文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

年間総評、初めてぼくは本当に批評する。

2008-05-02 (金) 21:18 by kemuri

 船頭多くして船は山に登る。山どころか、空の果てまで行ってしまうような選評だったと言って間違いないだろう。ご存知の通り、発起人諸氏はかなり癖の強い人間が集まっている。ぼくのような無個性極まりない人間には辛い選評であったとまず雑感を述べたい。要するに、モメまくったのだ。おかげで発起人達は長い時間を悩み、ぼくはシャンプーとトイレットペーパーを三度も買い忘れた。この批評文は、文学極道に於ける本賞を受賞した諸氏に贈る純然たる感謝と賞賛の言葉だ。

 発起人には当然ながら、気に入った書き手がいる。それは、例えばぼくの場合にすると吉井氏なのだけれど。個人の評価と全体の評価というのは凡そにして噛みあわない。そして、これはもっと確実なことだけれど、意見のすり合わせは限りなく不可能に近い。密接した小国の領地争いのような戦いが日々繰り広げられ、ぼくはダーザインに背中を撃たれたりもした。ただ、それでも今回の選評に於いて、その最も軸になる部分「ずば抜けた作品はどれだ?」という部分において、発起人の意見はほぼ完全と言っていいほど一致した。皆まで言う必要も無い。

宮下倉庫「スカンジナビア」

 見事な作品である。創造大賞の一年目はぼく、二年目はコントラ氏が受賞しているわけなのだが、三年目にして最も完成度の高い、練熟にしてリーダビリティに優れた豊穣なる作品である。コントラ氏と初年度のぼくは、全く逆の欠点をそれぞれ有していた。ぼくはイメージを比喩の形で一つのイコンとして結実させ、飛び石のように重ねていくスタイル。コントラ氏はベタ足のインファイト・ボクサーのように一歩ずつ前へ前へと描写を重ねていくスタイル。それぞれの作品を読み直せば、この特徴は容易に理解されるだろう。そして、宮下倉庫はそのいずれのスタイルも使いこなす。「なるほど、君たちのいいところはそれなりにわかった、ではこんな具合でどうだろう?」とでも言いたげな筆致。もちろん、この書き手がぼくらに影響を受けたなんて大それたことを言う気はない、スタイルのバランス感覚があまりにも適切である、ということだ。この書き手についてはいずれ独立した形で批評文を献じたいと思っている。学ぶことが最も多い書き手であることを、もはや誰も否定出来ない。この作品を一番高い位置に持ち上げるということは、即ち読者への無言の(それでいて明確な)主張を表す。「この作品に学べ」ということだ。

りす(袴田)「赤い櫛」

 それを追いかける形で創造大賞を同時受賞したりす氏。誰もが常に高く評価し続ける寡黙な書き手、常にスタイルを破壊し続けていく書き手、その作品に通底するのはあくなき実験精神であろう。作品の主軸ではなく、方法論を問い続ける書き手として、宮下氏の創作方向とも似たものを感じる。そして、この文学極道が鍛錬―それは即ち実験を意味する―の場であることからしても、氏の実力と精神性は受賞には十分足る。しかし、この書き手は何故かナンバーワンから常に一歩退く。批評に向かい合う姿勢は常に真摯そのもの、自己模倣を嫌い続けスタイルに安住しない精神、そして確かな技術。ありとあらゆる技巧を軽やかに使いこなす妙手。全てが満ちているはずだと誰もが思っている。多くの人が心の中で密やかに思っているはずだ「みんなあんまり声高に言わないけれど、あの人の作品っていいよね」その通り、そんな書き手である。この書き手に不足するものはなんだろうか、それはぼくにはわからないけれど(わかるわけがない、そうじゃないか?)ぼくはこの書き手が「何か」を獲得する日が近いことを、追いすがる全てを振り切る何かを獲得することを、強く信じている。いや、そうでなければならない。

浅井康浩「No Title」

 ぼくも明日にはチェンバロの歩く平野に帰りたいと思う。文体という名の草木が芽吹き、やわらかい水がつま先を濡らす、暖かで小気味良い砂利を含んだ土に足を沈めるとき、人は思う。スタイルとはこれほどに抒情性を帯びるものなのかと、技巧とはこれほど豊かなものなのかと。それは、例えば八月の潮風に似ているし、目を覚ました時の一杯の水にも似ている、太陽の匂いがする毛布にも似ている。浅井康浩氏の作品が「最優秀抒情詩賞」を受賞したことについて、ひょっとしたら異論がある人もいるかもしれない。この書き手の技巧とスタイルについて異論を挟める人間は一人もいないとしても。詩が、もしも何かを―書くものだとしたら、抒情というのはモチーフにアプリオリに根ざすものだと考えるとしたら、それは間違っている。この作品と不可分の場所に生まれて来る感情を揺らす作用、それこそがより原初的な形での抒情なのだ。ぼくたちは海のために泣くことが出来る、飛んでいくからすのために泣くことが出来る、九月の夕暮れのために泣くことが出来るのだ。そして、その名状しがたい抒情性を扱いこなす技巧、それこそが浅井文体の魅力である。氏は、今年度圧倒的に抒情性を増した、我々批評する者を泣かす「出所のわからない情感」を見事に使いこなして。技巧に沈潜するのではなく、技巧の持つ意味をはっきりと示した、ぼくはこの作品から与えられた感情を比喩の限りを尽くして「良く似たもの」として表象する、でももちろんそれは間違っている。だから、誰もがこの作品を読むといい。最優秀抒情詩、毛先一つの間違いもない。

