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る - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全8作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


白紙

  

あなたは、箪笥の奥に丁寧に重ねられて、歳月に洗われて黄ばんだ原稿用紙を束に持ち、ポケットに忍ばせたジャックナイフで切り刻んで。「死にゆく驢馬の最後の吐息みたいね」って切り刻まれて「泣いている紙だよそれは」、とわたしはあなたに告げるのですが、今度は流星群が飛来したかのように、斜めに幾筋も切られてあなたの腕の運動とともにびらびらと揺れる「火星人みたいなやつだね」は思いのほか赤い血で端々が滲んでいるんだよ。

わたしは刻む、幾年もがふり。あなたの小さな渦巻き管の中にそっとレモンを囁くように、わたしは刻む。尖った鉛筆の芯で、急カーブを描いたと同時に停止して、またゆっくりと始まりが訪れる、レコードの針が落ちる時、白い紙に海が生まれて、そこには見上げる空があるのです。わたしは刻む、あなたのからだに、わたしの愛を、さめざめ泣いたあの時のこと。

あなたは切る、グラファイトの散らばる星座の隙間を、それともそれすら断ち切るように、あなたは切る、「まだ誰も見たことのない星雲から見える星座みたいね」とわたしのからだを裁断しながら、「君に伝わらなかったいくつものことだよ」を、あなたは愛するのです、わたしを愛するように。空を見上げる。「これが私に伝わった形」が赤い血に滲んでゆらゆらとゆれる、あなたに見上げる空があることがわたしに出来る唯一のこと。

わたしは刻む、あなたは切る、二人に取り交わされた神経細胞の刺激を。白い紙があり、海が生まれて、そこには見上げる空があり、二人の星座が入り乱れながら。「悲しみの色合いはこんな形かしら」をわたしは両手で受け取って、「君はもう許されるべきだよ」をあらたにあなたのジャックナイフの頂に乗せるのです。「降り出した雨のように」罪は消えない、「心に刺さったまま」ふたり、夜空の星と街燈とネオンを数えて、何度でも繰り返される白紙に、海が生まれて、見上げれば、また


刈りとりの歌

  

罪のつくりかたをしらなかったから、小さく祈る手の中で幸せを噛み砕くことしかできなかった、さつきもつつじも萎れてしまった、季節外れの白い梅が咲いた。藤棚からたわみおちる蔓をひとさし指にからませて、むらさき色の花の名残、棘ほどでもない小さな突起を、まだやわらかな皮膚に留めておくの、木漏れ日のベンチでつちかった緩慢な愛情は、はじまりを求めず、おわりを求めず、ほほえむのではなくにっこりと笑う、刈り取られていく庭石菖にも春紫宛にも花の名前があるのよと言って、形状記憶の悲しい笑顔に種を落とした、サザンカよりもツバキが好きなのと言って、日毎に種を落としていった、にっこり笑ってと無理を言った、雨の降る日は川沿いにアヤメが咲いた、黄菖蒲だってきれいなものよ、傘を持たない二人には、カキツバタはきっと冷たすぎた。泣いてもよかった、涙はどんな花も咲かせないわと言った、罪のつくりかたをしらなかった、僕はそれでも小さく祈る手の中で幸せを噛み砕くことしかできなかったから、来るべくして来たその日には、ほほえむことさえできないでいた。

手向けられた花々を刈りとれ


僕とマーメイド

  

マーメイドはキッチンが気に入りで
僕はろくろを回すのが下手糞だった
あんな歪に出来あがった器に
マーメイドの目から落っこちた真珠が
カララン、と二重に音を立てた時
今のは砂浜で蟹が貝殻に落っこちた音に似てるよ
って言ったのが少しかなしそうで
僕はどういう顔をすればいいかわからなかった

マーメイドは怖い顔していた
右手に包丁を持って
めちゃくちゃにしてやるわ
って言ったのが聞こえたけど
ちょっと笑っただけで気のきいたことが言えるほど
僕のろくろ回しは上達していなかった
後ほど宣言通りみじん切りにされたニンジン入りハンバーグを
二人でおいしいと言いながら食べた

マーメイドはキッチンの曇りガラスの隙間から
下校中の小学生をみていた
上達のきざしが見え始めていたろくろ回しは
子供が欲しいな
って声でちょっと乱れた
彼女は笑いながら、土くれでいいじゃない
神さまだってそういうふうにつくったのよ
っていうから、ハーフだねっ、て言ったら
クォーターです、って笑った
いつの間にか居間には
ちょっとだけサカナな生物であふれ返った

マーメイドはサンドウィッチを作っていた
大分ましになったろくろ回しは順調だった
どっかに行くの、って聞いたら
あなたも行くの、って言う
どこに行くの、って聞いたら
お散歩、って言う
ホッキョクグマに会いたいなって言う瞳が
深い深い海のようで僕はまた変な器を作ってしまった

マーメイドは海が恋しくないの
って聞いた時、ろくろはスムースに動揺していた
わたし川専だから、と言われてお茶碗のなりそこないが土に後戻りした
あー、そこの天白川管轄だがね
え、どえりゃあ近いがや
たまには行くの、と聞いたら
あなたがいない時はしょっちゅうね、って言った
僕はお茶碗のなりそこないをまた作り始めた

マーメイドはうたを歌っている
曇りガラスの隙間から差しこむ太陽を助動詞にして


溺れる

  

