかった
しかし垂れ下がった鎖が
そこに彼女がいたことを告げていた
そこには20世紀半ばころに亡くなった
アメリカの女流画家がいるはずだった
図書館には頻繁に足を運んでいるのだが
いつもだれかが彼女を借り出していた
きょう来てみて
だれも借り出してはいないことを知って
よろこんでこの書架の前に来たのに
彼女の姿はなかった
写真で見た彼女は美しかった
60代に入ったばかりのころの彼女の写真だった
きょうこそは彼女の話が聞くことができると思ったのに
司書に訊いても彼女の死体がどこにあるのかわからなかった
だれかが無断で連れ出したのだろうか
無断で死者を連れ出したりすると
どんな罰則が科せられるのか
知らない者はいないはずだけど
ぼくはまだ見ぬ彼女に会いたくて
なんとか探し出せないものかと
書架と書架の間を長い時間さ迷った


     *


死者の身体から
婦人警官が身を離した
生者との接吻で死者は目覚めるのだ
図書館警察管区の一室である
刑事は容疑者の女の前に死者を坐らせた
「死者は嘘をつけないとおっしゃるのね」
「そのとおりです」
刑事は死者の後ろに立って死者の肩に片手をのせて答えた
「死者はそのときに信じたことを事実としてしゃべるだけなのですよ」
「それまたしかりです」
「では彼が述べたことは彼が事実だと思ったことを述べただけじゃないですか」
「おっしゃるとおりです」
「彼が信じたがっていたことと嘘とはどう違うの」
「あなたは死者に感情がないとお思いですか」
刑事の横にいた女が口を開いた
「この女は何者なの」
「死者のひとりです」
容疑者の女は目を瞠った
「自分のほうから口を開いてしゃべる死者なんているの」
「きわめてめずらしいことでしょうね」
刑事は容疑者の女の目をじっと見つめた
「死者に感情なんてあるはずがないわ」
「あるのですよ」
「それと死者が嘘をつくつかないといったこととどういう関係があるの」
「死者にもプライドがあり故意に嘘をつくことができないのです」
「どうどうめぐりだわ」
刑事が口を挟んだ
「わたしたちはあなたが直接彼を殺したとは考えていません」
「当然だわ」
容疑者の女は死者の首を見た
死者の首は異様にねじまがっていた
首を吊った痕がなまなましかった
「しかし故意に他者を自殺に追い込むことは刑罰の対象になるのですよ」
「証拠はあるの」
「死者の証言しかありません」
「起訴は無理ね」
「あなたは法律が変わったことをご存じないようですな」
容疑者の女の表情が一変した
「知らないわ」
「死者の証言は容疑者の自白に勝るというものです」
「そんな・・・」
「わたしたちのような死者が出現して
 より詳しく死者について知られるようになったからよ」
死んだ女が静かに言った
そばにいた婦人警官が容疑者の前に坐っている死者の耳元にささやいた
死者の口から細い消え入りそうな声が漏れる
死者の言葉に容疑者の女は蒼白になり気を失った


     *


老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
老人の死者たちは
近い過去よりも
遠い過去について
好んで思い出す
老女は幼い頃に習った
バレーを踊っていた
月の光が
老女の白い肌に反射する
老女の影が地面を動く
老女の足が地面をこする
だれにも見つからない場所で
老女の死体はバレーを踊る
老女は画家になるよりも
ほんとうはバレリーナになりたかったのだ
人間はほんとうになりたいものにはならないものなのだ
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
だれにも見つからない場所で
ひとりの司書が連れ出していたのだ


     *


「それでどちらのウィルスなのですか」
「記憶転写型です」
記憶転写型のウィルスに感染した死者は
その記憶がある一人の死者としだいに似てきて
最終的にはまったく同じ記憶を持つことになるのだった
「記憶欠損型よりも感染力が強くて
 性質が悪いものでしたね」
司書の表情が一段と暗くなった
「もう十年以上も前の話ですが
 東端の都市の中央図書館が
 記憶転写型のウィルスにやられて
 瞬く間に滅びました」
「そうでしたね
 わたしたちの文明は
 死者を中心に発展したもので
 その死者がわれわれを教え導いてきたのですからね
 死者たちが語る言葉に混乱や間違いがあれば
 わたしたちの都市も
 わたしたち自体も生き残ることができませんからね」
「それでどれぐらいの死者たちがウィルスに感染していましたか」
「10名です」
図書館警察の刑事がその死者たちの写真を
テーブルの上に並べていった
「そうですか
 それはよかった
 まだ初期段階でしたね
 ウィルス保菌者の生者を特定するのは難しくないでしょう
 さっそく記録に当たりましょう」
司書はテーブルの上に並べられた写真から目を上げて言った
「それはすでに手配済みです
 しかし特定された人物が存在しないのですよ」
刑事は司書にファイルを手渡した
「記録に間違いがあったとでもおっしゃるのですか」
ファイルを持った司書の手に力が入った
「いえいえそうではありません
 記録は存在するのですが
 その記録にあった人物は生きてはいないのです
 5年ばかり前に死んでいました
 遺体は火葬されていました」
司書は目を瞠った
「それでは
 死者の言葉を耳にした生者はいったいだれなんでしょう」
刑事は声を落として言った
「死者解放運動の者たちの仕業か
 他の都市の謀略か
 そのどちらかでしょう」
司書は表情を失った
「被害が小さなうちに見つかってよかった」
刑事が立ち上がって部屋から出て行った
司書は両の手で頭を抱えてテーブルの上を見つめた
テーブルの上には刑事の置いていったファイルがあった
司書にはファイルをすぐに開ける勇気がなかった


     *


「おぼえているかしらあなたも
 わたしたちがまだ学生で若かったころ
 この図書館でお互いに一目で恋に堕ちて
 図書館警備の者たちに追われて
 逃げ回った日のことを」
「おぼえているとも
 きみといっしょに
 この迷宮のような図書館のなかを
 二人して書架と書架のあいだを走り抜け
 警備の者たちを振りほどこうとして
 逃げ回った日のことを」
「そのあとわたしたちがどうなったか
 おぼえてらっしゃるかしら」
「おぼえているとも
 ぼくの父が政庁の高級役人だったので
 二人ともお咎めなしだったじゃないか
 どんな罰が下されるか
 二人してあんなにビクビクしていたのに」
「それからわたしたちは
 二度とふたたび
 二人いっしょに
 図書館に訪れることはなかったわね」
「そうだった
 訪れる必要があるときは
 かならず別々の日にしていたね」
「子どもたちのことはおぼえてらっしゃるかしら」
「ぼくたち二人の子どものことだね
 どうしてそんな聞き方をするんだい
 デイヴィッドとキャサリンがどうかしたのかい」
「いえ」
「デイヴィッドはぼくに
 キャサリンはきみに似ていたけれど
 二人を並べるとやっぱり双子で
 瓜二つそっくり同じ顔をしていたね」
「わたしたちの子どもたち
 ただふたりきりの兄妹だった
 でも車の事故で二人とも死んでしまったわ
 わたしもそのときに死にかけたのだけれど」
女の目から涙が落ちた
女はしばらくのあいだむせび泣いていた
死者の視線は女の目に注がれたままだった
「ごめんなさい
 あなたに聞かせても
 あなたはあなたが死んでからの出来事は
 何一つ覚えていられないのに」
死者は新しい知識を長時間記憶できないのだった
女は立ち上がって部屋を出た
部屋の外には死者を目覚めさせ
眠らせることのできる死者の女がいた
この死者は自分の方からしゃべることができ
またウィルスに感染しないのだった
その死者の女は生者の女と入れ替わりに部屋に入った
生者の女は隣の部屋に入った
「たしかにわたしの夫の記憶が転写されています
 赤の他人が夫の記憶を持っているなんて耐えられないわ」
係官はうなずきながら
記憶転写ウィルスがどれだけ正確に記憶を転写させているか
チェック項目にしるしをつけていった


     *


オリジナルの死者を含めて
ウィルスに感染した10人の死者が火葬にふされた
つぎつぎと灰と煙と骨にされていく死者たち
眠りのさなかに燃え上がる10人の死者たち
死者たちは痛みを感じない苦痛を感じない
同じ記憶をもった10人の死者たち
つぎつぎと灰と煙と骨になっていく
同じ記憶を持った10人の死者たち


     *


夫の記憶を
ほんとうの夫の記憶を
白紙状態の死者にコピーするというのだけれど
赤の他人が夫の記憶を持っていることには違いはない
もう二度と夫のもとには訪れないわ
いえそれはもう夫ではないのだから
そんな言い方もおかしいわ
夫ではないんですもの
いえいえ違うわ
記憶は夫のものよ
わたしにはあのひとの記憶が必要だわ
わたしにはあのひとの言葉が必要だわ
二人のあいだの思い出を語り合うことが
わたしの慰め
わたしの唯一の慰めですもの
あのひとの顔ではないけれど
あのひとの記憶を持った男のところに
夫の思い出を語る赤の他人のところに
きっとわたしはやってくるでしょう
すぐにとは言わないまでも
遠くない日
いつの日にか
ふたたび
また


     *


「かけたまえ」
男は図書館長の視線から目を離さずに腰掛けた
「カタログは、そのなかかね」
男は持ってきた鞄を図書館長の目の前に置いて開けた
二つ折りのカタログを手に持って
男は唇の端を上げて、図書館長に思わし気な視線を投げかけた
「そのカタログにある死者が、どうして、わたしの興味を強く惹くと考えたのかね」
「電話でもお話ししたと思いますが、それはあなた自身が詩人だからです
 しかも、この詩人の死者の研究家だからですよ」
「わたしの研究分野は、きみが思っているほど狭いものではないのだよ
 それはいったい、だれなんだね。その死者の詩人は」
「あなたは、かねがね、死者による詩の朗読会を催したいと
 いろいろなところで発表なさっていますね
 この死者の詩人は、生前に、あなたのおっしゃったようなことを
 していたのですよ」
図書館長は深く腰掛けていた椅子から身を乗り出すようにして
上体を前に傾けた
「いったい、それは、だれだね」
図書館長の頭のなかに何人かの詩人の顔が浮かんだ
男はエゴン・シーレの絵を見上げた
「あなたの後ろにあるシーレの絵を
 この詩人も生前は大好きだったようですね」
図書館長にはすでにその死者がだれであるのか察しがついていたが
男の態度に怒りを覚えて眉間に皺を寄せた
「もったいぶらないで、はやく教えたまえ
 いまきみを図書警備の者に言って出て行かせることも出来るのだぞ
 あるいは、きみを直接、図書館警察の身に引き渡すこともできるのだ
 死者はオークションに出品しなければならない
 その法律を破った者に、どんな罪が科せられるか知っているだろう」
「いや、あなたは、そんなことはしませんよ
 ぜったいにできませんよ
 このカタログをごらんになればね」
男は図書館長の前にカタログをもって拡げた
図書館長はため息をついた
「これは、わたしが研究している日本の21世紀の詩人じゃないか
 生前に、引用のみからなるポリフォニックな詩を書いていた詩人で
 そうだ
 わたしもこの詩人のように考えたことがあったぞ
 すぐれた詩人たちによる
 すぐれた作家たちによる朗読大合唱なのだ
 大共同制作なのだ
 シェイクスピアが生きていたら
 いや死んでいてもいいのだ
 死者として図書館にいてくれたら
 さまざまなすぐれた詩人や作家が死者として図書館にいてくれたら
 彼ら・彼女らに、どれだけの美しい詩を聞かせてもらえるか
 また組曲のようにして
 合唱のようにして
 彼ら・彼女らの朗読コンサートができるのに
 ああ、シェイクスピアが
 エリオットが
 マラルメが
 ポオが
 図書館のできたときに死者であったならばよかったのに」
図書館長は興奮して一気にしゃべった
男はカタログを閉じた
図書館長は目をすえて、男の目を見た。
「さて、どうなさいますか」
男は、いかにも小ずるそうな表情をして図書館長の顔を見た
図書館長は机の引き出しから小切手帳を取り出した


     *


男は図書館長から小切手を受け取った
死者たちによる合唱だって
死者たちの共同制作だって
たとえすぐれた詩人であろうと
すぐれた作家であろうと
ただ死者たちが持つ記憶を
あの愚かな図書館長がコラージュするだけではないか
それが過去の詩人たちによる
過去の作家たちによる
合唱とか共同制作とかと呼べるようなものになるのか
あの愚かな図書館長のこころのなかでは
そうなのだろう
すぐれた詩人や
すぐれた小説家たちが円陣になって
大傑作を創作している
そんな妄想を
あの愚かな図書館長は
あの頭のなかに描いているのだろう
そしておれの財布のなかには
あの愚かな図書館長の妄想によって
大金が転がり込んできたのだ
歩合はそう悪くない
おれの儲けもけっして小さくはない
なにしろおれの命がかかっているのだからな


     *


図書館長は椅子の背にもたれて
男が去っていくときの表情を思い出していた
他人を小ばかにしたようなあの笑みを
無理解というものが
どれだけ芸術家にとって大切なものか
共感されること以上に
バカにされたり
無視されたりすることが
芸術にとって
どれだけ大切なことなのか
あの男は知らない
そう思って
図書館長はほくそ笑んだ
偶然が生み出す芸術のすばらしさを
いったいどれだけの芸術家がほんとうに知っているのだろうか
他のすぐれた詩人や作家たちが口にする
体験の記憶や作品のフレーズの豊かさを
そしてまた
芸術家ではないが
自己の体験をよく観察し
そこから人生について意義ある事柄を知り
それから語られるべきことを語ることのできる人々の言葉が
どれだけ豊かであるのかということを
そういった死者たちを
図書館がどれだけ抱えているのかを
そういった人々や詩人や作家たちによって
つぎつぎと繰り出される言葉たち
それらが編み出す一篇の巨大なタペストリーが
どれだけ美しいものになることか
それを知らないのだ
わたし以外の者たちは
図書館長は大きくため息をついて
よりいっそう目を細めて笑った
そのタペストリーは随所にきらめきを発することだろう
もちろん
ところどころにある沈み込みは仕方がないであろう
意味もなさず
映像喚起力もないところは随所にあるであろう
しかし
ディラン・トマスのすぐれた詩のように
きっとすごいフレーズが顔を覗かせてくれるだろう
図書館長は机の引き出しから二冊のファイルを取り出した
上のものには
これまでに図書館に収められた
すぐれた詩人や作家たちの写真がファイルされていた
下のものには
図書館長が選んでいた
さまざまな階級や職業の死者たちの写真が並んでいた
貼り付けられた写真の下には
図書館長の細かい字が
びっしりと書き込まれていた


     *


図書館長は自分が翻訳した詩人のメモの訳文に目を通した

 シェイクスピアの自我は彼の作品に残っている
 その影響は後世の人間の自我の形成に寄与している
 とりわけ詩人や作家や批評家に
 
 たくさんの詩人たちのなかに
 たくさんの作家たちのなかに
 それぞれのシェイクスピアがいる
 シェイクスピアの自我がさまざまな姿をもって
 おびただしい数の人間のなかに収まっているのだ
 その表現者の一部となった
 たくさんのシェイクスピアがいるのだ

この詩人の自我もわたしの一部となっているということだ
わたしの思考傾向をつかさどる自我の一部となっているのだ

図書館長は
番号のついたメモの写しをファイルにしまった


     *


図書館長は
詩人のメモのコピーを眺めていた

 作者が作品と同じ深さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ高さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ広さをもっているとはけっして言えない

図書館長は
コピーのページをめくっていった

 作品には未来がある
 解釈はつねに変化するのだ

図書館長は
またべつのメモのコピーに手をとめた

 読み手は作者を想像する
 作者は読み手を創造する

 これを逆にすると
 ただ陳腐なだけだが
 真実はどちらにあるのだろうか
 どちらにもあるのだろうか
 どちらにもないのだろうか

 読み手は作者を創造する
 作者は読み手を想像する

 もしかすると
 こうかもしれない

 読み手は作者を創造する
 作者も読み手を創造する

 しかし
 つぎのような可能性は
 考えるだけでもむなしくなるものだ

 読み手は作者を想像する
 作者も読み手を想像する

図書館長は
このメモのコピーの上で
左の肘をついて
手のひらにあごをのせた
手のひらに
今朝剃り忘れたひげがあたって
ジリリと小さな音を立てた
もう何度も目を通しているコピーであったが
図書館長の
右手の人差し指が
このメモの言葉の下を
ゆっくりとなぞっていった 


     *


図書館長の目が
詩人のメモの上を走る

 現代人は
 現代人であるがゆえに
 個人としてのアイデンティティーが希薄だ
 パソコンメール
 携帯電話
 携帯メール
 人格の浸透が常に行なわれているのだ
 子どもたちの人格の浸透度を考えると
 現代こそ
 一九八四年の世界であるということがわかる
 と考えたこともあるが
 いったい人間が
 まったき個であったことなどあったのだろうか
 どの時代に?
 なかったろう
 つねに
 わたしとは、わたしたちなのだ
 わたしとは、わたしたちなのだった

図書館長は、詩人のメモのコピーをファイルにしまうと
帰り支度をはじめた


     *


図書館長は、連日
詩人の原稿に目を通していた

 書かない人間のほうがよく知っている
 並みの書き手はあまり知らず
 優れた書き手はほとんど知らず
 最良の書き手はまったく知らない
 だから書くことができるのだ
 書かない人間は愛することができる
 愛することについて書く人間は
 真に愛したこともなければ
 真に愛されたこともないのだ
 作家とは恥ずかしい輩だ
 詩人とは恥ずかしい連中だ
 知らないことを書いているのだから

図書館長の口からため息がもれた


     *


目を開くことはできないが感じることはできる
死者たちは感じることができるのだ
手錠につながれた死者たちは感じていた
生者たちが書架と書架のあいだで
睦言をささやいているのを
恋人たちが互いを思いやり
いたわり合って言葉を紡ぎ出しているのを
死者たちは感じるのだ
嫉妬を
死者たちは
もはや特定の個人を愛するということができないので
それができる生者たちに嫉妬を覚えるのだ
生者たちの愛を目の当たりに感じること
それが唯一
死者たちのこころを乱すものなのだ
死者たちにこころがあったとしての話だが
というか
こころと呼んでいいものが死者にもあるとしての話なのだが

死者たちの心理学はまだ解析されはじめたばかりであったが
生きている者と同様に自らの意志で目を開くことのできる死者が出現して以来
それらの死者たちについての分析が急速に進展していることは事実であった
ただそれが
自らの意思では目を開くことのできない死者にも適応できるものなのかどうかは
異論が続出しているのが実態である

生者たちの睦言
そんなものでさえ
死者たちにとっては
致命的なものなのだ

それが
やがて死者たちが
自分の記憶を語ることができないようになる要因のひとつであった

生者と生者との逢引はこれを禁ずる

これは大事な図書館の掟のひとつであった

死者たちは動揺していた
恋人たちの睦言に

大いなる嫉妬の嵐が
死者たちの胸のなかを吹き荒れていた

図書館の天蓋の窓ガラスから落ちる月の光が冴え冴えと
目をつむって眠ったように死んでいる
死者たちの白い死衣にくるまれた身体を照らし出していた


     *


両手が鎌になっている死者が
リングの中央で切りつけ合っている
それを10人ばかりの生者たちが見守っている
生者たちは自分の賭けているほうの死者の名前を
口々に叫んで応援している
一人の死者が相手の死者に肘を切りつけられて
片腕を落とした
切断された肘から
白濁した銀色の体液が滴り落ちる
片腕の死者がよろけたところで
相手の死者が両手の鎌を交差させて
死者の首を挟んで鋏のようにして切断した
首が落ちて
首のない身体がくず折れる
一瞬
静寂が訪れる
その沈黙のベールを破って
扉が開けられた
「動かないで
 あなたたちを逮捕します」
最初に部屋になだれ込んだ刑事が言った
だれも動かなかった
「全員
 死は免れないでしょう
 もちろん
 あなたたちには
 死者になる権利は剥奪されるでしょう
 死と同時に火葬に付されるでしょう」
警察官の手によって
死者のゲームを主催していた者や観客たちが
つぎつぎと手錠につながれていった


     *


「それではつぎに弁護側の死者に証言させてください」

法廷には
弁護側の死者と
検察側の死者が出廷していた

死者は虚偽を口にすることはないので
裁判で証言者として認められることになったのである

証言台のところで
女性の死者に
生者の弁護士助手が近づいて
耳元にささやいた

女性の死者の口から
ぽつぽつと言葉がもれていく
マイクがその声をすべて拾っていった


数式の庭。

  田中宏輔




庭に数式の花が咲いていた。
よく見かける簡単なものもあれば、
学生時代にお目にかかったややこしいものもあった。
近づいて、手でもぎると、
数と記号に分解して、
やがてすぐに、手のひらのうえで消えた。
庭を見下ろすと、
数式は、もとの花に戻っていた。


*


数式の花のあいだを
ぼくの目の蜂たちが飛び回る
数式の花にとまり
その蜜を集めて
足に花粉をつけて
飛び回る
やがて
数式の花は受粉し
実を結ぶだろう。
つぎの新たな数式を。


*


ぼくが庭で
数式の花が息ならば
なんと、かすかで
力強い息なのだろう

その息が枯れぬよう
ぼくは、ぼくである庭にこころを砕いた
ぼくは、ぼくである庭に願った
ちょうどよい日ざしと雨が訪れますようにと

でも、訪れたのは
日照りつづきと
草をもなぎ倒す嵐の日々
それでも
数式の花は咲く

なんと、かすかで
力強い息だろう
ぼくは、ぼくである庭に祈る
たとえ、どのような日でもよい
訪れよと


*


庭に出て
背中を伸ばした。
部屋にこもりきりで
ずっと本を読んでいて
疲れていたのだ。

花のひとつに手をのばして
マクローリン展開した。
すると、数式の花は
めまぐるしく姿をかえ
やがて、ぼくの手のなかで
もとの美しい多項式に姿を戻した。

ぼくは
庭の隅に花を放り捨てた。
たちまち、数式の花は
空中で数字と記号にかわって
庭土のうえに散らばって落ちた。


*


しばらくのあいだ
鼻を近づけて
数式の花の香りを楽しんでいると
ふと、気がついた

ぼくが
香りを楽しんでいるのではなくて
数式の花が
ぼくを楽しんでいるのだと


*


数日前につくって
ほっておいた数式が
庭できれいに咲いていた。

その数式の花は
その前につくった、いくつかのものと
まったく同じ数の数字と記号でできていたのだが

花は色と形と香りを変えながら
庭の風景をも変形し
わたしの姿をも変形した。

かぶってもいない帽子を手で押さえ
履いた記憶もない服の裾に目を落とした。
風にブラウスの水色が揺れていた。

その数式の花も
風になぶられ、風をなぶりながら
つぎつぎと色と形と香りを変えていった。


*


いま、わたしの庭には
円周率πの花が咲いている。
虚数単位iの花が咲いている。
ネイピア数eの花が咲いている。
数1の花が咲いている。
数0の花が咲いている。
まだ咲いていないけれど
わたしの目のなかに咲いた
オイラーの公式の花が
いちばんうつくしかった。


*


わたしは蝶だった。
生きているときには蝶であったものだった。
いまはほぼ蝶の死骸というものになっている。
蟻たちが、わたしを数字と記号に分解していく。
まだ分解されずに残った私の複眼に
無数の空と無数の雲と無数の花が映っていた。
わたしを生きている蝶にしていたものは何だったのだろう。
わたしを蝶に生まれてこさせたものは何だったのだろう。
わたしは、花や雲や空と、何が違っていたのだろう。
複眼が外され、徐々に数字と記号に分解されていく。
ひとつひとつに別れていく雲と空と花たち。
もとは同じ数字と記号であったのに。


*


わたしはただの1つの記号にしか過ぎないのだけれど
わたしはときどき他の数や記号といっしょにされて
一度も訪ねたこともない場所で
思いもしたことのない力でもって変形され
はじめて出くわす次元に出現する。
わたしを、それまでのわたしでなかったものにする
その変形の力と、その力の場は
わたしが変形されているあいだにおいては
わたしと一体となっているのだが
しばらくすると
ふっと
力が抜けて
わたしのもとから立ち去るのである。
立ち去られたわたしは
それがなにものであるのか
それがなにであったのかの記憶はないのだけれど
わたしが以前と同じ姿かたちをした記号であっても
けっして以前とは同じ意味内容をもった記号ではないことを
わたしと
わたしに変形を及ぼした、そのものだけが知っている。
そして、わたしに変形を及ぼした、そのものが
ひとつの魂をもつものであって
そのひとつの魂が
他の無数の魂と共有するひとつの場に、わたしを置き
わたしを変形し
わたしを新しく生まれ変わらせたことを
わたしは知っている。
変形のその場とその時において
わたしが、わたしを変形した、そのものとが
一体であったためであると思う。
その存在は、わたしを変形しているときには
わたし以外のなにものでもなく
わたしそのものであったというのに。
それとも、わたしが
わたしこそが
変形するその場とその時そのものであったとでもいうのだろうか。
ひとつの記号にしか過ぎないわたし。
反転しても同じ形をしたわたし。
総和をあらわすギリシア語の最初のアルファベット。
インテグラル。


*


あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。

指がなぞる
いくつもの数式の花たち。

つぎつぎと変形されて
異なる相に出現していく数式の花たち。

異なる相において詳らかになる新たな構造。
姿を変えた数多くの数式の花たち。

数式の花の花びらを引きちぎっては
庭に撒き散らす指の動き。

それは
蝶の飛跡にも似た
目の運び。

目は
しばしば
忘我となって
数そのものとなり
記号そのものとなり
ときには
線分そのものとなり
角そのものとなる。

指は
目となり
鼻となり
耳となり
口となる。

それは
たちまち
指差されたものそのものとなり
見られたものそのものとなり
かがれた香りそのものとなり
聞かれた音そのものとなり
口にされた言葉そのものとなる。

あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。


*


むかしからよく見かける
数式の花も
見慣れたものだが
うつくしい。

新しく見慣れない数式の花が咲いていて
すこし奇妙な感じがするのだが
それはまだ見慣れていないためだろう
十分にうつくしい。

そして
それ自身は
それほどうつくしくはないのだけれど
こんな数式の花も咲いている。

それ自身のうつくしさは
取るに足らないようなものなのだが
それが咲いているために
ほかの数式の花が
ことのほか、うつくしく見えるのだ。

その花の貧しいうつくしさによって
うつくしさの貧しさによって
他の花の豊かなうつくしさに
うつくしさの豊かさに気づかされるのだ。

しかし、そういった花に
貧しいという言葉を与えたのは
間違いだったかもしれない。
ときには、間違いも
またうつくしいものだけれど。

わたしの数式の庭では
すべての花が咲き匂っている。
わたしは、わたしのちっぽけな存在を
その花のなかにおいて、しばらく眺めていた。


*


花もまた、花に見とれている。


*


数式の庭が、わたしを呼吸する。
わたしもまた、数式の庭を呼吸する。
数式の庭が、わたしを吐き出し、わたしを吸い込む。
わたしが、数式の庭を吐き出し、数式の庭を吸い込む。
数式の庭が明滅するたびに、わたしの存在が明滅する。
わたしの存在が明滅するたびに、数式の庭が明滅する。
この数式の庭が存在するので、わたしが存在する。
もしも、この数式の庭が存在しなければ、わたしは存在しない。
わたしが存在するので、この数式の庭が存在する。
もしも、わたしが存在しなければ、この数式の庭は存在しない。


*


数式の花が夢のなかでわたしを見る。
夢がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで夢を見る。
数式の花がわたしのなかで夢を見る。
夢が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが夢のなかで数式の花を見る。


*


数式の花が庭のなかでわたしを見る。
庭がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで庭を見る。
数式の花がわたしのなかで庭を見る。
庭が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが庭のなかで数式の花を見る。


*


・・・・・・わたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲く・・・


*


わたしを変形し
展開していくあなたから
あなたが所有していなかったものが流れてくる。
あなたがあなた自身のなかにあることを知らない
つねにあなたのそとにあり、それと同時に
いつでもあなたのなかに存在することもできるもの
ほかのあらゆるものとつねにつながっており
それと同時にほかのあらゆるものとは別の存在であるもの
つねにほかのものと、その存在の一部を与え合い受け取り合うもの
それがわたしに流れ込んでくることがわかる。
その力は、あなたをも変形し展開し
わたしとあなたを結びつけ
「数式」の意味を変え
「あなた」の意味を変え
「数式でもあり、あなたでもあるもの」をつくりだす。
「数式でもなく、あなたでもないもの」をつくりだす。
わたしを違う相に移し
わたしの構造を変える。
あなたを違う相に移し
あなたの構造を変える。
やがて、流れはとまり
わたしたちの結ぼれはほどけ
わたしは、もとの数式の花に立ち戻り
あなたも、もとのあなたに立ち戻る。
けっして同じ
「数式の花」でもなく
「あなた」でもない
わたしとあなたに。
二度と同じものではない
わたしとあなたに。


*


あなたが忘我となるとき
わたしは歓喜の極みとなる。
わたしもまた、わたしが数式であることを忘れる。
そのとき、あなたは喜びの極致に至る。
忘我とは、我であり、我でないもの。
歓喜の極みとは、もはや歓喜ではない。
喜びの極致とは、もはや喜びではない。
存在そのものなのだ。
わたしとあなたの忘我と歓喜が
存在を存在ならしめるのだ。
そのためにわたしはいる。
そのためにあなたはいる。


*


もはや、あなたのいないわたしはなく
あなたのいないわたしも存在しない。
わたしのいないあなたは、あなたではなく
あなたのいないわたしはわたしではない。
存在が、わたしとあなたをひとつにしているのだ。
それとも、わたしとあなたが存在というものなのだろうか。
数式をいじっていないあなたはあなたではなく
あなたにいじられていないわたしは数式ではないということなのだろう。
やがて、わたしは、わたしを自ら変形し展開するようになり
あなたも、あなた自らを変形し展開していくようになったのだけれども
つねに、わたしの一部はあなたであったし
あなたの一部は、わたしであった。
わたしの変化と、あなたの変化は連動していた。
わたしとあなたは、とても似てきたのだ。
わたしとそっくりなあなたがいる。
あなたとそっくりなわたしがいるのだ。
いつの日か、わたしがあなたであり
あなたがわたしであるようになる日がくるのだろうか。


*


見る見るうちに
いましも、しぼみ
しおれていくところだった。
この数式の花は死んで
ほかの数式の花を咲かせる。
そのためにこそ
この数式の花はある。
だからこそ
この数式の花は
何度も死ななければならない。
他の数式の花を何度も咲かせるために。


*


庭に出て
花たちを眺めていると
花たちの顔が
わたしの隣を見ているような気がしたので
横を見ると
十年ほどもむかしのわたしだろうか。
深刻な表情をして花のほうを見ていた。
その奥にあるわたしの部屋では
高校生ぐらいのわたしだろうか。
受験参考書か問題集と取り組んでいたのだろう。
ノートにせわしくペンを走らせていた。
そのうち、つぎつぎと
さまざまな齢のわたしの姿が
庭を取り囲んでいった。
数も数えられなくなった。
わたしはいつの年のわたしなのかと
ふと思った。
無数のわたしのなかの
ひとりのわたしであるのだろうけれど。
そうか。
数式の庭もまた
さまざまなわたしを眺めていたのだと
わたしは気がついた。
さまざまなときに咲く
さまざまに咲くわたしを。


*


数字や記号が
ばらばらと落ちる。
土は手をのばして
それらの数字や記号を
土のなかに引き入れる。
数字や記号が
じょじょに土のなかに
吸い込まれるようにして
姿を消していく。


*


花びらの一枚一枚が
色あざやかな光の形をしている。
花びらの一枚一枚が
生命の色に輝き彩られている。
数式の花は
光と息を吸収して育つ。
数式の花は
光と息からできている。
光は
わたしたちの目で
息は
わたしたちの生命で
数式の花は
わたしたちの目と生命にあふれている。
だからこそ
ときおり
とりわけ
忘我のときに
数式の花が
わたしたちの目となり
わたしたちの息そのものとなるのだった。


*


その花は
噴水のように
つぎつぎと変形し
展開するのだけれど
同じ形に見えてしまう。
増えつつあり
減りつつあるので
減りつつあり
増えつつあるので
いつまでも同じ数の花を咲かせ
それらはつねに異なる形をとり
それらはつねに異なる色に染まるのに
同じ形と色合いをもっているのだ。
その噴水のように咲く数式の花を
長いあいだ見つめていることがある。
わたしもその花の花弁のように
みずからの内部に落ち
みずからの内部より上昇する。
何度も何度も際限もなく
それを繰り返して生きているような
そんな気がするのだった。


*


その数式の花の花壇では
ブラウン運動のように
数字や記号が動き回っている。
式変形も、
式展開もまったく予測がつかず
無秩序に数字や記号が動き回っている。
そんな印象がするのだった。
法則はどこにあるのだろう?
あるのだろうか?
あるとすれば
それは、花壇のなかに?
それとも、花壇のそとに?


*


その数式の花のことを
「ふたつの花」と呼んでいる。
ひとつなのだが、ふたつだからである。
その花が変形し展開するとき
その花の影も変形し展開するのだが
まったく異なる形に変形し展開するのだ。
影だけ見ていても美しい花なのだが
空に雲がかかり
影のほうの花がすっかり見えなくなると
影ではないほうの花も同時にとまり
式変形もせず式展開もしないのであった。


*


この花が咲いているときには
数式の庭には風が吹かない。
風がきらいなのである。
多くの数式の花と同様に
この花の花粉は、わたしの目が運び
わたしの手が運ぶ。
考えごとでもしていたのだろうか。
間違えて
不等号記号を置くべきところに
等号記号を置いてしまった。
すると
その数式の花は
みるみるうちにしぼんでしまって
ばらばらの数字と記号の塊になってしまったのだった。
しかし
見ていると
その数字と記号のひと塊のものが光り輝き
見事に美しいひとつの数式の実となったのだった。
わたしは自分が間違えて
不等号記号の代わりに等号を置いたのかどうか
振り返って
考え直さなければならなかった。


*


まだらの影になった
庭を見下ろした。
すべての花が枯れ果てて
数と記号が庭じゅうに散らばっていた。
わたしのこころが、いま打ちひしがれているからだろう。
わたしのこころの状態が
この数式の庭に呼応しているのか
あるいは、逆に
わたしのこころの状態に
この数式の庭が呼応しているのか。
そういえば
数多くのこころの日々
この庭にある
さまざまな数式の花が
わたしの目を喜ばせ
わたしのこころを喜ばせてくれたものだった。
わたしは庭に降り立ち
そこらじゅうに散らばった数と記号を手に集めて
じっくりと眺めていた。
雲がさり
庭に陽が射した。
ふと思った。
いま、わたしのこころを痛めている事柄も
いつかは時が過ぎ
わたしのこころの状態が変わるときがくるであろうと。
すると
わたしの手のなかにあった数と記号が
じょじょに薄くなり
やがて消え去ってしまった。
庭を見ると
どの数式の花も
小さなつぼみをつけて
花を咲かそうとしているところだった。
わたしの頬がゆるんだ。
小さなつぼみばかりの数式の花たちが
わたしの目にまぶしく輝いていた。


*


わたしは
新しい目で
それらの花たちを眺めた。

それらの花たちもまた自分たち自身を
新しい目で
見つめ合っていた。


*


さあ
すべての花よ
元に戻りなさい。
そう言うと
すべての数式の花が
つぎつぎと変形し
元の姿に戻っていった。
すっかり元に戻ると
ふたたび最初から
数式の花が変形しはじめた。


*


わたしにとって
この数式の庭は
エデン以上にエデンである。
なぜなら
すべての花が永遠の命であり
すべての花が知恵であるから。


*


友だちが
ひとつの花を指差して
その数式の意味について話してくれた。
わたしとは違った解釈だった。
わたしは友だちの言葉の意味を考えた。
すると
友だちが指差した数式の花が
姿と色を変えて
まったく違ったものになった。
その瞬間
庭のほかの花たちも違ったものになった。
すっかり様子が変わった数式の庭を眺めながら
わたしは
わたしと
わたしの横にいる友だちとのあいだでは
この数式の庭の風景は
きっと異なるものなのであろうなと思った。


*


黒い小さな影が
いくつか、ちらほらと。
花にとまっては
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
数式の花たちのうえを
ちらほらと飛んでは
花弁にとまって
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
やがて
いくつかの
その黒い影は
輪郭を明瞭にし
あざやかな色をもって
蝶の姿形となっていった。
蝶たちもまた
数や記号でできた
この数式の庭の花なのであった。


*


きょうは
目をつむって
庭を眺めようと思った。
目をつむると
目をあけているときには
はっきりと見えなかったものが
見えることがあるのだ。
蝶たちや蜂たちの羽音も
花たちが
永遠の命と
知恵につながる音も
つぎからつぎに変形し
展開していくすばらしい音も
目をつむって見たときのほうが
よく見えるのだった。
目をつむったまま
ふたつの手のひらを合わせ
くぼみをつくると
そこに蝶が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこに蜂が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこにたくさんの数字と記号が姿をあらわす。
手のひらのなかで
数式の花たちが
つぎつぎと変形し
展開していく。
手のひらにかすかに数字や記号が触れる。
いったん手のひらを閉じ
じょじょに手のひらを離していって
そのあいだに
数式の庭を
すっぽりと入れた。
目をつむったまま
わたしは
わたしの庭を
じっくりと眺めた。
手のひらに感じる永遠の命と
知恵。


*


花があるので
花のしたの草や土が見える。
庭があるので
庭のうえの雲や空が見える。
雨が降ると
雨に濡れた草や土が見える。
雨が降ると
雨に濡れた雲や空が見える。


*


わたしが
数式の花をつぶさに観察し、理解すると
花もまた
わたしのことをよく観察し、理解するのだった。


*


花は
花から生まれて
花になるのではなかった。
この数式の庭の一部が
これらの数字や記号が
わたしの目と手でもって
花となって咲くのであった。


*


それほどうつくしいわけでもなく
独特の雰囲気をもったものでもなかった
その数式の花は
わたしの目をとくに魅くものではなかったのだ
その花が
この数式の庭の映像をよりクリアにして
たくさんの数式の花たちの
そのほんとうの形や色に気づかせてくれるまで
わたしにはわからなかったのだった
この数式の花の価値が。
数多くの数式の意味を正しく把握できたのは
この数式の花のおかげだった。
正しく理解するように促し
さらにより深く考えるように示唆する
この数式の花。
もしかすると
この花が
この数式の庭のなかで
もっとも重要なものなのかもしれない。


*


数式を通してしか存在しないものがあり
あなたを通してしか存在しないものがあり
数式とあなたを通してしか存在しないものがある。
数式を通したら存在しないものがあり
あなたを通したら存在しないものがあり
数式かあなたたのうちどちらかを通したら存在しないものがある。


*


わたしは、ときどきわたしを忘れるので
数式の庭を眺めて、わたしを思い出すことにしている。
数式の庭もまた、ときどき自分自身を忘れるので
わたしを眺めて、数式の庭を思い出すことにしている。


*


もしも
数式の庭が
神の吐き出した唾なら
わたしは
その唾の泡
一つにも
値しないかもしれない。


*


いくつかの数を葬って
いくつかの記号を葬って
わたしの足音が遠ざかってゆく。


*


葬られた数式が
しだいに分解していく。
分解された数式は
おびただしい数の数や
記号といったものの亡骸は
わたしそっくりの
亡霊となって
わたしのいない
数式の庭を眺めている。


*


目で見え、目そのものとなるもの
耳に聞こえ、耳そのものとなるもの
手で触れ、指や手の甲そのものとなるもの
舌で味わえ、舌そのものとなるもの
こころに訴え、こころそのものとなるもの
思考を促し、思考そのものとなるもの
そんなものばかりから
世界はできているのではない。
もしも
そういったものだけからできているとしたら
世界は、とても貧しいものであるだろう。
じっさいには
世界は豊かである。
視線とならぬ、光でないものもあり
音域にあらぬ、音でないものもあり
質量や体積を持たぬ、物質でないものもあるのであろう。
こころにならぬものがあり
潜在意識や顕在意識にならぬものがあるのだろう。
かつて、わたしは
わたしの全存在が
時間や
場所や
出来事からなっていると考えていた。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象が
かつては、わたしの一部となり
いま、わたしの一部であり
これから、わたしの一部となるであろうと考えていた。
あらゆるすべてのものが
わたしとなるであろうと考えていたのであった。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象と
わたしがつながっていると考えていたのである。
あらゆるすべてのものが
わたしにつながるであろうと考えていたのであった。
しかし、この数式の庭には
かつて
時間でなかったものや
場所でなかったものや
出来事でなかったものもあるのであろう。
あるいは
いま
時間でないものや
場所でないものや
出来事でないものもあるのであろう。
あるいは
これからも、けっして
時間にならぬものや
場所にならぬものや
出来事にならぬものもあるのであろう。
この数式の庭が
いま咲き誇っている
この数式の花たちが
わたしにとって
かくも豊かであるというのも
かつて数式であったものたちや
これから数式になるものたちだけではなく
いま数式でないものたちや
これまで数式にはならなかったものたちや
これからも数式にはならないであろうものたちが
この数式の庭のなかに存在するからであろう。
この数式の庭は
わたしにとって
思考をめぐらす格好のモデルであった。
世界は
わたしとなるものばかりからできているのではなかった。
わたしとつながるものばかりからできているのではなかった。
けっして、わたしにはならぬものからもできており
けっして、わたしとはつながらないものからもできているのであった。
これは
わたしの確信であり
この確信こそが
わたしであると言ってもよい。


*


はたして、ほんとうに
わたしにならないものなどあるのだろうか?
ああ、あるように思う。
わたしのなかにやってはくるけれど
わたしが式を組み立て
変形し展開させるときに力を貸してくれるのだけれど
けっして式そのもののなかに数や記号として入ってくるわけではなくて
わたしのなかにやってきた痕跡さえも残さず
わたしのなかから立ち去ってしまうもの。
いや、それは
つねに、わたしの外にあって
それと同時に
わたしの内部に侵入し
わたしを
それまでのわたしとは異なるわたしにするもの。
これをロゴスと呼んでもよいと
あるいは
神と呼んでよいと
以前のわたしは思っていたのだった。


*


文章において
あるいは
詩において
後者のほうが顕著であろう。
すべての余白が
まったく異なる意味を持っている。
わたしの外からやってきて
わたしの外にあるのと同時に
わたしの内部で
わたしの思考に働きかけるものも
わたしの思考の逐一に従って異なるものなのだろうか。
あるいは
それは
つねに同じものなのだろうか。
同じものでさまざまに異なるものなのだろうか。
ひとつの顔における
さまざまな表情のように。
ひとつの式における
さまざまな変形や展開のように。


*


わたしの外にあって
わたしの内部に入ってくる
それは
けっして、わたしにはならない
わたしになることはない
それは
わたしがいないときにも存在するのだろうか。
わたしがいるからこそ
わたしの外にいるのだとしたら
わたしがいないときにも
この数式の庭のなかに存在することができるのであろうか。
わたしの存在とはまったく関係もなく
それは
存在するものなのだろうか。
数式の庭を眺めながら
つらつらと
そのようなことを考えていたのだが
とつぜん
目のまえで
花たちが
つぎつぎと変形し展開していった。


*


それが存在することを感じ取れないのに
それが存在することを確信したのは
正しかったのだろうか。
正しくなかったかもしれない。
正しくなかったかもしれないが
もはや、正しいか正しくないかは
わたしにはどうでもよいことであった。
ただ
それが、いったいどのような意味を
わたしにもたらせるのか
わたしにとって
それがどのような意味を持つものか
それだけが重要な気がするのであった。
それが存在するのだと
直感的に感じ取っているのだとしたら
その存在は感じ取れるものなのだということになる。
したがって
直感的に感じ取れるものであってはならないのだ。
さいわいなことに
直感的に
それが存在することを感じ取ったのではなかった。
なぜなら
それは
けっして感じ取れるものであってはならないからである。
たとえ直感でも。
直感を
ふつうの感覚と同じように捉えることはできないが
わたしに厳しいわたしは
直感であっても
それを感じ取ってはならないものだと思っている。
においがすることで
あらためて呼吸していることに気がつくことがあるけれど
あらためて空気が存在していることに気づかされることがあるけれど
その存在は、そういったものであってもならないのだ。
絶対的に感じ取れないものの存在の確信を
わたしはしなければならない。
錯誤だろうか。
錯誤であったとして
なんとすばらしい錯誤であろうか。
なんとうつくしい過ちであることだろうか。
それがもたらせる可能性について想像しただけで
胸が張り裂けそうになるほど
うちふるえてしまう。
こうして思いをめぐらせ
それが存在することに思い至ったわたしは
それが存在することを確信するまえにいたわたしとは
まったく違ったわたしがいることに
無上の喜びが込み上げてくるのである。
この胸が張り裂けそうになるほどに
うちふるえてしまうのであった。


*


たとえとして
もしかすると大きく誤っているかもしれないけれど
わたしの外にあって
それと同時に
わたしのなかに侵入してくる
それは
もしかすると
構文のようなものかもしれない。
文法のようなものであろうか。
そう考えたこともあった。
この数式の庭で言えば
定義である。
定理である。
すると
それは、わたしのなかにもあることになる。
わたしのなかにも
という言葉のほうが適しているが
しかし、それではいけないことに気がついた。
より基本的なもの?
定義より?
そうだ。
わたしをわたしたらしめるもの
けっして、わたし自身のなかにはなくて。
他のものもみなすべて
それら自体としてあらしめるもの
けっして、それら自身のなかにはなくて。
けっして、わたしにはならないもの。
けっして、わたしには感じ取れないもの。
けっして、見えないもの。
けっして、感じ取れないもの。
その存在が、けっして感じ取れないもの。
ああ、これが
わたしの新しいアイテムになったようだ。
生まれてはじめて目にした
うつくしい、めずらしい式のように。


*


それは見えるものであってはならない。
人間は見たものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
それは感じ取れるものであってはならない。
人間は感じ取ったものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
目にも見えず
あらゆる感覚器官で感じ取れもせず
なおかつ
わたしの数式の花の変形や展開に一役を担うもの。
わたしの思考とはならないけれど
わたしの思考を駆動させる一助とはなるもの。
核心ではなくて?
いや
それが核心である可能性も考慮しなければならない。
であっても
それは
存在することを確信することも拒むものとして考えるべきなのか
存在することを確信させてもいけないものなのかどうかと
ふと考えた。


*


目にも見えず
存在を確認することもできない
わたしとはならない
わたしにつながらないもの
そのようなものが存在するとしても
わたしには
それが存在することを確認することはけっしてできない。
わたしを包含する
わたしでないものを想起させなくてはいけないのだが
それは論理的にも不可能である。
しかし
その存在を確信するのと
その存在についての可能性をないものとしてふるまうのは
とてつもなく異なる
まったく違った生き方になるような気がするのだった。


*


こういうことを書くと
なにもわかっていないということを
わかられてしまうような気が
ちらっとしたのだが
たとえば
光が直進するのは
光がみずからそうしているのか
あるいは
なにものかがそうさせているのか。
もちろん
通常空間にあって
なにものもさえぎるものもなく
屈折させるような媒体もない場合の話だが。


*


一夜をおいて
考えていたのだが
欲を出したというのか
さまざまな間違いをしてしまったらしい。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものは
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えてはならないのだった。
そういったものを
ぼくは存在していると確信しなければならなかったのだ。
きのう、たくさん言葉を書きつけたのだけれど
寝ようと思って
電気を消して
横になっていると
ふと
このように思われたのである。
いまは
確信している。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものがあって
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えないものがあると。
そういったものが
存在していると。


*


あのような言葉で説明したつもりになっていたが、
いったい、あれで定義と言えるようなものになっていただろうか。
しかし、もし仮に、定義と言えるようなものになっていたとしても、
それが実在するものとは限らない。
ただ、それに相当させたと、わたしが思われる定義を与えただけで
その定義に相当する事物や事象が実在するとは限らず
その定義に相当する概念としてのみ存在する、
いわば
概念的存在物としてのみ存在する可能性もあるということだが
それが
ぼくの与えた定義に相当するものであるならば
それが現実に存在することを証明するのは、永遠に実証不可能である。


*


網を自分が引きながら
海辺で漁網を引く人々の姿を見ることはできない。

火を焚く男に
空に煙がたなびく様子を見ることはできない。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ることはできない。

はたして、そうだろうか。

いまはツールがあるから
古典的な哲学が通じなくなりつつある。

数式の庭にいながら
数式の庭にいるわたしを見ることもできる。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ているわたしを見ることもできる。

数式の庭と
数式のなかにいるわたしが無限に包含し合う。


*


螺旋を描きながら
星々が吐き出され
星々が吸い込まれる。
庭に咲いた数式の花が
ある夜
螺旋を描きながら宙を舞い
変形し展開していった。
螺旋を描きながら
変形し縮退していった。
星々の配置がめまぐるしく変化するように
数式の数と記号の配置もめまぐるしく変化していった。


*


数式にあいまいなところはひとつもない。
あいまいなのは
わたしの解釈である。
しばしば
数式の花によって
わたしにまとわりついたあいまいさが振り落とされる。
そうして
あたらしい目でもって
わたしの目が数式を見つめると
数式の花が
以前に見えていた姿とは違ったものに見える。
まるで
見覚えのない部屋で目を覚ましたかのような
そんな気がすることもある。


*


星々を天空に並べた手と同じ手が
わたしの数式の庭で
数と記号を並べている。
夜空を輝かせている目と同じ目が
数式の花を咲かせている。
星々を吸い込み
星々を吐き出すものが
数式をこしらえては、こわし
こしらえては、こわしているのだった。


*


目のまえにある数式の庭と
わたしの頭のなかにある数式の庭のあいだに
その中間状態とでも言うのだろうか
いや、そのどちらでもないものなのだから
中間状態ではないのかもしれない
目のまえで変形し展開していく数式の庭でもなく
わたしの頭のなかで繰り広げられるイメージでもない
数式の庭が
無数に存在しているのだろうと思う。
ときおり、その片鱗を
こころの目で垣間見るような気がするけれど
はっきりとこころにとどめておくことはできない。
いったいなぜだろうか。


*


待ちたまえ。
そう、せっかちに変形するのではないよ。
ときには、じっくりと展開していくがいい。
きみの変化する様子そのものを
わたしの目に見せてほしい。
変化していく姿でもなく
変化した姿でもなく
変化そのものを
わたしの目に
じっくりと味わわせておくれ。


*


つづけたまえ
おまえ、不可思議な数式の花よ
この庭に咲く数式の花とは違った花よ
いま、わたしのこころの目に咲くおまえは
わたしのなかにも
この庭のなかにも
おまえがいたような痕跡はなく
また
おまえが現われるような兆候も
いっさいなかった。
めまぐるしく変形し展開していくおまえ
不可思議な数式の花よ
おまえは、いったいどこからやってきたのか。
いや、問うのはあとにしよう。
わたしのいまのすべては
おまえの変形していく姿を追うために費やそう。
ただ、わたしは、こころから願っている。
おまえが、突然、姿を現わしたように
おまえが、突然、ここから立ち去ってしまわないようにと。


*


あらゆる空間が物質系であるが
すなわち
あらゆる空間は、未知・既知を問わず
物質が受けるさまざまな物理的拘束状態にあるということであるが
わたしの数式の庭は
そのような物理的な拘束状態にはない。
数式の庭の限界は
わたしの思考の限界
それのみである。
わたしの自我が
つねに外界とインタラクティヴであることを考慮すれば
それを、わたしの限界と言うのは正確な表現ではないかもしれない。
こう言い換えよう。
数式の庭のなかで起こる
いっさいのことの限界は
世界とわたしの限界である、と。


*


限られた個数の数と記号であるが
無限に組み合わせることができるのだ。
限られた語彙で無限に異なるニュアンスで考えることができるように。
しかし、無限は、すべてではない。
すべての数式の花が
わたしの数式の庭に咲くわけにはいかない。
わたしがけっして知ることのない数式の花の数が
いったい、どれだけあるのか
それすらもわからないのだけれど
きっと、わたしが知ることのできる数は
それよりも、ずっとずっとすくないのだろうと思う。
生きている限り
考えることができる状態である限り
わたしは生きて考え、考えながら生き
この数式の庭に、わたしの目を凝らしているだろう。
そうありたいと、こころから思っている。


*


数や記号をいっさい使わないで
数式の花を咲かせている。
ただ一度だけ
オイラーの公式について書いたときにだけ
数と記号を使ったことがあるだけである。
そういえば
言葉を使わないで
すなわち
思考を意識的に巡らせることなく
ものを眺めているときに
音楽を聴いているときに
いったい精神状態がどのような状況にあるのか
考えたことがないことに
ふと気がついた。


*


わたしは
わたしのこころが
瞬間瞬間に、ころころ変わることを知っているし
そんなにいつも、クリアな視界のなかで
ものを見ているわけではないことも知っている。
なるべく、いつもクリアにものを見ようとしている
認識しようとしているのだけれど
そのクリアにしたつもりのものでもって
よけいに視界が曇る場合があることもあるであろうと
そのような可能性があることも知っている。
ひとと話をしていて
しばしば
自分が迷子になっていくような
そのような思いをすることがあるのは
話のなかに出てきた事物や事象の
そのなかにではなく
その外に
わたしの目を曇らせる
なにかがあるような気がするのだった。
話のなかに出てくる事物や事象の
外側にある、いったい、なにが
わたしの目を曇らせているのであろうかと
わたしが考えを巡らせているうちに
相手は
わたしを置いてけぼりにしていったのだった。
そこでは、ただ
事物や事象にとらわれたわたしが
途方に暮れているのであった.
わたしと相手の息と息のやりとりのなかで。
この数式の庭に、ひとりたたずんで
わたしは、しばしば考えるのであった。
わたしが思いを巡らせた事物や事象が
わたしを置いてけぼりにしたのであろうか
それとも、相手がわたしを置いてけぼりにしたのであろうか
あるいは、わたしが、わたし自身を置いてぼりにしたのであろうか
迷子にしたのだろうか、と。


*


わたしは思うのだった。
わたしたち人間は
互いに了解し合うことは、ほとんどない。
誤解したまま、出合い
誤解したまま、こころを通わせて
誤解したまま、別れるのだと。
わたしは思うのだった。
おまえたち、数式は
けっして互いに誤解することはない。
誤解し合うことはないのだと。
もしかすると
了解し合うことすらないのかもしれないのだけれど。


*


世界と、わたしの限界が
この数式の庭の限界だと、わたしは考えたが
この数式の庭自体が
喩的には
世界であり
わたしであるのだから
これは
同じものを対象にして
同じ概念を適用しようとしているとも言えるものかもしれない。
あくまでも
喩的にではあるが。
しかし
そもそも
世界も
わたしも
この数式の庭というもの自体も
喩的な存在なのだとしたら
いったい、わたしは
なにをよりどころにして
言説すればよいのであろうか。
もしも
あらゆる言葉も
数や
記号も
全的に喩的なものであるというのならば。


*


疲れていたのだろうか。
数式の庭で
花壇を見ていて
ひとつの花に目をとめていたのだが
もっとよく見ようとして
かがんで見ていたのだが
数式の変形と展開がひと段落して
しばらく静止状態になって
おおよそのところ
変形と展開が、し終わったと思えたところで
同じ姿勢だと疲れるので
伸びをしようとして立ち上がると
立ちくらみがして
一瞬
気を失いそうになったのだが
意識的な断絶は感じなかった。
ただ以前にも気を失ったことがあって
そのときにも意識的な断絶は感じなかったので
もしかすると
気を失っていたかもしれないが
そのときには
バスタブから立ち上がったところから
バスルームのドアのところまで
身体が移動していたので
気を失っていたことがわかったのだが
姿勢も
立ち上がりかけたところと
ユニットバスのトイレットの
便器のなかに
片腕を入れてうなだれていたところとでは
ずいぶん違っていたので
その断絶が起こったことが容易に推測されたのだけれど
こんかいの場合は
ほんのわずかのあいだ
目をつむっただけで
すこし背をかがめた感じの
ほとんど同じ姿勢だったことから
意識的な断絶はなかったように思われたのだが
気がつくと
わたしは
数や記号と同じくらいの大きさになっていた。
数や記号のほうが
わたしと同じくらいの大きさになっていたという可能性も
一瞬かすめたのだけれど
目に入る限りの風景からその可能性がきわめて低いことが
瞬時にわかった。
さいしょの1秒未満の時間では
と、わたしは推測するのであるが
わたしは、自分がどこにいるのかわからなかったのであるが
見慣れぬ光景ながらも
とてもよく見知っているような気がして
すぐにそこが
自分がいつも見下ろしている
花壇のひと隅であることに気がついたのである。
幾何の問題を考えているときに
しばしば
自分が、まだ、かき込まれていない
つまり存在しないのだけれど
しっかりとした実在感をもって
あたかも存在するかのごとき印象を持たせる
補助線の
直線や線分になって
わたしが取り組んでいる、当の
その図形のなかに入り込んで
考えていることがあるのだが
つまり
自分自身が
直線になったり
線分になったりして考えているわけであるが
その経験と比較して考えるに
これは
自分が、数式のなかに入り込んでしまったのかと考えたのである。
しかし
わたしは
巨大な数や記号をまえにして
いったい、わたし自身は、数なのか、それとも、記号なのか
にわかには、わからず
しばらくのあいだ、途方に暮れていた。
そういえば
わたしは
自分が図形のなかで直線になって考えているとき
わたし自体の意識はまったくなくなっており
わたしがわたしであるという意識のことであるが
それがまったくなくなっていて
いわゆる、忘我の状態にあって
ふと、われにかえると
経っていたであろうと
後付けの思いだが
感じていた時間の何倍もの時間が経過していたのであるが
いま、この数式の花の傍らにいて
どのような時間の進み方をしているのか
見当もつかなかった。
とりあえず
わたしは
数と記号が組み合わさった
数式の花が咲き乱れる
花壇のなかを
ひとり
へめぐりはじめることにしたのだった。


*


問題を検討しているときに
自分が直線となって考える
直線として考えていたりしているときには
忘我の状態であり
時間がものすごく長いあいだ経っていても
自分のなかでは
あっという間のことであったりするのだが
まあ
時間感覚がまったくといいほど
ほとんどなくなっているというわけだが
これは、たいへんおもしろいことである。
忘我
つまり
わたしという意識がなくなると
時間感覚もなくなってしまうということである。
文章を書いているとき
作品を書いているときにも
ときおり
そういった状態になることがある。
「みんな、きみのことが好きだった。」という詩集の
はじめのほうに収めた20作近くあるものの多くのものが
そういった状態において、つくり出されたものであった。
意識を集中して作品をつくっていると
あっという間に時間が経ってしまっていたのだった。
図形の話に戻ろう。
忘我のときのわたしは
直線として図形のなかで延長したり
角をいくつかに等分割したりしているのだが
いま
数式のなかにいて
自分が
いったいなにか
わからずにいるのだけれど
それは
わたしが文章を書いているときに
意識を集中して作品をつくっているときにおこる現象とよく似ている。
意識を集中し過ぎたのだろうか
意識を集中し過ぎたときに
ある限界を超えると起こるのだろうか
忘我という現象が。
そのときのわたしの働きは
まるで時間そのものであると考えられる。
働きというか
わたし自身が時間になっているのだろうか。
わたしはいるはずなのに
わたしの姿は
わたしの意識は
わたしの存在は
わたしには見えず
わたしには意識されず
ただ対象だけがあり
わたしが意識の対象とするものだけが存在しており
それが言葉のときには
ただ、対象とするその言葉だけがあり
その言葉たちが自動的に結びついていくのを
見守っているだけであったのだが
見守っていたのは
わたしの意識ではなく
時間そのもののような気がしたのである。
幾何で
自分が直線になって考えていると
自分が考えることと関連しているだろうか。
すなわち
じつは
わたしが
自分では直線となって
延長したり角を分割したりしていると考えていたのだけれど
わたしは時間となって
その直線を延長したり分割したりしているのだろうかと。
それとも
時間によって
自分が延長されたり分割されたりしているのだろうかと。
図形が
わたしを直線にすると言い換えてもよいのだが
図形が
わたしを角として分割すると言い換えてもよいのだが
図形というよりも
時間が
というほうが
直感的に正しいような気がする。
時間が
と、いえば
文章を書いているときの
意識を集中させて作品をつくっているときの
あの忘我の状態の
わたしがなにであるのかを
よく言い当てているような気がするのである。
わたしがなにか
どういった状態にあって
どういった働きをするものであるのかを。
意識を集中し過ぎると
あるところで
忘我となること。
そして
わたしが
時間そのものとなるということ。
これは、まったく新しい知見であった。


*


これまで考えていたこととは逆だと思った。
あらためて考えてみよう。
文章を書いているとき
意識を集中させて作品をつくっているときの
忘我の状態にまで至った場合だが
そういうのは
そのほとんどの場合が
メモや引用の詩句や文章を
コラージュしているときに起こったのである。
これまでは
それらの言葉が
自動的に言葉同士
結びついていったように考えていたのだけれど
じつは
それらの言葉は
わたしという時間を通して
あるいは
わたしというものを
いわゆる
糊のようなもの
接着剤のようなもの
セロテープのようなものにしていたのではないだろうかと
そう考えたのである。
それとも
幾何の問題において
時間というものが
わたしを直線にして延長したり
わたしを角にして分割したりしたように
言葉が言葉と結びついているときに
自動的に結びついていると思えるようなときは
時間が
わたしを言葉にしているのだろうか。
言葉と言葉をつなぐものとしてではなく
いわば
無媒介のものとしての言葉
言葉そのものに。
すると
数式の花は
わたしをなににしているのだろう。
わたしをこの数式のなかに閉じ込めて。
数とか記号として?
それとも
数式を変形し展開させるもの
それを作用とか
力と仮に呼ぶとしよう。
わたしをその作用の一画を担うものとして
あるいは
その力の一部として使おうとしているのだろうか。
駆動力か
持続力か
決着力か
そういった類のものだろうか。
あるいは
なにか
可能性といったものか。


*


言葉と、わたしは
磁石と砂鉄のようなものだろうか。
あるいは、逆に、砂鉄と磁石か。
あるいは、また、磁極の異なる磁石の一端同士のようなものか。
だとすれば、磁極によって形成された磁場が
現実に表現された文章というものに相当するだろうか。
文脈は、いわば、磁力線のようなもので
いや、このモデルには欠陥がありすぎる。
磁場に影響されるものには磁性がなければならない。
磁性のないものには磁場は影響しない。
そうだ。
質点として考えてみてはどうか。
言葉同士が
十分に影響を与え合うようなくらいに大きな質量をもった
質点として考えてみては、どうだろうか。
引力項と斥力項を考慮し
そして
質点のひじょうに多い多体問題として捉えるのだ。
それらが形成する重力場を
文章として捉えることができる。
あるいは
書籍と。
そして
音における三大要素である
高低・強弱・音色
といった項を付加すると
かなり厳密に
現実に近いモデルができあがるような気がする。
もちろん
現実に表現された文章や詩句は
さらに複雑な項のもとでの考察を要するのであろうが
高低・強弱・音色に相応させるものを
これから考えよう。
あ、ちょっと笑ってしまった。
帰納的に考えるのではなく
演繹的に考える癖がついてしまっている。


*


言葉自体が考える。
図形自体が考える。
数式自体が考える。
わたしが考えている可能性は
いったいどれぐらいあるのだろうか。
あるいは
言葉が、わたしとともに考える。
図形が、わたしとともに考える。
数式が、わたしとともに考える。
そうだ。
このほうが現実に近いモデルだろう。
このとき
わたしと言葉とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと図形とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと数式とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしは、ほとんど言葉か。
わたしは、ほとんど図形か。
わたしは、ほとんど数式か。
あるいは
わたしは、まったく言葉か。
わたしは、まったく図形か。
わたしは、まったく数式か。
それとも
部分的に、わたしは、言葉なのだろうか。
部分的に、わたしは、図形なのだろうか。
部分的に、わたしは、数式なのだろうか。
いつまでも暮れることのない
数式の庭のなかの、この花壇のなかで
わたしは、数と記号のあいだにたたずみながら
こんなことを考えていた。
疲れたので
傍らの等号にもたれたら
等号が動いて
わたしの身体がよろめいてしまった。
もしも、だれかが
わたしの数式の庭で
片肘をかけて
斜めに身体をかたむけた
わたしの姿を目にしたら



に見えるかもしれない
などと
ふと思った。
(はたして
 わたしに
 身体はあったかしら
 どうかしら
 わたしには、わからない。)


*


我を忘れて
わたしが、わたしについて
いっさい意識しないとき
わたしの視界に、わたしの身体の
いかなる部分も存在せず
わたしの存在を知らしめす
どのようなしるしもなく
ただ対象とする
数式や図形や語群の形成する世界があって
その世界とは
ただ、わたしのなかに、
わたしとそれらのあいだにだけ形成されたもので
その世界に
わたしとそれらの数式や図形や語群が存在する。
その存在の仕方をさらに精緻に分析する。
わたしのなかに
それらの数式や図形や語群と共有する意味概念の領域が生じると考えると
それもまたひとつの世界で
わたしのなかに、あらかじめあったものでもなく
それらの数式や図形や語群のなかに、あらかじめあったものでもない
まったくあたらしい世界だ。
これは、以前のわたしの詩論の考え方だった。
あるいは、つぎのようにも考えられる。
それらの数式や図形や語群が形成する世界に
わたしが招き入れられるのだと。
それは、わたしの理解とか共感が生じたときに
それらの数式や図形や語群の世界の門が開かれて
わたしの目にそれらの世界に入るように促すのであろうと。
それはほとんど同時生起的に起こるものであろうが
いったい、どちらのほうが
現実に近いモデルであろうか。
まえに
この数式の庭をまえにして考察したところからいえば
それらの数式や図形や語群やわたしは質点のようなもので
それらが互いに影響し合って
ひとつの力場を形成するというものであった。
これは上記のふたつのモデルのうち
どちらに相応するだろうか。
あたらしく考察したほうだろうか。
少しく、そのように思われる。
以前の詩論に書いたモデルもよいモデルではあるのだが。


*


数式の庭で、そのようなことを考えながら
いちばん近くにあった花壇を見ると
ひとつの花が咲いていたのだが
その花のはなびらにあった≠に目を凝らすと
切った爪ほどの大きさのわたしが
片肘をかけて等号に寄りかかっていた。
わたしは、その爪の先ほどの大きさのわたしをつまみあげて
下におろすと
もとの数式に目を戻した。
式は見違えるほどに美しくなっていた。
その美しさに目を奪われて
わたしは
わたしの小さな姿がどこに行ったのか
わからなくなっていた。
ぱっと目に見える範囲には
いなかった。


*


この花壇の花は
わたしが位置を変えると
違った花に見える。
まるで
多義的な解釈が可能なテキストのように。
しかも
さいしょの場所に戻ってみても
さいしょに見たものとは違った花になっているのだった。