泉ムジ「corona」

 今年度の選評における、最大の論点。最後の最後まで宮下倉庫と鎬を削り続けた名作。そして、たった一作にして最優秀抒情賞を獲得した書き手。泉ムジという書き手について、ぼくは多くのことを知らない。ほとんど何も知らないに等しい、それは発起人諸氏の全てが同じだった。にも関わらず、この作品は我々にとって永久に顕示し続けるべき魅力に満ちている。この作品は、幾つかの解釈の迷宮を我々に投げかける。そして、どのような読み方をしようとも流れていく時間性、永劫に僅かに触れた感触が指先に残る、端的でありながら十分な描写、多様な解釈を許しながらもテクスチャとして立ち続ける強度。そして、豊穣なるイマージュ。描写の節々が、永劫の一切れが静止し視界を埋め尽くす瞬間、我々は詩の中で立ち止まる。語られるものの中で立ち尽くす、そして膝を折り、無言の下に祈る。そこには、語られたものと聞き取ったものを越えた何かが浮上する、一枚の絵、あるいは一つの構造、そして一つの作品。その中には永劫が満ちている、鳥の羽根としての我々が触れたのはあまりにも巨大なえいえん。名状しがたい何者かを連れて、この作品は永劫を誇示し続ける。人間の持つ永劫を誇示し続ける。それを抒情と呼ばずして何と呼べばいい?Sein―ただ「ある」ということ。そう、この作品はここにあり続ける、永遠の一片が折り重なる場所に。

軽谷佑子「晩秋」

 ぼくたちは同じものを見ることが出来るだろうか。ぼくは机を窓際に置いて、いつも半分だけ開けているカーテンの光が差し込む場所に灰皿を置いているんだけれど。そこから無数に突き立った吸殻の陰影を、そういう確かにあるものを、ありのままに書くことがあまりにも難しいことを知っている。ねぇ、気づいているんだろ。ぼくときみはわかりあえない。同じものを観ることが出来ないからだ。ぼくはこの書き手に尋ねたことがある、「そのイマージュは何らかの比喩性や、あるいは意味を持っているのか?」と。言うまでもなく答えはNOだった。「鳩が垂直に降りていったんです、すーって」ぼくたちはそろそろ気づかなければならない、断絶された自己と他者、「違い」というものはこれほどに豊かなことなのだ。そして、世界を観るということは容易なことではない。ぼくたちの世界のあらゆるものは、意味に汚されている。モネの絵をみたことはあるだろうか。我々は光を介して世界を見る、つまり世界の「見え方」は常に、光とともに変化し続けている。にも関わらず、我々にとって青は青でなければならないし、赤は赤でなければならない。(そうでなければ、世界は交通事故で満ちる、もちろんコミュニケーションの上でも)語られた世界というのは、通じ合うためにその豊穣さの多くを削り落としている。ただ真っ直ぐに世界を観るということ、介在して来る意味に汚されない目線、エポケーされた世界。これは、実存という言葉と強く結びついている。そして、その世界からあなたは何を汲み取る?この古典的でありながら、実存的という意味を体現した書き手の目は、一体何を示唆する?(あるいは何を示唆しない?)その全てはあなたに託されている。そのディスクリプションの透明さ、それは実存なんて語彙ではむしろ不足だ。気づけよ、他者はこれほどに豊穣だ。

みつとみ(光冨郁也) 「サイレント・ブルー」

 ざくざくと切られた素っ気無いとすら思える文章。読点によって整えられたリズムは時々破綻を感じさせるものの、ざらついた主体のありようを明確に立ち現す。書き手の調律された自意識が描写の中に滲みだす。自己と作品の癒着や、どうしても滲み出してしまう自意識は描写で対価を払う。作中主体を中心として描きあげられた心象世界。地に足がついている、描ききろうとしている。みつとみ氏のとる手法は古典的であるが故に、ある意味で最も難しい。この書き方で、書き手のナルシズムを殺しきる、あるいは昇華させ切るのは容易いことではない。(氏の作品の中にはこの失敗を免れていないものも多いことを、ぼくは否定しない)しかし、連ね続けた描写と詩の原動力としての自己、その二つが分離でもあるいは完全な同一化でもない場所に辿り着いたとき、語り得ぬものは生まれ、陳腐な自意識は舞台の袖に下がるだろう。内省と自意識、そしてナルシズム。詩を書く上での最大の敵は同時に詩そのものの生まれる場所でもありえることは誰にも否定出来ない。「サイレント・ブルー」を読む時、みつとみ氏という書き手、そして作中主体、そして読者。この三つは寄り添うことを拒否しながらも近寄り続けていく、まるで冬のはりねずみみたいに。孤独の青みが満ちた世界性の中で、沈黙が重なる場所を探っている。いつかその手が自己の、あるいは他者の魂を捕えることを願ってやまない。わたし、しかいない場所には、やはりわたししかいない。だが、そのわたしが誰を指し示すか。

