文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2008年4月分月発表と2006・2007受賞者へのお願い

2008-05-19 (月) 19:54 by 文学極道スタッフ

2008年4月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
4月分月間優良作品・次点佳作

また、周知の通り2007年年間各賞が発表になっておりますが、
書籍化のため、受賞者の方々の了解と情報が必要です。

昨年はダーザインの不徳で書籍化が延期されましたが、
今年は2006年分とまとめて書籍化する予定です。

2006年、2007年の殿堂入り者、各賞受賞者、各賞次点、選考委員特別賞受賞者の方々は、
webmaster@bungoku.jp
宛てにご連絡ください。
掲載する作品を何にするか、書籍で公開してもいい受賞者の個人データ、
できた書籍を受賞者に送るための実際の住所氏名等の連絡が必要となります。
よろしくお願いいたします。

2006年の受賞者の方々については、全て情報を頂いておりながらダーザインのパソコンが壊れてデータを失ってしまいました。
申し訳ないです。今年からはそういうことが無いように、bungokuアドレスで連絡を取る等対処しております。
まだ連絡の無い方が複数おります。二度手間を掛けることになった方々には特に申し訳のないことですが、よろしくご連絡お願いいたします。

また、2006,2007の各章受賞者、次点、審査委員特別賞受賞者で、本に作品を載せる気が無いという人もその旨ご連絡ください。

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3月選考雑感(平川綾真智)

2008-05-03 (土) 16:25 by a-hirakawa

今回も勉強になりました。
ありがとうございます。

ただ選考の際、果肉と果汁の量が適切でない果実があまりに多く投稿されている感を覚えました。
実、がとても良い場合、摘み取るタイミングなどをもう少し考えるべきなのかな、と様々なことを考えさせられます。

優良に推挙された5作品はそのタイミングを上手く見極めていた作品なのかもしれません。
おめでとうございます。

さて、次点佳作作品に関して触れていこうと思います。

2675 : 四月の海  凪葉 ('08/03/25 07:42:23)
は、優良へと推す声もありました。が、2連目と最終連がおろそかになっていて、もっと先に行ける作品のはずなのにそこまで足を伸ばせていないという理由から、次点に留まりました。2月の作品、「無題 」は確実に先へと伸びていたので、その地点からかなり後退した無難な地点にある作品のように感じさせられたのかもしれません。3、4連の微かなのに確かな展開は面白いですね。

2638 : ココナッツマン!ワンダーランドの町を出る  ミドリ ('08/03/01 16:41:23)
は、私は優良に達していると思いましたが、軽さが災いしたのか次点に留まりました。久々に面白い作品だと感じましたし、とても良い素材、視点、書き方だとは思います。理屈抜きで楽しませてくれる地盤での魅力に、後一歩、欠けていたのかもしれません。

2666 : 夕暮れまで  鈴屋 ('08/03/18 22:33:57 *1)
は、限りなく優良に近い位置にある作品だと思います。点数もなかなかの高得点ではありました。良い眼は細胞まで見据えていて、それに振り回されてもいないのですが、3連と6連の色彩と肉感はもう少し作用した方が高まるように思え、「?」の連打は、読み手の感情を削っていくように思えます。そこが次点に留まらせたのかもしれません。ただ、間違いなく良い書き手ですし、それを見せつけてはいる作品だとは思います。

2671 : 「 犬雨。 」  PULL. ('08/03/20 19:26:35)
は、非常に丁寧な作品なのですが、文体が借り物くさく、勉強家ではあっても自身から出てくるものはほとんどないのではないか、と感じさせるものがあり、次点に留まりました。作者は毎回丁寧に作品を仕上げていて、今回は、読み進めたくなる跳躍が作品に響いていて、残響も逸れていません。しかし、何度も読み返したくなるような魅力に欠けているのかもしれません。PULL.さん独自の視点や文体が完成した時、その問題点は全て改善されるように感じます。

2637 : 沼地  殿岡秀秋 ('08/03/01 10:10:51)
は、作者が作品の細部を知り書き込めていないのではないか、という理由から次点に留まりました。内容、素材、作者の眼、全てが優良に達するだけのものがあるはずなので、微細な部分に気を付けて欲しく感じました。もっと素晴らしい作品のはずだと、どうしても思えてしまいます。

