文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2009年創造大賞、他年間各賞発表

2010-03-31 (水) 21:55 by 文学極道スタッフ

2009年創造大賞、他年間各賞発表になりました。
2009年年間各賞

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2009年年間各賞について

2010-01-26 (火) 11:24 by 文学極道スタッフ

2009年年間各賞は3月下旬に発表予定です。

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文学極道No.2のNo.2(阿部嘉昭)

2009-10-12 (月) 17:29 by 文学極道スタッフ

「文学極道No.2」のつづき――。
08年度分から秀作詩篇を選んでゆく。

【悪書】
りす

目が悪くて ちょうどそのあたりが読めない
世田谷区、そのあたりが読めない
悪書でお尻を突き出している女の子の
世田谷区、そのあたりが読めない
もはや 言葉の範疇ではない
もはや ストッキングが伝線している
伝線を辿ると たぶん調布なのだ
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
ストッキングを被ったような詩ですね
と書いてしまい アクセス拒否をされたのは
世田谷区、ちょうどそのあたりだと思うのだ

眼球が腰のくびれに慣れてしまい
女を見れば全て地図だと思い
上海、そこは上海であると決めつけ
あなたの上海は美しいですね、と褒めておくと
行ったこともない癖に、と怒られた
この場合の「癖に」は、逆算すると
北京、だろうか
やはり 言葉の範疇ではない
やはり 世田谷区はセクハラしている
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
かわりに読んでもらおうとしたら
上海は書く係で 北京は消す係で
読む係はいないのだと教えられ
どうしても読んでほしければ
世田谷区、そのあたりで読んでもらえると
悪書を一冊渡された

〔全篇〕

前回の「モモンガの帰郷のために」につづき
またも、りすの詩篇をピックアップした。

理路の崩壊。不機嫌と事件性だけが伝わってくるようだが、
この不機嫌が感情レベルにとどまらず
論理性の不機嫌だという点に注意する必要があるだろう。

前回、放置した問題。「この作者の性別は?」
勘では♀という結論を出しているが定かではない。

ネット詩の作者名はハンドルネームで書かれることが多い。
詩壇詩でも「久谷雉」「小笠原鳥類」「水無田気流」などと
性別を超越した筆名が一時期、席捲したが、
ネット詩にこの傾向がさらにつよいのはとうぜんだろう。
詩作とは変身の欲求であり、そこでは匿名性が前提される。

たとえば女性詩が性差記号にもたれかかって
自己愛的に書かれることが即、性別擁護にまですりかわるという
夜郎自大にいたる危惧をもつとすると、
性差を超越しているネット詩では
その自己愛記号も作者の背景の分野ではなく
発語に自体的にともなうものとなる変転が起こっている。
こういうことは根本的に、
「頓珍漢」の心中を見透かすようだが、不安なのだ。

地域属性と人格属性との暴力的な付着、
という、とりあえずの着想がこの詩篇にみえる。
このような詩篇では【大意】は恣意生産されてゆく。
そのさいその恣意を色づけしてくるのが詩篇の呼吸の気分。
あとは「AはBである」という「断言」が
同時にたえず「寓喩」となるという確信があればこの詩が読める。
乱暴が勝ち、そこにこそ口調の面白さも追随するというのが
ネット詩を面白がるときみえてくる眺めの質でもある。

【大意】
世田谷区(♀)は悪書=エロ本のグラビアで
挑発的に突き出される尻として指標される。
駒澤大学も成城大学もある世田谷区には
そんな尻が欺瞞的にあふれかえり、
まさにバックスタイルで犯される直前なのだが、
女子大生にして装着されているOL風ストッキングには
もう脱力的な伝線も起こっていて、
その伝線的なものが調布を指標するのでじつは犯すに値しない。
それは白百合女子大の領域だ。

なんておもって、その指摘を上半身下半身逆倒させてまでおこなって
わたしは記号のこの地上性からアクセス拒否され、愛も拒否された。
世田谷区、嫌いだ。気取ってるしマダム多いし。
おまえのエロさが、すでにセクハラだい。

いずれにせよ、女はくびれをもった猥褻な「分節」なので
(つげ義春「ヤナギ屋主人」冒頭参照)、地名が似合い、
女の集合自体もそのまま地名分布されてゆく。
記号性はこのような熾烈さをもっているが
それは記号性がそれ自体、もう悪書となっているためだ。

ところで女に戴冠させる地名性は相互対立的な局面までいたるか。
上海/北京――記載/消去の、
なさぬ二対を考えてみる必要があるのはここだろう。
記載=上海=くびれ=女は、自同律としてうつくしい。

けれど書いてわかる、消してわかる、上海とは北京じゃないか。
記載/消去の運動は自動生起して、
そのかん誰も成行きを読まないのだから当然そうなる。

だから世田谷なんぞも悪書まるごと
女としてこちょこちょしちゃえばいいのだ。
そうやって悪書をもらっちまった。

ああ目が悪くてすんません。記号の論脈を読めるのはこの程度まで。
でもじつはわたし、目が悪いんじゃなくて、
本当は「目つきが悪い」んだよね。

(※こういう詩篇では【大意】の提示が分量的に本編をまさって
真の読解が完了するといえるだろう)

