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ひろかわ文緒 - 2009年分

選出作品 (投稿日時順 / 全12作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


だんぜつの雨

  ひろかわ文緒

ほのぐらく透きとおった、雨が
砂浜に転がった壜を撫で、壜の中の蟹は身じろぎひとつしないまま。わたしは
わたしの喉は叫ばない。を知っている、知ってはいたのだと耳に手をやる。右耳にはひとつ穴が空いていて、それは壁のない家のドアのように立ちつくすだけで意味のない、ない、熱が、ない。貫通する金属をかろうじて、あいしている。

鴉が

衛星に
わたしの空のまんなかに
蜜柑の木の枝先に
かすれた羽音とともにこぼれていく少しずつ、積もり、さかいめができる、風になぞられて、はっきりと断たれていくそっと、手を合わせる、僧が、また背を向けていく、何故わたしたちは、違うのかということを考えている、振り向きはしない背骨に手を伸ばそうと、する、だのに周到に用意された解答をあなたはただ述べればいいのよとただそれだけなのよとお母さんは、へその緒をちぎっている、何故、

とてもつめたいといった、しょうじょたちがもえさかるほのおのなかでつめたいと、てのこうをさすりあって、まったくつめたいと、くりかえして、かじかむ、けいたいでんわがふるえる、ぶるぶる、くろいぬのをかぶったろうじんは、ひめいとせいじゃくのひびくかいだんをころげおちながら、それでもじゅうようなみずをふところにかかえて、うみのむこうのなのはなのはたけのことや、こーひーまめをしゅうかくするしょうねんのこと、あたらしくえがかれるかいがのことをおもった、でんしゃにゆられるだんせいは、はんとしいじょう、すーつをきてしごとへむかう、ふりをする、かばんにはつまがつくったおべんとうをしのばせて、たいくつ、をかみころしている、あおいひとみのくろねこはだんぼうのきいたへやのまどぎわで、へいぜんとふるあめをみあげて、にゃー、と、ないた。

洗濯機がまわります。今日も快活に。
わたしからうまれなかった子どもは明日もぐんぐん伸びて健やかにふとることでしょう。やわらかい産毛を石けんに洗われることでしょう。わたしのなかの、うまれることのない子どもはたまに、癇癪をおこして濁った腹を蹴りあげます。そういうときは静かに血を吐いて、浴槽に体を折り畳むのです。うすいグレーを一心に見つめ、やがて。やがておさまるとわたしは浴槽から這い出し、瞼に紅を塗ります。かわいいね、と誰かが昔云ってくれたからたいせつ、なのです。


/きこえますか?


映像を、いつも待って、今も、待っているのだよ、そして君の。電話線よりも
ふぞろいの、波。波音だけがひびく、海岸で足跡ははるか遠くに忘れてきて、
しまって、いるのだよ、蟹が身じろぎひとつしないのはもう、あきらめてしま
っているからであると、雨はずっと壜を叩いて、いるのだよ、だから。


//きこえますか?


望遠鏡はぼやけて、何ひとつ映さないから、視力を。
夜、には虹彩の膜を破って、おはようを。
きこえて/いるでしょう?
途切れていく花。花、花にひかりを。
うまれる子どもに、まあたらしい
、歓声を。


  ひろかわ文緒

夜空を映す水溜まりを
やさしいバネで飛び越えた
草はらを分けていく風に
振り向く、先の
屋根の上には風見鶏が
カラカラと、鳴いて

泳ぎながら眠る魚を
ほほえみあって食べたい
かなしくないうちに
血液にしてしまえるように

軽トラックが砂埃をあげて
舗装されていない道を
走っていった
荷台の幌は
かすかに持ちあがり
はたはたとなびく
幌の下に隠された骨の行方は
えいえんを含んだ海でさえ
知ることはないんだろう
砂粒が口の端をかすり
舞い上がっていく

路肩に沿ったガードレールの
錆ついた部分を
そっと、爪で弾いて
金属の振動を確かめた
腕に残る痣を隠す
袖口の温度に
触れたことはありますか

誘蛾灯から
またひとひら、翅が燃え尽きる
予感がして、風に
密やかに告げる

電信柱のもとに
白い花を手向ける老人
その掌はやさしいばかりでは
なかっただろう
だけれど
些細な仕草も
誰かが許していくから
月はふるえて
ただ、美しいに違いなかった

