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黒沢 - 2009年分

選出作品 (投稿日時順 / 全3作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


給水塔

  黒沢



/(一)


手を繋ぎ、互いの心臓をにぎり締めて、あの給水塔へ歩いていく。止まったままの鈍色の空。私たちの街に、行き先が明示された全体はなく、正しいスケールも、形すらない。遥か、中央にあたる円柱の塔には、赤い花が見え、空に埋もれてそれは腐っている。それはとっくに、
 腐って、
   いるのを
     知っているけれど/
後味の悪い、思い出に似てくるうす光りの道を、私とあなたはくるしく急いだ。迷宮めいた建造物の連なり。時おり他人の声が聞こえ、雨に打たれた街灯の柱から、水のしずくが這い下りる。猫が現れ、私やあなたに関心すら示さず、初めの四つ角へ姿を隠す。私は、足もとすら覚束ない曲がりくねった路地で、あなたの耳たぶをきれいだと思う。石畳にころがる、なふたりん、らんぷ、なまごみの類いを、よそ事みたいだと私は言いあて、次の四つ角が近づく前に、胸の何処かがひしゃげる気がする。唐突に姿を見せる黒い街路樹。そこから、落ちかかる脆い葉むら。私たちの街に風なんてなく、遠のいては近づく痛みのような、影が逆さに揺れるばかり。

通りのあちこちで、音を立てる排水のすじ。ちょろちょろ、それは石畳に沿っていて、あなたの歪んだ靴だけを写す。広場を迂回する、左右の逼った坂道に会うときは、あなたの心臓がわずかに萎み、悩ましい息の匂いが届いてくる。私は、あなたの心臓を、
     にぎり締め
   あなたは、
 私の心臓を/
ひき締める。歩くたびに、後ろにずれる建造物の切れ目から、またあの給水塔が見え、赤い花さえ、ちらちら覗く。あなたは不意に眉をひそめ、たちの悪い悪戯のように、私の名前を疚しく繰り返す。私は、そういうあなたの不確かな心が、まるで引き潮のように、私の命を縮めるだろうと思う。

(四つ角に会うたび、
私たちは噴水に驚く。背の低い水の湧出が、私の胸の暗がりを言いあて、あなたの肩の水位を上げていく。目のなかで、零化をつづける揚力とベクトル。他人のざわめきが、私とあなたを親しく脅かし、繋いだ互いの手に、尖った雨が堕ちてくる。)



辺りに、打ち棄てられた猫の死体。けれども、その尻尾がしなやかに跳ねるのを、私たちは忘れないだろう。坂道を上りつめ、新たな四つ角をじらしながら曲がると、円柱の塔と、赤い花がなおも現れる。あなたが、手にする私の心臓は、生きているのだろうか。あなたが私の腕に巻きつき、そっと誰にも判らないように、秘めたピンクの腸を見せる。街の回廊を、聞きなれた睦言が濡らし、私の身体はだんだん溶けていく。

 途中で、
   止めていいのよ
     とあなたは言い/
私はそこで初めて、また出発点に戻されたことに気づく。あなたの心臓が腐り、私はあなたの、取り返しのつかない二の腕を探している。壊れた顔を拾い集め、欠けていく心を抱いて集め、あなたがいた石畳の空白に、無駄だと判って並べたてる。遥かに見上げると、動かない給水塔に光りが射していて、うず巻く鈍色の雲のしたで、赤い花が震えている。



/(二)


 震えが、
   止まらないわ
     とあなたは言い/
その震えは、給水塔に見える赤い花のそれと、呪わしく対応している。ほどなく、修復を終えるあなた。ちょろちょろ水が石畳を這い、その靴さきを濡らしはじめる。他人の声がいつの間にか回帰して、私とあなたを遠まきに包囲する。あるいは、粒だつ異物のように、辺りから区別していく。

