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Migikata (右肩) - 2009年分

選出作品 (投稿日時順 / 全13作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


砂漠の魚影(或いは「父のこと」)

  右肩良久


 一、オアシスのバザール

海に面した白い城砦都市で琥珀の破片を買う。
バザールの雑踏に立ち青空へ掲げると
脚が一本欠けた蟻が封ぜられていた。

 二、人々が魚を食し、僕が魚を食する

砂漠を背にした街では風が強い。
辿り着いた、壁のない掘っ立ての料理屋。
皿に載る大きな煮魚には縞模様があり、
その肉片を口にすると、砂粒が絶えず混じり込んでくる。
空の、凶悪な青さの、際限なき支配の下で、
じゃりじゃりと
テーブルが光り、死んだ魚が光り、皿もフォークもナイフも、
父の記憶も、みな光る。
みながみな、光る。

砂に沈んだ石造神殿の残骸。
有翼神象の影が、傾いた石柱の上から
光を裂き鋭利に伸びる。
けたたましい猛禽の声。
キイキ・キイ・キイキキキイと鳴く。

黒ずんだケープの客が数人、黙って料理を口に運び、
彼らも僕も切なく飢えた悲しみを、
父殺しの光を、窪んだ目の奧に宿している。

 三、命題

始まらないドラマを待つと言うことは、
如何ともし難い恥を持つと言うことだ。

 四、僕らが殺してきた者たちと父の帰還

 突風がやって来る。目を閉じる。風。露店の軋む音、食器の落ちる音、割れる音。揺れろ。と思う。声に出した。誰も動じない。僕も動じない。ただ乾燥した木片のような手で自分の皿を押さえる。
 やがて砂まみれの陽が地平へ落ち、浸潤する薄闇の底、砂のあちこちに光を放つ魂が浮き上がる。鰯の大群が海中を遊弋するかのように、それらが膨大な数に増殖し、風下から尾をふるわせてやって来る。食事を続ける僕らの、手にスプーンやフォークを持ったままの体を、青白い発光体が次々と突き抜け、風の源泉へ向けて通り過ぎる。ひとつひとつの魂が貫通するごとに僕は、それらが持つ漠然とした感情に感染し、喜怒哀楽や恐怖や希望、もっと複雑な昂揚や抑鬱などを、皮膚や肉、骨や臓物で感受している。身に何ものももたらさぬ、しかし、なんと切ない奇跡か。温かい。食べかけの煮魚も、皿の上でわずかに尾を振る。僕らは僕らが生まれるために殺してきた夥しい同胞の、もう輪郭もないような魂に洗われている。「産めよ、増やせよ、地に満てよ」飛び散った言葉のわずかな断片としての僕が、人の魂に研ぎ直された小さなナイフのように、木の椅子の上に置かれ、ただ激しく光線を反射しているのだ。そうだ。
 誰もがみな黙って今日の糧を食し続ける。

 五、見てきた情景の先へ、見なかった情景の先へ

ホテルのベッドで、琥珀に封入されている蟻を見た。
足の欠けた蟻もまたわずかに発光し、
止まった時間を泳ごうともがく。
すると
数万年前の樹林が雨と光の中で震え揺らめき、
濃厚な甘さが僕を、
前後不覚に包み込む。
僕は剥き出しの孤独に赤く怯えた。
傍らに立つ父の手を固く握り
前方の情景を見る。
蟻の見たものよりも、
遥かに遠い場所に、視線の先端が走る。

「そしてそのまま帰りません。」


枕返し

  右肩

 蓬莱橋までの散歩を終えて宿に帰りました。ちょうど夕飯の時刻になっています。給仕に現れた客室係は七十歳くらいのおばあさんでしたが、少し色褪せのある紺の着物をこざっぱりと着こなしていました。そして、私たちがあのやたらと長い木造の賃取り橋を往復してきたところだというと、夕刻の蓬莱橋に近づくものではない、とのこと。どうしてなんですか、と夫が笑いながら聞き返しましたら、彼女が鍋物の火の具合を見ながら言うには、「蓬莱橋は彼岸と繋がりますから、夕刻は色々とへんなものがついて来るじゃないですか。」
 私はそういう話が嫌いではないので、「橋の向こうはあの世なのですか?」と、話の先をせかすようにしますと、彼女は真顔で、
「あの世ではありませんよ。向こうも普通の土地です。何にもない普通の土地ですよ。あの世であるはずがありません。お客さんはおかしなことをおっしゃる。」そう言いますから、私もそれ以上何も話しませんでした。