【アゲハのジャム】
浅井康浩

どんなによわよわしくたって、見つめられているというこ
との、その不思議な感触だけがのこされていた。あなたはね
むりに沈みこんでゆくけれど、塩のように、わたしとの記憶
を煮つめてきたのだから、そっと、さらさらとしたたってゆ
くものが、とめどないほどに、みえてしまったとしても、わ
たしはもう、どうしようもないのでしょう。だから、そう、
あなたのからだが朽ちてゆくのを待っているのだとしても、
わたしとの思い出がほつれてしまうおとずれを、まつげをふ
るえさせるかすかなしぐさとして、あなたはそっと、わたし
にだけおしえてくれる。そうして、ともに、あなたから溢れ
だす、しょっぱい記憶の海のなかへ、はからずも息をするこ
とができてはじめて、わたしたちはこれから、どこへもたど
りつくことなく、ながされてゆくことができるのでしょう。

たとえば、わたしがとしをとって、そっと、いまのわたしを
ふりかえれば、ここは、たどりつけない場所になっていて、
もういないあなたのそばで透きとおる、記憶のなかのわたし
に溶けあう手はずをととのえている、そのようなおさないわ
たしが、みえてくるのでしょう。思い出は、そっと霧のよう
に降りそそいで、やさしく、時間のながれをゆるめてくれる
から、ときには意味もなく、隣でカタコト揺れながら、ほこ
りをかぶったままの空き瓶となって、あくびもし、えいえん
に、詰められることのないジャムの、あわいラベルを貼られ
たりもする。そうやってすごすひとときが、しずかに夏のお
わりをつげて

〔全五個聯中、第一聯・第四聯を転記〕

サイト「文学極道」をひらきだした初期のころ
もっともびっくりしたのが浅井康浩の一連の散文詩だった。
三省堂から出た小池昌代/林浩平/吉田文憲編『生きのびろ、ことば』に
僕はネット詩の現状分析の稿を書いているのだけれども、
うち「文学極道」の箇所で引用したのも、

《あした、チェンバロを野にかえそうかなとおもっています。なんというか、場所ではないような気がします。野にかえすこと、それだけがたいせつな意味をもつようにと、そうおもっています〔…〕》

という書き出しの、浅井「No Title」だった。

「ですます」調で、ひらがなの多用されるその文は
手紙文やメモともまごう装いをもち
メッセージ性=意思伝達性が一見高いようにおもえるけれども、
内実は宛先の明瞭でない「独白体」で、
かつ、文の進展に重複があればその箇所が淡くなり、
飛躍があればその箇所が軽くなるなど
内部に翻転してくるような不定形性・やわらかさがある。
この語調の抒情性そのものに読者が拉し去られてしまう。

いずれにせよ、独自文体をもつ、手だれの書き手だ。
『文学極道No.2』巻末の掲載者プロフィールをみると大阪在住の80年生、
名前からすれば当然♂だが、ここでの「わたし」の記載のやわらかさは
そういった性別判定価値を一切、無効にしてしまう。
じっさい浅井の詩では主体・対象に性徴が生じず魂の様態だけが漂う。

浅井の言葉はその内心にむけ語られる。
言葉は意味ではなく木霊であればいいから
響きの弾力性を阻害する漢語も忌避される。
そして一人の内心で響く語群は
それが「一人の」という限定辞が精確なかぎりにおいて
「万人の」という非限定辞へと反転してゆく。

掲出、「アゲハのジャム」は愛をふくんだ生活をともにした
「あなた」への「わたし」の述懐を言葉にしたもので、
どこにも別れの言葉は書かれていないが、
別れの決意が全体に瀰漫しているとおもわせる詩篇だ。
そうなって重要性を帯びる概念が当然「記憶」となる。

掲出した一聯には一瞬こんな図式が成立する。

「あなた」の寝姿=「わたし」の記憶が海水であったとして
それはもはや塩の結晶=
あなたの寝姿はそれと等価となり塩としてさらさら流れてゆく
=しかしそれは消えたとしても塩であるかぎり不朽だろう
=ねむる「あなた」とそれをみる「わたし」は
そんな相互斥力のなかにもいる

斥力であるかぎり、「わたし」と「あなた」は、その間柄は、
《どこまでも透きとおってゆくのをやめなかった》(第三聯)。
そうなって記憶はすべて回顧調の色彩に置かれ、儚い。
それはありえないものにすら似る――たとえば塩ではなく
色彩を抽出するために煮詰めてつくるアゲハ蝶のジャムに。

ジャム瓶は夏の終わり、テーブルのうえの木立となっている。
それは夏ばかりでなく記憶の終焉を示すための木立。
しかもアゲハ蝶を煮詰めた色は時の褪色によってさらにみえない。
現実的には瓶が埃をかぶって不透明化しているだけなのだが。

ともあれ、それが記憶の位置だ。それは手に取れるが見えない。
回顧の語を詩篇から考えれば
「アゲハ」と連動し、「回顧」は「蚕」となる。
それで記憶は繭状のものに変ずるが、それが誰にとってもみえないのだ。
感知されるもの、感知域が感知されているとだけ感知されるもの、
本当は、記憶もそんなものにすぎない。

