年間各賞・総評3(織田和彦)2009文学極道
【実存大賞】 受賞者
■鈴屋氏
「私が鈴屋さんを推すのは、今年この作品を書いたからです。
時空を生活の中に描ききり、生と死と無から有へ、物象の形態変化、感受の変化、 それらを日常から取り出し提起した。
このことは書き手として非常に困難な位置と素材であり、 それをこなすだけでも賞賛に値し、さらに殻に留まらない筆を動かし続ける熱量が作品を凌駕の情宣へ達し、伸び続けていると断言できます。 」(平川氏の評)
また鈴屋さんそのほかの方をめぐった議論の中で、ダーザイン氏からは次のような発言もありました。
「<実存>という言葉の意味をご存じなのだろうかと疑念に思います。
ただ単に人間の現実存在を指す言葉ではありません。
(中略) 非‐本来的(「存在に根付かない、存在論的な思考から生まれていない」)なお喋りを実存論的とは言わない。空疎なお喋り、存在の怠落態です。
ハイデガーの根本哲学ではなくてサルトル流儀の主観主義三文思想からみても、冗漫なお喋りは現実へのコミットではない(以下略) 」
(blogにミドリさんの記事を貼りながらダーザイン注。これは鈴屋さんへ向けられた批判の言葉ではない。実存・世界性にかかわることで意見が合わず袂を分かった人と、山ほどいる世間知らずの言語遊戯の連中に向けられた言葉であり、誤解なきように。この(かっこ)内ダーザイン)
例年、実存大賞は年齢的にいって比較的、上の層の方が多い。実存大賞の対象となる人と作品は「人間・人生が良く描けていた者に」と謳われております。詩や文学なのだから人間や人生を織り込んで書くのは当たり前なのではないか? 残念ながら、特に現代詩と冠された書き物の中には、少なからず言葉上の遊びに終始しているものがみられます。
こうした「流行」が詩を書くものと読むもの間に溝を作り、詩文学という文化を衰退に向かわせている。だとしたらそれは是正されなければならない。これが文学極道のもう一つのコンセプトです。
たとえば上記(平川氏の評)でも触れられている鈴屋氏の作品「侘び住い・六月」から引用してみましょう。
「雨期がつづく
耳のうしろで河が鳴っていて、困る
部屋にひとり座し
壁など見つめていれば
列島を捨てて大陸へ行きたく、はや
赤錆びたディーゼル機関車が原野を這う」
作品の中の男は梅雨の最中、一人部屋に座し、せせこましい日本を発って大陸へ向かうことを空想します。男は「赤錆びたディーゼル機関車」それに乗って旅をしているのです。空想の中で、笑。
我々も通勤の満員電車にギュウギュウに詰め込まれて、日経新聞などを読んでいると”ウランバートル”という記事を目にすることがあります。別にそこに取引先がなくたって、次の駅がもしかしたらウランバートルで、ドアが開けばスーツから開放されて、少し行けば馬と草原と澄んだ空があり、今抱えてる日常の雑事から開放されることを偶には空想してみることもできるのではないか?
この作品の作者、鈴屋氏は、心の換気も必要だということを説いているのです。
「流し台の蛇口の先から
蛇がこちらを覗いている
かわいい
縞蛇の女かもしれない」
などと男はさらにめんどくさい空想を広げていきますが、ここまでくるとかなり。上級クラス(部長コース・1時間3万円)だという感じになってきます。
受賞おめでとうございます。
【実存大賞】 受賞者
■右肩氏
今回の実存大賞の選考にあたって、右肩氏を推挙したのがダーザイン氏、コントラ氏と、私の3名です。まだ誰も読んでいないと思うので、まずはコントラ氏のコラムに話を向けることから始めたいと思います。
「詩なり<作品>と呼ばれうるものは、世界に強烈に根ざそうとすること、根ざしていたことを呼び起こすこと。その地点からしか生まれてこない。これは、書き手にとっては多くの選択肢のひとつであるはず、しかし僕自身にとっては、それは唯一の立場である。」(コントラ氏のコラムより抜粋)
彼、コントラ氏はそのコラムの中で「僕は中学校時代に世間で言うところの「いじめ」を受けた記憶がある。」と告白しておりますが、「誰もそんなこと興味ねえーよ!(><;)/」などと、皆さんが正しく突っ込んだくだりですが、「いじめる」ことで植物でも何でも、味がよくなったり、人間もそうです。いじめられて初めて一人前になれるものです。これは「いじめと根ざしの考察」から、作品論を説き起こした、はじめて論考と言えるでしょう。
では、右肩氏の作品にはそうした「根ざし」の問題と関わりのあるものがあるのでしょうか?
「女神」は2009年4月優良作品に選出されたテクストです。ここから一部引用してみましょう。
「木製の丸椅子に
坐って
その上からひとり
毛布の皺のような
世界を見ています。
裸の私は
若い。」
「愛とか何か
答えがないまま
私
スタバのカップに刷られた女神
かも
しれません。」
Martin Heideggerは芸術作品とは自己開示と自己隠蔽の闘争の場である論じていますが、この作品の話者はおそらく若い女性であり、自分は裸になっているのに世界の方が隠蔽されていることに不安を訴え、スターバックスの紙コップに印刷されたロゴほどの実存(根ざし)しかないことへの認識を口にすることで、現代を生きる命たちへの自覚を促す詩になっています。右肩氏のテクストには色んな仕掛けがさりげなく配置され、現象学から、Jacques Derridaのdeconstructionやコントラ氏の旅と帰郷論まで包括する現代詩の書き手の中でもっとも優れたオーソティーとして記憶されるべきでしょう。
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