 疲れていたので早めに床に就き、明かりを消し目をつむって眠りに入ろうとすると耳元でかすかな音がします。あまり小さな音なので、最初は気のせいだと思ったくらいです。でもどうしてもそれは現実の音なので不審に思って半身を起こしてみると、その音はもう聞こえません。外からも風の音一つなく、新月の静寂が部屋を包んでいます。それでいてもう一度枕に頭を載せると、ほんの少し、かすかにゴゴゴという唸るような音が耳に入ってくるのです。「起きてる?」と私は声が響かないように細心の注意を払って、声帯を震わせずに夫に話しかけました。「うん」というこれも微かな返事が聞こえたので、「枕から変な音がする」と言ってみました。眠りに入る前の時間をかき乱したくなかったので、その声も独り言のように妙にか細くなってそのまま消えました。「枕というものはね」と夫の声が返ります。やはり小声ながら父が子にするような、優しく包容力のある声でした。
 「枕というものはね、遠い場所の音を伝えるんだ。遠いからほんとうに小さな音だよ。ごとごといっているよね。これは石造りの建物が崩れる音なんだ。タクラマカン砂漠には千数百年前の隊商都市がいくつも廃墟になって放置されている。砂漠の真ん中に何本もの石柱が立って、ひび割れた日干し煉瓦の壁がいく棟も残っているんだ。それは千年以上の時間をじっとそのまま耐えてきているんだけど、今ようやく寿命が来たんだね。建物はみな時の流れを耐えた仲間だからさ、一つが崩れると、ああ、もういいんだってもう一つが崩れる。たくさんの建物が、鎖がつながるように、一つ一つ荘厳に崩れていくんだよ。崩れて砂に埋もれていく音が遠く遠くこの枕に繋がるんだね。」眠りに入ろうとする私の頭の中に、青空を背景にして大きな柱がスローモーションで倒れかかってきます。柱の上部には輪郭のぼやけた神像のレリーフが表情のわからない横顔を見せ、それもやがてゆっくりと砂塵に紛れてゆきます。一本の柱が倒れるとむこうがわの壁が崩れ、透明な太陽光の中で都市は徐々に美しい最後の時を迎えるのでした。

 翌朝目覚めると、私の枕がありません。探してみると部屋の障子を半分ほど開き、そこから廊下に這い出ようとして力尽きたように戸と柱に挟まれ倒れていました。朝食を給仕に来た若い娘が帰った後、夫にきのう砂漠の遺跡の話をしなかったか、と聞くと、
 「そんな話、してないじゃないか。そうじゃないだろ?」と言います。
 「君がアマゾン川の源流は泉じゃなくて、葉っぱから落ちる雨の雫が集まっているんだ、って話をしたんだよ。こんな夜にはその雫の落ちる音が聞こえるってさ。またなんだって昨日はそんなことを言い出したの?」


せつな

  右肩

 ややあって
 春の雨が
 畑地を走り
 部屋のガラスに
 点点と
 滴が
 あたりはじめ
 茶箪笥の上の
 信楽の
 一輪挿から
 椿
 の花が
 匂い、
 その
 落ちる
 音を聞いた。
 目を上げると
 花瓶の脇で
 まだわずか
 揺動を
 残す花
 の意識
 の中で
 風に波立つ
 大きな水のように
 震える
 山河
 目の奧へ
 ようやく
 ぼやけた乳房
 と乳房
 移りゆく
 赤い言葉も
 なくなにもなく
 軒先に
 蝶つがう
 昼の
 濡れた
 ふるさとよ


  右肩

(硬直した舌を突き出す
 犬の頭。死んでいる。その横に立つ僕。
 夏蜜柑の匂いのする心臓を
 持つ僕。
 尖った敏感な陰核を
 若く健康な陰唇の中に隠し持つ君。着衣の君。
 ふたり。
 と
 たくさんの虫。)