兎太郎「地蔵盆」

 技巧と本質、形式と内容…この二項対立について考えない書き手は存在しないだろう。それらは独立しては存在しえない。というのも言葉は何か―を語るものであることを禁じえないし、何か―が言葉と密接に結びつき合っていることも同時に否定出来ないからだ。あらゆる書き方は技巧のうちに語ることが出来るし、あるいはあらゆる内容は外部コンテクストの内に語ることが出来る。兎太郎氏の作品には極めて不足が多い、文章はリズムを欠いているし描写には無駄や不足も多く見られる。しかし、その語り口(そう、不足すらも技術の文脈で語りえる)の内に明晰なイメージと飛躍が、不可分の形で生まれて来る。だから、我々は悩むのだ。「技巧の不足は確かに感じる」(しかし)「その不足そのものが魅力と分かちがたく結びついていることも感じる」。無論、より突き詰めた物言いをすれば、「不足」を感じさせることはマイナスである、しかし生まれて来るイメージはその不足を前提として結実している。言いたいことはたくさんある、でもぼくはこの書き手を否定出来ない。巨大な伸びしろを持った書き手、新人賞の意味はそこにある。ぼくはあなたを認める、あなたの書くものを認める、それを失わないで欲しい。しかしその一方、不足も多く感じる。どうか、その魅力を失わないままに鍛錬を続けて行って欲しい、その願いをこめてこの賞を贈る。もし、ぼくの役目が「良い詩を書くためのアドバイザー」だとしたら、ぼくはその任に値しない人間であることをここに認めなければならない。ぼくに出来ることは、兎太郎氏の独自の魅力を高く評価していること、そして発起人諸氏に共通する強い期待を伝えることだけだ。

近日中に、選考過程のあれこれを記した文章、並びに本賞に近い位置に並ぶ書き手達への批評文、あるいは賞からこぼれた作品について書かせていただく。(本当はそっちが主題なのだ、実は)でも、ぼくはこの批評を書きたかった。そして、これを書かないことには何も始まらない気がしていた。ぼくは初めて、本当に批評をしたような気がする。もちろん、それほど優れたもの、これらの書き手達を賞賛するに足りるものではないにしても。

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ネタについて。それから吉本隆明氏について

2008-03-31 (月) 23:51 by ダーザイン

まずネタとは何かについて

以下転載

投稿者:  投稿日:2008年03月05日(水)02時25分49秒 ■ ★

なんかいかにも就職活動中って感じの女子大生が真昼間の
ファーストキッチンで胸とかバンバン揉ませてるわけ。同じ年くらいの
男子大学生ぽい奴に。しかもスーツの内側に手入れて直で揉んだり
してるわけ。なんか女のほうも廻りを気にしながらも小声で
笑ったりしてるわけ。「ヤダァ♪」とか言いながら。
俺は思ったね。お前ら独身中年なめんな、と。お前らのすぐ隣に座ってる
俺はお前らの様子見ながら正直、勃起してんだよ。ていうか信じられないよ。
素人同士で金のやり取りもなく胸揉むなんてよ。俺はヘルスで平均40回ぐらい
揉むわけ。12,000円で40モミ。1モミ300円。俺はそいつら見ながら「あ、300円」
とか「また300円」とかカウントしてたわけ。で、そのカウントが6,000円ぐらいに
達した時、突然こみ上げてきたわけ、嗚咽が。押さえ切れないほどの憤怒が。
で、声に出して泣き出しちゃったわけ。真昼間のファーストキッチンで。独身中年が。
急に声をあげて泣き出した俺を珍獣でも見るように一瞥した挙句、クスクス笑いながら
店を出ていくそいつらの後ろ姿を見ながら俺は思ったわけ。これはもう階級闘争だ、と。
謂なき触穢の鉄鎖に蹂躙された日陰者の人権は闘争によってしか解放されないのだ、と。
そんなわけで俺は闘うわけ。