灰色の鳥が絡み合って、落下する
途端、翻って、

岬には
子供たちが集まって
手をつないで
まぼろしのように建つ灯台を
囲んでいる
揺るぎない明かりの先にあるのは
お母さん、
きっとあなたも
まだ見たことのない、
あなたです


マーブル

  ひろかわ文緒

新聞が配達される夕方だから、あたしは早急にパソコンを消して、冷凍庫から蜜柑を取
り出し、子どもたちに均等に分けてあげなければならないのだけれど、数をかぞえられ
ないことをたった今、たった今知ったのだった。うさぎのぬいぐるみの耳をちぎってし
まったあたしの左手を、半ばあきらめ顔のママを、鮮明に思い出せるよ、台所の床に横
たわり腐敗していく、パパのことだって。

  +

夏には、空中に金魚が泳いでアスファルトからはとうもろこしが吹きこぼれる。甘い匂
いがして、うつくしいねと呟いていたのは、赤いランドセルを背負った。ランドセルを
背負った少女、はあたしであって、決して佐藤くんなんかじゃなかっ、た。麦わら帽子
を被った佐藤くんを見たのは、あたしが最後なんだと、刑事のおじさんや佐藤くんのお
母さんは肩を揺すぶるのだった、だけど(だから)、佐藤くんはただ、蜻蛉を捕まえに
いっただけだよって、首のない蜻蛉は珍しいからコレクションにするんだって虫とり網
をもって嬉しそうに、崖の方に走っていったんだよって、全部を話して、あたしが健や
かになったら、あ、頭上に蜻蛉、が、飛んでいって。飛んでいったそいつには首がなか
った。
縁日にはお面を被った人がいっぱいいるから、こわい。だけど佐藤くんはこわくない
よ、だから帰っておいでよ、

  +

セーラー服がまるで似合わないから学ランが着たいと主張して、弓子先生を困らせてし
まったことがあった。ガクガクふるえる脚を見せるのが嫌、リボンを結ぶのが苦手、釦
を必ず留め違えてしまう、自覚ばかりして、する、ばかりだったのだから。何故あたし
には「しゃかいのまどがないの?」
お姉ちゃんは睫毛に器用に黒色を塗り、瞼に金色を塗り、エナメルのヒールを履いた。
社会人はとても金属質なのよ、姉は溜め息をつき、呟きながら携帯電話を扱う。あたし
はといえばリコーダーを、「もう授業には使いません、」と先生に注意を受けてもクラ
スメートにひそひそ笑われても、机の中にいつでもしのばせていた。 吹くことなんて
なかったのだけれど、おそらく、自分で決意したことではなかったのだと思う。口笛で
さえ上手に吹けなかったのだから、おそらくは。「行って来ます。」お姉ちゃんはそう
云ってどこへでも行ってしまう。デパートやホテル、東京、海を越えた遠い国、名前が
変わる、先にだって。笑顔で、

  +

血圧、の意味が分からなかった。病院の看護師さんは何も話さず唐突に、無表情に計り
はじめ、(締め付けられ)(弛められて)、終わったあとにようやくニコリとする。を
繰り返す。血圧、の正体が分かる頃には、円周率だって導き出されているのだろうね。
早く、早くそうなるといいのに。かなしげな記号など、もう使いたくはないのだから。
先生が、あんまり多くのお薬をお出しになるから、ノイローゼになりそうです。口を尖
らせて、診察室から飛び出して。ねえ神さま、確定からあたしを仮定してほしい。ソー
ダ水みたいにさ。ぬかるみがはじけて、

  +

パパに買ってもらったものといえば、ピンクのカチューシャくらいで、今はもう、あた
しの頭には小さくて、鏡台の上でただの飾り物みたいになって、いる。大して大事でも
ないのだけれど、壊されたり無くされたときには多分、許さない。ぜったいにころすん
だと思う。例えばそれが高橋さんであったりあたしであったり世界であったり、したと
しても。でも安心してほしい、パパは包丁に刺されて、おびただしい血液をあたしたち
に見せてくれたから、ずっとだいすきのままだよ。