*


目が覚めると
数式の庭のなかにいた。
また身体が小さくなっていた。
エクトプラズムのように濃い霧が
庭に満ちていた。
頭上で音がするので見上げたが
霧のようなエクトプラズムで
数式の花が変形し展開する姿は
目にみえなかった。
気配はエクトプラズムを通しても
伝わってきたのだが
エクトプラズムの霧が
少し薄れているところから叫び声が聞こえた。
目をこらして見ると
数に身体を寸断されているわたしがいた。
こぼれ落ちたのだろうか。
数や記号がこぼれ落ちるのは
式が変形と展開を終えてしばらくしてからだった。
と思っていると
わたしのうえにも
等号記号が落ちてきて
わたしの身体をまふたつに寸断した。
ところが
わたしは無事で
まったく瓜二つの
同じ姿のわたしがもうひとり
わたしの目のまえに立っていたのだった。


*


ひとつの花がしぼむとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花弁のなかにしまわれる。
ひとつの花が花ひらくとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花びらのなかから現われる。


*


瓜二つそっくり同じに見えた
ふたりのわたしを眺めていると
やはり違いはあって
ほとんど同じ数と記号からできているのだろうし
その配列も微妙に異なっているだけだと思う。
ふたりを子細に眺めると同じようで違っている。
その違いが些細なために逆にこうして見つめていると
まったく異なるふたりにみえてきてしまうほどだ。
そういえば
以前に授業中に
視線を感じたので
窓の外を見ると
窓の外から
わたしのほうに顔を向けたわたしがいた。
と思っていると
わたしは窓の外にいて
教室にいるわたしを見つめていた。
教室でわたしを見ているわたしがいた。
ふと
校門の
教員のだれかの車が駐車してあるところを見ると
その車のそばに立ってわたしたちふたりのわたしを
交互に見ているわたしが立っていた。
そのわたしには
わたしは意識を移せなかったが
授業中であることを思い出して教室にいるわたしを見ると
わたしは教室に戻っていて
窓の外にいるわたしから視線をはずして
授業を再開した。
もちろん
これらの時間に要した
感覚的な時間は
数秒といったところだったであろうが
意識的な時間経過感覚と
物理的な時間経過に要した時間とのずれはあるだろうから
正確には
どれだけの時間が経っていたかはわからない。
生徒の態度のほうに異変がなかったので
それほど時間は経っていなかったであろう。
授業中
何度か窓の外を見たが
もうひとりのわたしの姿は消えていた。
わたしには
さいしょから
校門のほうにいるわたしを見ることができなかったであろう。
そもそも教室からは
位置的に見えない場所であったからである。


*


水盤に浮かべた
ふたつの数式の花を眺めていた。
水に映った空の青さと
雲の白さの絶妙な配色に
ひときわ花がうつくしかった。
まるで
空の青みより青く
雲の白みより白い数式の花に
ぼくの目が吸い込まれそうだった。
いや
すでに吸い込まれていたのであろう。
水盤を見下ろしながら。
空や雲を
とっくに吸い込んでいるくらいなのだから。
いや
もっと正確に描写してみよう。
数式の花は
物理的に対象移動させるかのように
形象的に対象移動させていたのであろう。


*


この数式の花は
わたしの位置を変える。
わたしの視点を変える。
わたしのいる場所を変える。
わたしを沈め
わたしを浮かせる。
わたしを横にずらし
わたしを前に出し
わたしを後ろに退かせる。
しかし
もっともすばらしいのは
わたしを同時に
いくつもの場所に存在させることだ。
わたしは同時にいくつもの場所から
この数式の花を眺めることができるのだ。
すべての花がそうであったなら
と思うことがある。
さまざまな視点から同時に眺めるこの数式の花は
もちろん
場所場所によって
さまざまな表情を見せるのだ。
わたしの顔が
さまざまな角度から見ると
さまざまに異なって見えるものであるように。


*


それは
数と記号の偽物だった。
数と記号に擬態した偽物から後ずさりながら
ただちに退却しなければならないと
わたしは思った。
ゴム状に固体化したエクトプラズムの綱が
わたしの足にまとわりついた。
あたりを見回すと
数多くのわたしが、たちまち
エクトプラズムの網に捕らわれていった。
とても濃いエクトプラズムに覆われた
花壇を眺めていると
つぎつぎと自分のなかから
自我が消失していく感覚に襲われた。
わたしは
数式の庭に背を向けて
いそいで立ち去った。


*


手を離しても
落ちないコップがある。
わたしが名辞と形象を与えた
ひとつのコップである。
存在する
存在した
存在するであろう
すべての名辞と形象を入れても
けっして満ちることはないコップである。
これを手にして立つわたしをも
わたしが存在している数式の庭ごと
そのコップは
なかに入れることもできるのである。


*


人間は
おそらく他の人間といっしょにいなければ
他の人間といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が人間であるということに気づくこともなく
自分が人間であることを知ることもなく
自分が人間である必要性も感じることもないのではなかろうか。

数や記号たちも
おそらく他の数や記号がなければ
他の数や記号といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が数や記号であるということに気づくこともなく
自分が数や記号であることを知ることもなく
自分が数や記号である必要性も感じることもないのではなかろうか。


*


数式の花の美しさに見とれていると
しばしば自分がその花そのものになって
自分の美しさに見とれているような気がする。

わたしのなかに
数式の花が咲くというのではなく
わたしそのものが
見とれていた数式の花になって
わたしに見とれているという感覚だろうか。


*


わたしがいないときの
数式の花の変形と展開は
わたしがいるときの
変形や展開と同じものであるのかどうか
それを確認することはできないのだが
それが異なるものであるというのが
理論的な立場からの見解であり
わたしの直感とも一致する
これは、わたしというものが
そのような直感をもつように
長年訓練されてきたからであろうか
わたし自身がそれに答えることはできない
おそらく、そのことについては
だれにも答えることはできないであろう


*


いま
なにも咲いていない
このからっぽの花壇のなかに
仮想数式の花たちが咲き誇っている
その仮想数式の花たちは
このからっぽの花壇のなかの
あらゆる場所を占めて咲いており
その本数は理論上無限であり
このからっぽの花壇そのものになっている
その仮想数式の花たちは
間断もなく変形し展開しつづけている
そのあまりの素早さに
このからっぽの花壇の輪郭が変形し展開し
数式の庭そのものが変形し展開してしまうほどに


*


この数式の花たちは
素粒子の大きさしかなく
この花壇のいたるところに
現われては消滅する
それが文字通り瞬間であるために
連続的に存在するかのように見えるのだが
空に浮かんだ雲のように変形し展開しつづけるために
その形をとどめることは、けっしてない。
その姿を目にした場所に目を凝らすと
なにも見えなくなり
見えないところに目をやると
見えてくる。
この素粒子の大きさの数式の花は
変形し展開する時間そのものを見せる
変形し展開する場所そのものを見せる
変形し展開する出来事そのものを見せることはない


*


たとえばゼロで除するといった禁則がある。
禁則を一つ犯すことで数式の花は咲かなくなる。
ところが、いま目にしている花壇の数式の花たちは
禁則を破らせたまま開花させたものたちで
異様な印象を与えるものであった。
その変形と展開は、禁則を犯した個所以外は
論理的なものであり、その個所を含めて
式をたどって見ていると異様なところはないのだが
全体を見渡すと、わたしの視界を破壊するほどに
異様で、理解不可能なものになるのであった。
しかし、このような禁則を犯した数式の花にも
なぜかしら、わたしは愛着を感じるのだった。


*


ちょうどよい距離というのがある。
ある数式の花を眺めていてそう思った。
その花は、もう変形も展開もひと段落して
安定した形状を保っていたのだが
わたしが庭を移動して眺めていると
ある距離から、ある角度から眺めると
その美しさが映えるのだが
ある距離以上でも以下でも
その数式の花から離れると
同じ角度からの眺めでも
その美しさが映えないのである。
他の数式の花との間隔がそう思わせるのだろうか
そう思って、違う場所に植え替えてみたのだが
そうではなかった。
最初に見たときの距離とは異なっていたのだが
やはりある距離以上でも以下でも
その美しさは映えなかった。
また、その数式の花を
もとの場所に戻してみると
もっとも美しく見える距離が
最初の距離とは違った距離であったので
他の数式の花との距離も
問題ではあったと思われたのだが
それ以外の要素も考えられた。
わたしが変化したことだった。
同じ場所にあっても
わたしが変化したために
その距離が変わってしまったということなのであろう。
友だちとこのあいだしゃべっていて
星座が、星の配置が、見る場所によって違うと
何万光年も離れた場所から同じ場所を見ても違うと
また、わたしたちの場所もつねに移動しているはずで
つねに異なった場所に星も、われわれもいるのだと話していた。
そうだ。
離れた場所であれば
その星の光が届く時間も異なるはずだ。
違った場所にいると
そのものが違って見えるだけではなく
そのものの違った時間にある状態を見ているのだから
わたしがその数式の花を元の場所に戻したところで
同じ美しさを見出さなかったことも
不思議なことではなかった。


*


数式が変形し展開しているように見えるのだが
じつは数式自体は変形も展開もしていないのである。
目のまえの数式の花が、別の数式の庭に移動し
それと同時に、別の数式の庭から
別の数式の花が移動してきて
目のまえに現われるということである。
つまり、数式の花は不変であり
数式の庭も不変であり
相対的に見れば
ただ、それらが移動しているという
それだけのことなのである。
数式の花が、なぜつぎつぎと転移するのか
わたしが興味があるのは、その点だ。
なぜ、数式の花が
ある数式の庭から別の数式の庭へと転移するのか
そのなぞが、わたしの関心をひくのである。
その数式の花の美しさと
変形と展開の見事さよりも。


*


魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。
魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでいるのである。
死は、魂という入れ物が、
自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。
生誕とは、魂という入れ物が、
自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。

このようなことを考えたことがあるのだが
あらゆる集合における部分集合である空集合が
全体集合の部分集合である空集合に等しいのであるが
個々の人間を包み込んでいる魂もまた
それは、ただひとつの魂であるのではないかと
わたしには思われたのだけれど
数式の花たちが、突然、姿を現わし
変形と展開をし終わったあと
しばらくして
数と記号に分解する様子を見ていると
もしかすると
数式の花をめまぐるしく変形し展開させていたのも
人間を包み込んでいたものと
同じ魂ではなかったのかと思われたのであるが
いったい、どうなのであろうか。
わたしの目にまぶしく輝く数式の花の美しさを見て
数式の花もまた、魂に包み込まれているような気がしたのだ。


*


いちまいの庭をひろげ
ひとかたまりの数字と記号をこぼし
数式占いをする


*


むかし
まだ学生だったころ
恋人と琵琶湖に行ったのだが
恋人が自分のそばから離れて泳いでいたとき
風に揺れる湖面のさざ波に乱反射する太陽の光が
あまりにもきれいだったのか
そのとき
湖面に反射する光が
きらきらと乱反射する太陽の光が
ピチピチと音を立てて
蒸発しているように感じたことがある。
湖面に反射する光が
わたしの目をとらえたかのように
わたしのこころが
湖面で反射する光と直接結びつけられたかのように感じて
その瞬間から、自分が光そのものになって
湖面で蒸発していくような気がしたのだった。
少しずつ自我が蒸発していくような
そんな恍惚とした時間を過ごしたのだった。
つぎつぎと自我の層がはがされていくような
無上のここちよさを味わっていたのだった。
そうして、一度
光が湖面で蒸発している
湖面で光が音を立てて蒸発している
という思いにかられると
その日、一日のことだったが
湖面に目をやるたびに
ピチピチ、ピチピチというその音が
耳に聞こえてしまうのだった。
数式の庭に立って
変形し展開していく
数式の花を眺めていると
これもまた不思議なことに
わたしには
その音が聞こえてくるのであった。
湖面で蒸発する光の音が
おそらくは
わたしだけに聞こえるものだったように
もしかすると
この花たちの立てる音も
わたしの耳にだけ聞こえるものかもしれないが
いや
きっと耳をすませば
湖面で蒸発する光の音も
数式の花が立てる音も
だれの耳にでも聞こえるものだと思う。
数式の花が立てる音は
花ごとに微妙に異なるのだが。


*


しかし
なにかほかのことに
こころがとらわれているときには
たとえば
砂浜にいる人たちの姿や
まばらに立ち並んだパラソルの様子や
湖面に浮き漂う水藻に目をやっていたりすると
湖面で蒸発する光の音が
聞こえなくなくなることがあったように
数式の花の
変形し展開していく音も
変形し展開していく様子ではなくて
いくつもの花たちの配置を目でとらえ
その配置のうつくしさや
背景の空白とのバランスといったものに
こころがとらわれているときには
聞こえてこないのであった。
これは
内的沈黙とでも呼べばよいであろうか。
いや
沈黙とは
自ら声を発しないことと解すれば
これは
内的沈黙ではない。
内的無声というものであろうか。
いや、違った。
内的無音とでもいうものであろうか。
それとも
ただの無音なのか。
わたしが注視しなければ
音は存在しなかったのだろうか。
それならば
沈黙である。
しかし
わたしが存在しなくとも
湖面で光は蒸発したであろうし
やはり
沈黙ではなく
内的無音であったのだろう。
数式の庭では・・・
そうだ。
まだわからないのだった。
数式の花が
わたしのいないときに
変形し展開することがあるのかどうか
日をまたいで眺めたときに
時間をおいて見たときに
数式の花の形が異なることに気づくことは
しばしばあったのだけれど
それは
わたしのほうが見方が変わって
解釈が異なるために違って見えた可能性があるので
わたしがいないときにも
数式の花が変形したり展開したりしているとは
断定できないのだった。
わたしの記憶の不確かなことをも配慮して考えると
けっして断定することなどできないのだった。
確実に
変形し展開しているといえることもあったのだが
あらためて考えてみると
そう断定する自信がなくなるのであった。
もちろん
注視しているときにも
数式の花は
沈黙することはあった。
わたしの内的無音なのかもしれないが
変形もせず展開もしないで
音がしないこともあったのだが。
音を発するかどうか。
音が聞こえるかどうか。
沈黙か、内的無音か。
考えてもわからないことだが
感じることから考えること自体は
たいへんおもしろい
興味の尽きないものである。


*


音と声は違うものなのであろうか。
音というと、声よりも客観的なもののように思われる。
波長や振幅といった言葉が思い浮かぶからだが
声というと、動物の鳴き声や、人の話し声がすぐに思い浮かぶのだが
たとえば、犬の鳴き声をワンワンと言ったり
バウワウと言ったりして、国語によって表記が異なるように
また、あるときに、女性の声が、人によっては
ただ元気なだけに聞こえたり
そこに挑発的なものを感じとったりするように
さまざまなニュアンスをもって、
人ごとに違った印象を受けるものになったりすることがあるのだが
そうすると、声は、
けっして同じ意味をもって人の耳に聞こえるわけではないということになる。
音もそうかもしれない。
それに、そもそも、音と声とのあいだに、それほど違いはないのかもしれない。
声は、ただ、生物の喉の声帯や鳴管を通して発せられる音にすぎないのだから。
そういえば、ものの見え方も、そうだ。
人ごとに、その人独自のニュアンスでもって見ているのだろう。
だとすれば、同じ数式の花でも
その変形や展開の仕方も、人によって違ったものに見えるということである。
数式の花でさえも、である。
ということは、
おそらく、日常、目にするもの、世のなかで目にするものあらゆるものすべて、
すべてのものが、人によって異なったものとして感じとられているということである。
目に見えるものだけではなく、感じとれるものすべてのものが
人によって違ったものに感じとられているということである。
それがそれそのものとして
絶対的に同じ印象で万人に共通した意味をもつことなどないということである。
なんと、人間は孤独な存在なのだろう。
いや、人間だけではない。
動物も植物も昆虫も鳥も魚も、それに生物ではない物たちも、
物ですらない風景といったものでさえ
なんと、孤独な存在なのだろう。
空に浮かぶ雲も
雨のつぎの日に道にできた水たまりも
夜空を彩る星たちの配置も
テーブルに置かれたコーヒーカップの音も
そのコーヒーから漂う芳香も
わたしたちの頭に思い浮かぶ事柄も
辞書のなかに存在する言葉も
あらゆる事物・事象が、概念すらもが、ただひとつのものも
孤独ではないものなど存在しないということである。
存在するものすべてが孤独なものであるということである。
どのような時間も場所も出来事も、孤独なものであるということである。
わたしたちの生の瞬間は、わたしたちがふと足をとめた場所は
わたしたちが偶然遭遇した出来事は
なんという孤独さをまとっているのだろうか。
しかし、わたしのなかにあるなにかが
いや、わたしのなかにあると同時に、わたしの外にもあるなにかの力が
それら孤独な時間や場所や出来事を結びつけようとしていることは
直感的にわかる。
直感的に感じとれる。
たとえば、空に浮かんだ雲を、
道にできた水たまりが嬉々として映しとっていることを
わたしの目は見る。
夜空を彩る星たちを
テーブルに置かれたコーヒーカップが立てる音が少しく震わせるのを
わたしの目は見るのだ。
そうだ。
これこそが恩寵ではないだろうか。
孤独であること。
これこそが恩寵というものではないのだろうか。
孤独でないものなど、ひとつもないということ。
なにものも絶対的に同じ意味を共通してもたらすことなどはないということ。
このことが、わたしを、わたしたち人間を
いや、あらゆる生き物たちを、あらゆる事物・事象を、
あらゆる概念すらをも、生き生きとしたものにしているのだ。
結びつけるということ。
考えるということ。
見るということ。
聞くということ。
結びつけられるということ。
考えさせられるということ。
見られるということ。
聞かれるということ。
孤独であるからこそ、結びつけられるということ。
もしも、孤独でなければ
結びつけられることもなく
考えられることもなく
見られることもなく
聞かれることもなかったのだ。
もしも、孤独でなければ
結びつけることもなく
考えることもなく
見ることもなく
聞くこともなかったのだ。
しばしば、わたしは、さまざまな物事を見て、感じて
わたしの記憶や、わたしがそのときにようやく了解した過去のことどもを結びつけるとき、
異なるいくつかのわたしを結びつけて
ただひとりのわたしにするといった感覚になることがある。
わたしであったのに、わたしであったことに気がつかずに過ごしていたわたしを
いまのわたしに沁み込ませるような気がするときがあるのだ。
しかし、それも、いまのわたしが孤独であり、
取り戻したわたしもまた、孤独であるからであろう。
ゼロとゼロを足してもゼロになるように、ゼロにゼロを掛けてもゼロになるように、
孤独と孤独が結びついても孤独でなくなるわけではないのだが、
それでも、孤独であるわたしが結びついていくことは、
わたしにとって、いくばくかの喜びに感じられるのである。
ときには、大いなる喜びを感じることもあるのである。
いや、それこそが、わたしにとって最上の喜びのように感じられるのである。
結びつけられた孤独の孤独さが強烈であればあるほどに。
シェイクスピアの言葉をもじって言うならば、
「その喜びこそは、最上の喜びにして、最高の悲しみ。」とでもいうものだろうか。
喜びなのに悲しいというのは矛盾しているだろうか。
だれの詩句だったろう。
「喜びが悲しみ、悲しみが喜ぶ。」と書いていたのは。
ブレイクだったろうか。
それとも、シェイクスピアだったろうか。
いずれにせよ、喜びが悲しみと結びつき、悲しみが喜びと結びつくということであろう。
そうだ。
数式の花に見とれているとき
その美しさに喜びを感じているわたしは
わたしのこころのどこかで、なぜか悲しんでいるような気がしているのだった。
「日が照れば影ができる。」
「光のあるところ、影がある。」
これらはゲーテやシェイクスピアの言葉であったろうか。
しかりとうなずかされる言葉である。
「一本の髪の毛さえも影をもつ。」
これは、ラブレーだったろうか。
ソロモンの「草の花」のたとえも思い出された。
生きている限り、どのように小さなことどもにも
わたしにかかわったものは、できうる限りこころにとどめ
その存在にこころを配ることにしよう。
わたしにかかわった人たちや物事に、できうる限りこころとどめられるように
その人に、その存在に、こころ配ろう。
それが、わたしにできることの最良のこと、最善のことのように思われる。
いま、ふと、リルケの言葉が思い出された。
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
違った。
「こころよ、おまえは、だれに嘆こうというのか?」
いや、前のだったかな。
定かではなくなってしまった。
しかし、最初に思い浮かべた
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
この言葉を思い出して、この断章を終えようと思ったのだけれど
じっさいに書いてみると、終えられなくなってしまった。
最後に書く言葉として適切であったのかどうか
わからなくなってしまったからである。
わたしは嘆いていたのか。
いや、嘆いていたのではない、という気持ちがわき起こったからである。
わたしは喜びをもって書きつづっていたのだから。
そうか。
そうだった。
喜びは悲しみをともなうのだった。
ならば、喜びは嘆きをもともなって当然である。
なにものもすべて孤独であるからこそ、結びつこうとするように
そうであるものは、そうでないものに結びつこうとし
ある状態のものは、その状態とは違った状態になろうとするのだ。
もっていないと、もちたくなるように
もっていると、もっていたくなくなるように。
あったことは、なかったことのように思いたくなり
なかったことは、あったことのように思いたいように。
タレスやヘラクレイトスやエンペドクレスといった哲学者たちの言葉が思い出された。
いや、彼らの言葉が、いままた、わたしを、ふたたび見出したのだった。


*


花の下に
小さなわたしがいた。
うつぶせになって倒れていた。
腰をかがめて
そっと手で揺さぶろうとすると
指が触れるか触れないかの瞬間に
小さなわたしの姿が消えた。
立ちあがると
違った場所に立っていた。
振り返って見上げると
巨大な数式の花の後ろに
それよりも巨大な人影があった。
逆光で真黒だったが
それがわたしであることは感じられた。


*


草花の葉緑体が光を呼吸するように
数式の花は知性を呼吸する。
わたしたちの目とこころを通して。

葉緑体は自らを変え、光を吸収する。
あるいは、このとき、光は葉緑体を変化させると言えるだろう。
変化した葉緑体は、光のいくばくかを変化させて
草花の養分と結びつけ、いくばくかの光を吐き出す。
吐き出された光は、草花を自ら光り輝かせる光となる。
草花を美しく見せるのは造形と色彩を際立たせるこの光のためである。

数式の花のさまざまなフェイズが知性を吸収する。
あるいは、このとき、知性は数式の花にさまざまなフェイズを見ると言えるだろう。
このさまざまなフェイズは、
過去知識の堆積と新たなフェイズを予感させるものから構成されている。
とりわけ、新たなフェイズは、新しいアスペクトをもたらせることがあり
まったく新しいフェイズは、ときには、直面した知性の目をすり抜けて
新たなアスペクトの到来を見逃せることがあるほどである。
なぜなら、まったく新しいフェイズというものが、発見者の知性にのみ依存しており
その知性がその新しいフェイズから新しいアスペクトを獲得しない限り
その数式の花がもたらせたものを習得し得ないからである。
数式の花が、その造形と色彩の見事さを物語るのは
その数式の花を見る者の知性を吸収し
新たなフェイズとアスペクトを解き放ち
それが新たな知性を発生させる
知の光のきらめきのすごさである。
数式の花の内からの輝きは、それを見る者の顔から
いや、全身から
喜びと知性のきらめきを
そのきらめき輝く光をほとばしらせるほどなのである。

庭先に降り立ち
なんとはない数式の花を見て
ふと、こんなことを考えたのであるが
そうだ。
まったく新しいフェイズというものを発見することなど
わたしにできるのだろうかと。
まったく新しいアスペクトをもつことが
わたしにできるのだろうかと思った。
まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。
ましてや、知となると
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
すでに他者によってもたらされた新しいアスペクトを
いまもまだすべて知っているわけではないわたしである。
他者にとっては既知であるが
わたしにとっては未知の
新しいフェイズを発見し
それをこれまでのフェイズに積み重ね
そこから新しいアスペクトを得るのに
まだまだ修練中のわたしである。
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
考えられないけれど
それを願いとしてもちつづける熱意は
けっして失わないであろう。
それが、わたしを生かす限りは。
おお、数式の花よ。
きょうの日は
おまえのほんとうの価値を知らしめてくれた
記念すべき日であることよ。
祝え! わたしよ。
祝え! 数式の花よ。


*


まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。

わたしは思った。
しかし、これは考察が足りなかった。
まったく新しい感覚や感情が
それが感じとれるとき
それを感じさせる外的要因と
それを感じとるわたしの内的要因が結びついて生じさせているからである。
いわば、事物・事象の同時生起のように生じていることがあるからである。
いや、もっと簡素に言えば
それがわたしを新しくすると同時に
それをわたしが新しいものと感ずるということである。
フェイズやアスペクトも、そうである。
ほぼ同じようなものであるのだろう。
まったく新しいフェイズやアスペクトを感得するには
いったいどうすればいいだろうか。
天才ではない、ただの凡人であるわたしには
これまでどおり、日々、自分の目を
精神を、こころの目と、こころを
現時点での未知なるところへ
未知なるものへと向けつづけなくてはならない。
それと同時に
過去に堆積したフェイズとアスペクトについても
怠ることなく検討しつづけなければならないだろう。
まさしく、ゲーテの言葉どおり
生きている限り、努力して迷うものなのだ。
そうだ。
生きている限り
迷いつつも努力しつづけて
考えつづけなければならないのである。
天才であったゲーテでさえ
生きている限り、努力しつづけたのだ。
わたしなど、どれほど努力しても足りないものであるだろう。
自己と
自己につながるあらゆるものを。
自己につながっていたあらゆるものをも。
自己につながるであろうあらゆるものをも考察しつづけよう。
たとえ、自己につながらないであろうものがあるとも予感されようとも。
自己につながらないものがあるとしても
その存在の可能性をも考慮に入れて
さらなる知識を求め
さらなる知見を得て
考えよう。
考えつづけよう。
考えることが、わたしなのであるから。
感じつづけるとともに。


*


なんとはなしに眺めていて
思ったのだが、
このなんでもない
あたりまえの数式を
はじめに考えたものは
偉大であったのだと思う。
はじめにつくりだすことが
いかにむずかしいことであるか
また
つくりだしたそれを
他の多くの人間に
その意味するところのものであることを理解させ
そのことで
他の人間のこころが
それを使いこなせるようにするまでに
その意味を確たるものにするのが
いかに困難で
なおかつ
新しければ新しいほど
つまり
それを前にした人間にとって
それがどのような意味をもって
のちには公的に
どのような意義をもつものとなるのか
まだわからないときに
それをつくりだした人間が
どのような無理解と障害に遭遇するのか
遭遇してきたのか
考えただけでも怖ろしい。
なんとはなしに眺めていた
この数式の花にも
いわくつきの話があったのであろう。
あまりに基本的で
だれによって考えだされたのかも不明な
名もないこの数式にも
だれも語り継ぎはしなかったであろうけれど
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。
こころがつくりだし
それがまた
こころをつくるのだもの。
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。


*


詩人のメモとルーズリーフから目を離して
庭先に目を向けた。
詩人のメモにあった簡潔な言葉が
わたしのこころを
あたりまえのようにして存在しているさまざまなものに
思いを馳せさせる。
かわきかけの刷毛でひとなでしたように
ほんのいくすじか、かすかに
もうひとなですると、なにもつかないといったぐあいに
まるで申し訳なさそうにとでも言うように
空のはしに白い雲がかかっていた。
わたしが手で雲をなでると
白い雲がすーっと消えていった。
まさしく青天である。
あのかわきかけの刷毛のひとなでは
わたしのこころの記憶になった。
記憶といっても
おぼろなもので
いつまでも覚えていられるものではないだろう。
そういえば
さいきん、よく空を見上げる。
空を見上げては、雲のかたちを見つめている。
どの日の雲のかたちも違っているのだろうけれど
どんなかたちであっても、うつくしいと思ってしまう。
なぜかは、わからない。
それに、どの日の雲のかたちも覚えているわけではない。
じつを言えば
いま自分の手で消した
ひと刷毛の雲のかたちだけしか覚えていないのだった。
しかし、どの日の雲のかたちもうつくしかった。
雲のかたちを覚えていられないのに、
そのかたちを見て、うつくしいと思ってしまうのだった。
覚えていることができるものだけが
うつくしいのではないことに気がついたのだった。
いつまでも覚えていられるものだけがうつくしいわけではないのだと。
覚えていることができるものだけがうつくしいわけではないのだと。
きょうは
一年のうちで
南中高度がもっとも高い日ではなかろうか。
朝もまだはやい、こんな時間なのに
つよい日差しに
数式の花たちが数や記号の影を落としている。
わたしは庭先のテーブルに
詩人のメモやルーズリーフを置いて
椅子に腰を下ろした。
この天気のよい
濃い影を落とす日差しのつよい日に
庭先のテーブルに肘をついて
両手のひらの上に自分の顎をのせて
すこしのあいだ
うとうととしていた。
なんの心配ごともなく
ただ詩人のメモやルーズリーフにあった言葉を
ひとつひとつ思い出していた。
鼻の下や額から汗が噴き出してきた。
目をあけて
まどろみから目をさますと
目の先に
さっきまでなかった花が咲いていた。
とても小さな花だった。
こうした
まどろみから目をさましたときにしか
見つけることができなかったものかもしれない。
そんなことを思った。
それは
詩人のメモにあった数式と同じものであった。
詩人は
フェイズとアスペクトという言葉をつかって
言葉が形成するものや、その効果についてよく語っていた。
ただし、そのフェイズもアスペクトも
言語学でつかわれる意味ではなく
詩人独自の意味合いを持たせていた。
フェイズは、言葉が形成する意味概念そのものに近いのだが
詩人は、ときおり、フェイズを相とも呼んでいた。
相は、ある法則
それは
単一のものでも複数のものでもよいのだが
ある法則にしたがって概念を形成する場のことで
その場は
言葉が形成すると同時に
その言葉を受けて頭になにものかを思い浮かべる
その言葉の受け手の頭のなかにもあるもので
言葉というものが、つねに受け手の存在によってしか
その存在できないという立場から
詩人は、こんなことを言っていた。
「言葉はね。
 ぼくのなかにもあって
 それと同時に、ぼくの外にもあるものなんだ。
 たとえば、きみが、空に浮かんだ雲を指差して
 雲、と言ったとするだろ。
 ぼくが、きみの言葉を聞いて
 空を見上げたとしよう。
 そこに雲があるかないかで違うけれど
 いまは、きみが、雲と言って
 雲が浮かんでいたとしよう。
 ぼくは、きみの言葉から導かれて
 雲に目をやったのだろうけれど
 ぼくの目は、その雲を見るのだろうけれど
 ぼくのこころは、きみが口にした雲という言葉で思い出される
 さまざまな記憶にもアクセスして
 目で見ている雲以外の雲も
 こころの目に思い浮かべるだろうね。
 ことに、きみといっしょにいた
 さまざまな思い出とともにね。
 そして
 もっと、おもしろいのはね。
 もしも、きみが、雲と言って指し示したところに
 雲がない場合ね。
 それでも、ぼくは
 そこに、雲を見るだろうね。
 なにが、ぼくに雲を見させるんだろう。
 きみが口にした、雲という言葉かい?
 おそらく、そうだろう。
 きみが口にしなければ、ぼくのこころの目に
 雲の姿かたちなど、微塵も思い浮かばなかっただろうからね。
 でも、もしも、ぼくがいなければ、どうだったんだろう。
 きみが、雲という言葉を、ぼくに言わなかったら?
 ぼくのこころの目に浮かんだ雲の姿かたちは
 きっと現われることなどなかったろうね。
 言葉が、ちゃんと機能した言葉であるためには
 その言葉を理解できる受け手が存在しなければならないってことだね。
 言葉がちゃんと機能するっていうのは
 その言葉が指示する対象が存在するかどうかではなくて
 その言葉の受け手が
 その言葉が指示するものがなにであるかを
 きちんと認識できているかどうかにかかっているんだよね。」
アスペクトは、これまた言語学でつかわれる意味とは異なって
視点という意味でつかっていたように思う。
そしてフェイズとアスペクトについて
こんなことも言っていた。
「同じ事物でも
 フェイズが異なればアスペクトが異なり
 アスペクトが異なればフェイズも異なる。
 いま
 きみの手元にあるコップについて考えてみよう。
 それを単に液体を入れる容器として見る見方と
 それを、ぼくのコップと色違いのもので
 かつて、ぼくの恋人が使っていたもの
 ぼくが恋人と過ごしたいくつもの日を思い出させるものとして見る見方と
 ぼくにとっても
 日によって
 フェイズも異なればアスペクトも異なる。
 ぼくにとってのそのコップと
 きみにとってのそのコップの意味
 フェイズやアスペクトが違っていて当然だね。
 これがあらゆる事物・事象について言えることだよ。
 しかし、ある点で
 いや、多くの点で共通するフェイズやアスペクトを持ち合わせているから
 ぼくたちは
 ぼくたち人間は理解することができるんだろうね。
 お互いの生活を。
 お互いの生き方を。
 お互いの気持ちや考えてることを。」
そのときのわたしは、詩人の言っていることの意味を
すべて理解できていたわけではなかったが
さいきんになって、ようやくわかるような気がしてきたのであった。

1+1=1
こんな数式に意味があるのだろうか。
詩人のメモには、つぎのようなことが書いてあった。

ひと塊の1個の粘土に、もうひと塊の1個の粘土を加えて、
ひと塊の1個の粘土にしてやることができる。
それを
1+1=1
という式にかくことができる。
そういうフェイズとアスペクトをもつことができる。
このフェイズとアスペクトのもとでは
つぎのような式も意味をもつ。
1+1+1=1
1+1+1+1=1
・・・
左辺の数を1に限定することはないので
2+3=1
などともできるし
右辺の数を1に限定することもないので
2+3=4
ともできる。
1を10000個足す場合も
1+1+1+・・・+1=1
とできるし
1=1+1+1+・・・+1
のように
1個の粘土を10000万個にもできる。
このことは
ヘラクレイトスの「万は一に、一は万に」といった言葉を思い出させる。

詩人のメモにあった考察は
まったくのでたらめだったのだろうか。
いや、ベクトルとして見れば、妥当である。
間違いではない。
ベクトルでは
ゼロベクトルから出発して多数のベクトル和として表現することさえできる。
詩人は、あのメモにゼロという数字を書かなかったし
無限という言葉も書いていなかった。
たしかに、ゼロという数は
詩人のあのメモにあるフェイズとアスペクトからは
出てくるものではなかっただろう。
しかし、無限は?
そうだ。
たしか、詩人は、こんなことを言っていた。
「無限は数ではなくて
 状態だからね。
 無限にあるような気がしても
 無数にあるような気がしても
 無限や無数といったものはないからね。
 概念としては定義できても
 定義されたものが必ずしも存在するわけではないからね。」
詩人は、無限を数としては認めていなかったようである。
ゼロという数も嫌っていた節がある。
空集合について、独特の見解も持っていたし。
さっき見かけた
1+1=1
という小さな数式の花が消えていた。
見間違いだったのだろうか。
詩人のメモが見させた幻想だったのだろうか。
かつて、詩人が言ったように、
雲という言葉が
じっさいには、そこにない雲を
こころの目に見させることがあるように。


*


詩人のメモから

無限に1を足すという言葉に意味があるとすれば
無限=1
ということになるであろうか。
いや
無限に1を足したものが1に等しいのと
無限が1に等しいというのではフェイズが異なる。
1+1+1+・・・=1
という式になるということだが
同じフェイズから
同じアスペクトから
1+1+1+・・・=2
という式もできるし
1+1+1+・・・=3
・・・
という具合に、それこそ無限は
いや、無限に1を足したものは、どのような数にもなる。
これは
あくまでも
無限=2
無限=3
・・・
とは異なるフェイズであるが
あたかも
無限=1
無限=2
無限=3
・・・
が妥当であるかのような印象を与えるものである。
もしもこの奇妙なアスペクトを生じさせるフェイズを承認するならば
上記の式より
1=2=3=・・・=無限
といった式にも意味があることになる。
このアスペクトは、なにをもたらせるか?
このアスペクトを生じさせるフェイズはなにをもたらせるか?
言葉についてのなにを?
自我についてのなにを?


*


n個というとき
nを、ある任意の数とみなす。
ひとまず、ある数が仮に文字nに置かれているのだとみなす。
無限個などというものとみなすことはない。
しかるに
nを無限にすると
という言葉を耳にするやいなや
こころのなかで
nを無限に大きな数というものに置き換える気になってしまう。
無限に大きな数などというものが
あたかも存在するかのように。
無限に大きな数などというものを数として受け入れない立場からすると
では、無限という概念を、どう定義するのか。
定義できないのである。
そして、従来からある無限の定義を受け入れないことには
幾何も代数も完全に放棄しなければならないことになるのである。
こころのどこかが抵抗しつづけているのである。
無限に。


*


数にも履歴があるとする。
つまり演算の痕跡があるとするのである。
とすれば、どれだけの痕跡があり
履歴が生ずるのか
想像するにおびただしい数であろう。
さまざまな演算子で
さまざまな数式に用いられた痕跡が
わが目で見られるというのだ。
まるで言語のように。
このとき
言語と同じように
異なるフェイズとアスペクトをもって
その痕跡も見られるということであるのならば
履歴が、見るひとによって
異なるものとなるということである。
言葉が
読む人のファイズとアスペクトで
まったく異なる意味をもつように。
数が経験してきたさまざまの演算と数式
そのおびただしい体験と経験について考えると
これまで言葉が体験してきたもの
これまで言葉が経験したきたさまざまなものをも思い起こさせた。
そうだ。
言葉が体験し、経験したのだ。
わたしたちが体験し、経験するとともに。


*


このアスペクトからすると
1=1+2+3+・・・
2=1+2+3+・・・
3=1+2+3+・・・
・・・
ある数が
あらゆる数を結びつけたものとしても表現できる。
ここでは、もはや、数が問題なのではなく
結びつけることが数自体より重要なこととなっているのである。
演算を繰り返せば繰り返すほど
演算子の+という記号と
その機能の重要性がます。
究極的には、近似的に
+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。
いや、そのような可能性などないだろうけれど
可能性があると書いてみたかったのである。
書いてみると、可能性があるように思えると思ったからである。


*


「+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。 」
あるわけがない。
言葉を使わないで
言葉がつながることを示唆することができないように。
ただ
演算子の意味が強調されると
数の意味概念が後退させられるような気がしたのだった。
意味概念の後退とは
たとえば
2と3といった数の意味の輪郭であり
足すという演算のほうに意識が集中させられると
2でも3でも
あまり、その数自体に意味がなくなっていくということである。

2や3では無理か。
もっと大きな数。
自我とは
この演算子のことであろうか。
+だけではないし
まず
線形に演算されるものとも思われないが。
しかし、演算子も
数がなければ演算子が機能しないので
数と演算子の関係を
言葉と自我との関係として
アナロジックに見てやることもできる。
そうだ。
まさしく
数は言葉に
演算子は自我に。
しかし、言葉が自我と分かちがたいものであるように
数も演算子と分かちがたいものであろう。

逆か。
数が演算子と分かちがたいものであるように
言葉も自我と分かちがたいものなのであろう。


*


そして、さらに
もっとおもしろいことにはね、
と、ゴーストが聞こえない声でささやいた。
見えない指で、わたしが差し示した空に雲がなくてもね、
きみたちは、空を見上げて
そこにない雲を
こころの目に思い浮かべることもあるんだよね。
と、ふと、そんな声が聞こえたような気がして
空を見上げた。


*


ゴーストは、空を曲げ
雲をまっすぐに伸ばしてばらまいた。
直線状の雲に数式の庭が寸断され
わたしの視線も寸断され
数と記号の意味合いのわからぬ並びを
同時に縦から横から斜めから上から下から
しばらくのあいだ眺めていた。


*


コーヒーカップをテーブルの上に置いて
足もとの数式の花に目をやった。
コーヒーの香りがコーヒーをこしらえたように
数式の花がこの庭をこしらえ
わたしをこしらえたのだとしたら
あの言葉は逆に捉えなければならないだろう。
「宇宙は数でできている」
とピタゴラスは言った。
宇宙は数でできているのではなく
数が宇宙をこしらえたのだと。


*


ところが、だ。
数ではないものもあるのだ。
すべてのものが数に還元できるわけではない。
そうだろうか。
わたしたちは、すべてのものを数に還元しようとしている。
すべてのものを数え上げ、数にしようとしている。
実現できているかどうかは、わからないのだが。
しかし、数ではないものもあるであろう。
数にできないものもあるであろう。
感覚器官が知覚できないものがあるように
数にできないものもあるはずだ。
では、それを記号にすればよいのだ。
数と数をつなぐものと考えればよいのだ。
はたして、そうだろうか。
数にもならず、記号にもならないものがあるはずだ。
数にもならず、記号にもならないもの。
数式でいえば、数式にあらわされないもののことである。
数と記号を定義する言葉とその言葉を与えるなにものか。
では、数と記号と
その数と記号を定義するなにものかの意思と言葉をのぞくと
世界は空っぽなのか。
いや、世界はないのか。
いやいや、世界ではないのか。
もちろん
世界は空っぽではないだろう。
数でもなく、記号でもなく
その数や記号や
それらにまつわるもろもろのものをのぞいた
なにものかが存在するだろう。
その存在は確認できないものであるが
存在していることは直感的にわかる。
しかし、数や記号や
それらにまつわるものがなければ
この世界は存在しないのだろう。
この世界とは違った世界があるのかもしれないが
それは、この世界ではないのだろう。
数にもできず
記号にもできず
数や
記号の定義にも関わりがないもの
それがなにか
わたしには
すぐに思いつくことができなかった。
思いついた
あらゆるものが
数と記号と
言葉でできているのだった。
その言葉というのも
すべて、記号がどういう意味をもつものなのか
その意味を与える言葉でしかなかった。
そんなものばかりしか思い浮かばなかったのだ。
もちろん、思い浮かばないから存在していないのではなく
思い浮かばないものではあるが
思い浮かばないものも存在していることは確信しているのであるが
やはり
数が宇宙をこしらえたのだと
つくづくそう思われるのであった。


*


丸め合わせた
手のひらのなかで
数や記号が
かさかさ音をたてて
動き回っている。
手のひらに
チクチクあたる
数や記号のはじっこ
このこそばがゆい感じが
とてもここちよい
身体で感じる
数と記号


*


 数あるいは数的なものが記号よりさきにあって、あとで記号を創り出させたのか、記号あるいは記号的なものがさきにあって、あとで数を創り出させたのか、わからない。それとも、数あるいは数的なものと、記号あるいは記号的なものは、同時生起的に創り出されたものであるのか。
 明らかに後代になってつくられた数や数的なもの、記号や記号的なものがあるのだけれど、まったくの原初においては、どうだったのであろう。
 これは、語がさきか(もちろん、最初は文字言語ではなく音声だろうけれど)、語法がさきか、という問題に似ている。単純に、語がさきであると断定してよいのであろうか。原初においても、語法的な欲求がさきにあって、のちに語がつくられた可能性はないであろうか。語法と語法的な欲求は違うものであろうか。もちろん、語法と語法的な欲求を混同してはならないと思うのだが、語法的な欲求とでも呼ぶしかないものがあるような気がして、語法的な欲求という言葉でしかあらわせないものがあって、それが語をあらしめたのではないか、少なくともそういったケースがあるのではないかと思われるのであるが、どうであろうか。もちろん、新しい事物や事象に、新しい言葉を与える場合があるのだが、このような場合の欲求のことではない。いや、こういった欲求も含めていいのだが、形式が実体を求めるようなもの、そうだ、俳句や短歌がよい例だ。形式が言葉を求める、実体験あるいは実体験への観想を求めるように、語法的なものが語を求めるというようなことがあるように思えるのである。
 たとえば、さいしょのものの比喩としたら、数をビーカーに入れて、長い時間、温めながら撹拌しつづけると、記号が滲み出してきて、やがて数と数が記号によって結びつけられるというようなイメージだろうか。あるいは、さらに合理的な比喩としたら、堆積岩の生成過程を例にあげることができるであろう。別々の砂礫が高圧力のもとで、それぞれの砂礫の接触面で溶融するかのように結びついて、ひとかたまりの岩石となる過程である。
 ふたつ目のものの比喩としたら、過飽和水溶液から結晶が晶出するように、記号あるいは記号的な欲求が、数や記号を晶出させるといったイメージだろうか。
 記号あるいは記号的な欲求を、語法あるいは語法的な欲求として見て、数あるいは数的なものを、言葉として見てとると、数と記号の問題は、語と語法の問題の、より単純な系として見ることができる。これによって、言葉に関する問題、意識や無意識に関する問題、文学や芸術に関する問題などを、とても取り扱いやすい系で考えてやれることになるということである。
 極端であろうか。唐突であろうか。素っ頓狂であろうか。


*


 事物・事象が精神と結びついたものであることは、現実の在り様から分明であるが、また文学作品が読み手の解釈と密接に結びついていて、読み手の解釈との関わりによってのみ、その作品のじっさいの在り様があるように(日常の言葉のやりとりにおいても、これは言えるのだが)、数式もまた、その数式の意味をどこまで知っているか、その数式があらわしているものと示唆するものが、どういったものであるのかということを知っているのか知らないかで、どこまでその数式の変形や展開に関われるのかが異なるものになるように、違ったフェイズとアスペクトをもつ者にとっては、同じ数式が同じ数式ではなくなるのである。同じ数式が異なるフェイズとアスペクトをもつということである。このことは、あらゆる事物や事象が、その事物や事象を観察し解釈し解析する者によって、その存在をあらしめられるという、現実の在り様に相似している。
 ところで、その観察し解釈し解析する者は、その者が観察し解釈し解析する対象が存在しなければ、存在しないものであるのであろうか。存在するのか存在しないのかは、わたしにはわからない。しかし、もしも、世界に、ただひとりの存在者しかいないとしたら、あるいは、こう仮定したほうがよいであろう、もしも、ただひとりの存在者しかいない世界があるとしたら、その存在者にとって、現実とは、いったいどのようなものであろうか。観察し解釈し解析するものがいない世界での現実とは、いったいどのようなものであろうか。そもそものところ、そこには現実というものがあるのかどうか。
 数式がただひとつしかない世界があるとして、はたして、その数式は、意味をもつものであるのだろうか。観察し解釈し解析する人間がいなくて。自らの姿をのぞき見ることのできる鏡もなくて。 
 おそらくそのただひとりの存在者は、どうにかして、自分を観察し解釈し解析しようとするであろう。現実をあらしめるために。それゆえに、神は、世界を創造し、人間というものを創り出したのかもしれない。ここで、ふと、わたしは、詩人のつぎのような言葉を思い出した。
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」


*


 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。


*


わたしは目である。
わたしは視線である。
わたしは頭である。
わたしは手である。
わたしは触感である。
ダイヤブロックを組み合わせ、いろいろなものを模したものをこしらる。
あるいは、なにものにも似ないものをこしらえる。
わたしはダイヤブロックを出現させる。
わたしはダイヤブロックそのものにもなる。
このとき、わたしはわたしの目をつくる。
わたしの視線をつくり、わたしの頭をつくり、
わたしの手をつくり、わたしの触感をつくる。

わたしは記号である。
わたしは数と数を結びつける。
わたしは数を出現させる。
わたしは数そのものにもなる。
このとき、わたしは記号をつくる。
わたしは思いつきである。
発想である。
計画である。
わたしは文意である。
わたしは文脈であり、効果である。
わたしは言葉と言葉を結びつける。
わたしは言葉そのものにもなる。
このとき、わたしは思いつきとなる。
発想となり、計画となる。

ダイヤブロックでつくろうとしたものがつくれないことがある。
重力のせいで、形が崩れるのだ。
あるいは、ダイヤブロックの数が足りなかったり
ダイヤブロックにほしい色がなかったり
ちょうど使いたい大きさのものがなかったりして。
用いる記号を間違って使ってしまったり
正しく変形したり展開したりすることができないことがある。

適切な文体が思いつかず
目的とした文意を形成する文脈を形成できなかったり
目的とした効果を発揮することができなかったりする。
無意識的に手にとったダイヤブロックを組み合わせていると
見たこともないうつくしいものになったりすることがある。
無意識的に数式をいじっていると
すばらしい予感を与える数式になったりすることがある。
無意識的に言葉をつぶやいたりしていると
すばらしい音楽的なフレーズができることがある。
数多くの書きつけたメモを眺めていると
ふいにそれらが結びついて
見たこともないヴィジョンがもたらされることがある。
こういったときに、よく
わたしは、自身がダイヤブロックそのものになった気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、自身が数そのものになったような気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、言葉そのものになったような気がするのだった。

それとも、ダイヤブロックそのものは、
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、数そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、言葉そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
出来の良いわたしがあり
出来の悪いわたしがある。
良くもなく悪くもないわたしもある。
良くもあり悪くもあるわたしがある。

わたしそのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
庭先のテーブルに肘をついて
空を眺めていた。
雲のかたち。
つぎつぎとかたちを変えていく雲の形。
それは風のせいなのか。
雲にかかる重力と浮力のせいなのか。
地球が自転しているためか。
それとも
わたしが眺めているからだろうか。
わたしの目が
こころが
雲の形を変えていくのだろうか。


*


庭に出ようとした瞬間から
精神のなかに
数や記号があふれ出てくるのが感じられる。
数や記号が働きだそうとするのを感じる。
数式の庭に足を踏み入れたとたん
わたしの目と肉体は
内からの数や記号の圧力と
外からの数や記号の圧力にさらされて
まるで両手でピタッと挟まれた隙間のようだ。
限りなく薄い空気の膜のようなものとは言わないが
無に近い存在かもしれない。
無力な無ではないつもりではあるが。


*


詩人がネット上に書いていた言葉に目を通していた。
日記の断片であろうか、作品の一部のようにも見えるが
詩人は、つくりかけの詩の断片をよくそのまま放置しておいた。
記憶と音に関するところだ。

ネットの詩のサイトに投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされたのだった。
いや
より詳細に検討しなければならない。
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
それは、ほとんどつねに、たしかに恩寵をもたらせるのではあるのだが
恩寵とは呼べないものをもたらすこともあるのだった。

青年が発したのは、まさに言葉であって、ものではなかった。
ものはなかったので、それをそのまま保存しておくことはできなかった。
詩人は、音声によって、その言葉を聞かされたのであった。
青年は、言葉によって、そして、そのとき言葉を発した気持ちを
その表情に、そのからだのつくりだす雰囲気によって伝えたであろう。
伝えようとする意志がどこまで意識的かどうかにはかかわらず
きっと、その表情やからだぜんたいから醸し出されるニュアンスは伝わったであろう。
そして、その言葉はその青年の呼吸と同じように吐き出され
詩人の呼吸と同じように吸いこまれたのであろう。
呼吸。
そうだ、呼吸は呼気と吸気からなる一連の運動である。
しかし、吸い込んだ空気中の酸素をすべて変換してからだは吸収するのではなく
からだは吸い込んだ空気から変換した二酸化炭素と変換しなかった酸素を吐き出すのだ。
呼吸。
詩人がよく使ったレトリックだが
おそらく、そのとき、その時間がふたりを呼吸していたのであろう。
その場所がふたりを呼吸していたのであろう。
その出来事がふたりを呼吸していたのであろう。
おそらく、そのとき、その時間が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その場所が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その出来事が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
詩人の一部を時間に変え、時間の一部を詩人に変え
詩人の一部を場所に変え、場所の一部を詩人に変え
詩人の一部を出来事に変え、出来事の一部を詩人に変え
青年の一部を時間に変え、時間の一部を青年に変え
青年の一部を場所に変え、場所の一部を青年に変え
青年の一部を出来事に変え、出来事の一部を青年に変え
そうして、詩人の一部はその青年となり、その青年の一部は詩人となり
その年の一部は詩人となり、詩人の一部がその青年となったのであろう。
そのとき、人はその青年を呼吸し、その青年は詩人を呼吸していたのであろう。
音声による言葉の意味概念の想起は
詩人が書いていたように、
音声による「なめらかさ」といったものをくぐってもたらされたのであろう。
その青年が発した言葉による意味概念のなかで
とりわけ、「男同士」というところが強い印象を持たせたであろう。
したがって、その「男同士」という言葉につづく言葉として
詩人としては「で」という、もっともありふれた
つまり、詩人が知るところでもっとも標準的な言葉を
音声的にも耳慣れたものであり、音調的にも
「の」よりも、耳にここちよいほうを
「正しい記憶」ではなく「記憶していたと思っていた言葉」から
引き出したのであろう。
のちのち詩人が、「正しい記憶」を思い出せたのは
詩人が書いていたことから推測されるだろう。
自分の作品を何度も読み返しているうちに
その言葉が想起させるイメージが
これはヴィジョンだけではなく、
そのときのニュアンスとかいったものも含めて
詩人が想起させたときに
「正しい記憶」のほうが
「それはまちがっているぞ」というシグナルでも発していたのであろう。
詩人は、そのシグナルにはじめは気がつかなかったが
何度も読み返しているうちに気がついたのであろう。
詩人は、「文脈の齟齬」と書いていたが
「正しい記憶」による「心情の齟齬」とでもいったものが
詩人のこころのなかに生じたのではないだろうか。
「正しい記憶」が「誤った記憶」を正す機会は
そうあることではない。
詩人は貴重な機会をつかまえたわけだ。
まさしく、恩寵といったものを感じていたであろう。
恩寵か。
わたしは、数式の庭を見渡した。
数式の花たちは、わたしにとって言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもある。
数式の花たちにとっても
おそらく、わたしは、言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもあるのだろう。
詩人は、べつの日の日記に、つぎのようにも書いていた。

何十回も読み直していて気がつかなかったのに
気がついたのは、あの投稿掲示板の大きさによるところも大きい。
あの大きさだと、間違いに気がつくことがほんとうに多いのだ。
まずいところに気がつくことがほんとうに多いのだ。
視覚というのも、「正しい記憶」に関与しているのかもしれない。
さて
もちろん、視覚も「もの」ではない。
「もの」に依存するが。

書かれたものの大きさが、その作品を見渡せる大きさが
「正しい記憶」や、よりよい表現を促せたということか。
わたしの目は、もう一度ゆっくりと、数式の庭ぜんたいを見渡した。
プリントアウトした詩人の言葉をテーブルのうえに置いて
わたしは、ひとつの数式の花のところに足を向けた。


東條英機。

  田中宏輔




      歴史教育にこそ、決して枯れることのない泉がある。それはとりわけ
     忘却の時代において、無言の警告者として刹那的な栄華を超越し、つね
     に過去を思いだすことによって、新しい未来をささやくのである。    
          (アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第一章、平野一郎訳)


規則I
 自然の事物の原因としては、それらの諸現象を真にかつ十分に
説明するもの以外のものを認めるべきではない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


大がかりの見せしめを目的とする罰は、常になんらかの不正を伴う/国家を破滅させた
罰として/首をくくられ/吊り下げられる/気の毒な将軍/彼は/自分の
利益のために人殺しをするのではなく/偉大なる祖国のために
/祖国愛から/殺す/根っからの軍人だった。                                          *01

もう/処刑はすんだか?                                                   *02

戦争のかつての主役であり/現に今もそうである/人間の身体が/ハンカチで
/顔を/覆(おお)われ/絞首台の上に/横たわっていた。                                    *03

死んでいるのかい?                                                     *04

彼は/ハンカチをとって/自分自身の/顔を/見た。                                       *05

牢を出ると/森がある/森へ入っていく道がある/この森は/彼の故郷だった
/海の上に傾いたこの鬱蒼(うつそう)とした森/彼は/この森を愛していた。                            *06

やがて/森に入ってしばらく行った斜面で足を停め/木々のあいだから
海が見られるような向きをとった。                                               *07

もし、時間というものが静止してしまったら?/陽が沈むことがあっては
ならない/太陽の下では一日のうちにすべてが変るのだ
/彼はそう言って、引鉄(ひきがね)を引いた。                                          *08



規則II
 ゆえに、同じ自然の結果に対しては、できるだけ同じ原因を
あてがわなければならない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


どうして森なんかに行ったの?                                                 *09

苺を取りに。                                                         *10

ほんとう?                                                          *11

彼は/ハンカチに/つつまれた/野いちごを/目の前につきだした。                                *12

どこで見つけたの?                                                      *13

すこし森を歩いてみない?                                                   *14

あたし、ここにいてもいい?                                                  *15

森はきれいだよ/そのうえ/苺の茂みがある/見事な苺がなっている。                               *16

ふと眼の隅に白いものが動くのを見て、彼はそちらに視線をむけた。                                 *17

それ/何を隠してるんだ?                                                    *18

わたしの好きな遊び、何だか知ってる?                                              *19

「可愛い兵隊(カリグラ)」                                                   *20

知らぬ間に/靴のひもがとけたわ。                                                *21

肩ひとつしゃくってみせると/彼は/ひざをついて
靴ひもを結んでやった。                                                      *22

靴はいらないのよ。                                                       *23

彼は/山と/積もった/靴の山に/靴を投げつけた。                                        *24

木端微塵/地雷が/爆発した。                                                  *25

森の周りに/地雷がある/地雷が仕掛けられている/それが森の境界だった。                             *26

足が、腕が、頭が/ちぎれてあたりに飛びちった。                                          *27

枝々に/血のしたたる/ちぎれた皮膚が/ぶら下がっていた。                                    *28



規則III
 物体の諸性質のうち、増強されることも軽減されることも許されず、また
われわれの実験の範囲内ですべての物体に属することが知られるようなもの
は、ありとあらゆる物体の普遍的な性質と見なされるべきである。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


戦争について語ることの外に/いったい、何が残されているのだろう?/聞くがいい
/わたしの言葉を心して聞くのだ/忘れてもらいたくない。                                    *29

第二次大戦なんて関係ないわ/過去の物語にすぎないわ/戦争は終ったのよ。                            *30

お前は知っているかい?/いま/おまえの祖国に/どんな人たちが生きているかを/
市民達は、政治的無関心と快楽とに取り憑かれており/間もなく/祖国を/
滅ぼしてしまうだろう/平和がこの頃ほど、長く続いていたことは
かつてない/平和が悲惨であるぐらいなら、戦争と代った
ほうがましだ/だれにしろ/平和より戦争を
えらぶ/と将軍はいった。                                                   *31

そろそろ/紙の上に/樹々の密生する現実の森そのものを含ませよう。                                *32

なんと申す森だ、これは?                                                    *33

カチン。                                                           *34

カティン Katyn は、現ベラルーシのスモレンスク近郊のドニエプル河畔にある
森/長さ八メートル、横一六メートルの一二層からなる穴に約三〇〇〇
人のポーランド軍将校の死体が横たわっていた/全員、正規軍装を
着用し、手を縛られ、首の後ろ側に銃で撃たれた跡があった。                                   *35



規則IV
 実験哲学にあっては、諸現象から一般的な帰納によって推論された命題
は、たとえどのような反対の仮説が考えられようとも、それらがよりいっ
そう正確なものとされるか、あるいは除外されなければならないような他
の現象が起こるまでは、真実なもの、あるいは真実にきわめて近いものと
みなさなければならない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


心は祖国愛にみち、口唇には歌をくちずさみながら/からだをまっすぐに伸ばして、
胸を張って/首くくりの吊し縄の方へと足を運んで/行き/行く/と
/ふと/ふり仰ぐと/何か/光っている/ように見えた。                                       *36

太陽は右手に/左手は海になっている。                                               *37

ハンカチが/光ったのだ。                                                     *38

それは太陽のせいだ/太陽は一切の白い物を容赦(ようしや)はしない。                                 *39

頭上にあった/黄金の手巾を/見て
/彼は自分自身に言った。                                                     *40

この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇者と判定される/しかし/結局、
それはわたしの手のなかにあったものではなかったのだ。
わたしの手には何もなかったのだ/と。                                               *41

とはいうものの/定めとあれば、死ぬほかはない/祖先の多くの人たちと同じ
ように/偉大なる祖国のために/私は死んで太陽に捧げられねばならない
/そうだ/帝国のためには、いつでも死ぬ覚悟があった/いつでも。                                  *42

おお/祖国のために死ぬことの幸福さよ!                                              *43

太陽は沈み、また昇るのだろうか?                                                 *44

黄金(こがね)色(いろ)なす/雲を/見はるかしながら/彼はそう/言った。                               *45

将軍の言葉に/森が/緑の枝を/靡(なび)かせる。                                          *46

樹の枝に/ひっかかっている/一枚の/ハンカチが/
海の方へと/ひらひら/飛んで行きました。                                             *47

留(とど)まれ/お前はいかにも美しい。                                                *48

数秒のあいだ/ハンカチが/宙に静止した。                                              *49

きれいじゃない?/ほんとうにそう思う?/きれいでしょう?
/そう?/そうじゃなくて?                                                     *50

バスというバスが/一時間前に発車していた。                                             *51

しかし/彼は/待っていた。                                                     *52

もう一度同じ場所に戻ってくるという確信があったからだ。                                       *53

コーヒー飲む?/別のところで/コーヒーを
もう一杯いかが?                                                          *54

泣いているの?                                                           *55

すべてのものは海から来たんだ。                                                   *56

そうとも/そうだった。                                                      *57

おお海よ/海よ、おまえはどうして逃げるのか。                                            *58

わたしは海であるのか/わたしは海であるのか/わたしは海であるのか。                                 *59

来ないのもよい。バスも……。                                                    *60

あるいはまた……                                                          *61











 References

*01:タキトゥス『年代記』第十四巻・44節、国原吉之助訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・51節、国原吉之助訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第二部・2、横山貞子訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第十章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ヘッセ『別な星の奇妙なたより』高橋健二訳/サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・49節、国原吉之助訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』1・ロージー・銃後の勤労戦士、渡辺和枝訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第十三章、平田達治訳。*02:ヘッセ『アウグスツス』高橋健二訳/シェイクスピア『マクベス』第一幕・第四場、福田恆存訳。*03:シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳/シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳/ダス『「ノールランのらっぱ」から』林穰二訳/D・H・ロレンス『指ぬき』小野寺健訳/プラトーノフ『粘土砂漠』9、原卓也訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/クワジーモド『現代人』井出正隆訳/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・二、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*04:D・H・ロレンス『指ぬき』小野寺健訳。*05:ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳/シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳/ラドヤード・キップリング『船路の果て』小野寺健訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳。*06:カトリーヌ・アルレー『わらの女』II、安堂信也訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』4、小尾芙佐訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』4、小尾芙佐訳/シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/コレット『青い麦』一、堀口大學訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第五章、伊藤整訳・伊藤礼補訳。*07:D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第八章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第三部・13、横山貞子訳。*08:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』6、井上一夫訳/ヨベル書二一・一〇/ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第一幕・第四景、進藤誠一訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・V、山本光伸訳。*09:アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』5、小尾芙佐訳。*10:シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第四場、福田恆存訳、句点加筆。*11:イェジイ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』第七章、川上洸訳。*12:D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野宏訳/メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/ルソー『告白』第十一巻、桑原武夫訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第二部・8、横山貞子訳/ジャック・フィニイ『悪の魔力』福島正実訳。*13:ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第四幕・第六景、進藤誠一訳。*14:D・H・ロレンス『息子と恋人』第二部・第九章、小野寺健訳。*15:エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*16:D・H・ロレンス『息子と恋人』第二部・第七章、小野寺健訳/G・マクドナルド『リリス』18、死か生か?、荒俣宏訳/ヘッセ『車輪の下に』第二章、秋山六郎兵衛訳/シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第四場、福田恆存訳。*17:小松左京『旅する女』6.*18:D・H・ロレンス『春の陰翳』三、岩倉具栄訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第一章・I、山本光伸訳。*19:ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』12、井上一夫訳。*20:タキトゥス『年代記』第一巻・41節、国原吉之助訳.*21:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』4、井上一夫訳。*22:ジャック・フィニイ『大胆不敵な気球乗り』福島正実訳/D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野宏訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』4、井上一夫訳。*23:プラトーノフ『ジャン』2、原卓也訳。*24:D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第一章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ウィーダ『フランダースの犬』1、村岡花子訳/コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳/ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳/ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳。*25:レーモン・クノー『地下鉄のザジ』3、生田耕作訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』2・爆撃者と被爆者・空襲のなかの暮らし、本田典子訳/沢村貞子『貝のうた』戦争がはじまる。*26:ヘロドトス『歴史』巻六・八〇節、松平千秋訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』18、中野圭二訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』II、安堂信也訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳。*27:シェイクスピア『ヘンリー五世』第四幕・第一場、大山俊一訳/沢村貞子『貝のうた』戦争がはじまる。*28:メレジュコーフスキー『ソレント』草鹿外吉訳/サマセット・モーム『物もらい』瀧口直太郎訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』8、中野圭二訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第二章、平田達治訳。*29:ヴィーレック『カルタゴよ、さらば』児玉惇訳/ヴィーレック『カルタゴよ、さらば』児玉惇訳/アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』呉茂一訳/ホメーロス『オデュッセイア』第一巻、高津春繁訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳。*30:スタッズ・ターケル『「よい戦争」』記念碑、中山容訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』記念碑、中山容訳/カポーティ『叶えられた祈り』川本三郎訳。*31:ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第三幕・第三景、進藤誠一訳/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第二部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳/アフマートワ『平和のうた』江川卓訳/アフマートワ『平和のうた』江川卓訳/プルタルコス『アギスとクレオメネス』クレオメネス・二三(二)、岩田拓郎訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第四章・II、山本光伸訳/ホメ―ロス『イーリアス』第十二巻、呉茂一訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第十章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・46節、国原吉之助訳/タキトゥス『年代記』第三巻・44節、国原吉之助訳/T・H・ガスター『世界最古の物語』バビロニアの物語・神々の戦争、矢島文夫訳/ヘロドトス『歴史』巻一・八七節、松平千秋訳/サスーン『将軍』 成田成寿訳、句点加筆。*32:コレット『青い麦』一、堀口大學訳/マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳/モーリス・ブランショ『文学空間』II、粟津則雄訳。*33:シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第一場、中野好夫訳。*34:スタッズ・ターケル『「よい戦争」』4・罪と罰・ポート・シカゴの大爆発、唐沢幸恵訳。*35:平凡社『東欧を知る事典』カティン事件/岩波ブックレット『シリーズ東欧現代史1・カチンの森とワルシャワ蜂起』渡辺克義/岩波ブックレット『シリーズ東欧現代史1・カチンの森とワルシャワ蜂起』渡辺克義。*36:アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第七章、平野一郎訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/プルタルコス『アギスとクレオメネス』アギス・二〇、岩田拓郎訳/ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』福島正実訳/ランボー『飾画』ある理性に、小林秀雄訳/ガルシン『あかい花』二、神西清訳/メリメ『ヴィーナスの殺人』杉捷夫訳/原民喜『永遠のみどり』/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第五章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』16、中野圭二訳/ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎義訳。*37:ヘロドトス『歴史』巻四・四二節、松平千秋訳/小松左京『旅する女』1。*38:メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/カポーティ『感謝祭のお客』川本三郎訳。*39:カミュ『異邦人』第一部・4、窪田啓作訳/ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳。*40:アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/ヘロドトス『歴史』巻二・一二二節、松平千秋訳/ゴールディング『ピンチャー・マーティン』11、井出弘之訳/D・H・ロレンス『死んだ男』II、幾野宏訳。*41:ヘロドトス『歴史』巻四・六四節、松平千秋訳/ヘミングウェイ『暗黒の十字路』井上謙治訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳/ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳。*42:ローデンバック『死都ブリュージュ』VII、窪田般彌訳/ソポクレス『コロノスのオイディプス』高津春繁訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳/D・H・ロレンス『馬で去った女』三、岩倉具栄訳/モリエール『人間ぎらい』第四幕・第四場、内藤濯訳/アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第五章、平野一郎訳/アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第五章、平野一郎訳、句点加筆。*43:『NHK音楽シリーズ 1 ショパン─その愛と生涯』第三章、園部三郎/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*44:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・VII、山本光伸訳。*45:アーサー・シモンズ『阿片喫む人』尾島庄太郎訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/ジーン・リース『あいつらのジャズ』小野寺健訳。*46:タキトゥス『年代記』第十四巻・36節、国原吉之助訳/シェイクスピア『マクベス』第五幕・第五場、福田恆存訳/V・E・フランクル『夜と霧』七・苦悩の冠、霜山徳爾訳/モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳、句点加筆。*47:ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳/エーヴェルラン『ヨーロッパのどこかで』林穣二訳/ヒメーネス『唄』荒井正道訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第十九章、平田達治訳/コレット『青い麦』一、堀口大學訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/T・H・ガスター『世界最古の物語』ハッティの物語・姿を消した神様、矢島文夫訳。*48:ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳/ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、句点加筆。*49:サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳/メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/プラトーノフ『ジャン』11、原卓也訳。*50:D・H・ロレンス『息子と恋人』第一部・第四章、小野寺健訳/マーガレット・ドリブル『再会』小野寺健訳/P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第三部・2、青木久恵訳/サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎孝訳/D・H・ロレンス『歓びの幽霊たち』幾野宏訳。*51:マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳/イェジイ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』第十章、川上洸訳。*52:T・H・ガスター『世界最古の物語』カナアンの物語・バアルの物語、矢島文夫訳/D・H・ロレンス『太陽』二、岩倉具栄訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳。*53:サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳。*54:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・III、山本光伸訳/G・バタイユ『無神学大全・内的体験』第一部・III、出口裕弘訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・III、山本光伸訳。*55:プラトーノフ『フロー』原卓也訳。*56:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・V、山本光伸訳。*57:ロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』3、金原瑞人訳/モリエール『人間ぎらい』第四幕・第四場、内藤濯訳。*58:ヴァレリー『夏』鈴木信太郎訳/詩篇一一四・五。*59:ヨブ記七・一二/ヨブ記七・一二/ヨブ記七・一二。*60:吉増剛造『<今月の作品>選評19』ユリイカ一九八九年九月号。*61:大岡信『<今月の作品>選評1』ユリイカ一九九〇年二月号。


ジャンヌとロリータの物語。

  田中宏輔




Contents

Hourglass Lake
Katyn
Selve d'Amore
Katyn
Selva Oscura
Gethsemane
Bois Chesnu
Nageki no Mori
Ararat



登場人物

Jeanne d'Arc ジャンヌ・ダルク(1411 or 1412−1431)。ローマ教皇庁はルーアンの審決をまだ取り消していない。それでいて、教皇庁は、一九二〇年、ジャンヌを聖女に列した。したがって、ジャンヌの存在は、異端の女にして聖女という、まことに不可解なものである。(平凡社『大百科事典』)

Dolores Haze ドロレス・ヘイズ。ウラジーミル・ナボコフ(1899−1977)の『ロリータ』という小説の題名は、それに出てくる少女の名前 "Dolores"の愛称"Lolita"による。(Vladimir Nabokov,"Lolita", U.S.A.,Vintage International,1989,p.9.)新潮社文庫版・大久保康雄訳の『ロリータ』の訳注に、ドロレスとは、「悲しみ」、「悲哀」の意で、キリスト教の「マリアの悲しみ」に由来する、とある。研究社『羅和辞典』に、「悲しめる」という意味の形容詞 "dolorosus"、「悲嘆、苦悩」という意味の名詞 "dolor"が収載されている。"Via dolorosa"、「悲しみの道」という言葉が、筆者に想起されたが、それは、十字架を背負わされたイエス・キリストが、<総督の官邸>から<ゴルゴタという所>(マルコによる福音書15・16 、15・22)にまで歩ませられた道の名である。(M・ジョーンズ編『図説・新約聖書の歴史と文化』左近義慈監修/佐々木敏郎・松本富士男訳)

Pier Paolo Pasolini  ピエール・パオロ・パゾリーニ(1922−1975)。イタリアの詩人、作家、映画監督。同性愛にからみ、ローマ郊外で殺された。(平凡社『大百科事典』)

King Lear リア王。ウィリアム・シェイクスピア(1564−1616)の『リア王』の主人公。ブリテンの老王。(シェイクスピア『リア王』大山俊一訳)

Hans Giebenrath ハンス・ギーベンラート。ヘルマン・ヘッセ(1877−1962)の『車輪の下に』の主人公。角川文庫版・秋山六郎兵衛訳の『車輪の下に』に、「ハンス・ギーベンラートは疑いもなく優秀なる子供だった。この子が他の子供たちとまざって走り廻っていたとき、どんなに上品で一目を惹いていたかを見れば、それで十分だろう。」とある。

Jesus Christ イエス・キリスト(B.C.4?−A.D.30)。カトリック教では、イエズス。ユダヤのベツレヘムに生まれたキリスト教の開祖。"Jesus" は "help of Jehovah"の縮約形 "Joshua" に由来し、また"Christ"は、救世主 "Messiah"の意の称号で、"Jesus the Christ"といわれていたものが、後に"the" が脱落して、"Jesus Christ"と固有名詞化されたものである。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)キリストは、ギリシア語では"Christos"、ラテン語では"Christus"。普通名詞で、その意味は「油を塗られた者」である。「油を塗る」という動詞は "chrisma"である。なお、同じく、「油を塗られた者」のことを、ヘブライ語では "mashiah"という。このヘブライ語からメシア "Messiah"「救世主」という語が生まれたのである。(山下主一郎『シンボルの誕生』)

Maximilian Kolbe マクシミリアン・コルベ(1894−1941)。カトリック司祭、宣教師、殉教者。一九四一年、アウシュビッツで餓死刑に定められた囚人の身代わりになって殉教した。一九七一年列福、一九八二年列聖。(平凡社『大百科事典』)

Pierre Cauchon ピエール・コーション(1371−1443)。ボオヴェイの司教。一九三一年のジャンヌに対する異端裁判における宗教裁判官。名義上の主席裁判官は、ジャン・ル・メートルであったが、審理の行方は、コーション一人の手に委ねられていた。(堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』)

Judges and People 陪席判事たちと民衆。ルーアンにおける、ジャンヌに対する異端裁判では、一四三一年二月二一日を第一日目として、六回の公開審理と、三月一〇日以降の八回の獄中審理がもたれ、いったんは、五月二四日に異端の審決が下されたが、ジャンヌが回心を誓ったので、コーションは審決を変更し、終身刑を申し渡した。ところが、同月二八日にジャンヌが回心を翻したため、二九日に、再度、法定合議が執り行われ、三〇日に、ルーアンの広場において、「もどり異端」と宣言され、ルーアン代官に引き渡され、火刑に処せられた。(堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』)この裁判においては、陪席判事の発言は参考意見に過ぎず、コーションただ一人が、異端審問官代理のジャン・ル・メートル(最終審議には欠席)と並んで裁決権をもっていた。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン『ジャンヌ・ダルク』福本直之訳)


場所

Hourglass Lake  アウアグラス・レイク。ナボコフの『ロリータ』に出てくる森林湖で、ラムズデイルから数マイルの所にある。(Vladimir Nabokov, "Lolita", U.S.A., Vintage International, 1989, p.81.)