用語と形成文脈の微妙、現れてくる細心の中性性の水準。
しかもそれが虚無と戯れるメッセージでもあること。
そういうエレガンス。
このような浅井詩の特質にたいし
詩壇詩でそれにいま対応しているのは杉本徹の詩だと僕はおもう。

ところが浅井の詩のほうが揮発性、蕩尽性が高い。
ひとえにそれは、彼の詩が散文体によって書かれるためだ。
散文体は転記の拒否であり、流通の拒否だ。
それは一回性の読みのなかだけで、
パソコン画面では読みにくさすらともなってとおりすぎる。

ただしそれはもうひとつの可能性ももつ。
詩のサイトのなかでコピペされ印字されて
浅井のあずかり知らぬ者たちの手許に
静かに置かれる可能性だってあるのだった。
浅井の詩篇がしめす潜勢はその圏域にある言葉の透明性で、
その透明性を人は水性か火性か判別することがじつはできない。

【SPRINGTIME】
軽谷佑子

わたしの胸は平らにならされ
転がっていく気などないと言った
そしてなにもわからなくなった
柳がさらさら揺れた

井の頭の夏はとてもきれい
友だちも皆きれい
わたしは黙って自転車をひく
天国はここまで

暗い部屋で
化粧の崩れをなおしている
服を脱いで
腕や脚を確かめている

電車はすばらしい速さですすみ
わたしの足下を揺らし
窓の向こうの景色は
すべて覚えていなくてはいけない

除草剤の野原がひろがり
枯れ落ちた草の茎を
ひたすら噛みしめている
夢をみた

そしてわたしはかれと
バスキンロビンスを食べにいく
わたしは素直に制服を着ている
風ですこしだけ襟がもちあがる

〔全篇〕

前回「花風」につづき軽谷佑子の詩篇転載。
女子高生かのだれかの、春の午後の、
日常的な恋愛(性愛)進展が
抑制された筆致で素描されている。
時間進展が聯によってたくみに飛躍していて、
この詩法は僕の大好きな西中行久さんのものとも共通する。

三角みづ紀という、いかにもネット詩的な才能を発見してから
三角にその傾向(自傷傾向)の詩篇を独占させるかわりに、
詩壇は井坂洋子から杉本真維子などまで、
厳しい詩風の才能が女性に開花するのを見守ってきた。

それで現在、意外な陥没地帯になっているのが
かつて「ラ・メール」が称賛したような
普通の感性の女性詩ではないだろうか。
この分野はじつは詩の応募サイトでは着実に歓迎されていて、
それを代表するのがたとえばこの軽谷「SPRINGTIME」だ。

冒頭、胸の「平ら」に作者の身体個別性あるいは世代の刻印がある。
「わたし」は乱交傾斜ではない。自己保持欲求はある。
それでも春の日差し、若い緑のゆれる井の頭公園で、
同世代の男女とは集団デートをした。

わたしだけが近いので自転車で集合場所に行った。
ふわふわした語り合い、池からの水明かり。
そこでわたしはひとりから求愛をうける。

こうして生じた瞬間的な愛によって
わたしの、相手の躯は蔑ろにされた。
それでもそれはたがいをもとめ世界の橋のように伸びた。
その相手の下宿は井の頭線に近く、電車通行のたびに揺れた。
暗い部屋だった。そう、意味合いとしてはラブホだった。

二聯冒頭《井の頭の夏はとてもきれい》の
直叙の清々しさ、感情吐露に泣けてしまう。
《天国はここまで》という単純きわまる措辞の
世界を切り開いてゆくような心情と空間の描写。

三聯《服を脱いで/腕や脚を確かめている》。
性愛の質もこの簡単な措辞で如実にわかる。
所有格人称を省かれた「腕」「脚」は相手のものではなく
「わたし」のものだと僕は読んだ。「わたし」はまぐろで、
性愛行為中、自分の腕と脚の所在に神経を通わせていた。
そうして自分の反応、可能性を計測しようとしていた。
なぜなら「わたし」はそういう営為にまだ慣れていなかったから。

それは「わたし」の決定的な日だった。だから
《窓の向こうの景色は/すべて覚えていなくてはいけない》、
そう考えようともした。

肝腎なのは「わたし」の落花は春の季節と同調し、
ひかりのなかでこそ起こった、という点だ。
春だった。初夏のように暑い四月の終わりだったけれども。

その日は夕方になって落ち着いた。彼と簡単な外食にゆく。
世界が暮色に傾いて、わたしはかれとも世界とも馴染んでゆく。
《わたしは素直に制服を着ている》中、「素直に」の素晴らしさ。
世界にたいする気負がなく、
もうわたしはわたしとして許容されている。
それを世界が祝福する。それで最後の一行、
《風ですこしだけ襟がもちあがる》が来る。

とうぜん、詩篇がこのように書かれれば作者への忖度もはたらく。
詩篇は08年のものだが、
09年での作者の経歴を覗くと《1984年東京生まれ 事務員》。

よって詩篇が描きだしたのも現在のものとはおもわれない。
そう、作者の記憶のなかの出来事だろう。
注目したいのは作中を明示性なきままに覆っている光。
それはそのまま、僕が大学時代だった70年代末の光とも共通していた。