  +

足元に猫が擦り寄る。胴の長い犬を昨日、玄関にくわえてきた口で(狩猟がとても得意
な動物なのだ、鋭い爪は下弦の月の、終末みたいだと感じる。)丁寧に鳴いてみせる。
さびしいというより前に背中を丸めて髭を揺らしてみせたのなら、すすきのように溶け
ることができたはずの。鳴き声。お腹がすくだなんて汚らわしいことだってママはおっ
しゃった。それだってあたしたちはお腹がすくようにできているから、せめて感謝をし
ないことが重要なのよ、と。煮干しを適当な皿に入れて、差し出す。ちゃんと感謝しな
い。咀嚼をして、ふくよかな腹へと流される煮干し/彼らのカルシウムについて考えた
とき、あたしは全くの無防備になるのだった。ほら、涎がだらだら垂れる、冷凍蜜柑み
たいに、じくじくと正常になる。

  +

マーブル、仕組みが理解できたときに子どもたちはまんまと生まれた(体内の組織全
部、
混じり合わせたい、)。赤みのある肌でけたたましく声をあげる子どもには、ありった
けのミルクを与えなければならなかったし、最も必要であった。ある、と、知って

た。与えなければ

―――――脈、瞳孔、ひとつ、またひとつ、確認する。(数字、かぞえられる。よ!…

子守唄を誰か知っていますか、ワルツでもいい、暗示にかかるだけのいのちならまだ、
あるはずだ、から、だから、あたしの知らない、初めてを、うたを、うたってやりた
い、

            マ マ 、 )))

  +

まっくらなだけの電線。ひかりが消えては灯る、その間を縫うように草の道、素直にね
むる子どもを抱いて、ほほえんで、ゆく。


手の鳴るほうへ

  ひろかわ文緒


泡のない麦酒をのこして、父はもう戻らなかった。柱にぶらさがった縄も吐き出されたものも、知らないだれかに片付けられて私には西日の眩しい部屋と、ぬるい麦酒だけがのこされた。滑りのわるい桟をキリルルル、といわせながら窓をあけると、涼やかな風がはいり、震える、暦は既に七月を数えはじめる。

 ∞

窓辺のテーブルに砂のうすく積もる。中指でなぞると、跡にはまっすぐの線ができ、めくって視た指のはらには細かくひかる粒。海にちかい家の必然、溜め息をついて雑巾で拭う。線は消え、ひかる粒はただ、雑巾をよごした。
繰り返しなんだと、思う。
デジャヴを感じた瞬間に今日は昨日になり、昨日のなかでまた、思う「視たことが、あるここは、生きたことが、ある」、昨日はたちまち一昨日になる、そして、また一昨日は。
ひだりの薬指に指輪がはまっていて、ぬけない。けれど幾ら待っても夫らしき人どころか誰一人、家のドアをあけなかった。郵便受けには
エアメールが一日置きに届く。送り主は分からない、私に宛てたものなのかも、分からない。蟻のような文字列はもぞもぞ動き、すぐ別のアルファベットに変わるので、とても解読できそうになかったけれど、私にはそれが唯一の救いに思えた。手紙だけは、
きちんと机に積もっていったのだから。

 ∞

 おかあさん、きょうはおつきさまがおっきいねー
 今日はね、満月、なのよ
 まんげつ?
 そう、まんまるでしょう
 うん、まんまる、

交差点の赤信号の点滅、ゆっくり車は停止し、上目をつかいながら動きだす。と、トラックがスリップしてみぎから突っ込んでくる、「おかあさん」は咄嗟にハンドルをきるブレーキを、踏む間に合わない、摩擦が交錯する、タイヤ痕とタイヤ痕の、ぶつかる、

 かあさん、
 おかあさん、
 きょうはしんげつ、だよ
 もうずっとおつきさまは、みちないよ

 ∞

干からびていく水溜まり。
アメンボはくうる、くうると周遊する。これが
公転だ、と云う。
自転というのはもっと内で、心臓で、自動に行われているものだから、わたしの行うこれが公転なのだ、と、云う。軸だっていらない、わたしの誇らしい公転。周遊を繰り返しながら、
あなたには公転があるか、と訊ねてくる。)(公転は、
私の公転は、視えないんです、と答える、透明に、透明なほら、風が、吹く、でしょう? それが私の公転であって、風の吹かない日にはたとえば陽が、雨が、公転をしてわたしは軸として、かろうじて立っているんです。
何てすばらしい、アメンボはほほ笑んで、跳躍し、さらさらと夜に溶けていった。
水溜まりはなまぬるい風に、波立つ。
あ、あ
違う。待って、私に公転なんて、ない、嘘なのだ、公転の一部でさえも、ない、(軸なんかでは、とてもない、)私はただの石っころ、だった