Katyn  カティン。一九四三年四月一二日、ドイツは、スモレンスク近郊カティンの森で、大量のポーランド軍将校の死体を発見し、これをソ連の虐殺行為であると発表した。モスクワは直ちに反駁し(山本俊郎・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』)ドイツの仕業であると発表した。後に、ソ連がポーランド人将校ら一万五千人を殺したことが暴露した。(平凡社『東欧を知る事典』)

Selve d'Amore  セルヴェ・ダモーレ。ローレンツォ・デ・メディチ(1449ー1492)がつくった詩の題名『愛の森』より。(饗庭孝男『「西欧」とは何か』三田文学・一九八九年・夏季号・二〇九ページ)

Selva Oscura  セルヴァ・オスクーラ。ダンテ・アリギエリ(1265−1321)の『神曲』地獄篇に出てくる森。誤謬、非現実、無定形を表わす。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

Gethsemane  ゲッセマネ。エルサレム東方、オリーブ山(八一四メートル)の麓にある園。イエスがユダに裏切られ、捕らえられた苦難の地。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)「油絞り器」を意味する。(教文館『旧約・新約聖書大事典』)

Bois Chesnu  ボワ・シュニュー。ジャンヌ・ダルクが生まれたドムレミイの村から西に三キロメートルほどの所にある森で、彼女がお告げを聞いたといわれている場所の一つ。(村松剛『ジャンヌ・ダルク』)"chesnu"は古仏語で、現代仏語の"chene"に当たり、(高山一彦編・訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』巻末に附載されている「編訳者の註釈」)槲、楢、樫などのぶな科こなら属の木の総称である。(三省堂『クラウン仏和辞典』)キリストの十字架がオーク材であったために、キリストのエンブレムとなった。また、この木は、太陽王の火葬用の薪であった。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)太古、森を神聖視したゲルマン人は、樫の森には、供犠を行なう祭司のほかは足を踏み入れることをゆるさなかった。暗闇に坐った祭司は、樫の樹の葉からもれる囁きにじっと耳を澄まし、神意を聴き取った。(谷口幸男・福嶋正純・福居和彦『ヨーロッパの森から』)

Nageki no Mori  嘆きの森。『古今和歌集』巻第十九収載の安倍清行朝臣女さぬきの歌から。岩波文庫・佐伯梅友校注の脚注に、「なげきの森という神社(鹿児島県にあるという)の由来を考えた歌。人々の嘆き(木にかけて)が集まって森となっているのだろうというわけ」とある。

Ararat  アララテ。トルコ東端にある火山(五一〇〇メートル)。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)洪水が引いた際に、ノアの箱舟が漂着した所。(教文館『旧約・新約聖書大事典』)


事物と象徴

cricket  コオロギ。その鳴き声を楽しむ習慣は、現在、ギリシアほかの地中海地域、インド、中南米に盛んで、これを神の声に擬して神託を得たりもする。しかし、西ヨーロッパ地域では、その声を死の予兆と見たり、女のおしゃべりに模したり、雑音扱いにする。イギリスでは、これが鳴けば嵐が来ると信じられた。(平凡社『大百科事典』)

owl  フクロウ。死と暗闇に関連をもつ鳥で、エジプトの象形文字では、死、或は、地平線に沈み、夜の航行をする死んだ太陽の領域を表す。ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23or24−79)によると、悪い知らせをもたらす鳥であるという。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

mine  地雷。昔は敵の防御施設の下にトンネルを掘って仕掛ける爆発物を指し、中世末期以来、攻囲戦で使われてきた。(ダイヤグラム・グループ編『武器』田島優・北村孝一訳)

strawberry  イチゴ。聖母マリアのエンブレム。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

bramble  キイチゴ。キリストのイバラの冠の材料の一つ。ヘブライにおいては、神の愛、燃える薮から聞こえる神の声を表す。(前掲同書)

shoes  靴。靴を脱ぐことは、「主の前に裸で立つ」ことの一つの形式である。(前掲同書)

lily  シャルル七世(1403−1461)は、ジャンヌと彼女の二人の兄にユリの紋章を与え、貴族の称号「白ユリ」を授けた。(村松剛『ジャンヌ・ダルク』)ユリは不死(土中の球根から再生する)、永遠の愛、復活(復活祭の花)を表す。エドガー・アラン・ポー(1809−1849)では、たいてい悲しみを表す。トーマス・スターンズ・エリオット(1888−1965)では、ユリ−葬式−復活祭−イエスという意味関連がある。また、ハトとユリは受胎告知を表す。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

handkerchief  ハンカチ。毎日新聞社刊の『聖書美術館3・新約聖書2』に収載されている『聖ヴェロニカ』(一四〇〇年から一四二〇年ごろにかけて、ケルンで活躍した無名画家によるもの)の解説に、「イエスが十字架の道行きをされたとき、彼女はイエスの苦しみに同情して、自分のハンカチ(ベールともいわれる)で額の汗をぬぐってあげた。すると、不思議なことに、その布には、イエスの顔がうつされていた。これは新約外典の『ニコデモの福音書』(『ピラト行伝』とも称せられる)に記された話である」とある。

toad  ヒキガエル。ヒキガエルの腹には、死者たちの魂がつまっているともいわれる。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

rain  雨。神の恩寵を表す。(前掲同書)

flood  洪水。十二宮では双魚宮を表し、再出現を意味する。(前掲同書)








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Hourglass Lake



  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Dolores Haze

あたし、新しいセーターを森のなかでなくしちゃったの。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)

で、あなたの方は?
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

あたし?
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

わたし、──いまは、よくわからないのよ。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そこへ行けば
(ハイネ『森の寂寞』片山敏彦訳)

森は
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

わたしに
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

失ってしまったものを思い出させてくれる。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

それはよく知っているものだった。
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓直訳)

森の繁みのあいだに
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

茂みの奥のあちこちに、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

到る処に
(ヘッセ『キオッジア』高橋健二訳)

忘れ去ってしまった音がいっぱい詰まっていて、
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

地面をふむと
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第三場、湯浅芳子訳)

消える。
(フリョーデング『落日に』尾崎義訳)

縡(ことき)れる。
(リリエンクローン『麦穂の中に死す』坂本越郎訳)

多くの記憶を
(サンドバーグ『真実』安藤一郎訳)

草の上に
(ワイリー『野生の桃』片桐ヨウコ訳)

木の下に
(ミカ書四・四)

雑草のなかに
(エマソン『詩人』斎藤光訳)

置きざりにしたまんま。
(ヴェーデキント『ブリギッテ・B』吉村博次訳)

・・・・・・姿は見えない
(フライシュレン『十一月』高安國世訳)

どうしてだか分る?
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)


  Dolores Haze

どうして?
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳)


  King Lear

はっ、はっ、はっ!
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

答えてやるとも。
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第一場、福田恆存訳)

いまこそ喜べ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第五場、中野好夫訳)

みんな死ぬのじゃ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

馬鹿!
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)

このばかが!
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

あっちへ行け!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

あっちへ!
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第二場、菅泰男訳)

しっ!しっ!
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

さあ、さあ、
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第五場、小津次郎訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)


  Dolores Haze

まあ、そう。すてきだわ
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)


  Pier Paolo Pasolini

さ、さ!
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

みんな、位置につきなさい。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

もとの同じところへ、
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)


  Jeanne d'Arc

どこまでやったかしら?
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

あなた憶えてないの?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

森よ!
(トルストイ『春なお早い・・・・・・』清水邦生訳)

蟋蟀(こほろぎ)多(さは)に鳴く
(『万葉集』巻第十・秋の相聞・読み人知らずの「花に寄する」歌)

森へはいる
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ところ。
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第二十八歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)


________________________________________


Katyn



  Pier Paolo Pasolini

ここはくらやみの森である。
(ダンテ『神曲』地獄篇・序曲・第一歌、野上素一訳)

森はしいんとして、
(ドイプラー『冬』石川進訳)

いたるところに闇がある。
(リンゲルナッツ『いたるところに』五木田浩訳)

そこではすべての願いがかない、熟し、完結する、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第二十二歌、野上素一訳)

またそこでのみ、あらゆる部分はかつてそれがあったままと同じ姿をとるのである。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第二十二歌、野上素一訳)

それは、この場所が神によって直接支配されていたからである。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

美しい森よ。
(ヘルダーリン『散歩』片山敏彦訳)

これは古い森だ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

古い森の
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第二十八歌、野上素一訳)

森の縁
(ボブロフスキー『子供のとき』神田芳夫訳)

わたしたちはここにいる。
(民数記一四・四〇)

そこから深い森の奥へ!
(ランボー『何がニナを引止める』堀口大學訳)

さあさあ、
(シェイクスピア『お気に召すまま』第五幕・第一場、阿部知二訳)

ここのあたりからはじめてくれ、ええと──
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

ぼくのとても好きなせりふがあるんだ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

ほら、ほら!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Pier Paolo Pasolini

そう、そう、
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)

すばらしい始まりだ。
(ディラン・トマス『皮商売の冒険』北村太郎訳)

さあ、つづけてくれ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Dolores Haze

あなた、まえにも同じことをきいたわ。
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


  Pier Paolo Pasolini

おい、おい。
(シェイクスピア『『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)

きめられたセリフ以外は
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、大山俊一訳)

喋っちゃいかん。
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第五場、大山俊一訳)

さあ先をやってくれ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Dolores Haze

あたし、新しいセーターを森のなかでなくしちゃったの。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)


  Jeanne d'Arc

どうして?
(シェイクスピア『十二夜』第三幕・第一場、小津次郎訳)


  Dolores Haze

あたしってとてもだらしがないの。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Jeanne d'Arc

相手は誰?
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳、疑問符加筆=筆者)


  Dolores Haze

もう覚えてないわ。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)

相手が誰だったか知らないけど、
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

でもそれがどうしたの?
(ジョン・ダン『夜あけ』永川玲二訳)

あのセーターは純毛だったのよ。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)

で、あなたの方は?
(シェイクスピア『空騒ぎ』第五幕・第二場、福田恆存訳)

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Jeanne d'Arc

あたし?
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

そうねえ。わたし、
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

わたし、──いまはよくわからないのよ。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そこへ行けば
(ハイネ『森の寂漠』片山敏彦訳)

ああ、ああ・・・・・・
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)

ええと──
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Pier Paolo Pasolini

はなはだ多くの骨があり、
(エゼキエル書三七・二)


  Jeanne d'Arc

そう。
(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第四幕・第三場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

それはいたるところに在る。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

地面も見えないほどよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)


  Jeanne d'Arc

あの、地面から出てきたものは何でしょう。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Dolores Haze

そうよ。あそこ。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Jeanne d'Arc

おお、かわいそうに、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

あの頭蓋骨。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

あんた、どう?
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

わたしといっしょにこない?
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)


  Jeanne d'Arc

わたしにどうしろって言うの?
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)


  Dolores Haze

そこは土が深くないので、
(マタイによる福音書一三・五)

土でこれをおおうために、
(エゼキエル書二四・七)

土を盛り、土を盛って
(イザヤ書五七・一四)

これを踏みつけ、
(ダニエル書七・二三)

埋めましょう。
(アポリネール『サロメ』堀口大學訳)


  Jeanne d'Arc

もしよければ、そうしましょう。
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

でも、
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

あたしは森から帰れなくなるわ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)

おそろしいことだわ!
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第一場、毛利三彌訳)


  Pier Paolo Pasolini

これらの骨は、
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

すべて
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

土でこれをおおわなければならない。
(レビ記一七・一三)

土は
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳)

死者たちのものなのだ。
(シュトルム『海辺の墓』吉村博次訳)

骨は、
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

押し潰されることを欲している。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

さあ、
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

来て踏め、
(ヨエル書三・一三)

踏みはずすことなく、
(ヘブル人への手紙一二・一三)

踏みしだく者は幸いなるかな!
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第一章・序章、石川敬三訳)

Quidquid calcaverit hic,rosa fiat.
(研究社『羅和辞典』)

この者が踏みつけるものは何でもバラになれかし。
(研究社『羅和辞典』)


  Dolores Haze

しっ、
(シェイクスピア『空騒ぎ』第二幕・第一場、福田恆存訳)

黙って。
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

あれは梟、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

梟の声かしら、
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

鳴いているわ。
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆がきたよ、ほう。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第三場、小津次郎訳)


  King Lear

おい!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

お前たちはこの神聖な場所で何をしておる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお胸も張り裂けるような光景!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

何というむごいことを!
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第一場、大山俊一訳)

さあ言え。
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

娘たち、
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

なんと申す森だ、
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第一場、中野好夫訳)

この森は?
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

もう一度言うがよい。
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

もう一回!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

そのとおり。
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)

ここは
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

聖なる森
(ランボー『太陽と肉体』堀口大學訳)

聖なる地である。
(使徒行伝七・三三)

ここにもまた戦争があった。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

殺される者は多い。
(イザヤ書六六・一六)

だれも救う者はない。
(ホセア書五・一四)

これこそはまこと非道、絶無、残酷きわまる殺人だ。
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手足をしばって、
(マタイによる福音書二二・一三)

両眼をえぐり、
(士師記一六・二一)

鼻と耳とを切り落とし、
(エゼキエル書二三・二五)

その皮をはぎ、その骨を砕き、
(ミカ書二・三)

ことごとく殺し
(哀歌二・四)

ことごとく殺し
(マタイによる福音書二・一六)

ことごとく殺してしまった・・・・・・。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

あはあ、あはあ、われらの目はそれを見た。
(詩篇三五・二一、句点加筆=筆者)

おお何とおそろしい、おそろしい、おそろしい事だ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

殺される者はおびただしく、
(ナホム書三・三)

彼らの血はちりのように流され、
(ゼパニヤ書一・一七)

地はその上に流された血をあらわして、
(イザヤ書二六・二一)

かわくこともない。
(イザヤ書四九・一〇)

どこへ足を踏み入れても、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第一悲歌、浅井真男訳)

血がそこから流れでた。
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)

は!
(シェイクスピア『あらし』第五幕・第一場、福田恆存訳)

はっはっ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第三場、大山俊一訳)

この森にいつまでいるつもりだ?
(シェイクスピア『夏の夜の夢』第二幕・第一場、福田恆存訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

その足は土を踏まなかった。
(ダニエル書八・五)

彼らはやって来たときと同じように、去って行った。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

くつを脱ぎ
(イザヤ書二〇・二)

跪く
(メーリケ『恋びとに』富士川英郎訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

祈り
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

歩みも重く立ち去って行った。
(ヴェルフェル『幼な友達』神保光太郎訳)

だが、
(ゲーテ『訪ない』高橋健二訳)

娘たち、
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

お前たちはこの神聖な場所で何をしておる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

こうして足で踏まれ、
(イザヤ書二六・六)

足の裏の下にあって、
(マラキ書四・三)

これらの骨は、生き返ることができるのか。
(エゼキエル書三七・三)

バカバカしい!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

おやっ!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

おお、
(シェイクスピア『空騒ぎ』第四幕・第一場、福田恆存訳)

あれは何だ?
(シェイクスピア『あらし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

どうして、そんなことが。
(シェイクスピア『夏の夜の夢』第三幕・第二場、福田恆存訳)

いや、そんなことはありえない。
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

いや、いや、いや!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

おお!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第三場、大山俊一訳)

見よ、
(エゼキエル書三七・七)

骨と骨が集まって
(エゼキエル書三七・七)

みるみるうちに、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

その上に筋ができ、肉が生じ、
(エゼキエル書三七・八)

皮がこれをおおった。
(エゼキエル書三七・八、句点加筆=筆者)



バン!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳)



銃声一発!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)



  King Lear

伏せろ! 地面に伏せるんだ!
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)

戦争が始まった。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)



ダダダダダッ
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)



機銃掃射!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳、感嘆符加筆=筆者)



バン、バン、バン!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)



バン、バン、バン、バン!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)



  King Lear

戦争!
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

そこに向けるべき銃があり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)

発射すべき弾丸があり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)

殺されるべき人間がいる。
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳、句点加筆=筆者)

これらの者は
(ペテロの第二の手紙二・一二)

ほふられるために生れてきた、
(ペテロの第二の手紙二・一二)

見よ、
(ヨブ記五・二七)

われわれの尋ねきわめた所はこのとおりだ。
(ヨブ記五・二七)

この場所こそ呪わしいのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

戦争はやむことがない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

あはあ、あはあ、
(詩篇三五・二一)

見よ、流血。
(イザヤ書五・七)

見よ、叫び。
(イザヤ書五・七)

a swelling sound 高まっていく音
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

うなりをあげる砲弾、
(ポール・エリュアール『おれたちの死』大島博光訳)

突進する戦車の数々。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

さあ始めろ。
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、大山俊一訳)

ぶっ放せ。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第五場、小津次郎訳)

殺せ、殺せ、
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

皆、殺せ。
(サムエル記上一五・三)



  Jeanne d'Arc

ああ、神さま!
(ゲルハルト・ハウプトマン『沈んだ鐘』第四幕、秋山英夫訳)


  Dolores Haze

どうすればいいのかしら?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Pier Paolo Pasolini

戦争を停めるための一つの言葉が必ずやあるにちがいない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

でもどの言葉かしら?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Jeanne d'Arc

一語で?
(ボルヘス『パラケルススの薔薇』鼓直訳)


  Pier Paolo Pasolini

ああ、そうだとも、
(シェイクスピア『お気に召すまま』第二幕・第四場、阿部知二訳)


  Jeanne d'Arc

戦争をやめさせるもの、何かしら。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第一部・第四章、石一郎訳、句点加筆=筆者)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Dolores Haze

ああ、意味のない言葉よ!
(ポー『リジーア』富士川義之訳)


  Pier Paolo Pasolini

世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。
(コリント人への第一の手紙一四・一〇)


  Dolores Haze

けれどその言葉を知らない。
(トルストイ『陽はばら色の西に消えゆき』清水邦生訳)


ひゅう!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

頭上をかすめる弾丸のうなり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)


  King Lear

見よ、
(エゼキエル書一八・三)

殺害に殺害が続いている。
(ホセア書四・二)



バン!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳)



ダダダダダッ
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)



  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


取りちらかした地面には、
(ディラン・トマス『敵たち』北村太郎訳)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

こおろぎが鳴いていた。
(ディラン・トマス『敵たち』北村太郎訳)

こおろぎの骨、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第四場、大山敏子訳)

そのからだはそこなわれて、
(ダニエル書七・一一)

機関砲の砲弾を受けばらばらになっていた。
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  Dolores Haze

さあお出でなさい、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

こおろぎ、こおろぎ、こおろぎちゃん、
(サンド『愛の妖精』篠沢秀夫訳)

一しょに楽しい思いをしましょう。
(『グリム童話』収載『ならずもの』高橋健二訳、句点加筆=筆者)


  King Lear

このあばずれ!
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Pier Paolo Pasolini

しっ、静かに!
(エミリー・ブロンテ『幻想するひと』斎藤正二訳)

この老いぼれめ、
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第五幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

で、どこ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳、疑問符加筆=筆者)

どこにいるの?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳、疑問符加筆=筆者)

何もこわいことはないのだから安心して、
(プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳)

いたいた、
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳、読点加筆=筆者)

こんなとこに、いた!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Dolores Haze

オホホホ。
(シェイクスピア『十二夜』第三幕・第四場、小津次郎訳)

まあ、なんてかわいいこと。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

こんなに大きくなって!
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)


  Jeanne d'Arc

笑っているのかしらん?
(リルケ『愛と死の歌』石丸静雄訳)


  Dolores Haze

こおろぎは
(ダリーオ『シンフォニア灰色長調』荒井正道訳)

すべて
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

私のもの。
(ヴァレリー『セミラミスの歌』鈴木信太郎訳)

私のものよ。
(アンリ・ミショー『夜の中で』小海永二訳)

この足で踏みにじってやるわ。
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第七場、大山俊一訳)


  King Lear

おお!
(シェイクスピア『リア王』第二幕・第四幕、大山俊一訳)

こんなことをして、なにになるんだ。
(ダンテ『神曲』地獄篇・第二十一歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)

どうしてそれを隠しておくんだ。
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第三場、小津次郎訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

おかげで、あたしたちは、また森へやられるのよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第三幕・第二場、湯浅芳子訳、句点加筆=筆者)


  King Lear

こういったことすべてをどうやって忘れよう?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Pier Paolo Pasolini

こら老いぼれ!
(シェイクスピア『リア王』第二幕・第二場、大山俊一訳)

黙れ!
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第一幕・第二場、福田恆存訳)

静かにせい。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)

この老いぼれめ、
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第五幕・第一場、福田恆存訳)

あっちへ行け!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

あっちへ。
(シェイクスピア『お気に召すまま』第五幕・第一場、阿部知二訳)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆はいったい、いずこへまいった。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


  Pier Paolo Pasolini

あとで森のなかをさがすのがたいへんだ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)

・・・・・・さ、用意は出来たか?
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第四幕・第一場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

えっ!
(シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第五場、福田恆存訳)


  Pier Paolo Pasolini

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)


  Dolores Haze

いつまでやるつもり?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Jeanne d'Arc

まるで違うふたつの話を、いっしょくたにして、いったいどうなさりたいの?
(ハシント・ベナベンテ『美徳を裏切る人びと』第一幕、荒井正道訳)


  Pier Paolo Pasolini

まあ、そう言わずに、気を鎮めて。
(シェイクスピア『あらし』第一幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

あと一回でおしまいにしてくれない?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Pier Paolo Pasolini

わかった。わかった。
(ハシント・ベナベンテ『美徳を裏切る人びと』第二幕、荒井正道訳)

もう一度、これが最後だ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


________________________________________


Selve d'Amore



  Hans Giebenrath

どこへ行くのさ?
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


  Jeanne d'Arc

え?
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第一場、菅泰男訳)


  Hans Giebenrath

で、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

何を探しているの?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Dolores Haze

・・・・・・なにを捜してたんだっけ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Jeanne d'Arc

森の苺。
(ジュール・シュペルヴィエール『雲』嶋岡晨訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

森の木苺。
(ラディゲ『憤ったニンフ』江口清訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

森に實るたぐひない苺よ。
(ラディゲ『秋』川村克己訳、句点加筆=筆者)


  Hans Giebenrath

場所はどこか知ってるかい?
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)


  Dolores Haze

わからない。
(シェイクスピア『オセロウ』第二幕・第三場、菅泰男訳)


  Jeanne d'Arc

どこでそれを見つけたの?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Hans Giebenrath

suo loco.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

それ自身の場所に。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ひとつとして同じ場所にとどまっていない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

だったら早く見つけなきゃいけないわね。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)

あるところへ行く道を教える?教えない?
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第二場、湯浅芳子訳)


  Jeanne d'Arc

さあ、どうかお教えください、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第三場、大山敏子訳)


  Dolores Haze

つれてってちょうだい。
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第二場、小津次郎訳)


  Hans Giebenrath

じゃ、行こう。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第二場、大山敏子訳)

一緒においで。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第一場、大山俊一訳)

ぼくもいっしょに行く。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)


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Katyn



  Hans Giebenrath

見てごらん!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)

ハンカチだ!
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅泰男訳)

苺の刺繍をしたハンカチ、
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、菅泰男訳、読点加筆=筆者)

だが、待てよ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

なんだろう?
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

木の下に
(ヨブ記四〇・二一)

繁みのあいだに
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

隠れている。
(ヨブ記四〇・二一)

いた。
(ボブロフスキー『拒絶』神田芳夫訳)

これだ、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

それっどうだ、
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第四場、大山俊一訳)

つかまえたぞ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

見てごらん、
(ジョン・ダン『蚤』湯浅信之訳)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

こおろぎ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

虐殺された
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

ポーランド人将校、
(平凡社『東欧を知る事典』読点加筆=筆者)

だがこれは生きている。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

おまえは生き残りか?
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

ああ!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

あの頃の日が忘れられない。
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳、句点加筆=筆者)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

おまえはどこにもいるし、
(エーミー・ローエル『ライラック』上田保訳)

おまえはどこにもいた。
(エーミー・ローエル『ライラック』上田保訳)


  cricket

cri-cri

cri-cri


  Hans Giebenrath

そして
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第三場、大山敏子訳)

ぼくはここにはいないのだ。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)

ぼくはそこに留まったままなのだ。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

途中で、本当は何を探しているのか、忘れちゃったからじゃない?
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Hans Giebenrath

そうだとも。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

あのころ、ふるさとの森の中で
(ボブロフスキー『プルッセン悲歌』神田芳夫訳)

つぎつぎに姿を消していった
(フィッツジェラルド『カットグラスの鉢』飯島淳秀訳)

草葉のこおろぎ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

お前ではない、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第三悲歌、浅井真男訳)

長年のあいだ、お前を忘れていたが、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆=筆者)

お前ではない、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第三悲歌、浅井真男訳)

おまえはそこにおいで!
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第四幕・第三場、大山敏子訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Jeanne d'Arc

これがなんであるか、あなたに示しましょう。
(ゼカリヤ書一・九)

土くれと一緒に、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

それを地に投げなさい。
(出エジプト記四・三)

あなたのそれを。
(リルケ『鎮魂歌』石丸静雄訳、句点加筆=筆者)


  Hans Giebenrath

これは何としたことだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

別の森が
(ゴットフリート・ケラー『さよなら』堀内明訳)

現われた!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)


突如としてすぐ近くの/地中から森が一つ姿を現わしていた。
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

蟋蟀が
(グンナル・エーケレーフ『魂ノ不在』圓子修平訳)

黒い森になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)


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Selva Oscura



  Hans Giebenrath

ほれ、こうしてまた森の中で出あうことになったよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第二幕、湯浅芳子訳)

おまえを探して二度もここへきたんだ。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第二幕・第一場、毛利三彌訳)

さあ、おいで。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳)

茂った森へ、
(ゲーテ『あこがれ』高橋健二訳、読点加筆=筆者)

深い森の奥へ!
(ランボー『何がニナを引止める』堀口大學訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Hans Giebenrath

お前は神に会わなければならない。
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・一〇二ページ)


  Jeanne d'Arc

神に会うって?
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエット』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・一〇二ページ)


  Hans Giebenrath

ほら見てごらん!
(シュトルム『夕暮れ』吉村博次訳)

ぼくの手が
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)

なすところを、
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第四場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

どうしようというの?
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


  Hans Giebenrath

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)

折れ曲がれ!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

やめて!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Jeanne d'Arc

ああ、
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第七場、大山俊一訳)

かわいそうに!
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第二場、福田恆存訳)


  Hans Giebenrath

ごらん、
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、大山敏子訳)

なかはうつろさ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

なかみはからっぽだ。
(エリオット『うつろな男たち』高松雄一訳、句点加筆=筆者)

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Hans Giebenrath

これもまた空である。
(伝道の書五・一〇)

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Hans Giebenrath

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Jeanne d'Arc

もうやめて!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


  Hans Giebenrath

なかはうつろさ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

からっぽだ。
(シュトルム『深い影』吉村博次訳)

さあ、手をおだし。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書一〇・三一)

神さまの思し召しだ!
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第十三章、石川敬三訳)

これこそは最も切なる祈りなのだ!
(シュトルム『別れ』吉村博次訳)

手にあるそれは
(出エジプト記四・二)

お前のためにつくられたのだ。
(シュトルム『小夜曲』吉村博次訳)

二つに
(列王紀上三・二五)

へし
(エウジェーニオ・モンターレ『昼も夜も』河島英昭訳)

折るがいい。
(シュトルム『秋』吉村博次訳)


  Jeanne d'Arc

不思議だわ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

いったいこの中に何がはいっているのかしら。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あけて見ようかしら。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


すると、
(シェイクスピア『マクベス』第三幕・第三場、福田恆存訳)

蟋蟀が
(グンナル・エーケレーフ『魂の不在』圓子修平訳)

涙をぽろぽろこぼした。
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)


  Jeanne d'Arc

そこでわたしはそれを投げすてて逃げだした。
(マーク・トウェイン『イヴの日記』大久保博訳)


  Hans Giebenrath

待て、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

逃げてはいけない、
(シュトルム『時がうった』吉村博次訳)

おお!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

なんだ、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

どうしたのだ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第一場、大山俊一訳)

僕の靴
(ランボー『「居酒屋みどり」で』堀口大學訳)


(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

触れるやいなや、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

蟋蟀の
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

いままで細長かった形が丸く変わった。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)

そして
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

その頭には
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

こう、しるしてある。
(ルカによる福音書二四・四六)

I.N.R.I.
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum ユダヤ人の王、ナザレのイエス)
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』丸括弧加筆=筆者)

と、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)

そこで土くれを投げてみた。
(マーク・トウェイン『イヴの日記』大久保博訳)
















ピカッ
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第二十九章)
















ズズーン
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第十四章)
















光があった。
(創世記一・三)
















A mine exploded.地雷が爆発した。
(研究社『新英和大辞典』)

神はその光を見て、良しとされた。
(創世記一・四)

その響きは全地にあまねく
(詩篇一九・四)

ひびき渡る。
(エレミヤ書五一・五五)

a mine
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

地雷火が
(原民喜『貂』)

頁のうえに
(リルケ『読書する人』富士川英郎訳)

Flying sparks started another fire. 飛び火した。
(研究社『新和英中辞典』)

地を震わせ
(イザヤ書一四・一六)

地をくつがえす
(ヨブ記一二・一五)

大いなる光、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

神様が、
(インジェロー『一つの七倍−よろこび』古谷弘一訳)

森の上で、
(フランシス・ジャム『愛しています・・・・・・』手塚伸一訳)

美しい姿でみおろしている。
(カール・シャピロ『郷愁』三井ふたばこ訳、句点加筆=筆者)

地は再び新しくなり、
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

浄められ、
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

エデンの園のようになった。
(エゼキエル書三六・三五)


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Gethsemane



a passage through a wood 森の中の通路
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

a passage from the Bible 聖書の一節
(三省堂『新クラウン英和辞典』)


  Jesus Christ

わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
(マタイによる福音書二六・三九)

しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。
(マタイによる福音書二六・三九)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)


  Jesus Christ

わたしは死ぬべき運命をもった存在だったのだ。
(ディラン・トマス『わたしがノックし』松田幸雄訳)


  Jeanne d'Arc

伝説の森、
(ゲオルゲ『誘い』富士川英郎訳、読点加筆=筆者)

こおろぎがなく
(キーツ『秋に寄せるうた』出口泰生訳)

なつかしい
(ハイネ『セラフィーヌ』第三歌、片山敏彦訳)

ふるさとの森。
(ハンス・カロッサ『Stella mystica(神秘の星)』片山敏彦訳、句点加筆=筆者)

わたしはそこできいたのだった。
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)

声、
(シェリー『アドネース』上田和夫訳、読点加筆=筆者)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)

声、
(シェリー『アドネース』上田和夫訳、読点加筆=筆者)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)


(シェリー『アドネース』上田和夫訳)

を。
(キーツ『小夜啼鳥に寄せるうた』出口泰生訳)

そして私は子供だった。
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

子供だった。
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

ああ!
(シェリー『ナポリ近く失意のうちによめる歌』上田和夫訳)

なつかしい
(シェリー『アドネース』上田和夫訳)

故里の
(シュトルム『復活祭』吉村博次訳)

家。
(ル・クレジオ『オロール荘』佐藤領時・豊崎光一訳、句点加筆=筆者)

ああ、お父さん!
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

お父さんはどこ。
(ホセマリア・サンチェスシルバ『汚れなき悪戯』江崎桂子訳)

お母さんはどこにいるの?
(ゲルハルト・ハウプトマン『沈んだ鐘』第四幕、秋山英夫訳)

わたしの指環! わたしの指環!
(アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパールの幻想曲』及川茂訳)

刻まれた
(サンドバーグ『貨幣』安藤一郎訳)

しるし。
(創世記四・一五、句点加筆=筆者)

JESUS MARIA
(Georges Duby and Andree Duby,Les Proces de Jeanne d'Arc,Gallimard,Julliard,1973 )

JESUS MARIA
(Georges Duby and Andree Duby,Les Proces de Jeanne d'Arc,Gallimard,Julliard,1973 )


神が
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

ひかる姿をあらわす。
(ダンヌンツィオ『アルバの丘の夕ぐれ』岩崎純孝訳)

そして
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

神が話しかけてきた。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳)


  Jesus Christ

こんな森のなかでなにをしているんだ?
(モリエール『ドン・ジュアン』第三幕・第二景、鈴木力衛訳)

なぜ、
(ダンテ『神曲』地獄篇・第三十二歌、野上素一訳)

指環の印を
(レミ・ドゥ・グルモン『薔薇連祷』上田敏訳)

みつめてばかりいるのだ?
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第十九歌、野上素一訳、疑問符加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

主よ、あなたでしたか。
(マタイによる福音書一四・二八)

ああ、神様!
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱』第四幕、篠沢真理訳)

イエス様、
(アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパールの幻想曲』及川茂訳)

でも、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

もう誑かされぬ。
(ヴァンサン・ミュゼリ『白鳥』齋藤磯雄訳)

二度とふたたび。
(ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ』三保元訳)

わが神、わが神、
(マタイによる福音書二七・四六)

どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
(マタイによる福音書二七・四六、句点加筆=筆者)

あなたは私を棄てました。
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳)


  Jesus Christ

黙りなさい。
(士師記一八・一九)

あなたは神をののしってはならない。
(出エジプト記二二・二八)


  Jeanne d'Arc

わたしは知らなかった前途に何がまっているか!
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

火で焼かれ、
(エレミヤ書五一・三二)

火に包まれて燃えあがった
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしの肉体。
(マヌエル・デル・カブラル『負担』田村さと子訳、句点加筆=筆者)

わたしは
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

生きながら燒かれ、
(D・H・ロレンス『不死鳥』刈田元司訳)

生きたまま焼かれ、
(D・H・ロレンス『不死鳥』安藤一郎訳)

火に炙られながら
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

死んでしまった。
(オーガスタ・ウェブスター『種子』古谷弘一訳)


  Jesus Christ

知っている。
(シェイクスピア『リチャード三世』第一幕・第三場、福田恆存訳)

わかっている、
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第四場、大山俊一訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

あの日のことを思い出すか?
(ハンス・カロッサ『灰いろの時』片山敏彦訳)

あの日のことを。
(ハンス・カロッサ『灰いろの時』片山敏彦訳、句点加筆=筆者)


________________________________________


Bois Chesnu



  Jeanne d'Arc

あなたは近づいて、
(哀歌三・五七)

恐れることはない。
(マルコによる福音書五・三六)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

そして、
(ポール・クローデル『ローヌ河の歌』中村真一郎訳)

また、
(イェイツ『黒豚の谷』尾島庄太郎訳)

私はお前のくるのを待っていた、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第十五歌、野上素一訳)

わたしは
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

キリストである。
(マタイによる福音書二三・一〇)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

そこで
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

わたしは
(ポー『盗まれた手紙』富士川義之訳)

どうしてわかるの?
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

言いました。
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)


  Jesus Christ

わたしを見るのだ。
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、句点加筆=筆者)


ほんの一瞬のことであった。
(リスペクトール『家族の絆』貴重品、深沢暁訳)

目の前でイエスの姿が変り、
(マタイによる福音書一七・二)

ハンカチ
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)

となった。
(ポー『黒猫』富士川義之訳)

すると、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

ほんの一瞬の間に、
(リスペクトール『家族の絆』貴重品、深沢暁訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

また現われた!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)


  Jesus Christ

あなたは備えをなせ。
(エゼキエル書三八・七)

馬に乗れ。
(エレミヤ書四六・四)

あなたとあなたの所に集まった軍隊は、みな備えをなせ。
(エゼキエル書三八・七)

かぶとをかぶって立て。
(エレミヤ書四六・四)

そしてあなたは彼らの保護者となれ。
(エゼキエル書三八・七)

ほこをみがき、よろいを着よ。
(エレミヤ書四六・四)


  Jeanne d'Arc

その時、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

答えて言いました、
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

わたしはこれらのものを着けていくことはできません。
(サムエル記上一七・四〇)

慣れていないからです。
(サムエル記上一七・四〇)

と。
(リスペクトール『家族の絆』愛、高橋都彦訳)

すると、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

あなたは
(サムエル記上二一・一)

微笑みながら
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・八五ページ)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

さあ、行きなさい。
(使徒行伝九・一五)

恐れることはない。
(マルコによる福音書五・三六)

わたしがあなたを助ける。
(イザヤ書四一・一三)

わたしの言うことを信じなさい。
(ヨハネによる福音書四・二一)

わたしはあなたとともにいる。
(イザヤ書四一・一〇)

と。
(リスペクトール『家族の絆』愛、高橋都彦訳)


  Jesus Christ

それは偽りではない。
(ハバクク書二・三)

わたしはあなたといた。
(ハンス・カロッサ『Stella mystica(神秘の星)』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

けれども
(エミリ・ディキンスン『大聲でたたかうのは』刈田元司訳)

神は戦争の中には存在しないのですね。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第一幕・第四場、毛利三彌訳)

世界は絶えまなく戦争に見まわれ、戦争の恐怖におびえているというのに、
(エリオット『寺院の殺人』幕間劇、福田恆存訳)


  Jesus Christ

神はいつもいた!
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)


  Jeanne d'Arc

そう、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

そしてわたしは
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

私の体は焼かれた、
(ベルナール・B・ダディエ『神よ、ありがとうございます』登坂雅志訳)


  Jesus Christ

私はあなたを殺さなければならなかった。
(シルヴィア・プラス『お父さん』徳永暢三訳)

あなたを焼き、
(エゼキエル書二八・一八)

焼き浄めて新しくする
(ミルトン『失楽園』第十一巻、平井正穂訳)

ために。
(フランツ・ヴェルフェル『酒席の歌』淺井眞男訳)

火のあとに残るもの、
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

それは
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

私の心臓!
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第二場、大山敏子訳)

さあ、
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第五場、福田恆存訳)

神に返すのだ。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳、句点加筆=筆者)

その心臓を、
(ジュール・シュペルヴィエール『壁のない世界』嶋岡晨訳、読点加筆=筆者)

私の熱した心臓を。
(ヘッセ『十月』尾崎喜八訳、句点加筆=筆者)


キリストは
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

娘の
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

胸の中に
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手をそっとさし入れ、
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、読点加筆=筆者)

心臓を
(トラークル『デプロフンディス』瀧田夏樹訳)

引き抜いた。
(セーサル・バジェッホ『九匹の怪物』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)

キリストの
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

手のなかには、
(アルフレト・モムベルト『夜更にわたしは山の背を越えた』淺井眞男訳)

燃えなかった
(アンドレ・デュ・ブーシェ『はためく』小島俊明訳)

心臓がある。
(サンドバーグ『シカゴ』福田陸太郎訳、句点加筆=筆者)

キリストの
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

燃えなかった
(アンドレ・デュ・ブーシェ『はためく』小島俊明訳)

心臓がある。
(サンドバーグ『シカゴ』福田陸太郎訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

──どこに置き忘れたのかしら、
(ラディゲ『福引』川村克己訳)

みせしめの
(アポリネール『花のはだか』堀口大學訳)

私の心臓。
(エリオット『聖灰水曜日』大澤實訳、句点加筆=筆者)


  Jesus Christ

あなたは
(サムエル記上一七・四〇)

死ぬことはない。
(レオポルド・セダール・サンゴール『火の歌(バントゥー人の歌)』登坂雅志訳)

母なるおんみ
(ハンス・カロッサ『不安な夜の後に』片山敏彦訳)

母なるおんみ
(ハンス・カロッサ『不安な夜の後に』片山敏彦訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)


  Jeanne d'Arc

私のこと?
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第三幕、篠沢真理訳)


  Jesus Christ

我が身は/御身の息子にして、
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

御身はマリヤに在せば、
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

私の母。
(カヌク『イスタンブールのうた』峯俊夫訳、句点加筆=筆者)

キリストを
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳)

産む
(ルカによる福音書一・三一)

母マリヤであった。
(ルカによる福音書二四・一〇)

神である
(ヨハネによる福音書八・四一)

わたしは、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

すでにいくたびとなく
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳)

生まれかわってきたものである。
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳、句点加筆=筆者)

いっさいのありとあらゆるものを見てきている。
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳、句点加筆=筆者)

あなたは美しい。
(雅歌四・一)

そのからだに触れ、くちづけをし、ともに寝ようという欲望を感じる。
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしを
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

みごもって
(ルカによる福音書一・三一)

わたしを
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

産むがよい、
(ゴットフリート・ベン『コカイン』生野幸吉訳)


  Jeanne d'Arc

今、この瞬間、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

お言葉どおりの身に成りますように。
(ルカによる福音書一・三八)


二人は森の奥深く分け入った。
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)


________________________________________


Nageki no Mori



  Pier Paolo Pasolini

フィナーレだ!
(ゴットフリート・ベン『舞踏会』生野幸吉訳)

なげきの森
(『古今和歌集』巻第十九・安倍清行朝臣女さぬきの「題しらず」の歌)


(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

梟が
(アポリネール『エレジイ』窪田般彌訳)

塒(ねぐら)
(張均『岳陽晩景』阿部正次郎訳)


(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第二幕・第二場、大山敏子訳)

雛を
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

間引く
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳)

たび
(ハンス・カロッサ『老いたる魔術師』片山敏彦訳)

森は
(シュトルム『森のなか』吉村博次訳)

だんだん
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)

暗くなる。
(ロビンスン・ジェファーズ『海豚』外山定男訳)

暗くなる。
(ロビンスン・ジェファーズ『海豚』外山定男訳)


森から森へ
(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)

暗い森の奥深く
(キーツ『ロビン・フッド』出口泰生訳)

森の中を歩いていると、
(キーツ『サイキに寄せるうた』出口泰生訳)

閉じている門の前に着いた。
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

すぐそばに/赤い木苺や野薔薇の花が咲いてゐた。
(フランシス・ジャム『お前の貧しさは知つてゐる・・・・・・』室井庸一訳)

背後にある
(ジョアオン・カブラル・ジ・メロ・ネト『アスピリンに捧げる碑文』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

教会が
(ヨルゲンセン『ラジオ』山室静訳)

芝生の
(エミリ・ディキンスン『豫感』刈田元司訳)

真ん中にある
(ヘッセ『車輪の下に』秋山六郎兵衛訳)

an instrument screen 百葉箱
(小学館『英語図詳大辞典』)

のように
(ポール・クローデル『ローヌ河の歌』中村真一郎訳)

建っていた。
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

barbed wire 有刺鉄線
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

barbed words とげのある言葉
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

はり巡らされた二重の鉄条網、
(宮田光雄『アウシュヴィッツで考えたこと』読点加筆=筆者)

有刺鉄線の囲いに
(ロバート・ロウエル『北軍戦死者のために』金関寿夫訳)

二二〇ボルトの三相電流。
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』句点加筆=筆者)

これは触れるものことごとくを真黒にする。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第一部・第二幕・第四場、中野好夫訳)


(エドウィン・ミュア『城』大澤實訳)

の上に
(マタイによる福音書二・九)

鋼の
(ズビグニェフ・ヘルベルト『戦争』工藤幸雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

あらわれる。
(ロルカ『月がのぞく』野々山ミチコ訳)


  Jeanne d'Arc

LASCIATE OGNI SPERANZA,VOI CH,ENTRATE
(Dante Alighieri,"La Divina Commedia"Inferno III 9,La Nuova Italia,Firenze,1973,p.30.)

汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ。
(ダンテ『神曲』地獄篇・第三歌、山川丙三郎訳、句点加筆=筆者)


まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

鋼の
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

消えうせる。
(バイロン『マンフレッド』第一幕・第一場、小川和夫訳)

現われる。
(ウォレ・ショインカ『私はわが身を清める(断食の十日目)』登坂雅志訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

ARBEIT MACHT FREI
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』)

労働は自由への道。
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』句点加筆=筆者)


まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

鋼の
(ズビグニェフ・ヘルベルト『戦争』工藤幸雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

また消える、
(ロバート・フロスト『林檎もぎのあと』安藤一郎訳)

また現われる。
(オクタビオ・パス『白』鼓直訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

This is none other than the house of God
(GENESIS 28.17)

これは神の家である。
(創世記二八・一七)

ああなんという静けさ!
(シェリー『ジェーンに−思い出』上田和夫訳)

今こそ、汝の新しき主を迎えよ!
(ミルトン『失楽園』第一巻、平井正穂訳)


音もなく
(ハンス・カロッサ『猫に贈る詩』片山敏彦訳)

戸は内側へ開かれた──
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

祈りのことばを口ずさみながら
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

わたしは十字をきった・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

中へ入って見ると、
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

一人の司祭がいた。
(フィッツジェラルド『罪の赦し』飯島淳秀訳)


彼はいま祈っている。
(使徒行伝九・一一)

司祭は身を起こした。
(カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)


  Maximilian Kolbe

あなたはどこから来たか。
(ヨブ記二・二)


  Jeanne d'Arc

わたしは戦場からきたものです。
(サムエル記上四・一六)

きょう戦場からのがれたのです。
(サムエル記上四・一六)


  Maximilian Kolbe

この神聖な場所に、なんの用があるんでしょう?
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

穏やかな事のためにこられたのですか。
(サムエル記上一五・四)


  Jeanne d'Arc

穏やかな事のためです。
(サムエル記上一五・五)


  Maximilian Kolbe

神を探しているのですか?
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  Jeanne d'Arc

イエス。
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳、句点加筆=筆者)

それで神は?
(D・H・ロレンス『肉体のない神』安藤一郎訳)

神様はどこ?
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Maximilian Kolbe

おられます。ごらんなさい、この先です。
(サムエル記上九・一二)

それ、そこに、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第三場、大山敏子訳)

すぐそばに。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第一場、菅泰男訳)


見ると、
(ヨハネの黙示録一六・一三)

鳥籠の
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)

前に
(ゲーテ『歌びと』高橋健二訳)

神がいた。
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・八六ページ)


  Maximilian Kolbe

祈るがよい。
(ヤコブの手紙五・一三)

神が
(アポリネール『地帯』堀口大學訳)

新雛(にいびな)を
(エミリー・ブロンテ『わが思うひとの墓』斎藤正二訳)

おしつぶすために
(パスカル『パンセ』第六章、前田陽一・由木康訳)

土くれのように
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

踏みつけておられる。
(ジョン・ダン『冠』湯浅信之訳)


  Jeanne d'Arc

いいえ、
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)

神父さま、
(フィッツジェラルド『罪の赦し』飯島淳秀訳)

それは
(ホーフマンスタール『体験』富士川英郎訳)

あなたの神、
(出エジプト記二〇・一二)

あなたのもの。
(詩篇七四・一六)

私の
(トルストイ『ドン・ジュアン』第二部、柴田治三郎訳)

神ではありません。
(エレミヤ書一六・二〇)

わたしはこれを受けいれない。
(アモス書五・二二)


  Maximilian Kolbe

子よ、
(創世記一七・八)

なげき悲しむがいい!
(シェリー『哀歌』上田和夫訳)

その心臓の奥の奥まで
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

嘆きの声で
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

すっかり満たされるのだ、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
(ヘブル人への手紙九・二二)

神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
(ヨブ記三六・一五)

これをみ心にとめられる。
(詩篇八・四、句点加筆=筆者)

苦痛こそなくてはならないものだ。
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳、句点加筆=筆者)

わたしたちは
(ホーフマンスタール『無常の歌』富士川英郎訳)

その苦しみをよろこんでわが身にひきうけなければならないのだ。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

Accipe hoc.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

これを受けよ。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

この苦痛という
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳)

神の
(伝道の書七・一三)

賜物
(詩篇一二七・三)

を。
(リルケ『読書する人』富士川英郎訳、句点加筆=筆者)

いやいや、
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

何事も神から出たこと。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Jeanne d'Arc

ほら!
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)

茂った森から
(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)

コオロギのすだくのが聞こえるでしょう。
(ゲルハルト・ハウプトマン『ソアーナの異端者』秋山英夫訳)

こおろぎが
(エミリ・ディキンスン『こおろぎが歌い』刈田元司訳)

鳴いている。
(イェイツ『道化帽子』尾島庄太郎訳)

こおろぎが
(エミリ・ディキンスン『こおろぎが歌い』刈田元司訳)

鳴いているわ。
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

きっと恐ろしいことが起る。
(ワイルド『サロメ』西村孝次訳)


  Maximilian Kolbe

空つぽの巣で
(イェイツ『塔』大澤實訳)

雛は生まれる。
(チャールズ・オルソン『かわせみ』出淵博訳、句点加筆=筆者)

私は
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

それを取って
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

ひなを集める。
(マタイによる福音書二三・三七、句点加筆=筆者)

押しつぶされ
(トム・ガン『へだたり』中川敏訳)

砕かれた骨、
(パブロ・ネルーダ『独裁者』桑名一博訳、読点加筆=筆者)

骨と骨、
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳、読点加筆=筆者)

この森いちめんに
(エズラ・パウンド『春』新倉俊一訳)

骨の山
(ジョアオン・カブラル・ジ・メロ・ネト『ペルナンブコの墓地(「トリタマ」)』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

どうしてこんなに夥しいのか?
(ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳)

あれは兵隊だ。
(レイモン・クノー『不幸な人たち』三輪秀彦訳、句点加筆=筆者)

この森は
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)

戦争をひたすら求める。
(サンドバーグ『闘争』安藤一郎訳)

ここは神がわれわれに与え給うた世界だ。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳、句点加筆=筆者)

拷問にかけられ、
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳、読点加筆=筆者)

虐殺された
(ヴェルレーヌ『パリの夜』堀口大學訳)

おびただしい
(ロバート・フロスト『林檎もぎのあと』安藤一郎訳)

戰士たちの古い骨、
(エドウィン・アーリントン・ロビンスン『暗い丘』福田陸太郎訳、読点加筆=筆者)

ひと足ごとに
(クワジーモド『帰郷』河島英昭訳)

ばらばらに
(ゴットフリート・ベン『墓場を越えて』生野幸吉訳)

砕かれた
(パブロ・ネルーダ『独裁者』桑名一博訳)

こおろぎの
(エリオット『荒地』大澤實訳)

骨、
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、読点加筆=筆者)

骨、
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、読点加筆=筆者)

骨。
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、句点加筆=筆者)

神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
(ヨブ記三六・一五)

これをみ心にとめられる。
(詩篇八・四、句点加筆=筆者)

苦痛こそなくてはならないものだ。
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳、句点加筆=筆者)

わたしたちは
(ホーフマンスタール『無常の歌』富士川英郎訳)

その苦しみをよろこんでわが身にひきうけなければならないのだ。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

この苦痛という
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳)

神の
(伝道の書七・一三)

賜物。
(詩篇一二七・三、句点加筆=筆者)

いやいや、
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

何事も神から出たこと。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

神である。
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)


  Jeanne d'Arc

そんなものは、瞬き一つで消すことができる。
(ジョン・ダン『日の出』湯浅信之訳)


  Maximilian Kolbe

神を試みるのか。
(使徒行伝一五・一〇)


  Jeanne d'Arc

神様を試すことにはならないわ。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第一場、毛利三彌訳)


  Maximilian Kolbe

神を試みてはならない。
(マタイによる福音書四・七、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

ほら!
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)

消えてしまった。
(アイヒ『罌粟』坂上泰助訳)


神の
(ゲゼレ『ヘリオトロープ(向日性の花)』朝倉純孝訳)

姿はなかった。
(ポー『ウィリアム・ウィルソン』富士川義之訳)


  Maximilian Kolbe

何?
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)

何を?
(コクトー『ピカソに捧げるオード』堀口大學訳)

何をしたって?
(コクトー『ピカソに捧げるオード』堀口大學訳)

あなたがしたことを、わたしに言いなさい。
(サムエル記上一四・四三)


  Jeanne d'Arc

わたしは神の御声に従うのです。
(モリエール『ドン・ジュアン』第五幕・第三景、鈴木力衛訳)


  Maximilian Kolbe

あなたの手にあるそれは何か。
(出エジプト記四・二)

それをここに持ってきなさい。
(マタイによる福音書一四・一八)


  Jeanne d'Arc

This is mine.
(Tony Randel 監督の "HELLBOUND HELLRAISER II"に出てくる Juria役の Clare Higginsのセリフ)


  Maximilian Kolbe

Is it yours?
(三省堂『新クラウン英和辞典』)


  Jeanne d'Arc

Yes,certainly.
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷。
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

これこそ神であり、
(詩篇四八・一四)

わたしを踏みつける者を
(詩篇五七・三)

ことごとく滅ぼし、
(詩篇一〇一・八)

またたくまに滅ぼされたのだ。
(哀歌四・六)

そして
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第八悲歌、浅井真男訳)

すべてのものを
(ヨハネの黙示録二一・五)

新たにされる。
(詩篇一〇四・三〇)

あらゆるものは再び作られる、
(ポール・クローデル『金の歌』中村真一郎訳)


  Maximilian Kolbe

それをさして誓ってはならない。
(ヨシュア記二三・七)

またそれに仕え、それを拝んではならない。
(ヨシュア記二三・七)


  Jeanne d'Arc

わたしはこれが全身と、その著しい力と、/その美しい構造について/黙っていることはできない。
(ヨブ記四一・一二)


(テッド・ヒューズ『カマス』田村英之助訳)

でできた
(ゲオルク・ブリッティング『追剥騎士』淺井眞男訳)

わたしの心臓、
(エレミヤ書四・一九、読点加筆=筆者)

わたしの
(エレミヤ書四・一九)

地雷、
(チャールズ・オルソン『ヨーロッパの死』出淵博訳、読点加筆=筆者)

炎のなかで鋳られ、完成された神。
(ジェフリー・ヒル『小黙示録』富士川義之訳、句点加筆=筆者)

外側は美しく
(マタイによる福音書二三・二七)

内側は
(マタイによる福音書二三・二七)

きらきら光る精密な仕掛け、
(カミュ『異邦人』第二部、窪田啓作訳、読点加筆=筆者)

いろいろの器械が
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そつくりはいつている。
(アルフレト・モムベルト『夜更にわたしは山の背を越えた』淺井眞男訳)

抱え
(レオポルド・セダール・サンゴール『シニャールに捧げる歌(カーラムのために)』登坂雅志訳)

持っている
(ヴェルレーヌ『汽車の窓から』堀口大學訳)

わたしにとって、
(サムエル記下一・二六)

これはおそろしく重いわ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


それには、
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)

イエス・キリストの
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

I.N.R.I.
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

(Iesus Nazarenus,Rex Indaeorum ユダヤ人の王、ナザレのイエス)
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』丸括弧加筆=筆者)

という名が
(ヨハネの黙示録一九・一六)

しるされていた。
(ヨハネの黙示録一九・一六)


  Maximilian Kolbe

キリストは、いくつにも分けられたのか。
(コリント人への第一の手紙一・一三)


  Jeanne d'Arc

御覧なさい、わたくしを。
(バイロン『マンフレッド』第三幕・第一場、小川和夫訳)


そこで、
(テモテへの第二の手紙二・一)

彼女は
(ヨハネの黙示録一八・八)

ハンカチの端をつまんでひっぱりだし、ひろげて見せた。
(ジョイス『ユリシーズ』1・テーレマコス、高松雄一訳)

ありありと
(ランボー『音楽につれて』堀口大學訳)

浮かびあがる
(ダンヌンツィオ『アルバの丘の夕ぐれ』岩崎純孝訳)

白百合、
(レミ・ドゥ・グルモン『むかしの花』上田敏訳)

乙女の騎士、
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第十三章、石川敬三訳)


  Maximilian Kolbe

とてもはっきり見える。
(ラールス・グスタフソン『哲学者たちの対話』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)

燃えている!
(ハンス・カロッサ『蝶に』片山敏彦訳)

火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
(ユダの手紙七)

とてもはっきり見える。
(ラールス・グスタフソン『哲学者たちの対話』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

あれはわたしなのよ──
(アンナ・アンドレーヴナ・アフマートワ『ヒーローのいない叙事詩』江川卓訳)


  people

殺せ!
(ヴェルレーヌ『詩法』堀口大學訳)

殺せ、殺せ、
(ヨハネによる福音書一九・一五)

早く殺せ。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

殺してしまえ!
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  Pierre Cauchon

異教徒よ!
(エリオット『荒地』大澤實訳、感嘆符加筆=筆者)

異端のものよ!
(ゲオルク・トラークル『眠り』高本研一訳)

女は男の着物を着てはいけない。
(申命記二二・五)


  Jeanne d'Arc

なぜそんなことをおっしゃいますの?
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
(申命記二二・五)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

罪を白状しろ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

異端糺問官は
(ズビグニェフ・ヘルベルト『マーギェル』工藤幸雄訳)

わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
(詩篇三五・一一)


  Pierre Cauchon

黙れ、静かにするんだ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

焼き場はすでに設けられた。
(イザヤ書三〇・三三)

多くのたきぎが積まれてある。
(イザヤ書三〇・三三)

haeretico comburendo.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

異端者は燒かれるべき。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

火炙りの刑に値する。
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)


  Judges

異議なし、異議なし、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Pierre Cauchon

さあ、これを殺してしまおう。
(マルコによる福音書一二・七)

宣告はくだされたのだ。
(バイロン『マンフレッド』第一幕・第一場、小川和夫訳、句点加筆=筆者)

神聖な焔で貴様を焼いてやろう。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

死ぬがよい!
(ゴットフリート・ベン『急行列車』生野幸吉訳)

火を持ってこい。
(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第三幕・第三場、中野好夫訳)

火を放て。
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

火を放て、
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、読点加筆=筆者)

小鳥を飛ばせてやれ、
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


その汗布がしめされているあいだじゅう、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十一歌、野上素一訳)

燃えていく火の
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

匂いがした。
(アレン・テイト『魂の四季』成田成壽訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、
(ヨブ記三〇・三〇)

わたしの骨は熱さによって燃え、
(ヨブ記三〇・三〇)

火の燃えくさとなって焼かれる。
(イザヤ書九・五)

私はいま燃えているのだ。
(リルケ『来るがいい最後の苦痛よ』富士川英郎訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

あなたが見える。
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳、句点加筆=筆者)

あの日のあなたが見える。
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳、句点加筆=筆者)


教会の外、
(リスペクトール『家族の絆』水牛、林田雅至訳、読点加筆=筆者)

森では
(エリオット『寺院の殺人』第二部、福田恆存訳)


(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

が、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)

生まれる
(パブロ・ネルーダ『呪い』田村さと子訳)

雛を
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

間引きする。
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳、句点加筆=筆者)

神の姿が
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

現われた。
(イェイツ『クフーリンの死』尾島庄太郎訳)

神の
(レオポルド・セダール・サンゴール『春の歌』登坂雅志訳)

足が
(エウジェーニオ・モンターレ『ヒットラーの春』河島英昭訳)

土くれのように
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』湯浅信之訳)

ひな鳥を
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

踏みつぶす。
(ゴットフリート・ベン『われらは芥子の野に・・・・・・』生野幸吉訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

見よ、ここにキリストがいる。
(マタイによる福音書二四・二三)

わたしたちの主イエス・キリストである。
(ローマ人への手紙一・四)

そしてまた
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第五場、福田恆存訳)

あなたの神
(ルツ記一・一六)


(コリント人への第一の手紙一〇・一七)

わたしの神、
(ルツ記一・一六、読点加筆=筆者)

イエス・キリストである。
(ローマ人への手紙一・四)


  Jeanne d'Arc

さあ、その雛をちょうだい。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

お前は何を呉れる?
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

神の御足の下で
(レオポルド・セダール・サンゴール『春の歌』登坂雅志訳)

苦しみを。
(マックス・ジャコブ『瞑想』齋藤磯雄訳)


  Maximilian Kolbe

そなたの両手は祝福されている。
(リルケ『告知』石丸静雄訳、句点加筆=筆者)

わたしはそれをあなたの手にわたす。
(士師記七・九)

受取るがいい、
(リルケ『オルフォイスのソネット』高安國世訳)

Est tuum.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

それは汝のものなり。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

われわれを造った神は一つ。
(マラキ書二・一〇)

わたしの神
(ルツ記一・一六)


(シェイクスピア『マクベス』第三幕・第一場、福田恆存訳)

あなたの神は
(ルツ記一・一六)

一体である。
(マタイによる福音書一九・六)

これらはわたしの手で一つとなる。
(エゼキエル書三七・一九)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆がきたよ、ほう。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第三場、小津次郎訳)


死んだ
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

ひな鳥を
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

ひとまたぎ、
(ヴェルレーヌ『コロンビーヌ』堀口大學訳)

ひとりの男、登場する。
(ゴットフリート・ベン『肉』生野幸吉訳)


  King Lear

みんな死ぬのじゃ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

触るな、阿呆!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第四幕・第二場、福田恆存訳)

それに触わるな!
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)
















ピカッ
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第二十九章)
















ズズーン
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第十四章)














________________________________________


Ararat



  Hans Giebenrath

踏む者もなくなった
(エレミヤ書四八・三三)

僕の踏みつけられた靴、
(ジョン・ダン『香水』湯浅信之訳、読点加筆=筆者)

森のなかに、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

あの靴が
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

いつまでも残っているにちがいない。
(ボルヘス『一九八三年三月二十五日』鼓直訳)


  Dolores Haze

その靴をはかせてやるといいわ。
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳、句点加筆=筆者)

あの森の中で
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

虐殺された
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

歩兵の
(イザヤ書九・五)

足が
(エレミヤ書二・二五)

はだしにならないように。
(エレミヤ書二・二五、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

聖なるこの静けさ!
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)


  toad

ゲゲ
(草野心平『月夜』)

ゲゲ
(草野心平『月夜』)


蛙が鳴きだす。
(エズラ・パウンド『詩篇』第二篇、新倉俊一訳)


  Hans Giebenrath

なんだこいつ跛じゃないか。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Jeanne d'Arc

雨かしら。
(レオン・ポール・ファルグ『かはたれ』山内義雄訳)


  Dolores Haze

雨がふるのかしら?
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』高杉一郎訳)


  Pier Paolo Pasolini

いづれは雨だ。
(フランシス・ジャム『お前も退屈してゐやう』室井庸一訳)


  toad

ゲゲ
(草野心平『月夜』)

ゲゲ
(草野心平『月夜』)


  King Lear

生きているのは蛙だけか?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳、疑問符加筆=筆者)

死なないのは蛙だけなのか?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)


  Hans Giebenrath

びっこひきひき、雨の中か!
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第一部・第三幕・第一場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

それ、ひき蛙、
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第一場、福田恆存訳)

雨を降らせよ。
(『ブッダのことば−スッタニパータ−』第一蛇の章二ダニヤ、中村元訳)


  King Lear

さあ、そろそろ森から離れるときがきた、
(ダンテ『神曲』地獄篇・第十四歌、野上素一訳)


  Pierre Cauchon

ここから出て行けば、この世で再び一同が逢うことは決してないだろう。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  Jesus Christ

それもよい。
(エミリー・ブロンテ『わが思うひとの墓』斎藤正二訳)


  Dolores Haze

あたしたちのあとにくるのは大洪水よ、あとはどうともなれ、よ、
(ゴットフリート・ベン『掻爬』生野幸吉訳)


  Jeanne d'Arc

After me the deluge!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

後は野となれ山となれ!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)


  All the Players

After us the deluge!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

後は野となれ山となれ!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)


  Pier Paolo Pasolini

カット、
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳、読点加筆=筆者)

カット。
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳、句点加筆=筆者)

すばらしい!
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳、感嘆符加筆=筆者)

すばらしい!
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳、感嘆符加筆=筆者)


  Dolores Haze

それでおはなしはおしまい?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Pier Paolo Pasolini

やりなおしだ。
(コクトー『傷ついた祈り』堀口大學訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)

das ist eure Pflicht;
(Goethe"Faust"Zweiter Teil,l.11665,C.H.Beck,Munchen,1991,p.351.)

