文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2018年12月 芦野月間選評

2019-01-25 (金) 21:02 by 文学極道スタッフ

芦野個人の選評となります。
前書き

  • 今月は投稿作品が比較的に少なかったので、バランスを考え優良作品は一作のみとさせていただいております。
  • フォーラムにも書きましたが、仕事の関係上どうしてもこれまでのような全作選評を書く時間がとれなくなり、優良+αという形での選評となっております。
  • 優良、落選、順不同です。
  • 優良作品以外に今月選評をかけた作品(+αの作品)が必ずしも選評を書けなかった作品に対して優れているというわけではありません。

10971 : 冬にむかう 三篇  山人 ('18/12/31 20:49:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181231_672_10971p

雪が降る
この小さな心臓の真ん中に
冷たい塊を落としに

素直にかっこいいと思った箇所です。なぜかっこいいと思ったのだろうか。比喩が巧みだから? いやそれはたぶん違っていて、この3行から浮かんでくる「背景」がとても染み込むようにすっと胸に入ってるからだと思う。言葉を変えるとこの場面、発話者の言葉が発話者の存在というものをくっきりと存在させることに成功しているのではないか、と。
もしかしたらピンと来ない方もいるだろう。少し具体的に話したいと思う。それまでの2篇のわりと渋めな詩がバックグラウンドでいい仕事をしていると同時に、僕の乏しい索引に「雪」でひっかかる昔の作品などが海底トンネルのように連絡し合い、この3行を彩ったのかもしれない。
例えばウォレススティーブンスの『スノーマン』だったり、或いはヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』でもいい。若いころ持っていたはずの情熱というものが、自分でも知らないうちに、あっけなく消えていたことに気付いたとき、それを恨めしく思う気持ちもあるだろうが、むしろそうなる定めであった、とすこし晴れがましく丸めた背で寒空の道を一人の「前よりも」老いた男が去ってゆくとき、そこには必ず雪が降っていたのだろう。
もちろんこれは僕の妄想だし、作者の書きたかったこととは全然違うかもしれない。けれどどんなに細かく話者の存在のディティールを飾っても、最後にそれを生きた人間にするのはいつだって作者ではなく読者であると思う。「妄想」や「思い入れ」が作り物に息を吹き込むものだろう、と。そういう意味でこの詩はとても「吹き込み口」が易しい作りになっていて、軽く吹き込んだだけで、簡単に生命をもってくれる容易さが良い。
その良さは、前の2篇で打った布石と、文学における雪というもの象徴性によるものではないかと僕は思ったのだけれども、もちろん読み手の数だけ読み方はあるわけで、是非皆さまのうちにこの詩を紐解いてみてほしいと思いました。

10973 : ひとりであるく  いけだうし ('18/12/31 23:14:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181231_676_10973p

半分より少し欠けたぶんだけ、
それは太陽に照らされるしかない
そういうポルノを、僕を憎む

「を」の連続が一瞬読み手を躓かせているんですが、この場合いい具合に効いてるんじゃないかな、と思いました。んーと、誤解されかねないですが、わりと「あー!そう!」で済まされそうな語りなので、ここは是が非でも足を引っかけたいところですよね。
それで、一瞬立ち止まらせると、自然と解釈の歯車は回るもので、僕の場合、この場面でポルノと称される僕の在り様、憎いとおもってしまう在り様を、ひねくれた韜晦欲と、素直な感情との相克として読んでました。それをポルノと表すのがなんとも味がよいように思います。
そこから唐突に出てくる「オキシトシン」という言葉も、脳内物質を出すことで、抗えない人間的感情への拘泥たる思いをなんとなく感じ取れますね。
僕のなかでは話者のユニークな存在というものが立ち上がりつつありそうだったので、結びの一連が少し不足なのかな、という印象です。というよりも、もう少しその筋で走らせてほしいな、というものなのかもしれません。

10969 : 鳴動  トビラ ('18/12/31 17:20:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181231_668_10969p
少ない言葉で多くのことを語ろうとしているのにはとても好感を持ったのですが、どうしても、作中の話者が作者のなかで閉じてしまっているような印象を持ちました。

いくら、哀しみをオーバードーズしたって、
答えは得られない
それが答えだった、あの日

具体的にはここなんですが、続く詩行は、読者の「妄想」でいくらでも補完できる良さがあったように思います。なんというか、読み手の思い入れに呼応して色合いが鮮やかになる詩があると同時に、ある程度の容が作品のほうに用意されていないと、暖簾に腕押しのような感覚を覚えてしまうように思いました。要するに、いろんなパターンに当てはまりすぎて個別性が失われた結果、読み手に透明な存在のような感じに映ってしまう弱さなのかな、と。

10943 : 揺蕩う  氷魚 ('18/12/08 16:25:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181208_139_10943p
すごく失礼な言い方になってしまうのですが、詩っぽいものを書こうとして作者のなかで根のはった言葉ではなく、それっぽい言葉の連打に終始してしまっているように感じました。言い換えるなら、すらーっとよんでそれでおしまいとなりかねない描写であると思います。
ただ僕の言ってるやり方って、言葉の背景に話者という存在を浮かび上がらせる方法なのですが、決してそれだけが詩であるとは思っていなくて、いわゆるキラーフレーズとして、やたらでかいダイアモンドに光が乱反射するような、輝かしいフレーズの連打みたいな方法もあるとは思うのですが。この詩に関しては巧く行っていないという印象を受けました。

所在なく一声鳴いた牛の瞼に泥がこびりついている。

ただこの一行ってそれまでの詩文とは全く違って、ものすごく情感を刺激するような趣があるのですよね。僕はこの一行がとてもよかっただけに作者はどちらかというと、ある「存在」というものに寄り添った書き方のほうが巧く書けるのではないかと思ったんですよね。

10964 : 小品21(から14へ)  空丸ゆらぎ ('18/12/24 22:16:47 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181224_573_10964p
こういう作品に、その裏側にいる存在を浮かび上がらせる背景だの、そういうことをあまり言うつもりはなくて、なんというか、いい気持ちにさせてくれればそれだけ何か読み手の内に残せそうな体裁だと思います。それで、いい気持にさせる、というのがめちゃくちゃ難しいんですよね、もうこれはセンスだけでの勝負みたいなもので、僕がその「方法」についてとやかく言えることではないと思っています

冬眠することにした 雪も気兼ねなく積もれる 眠い
世界は眠い 土いじり

初読、積もれる、ってどこから目線? という引っ掛け方がなんだかとても効いているように思いました。雪ってもしかして誰かに気兼ねして降るのをためらったりしているのだろうか、とかそういう楽し気な空想を呼び起こす「遊び」がありますよね。