 ∞

いい天気ですよいい天気になりますいい天気が続きますよずっといい天気ですずっと、ずううううっと、いい、天気です。
キャスターのお姉さんが爽やか、の後ろ、渇ききった湖の底を裸足で駆けていく、子どもたちの映像。
空は深く、雲ひとつない、なるほど、いい天気の。
映像のない木の陰でひどく背の曲がった長老はくねりくねり、と、雨を降らすには生け贄が必要だ、と杖を砂に突き立てた。
若者は叫ぶ、
生け贄を用意しろー
誰でもいい、誰でもいいやつを、連れてくるんだ、早く
雨を降らせよ、
降れ
「降れ」

 ∞

庭へ、出る。
蛙は空に帰るように鳴き、
稲は葉をすりあわせながら育ち、
そうして時間が過ぎるのに耳を澄ます。
澄まされている暗闇のなかで白い
(白昼の下ではきっと薄紅色の、)
アジサイにそうっと、鼻を近づける。

雨の、匂いが。

ぱち ぱち と、まばらに手の鳴る音、
この陸はもうじき海に
まばゆい海に、あふれていく。


金色の月

  野々井夕紀

<<白い猫が一匹、三叉路の真ん中に横たわっている。
雲は忙しく夜空を廻り、外灯の伸びた先に貼りついている月は笹の葉たちのお喋りにも耳を貸さず、ぼんやりとうなだれて、何だかを考えているようだった。
すう、と息を吸っては、すうう、と再び息を吸ってしまったり、それはもう、不自然な様子なのだった。
心配したトモルは、大きな雲の群れが行き過ぎたのを確かめて、月に精一杯声を張って呼びかける。
「おうい、お月さんよう。そんな風にしていたらもう、ぐんにゃりとしてしまうぜ。顔だって蒼白じゃあないか。」
月はトモルに気付き、首をどうにかもたげて顔をその方向へやる。
「ああ、トモルか。こんばんは。いや何ちょっとね、考え事をしていたんだ。」
云ったあとにしばらく口の周りをまにまにと動かして、また、すううう、と息を吸った。
「どうしたって云うんだい。明日にはきっと金色に光るぞ、と昨晩は溢れんばかりに張り切っていただろうに。キエルだって、もうすぐ来ちまうよ。」
「それだって仕方がないさ、考え事ばかりしているんだから僕は。」
月はもう黙ってしまい、体ごと丸めて頑なに息を吸う。
ワルツのステップを見せてやってもレンゲ草の踊りだす周波数を教えてやっても、これならどうだ、とアルミニウムの真似をしてみせても、どうにも返事をしない。
トモルはすっかり見放してしまいたい気持ちをこらえて、吐いてしまいたい息をこらえて、とかげが三百匹入るくらいの、四角い銀色の缶ケースをごそごそやった。その中の底の方からやっと真っ黒いジーンズを引っ張りだし、高々と翳してやる。
「何だい? それは。」
月は訝しげな表情をしておずおずと、トモルの広げた布地を覗きこむ。
「これはな、ジーンズって云うんだ。足の二本のやつが履くのさ。格好いいだろう。」
「ほう、ジーンズと云うのか。遺伝子とは何か関係があるのだろうか。」
「全くとは云いきれないが、大方関係のないはずだろうよ。」
「ほう、ないのか。しかしなるほど、こいつは全く素晴らしい夜だなあ。」
「ああ、とてもへんてこだろう。」
月は嬉々として、ほう、この編み目はなかなかどうして、ほっほーう、と幾度も感嘆し、いろんな角度からジーンズを眺めた。
顔をうかがってみると、どうやら血色が良くなってきたようである。感嘆したことで、息をまた吐けるようになったらしかった。
やれやれ、という風にトモルはうつむき首を振る。
「もう充分見ただろう。そろそろ、しまうからね。」
すると月は大変慌てた様子で
「そんな待ってくれ、あと少し見せてくれないか。ジーンズとやらを見ている間は不思議と考え事を忘れておられるのだよ。お願いだトモル。」と懇願した。
「おれだって、そうしてやりたいが広げているのだってくたびれるのさ。それに君はもう、今りっぱに金色だよ。水溜まりに映してみるといい。」
「いや違うんだ。実を云うと僕は金色なんかじゃなくていいと思っているんだ、もしくはトモル、君が僕の考え事を代わりに考えてくれないだろうか。図図しい頼みだとは分かっているが、もう大変くるしくっていけない。代わってくれるのなら僕はたっぷり金色でいよう。」
トモルはほとほと困り果ててしまって、でもお月さんがずっと蒼白でる方が皆(キエルもじきに来てしまうだろうし)、「ほとほと困り果ててしまう」だろうと思い、考え事を受け取った。
それから月は、ああほんとうにすっきりしたという風に伸びをして、ぴかぴかと金色に輝きはじめた。
すう、と息を吸い、ふう、と息を吐く。ほう、正しい呼吸というものは考えるまでもなく、生まれたときに既に、自然と出来ていたものであったなあ! と喜んでぴかぴかした。
はてさて、と考え事を受け取ったトモルは、手に余るほどの考え事をどうしたものか、頭を悩ませた。
そうして悩んだあげく、仕方なしに食べてしまうことにした。
噛み砕き、胃へ運んでしまえば酸が自然と分泌されて、やがてなくなってしまうのではないか、という期待もまた、ほんの少しあったのだ。
おそるおそる口に運ぶ。
なかなか美味しいものじゃないか、と胸を撫で下ろして、もそもそ食べはじめる。口に含む瞬間はハッカのような心持ちで、味は九官鳥、歯ざわりは固めなのだが、喉を通るときにはぬめっとした、滑らかな感触である。
しかし、しばらく食べても、はたまた食べても一向に減らない。
きゃっきゃっと噛み砕く音が夜に響く。腹ばかりがまんまると膨れて、消化する気配はない。満腹にもならない。
どうしてどうして、と思いつつそれでも黙黙、粛粛と食べ続けていると、空はもうゆっくり、ガーゼを捲っていくように薄く、するすると明けていってしまった。(ああもう間に合わない、キエルが来ちまうよ!)北の方角にある林から、ほくろうの声が聞こえる。梨もようよう熟れる頃だろう。
トモルは空の編み目を眺め何故だか涙がとまらず、顔をぐしゃぐしゃに崩しながら考え事を口へときゅうきゅう詰め込んだ。
やがて入りきらなくなった考え事を唇から溢れさせ、そこでようやく意識はなくなり、トモルはぱたりと、倒れてしまった。
矢印のように折れ曲がった尻尾のとなりには真新しい夜がきちんとたたまれていて、月は輪郭がぼやけながらもその真っ黒を見るとやはり、ふう、と生温い息を吐いてしまい、トモルの滑らかな毛並みは月の吐いた息に心地よく、高原に吹く南風のように、波打つのだった。>>