楓の葉の失われた緑の属性が
この詩を読む君に与えられた古い記憶であるからか
午後四時の時報に合わせ、さあと秋霖が走り
僕が濡れる。この世界に何も残さないほど
大理石だけが美しい冬が来るという予感は
絶滅収容所の壁に錆びた釘の先を使って刻まれている。
その時既に定められていた陰惨な未来の線描。
だが、今はまだ何もかも鮮烈に赤い光が降る木の下で
大きな痣のある初老の男へと君がかつて
囁いた恋の終わりの言葉の尾から、ふと僕へ
逆流するそれとわかりにくい微細な官能の刺激、肌の匂い。
枝から飛び立った頬白が憂鬱な重さを
森から町へ左右の翼で支え、その運ぶ先の、
古い商家の、薄闇に落とし込んだ厨房の竈で
筍を煮ていた母よ瑪瑙石のようなわかりにくい思い出よ
小さな指輪が転がり子どもがひとり死に
羽のない哀れな虫が長い後肢をもがかせる
その有様と同様に身を捩らせ
逃れようとする君を強く抱いたまま
密林の湿潤が剥き出しになった君の唇を心強く吸おう
雨が降れば菰を被った川舟が下流に流れ
濡れている落葉を赤くまた赤く
孤立した無意識が浴びる抑圧の刺激
のように形の中に受けて
僕は君に囁くだろう、過去と未来の平らかで広大な
時の平原に紛れ込んだいくたびもの臨終の経緯を。
黒豹として走り抜けた幽界の密林の
その草葉が腹に触るときの
何ものかがわずかに匂うような
刺激を。


女神

  右肩

木製の丸椅子に
坐って
その上からひとり
毛布の皺のような
世界を見ています。
裸の私は
若い。

春の日はいちめんの菜の花。
そよげば暮れる
何もかも
暗い黄色
と黄色。
ね、そうでしょ?

目の奥へ
ねじこまれた
朧な歌
に抱かれていると
むしろ真っ白な肌。
あてどなく垂れて
宙を踏んでしまう足。
その薔薇色の爪。
愛とか何か
答えがないまま

スタバのカップに刷られた女神
かも
しれません。
 
そこに触れる
だらしない私の
指に
じわりと温かなものが
にじむような
匂いを
放ち
過ちが
さわさわと
堆積してゆく、
その愉楽。

たすけて

(どこをさがしても
 あなたがいない
 あなたがいなくてもいい
 そもそもあなたというものがない
 ここ)

指を舐めると
明日の不安が
粘膜の熱にはさまれ
ぴくりと尖った頭をもたげて
はしる。
唇の端から
事のあらましがごぼりと溢れ、
すてきです。

何も残さない
眠りのなかから
光るべきものがみな光る
から
だ。


木星の春

  右肩

 僕はこれから僕の持っている砂金一袋の重量を量りに、あの寂れた京洛へ赴くのだ。「ズワイガニ号」と名付けられた、甲殻を纏う列車が海底のトンネルを抜け、もうすぐこの、晴れ上がった木星の小駅までやって来る。
 春爛漫である。
 プラットホームには、文字も絵もない、色もはっきりしない幟旗が九本、ばらばらな間隔で鉄柵に結わえ付けられている。また黒々とした巨大な牛が二頭、大きなふぐりを揺すりながら待っている。その後ろにはマッチ棒のような少女が三人黙って立っている。
 彼女らはあまりに黙っているから、所在なくてときどき牛の股間に手を差し入れ、こっそりとその陰嚢を撫でたり揉んだりしている。牛は鳴きもしない。沈黙を埋めるようにして波音が聞こえてくる。ただし、それはよく聞いてみると破砕された歌声の微細な屑から成り立っている。波音によく似たノイズというべきものであった。
 ひょっとしたらそれは、入学式が終わった小学校の講堂で、天井から垂れ下がった四匹のユウレイグモが、番いながらそれぞれの八つの目を合わせて唄った『海行かば』だったのかもしれない。焼けただれた密林に隠匿された髑髏が、割れた後頭部から水を飲むようにして一途に聞いていた歌だ。二つの眼窩。それも今は粉々になっている。