私たちの街には、正しいスケールも、形すらない。寝覚めの悪い建造物が林立し、いくら歩いても近付くことが出来ない。初めの四つ角を、顔のよごれた猫が通るとき、たまらず、私は自分に問いかける。何をもってあれを、いったい何の中央だと言うのか。歩き出すあなたは、
     私の心臓へ
   二の腕を
 さし込んでくる/
次第に、ぬくい、悔いのような圧迫が、動く私の暗がりを満たし、狂おしくなった私は、路地と坂道と、街路樹のある通りで、意味の判らない嗚咽を繰り返す。石畳にころがる、なふたりん、らんぷ、なまごみの類い。あなたは私の耳たぶを拡げ、肉のもり上がりを痛いほどに圧しあけて、聞き飽きた秘めごとを、引き潮みたいに私に流し込む。たまらず、自分に問いかける私は、次の、四つ角が近づく前に、胸の何処かがひしゃげるのだろう。

(脈絡もなく、
他人の声やざわめきが聞こえ、真新しい噴水が中空をひるがえるたび、路地の何処かから、あなたが呼ぶ声がする。手を、繋いでいたはずなのにと私は混乱し、慌ててあなたの心臓を求めるが、あなたはここにいる。)



ふぞろいな建造物の切れ目から、垣間見えるあの円柱の塔と、赤い花。回遊するのは風でなく影で、私とあなたは、どれだけの時間、ここを歩いたのかさっぱり判らない。降りつづく雨の揺れに、しぶきを返す四つ角を越えるとき、私は、疚しい自分じしんの声を聞いた。

     給水塔を、
   ばくは、
 せよ。爆破とは/
つまり中央をなくすことで、広場を迂回するこの坂道の途中でも、あなたの不在を確かめられないことだ。唐突に現れた子供の公園に、四角いベンチがあり、砂のかたまりが板に浮いている。水のしずくが垂れ落ちる遊具には、何かの文字が書かれているが、私には読むことが出来ない。私たちを見下ろす円柱の塔は、鈍色の空のなかで怖ろしく停止していて、未知の、想像もつかない水量を蓄えて、限界ぎりぎりで待ち構えている。
 /給水塔を、
    ばくは、
せよ。あなたの心臓を手放し、あなたの腕や心などから離れて、街の中央にたどり着くためには、赤い花に触れることが必要だ。/給水塔を、ばくは、せよ。たしかに私たちは再会した。迷宮じみた雲のした、この街の路地や坂道や、街路樹のある通りの何処かで。ふたたび猫の死体を越えていくと、左右の回廊が、後味の悪い、思い出のように連続し、水が溢れている。震えが、止まらないわとあなたは言い、その震えは、給水塔に見える赤い花のそれと、呪わしく対応している。



/(三)


心臓の圧迫がなくなると、雨ざらしの道の外れで、崩れるように屈み込んでしまう。膝を濡らし、粒だつ回廊の砂を惨めだと感じながら、水に写った自分の顔を、目のはしで見ている。だらしなく石畳にころがる、
 腐った
   あなたの
     髪、壊れた/
あなたの二の腕、声、心など。私はひとつずつ拾い集め、斜めの視座から辺りを見上げる。唐突に息を吹きかえす、葉の黒い街路樹。複雑に分岐する路地と、頂点のない坂道。建造物の向こうでは、うず巻く空の雲が止まったままで、この街の全体を生ぬるく見下ろしている。私は、ひとりだと思う。欠けたあなたの顔、弛んだあなたの息、匂い、糸きり歯などを、光る石畳に並べたてながら、軽く、虚しくなった心臓を感じる。たまらず私は、歩きはじめ、この腕にあなたを抱いたまま、行き先も判らず声をあげている。

(修復には、
まだ時間があるし、私には、犯すべき禁忌が残されているはずだ。)



/……。


僕のほら穴の仮面パペット人形

  黒沢


1・

このような話を、信じられるだろうか。

僕がいる、
後ろぐらいほら穴には、春と夏と、秋と冬とがあり、大気さえ循環している。ひどく陰惨な冬の風が、吹き続けている夜もあるし、いるはずのない春虫の羽音が、始終そよぐ神経質な夜もある。
僕がこのほら穴に棲みついて、もう何年になるのかわからない。ここの空間には、いたる所に欠落があり、植物も大地も、水も、従って川も無いし、風があっても、地形の変化がない。