夏にうまれる

  ひろかわ文緒

日傘の陰にちいさく
鈴が鳴って夏はあかるく
なってゆきます
青くたおやかな風に
葉脈は波うって
けれどやがては、
おさまるようにわたしも
素直に日を抱いていたいと、
おもうのでした

 ・

川辺をあるくことが
とてもすきです
水鳥がはばたいたあとの
水面や、泡を
眺めている時間が、すきです
熱をもった土の蒸発や、
モンシロチョウの
息をひそめる様子を
眼をつむっても
おもいうかべられるから
わたしももうすぐ
川辺のけしきになる
のでしょう

 ・

まきあがる真砂に
わたしのほねぐみはもろく
かたかたとふるえます
擦りあうすきまと
すきまの水に
空気が混ざって
ひとつ、
ひとつ、
つぶれてゆく音です、耳から
ではなく、体内をつたわる
いとおしいふるえ、

 ・

空、空、空、
繰り返してゆく四季に
いきるのはむずかしいと
蜩は云うのでしたがほんとう
でしょうか、
あなたはいともかんたんに
フラフープをくぐって
尾びれをなびかせているから
いきるのは泳ぐよりも
ずっとたやすいのだろうと
おもって、いた

 ・

おさない子どもが
タタンタ、と駆けて
階段を降りてゆきます
コンクリートの石粒が、宙に
無造作に
ほうりだされて
たよりなさそうに
みえたのは、なつかしい
母のつくる夕餉の
においがふと、
鼻をかすったから
なのでした

 ・

日傘をとじて
もう陰のない足元をたしかめ
あるいています
わたしはすきな
ことばかりをして、いきて
日の暮れるのをおしみ
手をふること
さえも、できずにいました
けれどさいごには
家にかえるしか
残されていないように
きょうという日も
きょうという日に
かえそうと、そっと
かなしんだあとに腕を
あげてやわらかく、指を
ほどいてゆくのです