 金の値段は激しく乱高下している。
 先日行った床屋の亭主が、僕の髪を切りながらぼやいていた。彼の足繁く通っているストリップの金粉ショーでは、昔は開いた女陰の奥まで金粉が塗ってあったという。ところが、先日舞台へ上がって大陰唇、小陰唇と指で開いていったところ、粘液に濡れた生々しい鮮紅色を目にしてしまったというのだ。ダンサーの太腿の間に上半身を突っ込んだまま、困惑のあまり彼は暫く硬直して動けなかったらしい。
「これも金の価格が不安定でうかつに買い置きができないからですよ」
と彼は言った。
「女陰の中には膣口に細かな歯を揃えていて、男性を食い千切るものもあるのですが、以前はそこにも総て金が被せてありました。」

 経済は、生殖行為として転倒している。
 システムが肌を合わせて激しく交わる。ところが、射出されるものは疎外される。エンドルフィンの波が脳の皮質を洗う時、無定形の資本は世界中ところもかまわず撒き散らされてしまう。
 乾いた地表に乾いた粒子が噴きこぼれ、どこもかしこもただただ輝くばかりで何が産まれることもない。さらさらと風に巻き上げられ消えていくだけだ。爬虫類系の大型生物があちらこちらに突っ伏して死んでいる河。その腐臭と山脈からの寒風とに耐えながら、僕はひと冬をかけて一袋ぶんの砂金を掬い取った。それも経済という原理によってたやすく巷間に紛れ、消えてしまう。僕の金、僕だけの金が。

 京洛では今も古い高層ビルが林立し、その下で掻き混ぜられたコーンスープのように、ぼやけた哀しみがゆったりと渦を巻いている。
 白さを残して流される夜の雲たち。
 乾かない傷を持つ猫たちが、互いの性器を指さしてくくくと笑い合っている。ここで、本当の意味で光っているものは自分たちの眼だけだということを知っているからだ。
 この街に今日は誰もいない。昨日も誰もいなかった。明日も誰もいない。首から上がない、人ではないものがちらほらと通りを行く。売春窟のベッドには浅いへこみが残る。シーツに波打つ美しい皺。サイドテーブルに錆びた硬貨が七枚、やや不安定に積み上げられて埃にまみれている。
 打ち棄てられたものはみな、それが最初からそこにあり、未来永劫そこにあるようだ。
 夥しい数の通信回線。アクセスしても聞こえるのはアメフラシの唄う艶のない沈黙だった。

 イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。衛星が僕を間近に見ている。
 列車が迫る音に目を瞑る。明るく血が巡る瞼の裏へちらちら桜が散る。花びらの数が次第次第に増えて行き、そこにざっと風がかぶると昼間の星の全量が落ちてきた。花が光り、星が光り、降りゆくものは時に螺旋を描いて吹き上げられ、それも光る。また光る。
 渦巻く銀河の虚ろな中心点に欲情し、僕の小さなペニスは痛いほどに勃起していた。


鉄塔に登る

  右肩

 嵐の夕暮れ、鉄塔へ登った。
 雨は、剥がれ落ちる神様の体。
 百億個の小さい海。
 天の花園へするする伸びる時間の、
 とがった先端で私は、手を振っている。

 こんにちは。丸井のビルの赤いマーク。
 こんにちは。『北園克衛詩集』。
 私もしばらくは人間でいてみます。
 
 こうして高いところでは、
 嵐は生きている。嵐は、言葉も知らないのに、
 大きな声で一生懸命に何か言うので、
 私はただ、はためいている。
 引きちぎれるほどの幸せです。
 生きていて、本当に楽しいこと、何もないよと、
 自信持って元気よく言えます。

 シンデレラのガラスの靴も、
 ひとの魂の破片も、ハンバーガーの包み紙も、
 ボーイングの旅客機も空を飛んでいく。
 昨日の私と明日の私が飛ばされていく。
 昨日私はいなかった、明日私はもういない。
 今そこに光る、稲妻のように孤立した、
 無垢の今日、今日の私。
 
 私は、人から離れて、空を行く記憶となって、
 誰とも何ともつかないものを、
 熱烈に愛しています。





*『北園克衛詩集』

朝(詩集『火の菫』より)