ドローンと天使を見間違えるなんて、
兵隊さんたちはそわそわし始めた。

これも同様で、そんな状況を頭の中で想定させることで、書かれている文章に深みを持たせるというよりも、勝手に深みを想像させる、という燃費のいいやり方だなあ、と思います。(どっちも同じことかもしれませんが)
一方で、平べったい、どこかで聞いたことがあるような詩文もあり、推しきれないなという印象はありました。もちろん僕のほうに、どうすればいいか、なんて提案はなくて、もっと研ぎ澄まされた言葉で突き刺してほしいな、とただそれだけしか申し上げることができないのが残念なのですが。

10968 : アンタなんかしなない  ゼンメツ ('18/12/29 01:22:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181229_611_10968p

あくびをしている恋人の口へ指をつっこむみたいに、拳銃を突きつけ、そして同時に引き金をひいた。そのどこまでが比喩だったのか。

いきなり躓かされるフレーズに出合いドキッとした方も多いのかもしれない。なんとなしに読むと、拳銃を突きつける行為を比喩として、頭が勝手に処理しようとするのだけど、「あくびをしている恋人の口へ指をつっこむ『みたいに』」という言葉をもう一度読み返すと、「そっちが比喩かよ」という驚きがある。
どうやら巷はゾンビで満ちているらしい。恋人もそうだし「僕」もどうやらそうらしい、その「事実」をそれっぽい比喩で覆い隠すように、感傷的な描写が重ねられている。
その倒錯感と、「でもキミらゾンビだよね」というツッコミ欲と、それでもなぜか突き刺さってくる言葉がなんだかとても切ない。
「僕たち空っぽだね」という、詩に書くと限りなく陳腐な言葉をどうやったら読まれうるものにできるか、という試みに感じました。

10938 : 2:12 AM  アルフ・O ('18/12/05 23:06:02 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181205_066_10938p
レスも読んだんですが、どこらへんにレズとか百合要素があるのかわかりませんでしたので、あんまり理解できていないかもしれないです。
むしろナンセンスギャグのように読みました
「節子、それは夢ちゃう」
って感じですよね、ちょっと不謹慎ですが。そこらへんの可笑しさでどこまで読ませられるかって感じです。タイトルを見ると『2:12 AM』とあるので、「迷惑な奴だな感」がましましで、むしろそんな時間に「貴女」を抱きとめるために起きているもう一人の方へのツッコミ欲も高まってきます。
と、ここまで読んで、そのツッコミ不在具合、回りくどさが、様式美としての同性愛ものというものと繋がるのかな、と少しだけ感じました(どちらかというとBLっぽさを)。萩尾望都くらいしか知りませんが、特有の回りくどさがありますよね。
そういうツッコミ不在ゆえの「不可侵さ」の演出としては僕は過不足なく良かったなと感じました。こういう作品に、作中主体独自の人生観云々とか言い出したらそれこそナンセンスギャグなので。

10953 : or  完備 ('18/12/15 13:24:55 *1)  優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20181215_278_10953p
傑作だと思います。たぶん僕がこれまでの選評で書いてきた「なんちゃって良い詩を書く方法」諸々とは全く異なる技法によって支えられているこの作品の評を書くにあたって少しばかりの興奮を抑えられないことをどうかお許しください。
一読して、ほとんど意味なんてわからなかったけど、どうしたことか、散りばめられた言葉一つ一つに必然性すら感じてしまったのは、おそらくその言葉らが作中主体にとって何かしら親密な関係を結んでいる、或いは結んでいたと予感されるようにこの詩文が書かれているからだと思う。
それは例えば

本棚、ボロボロの
擬微分作用素
それは抒情、あるいは
信仰告白、
重曹を溶かした足湯
これは祈り

「擬微分作用素」なんてよく分からない数学用語が「抒情」あるいは「信仰告白」という言葉に接続されることによって、立ち現れてくる背景によって為されているように思う。僕がここで受け取ったものは、昔「擬微分作用素」なる本を買って、数学という最もロジカルな世界で何かを為そうとした「かつて」の話者と、それをそのロジカルな世界から最も遠いもののように思われる「抒情」や「信仰告白」と呼ばざるを得なくなった「今」の話者との関係性というどうしようもなく感傷的な余韻だった。
と同時に、「重曹を溶かした足湯」というのは詳しく知らないのだけど、なんだかとても踵のカサカサが取れそうな感じがして、それを「祈り」とするユーモアももちろんあるが、むしろそれが「擬微分作用素」に並置されていることで、人間臭さというものが滲み出ているように思った。学問に勤しむ人だって踵のカサカサは気になるのだ。
ここからは僕の独りよがりな読解になるのだけど、『or』と題されたこの作品を一読したときに、キルケゴールの『あれや、これや』を思い出していた。内容なんてほとんど覚えていないし、そもそもそんな哲学めいた話をするつもりもない。でも生きていると、ふとしたときに「あれも、これも」というandの生き方に疲れを感じるときって必ず訪れると思っていて、そういう贅肉となった経験や思想は

荒れ地、眠れないまま
ゆるむ瞳孔へ
駄々洩れるイメージ

として、頭の中を去来する。そんななか、「あれや、これや」の選択を迫られるとき、僕の知る限り、そんなものを即座に決めることが出来る人なんてまあおらず、ただただ選び取ることのできないイメージが氾濫して、自分にとって何が真実なのかという揺らぎの中で生きざるを得ない、とても人間臭い誰かがこの作品の背景にしっかり存在している。

あるいはきみと
作られた寂しさ、もう
いい、
もう、これ以上
繰り返さなくても、

或いは、ある喪失のなかで、あらゆる選択を無に帰するようなかつての絶望の影におびえているのかもしれない。かつて価値のあったものが無価値になり、それがorという接続詞によって延々と並べられ、延々と無価値であると信じてしまうこと。その揺らぎの中でもがく、どうしようもなく人間臭い誰かによって絞り出された途切れ途切れの言葉が僕の胸を打ったのだと思う。