Brownbear(暮らし)

  ひろかわ文緒

ヒグマ、凍える氷の中にいる
君の遥か頭上に雪解けの水が流れ、
その脇には肉食や草食の、または雑食の
生き物が群れをなしたり単独で
暮らしたりしている

気に病むことは何もないだろう
幸い僕には
ささいな妻もいれば、二歳になる子供もいる
子供はテレビの中の
うたのおねえさんがすきらしく
おねえさんが体を左右に
ゆうらゆうら、と揺らすと
食卓の周りをはしゃいで駆け回ったりするから
君が気に病むことはないんだ
妻のキャミソールが空に高く舞い上がっている
まっしろい布は夏に映え美しいよ、
床にしゃがみぐずつく妻の肩を撫でる
、おそろしいほどなだらかな肩
そうしたら僕はもう、働くしか
ないよなと、眉山をなくしてわらうのだった
白昼、食卓に置かれた素麺は大抵いつも余り
排水口を流れて少しずつ、
天の川に織り込まれていく
明後日あたりには
彼方の銀河に辿り着いて、きっと
天文学者たちを席巻する
だから
君が気に病むことは何もないんだよ

ラジオのヘルツを合わせていくのは
祈りにとてもよく似ている
聞こえてくる声や音楽は
さして重要ではなく、聞くという行為で
僕はゆめをかなえようとしていたんだと思う
(はて、ゆめなんて大げさなものだったろうか)
(分からない)
ただ勿論聞くだけではかなえられるはずもなく、
息継ぎや発音などの研究も必要で
それは魚の鱗を削ぐくらいにくるしかった
空の底に家を建てて隠れて暮らすのは
僕たちがとても弱いからだろう
窓際のラジオに電磁波が届く
くるしい、

蟻の足を一本ずつ抜いてみせる友だちの器用な指先に魅入り、
こめかみの汗も拭わなかった
小学校からの帰り道が、ふとよぎる

 動けなくなった蟻が
 土の上
 バッタの祝婚歌を
 うたって

勾配の激しい森を抜けると
次第に視界がひらけ
コケモモやコマクサ、黄褐色の土、大小角張った石の影、硫黄の匂い、
雲は集散を繰り返して、速い
やっと立ち止まると
背負ったリュックがずんと重く
たまらず道の端に座る
お先に、と下山する
ふくよかな中年の女性―目尻や首筋に心地よい疲労が皺よっている、に
軽く頭を下げつつ、水を飲む
ひんやりとした感触が体の隅々、
血管を通り染みていく速さで巡った
長めの呼吸を二、三回してから
立ち上がる
急いではいけない、でも
のんびりもしてはいられないだろう

雲はうねりながら、巡って

砂をかんたんに叩き落とし
足下を確かめ再び、歩き始める
ざ、ざん、ざ、ざん、
すぐに足音だけのせかいになり
祈ることは無意味になってしまう
忘れられ、かなうこともないそれは
枯れて蒸発し
やがて冬になれば空から
連絡する
降る雪に君は遠吠えを、

ヒグマ、僕ははじめてしぬからせめてやさしく噛んでくれないか
氷の中


spangle

  ひろかわ文緒

みえない声に耳をすまし
だけれど秋はながく
ながい溜め息の途中で
すべてをかき消してゆく、木々は
影よりもくらく揺れ
凍える星は眼にひかりを
届けても地面を
灼くことはなくて

真昼の熱を忘れたハーモニカを
抱くことはたやすく
それを拒むようにして
土のなかに埋めた
ふるえる、壁の
しろい腹に孕まれている
わたしはとうに
躯の多くを棄てて
のぞむものたちの元へと
渡したから
とても単純ないのちの
集合する
わたしたち、で

なくしたものだけを
数えている夜半
天の川など
はじまりからずっと
流れておらず
空の底
干からびた鱗片の淡くても、
ひとつ毎の
確かな
瞬きをみていた


Reincarnation

  ひろかわ文緒

孤島のようにぽつんと
うずくまる港は
そろそろ瓦斯灯の蒼白く灯り
汐を冷たくしている
子どものわすれた片方だけのサンダルが
あしたの雨を知らせている

ふと、最終フェリーの汽笛が鳴り響いた
わたしのちいさな心臓をも
揺らして、遠くまで
心臓を揺らして、響く
反響し返ってくるまでのあいだを
高揚して待つ
目をつむり待つ
何がそんなにかなしいのか、と
詩人は云う