 冬が手套をはく
 銀行の花崗岩に木の枝と小鳥が写る
 怠け好きな友よ
 お
 人間でゐよういつまでも
 午前十時の街を歩く
 太陽が歯を磨いてゐる


どこへ行きますか

  右肩

夕空のにおう冷たいキップを買いませんか?
小さな気泡のような呟きで書き入れられるわかりにくい目的地を
街を練り歩く魑魅の呻きからすれ違いざまに掠めとって
僕と一緒に鮫型のクラシック・トレインへ乗り込みましょう。
あとは夢の谷間で翼をもぎ取られたやせっぽちの仔鹿のために
二人して未明の涙を流すだけです。
そうです、だから行かなければならないのは
クリスマスという言葉さえまだ誕生していなかった頃の
ヒロシマという黒い荒野の初冬です。
悲しみにもならない感情の震動で粉々になった
ピュアな光の欠片のように、ときどきは虹に似た予感として
列車は影から影へまったくばらばらに走り抜けていくでしょう。
ひしゃげて潰れてまたひしゃげたシャンパンのガラス瓶が
引き伸ばされてひねり回され笑われて攫われて転げ落ちる。
縮れた枯草が山からの風にゴオと鳴る急傾斜の坂道を
僕とあなたの列車も軸の磨り減った鉄輪を希望の湧出で浮かせ
一気呵成の落雷となって走るのです。

そこはかつてダリヤと蝉と海の予兆に満ちていました。
新しい木材の切口の発する香りを気に留めながら
僕は石造りの橋を渡った。
美しい小舟のわずかな上下動が僕の核心を
過去と未来との間で隔絶した夏を
睡りを促す母の手となって揺らします。
行き会う人たちの顔・顔・顔
表情というものがまるでない顔の間に作られたスペースに
身体をぴったり嵌めるのも未熟な悦楽への曖昧な刺激でした。
トタン屋根の軒下に掛かる物干し竿には洗いざらしの下着が
絞り皺を残したままかさかさに乾かされていましたっけ。
やがて重い影がごろごろと転がるだけの歪な野原にこの街は変わり果て、
黒い器のどれにも黒い中身がぎっしりと詰められます。
今度は何の壜、どんな缶の蓋を開けるのですか、と迷いの風がつむじを巻くほどに。

白い太陽を絞ると真っ青な海が冷涼に滴り
アルコールに漬ければ甘い夕暮れが赤く零れます。
海の藻屑となって海溝に沈んでいる不定形の塊から見ると、
僕たちの鮫の軟らかな腹部がすべすべとしたシルエットになって映る。
それが遙かな高みで悠々と身をくねらせながら
それでも重力に引かれて少しづつこちらへ沈んでくるのです。
こんなにゆっくり近づいてくる迫ってくるもっとも純粋な舞踊。

列車の窓から覗く人々の顔はとても美しい。


フェリーボート

  右肩

 今度市村さんと連れだって滝さんのお見舞いに行きます、という君からの短いメールを携帯で受け取った。滝さんは胃の三分の一を切除してしまい、気力を無くしている。僕が見舞いに行ったときには、紙のように白く乾いた表情を窓の側へそらして、「医者の言うことはさっぱりわからないよ。」と何度も同じことを繰り返した。スチーム暖房のパイプがカンカンと音を立てていた。六人部屋には4人の患者が入り、七〇歳くらいの老人が、痰の絡むような咳払いをしていた。君も恐らく同じ言葉を聞かされ、同じ風景を見るに違いない。

 彼の病室の窓に貼りついた憂鬱な曇り空、その裏側へ潜るようにして僕は町を逃れた。だから旅路は雲の世界の地図に従うのだ。船が空も海も境界線をなくしてしまったような靄の中を進んでいく。窓の向こうにかろうじて小さな島が見え、そんな人も住まないような島の存在が、悲壮なまでに強く現実を主張しようとしている。そうでなければ僕もこのフェリーももう何処へも辿り着かないで、永久に靄の中を漂わねばならないのかもしれない。時計を見る。午後二時よりまだ少し前だ。連日の睡眠不足と旅の疲れに景色の単調さが重なって、僕はさっきから強い眠気に襲われている。ところが、船中のテレビの音や、子供の歓声のせいか、眠りが眠りにならないで、切れ切れの意識がひどくはかなく流れていくばかりだ。船の揺れはほとんどなく、エンジンが船体を震わせる音がこもる。