(2009年8月24日)

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凪葉氏の作品「無題」(2008)について

2009-08-09 (日) 03:42 by 天才詩人

凪葉 無題 2008-4

詩書きは自分自身について語るべきなにかを持たねばだめだとずっと思っていた。おそらく日本人にありがちな集合的心性も手伝ってのことだと思うが、詩書き自身の身体や意識のなかで起きる反応をそれ自体ひとつのユニバースとして掘り下げていこうとする発想が、わたしたちには(ちょっと控え目に言うと文学極道には)あまりに不足しているんじゃないか。たとえば、一方に感情的反応があり、他方にはその感情的反応を自己の人生に再文脈化する知的な作業がある。このバランスがひとつの静かな均整を達成したとき、他者に読まれうる「オリジナル」な芸術が生まれる。そんなことをずっと考えていた。

凪葉氏の「無題」は、この均整に近づいている稀有な例であるような気がする

「無題」(2008-04)が投稿されたとき、たしか誰かがあまりに自己陶酔的で読めたもんじゃない、というようなことをレスで書いていた。部分的には同感である。ここに書かれているのは徹底的に「私」の思いであり、その語り口は、どこにも「私」以外には対話の相手を見出さない。そのうえ、この作品には、弱い「私」が露呈されている。比喩ではなく、あからさまに、「私」は迷い、フラストレーションを感じている。しかし、凪葉氏のもうひとつの佳作「無題」(同じタイトル 2008-2)にも言えることであるが、この作品には多くの書き手が表層をなでるだけで終わってしまう、「世界性」が確実に表現されている。その「世界」はたとえば、真ん中あたりの

鳥の鳴き声、雲が描く風の姿、草木のさざめく音の群れ、
生憎のくもり空が心にしみた

の精巧な描写でいちばんクリアになるが、これは一義的に書き手に投影された世界であり、外部に実在を想定される「世界」ではない。たくさんの書き手がこのような自己の内壁によって分かたれた「世界性」を見ることなく、意識的に未分化なまま自分には何がしかのものが書けると勝手に自負して、文極に糞みたいな作品を投じる。迷惑である。ところで、凪葉氏の表現が稀有なのは、あらかじめ自己の外側にある「世界」を実体として把握するのを放棄した上で、心理の内部へ視点をシフトさせつつ、感覚を通じて心的空間に映し出される光景を俯瞰していることである。ここでは書き手のなかで加速度を増す「ここではないどこか」への衝動が彼(女)の主体性を超えて無限のユニバースに放出され、自己憐憫ではない、確固たる自己「表現」への通路を掘削している。

オープニングの

-わたしの中に、あると思っていた、永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかりとか、抱きしめていた、朝、

からはじまり、エンディングの

-あの朝も、いつもと同じ眩しい朝で、きっと、これからも続いていく朝で、

にいたるまで、そこには自己の中心へと内旋していく意識の上に、薄暗い教会の内部に開いた天窓からさしこむひかりに似たユートピアの存在が暗示され、視線は世界内存在としての自己の輪郭を浮かび上がらせる。読み終わったあと、読者は、「永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかり」がここでは単なる抽象にとどまらず、書き手の視界にしっかりと根をおろしたひとつのヴィジョンかであることを確認することになる。

えらそうなことを書いてきたが、この作品のはじめの一文は素直にすごいと思った。

-わたしの中に、あると思っていた、永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかりとか、>>抱きしめていた、朝、

永遠や愛や、ひかりとか、そんな言葉を作品のオリジナリティにきちんと埋め込んだ上で読者の目を引き付けることが出来る、そんなセンス。言葉はどんどん磨り減っていくが、言葉と人間との出会いはそれぞれに新鮮であり、そこから生まれる感慨はたぶん磨り減ることがないんだろうと思う。

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2008年年間選考雑感

2009-07-30 (木) 17:17 by a-hirakawa

 2008年ありがとうございました。

 文学極道は毎分毎秒更新されていきます。更新していくのは発起人・スタッフを含めた、全員です。わずかだったり甚大だったり様々な温度で詩に興味を持つ全員。皆が更新していくことの出来る、書き変えていくことの出来る、伸びしろが大きい莫大な可能性と閉鎖的危惧からの虚無的立ちすくみを抱えた場所。それが文学極道です。一年というと塗り替えきるのには充分な単位です。初期の頃と比べ、伸びてきている部分もあれば疎かになってきている部分もあります。皆で作っていきましょう。側面からの覚醒に触れる前線は、どんな時でも参加する個人個人の中核から始まります。