10956 : 貧乳が添えられている  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/12/17 02:23:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181217_365_10956p
多くの方が触れられていますが、この作者にとって「反感」がフックなのですよね。それで、これまでの作品って、わりと(少し言葉は悪いですが)「稚拙」な形で反感を誘っていたから、端から「そういう年ごろなのね」と歯牙にかからなかったところは少なからずあったと思うんですよ。ただこの作品に関していえば、レス欄を見ればわかる通り、ちゃんと「反感」を買えているんですよね。アルフ・Oさんがかなり良いレスしてくださっているので、僕はそれ以上のことを付け加えることはできないのですが、謎の設定を背景にして、それでも現実感を装うようにディティールへの言及がなされているので、「ああ、反感売ってるや」と一瞥されて通りすぎてしまった読み手を引き留めて、あわよくば「これは差別なんじゃないか」という言葉を引き出すことに成功していると思いました。
ちなみにレスつく前にもこの作品は読んでいたのですが、これまでのワンアイディア勝負から脱していて、反感、というものを入り口にして、それでもテンションを保とうとしていることに好感はありました。
そう、この作者の作品って「ちょっとこれに関しては、言いたいことがあります」と参加させてしまえばもう作者の土俵なので、そこはかなりうまくいったんじゃないかな、と思っています。

そこから先の読みに関しては、もうすでにるるりらさんがかなり忠実に作者の仕掛けに、引っかかったうえで本質を見抜いているよう思われるのでそちらを参照していただきたいです。というかこの作品はるるりらさんの読解で何倍も良い作品になっているとさえ思います。本質は「不幸でしかありえない関係」ということになると思ったのですが、フックも効いてて、その落差を利用した展開の仕方も良いと思います。欲を言えば、その関係性のなかからでしか語られるすべのない詩の言葉というものをもっと読みたかったのですが、そこは作者の望むところとは違うかもしれません。あくまで僕の個人的な欲求です。

10949 : 干し芋  松本義明 ('18/12/13 21:10:20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181213_243_10949p

これみよがしに私は唐揚げ私はおでん私は肉まん私はマロングラッセ私はアイスクリーム

巧いと思いました。切実さと遊びのバランスが良いので、緊張と緩和が効いていて、すっと胸に落ちてくるものがあります。
途中から干し芋が貴女という言葉に置き換わっていくのですが、そこをどう読ませるか、で読後感が変わってきそうだと思いました。亡き妻、亡き母、亡き女兄弟、或いはそんな言葉を思い浮かべることも可能かもしれない。そうするとこの詩文全体が迷彩としてあやふやになり、はっ、と気づいた時、この詩文にあふれるより多くの情感というものに触れることも可能なのかもしれない、と。

小さな甘みが涙の中でなんどもなんども爆発しているから思い出しているけれどもう貴女に出逢えない

思い出という感傷は、思い出のただなかにいたころと、それに対して現在の自分が不可逆的に変わってしまったことをいつだって眼前に突きつけてくる。
ただ僕はこの詩、かなり入れ込んで読んでしまっている自信があって、そうではない読み手に対して、そういう導線が引かれているか、といわれるといささか疑問に思うところもありました。

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2018年10月 芦野月間選評

2018-12-01 (土) 00:30 by 文学極道スタッフ

芦野個人の選評となります。
前書き

  • 優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
  • 今月は良作が多く、優良候補作品も多かったのですが、2作品に絞り切ったため先月までのように優良候補作品だったことは明記されておりません。
  • 優良、落選、順不同です。
  • 今月も同様に一部の作者の作品に関して批評するに能わず、そのこと謹んでお詫び申し上げます。

10853 : 心が壊れている  いかいか ('18/10/31 23:13:46)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181031_522_10853p
いったいこの人たちは何に、なぜ殴られるのだろう、殴るのだろう、ということを空白で読み手に受け渡すことで何か風刺的な意味合いも発生させるような書き方ではあると思いますが…基本的に僕は読み手は怠惰且つ傲慢であるとして話を進めるので、その空白受け渡したからには、そっちで起爆させてください、という気持ちが湧きます。そうでなくても、文章自体が相当魅力的であるとか、それならば読み手は勝手に想像するし、勝手に爆発したりするかもしれませんが、そういう状況を引き起こすほどにこの作品の詩文が独立して読みうるものたりうるかというと、そこまでの完成度には至っていない、と思いました。作者のこういう作品は珍しいのでそういう意味で興味は湧きましたが。

10852 : 123123123  123123123 ('18/10/31 23:11:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181031_521_10852p
もったいない書き方してるなぁ、と思ってしまいました。ところどころ、良いなと思わせる表現を散見するんですが、例えば

チカチカする街灯に裸の女性が美しい三輪車にまたがっている。

もう、このイメージ描けたら、あとは体裁を整えるだけでふつーにいい詩になると思うんですよね。けれど、今作はそのような意図のもとに書かれているわけではない、ということは露骨に伝わってきますね。
 あとこの詩特定の個人を揶揄しているように思われるので、僕としてはこれ以上評を付けるに能わざることご理解ください。

10847 : ill-defined  完備 ('18/10/29 10:57:44 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181029_311_10847p

虹彩へ降りしきる抽象的な雪が十分に積もるまで

この始まりから少し不細工な印象を受けてしまうけど、読み手への案内板という役割もあるので、ここで強い違和感を与えること自体は否定できない。何のことかと言うと、この詩におけるすべてが具体的な人物の描写ではなく、行為に備わる情感がぼやっと暗がりに燃える蝋燭の火のように浮かび、そして消える、というまぁ普通に読むとわけわかんないまま終わってしまう詩文なので、案内板として最初に違和感を与えておき、続く詩文のために読み手のスイッチを切り替える役割、ということですかね(作者の説明とは全く違うけれど)。ただもっと鮮やかにそれをなしうる言葉がないものか、とも思ってしまう。
ちなみに僕は選評においてさんざん具体的なことを書いたほうがいい(作者には言っていないと思うが)ということを書いているけれども、別に具体性ってその人物にのみ宿るわけではない、むしろ行為にこそ宿るものと考えています。

ふたりはふたりぶんの切符を買う
切符という響きを理由のすべてとして

とか

荒れた手ですくう雪 切れた指でつむ花

とか、優れた行為の描写って、それだけで人物の背景を浮かび上がらせるし、物語を喚起させる価の高い言葉なのだな、と改めて考えさせられた点もありました。
それでこういう体裁で書くのであれば、この体裁をとった意味を問われてくると思うんですが、最終連

ふたりはラブソングを歌おうと何度も
何度でも まぼろしの喉にふれる

(つきみさんも指摘されているが)ふたり、がまぼろしであることと、ひとり、にとって、もうひとり、がまぼろしであることの両方を描いているようで、とても切ない、と思いました。

10851 : テレビジョン  ゼンメツ ('18/10/31 14:12:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181031_503_10851p