彼女の趣味は緑黄色野菜を育てることでも青少年の腐った性根を叩きのめすことでもなくて。僕は未だ嘗てその母の寝息を聞いたことがなかった。日がな一日縁側に居座り、どうにも退屈そうな夕焼け空が明日の方向へ段々と陳列されているのを、いつまでも飽きずにみつめている母は。僕は彼女の涙を見たことがない、それはとても悲しい物語なのかもしれないし、全然そんなものではないのかもしれない。
ある日イシスはばらばらになったオシリスの身を嘆き、彼の体をかき集めたのでした。

ヴァギナの海に溺れていたんだ、
夜に、夜々に僕は磨り減る体を水面に浮かべて、ずいぶん画期的な夜空を拝見していた、これが宇宙、これが夜、これが散らばった僕の体。土嚢を敷き詰めて海の中に塁を作った、そこで僕が見つけたのは僕の体の一番大事な部分で、
僕はそれを拾う。

母のいないアパートの4階から僕は監視を命じられた女を見つめていた。台風のさなかにオレンジの傘をさしながら自転車をこぐ彼女の横から一塊の暴風がしたたか彼女を打ち付けて遠く、大気圏の外まで彼女を吹き飛ばしたよ。やれやれ空を見上げたら、思いのほか斬新な空と空と空と空とが明日の方向に向かってくだらない雑貨屋の品物みたいに月並みに陳列されていたんだ。僕はそのひとつを指差して、お前は美しい、と叫んだ。そこから彼女は降ってきた、彼女の名前はキャスリンで、まるでメルヒェンみたいに、つまりばかみたいに降ってきた、右手に傘をしっかり掴んで、とはいえそれなりのスピードを伴って、傍に広がる田園風景に交じり合いながら消えていったよ。

ある朝、パソコンの修理業者の声で目が覚めた。襖越しに、
このパソコンUSBポートが一つしかないぞ
馬鹿いうなこっちにもあるだろ
ああ、なるほど、こりゃ美味そうだ
その後聞こえた母の嬌声が妙に疎ましくてそのまま散歩に出かけて11ヶ月が経ったころに、お前、妹ができたよ、って、名前はふた子にしようかなと言うから、へんな名前はよしときなよ、と。だって二人目だからさ、という言葉が聞こえたとき、僕は自分の名前が三郎であることに驚愕した。それから僕は母が一人縁側で空を眺めている時を見計らって友達を呼んで、500円玉を受け取って、散歩に出かけた。斬新な空が段々と明日の方向へ伸びていって、僕は、

マリーは屋上が好きで、三十前半の男性がまだ仄かに瞳に野生を湛えながら次から次へと落っこちていくのが好きだった。
ケイトはサリーの友達で笑袋みたいなやつだったから、首を絞めながらアレする快楽を教えてやった。
ジェシーはイボ痔が男性器を歓ばせることを知って以来、いぼ痔の痛みはすっかり忘れてしまった。
京子は虫風呂に入るのがいやでいやでたまらなくなって発狂してしまった。
セイラは警官である父親のレイプに耐えられるようになったことに耐えられなかった。

縁側で母の隣で夕暮れ空を見ていたんだ。空のグラデーションはそれぞれ画期的で斬新な毎日がいかにも月並みに配列されて、二人は飽きずにそれを見つめて。彼女が、五郎は元気にしてるかな、って言った時、僕はそれを聞こえないふりして、空に向かって、お前は美しい、と叫んだ

したら、あいも変わらず斬新で退屈な空と空と空と空と空から
キャスリンが降ってきた、傘を広げて
ケイトが降ってきた、笑い転げて
ジェシーが降ってきた、京子が降ってきた、セイラが降ってきた
それなりのスピードで、まるでメルヒェンみたいに、つまりばかみたいに、
楽しそうなとこ悪いけど、ばかみたいにばかじゃすまないリアルを地面の上にぶちまけられても、ハロー、マリー、お前も来るかい?
もの拾いしてくる、母にそう言って、くすんだ玄関の扉を開いた途端射し染める光がとりとめもなく僕を集めていたんだ。


独り言

  