<文学極道創造大賞> ―― 新しい文学を創造した者、最もイマジネーションを炸裂させた者に
■受賞 黒沢

 黒沢さんは抒情と実存の両義を反映の領域へとたどり着かせた稀な方です。「ホオズキ笛」の印象と質感は時間の網の目で空間を掬いあげ、内在する純潔をひそやかに侵食する意識に立たせてあります。「迷宮体」の糸の先に結実する「星の氾濫」は巧妙な凝集するせり出しがセロトニンを流し込み、消失する危うさを豊穣に探り当てていきます。「新宿三丁目で思うこと」では人間を人間として厳密に確定できない厳密さを投射させ、むき出す体温が濃い表情を穿かせています。実存の肉厚さへ透かせる抒情性は、年間最優秀作品賞「プラタナス」で、どの境界も打ち崩し達し今なお拍動を背し続けています。黒沢さんの作品には人間を透視する線が引かれています。その線は欠けています。興味深い欠如です。完璧なものは入る隙がなく圧倒と同時に突き放しますが、黒沢さんの作品が読み手を引き寄せ光沢の在りかを伝え続けるのはこのためです。作品世界にある作者の静かなたたずまいや筆致のリズムは、コントラ氏に、この人はほんとに力あるな、と言わしめるほどでありながら燐光を決して贅に張ることはない背筋を覗かせています。
 人間の等身を踏襲する構成は、これからの伸長へも期待を握らせます。

■次点 いかいか

 負の感情から出された膿が伝承世界を反射させた時に示唆の迫真は誇示を超えます。いかいかさんは否定を突き詰めて重ねる否定の弾かれる自己に、実在の肯定の側面を見出し掌を当て続けています。その掌を自己の閉鎖的な世界ではなく伝承や歴史の中で描き出すため清澄な外界を侵食させる内界は育ち続け威力を持ちます。その威力は一過性に収まりません。年間最優秀作品賞次点に推挙された「星遊び」は圧巻としか言いようがありません。落選狙いや否定の感情が放出する位置を敢えてズラすために、作品の質は安定しませんが、だからこその放射が冴える皮肉も持ちあわせてます。投稿された欠損した部位を見つめる真面目さに過ぎる視点は生きることと質量を同じくします。傾く孤立は体温を伝えたくなります。天才とはこういうことなのかもしれません。

 選考の際、創造大賞には、泉ムジりす吉井鈴屋、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道最優秀抒情詩賞> ―― 最も美しい抒情詩を書いた者に
■受賞 泉ムジ

 積み重ねることは新たなる世界の創造とは、また異質な箇所に座ります。再構築された世界での再構築していく世界を再構築していく世界を創り出す泉ムジさんの作品は、詩という芸術をエンターテイメントに転換しました。現代詩のサザンオールスターズとも言うべき影響の良質を個人に濾過し発する在り方は、幅広く読み手の情感を、掴みます。ノらせます。プラスねじ、での使い分けがまた、遊び紙に作品を包み込み、解放の達成へと軽やかに読み手を釣り上げていきます。作品の質はそれぞれ一定以上のレベルにあるけれど、もっと深く書けるようになると思う、そのときの個性を見たい、という意見もありました。薄利の現代性を付けるライトは初心者にも掴みやすい筆で止まない、けれども後半の投稿作品はもう一歩進める、作品の完成度に幅がある、という意見もありました。

■受賞 りす

 鮮度の進行は本人の中で、常に先を予想させます。潤いが自らを引き上げていく地点は直ぐに終わりへ向き、乾燥への恐怖が僅かながらに顔を垂れ伸び下げていきます。その時に立ち止まるのは最上の湿度を保つ手段です。進み続けることは勇気がいる内面を乱す他者には触れない圧迫です。進み続ける作者の作品は、端的な綴りに越境の凝集を纏わせはじめます。他者との関係性の終わりを匂わせる作品群は確実なる読者の魅了とも合わさって、緩やかな解放と自閉への肯定を立てました。選考の際、以前には見られなかった乾燥感が面白かった、新しい文学の創造という観点からは弱いけれど、類い稀な能力の行く先には目を見張るものがあった、という意見がありました。イマジネーションの炸裂という観点では、抜群、という意見もありました。例年と比べ、無難に思えた、という意見もありました。

■次点 マキヤマ
 
 硬質と高湿な連想は沈黙の豪奢を導き出します。削ぐ中に置かれた言葉は世代を前に匂わせますが、隙間から連れて行かれる箇所は血流の感情です。反射させる醜悪の些末を魅せる自覚です。底辺に敷かれる搾る誇りを発します。一定の質を保ち続けてはいるけれども、小さく固まり過ぎている、弱い、という意見もありました。

■次点 如月

 詩はどこから来るのでしょうか。どこへと向かうのでしょうか。現代詩とは一体、どのようなものなのでしょうか。極限も先端も境界も意識せず、とにかく書くことにやみくもだった作者は、多種多様な方向に手をのばして、やがて、開きなおる僅かな強度を身につけます。何を活かすためなのか意識せず使用する技巧と慎重に選ぶ中に混じっている書けば書くほど遠ざかる場所にある綴り、それらは無意識へと読み手を漬け込み詩が詩から始まる前の根源を明らかにしていきます。仮説の検証と予期せぬ新発見からの唐突な大飛躍を実証していく作品の変化には感受性の裸身を掴まずに、居られません。特に「カナブン」は凝ることのない名作だと言えるでしょう。選考の際、まだまだ伸びて欲しい、年間各賞に集約されて評価することで圧迫してしまうだけなのではないか、という意見もありました。作者はとても正統派な作風であり、作者自身の美意識に依存するところがあるので作品を重ねても(読み手視点から)鮮度がなくなりうる、一度視点が違うところに向かないとそう遠くないうちに停滞しそうな予感がある、放っておくと旬を逃すかもしれない、評価するなら今かもしれない、という意見もありました。やみくもの中で狙い打つ合間から伸びていくということは、狙い打つ度合が高くなることにほかなりません。最初の頃の作者の綴りを大切に、その上で技巧なども交え、没個性の作品に落ち着かないよう願っています。これからも作者自身を大切にされて欲しいです。