最近ひとんちがそこかしこでぶっ潰れてる。

これもまた読み終わった後では言葉の意味が違った風に読めてくる、迷彩として機能していると思います。ただこの詩は、ズバッと異化された物語が入り込んでくる詩、というよりも読み手の労力に比例するように、じわじわと面白さが増す文章ではなかろうかと思います。しかしとても不幸なことなんですが僕はこの家族に興味を抱きえない、という問題を抱えてしまった。これは作品を責めるのはおかしいとも思うけど少しだけ。
個別の物語を読み終え自らの人生へ回帰していくときの、俺は確かに受け取ったぜ感、というものがありますよね、小説とかに多いですが。今作で感じたのは、なんというか解釈のお品書き、みたいなのがちらちらと見え隠れしていて、そこが少し興を削ぐようなかたちになってしまっているように感じました。確かに注文すれば注文通りのものが来るんだろうけど、確かに受け取ったぜ感にまつわる、あの奪い取った感じというものがどうしても恋しくなるような読後感でした。

じっと待ってる。じっと。

ただこの言葉、いかいかさんが言及されてますが、それまでの文脈の中で読みうるものではありながら、それまでの文脈を自ら切り離すような、力強さを僕も感じました。巧い言葉が見つからなかったのですが、ビーレビの方でるるりらさんが「弓のようだ」と形容されていて、ただただ膝を打つ思いであったことは書いておくべきかな、と思いました。

10849 : 極北を見た  トビラ ('18/10/29 13:17:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181029_319_10849p
作者のこれまで書いた作品をいくつか読んできているので、この急な方向転換というのが呑み込めない、というのが正直な感想でした。
今まで作者の作品にあった読み手のための土台、というのが全部取っ払われて、突如拙いながら変化を求める作者の詩の言葉に触れるのは僕個人としてはとても興味深いことであったけど、そんなことお構いなしのふつーの読者はもちろんそこまで読み取ってはくれないということは注意したいですね。
以前書かれていたものには当然のようにあった読み手への導線というのをなくす以上、読み手の視線、というか読みそのものを、少ない言葉でコントロールする技術というのは一度作者が描いた作品を突き放して自らも読者になり、それを書くとともに読むということで得られる視点ですが、そのような冷たく厳しい視線に耐え抜いた作品とはどうしても思えないバラバラさが目立ってしまいました。

10813 : つまらない愛だよ。(大きく書き直しました)  いけだうし ('18/10/12 19:32:46 *5)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181012_499_10813p
今にも壊れてしまいそうな誰かを抱きとめようとすること、その時いやがおうにも自覚される傲慢さと愛情との相克。という風に読みました。
それ自体は何でもない感情だけれども、「崩れかけランプ」という言葉が読み手に空白として渡されて、想像力というのを読み手に使わせて、何でもない感情を、見つけ出してもらうことによって、発見として、詩情に昇華してもらう。そういう構造にも読めました。
ただ、太陽と満月の対比がどうしても作者の考えてることを読まされている感が強くて、それならばそんな言葉使わないでストレートに書いてよかったのではないかな、と思います。疑問に疑問を重ねるのは読み手を突き落とすと思っていますので。或いは内容などなく、ただ対比構造を描きたかった、という可能性もありますが、それだと

あれは満ちることのない月、だから

というような意味の表出がとても邪魔をしていて、やはり内容を読もうとするのですが、その読みの領域がテキスト以上に、つまり作者の頭のなかにまでその捜索範囲が広がると、怠惰な読み手(重言)は捜索断念しますので、お気を付けください。

10850 : 神無月  玄こう ('18/10/31 00:19:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181031_477_10850p
僕は俳句のことなんてこれっぽっちもわからないので、俳句としては、なんて意見はもちろんなく、ただただ改行詩としか読むほかないと思って読みました。
こういう独白に近い、作者の心の内を曝け出したような作品は、知らず知らずに読み手を拒むようなところは否めないけれど、一歩歩み寄ると意外にも変に構えた作品よりも読みやすかったりするのは、気取らない、という作者の意識にも関わってくるものと思う。

なげくむねのうち 月と貴たがいる

コンビニやねにも 貴月と自転車だ

例えば、こんなん読むと、おやじギャグの類かとも思ったけど。そういう言葉遊びというごまかしに隠されている、「話者」の心の内を思うとすこしかわいいと感じたり、なんだか拙さまでもが良いところにも思えてくる。
こんなことを言うと、「共感しちゃったからだろ」と思われても仕方ないかな、とも思う。実際それは否めない部分もあって、月を見上げるという、どうしようもなくナルシスティックな行為、それに対する気恥ずかしさ、そういうのはちょっと言葉にできない感覚で読んでる部分もあるとは思う。
ただ一つ言えることとして、この詩のなかには一つのストーリがちゃんと流れていること、というのは、共感云々ではなく、共有可能な話として提示できるかな、とは思います。高尚→内省→自嘲→諦観 と、まぁすごく雑に取り上げてみた流れですが、同じ心持で月を詠んでいるわけではないということ、そこに時間の経過があり、「話者」の心の移り変わりがあることはちゃんと読めばちゃんと伝わることだろうと思う。最後の図は月ではなく、線路とその傍にいる「話者」なのではないかな、と思った。
ちなみに最終行が判らなかったので片手落ちでありますが。

10806 : 何が残るか  コテ ('18/10/10 10:16:11 *17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181010_405_10806p
先月も書いたかもしれないが、僕は作者のキャラ設定が好きだし、言葉選びも好きなのだが、どうしても長さに作品が耐えきれていない印象があった。経験則として詩作品は長ければ長くなるほど、枠に収める覚悟で書かなければならないのではないか、という考えがあります。単純に、飛躍の著しい言葉というのはどうしても読み手の想像力を消費すると思っていて、その作品の作者に特別な思い入れがあるのなら別だけど、ふつーの読者って基本的にはある一定の想像力を削りながらその作品に向かってくる、ということですが、この作品を読んで、そこらへんへの配分というものを考えなければ、このくらいの分量でも結構読み手は置き去りにされているのではないか、と思います。
枠に収めるというのは、読み手の誘導をその枠(ストーリーや、文の構造)に担ってもらって、読み手の負担を減らす、ということだと思っている。ただ僕が思う作者の理想というのはどちらかというと短い作品で結実するのではないかな、という思いがあります。

ゆうこ「とうこさん、あなたがいないとわたくしは日本によくいる、フランス的なお気取りさんみたいね。
わたくしはわたくしのジャンク性が大事で、守らなきゃいけないの。
「もっと良く」なんてしちゃいけないわ。」

一番好きな部分ですが、一枚の絵の中に、この抒情が紐解かれていたら、と思ってしまったんです。

10841 : 花束とへび  田中修子 ('18/10/27 10:16:44 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181027_158_10841p
こんなこと書くと、作者の書きたいことをないがしろにしている、と思われかねないですがあえて言うと、「かおり」と「わたし」は逆に書いた方が良いように思いました(かおりを話者にしてしまうという意味です)。少し迂遠に書きますが