#転載終了

 上記は四季ユートピアノに無記名で投稿された文章だが、初出は5年ほど前の地下暗黒掲示板群「あやしいわーるど」のどこからしい。可読性を高めるために変更したが、原文はカタカナが半角になっている。「クスクス」「バンバン」。こういったタームが半角で使われるのはあやしいわーるどの前世紀からの言語風俗であり、この文章を書いた者があやしいわーるど者であることは明らかである。
 で、何故このあやしいわーるどの一空白(2chで言うところの名無しさん)の文章を転載したかというと、お前らの書く下らない詩よりよっぽど面白いから。勿論吉本隆明氏が書いたどんなゴミみたいな詩よりも面白い。俺は吉本隆明氏が書いた詩を読んで感心したことは一度もない。実にくだらないと思ったし、下手だとすらも思った。
 そして、ネタとは何かについて語るなら、あやしいわーるど緒板や伝説の地下掲示板「アフロ一発」など、地下私書箱文化の流れを汲むあんぐらネット無料芸人がワイヤードにのめり込み過ぎてネタと混じれ酢の区別が付かなくなり、即ち、いまだ20世紀であった当事から、地下暗黒掲示板群に住み着いていた連中の脳内には世界最大の放射光施設スプリングエイトが装着されて既に素粒子コンピューターが駆動して五次元世界が実現しており、大型ハドロン衝突型加速器が連中の脳内にブラックホールを生成させて鬱を加速させたり世界を終焉させたりしていたわけだが、即ち、リアルとワイヤードの境界がずぶずぶと崩れていく感触、札幌琴似大交差点のたこ焼き屋台からでて猛吹雪の街並みに灯る街灯の明るみの中にピンクのワンピースの少女の姿を幻視して、「俺が神だ」呟いたり、ボーナス支給日に事務長のまん前の席で執務していた男が「ソープランド、ソープランド、ランランラン♪」と無意識に歌って、事務長に「武田さん、何いってんの?」と呆れらりたような瑣事から、2000年12月20日午前10時頃大阪府高槻市JR高槻駅コンコースに日本たばこ産業の職員が( 隠し味に使っているのか?)放射性同位元素ヨウ素125を「本来の世界に戻すために」まきちら したようなキチガイ沙汰まで、素粒子論的な越境は20世紀大世紀末から先行者の脳内で行われていたのである。
 上に転載した空白の文章に戻るけれども、あやしいわーるどにはあの手の文章が毎日のようにあちこちに無記名で書きなぐられている。ネタとは何か。彼らは恥をかくことの快楽を知っている。ご立派な芸術家にはわからねーんだな、これが。彼らは創造の喜びを知っているよ。自分自身を笑いものにする潔さを持った本物の変態が、文化の最前線、情報をシェアさせる新しい地平であるワイヤードでのエンターテイナーとして日々狂文を研鑽し、世界の狂気を暴き出し、狂気の世界性を自ら体現しているのである。

 ところで話は変わるが、上述したように俺は吉本隆明氏に寸文の敬意も持っていない。それどころか、うんざりするようなくだらない詩を書いて詩というジャンルをダメにした元凶の一人、サルトルやフロイトをコピーした糞みたいな思想書、またルサンチマン丸出しの屁理屈で偉大なる埴谷雄高さんを侮辱したり、原爆を擁護して反核をヒステリー呼ばわりしたり、要するに反革命の裏切り者、吉本隆明氏であるが、最近またくだらない本を出したらしい。光文社刊、吉本隆明「日本語のゆくえ」。最近の現代詩と詩人たちを殆ど全否定する内容だそうだ。現代詩手帳(同人誌)プロパーしか読んでいない老人に現代詩の何が解るというのか。そもそも俺は吉本隆明氏を全否定しているんですけれども。もう20年以上も前の学生時代から。否定されるべき現代詩というタームは吉本さんの詩のようなものを指すのであって、こういう老人とは関係の無い言葉のほんとうの意味での現代詩を書いている俺たちは、現代詩という言葉をこいつらから取り返さなければならない。

「これはもう階級闘争だ、と。
謂なき触穢の鉄鎖に蹂躙された日陰者の人権は闘争によってしか解放されないのだ、と。
そんなわけで俺は闘うわけ。」

笑い。

注。金も暇もないし、吉本氏を潤わす気も無いので件の本は読んでいません。誰かくれ。或いは貸してくれ。

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コントラ氏のコラム全面改訂

2008-01-22 (火) 21:54 by 文学極道スタッフ

コントラ氏のコラム「芸術+詩」が、全面改訂されましたので、ご一読ください。
これは文学極道公式のコラムですので必読です。必ず読んでください。
「芸術+詩」

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コントラ氏発起人に就任、「月刊 未詳24」との連携

2008-01-10 (木) 00:34 by ダーザイン

 現代日本最大の文人の一人コントラ氏が文学極道発起人に就任してくださることとなりました。よろしくお願いいたします。組織の強化として喜ばしいことですが、四天王(文極掲示板で時々目にする言葉だが誰のことかは定かには知らない)のうちケムリさん、コントラさん両名がスタッフサイドに回って賞取りレースから離れてしまうのは、もったいないことでもあります。両名とも現役ばりばりの、これからいくらでも大作を書くであろう人ですからね。あまり活発でない発起人バトルよりも一般投稿掲示板に発起人も詩を貼るようにするとか、何か検討しなければならないでしょう。優れた作品の集積庫、月刊雑誌としての側面からも彼らの新作が文学極道で読めないのはもったいないですしね。
 投稿者の方々には、これら巨頭の穴を埋める傑作をどしどし書いていただきたいです。自分が四天王のひとりと呼ばれるようになってもらいたい。

