文学極道 blog

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ネタについて。それから吉本隆明氏について

2008-03-31 (月) 23:51 by ダーザイン

まずネタとは何かについて

以下転載

投稿者:  投稿日:2008年03月05日(水)02時25分49秒 ■ ★

なんかいかにも就職活動中って感じの女子大生が真昼間の
ファーストキッチンで胸とかバンバン揉ませてるわけ。同じ年くらいの
男子大学生ぽい奴に。しかもスーツの内側に手入れて直で揉んだり
してるわけ。なんか女のほうも廻りを気にしながらも小声で
笑ったりしてるわけ。「ヤダァ♪」とか言いながら。
俺は思ったね。お前ら独身中年なめんな、と。お前らのすぐ隣に座ってる
俺はお前らの様子見ながら正直、勃起してんだよ。ていうか信じられないよ。
素人同士で金のやり取りもなく胸揉むなんてよ。俺はヘルスで平均40回ぐらい
揉むわけ。12,000円で40モミ。1モミ300円。俺はそいつら見ながら「あ、300円」
とか「また300円」とかカウントしてたわけ。で、そのカウントが6,000円ぐらいに
達した時、突然こみ上げてきたわけ、嗚咽が。押さえ切れないほどの憤怒が。
で、声に出して泣き出しちゃったわけ。真昼間のファーストキッチンで。独身中年が。
急に声をあげて泣き出した俺を珍獣でも見るように一瞥した挙句、クスクス笑いながら
店を出ていくそいつらの後ろ姿を見ながら俺は思ったわけ。これはもう階級闘争だ、と。
謂なき触穢の鉄鎖に蹂躙された日陰者の人権は闘争によってしか解放されないのだ、と。
そんなわけで俺は闘うわけ。

#転載終了

 上記は四季ユートピアノに無記名で投稿された文章だが、初出は5年ほど前の地下暗黒掲示板群「あやしいわーるど」のどこからしい。可読性を高めるために変更したが、原文はカタカナが半角になっている。「クスクス」「バンバン」。こういったタームが半角で使われるのはあやしいわーるどの前世紀からの言語風俗であり、この文章を書いた者があやしいわーるど者であることは明らかである。
 で、何故このあやしいわーるどの一空白(2chで言うところの名無しさん)の文章を転載したかというと、お前らの書く下らない詩よりよっぽど面白いから。勿論吉本隆明氏が書いたどんなゴミみたいな詩よりも面白い。俺は吉本隆明氏が書いた詩を読んで感心したことは一度もない。実にくだらないと思ったし、下手だとすらも思った。
 そして、ネタとは何かについて語るなら、あやしいわーるど緒板や伝説の地下掲示板「アフロ一発」など、地下私書箱文化の流れを汲むあんぐらネット無料芸人がワイヤードにのめり込み過ぎてネタと混じれ酢の区別が付かなくなり、即ち、いまだ20世紀であった当事から、地下暗黒掲示板群に住み着いていた連中の脳内には世界最大の放射光施設スプリングエイトが装着されて既に素粒子コンピューターが駆動して五次元世界が実現しており、大型ハドロン衝突型加速器が連中の脳内にブラックホールを生成させて鬱を加速させたり世界を終焉させたりしていたわけだが、即ち、リアルとワイヤードの境界がずぶずぶと崩れていく感触、札幌琴似大交差点のたこ焼き屋台からでて猛吹雪の街並みに灯る街灯の明るみの中にピンクのワンピースの少女の姿を幻視して、「俺が神だ」呟いたり、ボーナス支給日に事務長のまん前の席で執務していた男が「ソープランド、ソープランド、ランランラン♪」と無意識に歌って、事務長に「武田さん、何いってんの?」と呆れらりたような瑣事から、2000年12月20日午前10時頃大阪府高槻市JR高槻駅コンコースに日本たばこ産業の職員が( 隠し味に使っているのか?)放射性同位元素ヨウ素125を「本来の世界に戻すために」まきちら したようなキチガイ沙汰まで、素粒子論的な越境は20世紀大世紀末から先行者の脳内で行われていたのである。
 上に転載した空白の文章に戻るけれども、あやしいわーるどにはあの手の文章が毎日のようにあちこちに無記名で書きなぐられている。ネタとは何か。彼らは恥をかくことの快楽を知っている。ご立派な芸術家にはわからねーんだな、これが。彼らは創造の喜びを知っているよ。自分自身を笑いものにする潔さを持った本物の変態が、文化の最前線、情報をシェアさせる新しい地平であるワイヤードでのエンターテイナーとして日々狂文を研鑽し、世界の狂気を暴き出し、狂気の世界性を自ら体現しているのである。

 ところで話は変わるが、上述したように俺は吉本隆明氏に寸文の敬意も持っていない。それどころか、うんざりするようなくだらない詩を書いて詩というジャンルをダメにした元凶の一人、サルトルやフロイトをコピーした糞みたいな思想書、またルサンチマン丸出しの屁理屈で偉大なる埴谷雄高さんを侮辱したり、原爆を擁護して反核をヒステリー呼ばわりしたり、要するに反革命の裏切り者、吉本隆明氏であるが、最近またくだらない本を出したらしい。光文社刊、吉本隆明「日本語のゆくえ」。最近の現代詩と詩人たちを殆ど全否定する内容だそうだ。現代詩手帳(同人誌)プロパーしか読んでいない老人に現代詩の何が解るというのか。そもそも俺は吉本隆明氏を全否定しているんですけれども。もう20年以上も前の学生時代から。否定されるべき現代詩というタームは吉本さんの詩のようなものを指すのであって、こういう老人とは関係の無い言葉のほんとうの意味での現代詩を書いている俺たちは、現代詩という言葉をこいつらから取り返さなければならない。

「これはもう階級闘争だ、と。
謂なき触穢の鉄鎖に蹂躙された日陰者の人権は闘争によってしか解放されないのだ、と。
そんなわけで俺は闘うわけ。」

笑い。

注。金も暇もないし、吉本氏を潤わす気も無いので件の本は読んでいません。誰かくれ。或いは貸してくれ。

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