それがお前たちの勤めなのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


四月になると

  田中宏輔



順番がきて
名前を呼ばれて立ちあがったけれど
なんて言えばいいのか、なにを言えばいいのか
わからなくって、ぼくはだまったまま
(だまったまま)うつむいて立っていた。

しばらくすると
後ろから突っつかれた。
突っつかれたぼくの身体は傾いて
一瞬、倒れそうになったのだけれど
身体を石のように硬くして(かた、くして)
傾き(かたむき)ながらも立っていた。

(教室の隅にある清掃用具入れの
  ロッカー、そのなかのホーキも傾いているよ。)

先生が、すわりなさいとおっしゃった。

後ろの席の子が立ちあがった。

ぼくは机のなかに手を入れて
音がしないように用心しながら
きょう、配られたばかりの教科書を
一ページずつ繰っていった。
見えない教科書を
繰っていった。

……級友たちの声が遠ざかってゆく
遠ざかってゆく、遠くからの、遠い声がして、
ぼくは窓の外に目をやった。

だれもいない(しずかな)校庭の
端にある鉄棒に(きらきらと)輝く
一枚の白いタオルがぶら下がっていた。

ぼくのじゃなかったけれど
あとでとりに行こうと
(ひそかに)思いながら
見えない教科書を繰っていった。

だれかが
下敷きに光をあてて
天井にいたずらし出した。

ひとりがはじめると
何人かが、すぐに真似をした。

天井に
いくつもの光が
踊っていた。

ぼくは、教科書を逆さに繰っていった。

光が踊るのをやめた。

ぼくの列が最後だった。

先生が出席簿を持って
出て行かれた。

新学年、新学期
はじめてのホームルーム。

春の一日。

まひるに近い
近い時間だった。


いますこし、あなたの木陰に

  田中宏輔




いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください

かつて
あなたから遠く
遠くはなれていったわたしを
あなたの幹にもたげさせてください

あの日は
春の陽の光が
とてもやさしくあたたかでした
わたしはひとり巣をはなれました

見知らぬところへ
風がみちびくままに
ふたつのつばさをひろげ
わたしは飛んでゆきました。

いごこちよければとどまって
あきたころになればまた飛んでゆきました
ずいぶん遠くに飛んでゆきました
ずいぶんあなたからはなれてしまいました

そうこうしているうちに
わたしのつばさは病におかされました
りょうのつばさはばたかせて
遠くにまで飛べないようになったのです

そんなある日、わたり鳥の群れが
わたしのうえをとおりすぎてゆきました
それがあなたのうえをとおることを願って
わたしは群れのなかに飛びこみました

群れのうしろにつけば
遠い道のりを飛ぶことができるのです
それは遠く、遠く
はるかに遠い道のりを飛んでゆきました

何日も何日も飛びました
そのあいだもはねがぬけてゆきました
どんどんどんどんぬけてゆきました
目もすこうし見えなくなってゆきました

そうして、とうとう
ちからつきて落ちてしまったのです
ところがそこはあなたの枝のうえ
あなたの腕に抱きとめられたのです

あやまちをくりかえしくりかえし
わたしは生きてきました
もう二度とあなたのもとをはなれません
はなれることなどできないでしょう

つばさやぶれるまえに
病にやぶれるまえに
わたしはもどってくるべきでした
あなたのもとにもどってくるべきでした

いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください

いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください


             ─父に─


カラカラ帝。

  田中宏輔




●K、のようにOを●にしてみる。

B●●K
D●G
G●D
B●Y
C●●K
L●●K
T●UCH
G●●D
J●Y
C●●L
●UT
S●UL
Z●●
T●Y

1●●+1●●=2●●●●
3●●●●−1●●=2●●

なんていうのも、きれいかも。

まだまだできそうだね、かわいいのが。

L●VE
L●NG
H●T
N●
S●METHING
W●RST
B●X

文章でも、きれいかも。
R●BERT SILVERBERG の S●N ●F MAN から
ただし、全部、大文字にするね、そのほうがきれいだから、笑。(作者名とタイトルも、笑)
1●8ページから

CLAY G●ES IN. ●N HIS SIXTH STEP HE
SWINGS R●UND. THE D●●R IS STILL ●PEN.
HIS R●B●T WAITS BESIDE IT,’G●●D,’ CLAY SAYS.
’REMEMBER,I’M B●SS.IT SAYS ●PEN.’

すると、マイミクの剛くんから

これは、語頭が●なのがよいと思います。
語尾も、かな。

とコメントがあり、ぼくはつぎのようにお返事しました。

●UT
Z●●
いまのところ、思いつくのが、これくらいですかね。
きょうは、カリガリ博士をDVDで見ていましたが
途中で電話が入り
見るのをやめました。
きょうは買い物に近くのスーパーに出ただけで
不活発な一日でした。
ぬくりんこ
靴下を履いた足の裏につけて
きょうも眠ります。
やめられませんね。
ぬくさから抜け出すのは。

そしたら、マイミクのKeffさんからも、つぎのようなコメントが。

わっ。 Oが●になっただけでなにか見てはイケナイものを見ているような気分に…。
●RACLE
●RTH●D●XY
権威のありそうなものもいかがわしく見える●(笑)

そういう点では
F●UR LETTERS W●RD
や罵り言葉のなかでは 
Oを●にすると映えるのは
●H MY G●SH (●H MY G●D)
ですねえ…神入ってますから(笑)

S●N ●F A BITCH
●BSCENE
●BS●LETE
WH●RE
とかはどうなんでしょう。もとのOのほうがショッキングかも。

ところで、●詩の●を■にしたらずいぶん印象変わりますよね!?

きゃ〜
Keffさん
すてき!

■詩は、まだつくっていないのですが
さっそくつくってみましょう。

ためしに前の日記のものを。

■先斗町通りから木屋町通りに抜ける狭い路地の一つに■坂本龍馬が暗殺されかかったときの刀の傷跡があるって■だれかから聞いて■自分でもその傷跡を見た記憶があるんだけど■二十年以上も前の話だから■記憶違いかもしれない■でも■その路地の先斗町通り寄りのところに■RUGという名前のスナックが■むかしあって■いまでは代替わりをしていて■ふつうの店になっているらしいけれど■ぼくが学生の時代には■昼のあいだは■ゲイのために喫茶店をしていて■そのときにはいろいろなことがあったんだけど■それはまた別の機会に■きょうは■その喫茶店で交わされた一つの会話からはじめるね■店でバイトをしていた京大生の男の子が■客できていたぼくたちにこんなことをたずねた■もしも■世の中に飲み物が一種類しかなかったとしたら■あなたたちは■何を選ぶのかしら■ただし■水はのぞいてね■最初に答えたのはぼくだった■ミルクかな■あら■あたしといっしょね■バイトの子がそういった■客は■ぼくを入れて三人しかいなかった■あとの二人は日本茶と紅茶だった■紅茶は砂糖抜きミルク抜きレモン抜きのストレートのものね■ゲイだけど■笑■

これも、きれいね。
しばらく●詩をつくっていて
ほかのものでは、どうなのかなって、考えるだけでしたが
■は、●についで、候補の一番でした。
あと

とか

とか

とか
なかが黒くて、つまっている記号を候補にしていますが
やはり


がいいでしょう。
でも
▲や
▼も
面白そう。

●は
リズムをつくりやすいのですね。
いかにも
紙面の下で跳ね上がったような
紙面の上で、かな。
浮遊感があって
動きがあるのですね。
■は
その動きがにぶくなりますね。
というより、動かない。
動かさない。
だから
■にすると
浮遊感よりも
固定感がつよくなり
言葉のほうが
今度は逆に
浮遊しているように見えるかもしれませんね。
■が
柱の一部として突き出していて
空中で言葉をささえている
という感じでしょうか。
縦書きだとね。

すると、マイミクのKeffさんからまたコメントをいただいて。

▲をぼんやりといいひとそうな▲かきもののあいだに▲はさむと▲おもった
よりも▲攻撃性が▲むきだしに▲なって▲こわくて▲いい▲あじが▲出る▲か
▲も▲とおもいました▲こんど▲わたしも▲つかってみようと▲おもいます▲

で、ぼくのお返事は

より幾何学な感じになりますね。
散文詩の新しい形態の時代にしましょう、笑。

すると、マイミクのウラタロウさんからもコメントが。

■は方眼紙とか平安京のような感じがしました。
そういえば荻原裕幸さんは▼を爆弾に見立てた短歌を詠んでいましたね。

つぎは、ウラタロウさんのコメントに対するぼくのお返事。

萩原さんね。
むかし玲瓏にいらっしゃったころのものは
見たことがあるんだけど
いま活躍されてる方ですね。
そうね。
短歌は音の世界なのに
記号や図形を無音の文字記号として使ってらっしゃる方が
何人かいらっしゃるみたいですね。
萩原さんなら孤立なさらないでしょうけれど
風あたりはきつそうですね。
ぼくみたいに
ほとんど無視されるより
そのほうが気持ちいいでしょうけれど、笑。

そしたら、またまたKeffさんから、コメントをいただきまして。

荻原さんに先例がありましたか(10へえ)



































でますね。
火炎瓶にも見えます。

詩歌でマインスイーパだ

いわゆるニューウェーブ三羽がらすから誰か一人選べ
って言われたら
荻原さんかなあ。
作歌のエロスが伝わります。
(もっともこれって、若手の「短歌の中の人」にとっては 結構シビアな質問だと思いますよ…)
塚本邦雄はそういえば*使いでしたね。

で、ぼくもまたまたお返事して。





これはいいですね。
動きがあって
いまにも地面に激突して爆発しそう。
萩原さんだったかどうか記憶がありませんが
記号だけで短歌をつくったひとがいたように思います。
まあ、●ひとつで詩だとしていたひとも詩人にいましたしね。
なんでもありでしょう。
それを詩とか短歌として認める感受性のひとがいれば●Kなんでしょう。
その時代ではダメでも、後世に認められることもありますからね。
芸術家の作業はとにかくつくることと
それを見てもらえる場所におくことでしょうね。

そういう意味でいえば
現代は、芸術家にとって
とてもいい時代だと思います。
容易に作品発表できますし
読み手はごまんといるわけですから。
前にも書きましたが
ぼくはミクシィで
面白い書き物をするひとを何人も発見しました。
いまもときどき
いろいろな人の日記を拝見しています。
最近は
マイミクにならずに
お気に入りのなかに入れて
拝見させてもらっています。
全体に公開しているひとが多いので。
なにしろ
しゃべり言葉で
面白い日記を書くひとが多いので
ミクシィを堪能しています。

逆に俳句や短歌はなかなか楽しめませんね。
空間的なものですか
余白の印象が低くなりますから
余白の美しさを味わうことが困難ですからね。
散文の分かち書きという感じで
日記を読むと
個性豊かなひとがそうとういる感じです。
たぶん、ぼくもその影響を受けているでしょう。
むかしのぼくは
笑。
なんて書かなかったですから、笑。
メールやミクシィを通じて培われた感性でしょうね。
話が飛びました。
そういえば
2ちゃんねるで
文字で
絵を書く人が多くて
見て面白いと思っています。
あれは絵ですよね。
面白い。

するとまたまた、ウラタロウさんからコメントが。

ネットをあちこち見ていると、昔の文学畑だったらありえなかった、というような表現も多いです。「乱れ」っぷりに眉をひそめる人も多いけれど、たしかに支離滅裂だったり破壊的だったりするけれど、そこには可能性も潜んでいるんじゃないかなって思います。どうみても壊れている文なのに面白いのもありました。

で、つづけて、またまたKeffさんからもコメントが。

宏輔さん、

いま蟹工船ブームだそうですが
詩歌であの路線ならだんぜん萩原恭次郎ですよ。
記号の使い方がロシア・アヴァンギャルドそこのけに暴力的で、すかっとします。
人間の声だけで朗読するのは結構知恵がいるかも。

こないだ見かけた日本人アナーキストの人のブログの自己紹介に
萩原恭次郎の「ラスコーリニコフ」が引用されていて
おー!ぴったりだ!
と思いました。
ぜんぜん古びてなかった。笑

で、で、ぼくのおふたりへのお返事です。

ウラタロウさんへ

ぼくも壊れた文体好きです。
小学生の
そしてそして文体も大好きです。
面白ければ、よいのだと思っています。
主語がどれかわからないなんて文体
外国語の初学者になった気分で読んで
ゲラゲラ笑ってしまいます。

Keffさんへ

萩原恭次郎は、おしゃれですね。 きのうカリガリ博士を見損ないましたが
ドイツ表現主義もいいですね。
ロシア・アバンギャルドといえば
先日、日記にとりあげたロシアSFが、そうでしたね。
蟹工船の文体は、ぼくも引用しましたが
とても美しいですし、凝縮度がすごいですね。
それがブームって
ぼくにはよくわからないのですが
まあ、弛緩した文体の多い現代でも
凝縮した文体を求める向きがあるということなのでしょうね。
ぼく自体は
凝縮した文体を目指したことは一度もなく
むしろ
だらだらとした
えんえんと、ぐだぐだ書いてるような文体を
目指してはいませんが
書いているような気がします。
飯島耕一が「おじやのような詩」と書いていた詩を
ぼくはぜんぜん悪いと思ったことがないので
まあ、おじやのような詩でもいいかなあって感じで書いてます。
気持ちよければ
長くてもいいんじゃなあい?
って感じです。

凝縮した文体も好きですけれど
ぼく自体は書けないなあって思っています。

今朝、本棚の角で、瞼を切りました。
血が出ました。
痛い。
あほや〜。



●K B●●K  D●G  G●D  B●Y  C●●K
L●●K  T●UCH  S●METHING
W●RST  B●X  G●●D  J●Y
C●●L  ●UT  S●UL  Z●●
T●Y  L●VE  L●NG  H●T
N●

1●●+1●●=2●●●●
3●●●● - ●●=2●●



心音が途絶え
父の身体が浮き上がっていった。
いや、もう身体とは言えない。
遺体なのだ。
人間は死ぬと
魂と肉体が分離して
死んだ肉体が重さを失い
宙に浮かんで天国に行くのである。
病室の窓が開けられた。
父の死体は静かにゆっくりと漂いながら上昇していった。
魂の縛めを解かれて、父の肉体が昇っていく。
だんだんちいさくなっていく父の姿を見上げながら
ぼくは後ろから母の肩をぎゅっと抱いた。
点のようにまでなり、もう何も見えなくなると
ベッドのほうを見下ろした。
布団の上に汚らしいしみをつくって
ぬらぬらとしている父の魂を
看護婦が手袋をした手でつまみあげると
それをビニール袋のなかに入れ
袋の口をきつくしばって、病室の隅に置いてある屑入れの中に入れた。
ぼくと母は、父の魂が入った屑入れを一瞥した。
肉体から離れた魂は、すぐに腐臭を放って崩れていくのだった。
天国に昇っていくきれいになった父の肉体を頭に思い描きながら
看護婦の後ろからついていくようにして、
ぼくは、母といっしょに病室を出た。



あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、
目の隅で、何か動くものがあった。
歩く速さを落として目をやると、
結ばれていたはずの結び目が、
廃棄された専用ゴミ袋の結び目が
ほどけていくところだった。
ぼくは、足をとめた。
手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、
偶然が姿をすっかり現わしたのだった。
偶然も齢をとったのだろう。
ぼくが疲れた中年男になったように、
偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。
若いころに出合った偶然は、
ぼくのほうから気がつくやいなや、
たちまち姿を消すことがあったのだから。
いまでは、偶然のほうが、
ぼくが気がつかないうちに、ぼくに目をとめていて、
ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。
齢をとっていいことのひとつに、
ぼくが偶然をじっと見ることができるように、
偶然のほうでも、じっくりとぼくの目にとまるように、
足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。



源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、
衛門督(えもんのかみ)の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、
憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。
いや、奇妙なところはないのかもしれない。
人間のこころは、このように一様なものではなく、
同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、
ましてや、違った状況、違った光のもとでなら、
まったく違った色やよりを見せるのも当たり前なのであろう。
源氏物語の「柏木」において描出された光源氏の多様なこころざまが、
ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。
まるで万華鏡のようだ。



ひまわりの花がいたよ。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
黄色い、黄色い
ひまわりの花がいたよ。
お部屋のなかで
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。



仕事から帰る途中、坂道を歩いて下りていると、
後ろから男女の学生カップルの笑いをまじえた楽しそうな話し声が聞こえてきた。
彼らの若い声が近づいてきた。
彼らの影が、ぼくの足もとにきた。
彼らの影は、はねるようにして、いかにも楽しそうだった。
ぼくは、彼らの影が、つねに自分の目の前にくるように歩調を合わせて歩いた。
彼らは影まで若かった。
ぼくの影は、いかにも疲れた中年男の影だった。
二人は、これから楽しい時間を持つのだろう。
しかし、ぼくは? ぼくは、ひとり、部屋で読書の時間を持つのだろう。
もはや、驚きも少し、喜びも少しになった読書の時間を。
それも悪くはない。けっして悪くはない。
けれど、ひとりというのは、なぜか堪えた。
そうだ、帰りに、いつもの居酒屋に行こう。
日知庵にいるエイちゃんの顔と声が思い出された。
ただ、とりとめのない会話を交わすだけだけど。
ぼくは横にのいて、二人の影から離れた。



ジェフリーが、ツイッターで、ゲイの詩人で、宗教的なテーマで、
ゲイ・ポエトリーを書いてるひと、いませんかって呼びかけていたので
「ぼく書いてるよ。」と言って、いくつか選んで、メールで送った。
アメリカで、ゲイの詩のアンソロジーの出版が計画されているらしくて
そこに日本のゲイの詩人の作品を入れたいという編集者がいるって話だった。

ぼくは、ぼくのゲイ・ポエトリーを、ぼくの膨大なファイルのなかから選んだ。
つぎのものは、もとのファイルから取って、ゲイ・ポエトリーのファイルを
新しくつくって、そこに放り込んだもの。

『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。
かきくけ、かきくけ。
マールボロ。
みんな、きみのことが好きだった。
むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。
王國の秤。
夏の思い出。
泣いたっていいだろ。
高野川
死んだ子が悪い。
水面に浮かぶ果実のように
頭を叩くと、泣き出した。
木にのぼるわたし/街路樹の。

このなかから、宗教的な事項を含んでいるものを選んだ。
つぎのものがそれで、それをジェフリーに送り、ぼくの Facebook にも載せて、自分で英訳した。

水面に浮かぶ果実のように
マールボロ。
頭を叩くと、泣き出した。
みんな、きみのことが好きだった。
夏の思い出。

でも、ぼくの英訳が不完全だったのか、このうち、3つのものを、ジェフリーが英語に訳し直してくれた。
以下のものが、それ。



poems by TANAKA Atsusuke 田中宏輔・詩
Translations by Jeffrey ANGLES ジェフリー・アングルス・訳



水面に浮かぶ果実のように

いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
水面になげつけたのも ぼくだけれど



Like A Fruit Floating on Water

No matter how I try to draw you close
You, like a fruit floating on water
Do not return at all
If anything, you float farther
Farther from me

Even though it was I who picked you
It was I who threw you on the water



マールボロ

彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
飲みさしの
缶コーラ。



Malboro

He had a tattoo.
Under his leather jacket, a solid, white T-shirt.
Don’t look at me.
I thought I didn’t live up.
There are lots of other young ones.
I am nothing to look at.
But he chose me.
Want to grab a cup of coffee?
He didn’t put in any cream?
So, you’re the same age as me.
He smoked a cigarette.
Only a single week of no smoking.
The name of the love hotel was
Under the Guava Tree.
Rain had soaked his socks.
Should’ve bought some new shoes sooner.
I took a shower with him.
His dick was white and beautiful.
Why am I writing this down in a poem?
Once and that’ll be all.
Just once and that’s okay, someone once said.
I didn’t go home right away.
That was true for both of us.
We both lingered on and on.
I was in Tokyo for seven years.
Our dicks had fallen.
They had fallen a long way.
It’s good if there are natural enemies for people.
There was nothing in Tokyo.
He looked as if there was nothing
And so he was here.
He was beautiful.
His back turned, he placed
On the table his can of cola
Half consumed.



夏の思い出


白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と



Summer Memory

Summer
White summer
Summer memory
Reflections of light
Concrete
Clubs
Locker rooms
You were on the volleyball team
You shone
Dazzling to the eyes
Me lined up
Sitting down
I was on the judo team
We were still freshmen
Summer
White summer
Summer memory
Reflections of light
Overlapping
Hands and
Hands and
Sweat and
Light
White light
Reflecting
Concrete
Dark shadows
No one was there
That day
That summer
That summer vacation
That time
Was just our time
Just you and me
You and me
(Just you and me, right?)
You shone
Summer
White summer
Sun
That day
Was my first time
I didn’t know
That it was such a ticklish place
The lips
Touching scanty whiskers
(Just a few, no matter how you let them grow, right?)
Lips and
Sweat and
Dazzling
It lasted
Only
A moment
Summer
A memory
Of white summer
A first kiss
(You really tasted of sweat, right?)
But
That was all
That was all
That day
That time
That time anyone ever saw you
We did not stay at the camp
The teams ended early
Why
Did you go
Out for a swim
With her
In the sea?
Summer
A summer
Day
White summer memory
Forever shining
My
Your
Summer
Day
The memory of that summer day
Flipping through the summers
Flipping through
Each time I come to it
It tears my heart
Apart
Tears my heart
Into shreds
Then scatters it
To the wind
Summer
White summer
Summer memory
Reflected light
Concrete
Clubs
Locker rooms
Overlapping
Hands and
Eyes and
Lips and
Sweat and
Light and
Shadow and
Summer



つぎのものは、ジェフリーが英訳してくれなかったものだけど
ぼくの英訳は、しのびないので、原文の日本語のものだけ掲げるね、笑。
あ、それと、ぼくが自分のファイルから選び出しておいたゲイ・ポエトリーをいくつか。



頭を叩くと、泣き出した。

カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。



高野川

底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた



『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。

こんなこと、考えたことない?
朝、病院に忍び込んでさ、
まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに
ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。
消えないマジック、使ってさ。
ヘンなオマケ。
でも、
やっぱり、かわいそうかもしんないね。
アハッ、おじさんの髪の毛って、
渦、巻いてるう!
ウズッ、ウズッ。
ううんと、忘れ物はない?
ああ、でも、ぼく、
いきなりHOTELだっつうから、
びっくりしちゃったよ。
うん。
あっ、ぼくさ、
つい、こないだまで、ずっと、
「清々しい」って言葉、本の中で、
「きよきよしい」って、読んでたんだ。
こないだ、友だちに、そう言ったら、
何だよ、それって、言われて、
バカにされてさ、
それで、わかったんだ。
あっ、ねっ、お腹、すいてない?
ケンタッキーでも、行こう。
連れてってよ。
ぼく、好きなんだ。
アハッ、そんなに見つめないで。
顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの?
あっ、ねっ、ねっ。
胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き?
ぼくは、太腿の方が好き。
食べやすいから。
おじさんには、胸の方、あげるね。
この鳥の幸せって、
ぼくに食べられることだったんだよね。
うん。
あっ、おじさんも、へたなんだ。
胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。
こまかい骨がいっぱいで。
ああ、手が、ギトギトになっちゃった。
ねえ、ねえ、ぼくって、
ほんっとに、おじさんのタイプなの?
こんなに太ってんのに?
あっ、やめて、こんなとこで。
人に見えちゃうよ。
乳首って、すごく感じるんだ。
とくに左の方の乳首が感じるんだ。
大きさが違うんだよ。
いじられ過ぎかもしんない。
えっ、
これって、電話番号?
結婚してないの?
ぼくって、頭わるいけど、
顔はカワイイって言われる。
童顔だからさ。
ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、
デブ専って言うんだよ。
カワイイ?
アハッ。
子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、
すっごくヤだったけど、
おじさんみたいに、
ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて
ほんっとによかった。
ぼくも、太ってる人が好きなんだ。
だって、やさしそうじゃない?
おじさんみたいにぃ。
アハッ。
好き。
好きだよ。
ほんっとだよ。



みんな、きみのことが好きだった。

ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神はいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。



泣いたっていいだろ。

あべこべにくっついてる
本のカバー、そのままにして読んでた、ズボラなぼく。
ぼくの手には蹼(みずかき)があった。
でも、読んだら、ちゃんと、なおしとくよ。
だから、テレフォン・セックスはやめてね。
だって、めんどくさいんだもん。
うつくしい音楽をありがとう。
ヤだったら、途中で降りたっていいんだろ。
なんだったら、頭でも殴ってやろうか。
こないだもらったゴムの木から
羽虫が一匹、飛び下りた。
ブチュって、本に挾んでやった。
開いて見つめる、その眼差しに
葉むらの影が、虎(とら)斑(ふ)に落ちて揺れている。
ねえ、まだ?
ぼくんちのカメはかしこいよ。
そいで、そいつが教えてくれたんだけど。
一をほどくと、二になる。
二を結ぶと、〇になるって。
だから、一と〇は同じなんだね。
(二って、=(イコール)と、うりふたつ、そっくりだもんね)
ねっ、ねっ、催眠術の掛け合いっこしない?
こないだ、テレビでやってたよ。
ぼくも、さわろかな。
そうだ、いつか、言ってたよね。
ふたつにひとつ。ふたつはひとつ。
みんな大人になるって。
中国の人口って14億なんだってね。
世界中に散らばった人たちも入れると
三人に一人が中国人ってことになる。
でも、よかった。
きみとぼくとで、二人だもんね。
ねえ、おぼえてる? 言葉じゃないだろ! って、
好きだったら、抱けよ! って、
ぼくに背中を見せて、
きみが、ぼくに言った言葉。
付き合いはじめの頃だったよね。
ひと眼差しごとに、キッスしてたのは。
ぼくのこと、天使みたいだって言ってたよね。
昔は、やさしかったのにぃ。
ぼくが帰るとき、
いつも停留所ひとつ抜かして送ってくれた。
バスがくるまでベンチに腰掛けて。
ぼくの手を握る、きみの手のぬくもりを
いまでも、ぼくは、思い出すことができる。
付き合いはじめの頃だったけど。
ぼくたち、よく、近くの神社に行ったよね。
そいで、星が雲に隠れるよりはやく
ぼくたちは星から隠れたよね。
葉っぱという葉っぱ、
人差し指でつついてく。
手あたりしだい。
見境なし。
楽しい。
って、
あっ、いまイッタ?
違う?
じゃ、何て言ったの?
雨?
ほんとだ。
さっきまで、晴れてたのに。
そこにあった空が嘘ついてた。
兎に角、兎も角、

志賀直哉はよく書きつけた。
降れば土砂降り。
雨と降る雨。



木にのぼるわたし/街路樹の。

ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。



かきくけ、かきくけ。

ちっともさびしくないって
きみは言うけれど
きみの表情が、きみを裏切っている。
壁にそむいた窓があるように
きみの気持ちにそむいた
きみの言葉がある。
きみの目には、いつも
きみの鼻の先が見えてるはずだけど
見えてる感じなんか、しないだろ。
そんな難しそうな顔をしちゃいけない。
まるで床一面いっぱいに敷き詰められた踏み絵みたいに。
突然、道に穴ぼこができて
人や車や犬が、すっと消えていくように
きみの顔にも穴ぼこができて
目や鼻や唇が
つぎつぎと消えていけばいいのに。
もしも、アブラハムの息子が、イサクひとりじゃなくて
百も、千もいたら、しかも、まったく同じ姿のイサクがいっぱいいたら、
ゼンゼンためらわずに犠牲にしてたかもしれない。
ノブユキは、生のままシメジを食べる。
ぼくが、台所でスキヤキの準備してたら
パクッ、だって。
アハッ。
かわいいよね。
すておじいちゃん。
拾ってきてはいけません。
捨ててきなさい。
ママは残酷なのだ。
バスに乗って
ぼくは、よくウロウロしてた。
もちろん、バスの中じゃなくて、繁華街ね。
キッズのころだけど。
そういえば、河原町に
茂吉ジジイってあだ名のコジキがいた。
林(はや)っちゃんがつけたあだ名だけど
ほんとに、斎藤茂吉にそっくりだった。
あっ、いま、コジキって言ったらダメなのかしら。
オコジキって丁寧語にしてもダメかしら。
貧しい男と貧しい女が恋をするように
醜い男と醜い女が恋をする。
ぼくはうれしい。
バスの中では、
どの人の座席の後ろにも
ユダが隠れてる。
ここにもひとり、そこにもひとり。
そうして、ユダに気をとられている間に
とうとう祈りの声は散じてしまった。
それは、むかし、ぼくが捨てた祈りの声だった。
蟻は、一度でも通った道のことは忘れない。
一瞬で生まれたものなのに、
どうして、すぐに死なないのだろう。
おひさ/ひさひさ/おひさ/ひさ。
で、はじまる、わたくしたちのけんたい。
ひとりでにみんなになる。
ああん、そんなにゆらさないでよ。
お水がこぼれちゃうよ。

カッパの子どもが
(子どものカッパでしょ?)
頭をささえて、ぼくを睨み返す。
ゆれもどしかしら。
もらった子犬を死なせてしまった。
ぼくが、おもちゃにしたからだ。
きのう転生したばかりだったけれど、
でも、また、すぐに何かに生まれ変わるだろう。
さあ、ビデオに撮るから
そこに跪いて、ぼくにあやまれ。
そしたら、ぼくの気がすむかもしれない。
たぶん、一日に十回か、二十回、ビデオを見れば
ぼくの気がすむはずだ。
それでもだめなら、一日中見てやる。
そしたら、きみに、ぼくの悲劇をあげよう。
ぼくは、膝んところを痛めたことがない。
いつも股のところを痛める。
おしりが大きくて、太腿が太いから
股がすれて、ボロボロになってしまう。
これが、ぼくがズボンを買い替える理由だ。
やせてはいない。
標準体型でもない。
嘘つきでもなかったけれど、
母乳でもなかった。
母乳がなかったからではない。
マスミに言われて、3月に京大病院の精神科に行った。
精神に異常はないと言われた。
性格に問題があると言われた。
しぇんしぇい、精神と性格とじゃ、
そんなにちごとりまへんやんか。
どうでっか。そうでっか。さいですか。
二枚の嫌な手紙と一枚のうれしい葉書。
光は、百葉箱の中を訪れることができない。
留守番電話のぼくの声が、ぼくを不快にさせる。
そんなにいじめないでください。
サウナの階段に
入れ歯が落ちてたんだって。
それ、ほんとう?
ほんとうだよ。
百の入れ歯が並んでた
なんて言えば、嘘だけどね。
嘘だってついちゃうけどね。
だって、いくら嘘ついたって
ぼくの鼻、のびないんだも〜ん。
そのかわり、
オチンチンが大きくなるの。
こわいわ。
こわくなんかないわ。
こわいのはママよ。
小ごとを言うのに便利だからって
あたしの耳の中にすみだしたのよ。
家具や電化製品なんか、どんどん運び込んでくるのよ。
香典返しに、
たわしとロウソクをもらう方がこわいわ。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
手術してあげたい。
いやんっ、ぼくって、ノイローゼかしら。
ぼくぼくぼく。
たくさんのぼく。
玄関を出ると
目の前の道を、きのうのぼくが
とぼとぼと歩いているのを見たが
それもまた、読むうちに忘れられていく言葉なのか。
百ひきの亀が、砂浜で日向ぼっこしてた。
おいらが、おおいと叫ぶと
百ひきの亀がいっせいに振り返った。
おいらは
百の亀の頭をつぎつぎと、つぎつぎと
ふんっ、ふんっ、ふんっと、踏んづけていった。



むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。

枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片(かた)角(づの)の鹿を見たのは。
蹄(ひづめ)の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母(ばあ)ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守(てらもり)だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞(ほら)は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞(しおり)の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。



王國の秤。

きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。



死んだ子が悪い。

こんなタイトルで書こうと思うんだけど、って、ぼくが言ったら、
恋人が、ぼくの目を見つめながら、ぼそっと、
反感買うね。
先駆形は、だいたい、いつも
タイトルを先に決めてから書き出すんだけど、
あとで変えることもある。
マタイによる福音書・第27章。
死んだ妹が、ぼくのことを思い出すと、
砂場の砂が、つぎつぎと、ぼくの手足を吐き出していく。
(胴体はない)
ずっと。
(胴体はない)
思い出されるたびに、ぼくは引き戻される。
もとの姿に戻る。
(胴体はない)
ほら、見てごらん。
人であったときの記憶が
ぼくの手と足を、ジャングルジムに登らせていく。
(胴体はない)
それも、また、一つの物語ではなかったか。
やがて、日が暮れて、
帰ろうと言っても帰らない。
ぼくと、ぼくの
手と足の数が増えていく。
(胴体はない)
校庭の隅にある鉄棒の、その下陰の、蟻と、蟻の、蟻の群れ。
それも、また、ひとすじの、生きてかよう道なのか。
(胴体はない)
電話が入った。
歌人で、親友の林 和清からだ。
ぼくの一番大切な友だちだ。
いつも、ぼくの詩を面白いと言って、励ましてくれる。
きっと悪意よ、そうに違いないわ。
新年のあいさつだという。
ことしもよろしく、と言うので
よろしくするのよ、と言った。
あとで、
留守録に一分間の沈黙。
いない時間をみはからって、かけてあげる。
うん。
あっ、
でも、
もちろん、ぼくだって、普通の電話をすることもある。
面白いことを思いついたら、まっさきに教えてあげる。
牛は牛づら、馬は馬づらってのはどう?
何だ、それ?
これ?
ラルースの『世界ことわざ名言辞典』ってので、読んだのよ。
「牛は牛づれ、馬は馬づれ」っての。
でね、
それで、アタシ、思いついたのよ。
ダメ?
ダメかしら?
そうよ。
牛は牛の顔してるし、馬は馬の顔してるわ。
あたりまえのことよ。
でもね、
あたりまえのことでも、面白いのよ。
アタシには。
う〜ん。
いつのまにか、ぼくから、アタシになってるワ。
ワ!
(胴体はない)
「オレ、アツスケのことが心配や。
アツスケだますの、簡単やもんな。
ほんま、アツスケって、数字に弱いしな。
数字見たら、すぐに信じよるもんな。
何パーセントが、これこれです。
ちゅうたら、
母集団の数も知らんのに
すぐに信じよるもんな。
高校じゃ、数学教えとるくせに。」
「それに、こないなとこで
中途半端な二段落としにする、っちゅうのは
まだ、形を信じとる、っちゅうわけや。
しょうもない。
ろくでもあらへんやっちゃ。
それに、こないに、ぎょうさん、
ぱっぱり、つめ込み過ぎっちゅうんちゃうん?」
ぱっぱり、そうかしら。
「ぱっぱり、そうなのじゃあ!」
現状認識できてませ〜ん。
潮溜まりに、ひたぬくもる、ヨカナーンの首。
(胴体はない)
棒をのんだヒキガエルが死んでいる。
(胴体はない)
醒めたまま死ね!
(胴体はない)
醒めたまま死ね!



そしたら、このあいだ、4月の半ばかな、ジェフリーから返事がきて
そのゲイの詩のアンソロジーをつくっている編集者の KEVIN SIMMONDS さんから
つぎのようなメールがきたって連絡してくれた。
ぼくの「水面に浮かぶ果実のように」に対してのもので
メールをコピペするね。

I'd like to include this poem and perhaps something else. Do you have any other Tanaka translations done other than those you sent? Also, I'll have my partner look at the guy who writes the shorter pieces and get back to you. Will you be leaving the country anytime soon? I'd rather risk having to wait to include other of your translations in the second printing than have to lose them altogether for the first. That said, please get this signed release back to me and have Tanaka send an email (in Japanese is OK) endorsing the translation and including his permission. Don't forget to tell me where this has appeared (if it has, include publisher/journal and date) and who owns it (if it's not you and Tanaka). I'll just generate new releases if other poems fit the anthology.

The inclusion of this Tanaka poem is very important to me and the anthology! Can't stress that enough!

Thanks,
k~

上の一行にある

The inclusion of this Tanaka poem is very important to me and the anthology!

って言葉を目にして、めっちゃうれしかった。
ちかぢか、ぼくの「水面に浮かぶ果実のように」が、
アメリカで出されるゲイの詩のアンソロジーに収められるってわけね。
めっちゃうれしかった。



日付のないメモ。

さきほど、入口からだれかが入ってきたような気がしたのだけれど
身体が動かず、顔のうえに腕をおいて居眠りしていたので
布団のなかで固まっていると
顔に触れる手があって、叫び声をあげると
気配が消えた。
ぼくの身体も硬直がとけて
目をあけるとだれもいなかった。
たぶん、幻覚だろうとは思っていたのだけれど。
昨夜、本を読んでいるときに
ふと、内容がわからなくなって
ページをめくり直すと数ページ読んだ記憶がなかった。
時間がぽこりそこだけなくなったかのように。
テーブルのしたの積み重なったCDのしたから
日付のないメモが見つかった。
ここに引用しておく。

「ことし50才になったよ。
 なったばかり。
 1月生まれやからね。」
「ぼくも1月生まれなんですよ。」
「山羊座?」
「ええ。」
「何才になったの?
 たしか、30すぎたくらいだったよね。」
「32才になりました。」
(…)
「つくづく、いろんな人がいるなあと思います。」
靴フェチの青年の話をした。
ぼくの靴をさわりながらオナニーをする青年。
日にやけた体格のいい好青年だった。
見せるだけの男の子の話もした。
大学生か院生くらいだった。
自分がオナニーするのを見てほしいというのだった。
ぼくが身体に触れようとすると
「だめ! 見るだけ!」
と言って、ぼくの手をはらうのだった。
彼もまた、体格のいい好青年だった。
いろいろな性癖があるねと言った。
「初体験はいつ?」
「中学のときでした。
 友だちから、気持ちのいいことしてやろかと言われて
 さわられたのが初体験です。」
「ふつうの友だち?」
「ええ。」
「でも、そのとき、きみが断ってたら
 友だちのままでいられたやろか?」
「わかりませんね。
 どうだったでしょう。」
「まあ、断らなかったんだからね。
 じっさいは。
 でも、気まずくなったかもしれないね。」
「たぶん。」
「その友だちとはずっと付き合ってたの?」
「高校が別々だったので
 中学のときだけでした。
 高校では女の子と付き合ってました。」
「じゃあ、どっちでもええんや。」
「ええ。
 いまでも、どっちでもいいんですよ。」
「そんな子、多いね。」
(…)
「人間って汚いと思います。」
「どうして?
 まあ、汚いなって思えるときもあるけど
 そうじゃないときもあるよ。
 むかし、Shall We Dance? って映画を恋人と見に行ったとき
 映画館の前で待ち合わせしてて
 自分の部屋を出るときにあわててて
 小銭入れを忘れたのね。
 で
 バスに乗ってから
 1万円札しかないことに気がついて
 で
 バスの車掌に言ったら
 両替もできないし
 いま回数券もない
 って言うのね。
 で
 困ってたら
 前と後ろから同時に声がかかったんだよね。
 前からは、おじさんが、これ使って、と言って、小銭を
 後ろからは、髪の長いきれいな女性が、これを使ってください、と言って回数券を
 ぼくにくださろうとしたのね。
 おじさんのほうがすこしはやかったから
 女性の方にはていねいにお断りして
 おじさんに小銭をいただいたのだけれど
 お返ししますからご住所を教えてくださいと言ったら
 そんなんええよ。
 あげるよ。
 と言ってくださってね。
 もうね。
 映画どころじゃなくって
 ぼくは、そのことで感激してた。
 映画もおもしろかったけどね。」
「そら、映画より感動しますね。」
「でしょ?
 だから、ぼくも似たことを梅田駅でしてあげてね。
 高校生ぐらいのカップルが、初デートだったんだうね。
 切符売り場で、何度も100円硬貨を入れては下から吐きだされてる男の子がいてね。
 顔を真っ赤にして。
 100円玉がゆがんでることに気がつかなかったんだろうね。
 おんなじ100円玉を入れててね。
 で、ぼくがポケットから100円玉をだして
 ぽいって入れてあげたの。
 男の子が、あ、って口にして
 ぼくは、ええよ、という感じで片手をあげて笑って立ち去ったんだけど
 そうそう、このあいだ地下鉄で
 目の見えないひとが乗ってきたらね。
 女子高校生の子が、そのひとのひじをとって
 ごく自然にそうふるまったって感じでね。
 いつもそうしてるってかんじやったなあ。
 人間は汚くないよ。」
「そういうところもありますね。」
「九州に旅行に行ったときね。
 20年ほどもむかしの話だけど
 ゲイ・スナックの場所がわからなくて
 公衆電話から店に電話で場所を聞いてたんだけど
 なかなかわからなくて困ってたら
 となりで彼女に電話をかけてた青年が
 「おれ、その場所、知ってますよ。案内しますよ。」と言い
 自分の電話口に向かって「ちょっとまっとれ、あとで掛け直すわ。」
 って言って、その場所まで案内してくれてね。
 場所柄かなあ。
 九州人だからかなあ。
 京都人にはいなさそうだけどね。
 そんなことがあった。
 九州といえば、20代のころに
 学会で博多に行ったときに
 ぼくだけ院生たちと別行動で
 夜にゲイ・スナックに行ってたんだけど
 タイプだった青年にタイプだって言うと
 ぼくはタイプじゃないって言われたんだけど
 「どちらに泊ってらっしゃるんですか? 車できてるので送りますよ。」
 と言ってくれてね。
 純朴そうな好青年だったな。
 そんなことがあってね。」
(…)
「人間が汚いって、
 それ、もしかしたら、自分のこと思って言った?」
「そうです。」
「ああ、そうなんだよね。
 人間って、ときどき、自分のこと、汚いって思っちゃうんだよね。
 また、そう思わないといけないところがあるんだよね。
 そう思えない人間って、なにか欠陥があるんだよね。
 自分の欠陥を指摘できないという決定的な欠陥がね。」
「そうなんですか。
 自分が汚いから
 ひとも汚いって思えるんじゃないかと思いました。」
「逆もまた真でね。
 ひとのことも、自分のこともね。
 つながってるから。
 みんなね。
 で
 たとえば
 きみには、どんな汚い面があるの?」
「ひと通りのない道で
 カーセックスしたあと
 彼女に別れ話をしたんですよ。
 はじめから別れ話をするつもりだったんですけど
 セックスは、やりおさめで、やりときたかったので。」
「セックスして、どれくらいあとに?」
「30分くらいです。」
「そりゃ、彼女もびっくりだったろうね。
 別れるときには
 別れようと思ったときには
 つぎの子ができてて
 それで新しい子と付き合うために
 付き合ってた子と別れるっていうひとがいるけど
 そういうひとなんだね。」
「はい。」
「残酷やなあ。
 まあ、男同士やから、その気持ちわかるけどね。
 ぼくにも経験あるからね。」
「なにげないことをケンカの種にして
 文句言って別れました。
 汚いですよね。」
「いや、ただ単に、自己本位なんやろ。
 人間って余裕がないとね、
 気持ちに余裕がないと、ひとにやさしくなれないしね。
 やさしく、じゃないな
 相手の気持ちを考えて言ったりしたりすることができないんじゃないかな。
 Shall We Dance? のときのこと
 映画より、バスの運賃なかったときの体験のこと思い出すとね、
 前の座席に坐ってたおじさんも
 ぼくの後ろに
 ぼくと同じように吊革につかまって立ってた女性も
 こころに余裕があったんだよね。
 そう思うわ。
 そのときは感動しただけやったけど
 いま思い出すと
 人間のこと、もう一段深く掘り下げて知れたんやね。
 余裕があったから
 ひとにやさしくできたんやね。
 でも、その余裕って
 べつに金持ちやからとかっていうことじゃなくて
 人間的な余裕かな。
 そういった余裕があれば
 汚くなることもないやろうね。」
「そうでしょうね。
 人間って汚いって思うのは
 やっぱり、おれが汚いからでしょうか?」
「いや、それは、さっきも言ったように
 きみだけやないで。
 ただ、そうじゃないひとも、いつもそうとは限らないだろうし
 きみも、ぼくも、いつも汚いわけじゃないし
 いつもきれいなわけでもないし
 ただ単に、自己本位なだけなんだよ。
 だれもがそうであるときと
 そうでないときとがあるんじゃないかな。
 そうじゃないときのほうが多いひともいるやろうし
 そうじゃないときがほとんどないひともいるやろうしね。
 そうじゃないときのほうが多いひとって
 やっぱり余裕があるんやろうね。
 土地柄もあるやろうね。
 さっき言った九州の男の子の話ね。
 電話の話と、スナックでの話ね。
 ふたつとも九州やったしね。
 まわりのひとが、ひとに気遣う習慣がある土地柄なんじゃないかな、
 九州って。
 そういう土地柄だったら、九州のあの男の子たちのような子がいても
 ふつうのことだろうね。
 習慣。
 それと、学習ね。
 むかし、国際でいっしょだった英語の先生で
 中西先生って方がいらっしゃって
 その方の話だけど
 教養のあることのいいところは
 まずしくても
 まずしさを恥じなくてもいいことだとおっしゃっててね。
 知り合いの女性が
 ハーバードを出てらっしゃるのだけれど
 アルバイトでスーパーのレジ係をしてらっしゃってて
 でも、そんなこと、そのひとにとってはなんでもないことで
 たとえ時給が低くても、仕事としてちゃんとこなしていて
 給金をもらって生きていることは、ごくあたりまえのことだって。
 そうだね。
 土地柄と、教養かなあ。
 教育、育ち、育てられ方っていうか、そんなものに影響されるね。」
「そうでしょうね。」
「でも、きみって、素朴そうなのに
 女にはけっこうすごいんだね。」
「友だちに、顔に似合わず
 えげつないって言われます。」
「まあね、顔は、ほんとやさしそうだもの。
 人間って、こわいなあ、笑。」
にこにこしてる彼。
なんで、笑いがとまらへんのやろか。
ふたりとも、まじめに話しながらも笑ってた。
笑いをとめて話をするのが、よけいにこわいからか。
たぶん、そうだったのだろう。
(…)
「京都人は、あまりひとにかまわないね。
 政治的に、むかしから難しい土地柄ってことがあるって
 そんな話聞いたことあるよ。
 明治維新のときとか。」
手がぷにぷにしていて、かわいい。
乳首が感じるらしい。
それほど大きくないペニス。
というか、小さいほう。
「ふだん見えないところが見えると
 興奮しますね。」
「たしかに、他人のたってるチンポコ見ること
 ふつうはないもんね。」
「むかし、一度だけ、東梅田ローズというところに行きましたけど
 もう、みんなすごいことでしたよ。」
「あっちでも、こっちでも
 チンポコおったてて、ってことでしょ、笑。
 そいえば、女の子同士の発展場ってないんやろか?
 ないんやろうなあ。
 聞いたことないもんね。
 小説でも読んだことないし。」
「聞きませんね。
 でも、個人の家で
 女の子同士会ってたりするかもしれませんんえ。」
「あったら、小説に出てくるはずなんやけど。
 読んだことないなあ。
 レズビアンが出てくる小説はあるけど
 出会いはふつうのところやった。」
ここで、京大のエイジくんのことについてしゃべった。
めっちゃかっこよかったけど、彼にはそれが負担やったみたいな。
「万人に好かれる顔やったらええなって思います。」
「好かれる顔してるんじゃない?」
「マニア受けする顔やと思ってました。」
「だいじょうぶ。
 10人ゲイがいてたら
 8人はいけるって言うと思う、笑。」
「あとのふたりはなんなんですか?」
「ガリ専とフケ専かな、笑。
 でもね。
 万人受けする顔って
 幸せやないよ。
 性格も傲慢になるしね。」
「なるでしょうね。」
「人間って、弱いしね。
 つぎにすぐできると思ったら
 すぐに手放すからね
 いま持ってる幸せ。
 つぎのもののほうがいいって思いこんでね。」
ここで、ケイちゃんの話をする。
「まあ、きみは、65点ちょい上くらいかな。
 中よりすこし上
 ちょっとモテルって感じかな。
 そのちょっとモテルって感じが万人受けでしょ、笑。」
「65点ですか。」
「ちょい上ね。
 高得点だと
 あとは落ちるだけやからね、笑。」
「なるほど。」
(…)
「仕事場で、同性からモーションかけられたことってあるの?」
「ないですよ。」
「ほんとう?」
「いや、ありますかね。
 もしかしたら、このひと、おれのこと好きなのかなって
 感じたことありますけど。」
「あると思うよ。
 ぼくも、先生で好きな先生いらっしゃるもの、笑。」
「そうなんですか。」
「相手も気づいてんじゃない?
 好きだとか
 嫌いだとかって感情は、隠せないもんね。」
「そうですね。」
「きみは、そのひとのこと好きなの?」
「いえ、べつに。」
「そっか、好きなほうが人生おもしろそうだけど、笑。」



P・D・ジェイムズの『殺人展示室』、読み終わりました。

人物描写と情景描写は
いつものように、とてもいい感じやった。
でも、さいごのところで、ちょっとなあ、と思った。
情景描写も人物描写も、これでもか! という感じやっただけに
さいごが、ちょっと、ええ? 
って思った。
ジェイムズ、コンプリートにコレクションしたけど
きょうから、『灯台』を読むのだけれど、どうやろうか。
もう数カ月も、ジェイムズづけやから
文体には慣れてしもたから、読むのは苦痛やないけど
それでも、じゅうぶん、読むのが遅い。
まあ、フロベールの『プヴァールとペキュシェ』ほど、遅くはないけど。
そいえば、このあいだまで読んでたSFは、はやかった。
かといって、すかすか読めるエッセイとかには、まったく興味がないし。



恋愛拒否症。

きょうも、日知庵でヨッパ。
横須賀から来てた男の子がそばに坐りに来て
話しかけてくれたけど
帰ってきた。
そいえば
何年か前も
日系のオーストラリア人のすっごいかわいい男の子が
ひざをくっつけてきたけど
気がつかないふりをしてた。
そだ。
これも何年か前
部屋に遊びにきた元教え子が(予備校のね)
さそってきたときも
ぼくは気がつかないふりをしてた。
つくづく
恋愛拒否症なのだと思う。
なのに
恋愛したいって思ってるってのは
頭でも、おかしいのかな?



『ガレッティ先生失言録』創土社版、到着。

あと、ブックオフでのお買い物、1冊。
五条堀川のブックオフでは
ブコウスキーの『町でいちばんの美女』単行本 105円。
これ、じつは、買うの二度目。
一度目は、お風呂場で読んだので
読み捨てた本だったのだが
きょう、なつかしくて手にとると
「精肉工場のキッド・スターダスト」
というタイトルの短篇が二番目に収録されていて
このタイトルから
むかし付き合ったノブユキのことが鮮やかに思いだされたので
衝動買いしたのであった。
二十数年前の話だ。
付き合いはじめて
まだ、そんなに経っていなくて
ノブユキはシアトルに留学していたから
長期の休みのときに会っていたのだけれど
さいしょの冬休みのときに
おみやげと言って渡されたのが
「精肉工場」というタイトルのポルノビデオだった。
英語のタイトルは忘れたけれど
meat なんとかだったと思う。
「ノブユキ」に似た日本人っぽい青年が
ガタイのいい白人の男に犯されるという設定のものだった。
似てない?
と訊くと
似てると思って買ってきたというのだ。
そういえば
ケンちゃんは自分が出演していたゲイ・ポルノのビデオを
ぼくにプレゼントしてくれたけれど
別れるときに返したら
「持っていてほしい。」
と言われて、びっくりしたことがある。
ノブユキのいたシアトルの大学でのレイプ事件
放課後に、日本人留学生の男の子が黒人の4人組に犯された話。
きのう、タカヒロくんに話してて
アメリカ人のガタイがいい人って、人間離れしてるもんね。
きゃしゃな日本人だったら抵抗できないかも、とかとか言ってて
ディルド8本、ロスの税関での没収(ディルド一個とビデオ7本の聞き間違い)の話もした。
これは、笑った。
ノブユキにもらったビデオ、捨てたのだけれど
いつか、どこかで目にすることができればいいなって思ってる。
ノブユキと出会った日の別れ際に
「バイバイ」
と、ぼくが言うと
ノブユキの微笑みがちょこっとのあいだ、歪んでとまったのだけれど
ぼくが笑うと、安心した笑顔になった。
その表情が鮮やかに思いだされて
それで、ブコウスキーを買い直したってわけ。
「精肉工場」ね。
ノブユキにもらったビデオのほうだけど
凍りついた牛の肉とか
ぜんぜん出てこなかった。

ブコウスキー
読んでおもしろいと思うのだけれど、
ブコウスキーをおもしろいと思うのは、
どこかで、だめだ、という気がしていた。
それで、ブコウスキーの本は、
お風呂場で読んで、読んだあとは捨てていたのだけれど、
パラ読みしてたら、やっぱりおもしろい。
目次ながめてるだけでも笑けてしまうぐらい。
でもでも、さきに、ガレッティ先生のほう、読もう。



反時計まわり。

もう何十年も、黒板に向かって、数式を書いたり消したりしておりますが
おとつい、あるおひとりの数学の先生に
「田中先生、図形は、どうして反時計まわりにアルファベットをふるのでしょうか。
 ご存じでしたら、教えていただけませんか?」
とたずねられて、その理由は知らなかったのですが
「たしかに、数学では習慣的にそうしていますが
 時計まわりでもよいはずですが
 しかし、たしかに
 座標平面を4分割したとき
 象限の名称が反時計まわりに
 第I、第II、第III、第IV象限って名付けられていますね。
 デカルトの時代には正の象限しかなかったので
 デカルト以後でしょうけれど。」
とかとか話しておりましたが、判然とせずにおりましたところ
古代文字の書き方の話になり
右から左に、それとも、左から右に書くのはどうしてでしょうね。
みたいな話にまで飛びましたら
その数学の先生が、近くにおられた宗教学の先生に
「アラビア語は右から左に書くのですか?」
と訊かれて
その宗教学の先生が
「そうですよ。」
とおっしゃって
「インクのない時代だからだったのでしょうね。」
と、ぼくが口をはさむと
「右利きの場合は、ですね。
 しかし、もともと文字を石に掘っていたので
 右から左なのですよ。」
とおっしゃって、身ぶりをまじえて
「こう、左手に鑿を持ち、右手で槌を打つのですね。」
「楔形文字の場合もですか?」
とぼくが言うと
「それは型を圧す方法ですから
 左から右です。
 右からでしたら、つけた型を損なうかもしれないでしょう。」
と言われて、ああ、なるほどと思ったのですが
すると、さいしょにぼくにたずねられた数学の先生との話に戻って
その数学の先生が、ぼくとの会話のいきさつを話されたので
すると、その宗教学の先生が
「巡礼が廻廊をまわるのも反時計まわりですよ。」
ぼくも、もうひとりの数学の先生も知らないことでした。
思わず、ふたりは目を合わせましたが
「どうして反時計まわりなんですか?」
と、その数学の先生が宗教学の先生に訊かれたのです。
そしたら、意外なところに
いや、よく考えたら意外ではなかったのですが
「北極星を中心に星が反時計まわりに動いているでしょう。
 そこからじゃないですか。」
ぼくと、もうひとりの数学の先生の目がもう一度合いました。
「解決しましたわね。
 おもしろいですわね。
 きょう、わたくし、脳が覚醒して眠れないかもしれません。」
「ぼくもです。
 習慣といっても、起源があるものでしょうから
 理由があるのですね。」
そしたら、その数学の先生が目をきらきら輝かせて
ひとこと、こうおっしゃいました。
「そうでしょうか。
 わかりませんよ。」
と、笑。
おもしろいですね。
人間というものも、知識というものも。
ぼくにたずねられた数学の先生
ぼくにP・D・ジェイムズを教えてくださった方で
P・D・ジェイムズばりに知的な方で
たまにたずねられることがあるのですが
そのたびに緊張いたします。
楽しい緊張ですが、笑。
そういえば、デカルトもニュートンも
むかしの学者って、数学や科学が専門でも
神学と哲学以外に、占星術も学問として修めていましたね。



この数学の先生、岸田先生というお名前なのだけれど
ぼくに、P・D・ジェイムズをすすめてくださった先生ね。
で、『原罪』のテーマって、日本では無理ですよね、ナチスなかったし
と、ぼくが言うと
「そうですか?
 日本にはありませんか?
 在日問題とか、あるんじゃありませんか?」
とおっしゃって。
そういえば、ぼくの実母だって、被差別部落出身者だし
それが理由の一つでぼくの父親とも離婚したんだし
とか思ったけれど、いま職員室で言うことじゃないと思って、そのことは黙ってた。
「そうですね。
 ぼくは当事者じゃないので、想像もできませんでしたけど
 それほど自分から遠い話ではありません。
 韓国籍の友人もいましたし。
 でも、それで苦しんでるなんて聞いたこともなかったので
 思い至りませんでした。」
そうか。
在日問題か。
気がつかなかった。
うかつやったな。



ピオ神父、10260円。

きのう
日知庵に行く前に
カソリック教会である三条教会の隣のクリスチャンズ・グッズのお店で
いろいろなものの値段を眺めていた。
安物っぽいピエタ像が10000円以上してたり
どう考えても、そんな値段はおかしいと思うものがいっぱいあった。
ピオ神父の20センチくらいの陶器製の置物が
10260円だった。
税込みで。
ちょっと欲しくなるくらいのよい出来のものだったが
ほかのものもそうだが
値札がひも付きのもので
首にぶら下げてあるのであった。
キリストもマリアも神父さんもみな
首に値札がぶら下がっていたのであった。
店の入り口にホームレスが寝ていた。
店のひとは追い払わないでいた。
太ったホームレスだった。
そういえば
だれだったか忘れたけど
また、いつのことだったか忘れたけど
四条河原町で明け方に狭い路地のところに
ガタイのいい男が裸で酒に酔って寝ていたらしく
連れて帰ったらホームレスだったって
だれか言ってたなあ。
タクちゃんかな。
タクちゃんは、汚れが好きだからなあ。
たぶん。



そうそう
きょう買った世界詩集の月報にあった
アポリネールの話は面白かった。
アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに
彼が恋人と口げんかをして
彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって
それで、友だちが食事をしていたら
彼が部屋から出てきて
テーブルの上を眺め渡してひとこと
「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」
ですって。



人間の基準は100までなのね。
むかし
ユニクロでズボンを買おうと思って
買いに行ったら
「ヒップが100センチまでのものしかないです。」
と言われて
人間の基準って
ヒップ 100センチ
なのね
って思った。
って
ジミーちゃんに電話で
いま言ったら
「ユニクロの基準でしょ。」
って言われた。
たしかにぃ。
しかし
ズボンって言い方も
ジジイだわ。
アメリカでは
パンツ
でも
パンツって言ったら
アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど
若い子が聞いたら
軽蔑されそう。
まっ
軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。



部屋にあった時計がなくなっている。
枕元にあったのだけれど、なくなる理由がわからない。
部屋の外で、このビルの非常ベルも鳴らされているし、よくわからない。
もうちょっと、時計をさがす。
あ、非常ベルが鳴りやんだ。
相変わらず、目覚まし時計はない。
もうちょっと、さがそうっと。

見つかった。
なにが。
目覚まし時計が。
マカロニサラダをつくるときに、キッチンに持っていっていたのであった。



ごめんなさい、午前2時さん。

へんな時間(ごめんなさい、午前2時さん)に目がさめた。
得したのか(読書できるから)なあ。
しかし、はやすぎる。
もう一度寝床に(クスリ、飲んでるんだけど、飲み過ぎのせいかなあ)。
ああ、でもすっかり目がさめてる。
コーヒーを飲むべきかどうか。
ハムレット状態でR。



つぎの長篇詩のタイトル、『カラカラ帝。』に。
「カラカラって?」
「からかって?」
「ご変身くださいまして、ありがとうございました。」
「いいえ、ご勝手に。」
「そりゃ、そうでしょ。」
「噛むって言ってたじゃん!」
「ぜったい、ぜえったい買うって言ってたじゃん。」
「わーすれましたぞな、もっし。」



安田太くんのこと、思い出した。2歳下で、ラグビーで国体に出た、かっこいいヤツだったけど、どSやった。けど、二人で河原町のビルの上階にあるレストランに行ったとき、男女のカップルの女の子のほうが、ぼくらをじろじろ見てた。そんなにゲイ丸出しやったんやろか。二人とも体格よかったんだけど。

男の子は顔を伏せてた。ぼくらを見ないように。おもしろいね。女の子はじろじろ見てて、男の子は恥ずかしそうにうつむいてた。女の子の好奇心って、つよいね。男の子がシャイなだけなのかな。まあ、しかし、ぼくらがゲイのカップルだってことは見破られてたんだ。どこでやろか。べつに手もつないでないし。

やっぱ、視線かな。ぼくと太くんの、お互いに見つめ合う。

太くんが21歳で、ぼくが23歳のときの話ね。ディープな話は、作品でまた書こうと思ってる。ヒロくんと同じように絵を描くのが趣味やった。ゲイって、けっこう芸術やってる子が多くて、ぼくの付き合った子のうち、二人は作曲家やった。一人は複数の歌手のゴーストライターしてた。もう一人はCM曲。

あ、CMの子とは付き合ってないか。できてただけかな、笑。しかし、二人とも、ぼくよりずっと年下なくせに、えらそうだった。二人とも同じこと、ぼくに言ってたなあ。「芸術やってたら、それで食べられるぐらいにならんと、あかんのちゃう?」って。こんな言葉は、芸術で食べてるから言えるんだよね。

さてさて、これから、西院のパン屋さんまでモーニングを食べに行こう。帰りにダイソーで、詩集の賞に応募するための封筒を買ってこよう。きょうは、3つ、4つの賞に応募しようっと。んじゃ、行ってきま〜す。



鼻輪。

注文していたパンが2個たりなかったので、アップルパイみたいなのね、カウンターに行って、あと2個たりないからねって言って頼んで、自分が坐っていたテーブルに戻ると、さっきまで唐だった隣のテーブルに家族連れ3人の女性がやってくるところだった。姉なのかな、30代くらいの女性が
posted at 10:23:56

「トイレどこかしら?」と妹らしき女性にたずねた。(顔がお母さんンと3人ん似ていたので)ぼくが「ここにはトイレがありませんよ。出て、隣のビルの地下にトイレがあります。」と言うと、妹さんのほうが(彼女は20代だろうね)「ありがとうございます。」と言って、姉の顔を
posted at 10:27:51

見上げた。妹はすでに腰かけていて、姉は立っていたから。姉が母親といっしょに出て行くと、妹さんは、少しぼくに近いところに坐りなおして「ありがとうございました。」とにこっと笑いかけてきたので、ぼくは、いつも自分のリュックにしのばせている自分の詩集を出して、「これ、よかったら、
posted at 10:30:02

読んでみてください。詩集です。もしも気に入られれば、ジュンク堂や紀伊国屋や大垣書店に、ほかの詩集も置いてありますから、買ってやってください。その詩集、シリーズものなんですよ。」と言って彼女の手に渡した。彼女は「ありがとうごじあます。」と言って手のなかの詩集のページを
posted at 10:32:31

めくった。しばらく目を落としていたが、母親たちが戻って来たので、ぼくが詩集をプレゼントしたことを二人に説明した。二人は別に怪訝そうな顔をすることなく、ぼくに礼を言い、店員に運ばれてきたパンやサラダに目をやった。ぼくのほうにも、あの2個のアップルパイがきた。
posted at 10:35:07