 昨年の文学極道を振り返ると、時代にそうそう多くの天才はいないと思っていたが、四天王の一角に食い込めるような新人もまだ現れました。また常連さんの中にも驚くべき上達を見せている人も多数います。これは実に喜ばしいことです。ただ、ダーザインというより武田聡人としては、前衛詩だのシュールレアリスムの牙城みたいにこのところの文学極道がなっているのは正直つまらないです。なんで抒情詩・情景詩書ける人が来ませんかね。盤面が言語遊戯で満ちていると、読む前に見ただけで疲れ果てます。凪葉さんとか如月さんとかの詩を読むと癒されます。
 無理してあざとく商売向きのものを書けとは言いませんが、「人様に捧げる言葉の花束」という思いを頭の隅に置いて頂きたいです。

 それから携帯の詩のメディア「月刊 未詳24」と相互リンクしました。ご存知と思いますが、未詳24はハイレベルなサイトです。既に投稿者重複していますが、なにか連携できないか、これから話し合われることになるかと思います。只野さん、ピクルスさんに感謝を。

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コンテクストと強度について、あとコラムの補足の意味も

2007-11-14 (水) 23:21 by kemuri

billigen Rock

とても安っぽいことだ
とても簡単なこと、いつだって脱ぎ捨てられる
俺は、俺をいつだって脱ぎ捨てて
新しい世界に着替えて、ほら一つお辞儀を

10ダラーズ、1000円、10ユーロ
まぁ、なんだっていいさ
Billigen Rockだよ、それ一つでいい
薄っぺらなそいつで、何もかも変われる

今、おまえが立っている地面が
今、見ている窓と空と電線の重なりが
ママとパパと歴史の授業が
くるくる回って叫んでやれよ Billigen Rockで

くだらない詩ですよね。文学極道にこんなの投稿したら、ボッコボコ間違いなしです。今、40秒くらいで書き上げました。ええ、ひどいですよね。でも、この作品には一つだけ、劇薬的な効能があるんです、リトマス試薬的なといってもいい。真面目に勉強してる大学生とそうじゃない大学生を見分けるっていう。
 はい、皆さんこの作品の主題、なんだと思いましたか?ドイツ語の授業に真面目に出た人だけが気づいたと思うんですが、「ジェンダー」もしくは「クィア」です。billigen Rockはドイツ語で「安いスカート」ですね。一昔前に流行ったような作品です。ドイツ語を履修しているお子様を持つお母様、学費が生きているかどうか試すチャンスですよ。
 はーい、正直に「ROCK」に引っ張られて、まぁなんかわからんけどブレイクとかその辺の仲間の形容詞プラス「ロック」だと思って読んだ人挙手。いや、俺としてもドイツ語のひっかけに気づかなかったことはどうでもいいんですよ。大体、文法的というか形容詞の使い方的に怪しいし、フランス語でやられたら俺も引っかかるわけでね。こんな引っ掛け、幾らでも作れるし、引っ掛けてニヤニヤするくらいしか使い道ありません。この程度のことやって「こんなことにも気づかないのかよ」って批評から逃れようとする糞への牽制でもある。未だにいますよねぇ、こういう人。もっと抽象的な内容で「おまえの読みはその程度か」とか、アホちゃうか、と。読ませられないおまえの実力が無いんだよ、と。ちなみに、この作品に関しては、ドイツ語の意味と「ロック」の文脈の両方を読めることを前提に書いてます。既存社会への反抗、っていうロックの文脈と意味と音の重ね合わせ。まぁ、一応ね。作品と最低限呼べる「構造」はある。くだらないけど。
 まぁ、そんなこたーいいんですよ。今日、俺が問題にしたいのはそういうことではなく(ついでに、そういうアホは文学極道にはお呼びでないとアピールしたりしつつも)このコラムで問題にするのは「文脈」(コンテクスト)についてです。
 まず、コンテクストってなに?ってところから。
一般に、コンテクスト(あるいはコンテキスト)は、日本語では「文脈」と訳されることが多いが、他にも「前後関係」、「背景」などと訳される。コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であればお店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。
                             ――ウィキペディアより
 ま、こういうもんなんですね。便利な時代です。これと類似した概念で、「コード」ってのがあります。上記の作品とこのコラムにおける「ドイツ語」みたいなもんですね、両者が知っていないと話が通じなくなる暗黙の知識。文化のコード、慣習のコード、知識のコード、立場のコード、まぁこれはここまで。