 選考の際、抒情詩賞には、凪葉はらだまさる右肩良久紅魚桃弾丘 光平DNA5or6、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道実存大賞> ―― 人間・人生が良く描けていた者に
■受賞 鈴屋

 鈴屋さんは生と死の過程でしかない現在の生命意識を、自身と異性という他者、そして住まう場所の三つの関係性から凝集させた眼力で提示していきます。眼によって晒されるものは私たちが住まう事象を構築する膨大な残骸であり、その一瞬の必要に生み出されては死に行き始末もされない何処へも向かうことのない消えることのない情報こそが、輪郭を明確にし、取り囲まれた自身と異性の性を生殖を冷徹に抽出していきます。終わりを芽吹かせる始まりを生み出す行為へと向かうことは、人間の本能をえぐり出し、自身も終わりに近づく死への色濃さを生に塗りつけます。自身とは一体何者なのか、生と死の狭間とは何なのか。意識と混合していく肥やされる死骸は答えを出さないまま設問を多義的に手渡し、存在を掌に握らせます。「花冷え」は特に軽妙に深めている傑作です。「恋歌連祷 6(仮)」や「あなたの行方(1〜5のうち1・2・3)」「あなたのゆくえ(1〜5のうち4・5)」などの評価も高く、前近代的でありながら一過性ではない読み手の中でも育つ作品を書くことの出来る佇まいは尊敬の念を抱かずにはいられない、という意見も出されました。

■受賞 殿岡秀秋

 幼少期の記憶は経験と現在を歩く風景の中に乱立させ、その身を隠すことは、ありません。決して、と言っていいほど、それは絶対なる悲哀です。晒されている世界の断面は内界と外界をつなぐ意識にくるまれ、初めて意味を持ち始めます。その人間の成長過程の中で培われてきた疑いのない価値観は、やがて世界を肯定し、それが故に疑いを持つのです。それは根拠や証明を不要とします。小さくも目を覆いたくなるような悲劇は、いつでも日常の中にあり、一人一人にささやいている、そこを歩き続ける、意思ではない時間の観念に輪郭が浮かび上がる。殿岡さんの作品はいつでも日常風景を子供の感情の雄叫びに変えます。「声の洪水」「悲しみの小石」は特に見事です。一番魂が合ってると感じた作者だ、という意見、“一作”ではなく、“作者”に賞捧げたい、という意見、最先鋭を目指していく作品がある中で殿岡さんの存在は実に異色で安心感すらありさえした、という意見もありました。

■次点 吉井

 言語の可能性が海より深いのは言うまでもありません。海底に人類がたどり着いても言語の底にたどり着くことはないのです。その可能性の深さから自由度を上げすぎてしまい、詩という芸術は破壊の加熱を倦怠する陰鬱へと向かわせることが多々あります。吉井という作者は歴史を凝縮した上での拡張と拡散を言語に備え、結晶させつつcoolにfoolをやっちゃってます。具体音と自然音への呼応する建物を傾ける根の伸長と、笑みとの弾けるサワーを見せちゃって、獲っちゃっちゃっているんです。徹底的なバカ衝動を挟むあり方は、エロスではなく、ど助平の歴史的首位確立を具象します。傑作「さてと」に鮮烈を知った、秀作「たんぽぽ」に抒情を握った、怪作「八十八夜語り ー晩夏ー」に共存の実景を見た、などなど、さまざまな意見がありました。量産したら壊れてしまいそうな創造のあり方なので気になる、言語派に傾倒してしまいがちな点を打破して欲しい、という意見もありました。

■次点 Canopus (角田寿星)

 ヒーローを信じることが出来たから歩んで行けた時代というものは誰にでもあります。成長するにつれ、自分がヒーローにならなければならない時が来たり、ヒーローにはなれないと思いしらされたり、信じるだけの時代は終わりを迎えます。作者は等身大のヒーローの哀切を常に突き詰めていきます。それは、まだ信じている子どものままの今と、これからへの不安から真ん中の感情を小さな咀嚼させて読み手を掴み放しません。作者のスタイルは様々なジャンルで蔓延しているものですが、すきであるからこそやり続けることに凝集する魅了は確かな独自です。日本の特撮ヒーローは欠けています。正義を完全によしとしていません。何が善で何が悪か、そんなことより腹が減る、今日の生活どうしよう、な作者の世界はこれからも拡がりを見せていきそうです。
 2008年、Canopus (角田寿星)さんの投稿作品は一歩先へと進み、哀切な符号の現実に画面の饒舌が駆られる方位を探り当てました。「ムルチ(『帰ってきたウルトラマン』より)」、「狙われた街/狙われない街(メトロン星人)」の立脚と歩幅の懐疑は妙を絶します。「もいっぺん、童謡からやりなおせたら」は、人間の感情を初めて揺さぶる衝動を持った傑作といえるでしょう。