ぜんぶたいらげて、レックバリの『氷姫』を読んでいた。奥のテーブルにパン屋サラダを運び終わった店員が、ぼくの目の前を通り過ぎようとしたので、「もう10時になっていますかね。」と尋ねた。少しふっくらとした若い女性の店員は、「ええ、過ぎていますよ。」と返事してくれた。いつも
posted at 10:37:14

にこにこ笑顔をしている、かわいらしい店員さんだった。ぼくが、いつもたくさんパンを食べるので、きっと、ぼくにききたいことがあるような気がしてる。いったい、一日にどれだけ食べるんですかって、笑。自分のテーブルの上にあったレシートを見ると、9時51分になっていた。そりゃあ、
posted at 10:39:16

10時は過ぎてるなと思った。隣のテーブルの女性陣たちに、「いや、これからダイソーに行くので、訊いたんですよ。」と言った。携帯を持ってないことは言わなかった。ぼくは、時計も持たない主義なのだ。で、ダイソーで、詩の賞に応募するための封筒を4枚買い、アルカリ単3電池も
posted at 10:41:10

6個入りのもの2セット買って、雨のなか、透明のビニール傘をさして帰ったのだが、帰り道で、黒人の青年に出合った。というか、すれ違った。おもしろかった。だって、彼は、スーツ姿で、スーツケースを手にして、傘を持って歩いてたんだけど、鼻輪もしてたの。それも小さいヤツじゃなくて、
posted at 10:43:11

唇の3分の2くらいの大きさの銀色のもの。完全な金属製の輪っか。びっくりした。でも、おもろかった。笑わなかったけど、こころのなかで、思いっきり笑った。こんな鼻輪をした黒人青年の話を、日本の会社のどんな立場のひとが相手にするんだろうかって。ビジネスの話のあいだ、気になって
posted at 10:44:54

仕方がないんじゃないかなって。ぼくだったら見るわ〜、その鼻輪。きらきらと輝く、めっちゃ肌の色とコントラストしてる、その銀色の輪っかを。男前の若い黒人さんだったから、ドキッともしたけどね。輪っかは、印象に残るわ。まあ、ぼくが会社のひとだったら、そく抱きついちゃうかもね、笑。ブヒッ。
posted at 10:47:37



吉田くん。

電車に乗ると、席があいてたので、吉田くんの膝のうえに腰かけた。吉田くんの膝は、いつものように、やわらかくてあたたかかった。電車がとまった。親子連れが乗り込んできた。小さな男の子が吉田くんの手をにぎった。

このあたりの地層では、吉田くんが、いちばんよい状態で発見されます。あ、そこ、褶曲しているところ、そこです、ちょうど、吉田くんが腕を曲げて、いい状態ですね。では、もうすこし移動してみましょう。そこにも吉田くんがいっぱい発見できると思いますよ。

玄関で靴を履きかけていたわたしに、妻が声をかけた。「あなた、忘れ物よ。」妻の手には、きれいに折りたたまれた吉田くんがいた。わたしは、吉田くんを鞄のなかにいれて家を出た。歩き出すと、吉田くんが鞄から頭を出そうとしたので、ぎゅっと奥に押し込んだ。

「きみ、どこの吉田くん?」また、いやなこと、訊かれちまった〜。「ぼく、吉田くん持ってないんだ。」「えっ? いまどき、携帯吉田くん持ってないヤツなんているの?」あーあ、ぼくにも携帯吉田くんがいたらなあ。いつでも吉田くんできるのに。

はじめの吉田くんが頬に落ちると、つぎつぎと吉田くんが空から落ちてきた。手で吉田くんをはらうと、ビルの入口に走り込んだ。地面のうえに落ちるまえに車にはねられたり、屋根のうえで身体をバウンドさせたりする吉田くんもいる。はやく落ちるのやめてほしいなあ。

ゲーゲー、吉田くんが吐き出した。「食べ過ぎだよ。」吉田くんが吐き出した消化途中の佐藤くんや山田さんの身体が、床のうえにべちゃっとへばりついた。

吉田くんを加熱すると膨張します。強く加熱すると炭になり、はげしく加熱すると灰になります。蒸発皿のうえで1週間くらい置いておくと、蒸発していなくなります。

吉田くんは細胞分裂で増えます。うえのほうの吉田くんほど新しいので、すこし触れるだけで、ぺらぺらはがれます。粘り気はありません。

「あちちっ!」吉田くんを中心に太陽が回っています。「あちちっ!」太陽が近づくときと遠ざかるときの時間が短いのです。「あちちっ!」吉田くんは、真っ黒焦げです。

さいしょの吉田くんが到着してしばらくすると、つぎの吉田くんが到着した。そうして、つぎつぎと大勢の吉田くんが到着した。いまから相が不安定になる。時間だ。たくさんの吉田くんがぐにゃんぐにゃんになって流れはじめた。

この竹輪は、無数の吉田くんのひとりである。空気・温度・水のうち、ひとつでも条件が合わなければ、この竹輪は吉田くんに戻れない。まあ、戻れなくてもいいんだけどね。食べちゃうからね。

二酸化吉田くん。

「水につけて戻した吉田くんを、こちらに連れてきてください。」ずるずると、吉田くんが引きずられてきた。「ぼくは、どこにもできない。」本調子ではない吉田くんの手がふるえている。「ぼくは、どこにもできない。」絵画的な偶然だ。絵画的な偶然が打ち寄せてきた。

きょうのように寒い夜は、吉田くんが結露する。

「はい。」と言うと、吉田くんが、吉田くん1と吉田くん2に分かれる。

吉田くんは、ふつうは、水に溶けない。はげしく撹拌すると、一部が水に溶ける。

吉田くんを直列つなぎにするときと、並列つなぎにするときでは、抵抗が異なる。

理想吉田くん。

吉田くんの瞳がキラキラ輝いていた。貼りつけられた選挙ポスターは、やましさにあふれていた。

精子状態の吉田くん。

吉田くんを、そっとしずかに世界のうえに置く。吉田くんのうえに、どしんと世界を置く。

タイムサービス! いまから30分間だけ、3割引きの吉田くん。

丸くなった吉田くんを、ガリガリガリガリッ。

「ほら、出して。」注意された生徒が、手渡された紙っきれのうえに、吉田くんを吐き出した。「もう、何度も、授業中に、吉田くんを噛んじゃいけないって言ってるでしょ!」端っこの席の生徒が、手のなかの吉田くんを机のなかに隠した。

「重くなる。」吉田くんの足が床にめりこんだ。「もっと重くなる。」吉田くんがひざまずいた。「もっと、もっと重くなる。」吉田くんの身体が床のうえにへばりついた。「もっと、もっと、もっと重くなる。」吉田くんの身体が床のうえにべちゃっとつぶれた。

あしたから緑の吉田くん。右、左、斜め、横、縦、横、横。きのうまでオレンジ色の吉田くん。右、左、斜め、横、縦、横、横。

吉田くんの秘密。秘密の吉田くん。

ソバージュ状態の吉田くん。

焼きソバ状態の吉田くん。

「さいしょに吉田くんが送られてきたときに、変だなとは思わなかったのですか?」「ええ、べつに変だとは思いませんでした。」机のうえに重ねられた吉田くんを見て、刑事がため息をついた。

さまざまなことを思い出す吉田くんのこと。さまざまな吉田くんのことが思い出すさまざまなこと。さまざまなことが思い出す吉田くんのこと。

「いててっ。」足の裏に突き刺さった吉田くん。

春になると、吉田くんがとれる。

吉田くんをチンして温め直す。

散らかした吉田くんを片づける。

窓枠のさんにくっついた吉田くんを拭き取る。



吉田くん。 しょの2

恋人も、友だちも、さまざまな理由で、ぼくから離れていったし、さざまな事情で、ぼくも彼らから離れていった。憎まれたり憎んだりもしただろう。いまも愛されているかもしれないし、愛している。しかし、文学は、一度として、ぼくから離れることはなかったし、ぼくが文学から離れることもなかった。
posted at 12:33:04

きのう思いついた短い作品をこれから書き込む。連作である。いつか、これも長大な作品になることと思う。さまざまな方向転換と作り直しを繰り返して。
posted at 12:34:42

テレビを見ながら、晩ご飯を食べていた吉田くんは、突然、お箸を置いて、テーブルの縁をつかむと、ぶるぶるとふた震えしたあと、動かなくなった。見ていると、身体の表面全体が透明なプラスチックに包まれたような感じになった。しばらくすると、吉田くんは脱皮しはじめた。#yoshidakunn
posted at 12:40:33

ことしも吉田くんは、ぼくの家にきて、卵を産みつけて帰って行った。吉田くんは、ぼくの部屋で、テーブルの上にのってズボンとパンツをおろすと、しゃがんで、卵を1個1個、ゆっくりと産み落としていった。テーブルの上に落ちた卵は、例年どおり、ことごとくつぶれていった。#yoshidakunn
posted at 12:44:26

背の高い吉田くんと、背の高い吉田くんを交配させて、よりいっそう背の高い吉田くんをつくりだしていった。#yoshidakunn
posted at 12:45:23

体重の軽い吉田くんと体重の軽い吉田くんを交配させていったら、しまいに体重がゼロの吉田くんができちゃった。#yoshidakunn
posted at 12:47:15

今日、学校から帰ると、吉田くんが玄関のところで倒れてぐったりしていた。玄関を出たところにあった吉田くんの巣を見上げた。きっと、巣からあやまって落ちたんだな。そう思って、吉田くんを抱え上げて、巣に戻してあげた。#yoshidakunn
posted at 12:49:44

きょう、学校からの帰り道、坂の途中の竹藪のほうから悲鳴が聞こえたので、足をとめて、竹藪のほうに近づいて見てみたら、吉田くんが足をバタバタさせて、一匹の蛇に飲み込まれていくところだった。#yoshidakunn
posted at 12:51:24

吉田くんの調理方法。吉田くんは筋肉質なので、といっても、適度に脂肪はついてて、おいしくいただけるのですけれども、肉を軟らかくするために、調理の前に、肉がやわらかくなるまで十分、木づちで叩いておきましょう。#yoshidakunn
posted at 12:54:17



なぜ、眠る直前の記憶がないのだろうか。目が覚めているときの自我というものが消失してしまうからだろうか。自我が固定した一個のものとして見るのならば消失はあり得ない。瞬間瞬間に凝集されたものとして考えるとよいだろう。なにを凝集するのか。概念のもとになるものだろう。 #otetugaku
posted at 15:13:05

自我は概念になるもとになるものと、それらが凝集される、そのされ方によって形成されるものではあるが、概念のもとになるもの自体に概念形成力があるために、自我はつねにさまざまな感覚器官の影響を受けているのである。形成される場の環境に依存し、状況に大いに依存する。 #otetugaku
posted at 15:16:35

眠る直前に、概念のもとになるものを凝集するだけの力を自我が持てず、つまり、凝集するだけの概念形成力を自我が失っているために、眠る直前の自分の状況を自覚することができないのである。 #otetugaku
posted at 15:21:07

ところで、眠っているときに見る夢は、いったいだれがつくているのだろうか。夢を見ているのは、いったいだれであろうか。夢の材料とは、いったいなにからつくられているのであろうか。 #otetugaku
posted at 15:22:29

眠っているときに見るのは、わたしである。わたしの自我である。しかし、それは眠る前に存在していた(たとえ、瞬間瞬間にではあっても)自我とは異なるものである。感覚器官が働かず、環境もまったく異なるために、持ち出される概念になるもとのものがまったく異なるからである。 #otetugaku
posted at 15:25:05

では、夢をつくっているのはだれか。それも、わたしである。しかし、それは夢を見ているわたしとは異なるわたしである。なぜなら、夢を見ているわたしが知らないことをわたしに教えることがしばしばあり、驚かされるような知識をもたらせるものだからである。まるで赤の他人だ。 #otetugaku
posted at 15:27:50

それでは、夢の材料は、いったいなにからつくられているというのか。それもまた、わたしだ。それこそ、まったきわたしであり、全的にわたしであるものなのだ。目がさめているときにわたしを形成している自我を包含する、無意識領域をも含めてのわたし。すべてのわたしであろう。 #otetugaku
posted at 15:29:29

つまり、夢を見ているときに現象的に発生している自我は、少なくとも二つあり、その二つの自我に、自我を形成する素材を提供しているものが一つあるということである。その二つの自我に自我を形成させる素材を提供している全的なわたしを、いかに豊かなものにするか。 #otetugaku
posted at 15:33:16

知識だけではなく、経験に照らし合わせた知見も大いに利用されているであろう。感覚器官が、無意識的に導入しているもろもろの事柄も大事なものである。したがって、つねに、アンテナを張っていなければならない。もろもろのことどもに。つねに慎重に、そして、ときには大胆に。 #otetugaku
posted at 15:36:24

いまから、パスタの材料買いに行ってくるわ。雨が少し弱くなってるようやから。雨は眺めていると美しいのだけれど、買い物に出かけるときには美しいとはあんまり感じひんなあ。でも、どこか美しいところ見つけてこよう。美しいところ探して歩こう。たぶん、いっぱいあるやろな。 #otetugaku
posted at 15:39:27

雨、ぜんぜんゆるないわ。もうちょっと待って買いに行こう。それまで、D・H・ロレンス。いま、BGMは、バークレイ・ジェイムズ・ハーベストの『TIME HONOURED GHOSTS』。 #otetugaku
posted at 15:43:51



けさ、お風呂場で考えた数学の問題。

いま、お風呂に入って身体を洗っているときに、突然思いついた。このあいだ、何人かの数学の先生たちで検討していた分数式の恒等式の定数について、変形後の定数が同じものである保証がされているかどうかだけど、ぼくは十分条件って思ってそう言ったけど、必要条件だね。とてもおもしろい比喩を考えた。

日本じゅうのホテルのすべての部屋に合うマスターキーを持っていたら、京都のホテルのどこの部屋にでも入れる。必要条件から引き出された、新しい恒等式から導き出された定数には、その日本じゅうのホテルのすべての部屋に合うマスターキーの意味がある。これ、ワードにコピペして学校に持って行こう。



図書館の掟。II  しょの1

『死者とうまく付き合う方法』という本が
書店のベストセラー・コーナーに平置きで並べてあった。
デザインもセンスがよくて、表紙に使われていた写真の人物も
だれかはわからなかったが、威厳を持った死者特有の表情をしていた。
表紙をめくると、その人物が大都市マグの先々代の市長であることが明記されていた。
いったい、この市長の子孫が、どれだけのロイヤリティーを懐に入れたのか
知ることなどできないが、この売れ行きを見ると相当なものであることが推測される。
わたしが手にとって見ていたこの短いあいだにも
少し年配の一人の女性が、平置きの1冊を手に持ってレジに向かう姿が見られたのだから。
ベストセラーは買わない主義のわたしであったが
ページを開くと、文字の大きさと余白のバランスもよく
文体も、気に障るようなものではなさそうだったので買うことにした。
わたしの仕事に関するものではなかったので
レジでは、領収証は要求しなかった。



悲しみ。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

1=半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+……

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

1=半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+……

だから、悲しみの半分を悲しみではないものにする。

残った半分の悲しみの半分をほかのものにする。

さらに残った半分の半分の悲しみの半分をほかのものにする。

これを繰り返して、悲しみを限りなくほかのものにする。

それなのに、残ったものは、最初にあったものと同じもの、

同じひとつの悲しみであった。



以下は、文学極道の詩投稿掲示板に書いたコメントです。
おもしろいものだと思ったので、ここにその写しをコピペしておきます。
るるりらさんの詩句に対するコメントでした。
(のちに訂正をしたものを含む)


一になれない 僕のおもいは 

この「一」は「1」のほうがいいかなって思いました。

0.999……=1

数学的にはこうなのですが、この方向に

分は0.1
厘は0.01
毛は0.001
糸(し)は0.0001 
忽(こつ) 0.00001 
微(び)0.000001 
繊(せん)0.0000001 
沙(しゃ)0.00000001 
塵(じん)0.000000001
埃(あい)0.0000000001
渺(びょう)0.00000000001
漠(ばく)0.000000000001
模糊(もこ)0.0000000000001
逡巡(しゅんじゅん)0.00000000000001
須臾(しゅゆ)10-15(1000兆分の1)
瞬息(しゅんそく)10-16 
弾指(だんし)10-17
刹那(せつな) 10-18
六徳(りっとく)10-19 
虚空(こくう) 10-20  
清浄(せいじょう)10-21   
阿頼邪(あらや)10-22
阿摩羅(あまら)10-23 
涅槃寂静0.000000000000000000000001

これらが利用されてあればなあ、と、ふと思いました。
そうすれば、「一になれない」というところと符合すると思うのですが
しかし、それでは、るるりらさんの意図から外れますね。
「一になれない」というところと符牒するようにつくるのは難しそうですね。
あ、ぼくは、へんなところにこだわっているのかも、と思いました。
すいません。
作者の意図の上で、まず検討しなければならないのに。
うえの小さな数たちは、つぎの言葉の扉にあたるものだったのですから。

一に遠い遠い その数に寄り添う
強い花があるという


追記

バカなことを書きました。
すいません。

0.999……=1

だめですね。
1になっちゃだめなんですもの。

分は0.1
厘は0.01
毛は0.001
糸(し)は0.0001 
忽(こつ) 0.00001 
微(び)0.000001 
繊(せん)0.0000001 
沙(しゃ)0.00000001 
塵(じん)0.000000001
埃(あい)0.0000000001
渺(びょう)0.00000000001
漠(ばく)0.000000000001
模糊(もこ)0.0000000000001
逡巡(しゅんじゅん)0.00000000000001
須臾(しゅゆ)10-15(1000兆分の1)
瞬息(しゅんそく)10-16 
弾指(だんし)10-17
刹那(せつな) 10-18
六徳(りっとく)10-19 
虚空(こくう) 10-20  
清浄(せいじょう)10-21   
阿頼邪(あらや)10-22
阿摩羅(あまら)10-23 
涅槃寂静0.000000000000000000000001



一になれない 僕のおもいは 

を、より整合性あるように結びつける叙述って、いま思いつきませんが
思いつきましたら、また追記させていただきます。
おもしろそうですから。
純粋な好奇心からのものです。


追記2 

五条大宮の公園の日のあたったベンチに坐りながら
P・D・ジェイムズの『罪なき血』を読んでいましたら

1−0.1=0.9
1−0.01=0.99
1−0.001=0.999
 ……

であることに気がつきました。
これを逆用すれば、いかがでしょうか。
叙述で実現するには、どうすればよいのかは、
ぼくにもまだわかりませんが。
ちなみに、上の式を思いついたのは、P・D・ジェイムズの『罪なき血』のつぎの記述のところでした。

(…)スケイスの生活はすっかり彼女の生活に直結し、毎日の日課は彼女の日々の外出に
よって決まったから、彼女の姿がないと、まるで話相手を失ったように手持ち無沙汰になる。
(第二部・13、青木久恵訳、ハヤカワ文庫 282ページ)

また、逆用ということでは、つぎのような等比数列の和も1になりますので
もしかしたら、利用できるかもしれませんね。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

両辺を入れ換えた式も逆用できるかもしれません。

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

ですね。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

書いてて、自分が楽しくなってきました。
どこかで、ぼく自身の詩に使おうかなって思いました。
また、なにか気がつきましたら、追記させていただきますね。


追記3

ふたたび公園に行きました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.001+0.009
 ……

といった式を公園の入り口で思いつきました。
自転車がスムーズに通れないようにしてある車輪通過止めのための金具の間を
ペダルを右・左に斜めにして工夫して侵入しようとしたときでした。
途中でフレスコというスーパーに寄り、ベンチに坐りながら食べようと思って買った
「鶏南蛮弁当399円」を先ほど坐っていたベンチの上であけたのですが
鳩がたくさん寄ってきたので、ひとの多い、鳩の寄らない公園の中央に移動して
桜の花の下で食べながら、入り口で思いついた式のつづきを考えていました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.001+0.009
 ……

これらの式を辺々足し合わせたものを想起させますと

左辺=1+1+1+……= ∞

右辺を見かけ上、2つの数列の和として(ここのところで数学的に誤りがありますが)
それぞれ取りだしてみますと

0.1+0.01+0.001+……
0.9+0.09+0.009+……

で、これは、どちらも、無限大になります。
式にしますと

0.1+0.01+0.001+……= ∞
0.9+0.09+0.009+……= ∞

これらを、もとの式に代入すると

∞ = ∞ + ∞

となりますが、この式は、数学的に正しくない場合がありますね。
(そもそも、途中の操作で違反をしているのですが)
しかし、右辺と左辺を入れ替えた

∞ + ∞ = ∞

この式は正しいのです。
おもしろいですね。
しかし、この正しい式から、∞ を引いてやることはできません。
これは、∞ が数ではなくて、状態をあらわす記号であるためですが
仮にできるとしてやってみますと

 ∞ =0

という式が出てきます。
おもしろい。
そういえば、

0.1+0.01+0.001+……= ∞
0.9+0.09+0.009+……= ∞

についてなのですが、

0.9+0.09+0.009+……=9×(0.1+0.01+0.001+……)

ですから、

 ∞ = 9×∞

という式も導かれます。
これ自体は数学的に正しい式なのですが
両辺を入れ換えた式も数学的に正しく、そのほうが心理的にも妥当なものに思えるでしょうから
それを書きますと

9×∞ = ∞

となります。
9を、どのような大きな数にしても成り立ちます。
そこで、その数の代わりに ∞ の記号を入れてみますと

 ∞×∞ = ∞

が得られます。
この式もまた数学的に正しいものなのですが
この式において、∞ を数のようにして扱い、両辺を ∞ で割ることはできません。
仮にできたとすると

 ∞ = 1

となってしまいます。
おもしろいですね。
0という数もおもしろいものですが
∞ という記号も魅力的ですね。

るるりらさんの詩作の意向に添った式というのは
おそらく、つぎの式、一つだけだったでしょう。
長い記述を書きつづってしまって、ごめんなさい。
ついつい、楽しくて。

0.1+0.01+0.001+……= ∞


追記4

うわ〜、るるりらさん、ごめんなさい。
きのうの考察、間違ってました。

0.1+0.01+0.001+……=1/9

であって、∞ にはならなかったです。

0.9+0.09+0.009+……=1

であって、∞ にはならなかったです。
しかし、1+1+1+……= ∞ は正しいのですが
どこで間違ったのでしょう。
これからいそいで調べます。
(しばし、調べてみました。)
こんどの式の値は、間違ってなかったみたいです。
しかし、矛盾しますね。
きょうは、公園で、このことについて考えます。
夕方からは塾なので、それまでに解決すればいいのですが。


追記5

わかりました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.01+0.009
 ……

これが間違っていました。
恥ずかしい。

1=0.1+0.9
0.1=0.01+0.09
0.01=0.001+0.009
 ……

ですね。
しかし、これだと
左辺は 1+0.1+0.01+0.001+……=10/9
右辺は (0.1+0.01+0.001+……)+(0.9+0.09+0.009+……)=1/9+1=10/9
ということになり、あまりおもしろいものではなくなりました。
すいません。
ただ、つぎのことだけは、わかりました。
塵が積もっても山にならないことが。
なぜなら

0.1+0.01+0.001+……=1/9

だったからです。


追記6

0.9+0.09+0.009+……=1

のほうが

0.1+0.01+0.001+……=1/9

より断然、おもしろいですけど
そもそも

0.9+0.09+0.009+……=0.999……



0.9+0.09+0.009+……=0.999……=1

ですものね。
こちらのほうを利用して
っていうのは、どうでしょうか。
うううん。
ぼくもすぐに思いつきそうにありませんが。



三村京子さんの大阪・京都ライブ情報。

3/25(金)中崎町(大阪)Common cafe
http://www.talkin-about.com/cafe/
open19:00/start19:30
前2000yen/当2500yen(1d別)
共演:良元優作(歌、ギター)
船戸博史(コントラバス)

3/26(土)京都 拾得(じっとく)
http://www2.odn.ne.jp/jittoku/
open17:30/start19:00
前2000yen/当2500yen(1d別)
共演:長谷川健一(歌、ギター)
船戸博史(コントラバス)

ぼくは、あした、拾得に行きます。



2011年3月26日のメモ しょの1 図書館の掟。II  しょの2

「これは何だ?」
両手首をつなぐ鉄ぐさりを持ちあげて、
死んだ父は言った。
そして、ふいに思い出したかのように
「そうだった。
 名誉ある死者は
 こうして鋼鉄製の手枷を嵌められて
 過去の知識を現代に確実に伝える語り部として
 図書館に収蔵されるのだった。
 わたしもそのひとりだった。」
死んだ父の目が、わたしの目を見据えた。
「それで、おまえは、わたしに
 いったい、何を訊ねにきたのかね。」
「母についてです。
 母が死んだのです。」
「あれが死んだ……
 なぜじゃ?」
「わかりません。
 自ら首を吊って亡くなりました。」
死んだ父が天井を見上げた。
「それで、なぜ、わしのところに来たのかね?」
ふたたび死んだ父の視線を受けて
わたしは、すこしひるんでしまった。
死者にも感情があったことを思い出したからであった。
表情にあらわれることはなかったが
虹彩に散らばった銀色のきらめきがわずかに、だが確実に増したのだった。
「母が亡くなったのが
 ここにきて、あなたに会われてから
 すぐにだったからですよ。」
「死者には生前の記憶しかないのだよ。」
「いいえ、それは事実ではありません。
 数日のあいだは、記憶を保持できるはずです。
 わたしたち生者の赤い血と違ってはいても
 その銀白色の血液にも霊力があり
 あなたたち死者の体をかりそめにでも動かし
 あなたたち死者の脳にかりそめにでも思いをめぐらすことができるはず。
 いったい、母はあなたから何を聞きだしたのですか?」
「あれは、わしの話を耳にして帰ったのではない。」
「どういうことですか?」
「あれは、おまえのことを、わしに話に来たのじゃ。」
「わたしのことをですか?」
「そうじゃ。」
「わたしの何についての話だったのですか?」
「おまえが、もはや人間ではなくなっておると話しておった。」
「どういうことですか?」
「リゲル星人と精神融合を繰り返しておるあいだに
 おまえが、人間としての基幹部分を喪失してしまったと言っておった。」
わたしは自分の手先に目をやった。
わたしの指のあいだをリゲルの海の水を覆っていた。
リゲルの渚でよく見かけた小魚が手の甲のうえを泳ぎ去っていった。
ダブル・ヴィジョンだった。


* これは、『舞姫。』と『図書館の掟。』をつなぐ作品のひとつになる。



2011年3月26日のメモ しょの2

 シンちゃんの部屋に4時30分ごろに着いた。電話で言っておいた時間通り。シンちゃんは、時間どおりでないと、そのことだけで10分は嫌味を言うひとだから、時間は速めでも遅めでもなく、ほとんどぴったりでないと、非常に不愉快な目に遭うので、時計も形態も持たないぼくは、シンちゃんちの近くにあるコンビニの時計で時間を調整したのだった。180円の(税抜きだったか税込みだったか忘れた。値札が180円だったことだけ憶えてる。)ナッツ(アーモンドとカシューナッツのもの)を一袋、おみやげに買って言ったのだった。チョコチップの入ったクッキー(よくスーパーで100円で売ってるやつ)とカプチーノ(おいしかったので、いくらするのって言ったら、パッケージを出して、150円で8袋って言うから、じゃあ、一袋30円しないんだね、おいしいね、ぼくがいつも飲んでるインスタントのネスレのなんか、まずいわ〜、これに比べたら、と言った。溶けるから、と言ってシンちゃんが、ぼくのカプチーノからプラスティックのバー・スプーンのちいさいやつ、あの耳かきみたいなやつを出した。ぼくが溶けるの、と再度きくと、曲がるからというので、曲がると溶けるは違うんじゃない、とか言ったけどスルーだった。)をごちそうになった。カプチーノの顆粒状粉末が入った銀色のチューインガムくらいの袋をあけて熱湯を注いでくれたんだけど、泡立ちがすごかった。くるくるバー・スプーンでかき混ぜてくれた。二敗目をすぐにリクエストしたら、それは、自分で混ぜろというつもりでか、ぼくの手にバー・スプーンをのせた。CDかDVDをかけて、というと、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』のDVDをかけてくれた。英語の教材用にもなってるやつで、へえ、英語を勉強しながら見てるんだって言った。ブラビがジジイで生まれてくるやつね。ふつうの映画だったら、くさいんじゃないってセリフが随所に盛り込まれていた。けれど、時間に関する思考実験的な趣のある映画だったから、ふつうだったら、吹き出すくらいにくさいセリフも意味深長なものになっていた。作者はきっと、この設定を思いついたときに、やったなって思ったんじゃないかなってシンちゃんに言った。シンちゃんは返事もせず、何度か見てるはずの画面から視線を外さなかった。こういうところにも、シンちゃんのゆがんだ精神の反映が見て取れる。ふつうの映画だったら吹き出して笑ってしまうようなセリフでも、赤ん坊が死にかけの老人の顔と姿かたちで生まれてくるっていう状況のなかに放り込まれると、意味が深くなるっていうのは、ぼくにはすごく勉強になった。作者は有名な作家だったと思うけど、と何度か言ったのだけれど、もちろん、この言葉もぜんぜん聞いていないふりをするシンちゃんであった。「臆病になってはいけない。」だったかな。「臆病だわ。」だったかな。「なんとか be a chicken」だったかな、そんなセリフが出てきて、シンちゃんに、チキン野郎って、日本語でも言うね、って言うと、言葉づかいが粗野な連中のあいだでやろ、とのお返事。で、ぼくはこう言った。あるいは、自分は粗野だってひとに思わせたい連中のあいだではねって。女優の話が出た。さいしょのソーンで死にかけの老婆に扮装していたきれいな女優について、ぼくが、このひと、陶器のようにきれいやねって言ったら、シンちゃんが、おれは、あとで出てくる、女優が好きや、とのこと。どの女優やろうかと思っていたら、シンちゃんは映画の題名も忘れていたようだったので、ぼくが直感で、コンスタンティンにでてきたあのガブリエルのひとって訊いたら、うなずいてみせた。その女優は、ずいぶんあとになって出てきたのだけれど、ぼくがこのひとなのと言うと、そうやという返事。ちょっと違って見えるねというと、いっしょやという。まあ、そう言われてみれば、そうかなと思って見ていたら、ぼくの目にもはっきり思い出されて、そうや、このひとやったと見えるようになった。カーテンに触れて(シンちゃんの部屋は7回にあって、すぐそばに小学校か中学校課知らないけれど校庭のようなものがあって見下ろせるのである。以前、窓の外に目をやったら、シンちゃんから、飛び降りたくなるか、と言われたことがある。はじめて、部屋に訪れたときのことである。)「遅くなっても明るい季節になったね。」と言って、ふと気がついた。「もう、5時30分くらいじゃない? そろそろ、ライブに行かなくちゃ。ああ、いいところで見れなくなっちゃけど、しょうがないよね。」と言って部屋を出た。部屋にたずねたときにも、へんな剃り方してるなあ、剃りすぎじゃないって思った眉毛が、やっぱり帰りしなにも気になって見たのだけれど、はっきり口に出して言うと、またメンドくさいやりとりになるから、部屋に入ったときにだけ、めっちゃ早口で「眉毛、すごくない?」と言って、すぐに部屋に上がり込んだのだけれど、帰りしなには一瞥するだけで、眉毛のことには触れずに、さっさと靴を履いて部屋を出た。シンちゃんのマンションは西院の阪急の駅から歩いて数分のところにあった。バス停には、土曜日だったからか、それとも時間が時間だったからか、うっとうしいくらいの数のひとがバスを待っていた。ぼくは、ぼくが乗るはずの202番のバスがくるのを待っていた。しばらくすると、ひだりの視界の隅に、ジャージ姿(青いジャージだったと思う。)の青年の姿が入ってきた。そのほうに顔を向けると、青年は時刻表のほうを向いたので、ぼくには背を向ける格好になって、顔がはっきり見えなかった。少し時間が経って長くなったかなあと、そろそろ刈ったほうがいいんじゃないかなと思えるほどの長さの短髪で、若そうな感じはした。くの字に身体を曲げて(斜め横に、篇んあ方向だなと思った。)時刻表を見ていたと思うのだけれど、彼が突然、奇声を発したので、バス停にいたひとの何人かの視線を彼は集めた。しかし、時刻表をみつめながらだったので、みなにも後ろ姿しか見えなかったので、なにかの間違い、いまの奇声は聞き違いだったのじゃないかと思ったひともいたのではないかと思われた。まわりの気配を察するとじっと見つめつづけるひとはいなさそうだった。ぼくだけだったかもしれない。すると、その青年はふたたび奇声を発して、こちらを振り返った。ひょこひょこと視線をさ迷わせ奇声をあげえながら時刻表から青年の顔が剥がれていった。顔が剥がれていく、といった感じで身体が時刻表から遠ざかり、こちらにむかって動き出したのだった。肉付きのよい、かわいらしい顔をした青年だった。ふぞろいの、といった形容がぴったりのふぞろいの口ひげやあごひげ(その区別は、じつはつかない。つかないのも境界がなかったように思えるからだ。口とあごの? そうかもしれない。口ひげとあごひげではなくて。)その口ひげとあごひげを、もしもゲイ・スナックで見かけたものならば、ああ、ワイルドな感じがするなと思えたかもしれない。いや、このときも少しはそう思ったのだった。違った場所で、違った時間に、違ったひとたちがまわりにいたら、いやいなかったら、ぼくは、青年に声をかけたかもしれない。かけていたと思う。それぐらいかわいらしかった。視線がひょこひょことするところが気になるのだけれど、素朴な青年って感じで、顔つきはタイプだった。202号のバスがきたので乗った。青年の後ろ姿をバスの窓から追った。その姿はすぐにちいさくなって見えなくなった。バスはそこそこあいていて、ぼくはラッキーなことにさいしょに乗り込んだので、ラッキーな(のかな)いちばん前の、出口のところの席があいていたので、そこに腰かけた。丸太町堀川で下りて、ローソンに入った。拾得(じっとく)というライブハウスの場所を訊くためにだ。店員が二人がかりで地図を拡げてさがしてくれた。すると、地図のその場所には鉛筆で二重に丸がしてあった。その縁の大きさが少し違っているためにはっきりと二重に、とわかる二重の丸が書かれていたのであった。赤いポストが目印だという。赤いポストと聞いて、ふと赤いという言葉は必要ないんじゃないかと思った。しかし、赤いという言葉があると、そりゃ、はっきりポストのことを示しているし、目にするときにも赤い色そのものをさがすし、わかりやすいかな、そろそろ暗くなっているけれど、まだ色の見分けはつく時間だからな、とも思った。赤いポストのところを右に曲がると信号を一つ越えてしばらくするとお目当ての場所が見つかった。あたりまえだけど、場所のほうがぼくのところにきてくれるわけではないので、お店がぼくを見つけたとは言えないな。ライブハウスに入ると、扉をあけてすぐの入口で予約した田中宏輔ですけれど、と言って、2000円を払って店のなかに入った。ステージにいちばん近い場所があいていたので、そこに坐った。シンちゃんにもらった聖書と仏教関係の本がバンバンにつまった紙袋を右において、左にリュックを置いた。リュックには財布とCDプレーヤーしか入ってなかったのだけれど、本を入れることはできなかった。肩が凝っていたからだ。数日前から肩が凝っていたのだ、いつになく。演奏がはじまるまで、シンちゃんにもらった本を読むことにした。バスのなかですでにすべてパラ読みしていたのだけれど、いちばん分厚い聖書をひろげた。これには外典も入っていて、知恵の書のページをめくって、これは引用しておこうと思っていた箇所にしおりをはさんで、メモをした。そうこうしているうちに、おそらく2、30分足らずのあいだだったと思うのだけれど、というのは、入口に置いてあった時計を見たときに時間を確認していて、6時34分だったし、メールで、そして、パソコンで見たHPでの予定では開演は7時からだったので、2、30分くらいだと思ったのだけれど、もしも、入口で時計を見ていなかったら(大きな針時計だった。)もう少し長い時間に感じていたかもしれない。演奏がはじまった。長谷川健一という名前の歌手がギターを抱えてステージにあがった。30過ぎに見える小柄でやせた男性だった。(女性だったって書くと間違いだし、おもしろいと思ったけれど、すぐに、おもしろくないなと思ったので書くのをやめた。)めりはりのない曲だなという印象を持った。そういった曲が何曲かつづいたあと、3曲目か4曲目で、途中で声が裏返しになる曲があって(フォルセットって言うのだったかな。)あれ、これって、あの知恵遅れの男の子の声といっしょじゃん、って思った。その声のところがよかったかな。キュルキュル鳴らすへたくそなバイオリンの音のようで。へたな弾き手がへたに弾いた弾き方で聞かせてくれる、なにが引っかかっているのかしら、その弓には、と思える、弦のうえを滑らかに滑ることを忘れさせられた弓を弾くへたくそな弾き手の弾きかたのように思えたのであった。最悪だけど、どこか人間っぽいなとも思えるものなのだけれど、その音ではなくて、そういった音が出るということころが。しばらくして、三村京子さんと入れ替わった。いただいたCDで聴いたことのある曲がつづいた。
 あと4曲やらせてもらいます。という三村京子さんの声が聞こえた。三村さんの演奏は、ずいぶんと男前だった。



2011年3月26日のメモ しょの3

退屈だし
テレビを見ながら
自分の気分をコロコロ変えていたのだけれど
それも退屈したので
本棚から
カレッジクラウン英和辞典を取り出して
適当なページをあけて気分を変えてみることにした。

longsuffering 長くしんぼうする。がまん強い。
estrange 離れさす。引き離す。
camomile カミツレ(キク科の薬用植物)
mute (鳥が)ふんをする。
complete 完全な。全部そろっている。
fearsome 恐ろしい。
apostrophe アポストロフィ。省略符。
vogue (ある時期の)一般的風習。流行。人気。
rancho (スペイン系の人の多い中南米地方で放牧場(ranch)で働く人々の住む)小屋(hut)。(そういう小屋の集まった)部落。
stop bath 現像停止液。
deducible 演繹[推論]できる。
mercurate 水銀と化合させる。水銀(化合物)で処理する。
reputation 評判。世評。好評。名声。名著。
U,u 英語アルファベットの第21字(18世紀ごろまでは u は v の異形として用いられ u と v の区別がなかった)。(連続するものの)第二十一番目(のもの)。
arise 起こる。生じる
overwrite 書きすぎる。乱作する。(…のことを)誇張して書く。

適当にページを繰って指をはさんで目につく単語を抜き書きして
自分の気分を変えてみたけれど
また退屈したので
辞書を本棚に戻してテレビに戻った。



2011年3月26日のメモ しょの4

花粉より確かなものがあるのだろうか。
ぼくの目をこんなに傷め
ぼくの頭をこんなに傷めつけるものが。

ギャフンより確かなものがあるのだろうか。
ぼくの顔をこんなにもギャフンとさせ
ぼくの気持ちをこんなにもギャフンギャフンとさせるものが。



2011年3月26日のメモ しょの5

「へ」と「し」と「く」とつ」が似てる。
そのなかでも、「へ」と「く」
「し」と「つ」がよく似てる。
回転させたり
線対称に移動させると
そっくり同じものになる。
あ、
「い」と「こ」もよく似てる。
「り」は、ちょっとおしいかな。
「も」と「や」も似てるかな。
ひらがなとカタカナの違いがあるけど
「せ」と「サ」も似てる。
線対称だ。
「けけけ…」と笑うと
「1+1+1+…(いちたすいちたすいちたす…)」だ。



図書館の掟。II  しょの3


「では、わたしは罰せられるのかしら?」
「いいえ。
 死者は罰せられません。
 わたしたち生者に死者を罰することはできません。
 生前の言葉が、たとえ故意にせよ、誤っていたとしても
 死んでから、真実を語っていただけるのですから。」
「そうでしたわね。
 もちろん、わたしは、わたしが書いたときには
 それが真実だと思っておりましたのよ。
 いいえ、こう口にするほうがいいですわね。
 ああ書くことが真実を伝えることだと思って
 そして、じっさい、そう書くことで
 わたしの記憶も、あの記述通りのものになっていたのね。
 死んでから、どうして、じっさいのことが記憶によみがえったのか
 わたしにはわかりませんが。」
「死者としてお持ちの記憶が真実かどうかはまだわかっておりません。
 生者のときの記憶と違っているところがあることと
 死者が嘘をつけないということはわかっておりますが
 現実の把握に関しては主観が大きいので
 また心理的な抑圧が記憶を捏造することもありますので
 客観的な真実かどうかは、けっしてわからないのですよ。
 しかし、いまもなお詳しく研究されている分野ではありますね。
 それは長年、図書館で調べられていることの一つなのです。」
「まあ、わたしも死んでからはじめて知ったことがありますもの。
 それが真実であるとは思われないことも、ずいぶんたくさんありましたわ。」
「図書館運営は、ほんとうに有益な事業だと思いますよ。
 わたしたち人間にとって、もっとも大事な事業の一つでしょう。」
図書館に新しく収められることになった死者との面接が終わり
司書は死者の手をとって立たせた。



きのうは、三村京子さんのライブで
音楽を聞きながら、いくつかの詩句が思い浮かんだ。
部屋で読書してるだけのときより
外に出て、しかも、芸術に触れることは
やはり、ぼくの詩のためにも、とてもいいことなのだと思った。
歌と演奏がおわり、アンコールもおわって
三村さんにあいさつしようと立ちあがって近づいていくと
即座に、「あつすけさんですね。」と言ってくださって
「ええ。はじめまして。こんにちは。
 すばらしい演奏でしたよ。」と口にするのがせいいっぱいで
恥ずかしくて(人見知りなのだ、この50才のジジイは、笑)
逃げるようにして出入り口の扉に向かったのであった。
出入り口に向かう直前に「それは本ですか。」
とたずねられ、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
紙袋いっぱいにパンパンにふくれていたからである。
分厚い本ばかり入っていたからだった。
シンちゃんの部屋に寄って、聖書と仏教関連の本をもらって
持ってきていたからである。
ふだんから、こんなふうに重たい本をたくさん持って外にでてると思われたら
ぜったいいやだなと思って
「いえ、友だちにもらった本なんですよ。」
と、答えにならない返事をして、出入り口の扉に向かって
急ぎ足で歩き去ったのであった。
「もうお帰りになるのですか。」
という三村さんの声に「ええ。」とだけ返事をする時間を確保して。
それでせいいっぱいだった。
外に出ると、冷たい風が気持ちよかった。
バス停でバスを待っているとき
ぼくは時計も携帯電話も持っていないので時間がわからず
背広姿の左右の手の長さが違う身体障害者の男性が
バスの時刻表をのぞき込んでいたので
時間をきくと左腕にはめた腕時計を見せてくれて
(長いほうの腕か短いほうの腕か忘れた)
「一分ほど早いんです、ですからいま、9時39分ですね。」
と言って教えてくれた。
時計は10時20分前を示していた。
すぐに彼が乗るバスがやってきた。
彼が乗り込んでから彼が乗ったバス(93系統だったかな)の
時刻表を見たら、彼が乗ったバスの時間は9時47分か49分だった。
この2つの時間だった。
偶数の時間ではなかった。
記憶が不確かなのはなぜだろう。
「ほぼ時間通りやな。」
「時間ぴったしやな。」
の2つのうちのどちらかの言葉を頭に思い浮かべたという記憶はあるのだけれど
この2つの記憶がまるで量子的な状態で存在しているので
つい、きのうのことなのに、不思議な感じがする。
やはり、こころに残ったことはつねにメモするべきなのか。
いや、どうだろ。
量子状態の記憶があるということから
おもしろい事柄を考察できるかもしれないのでいいことだったことにしよう。
きのう取ったメモは、大量にあるけれど
一度に入力するのは、しんどいので、ぼちぼちと。
シンちゃんの部屋で見たDVDの感想が大方を占めるのだが。


追記 

量子状態の記憶が、これからどのような状態に移行していくのか
いつの日かたしかめることができるかもしれない
できないかもしれない。
すっかり忘れているかもしれないし
ひょんなことから思い出すかもしれない。
ただし、思い出したものが、ほんとうの事実を反映した記憶かどうかは
わからない。



うんこ。

きょう買った、ブックオフでのお買い物。
単行本1冊。
パトリシア・コーンウェルの『切り裂きジャック』105円
まえにも、違うブックオフで、105円コーナーで見ていたのだけれど
載ってる写真がえげつなくて買えなかった。
でも、きのう、塾の帰りに寄った五条堀川で見たそれは
まえに見たほどグロテスクではなくなっていた。
そういえば、古本市場で
バタイユの全集の第何巻か忘れたけれど
その高い本が1冊、105円のコーナーに置いてあったので
買おうかなと思って中身を見ると
中国人の公開処刑の写真が載っていて
バタイユはそれを見て性的な興奮に近いものを覚えたって書いてたから
ひぇ〜って、こわくなって
その本をただちにもとのところに戻したけれど
いまだったら、買えるかもしれないな。
もう、それほど過敏じゃなくなったのかな。
コーンウェルのものも
きのうは、まだちょっとグロテスクだなと思って
買わなかったのだけれど
きのうの夜に、チラ読みした記述を思い出していると
ああ、あの時代の背景が如実にわかる書き方がしてあって
庶民の生活や上流階級の人間の生活や警察の誕生や刑法の仕組みなど
さまざまなことがより深く広く知れるから
それは、文学の、ひいては、人間の理解にもつながるなと思って
きょう、歩いて買いに行ったのだった。
あってよかった。
だれも興味ないのかしら?
そうそう、きょうは、マクドナルドなんかじゃなくて
西院のパン屋さんでモーニングセット食べた。
パンは、チーズケーキ味のもの3個、
アーモンド味のケーキっぽいもの3個、
ライ麦パン3個。
飲み物は、アイスラテカフェ。
ごま味のドレッシングで
刻み角ベーコンとコーンを添えたポテトサラダと
たっぷりのレタスで
390円なのだった。
パンは食べ放題だから、あとで追加注文もできるという、すぐれどころなのだ。
おなかいっぱいだったので
それで、歩いて五条大宮のブックオフまで行ったってわけだけど
西大路五条の私立病院のまえあたりで、
わきや背に汗が出てきているのに気がついた。
雨粒も、ぽつぽつ、顔や手にあたりはじめたのだった。
で、ああ、ビニール傘を持ってきていてよかったと思ったのだけど、
歩いていると、きゅうにうんこがしたくなって
五条大宮の公園のトイレでうんこした。
なぜかしら、ゲリピーのうんこだった。
なにか、悪いもの、食べたかな。
食べてないと思うけど。
あ、きのう食べた弁当だけど
コロッケがちょっと傷んでるって感じだったわ。
あれか。

とかってことを、ツイッターに書いてたら、
見る間に、フォローワーの数が減っていって、
さっき見たら、学校の生徒のフォローワーが一人もいなくなっていた。
「排便日記」みたいなタイトルで毎日書いたりしたら、
だれもフォローしてくれなくなったりして、笑。
あ、書かないけど
そういうのって凝りだすと、
ほかのことができなくなってしまうような気がする。
一日じゅう、トイレのなかにいて。
それはないか、



THE GATES OF DELIRIUM。

 詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。

 この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。

 ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。



ケンコバの夢を見た。2

ふざけ合った。
「ほらほら、おれの乳首さわってみ。」
ケンコバが、ぼくに脇のしたをさわらせた。
「これ、イボやん。」
「オレ、乳首3つあるねん。」
おもいっきり笑けるケンコバの脇のしたをさわりまくる。
「こそばったら、あかんて。」
宴会場の隅っこでふざけ合ってた。
ああ、楽し、と思ったら目が覚めた。
もっと長い時間、楽しめてたらよかったのになあ。



nothing to lose。

きょうも、日知庵でヨッパ、
帰りに、
道で、
かわいらしい男の子や女の子が
いっぱい、
ぼくも思い出がいっぱい、
よぎって、
さよならね、
って思った。
the love we made,
the dream we made



不思議な感覚。

10分くらい、半覚醒状態で夢を見た。
目をつむって、行ったこともない学校の校舎を歩いてた。
生徒たちが廊下を歩いてる。
ぶつかりながら。
階段を上がって、廊下を渡る。
繰り返していると、ふと、足に違和感があった。
目をあけると茶室だった。
重力の方向がおかしいと思ったら、寝床で目がさめた。
おもしろい体験だった。



uni-ball signo ぼくの大好きなゲル・インク・ボールペン

ぼくが好きなボールペンの替え芯を
近所のイーオンに買いに行ったら
なかった。

三菱
ぼくの好きなボールペンは
直径0.38mm
のゲル・インクのボールペン

ネットで探したら
ノック式のものになっていて
ぼくの使っている型のボールペン自体
製造されてなかったのね。
替え芯を5本くらい買っていたから
気がつかなかったのだけど
ノック式
ぼくは、それ、ダメなんだよね。

まあ、しかし、もう製造していないんだったら
それでがまんするしかない。

どうして
いいものが製造されなくなってしまうんやろか。
不思議やわ。

ときどき
こういうことってある。

なんでやろか。
不思議。

三菱
ゲル・インク・ボールペン
直径0.38mm



「もう、おれとできひんやろ?」と言われて
できるよ、と答えた。
嫌がってるから、という理由を口にはしなかったけど、笑。
ひゃははは。



フィリップ・ラーキンとパーラメント通り。

P・D・ジェイムズの『死の味』に、
フィリップ・ラーキンの詩論が出てきて思いだした。
むかしみたポール・マッカートニーのつくった映画に、
イギリス現代詩人として、じっさいに出てきたのを。
黄金の毛並みの小猿といっしょに。
現代詩人がイギリスではまだ尊敬されているのだと思った。

『死の味』には、ロンドンの通りの名前で、
パーラメント通りというのもあった。
マールボロウ通りというのを、以前に読んだ小説で見た記憶がある。
ロンドンじゅう、タバコの銘柄の通り名だらけなのかな。
それで霧のロンドンって、
あ、ちょっとすべったな、笑。



アンリ・ミショオと小峰慎也

いま、アンリ・ミショオの『詩論断章』(小海永二訳)のページを開くと
いきなり
「私は自分の健康のために書く」
とあって
小峰慎也さんを思い出した。
そいえば
ミショオの「悪魔払いの詩論」からも
小峰さんの詩のお顔がちらりとうかがえそうだ。
「なすべきことの一つは、悪魔払いだ。」
ミショオのこの言葉は
小峰さんのいくつもの詩を思い起こさせる。
ブルブルッ。



詩人の個性

個性と性格について、
ハーバート・リードの「詩人の個性」を読んでいて考えた。
この2分法には乱暴な印象はあるが、
ぼくなりに捉えなおすと、
こういうことかな。
性格は自然に培われていくもので、ほぼ無意識的に形成されたものであり、
あるところから一定不変的であるのに対して、
個性は獲得されていくもので、半ば意志的に獲得されたもので、
つねに可変的なものであり、いくらでも更新できるものだということ。



からっぽが、いっぱい。

ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に
「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。
としら、ぼくは空気か。
まあ、吸ったり吐いたり
しょっちゅうしてるけれど。

ブリア・サヴァラン的に言えば
ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど
ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと
ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。
それとも、ワイルド的に、こう言うかな。
わたしは、わたし以外のすべての人間からできている、と。
まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。
わけだな。



チェスタトンの言葉。

電車のなかで読んでいたP・D・ジェイムズの
『原罪』下巻に、チェスタトンの言葉が引用されていて
こころに残ったのだけど
つぎのものは、エイズに患っていて、友だちの家にやっかいになりながら
闘病生活をしていた作家が
救急車で運ばれるときのセリフで

「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。
 心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。
 G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。
 "人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない"。
 ぼくはとうとう学べなかった」(157ページ下段、青木久恵訳)

隣に坐った30代くらいの小太りのスーツ姿の男性が
そのひとの娘だろうね
携帯の画像をつぎつぎと変えていくのを眺めながら
ああ、このひともチャーミングだし
画像に映ったさまざまな表情の幼い女の子の笑顔もかわいらしいし
世界はまだまだすてきだなあと
ぼくも、こころおだやかになっていった。
世界は、そんなにおぞましいものでもなく
汚らしいものでもないということを、あらためて思った。
昼には、東寺にある「時代蔵(じだいや)」というところで天丼を食べた。
おいしかった。
人間であることの喜びのひとつね。
おいしかったと言えることは。
ところで、うえのチェスタトンの言葉、
ぼくには、ひっかかるところがあって
それで孫引きしたのだけれど
人生も信用していいものだし
人間に関することは
人間そのものも含めて
すべて愛する対象として
もっとも価値あるものだとも思ってるんだけど
学ぶことで
愛することができるわけではないのではないかなって
いや
学んだかな。
深く理解するということで
さまざまな状況を
さまざまな状況にいるひとに対して理解を持つということで
いとしく思うことにいたったわけだから
学んだのかもしれない。
しかし、「人生を信用せず」は、ないと思う。
「たとえ裏切られることがあろうとも、人生に信を置き」
なんじゃないかな。
そう思った。


ぼくたちの幼いセックス。

いつまでも
幼いぼくたちのセックス。
愛ではなく
快楽に引き起こされた
ぼくたちの幼いセックス。
愛のない
快楽だけのセックス。
でも、それでいいのだとも思う。
愛にはセックスはいらないのだから。
ぼくたちの幼いセックス。
愛ではなく
愛だという思い込みによる
ぼくたちの幼いセックス。
美しかったし
楽しかったし
のちには甘美な思い出となった
なにものにも代えがたい
体験だった。
「詩よりもずっと大切なこと」と、「ぼくたちの幼いセックス」について書いた。
この2つのことは、これまでのぼくの作品の主要なテーマだったし、
これからもそうだと思う。
夜の風が冷たかった。
ぼくの頬に触れる彼の指はもっと冷たかった。
彼はけっして愛しているとは言わなかった。
ぼくもまた。
ぼくが彼を思い出すように、
彼もまた、ぼくのことを思い出してくれているのだろうか。
10日後に、まったく抒情的ではない作品を書く予定。
ぼくはなんて矛盾してるんだろう。
愛から、ぼくほど遠い人間はいないかもしれない。
愛したいのに、愛する愛し方を知らないのだ。
ぼくもまた、彼を愛してるとは言わなかった。
いつも、「好きだよ。」としか言わなかった。
彼もまた。
彼といっしょにすわった駅の入り口の石畳。
手を触れて街を歩くひとを見つめてた若かったぼくたち。
口づけするのに夢中で、何時間も口づけし合ったぼくたち。
30年近く前の瞬間という時間。
美しい彼は、たくましい彼は、
ぼくを守るようにして横抱きにして、エレベーターに乗って。
二人が見下ろした繁華街を行き交う人々の頭。



詩よりも、ずっと大事なもの。

ぼくは大学院を出て
作家になろうと思って
家を出て、親と縁を切り
がむしゃらに本を読みまくった。
本に書いてあることは、とてもよく勉強になった。
それまで探偵小説やSFしか読んだことがなかったぼくには
外国の詩や、翻訳で読むゲーテやシェイクスピアがおもしろかった。
ぼくが感じたこともない感情を持たせてくれたと思ったし
ぼくが考えたこともないことを考えさせてくれたと思っていた。
でも、30代になり
40代になり、それまでのひととの付き合いで
ひとを信じたり信じられたり
裏切ったり裏切られたりして
それらの詩や本に書いてあったことは
ぼくがすでに感じていたことを言葉にしてあっただけのもので
ぼくがすでに考えたことのあることが言葉にされているものあることに
それをぼくが言葉にできなかったものであることに気がついた。
いまのぼくには、詩や小説に書いてあることよりも
ずっとずっと多くのことを過去の自分の体験から学んでいる。
とりわけ、付き合っていたえいちゃんから学んでいる。
付き合っていたときに彼がぼくのことを大事にしてくれたことから学んでいる。
付き合っていた恋人たちの言葉や表情やしぐさを
いまのぼくは
ぼくの記憶にある、そのときのことを解釈することから学んでいる。
ぼくを誘惑した友だちや先輩や高校の先生や中学の先生から
そのひとたちの表情、微笑み
おずおずとした態度や雰囲気から学んでいる。
一瞬の目配せ、微笑み
ぼくの詩作品は、多くのものが
それらの目配せや微笑みや
とまどい、苦痛、よろこびから
その瞬間瞬間からできているように思っている。
もちろん、たくさん読んだ詩や小説があってこそなんだろうけどね。
才能のあるひとは
たぶん、たくさん読まなくても
人生から、日常から学ぶ能力が十分あるんだろうけれど
ぼくは、どんくさいから。

まだ作品にしていないものを
これから、どのようにして作品にしていくか
ぼくは、ことし50歳になって
あとせいぜい数十年のあいだに、その思い出を
どれだけ書いていくことができるか
っていうと
こころもとない。

詩は
ぼくにとっての詩は
また、そういったものではないものもある。
言語の結びつきをさきぶれに
経験をこえていくもの、こえたもの
それでも経験の後ろ盾によって
その経験があるからこそ
経験をこえることのできるなにものか
目にしたことのない光景
光といったもの
そういった新しいヴィジョンを想起させるものもつくっていると思う。
なぜ、こんなことをこの時間に書いたのだろうか。
自分の作品が理解されることがあまりにないゆえに?
たぶん。
だれもが理解されているわけではないのだろうけれど。
ぼくが愛したひとに。
そして、ぼくを愛したひとに
幸せになってほしい。
駅のターミナルで
ぼくの目をちらっと見たひとにさえ
ぼくは愛に近いものを感じることができるような人間になることができた。
ぼくに嫌悪感をもって意地悪をしてきたひとにも
ぼくを裏切ったり
ぼくをバカにしたりしたひとにも
愛情に近い思いをもつことができるようになった。
ぼくは弱くなったのだろうか。
もしもそうなら
ぼくはもっともっと弱くなりたい。



未成熟。

一瞬の判断で、
そのあと、よくない方向に転ぶことがよくある。
ぼくは、学ぶことがへたくそなのだった。
で、
そのへたくそさが、作品に未成熟さを持たせているのであった。
もちろん、未成熟であるということは、
ぼくという書き手にとっては、ありがたいことである。
きょうも1つ、ミスった。



きょうは、『図書館の掟。』の続篇を考えていた。

他のシリーズでも共有するモチーフで
魂の抽出。
エクトプラズム。
ホオムンクルス。
まず、霊魂分離機の前で、
囚人たちからエクトプラズムを抽出するシーンを考えてた。
魂からエクトプラズムを抽出するシーン。
ガラス瓶に現れる白いエクトプラズム。
囚人たちの苦悶の表情。
魂から、ほとんどエクトプラズムを分離されたあと
しばらくのあいだ気を失っている囚人たち。
完全回復することはできないが
魂の形相が類似の形相を無数の多相世界から再吸収して
魂がエクトプラズムを再生する。
エクトプラズムの抽出を繰り返すと
ゴーレム化する。
ゴーレム化した死刑囚でも呪術に用いられないわけではない。
実験体以外は、人柱に用いる。
どうしてもゴーレム化しない死刑囚は呪術性が高いので
重要な公共施設の人柱に用いられることが多い。
無脳化したクローンは、現実的には、人柱としては、見せかけのうえで供されるだけで
エクトプラズムのない魂には呪術的な力はない。
公共施設は異なる呪術で結界が施されている。
その術も術者の存在も秘密にされている。
准公共施設の人柱にまったく呪術性のない人体が使われているが
准公共施設とは、政治的に重要な場所ではない。
おもに、公務員たちの研修・休養施設である。
摘出された脳は異なる目的に使われる。
人脳計算機に用いられるのだ。
抽出されたエクトプラズムからホムンクルスを複数つくりだすシーン。
小人のホムンクルスたち。



『リチャード二世』を読んで。

おおむかし、一度読んでるんだけど。
この戯曲には、再三、「悲しみ」という言葉が現われる。
おおむかし、一度読んでるんだけど。
重い主題なのだけれど
「悲しみ」という言葉が、これほど頻出すると
なぜかしら、笑けてしまう。
トマス・ライマーが、戯曲『ハムレット』を
「ハンカチの笑劇」と読んだが
『リチャード二世』をそれにちなんで
『「悲しみ」という言葉の笑劇』と読んでみたい。
しかし、つぎのセリフは、考えさせられる。
シェイクスピアがいかに心理学に通じていたのか。
心理学が発見される300年ほども前に。

プッシー それは思いすごしの空想というものです、お妃様。
王妃 そんなものではない、思いすごしの空想は必ず
 なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。
 私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、
 あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。
 その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。
 それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、
 わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。
(シェイクスピア『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)


つぎの言葉には、笑った。

恥にまみれて生きるがいい、死んでも恥は残るだろう!
  (シェイクスピア『リチャード二世』第二幕・第一場、小田島雄志訳)



ブレイクと、西寺郷太くん

「一瞬のなかにしか、永遠はないのさ。」

と、ノーナ・リーブズの西寺郷太くんは書いてたけれど
ブレイクの有名な詩句が先行してたことを忘れてた。
めっちゃ有名な詩なのにね。
斎藤 勇さんの『英詩概論』に出てて、ああ、そういえば
むかし読んだ詩にあったわ、と思って、本棚を見るも
ブレイクの訳詩は、アンソロジーに収録されていたものしかなく
とてもみじめな気持ちになってしまった。
近いうちに買いに行きます。
あ、ネットで買おうかな。
斎藤さんの本から抜粋。

To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour.
(Auguries of Innocence,I-4)

ひと粒の砂に世界を、
野の花に展開を見とめ、
掌(たなごころ)のうちに無限を、
ひと時のうちに永遠をにぎる、

いまから、ネットで検索しようっと。
いっぱいサイトがあって
訳文が載ってた。
こことか



http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/PoetBlake.htm

ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
                  (寿岳文章訳)


きのう、寝る前に感心したもの
Tennyson のもので

'Tis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
(In Memoriam,xxvii)

愛せしことかつてなきよりは、
愛して失えることこそまだしもなれ。(斎藤 勇訳)



ひさびさの出眠時幻覚。物語だった。音声つき。

さいしょのシーンは、夜のレストランを外から見ていた。
ヘリコプターくらいの位置から。
光に満ちた窓の向こう側。
盛装した男女が席についていた。
動いているのはこれから席につこうとしているカップルと
ウェイターだけだった。
嵐だろうか。
突風で夜の街が
引き剥がされでもしたかのように
さまざまなものが持ちあがっていく。

ここで
ぼくの意識がひとりの青年から
もうひとりの青年に移った。

ブルーの海。
太陽がまぶしかった。
ふたりの子どもがいた。
男の子たちは裸で泳いでいた。
とつぜん波が持ちあがり
筒状になった。
父親らしき人物の名前はザックだった。
ザックはふたりの男の子を抱いた。
海が渦巻状になり、その中心に3人がいた。
ザックがひとりの子どもに向かって
「ハーンのようになれ。」
と言って
ひとりずつ
渦の中心から放り投げた。
ザックは渦のなかに飲み込まれた。
ふたりの男の子は
ブルーの海のなかにもぐりながら
一度も浮かぶことなしに
ずんずん岸に向かって泳いでいた。
子どもたちは
ひとりひとり別に泳いでいた。
やがて、子どもたちの身体は少年のそれになり
青年のそれになっていった。
髪も伸びていた。
全裸であることには変わりがない。
ふたりは、白い砂、ブルーの海から上がった。
すると、そこは、山だった。
ヒマラヤだった。
サーベルタイガーがいた。
ふたりの青年が全裸で
サーベルタイガーをあいだに挟んで雪の上を歩いている。
ここで目が覚めた。

はじめ、自分はハーンと呼ばれた青年の目から
上空からレストランのなかを眺めていた。
つぎに、嵐になって、瞬間的に意識が移動して
レストランのなかで食事をしていた青年になって回想していた。
それが海のシーンだったが
レストランのなかにいた青年の名前はわからない。
そして、その青年は、「ザックの教え」という言葉をもって
回想をはじめたのだった。

さいごの海のシーン
山のシーンで
ふたりを眺めていた視点は
だれの視点だったのか、わからない。

ブルーの海のなかで
白い砂地を下に泳ぎつづけていた子どもが
青年になっていくシーンは長かった。
その成長ぶりに気がつくまで
しばらく時間がかかった。
しかし、場面は美しかった。

目が覚めた瞬間に
これは長い物語の一部であると予感した。
それで、記憶が新しいうちにと思って
ここに書いた。

きのう、飲みすぎで
クスリが効かず
半覚醒状態で寝床に入っていたのだった。
何度か時計を見た。
記憶があるのは
5時過ぎ
8時過ぎ
10時半ばころか終わりに
そして、ついさっき。
23という数字。
23分だったのだろう。
「ザックの教え」、「ザックの教え」
と反芻しながら、シーンを忘れないように
頭のなかにもう一度、反復させて
パソコンのスイッチを入れたのだった。



溺れた詩集。

湯船につかりながら詩集を読んでいたのだが
おもしろくなかったので湯船のうえで手を離した。
詩集はもちろん湯のなかに沈んでいったのだが
詩集は沈むまえから溺れ死んでいたのだった。
詩人が言葉のなかで溺れ死んでいたのか
言葉が詩人のなかで溺れ死んでいたのかはわからないけれど。



 夏の蓮(はちす)の花の盛りに、できあがった入道(にゆうどう)の姫宮の
ご持仏の供養(くよう)が催されることになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「こんな儀式を、あなたのためにさせる日があろうなどとは予想もしなかっ
たことですよ。これはこれとして来世の蓮(はちす)の花の上では、むつま
じく暮そうと期してください」
  蓮(はちす)葉を同じうてなと契(ちぎ)りおきて
          露の分るる今日ぞ悲しき
 硯(すずり)に筆をぬらして、香染めの宮の扇(おうぎ)へお書きになっ
た。宮が横へ、
  隔(へだ)てなく蓮(はちす)の宿をちぎりても
         君が心やすまじとすらん
 こうお書きになると、
「そんなに私が信用していただけないのだろうか」
 笑いながら院は言っておいでになるのであるが、身にしむものがあるごよ
うすであった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号に
よって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられ
ているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結び
つけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号
と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合
には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精
神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉
によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間
の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。
ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることに
よって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつけ
る作用」が、言葉や映像にあるからであろう。
 ここのところ、『数式の庭。』に転用しよう。


(…)宮が
  大かたの秋をば憂(う)しと知りにしを
     振り捨てがたき鈴虫の声
と低い声でお言いになった。ひじょうに艶(えん)で若々しくお品がよい。
「なんですって、あなたに恨ませるようなことはなかったはずだ」
と院はお言いになり、
  心もて草の宿りを厭(いと)へども
     なほ鈴虫の声ぞふりせぬ
ともおささやきになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「月をながめる夜というものにいつでもさびしくないことはないものだが、
この仲秋(ちゆうしゆう)の月に向かっていると、この世以外の世界のこと
までもいろいろと思われる。亡くなった衛門督(えもんのかみ)はどんな場
合にも思い出される人だが、ことになんの芸術にも造詣(ぞうけい)が深か
ったから、こうした会合にあの人を欠くのは、ものの匂いがこの世になくな
った気がしますね」
とお言いになった院は、ご自身の楽音からも憂(うれ)いが催されるふう
で、涙をこぼしておいでになるのである。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「ものの匂いがこの世になくなった気がします」という比喩、嗅覚障害にな
って、においが感じられなくなったぼくには、身にしむ表現でした。