2649 : 桜色のトンネルで  はるらん ('08/03/04 04:59:50)
は、もっと五感を引き出していく色彩を描く筆が足りないのではないか、という理由から次点に留まりました。しかし、足りない部分はたくさんあるけれども、嗅ぎ入れてしまう作品です。

2664 : (無題)  fluke ('08/03/18 01:32:36)
は、勢いを押していきすぎる点があまり上手く作用していない、という理由から次点に留まりました。アップル連呼はあまりよろしく思えませんでしたが、つなぐ呼吸が抜群で、その点は実に面白かったです。

2653 : 朝の陀羅尼  いかいか ('08/03/08 00:37:16)
は、宗教的言葉、単語が境界をもつれさせているという理由から、次点に留まりました。内面はよく伝わります。悲しい、寂しい文章です。ただ、文化で戦が起こるほどの地盤の単語、それはもっと深めていって然るべきだと感じます。濃さの中から覗く作者が多くの単語を使いこなせていると思えませんでした。

2672 : マフラーは長すぎて  ピクルス ('08/03/20 23:48:27)
は、詩情はあるけれども橋渡しが欠けていて自己完結しすぎている印象を受ける、という理由から次点に留まりました。上手ではあるけれども、節制し過ぎで情感が足りない、という意見もありました。罅から雪崩れ込んで来るだけの美は存在していないように思え、良い果実なのに報われていないように思えます。

惜しくも選からは漏れましたが、その他、

2679 : 羊  榊 一威 ('08/03/29 15:49:58)

2640 : 千年地図の旅  まーろっく ('08/03/01 23:20:16)

2659 : ぼくになる  殿岡秀秋 ('08/03/13 06:15:46)  

2646 : 「 裂けるため、の眼の。 」  PULL. ('08/03/03 09:21:46)

2663 : 屍姦  ベイトマン ('08/03/17 23:53:29)

2680 : frog  田崎 ('08/03/29 23:43:35)

などが注目されていました。

以上です。

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続、総評。

07:23 by kemuri

一条「milk cow blues」

 一条という書き手は、わからない。一条氏について語れる書き手など一人もいない。それほど、氏の作品は強固に批評を拒む。着目すべきガジェットは巧妙に隠蔽されている、ないしは存在しない。意味性や外部との連なりはあと一歩で指先から滑り落ちていく。しかし、この書き手ほど解答不能の喜びを読者に与えてくれる書き手もいない。それは、抒情ではない。あるいは個人性でもない。なんだかわからない、答えようがない。しかし、それはどこにも接続されないテクスト、読者と無関係に荒野に立つ塔を意味するのではない、氏のテクストには入り口がある。どうぞ、立ち入りは自由ですよ、とこの作品は言う。そして、実際に我々はどこかに辿り着く、氏の作品が「いい作品だ」という答えだけは提示される、何かが掌の上に残っている。しかし、読者はその道程を踏破したにも関わらず、自らの感覚の根源が見つけられない。「鴎」「黒い豆」…この書き手に対して与えられた「殿堂入り」という称号は、言ってしまえば発起人の敗北宣言にすら近い。誰一人として、自分が歩いた道を説明出来ないのだから。一年目、ぼくは「創造大賞」を受賞させていただいた。しかし、ぼくはここに認めてしまって一向に構わない、真に一年目最も優れた書き手として表彰されるべきはこの書き手だったと、ケムリは思う。批評には、作品と自己その両方に対するディスクリプションが常に必要とされる。作品と自己は対置され、批評すべきは作品ではなく、あるいは自己ですらなく、自己―作品の間に交わされた交歓そのものだ。しかし、この書き手の作品に触れたとき、読者は気づく。私達は自らについてすら語りえない場所を持っている、この作品が言葉を交わしているのは、我々のどこかにある語り得ないブラックボックスそのものだ。「殿堂」という称号は、「棚上げ」のような意味を持ってしまうかもしれない、しかし同時に言えば批評の限界は今のところ、ここにあるのだ。一条氏という存在は、文学極道の喉に刺さったさかなの骨である。発起人はもちろん、この骨を抜こうとしている。氏の作品に見られるムラがさらに悪化するようなら、この称号からは落下するであろうし、また我々の批評力の向上にも期待していただきたい。今年は魚の骨を引っこ抜くことは出来なかった、だが来年は引っこ抜いてやる。これは、批評をする者にとって大いなる喜びであることを隠す必要はない。我々は、沈黙しない。待ち続け、挑み続ける。