おまえはいつか現実でみた夢を叶えるのだろう

という言葉から見て取れるように、他者への想像というのはとても型にはまっており、逆に「私」に対する言葉は距離が近すぎて、ズバリというところを射抜いていないもどかしさを感じてしまって。先述のようなことを感じた次第です。
おそらく、作者にとっては「わたし」は近い存在で、「かおり」は遠い存在なのだろうな、というふうに読みました。それ故に、「わたし」にまつわる話がどこか突き放せず、言葉に言葉を重ねていく、言ってしまえば、その捉えどころのなさが「自己」だ、という言い方もできるかもしれませんが、その表現の在り方と、他者という存在がこの作品に登場するアンバランスをを感じずにはいられなかったということです。
他なるものに向けられる眼差しというのは、根本的には自己の表現であると思っていて、その意味での、この作品の「自己」の表現の弱さというものはどう解決されるのだろうと思いを巡らすと、例えば、もっと想像力を働かせてみては、という陳腐な台詞が浮かんでくるので、それならいっそ、他なるものの目線でちかいものを書いてみては、と思った次第でした。

10845 : スパゲッティ野郎への葬送  鷹枕可 ('18/10/29 08:05:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181029_299_10845p
作品には関係ないですが、一応僕の「返答」を書いておこうかな、と思う。

作者は読者に細心の注意を払い、「詩」を「娯楽」として提供しなければならないのでしょうか。

答えはyesです。理由は僕よりダーザインさんのコラムに詳しいので一部引用

 さて、反革命の連中に告げる。本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は腐敗した生ゴミのようなやからだと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただく」という発想の無い自己満足な小難しいたわごとであり、或いは「つまらない身辺雑記」である。Hな人賞、現代○手帖賞、はっきり申し上げて、そんな物、ものすごく少数の身内以外、誰も読んでいませんから。以下に述べるように、現代性をまったく欠如している現代○手帖は「旧人類手帖」とかに改名しないと名称詐称に当たって法的に拙いんじゃないのかな。心配だよ、笑い。全国詩人名鑑だか名簿だかも詐称に当たるのじゃないのかな、俺の名前も、創造大賞受賞者の名前すらも無い。寝言は寝て言えという感じだ。

ダーザイン『アフロものに告ぐ
ただ条件付きのyesです。条件というのは、僕がこの選評でとっている、旧来の文学極道的な価値観で評付けを行う、という縛りのことで、その条件下ではyesとしか答えようがないということです。このスタイルをとっている理由はフォーラムをご参照ください。
またこれは個人的な話ですが、僕は文学極道を除くと谷川雁以外の詩を読まないです。谷川の詩を読んで、ふと文極の詩を読み、評する、ということをはじめると矛盾で股が裂けそうになります。

さて、僕はこれまで作者の作品をこのスタイルでは評しえないと思っていましたが、今作は、作者の名前と作品の名前のギャップにまず惹かれます。作者の名前も作品の一部云々に関しては渡辺八畳さんの『遺影』で今月述べましたのでそちらをご参照ください。僕はこういうのを「読者サービス」と呼ぶのですが、例えば講義中、難しい哲学用語しか使わない大学の教授を思い浮かべてください。彼がふと、「かかる現象を向かいのケーキ屋さんのショートケーキになぞらえてみましょう、好きなんですよね、あそこのショートケーキ」と言い出したとします。もう学生たちの眠気もぶっ飛びますよね。僕はその「テクニック」を詩と呼ぶつもりはないです。ただ同じ内容の話をするときに、ほんの1mの間もない相手に語り掛ける言葉で相手が眠ってしまうのか、目を見開くのか、それは大きな違いだと思っています。
それを邪道ととるか好機ととるかは考えるもの次第と思いますが。
また今作、「読ませない」という方向に舵を切ったはいいが、前述の「読者サービス」ではまだ「読ませないながらに読ませる」というところまでは完全には至ってはいないのではないかな、と少し思いました。

労働階級の華が捜されるだろう

しかしそれを差し引いても、この導入はとても痺れる。言葉の意味を超えて。
僕はなぜだかジャンジュネのことと彼の書いた文章のことを猛烈に思い出していた。

10846 : ニューヨーク天神駅32「バナナフィッシュにうってつけの日」  オオサカダニケ ('18/10/29 10:48:33)  [Mail]
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懐かしい短編のタイトルだけど内容はほとんど覚えていない。奥さんに対して、「お前は20世紀の精神的ミスあばずれだな」と言い放ったところだけ少し印象に残っております。
作品ですが、具体的な場面というのがあって、衒うことなくそこをストレートに読ませるというとてもシンプルな作品ですが、僕にはその会話やシーンの中に作者が隠したであろう機微というものを少しも理解できなかった、という意味で、むしろ難解な作品になっているという印象を受けました。そういう時はひたすら素直に読んでみるのですが

「確かに僕はそいつのことを一番好きだよ。だけど3番目ぐらいにきらいでもあるんだ。にもかかわらずぼくは彼と親友のままでいる。それって僕が他人の良い面を重視できるからだよね?そうなるとぼくは良い人間ってことにならない?」

子どもらしい、幼稚ながらも素直な発言ではありますが、それに対するエイミーの態度がどうとでもとれる(=どうとってもいいなら、どうともとらない)単なる思わせぶりの典型であり、それ故に、人と人との関係や、その背景、会話の中に隠された機微というものが立体的に迫ってこない弱さがどうしても付きまとってしまう作品と思いました。

10836 : 夜行列車  氷魚 ('18/10/24 00:23:45)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181024_979_10836p

火照る外套の星屑、

うそん、と思いました。最初の詩句で、読み手を悪い意味でぶった切るというか。作者の中ではものすごくいろいろな言葉が星座のように繋がって物凄く詩的な表現であるのかもしれませんが、読み手はもちろん作者の頭の中の星座については全く無知なので、いきなり足をひっかけられてこかされたような感じがします。続けて読んでいくと、真鍮ボタンという表現が出てくるので、ほっと胸をなでおろすのですが、なでおろしたところで、そもそもこの程度の装置でそこまで読み手をぶった切る効果があったのかと考えると、ただただ疑問が残りました。
一つ一つの言葉がまるで類語辞典でも参考にしたかのような印象があり、作者の頭の中にあるイメージを適切に言い表しているのか、というそもそもの疑問が湧いてしまうということですね。作者の頭の中にあるイメージというものはもちろん読み手には解読不可能なものですので、僕がここで言いたいのは、「あたかも作者のイメージをこれしかない言葉で言い表していると、読み手を『騙す』ことが出来ているか」ということです。
よく、肉感のある言葉、とか真実の言葉とか、そういう胡散臭い話に纏められることなんですが、あれは一方で真実を伝えていると思っていまして、つまり「ほんとっぽさをどう描くか」ということですね。
当たり前ですが、肉感なんてなくてもいいですし、真実である必要なんてこれっぽっちもないと思うのですが、それを装うこと、そして読み手を騙すことということから得られる大きな効果、というのを意識されるとよいのではと思いました。