俺の親父ってのが酷い奴でよ、酒と煙草と女と博打と暴力の全部で確立変動おこしてやがって、中学の頃かな、俺の預金通帳勝手に作りやがってそのまま親父の会社の下請けで労働フィーバー、笑っちゃうよね、おふくろは頭がパーだから、毎日弁当よこしながら笑顔で「がんばって」と毎朝毎朝、すれ違う小学生の頃の同級生だとか、好きだった女の子だとか、俺の作務衣見て何を思ったんだろうな、なぁ、中学生並みの世界ってあるじゃん?多分、映画で見たような、まだ自分が世界の中心にいて、笑ったりすることが許される類の、消しゴムのカスをさらっと机の上から払いのける類の、なぁ、君がいてくれなかったら俺は居場所なんて一生無いんだと勘違いしたかもしれない、君は俺に逃げ場をくれた、ギターをくれた、参考書をくれた、覚醒剤をくれた、「愛してる」って言葉をくれた、愛してる、多分俺も、確かに今もたまに蛍が光る綺麗な池のほとりで君に宛てた言葉を繰り返し繰り返し喚くこともある、「真っ当に生きて私を幸せにして」って言葉は今でも俺を支えながら縛っているんだ、君がその言葉を自分のためにかそれとも俺のためにか、どういう意図で言ったのかはもういまさらどうだっていい、俺は君のおかげか、君の残酷な慈悲のためか、ゆっくりと歩き始めた、いつだか、道路に引かれた白線をたどって海まで行こうって言ったあのときの笑顔が俺をいつまでもこの白線に戻らせるし、君がいなくなったこの世でも俺はいつでも君の隣を歩いている。なぁそれからだよ、糞みたいな生活が始まって、廊下を歩けば唾を吐きかけられて、あの人がくれた参考書は校庭の真ん中で燃えていた、あああ、それとは別問題かな、授業中誰彼かまわず俺を呼ぶんだわ、名前だけ、たまに憎悪の言葉、「ねえねえよしき?お前の背中に」ああ、わかってるよ、わかってる、何もかもわかってるって気付いたのは、救急車の中?もうちょっと後だったか、医者がリスパダールって薬を処方した瞬間か、ごめんよ、少しだけ遅れるかもしれない、あの人に伝えて、いつか俺も海まで辿り着くからって、そう思ったのは先輩の三十路の彼氏の家の中で二人でギターを弾きながら、歌いながら、スリーピー・ジョン・エステスをさ、やっぱ駄目らしいわ、高校とか、セックスのほうが何万倍も気持ちいいから、わるい、少し遅れる、ところで君のえげつないブルースを聞いて俺はどうやら嬉しかったみたいだ、堕胎手術を今まで3回、それも全部自分の父親の種だって、笑える、あ、プラネタリウム行きたいね、そんで星のことなんてどうでもいいから君の身体をずっと触っていたい、夜はいつだって綺麗だ、かなしい言葉が全部とうめいになって消えて行ってくれるから、今度の君はとてつもなく現世的な翼に乗ってロンドンに行った、なぁ、知っているかい?君が好きだった窒息プレイの最中に俺が何度でもこのままほんとうの翼を手に入れたいと思っていたこと、もっと強く締めてよかったのに、俺はあのあと高校卒業したんだわ、嘘かと思うだろ?模試の全国平均が70越えててさ、単位足りなかったけどうちの高校創立以来始めての旧帝っつーことでどーにかなった、あの人がくれた金を軍資金にして、俺はまた白線の上に立って、どっちの方向にあの人が消えていったのかもう分からなくなって。それで通い始めた大学は予想通り糞で、とりあえず山塚アイに会いたくなって東京行った、わるい、また遠回り、というかもうどうでもいいや、もうずっと前からなんとなく、なんとなくだけど気付いてるんだよね、誰も俺のことなんて待ってやしないし、海なんてどこにもない、適当にバンド組んでさ、なんていうの?ロックでもないしブルースでもないし、ああ、ライブハウス壊す系?それそれ、かなしかったのはさ、バンドメンバー全員で一緒の部屋に住んでたんだけど、全員で貯めた家賃と食費と光熱費と雑費、全部、おんまさんに乗せてみたら、あいつ上がり3ハロン普段よりも3秒も遅く走りやがって、ああああ、そういうことじゃない、俺が誰の子供かってことがさ、そんで追放、馬鹿じゃねぇのか、お前らバンドやってんだろ?だったら許せよ、ジーザスクライストの要領で許せよ、馬鹿じゃねぇの俺、そんで全員死にやがれ、って電話したら、横浜のパチンコ屋で住み込みで働いてた彼女は、ありったけの愛情をこめて、電話を切りやがった、笑える、君のこと結構好きだった、バンド辞めてまじめに働くからいつか一緒に暮らそうって言ってた矢先に飯場の環境に耐え切れなくなって逃げ出した俺みたいな甲斐性なしのクズにはお誂え向きってやつ、煙草ってやっぱ体力無くなるのな、雲の切れ目、さようなら、さようならとーきょー、ばいばい君たち、俺を指し示してくれた君たち、俺の先を指し示してくださったビッチたち、この糞と汚物のミルフィーユみたいな世界に刳り貫いた乳首でできた首飾りをかけてあげよう。なぁ、あの人の指し示した白線はいつの間にか10tトラックのブレーキ跡で消えちゃったみたい、ああ、分かってる、あとはあの人がくれなかった翼を、拵えて、ああ、そのまえに殺しておかないといけない奴がいたな、と思ったらそいつは女と博打のダブルリーチで失踪中、ついてないな、出来れば鈍器がいい、すぐに死ねないから、ああ、俺は楽にいきたいね、親父の話さ、そういえば話すのを忘れてたな、父親が自称画家の先物トレーダーで躁うつ病のクズ、母親は失踪中、高校の頃知り合ったんだ、彼女は一言でいっちゃえばブス、制服の隙間から10日前の体育の授業の汗のにおいを発散させていた、俺が玉砕した多分金平糖一袋よりも多い女の子のうちの1人なんだけど、君のこと話すのを忘れていたよ、君の実家と俺の実家は近くて、俺がフルメタルジャケットで実家帰りしたのに、ハートマン軍曹がいなくて途方にくれてて、とりあえず酒でも飲むかって向かったスーパーで社員として働いていた、初めて知ったよ、君が考古学なんてやってたとか、シルクロードを何度も歩いたんだってな、砂漠の夜に瞬く星の話しをしてくれよ、砂漠の夜も三たび微笑むのかい?俺には三たび微笑んだ後、ふぁっく・ゆーっていう星座になってぐるぐる回っていつのまにか馬鹿にするようなすずめの囀りがふけみたいに降り注いでいるよ、それから砂漠の見えない道をふたりで歩く、なんてことはなくってさ、玉砕、たとえば君はその絹の白い道を歩き続けることはしなかったのかい?こんなスーパーで白髪ばばあをあの道に譬えたりしたのかい?その白線の先に何を見ていたんだい?俺とばっくれる誘いを断ってさ、何も示してくれなかった、シルクロードが夜に輝く乳の川になってあらゆる星がそこに落ちてきてきらきら光る、君は白線を歩いていた、俺は。きっとどこにもいけない、その絹の道にしたって俺の白線にしたって、どっちみちどこにも辿り着けないように出来ているんだよ、って君に話した時、君が言った「わたしがどこかに行っちゃったら誰がお父さんの面倒を見るの?」
シルクロードって相当やばいらしいね、あ、放射線的な意味で、あの人は甲状腺癌で死んだよ、砂漠の夜は一瞬で、きる・ゆーって星座になったってこと、あの人があの時言った言葉が何度もわたしに反響する、なぁ、かなしみってなんだろう、わたしは幾重にも重なった白い道の上でいつまでも佇んでいたんだね、あの人に一つだけ聞きたい、ダルビッシュは今年何勝するかな?じゃない、愛を