 んで、俺が何故「文脈」って書かずに「コンテクスト」って言葉を多用するかっていうと、「文脈」って訳語には、上の引用を見て貰えば判る通り限界があるんです。かなりの意味がそぎ落とされる。意味もなくヨコモジを使う人間は(笑)をつけて嘲ってやるのが俺の趣味ですが、こればっかりは使わざるを得ない。ハイデガーとか読んだ人にはわかると思うんだ。「変に和訳すんなボケが!脚注つけろ、意味わかんねーわ!」みたいなね。仏教用語とかマジ無理、しかもその用語本来の意味を調べても出て来ないイジメ。ああ、また話がぶっ飛んだ。戻ります。
 詩を書くときには、様々なことを意識しなければならない。例えば、単語の一つ。例えば、上に出した「ロック」なんて単語には、付随するものがたくさんあります。ロックと言う言葉には、カートコベイン、社会への反抗、ギターのFが抑えられた喜び…無限に近い「コンテクスト」がついてくる。他の単語も同様です。例えば「愛」なんて考えてみてください、愛の観念は個人的なものから「隣人愛」みたいな超メジャー級まで、非常に多様なコンテクストが芋づる式にくっついてくる。そういう言葉、例えば「悪魔」とか「夢」とか「血」とかもそうですけれど、こういうものを作品に無造作に放り込むとひどいことになるのは、ある程度書き慣れた書き手なら言わずと知れたことでしょう。
 だからこそ、作品を一個作るときには言葉を選び、文脈を「絞り込む」。言葉の回りにあるもの、付随するものを内容の上で絞込み、見せたい箇所を提示する。そういう努力が常に必要になるわけです。
 ここで、便宜的に名前をつけることにしましょう。「明示されたコンテクスト」「暗示されたコンテクスト」とでも。明示されたコンテクストは字義通りの内容、辞書に記載されたもの、暗示されたコンテクストは前述したようなものです。そして、詩を書くときはこの両方に常に意識を払わねばならない。まぁ、こんなもんは常識です。「考えたこともねーよ」って人は反省してください、意識的・無意識的は人にもよりますが、普通はこの程度のこと考えて書いてます。言われてみて「まぁ、そうだよな、やってるわ」って人も多いでしょう。
明示されたコンテクストのみで構成された作品は、おそらく「法律」のような無味乾燥なものだし、その逆は「全く以って意味がわからない」「どうとでも解釈できる」代物に成り果てることでしょう。暗示されたものと明示されたもの、この二つのサジ加減は、作品構築の一つの要です。もちろん、一番大事な要素というわけではないですがね。ちなみに、法ってのは全て「明示」されてないとまずいんです。だから、法学ってのは言葉の定義に必死になる。明示されていないものは定義し、整理して明示しないと機能しないわけですね。でも、詩や文学に関してはその限りではない。
さて、当然の話はここまでとして。では、ここで少し話を戻します。
「スイーツ(笑)」って、言葉の使い方を皆さんご存知でしょうか。これ、女性誌の通俗的…というかなんというか、薄っぺらさというか、そういうのを笑い飛ばすために、名も無き2ちゃんネラーが開発した手法なんですが、これモダニズム的に分析すると、結構面白いんです。風刺やパロディ、脱構築なんて言葉で語りたい人もいるかもしれない。俺自身も、批評方法として即物的に使いましたが、面白く使えました。さて、まず何故甘いもの、ケーキやシュークリーム、はたまたプリン、そういうものを「スイーツ」と呼ぶか、ここから解説は始まります。まぁ、端的に言えば「格好いい」わけですよね、ヨコモジで。デザートなんていうありふれた言葉でなく、また意味の上でも「甘いもの」なわけですから、「食後の」って意味を内包する「デザート」よりは使い勝手が良い。実際、バカにされつつも便利な言葉だと思います。しかし、そこに含まれる「こう呼べばカッコいいだろ?」っていう気配を、(笑)は嘲笑する。
 この用法、少しでも「かっこつけ」の気配のする外来語、あるいは単語もしくはセンテンスの全てを笑い飛ばすだけのパワーを持ってます。「差異と反復(笑)」「零度のエクリチュール(笑)」「傷だらけの天使(笑)」いや、別にドゥルースやバルトに恨みはないですけれど。さて、何故こういうことが起きるんでしょうか?
 もちろん、皆さん感覚的にはわかると思います。しかし、何故起きるのだろうか。実際、「スイーツ」って言葉は「ダサい」のか?それは、元からダサかったのか?そうでもないと思うんですよ。元々はそれなりに「格好良かった」んだと思います。羽根の折れたえーんじぇー!って叫ぶのが格好良かったことも、あったんでしょう。