 君と、市村さんや滝さんも入れて、十人に少し欠けるくらいの人数で、富士五湖にある長者が岳へハイキング登山をしたことがあった。藪の向こうに富士が見え隠れする眺望の良いコースだった。そこで、僕らはドッペルゲンガーの話をした。その時のことが僕の意識に滑り込んできた。「ブロッケン現象というのがあってね。」と滝さんが言う。あの時見えていた富士は見えず、僕らは霧の道をむやみに急いで登っている。「霧の中に自分の影が移る現象でね。純粋に光学的なものなんだが、影には光の輪がかかる。でも自分の影なんだから、これもドッペルゲンガーさ。」僕らの登る方向に大きな影が光輪を被って立っている。それは僕の半生を尾のように引いているもう一人の僕の姿だった。僕は絶句した。君は目線を僕の影に貼り付けて意地悪そうに笑う。元気よく滝さんが続けた。「ドッペルゲンガーは死の予兆だ。確かに死の予兆だが、何、人生は総て死のメタファーだからな。同じことだよ。」そういう滝さんは、いつの間にか病室で体中に管を通されている。「死ぬのはあなたじゃないか!」と僕は恐怖に駆られて叫んでいた。その時僕は病室の天井の片隅に貼りつく離脱した幽体だ。

 意識が戻ると、僕は今朝買った新聞に目を通そうとした。相も変わらぬ戦争報道が、大見出しで並んでいる。大局のつかめない、統制された情報の断片に何があるというのだ。僕は手にしたばかりの新聞をテーブルに放らなければならなかった。「ブッシュ」「バグダッド」という二語が、特大の活字になって逆向きにこっちを睨む。窓へ目線を逃しても、船はまったく靄から抜けようとしてはいない。

 君とは、肩に手をかけることさえできないまま別れた。転職して隣の市へ引っ越す、と聞いたのも人づてだった。そのくらい電話でもメールでも何でもいい、直接僕に知らせてくれたら良かったのに。それなのに、なぜ今頃滝さんの入院した病院の名を他の誰かでなく、僕に確かめようとするのだろう。まさか僕を苦しめるためでもあるまい。君は小指くらいの大きさの、緑の蛇だ。意地悪で危険で優美な鱗に覆われている。すすっと僕の胸ポケットに入り込んで、知らない間に何処かに噛みつこうとしている。僕は君を見失ってしまった。魂の痛みだけが、君の存在を間接的に関知する。君とは誰だ?むろん、僕が僕自身を誰だと知ってこんな疑問を持つわけではないのだが。

 僕はカウンターでコーヒーを飲むために席を立った。途端に大変な勢いで走ってくる三、四歳の男の子とぶつかりそうになり、かろうじてかわした。彼は泉の水が噴き上がるような、ものすごい笑顔で僕に笑いかける。まだ大きな頭、細い手と足。長い未来。この小さな出来事がよほど刺激的だったのか、全身を声にしたように叫ぶと、彼は黄色いトレーナーのチワワ犬のプリントともども走り去っていった。愛しい、と思った。そのまま自分のいた席を振り返る。すると、さっきまでの僕が片手を上げて愛想良く合図してくる。これもまたいいではないか、僕よ。僕の向こうには嵌め殺しの丸窓があり、ぱらぱらと降り始めたらしい雨が、斜めに水滴を走らせている。島影は既に視界から消え、靄を背景にゆっくりとこちらへ向かってくる採石運搬船が見えた。