夜ばかりあっても、朝はない。
動物もいないし、
何より言語をあやつる人の存在と、その概念がない。

僕はこのほら穴で、のべつ幕なしに、大気の気配ばかりを感じている…。それは、決して悪いことじゃない。誰にも理解できない、遥かな天体力学の動揺につられ、この見なれた空間では、満ちていく大気の手つき、衰退していく大気の余韻などを、いながらにして感じることができる。それに、季節特有の変化、
というものもある。

ああ、光もないし、天も地も、ない。
それでもここは、
れっきとした世界そのもので、僕自身の場所であるのだ。どうか、
僕の満足を想像して欲しい。


2・

僕のほら穴には、僕が三角坐りする、
みじめな窪み、だけがあって、
それ以外といえば、華奢な仮面のパペット人形がいる。

こいつは、またぞろ、
何処かで傷を付けられてきたらしく、暗がりに、背中を向けて立ちんぼしている。ああ、僕に近寄るわけでも、僕から遠ざかるわけでもない。安っぽい仮面は、白いペンキ塗りだ。ボディの素材は、異国のチーク材であるらしく、それにこの世のものと思えぬ奇妙な糸が、ちいさな頭部と、ひょろ長い胴部、寸足らずの脚部などに絡み付いている。
その糸がちょろちょろ動けば、
少し遅れ、仮面パペット人形の首や、手が、胴体が動く。だが、
本当の仕組みは、僕にもわからない。

何よりも、このほら穴はとても暗いから、仮面パペット人形は、いつしか、僕という感情の分身のようになって、今も僕のわきで、泣いたり、悔しがったりしている。


3・

さて、ほら穴の春。
僕の代わりにこいつは泣いていて、その背中が揺れているのでわかる。わずかに光っている頬をみても、識別が可能だ。そのため、僕はいつの場合も、泣くことができない。
ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があるわけではない。いや、もっと大きな前提として、僕は断じて、仮面パペット人形ではない。

続いて、夏。
仮面パペット人形は、僕と眼をあわせない。その理由は、さっぱりわからない。

ほら穴の秋。
仮面パペット人形は、またぞろ何処かで傷付けられている。
ところどころ糸が切断され、それが人体の腱を思わせ、ぶきみで不快だ。風が吹くと、ぶら下がった糸が、脆く煽られる。僕はそれを、
みじめな窪みから、始終。じっと見ている訳だ。

冬。
僕はよそよそしく、仮面パペット人形を見ている。こいつが何者なのか、知ろうとする意欲すら、もうない。おきまりの循環だ。だが、知る、ということは、知ろうとする熱意こそは、おそらく生存に許された、
唯一といっていい出口だと思う。
僕が関心をうしなった仮面パペット人形は、窪みのそばにいて、一段と華奢に見える。
大気の動揺にあわせ、ちょっとあごを持ち上げて、匂いを嗅ぐような仕草をしている。さっきから、それ、ばっかりだ。


4・

こうして、また一年が過ぎた…。

このような話を、信じられるだろうか。僕は最近、
年齢、
というものを持つようになった。

一年の、その次のまた一年によって、質的な変異が起こり得ることを知った。時間というものは、何と嫌らしく、何と分厚くしつこいものか。だが、僕がそれを言ったところで、何になるだろう。ああ、
僕も、仮面パペット人形も、隔てなく変異していく。ここのほら穴の、闇に慣らされた目には、微細な違いが手に取るようにわかる。おそらく、三十年は下らない永すぎる鍛錬で、僕は、仮面パペット人形を構成するチーク材、糸、ペンキ、涙…、あらゆる材質のわずかな差異すら、空んじる程にいえるようになった。

もちろん、
僕自身に起こるそれをも。

ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があったわけではない。
僕の年齢は、これまでも確実に足し算されていて、
ただそれは、残りの時間が少なくなった事実を、当たり前のように意味するだけだ。


5・

そして、
或る年の、冬の夜のことだ。

みじめな窪みに、すっかりなじみ、
僕はそこで、居眠りさえするほどになった。僕の、後ろぐらいほら穴にだって、雪ぐらい降る。何年かぶりに見たその雪は、ひどく軽く、儚くうずを巻いて僕たちを包んだ。