10826 : 傘泥棒  ゼンメツ ('18/10/19 16:18:52 *6)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181019_802_10826p
めぞん一刻で五代君の初体験の女性になるはずだった大口小夏というキャラがどうしても頭から離れなかったから偏った評になるかもしれないことはあらかじめ断っておきたい。

間違ったことを想い、彼女もそうしている。今日はなにも思い出せない。ぼくは味覚障害かもしれない。

どう考えてもここで躓くようになっている気がします。あまりにも唐突に「間違った」という言葉が出てくるのと、今日はなにも思い出せない→味覚障害、という違和感を単純に記憶=味覚と読んでいくと、「いくつかのさかなの味を思い出していた。」という詩句もまた違った風に読めてくる。
結論からいうと、僕は冒頭にあげた理由も相俟って、失恋の詩として読んでいたんですよね。「いくつかのさかなの味」は「同じ形をしていないものへの記憶」に頭の中で書き変わっていくし、

眠る彼女を眺めていると、そのかたちはすこしだけあやふやに見えた。

というのは、キャンプ場で出会った彼女が記憶の中で「他とは同じ形をしていない者」の代替物へと変容していく様として、つまり傷心の相手の穴埋めとしての「間違った」想いが生まれている、彼女もそうだ、という読み方です。
まぁだからなんだ、という話にもなりそうですが、僕がこの評で述べたいのはそのことで傘泥棒という言葉がどのように変容していくか、ということです。ビニール傘というのは雨が降っている時とても便利なのは皆さまご承知の通りだと思います。そしてそれを盗むのは例えばその他の私物を盗むよりも少しだけハードルが低い。というのも、ビニール傘というのはそのものへの愛着(同じ形をしていないものへの記憶)が生まれにくく、単にその雨を凌ぐという機能だけを拝借するということに繋がるからなのかな、と思う。ビニール傘は代替可能である。いくらでも替えが効く。
じゃあ、その傘泥棒という言葉がどう変容したのか。先述の通り人間関係へと、この詩文の一つ一つを異化していくと、傘泥棒と言う行為は、ある困難の中で、或いはしょうもない孤独のなかで、そういうものを凌ぐ「人」という存在の機能的な側面を拝借してきた、という行為に変容していく。その時、人はビニール傘のようにどれも同じで、代替可能である。一方で「僕」は「間違った想い」というふうにその行為を倫理観が咎めるタイプの人間であるらしいが、彼女とすごしているうちに「彼女のかたちはあやふやになっていく」。
だから僕は、知らずのうちに、この詩を傘泥棒というささやかな罪の「共犯」の詩として読んでいた。陰鬱な雨を凌ぐために有名なブランドが刻印された傘なんていらない。人はその雨を凌ぐために、お互いの中にある代替可能なビニール傘のようなものを、知らないうちに盗みあっている。

10843 : いちごみるく色のマフラー  つきみ ('18/10/29 00:08:57 *225)
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読みながら『わが家の母はビョーキです』中村ユキ著 を思い出していました。いや、すごいごちゃごちゃしてるので、見落としがちになるのですが。

私には価値がある。

とか、だだ長い文章にグサっと突き立てられたような詩的萌芽のような表現がところどころにあって、それはとても面白く読めました。ただどうしよもなく事実を語ろうとする手法がかえって読み手を遠ざけていることは知っていた方がいいように思います。(「事実」というのは僕はこの詩を読んでそれが事実だなんて知りようもないけど、加工されていない生のままの事実をそのまま受け渡そうという印象のことです)
田中修子さんが仰ってますが、その内容に全く無関係な他人をいかにしてその詩に惹きつけるか、ということになってくると思います。それにはご自身の体験された(想像した)物語をいったん客観視して、そこから詩的な真実を描き出す冷徹さが必要になるとか云々、いろんな方がいろんなことを仰ると思うのですが、本質は以下のことです「自分にとって大事なことと、読者が読みたいものは違う」。僕は何も読者が読みたいものを書くのがいい、と単純に思っているわけではなく、そのことを意識されたうえで、ご自身にとって大事なものを書かれてください、そう思いました。

《ボブ・ディランさんの風に吹かれての和訳をあなたに知ってほしい》

とても素敵な空想ですよね。(詩の中で)教えてあげたらよかったのでは、と思いました。もちろんそれでお母さんが感動して涙を流した、とか、そういう嘘くさいエピソードはいらなくて、ただ空虚に流れる『風に吹かれて』と会話が通じない母親とを。

10848 : .  泥棒 ('18/10/29 12:33:06)
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ものすごいベタな手法ものすごくベタに感動してしまいました。
当然読者は突然空けられたこの空白に意識をもってかれる構図になってると思うのですが、その読者の緊張に対する、目配せが巧いと思いました。紅茶猫さんがレスで仰ってますね

う〜ん、何か二人とも死んじゃっている気がしますね。

こういうメタっぽい含みを匂わせつつ、あくまで、ありきたりなことしか描かれていないんですよね。そのことが逆に読者の読みに対する裏切りとして作用しているように思いました。わかりにくく書いちゃったんですが、「次から次へと人が死んでゆく物語」と最初に布石を打っておいて、「恋人はもう死んでいるのかもしれない」と接続することで、本の世界と現実世界が切り替わったのかな、みたいな小難しいことを一瞬だけ念頭に浮かばせておいて、でもちゃんと読むとただただ、夕暮れの差し込むどこか気怠い午後の一場面であることにホッとするような、少しこちらの張り詰めた気も綻ぶような、温かい詩だと思いました。

10802 : Yellow?  アルフ・O ('18/10/08 21:32:32)
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今月の作者のもう一つの作品は面白いほど読みやすかったので、まぁ少し困惑するところはありますね。具体的な場面は浮かばずに、言葉が表層をなぞるように連ねられている。そういう印象を受けました。思うに作者が考えている「ここで読ます」というラインと読者が「実際に読める」というラインが乖離しているように思われます。もう一つの作品の方を僕が評価しているのは「ここで読ます」と「実際に読める」がわりかし同じラインで成立しているからですね。
さて、勝手に「ここで読ます」などと作者の意図を限定したのですが、実際のところ、この作品はフレーズ単位での読みの方が有効と思いました。ただゼンメツさんが指摘されておられますが読解の核をわかりやすく書くことによって、そこから円環状に解釈を可能たらしめる技法というのも試されてはどうかな、と思います。作品におけるスイートスポットを演出するということですね。