岨道

  右肩

 足下から小石が落ちていきました。岩を跳ねながら雑草や松の枝に当たって、途中まではそれとわかったのですが、直ぐに見失われ、激しく打ち寄せる紺碧の波に呑まれて延々と続く怒濤の音に紛れてしまいます。この道を伝って、武田の軍が今川の支城の一つを攻めたことがあったそうですが、その時にも十人近い鎧武者が転落して死んだということです。両手を広げ崖にしがみつくようにして、なるべく下を見ないで済まそうと思うと、つい脆いところへ足を下ろして道のへりを崩します。僕はもうこの先の、平坦な当たり前の地面に立てることはないのかも知れない。そう思うと余計膝に力が入らなくなって、仰向けにのけぞりながら転げ落ちてしまいそうな気持ちになるのです。
「頑張りましょう!」
と前を伝う木島さんが少し掠れた声を張り上げるのですが、こういうときには逆効果です。手の使い方だとか、足の運び方だとか、もっと冷静で具体的なアドバイスが欲しいところです。そう思っていると、「あっ」という短い悲鳴が聞こえ、がらがらと岩の崩れる音とばきばき木の枝の折れる音が続きました。どぶん、という水音も激しい波音の間に聞こえたような気がします。
「今村さん、今村さんが落ちたっ」
と木島さんがわめきました。僕は怖くて自分の後ろについていたはずの今村さんを振り返って見ることができません。もう何の掛け声でも構わない、安心感が欲しくてすがるように木島さんを見ると、大きな顔に汗の粒をいっぱい張り付かせ、僕の後ろへと目を大きく見開かせています。その目と目線を合わせようとして、「木島さん」と声を出し始めた瞬間、下へ引っ張られるように木島さんの体が姿を消してしまいました。


トトメス3世

  右肩

 トトメス3世は、かつて僕の飼っていた猫の名前です。非常に癇の強い猫で、いつも神経質そうに前足で首の裏を掻いていました。特に雨の前の日にそれは激しく、餌皿を持った僕の手をいらだたしく爪で引っ掻いてまでそんな行為に没頭するのでした。これがあんまり激しかった年、七夕の日に豪雨が襲い、天竜川の鉄橋が倒壊したほどです。雨に興奮する猫だったのです。
 それは彼が目を閉じるごとに、どうにも不吉な夢が襲って来るからなのです。つまり飴色の鼠の大群が押し寄せて、彼の眠りの海の中へずぶずぶと押し入ってくるのです。とてもおいしいので、トトメス3世はやってくる鼠を手当たり次第に食べるのですが、食べても食べても雨粒のように押し寄せて来るのです。しまいには尋常でない満腹感でくたくたになり、吐く息にまで鼠の血が混じるほどですが、それでも鼠の来襲は止みません。眠りの海の領域は、トトメス3世の意識の7割を上回るのですが、広大な海も徐々に徐々に丸くふくれあがった鼠の死骸で埋まっていくように思われます。それは彼が目を覚ますまで延々と続きます。来る日も来る日もこんな夢が繰り返されるのですから、夢の海は次第次第に狭められてゆきます。このままでは彼の心地よい眠りは飴色の鼠にまったく奪われてしまうに決まっています。
 こんな状況に置かれた猫ですから、彼には死を待つことのほかには頭の後ろを掻くより仕方がなかったのです。いや、他にどんな選択肢があったというのでしょう。彼が亡くなって30年近く経ちますが、食事の最中に時々箸を止めて、僕はあの気の毒な猫のファラオのことを思い出すのです。


私家版・死者の書

  右肩

 ロードスターのトップをオープンにして走っていると、地上すれすれを飛んでゆく桃色の海月のようなものと擦れ違い、思わず身体をひねって振り返った。だから、僕はカーブを曲がりきれず激突し、死んだ。白いガードレールに車体が突き刺さる。僕の実体が大音響の真ん中で揺すられ、一気に肉体から外れた。最後に見たのは半分黄葉したイチョウの街路樹だった。それが破砕されて広がり、緑と黄色の無限のタイルとなった。タイルは猛スピードで攪拌される。攪拌されつつ視界を満たす赤い雲の懐へ、延々と、音もなく、なだれ込む。その破片の一群は、あれは僕自身なのだ。と、臨死の僕が理解する。子どもの頃神隠しの森で見た夕焼けの匂いがしてきた。激しく変形した車から、僕の動かない片腕が突き出ている。それが見えた。