僕たち…。そう、
仮面パペット人形は、すっかり体に油が回って、糸がずたずたに切断され、僕のよこで、おなじ雪を見ている。白塗りの仮面のペンキは、所どころ捩れあがって、剥がれて基底の材質が見える。何より、僕をおどろかせたのは、こいつ、
僕と眼をあわせるばかりか、
時おり、僕の心のなかを、まっすぐ今は覗き込んでくる。

仮面パペット人形が、
踊りはじめる。
どういう悲しみを、何処から、この世の複雑な感情を、
掻き集めてきたのか。
踊りだす、仮面パペット人形は、僕のほら穴の広やかな空間を、どういう訳か疾駆していく。それにしても、傾いでいる背中。糸が垂れおちている首。寸足らずの脚は、下手糞なステップを踏んでいるし、どう見ても、まるで全体が出来そこないなのだ。
部分から部分へ、全体を前にして逡巡し、また部分から、こまやかな部分へ。僕の独白にどれほどの意味があるというのか。

擦り切れているチーク材と、
腐食が進んだ色のない糸、
透明度の落ちた涙。
何より、傷のように横に走っている、仮面のおもての細すぎる眼。

さて、仮面パペット人形の踊りに、
音楽の伴奏、などない。だが、下手糞なステップが打ち鳴らす足音は、春、夏、秋、冬に関わらず、僕のほら穴のしたしい空間を、際限もなく満たしてくるのだ。おかげで、遥かな天体力学の、深々とした動揺の気配が、どう工夫しても汲み取れないばかりか、
僕には、ここに、
僕だけの確かな世界が、あったことすらわからくなる。どうか、
僕の不満足を想像して欲しい。

いつしか、泣けなかった僕が、涙をこぼしながら、
手を叩いているのに気付く。
僕は拍手しているし、この、みじめな窪みのなかから、知らず抱えていた膝をほどき、立ち上がった気がするのだけれども、僕には覚えがない。


6・

僕のほら穴の仮面パペット人形よ。

僕にはこいつが、何故、今さら踊り始めたのか、
その理由がさっぱりわからない。
どのように考えても、全くわからない。


森の言説

  黒沢



目蓋すれすれに、煤煙がたち昇る夕刻の木立に居た。
枝の、構造が私の前頭葉に映り、葉脈の不揃いな切れ目が、謎めいた符牒の様
に私を追いつめる。私は、森の構造に疲れ果てた。いや私は、もの言わぬ常緑
樹の間近で、時間の分厚さに眩暈する。瞬きの間に、移ろう気配と色、饐えた
土の臭い。ま新しく暗転する幹や、崩落した葉の堆積を視よ。私は…、滾々と
涌き続ける水や、息も付けぬほどの残照、近隣の影と光の生態系を、戦時のそ
らの様に懼れる。

脳幹には、私の脳幹なりの美的根拠がある。
装飾論的揺曳と、都市学的な危機。細い舌を舐めずる様に、あるく私が、葉脈
のプールの只中で切断されていく。淀みの中でしか点呼されない私は、幹と葉
とが電撃されるのに合わせ、首を左右にふる。それで、帰納されていく。

枝を、渉っていく栗鼠や、胎児の豹の意識。
退化する猛禽類…。学術名は記憶して居るけれど、符牒することのできない小
動物の類いが、枝から幹を、それから葉を、また渉っては横にずれる。

戦時のそらには、悪意を溜めた爆撃機が、緩く時間に流されて居る。遥か遠く、
風だか都市のノイズだか判らないどよめきが、寄せてくる。
終にあるく私は、葉の構造、森の構造たちの核芯に到達する。それから、老い
た樹の幹に触れて、内部の言説を止めどなく汲む。たえ難い悲しみの余り、闇
の只中で私は、瞳を、花の様に開いた。鈍色の地平線すれすれに、短い直線に
なって隠滅されんとする夕日。その不可視の残照を受け、私が…、私の物でな
い前頭葉が、独りでに帯電していく。

文学極道

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