怪物

  

生まれたての八月を片手でスクラッチしながら、蝉に能う限りのディストーションをかけていたら、いつのまにかの夏が終わった。
空がぶち折れる音がしてとても長い雨が降る、あまりにも長いものだからそれは引き伸ばされた飴細工なのではないかという疑念が中華街のゴミ箱の隣で浮かび上がった。
彼はその飴を掴み、自らの推測が的中したことに幾許かの歓喜をおぼえ、その勢いのまま飴をするするとよじ登っていった。

雨雲の真ん中にマンホールの蓋があり、開けようとしたが徒労に終わったので諦めてこのまま雨になってしまおうかと思ったが、自棄になり思い切り蓋を反対に押してみると、マンホールはずいぶんと呆気なくその中身を披瀝した。
その中身というのは小さな部屋で、絵の具がそこかしこに散乱し産卵し燦爛している。彼は20代前半の美大生を想定して、部屋の片隅に置かれたソファー兼ベッドと思しき場所に悠々と背骨を伸ばした。

美大生はバスタオルを体に巻きつけてシャワーからあがった。寝台に居座る彼を見ても何も動じなかった。
どこから来たの?と聞かれたので、そこのマンホールから、と答えた。
マンホール?そこの?二人は当然アパートの一室と思しきスペースに設置されるはずの無いものに目をやった。
これは確かにマンホールだけど、この間わたしが書いた落書きなんだけどなあ、というのが彼女の答えだった。けれども結果としてこういうことになったわけだからお互い了解してしまうほかに事態を収束させる術はなかったので、マンホールって本当にman holeなんだね、という冗談がどちらからというわけでもなく発せられ、次第にそんなことはどうでもよくなってしまった。

3本脚に支えられたキャンバスには現在進行形の絵画が描かれていた。もっともそれが現在進行形であるということは彼女の指摘を受けるまでは分からなかったのだが。
キャンバスにはピーナツバターの下塗りに正確な円が描かれ、そこかしこにエリック・サティを彷彿させる貝殻と思しき具象が散りばめられていた。
これは抽象画?と彼は聞いたが、彼女はその質問をまるで「般若心経はプログレ?」と聞かれたかのように、イエスともノーともつかない返事をした。

彼は詩人だったので、問題を言語芸術に置き換えて理解しようと努めた。言語は後天的に獲得されるものであるという基盤に立ってこの考察を推し進めると、事態はこのようになる、つまりはじめに獲得される言葉は(この際唯名論やアダムの言語などの議論は忘れて)写実絵画のようなもので言葉と物は素朴に一致する。しかし指し示されるものが「物」ではなくなった時に、人間の言語活動は極めて複雑になる。たとえば「愛」がその対象となるとき、人間は愛の本質をダイレクトに名指しすることはできない。たとえば、「愛とは略奪である」とか「愛とはオレンジジュースの中の氷である」とか、そのようなメタファーによって示されることに留まる、換言すれば、「愛」という抽象は言葉との素朴な照応関係を持ち得ないので、前者の場合「愛とは行為である」といったメタファーが先立っており、その性質に応じて「略奪」のようなメタファーが「愛」という観念を照らすことになる。この系譜には「愛とは贈与である」というような言明も存在し、「愛」という観念の別の側面を照らし出している。一方で「愛とはオレンジジュースの中の氷である」といった言明には、「愛とは物である」というメタファーが先立っており、事態を分かりやすくするためには「愛とは南極大陸である」といった言明を対置することによって、存在する「物」としての「愛」というメタファーをそれぞれ、まったく違った側面から照らし出していることが出来る。抽象絵画とは、結局そのようなメタファーを含有しており、先ほどの自分の質問も、この素朴的命名と、メタファーを介した命名とを分かつという点において必ずしもナンセンスだとは言い切れないのではないか。と彼女に問おうとしたとき、自らがここに辿り着いた経緯を思い出し、もしこの指摘をしたならば、この物語はたちどころに消えてしまうことに気付き、彼は口を閉ざした。