冬になれば彼らは
脂肪の代わりにくらやみを含み
夜とひとしくなってゆく
声と水だけを循環させて生きるのだ、と
差しだした林檎を丁寧にことわる

ことわられた林檎を
わたしは食む
そうして、あらわれた未熟な
白い果実は
あしたの雨を、知らない


on the shore

  ひろかわ文緒

料理のさしすせそ
覚えて
最初に作ったのは
砂の城
でした、寄せる波に
少しずつ
洗われて少しずつ
崩れてゆく
ね、そうです、ね、
間違っている
ものばかり繁栄させるの
とてもしあわせ、

宇宙のぐるぐる
渦巻いているところにさ
光とかさ
全然、在り得ないってとこにさ
いるみたいだなって
恋人は眠る寸前に呟き
私が(何故、)と訊ねるより先に
銃に撃たれ死にました
そして
私も今殺されようとしています
口に汚らしい布
つめこまれて枕を脳に
押しつけられて冷たい球形の
暗やみを受けとめようとしています
ありがとう殺戮
どういたしまして死骸

霧雨の日には喪服を着る
日蝕の日には喪服を着る
誕生の日には喪服を着る

真白いベッドの上に
死骸をふたつ置いて
私の魂は窓を開け風を通す
昨夜に干した黄色のパンツが
ひらひらしている
恋人の魂を水筒に流し込み
会社へ向かう
ラッシュアワーを避けた
安全な電車に乗って
向かう
向かえば着き
着いた回転ドアをくぐり
優しい高層ビルを昇る
小さなオフィス
可愛いオフィス
部長が電話でわたわたしている
後輩の女性(21)が給湯室で無表情でお茶を淹れる
私は恋人の魂の入った水筒を
胸に抱き
立ちつくしている
席には菊が号泣している
しばらく、して
花びらちぎって
ちぎりとおして
退社した

     「ねーねー知ってるー? 料理のさしすせその「せ」ってしょうゆなんだってさ「えーマジー?「でしょでしょーこの間の中間テストに出てさあ「えーじゃあさしすしょそじゃん「はは、超いいにくいし、あ、「そ」はみそなんだけどね「でもそれはなんとなく分かるよねー「うんうんそれはねーナットクって感じ「「ぐぐぐぐぐ「あれケータイ鳴ってない?「あ、佐藤からだ「遅いし佐藤、「もしもーし今どこー?

女子高生、
女子高生、
女子高生の会話を聞いて
初めて料理の
さしすせそ覚えて
だけれど家に帰る迄に全て
無くしてしまいそうだったから、
近くの海辺で
砂の城を作った
乾いた砂を水筒の中身で
濡らしながら固めて
屋根のてっぺんに細い枝
刺す頃には、指先
だけしか輪郭なくて
それでもやっと
作った
作ったそばから
波がさらい
壊れるけれど、
覚えている
さしすせそ
遠くで
紅と白の
煙突から煙、
あれは私たちが燃えて
いるんじゃないけれど、
お祝いみたいで
すごく善い、

 ありがとう
  どういたしまして


星かごのなかで

  ひろかわ文緒


 (Daybreak)
雨あがりの丘のうえ
土の息づかいさえもうるさく
雲の割れ目から、かすんだ町に
降り立つひかりを
ゆびおり数えた
やがて立ちなおり路をかえりながら
数えたあとの汚れたゆびのまま
伸ばしかけの髪を摘む
ぽろぽろと
星の抜け殻がすべり落ちる

 (Early morning)
忘れていた
小学校の先生はとっくにおなじ世界にいないこと
わたしは机の奥
先生から貰った本を見つけてそれから燃やす
幼い作文や古い新聞も一緒に燃やす
燐寸をつけ焔をともすと
文字はしろくふわりと舞ったり
くろくゆったり沈んだりしながら遊んで
凍る間際の水のように
たのしい

 (Daylight)
軒先の夥しい緑色を刈る
ささやかな花びらのついたものも容赦なくひき抜く
あたらしい軍手はかたく
不乱に緑色を積みかさねている
するとどこからやってきたのか
毛艶のよい三毛猫がふくらはぎにすり寄ってきた
可愛らしい中肉)中肉を爪でなぞる)背に一筋)砂の混じった線がはいる)隣に座り)庭の隅に植わったパンジーの)花びらの揺れるの(を)じっと見ている)
ほぐれた土の面からてらてらしたみみずのあらわれ
わたしは驚きもせず
ほれ、と、少し遠くへ投げた
三毛猫はしっぽを忘れて駆けてゆく
脚から透きとおり消え、なんと淡いのだろう
パンジーがわたしを観察している