さちこ(藤坂知子)「繋音」

 生命が去っていく、あなたが去っていく、深い森の底へ。この書き手の中で「生」と呼びえるものは「あなた」しかいない。バシュラール的な象徴的語彙、風の終わりとは即ち死を顕し、森の奥は人の知り得ない世界だ。彼は宙吊りにされている、圧倒的な死を与えられながらも、作中主体と死の森の間で僅かな猶予が与えられている。その猶予は音として表される。繋がれる音、それは掌に残った記憶の雫が乾いていくまでの、草に覆われていく(外部的な記憶―例えば彼は猫が好きできゅうりのピクルスが食べられなかった…そういった明晰なる歴史的事実に包まれていく)「彼」の身体が一本の道へと形作られていくまでの残滓。作中主体、「わたし」の中にほんの僅か残った彼の遺骸。人は、忘れていかなければならない。死人と向かい合ったままでは生きていけない、死人はいずれたった一つの道となる。それはもちろん、ぼくたちがいずれ歩かなければならない道程、即ち死(=森)への矢印なのだけれど、でもその道を前にしたときぼくたちはやはり、声を繋ぐことを選ぶのだろう。叫ぶべきものがなくても、掌に残った雫が全て乾いてしまっても、生きるならばぼくらは声を繋がなければならない。不恰好でも、唄にならなくとも、それでも声を上げなければならない。生命の音が途絶えた森の中で、歌わなければならない。示されている内容は切実であり、また共感も強く得られる、モチーフへの目の向け方も実に正しい。だが、この作品は象徴的語彙の形作る構造性に比して、描写に甘い点が多く観られることも最後に指摘させていただきたい。抽象性と具象性の入り混じりが、単なる空疎な行稼ぎ、「それっぽい語彙」の連なりに見えないこともない箇所がある。その部分に、一層の鍛錬を願いたい。もっとも、こういった作品は何らかの強い動機の上に成立している(リライトをするような、あるいは技術を問題点として取り上げるような性格のものではない)可能性が強いことも、同様に認めねばならないけれど。

最優秀レッサーミドリ

 レスというのは、報われない作業だ。真摯であればあるほど、作品に対しては厳しくなる。そして、「正当な批評」というものはきっと、この世のどこにも存在しない。強いて言えば、ぼくたちが属している世界の構造的な決定事項、つまり資本主義的批評―売れれば正義ということ―くらいが一面的には正しいのかもしれないけれど…。(なにせ、ぼくらはカネがなければ死ぬのから)でも、そんなのクソ食らえだ、そうじゃないか?
 もちろん、この批評を書いているぼくのように、賞賛すべき対象に対してのみレスをつけるのであれば、それはそれほど苦痛な作業ではない。それどころか、大いなる悦びですらありえる。しかし、誰かの作品―それは、時には作者の人間ともイコールであると考えられることすらある―について、なんらかの批判やアドバイスを行うということは極めて苦しいことだ。もちろん、ミドリ氏の批評に対して納得のいかない思いを抱えている人間も決して少なくはないだろう、なにを隠そうぼくもその一人である。ついでに言えば、ぼくの批評に対して同様の思いを抱えている人間はもっと多いはずだ。しかしぼくは役柄という仮面をかぶり、やるべきこととして批評をする。尻をムチで打たれて走る人間は、常に評価になど値しない。それがぼくだ。だが、ミドリ氏は違う、なんの強制性もない場所に立って、自らの語彙を他人に対して与え続けている。それも、感謝されるとは限らない、それどころか多くの場合に於いて反感を買うような場所で。言うまでもなく、批評を続ける人間は磨り減っていく、語るべき語彙が、あるいは動機がそんなにあるはずがないのだ、普通は。豊富な語彙で衒学自慢に陥ることなく、語りかけ続けるレッサー、ミドリ氏に。感謝を述べたい。またこの賞に関しては、敢えてその役柄だけを選び取り精力的にレスをつけ続けてくれたひふみ氏、実感的な言葉で日常のうちに、身体感覚と不可分の率直さでレスをつけてくれたCanopus(角田寿星) 氏、そして多くのレスを続けてくださっている諸氏に、ありったけの感謝を。