 「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉があります。まぁ、有名ですよね。解釈も色々あると思うんですが。この際、「意図主義」的な解釈論争は抜きにしましょう、稲垣足穂が何を考えてこの言葉を書いたのか、という方向ではなく「どう解釈すると意味が通るか」という視点でこれを語っていく。すると、議論の基本は「単語の整理」ということになる。「詩」は、詩作品という全体としてひとまず置いておいて(めんどくさすぎるから)、「歴史性」と言う言葉について考えてみる。さて、これどっちだと思う?新しいほう?それとも、古い方?旧来の「歴史」というコンテクストか、「新歴史主義」(ニューヒストリズム)の方か。もちろん、発言の年代を調べると答えは出そうな気がしますが、それはちょっと置いておく。つまり、どちらを「挿入すると」より「使える」言葉になるか。プラグマティックな観点で考えてみましょう。新歴史主義、というのは…あー、説明すんのめんどくせ、でも適当な解説がネットにねえなぁ…。えーとまぁ、てきとーに言うと、歴史というのは「それが在り解釈される」ものではなく「解釈されたもの」である、つまりね、日本軍が攻め込んだぜおういえ、日本最悪さぁ、っていう風に「意味づけされた作品」が歴史だっていう考え方です。純粋な記述としての歴史なんてありえない、恣意的に解釈されたものでしかない、という立場。つまりね、テクストに外部無しで権力構造、規律=訓練的な…、あーもういいや。みんな買ってくれ「文学批評用語辞典」。便利だから。実は、このコラム二つ目でね、一つ書いて用語全部に脚注つけたら本文よりそっちが長くなったってコンテクストがあるのよ。(必然性のないヨコモジの例)
 んでまぁ、そういう風に「詩は歴史性に対して垂直に立つ」を解釈していく。まずは「歴史」の方から。歴史っていうのを、「実際にあったことの連続」として捉えて。するとまぁ、歴史っていうのは「直線」の概念になるよね。過去から未来へと流れて行く時間、そこから詩は「垂直」に立つ。飛躍する作品、「歴史」は常に土台に存在するが、それと同じ方向、過去でも未来でもない、そのどちらからも等しく最も遠い方向(垂直)へと、「歴史を土台に」、詩は構築され、志向する。これ、面白い考え方で、見ようによってはヒューマニズムっぽかったりもするね。人の織り成した時間の流れが詩の根底である、と。
 じゃあ、別の方。歴史というのは、イデオロギーであるという考え方から。歴史が恣意的な構築物であり、常になんらかの政治的主張をまとっているならば、これは全く意味が変わってくる。となると、「歴史性」は時間軸ではなく「構造」という解釈が妥当になってくるかな。構造、というのは今ある世界の全てです。一番わかりやすいのが「言語」ですね。ソシュール(構造主義の親玉です)の見解に立って、言葉というのはシステムであり、それ自体、例えば「あ」という音自体に意味は含有されず、それらの「システムとしての構造」の上で意味が生まれるわけですから、詩というのが常に言語で表現される以上、歴史性の上に立つのは間違いがありません。そして、この考え方に依存すると、我々の思考、例えば「日本軍は悪い奴」とか「先祖は大事」とかそういうのも、「日本」というシステムの上で、主体(俺とかあんたのことね)の外部からの影響の上で構築された思考方法なわけですから(こっちも構造主義の親玉、レヴィ・ストロースさん(存命してます)の考え方)そんな我々が書く詩は「歴史性」に立つに決まってます。そんで、文学は例えば、シュールレアリスムなんかそうですけれど、言語構造の枠組みすら解体していくし、イデオロギーも解体しようとするわけですから、これもまた「垂直」で正しいことになる。うん、稲垣さんすごいねぇ、という結論が残る。色んな読みに耐えて意味を通してしまう。これ、歴史を越えていく言葉の一つの特徴でもあります、時代が変わり思考の枠組みが変わっても淘汰されない言葉。もちろん、抽象的な言葉であればあるほど色んな読みに耐える傾向がありますが、逆に言えばそれは「意味がとりにくい」「解釈しにくい」ということに他ならず、この絶妙なサジ加減が大事なわけです。ただ、この「詩は歴史性…」の言葉に難癖をつけるとしたら、これは詩の持つ一面を端的に(しかも多様な読みに耐える仕方で)示したものに過ぎず、詩の全体像、詩の「本質」みたいなものを示した言葉ではない。まぁ、もちろん言うまでもないんですが、んなこと不可能ですよね。ズバリ本質、本質主義、詩とは何か、そんなもん示せたら苦労ねえよボケが。というのが俺の見解。
 結局オマエは何がいいてえのよ?と言いたい気持ちはわかります、でももうちょい読んで。詩に本質なんか無い、ってことですよ。日本人に限らず、何かには本質がありそれを捉えようとすることが大事だ、みたいな考え方は根強くありますが、こと「詩」に関してそれはあまり「便利な」考え方ではない。むしろ、上で示した(笑)のような、変化していく、変化させていく、昔格好良かったものがちょっと時間が経つと格好悪くなる、そういう変化に対して機敏に反応し、常に時代のベストを狙っていく、あるいはどんな読みにも消尽しない「普遍に近い」方法を探っていく、これこそが「詩作の方法論」だと思うんですね。両方の意味で「歴史性」を意識すること。垂直に屹立する作品であるために。
 ダーザインがよく使う「強度」という言葉。俺は、これを「時代や思考の変化、あるいは読みの多様性によってもかき消せない良さ」と定義します。そういう意味で、稲垣足穂の言葉は非常に「強度」があると言える。あるいは、時代によって変化しにくいものに力点を置く。例えば「文体の美しさ」とかです。もちろん、時代時代で人々の文体は変化しますが、それでも美しい文体は美しいわけですよ。あるいは「作品の構造」や「絵的なイメージ」なんかも比較的やられにくい。「カラマーゾフの兄弟」読みましたか?あの人間描写と作品構造、あれがそう簡単に消えると思いますか?あるいは、宮沢賢治の描いたイメージ、あれだってそうそうは消えない。もちろん、永遠ではないと思いますけどね。人類が滅びるのとどっちが先かなー、ってレベルで。