彼女はやおら口を開いた、この絵のタイトルは『怪物』というの、あなたの先の質問は、結局のところ、怪物というものが抽象であるか具象であるかということに尽きると思うのだけれども、もし「怪物」それ自身が具象であるならば、この絵画は抽象画になるわね、というのもわたしは具象を具象で描くということにどうしてもナンセンスだという感情を抱いてしまうの、というか不可能よね。例えば「交差点」という具体的な風景を写実で描くとするでしょ?あなたならどうする?右折待ちの車を描くかしら?だけどそれの「車」という個別的な事象って結局のところ抽象よね。というのも「交差点」という具象を表現するために描かれたその「車」は車自体では有り得ないのよ。だって車っていつも右折待ちをしているわけではないじゃない?具象に合目的に奉仕させられた「物」はその奉仕する対象の具象にそぐわない事象を捨象するという意味において抽象なのよ。だからもし「怪物」という具象を描くならば、抽象を描かなければならないの。今度は仮に「怪物」それ自体が抽象であるとしましょうか、するとこれは写実絵画になるわけね。例えば「スピード」という抽象的概念を抽象的に描こうとしたってやっぱりナンセンスよ。風を描くとするじゃない?今度は風に靡く何かを描かなければならなくなるわよね?さっきとは違って、この「風に靡く何か」というのは具象なのよ。というのもさっきは個別的な対象に奉仕するように具象を描くことが、結局は抽象だと言ったけれども、抽象的な対象を表現するにあたって捨象は起きないの、ここがポイントなんだけど、仮に「風に靡く何か」を「走っている車の窓から出した頭髪」だとして、さっきの論点に戻れば、この「頭髪」もまた合目的に奉仕された物だといえるかしら?言えないわ「交差点」の場合、それは「わたしたち」の経験の中に「了解的」に存在するものだから「合目的」という考えが存在したけれども「スピード」はそうではないわ、「スピード」という抽象的概念は確かに「わたし」の経験の中に存在するけど、それは「了解的」ではないの、つまり「スピード」は「目的」足り得ないということよ。いい?抽象絵画の場合、それを表現しようとする個物は奉仕すべき「目的」を未だ持っていないの、つまり純粋な個物、捨象は起きない。だからもし怪物という抽象を描くならば、具象を描かなければならないのよ。

彼女はそう言って『怪物』を撫でた、
あなたは怪物をどのように理解するかしら?
彼は『怪物』をもう一度見た。
怪物とはつまりそれを「怪物」と了解「した」瞬間に怪物ではなくなり、逆に「怪物」と了解「させられた」瞬間に怪物足りうるものなのか?
と彼は自信なく答えた。
彼女は60点かしらね、といった表情をしながら、歯ブラシで奥歯を磨いていた、いつまにかにパステルオレンジのワンピースに着替えていたのに彼は少し驚いた。
あなたはきっと詩人ね、そういう風にメタファーの方に重きを置きたがるところがなんとなくそういう風に思わせるわ。
彼女はオレンジ色のワンピースのジッパーを探した。
いい?フランスサンボリズムの議論だけれども、その議論において「メタファー」と「アレゴリー」の区別をあなたは今しようとしている、
もちろんワンピースの下には何も着ていなかった。
いい?あなたは感覚器官を持っているわね、あなたが感覚した世界が世界なのよ。あなたはひょっとしたら愛を感覚することは出来ないと思っているかもしれない。
乳首はピンク色で彼が指で触れる前からピンピンに立っていた。
いい?感性と理性だなんて話はやめにして、構造主義者じゃあるまいし、わたしたちが感覚する世界が、わたしたちの世界なの。
言うまでもなく、彼女の割れ目はもうびしょびしょに濡れていた。
いい?これはメタファーでもアレゴリーでもないわ、同時にメタファーでもありアレゴリーでもあるけど。
わーい!パイパン!いただきます!
「愛とは50kgのベンチプレスである」
「50kgのベンチプレスとは愛である」
もちろん後者のセンテンスは文脈が無ければ意味を成さない。即ちこれはわたしたちが「愛」を知らないことの証左なのだ。


(怪物とは怪物である)

生まれたての幼児を片手でスクラッチしていると、あなたの右手はまるでディストーションね、
という聞きようによればとてもえっちな言葉を彼は投げかけられた。
彼女は歪んだ幼児をマリアの笑顔であやしている。
空がぶち折れた音がしたので彼は窓から空を見上げた。
さわやかな風が吹いて絵の具で散々汚れたカーテンが翻り、
光が彼の額に戯れていた。
彼女が彼の隣に席を求めると、彼は快く承諾した。
赤ちゃんを二人で抱いている夫婦に青い空は微笑み、
惜しみなく目映い陽光を差し出した。
『怪物』はまだ文字通り目下進行中だ。


びゃくしんの木

  

ねえ メルヒェン
刺すのと刺されるのと
どっちがいい?

きょうぼくは
花をみてきたよ
きみたちは花をみたことがないだろ?

人間のくちからは
あくびしか出てこないね
美しくうたうのが
花だよ

だから花みたいに
人間もくちなんかなくして
臓器になれば
美しくうたうことができるね


結婚、とかなんとか

  