最優秀抒情詩賞及び実存大賞次点
紅魚ピクルスいかいか葛西佑也、そして候補に名を連ねた書き手達。

  それぞれ本賞受賞に一歩及ばなかったものの、発起人の票を集めた書き手達。選考者によっては、それぞれの本賞における第一候補として名前を取り上げられている方ももちろんおられます。しかし、悩んだ末のことであると了承していただきたいのですが、ここに列挙された一級の書き手たちについて、ぼくは批評を書く資格がありません。ぼくは「推した側」に入っていないからです。この選評について、ぼくは正直に、本来の意味で「称える」あるいは「価値を語る」批評をしたいと思っています。であるからこそ、惜しくも次点に留まった皆様へ賞賛を贈る仕事は、ぼくがすべきではありません。選評を散々に遅らせた上、このような形は申し訳ないのですが、やはり「推した」発起人の方々がこの場で語るべきだと感じます。ぼくの口から語るべきことは、ここに列挙された書き手を強く推す発起人は確かに存在し、我々は長い期間を喧々諤々に争った、ということ。また、列挙するのみに留まってしまいますが、最優秀抒情詩賞の候補には夕美氏、実存大賞にはsoft_machine氏ためいき氏はらだまさる氏。新人賞にはレルン氏レモネード氏の名前が挙がっていたことを述べさせていただきます。上段に構えた物言いが自分の中では非常にムズ痒いのですが。より一層の躍進を心から望みます、良い作品を切磋琢磨する場であるためには、皆様の作品が必要です。来年は、今年度の受賞者から賞をムシりとってやってください。また、流離ジロウ氏「にじゅう年の熱帯の鳥」haniwa氏「よるにとぶふね」の二作は、賞の基準には及ばなかったものの、名前をここに記すべき作品であると選考の中で複数の発起人に語られていたことも付け加えさせていただきます。「にじゅうねんの熱帯の鳥」はぼく自身も大好きな作品です。このブログがあって、良かった。

吉井「れてて」

 最後になりましたが、ケムリ選。ええと、これだけは言わせてくれ。この書き手に対する評価が不当に低いとは思わないか。いや、俺は思うんですけどね。この書き手に対して、俺は批評なんかしたくないです。ここまで書き上げて、気がついたら夜が明けていたりもするし、ビールが五本空になり、オールド・グランダッドが一瓶空いてしまったわけなんですが。今日はこれからバイトだよどないしよう。そんなときに読む「れてて」はじんわりと心に染み入ってくる、なんだかわからないものが、じんわりと。うひぃふふほーういい天気だ、雨降ってますけど。言っちゃなんですが、ここまでつけた選評はぼくの全てをこめました、いささか拙いであろうし、誤字チェックも甘いですが、それでもこれはぼくの全てです。そういうわけで、本当に疲れました、灰皿がサボテンみたいなことになってるし。それでも、「れてて」は染み渡って来る、もう、それでいいんです。批評は出来ないししたくない、でもとにかく俺はこの書き手の書く文章が好きなんだ。それでいいじゃないかということでケムリ選。うひぃふふほーう疲れた。れ れて れてて、何度も読み返してください。ほら、何かが染み出して来ませんか?来るだろ?来るはずなんだよ!

さ。
さて。
さてて。
文学極道三年目、いささか遅れましたが総評は以上となります。いや、まだ不足があったり「あれ書き忘れてる」とか「この人忘れてる」とかの可能性もあるかもしれませんし、ぼく自身が大慌てで加筆する可能性もありますが。それでも、これをひとまず幕とさせてください、少なくともケムリの下手糞で長ったらしい語りはここで終わる予定です。でも、まだまだやります。まだ、きっとやれる筈です。そして、来年もこういった総評を、本来の意味での批評をぼくに書かせてください。その時を楽しみにしています。ぼくは、批評をするに足りる人間ではないかもしれない、いやきっと足りないだろう。でも、足る人間であろうと努力します。そして、必死で作品を読みます。それだけは、約束させてください。