 詩っていうのは、そのほとんどが「相対的」なものだと俺は思うんですよ。いや、わかる、「はいはいモダニズムモダニズム」みたいなのはよーわかる。でもさ、そうじゃないかね?逆に言えば、我々が「ひどい」と認識する作品があるからこそ、「良い」作品もある、と言い切ってしまおうか。我々が格好悪いと思う言語の使い方があるからこそ、その逆もある。そういうことです。そして、それらは固定されたものではない。
 ちょっと話を変えて、文学極道が「革新」のメディアか「保守」のメディアか、皆さんどっちだと思いますか?ちょっと混乱しませんか(笑)「基本的な文章力」「読者への作品」「難解な現代詩への敵対」、あれ…保守やん。と思った人もいるんじゃないかと思う。それは、間違いではないです。しかし、文学極道はそれでも「革新」のメディアなんです。それというのも、革新というのは「現在支配的なイデオロギーの転覆」ですからね。まぁ、正直「現代詩」が支配的かどうか、っていうかそもそも存在しないも同然じゃねーか、みたいなのもよくわかる。でもまぁ、我々は優しいんです。現代詩と我々は、断絶と言う形で接続されている、ということにしてやる。現代詩の逆を張る、ということは現代詩あっての我々ということで、考えようによっては俺たちは世界一現代詩を大事に扱ってるんだよ、わかれよマジで。そんで、その結果が保守っぽい主張になってしまった、ということなんですね。他に、揶揄的な意味で「ライトノベル」や「ケータイ小説」(もちろん、それらの中にも端的で不足のない描写や感嘆する作品構造を持つものもきっとあるだろう、ってのは「現代詩」と同じです)にも「逆張り」をしてるわけですね、そういう意味での反逆のメディアです。まぁ、主張は保守的ですが。どこのタームに対して反旗を翻すかだけの問題なんですよ、保守と革新なんて。
 俺は、文学極道の主張は、そういう形で意味があると思っている。文学ってものは、常に新しい手法の台頭や、過去作品への否定、あるいは死に掛けていた方法論の復活、そういう新陳代謝こそ、変化していく一つ一つや「本質」ではなく、変化し続けるその力、ああ、結局ここにもニーチェが顔を出すけれども、ぶつかりあい、常に動いていく。それこそが大事なことだと思ってるんです。だから、誰かが旗を振り、そしてその旗はいずれ踏みつけられて焼かれなければならない。変化していくこと、変化し続けること。
 そういうわけで、何か非常に散漫なコラムになりましたが。結局何を言いたいかと言うと、色々考えて書け、と。無造作に書くな、と。「コンテクスト」を意識しろ、ということです。コンテクストを意識して書かれた作品には必然的に、構造も生まれて来るし、それを意識している限りイヤでも自分のアラは目につくでしょう。他にも意識すべきは無限にありますが、コンテクストって言葉の広い意味を考えれば、これについて考えるだけでもかなりウンザリ出来ると思います。自分なりに色んなものを読み、他人の作品を読み、評を読み、方法論を模索しろと。酷い作品だ、と思ったら何故酷いのか考え、それに対して超克する方法論を考えろと。今何が格好いいのか、過去何が格好良かったのか、人は今何を好むのか。複眼的な視点を獲得すること。ファッション業界を少し見習うべきですよ、我々は。彼らなんて、常にそれを意識し、むしろ人を先導し扇動している。意識して、意識させている。迎合しているのではなく、むしろ引きずっている。文学だって、本来はそういうものだったはずです。ファッションに出来て文学にできねーわけねーだろうが!少なくとも、おまえら好きで書いてんだろ?やってのけろよ!
 くだらない「本質」に囚われるな。それは単なる信仰だ。今目の前に読者と、評者を見ろ。自分の作品と、他人の作品を見ろ。過去の名作を読め、同時代の有象無象を見ろ。あらゆる方法を模索しろ。そして、常に思考しろ。良いものを書こうとするんだ、そういうことじゃないか。
レーモン・クノーと二葉亭四迷。この二人の精神に近いものがあります。(正確に言えば、クノーはセリーヌの方法論を発展させた人ですが)方法の問題について意識すること。本質主義的、あるいは信仰的創作態度が必ずしも悪しき、とは言いませんが。なんかこうね、色々考えて書いてください。その工夫を、俺は評価しようとしています。無思考に書かれた作品は、ごく一部の例外を除いて(確かに、例外はある)総じてつまらないんです。そして、多分あなたも俺も天才ではないです。だから、工夫してください。新しい、そして「善い」作品を、書こうとしましょう、書きましょう。

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