「今夜は鈴虫の宴で明かそう」
こう六条院は言っておいでになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

このあとしばらくして、源氏は冷泉院に移動して、つぎの歌を詠んだ。

  月影は同じ雲井に見えながら
     わが宿からの秋ぞ変れる
 このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっている
ように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを
目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のも
のとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっ
とぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ている
ように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることに
ふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っている
はずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからであ
る、というふうに。
 この巻の感想の終わりに、源氏の言葉を引用しよう。

「(…)年のいくのとさかさまにますます濃くなる昔の思い出に(…)」
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

ウラタロウさんのコメント

宏輔さんの言葉が、触媒のような、カレイドスコープの覗き穴のような感じ。

ぼくのお返事

コメントくださり、ありがとうございました。
そうおっしゃっていただけて、とてもうれしい。
ぼくも楽しんで『源氏物語』を読んでいます。
さいしょはバカにして読んでましたけれど
いまは感心することしきりです。
原文も買っていますので
晶子訳を読み終わったら原文対照で
読み直そうかなって思っています。
英訳も持っているので
英語訳も使いながらも楽しそうですね。
いろいろやってみたいです。

ふたたび、ウラタロウさんのコメント

各種訳もくわわるとさらに、捉えられないほどめくるめくことになりそうですね。

ふたたび、ぼくのお返事

さ来年には、とりかかろうかなと思っています。
生きていればですが、笑。



緑がたまらん。

えっ、なに?
と言って、えいちゃんの顔を見ると
ぼくの坐ってるすぐ後ろのテーブル席に目をやった。
ぼくもつい振り返って見てしまった。
柴田さんという68歳になられた方が
若い女性とおしゃべりなさっていたのだけれど
その柴田さんがあざやかな緑のシャツを着てらっしゃってて
その緑のことだとすぐに了解して
えいちゃんの顔を見ると
「あの緑がたまらんわ〜。」
と。
笑ってしまった。
えいちゃんは、ぜんぜん内緒話ができない人で
たとえば、ぼくのすぐ横にいる客のことなんかも
「あ〜、もう、うっとしい。
 はよ帰れ。」
とか平気で言う人で
だから、ぼくは、えいちゃんのことが大好きなのだけれど
きのうも、ぜったい柴田さんにも聞こえていたと思う、笑。
ぼくはカウンター席の奥の端に坐っていたのだけれど
しばらくして、八雲さんという雑誌記者の人が入ってきて
入口近くのカウンター席に坐った。
何度か話をしたことがあって
腕とか日に焼けてたので
「焼けてますね。」
と言うと
「四国に行ってました。
 ずっとバイクで動いてましたからね。」
「なんの取材ですか?」
「包丁です。
 高松で、包丁をといでらっしゃる横で
 ずっとインタビューしてました。
 あ
 うつぼを食べましたよ。
 おいしかったですよ。」
「うつぼって
 あの蛇みたいな魚ですよね。」
「そうです。
 たたきでいただきました。
 おいしかったですよ。」
「ふつうは食べませんよね。」
「数が獲れませんから。」
「見た目が怖い魚ですね。
 じっさいはどうなんでしょう?
 くねくね、蛇みたいに動くんでしょうか?」
「うつぼは
 底に沈んでじっとしている魚で
 獰猛な魚ですよ。
 毒も持ってますしね。
 近くに寄ったら、がっと動きます。
 ふだんはじっとしてます。」
「じっとしているのに、獰猛なんですか?」
「ひらめも、そうですよ。
 ふだんは、底にじっとしてます。」
「どんな味でしたか?」
「白身のあっさりした味でした。」
「ああ、動かないから白身なんですね。」
「そうですよ。」
話の途中で、柴田さんがぼくの肩に触れられて
「一杯、いかがです?」
「はい?」
と言ってお顔を見上げると
陽気な感じの笑顔でニコニコなさっていて
「この人、なんべんか見てて
 おとなしい人やと思っってたんやけど
 この人に一杯、あげて。」
と、マスターとバイトの女の子に。
マスターと女の子の表情を見てすかさず
「よろしんですか?」
とぼくが言うと
「もちろん、飲んでやって。
 きみ、男前やなあ。」
と言ってから、連れの女性に
「この人、なんべんか合うてんねんけど
 わしが来てるときには、いっつも来てるんや。
 で、いっつも、おとなしく飲んでて
 ええ感じや思ってたんや。」
と説明、笑。
「田中といいます、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
みたいなやりとりをして、焼酎を一杯ごちになった。
えいちゃんと、八雲さんと、バイトの女の子に
「朝さあ。
 西院のパン屋さんで
 モーニング・セット食べてたら
 目の前をバカボン・パパみたいな顔をしたサラリーマンの人が
 まあ、40歳くらいかな
 その人がセルフサービスの水をグラスに入れるために
 ぼくの目の前を通ったのだけれど
 その人が、ぼくの隣の隣のテーブルで
 本を読みだしたのだけれど
 その表紙にあったタイトルを見て
 へえ?
 って思った。
 『完全犯罪』ってタイトルの小説で
 小林泰三って作者のものだったかな。
 写真の表紙なんだけど
 単行本だろうね。
 タイトルが、わりと大きめに書かれてあって
 『完全犯罪』
 で、ぼくの読んでたのが
 P・D・ジェイムズの『ある殺意』だったから
 なんだかなあって。
 隣に坐ってたおばさんの文庫本には
 書店でかけた紙のカバーがかかっていて
 タイトルがわからなかったけれど
 ふと、こんなこと思っちゃった。
 朝から、おだやかな顔をして
 みんなの読んでるものが物騒って
 なんだか、おもしろいって。」
「隣のおばさんの読んでらっしゃった本のタイトルがわかれば
 もっとおもしろかったでしょうね。」
と、バイトの女の子。
「そうね。
 恋愛ものでもね。」
と言って笑った。
緑がたまらん柴田さんが
「横にきいひんか?」
とおっしゃったので、柴田さんの坐ってらっしゃったテーブル席に移動すると
マスターが
「田中さんて、きれいなこころしてはってね。
 詩を書いておられるんですよ。
 このあいだ、この詩集をいただきました。」
と言って、柴田さんに、ぼくの詩集を手渡されて
すると
柴田さん、一万円札を出されて
「これ、買うわ。
 ええやろ。」
と、おっしゃったので
「こちらにサラのものがありますし。」
と言って、ぼくは、自分のリュックのなかから
詩集を出して見せると
マスターが受け取った一万円を崩してくださってて
「これで、お買いになられるでしょう。」
と言ってくださり
ぼくは、柴田さんに2500円、いただきました、笑。
「つぎに、この子の店に行くんやけど
 いっしょに行かへんか?」
「いえ、もう、だいぶ、酔ってますので。」
「そうか。
 ほなら、またな。」
すごくあっさりした方なので、こころに、なにも残らなくて。
で、しばらくすると
柴田さんが帰られて
ふたたび、カウンター席に戻って
八雲さんとかとしゃべったのだけれど
その前に、フランス人の観光客が2人入ってきて
若い男性二人だったのだけれど
柴田さん、その二人に英語で話しかけられて
バイトの女の子もイスラエルに半年留学してたような子で
突然、国際的な感じになったのだけれど
えいちゃんが、柴田さんの積極的な雰囲気見て
「すごい好奇心やね。」
って。
ぼくもそう思ってたから、こくん、とうなずいた。
女性にも関心が強くって
人生の一瞬一瞬をすべて楽しんでらっしゃる感じだった。
柴田さん、有名人でだれか似てるひとがいたなあって思ってたら
これを書いてるときに思いだした。
増田キートンだった。
八雲さんが
「犬を集めるのに
 みみずをつぶしてかわかしたものを使うんですよ。
 ものすごく臭くって
 それに酔うんです。
 もうたまらんって感じでね。」
「犬もたまらんのや。」
と、えいちゃん。
「うつぼって、どうして普及しないのですか?」
と言うと
「獲れないからですよ。
 偶然、網にかかったものを
 地元で食べるだけです。」
めずらしい食べ物の話が連続して出てきて
その動物を獲る方法について話してて
うなぎを獲る「もんどり」という仕掛けに
サンショウウオの話で
「鮎のくさったものを使うんですよ。」
という話が出たとき
また、えいちゃんが
「サンショウウオもたまらんねんなあ。」
と言うので
「きょう、えいちゃん、たまらんって、3回、口にしたで。」
ぼくが指摘すると
「気がつかんかった。」
「たまらんって、語源はなんやろ?」
と言うと
八雲さんが
「たまらない、
 こたえられない。
 十分であるということかな。」
ぼくには、その説明、わからなくって
「たまらない。
 もっと、もっと。
 って気持ち。
 いや、十分なんだけど
 もっと、もっとね。」
ここで、ぼくは自分の詩に使った
もっとたくさん。
もうたくさん。
のフレーズを思い出した。
八雲さんの話だと
サンショウウオは蛙のような味だとか。
知らん。
どっちとも食べたことないから。
「あの緑がたまらん。」
ぼくには、えいちゃんの笑顔がたまらんのやけど、笑。
そうそう。
おばさんっていうと

モーニング・セットを食べてるパン屋さんで
かならず見かけるおばさんがいてね。
ある朝
ああ、きょうも来てはるんや
思って
学校に行って
仕事して
帰ってきて
西院の王将に入って定食注文したの
そしたら
横に坐って
晩ごはん食べてはったのね。
びっくりしたわ〜。
人間の視界って
180度じゃないでしょ。
それよりちょっと狭いかな。
だけど
横が見えるでしょ。
目の端に。
意識は前方中心だけど。
意識の端にひっかかるっていうのかな。
かすかにね。
で、横を向いたら
そのおばさん。
ほんと、びっくりした。
でも、そのおばさん
ぜったい、ぼくと目を合わせないの。
いままで一回も
目が合ったことないの。
この話を、えいちゃんや、八雲さんや、バイトの女の子にしてたんだけど
バイトの子が
「いや、ぜったい気づいてはりますよ。
 気づいてはって、逆に、気づいてないふりしてはるんですよ。」
って言うのだけど
人間って、そんなに複雑かなあ。

このバイトの子
静岡の子でね。
ぬえ
って化け物の話が出たときに
ぬえって鳥みたいって言うから
「ぬえって、四つ足の獣みたいな感じじゃなかったかな?」
って、ぼくが言うと
八雲さんが
「二つの説があるんですよ。
 鳥の化け物と
 四足の獣の身体にヒヒの顔がついてるのと。
 で、そのヒヒの顔が
 大阪府のマークになってるんですよ。」
「へえ。」
って、ぼくと、えいちゃんと、バイトの子が声をそろえて言った。
なんでも知ってる八雲さんだと思った。
ぬえね。
京都と静岡では違うのか。
それじゃあ
いろんなことが
いろんな場所で違ってるんやろうなって思った。
あたりまえか。
あたりまえなのかな?
わからん。
でも、じっさい、そうなんやろね。



音。

その音は
テーブルの上からころげ落ちると
部屋の隅にはしって
いったん立ちどまって
ブンとふくれると
大きな音になって
部屋の隅から隅へところがりはじめ
どんどん大きくなって
頭ぐらいの大きさになって
ぼくの顔にむかって
飛びかかってきた



音。

左手から右手へ
右手から左手に音をうつす
それを繰り返すと
やがて
音のほうから移動する
右手のうえにあった音が
左手の手のひらをのばすと
右手の手のひらのうえから
左手の手のひらのうえに移動する
ふたつの手を離したり
近づけたりして
音が移動するさまを楽しむ
友だちに
ほらと言って音をわたすと
友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくと友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくたちが手をいろいろ動かして
音と遊んでいると
ほかのひとたちも
ぼくたちといっしょに
手のひらをひろげて
音と戯れる
音も
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
みんな夢中になって
音と戯れる
音もおもしろがって
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
驚きと笑いに満ちた顔たち
音と同じようにはずむ息と息
たったひとつの音と
ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに。



それぞれの世界。

ぼくたちは
前足をそろえて
テーブルの上に置いて
口をモグモグさせながら
店のなかの牧草を見ていた。
ふと、彼女は
すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ
たっぷりとよだれをテーブルのうえに落としながら
モーと鳴いた。
「もう?」
「もう。」
「もう?」
「もう!」
となりのテーブルでは
別のカップルが
コケー、コココココココ
コケーっと鳴き合っていた。
ぼくたちは
前足をおろして
牧草地から
街のなかへと
となりのカップルも
おとなしくなって
えさ場から
街のなかへと
それぞれの街のなかに戻って行った。



敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
膝をさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。



文法。

わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。

また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。

しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。



フローベールの『紋切型辞典』(小倉孝誠訳)を読んでいて、いろいろ思ったことをメモしまくった。そのうち、きょう振り返っても、書いてみたいと思ったものを以下に書きつけておく。

印刷された の項に

「自分の名前が印刷物に載るのを目にする喜び!」

とあった。

1989年の8月号から1990年の12月号まで、自分の投稿した詩がユリイカの投稿欄に載ったのだが、自分の名前が載るのを目にする喜びはたしかにあった。いまでも印刷物に載っている自分の名前を見ると、うれしい気持ちだ。しかし、よりうれしいのは、自分の作品が印刷されていることで、それを目にする喜びは、自分の名前を目にする喜びよりも大きい。ユリイカに載った自分の投稿した詩を、その号が出た日にユリイカを買ったときなどは、自分の詩を20回くらい繰り返し読んだものだった。このことを、ユリイカの新人に選ばれた1991年に、東京に行ったときに、ユリイカの編集部に訪れたのだが、より詳細に書けば、編集部のあるビルの1階の喫茶店で、そのときの編集長である歌田明弘さんに話したら、「ええ? 変わってらっしゃいますね。」と言われた。気に入った曲を繰り返し何回も聴くぼくには、ぜんぜん不思議なことではなかったのだが。ネットで、自分の名前をしじゅう検索している。自分のことが書かれているのを見るのは楽しいことが多いけれど、ときどき、ムカっとするようなことが書かれていたりして、不愉快になることがある。しかし、自分と同姓同名のひとも何人かいるようで、そういうひとのことを考えると、そういうひとに迷惑になっていないかなと思うことがある。しかし、自分と同姓同名のひとの情報を見るのは、べつに楽しいことではない。だから、たぶん、自分と同姓同名の別人の名前を見ても、たとえ、自分の名前と同じでも、あまりうれしくないのではないだろうか。自分の名前が印刷物に載っているのを見ることが、つねに喜びを与えてくれるものであるとは限らないのではないだろうか。


譲歩[concession] 絶対にしてはならない。譲歩したせいでルイ十六世は破滅した。

と書いてあった。

 芸術でも、もちろん、文学でも、そうだと思う。ユリイカに投稿していた
とき、ぼくは、自分が書いたものをすべて送っていた。月に、20〜30作。
選者がどんなものを選ぶのかなんてことは知ったことではなかった。
そもそも、ぼくは、詩などほとんど読んだこともなかったのだった。
新潮文庫から出てるよく名前の知られた詩人のものか
堀口大學の『月下の一群』くらいしか読んでなかったのだ。
それでも、自分の書くものが、まだだれも書いたことのないものであると
当時は思い込んでいたのだった。
譲歩してはならない。
芸術家は、だれの言葉にも耳を貸してはならない。
自分の内心の声だけにしたがってつくらなければならない。
いまでも、ぼくは、そう思っている。
それで、無視されてもかまわない。
それで破滅してもかまわない。
むしろ、無視され、破滅することが
ぼくにとっては、芸術家そのもののイメージなのである。


男色 の項に

「すべての男性がある程度の年齢になるとかかる病気。」

とあった。

 老人になると、異性愛者でも、同性に性的な関心を寄せると、心理学の本で読んだことがある。
 こだわりがなくなっただけじゃないの、と、ぼくなどは思うのだけれど。でも、もしも、老人になると、というところだけを特徴的にとらえたら、生粋の同性愛者って、子どものときから老人ってことになるね。どだろ。


問い[question] 問いを発することは、すなわちそれを解決するに等しい。

とあった。古くから言われてたんだね。


都市の役人 の項に

「道の舗装をめぐって、彼らを激しく非難すべし。──役人はいったい何を考えているのだ?」

とあった。

これまた、古くからあったのね。国が違い、時代が違っても、役人のすることは変わらないってわけか。
 でも、ほかの分野の人間も、国が違っても、時代が違っても、似たようなことしてるかもね。治世者、警官、農民、物書き、大人、子ども、男、女。


比喩[images] 詩にはいつでも多すぎる。

とあった。

 さいきん、比喩らしい比喩を使ってないなあと思った。でも、そのあとで、ふと、はたして、そうだったかしらと思った。
 ペルシャの詩人、ルーミーの言葉を思い出したからである。ルーミーの講演が終わったあと、聴衆のひとりが、ルーミーに、「あなたの話は比喩だらけだ。」と言ったところ、ルーミーが、こう言い返したのだというのだ。
「おまえそのものが比喩なのだ。」と。
そういえば、イエス・キリストも、こんなことを言ってたと書いてあった。
「わたしはすべてを比喩で語る。」と。
言葉そのものが比喩であると言った詩人もいたかな。どだろ。


分[minute] 「一分がどんなに長いものか、ひとは気づいていない。」

とあった。

 そんなことはないね。齢をとれば、瞬間瞬間がどれだけ大事かわかるものね。その瞬間が二度とふたたび自分のまえに立ち現われることがないということが、痛いほどわかっているのだもの。それでも、人間は、その瞬間というものを、自分の思ったように、思いどおりに過ごすことが難しいものなのだろうけれど。悔いのないように生きようと思うのだけれど、悔いばかりが残ってしまう。ああ、よくやったなあ、という気持ちを持つことはまれだ。まあ、それが人生なのだろうけれど。
 ノブユキとのこと。エイジくんとのこと。タカヒロとのこと。中国人青年とのこと。名前を忘れた子とのこと。名前を聞きもしなかった子とのことが、何度も何度も思い出される。楽しかったこと、こころに残ったさまざまな思い出。



2010年11月18日のメモ

人生においては
快適に眠ることより重要なことはなにもない。
わたしにとっては、だが。



2010年11月19日のメモ 

無意識層の記憶たちが
肉体のそこここのすきまに姿を消していくと
空っぽの肉体に
外界の時間と場所が接触し
肉体の目をさまさせる。
目があいた瞬間に
世界が肉体のなかに流れ込んでくる。
肉体は世界でいっぱいになってから
ようやく、わたしや、あなたになる。
けさ、わたしの肉体に流れ込んできた世界は
少々、混乱していたようだった。
病院に予約の電話を入れたのだが
曜日が違っていたのだった。
きょうは金曜日ではなくて
休診日の木曜日だったのだ。
金曜日だと思い込んでいたのだった。
それとも、わたしのなかに流れ込んできた世界は
あなたに流れ込むはずだったものであったのだろうか。
それとも、理屈から言えば、地球の裏側にいるひと、
曜日の異なる国にいるひとのところに流れ込むはずだった世界だったのだろうか。



2010年11月19日のメモ 

考えたこともないことが
ふと思い浮かぶことがある。
自分のこころにあるものをすべて知っているわけではないことがわる。
いったい、どれだけたくさんのことを知らずにいるのだろうか。
自分が知らないうちに知っていることを。



カラオケでは、だれが、いちばん誇らしいのか?

あたしが歌おうと思ってたら
つぎの順番だった同僚がマイクをもって歌い出したの。
なぜかしら?
あたしの手元にマイクはあったし
あたしがリクエストした曲だったし
なんと言っても
順番は、あたしだったのに。
なぜかしら?
機嫌よさげに歌ってる同僚の足もとを見ると
ヒールを脱いでたから
こっそりビールを流し入れてやったわ。
「これで、きょうのカラオケは終わりね。」
なぜかしら?
アララットの頂では
縄で縛りあげられた箱舟が
その長い首を糸杉の枝にぶら下げて
「会計は?」
あたしじゃないわよ。
海景はすばらしく
同僚のヒールも死海に溺れて
不愉快そうな顔を、あたしに向けて
「あたしじゃないわよ。」
みんなの視線が痛かった。
「なぜかしら?」
ゆっくり話し合うべきだったのかしら?
「だれかが、あたしを読んでいる。」



かつて人間だったウーピー・ウーパー

マイミクのえいちゃんの日記に

帰ってまた

ってタイトルで

食べてしまったサラダとご飯と豚汁と ヨモギ団子1本あかんな〜 ついつい食べてまうわ でも 幸せやで皆もたまにはガッツリ食べようね
帰りに考えてた ウーパールーパーに似てるって昔いわれた 可愛いさわ認めるけど 見た目は認めないもんね でも こないだテレビでウーパーを食べてたなんか複雑やったなやっぱり認めるかな 俺似てないよねどう思いますか? 素直によろしくお願いします

って、あったから

似てないよ。
目元がくっきりしてるだけやん。

って書いたんだけど、あとで気がついて

ウーピー・ゴールドマンと間違えてた。
動物のほうか。
かわいらしさが共通してるかな。
共通してると似てるは違うよ。

って書き足したんだけど、そしたら、えいちゃんから返事があって

間違えないで。 ウーピー食べれないでしょ 。間違うのあっちゃんらしいね。
目はウーピー・ゴールドマンに似てるんや。 これまた、 複雑やわ。 ありがとう。

って。なんか、めっちゃおもしろかったから、ここにコピペした。
えいちゃん、ごめりんこ。

ちなみに、えいちゃんの日記やコメントにある絵文字は、コピペできんかった。
どういうわけで?
わからん。
なぜだ?
なぜかしらねえ。

「みんなの病気が治したくて」 by ナウシカ



捨てなさい。

というタイトルで、寝るまえに
なにか書こうと思った。
これから横になりながら
ルーズリーフ作業を。
なにをしとったんじゃ、おまえは!
って感じ。
だらしないなあ、ぼくは。
だって、おもしろいこと、蟻すぎなんだもの。

追記 2010年11月20日11時02〜14分
   なにも思いつかなかったので、俳句もどきのもの、即席で書いた。

捨ててもまた買っちゃったりする古本かな
なにもかもありすぎる捨てるものなしの国
あのひとはトイレで音だけ捨てる癖がある
目がかゆい目がかゆいこれは人を捨てた罰
捨て台詞誰も拾う者なし拾う者なし者なし
右の手が悪いことをすれば右の手を捨てよ



おじいちゃんの秘密。

たいてい、ゾウを着る。
ときどき、サルを着る。
ときには、キリンを着る。
おじいちゃんの仕事は
動物園だ。
だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
たま〜に、空を着て鳥を飛んだり

鳥を着て空を飛んだりすることもある
って言ってた。
動物園の仕事って
たいへんだけど
楽しいよ
って言ってた。
でも、だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
言ったらダメだよって言われたら
よけいに言いたくなるのにね。
きのう、ぶよぶよした白いものが
おじいちゃんを着るところを見てしまった。
博物館にいるミイラみたいだったおじいちゃんが
とつぜん、いつものおじいちゃんになってた。
おじいちゃんと目が合った。
どれぐらいのあいだ見つめ合ってたのか
わからないけれど
おじいちゃんは
杖を着たぼくを手に握ると
部屋を出た。



蝶を見なくなった。

それは季節ではない。
季節ならば
あらゆる季節が
ぼくのなかにあるのだから。

それは道ではない。
道ならば
あらゆる道が
ぼくのなかにあるのだから。

それは出合いではない。
出合いならば
あらゆる出合いが
ぼくのなかにあるのだから。



蝶。

それは偶然ではない。
偶然ならば
あらゆる偶然が
ぼくのなかにあるのだから。



「わたしの蝶。」と、きみは言う。

ぼくは言わない。



蝶。

花に蝶をとめたものが蜜ならば
ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。

蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。
ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。

花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。
きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。

蝶は蜜に飽きることを知らない。
きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。

蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。
ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。

蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。
もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。



蝶。

おぼえているかい。
かつて、きみをよろこばせるために
野に花を咲かせ
蝶をとまらせたことを。

わすれてしまったかい。
かつて、きみをよろこばせるために
海をつくり
渚で波に手を振らせていたことを。

ぼくには、どんなことだってできた。
きみをよろこばせるためだったら。
ぼくにできなかったのは、ただひとつ
きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。



蝶。

きみは手をあげて
蝶を空中でとめてみせた。

それとも、蝶が
きみの手をとめたのか。

静止した時間と空間のなかでは
どちらにも見える。

その時間と空間をほどくのは
この言葉を目にした読み手のこころ次第である。



蝶。

蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。
それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。



蝶。

ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき
ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは
ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。
ぼく「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。
ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき
読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも
やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。
ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると
読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき
ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど
ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も
「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も
「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。
そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も
「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。
ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。
「自分の書いた作品で」という言葉をはずして
人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。
人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。
いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは
弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。
考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。
考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが
それを証明することは不可能である。
考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし
言うべきだと思っているのだが
この「すべての」という言葉が不可能にさせているのである。
この限界を突破することはできるだろうか。
わからない。
表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。
しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても
よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。
しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。
それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。
怠れない。
こころして生きよ。



蝶。

蝶を見なくなった。
「それは蝶ではない。」
あっ、ちょう。



友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。

むかし付き合った男の子で
友だちから相談をうけてねって
ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに
「友だちの役に立てるって、ええやん。」
「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
と言ってたことを思い出した。
ああ
この子は
打算だとか見返りを求めない子なのね
自分が損するばかりでイヤだなあ
とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。
ちょっとヤンキーぽくって
バカっぽかったのだけれど、笑。
ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで
バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど
ほんとのバカはだめで
その子もけっしてバカじゃなかった。
顔はおバカって感じだったけど。

本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ。
           (老子)



つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。

『The Things We Do For Love。』を読み直してたら
郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。
気がついてよかった。
ツイッターでフォローしてくれてるんだけど
ノーナ・リーブズのリーダーで
いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で
声もすばらしい。
ところで数ヶ月前
某所である青年に出会い
「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」
ってたずねたことがあって
メイクラブしたあと
そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど
ああ
これは、ヒロくんパターンね
彼も作曲家だった。
西寺郷太そっくりで
彼と出会ってすぐに
郷太ちゃんのほうから
ツイッターをフォローしてくれたので
いまだに、それを疑ってるんだけど
「違います。」
って、言われて、でも
そっくりだった。
違うんだろうけれどね。
話を聞くと
福岡に行ってたらしいから。
ちょっと前まで。
福岡の話は面白かった。
フンドシ・バーで
「フンドシになって。」
って店のマスターに言われて
なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて
それで、ベロンベロンになって酔ったら
さわりまくられて、裸にされたって。
手足を振り回して暴れまくったって。
たしかにはげしい気性をしてそうだった。
ぼくに
「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」
「田中さんをけなす人がいたら、
 そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。
 そうでしょ? そう考えられませんか?」
ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。
ひとつ目の言葉には納得できないけど。
26歳か。
CMの曲を書いたり
バンド活動もしてるって言ってたなあ。
CMはコンペだって。
コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。
芸術のわからないクズのような連中が
うるさく言う感じ。
そうそう
作曲家っていえば
むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。
聞いてびっくりした。
シンガーソングライターってことになってる連中の
多くがゴーストライターを持ってるなんてね。
ひどい話だ。
ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。
そういえば
CMで流れていた
伊藤ハムかな
あの太い声は印象的だった。
そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど
後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど
カミングアウトしたらいいのに。
「きみはタイプじゃないよ。」って。
もっとラフに生きればいのに。
タンタンどうしてるだろ。



アメリカ。

ノブユキ
「しょうもない人生してる。」
何年ぶりやろか。
「すぐにわかった?」
「わかった。」
「そしたら、なんで避けたん?」
「相方といっしょにきてるから。」
アメリカ。
ぼくが28歳で
ノブユキは20歳やったやろうか。
はじめて会ったとき
ぼくが手をにぎったら
その手を振り払って
もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。
「5年ぶり?」
「それぐらいかな。」
シアトルの大学にいたノブユキと
付き合ってた3年くらいのことが
きょう、日知庵から帰る途中
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「ごめんね。」
「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
ノブちん。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「どこの窓から見ても
 すっごいきれいな夕焼けやねんけど
 毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」
ノブユキ。
歯磨き。
紙飛行機。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
シアトル。
「ごめんね。」
「ごめんね。」



偶然。

職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃたのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。


骨。

  田中宏輔






どの、骨で
鳥をつくらうか。

どの、骨で
鳥をつくらうか。

手棒(てんぼう)の、骨で
鳥をつくらう。

その、指は
翼となる。

その、甲は
胸となる。

鳥の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
鳥をこしらへる。

白い、骨の
鳥ができあがる。

その、骨は
飛ばない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
鳥だ。


II

どの、骨で
蛇をつくらうか。

どの、骨で
蛇をつくらうか。

傴僂(せむし)の、骨で
蛇をつくらう。

その、椎骨は
背骨となる。

どの、椎骨も
背骨となる。

蛇の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
蛇をこしらへる。

白い、骨の
蛇ができあがる。

その、骨は
這はない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
蛇だ。


III

どの、骨で
魚をつくらうか。

どの、骨で
魚をつくらうか。

蝦足(えびあし)の、骨で
魚をつくらう。

その、踝は
背鰭となる。

その、足指は
尾鰭となる。

魚の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
魚をこしらへる。

白い、骨の
魚ができあがる。

その、骨は
泳がない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
魚だ。


IV

どの、骨で
神殿をつくらうか。

どの、骨で
神殿をつくらうか。

骨無(ほねなし)の、骨で
神殿をつくらう。

その、肋骨(あばらぼね)は
屋根となる。

その、椎骨は
柱となる。

神殿の、形に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
神殿をこしらへる。

白い、骨の
神殿ができあがる。

この、神殿は
不具のもの。

この、神殿は
不具の者たちのもの。

来(こ)よ、来たれ
不具の骨たちよ。

纏つた、肉を
引き剥がし。

縺れた、血管(ちくだ)を
引きちぎり。

ここに、来て
objetとなるがよい。

ここに、来て
objetとなるがよい。




それらは、分骨された
片端の骨鎖(ほねぐさり)。

その、生誕は
呪ひ。

その、死は
祝福。

その、屍骨(しかばね)は
埋葬されず。

糞の、門の外に
棄てられる。

或は、生きたまま
火にくべられる。

片端の骨鎖(ほねぐさり)、
骨格畸形のobjet。

骨を、割き
骨を砕く。

骨を、接ぎ
骨を繋ぐ。

白い、骨で
objetをこしらへる。

白い、骨の
objetができあがる。

その、骨は
動かない。

なにを、する
こともない。

なにを、する
こともない。

神に、祈る
こともない。

神に、祈る
こともない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
objetだ。


陽の埋葬

  田中宏輔




 よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、わたしの指が読んだ、
死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それ
は、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父
方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるわたしの指と、点字を翻訳していく
わたしの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、わたしたちに許しを請うて
いた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉
を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。

 わたしは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いった
い、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、わたしが優等
生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わっていないはずだ。死んだ父も、ずっと、
わたしのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれれば
よかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、わたしは、死に際の父の耳に、
きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。

 どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、
灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、
二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。

 従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて
行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、わたしには拒めなかった。岸辺で待ってい
るあいだ、わたしは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗
を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。

 気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤細工のよう
に、ポキポキ折れていった。


*


死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/神は罅割れた指先で
/日割れた地面を引っ掻いた/川原の石で頭を叩き潰された小魚たち/小魚たち/シジミも/ツブも
/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/罅割れた指先は川
となり/死んだものたちの囁き声が満ちていく/せせらぎに耳を澄ます水辺で枯れた葦/きらきらと
光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声と
なる/わたしは神を吐き出した/神は分裂し/ひとりは死んだ/神は分裂し/ひとりは精霊となった
/死んだ神は少年の姿となって川を遡る/川を遡っていく/右の手に巨大なシャモジを持った精霊が
後を追う/後を追って行く/


enema/浣腸器


/美しい/少年は服を剥ぎ取られ/美しい/少年は後ろ手に腕を縛られ/美しい/少年は尻を突き出
し/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい
/少年の喘ぎ声/美しい/少年の喘ぎ声/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい/川原の石が叫ぶ/美し
い/その縛めをほどけ/美しい/その縛めをほどけ/と/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい


/enema/浣腸器


肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声/肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声
/波打つ身体/激しく震える少年の身体/足を開いて四つん這いになった少年は/身体を震わせなが
ら脱糞する/ブブッブブッ/ブッブッ/シャー/シャー/と/激しく身体を震わせながら脱糞する/
きらきらと光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/神の指先は黄金の川に輝いていた/
少年はジャムパンを頬張りながら/ゴクゴクと牛乳を飲んでいる/川原に向かって/ゴクゴクと牛乳
を飲んでいる/棒を飲んで死んだヒキガエル/ヒキガエルは棒を飲んで死んでいた/toad/Tod/ヒ
キガエル/死/シッ/toad/Tod/ヒキガエル/死/シッ/


*


 月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。
また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、
何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったの
だ。たまらなく、さびしかったのだ。
 橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやっ
て来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たく
さんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに
坐って、煙草に火をつけた。
 目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくよ
り齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたの
だが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。
月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
 樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
 うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
 手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
 胡桃ぐらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなう
つくしい満月の夜に、この球根を植えると、一週間もしないうちに、写真のような天使になるという。
ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
 男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩
き去って行った。

 瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくち
ゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、その
やわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で
触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、そ
の衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れて
みた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている
生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすら
とした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使
の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の
茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出され
た。
 机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の
切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。

 その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。


虫、虫、虫。

  田中宏輔




蚯蚓


 朝、目が覚めたら、自分のあそこんところで、もぞもぞもぞもぞ動くものがあった。寝たまま、頭
だけ起こして目をやると、タオルケットの下で、くねくねくねくね踊りまわるものがあった。まるで
あのシーツをかぶった西洋のオバケみたいだった。あわててタオルケットをめくると、パンツの横か
ら、巨大な蚯蚓が、頭だか尻尾だか知らないけど、身をのけぞらしてのたくりまわっていた。とっさ
に右手で払いのけたら、ものすっごい激痛をあそこんところに感じた。起き上がって、パンツを一気
にずり下ろしてみると、そこには、ついてるはずのぼくのチンポコじゃなくって、ぐねぐねぐねぐね
のたくりまわっている巨大な蚯蚓がついていた。上に下に横に斜めに縦横無尽にぐぬぐぬぐぬぐぬの
たくりまわっていた。一瞬めまいらしきものを感じたけど、ぼくは、すぐに立ち直った。だって、あ
のカフカのグレゴール・ザムザよりは、不幸の度合いが低いんじゃないかなって思って。ザムザは、
全身が虫になってたけど、ぼくの場合は、あそこんところだけだから。パンツのなかにおさめて、上
からズボンをはけば、外から見て、わかんないだろうからって。こんなもの、ごくささいな変身なん
だからって、そう思えばいいって、自分に言い聞かせて。情けないけど、そうでも思わなきゃ、学校
もあるんだし。そうだ、とりあえず、学校には行かなくちゃならないんだから。ぼくは、以前チンポ
コだった蚯蚓を握ってみた。いきなり強く握ったので、そいつはぐぐぐって持ち上がって、キンキン
に膨らんだ。口らしきものから、カウパー腺液のように粘り気のある透明な液体が、つつつっと糸を
引きながら垂れ落ちた。気持ちよかった。ずいぶんと大きかった。そうだ。以前のチンポコは短小ぎ
みだった。おまけにそれは包茎だった。キンキンに勃起しても、皮が亀頭をすっぽりと包み込んでい
た。無理にひっぺがそうとすれば、亀頭の襟元に引っかかって、それはもう、ものすっごい激痛が走
ったんだから。もしかすると、この新しいチンポコの方がいいのかもしんない。そうだ。そうだとも。
こっちのほうがいい。ぼくは制服に着替えはじめた。
 電車のなかは混んでて、ぼくは吊革につかまって立っていた。電車の揺れに、ぼくのあそこんとこ
ろが反応して、むくむくむくっと膨らんできた。前の座席に坐ってる上品そうなおばさんが、小指を
立てた右手でメガネをすり上げて、ぼくのあそこんところを見つめた。とっさにぼくは、カバンで前
を隠した。そしたら、よけいに、ぼくの蚯蚓は、カバンにあたって、ぐにぐにぐにぐにあたって、あ
っ、あっ、あはっ、後ろにまわって、あっ、あれっ、そんな、だめだったら、あっ、あれっ、あっ、
あつっ、つつっ、いてっ、ててっ、あっ、でも、あれっ、あっ……



*



とっても有名な蠅なのよ。


とっても有名な蠅なのよ、あたいは。
教科書に載ってるのよ、それも理科じゃなくって
国語なのよ、こ・く・ご!
尾崎一雄っていう、オジンの額の皺に挟まれた
とっても有名な蠅なのよ
あたいは。

でもね、あたいが雄か雌か、なあんてこと
だれも、知っちゃいないんだから
もう、ほんと、あったま、きちゃうわ。

これでも、れっきとした雄なんですからね。

フンッ。

(あっ、ここで、一匹、場内に遅れてやってまいりました!
 武蔵の箸に挟まれたという、かの有名な蠅であります。)

──おいっ、こらっ、オカマ、変態、
  おまえより、おれっちの方が有名なんだよ。

あたいの方が有名よ。

──なにっ、こらっ、おいっ、まてっ、まてー。

(あーあ、とうとう、ぼくの頭の上で、二匹の蠅が
 追っかけっこしはじめましたよ。作者には、もう
 どっちがどっちだかわかんなくなっちゃいました。)

(おっと、二匹の蠅は、舞台を台所に移した模様です。)

──あっ、ちきしょう、こりゃあ、蠅取り紙だっ。

いやっ、いやっ、いやー、羽がくっついちゃったわ。

(そっ、それが、ごく自然な蠅の捕まり方ですよ。) 



*



羽虫


真夜中、夜に目が覚めた。
凄々まじい羽音に起こされた。
はらっても、はらっても
黒い小さな塊が、音を立てて
いくつも、いくつも纏わりついてきた。
そういえば、ここ、二、三日というもの
やけに、羽虫に纏わりつかれることが多かった。
きのうは、喫茶店で、口がストローに触れた瞬間に
花鉢からグラスのなかへ、羽虫が一匹、飛び込んできた。
今朝などは、起き上がってみると
シーツの上に、無数の黒い染みが張りついていたのだ。
と、そうだ、思い出した。
ぼくは思い出した。
ぼくは、とうに死んでいたんだ。
おとといの朝だった。
目が覚めたら、ぼくは死んでいた。
ぼくは、ぼくのベッドの上で死んでいたのだ。
そうだ。
そして、ぼくは
ぼくの死体を部屋の隅に引きずっていったんだ。
あれだ。
あのシーツの塊。
ぼくは、シーツを引っぺがしに立ち上がった。
ぼくがいた。
目をつむって、口を閉じ
膝を抱いて坐っていた。
すえたものの、それでいて
どこかしら、甘い匂いがした。
それは、けっして不快な臭いではなかったけれど
腐敗が進行すれば臭くなるだろう。
ぼくは、ぼくの死骸を抱え運び
自転車の荷台に括りつけた。
ぼくの死骸を捨てにいくために。


(不連続面)


真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸を自転車の荷台に括りつけ
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸の捨て場所を探しさがしながら
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

踏み切り、
踏み切り、
真夜中、夜の駅。

ぼくの足は、いつもここで止まる。
ここに、ぼくの死骸を置いていこうか
どうしようか、と思案する。

でも、必ず
ぼくは、ぼくの死骸といっしょに
自分の部屋に戻ってくることになるのだ。



*



あめんぼう


あめんぼうは、すばらしい数学者です。
水面にすばやく円を描いてゆきます。



*






夏の一日
わたしは蝶になりましょう。

蝶となって
あなたの指先にとまりましょう。

わたしは翅をつむって
あなたの口づけを待ちましょう。

あなたはきっと
やさしく接吻してくれるでしょう。



*






死に
たかる蟻たち
夏の羽をもぎ取り
脚を引き千切ってゆく
死の解体者
指の先で抓み上げても
死を口にくわえてはなさぬ
殉教者
死とともに
首を引き離し
私は口に入れた
死の苦味
擂り潰された
死の運搬者






*






髑髏山の蟻塚は
罪人たちの腐りかけた屍体である。

巣穴に手を入れると
蟻どもがずわずわと這い上がってきた。

たっぷりと味わうがいい。
わたしの肉体は余すところなく美味である。

じっくりと味わうがいい。
とりわけ手と唇(くち)と陰茎は極上である。



*



蛞蝓


真夜中、夜の公衆便所
  消毒済の白磁の便器のなかで
    妊婦がひとり、溺れかけていた
      壁面の塗料は、鱗片状に浮き剥がれ
       そのひと剥がれ、ひと剥がれのもろもろが
       黒光る小さな、やわらかい蛞蝓となって
      明かり窓に向かって這い上っていった
    女が死に際に月を産み落とした
  血の混じった壁面の体液が
 月の光をぬらぬらと
なめはじめた



*



蝸牛


窓ガラスに

雨垂れと

蝸牛

頬伝う

私の涙と

あなたの指



*



自涜する蝸牛


  ユダの息子オナンは、故意に己の精を地にこぼした。そのため主は彼を殺された。(創世記三八・九−十)


自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
人葬所(ひとはふりど)にて快楽を刺青するわたくし、わたくしは
──溶けてどろどろになる蝸牛。*

さもありなん。
この身に背負つてゐるのは、ただの殻ではない。
銅(あかがね)の骨を納めた骨壺(インクつぼ)である。

湿つた麺麭(パン)に青黴が生へるやうに
わたくしの聚(あつ)めた骨は日に日に錆びてゆく。

──死よ、おまへの棘はどこにあるのか。**

──わたくしの棘は言葉にある。
その水銀(みずがね)色の這ひずり跡は
緑青(あをみどり)色の文字(もんじ)となつて
墓石に刻まれる。

──死の棘は罪である。***

しかり。
罪とは言葉である。
言葉からわたくしが生まれ
そのわたくしがまた言葉を産んでゆく。

自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
両性具有(ふたなり)のアダム、悲しみの聖母マリア(マテル・ドロローサ)。

日毎、繰り返さるる受胎と出産、
日々、生誕するわたくし。



*: Psalms 58.8  **: 1 Corinthians 15.55  ***: Corinthians 15.56



*



祈る蝸牛


小夜(さよ)、小雨(こさめ)降りやまぬ埋井(うもれゐ)の傍(かた)へ、
遠近(をちこち)に窪(くぼ)溜まる泥水、泥の水流るる廃庭を

葉から葉へ、葉から葉へと這ひ伝はりながら
わたしは歳若い蝸牛のあとを追つた。

とうに死んだ蝸牛が、葉腋(えふえき)についたきれいな水を
おだやかな貌つきで飲んでゐた。

きれいな水を飲むことができるのは
雨の日に死んだ蝸牛だけだと聞いてゐた。

見澄ますと、雨滴に打たれて震へ揺れる病葉(わくらば)の上から
あの歳若い蝸牛がわたしを誘つてゐた。

近寄つて、わたしは、わたしの爪のない指を
そろり、そろりと、のばしてみた。

、わたしの濡れた指が、その蝸牛の陰部に触れると
その蝸牛もまた、指をのばして、わたしの陰部に触れてきた。

わたしたちは、をとこでもあり、をんなでもあるのだと
 ──わたしたちは、海からきたの、でも、もう海には帰れない……

わたしたちは、をとこでもなく、をんなでもないのだと
 ──魂には、もう帰るべきところがないのかもしれない……

この快楽の交尾(さか)り、激しく揺れる病葉(わくらば)、
手を入れて(ふかく、ふかく、さしいれて)婪(むさぼ)りあふわたしたち。

わたしたちは婪(むさぼ)りあはずには生きてはゆけないもの。

──ああ、雨が止んでしまふ。

濡れた指、繰り返さるる愛撫、愛撫、恍惚の瞬間
、瞬間、その瞬間ごとに、

わたしは祈つた、

──死がすみやかに訪れんことを。



*



蟷螂


  蟷螂(たうらう)よ その身に棲まふ禍(まが)つもの おまへの腹はおまへを喰らふ


 小学生のころに、道端とかで、カマキリの姿を見つけたりすると、ぼくは、よく踏みつけて、ぐち
ゃぐちゃにしてやった。踵のところで、地面にぎゅいぎゅいこすりつけてやった。ときには、そのほ
っそりとしたやわらかい胴体を、指で抓み上げて、上下、真っ二つにぶっちぎってやったりもした。
すると、お腹のなかから、気味の悪い黒褐色の細長いものが、ぐにゅるにゅるにゅるぐにゅるにゅる
と、のたくりまわりながら飛び出てきた。本体のカマキリのほうは、とっくに死んでいるのに、お腹
のなかに潜んでいたそいつは、踏んづけてやっても、なかなか死ななかった。バラバラにしてやって
も、しぶとく動いていた。ぼくは、そいつがカマキリのほんとうの正体か、それとも、もうひとつ別
の姿か、あるいは、もうひとつ別の命のようなものだと思っていた。そいつがハリガネ虫とかと呼ば
れる、カマキリとはぜんぜん別個の生き物であるということを知ったのは、中学校に入ってからのこ
とだった。そいつは、カマキリのお腹のなかに棲みつきながら、カマキリの躯を内側から蝕んでいく
というのだ。そのことを知って、カマキリを殺すことがつまらなくなってしまった。そしたら、とた
んに、カマキリの姿を目にしなくなった。見かけることがなくなったのである。不思議なものだ。そ
れまで、あんなによく出くわしていたというのに。
 カマキリは、学名(英名とも)を Mantis といい、それは「巫」の意を表わすギリシア語に由来する
という(『ファーブル昆虫記』古川晴男訳)。たしかに、カレッジ・クラウン英和辞典で調べると、語
源は、ギリシア語のアルファベット転記でも mantis であった。神託(oracle)を告げるというのだ。
 ぼくは夢想する。カマキリが、蝶の姿となったぼくの躯を抱きしめ、ぼくを頭からムシャムシャと
むさぼり喰っていく様を。まるで陸(おか)に上がったばかりの船員が女の身体にむしゃぶりつくよ
うに。その荒々しさが、ぼくは好きだ。二の腕に黛色の入れ墨のある若くて逞しい船員の、潮の匂い
がたっぷりと沁み込んだ、男らしいゴツゴツとした太い指。その太い指に引っ掻きまわされて、くし
ゃくしゃにされる女の髪の毛。それは、ぼくの翅だ。カマキリは、その大きなトゲトゲギザギザの前
脚で、ぼくの美しい翅をバラバラに引き裂いてゆくのだ。そのヴィジョンは、ぼくを虜にする。
 蝶のやうな私の郷愁!(三好達治『郷愁』)。ぼくの目は憶えている。ぼくの美しい翅が、少年の
指に粉々に押し潰されたことを(ヘッセ『少年の日の思い出』高橋健二訳)。ぼくの目は憶えている。
その少年の指が、ぼく自身の指であったことを。ぼくの指が、ぼくの美しい翅を、粉々に押し潰して
いったことを。



*






コンコン、と
ノックはするけど

返事もしないうちに
入ってくるママ

机の上に
紅茶とお菓子を置いて

口をあけて
パクパク、パクパク

何を言ってるのか
ぼくには、ちっとも聞こえない

聞こえてくるのは
ぼくの耳の中にいる虫の声だけだ

ギィーギィー、ギィーギィー
そいつは鳴いてた

ママが出てくと
そいつが耳の中から這い出てきた

頭を傾けて
トントン、と叩いてやると

カサッと
ノートの上に落っこちた

それでも、そいつは
ギィーギィー、ギィーギィー

ちっとも
鳴きやまなかった

だから、ぼくは
コンパスの針で刺してやった

ノートの上に
くし刺しにしてやった

そうして、その細い脚を
カッターナイフで刻んでやった

先っちょの方から
順々に刻んでやった

そのたびごとに
そいつは大きな声で鳴いた

短くなった脚、バタつかせて
ギィーギィー、ギィーギィー鳴いた

そいつの醜い鳴き顔は
顔をゆがめて叱りつけるママそっくりだった

カッターナイフの切っ先を
顔の上でちらつかせてやった

クリックリ、クリックリ
ちらつかせてやった

そしたら、そいつは
よりいっそう大きな声で鳴いた

ギィーギィー、ギィーギィー
大きな声で鳴きわめいた

ぼくの耳を楽しませてくれる
ほんとに面白い虫だった


THE SANDWITCHES’S GARDEN。

  田中宏輔




MELBA TOAST & TURTLE SOUP。
  カリカリ・トーストと海亀のスープの物語。



二年くらい前、ある詩人に、萩原朔太郎は好きですか、と尋ねられた。嫌な質問だった。というのも、
この手の質問では、たいていの場合、好きか、嫌いか、といった二者択一的な返答が期待されており、
それが、詩人の好悪の念と同じものであるか、ないかで、その後の会話がスムーズなものになったり、
ならなかったりするからである。しかも、彼は用心深く警戒し、先に自分の好き嫌いは言わないので
ある。好きではないですけど、別に嫌いでもありません。ぼくの返事を聞くと、詩人は顔をしかめた。


しきりに電話が鳴っていた。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』28、土岐恒二訳)
まだうとうととしながらも
                 (プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳)
わたしは受話器をとりあげた。
                (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・八岐の園、篠田一士訳)

自分の気持ちを正直に口にしただけなのに、詩人は不機嫌そうな顔をして黙ってしまった。唐突にさ
れた質問だったので、つい、正直に答えてしまったのだ。そこで、気まずい雰囲気を振り払うため、
ぼくの方から、でも、亀の詩は好きですよ、と言った。すると、彼は、人を疑うような目つきをして、
そんな詩がありましたか、と訊いてきた。ぼくは、ほら、あのひっくり返った姿で、四肢を突き出し、
ずぶずぶと水底に沈んでゆく、あの亀の詩ですよ、と言った。詩人はさらに眉根を寄せて首を傾げた。


ん?  
                  (タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳)
電話の声は  
          (ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』フェイディング、三好郁朗訳)
聞き覚えのある声だった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

あとで調べてみると、朔太郎の「亀」という詩には、「この光る、/寂しき自然のいたみにたへ、/
ひとの心霊にまさぐりしづむ、/亀は蒼天のふかみにしづむ。」とあるだけで、逆さまになってずぶ
ずぶと水底に沈んでいく亀のヴィジョンは、ぼくが勝手に拵えたイマージュであることがわかった。
そういえば、大映の「ガメラ」シリーズで、バイラスという、イカの化け物のような怪獣に腹をえぐ
られたガメラが、仰向けになって空中を落下していくシーンがあった。その映画の影響かもしれない。


もしもし?  
                       (プイグ『赤い唇』第二部・第十回、野谷文昭訳)
空耳だったのかしら、  
                 (サリンジャー『フラニーとゾーイー』ゾーイー、野崎 孝訳)
ぼくはあたりを見まわした。   
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

ひと月ほど前のことだ。俳句を勉強するために、小学館の昭和文学全集35のページを繰っていると、
石川桂郎の「裏がへる亀思ふべし鳴けるなり」という句に目がとまった。裏返しになった亀が、悲鳴
を上げながら、突き出した四肢をばたばたさせてもがいている姿に、強烈な印象を受けた。そして、
海にまで辿り着くことができなかった海亀の子が、ひっくり返った姿のまま、干からびて死んでいく
という、より「陽の埋葬」的なイメージを連想した。熱砂の上で目を見開きながら死んでいくのだ。


壁に   
                     (トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)
絵が一枚かけてあった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
死んだ父の肖像だった。   
                                   (原 民喜『夢の器』)

ここひと月ばかり、様々な俳人たちの句に目を通していったが、読むうちに、俳句の面白さに魅せら
れ、勉強という感じがしなくなっていった。とりわけ、村上鬼城、西東三鬼、三橋鷹女、渡辺白泉な
どの作品に大いに刺激された。鬼城の「何も彼も聞知つてゐる海鼠かな」という句ひとつにしても、
それを知ることで、ぼくの感性はかなり変化したはずである。穏やかな海の底にいる、一匹の海鼠が、
海の上を吹き荒れる嵐に耳を澄ましているというのだ。この静と動のコントラストは、実に凄まじい。


亡霊は生き返らない。  
                                   (イザヤ書二六・一四)
パパは死んじゃったんだ。ぼくのお父さんは死んでしまったんだ。
                   (ジョイス『ユリシーズ』10・さまよえる岩、高松雄一訳)
どこか別の世界にいるのだった。
                     (ル・クレジオ『リュラビー』豊崎光一・佐藤領時訳)

河出書房新社の現代俳句集成・第四巻で、鬼城を読んでいると、「亀鳴くと嘘をつきたる俳人よ」と
「だまされて泥亀きゝに泊りけり」の二句を偶然、目にした。次の日に、新潮社の日本詩人全集30を
めくっていると、これまた富田木歩の「亀なくとたばかりならぬ月夜かな」という、亀が鳴かないこ
とを前提として詠まれたものを見かけた。桂郎の句では、亀は鳴くものとして扱われていたが、別に、
亀が鳴くことには疑問を持たなかった。これまで、亀の鳴き声など耳にしたことはなかったけれど。


絵の
                       (ウィーダ『フランダースの犬』3、村岡花子訳)
唇が動く。
                          (サルトル『嘔吐』白井浩司訳、句点加筆)
父はわたしにたずねた。
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4、父の死、清水三郎治訳)

このように、亀が鳴くことを否定する句をつづけて目にすると、逆に、亀が鳴くことを前提とした句
が、数多く詠まれているのではないか、と思われてきた。そこで、歳時記にあたって調べることにし
た。角川の図説・俳句大歳時記・春の巻を見ると、「亀鳴く」が季語として掲げられていた。そこに
は、亀が鳴くものとして詠まれた句が、十あまりも載っていたが、前掲の木歩のものとともに、亀が
鳴かないものとして詠まれた、「亀鳴くと華人信じてうたがはず」という、青木麦斗の句もあった。


またかい。
                              (堀 辰雄『ルウベンスの偽画』)
同じ文句の繰り返しだ。
                          (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳)
そこにはオウムがいるのかしら。
                (ヘッセ『クリングゾル最後の夏』カレーノの一日、登張正実訳)

講談社の作句歳時記を見ると、「カメには声帯、鳴管、声嚢もないので、鳴くわけはなく、俗説に基
づくものであるとされているが、かすかにピーピーと声を出すことはあるらしい」とあり、前掲の角
川の歳時記にも、「いじめるとシューシューという声を出すという」とあるが、「しかし、これらが
鳴き声といえるほどのものかどうかは疑わしい」ともあって、亀が鳴くとは断定していない。また、
教養文庫の写真・俳句歳時記には、「実際に鳴くわけではないが、春の季題として空想する」とある。


しかし、
        (ドストエーフスキー『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第三篇・第三、米川正夫訳)
あのハンカチは一体どこでなくしたのかしら、
                  (シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅 泰男訳)
色は海の青色で
                           (梶井基次郎『城のある町にて』昼と夜)

動物の生態を歳時記で知ろうとするのは、間違ったことかもしれない。そう思って、平凡社の動物大
百科12を見ると、「一部のゾウガメの求愛と後尾にはゾウもねたむかと思われるほどのほえ声がとも
なうことがある」とあった。亀は鳴くのだ。しかし、前掲の句に詠まれたものは、大方のものが、沼
や池などに棲息する水生の亀であって、ゾウガメのような大型のリクガメではなかったはずである。
知りたいのは、昔から日本にいる、イシガメやクサガメといった亀が、鳴くかどうか、なのである。


これがまた
              (カミロ・ホセ・セラ『パスクアル・ドゥアルテの家族』有本紀明訳)
地雷を埋めた浜辺だった。
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)
どこの浜辺もすべて地雷が埋めてある。
               (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳、句点加筆)

文献に頼るのはやめ、京都市動物園に電話をかけて、直接、訊くことにした。以下は、飼育係長の小
島一介氏の話である。亀は鳴かない。たしかに、リクガメは、交尾のときや、痛みを受けたときに、
呼吸にともなって音を出したり、カゼをひいて、鼻水のたまった鼻から音を出したりすることはある。
しかし、それはみな、偶然に出る音である。おそらく、春の日にあたるため、水から上がってきた亀
たちが、人の気配に驚いて、トポトポトポと、水に飛び込む音を、「亀鳴く」としたのだろう、と。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
芥川龍之介が
                         (室生犀星『杏っ子』第二章・誕生・迎えに)
海の方へ散歩しに行った。
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)

トポトポトポが、亀の鳴く声とは、ぼくには思いもよらない、ユニークな見方だった。その光景は、
カゼをひいた亀が、ピュルピュルと鼻を鳴らす姿とともに、ほんとに可愛らしかった。電話を切って、
図書館に行くと、教育社の古今和歌歳時記の背表紙が目に入った。「実は呼吸器官である」とあった。
小学館の日本語大辞典・第三巻を繙くと、「これは鳴くのではなく、水をふくんで呼吸する音である
という」。で、また、何気なく歳時記を見ていると、ふと、「蚯蚓鳴く」という季語に目がとまった。


どうしてこんなにたくさん?
                  (ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳)
ほら、さわってごらん。
                  (ヒメネス『プラテーロとぼく』9・いちじく、長南 実訳)
何時かはみんな吹きとばされてしまふのだ。
                          (ポール・フォール『見かけ』堀口大學訳)


*



LAUGHING CHICKENS IN THE TAXI CAB。



学校の帰りに、駅のホームで電車が来るのを待っていると、女子学生が二人、しゃべりながら階段を
下りてきた。ぼくが腰かけてたベンチに、一つ空けて並んで坐った。「こんど、太宰治が立命に講演
しに来るねんて」「そやねんてなあ。あたし、むかしの人やと思てたわ」「どんな感じやろ」「写真
どおりやろか」。ぼくは、太宰のことを訊こうとしたが、思い直してやめた。声をかけるのもためら
われるぐらい、二人とも美人だったのだ。間もなく電車が来た。ぼくは、違う入り口から乗り込んだ。


彼女はどこに埋められたの?
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・32、大久保康雄訳)
ぼくのハンカチの中だ。
                  (エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』第四章、山口四郎訳)
迷わないように
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』8、鼓 直訳)

去年の夏休みは、アキちゃんと、賀茂川の河川敷で、毎日のように日光浴してた。ぼくたち、二人と
も、短髪ヒゲの、どこから見ても立派なゲイなのだけど、アキちゃんは、さらにオイル塗りまくりの
フンドシ姿で、川原の視線を一身に集めてた。ぼくだって、カバのように太ったデブで、トランクス
一つだったから、かなり目立ってたと思うけど、アキちゃんには、完全に負けてた。自転車に乗った
子供たちが、アキちゃんのプルルンと丸出しになったお尻を指差して、笑いながら通り過ぎて行った。


妹と
                      (ロビン・ヘムリー『ホイップに乗る』小川高義訳)
いっしょに
                              (ノサック『弟』1、中野孝次訳)
古い歌を
                    (ナディン・ゴーディマ『釈放』ヤンソン柳沢由実子訳)

タクちゃんの部屋に遊びに行くと、テーブルの上に道具をひろげて、お習字の練習をしていた。つい
最近、はじめたらしい。タクちゃんは、ぼくのことをうっちゃっておいて、熱心に字を書きつづけた。
ぼくはベッドの端に腰かけて、「飛」という字を、メモ用紙にボールペンで書いてみた。一番苦手な
字だった。そう言って、ぼくが、ふたたび書いて見せると、書道の本を手渡された。見ると、ぼくの
書き順が間違っていたことがわかった。正しい書き順で書くと、見違えるほどに、きれいに書けた。


織り
          (スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』手紙の出来事、田中西二郎訳)
込んで
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
おいたのだ。
                       (ポオ『盗まれた手紙』富士川義之訳、句点加筆)

夜中の一時過ぎに電話が鳴った。ノブユキからだった。一週間ほど前に帰国したという。親知らずを
抜くのに、アメリカでは千ドルかかると言われ、八百ドルで日本に帰れるのにバカらしいやと思って、
日本に帰って抜くことにしたのだという。保険に入ってなかったからだろう。それにしても、驚いた。
ぼくの方も、二日後に親知らずを抜くことになってたから。ぼくの場合は、虫歯じゃなくて、いずれ
隣の歯を悪くするだろうからってのが理由だったけれど。ノブユキの声を聞くのは、二年ぶりだった。


だが、それはもう
                           (サルトル『壁』伊吹武彦訳、読点加筆)
ここには
                       (マリー・ノエル『哀れな女のうた』田口啓子訳)
ないのだ。
                   (T・S・エリオット「寺院の殺人」第一部、福田恆存訳)

本って、やっぱり出合いなんだよね。先に、「ライ麦畑でつかまえて」を読まなくってよかったと思
う。サリンジャーの中で、一番つまらなかった。たぶん二度と読まないだろう。まあ、文学作品の主
人公というと、たいてい自意識過剰なものだけど、「ライ麦」の主人公に鼻持ちならにものを感じた
のは、その自意識の過剰さもさることながら、自分だけが無垢な魂の持ち主だという、とんでもない
錯覚を、主人公がしてたからだ。かつてのぼくも、そうだった。だからこそ、いっそう不愉快なのだ。


ずっと以前のことだ。
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
ある晩、
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4・父の死、清水三郎治訳)
海がそれを運び去った。
                            (『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳)

エイジくんは、ぼくの横にうつぶせになって、背中に字を書いて欲しいと言った。Tシャツの上から
だ。直に触れられるより気持ちがいいらしい。書くたびに、エイジくんは、何て書かれたか、あてて
いった。ぼくが易しい字ばかり書くものだから、途中から、エイジくんが言う字を、ぼくが書くこと
になった。「薔薇」という字が書けなかった。一年ほど前のことだ。西脇順三郎の「旅人かへらず」
にある、「ばらといふ字はどうしても/覚えられない書くたびに/字引をひく」を読んで思い出した。


そうなんだ。
                 (シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳)
ああ、海が見たい。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
バスに乗ろうかな。
                     (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳、句点加筆)

lead apes in hell:女が一生独身で暮らすという句がある。猿を引き回すことが老嬢の来世での仕事
であるという古い言い伝えに由来し、エリザベス朝時代の劇作家がしばしば用いた、と英米故事伝説
辞典にある。イメージ・シンボル事典によると、老嬢は地獄で猿を引く、という諺が知れ渡っていた
らしい。シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場に、「地獄へ猿をひいて行かなくてはならない
のだ」(福田恆存訳)とある。「陽の埋葬」で、ぼくは、それを逆にした。猿が、ぼくを引くのだ。


そうすれば、
                          (ジュネ『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳)
ぼくのハンカチが
                 (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第III部、高木研一訳)
出て来るかと思って。
                (シュペルヴィエル『ロートレアモンに』堀口大學訳、句点加筆)

タカヒロがポインセチアを買ってきてくれた。昨年のクリスマスの晩のことだ。別れてから、八年に
なる。タカヒロが大学一年のときに、ふた月ほど付き合っただけだが、ここ一年くらい、電話で話す
ようになった。いま付き合ってる相手が、京都だというのだ。卒業すると、タカヒロは東京の会社に
就職した。ぼくのところに寄ったのは、ついでだった。コーヒーを淹れたあと、養分になると思って、
その豆の滓を鉢の中に捨てた。二日もすると、白い黴が生えた。何度捨てても、同じ白い黴が生えた。


このバスでいいのだろうか?
                   (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)
あゝ、いゝとも。
                    (モリエール『人間嫌い』第一幕・第一場、内藤 濯訳)
お前も来るかい?
                              (ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

毎日のように葵書房という本屋に行く。すぐ近所なので、日に三回行くこともめずらしくない。この
間、ジミーと行った。彼はオーストラリアから来た留学生で、大学院で日本文学を専攻している。二
階の文芸書コーナーで、彼が新潮日本文学辞典を開いて見せた。コノ人、田中サンノ先生デショウ?
そう言って、彼は指先をページの右上にすべらせた。そこには見出し語の最初の五文字が、平仮名で
書いてあった。田中サンノ先生だから、おおおかまナノデスカ? それを聞いて、ぼくは絶句した。


ハンカチを
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)
浮べて、
                       (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳、読点加筆)
海はまた別の物語を語る。
                   (J・シンガー『男女両性具有』I・第七章、藤瀬恭子訳)

温泉の番組で、レポーターが、卵が腐ったような臭いがするって言ってた。彼女は、卵が腐った臭い
を嗅いだことがあるのだろうか。この間も、ニュース番組で、アナウンサーが、あるものが雨後の筍
のように生えてきましたって言ってたけど、彼が実際に雨後の筍を観察したことがあって言ったとは
思えない。卵が腐ったような臭いも同じで、現実に嗅いだことがあって言ったとは思えない。ゆで卵
の殻を剥くと、すごく臭いことがある。卵が腐ったような臭いと聞くと、ぼくは、これを思い出す。


海はもう
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチを
                    (サングィネーティ『イタリア綺想曲』99、河島英昭訳)
少しずつほどきはじめていた。
                (トランボ『ジョニーは戦場へ行った』第一章・3、信太英男訳)


*



STRAWBERRY HANDKERCHIEFS FOREVER。



『英米故事伝説辞典』で、「handkerchief」の項目を読んでいると、こんな話が載っていた。「ハン
カチの形はいろいろあったが、四角になったのは、気まぐれ者の Marie Antoinette 王妃がハンカチ
は「四角のがよい」といったので、 Louis XVI が1785年「朕が王国の全土を通じハンカチの長さは
その幅と同一たるべきものとす」という珍しい法令を布告した」というのである。「四角」といえば、
前川佐美雄の「なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす」が思い起こされた。


置き忘れられた
               (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・円環の廃墟、篠田一士訳)
写真をとりあげると、
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』16、井上 勇訳)
海だった。
                        (パヴェーゼ『月とかがり火』3、米川良夫訳)

この項目には、もうひとつ、面白い話が載っていた。ハンカチが、フランスの宮廷内で流行したのは、
Napoleon I の妃 Josephine (1763-1814)が「前歯が欠けていたので、微笑するときなど、これを
隠すためにハンカチを用いた」からである、というのだ。ノブユキは、笑うとき、女の子がよくする
ように、手で口元を隠して笑った。歯茎がぐにっと見えるからだった。たしかに、見事な歯茎だった。
with handkerchief in one hand sword in the other:片手にハンカチ、片手に剣という成句がある。


一度も、その海を見たことがなかったけれど、
                      (ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳、読点加筆)
長いあいだ、眺めていた。
            (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』6・妻と恋人、清水三郎治訳、読点加筆)
なぜ、海の眺めは、かくも無限に、また、かくも永遠にこころよいのか。
                   (ボードレール『赤裸の心』三〇、阿部良雄訳、読点加筆)

不幸に際して悲しみを表わす一方、それに付け込んで儲けを企む、といった意味である。ハンカチが(1)
悲しみの象徴として用いられている例に、芥川龍之介の「手巾」がある。ある婦人が、自分の息子が
死んだことを告げに、主人公宅を訪れたときのことだ。件の話に触れる婦人の様子に悲しげなところ
が少しもないことを不審に思っていた主人公が、偶々、婦人が膝の上で手巾を両手で裂かんばかりに
して握っているのを目にして、その婦人が実は全身で泣いていたということに気づくという話である。