 目の前にした風景にはどこまで行っても途切れることのないような海が広がっている、無論水平線によってそれは切り取られているのだが、その切り取り線が余計に永遠と言う観念を頭の中に固定させる。視線を落とすと、砂という言葉の持つ粒子的なイメージがほとんど取り去られた絹のように柔らか気な砂浜が無造作にへこんだり隆起したりして広がっている。
 少しの間――とはいえ時間の感覚などほとんど無いに等しいのだが――が経っただろうか、まるで表情を変えようとしないこの風景を眺めながら男は風が吹いていない事に気付いた、描かれた静物画のような風景にただただ圧倒されながら無意識に右手で額を掻いて下ろすと、丁度腰辺りの高さだろうか、何かにぶつかる、反射的に顔をそちらに向けると、長い黒色の髪の女の子の頭の上に彼の手が置かれていることが判る。
「動きが無くて戸惑っている、そうでしょ?」
「ああ」
 考えていることを読まれたのだろうか、彼は少しく動揺しながら視線をまたもとの方へ戻す、すると砂浜が所々微かに揺れているのがわかる。その砂の揺れの中から、幾つもの光る目が覗いている、赤く、それこそルビーのように煌びやかに。ああこれは、と男は思った、蟹だ、砂の中に隠れていたその生き物の赤い体が砂浜に斑点のように現れる。この時はじめて、砂のその粒子的な特徴も目に入り、視線を上げると、先ほどまではどこまで行っても青いだけだった海に段々に切れ目が走りその頂点が白んでいる。風景が流動を始める。幾らかほっとして、女の子の頭に置かれた右手の感触を確かめようとすると、そこにはただ虚しく空を掴む感触があるばかりだ。
 また、男は額を滴る汗の感触を確認する、これによってそれまで知覚できなかった時間の感触が幾分か現実味を帯びて彼に迫る。焦り、というものを感じていたのだろうか、彼は時間を取り戻してすぐに、額に滴る汗をぬぐうために、そしていつの間にか煌めきはじめた太陽の焦がすような視線から逃れるために、左手を顔に翳す、拭った汗は確かに湿度を帯びて彼に身体の内部もその活動を止めていないことを知らせる。左手を無為に下ろした、再び、腰のあたりだろうか、今度は短かい黒髪の男の子の頭と左手とが柔らかに接触する。
「ここはどこだい?」
「ここはえいえん、そして、こどく、なんてね」
「どういうこと?」
「振り向けばわかるよ」
 今度は、彼は躊躇なく振り向く、そこに広がっているのは先ほどまで目にしていたものとまるで同じ光景だ、太陽までもが。知らぬ間に離してしまった男の子の所在が気になり、視線を落とすとそこにはまたしても男の子の姿は無かった。脚元ではどうやら蟹らしい赤い斑点が体にまとわりつく砂粒を振り解きながら横歩きを始める。
 もう一度振り返る、そしてもう一度、何度か繰り返しただろうか、二つの太陽が網膜の底で重なり合い、波打つ海が四方八方から彼を責め立てるような感慨を呼び起こすのだが、それもいつの間にか慣れてしまった、砂浜では赤く煌めく瞳が無造作に入り乱れている、彼は星空の下でいつだか狂ったように回転してみた時のことを思った。いつだか? それはいつのことだろうか。
 37回目の回転を止めた時、ゆっくりと彼の身体は砂浜に墜落する、はずだったんだけど、しなやかな女のにの腕が彼の腰と首を支えている、しどけなくたわみ落ちる彼の右手と右足、眩い太陽に照らされながら、どうにも不細工なピエタが完成する。女は緩やかに唇を彼の口元に近づける、彼は目を閉じながらも、このロマンスの成就を祈る。

 
 目覚まし時計は本当に鳴っているのだろうか? 予め自分の目を覚まさせるために指し示した7の数字から約2時間、時針が動き続けたことは未だぼんやりとした視界からでも容易に確認することができた。とにかく美里に電話をしなければならない、床に脱ぎ捨てられたままの背広のポケットから携帯を取り出して、発信履歴にずらりと並んだ高木美里という名前をまだ完全には目覚めていない視線で確認して電話をかけた。
「いつもごめんね」
「いえ、部長にはいつもの通り言っておきます」
 美里は丁寧に「失礼します」と告げて電話を切った、つーつー、と耳の中に無機質に鳴り続ける音をぼうっとしながらしばし聞き呆けた。彼女のことだから電話の向こうでも頭を下げているのだろうか、いつの間にか米からパンに変わった朝食を取りながら、ふと気になり寝室に戻って枕に手を当ててみた、もちろん濡れてなどいない。今年の冬の寒さも緩み、開け放しているテラスに続く大窓から、こぞって小学校の朝礼集会にでも出かけるのだろうか、子供たちの甲高い声が静かな居間の中にも響き渡る。子供は嫌いだった、大股で窓の傍まで歩みより思いっきり窓を閉めた、ややもすれば石でも投げつけてしまうほどの動揺を抑え込むように、拳を握りしめて窓の横の壁に自分でも驚くほど激しくそれを叩きつけた、痛みは感じなかった、事実その衝突の激しさに気付いたのはシャツを着る時に確認した手の甲に滲む血の赤さ故で。
 美里とは外で待ち合わせをした、彼女が外回り用の書類を持ってきてくれるのはいつものことだった。会社には居辛かった。
「ごめんね、いつも」
「ちょっとだけ、うんざりしてますよ」
 彼女らしくない台詞だったけれども、彼女が同時にうかべたはにかみが全てを説明しているように思えた。あまり口数の多くない二人はそれきり無言で車に乗り込む。車内でもずっと俯いたまま、流れ過ぎる景色の数々を眺めていた、彼女が時折交差点の赤信号の合間に自分のことをちらりと見ていることには気がついていたけれども。
 真っ暗な画面にぼんやりと浮かび上がるプログラミング言語を前に、狼狽した。これを書いたのが以前の自分だなんてことが信じられないほどだった。結局美里に予め要因の分かっていたのだろう、デバッグを任せて、自分はそれをぼんやりと見つめていた。彼女が自分の直属の部下であることを有難く感じた。彼女は当時のままおどおどした態度は変わらずとも、おそらく技術の伝達には成功したのであろうか、随分と頼れる存在になってくれた。彼女の指導役を始めて一年と半年、ここ三カ月の間に彼女の私に対する態度は驚くほど変わった、ただいきなり親密になったとか、疎遠になったとか、そういうことではなく、彼女は私に対して色々な態度を取り始めた、初めて出来た赤ん坊の対処にどんな母親でも最初は戸惑うかのように。陽が傾きかけていた、上司に業務連絡を送った。
 家でカップラーメンを食べ続けるのにはやはり限界がある、最近一カ月はよく彼女を誘って仕事帰りに蕎麦を食べに行った。しかし、これも最初に誘ったのは意外にも美里の方だった。いつもなら私の蕎麦をすする音だけが響く時間、彼女はとても静かに食べる。
「仕事、出来るようになったね」
「ありがとうございます」
 少々どもりながら答える彼女に少し愛情のようなものを感じたことが私をちょっと動揺させた、その動揺が私を少しだけ自暴自棄にさせたのだろうか。
「美里は彼氏とかいるの?」
 彼女の箸の動きが止まった。
「いませんよ」
 そう答えた彼女に何か決然としたものを感じたけれども、私は気付かないふりをして言ってみた。
「それなら立候補しようかな」
 まるで小説に時折書かれるみたいに彼女の瞳が見開いた、私をじっと見据えて、そして彼女の瞳が一瞬潤んだのを見逃さなかった。私は彼女の心を支配して楽しんでいるのではなかろうか、そんな罪悪感もいまの私には何の効力も無いらしい。
「山村さん…」
 それきり彼女は黙ってしまった。もう夜がそこまで迫ってきていた。私は彼女をアパートまで送って、部屋に戻る彼女をいつも通り見送ろうとしてエンジンを切ったが、彼女は何時まで経っても助手席から離れようとしなかった。
「明日、朝七時に電話します」
 彼女は自分でも思い切ったことを言ってしまったという表情を浮かべながら私を見つめていた。
「ありがとう。だけどわたしも、一応男ですから、そんな甘ったれたことはしてもらえないよ」
 そう言うと、彼女は誰もいない空間に向け少しだけ顎をあげて瞼をゆっくりと結んだ、これが彼女にとっての喜びのしるしだということは一年半の付き合いの中でなんとなく分かっていた。