 選考の際、実存大賞には、黒沢いかいか午睡機械右肩良久、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道新人賞>
■受賞 DNA

 流れで旧弊の欺瞞が粉砕されるのはいつでも自分を突き詰める快楽です。嗜好的娯楽行為に過ぎない自己完結が他者へと開かれるときにこの快楽は創造となり得ます。作者の綴りひとつひとつは新しいものではありません。見せ方、読ませ方も今となっては全く新しくはありません。けれども錯綜する欠如と爽快に跳ねる即時的な方法論は、依り代にする言葉へとドーパミンを直結させます。それは表層的な偽善を取り払い真摯な厳格な位置の根源を見据えて、方向を曝すことにほかならないと言えます。成立された本質とも言えるでしょう。真っ向から立ち向かい、装飾のみになってしまいがちな部位を打破し続ける作者には拍手を惜しみなく送りたいです。「彼岸マデ」は隠れた名作であり、作者の構成の妙に触れやすいうねりが指してきます。やりたいことがきちんと分かっている作者だ、という将来への視点を含めた意見もありました。

 選考の際、新人賞には、鈴屋殿岡秀秋右肩良久ぱぱぱ・ららら鯨 勇魚。マキヤマ、各氏の名前が候補として挙げられました。

<文学極道エンターテイメント賞>
■受賞  該当なし

 選考の際、エンターテイメント賞には、菊西夕座香瀬ゼッケン吉井、各氏の名前が候補として挙げられました。また、菊西夕座氏のレス部分にエンターテイメント賞を与えてはどうか、という意見もありました。

<文学極道最優秀レッサー賞>
■受賞 ミドリ 宮下倉庫

 合評に助けられたことって、ありませんか。自分自身の姿勢に澄ませていても誰にも読んでもらえないかもしれない寂しさが鈍らせる時に、凄烈な意見の投射に背筋を正し沸点を握る。誰にでも、ある経験です。もう書ききったはずの作品でも、より良い結晶を抱かさせられ、伸長の引き出しに愕然とする温かさです。育まれた夢想が現実へ帰り、全容に昇華される瞬間です。温かな掌を自作へとかざすレスは双方向性のある文学極道では特別な意味を持っていることは間違いありません。踏み込み浸す閃きの客観。ミドリさんは透けている博学をセクハラからエンターテイメントまで多岐で覆いつつ作品としての意識を問いかけ続け、ベクトルの賛否を突き詰めます。宮下倉庫さんは実直に真芯を捉え続け、その上での技術を提示します。自己閉塞への装置としての機能しか果たさない危惧すらある評や安易な時間消費の現実逃避へ傾きがちな作品の表層を初めから拒否する評の並ぶ中、二人が2008年のレッサー賞に選ばれたことは必然と言えるでしょう。必然と言える、の、ですが、

・菊西夕座事件
 このレッサー賞の結果には数多くの否定的な意見が寄せられました。その意見のほぼすべては要約すると同じ内容で、つまり「菊西夕座氏がレッサー賞を受賞していないのは、おかしい。何故だ」といったものでした。選考の際、レッサー賞の候補には、ミドリさん、宮下倉庫さんの他に菊西夕座右肩良久、各氏の名前が挙げられました。菊西夕座さんのレスは、真芯を捕らえた上でのエンターテイメントだった2007年と違い、最初からエンターテイメントへとずらし込んでいる、むしろレス部位にエンターテイメント賞を与えた方がしっくりくるのではないか、という意見もあり、議論に議論を重ねた結果2008年レッサー賞の受賞には届かないという結論に至りました。しかし、年間各賞発表後、メールや発起人のブログへのコメントなどで毎日のように「レッサー賞に菊西夕座が入っていないのはおかしい」という意見をいただくこととなりました。特筆しておきます。

<選考委員特別賞>
■石畑由紀子 選 受賞  ともの
「とものさん自身、この短期間で詩のテイストが激変しており、その前半と後半のどちらを評価するかは選考委員によって違っているとはおもいますが、今後長きにわたり書き続けていきたいものが彼女のなかで固まった感があり、おそらく必要な変化だったとみています。
 ここを経ての今年への期待も込めて、拾わせてください。」

■蛍 選 受賞  鯨 勇魚。
「たった1作の、しかも優良ではなくて佳作ですが。
 私には年間最優秀作品に挙げたいほど印象的で、好きな作品でした。

 やわらかな抒情で語られている、しんと冴えた冷たさがとても印象的でした。
 なかでも3連目の『@依存』は秀逸だと思います。
 これほどまでに優しく染みてくる淋しさが胸をうち、美しいイメージとももに、
 いつまでも心に残って忘れることのできない、そんな作品です。」