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年間総評、初めてぼくは本当に批評する。

2008-05-02 (金) 21:18 by kemuri

 船頭多くして船は山に登る。山どころか、空の果てまで行ってしまうような選評だったと言って間違いないだろう。ご存知の通り、発起人諸氏はかなり癖の強い人間が集まっている。ぼくのような無個性極まりない人間には辛い選評であったとまず雑感を述べたい。要するに、モメまくったのだ。おかげで発起人達は長い時間を悩み、ぼくはシャンプーとトイレットペーパーを三度も買い忘れた。この批評文は、文学極道に於ける本賞を受賞した諸氏に贈る純然たる感謝と賞賛の言葉だ。

 発起人には当然ながら、気に入った書き手がいる。それは、例えばぼくの場合にすると吉井氏なのだけれど。個人の評価と全体の評価というのは凡そにして噛みあわない。そして、これはもっと確実なことだけれど、意見のすり合わせは限りなく不可能に近い。密接した小国の領地争いのような戦いが日々繰り広げられ、ぼくはダーザインに背中を撃たれたりもした。ただ、それでも今回の選評に於いて、その最も軸になる部分「ずば抜けた作品はどれだ?」という部分において、発起人の意見はほぼ完全と言っていいほど一致した。皆まで言う必要も無い。

宮下倉庫「スカンジナビア」

 見事な作品である。創造大賞の一年目はぼく、二年目はコントラ氏が受賞しているわけなのだが、三年目にして最も完成度の高い、練熟にしてリーダビリティに優れた豊穣なる作品である。コントラ氏と初年度のぼくは、全く逆の欠点をそれぞれ有していた。ぼくはイメージを比喩の形で一つのイコンとして結実させ、飛び石のように重ねていくスタイル。コントラ氏はベタ足のインファイト・ボクサーのように一歩ずつ前へ前へと描写を重ねていくスタイル。それぞれの作品を読み直せば、この特徴は容易に理解されるだろう。そして、宮下倉庫はそのいずれのスタイルも使いこなす。「なるほど、君たちのいいところはそれなりにわかった、ではこんな具合でどうだろう?」とでも言いたげな筆致。もちろん、この書き手がぼくらに影響を受けたなんて大それたことを言う気はない、スタイルのバランス感覚があまりにも適切である、ということだ。この書き手についてはいずれ独立した形で批評文を献じたいと思っている。学ぶことが最も多い書き手であることを、もはや誰も否定出来ない。この作品を一番高い位置に持ち上げるということは、即ち読者への無言の(それでいて明確な)主張を表す。「この作品に学べ」ということだ。

りす(袴田)「赤い櫛」

 それを追いかける形で創造大賞を同時受賞したりす氏。誰もが常に高く評価し続ける寡黙な書き手、常にスタイルを破壊し続けていく書き手、その作品に通底するのはあくなき実験精神であろう。作品の主軸ではなく、方法論を問い続ける書き手として、宮下氏の創作方向とも似たものを感じる。そして、この文学極道が鍛錬―それは即ち実験を意味する―の場であることからしても、氏の実力と精神性は受賞には十分足る。しかし、この書き手は何故かナンバーワンから常に一歩退く。批評に向かい合う姿勢は常に真摯そのもの、自己模倣を嫌い続けスタイルに安住しない精神、そして確かな技術。ありとあらゆる技巧を軽やかに使いこなす妙手。全てが満ちているはずだと誰もが思っている。多くの人が心の中で密やかに思っているはずだ「みんなあんまり声高に言わないけれど、あの人の作品っていいよね」その通り、そんな書き手である。この書き手に不足するものはなんだろうか、それはぼくにはわからないけれど(わかるわけがない、そうじゃないか?)ぼくはこの書き手が「何か」を獲得する日が近いことを、追いすがる全てを振り切る何かを獲得することを、強く信じている。いや、そうでなければならない。