 目覚めた時に目に映ったのは柔らかな光のシャワー。身を起こすと室の真ん中に設えられたベッドに今まで寝かされていたことに気付く、木でできた部屋、しかし彼はすぐに部屋というよりもむしろ宮殿の中にいるような印象を受け取る、天井には更紗のようなものが穏やかな風にくすぐられて二つの太陽の光をその繊維の表面で踊らせている。彼は眠りに落ちる前に抱かれた女の柔らかいにの腕の感触をもう一度確かめたいかのように両腕で目の前の空気を抱きしめてみせる。すると、四隅にある柱の一つが動いたような気がして、すぐに両腕をほどく、今、太陽は一つしか出ていないのだろうか、動いたのは柱では無く柱の影であることに気付き、さらにその影が軽やかな足取りで自らに近づいていることを確認しながら、その正体はきっと眠りにおちる前に彼を抱きとめた女であろう、と思って少しく後ろめたい気持ちを催したが、すました顔を崩さぬまま迷いのない視線で彼女を見据える。光の加減で足元から緩やかに彼女の身体が現れてゆく、丈は長いが軽そうな素材で出来た黒いスカートの裾が小さく揺れるのに合わせて、肩甲骨まですらりと伸びた黒髪がしなやかに左右している、あの時の女の子に少し似ているような気がする、黒いドレスに身を包んだ身体は自然にすらりと痩せて見える。彼女は穏やかに微笑んでいた、両の手で水の入ったガラスのコップを支えながら、彼がまだ眠っているかどうかを少しだけ顔を傾けて確認しようとしている。宮殿のように設えられたこの室に一条の風が迷い込んで四つある入口にかけられた透明質の布のうちの一つを揺らした、逃げ道を見つけ出したようだ、残りの三つの入口の布が微妙なカーブを描きつつ室の外側に一瞬膨れ上がって、すぐに元通りになった、彼女の視線と彼の視線が重なる。
「喉、渇いていないかしら」
「え、ああ」
 彼は問われると同時に、身体の渇きを感じた、室の外を見やると、やはり砂浜と番った海がどこまでも広がっていて、そこに埋め込まれたようなルビーが太陽からの光を蓄えながら辺り一面に放射している。もう一度女に視線を送る、彼はどこかで見たような気がしたがそれが誰なのかは思い出せない。
「ありがとう」
 そう言って、女の両手からコップが彼の右手に渡る、その際、中の水が少しだけ揺れた。飲み干すとそれは紛れもなく真水であり、彼はこの水がどこから得られるのかという疑問を抱いたが、この砂浜だけの島にそのような疑問を持ちこむようなことはどこか野暮な気がして、何か別の話題を探す。
「子供が、いるのですか?」
「ええ、私の子よ。多分今頃は砂浜で遊んでいるんじゃないかしら」
 視線を反対側に移すと、そこにはあの時の二人の子供が砂浜で屈みあって何やら砂の表面を見つめている。
「もしよろしければ一緒に遊んであげて下さらない?」
「ええ、喜んで」
 彼はベッドから軽く身を躍らせて、砂浜までゆったりと歩いて行く。子供たちは何をしていたのだろうか、と言う疑問は彼らが蟹を中心にして屈んでいることから、すぐに氷解した。
「この赤い生き物の名前は知ってる?」
「知らない。」
 二人は声を揃えて喋った、嬉々とした表情が顔いっぱいに咲いている。彼は「かに」のことを子供たちに教えながら、それが何故ルビーに見えるのかをどうやって説明したらいいのか少々戸惑っていた。
「お好きなんですね、子供が」
「ええ」
 ふと視線をあげると先ほどの女性が日差しに手を翳しながら彼らの方を見つめていた。
「この子がお姉さんで、この子が弟なのよ。あなたにちょっと似ていると思わない?」
 不意の問いに彼は言葉に詰まってしまう、話の途中で突然立ち上がった彼に対して不服を言い表すかのように、二人の子供は彼のズボンを引っ張っている、けれども聞こえる声はとても幸せそうだ。
「私に似ていますか?」
 彼はそう呟いたきり、あたりに散らばるルビーの煌めきのあまりの眩しさの中に自らが永遠に閉じ込められてしまうような錯覚に陥る。