■ダーザイン 選 受賞  ぱぱぱ・ららら
 その他、鯨 勇魚。ためいき(特に「幻想領域」) 、各氏を候補として挙げていらっしゃいました。

■Aya-Maidz. 選 受賞  ゆえづ
 その他、PULL.氏を候補として挙げていらっしゃいました。

■平川綾真智 選 受賞  香瀬
 香瀬さんは血としての詩は書けないのだと思います。構成や所謂「表現方法」に魅せられた形骸化の装飾部位から詩を書き始めた印象です。2008年、それを逆手に取ったようなエンターテイメント的作品群は異彩として群を抜いていました。詩人ではない芸術家として、自分と戦い破壊と創造を繰り返すなんて、そんな泥臭さに一ミリたりともいない、計算のみの世界。それは作者を押し殺した形骸を極め、極めるが故に作者を見せるという逆説を生み出します。詩への再構成を別の立ち位置から、一種荒れ果てた地平を勢いと構成のみで、造り上げる世界は情感が体温の位置にない、独特の視点になっています。「[ピーナッツ]」の、生活の場所で読み手を繋げるあり方は、形骸化だとか中身がないだとか嘆かれている詩作品の新たな方向性を示している冷静な豊穣に富んでいます。どんな方向性で書いても体温が出ない様相は誰にも真似できない諧調です。これからどうなるのか見届けたい作者だ、と思わさせられました。
 その他、木戸さんの男子臭ただようダサさが気になりました。

■望月遊馬 選 受賞  5or6
 その他、ぱぱぱ・らららPULL.soft_machineさん

■前田ふむふむ 選 受賞  疋田
 *疋田さんの「眠り(a)」は<文学極道年間最優秀作品賞>の候補に挙げられていたことを付記しておきます。

■稲村つぐ 選 受賞  右肩良久
「右肩良久さんの登場は、有難かったです。多角的に、とても勉強をさせて頂きましたし、『「姥捨山日記」抄』など突然に、びっくりするような作品を生んでくれます。」

■コントラ 選 受賞  凪葉
 *コントラさんによる選評は8月中に公開予定です。しばらくお待ちください。

■その他
 また、選考の際、裏っかえし軽谷佑子小川 葉まーろっく草野大悟fiorinasora寒月んなこたーないケンジロウ、ひふみ、各氏の名前が候補として挙げられました。付記しておきます。

 2008年は新たな中核の心音に満ちていました。これまでとは異なる方向性を提示してくださった常連投稿者の確固たる音と勢いよく駆け上がる新人投稿者の輪郭を持たせない音。どれもこれもが魅力を裏書していきました。躍進の波動は静脈を動脈に変えます。
 一方、全体の傾向として詩を深めていっていない方が多すぎるのではないか、読者を意識して無さ過ぎるのではないか、という意見も狭間に出されていました。いとうさんとAya-Maidz.さんが興味深い発言をされていたので、以下に書き出しておきます。

 (いとう)
 詩を書こうとして書いている人や、自分が何を書きたいのかわからないまま書いている人が多かった印象を受けました。詩を書くという行為は手段であって目的ではないし、詩を書く際に、自分は何を書きたいのか、その掘り下げを徹底的に行わなければ、ピントのずれたものやありきたりのものになると、個人的には思っています。

 (Aya-Maidz.)
 選考メンバーの中でおそらく私が一番ライトな志向なんだろうけど、そういうところを意識して作品を読んでると、文学極道ないし現在(飽きずに)詩を読んでる/書いてる人っていう枠の中で作品を読まれることに満足してる作品が多いなぁ、と感じます。
 言葉の使い方などが粋な作品は増えた気がしますけど、その分難読化してて、且つ読後感が難解さに見合わない作品も増えてる気がします。「これは!!」と思う作品は難解になっても読み手を離さない興味や好奇の持たせ方が上手いんだけど、全体としてはそういうところは軽んじられてるのかなぁ、と。
 これからも既存顧客だけを相手にしていくのならどんどん尖っていけばいいんだろうけど、詩の現状考えるならば空回りしてでも世界観を薄めないギリギリのところでキリギリの表現に気概を見せてくれる人が出てきて欲しいと、個人的には思っています。

 上記は本質で曲がらない印象でこれからの追及です。これから自作を含めての果敢を思わずにはいられません。
 また、以下のような意見も出されました。

 (石畑由紀子)
 年間を通して一作のみの投稿だったものの好印象、というかたが何人かいらして、
 (個人的には小川 葉さんや鯨 勇魚。さんなど)
 推挙するためにももうすこし数を読みたかったな、とおもいました。
 もちろん、単発でも充分な爪跡を残すかたもいるので、それまでと言えばそうなのですが。
 また来てほしいです。

 (稲村つぐ)
 毎年ごとに、受賞暦を無視したリフレッシュな見方で年間選考をしていきたいと考えています。
 当サイトの掲示板は、詩誌の新人作品投稿欄のように“新人賞をもらったら、その人がいなくなる”のではなく、良い作品と刺激的なレスが常に活発に行き交う、“生きた投稿掲示板”であってほしいと願っています。

■殿堂入り 一条

 最後に、殿堂入りである一条さん。2009年から殿堂入りの者でも投稿しさえすれば年間のどの賞の候補にもなり得る資格を持つ、ということになりました。重圧の中にあるかもしれません。賞を狙うという、とても曖昧な自我にはいないのかもしれません。ただ、湧かしてくれたら、と思いは止みません。

 これからの文学極道はもっと広義に解釈されていって欲しいなと思っています。されていくだろうとも思っています。皆で土壌を作っていきましょう。更新していきましょう。これからも、よろしくお願いいたします。

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