浅井康浩「No Title」

 ぼくも明日にはチェンバロの歩く平野に帰りたいと思う。文体という名の草木が芽吹き、やわらかい水がつま先を濡らす、暖かで小気味良い砂利を含んだ土に足を沈めるとき、人は思う。スタイルとはこれほどに抒情性を帯びるものなのかと、技巧とはこれほど豊かなものなのかと。それは、例えば八月の潮風に似ているし、目を覚ました時の一杯の水にも似ている、太陽の匂いがする毛布にも似ている。浅井康浩氏の作品が「最優秀抒情詩賞」を受賞したことについて、ひょっとしたら異論がある人もいるかもしれない。この書き手の技巧とスタイルについて異論を挟める人間は一人もいないとしても。詩が、もしも何かを―書くものだとしたら、抒情というのはモチーフにアプリオリに根ざすものだと考えるとしたら、それは間違っている。この作品と不可分の場所に生まれて来る感情を揺らす作用、それこそがより原初的な形での抒情なのだ。ぼくたちは海のために泣くことが出来る、飛んでいくからすのために泣くことが出来る、九月の夕暮れのために泣くことが出来るのだ。そして、その名状しがたい抒情性を扱いこなす技巧、それこそが浅井文体の魅力である。氏は、今年度圧倒的に抒情性を増した、我々批評する者を泣かす「出所のわからない情感」を見事に使いこなして。技巧に沈潜するのではなく、技巧の持つ意味をはっきりと示した、ぼくはこの作品から与えられた感情を比喩の限りを尽くして「良く似たもの」として表象する、でももちろんそれは間違っている。だから、誰もがこの作品を読むといい。最優秀抒情詩、毛先一つの間違いもない。

泉ムジ「corona」

 今年度の選評における、最大の論点。最後の最後まで宮下倉庫と鎬を削り続けた名作。そして、たった一作にして最優秀抒情賞を獲得した書き手。泉ムジという書き手について、ぼくは多くのことを知らない。ほとんど何も知らないに等しい、それは発起人諸氏の全てが同じだった。にも関わらず、この作品は我々にとって永久に顕示し続けるべき魅力に満ちている。この作品は、幾つかの解釈の迷宮を我々に投げかける。そして、どのような読み方をしようとも流れていく時間性、永劫に僅かに触れた感触が指先に残る、端的でありながら十分な描写、多様な解釈を許しながらもテクスチャとして立ち続ける強度。そして、豊穣なるイマージュ。描写の節々が、永劫の一切れが静止し視界を埋め尽くす瞬間、我々は詩の中で立ち止まる。語られるものの中で立ち尽くす、そして膝を折り、無言の下に祈る。そこには、語られたものと聞き取ったものを越えた何かが浮上する、一枚の絵、あるいは一つの構造、そして一つの作品。その中には永劫が満ちている、鳥の羽根としての我々が触れたのはあまりにも巨大なえいえん。名状しがたい何者かを連れて、この作品は永劫を誇示し続ける。人間の持つ永劫を誇示し続ける。それを抒情と呼ばずして何と呼べばいい?Sein―ただ「ある」ということ。そう、この作品はここにあり続ける、永遠の一片が折り重なる場所に。

軽谷佑子「晩秋」

 ぼくたちは同じものを見ることが出来るだろうか。ぼくは机を窓際に置いて、いつも半分だけ開けているカーテンの光が差し込む場所に灰皿を置いているんだけれど。そこから無数に突き立った吸殻の陰影を、そういう確かにあるものを、ありのままに書くことがあまりにも難しいことを知っている。ねぇ、気づいているんだろ。ぼくときみはわかりあえない。同じものを観ることが出来ないからだ。ぼくはこの書き手に尋ねたことがある、「そのイマージュは何らかの比喩性や、あるいは意味を持っているのか?」と。言うまでもなく答えはNOだった。「鳩が垂直に降りていったんです、すーって」ぼくたちはそろそろ気づかなければならない、断絶された自己と他者、「違い」というものはこれほどに豊かなことなのだ。そして、世界を観るということは容易なことではない。ぼくたちの世界のあらゆるものは、意味に汚されている。モネの絵をみたことはあるだろうか。我々は光を介して世界を見る、つまり世界の「見え方」は常に、光とともに変化し続けている。にも関わらず、我々にとって青は青でなければならないし、赤は赤でなければならない。(そうでなければ、世界は交通事故で満ちる、もちろんコミュニケーションの上でも)語られた世界というのは、通じ合うためにその豊穣さの多くを削り落としている。ただ真っ直ぐに世界を観るということ、介在して来る意味に汚されない目線、エポケーされた世界。これは、実存という言葉と強く結びついている。そして、その世界からあなたは何を汲み取る?この古典的でありながら、実存的という意味を体現した書き手の目は、一体何を示唆する?(あるいは何を示唆しない?)その全てはあなたに託されている。そのディスクリプションの透明さ、それは実存なんて語彙ではむしろ不足だ。気づけよ、他者はこれほどに豊穣だ。

