焼き菓子に喩える?
紅月さん。
「ピエタ」や「matria」などの読後は、滅びゆくものや亡くなってゆくものに対する追悼のようにもおもえる。
その文章のひとつひとつが重なりあうさまは、焼けた層の上に生地をかけながら焼く事を繰り返し、薄い層を10〜20層程度かさねてつくる焼き菓子を、わたしに思いおこさせる。
焼きたてのバウムクウヘェンを切り分けないままに手でちぎりながら味わうような、印象。
ひとさらのバウムクウヘェンをまえにわたしは座り、何ひとつ装飾のない、黒のワンピースを着る。その服は、わたしを引き立てるのではなく、あくまでヴァニラの香りがすぅ、っと消えてゆくまでの時間を、甘く媚びたものにしないための。
焼き重ねられた幾層もの生地の年輪にそっと指をさし入れて、そのいちまいいちまいの手ざわりを目を閉じて感じとれるまでに、わたしは背中をしゃっきり伸ばしてこれらの作品を読んでいたいと思う。
るさん。
「刈りとりの歌」や「ビャクシンの木」、はじめはそっけなく感じられる。
極上の「サクランボのリカー漬け」をつくる上での条件が、完熟には至っていない良質のサクランボをつかうことであるように、
この作品の「完熟してなさ」具合が、わたしのなかでの「読む」という時間のいろいろな要素を試すアプローチを与えてくれて、「おもしろい」の感覚がひろがってゆく。
るさんの作品を、焼き菓子に喩えるのは難しい。
むかし、アンリ・シャルパンティエにあった「のの字ロール」。
雰囲気が、柔らかなジェノワーズに似ている。あと、「の」と「る」も。
Posted in 未分類 | Print
| No Comments » |
葛本綾は、いつも不思議に思っていることがある。
それは、洋室のプリンターにたまった紙の束の中身についてで、
おそらくそれはパートナーの浅井がプリントアウトしたまま、持っていくのを忘れたものらしい。
普段、ビジネスの格式ばった書式しか目にしないので、一行空けていたりだとか、一行が数文字だけですぐ改行されているようなレイアウトは、新鮮に映るのだが、いったい、何を言いたいのか、その「詩」らしき文章からは読みとることができない。だって、「結論」なんて書いていないのだから。
数年前まで持っていたそのような印象が変えようと思ったのは、なにより、自分が出産を経験して、キャリアと育児の両立についてかんがえ、どちらかをとるのではなく、両方楽しみながら、余裕を持ち、肩の力を抜いてやっていこうと決めたからだった。
だから今は、勝間和代は読んでいない。愛読紙がAERAなのは変わらないけれど。
時折、浅井がプリントアウトした紙をじっくり読んでみようという気にもなることがあった。何をいいたいのかはわからないままだけど。
葛本綾は、素材の持ち味をシンプルに活かす、ということを大事にしている。
料理や、インテリア、こういっていいのなら生き方そのものでさえ、そうありたいとおもっているのかもしれない。
たとえば、普段の食器は、無印良品のボーンチャイナを愛用している。
だから、言葉を装飾して、見た目をゴージャスに飾る「詩」というジャンルにはあまり興味が湧いてこない。
だが、読み進めるうちに「詩」という印象も少しだけ、柔らかいものになっていく。
普段の食器には白を愛用しているけれど、食後の会話を楽しむためのミルクティーは、鮮やかな果物の描かれたアラビア社のパラティッシのシリーズに注ぎたい。
そのように、「詩」というものは言葉を、シンプルにも鮮やかにもあらわすことができるのかもしれない、とも。
そう思わせてくれたのが「る」という作者のひと。
bungoku.jp/monthly/?name=%82%e9;year=2012
なにより、シンプルすぎるほどの名前がいい。
そして、とても大切なことを書いているように思えたのが、「紅月」という人。
bungoku.jp/monthly/?name=%8dg%8c%8e;year=2012
パートナーである浅井に、そのことを伝えると、上から目線で「わかってるね」と言って
紅月という人について書いた文章をみせてくれた
紅月の方法論は、詩として書かれえた瞬間に、表面が意味によって固定化されてしまうことで失われてしまうものに絶えず視線を向ける
それは、「詩」を書くという行為そのものがもつ、境界線を引く行為が内包する未決定性を書くことであって、だからこそ、紅月の作品が成形されるのは、
「詩」が書かれることと、「詩」が書かれえないことの間をめぐって、である
「詩」のテクストである単語が書かれえる単純な事態であっても、置かれた単語が部分的に廃棄することになる「意味」、構築されようとする詩の「世界」から脱落するものにあえて視線を向けることで「生成」の瞬間に目を凝らすこと。
うん、何があっても浅井みたいな人間にはなるまい、と強く決めた。
この人は、素直に「いい」と書くことができないのだろうか?
とりあえず、とびきり上等に仕上げられた焼き菓子のような、二人の作者にふさわしい言葉はどのようなものなのだろう。
Posted in 未分類 | Print
| No Comments » |
年間各賞をとられたみなさん、おめでとうございます。
浅井が総評を書くことになりましたが、総評の依頼とともに一言そえられていた言葉があります。
「投稿者にも敬意を以て接していただけたら幸いに思います。 」
敬意、もちろん持ってます。
そのうえで月間や年間で「優良」に選ばれたことと、「優良作品」=「いい詩」というのは、それぞれ違ったレベルにあるという自覚は持っていてください。
みなさんにも選ばれた作品に敬意は持ってほしいですが、自分のなかの基準を差し置いてまで、それを優良とみなすことはしなくてもいい、ということです。
みなさんが投稿された作品は、非常に公正に、優良かどうかを選出しております。
でもそれは、作品を選出するシステムが公正であり、選ばれた作品が質的に優良であるかを保証するか、ってのは意味が違ってくるリスクを内包しているのかもしれない、ということです
発起人になって以来、どうも「優良作品」の選出システムってのが、デリバティブのように感じていまして、毎月優良作品が選出されるたびに、自分が詐欺師にでもなったような気持ちになったものですが、それは正直、年間でも感じている事です(御気分を悪くさせたのならもうしわけありません)
デリバティブ、つまり、部分的なAAAの格付けをもつ債権(作品)に、AAAでない大多数の債権(作品)をひとまとまりにして成り立ち、信頼できる格付け会社(文極の選出システム)にお墨付きをもらって、公表されているということなんですが
なぜ、浅井からみて、AAAでない大多数の作品が、優良の中に含まれることになるのか、というのはまた今度にします。
とにもかくにも、「年間各賞」が、作品の格付けとして客観的にAAAの評価を得ているのか、という基準を、文極スタッフだけでなく、選出された側も、あるいは選出されなかった側も持って、振り返りを行うことで、より健全な環境を作っていく必要があります。
それは、選ばれた結果が大事というわけではありません。
選ばれて良かったという受け身的な態度をあなたがとるのではなく、選ばれたメリットを考えて文極をせいぜい利用し、文極に利用されるな、という意味です。
前置きが長くなりました。
次回からは、受賞した作者についてみていこうと思います。
Posted in 未分類 | Print
| No Comments » |