その眼をそのまま
塗装の剥がれたジャズマスターの傍に棄てて
そのままそして
(意地汚くも夢を見させてもらった)と、
一方的に別れを告げる。

そういう意味では、ここの記述ってとても「読み手にとっては」重要なんですが、(僕はここを軸に球体間接人形との空想的な会話という読解をしましたが)今月投稿されていた作品が「シーン」に重きを置かれていたのに対して。こちらの作品は「空想」の方に振れており、読み手としては「フレーズを楽しむ」以上のことが出来ないと感じました。

10805 : バッターボックス  イロキセイゴ ('18/10/10 02:07:54)
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今回の作品は構図がとても面白く読めました。宇宙というわりかしでかいフィールドを用意して、バッターボックスという局所的なものへと収斂させる。名詞のひとつひとつが振りきれているため、気づきにくいところはあるけれど、僕はなんだか、ちあきなおみが『喝采』を歌っているときのあの臨場感をだぶらせていました。(これまでの人生というでかいフィールド、そして今ここで恋の歌を歌っているという、局所的な場への収斂という意味で)

タフな星人(私の憑依した男でもある)は

こういうキーフレーズ(え、憑依? そういう設定だったの? みたいな)は、読み手に「ふむ」と思わせる効果があると思うのですが、それが作品全体に対して何かをなしえているか、という点に関しては疑問に思いました。

10838 : hard luck chocolate  白犬 ('18/10/25 10:07:19 *1)
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混沌に身を投げなよ 下水の匂いだって愛しいよ 海と変わらないよ

レス欄あまり好評を得られなかったようですが、僕は「純度あげてきたな」と素直に思いました。ハードラックという語彙と、血なまぐさい描写とでブラクラのレヴィのことを思い出しながら、その空気感にだけ酔うという読み方をしていました。
前作で少し申し上げたと思うのですが、今作は「ダサさ」に対してちゃんとフォローがある場面もある、例えば

永久の暗がりでいつでも鳴ってるクレッシェンド
の首も断たれて

とか。あと冒頭にあげた部分なんか、単純にかっこいいですよね、僕の主観にすぎないといったらそれまでですけど。

コインの裏と表に滲む表情が同じなら
いっそ混ぜちゃえば?

例えばこんな詩句から、僕はタイトルを「ハードラックとチョコレート」という風に読むこともできるな、と思っていたんですが、「対比」ってのは文章において読み手に関心を抱かせるめちゃくちゃ燃費のいい技術なので、そういうところもっと明示的に(でも押し付けがましくなく)読み手に提示できたら良いのではないかな、と思いました。

10842 : 労働  山人 ('18/10/27 15:47:21 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181027_163_10842p

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける

この詩句から作者が「話者」の目配せに対して、一貫した態度をとっていることに、この語り手への信頼というものが生じました。あるいはどこかの倫理家が、害虫は人間が勝手に決めたものであり、悪などとはけしからん、と顔を赤らめるのかもしれませんが、そんなこと一つの物語に殉ずるにおいて、どこまでも虚しい言葉であります。
ただ冗長ととられかねない、比喩の重ね技からは「話者」というよりも「作者」から生まれ出た言葉のようなちぐはぐさを少し感じました。それは「悪と断ずる」話者のイメージと饒舌な詩文との整合性が読み手にうまく入ってこないからなのかな、と。

まだ死にたくはないのだと、この晩秋の沈黙に漂うのは凍り付いた希望
正午になれば平たく重い時間が降り立ち
むごいほどの静けさは鉛の冬を暗喩する

それにしてもこの対比は、美しいと感じずにはいられなかった。

10844 : (全行引用詩)削除の記録  野良電気うなぎウナコ ('18/10/29 01:52:09)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181029_284_10844p
この作品には評を書く必要性を感じませんでした。

10837 : 廃物人 日記  玄こう ('18/10/24 22:34:49 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181024_029_10837p
着想自体は面白いものになりうると思ったのですが。読まれうるものとしては書かれていないな、という印象を持ちました。
日記と銘打たれておりますので、それは分かったうえで書いている、と思われるのもまた然りとは思いますが、飽くまで読み手としては、読んだうえで何かしらの感興を呼び起こされたいというのが本音でありますから、「日記」というものを逆手にとって、もう少しひねくれて書いても良かったのではないか、と思いました。

10835 : ニューヨーク天神駅  オオサカダニケ ('18/10/23 23:55:34)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181023_977_10835p

老人は永遠を求めて一日に何度も針のない時計の電池を入れ替える

誰にでも思いつきそうな詩文ですが、「そうくるのね」と読み手に予想をさせておくという意味で、それ自体悪いこととは思ってなくて、「そのうえで」どう読み手を裏切るか、ということが焦点になってくるのだと思います。このままですと、作者が「キマった」と思ったフレーズをそのまま読まされている感が否めませんでした。

ファ♯一音しかない鳴き声でオーケストラを再現しながら

こちらも同様な感想を抱いたのですが、「ファ♯」というなぜかここだけ細部への言及がなされていて、そういうのは、存外読み手に想像力を働かせる契機になると思っていて、一概に切り捨てるべきではない表現のように思いました。

10830 : 異端  トビラ ('18/10/22 12:48:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_881_10830p
レスでも少し指摘されておられますが、作者の中で腑にまで落としこんでいない言葉を使われてしまっているな、という印象でした。もちろんそれが真実かどうかなど僕にはわかりかねますが、そういう印象を与えてしまうのはもったいなく思い、若書き故の良い意味での奔放さへと昇華していただければな、と感じます。

スカートに隠してくれた人
あの人はどこにいってしまったのだろう

この詩句と、異端というタイトルから、ギュンターグラスの『ブリキの太鼓』を思い浮かべておりました。異端であると自らを認めざるを得ないものと、それでも母性というものに憧れてしまう人情というものに、切なさを感じました。

10827 : 22  anko ('18/10/20 23:41:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181020_830_10827p

海のような肌触りの言葉達に囲まれて

海のような? と読者は読むと思うのですが、それが「たすけて」という言葉に繋がるとき、「海のような」という言葉の輪郭が朧ながら浮かび上がると同時に、それでもやはり海のような? と思ってしまいますね。夢から覚めてとありますから、心に残る感覚をそのまま言葉にしたのだろうなという推測と、どうしても選語の甘さが残るような、そんな気もします。
一方で