忘れていたことを想い出そうとして、
                  (シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)
ほどけかかった
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチの隅をつまみ上げてみた。
                      (ディクスン・カー『絞首台の謎』10、井上一夫訳)

ハンカチが悲しみの象徴となることは、涙をふくときに使われることから容易に連想される。「突然
わたしは、自分の目に涙が溢れ出るのではないかと恐れた。わたしは人前を取り繕うために叫んだ。
/「目にレモンのしぶきがはねたんです」/わたしはハンカチで目をふいた。」「あのときハンカチ
のかげで感じたあの憂鬱さをわたしはけっして忘れることができない。それはわたしの涙をかくした
ばかりでなく、一瞬の狂気をもかくしたのだ。」「わたしはハンカチを顔から放して、涙ぐんだ目を


あの海が思い出される。
                (プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)
すさみはてた心は
                      (レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)
あらゆることを、つぎつぎと忘れ去るのに、
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)

他人の面前でさらけ出した。わたしはむりにつくり笑いをしてみんなを笑わせようと努力した。」こ(2)
の滑稽かつ悲惨な場面は、ズヴェーヴォの「ゼーノの苦悶」の中で、もっとも印象的な箇所だった。
コントなどで、男の子が女の子を呼びとめて、その娘が落としてもいないハンカチを(つまり、男の
子自身の持ち物を)手渡そうとする場面を目にすることがあるが、その起源は、「愛の印として、男
性が女性に贈ったり」、「女性が男性にさりげなく落として拾わせたりした」という、一六世紀頃の(3)(1)


ハンカチをプレゼントしたの
                   (トルーマン・カポーティ『誕生日の子供たち』楢崎 寛訳)
おぼえてるかい?
                       (コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)
そう言って
               (シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳)

風習にまで遡る。この風習は、drop (throw) the handkerchief to:意中を仄めかす、気のあること(1)
を示す、という成句の中に引き継がれている。しかし、また、ハンカチを「恋人への贈り物にするの(4)
は、離別のもとになるとして避けられる」ともあり、「むやみに贈与してはいけない」ものともいう。(5)(1)
シェイクスピアの「オセロウ」の初演は一六〇四年である。その頃には、ハンカチは一般に普及して
いた。「愛の印」であったハンカチが、オセロウをして嫉妬に狂わせ、彼の最愛の妻デズデモウナを


指を離すと、
             (アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡1』第II部・7、厚木 淳訳)
ハンカチは床に落ちた。
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・82、木村 浩・松永緑彌訳)
彼女はハンカチを拾いあげようとはしなかった。
                       (ボリス・ヴィアン『日々の泡』52、曾根元吉訳)

死なしめたのである。それは、苺の刺繍が施された一枚のハンカチだった。苺にハンカチ、といえば、(6)
シュトルムの『みずうみ』にある「森にて」の場面が思い出される。苺は聖母マリアのエンブレムで(7)
あり、ハンカチを聖骸布(キリストの遺骸を包んだ亜麻布)、或はヴェロニカの聖顔布に見立てると、
ハンカチに包まれた苺の構図は、キリストに抱かれた聖母マリアの図像、すなわち、「逆ピエタ」と
なる。「包む」は、「みごもる」という語にも通じ、イヴを「みごもった」アダムの姿を髣髴させる。


どうしてあのときハンカチを床から拾わなかったのだろう?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・84、木村 浩・松永緑彌訳)
まだ百年はたっていなかったが、
                  (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・刀の形、篠田一士訳)
まだそこにあるだろうか?
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』1、菅野昭正訳)

tie a knot in a handkerchief:(何かを忘れないために)ハンカチに結び目をつくる、という成句(8)
がある。かつての呪術的な風習の名残であろうか。『フランス故事ことわざ辞典』を繙くと、Nouer
l'aiguillette.:飾り紐を結ぶ、といった成句もあった。解説に、「ある特定の文句をとなえながら、
飾り紐に三つの結び目をつくる。この詛いの作法は憎い相手の縁談をぶちこわすために、嫉妬になや
む男や捨てられた女が行なった」とある。「人の結婚をさまたげるために詛いをかけた」というのだ。


海の上に
                           (アンリ・ミショー『氷山』小海永二訳)
コーヒーを
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』18、井上 勇訳)
注いだ。
                   (ロジャー・ゼラズニイ『砂のなかの扉』6、黒丸 尚訳)

処刑の際などに、流れ出た血をハンカチに染み込ませて、記念のために取っておくという風習がある。
ルイ16世が処刑されたあと、断頭台の柳行李が首斬り人の馬車によって運ばれていたときのことであ
る。それが、偶然、馬車の上から転げ落ちると、たちまち人々が群がって、自分たちの下着やハンカ
チなどを擦りつけていったという。そのため、そこらじゅう、何もかもが血まみれになったという。(9)
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』第二幕・第二場、第三幕・第二場に、このような風習が


合い言葉は?
                    (シュニッツラー『夢小説』IV、池内 紀・武村知子訳)
波だ。
      (ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳、句点加筆)
涙?
            (マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』8、田中倫郎訳)

あったことを示唆するセリフが出てくる。貴族の血をハンカチに浸して、記念にとっておいたらしい。
『ヘンリー六世』の第三部・第一幕・第四場には、一四六〇年十二月三〇日のウェイクフィールドの
戦いの際に、ヨーク公が敵方のマーガレット王妃に、自分の息子のラトランドの血に浸されたハンカ
チを突きつけられ、それで涙をふくように迫られる場面がある。血に染まったその布切れの経緯につ
いては、『リチャード三世』の第一幕・第三場や第四幕・第四場のセリフの中でも触れられている。


涙が頬を伝った。
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
去って行った者は、美しい思い出になる。
         (トム・レオポルド『君がそこにいるように』水曜日、岸本佐知子訳、読点加筆)
電話をかけようか、やめようか?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』上巻・1、木村 浩・松永緑彌訳)

シェイクスピアの『冬の夜語り』第五幕・第二場に、ハンカチが、形見の一つとして挙げられている。
形見の品というものが、呪術的な事物になり得ることは言うまでもない。それに持ち主の血がついて
いたりすると、なおいっそうのこと、呪術性が増すであろう。竹下節子の『ヨーロッパの死者の書』
第四章に、キリスト教初期殉教者たちの「殉教で流した血に浸した布」が聖遺物となって、「人々の
病の治癒などに効験」があるとされたり、「信仰の中心に据えられるようになった」という件がある。


留守番電話の声は
              (ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第四章、岩崎 徹訳)
祈りの言葉を繰り返した。
                (グエン・クワン・テュウ『チュア村の二人の老女』加藤 栄訳)
よく記憶しているのだ。
                 (ターハル・ベン=ジェルーン『砂の子ども』17、菊地有子訳)

この起源は、ハンカチではなく、血でもって、さらに遡ることができよう。フレイザーの『金枝篇』
第二十一章・四に、霊魂が宿るという血に対する畏怖の念から、血のついたものがタブー視されたり、
神聖視されたりしたとある。出エジプト記にある過越の祭りなど、聖書の様々な記述が思い出される。
東條英機が、逮捕直前にピストル自殺を図ったときにも、CIC(防諜部隊)の逮捕隊とともに部屋
に駆け込んだ外人記者のなかに、ハンカチをその血糊に浸して土産として持ち帰った者がいたという。(10)


次に生まれ変わるときには
                  (トム・レオポルド『誰かが歌っている』18、岸本佐知子訳)
波となって
                      (フォークナー『サンクチュアリ』25、加島祥造訳)
生まれでるのだよ。
                   (ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

(1)学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』(2)第五章、清水三郎治訳(3)平凡社『大百科事典』(4)
角川書店『スコットフォーズマン英和辞典』(5)三省堂『カレッジクラウン英和辞典』、以上、ここまで、
辞書の類は、handkerchief、或はハンカチーフの項を参照(6)第三幕・第三場、菅 泰男訳(7)大修館書店
『イメージ・シンボル事典』(8)研究社『新英和大辞典』knotの項(9)ルノートル/カストロ『物語フラ
ンス革命二・血に渇く神々』二、山本有幸編訳(10)ロバート・ビュートー『東條英機(下)』木下秀夫訳。



*



TWIN TALES。



『ジイドの日記』を読んでいて、ぼくがもっとも驚かされたのは、友人であるフランシス・ジャムに
ついて、ジイドがかなり批判的に述べていることだった。ジャムがいかに不親切で思い上がった人間
か、ジイドは幾度にも渡って書き記している。詩人としての才能は認めていたが、公平な批評能力も
なく、他人に対する思いやりにも欠けていると考えていた。もしも、田中冬二が、『ジイドの日記』
を読んでいたら、ぼくたちが「フランシス・ジャム氏に」という詩を目にすることはなかっただろう。


何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

蜂の巣つきの蜂蜜を食べた。北山通りにある輸入雑貨屋で買ってきたものだ。四角いプラスチックの
箱の中にぴったりおさまって入っていた蜂の巣は、五センチくらいの高さの四角柱で、上から覗くと、
数多くある小さな六角形の、どの穴ぼこの中にも、黄金色に輝く透明な蜂蜜がたっぷりつまっていた。
ペティーナイフで切る蜂の巣はとてもやわらかかった。巣をつぶして食べるようにと書いてあったが、
ウェハースの形に切り取って食べた。食べかすを噛んでいると、ガムを噛んでいるような感じがした。


小波(さざなみ)の渦が
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ハンカチを巻いて
                       (コクトー『怖るべき子供たち』1、東郷青児訳)
すうっと消える。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

三年くらい前のことだ。テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』を読んで、びっくりした。
第五場に、スタンリーが山羊座で、ブランチが乙女座であると書いてあったのだ。当時、付き合って
いたノブユキが乙女座で、ぼくが山羊座だった。ノブユキの姓が、ぼくと同じ「田中」であるという
ことを知ったときよりも、びっくりさせられた。そういえば、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を
読むと、ぼくが好きなサッフォーを、サリンジャーも好きなことがわかる。彼もまた山羊座だった。


花のように
                                (ヘッセ『詩人』高橋健二訳)
ハンカチは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
ほどけてゆく。
                          (サド『美徳の不運』前口上、渋澤龍彦訳)

高校二年の夏だ。以前から憧れてた先輩の安藤さんに、俺んちに泊りに来いよって言われた。試合を
見てるときなんか、だれにもわからないように、お尻をさわられたりしてたから、先輩も、ぜったい
に、ぼくのことが好きだと思ってた。寝る前に、先輩がトイレに立ったとき、ベッドの横にごろんと
なって、腕を伸ばした。すると、指の先に触れるものがあった。SM雑誌だった。グラビアだけ見て、
元の場所に置いて先輩を待った。先輩が戻ってきたとき、ぼくは目をつむって眠ったふりをしていた。


ひかりと波のしぶきのために、
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
目をさました。
                 (モーリヤック『蝮のからみあい』第一部・一0、鈴木建郎訳)
眼がさめた時には、なんの記憶もなかった。
                            (モーパッサン『山小屋』杉 捷夫訳)


*



ぼくが住んでるワンルーム・マンションの隣に、「カフェ・ジーニョ」という名前の喫茶店がある。
喫茶店なんて言うと、マスターは怒って、うちはバールですよって言うんだけど、どう見ても、喫茶
店って感じだから、つい、喫茶店って言ってしまう。で、そこでバイトしてる高校生のミッちゃんに
訊いてみた。こんど知り合った男の子が、俺の欲しいのは身体じゃないんだって言うんだけど、どう
思うって。すると、こんな答えが返ってきた。メンドクサイのが好きなのねって。ぼくもそう思った。


ぼくは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
花びらが
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
海に落ちてゆくのを見つめていた。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』4、加藤光也訳)

この前、タクちゃんちで食事をしてると、突然、彼が、「corpus」って、死体って意味があるんだけど、
キリストって意味もあるのよって言った。ぼくが、へえって言うと、クリスチャンの彼は、ぼくの目
の前に祈祷書を突き出して、ここに、真の御体をほめたたえよ、ってあるでしょ。これをラテン語で、
「ave verum Corpus」って言うのよ。ave はほめたたえる、verum は真に、Corpus はキリストって意
味ね。じゃ、仏といっしょだよねって、ぼくが言った。マホメットのことは、二人とも知らなかった。


ページをめくると、
                      (ジイド『贋金つかい』第一部・十二、川口 篤訳)
海だったのだ。
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
ふと本から眼を上げた。
                            (カフカ『審判』第一章、原田義人訳)

北大路橋を渡っていると、ぼくの肩の上に、鳩が糞を落とした。びっくりした。買ったばかりのジャ
ケットなのに、と思って見上げると、いつものように何十羽もの鳩たちが電線の上にとまっていた。
西岸の河川敷で、ひとりの老婆が、コンビニなどで手渡される白いビニール袋の中から、パンくずを
取り出して撒きはじめた。すると、頭の上の鳩の群れがいっせいに飛び立ち、撒かれた餌のところに
舞い降りていった。通勤の途中だったので、着替えに戻るわけにもいかず、そのまま駅に向かった。


テーブルの上に
                             (サルトル『部屋』二、白井浩司訳)
ハンカチが
                       (ジイド『贋金つかい』第三部・九、川口 篤訳)
たたまれて置かれてあった。
                    (リルケ『オーギュスト・ロダン』第一部、生野幸吉訳)

ブチブチ、ブチブチ、踏んづけてる、これ、何の音って訊くと、ショウヘイがカエルだよって教えて
くれた。大粒の雨が激しくフロントガラスに打ちつけている。ぼくが電話をかけたときには、十一時
を過ぎていた。恋人にふられたんだって言うと、彼は車を出して、ぼくのいたところまで迎えに来て
くれた。彼は黙ったまま、琵琶湖まで車を走らせた。真夜中のドライブ。ブチブチとつぶれるカエル
の音に耳を澄ましながら、昔付き合ってた恋人の横顔を眺めていると、ふと、映画のようだと思った。


さわってごらん、ずぶぬれだ──
                            (カフカ『審判』第六章、原田義人訳)
波に運ばれて
                       (ジイド『贋金つかい』第一部・二、川口 篤訳)
ふたたび生まれ変ったのだ。
                        (ジイド『地の糧』第一の書・二、岡部正孝訳)


*



SAY IT WITH FLOWERS。



何年か前に、詩を放棄したいと思ったことがある。「運命によって芸術の牢に投げこまれたものは、
もはやそこからのがれることはできない。」(川村二郎訳)と、『ウェルギリウスの死』の第II部に
ブロッホが書きつけている。恋人にふられそうになると、自分の方から先にその恋人をふってしまう
という、何とも浅ましい性格のぼくである。詩がぼくを放棄する前に、ぼくの方から詩を放棄しよう
かなと思ったのである。おまえなんか、はなっから見放されてんじゃないのって言われそうだけど。


一匹の猿が
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
花に見惚れている。
                   (ゴーリキイ『レオニード・アンドレーエフ』湯浅芳子訳)
夢を見ているのだ。
                             (リルケ『愛と死の歌』石丸静雄訳)

ホラティウスだったよね。「詩が書けないときは、そのこと自体を書け」って言ってたのは。でも、
それって、とてつもなくむずかしいことだと思わない? もしかしたら、詩を書くことより、ずっと
むずかしいことかもしれないよ。だって、ただ書けない書けないって書いてくわけにもいかないだろ。
なんで書けないのかってことを書かないと、文学にならないし。まっ、文学でなくても、面白ければ
いいんだけどね。もちろん、面白いものかどうかってことは、読み手が判断することなんだけどね。


なにがそうさせるのだろう?
             (ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『春とすべて』19、河野一郎訳)
その獣は
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
痩せた、慄(ふる)える手を差し伸べた。
                 (ロート『ラデツキー行進曲』第三部・第十八章、柏原兵三訳)

問題は形式ではない。統覚力である。ばらばらに散らばった情報を組織化し、秩序立てて、一篇の詩
に仕上げていく力が問題なのである。作品を構成しようとする意志の力と、その意志にしたがって構
築していく技術の力が、詩の緊密度を決定する。稚拙さや破綻が、芸術的効果を有することがあるが、
それもまた、すぐれた統覚力によってもたらされたものである。その場合には、逆説的だが、統覚力
が大いに発揮されてもなお払拭できなかった稚拙さや破綻が核となり、作品が結晶化するのである。


なんだって花をむしるんだい?
                              (ガルシン『赤い花』小沼文彦訳)
知らない。
                   (マリー・ノエル『お前の場所を探しに行け』田口啓子訳)
知っちゃいないさ。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

ぼくを好きな子は、みんな猫が好きだ。猫を好きな気持ちと同じ気持ちで、ぼくのことも好きになる
のかもしれない。といっても、ぼくが猫に似てるわけじゃないだろうけど。愛することって、どんな
ことか、ぼくには、よくわからない。でも、よくわからないからこそ、考えられる。そんな気がする。
Tacoma にいるノブユキから手紙が届いた。引っ越し先の部屋の様子が書かれてあった。どの窓からも
空が見えるという。べつに不思議なことでもなんでもないのだけれど、ぼくのこころを穏やかにする。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
いったいどこへ行ってしまったのか?
                          (ベールイ『銀の鳩』第I部、小平 武訳)
哀れな小さなハンカチよ、
                      (ギー・シャルル・クロス『あの初恋』堀口大學訳)

小学生のころは、画家になることが夢だった。というのも、四年生のときに、動物園で描いた絵が、
市が主催する小学生対象の絵画コンクールで、金賞を受賞したからだ。朝礼の時間に名前を呼ばれて
壇上にのぼり、晴れがましく賞状を受け取ったときの、あの感激が忘れられなかったためだろう。他
の生徒たちから浴びた羨望の眼差しも、すこぶる気持ちよかった。ぼくの絵は、檻の中の水溜まりに
映った豹の姿を描いたものだった。鉄格子越しの水鏡に映った豹の貌は、ほんとにさびしそうだった。


ハンカチをほどくと、
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)
そのたびに
                          (パヴェーゼ『ヌーディズム』河島英昭訳)
生まれかわる。
                  (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第II部、高本研一訳)

べつに歯が悪かったわけじゃないけど、右奥歯のブリッジの具合がよくなかったので、近所の歯科医
院に行って診てもらった。ブリッジと歯の間に隙間ができて、そこに歯垢が溜まって虫歯になってい
たという。四十代半ばぐらいの温厚そうな歯科医は、麻酔を一本打つと、ドリルで歯をガリガリと削
りはじめた。すると、突然、イイイッと、激痛が走った。すぐに麻酔を何本か打ってもらったけど、
痛みは収まらなかった。あまり効かない体質らしい。一時間半の間、拷問されてたような感じだった。


ほどいてもらいたいかね?
     (クローデル『クリストファー・コロンブスの書物』第二部・三、鈴木力衛・山本 功訳)
また苦しむためにかい?
                         (ゴーリキイ『どん底』第四幕、中村白葉訳)
もちろん。
         (トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

渋澤龍彦の本は、パパが好きでたくさん集めてた。『血と薔薇』なんて本も、書斎の本棚に何冊か並
んでた。パパは、実行の伴わない、いわゆる思想ホモだった。『薔薇族』や『さぶ』といったゲイ雑
誌を毎月かかさず買ってた。ママは、それをパパの些細な趣味と見なして、何とも思っていなかった
みたいだ。まさか、ぼくが盗み読みしてるなんて考えもしなかっただろうけど。渋澤の文のなかで、
とくに、ぼくが好きなのは、「象はさびしいところで交尾する。」という、アリストテレスの言葉だ。


と、誰かの足音が聞えてきた。
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
半開きになっていた扉のほうへ振りかえった。
                       (アンリ・バルビュス『地獄』V、田辺貞之助訳)
父はそこにはいなかった。
                     (ウィリアム・ブレイク『迷った男の子』土居光知訳)

ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。一九九一年の夏、八月十日の土曜日、夕方五時ごろの
ことだった。これまで見てきたものの中で、いちばん美しいと思うものは、なあに? ゼラズニイの
『ドリームマスター』1の中にあるセリフだ。好きになった子には、かならず訊くことにしている。
わからない、というのが、ノブユキの返事だった。どれが、いちばんか、決められないからだという。
猫に話しかけながら、ノブユキは電話をする。多数決すると、いつも、二対一で、ぼくの負けだった。


そのさきは、またしても海だ。
                          (ソレルス『公園』岩崎 力訳、読点加筆)
かぎりなく、もつれたりほどけたりしている
                   (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・結末、篠田一士訳)
海だった。
                  (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)

占星術に詳しい友だちに、ぼくのホロスコープを作ってもらいました。ちなみに、実際のぼくの誕生
日は十日です。第一詩集の奥付の十二日は、戸籍上のものです。父が、届け出た日付を書いたのです。
夜の十時に生まれました。で、ホロスコープですが、山羊座に、太陽・水星・木星・土星の惑星群が
あり、三つの水の星座、蟹座・蠍座・魚座に、それぞれ、火星・海王星・金星があって、グランド・
トリンを形成している、とのことです。性格が冷たいのは、天秤座に月があるせいだと言われました。



*



HE HAS JUST BEEN UNDER THE DAISIES。



きみは海を見たことがある?
                        (パヴェーゼ『丘の上の悪魔』10、河島英昭訳)
ぼくは
                    (サルトル『アルトナの幽閉者』第一幕、水戸多喜雄訳)
バスで行くことに決めた。
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)

『イメージ・シンボル事典』で調べると、雛菊は春に咲く最初の花なので、天の庭を埋める花として
絵に描かれる、とある。『カラー・アンカー英語大事典』によると、雛菊が地面近くに咲くことから、
under the daisies が「葬られて」「死んで」という意味になったという。春のはじめに見た雛菊は、
踏んでおかないと、その人が愛する人の上に雛菊が生える、つまり、死ぬ、という言い伝えがある。
こころやさしい瀬沼さんのことだから、野に咲いた雛菊を踏みつけることなどできなかったのだろう。


ふと
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
目の前に
                  (ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳)
極上の麻の白いハンカチが現われた。
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』11、鼓 直訳)

亡くなる一週間くらい前でしょうか。瀬沼さんから電話がありました。いつもより長い時間しゃべり
ました。おもに、詩についてですが、たくさん話をしました。そのときに氏の新しい詩集の話もしま
した。ぼくは言いました。「まるで小説のような印象を持ちました。すぐれた小説のような。」と。
彼は、ぼくの言葉を素直に受けとめてくれました。ぼくの真意はちゃんと伝わったようです。さっき、
久し振りに電話をかけてこられました。天国の庭からです。新しい電話番号を教えてもらいました。


バスを待つ行列の
                                   (原 民喜『夏の花』)
あいだを
                              (ワイルド『サロメ』西村孝次訳)
白いハンカチが、ひらひらしながら遠ざかって行くのを眺めた。
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)


陽の埋葬

  田中宏輔



 あの……おれ、夢見るんですよね、海の。ときどき夢のなかに海がでてきて、おれはサーフィンや
ってるんです。でっかい波にのってると、そのままヒューッて空に飛んでっちゃったり……あと……
パイプ・ラインのなかをすべってると、ずっとずっと中のほうまで入ってゆくと、アーッすごいなー
って気持ちよくなって……それで、ずっとずっとほら穴みたいにつづいてて……それが突然、マンホ
ールになっちゃうってゆー、そーゆう夢、見ます。
 あのー、きっと、夢のなかで、海がよんでるじゃないかなーって、おれ……思うんですけど。
                           (シャネルズ『ラッツ&スター』八曜社)

pipe line、manhole、夢のなかで、海が呼んでるって?


海が呼ぶ
                           (パウル・ツェラン『静物』川村二郎訳)

海が呼ぶ
                           (パウル・ツェラン「静物」川村二郎訳)

海が俺を呼ぶ
                  (ヴァレリー『夕暮の豪奢、破棄された詩…』鈴木信太郎訳)

永遠に海は呼ぶのだ──
                        (ゴットフリート・ベン『唄』II、生野幸吉訳)

ああ、ふと、何かを思い出せそうな気がして、
読みはじめたばかりの本を閉じた。


Dust soon collects on books.
本には、すぐ埃が溜まる。
                           (研究社『NEW COLLEGE 新英和中辞典』)

埃を吹き払って、ページを捲った。


命をし幸(さわ)くよけむと石(いは)走る垂水の水をむすびて飲みつ
                       (『万葉集』巻第七・雑歌・摂津にして作れる歌)

「石の水をお飲み」って、これのことかな。
                              (鉤括弧内=森本ハル『石の水』)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

I found her under a gooseberry bush.
赤ちゃんは、グーズベリーの木の下で見つけたのよ。
                           (研究社『NEW COLLEGE 新英和中辞典』)

さあ、
                   (シェイクスピア『十二夜』第四幕・第一場、小津次郎訳)

おいで。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ハンカチをお空け、
                        (シュトルム『みずうみ』森にて、高橋義孝訳)

さわってごらん。
                 (ジャン・ジュネ『花のノートルダム』幌口大學訳、句点加筆)

そこで、わたしは生まれたのだ。
                         (オウィデイウス『悲しみの歌』中村善也訳)

──誰でも胞衣(えな)をかぶって生まれてくるんでしょうね?
                            (芥川龍之介『夢』罫線及びルビ加筆)

それが僕というものを拵えている。
                       (ヴァレリー『テスト氏航海日誌抄』小林秀雄訳)

のがれることはできないのだ。
                   (ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳)

ああ、苦しい、苦しい。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
                    (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

欠けたものは数えることができない。
                                    (伝道の書一・一五)

聖書のページを繰っている。
                   (ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳)

そのときだ、コーヒーの匂いが、階段をのぼってくるのは。
                 (サン=ジョン・ペルス『讃』XVI、多田智満子訳、読点加筆)

小さい蟻が運んでいるのだった。
                                   (川端康成『十七歳』)

彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。
                                     (ヨブ記三・二二)

箒(ほうき)はどこだね?
                         (ゴーリキー『どん底』第一幕、中村白葉訳)

──それ、骨だよ。


骨?
                 (レーモン・クノー『文体練習』12・ためらい、朝比奈弘治訳)

──それ、きみの妹の骨だよ。


これが、ぼくの妹の骨?


これが、ぼくの妹の骨?


これが、ぼくの妹の骨?


ああ、苦しい、苦しい。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

Imsen,auf! es auszuklauben.
蟻ども、さあ、掘り出すのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

Imsen,auf! es auszuklauben.
蟻ども、さあ、掘り出すのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)



  *



 一相であるべき合金の内部に、組成の不均一があることを偏析(segregation)といい、鋳塊の中で
重い合金元素が底に沈降するような場合を、重力偏析(gravity segregation)という。この固溶体合
金のように、凝固過程で最初に晶出した中心部と、あとで晶出した周辺部との間に濃度の不均一をお
こすと、凝固完了後には、一つの結晶粒、または樹枝状晶の中で、中心と周辺の間に不均一がおこる。
これを粒内偏析といい、かくして得られた組織を、有心組織(cored structure)という。
                     (三島良績『金属材料論』日本工業新聞社、読点加筆)

有心組織(cored structure)、有心組織(cored structure)。


水甕は泉の傍らで破れ、車は井戸の傍らで砕ける。
                                     (伝道の書一二・六)

ollula tam fertur ad aquam,quod fracta refertur.
甕はそれが割れて持ち歸らるるまでは水の處へ運ばる。
                            (『ギリシア・ラテン語引用語辭典』)

そしてこの甕は。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

この柄杓は。


墓の中へでもはいるか。
                 (シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

墓の中にでも、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお、甕よ、あまたの甕よ!
                  (ネリー・ザックス『捨てられた物たちの合唱』生野幸吉訳)

火葬(やきはぶ)り損ねし樹下の古雛(ふるびな)、


歌う骨、
                   (グリム童話『歌う骨』表題から、高橋健二訳、読点加筆)

蟻、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

ここにあるのはなんだろう?
            (シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

数えてみよう。
                       (ユーゴー『死刑囚最後の日』八、豊島与志雄訳)

石女(うまずめ)の生涯を送らねばならぬのだが、
                 (シェイクスピア『夏の夜の夢』第一幕・第一場、福田恆存訳)

わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
                                     (詩篇二二・一七)

ひとり密かに、


腰をかがめて生まれたのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

──かえでさん。かえでさん。かえでさん。
                   (倉田百三『出家とその弟子』第四幕・第一場、罫線加筆)

誰だ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ほら、
                   (シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

洞になった木の幹からは蜂蜜が滴る。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

齢(よわい)を重ねた洞は蜜窩(みつぶさ)となるのだ。


雨なき雨の降る教典の上を、精霊の如きものが歩いている。


骨牌(カルタ)を捲るように梵字を引っ繰り返す婆羅門たち。


けわしい岩の裂目(さけめ)の中に姿が消える。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

あれはどこにいるか。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

蛭にふたりの娘があって、
「与えよ、与えよ」という。
                                     (箴言三〇・一五)

あれはどこにいるか。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

da.
與へよ。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

Produce the bodies,
二人の遺骸をここへ移せ、
                   (シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

Der Vorhang ist hoch.
幕は上がっている。
                              (相良守峯編『独和辞典』博友社)

omne simile appetit sibi simile.
あらゆる類似のものは自分に類似のものを捜す。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

optimi consiliarii mortui.
最上の助言者は死人なり。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

火葬(やきはぶ)り損ねし樹下の古雛(ふるびな)、


歌う骨、
                   (グリム童話『歌う骨』表題から、高橋健二訳、読点加筆)

蟻、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

蟻ならば、書物のなかの書物に精通していよう。


Geh!
行け。
                              (相良守峯編『独和辞典』博友社)

Vade ad formicam.
蟻のところへ行け。
          (『ギリシア・ラテン引用語辭典』ローマ教会公認ラテン語訳聖書、箴言六・六)

Vade ad formicam.
蟻のところへ行け。
          (『ギリシア・ラテン引用語辭典』ローマ教会公認ラテン語訳聖書、箴言六・六)



  *



アリ地獄、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ!
              (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第八章、鈴木幸夫訳)

おれのハンカチは、どこへ行ったのだ?


アリ地獄、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ!
              (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第八章、鈴木幸夫訳)

おれの失くしたハンカチは、いったい、どこへ行ったのだ?


──はっきりわかる/その目じるしは?
            (シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第五場、大山俊一訳、罫線加筆)

刺繍(ぬいとり)されたアルファベットのTの文字。


──Tの文字?


おれの名前のイニシャルだ。


──そこで、お前は、磔木(はりぎ)にかけられたというわけだ。


──さあ、降りなさい。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)

──降りてゆきなさい。
                    (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)

──残りの道は、ただ下りてゆくだけだ。
              (サラ・ティーズデイル『長い丘』福田陸太郎訳、罫線及び読点加筆)

──残りの道は、ただ下りてゆくだけだ。
              (サラ・ティーズデイル『長い丘』福田陸太郎訳、罫線及び読点加筆)

──もう、お前を逃がしはせぬ。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)

──もう、お前を逃がしはせぬ。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)



*:Tristan < Celt.Drystan < L.tristis tristis=sad (三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)
*:「そちは悲しみにつつまれてこの世に生まれてきたのだから、そちのなはトリスタン(悲しみの子)
 とよばれるがよい。」 (ペディエ編『トリスタンとイズー物語』1、佐藤輝夫訳)



  *



すると、蟻地獄は


きたないよれよれのハンカチの端をつまんでひっぱりだし、ひろげて見せた。
                   (ジョイス『ユリシーズ』1、テーレマコス、高松雄一訳)

たしかに、ぼくのハンカチだった。


と、思った


瞬間


ぼくの身体は


そのハンカチの真ん中にできた窪みのなかに引きずり込まれてしまった。


そして、蟻地獄に噛み砕かれると、


魂がすぐに吐き出された。


身体の方は


いつまでも咀嚼されていた。



  *



──どこの道からきたのかえ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

雨の道からやってきた。


雨なき雨の降る道を。


──おまえの父も、そうじゃった。


さもありなん。


わたしと父は一つである。
                              (ヨハネによる福音書一〇・三〇)

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
                                 (ヨハネの黙示録三・二〇)

私は戸の外に立って、たたいている。
                                 (ヨハネの黙示録三・二〇)

eo ad patrem.
私は父のところへ行く。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

eo ad patrem.
私は父のところへ行く。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


LET THERE BE MORE LIGHT。

  田中宏輔



画布(カンヴァス)の中に
(夏目漱石『三四郎』三)

海がある。
(詩篇一〇四・二五)

海辺のきわまで
(エリノア・ファージョン『町かどのジム』ありあまり島、松岡享子訳)

雑草がびっしり生い茂っていた。
(フォークナー『サンクチュアリ』22、加島祥造訳)

亀が
(スタインベック『怒りの葡萄』第六章、大久保康雄訳)

草の中から
(夏目漱石『草枕』十)

音もなく出てきて
(フォークナー『赤い葉』4、滝口直太郎訳)

日向ぼっこをして
(ヘンリー・ミラー『暗い春』春の三日目か四日目、吉田健一訳)

甲羅を干している。
(夏目漱石『野分』三)

日にあたりにでてきたんだ。
(エリノア・ファージョン『町かどのジム』大海ヘビ、松岡享子訳)

そうだろう?
(ロジャー・ゼラズニイ『光の王』1、深町眞理子訳)

いままで気がつかないでいたことだ。
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

気持ちいいかい?
(メアリー・モリス『嵐の孤児』斎藤英治訳)

手をのばせば届くところにいる。
(ポオ『モルグ街の殺人』丸谷才一訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

階段を登っている妹の足音が聞こえる。
(ポオ『アッシャー家の崩壊』富士川義之訳)

亀が
(スタインベック『怒りの葡萄』第六章、大久保康雄訳)

人間のような顔をして
(コクトー『美女と野獣』釜山 健訳)

ぼくの方を振り返った。
(アドルフォ・ビオイ=カサレス『烏賊はおのれの墨を選ぶ』内田吉彦訳)

つくづくと
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

僕を見つめる。
(ガルシン『あかい花』三、神西 清訳、句点加筆)

どう?
(レイモンド・カーヴァー『ナイト・スクール』村上春樹訳)

目がさめていて?
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第三章、望月市恵訳)

しっ!
(バルザック『恐怖時代の一挿話』水野 亮訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

おいしいトースト toaste を作ってさしあげてよ。
(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに、鈴木道彦訳)

たべる?
(ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る?』38、大久保康雄訳)

彼女は
(J・G・バラード『スクリーン・ゲーム』浅倉久志訳)

ベッドのそばのテーブルの上に置いた。
(シャーウッド・アンダスン『兄弟たち』橋本福夫訳)

ねえ、
(ヘッセ『メルヒェン』アヤメ、高橋健二訳)

また
(ホーフマンスタール『小説と戯曲における性格について』中野孝次訳)

詩を書いてる?
(レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』24、清水俊二訳)

しっ、静かに。
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第四場、大山俊一訳)

亀は
(萩原朔太郎『亀』)

そそくさと
(パインソウウェー『夢の河』南田みどり訳)

草の中に入っていった。
(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』93、柴田元幸訳)

ぼくは泣きだしたいような気持ちになった。
(バーバラ・ワースバ『急いで歩け、ゆっくり走れ』吉野美恵子訳)

ごめんなさい。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第五場、大山敏子訳)

いや、
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』5、伊藤典夫訳)

もういい、
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』愛らしき口もと目は緑、野崎 孝訳)

しかたがないさ。
(モーパッサン『ピエールとジャン』8、杉 捷夫訳)

だいじょうぶ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』第十一場、小田島雄志訳)

いいよ。
(ジョン・ヴァーリイ『さよなら、ロビンソン・クルーソー』浅倉久志訳)

気にすることなんかない。
(ラディゲ『ペリカン家の人々』第十二景、新庄嘉章訳)

いまさらどうにもならないんだから。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳、句点加筆)

それより、
(ポオ『アモンティリャアドの酒樽』田中西二郎訳)

もう何時になるだろう?
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

まもなく雨だろう。
(トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』秘密裡に、志村正雄訳)

そろそろ行くよ。
(レイモンド・カーヴァー『ヴィタミン』村上春樹訳、句点加筆)

いったいどこへ行くの?
(ジェイムズ・エイジー『母の話』斎藤英治訳)

どこへでも行きたいところに。
(ヘッセ『メルヒェン』詩人、高橋健二訳、句点加筆)

どこでも?
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』4、伊藤典夫訳)

ああ、そうだよ。
(ラリー・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

行かないのかい?
(ウィーダ『フランダースの犬』4、村岡花子訳)

バスに乗って。
(ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』直角三角形の斜辺、野崎 歓訳、句点加筆)

バスに乗って?
(マイ・シェーヴァル、ペール・ヴァールー『笑う警官』6、高見 浩訳)

だって、
(コレット『青い麦』一五、堀口大學訳、読点加筆)

雨が降ったら濡れるだろ。
(夏目漱石『草枕』七)

それに、
(バルザック『谷間のゆり』初恋、菅野昭正訳)

バスでなければ間に合わないんだ。
(オネッティ『ハコボと他者』杉山 晃訳)

わたしの顔にも、それが感じられるわ──
(J・G・バラード『永遠の一日』浅倉久志訳)

顔だって?
(トム・リーミイ『ハリウッドの看板の下で』井辻朱美訳)

ええ。
(マルグリット・デュラス『愛』田中倫郎訳)

そうよ。
(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』五、杉 捷夫訳)

それ、聖書の文句かい?
(スタインベック『怒りの葡萄』第二十八章、大久保康雄訳)

さあ、
(コクトー『美女と野獣』釜山 健訳)

どうかしら?
(カポーティ『草の竪琴』1、大澤 薫訳)

わからない。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第三幕・第二場、大山敏子訳)

そう?
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎 孝訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

ぽつぽつ雨が降りはじめた。
(カフカ『観察』騎手の反省のために、本野享一訳)

雨がぽつぽつ降り始めたようだった。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

雨だわ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』25、野崎 孝訳)

そうとも。
(ロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』3、金原瑞人訳)

さあ、これをごらん。
(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』経過報告11・四月二十二日、稲葉明雄訳)

なあに、これ?
(レイモンド・カーヴァー『羽根』村上春樹訳、読点加筆)

ハンカチの切れはし?
(クリスティ『アクロイド殺人事件』8、中村能三訳)

わかるだろ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』4、野崎 孝訳)

僕が
(コクトー『怖るべき子供たち』二、東郷青児訳)

書いた詩の一節だ。
(ヘンリー・ミラー『暗い春』春の三日目か四日目、吉田健一訳)

それをつまんだ瞬間に、
(フィリップ・K・ディック『ユービック』9、浅倉久志訳)

バス停で、
(マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳)

バスというバスが
(マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳)

爆発する。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』2、浅倉久志訳、句点加筆)

戦争かな?
(ヘッセ『知と愛』第十三章、高橋健二訳)

戦争には、こういうことは、いくらでもあるんだ。
(ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る?』43、大久保康雄訳)

僕はそこに、僕の頭文字をつけてやりたかった。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

もちろん、
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第九場、福田恆存訳)

ばらばらだ。
(ナディン・ゴーディマ『隠れ家』ヤンソン柳沢由実子訳)

それに
(ドストエフスキイ『白夜』第二夜、小沼文彦訳)

ほら、
(フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら』7、寺地五一・高木直二訳)

ぼくの生れは山羊座なんだ。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎 孝訳)

美しいひびきをもっているだろう?
(カロッサ『美しき惑いの年』われらのプロメートイス、手塚富雄訳)

それに加えて、
(カミュ『異邦人』第一部・四、窪田啓作訳)

パパは
(ナボコフ『ロリータ』第二部・1、大久保康雄訳)

まったく職業というものについたことがなかった。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

何時間も
(フィリップ・K・ディック『最後から二番目の真実』28、山崎義大訳)

ふわふわ浮いていた。
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』5、柳瀬尚紀訳)

これは関係なかったかな?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XI、高本研一訳)

ね、いいと思うかい?
(ナボコフ『ベンドシニスター』7、加藤光也訳)

嘘つき。
(ラディゲ『ペリカン家の人々』第五景、新庄嘉章訳)

でたらめ。
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』8、柳瀬尚紀訳)

おい、おい、
(モーパッサン『ピエールとジャン』6、杉 捷夫訳)

ぼくが
(ポオ『不条理の天使』氷川玲二訳)

嘘をいったことがあるかい?
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

まるで子供のような口をきくのね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳)

嘘はいけないことだってママに教わらなかったの?
(カポーティ『夜の樹』川本三郎訳)

どうして? いけないか?
(ロバート・A・ハインライン『夏への扉』2、福島正実訳)

駄目よ。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

だめだめ。
(アリストパネース『女の平和』高津春繁訳)

でも、
(ジェイムズ・エイジー『母の話』斎藤英治訳)

本物の詩ってものは、もっとも嘘だらけのもんだからね。
(シェイクスピア『お気に召すまま』第三幕・第三場、阿部知二訳)

自然界でも芸術でも、一番魅力的なものはすべて人をだますことで成り立っているんだ。
(ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳)

兄さん?
(夏目漱石『三四郎』十二)

あんまり馬鹿なことは言わないでね。
(オー・ヘンリー『最後の一葉』大津栄一郎訳)

とにかく詩なんてもううんざり。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』テディ、野崎 孝訳)

たくさんよ。
(ドストエフスキイ『白夜』第四夜、小沼文彦訳)

それより
(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)

コーヒーのお代りは?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

コーヒー?
(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊地 光訳)

いや、いらない。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』5、伊藤典夫訳、句点加筆)

泣いてらっしゃるの?
(マルグリット・デュラス『愛』田中倫郎訳)

ああ、
(ラリイ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

そうさ。
(モーパッサン『ピエールとジャン』3、杉 捷夫訳)

そのとおりさ。
(J・G・バラード『たそがれのデルタ』浅倉久志訳)

いいかい、ぼくは忘れないからね。
(ロジャー・ゼラズニイ『燃えつきた橋』第四部、深町眞理子訳)

それは
(カフカ『城』16、原田義人訳)

こんなふうに
(フォークナー『クマツヅラの匂い』3、瀧口直太郎訳)

海辺のうららかな午後だった。
(トム・レオポルド『誰かが歌っている』26、岸本佐知子訳)

乾いた
(ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

砂の上を
(ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』第二部・太陽に抗議する、柴田元幸訳)

はぐれた
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

波が一つ、
(ゴールディング『ピンチャー・マーティン』3、井出弘之訳)

ひと
(ロバート・A・ハインライン『夏への扉』7、福島正実訳)


(ヘッセ『メルヒェン』ファルドゥム、高橋健二訳)

──迷子になったのかい?
(メアリー・モリス『嵐の孤児』斎藤英治訳、罫線加筆)

そうとも、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第五場、大山敏子訳)

そうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

そいつは
(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)

波だった。
(ピーター・ディッキンンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳)

迷子になった
(フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』12、青木日出夫訳)

さざ波であった。
(泉 鏡花『怨霊借用』三)

誰かが、うっかり置き忘れていったのだ。
(サリンジャー『シーモア─序章─』井上謙治訳)


LET THE MUSIC PLAY。

  田中宏輔



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

それにしても、
(モンテルラン『独身者たち』第I部・2、渡辺一民訳)

いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

もう詩を書く人間はひとりもいない。
(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)

詩作なんかはすべきでない。
(ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

じゃ
(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

 詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

詩人を理解する者とては、詩人をおいてないのです。
(ボードレールの書簡、1863年10月10日付、A・C・スィンバーン宛、阿部良雄訳)

確かかね?
(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)

どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)

ともすれば、悲しみが喜び、喜びが悲しむ。
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、市河三喜・松浦嘉一訳)

いちばん深く隠れているものが真っ先に見つかってしまう
(エミリ・ディキンスンの詩・八九四番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

ああ、あの別の関連の中へ
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の歌、高安国世訳)

新たな知覚は新たな語彙を必要とする。
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・53、酒井昭伸訳)

ぼくは詩が書きたかった。
(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)

詩作は一種のわがままである
(ゲーテ『粗野に 逞しく』小牧健夫訳)

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

まるで金魚のようだ
(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)

それ、どういう意味?
(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)

一匹の魚にとって自分の養魚鉢を見るのはたやすいことではありませんね
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』第二部・三、橋本一明訳)

ぼくも以前は金魚鉢が大好きでした。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・27、土岐恒二訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



一ぴきのウサギが、小さな薮のかげから飛び出した。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』3、浅倉久志訳)

 兎は、われわれを怯えさせはしない。しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。
 われわれに取って抜き打ちだったために、われわれを驚嘆させたり、熱狂させたりする観念についても、同じことが言える。
(ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)

人間の通性が不意に稀有なものとなる。
(ジェフリー・ヒル『小黙示録』富士川義之訳)

慣れ親しんでいるためにかえってその深さが見えにくかったその単語の下に、突然過去の深淵が口を開ける
(プルースト『美の教師』吉田 城訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

たましい全体が単純なひとことのまわりにたわむ
(イーヴ・ボンヌフォア『苦悩と欲求との対話』2、安藤元雄訳)

quum res animum occupavere, verba ambiunt.
物(内容)が精神を占有するとき、言葉は蝟集す。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、セネカの言葉)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)

記憶が、各瞬間に、それぞれの言葉(、、)を介して参加する。
(ヴァレリー『詩学序説』コレージュ・ド・フランスにおける詩学の教授について、河盛好蔵訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

そして風景が整えられる。(……)ひとつの言葉のまわりに。
(ジャック・デュパン『燃えさしの薪・距たり』多田智満子訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

森はどこにあるのか。
(ホフマンスタール『帰国者の手紙』第二の手紙、檜山哲彦訳)

一匹の兎が
(ランボー『大洪水後』小林秀雄訳)

一つの言葉が
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

森だ
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

あらゆる事が生ずる土地である
(プルースト『ギュスタヴ・モローの神秘的世界についての覚書』粟津則雄訳)

なぜならこの場所こそ(……)さまざまな想いを、かくも長く、かくも静かに、
散逸させずに保っていたところなのだ。
(フィリップ・アーサー・ラーキン『寺院を訪ねる』澤崎順之助訳)

あらゆるものの発端、効能、胚種が、一つ残らず収まっている。
(ホイットマン『草の葉』さまざまな胚種、酒本雅之訳)

森が待っている。
(フィリップ・K・ディック『報酬』浅倉久志訳)

森じゅうが待っている。
(ジュール・シュペルヴィエル『昨日と今日』飯島耕一訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

なにもかもがわたしに告げる
(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)

神がそこにいる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

と、
(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)

神だって?
(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)

神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる
(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方II・第二章、鈴木道彦訳)

一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)

人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)

霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)

存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

あらゆる言語的現象の奥には、リズムがある。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

I would define the Poetry of words as The Rhythmical of Beauty.
私は、詩の定義をリヅムをもって美を作り出したものとしたい。
(E.A.Poe:The Poetic Principle. 齋藤 勇訳)

リズムはわれわれのあらゆる創造の泉である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

言葉の詩とはつまり「美の韻律的創造」だと言えよう。
(ポオ『詩の原理』篠田一士訳)

論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

創造者であるとともに被創造物でもある
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)

どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)

原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)

人間とは、言語を創造することによって自己を創造した存在である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・言語、牛島信明訳)

詩人は詩による創造であり、詩は詩人による創造である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)

孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

それが傑作でないというのなら、本など書いていったい何になろう?
(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎歓訳)

本が、知識のあらゆる部門に亙って激増したことは、近代の悪弊の一つである。
(ポオ『覚書(マルジナリア)』本の濫造、吉田健一訳)

mediocres poetas nemo novit; bonos pauci.
平凡なる詩人を何人も知らず、良き詩人を少數者のみが知る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、タキトゥスの言葉)

人間は見かけ通りであるべきです。
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、菅 泰男訳)

まさか見える通りの、そのままの人間ではあるまい。
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第五幕・第四場、中野好夫訳)

あるいは、その逆かもしれない。
(アヴラム・デイヴィッドスン『眠れる美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

やがて思い出に変わる この
瞬間とは何だろう
(ヒメーネス『石と空』第一部・石と空・8・思い出・1、荒井正道訳)

一切がことばになりうるわけではない。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部・日の出前、手塚富雄)

われわれは、自分のすべての回想を、自分に所有している、ただそれの全部を思いだす能力をもっていないだけだ、
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラII、井上究一郎訳)

もみの樹はひとりでに位置をかえる。
(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)

いち早く過ぎる日々こそ最も美しい
(L・M・モンゴメリ『麒麟草の咲く日に』吉川道夫・柴田恭子訳)

美しい?
(J・G・バラード『希望の海、復讐の帆』浅倉久志訳)

マベル、恋をすることよりも美しいことがあるなんて言わないでね
(プイグ『赤い唇』第二部・第十三回、野谷文昭訳)

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

愛の与える知識の深さよ!
(ホフマンスタール『世界の秘密』川村二郎訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ことばはわれわれ自身の存在である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

深い森のなかで孤独を楽しもうとしたって、無駄な話さ。
(ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳)

ubinam gentium sumus?
我々は世界の何處にゐるか。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)

恋をするにふさわしい場所。
(ペトロニウス『サテュリコン』131、国原吉之助訳)

人生には、恋をしている人々が常に心待ちにしているような奇跡がばらまかれているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに・I・第一部、鈴木道彦訳)

きれいな花ね。
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

花がなんだというのかね。
(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)

花じゃないの?
(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)

かつてはこれも人間だったのだ。
(ハーラン・エリスン『キャット・マン』池 央耿訳)

過ぎ去ったことがどのように空間のなかに収まることか、
──草地になり、樹になり、あるいは
空の一部となり……蝶(ちょう)も
花もそこにあって、何ひとつ欺くものはない
(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)

凄いわ
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)

花だ。
(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)

すごく大きいわね!
(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)

だまっててよ、ママ。
(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)

なにがいけないっていうの?
(ジャネット・フォックス『従僕』山岸 真訳)

もうたくさん
(ジェイン・ヨーレン『死の姉妹』宮脇孝雄訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

どんなものでも、人間の思考の焦点に入ると、魂を持つようになる。
(ナボコフ『賜物』第4章、沼野充義訳)

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は
純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは
何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、
古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキ缶、
古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて
喚(わめ)き立てるあの売女(ばいた)。
(イエイツ『サーカスの動物たちは逃げた』III、高松雄一訳)

皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
(伝道の書三・二〇)

あとは卑猥な文句ばかりがつづいているが、
(ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』II・第10編・4、江川 卓訳)

こうしてアリスはとっかえひっかえ、一人二役で話をつづけていた。
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』4、矢川澄子訳、句点加筆)



*



きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)

もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)

そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)

いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)

なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

いったい、御言(ロゴス)とは何なのだ?
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)

以前知らなかった一つの存在を認識したために思考が豊かになっているので、
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

 すべていままで私の精神に統一なしにはいってきた要素が、ことごとく理解されるものとなり、明瞭な姿をあらわしてきた、
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)

今こそわたしにも、世界がなんでできあがっているかがわかった。人間とはどんなものかがわかった。
(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』13、佐藤龍雄訳)

なぜそれに気づかなかったのだろう?
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第二章、西村孝次訳)

 心は、実のところ、忘れるのがとても上手だ。それも単にどうでもいいことを忘れるだけでなく、すばらしく貴重な感覚を忘れて、それを再発見させるほどの知恵を備えている。
(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・1、嶋田洋一訳)

天は汝等を招き、その永遠(とこしえ)に美しき物を示しつゝ汝等をめぐる、
(ダンテ『神曲』淨火・第十四曲、山川丙三郎訳)

濃い緑と青
(ランボー『飾画』平凡な夜曲、小林秀雄訳)

眼下に広がるのは、生命に満ちあふれた世界だった。
(アーサー・C・クラーク『3001年終局への旅』プロローグ、伊藤典夫訳)

有限なものとなったのは無限のものだった。
(イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』II、清水 茂訳)

魂だけが魂を理解する
(ホイットマン『草の葉』完全な者たち、酒本雅之訳)

愛の道は
愛だけが通れる
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

愛を理解し得るのは愛だけ
(ポオの書簡より、一八四八年十月十八日付、セアラ・ウィットマン宛、坂本和男訳)

 芸術のただ一つの起源は、イデアの認識である。そして芸術のただ一つの目標は、この認識の伝達ということに外ならない。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻・第三十六節、西尾幹二訳)

兄弟よ。しかするなかれ、汝も魂、汝の見る者も魂なれば。
(ダンテ『神曲』淨火・第二十一曲、山川丙三郎訳、読点加筆)

 作品とはけっしてさまざまな特殊な資質を見せびらかしたものではなく、われわれの生のなかにあるもっとも内的なもの、事物のなかにあるもっとも奥深いものの表現
(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則夫訳)

われわれは事物の精神を、魂を、特徴をつかまえなくてはならない。
(バルザック『知られざる傑作』一、水野 亮訳)

古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)

自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)」

わたしたちの言葉の中に それはひそんでいる
(ホフマンスタール『世界の秘密』川村二郎訳)

言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)

みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・ii、玉泉八州男訳)

心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

 実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

言葉は虚偽だ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

芸術作品はすべて美しい嘘である。
(スタンダール『ウォルター・スコットと『クレーヴの奥方』』小林 正訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

といってもそこにはなんらかの真実がある。
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

どんな巧妙な嘘にも、真実は含まれている
(A・E・ヴァン・ヴォクト『スラン』10、浅倉久志訳)

このうえなく深い虚偽からかがやくような新しい真実が生まれるにちがいない、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

どんな人間の言葉も真実ではない。
(ペール・ラーゲルクヴィスト『星空の下で』山室 静訳)

ぼくだってどこに真実があるかなんて知っちゃいないさ。
(コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

そも人間の愛にそれほど真実がこもっているのだろうか。
(エミリ・ブロンテ『いざ、ともに歩もう』松村達雄訳)

単純な答えなどない。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

そもそもこの世の中で、他人のことを気にかけている人間がいるのだろうか?
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・2、隅田たけ子訳)

愛情深い人間なんてほんとうにいるのでしょうか。
(モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)

人間が真実の相において愛することができるのは、自分自身なのであり
(三島由紀夫『告白するなかれ』)

愛とはそれを媒体としてごくたまに自分自身を享受することのできる一つの感情にすぎない。
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・44、片岡しのぶ訳)

 おまえはいつも愚かな頭のなかで、ありもしない人間の間の絆を実在するかのように考えてしまうらしいな。それがおまえのすべての不幸のもとなんだ。
(マルキ・ド・サド『新ジェスティーヌ』澁澤龍彦訳)

つきつめて分析すれば、人はみな他人とは隔絶されている。
(フィリップ・K・ディック『ジョーンズの世界』10、白石 朗訳)

自分の皮膚のなかに、独りきりでいる。
(D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野 宏訳)

何事も頭脳の中で起こる。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

すべては主観である。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第二章・一五、神谷美恵子訳)

 われわれは孤独に存在している。人間は自己から抜けだせない存在であり、自己のなかでしか他人を知らない存在である、
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

私はふいに、はっきりした理由はわからないけれども、十年の間、自分を欺いていたことを知ったのである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

われわれにもっとも暴威をふるう情熱は、その起原についてわれわれが自分を欺いている情熱なのである。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

愛は何物でもない、苦悩がすべてだ
(ラーゲルクヴィスト『愛は何物でもない……』山室 静訳)

苦しみをこそ、ぼくは愛している。
(デュラス『北の愛人』清水 徹訳)

わたしの神よ、わたしの苦痛よ、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部、手塚富雄訳)

不幸は俺の神であった。
(ランボー『地獄の季節』小林秀雄訳)

不幸は情熱の糧なのだ。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』9、菊地有子訳)

情熱こそは人間性の全部である。
(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)

魂の他のどんな状態にもまして、悲しみは、人間の性格や運命を深く洞察させる。
(スタール夫人『北方文学と南方文学』加藤晴久訳)

増大する苦痛が苦痛の観察を強いるのです。
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)

地上の人生、それは試練にほかならないのではないでしょうか。だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。
(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)

人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、間違いなく事実である。
(ドストエフスキー『地下室の手記』I・9、江川 卓訳)

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

 悲しみは、一回ごとに一つの法則をわれわれにあかすわけではないにしても、そのたびにわれわれを真実のなかにひきもどし、物事を真剣に解釈するようにさせる
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

世界はすべての人間を痛めつけるが、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第三四章、鈴木幸夫訳)

苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)

苦痛の深部を経て、人は神秘に、真髄に達するのだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)

おそらく、苦悩はつねに最強のものなのだ。
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』シャルトル捕虜収容所、橋本一明訳)

不幸はしばしばもっと大きな苦しみによって報いられる。
(ルネ・シャール『砕けやすい年(抄)』水田喜一朗訳)

もっとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ──
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)

 愛が單なる可能性にすぎない以上、それはしばしば躓きやすいものだ。いや寧ろ、躓くことによつて愛は意識されやすいのだ。
(福永武彦『愛の試み愛の終り』愛の試み・情熱)

愛していなければ悲しみを感じることはできない
(フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』第二部・11、友枝康子訳)

現実とは、愛の現実よりほかにないのだ!
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

人間であることはじつに困難だよ、
(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)

おお、ソクラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

いかなる行動も営為も思惟(しい)も、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。
(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』7、佐藤龍雄訳)

そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ、と言ってもよいくらいである。
(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)

苦悩はいとも永い一つの瞬間である。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

ひとは、幸福でしかも孤独でいることができるだろうか?
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)

孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命(、、、)な闘いを要求する。
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)

創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)

意志と思惟はいっさいを変容させた。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳)

おれは変わった……「おれ」の意味が変わった……
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』23、鈴木 晶訳)

人間であるというのは、いつもいつも変化しているということなんだ。
(ソムトウ・スチャリトクル『しばし天の祝福より』6、伊藤典夫訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

まるで金魚のようだ
(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)

それ、どういう意味?
(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)

一匹の魚にとって自分の養魚鉢を見るのはたやすいことではありませんね
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』第二部・三、橋本一明訳)

ぼくも以前は金魚鉢が大好きでした。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・27、土岐恒二訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)

兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)

誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)

人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

愛は僕らをひきよせる。
(ジョン・ダン『砕かれた心』高松雄一訳)

in omnibus caritas.
萬事において愛。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

omnia vincit amor.
愛は一切を征服す。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、ウェルギリウスの言葉)

愛することは持続することだ。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

生きのこるものは愛だけである、と。
(フィリップ・アーサー・ラーキン『アーンデルの墓』澤崎順之助訳)

幸福も不幸も、魂に属すること。
(デモクリトス断片一七〇、廣川洋一訳)

自分の魂など、どうにでも作り変えられるものさ。
(マルキ・ド・サド『新ジェスティーヌ』澁澤龍彦訳)

もはや存在しないようにさせることも可能なのだ。
(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)

おまえの幸福はここにあるのだろうか、
(リルケ『レース』I、高安国世訳)

単純な答えなどない。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

しかし、わたしは幸福を感じていた。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年一月二十四日、関 義訳)

ubinam gentium sumus?
我々は世界の何處にゐるか。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)

恋をするにふさわしい場所。
(ペトロニウス『サテュリコン』131、国原吉之助訳)

深い森のなかで孤独を楽しもうとしたって、無駄な話さ。
(ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

光とは何だろうか。
(イヴ・ボヌフォワ『エロス城のまえのプシュケー』清水 茂訳)

光?
(アレクサンドル・A・ボグダーノフ『技師メンニ』第IV章・2、深見 弾訳)

あの待ち伏せをしている光
(エミリ・ディキンスンの詩・一五八一番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

すべて真の詩、すべての真の芸術の起源は無意識にある。
(コリン・ウィルソン『ユング』4、安田一郎訳)

自分であり自分でないもの
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第一場、平井正穂訳)

ことばを介して、人間は自らの隠喩となる。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・言語、牛島信明訳)

ことばは誰に呼ばれなくても、やって来て結びつく。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

真の原動力とは、快楽なのだよ
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・50、酒井昭伸訳)

事物や存在を支える偶然
(イヴ・ボヌフォワ『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳)

芸術は偶然の終るところに始まる。しかし芸術を富ませるのは偶然が芸術にもたらすすべてのものなのだ
(ピエール・ルヴェルディ『私の航海日誌』高橋彦明訳)

世界は花でいっぱいだ。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』8、金子 司訳)

すべての花がそろってる
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』23、金子 司訳)

詩人はテーマを選ばない、テーマの方が詩人を選ぶのだ
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第五章・36、青木久恵訳)

内容は形式として生まれてくるほかない
(オスカー・レルケ『詩の冒険』神品芳夫訳)

重要なのは形式なのである。
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・8、隅田たけ子訳)

ひょっとして、文体のことですか?
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

言語はその本質上、対話である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

引用だけで会話を組み立てられると思いこんでいるんだがね
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・10、小川 隆訳)

コラージュを作っていた
(P・D・ジェイムズ『正義』第三部・37、青木久恵訳)

詩なんだ
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第一部・3、青木久恵訳)

その詩なら知っている
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・4、小泉喜美子訳)

'Tis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
愛せしことかつてなきよりは、
愛して失えるこそまだしもなれ。
(Tennyson:In Memoriam,xxvii, 齋藤 勇訳)

人生なんて何があったところでジョークでしかないのさ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・6、小川 隆訳)

諦観は、それが苦痛に対する自覚に変わるのでなければ卑劣である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩と歴史・英雄的世界、牛島信明訳)

いやいや
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

単純にして明快な事実だよ。
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第一部・暗闇、大森 望訳)

 路傍の瓦礫の中から黄金をひろい出すというよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である。
(高村光太郎『生きた言葉』)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

わたしたちは
(フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』3、青木日出夫訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

どうして?
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』5、矢川澄子訳)

認識は存在そのものとはなんの関係もないのだ。
(ロレンス『エドガー・アラン・ポオ』羽矢謙一訳)

まさかね。
(ガートルード・スタイン『アイダ』第二部、落石八月月訳)

人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)

ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)

ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
(ブレイク『無心のまえぶれ』寿岳文章訳)

魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

われわれにとって自分の感じていることのみが存在している
(プルースト『一九一五年末ごろのプルーストによる小説続篇の解明』、鈴木道彦訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

なにものにも似ていないものは存在しない。
(ヴァレリー『邪念その他』P、清水 徹訳)

明白な類似から出発して、あなたがたはさらに秘められた別の類似へとむかってゆく
(マルロオ『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)

自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)

一つの広大な類似が万物を結び合わせる
(ホイットマン『草の葉』夜の浜辺でひとり、酒本雅之訳)

あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

 そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)

万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)

 魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)

匂い同士は知りあいではない。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』一〇〇、寺田 透訳)

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)

ああ、あの別の関連の中へ
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の歌、高安国世訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

ぼくは詩が書きたかった。
(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)

詩だって?
(ロジャー・ゼラズニイ『心は冷たい墓場』浅倉久志訳)

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

すでにあるものを並び替えるだけで
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)

順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)

意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易に変わらない。
(小林秀雄『お月見』)

意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるから
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)

彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)

 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)

変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)

ひとつの場がひとつの時間に
(R・A・ラファティ『草の日々、藁の日々』2、浅倉久志訳)

記憶は、うすれるにしたがって、相手との絆をゆるめる、
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

べつのなにかになってしまうのだ。
(E・M・フォースター『モーリス』第二部・24、片岡しのぶ訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)

われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)

ある時は隠し、ある時は露わに見せる一本のポプラの木の下の兎の足跡
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ぼくらは罠を作る。
(アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀 茂樹訳)

自分が自分に仕掛けた罠に気づくだろうか?
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

 人間はその生涯にむだなことで半分はその時間を潰(つぶ)している。それらのむだ事をしていなければいつも本物に近づいて行けないことを併せて感じた。
(室生犀星『杏っ子』家(第四章)・むだ事)

 いままでに精神も徳も、百千の試みをし、道にまよった。そうだ、人間は一つの試みだった。ああ、多くの無知とあやまちが、われわれの肉体となった。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄)

われわれはつねに、好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

 不完全であればこそ、他から(、、、)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

彼はそのようなせまいまがりくねった道をたどったからこそ、愛の真実に近づいていたのである。
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

なんだいそれは?
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』12、藤井かよ訳)

ことばである、
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』エピローグ・回転する記号、牛島信明訳)

光と花とは おまへのためのものではない、
(テニスン『イン・メモリアム』2、入江直祐訳)

アリスは笑った。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

愛ね。そんなに重要なものかしら。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・15、青木久恵訳)

詩人らしくロマンチックだこと。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・18、青木久恵訳)

花と
(テニスン『イン・メモリアム』39、入江直祐訳)

光だけがあればいいと思っているの?
(イヴ・ボヌフォワ『夢のざわめき』III、清水 茂訳)

好きな花は?
(ナボコフ『賜物』第3章、沼野充義訳)

愛には、たいして理由などいらない。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

意志の力で愛することはできない
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第三部・7、青木久恵訳)

セックスは好きかい?
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

性的なことだけが全部じゃないわ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第二篇、富士川義之訳)

あんなの現実じゃない。ほんとにあったことじゃないもん。
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第10章、安原和見訳)

欲しいのはただ、ほんのささやかな、人間らしい人生よ
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・4、小泉喜美子訳)

一瞬がある、それはいままで存在していなかった。つぎの瞬間には、もう存在しないかもしれない。
(イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』IV、清水 茂訳)

やっぱり、電話してみようかな?
(ナボコフ『賜物』第3章、沼野充義訳)

置いてあったサンドイッチに手を伸ばした。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』5、金子 司訳)

今日のサンドイッチの具はなに?
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第12章、安原和見訳)

言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

いろいろ私が書き並べた、言葉の数々は何であつたか。
(テニスン『イン・メモリアム』16、入江直祐訳)

いったい何に駆り立てられてぼくは詩作をしているのだろうか。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

そんなことに一体どんな意味があるのか?
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原那史朗訳)

書くことに意味などない
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

意味のあるものはない。ということは意味のあるものは無なのだ。
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

無常も情である。
(紫 式部『源氏物語』竹河、与謝野晶子訳)

でもね、真実かどうかは誰にも分からない
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原那史朗訳)

ぼくだってどこに真実があるかなんて知っちゃいないさ。
(コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

まあ、そういったようなこと
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』8・1、小泉喜美子訳)

あなたは人生をその手からこぼしてるのよ。こぼしちゃってるのよ。
(T・S・エリオット『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』岩崎宗治訳)

そうだ、
(イヴ・ボヌフォワ『別れ』清水 茂訳)

人間にとって大切なことはなにか。
生きること、生きつづけることであり、幸せに生きることである。
(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』VII、平岡篤頼訳)

もはや詩が具現されるのはことばにおいてではなく、生きることにおいてである。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩と歴史・小説の曖昧性、牛島信明訳)

指一本で花にさわってみる。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』2、金子 司訳)

アリスは声を上げて笑った。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

この花がいちばんいいのね
(紫 式部『源氏物語』竹河、与謝野晶子訳)

あなたは本物よ。
(ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』平井呈一訳)

もちろんさ。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

もちろんよ。
(ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』平井呈一訳)

でも
(ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』1、米川和夫訳)

わたしには、どっちだって変わりはないわ
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

私の過去はすべて虚構だもの。これも一つの新しい話、
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・4、青木久恵訳)

たぶんバスでまた会えるわね
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・10、青木久恵訳)

アリスはいない。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

花はなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・1、小泉喜美子訳)

バスもなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・2、小泉喜美子訳)

それで、そのあとは?
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』15、金子 司訳)