 僕は、人間の数十分の一ほどしかない大きさの鳥人となって、雑然とした机上に置かれた白いコーヒーカップの縁に、外向きに腰掛けていた。何処の誰の机かはわからない。積まれて崩れ落ちたポストカードの束をすぐ下に見下ろしていたけれど、そこに書かれているのがどの国の言語かすらもわからない。僕にとってそれはもうどうでもよいことだ。コーヒーの匂いのする湯気が背中から全身を包み、僕の体はじっとり濡れている。たたんだ翼では、密生した白い羽毛の先へ、じわじわと滴が流れ始めているようだ。
 やがて女性が飲みかけのコーヒーを飲むため、やってくる。何処の国のどんな人種で、どんな顔をして何を考えているのか、僕は知らない。特に興味もない。ただ、性器の痛ましい乾き具合や、子宮で醸成される重苦しさへの共感だけがある。受胎告知をするにはそれで充分だ。処女が受胎し、僕がそれを告知し、そのあとに何か、大きな、意味の塊がこの世界へ繰り出してくる。それが何かは僕の問題ではない。何だろうそれは?

 部屋の窓から、青紫の山なみや蛇行する川のきらめきが見える。地形の起伏に沿って緩く波打つ麦畑。麦秋。正確に発声されるソプラノの旋律のような、麦の色。所々の立木がひらひらと新緑を翻している。近景は窓枠で唐突に切断されているが、こちらへ向かう径をゆっくり歩いてくるいくつかの微小な影も見える。あれが人間である。これから誕生する何かによって、大きく揺さぶられる群体のかわいそうな一隅だ。あれらもやがて赤い雲へと流れ込むべきものの一部だ。

 あるいは、生まれ来る大きな塊は僕自身なのかも知れないし、来るべき変動の中で真っ先に粉々になる甲虫がその時の僕なのかも知れない。その両方かも知れない。とにかく役割を終えた僕は、翼を開いたまま茫洋たる未来へ向いて変容していく。そのことはわかる。
 今はこの位置から見えない太陽が、おそらく僕なのだ。雲の影が地上を滑らかに這って進む。背後にあるもの。昼を作り、また昼を作ろうとするもの。夜を作り、また夜を作ろうとするもの。


クウキ

  右肩

 八月二十三日、病棟三階。廊下の窓からすぐ下を見ると、向こうは微妙に歪みを持つ木造アパートで、その狭い庭に蓬、茅萱が密生する。

 午後の直射日光から沈む混濁。混濁の草いきれ。

 芙蓉のひと叢は、屋外階段の先、二階の部屋のドア付近へ届こうとしていた。麻の開襟シャツにジーンズ姿の僕がセブンイレブンのレジ袋を持ってそこに立ち、病衣を着た僕と目を合わせる。

 その僕が立つ背後のドアのさらに背後、室内の上がり口には、扉付きの下駄箱があり、その上には丸い金魚鉢。蘭鋳が泳いでいる。

 鉢のガラスを隔てた蘭鋳の視野に衣料メーカーのカレンダーが掛かり、グアム島の海岸に立つ、白いワンピースの少女が八月のグラビアの中にいる。

 麦わら帽子を被り、こちらを見て笑おうとしていた。笑う直前の表情にまだ不安が残っている。

 金魚の視界で、映像は人の形を結ばない。茫洋とした色彩が染みつくだけだ。しかし、その中にも不安は飛散し赤茶色の細かい染みを作っている。既に秋の冷気を持つ点。点々。

 あらかじめ敷かれた軌道を、総ての生物と無生物が滑らかに遅滞なく移動する。

 たとえば病棟の窓へ舞ってくる菓子のビニール袋に書かれた「太子堂」という太文字。それがすすっと表意の役割から離れ、爪先できりきり回転しつつばらばらな言葉の隙間に落ちていく。そして光の裏側、闇の深みに音も無く吸い込まれると、もう戻らない。

 少し前、医者から再検査を言い渡され、ショックを受けた。命の終焉がドラマの形をとって動き出したように思えたのだ。サイドブレーキの故障した2トンほどの積載量を持つトラックが、ゆっくり坂を滑り始めたような気がした。もちろん、運転席には誰もいない。

 病衣の僕は窓に向かったまま、アパートの前に立つもう一人の僕に繋ぎ止められている。

 金魚の視界の中の、白いワンピースの少女が実体を失って世界を浮遊していた。空気の中に溶け込んで、誰にも見えず、感じず、何の影響を及ぼすこともない。それは人間の五感には既に捉えられない存在であった。

文学極道

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