みつとみ(光冨郁也) 「サイレント・ブルー」

 ざくざくと切られた素っ気無いとすら思える文章。読点によって整えられたリズムは時々破綻を感じさせるものの、ざらついた主体のありようを明確に立ち現す。書き手の調律された自意識が描写の中に滲みだす。自己と作品の癒着や、どうしても滲み出してしまう自意識は描写で対価を払う。作中主体を中心として描きあげられた心象世界。地に足がついている、描ききろうとしている。みつとみ氏のとる手法は古典的であるが故に、ある意味で最も難しい。この書き方で、書き手のナルシズムを殺しきる、あるいは昇華させ切るのは容易いことではない。(氏の作品の中にはこの失敗を免れていないものも多いことを、ぼくは否定しない)しかし、連ね続けた描写と詩の原動力としての自己、その二つが分離でもあるいは完全な同一化でもない場所に辿り着いたとき、語り得ぬものは生まれ、陳腐な自意識は舞台の袖に下がるだろう。内省と自意識、そしてナルシズム。詩を書く上での最大の敵は同時に詩そのものの生まれる場所でもありえることは誰にも否定出来ない。「サイレント・ブルー」を読む時、みつとみ氏という書き手、そして作中主体、そして読者。この三つは寄り添うことを拒否しながらも近寄り続けていく、まるで冬のはりねずみみたいに。孤独の青みが満ちた世界性の中で、沈黙が重なる場所を探っている。いつかその手が自己の、あるいは他者の魂を捕えることを願ってやまない。わたし、しかいない場所には、やはりわたししかいない。だが、そのわたしが誰を指し示すか。

兎太郎「地蔵盆」

 技巧と本質、形式と内容…この二項対立について考えない書き手は存在しないだろう。それらは独立しては存在しえない。というのも言葉は何か―を語るものであることを禁じえないし、何か―が言葉と密接に結びつき合っていることも同時に否定出来ないからだ。あらゆる書き方は技巧のうちに語ることが出来るし、あるいはあらゆる内容は外部コンテクストの内に語ることが出来る。兎太郎氏の作品には極めて不足が多い、文章はリズムを欠いているし描写には無駄や不足も多く見られる。しかし、その語り口(そう、不足すらも技術の文脈で語りえる)の内に明晰なイメージと飛躍が、不可分の形で生まれて来る。だから、我々は悩むのだ。「技巧の不足は確かに感じる」(しかし)「その不足そのものが魅力と分かちがたく結びついていることも感じる」。無論、より突き詰めた物言いをすれば、「不足」を感じさせることはマイナスである、しかし生まれて来るイメージはその不足を前提として結実している。言いたいことはたくさんある、でもぼくはこの書き手を否定出来ない。巨大な伸びしろを持った書き手、新人賞の意味はそこにある。ぼくはあなたを認める、あなたの書くものを認める、それを失わないで欲しい。しかしその一方、不足も多く感じる。どうか、その魅力を失わないままに鍛錬を続けて行って欲しい、その願いをこめてこの賞を贈る。もし、ぼくの役目が「良い詩を書くためのアドバイザー」だとしたら、ぼくはその任に値しない人間であることをここに認めなければならない。ぼくに出来ることは、兎太郎氏の独自の魅力を高く評価していること、そして発起人諸氏に共通する強い期待を伝えることだけだ。

近日中に、選考過程のあれこれを記した文章、並びに本賞に近い位置に並ぶ書き手達への批評文、あるいは賞からこぼれた作品について書かせていただく。(本当はそっちが主題なのだ、実は)でも、ぼくはこの批評を書きたかった。そして、これを書かないことには何も始まらない気がしていた。ぼくは初めて、本当に批評をしたような気がする。もちろん、それほど優れたもの、これらの書き手達を賞賛するに足りるものではないにしても。

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