 (A swing boat)
星のはじまりもおわりもまだ覚束ないまま、誤った腕をすり抜けてばかりいる

 (Wintering)
目覚めるといつも冬で
こども達より先に霜を踏みあるく
部屋にもどると
すっかり冷えてしまい再び毛布にくるまる
霜が溶け、ランドセルが路を彩る頃には
すでに眠りについて
だからわたし、こども達のことをあまり知らない

 (On time)
丘のうえには仄ぐらい雲が町を押し潰そうとしている
郵便配達夫は口笛を吹きながら、そのひずみに身を投じようと
たくさんの夜明けを抱え走りさってゆく


多発性

  ひろかわ文緒

スケジュール手帖の、後ろには知らない都市の路線図がはさまっていて、緩やかなカーヴを描いている。
藤田はオープン・カフェの無駄に鮮やかなパラソルの下で、そのカーヴをなぞった。一昨年、父が肺癌で亡くなったとき、最期に触った鼻の頭の輪郭によく似ている。(母曰く「ちっとも似とりゃせん」そうなのだが。)ふと日の翳り、空を見ると大きな手が、世界を捲ろうとしていた。


夫が浮気している。
小夜子は白昼、台所の三角コーナーを見つめて、思い詰める。昨日の、夕飯の買い物の帰り、街角で指輪の光るショウ・ウインドウを腕を組み覗き込んでいたのは確かに夫と、白葱のような女だった。不幸なことに小夜子は白葱がすきだ、だから余計、嫉妬したどうして白葱なのか、女を憎むに憎めない、何故、よりによって。そうだ、噛んでやれば、いいのか。
そうして直ぐに表情を和らげる。
三角コーナーでぐっすり眠る夫に沸騰させた湯をひっくり返す。


もしも私に臓器があったら、と思う。
考えるだけで恐ろしい。
生物達を分解したり排除したりする乱暴者を体内に飼うなどそれだけでも範疇外なのだがまあそのくらいは大目に見るとして(勝手にやってくれれば良いのだから)、しかし彼らの働きが悪くなればわざわざ医者へ行き切除し半分にしたり若しくは全摘出しなければならないのだと考えると脱力してしまう、とてつもない徒労に違いない。しかもいくら乱暴者でも多少、時間を共にすれば愛着が湧き、手放すときの空虚感ったらないだろう、ない、と、知っている。
体が木彫り細工で良かった、子供の落書きしたマーカーの痕は消えないけれど。


嘘をつきたいという願望も特段ないが、本当のことを話す義理もないため、でたらめであることに執心している政治家の佐藤には今夜もファン・レターが届く、玄関のドアノブを掴みまわしながら封をあけると「顔をあげてみろ」と書いてある、家に入り顔をあげると佐藤の妻が柱に首を吊って垂れていた、佐藤は急いででたらめにダイヤルをまわす、時報が午前三時を知らせる、窓が日光をさんさんと取り込んでいる、妻の脚の爪には赤や緑や銀が塗られてあり(ぎらりと光り)なるほど、でたらめだ、と顔を歪め笑った。


風船ガムを膨らまし、大きくして、更に息を吹き込み、割る。
がら空きの電車の中、男子高生の行為を早紀は首を傾け向かい合い見つめる。口のまわりについたガムを舌で器用に回収し、また膨らます、更に首を傾ける、体ごと傾ける。やがて座席に寝そべる形になりそれでも彼は行為を続けたため早紀は座席にめり込みはじめたやがてまっ逆さまになりやがて持ち上がり再び元に戻る。それ迄でちょうど、一日が経った。次いで二日三日、
七千四百五十三回、元に戻ったとき、路線は廃線となり皆、跡形もなくなった。


「女性は月に一度大量の血液を排出する」
「警察とのいたちごっこはいい加減うんざりさ」
「もう直ぐ衛星が帰還するらしいよ」
「残酷をこのんだのは男性の方でした」
「靴下はいつも左脚から、というジン、クス、」
「あ、アはハ、ゥ、」
「ねえせんたくきほしいわあ」
「あの本なら読んだよおもしろかったまた読むと思う」
「後ろ、鬼、いる、」
「匂…、」

文学極道

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