 目覚まし時計は三十秒ほどけたたましい断末魔を上げて、沈黙した。時針はきっちり7の数字を指し示していた。妙な悪戯心が沸いたのだろうか、朝食のパンを取りながら、美里に電話をした、とはいえワンコールで切ったので彼女と話すことは無かったけれども。
 出社した途端、同僚たちが何か驚いたような、労わるような視線を私に投げかけてくる、その中で我知らずと美里の姿を探していた。目が合うと彼女はさっと視線を落としたけれども、彼女が嬉しそうな表情をしていたことは決して見逃さなかった。業務に就く前に、産業医の所によることになっていたので、荷物をデスクに置くとすぐさま足をそちらへ向けた。
「有給休暇はもう残り無いですが、やはり休んだ方がいいのではないでしょうか。」
「会社には迷惑かけてると思ってます。だけど休みたくないんです。」
 私は三カ月前から心療内科にかかっていた、軽い鬱と睡眠障害。そのままデスクに戻ると背広のポケットから煙草を取り出して喫煙室に向かった。同僚は私のこの行為に驚きを感じているかもしれない、というのも私は一年前に煙草をやめたのだった。幸運にも喫煙室には誰もおらず、部屋の真ん中にある灰皿の周りに置かれたパイプ椅子の一つに腰掛けて一年ぶりの煙草に火をつけた。
 知らずと、涙が頬を伝った。一年前の妻との会話がありありと目の前に浮かんでくる。まるで子供のように、嬉しそうに、一年前のその日、私は妻に煙草をやめることを宣言した。「生まれる子供のためにね」と嬉々として私は言ったのだった。「最初の子は女の子がいいね、その次は男の子が欲しいかな」そんな私の無邪気な台詞が今になって痛いほどに自分を絞めつける。白い煙を吐き出しながら、妻がどれほどその言葉に縛りつけられてしまったかを、想像しようとしてみては、それを拒絶するように、眼下に横たわる底の見えぬ断崖のイメージが私を立ち竦ませる、決して、向こう側に行くことなんてできない。四カ月前に、妻は、長女と、子宮を、摘出された。私は、有給休暇を使い果たして毎日病院に通った。けれども退院後、妻は二人の家ではなく、実家で養生することを決めた。「ごめんなさい」妻は私に対してそれしか言わなかった、言えなくなっていた。妻の両親は、実の子のように私に接してくれた、けれども毎日のように見舞いに来ようとする私に、「今はあなたが来ても逆効果だから」と言って、門を閉めた。妻は自殺した。私に宛てた遺書には「ごめんなさい。」で締めくくられた二人の愛の記憶が綴られて、彼女の誕生石のルビーが嵌められた結婚指輪が入っていた。
 喫煙所のドアが開いて、そこには美里がいつもの調子で頼りなく佇んでいた。外回り用の書類を持っているのでおそらく私を呼びに来たのだろうか、だが視線は床の方を見ている、私は涙を裾で拭いながら、美里には私がここで何を思っていたのかわかっているのだろうな、と感じた、美里は涙を拭う私の方は決して見ないようにただただ下を向いていた。
 車内ではいつものように黙っていたが、来年度の配置換えのことを思い出した。もともとは一人でやる仕事だから、指導役もおそらく今年度で終わりだった。
「一年と半年、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
 そう言うと二人とも黙ってしまった。車窓にゆっくりと白い雪が、風に揺られるようにして落ちて、とけた。そういえば今年一番の冷え込みが、とテレビでやっていた。
「いや、そうじゃなくて、本当にありがとうね」
「いえ…もう大丈夫ですか…ごめんなさい、大丈夫だなんて…」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 彼女の言葉を遮るように、私は言葉を吐き出した。隣にいる彼女の様子を窺うことは敢えてしなかった。ただ「大丈夫」という言葉が頭の中でずっと回っていた、視線の先では降り始めた雪が次から次へとアスファルトに突撃して、次から次へととけていった。不思議なことに、妻が死んでから妻の夢を見たことは無かった、今日、一日が終わったら、ベッドに横たわり、たくさん妻の夢を見たい、そう思った。




「もしもし敦子?元気してた?」
「どうしたの、あんた突然」
「あたしゃもう二月は冬だと諦めることにしました。外見てる?雪降ってるでしょう?
 二月になるとさ、気候もあったかくなって、もうすぐ春だなぁ、って思ったりするん
 だけど、やっぱり二月は冬だね。突然雪が降るんだもん」
「はいはい、春は遠いね」
「うん、春は遠いよ」

文学極道

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