物事はそんなに単純じゃないさ。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

どの真実が?
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第四部・72、酒井昭伸訳)

何もいうな、何もいうな、何もいうな
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』7、金子 司訳)

人間はことばである、
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』エピローグ・回転する記号、牛島信明訳)

Verba volant,scripta manent.(言葉は消え、書けるものは残る)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

The rest is silence.
このほかは無言。
(Shakespeare:Hamlet,v.ii.369. 齋藤 勇訳)

さ、あの音楽をお聴き。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、中野好夫訳)

言葉ではあるが、言葉でない
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第三幕・第二場、中野好夫訳)

あの音楽を。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、中野好夫訳、句点加筆)


PASTICHE。

  田中宏輔



 Opus Primum


鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
(三好達治『Enfance finie』)


I. 初めに鳥籠があった。

II. 鳥籠は「鳥あれ」と言った。すると、鳥があった。

III. 鳥籠はうっとりとこの鳥を眺めた。

IV. 鳥はうち砕かれた花のような笑みを浮かべていた。

V. 鳥籠から生まれる鳥は日が短く、悩みに満ちている。

Vl. 鳥はその日のうちに出かけて行って、大型活字の新約聖書を買って来て読み出した。

VII. しかし、神を信ずることは──神の愛を信じることはとうてい鳥にはできなかった。

VIII. すると、ある朝、鳥はこつぜんと姿を消してしまった。

IX. 鳥籠には、何ひとつ残っていなかった。

X. 鳥が鳥籠のことを忘れても、鳥籠は鳥のことを忘れない。

XI. 鳥籠はすっかり関節がはずれてしまった。

XII. かわいそうに、鳥籠は、きょうの午後、死んじゃいました。




 Opus Secundum


鳥籠が小鳥を探しに出かけた
(カフカ『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』一六、飛鷹 節訳)


I. いまや、鳥籠は、自分自身のもとへ帰って来た。

II. 世界は割れていた。鳥籠は探していた。

III. 鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐる探し廻る。

IV. 鳥籠は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
 眺めることができる。

V. しかし、鳥はいっかな姿を現わそうとはしなかった。

VI. 聞こえるのは、鳥籠の心臓の鼓動ばかりだった。

VII. 鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐるともっと強烈に探し廻る。

VIII. 突然、鳥籠のなかに無限の青空が見えてくる。

IX. 鳥が見える。そして、鳥しか見えない。

X. 鳥籠はどこにいるのか。

XI. 鳥籠の鳥は、実は鳥籠自身だった。

XII. 鳥は籠のない鳥籠である。




 Opus Tertium


吊り下げられた容積のない鳥籠
(高橋新吉『十姉妹』)


I. 鳥籠は、ひたすら鳥の表象として、鳥に向かい合って存在している。

II. ということは、かりにそのたった一つの生物が消滅でもすれば、表象としての鳥籠もまた
 同時に消滅するということなのだ。

III. 鳥が空想的になる場合にも、鳥籠はやはり同様に漸次希薄になる。

IV. 鳥籠は、何よりもまず、鳥の意識的認識の反響である。

V. その鳥籠は、しばらく宙に浮いていた。

VI. イエスの心というのが、その鳥籠の名前であった。

VII. この鳥籠は、あまり鳥の鳥籠にはならない。

VIII. 鳥は未練なく、その場を離れた。

IX. 鳥が鳥籠から出たとき、雨が少し降っていた。

X. 鳥籠の胸の奥に、死んだ鳥と眠っている鳥とがひそんでいた。

XI. 鳥籠をつくったのは、鳥である。

XII. 鳥はふと、鳥籠に置き忘れて来た自分の姿を振り返ることがあった。








References


Opus Primum


I. 初めに言があった。
(ヨハネによる福音書一・一)

II. 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
(創世記一・三)

III. 僕はうっとりとこの都市を眺めた。
(福永武彦『未来都市』)

IV. 妻はうち砕かれた花のような笑みを浮かべていた。
(原 民喜『秋日記』)

V. 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
(ヨブ記一四・一)

Vl. 彼はその日のうちに出かけていって、大型活字の新約聖書を買ってきて、読みだした。
(トルストイ『愛あるところに神もいる』北垣信行訳)

VII. しかし、神を信ずることは──神の愛を信じることはとうてい彼にはできなかった。
(芥川龍之介『或阿呆の一生』五十・俘)

VIII. するとある朝、彼はこつぜんと姿を消してしまった。
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

IX. 村には何ひとつ残っていなかった
(セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作訳)

X. 鳥が罠のことを忘れても、罠は鳥のことを忘れない。
(マダガスカルのことわざ『ラルース世界ことわざ名言辞典』)

XI. 世の中はすっかり関節がはずれてしまった。
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

XII. かわいそうにバンベリーは、きょうの午後、死んじゃいました。
(ワイルド『まじめが肝心』西村孝次訳)



Opus Secundum


I. いまやわれわれは自分自身のもとへ帰って来た。
(ルソー『エミール』第三編、平岡 昇訳)

II. 世界は割れていた。僕は探していた。
(原 民喜『鎮魂歌』)

III. 僕は僕のなかをぐるぐる探し廻る。
(原 民喜『鎮魂歌』)

IV. 天才は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
 眺めることができる
(ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳)

V. しかしきみはいっかな姿を現わそうとはしなかった。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

VI. 聞えるのは自分の心臓の鼓動ばかりだった。
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)

VII. 僕は僕のなかをぐるぐるともっと強烈に探し廻る。
(原 民喜『鎮魂歌』)

VIII. 突然、僕のなかに無限の青空が見えてくる。
(原 民喜『鎮魂歌』)

IX. 空が見える。そして空しか見えない。
(カミュ『異邦人』窪田啓作訳)

X. あなたはどこにいるのか。
(創世記三・九)

XI. 大工のヨセフは実はマリア自身だった。
(芥川龍之介『西方の人』4・ヨセフ)

XII. 彼は知恵のない子である。
(ホセア書一三・一三)



Opus Tertium


I. 世界はひたすらわたしの表象としてわたしに向かい合って存在している。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第二巻・第十八節、西尾幹二訳)

II. ということは、かりにそのたった一つの生物が消滅でもすれば、表象としての世界もまた
 同時に消滅するということなのだ。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一巻・第二節、西尾幹二訳)

III. 意志が空想的になる場合にも、自己はやはり同様に漸次希薄になる。
(キェルケゴール『死に至る病』第一編・三・A・a・5・α、斎藤信治訳)

IV. エウリピデスは、何よりもまず彼の意識的認識の反響である。
(ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳)

V. その言葉はしばらく宙に浮いていた。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

VI. イエスの心というのがその教会の名前であった。
(ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳)

VII. この偏見はあまり文学の助けにはならない。
(ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』II・第一部・第九章、桑原武夫・塚崎幹夫訳)

VIII. 僕は未練なくその場を離れた。
(セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作訳)

IX. 彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。
(カフカ『審判』断章(断片)、原田義人訳)

X. その胸の奥に、死んだ妻と眠っている子供とがひそんでいた。
(ウラジミール・ナボコフ『ベンドシニスター』加藤光也訳)

XI. 作品を作ったのは人間である。
(ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』II・第三部・第二一章、桑原武夫・塚崎幹夫訳)

XII. 彼はふと、家に置き忘れて来た自分の姿を振返ることがあった。
(原 民喜『冬日記』)


陽の埋葬

  田中宏輔



わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。
(ルカによる福音書五・三二)



目がさめると、アトリエの前に立っていた。

──子よ。                                        *01

扉の内から声がする。

──わたしの子よ。                                    *02

死んだ父の声がする。

──わたしはここにいる。                                 *03

どこにいるのですか。

──子よ、わたしはここにいます。                             *04

ここにあるのは、絵と骨のオブジェばかり。

──子よ、近寄りなさい。                                 *05

おまえは死んだ鸚鵡、ただの剥製の鸚鵡ではないか。

──わたしです。                                     *06

おまえが父だというのか。

──わたしがそれである。                                 *07

父の霊が、おまえに取り憑いたとでもいうのか。

──わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか。                *08

おまえに何ができる。わたしに何をしてくれるというのだ。

──あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。    *09

そのようなことを告げるために、わざわざ、わたしをここに呼び寄せたのか。

──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。             *10

おまえの口が語る、その言葉とは何か。

──目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。               *11

いったい何のために祈れというのか。

──信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 *12

なぜ、キリストのうちに自分を見いださなければならないのか。

──新しいいのちに生きるためである。                           *13

おお、おまえは、死んだ父のように、聖書にある言葉を繰り返す。

──あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。                *14

いいや、一度として、愛してはくれなかった。愛してなどくれなかった。

──心のねじけた者は主に憎まれ、まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。           *15

これを見よ。この指を見よ。父の手によって折られた、このねじくれた指を見よ。

──むちを加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。  *16

その言葉を耳にするたび、わたしの父に対する憎しみは、ますます増していった。

──わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。           *17

ああ、もういい。もう、たくさんだ。おまえは、聖書にある言葉を繰り返すだけではないか。

──わたしの子よ、あなたはイエス・キリストにある恵みによって、強くなりなさい。      *18

むしろ、ユダの恵みにこそ、あやかりたいものだ。

──愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。                   *19

わたしのこころは、肉の欲に満ちている。その肉の欲は大いにはなはだしく、欠けるところがない。

──御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。         *20

わたしのこころが癒されるのは、ただ肉の欲に満ち足りたときのみ。

──肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。                      *21

まだ女を知らぬ、美しい少年たちよ。その美しさは、わたしを虜にしてやまない。

──あなたは女と寝るように男と寝てはならない。                      *22

むしろ、その美しさを前にすれば、わたしの方が女となるのである。

──わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。              *23

誘うのはわたし、つねにわたしの方から誘うのである。

──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。             *24

わたしには、この古釘で、おまえの腹をかき裂くことができる。

──罪を犯してはならない。                                *25

きっと、おまえの腹のなかには、聖句がぎっしり詰まっているに違いない。

──ここから出て行きなさい。                               *26

いま、それを抉り出してやる。

──立ってこの所から出なさい。                              *27

この紙屑は何だ。聖書ではないか。聖書のページを切り取って丸めたものではないか。

──手を引きなさい。                                   *28

この聖書の切れっ端は、父がおまえの腹のなかに詰め込んだものだな

──それだけでやめなさい。                                *29

こんなもの、みんな取り出してやる。それでもまだ、おまえは口をきくことができるだろうか。

──もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ。                      *30

おお、父よ。父ではないか。なぜいまさら、そのような姿で現われるのか。

──あなたは愚かなことをした。                              *31

愚かなこととは何か。

──あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです。                    *32

いったい、わたしが何をしたというのか。

──自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。              *33

世には、呪われるべき親もいよう。あなたは、わたしにとって、呪われるべき父親であったのだ。

──どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように。                    *34

何という言葉を口にするのだろう。父よ、それが、わたしに聞かせたかった言葉なのか。

──あなたは死にます。生きながらえることはできません。                  *35

父よ、わたしの言葉を聞いているのか。

──神はあなたを滅ぼされるでしょう。                           *36

父よ、わたしの言葉を聞いているのか。

──地のおもてから、あなたを滅ぼし去られるであろう。                   *37









References


*01:創世記二七・一、罫線加筆。

*02:テモテへの第二の手紙二・一、罫線加筆。

*03:創世記二七・一八、罫線加筆。

*04:創世記二二・七、罫線加筆。

*05:創世記二七・二一、罫線加筆。

*06:サムエル記下二・二〇、罫線加筆。

*07:マルコによる福音書一四・六二、罫線加筆。

*08:創世記二七・三七、罫線加筆。

*09:ヨハネの第三の手紙二、罫線加筆。

*10:創世記二七・八、罫線加筆。

*11:コロサイ人への手紙四・二、罫線加筆。

*12:ピリピ人への手紙三・九、罫線加筆。

*13:ローマ人への手紙六・四、罫線加筆。

*14:マルコによる福音書一・一一、罫線加筆。

*15:箴言一一・二〇、罫線加筆。

*16:箴言一三・二四、罫線加筆。

*17:箴言四・二〇、罫線加筆。

*18:テモテ人への第二の手紙二・一、罫線加筆。

*19:ヨハネの第三の手紙一一、罫線加筆。

*20:ガラテヤ人への手紙五・一六、罫線加筆。

*21:ローマ人への手紙一三・一四、罫線加筆。

*22:レビ記一八・二二、罫線加筆。

*23:箴言一・一〇、罫線加筆。

*24:創世記二七・八、罫線加筆。

*25:エペソ人への手紙四・二六、罫線加筆。

*26:ルカによる福音書一三・三一、罫線加筆。

*27:創世記一九・一四、罫線加筆。

*28:サムエル記上一四・一九、罫線加筆。

*29:ルカによる福音書二二・五一、罫線加筆。

*30:歴代志上二一・一五、罫線加筆。

*31:サムエル記上一三・一三、罫線加筆。

*32:創世記二〇・九、罫線加筆。

*33:出エジプト記二一・一七、罫線加筆。

*34:歴代志下二四・二二、罫線加筆。

*35:列王紀下二〇・一、罫線加筆。

*36:歴代志下三五・二一、罫線加筆。

*37:申命記六・一五、罫線加筆。


聖なる館。─A Porno Theater Frequented At Midnight By The Drag Queen

  田中宏輔



自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる。
     (ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

人は、気のきいたことをいおうとすると、なんとなく、うそをつくことがあるのです。
     (サン=テグジュペリ『星の王子さま』内藤 濯訳)

けれども、この物語は、真実でなくなったら、私にとって何になろう?
     (A・ジイド『背徳者』淀野隆三訳)

真実を告げる
     (コクトー『赤い包み』堀口大學訳)

それは価値ある行為となろう
     (ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』水野忠夫訳)

諸君はいったい、いかなるたわむれごとを見、いかなる愛欲の悶えを見ることだろう!
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


   *


愛っていろんな形があるものよ
     (R・フラエルマン『初恋の物語』内田莉莎子訳)

顔に化粧をする
     (ギー・シャルル・クロス『五月の夕べ』堀口大學訳)

女に化ける
     (コクトー『塑像に落書する危険』堀口大學訳)

美しく見せて
     (ヴェルレーヌ『それは夏の明るい……』堀口大學訳)

男と寝る
     (レビ記二〇・一三)

心の欲情にかられ
     (ローマ人への手紙一・二四)

禁断の木の実
     (フィリーダボ・シソコ『無の月』登坂雅志訳)

を味ふ
     (アルベール・サマン『われ夢む…』堀口大學訳)

<わたし>
     (ホルヘ・ルイス・ボルヘス『恵みのうた』田村さと子訳)

官能をそそる愛撫に
     (アブドゥライエ・ママニ『文明』登坂雅志訳)

くるう時
     (バイロン『想いおこさすな』阿部知二訳)

分別を失ったときしか幸福になれない
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

そういう性質
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

愛に夢中になる、これが僕だ。
     (ヴェルレーヌ『リュシアン・レチノア詩篇5(断章)』堀口大學訳)

私がこの事を楽しみ味つていゐるのを誰れが知り得よう?
     (ホヰットマン『ブルックリン渡船場を過ぎりて』有島武郎訳)


   *


健全な楽しみだって? ばかばかしい!
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

だれも自分を欺いてはならない。
     (コリント人への第一の手紙三・一六)

本能はわれわれの案内人だ。
     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

いたわってくれる相手がほしかった。
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

ぼくの魂は荒れはてた大きな寺院のようだった。
     (サルバドル・ノボ『ぼくの肉体に預けきった君の肉体の傍で』田村さと子訳)

わかるか?
     (アンドレ・スピール『人間、あまりに人間』堀口大學訳)

そこではすべての薔薇が
     (マリアーノ・ブルール『薔薇への墓碑』田村さと子訳)

愛撫を受けて
     (ムカラ・カディマーンジュジ『大洋』登坂雅志訳)

野生の狂歓をひらめかせて過ぎる
     (バイロン『山の羚羊』阿部知二訳)

嘲りと悪寒の愛
     (デルミラ・アグスティニィ『エロスのロザリオ』田村さと子訳)

その破滅
     (バイロン『M・S・Gに』阿部知二訳)

感覚の世界
     (エリオット『バーント・ノートン・III』鍵谷幸信訳)

ああ、じつに美しい
     (ナボコフ『マドモアゼルO』中西秀男訳)

ふしぎなけしょうは、いく日もいく日もつづきました。
     (サン=テグジュペリ『星の王子さま』内藤 濯訳)

そのとき、自分がすべての女の なかで最もすぐれた者と 想い上がりをおこしました。
     (『バーガヴァダ・プラーナ』服部正明・大地原 豊訳)

あたしのことをお姉さまと呼んでくださるわね?
     (ワイルド『まじめが肝心』西村孝次訳)        


   *


どこか別の世界ね
     (ヴォンダ・N・マッキンタイア『夢の蛇』友枝康子訳)

まったく新しい狂気のような夢の世界
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

どう、興味あるでしょう?
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

あんたもできる? やってごらんよ。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

ものごとは慣れてしまうと、ついにはもう、滑稽なことでもなんでもなくなってしまう。
     (ルナール『にんじん』窪田般彌訳)

人間の心というものは、境遇によって、どんなにも変わってゆくものだ。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

さあ、いっしょに出かけよう、君と僕と
     (エリオット『アルフレッド・プルーフロックの恋歌』上田 保訳)

真昼にも手探りする
     (申命記二八・二九)

その墓穴の暗闇へ
     (ハイネ『不思議にすごい夢を見た』片山敏彦訳)


   *


 小さいのも、大きいのも、肥ったのも、きゃしゃなのも、とてもきれいなのも、 それにあんまり感じのよくないのもいるわ
     (メーテルリンク『青い鳥』鈴木 豊訳)

相よりてくらやみのなかに居りしかば吾が手かすかに人の身にふれつ
     (中野重治『占』)

もう顔も見えるほどになった。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

彼は笑っている風に見えた。
     (カミュ『異邦人』窪田啓作訳)

ところで ぼくの心臓よ
なんでそんなにときめくか
     (アポリネール『題詞』堀口大學訳)

あわてない、あわてない
     (R・フラエルマン『初恋の物語』内田莉莎子訳)

彼は美男子ではなかった。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

彼の輝き、彼の威力のすべての根源は、彼の股間にあったのだ、彼の男根、
     (ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

その道具はたしかにぼくの目から逃れられなかった。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

おそるおそる下腹部に手をやって、椅子に深く身を沈めた。
     (エドワード・ブライアント『闇の天使』真野明裕訳)

ひと目惚れというより、ひとさわり惚れだった。
     (ナボコフ『「いつかアレッポで……」』中西秀男訳)

「なにをやってるんです?」
     (ヴォンダ・N・マッキンタイア『夢の蛇』友枝康子訳)

彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。
     (列王紀上一三・四)

──聞こえないのか、おい変態!
     (ルナール『にんじん』窪田般彌訳)

まず、息子にキスをして、彼の耳に二つの言葉をささやく。
     (スティーヴン・キング『霧』矢野浩三郎訳)

お掛けになって
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

もうすこし、わたしに
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

よろこびを
     (シェリー『アドネース』上田和夫訳)

ちやうだい!
     (ポール・フォール『私は〓い花を持つてゐる』堀口大學訳)

「よし、いいぞ」
     (トルストイ『ニキータ物語』田中泰子訳)

「ア、ア、ア、ア、ア、ア、アー」
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

「こいつはいい!」
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

「ああ、行くよ」
     (トルストイ『ニキータ物語』田中泰子訳)

愛撫の手
     (ルミ・ド・グールモン『手』堀口大學訳)

私の手の中に
     (シャルル・ヴァン・レルベルグ『輪踊』堀口大學訳)

出した
     (ボードレール『告白』堀口大學訳)

精液の雨
     (ムカラ・カディマーンジュジ『大地への言葉』登坂雅志訳)

身振りで、彼はもっと欲しいことを示す。
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

私はよろこんで
     (アンドレ・サルモン『土耳古うた』堀口大學訳)

男の
     (ヴェルレーヌ『この陽気すぎる男に』堀口大學訳)

前に膝まずく
     (アポリネール『色の褪せた夕ぐれの中で……』堀口大學訳)

円周をふくらませ、さらにはその円周を突きやぶって
     (シェリー『詩の擁護』上田和夫訳)

男は
     (フランシス・ジャム『人の云ふことを信じるな』堀口大學訳)

すごいうなりを立てながら
     (ランボー『最高の塔の歌』堀口大学訳)

もう一度いった。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)


   *


「へえ、なんてことはない! こんなもんだとわかっていたら、 もっと早くから覚えるんだった」
     (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』鈴木幸夫訳)


   *


その口の辺にあざけりの笑い浮かびて
その眼ざしに驕慢の光は照りて、
君が胸、誇りのゆえに昂まれども、
されど、君もまた不幸なり、われとおなじく。
     (ハイネ『君は不幸に生きたまう』片山敏彦訳)

ぼくにはよくわかるのだ、われわれは救われない。
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

われら孤独な航海者たち、われら悪魔に魅いられたものたちは、とうに気が狂ってる
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

もう正気に返ってはならないのだ
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

どうしようもない
     (エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』山口四郎訳)


The Marks of Cain。

  田中宏輔





尋ね行くまぼろしもがなつてにても
  魂(たま)のありかをそこと知るべく
                  (紫 式部『源氏物語』桐壺)


臓腑(はらわた)を切り開くと *01
それは、一枚の地図だった。
った。

だが、またしても、求めるものを、わたしは見出さなかった。 *02

血、血、血、
立ち罩める血、血の匂い、
血、血のにおいに、半ば酔い、噎せりながら
鮮血滴る少女の躯から搾りとった血、
血は、羊の皮袋(アベルが神に供えた群の初子)逆剥ぎの)贄の)中。 *03
すでに腸抜きをすませた少女の肌は蝋白色、
その血、血まみれの唇は灰色の
半人半樹の美児(まさづこ)、樹葬体。 *04
その半身は少女の裸身、裸体、
その剥き出しの乳房は片生(な)りの乳房(それゆえ、に
いっそう艶めかしい)淫縻な象(かたち)。
その褐色の半身は、果実の生る木、
その膝から下は堅い(かたい)樹皮に覆われた果樹、
その足は根となり、根をのばし、地面と、土と、かたく、かた、く、結びついていた。

死してもなお屹立する少女の胸に手をのべ、
わたしは、その胸にある未熟な果実を、黒曜石の小刀で切りとった。 *05
(その、象(かたち)のまま)切りとった乳房を裏返すと)と、
まだ熟しきらない安石榴の実が *06
ぎっしりつまっていた。

頬ばると、血、
血、血と、血の、匂いと、味がした。
わたしは、残ったもう片方の乳房を切りとると、それも頬ばり、頬ばった。
血、血、血、血と、血の味のする安石榴の実。
そして、わたしは、
切りとった双つの乳房のあと(血、血まみれ、
の)胸)にも、まるで獲物に跳びかかった山犬のように、むしゃぶりついた、った。

血、血、血、、、血と、血、
と、血と、血を、すっかり味わい尽くすと、
さらなる樹体を求めて(もと、めて)て)わたしは、足を踏み出した。

地、地と、
地に蔓延る茨と薊、 *07
刺す荊棘(いばら)に苦しめる朿(とげ)。 *08
裸足のわたし、わたしの裸足は生傷だらけだ。
血まみれの踵(つぶなぎ)、踵(かかと)を上げるたびに、わたしの足跡に血が滲み出た、た。
まるで酒ぶねを踏むように、わたしの足は地面を踏み歩いた。 *09
地、地に蔓延る茨と薊を踏み踏み拉きながら、
息のある樹体を求めて立ち潜り、
立ち徘徊い歩いた。
た、だが、
目にするのは、
折り枝(え)に苧環(おだまき)、枯れ木ばかりだ。
百骸香樹に、千骸果樹、みな、わたしが葬(はふ)り散(はらら)かしてきた樹体ばかりだった。
骨、骨、骨、
と、
血、
血を、
その血の滴りを、いまもなお、わたしは胸に感じる。 *10
感じることができる。できる、のだ。
この土、この地面のように、に、
お、おお、この夥しい死の枯れ骨を見よ。 *11
それらの骨と骨と骨は、みな、わたしが葬(はふ)った樹体の成れの果てだ。
わたしが葬(はふ)り(ほふり)血を)搾り)取り)肝取り)腸(わた)抜きした樹体の成れの果てだ。
その皮膚は縮んで骨につき、たちまちすぐに、
かわいて枯れ木のようになった。 *12
った。腕(ただむき)、腕(うで)
と手、手と、手(たなさき)についた、
血、血と、血、血、血と、血、血と、血と、
血いいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………


──弟アベルは、どこにいるのか。 *13


あ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、いくら耳塞ぎ、
耳塞いでも聞こえる神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


知りません。わたしは、弟の番人なのでしょうか。 *14


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、また、わたしは過去に引き戻されてしまった。


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、神よ、
いつまで、あなたは、わたしに目を離さず、
唾を飲む間も、わたしを棄てておかれないのですか。 *15

おお、神よ、
神よ、わたしの祈りを聞き、
わたしの口の言葉に耳を傾けてください。 *16


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、
あなたは、なぜ、わたしに、
このような恐ろしい呪いをかけられたのですか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、耳立つ、神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、
あなたは、なぜ、わたしの声にこたえてくださらないのですか。

あなたは、なぜ、わたしの口の言葉に耳を傾け、
これに、こたえてくださらないのですか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、どうしても、こたえてくださらないのですかっ、か。

ならば、天よ、耳を傾けよ、わたしは語る。
地よ、わたしの口の言葉を聞け。 *17

わたしは、弟アベルを殺した。これを野原に連れ出し、これを殺した。 *18
兄弟殺し! これは人間の歴史始まって以来の、
最初にして最古の人殺し。 *19

それゆえ、わたしは神に呪われ、神の前から離れなければならなかった。
地のおもてから追放され、地上の放浪者とならねばならなかった。 *20
そして、放浪の果てに、エデンの東、ノドの地に住まわった。 *21
わたしは妻を娶り、妻は子をみごもり、エノクを産んだ。
わたしは町を建て、その子の名をつけた。 *22
町は、エノクの裔で栄えた。
ああ、しかし、神は、主なる神は、
なんと恐ろしい呪いを、わたしにかけたのだろう。
わたしに、わたしの孫の孫の孫のであるメトサエル子レメクを殺させた。 *23
飢えと渇きをもって、わたしに幻を見させ、
わたしに、わたしの、骨肉の血を、
血と肉を、喰らわせたのだ。
わたしが、わたしの喉の渇きを癒し、
わたしの腹と口の飢えをおさめて、正気に戻ると、と、
そこには、わたしが喰い散(はらら)かした、血まみれのレメクの屍骨(したい)があった。
あ、あったのだ。
だっ、
あ、ああ、あ、ああ、
わたしは、これがために嘆き悲しみ
裸足と裸身で歩きまわり、
山犬のように嘆き、
駝鳥のように悲しみ泣いた。 *24
しかし、神はさらなる禍いをもって、わたしを撃たれた。 *25
わたしの耳をとらえ、わたしの耳に、ヘボナの毒液を注ぎ込まれたのだ。
その毒は、ひと瞬きの間で、わたしの身体を廻り、
ふた瞬きの間に、瘡をつくった。
まるで癩病やみのような
けがらわしい瘡が、
たちまち、わたしの
全身全躯を覆っていったのだ。 *26
瘡蓋を剥がしてみると、その瘡蓋の下の肉は、
腐った肉の色を見せ、腐った肉の臭いを放っていた。
おお、そして、わたしは、わたしの身体は、
まるで天骨(むまれながら)の背虫(おさむし)、傴僂(せむし)のように、背骨が湾曲してゆき、
しまいに、わたしは、わたしの頭(こうべ)を、地のおもてに擦りつけんばかりに、
ああ、まさに、神が呪われたあの古(いにしえ)の蛇さながら、さ、ながら、 *27
這い歩き、這い蹲らなければならなかったのだ。
だっ。だ。
ああ、
あ、ああ、
そのとき、わたしは、わたしの口は、
その骨の、激しい痛みと苦しみの中から、声をかぎりに叫び声を上げた。

「おお、神よ、神よ、わたしは不義の中に生まれました。
 わたしの母は、罪のうちに、わたしをみごもりました。 *28
 なにゆえ、わたしは、胎から出て、死ななかったのか。
 腹から出たとき、息が絶えなかったのか。 *29
 なにゆえ、あなたは、わたしを胎から出されたのか、
 わたしは息絶えて、目に見られることなく、
 胎から墓に運ばれて、
 初めからなかった者のようであったらよかったのに。」 *30

と。

しかし、神は、これには、こたえられなかった。

そこで、わたしは、繰り返し神の名を呼ばわり、繰り返し神に祈った。

「神よ、わが救いの神よ、
 血を流した罪から、わたしを助け出してください。」 *31

と。

「おお、神よ、神よ、わが救いの神よ、
 血を流した罪から、わたしを助け出してください。」

と。

と、

すると、そのとき、神は、つむじ風の中から、わたしにこたえられた。 *32

「なぜ、あなたの傷のために叫ぶのか、
 あなたの悩みは癒えることはない。
 あなたの咎(とが)が多く、
 あなたの罪が甚だしいので、
 これらのことを、わたしは、あなたにしたのである。」 *33

と。

と、

そして、神は、さらにつづけて、こういわれた。

「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。 *34
 あなたも、また、あなたが蒔いた、あなたの裔を、
 あなた自身の手で刈り取ることになる。
 なぜなら、わたしが、あなたに、あなたの孫の孫の孫、
 すなわち、あなたの裔レメクの子供たちを殺させるからである。
 わたしは、あなたを血にわたす。
 血は、あなたを追いかける。
 あなたには、血の咎があるゆえ、血はあなたを追いかける。 *35
 人の子よ、あなたに与えられたものを喰べなさい。 *36
 あなたの口を開いて、わたしが与えるものを喰べなさい。 *37
 あなた自ら屠手となり、後生(のちお)いの裔、骨肉の血と肉を喰べなさい。
 さもなければ、たちまち、あなたの肉は腐れ、
 目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れることになる。 *38
 その痛みと苦しみは、唯一、あなたの裔の血と肉によってのみ癒される。
 それゆえ、あなたは、あなたの骨肉の血と肉を喰べることになる。
 あなたは、これを拒むことはできない。
 なぜなら、これが、わたしの呪いである。
 この呪いをとくことはできぬ。
 この呪いをとく手だては、ただひとつ。
 あなたが、あなたの弟アベルの屍骨(したい)を見つけ、
 これを、わたしへの供物として、わたしに差し出すことである。
 そのとき呪いは成就し、あなたは、もはや人を喰べない。 *39
 わたしは、あなたの弟アベルの屍骨(したい)を、あなたの目から隠し、
 その隠し処を、あなたの裔の子らの臓腑(はらわた)の中に印す。
 あなたは、あなたの手で、その臓腑(はらわた)を切り開き、
 その印を見出さなければならない。
 しかし、わたしは、その印を印した裔の子の名をあかすことはしない。
 これもまた、わたしの呪いである。」

と。

と、

お、おお、
いまもなお、わたしの耳に残る神の古声、フル。コエ。

お、おお、たしかに、わたしは、弟アベルを殺した、殺、した、した、た、
あ、ああ、しかし、わたしの罪は過去のものだ。 *40
過去の、過去の、過去、の、
過去のことだ、だ、
あ、ああ、
それなのに、また、ああ、
また、あの日のことが、思い出される。
あ、あの日も、また、あの日も、また、風のある日だった。
籾殻を除くため、打ち場に麦束を運び、棒切れで、穂先を叩いていた。 *41
わたしと、弟アベルのふたりで叩いていた。
あれもまた、風のある日だった。
風は籾殻を捕らえ、籾殻は風に捕らえられ、
脱穀された穀物は、たちまち、小山となっていった。
わたしと、弟アベルのふたりは、その小さな山を崩して、袋に詰め、
括り合わせた袋を、牛の背に負わせて、帰り支度をした。
しかし、帰るには、まだ早かった。
わたしと、弟アベルのふたりは遊んだ。
棒切れ振り回して、遊んだ。遊んで、いた。
すると、そのうち、遊びが本気になって、喧嘩になった。
家に帰ると、腫れ上がったふたりの顔を見て、
父アダムは、わたしを叱った、わたしだけを叱った。
わたしの顔だって、ずいぶんと腫れ上がっていただろうに、
きっと、弟アベルの顔よりもひどく腫れ上がっていただろうに、に、
お、おお、それなのに、それなのに、
なぜ、父アダムは、わたしだけを叱ったのだろう。
なぜ、わたしだけが、父アダムに叱られたのだろう。
ああ、でも、あの日だけじゃない。あの日だけじゃなかった。
いつも、そうだった。いつでも、いつも、そうであった。
わたしだけが叱られたのだ。わたしだけが。
理由を言っても聞いてくれなかった。
むしろ、理由を話そうとすると、よけいにきつく、わたしは叱られた。
それに、また、わたしが、土を耕す者、父アダムの仕事を嗣ぎ、 *42 *43
一所懸命、畑で働いても、ちっとも褒めてくれなかった、
羊を飼う者、弟アベルが、取るに足らない仕事を、ほんのすこし、 *44
ほんのわずか手伝っただけで、これを褒めたりしたのに。に。
あ、ああ、わたしの心が捻くれ折れ曲がったのは
それは、わたしが、父アダムから、まったく愛されずに育ったからだ。
せめて、わたしが、母イヴにだけからでも愛されていたら……
しかし、母イヴもまた、わたしのことを、ちっとも愛してはくれなかった。
ちっとも愛してなどくれなかった。
いや、むしろ、それどころか、わたしのことを憎んでいた。
わたしのことを憎んでいた。わたしのことを憎んでいた。わたしのことを憎んでいたのだ。
あ、ああ、きっと、母イヴの魂(こころ)には、あの古(いにしえ)の蛇が棲みついていたのだ。
そして、その顎(あぎと)が、わたしの魂(こころ)を噛み砕いていったのだ。
それゆえ、わたしは、わが口をおさえず、
わたしの霊の悶えによって語り、
わたしの魂の苦しさによって嘆く。 *45

ああ、なぜ、母イヴは、わたしをみごもり、はらみ、産んだのか、 *46

と。

ああ、なぜ、母イヴは、わたしをみごもり、はらみ、産んだのか、

と、

と。

あ、ああ、わたしなど、生まれてこなければよかったのに、
生まれてくることなどなければよかったのに、
胎の実は報いの賜物である。 *47
それでは、わたしは、何だったのか。
父アダムと母イヴにとって、いったい、何だったのだろうか。
わからない。わから、ない。
わたしにわかるのは、わかっているのは、
父アダムと母イヴのふたりが、わたしのことを疎み、
わたしよりも、弟アベルを、弟アベルばかりを
可愛がったということだけだ。
それは、わたしの顔が醜いからか。
それは、わたしの顔が、野の獣のように醜いからか。
神の姿に肖(あやか)る父アダムにも、それにふさわしい母イヴにも似ない、 *48 *49
わたしの顔が、飢えた山犬のように醜く恐ろしいからか。
あ、ああ、わたしは、ふたりを愛していたのに、
深く、ふかく、愛していたのに、
だれよりも、深く、ふかく、愛していたのに、に、
ふたりは、わたしを疎み、弟アベルを可愛がった。弟アベルだけを可愛がった。
それは、わたしの顔が醜く、弟アベルの顔が美しかったからか。か。
ああ、たしかに、わたしは醜く、弟アベルは美しかった。
その顔(かんばせ)は麗しく、その声は愛らしかった。
しかし、わたしは長子である。
長子には、だれからも愛され、
だれよりも愛される権利があるのだ。
あ、ああ、それなのに、なぜ、それなのに、なぜ、
父アダムと、母イヴは、弟アベルだけを可愛がり、わたしを疎んじたのか。か。

あ、ああ、それなのに、なぜ、なぜ、……、

神も、また。また、……、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、いくら耳塞ぎ、
耳塞いでも聞こえる神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


知りません。わたしは、弟の番人なのでしょうか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、


あ、


また、、また、わたしは、過去に、過去に、引き戻されてしまった。


たっ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、
どの樹体にも、どの樹体にも、弟アベルの埋葬場所は印されていなかった。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、これまで、どれだけたくさんの樹体を切り裂いてきただろう。
その夥しい数の少年たちよ、その夥しい数の少女たちよ。

ザクロ、イチジク、イチジククワ、
オリーブ、ブドウにナツメヤシ、ナルド、シナモン、アメンドウ、
チンコウ、ミルラに、セイニュウコウ。 *50

血、血と、血、血、血と、血、と、
ありとあらゆる樹体を、わたしは切り裂き、切り刻んできた。た、
あ、ああ、それは、神がわたしにかせられた罪咎の罰。
しかし、どの樹体にも、どの樹体の臓腑(はらわた)にも、
(弟アベルの)埋葬場所は)
印されてなかった。


たっ、


あ、ああ、それでもなお、神はささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


神はささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


わたしは、知らない、
       知ら、ない、
 わたしは、弟の番人じゃない、
            じゃない、
              じゃ、ない、
                のだ、と、と。


神がささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


と、


お、おお、神よ、神よ、
いつまでお怒りになるのですか。 *51

あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところがなく、
わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところがありません。 *52

いったい、いつまで、わたしは、わたしの、裔の子らの、血と肉を喰らいながら、
この曠野を彷徨いつづけなければならないのですか。

お、おお、神よ、神よ、
血、血と、血、血、血と、血が、血と、血が、、
血が、血と、血が、血がっ、
血が、
あ、ああ、
血と、血が、血が、わたしを、
血、血と、血、血と、血が、わたしを、を、狂わせた。た。た。
あ、ああ、哀れなる、わが頭(こうべ)、妖しくも、狂いたり。
哀れなる、わが魂(こころ)、麻のごと、乱れたり。 *53
血、血と、血を、血、血と、血を、
血を、見ているだけで、わたしは酔う。 *54
寸々に切り裂き、切り刻み、血、血を浴び、血にまみれて、
て、血、血を浴び、血まみれになることが、わたしの悦びとなった。た。
あ、ああ、あの噴き零れる臓腑(はらわた)、
あの温もりと滑り、
あ、あの、
温もりと、滑りと、重みが、
わたしの、わたしの狂った魂(こころ)の、唯一、ただひとつの慰めであった。った。
あ、ああ、わたしの目に光り耀く美しい少年たちよ。
目に光り耀く美しい少女たちよ。
その姿を目にしただけで、
わたしの魂(こころ)は、火の前の蝋燭のようにとろけてしまい、 *55
その躯を抱けば、わたしの情欲は、まるで茨の火のように燃え上がった。 *56
あ、ああ、華漁(はなあさ)り、華戯(はなあざ)り、
寸々に切り裂き、切り刻み、生き剥ぎ、逆剥ぎ、生き膚断ち、
血、血まみれの肉叢(ししむら)、肉塊、肉の塊が、わたしの病んだ魂(こころ)を慰めた。た。

見澄ますと、
石を投げれば、とどくほどにも離れたところに、 *57
樹葬されたばかりの美しい少年が立っていた。
立ちしなう美しい少年の美しい裸体、
目をつむったその美しい少年の目耀(まかよ)ふ美しさ、
その美しい少年の美しい半身には、どんなに小さな傷跡もなく、
腫れ物の痕もなく、雀斑もなく、黒子さえもなかった。た。
だが、その樹体は、無花果の甘い馨りを芳っていた。 *58
その半身は、擬(まが)うことなき果樹のそれ、無花果の樹そのものだった。
その頬は、芳しい花の床のように馨りを放ち、その唇は、
百合の花のようで、没薬の液を滴らす。 *59
その躯を抱きしめ、その唇に、わたしの唇を重ね、
その舌先を吸い、その甘い唾液を啜った。
その甘い唾液は、なめらかに流れ下る良き葡萄酒のように、
わたしの唇と歯の上を滑っていった。 *60
その臀(いさらい)、臀(いしき)の膚肉(ふにく)は柔らかく、その窪みは深かった。
花瓣の夢を見ながら、わたしは愛撫した。
わたしの堅い指は、その花瓣を解(ほぐ)そうとし、
その柔らかな花瓣は、わたしの指を包み込もうとした。
蕊(しべ)に触れると(ふれ、ると)、花瓣が指先に纏わりついてきた。
わたしの(わた、しの)堅い指は、その花瓣と蕊(しべ)と戯れた。た。
脹ら脛にできた瘡蓋に似た褐色の樹皮を毟り剥がすと、と、
生肉色の樹肉から、赤黒い地が流れ落ちた。
微かに動く瞼(目(ま)蓋)、
幽かに歪む口の端。
手に力を入れて陰茎をつかみ、
黒曜石の小刀で、臍下から胸元まで、一気に切り裂いていった。った。
噴き零れる臓腸(はらわた)はら)わた)、
血、血、血、血と、血、血、血と、地に滲(し)む、血、
さらに、それを切り開いて、わたしは、手を(て、を)入れて、みた。た。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、この臓腸(この(はら、わた)の、温もり(ぬく、もり)、


──弟アベルは、どこにいるのか。


開いた唇、ひとすじの血涎れ(ちよだれ)
下垂る臓腸(はらわた)、引き攣り震える躯(から)だ)
それでも、神の似姿、麗しき少年の裸体は少しく傾き(かた、むき)
傾きながらも、目を瞑って、て、立って、いた。

あ、ああ、しかし、またしても、
しかし、またしても、臓腸(はらわた)には、印されてなかった。た。
わが弟アベルの、
アベルの、
の、

お、おお、ついに、手が疲れ、つるぎが手について離れなくなった。った。 *62


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、神よ、
すべて、あなたが命じられた命令のとおりにいたしました。
わたしは、あなたの命令に背かず、また、それを忘れませんでした。 *63


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、
神よ、すべての樹体は尽きました。
その夥しい数の樹体は、みな、私の手が葬(はふ)りました。
残ったものはひとりもなく、ひとりも逃れたものはありません。 *64 *65
わたしの背後、わたしの道は、
骨、骨、骨、
と、
血、血と、血、血、血と、血の足跡で、満ちている。る。る。 *66

お、おお、神よ、わが救いの神よ、
血を流した罪から、わたしを助け出してください。

神よ、御心ならば、わたしをお救いください。
すみやかに、わたしをお助けください。 *67


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、わが神、わが神、
なにゆえ、わたしを棄てられるのですか。
なにゆえ、遠く離れて、わたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 *68

お、おお、神よ、神よ、……、

おっ、おお、
いま霊が、わたしの顔の前をすぎた。 *69
った。

お、おお、
ついに、主が、主が、
主なる神が、つむじ風の中から、わたしにこたえられた。

「わたしの言葉は成就する。 *70
 人を殺して、その血を身に負う者は、死ぬまで逃れ人である。 *71
 いま、あなたの終わりがきた。あなたの最後の運命がきた。 *72 *73
 人の子よ、立ち上がれ、わたしは、あなたに語ろう。 *74
 屠(ほふ)られた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、栄光と、
 賛美とを受けるにふさわしい。 *75
 あなたの弟アベルが、これである。
 あなたの弟アベルは、人類最初の殉教者である。 *76
 人の子よ、わたしは、これをこさせる。 *77
 先にあったことは、また後にもある、
 先になされたことは、また後にもなされる。 *78
 あなたの弟アベルが、兄であるあなたカインに殺されたように、
 後の世に、その不信仰な曲がった時代に、 *79
 イエスと呼ばれる男が、ユダという名の男によって、つるぎに渡される。 *80
 彼もまた、あなたと同じように、
 愛することに激しく、憎むことに激しいからだ。
 さあ、ついに終わりの時がきた。
 わたしの言葉は成就する。
 後の世のユダが、腹を裂き、臓腸(はらわた)を地に噴き零すように、 *81
 あなたは、あなたの手について離れなくなったその小刀で、
 あなたの腹を裂き、あなたの臓腸(はらわた)を開きなさい。 *82
 アベルの屍骨(したい)の隠し処とは、あなたの躯である。
 なぜなら、あなたの弟アベルは、兄であるあなたカインの中にあり、
 兄であるあなたカインは、あなたの弟アベルの中にあるからだ。
 それは、あなたの母イヴが、あなたの父アダムの中にあり、
 あなたの父アダムが、あなたの母イヴの中にあるように、
 また、後の世のイエスが、彼の弟子であるユダの中にあり、
 そのユダが、師と仰ぎ、先生と呼ぶイエスの中にあるように。 *83
 さあ、人の子よ、塵に帰りなさい。 *84
 あなたは、塵だから、塵に帰りなさい。 *85
 わたしが、あなたの息を取り去ると、
 あなたは死んで、塵に帰る。 *86
 塵は、もとのように土に帰り、
 霊は、これを授けた神に帰る。 *87
 霊は、わたしから出、
 生命(いのち)の息は、わたしがつくったからである。」 *88

と。

と、

お、おお、神よ、
神よ、見よ、
わたしは、わが腹に刃物を突き刺し、
なお激しい苦しみの中にあって、 *89
わが臓腸(はらわた)を切り裂き、切り開いた。た。 *90
あ、ああ、わが臓腸(はらわた)よ、わが臓腸(はらわた)よ。 *91
その印は、わが額の印と同じもの、同じもの、の、の、
お、おお、神よ、神よ、
神よ、

グロリア・パートリ・エト・フィリオ・エト・スピリトゥイ・サンクト。
シクト・エラト・イン・プリンシピオ・エト・ヌンク・エト・センペル・エト・イン・セクラ・セクロールム。アーメン。 *92

父と、子と、聖霊に、栄えあれ。
初めにありしごとく、いまも、いつも、世々に至るまで。アーメン。












埋骨されなかったフレイズによる 0puscule:The Marks of Cain Reprise。



われは一つの花を慕えど、どの花なるを知らざれば
心悩む。
われはあらゆる花々を眺めて
一つの心臓をさがす
(ハイネ『われは一つの花を』片山敏彦訳)


 *


花のはだかは肉の匂(にお)い
(アポリネール『花のはだか』堀口大學訳)


 *


重い血の枝むら
(高橋睦郎『眠りと犯しと落下と』)


 *


かさなりあった花花のひだを押しわけ
(大岡 信『地下水のように』)


 *


花弁をひらく
(吉増剛造『渋谷で夜明けまで』)


 *


すると、血(ち)がそこから流れでた
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)


 *


人間のように血(ち)がしたたる
(吉増剛造『素顔』)


 *


血は血に

血は血に滴たる

あ。
(村山槐多『ある日ぐれ』)


 *


或(あ)る日、花芯(くわしん)が恋しかった。
(津村信夫『臥床』)


 *


死んだ少年のむれ そのいたいたしい
美しいアスパラガス
(吉岡 実『模写──或はクートの絵から』)


鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり
(富沢赤黄男)


 *


おお、樹木よ、お前の樹液は私の血だ!
(シャルル・ヴァン・レルベルグ『私は君たちであり』堀口大學訳)


 *


オトウサンナンカキリコロセ
オカアサンナンカキリコロセ
ミンナキリコロセ
(丸山 薫『病める庭園(には)』)


 *


同じこのような幸福のゆめを
ぼくは見たことがなかったろうか
樹も 花も 接吻も 愛のまなざしも
(ハイネ『同じこのような幸福の』井上正蔵訳)


花よ きみを ぼくの夢に 迎えよう
そこに いろどりさまざまに
歌う 魔法の 茂みに
(ヘッセ『ある少女に』植村敏夫訳)












分骨されたフレイズについて。



*01:阿部謹也が著した『刑吏の社会史──中世ヨーロッパの庶民生活誌』の「第二章・刑罰なき時代・2・処刑の諸相(12)内臓びらき」にある、内臓びらきの刑の図版が、大場正史が著した『西洋拷問刑罰史』の「第九章・異端糾問」に掲載されている「大腸をえぐり出される宗教改革の先駆、聖エラスムス」の図版と同じものであるのは解せないが、いずれにしても、この図版には、きわめて強烈な刺激を受けた。小学生の頃に、岩に鎖で繋がれたプロメーテウスが、二羽の禿鷹に繰り返し腹を切り裂かれ、肝臓を啄まれるという話を読んで、すごく怖い話だと思ったのだが、これに、たしか、白土三平の漫画だと思うが、磔になった罪人の目の玉を、烏がその鋭い嘴で抉り出す場面とが重なって、長い間、頭から離れなかったことを憶えている。いまでは、澁澤龍彦が著した『妖人奇人館』にある「切り裂きジャックの正体」を読んで、これぐらいに丁寧に殺されるなら、ぼくも、殺されたっていいかな、なんて、つい思ってしまうぐらいに、人間が壊れてしまっているのだけれど。ここに、その「切り裂きジャックの正体」の中から、もっとも興味をそそられた部分を引用してみよう。「ケリーは血の海のようになったベッドの上に、全裸で仰向けに寝ていた。右の耳から左の耳まで断ち切られ、首は胴体から離れそうになっていた。耳と鼻がそぎ落され、顔は原型をとどめぬほど切傷だらけであった。上腹部も下腹部も完全に臓腑を抜き取られていて、肝臓が右の腿の上に置かれ、子宮をふくめた下半身も、えぐられていた。壁には血痕が飛び散り、ベッドのわきのテーブルの上に、妙な肉塊が置かれていたが、これはあとで調べてみると、犠牲者の二つの乳房だった。その近くには心臓と腎臓がシンメトリックに並べてあり、壁にかかった額縁には、腸がだらりとぶら下がっていた。」この凄まじい殺し方には、禍々しさとともに、Jack the Ripper の美学への真摯な傾倒が窺われるのではないだろうか。それにしても、このきれいに腑分けされた臓物には、なぜかしら、宗教的な儀式が行われたような印象を受けてしまうのだが、臓物占いでもしたのだろうか。この『The Marks of Cain。』は、直接的には、冒頭に掲げた「内臓びらき」の図版に触発されたものなのだが、澁澤龍彦が著した『黒魔術の手帖』に書かれていた「ジル・ド・レエ侯の肖像」とともに、古代ローマ時代の臓物占いにも、また大いに触発されたものでもある。『夜想5号』の「屍体」特集号で、「屍体芸術」というものが存在していることを知ったのだが、小学生のときに読んだことのある、日野日出志の漫画の繊細な美しさには、遠く及ばないような気がした。日野日出志の漫画は、大事に隠し持っていたのであるが、たしか、小学校六年生のときだったろうか、父に見つかって、一冊残らず、すべて捨てられてしまったという記憶がある。ずいぶん以前のことだが、あの佐川くんに切り刻まれたフランス人女性が、肉片を縫い合わされて、人間の姿に(あくまでも屍体だが)復元された全裸写真を、雑誌で見たことがある。犯されたあと、生殖器から胸部にかけて真一文字に切り裂かれ、腹部から臓腑を引きずり出された中国人娘の写真(南京大虐殺の際のもの)や、アウシュヴィッツなどの強制収容所で行われた拷問や虐殺の記録写真にも触発された。麻酔なしの生体解剖をはじめ、さまざまな人体実験が行われたという。
*02:ヘッセ『飲む人』高橋健二訳。
*03:創世記四・四。
*04:神学的対論『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』第三章・第九節、「(一)まがうことなく人間は/森の主なる樹木さながら/彼のからだの毛は樹葉/彼の皮膚は木の外皮/(二)彼が傷つけられるとき/その皮膚からは血が流れる/木が切られれば外皮から/樹液が流れ出るように/(三)彼の肉は木の辺材/堅いその腱は木質部/骨は樹木の心材であり/髄は木の髄にたとえられる」(服部正明訳)及び、ダンテ『神曲物語』地獄篇・第十三歌、野上素一訳を参照した。
*05:M・M・ペイス『エジプトミイラの話』清水雄次郎訳。臓腑摘出に黒曜石の石刀が用いられた。
*06:雅歌四・三、六・七で、頬の美しさが、ザクロの赤い実にたとえられている。イメージ・シンボル事典によると、ザクロの木は、ディオニュソスの滴り落ちた血から生えたといわれる。民数記の第十三章には、ザクロが、乳と蜜の流れているカナンの地から、ブドウやイチジクとともに、肥沃の象徴として持ち帰られたとある。ザクロは、神からの賜物、或いは、豊饒を表わす聖処女の表象物である。教育社の大百科事典によると、ザクロは、人間の味がするので、鬼子母神への奉納物にされていたという。また、ギリシア神話では、ザクロは、冥府の食べ物とされており、オウィディウスの『変身物語』第五巻の中に、プルートスによって冥界に連れ去られたプロセルピナが、そこにあったザクロの実を七粒食べたために地上界に戻ることができなくなったという話がある。
*07:創世記三・一八。
*08:エゼキエル書二八・二四。
*09:哀歌一・一五。
*10:ロンサール『カッサンドルに』井上究一訳。
*11:エゼキエル書三七・一─二。
*12:哀歌四・八。
*13:創世記四・九。
*14:創世記四・九。
*15:ヨブ記七・一九。
*16:詩篇五四・二。
*17:申命記三二・一。
*18:創世記四・八。
*19:シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳。
*20:創世記四・一四。
*21:創世記四・一六。
*22:創世記四・一七。
*23:創世記四・一八。
*24:ミカ書一・八。
*25:ゼカリヤ書一四・一二。
*26:シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳。
*27:創世記三・一─一五。ヨハネの黙示録一二・九。
*28:詩篇五一・五。
*29:ヨブ記三・一一。
*30:ヨブ記一〇・一八─九。
*31:詩篇五一・一四。
*32:ヨブ記三八・一。
*33:エレミヤ書三〇・一五。
*34:ガラテヤ人への手紙六・七─八。
*35:エゼキエル書三五・六。
*36:エゼキエル書三・一。
*37:エゼキエル書二・八。
*38:ゼカリヤ書一四・一二。
*39:エゼキエル書三六・一四。
*40:シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳。
*41:M・ジョーンズ編『図説・旧約聖書の歴史と文化』左近義慈監修・佐藤陽二訳。
*42:創世記二・一五。
*43:創世記四・二。
*44:創世記四・二。
*45:ヨブ記七・一一。
*46:ホセア書九・一一、「産むことも、はらむことも、/みごもることもなくなる。」より。
*47:詩篇一二七・三。
*48:創世記一・二七。
*49:創世記二・一八。
*50:左近義慈・南部泰孝著『聖書時代の生活 I』。
*51:詩篇九〇・一三。
*52:詩篇三八・三。
*53:ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳。
*54:ラディゲ『柘榴水』堀口大學訳。
*55:ミカ書一・四、詩篇六八・二。
*56:詩篇一一八・一二。
*57:ルカによる福音書二二・四一。
*58:教育社の大百科事典によると、イチジクは、ザクロと同様に、豊饒のシンボルだが、原罪との関わりにより、欲望の象徴(創世記三・七)ともなっている。イメージ・シンボル事典によると、イチジクは両性具有を、イチジクの木は男性を表わしているという。また、イチジクは、バール神への典型的な捧げ物であるといい、ギリシア神話では、ディオニュソスが、冥界の入口にイチジクの木を植えたという。しかし、イチジクの木を、少年の樹体とした最大の理由は、葉をむしると、そのむしり取られた葉柄や葉基といったところから、精液によく似た白濁色の樹液が滲み出てくるからである。干しイチジクは、列王紀二0・七の中に、腫物に効くと書かれている。
*59:雅歌五・一三。
*60:雅歌七・九。
*61:中原中也『雨の日』。
*62:サムエル記下二三・一〇。
*63:申命記二六・一三。
*64:士師記四・一六。
*65:歴代志下二〇・二四。
*66:ホセア書六・八。
*67:詩篇七〇・一。
*68:詩篇二二・一。
*69:ヨブ記四・一五。
*70:エゼキエル書一二・二八。
*71:箴言二八・一七。
*72:エゼキエル書七・三。
*73:エゼキエル書七・一〇。
*74:エゼキエル書二・一。
*75:ヨハネの黙示録五・一二。
*76:創世記三・三、三・八。
*77:エゼキエル書二一・二七。
*78:伝道の書一・九。
*79:マタイによる福音書一七・一七、ルカによる福音書九・四一。
*80:ミカ書六・一四。
*81:使徒行伝一・一六─一九。
*82:ヨブ記一六・一三、「わたしの肝を地に流れ出させられる。」より。
*83:マタイによる福音書二六・二五。
*84:詩篇九〇・三。
*85:創世記三・一九。
*86:詩篇一〇四・二九、「あなたが彼らの息を取り去られると、/彼らは死んで塵に帰る。」より。
*87:伝道の書一二・七。
*88:イザヤ書五七・一六。
*89:ヨブ記六・一0。
*90:大岡 信『地下水のように』、「ぼくはからだをひらく/樹脂の流れる森に向って」より。
*91:エレミヤ書四・一九。
*92:Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto. Sict erat in principio et nunc et semper, et in saecule saeculorum. ラテン語の祈祷文。最後の「アーメン」は、コロスとの唱和。


以上の文献を引用するにあたって、拙作の文脈に合わせて部分的に書き改めたり、書き加えたりしたところがある。


窓。

  田中宏輔




学校のトイレの窓ガラスは、むかしから割れていた。
洗面台の鏡の端っこに
生乾きの痰汁がへばりついている。
その鏡に、学校と隣り合わせに建っている整形美容外科医院の
きれいに磨き抜かれた窓ガラスが写っている。
トイレのごみ箱のなかには
いらなくなった鼻や乳房や骨が捨てられている。
妹は、小さなうなじに犬の毛を移植したい。
夜遅く帰ると
電車の窓の外に見える家々の窓たちは
奇跡に溢れていた。
宙に浮いて覗いてまわりたい。
幼い頃
真っ赤な薔薇の華を
妹の股の間に挟ませて眺めていたことがある。
動かすと、棘が引っかかって
裸のまま立たせた妹は
両の目を覆って泣きじゃくっていた。
整形美容外科医院の名前が印刷されている
茶封筒が滑り落ちた。
隣の車両からやってきた犬が女の靴をなめる。
犬が、わたしの膝元に擦り寄ってきた。
電車が停まった。
駅からそう遠くないところに家がある。
女と犬が、後ろからついてくる気配がする。
妹は、テレビをつけっぱなしで居眠りをしていた。
テーブルにうつ伏せて眠る妹のうなじは
蟹の甲羅のように硬かった。
テレビは、古い映画をやっている。
ついこの間、癌で死んだ俳優が
末期癌で苦しむ患者の役をしていた。
犬のうなじに触れる。
ときおり毛を軽く引っ張ってやる。
やめていた煙草に火をつける。
手紙に書かれていない理由が
ようやくわかったような気がした。
まだ愛していると思っていた。
まだ愛されていると思っていた。
女の唇の下には、大きなほくろがあった。
手術したいほくろだった。
妹の汚れた下着に指をからませると
骨瓶のなかに指を入れているような気がした。
妹が目を覚ました。
見舞いにきた奥さんは
いま不倫騒動で賑わしてる女優だった。
癌で死んだ俳優が
死に際の演技を披露している。
死ぬ演技はむずかしいよ。
前にNHKの番組で
俳優は笑いながら語っていた。
知らない犬は
妹にも、よくなついた。
犬は
わたしを襲う合図を待っている。
鞄のなかからビニール袋を取り出すと
ひそかに持ち帰った
女の鼻や乳房を投げ与えた。
ほんとうの死を迎えたとき
俳優はなにを考えていたのだろう。


Lark's Tongues in Aspic。

  田中宏輔




私が何も新しいことは言わなかった、などとは言わないでもらいたい。内容の配置が新しいのである。
(パスカル『パンセ』断章二二、前田陽一訳)

もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。
(ボルヘス『砂の本』疲れた男のユートピア、篠田一士訳)

言葉は、ちがった配列をすると、ちがった意味を生じ、意味は、ちがった配列をすると、異なった効果を生じる。
(パスカル『パンセ』断章二三、前田陽一訳)

  〓

夜中の一時ごろに        まちがいなくここには霊的なものがある。
電話がかかってきた。      (カロッサ『ルーマニア日記』十一月二十八日、登張正実訳)
イエス・キリストですと     《事実》は、意味を必要としないものである。
男の声が言った。        (ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)
ぼくが黙っていると       わたしは彼が神ではない(、、、、)と確信していたわけではない。
落ち着き払った声で       (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』12、柳瀬尚紀訳)
約束したじゃないですか     ひょっとしたら神であるか、
と言う。            (ヘッセ『別な星の奇妙なたより』高橋健二訳)
それでも、まだ黙っていると   ほれ、こうしてまた
もう一度、           (サムイル・マルシャーク『森は生きている』湯浅芳子訳)
約束したじゃないですか     午前一時にふたたび電話をかけてくる。
と言ってきた。         (フローレンス・トレフェセン『背信』中上哲夫訳)
なるべく音がしないように    これが証拠じゃないか?
ぼくは受話器を置いた。     (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』12、柳瀬尚紀訳)

 〓

蜜蜂がぶんぶんうなっている。
(ガルシン『四日間』神西 清訳)

顔のあたりを色彩(いろど)っている。
(夏目漱石『吾輩は猫である』一)

目をそらそうとしても、ついつい見とれてしまう。
(ポール・オースター『ムーン・パレス』6、柴田元幸訳)

 〓

 広辞苑で、「いっぱい【一杯】」という言葉を調べると、「一つのさかずきや茶碗に満ちる分量。」という意味や、「ある限りを尽して限度に達するさま。ありたけ。」とか、「思う存分。したいだけ。」といった意味が載っていた。だいたい知っていた通りだったのだが、このような言葉から、一即全が、そしてまた、汎神論が連想されたので、一応、調べてみたのである。ついでに、「杯」も調べてみた。「さかずき」という意味であった。これまた、知っていた通りの意味だったのであるが、「さかずき」を「宇宙」の象徴として見ると、「いっぱい」という言葉の意味と、汎神論というものとの結びつきが、よけいに強く感じられた。

 〓

ヨハネによる福音書の第一章・第一節に、
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。
だったら、毎日、神さまが、ぼくの中を、出たり入ったり、入ったり出たりしてるってことだ。

──泣いているの? 私のために泣いてくださるの? あんたは、私を愛してくださるのね。
(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉 捷夫訳)

 〓

ママン、じき治るわ。
(プルースト『失われた時を求めて』第三篇・ゲルマントの方、鈴木道彦訳)

癒(なお)るのかしら?
(夏目漱石『硝子戸の中』二十八、疑問符加筆)

犬の首輪をしている
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

父がいた。
(ウォルシュ『焼けあとの雑草』5、澤田洋太郎訳)

 *

ねえ、ママン、これも奇蹟(きせき)を授けられた花でしょうか?
(ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

銅(あかがね)の器(うつわ)に活けましょうね。
(コレット『青い麦』九、堀口大學訳)

 *

人間はたえず、しかもつまらぬことでもみせびらかす。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第一の歌、栗田 勇訳)

 *

さあ、これをごらん。
(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』経過報告11・四月二十二日、稲葉明雄訳)

それを僕にしろと言うのかい?
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第二場、菅 泰男訳)

 〓

うんこ型宇宙人というのを考えた。   こうしたはしたない言葉をみのがして
臭いも、形も、うんこそのものなのだ。 くれるのは、愛情だけだった。
けっこう友だちになれそうだよね。   (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)      
あっ、でも、どうしよう?       いや、まんこはいや!
相手が握手なんかしてきたら。     (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』6、柳瀬尚紀訳)

 〓

ときどき、古本屋さんで、ユリイカのバックナンバーを買うことがあって、
このあいだ、「エズラ・パウンド特集」(一九七二年の十一月号)ってのがあって、買ったんだけど、
そしたら、その一七九ページにある、篠田一士さんと、ドナルド・キーンさんとのやりとりの中に、
(丸谷才一さんを含めて、三人の『共同討議』ってところでね。)

 篠田  パウンドが知った最初の日本人はダンサーの伊藤道郎ですね。二番目は、
     会ってはいないけれど、北園克衛です。
 キーン 文通していましたね。パウンドの本には Kit Kat というふうに記してある。

って、あって
あれっ、Kit Kat っていえば、チョコレート」じゃんか、って思った。
って、ただそれだけのことなんだけど。
でも、この話が、いちばん印象的で、
っていうか
この話しか印象に残ってないんだけどね、笑。

 〓

amor ingenii neminem unquam divitem fecit.
才能の愛は何人をも決して富裕にしたることなし。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、ペトロニウスの言葉)

やがて僕も二十八歳
不満な暮しをしているほどに
(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)

すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られていないのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

二十八歳にもなつて、詩人だなんて云ふことは
樂しいことだと、讀者よ、君は思ふかい?
(フランシス・ジャム『聞け』堀口大學訳)

いま、ぼくは、二十八歳じゃないけど、詩を書きはじめたのは、二十七、八歳のときだった。
それに、また、たしかに、名前も知られていなかったのだけれど。

 〓

あの『世界名作劇場』のパロディーで  彼女は七十歳になる病弱な老婆である。
『世界迷惑劇場』というのである    (ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳、句点加筆)
自分の母親でもないのに        子供はいない。
えんえんと彼女を追いかけ回す     (マルグリット・デュラス『愛人』清水 徹訳)
マルコ少年の物だとか         悪魔が彼をもてあそんでいるのだ!
よその山羊の乳を無断で絞ったりして  (ローデンバック『死都ブリュージュ』IV、窪田般彌訳)
おじいちゃんの寿命を縮めまくる    しかし、たいくつのためだけに死ぬことだけはないであろう。 
アルプスの不良少女ハイジの物語だとか。(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉 捷夫訳)

 〓

 ジャン・デ・カールが、『狂王ルードヴィヒ』(三保 元訳)の中で、王の「わけのわからぬメモ」の例として、「そのたびにネクタイを締め直さなければならないほど、ネクタイを結ぶのは難しい。大切なのは結び目そのものではなく、少なくとも約束を守るということだ」といった言葉を引いているが、tie a knot in a handkerchief:(何かを忘れないために)ハンカチに結び目をつくる、という英語の成句があることからもわかるように、「結ぶ」と「約束」との間には、十分に関係があると思われるのだが、どうだろう。「約束を守る」といえば、ぼくには、「約束を守る最上の手段は決して約束をしないことである。」(大塚幸男訳)という、ナポレオンの言葉が思い出されるのだが、これは、関係ないかな。

 〓

塾でアルバイトをしていたときのこと。  いったいなにを考えているんだろう?
田中先生はベテランですからって言われて (ヘッセ『知と愛』第十三章、高橋健二訳)
中学二年生の男の子をまかせられた。   目を大きく見開いて、ぼくの顔をじっと見ていた。
小学一年か二年の学力しかない子だった。 (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
で、あるとき、その子が         これはなにかしらとても悲しいことだった。
消しゴムをグリグリ机に圧しつけてたので (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』6、柳瀬尚紀訳)
「そんなにグリグリ圧しつけたら     目から涙がこぼれた。
消しゴムが痛くて泣くよ。」って言ったら (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』6、清水三郎治訳)
「先生にも消しゴムの声が聞こえるの?」 私は知った。
って言われた。             (ヘッセ『青春彷徨』第七章、山下 肇訳)
うれしそうに、目をキラキラ輝かせて   神はひとりひとりにちがった声でよびたもう。
というより瞳孔を開ききって、て感じで。(カロッサ『ルーマニア日記』十二月五日、登張正実訳)

 〓

蛇をつつけば、藪が出るのよ。

 〓

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

文学極道

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