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年間総評 1

Posted By 文学極道スタッフ On 2013-06-19 (水) @ 10:55 In 未分類 | Comments Disabled

葛本綾は、いつも不思議に思っていることがある。
それは、洋室のプリンターにたまった紙の束の中身についてで、
おそらくそれはパートナーの浅井がプリントアウトしたまま、持っていくのを忘れたものらしい。

普段、ビジネスの格式ばった書式しか目にしないので、一行空けていたりだとか、一行が数文字だけですぐ改行されているようなレイアウトは、新鮮に映るのだが、いったい、何を言いたいのか、その「詩」らしき文章からは読みとることができない。だって、「結論」なんて書いていないのだから。

数年前まで持っていたそのような印象が変えようと思ったのは、なにより、自分が出産を経験して、キャリアと育児の両立についてかんがえ、どちらかをとるのではなく、両方楽しみながら、余裕を持ち、肩の力を抜いてやっていこうと決めたからだった。
だから今は、勝間和代は読んでいない。愛読紙がAERAなのは変わらないけれど。
時折、浅井がプリントアウトした紙をじっくり読んでみようという気にもなることがあった。何をいいたいのかはわからないままだけど。

葛本綾は、素材の持ち味をシンプルに活かす、ということを大事にしている。
料理や、インテリア、こういっていいのなら生き方そのものでさえ、そうありたいとおもっているのかもしれない。
たとえば、普段の食器は、無印良品のボーンチャイナを愛用している。
だから、言葉を装飾して、見た目をゴージャスに飾る「詩」というジャンルにはあまり興味が湧いてこない。

だが、読み進めるうちに「詩」という印象も少しだけ、柔らかいものになっていく。

普段の食器には白を愛用しているけれど、食後の会話を楽しむためのミルクティーは、鮮やかな果物の描かれたアラビア社のパラティッシのシリーズに注ぎたい。

そのように、「詩」というものは言葉を、シンプルにも鮮やかにもあらわすことができるのかもしれない、とも。
そう思わせてくれたのが「る」という作者のひと。
[1] bungoku.jp/monthly/?name=%82%e9;year=2012

なにより、シンプルすぎるほどの名前がいい。

そして、とても大切なことを書いているように思えたのが、「紅月」という人。
[2] bungoku.jp/monthly/?name=%8dg%8c%8e;year=2012

パートナーである浅井に、そのことを伝えると、上から目線で「わかってるね」と言って
紅月という人について書いた文章をみせてくれた

紅月の方法論は、詩として書かれえた瞬間に、表面が意味によって固定化されてしまうことで失われてしまうものに絶えず視線を向ける
それは、「詩」を書くという行為そのものがもつ、境界線を引く行為が内包する未決定性を書くことであって、だからこそ、紅月の作品が成形されるのは、
「詩」が書かれることと、「詩」が書かれえないことの間をめぐって、である
「詩」のテクストである単語が書かれえる単純な事態であっても、置かれた単語が部分的に廃棄することになる「意味」、構築されようとする詩の「世界」から脱落するものにあえて視線を向けることで「生成」の瞬間に目を凝らすこと。

うん、何があっても浅井みたいな人間にはなるまい、と強く決めた。
この人は、素直に「いい」と書くことができないのだろうか?

とりあえず、とびきり上等に仕上げられた焼き菓子のような、二人の作者にふさわしい言葉はどのようなものなのだろう。


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