砂時計の二つの世界のように
口から口へと移す唾液のように

という描写はとてもきれいだ、と感じました。前後の詩句が、このイメージを邪魔しているようにも感じるのですが、砂時計を接吻になぞらえる甘い美しさを感じると同時に、その行為というものが人の生という時間的な制限に宿命づけられてしまっているというような苦い美しさを感じました。

10840 : 群青の群青による群青のための群青  Fe ('18/10/26 05:30:19)
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アイディア自体はよくあるものなので、それに加えてどう似たような作品に対して差別化をするのか、というのが問われる作品と思いました。
先々月の変態糞詩人さんの『空を貫いたぜ』の選評でも書いたのですが、このような読み手に「絶対読ませない」という身振りで書かれた文章というのは私は好きではありますが、(内容を)読ませないからには、(内容以外で)読ませる工夫をしてください、と思います。
その際にも例示しましたが吉井さんの『れてて』のように、「突き放しつつ抱きしめる」というのが一番わかりやすい、「読ませない詩」のやり方ではあると思っています。その文脈で語るとするならば、この詩は「突き落としてそれっきり」という印象を受けました。

10828 : 遺影  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/10/22 00:55:14 *5)
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出会い系サイトのくだりが一番面白かっただけに、作者は事前に別のハンドルネームで女性として、一つか二つちょっと頭の切れる女子大生くらいが書きそうな当たり障りないポエムを投稿し、なおかつそのポエムのなかにはあふれ出るリア充感を醸しておいて、そのうえでこの作品を投稿すればよかったのではないか、と思ってしまった。
こんなことを書くと、芦野は作者の名前で作品を判断しているのか、と言われそうですが、逆にそう思われた皆さんは作者の名前がまるで透明な文字で書かれているように透けて見えているのだろうか。僕は作者の名前というのは作品の一部だと思っているし、その名前に付きまとうイメージや読者の予想をどれだけ利用して作品を書いてやるか、という思惑を大いに歓迎したい。
少し、作者の作品に付きまとう不幸について考えていて、例えば「誰でも思いつく」とか「そもそも文章が読めたものではない」とか、そういった類の言葉が作者の作品には絶対に付きまとっていて、いや、言いたいことはわかるけれども……と複雑な気持ちになる。
あまりそういう擁護めいたことをここに書くべきではないし、作者はそのような逆境をエネルギイにしていると思うので、是非僕をはじめとした文極に生息している文学オタクどもを薙ぎ伏せるようなものを書いてほしいと思います。今作、素直に面白いところもあったけど、冒頭に書いたようにもったいないと思ってしまうところもありました。
参考になるかわかりませんが、文学オタクを黙らせる、という意味での僕が好きな文極の作品をあげておきます。ヌンチャクさん『ポエム、私を殴れ。

10809 : 雨の詩  霜田明 ('18/10/11 00:23:02 *26)
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前半4連のなぞなぞのような記述には読み手に「え、どういうことなの?」という興味を抱かせる、構造が与えられていると思います。ただ最後まで禅問答のような「論理」で押し通す詩文が読み手に与える効果については懐疑的にならざるを得ませんでした。
雨の詩、を書くに際して、その雨と作者が呼ぶところのものに背景を与え、論理を与え、読解可能性を与える試みはとても良いと思うのですが、それと同時に、その背景をくみ取り、論理を解きほぐし、読解をするのは作者ではなく読者であることはどこか頭の片隅においておいてほしいと思います。

10823 : 曇りのち晴れ  アラメルモ ('18/10/18 02:03:24)
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小さないのちだよ。どこがどう違うのか。

さすがにまぁこの抒情で押し通すのは無理があるのではないかというのが正直な感想でした。もちろん作者の意図したところというのはそこだけではなく、それぞれの詩句に目配せはされているのだけれども、「作者ワールド」の域を出ておらず、共感するか・しないか、の二者択一という僕が選評を書くにあたって、あえて評価していない部分での賭けになっているので、そこを切り捨てている僕としては申し訳なさを感じます。
ただ最後に置かれた「。」ははかない生命からどうしようもなくあふれ出る気泡として読み、タイトルとの連関において、この記号一つで情景が浮かび上がるというなかなかお目にかかれない技法であると思いました。

10818 : 僕にとっての前向き  北側 ('18/10/15 00:51:12)
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とても素直な発想と素直な言葉で書かれているがゆえに、「ああ、そのタイプの詩ね」と一瞥されてそれで終わってしまう弱さから逃れえないものを感じます。選評でこのような詩に僕が言えることが毎回同じになってしまうのは大変申し訳ないのだけれども、「家族」「幸せ」「神秘」というような言葉を、そのまま記号のまま受け渡してしまうよりも、話者がそれをどうとらえているのか、つまり話者という独特な存在を通した「家族」であったり「幸せ」であったり「神秘」の輪郭を描き出すことが、まず第一歩となるのではないか、と思いました。

10822 : サオラ―  青島空 ('18/10/17 00:23:15 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181017_736_10822p

本当は傍で聞いていた
あの音を 聞いてしまった

タイトルも含めて、読み手になんだろう、と思わせる導入ではあると思います。且つ自然災害というものに際して、話者というオリジナルな存在を通して伝わってくる情報として、なにか切実なものを思わせる効果もあると思います。これをもっと違う言葉で言うならば「それを経験していないもの」と「経験したもの」との差異を描くということです。
ただ、

目の前に広がる むき出しの赤土

という言葉は、切実であるように見えて、実はそれを経験していないものが想像する光景との差異というものが描かれておらず、どうしても一般論のようなかたちで読み手に伝わってしまう弱さを感じました。つまり、話者でない誰かが想像でその被害にあったその土地を、なんの資料も手にせず書いたものとしても「結果として」読まれうるということです。これを脱するには、まずもって読み手がそのサオラ―という言葉から何を想像するのか、もちろんネットがある今、サオラ―という言葉はそれほど熱心な読者でなくとも意味は簡単に調べるでしょう、そのうえで、読み手が想定するであろうことを「予め」作者が読み取り、そのうえでいかに差異を演出するか、ということになろうと思います。

白い雲を恨む

これに関しては僕も平川さんと同様のことを考えていました、この詩における「ひらめき」であると思います。

10829 : Square Dance  紅茶猫 ('18/10/22 01:12:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_857_10829p

四角く切り取られた
世界の入口に
無造作に置かれている僕は

この転換がうまく生かせれば、という詩なんじゃないか、と思いました。要するにドアの向う側に別の世界があるとするならば、別の世界から見た「僕」も同様に異様なる世界の入り口に佇む一人の人間である、という転換ですが、その点に関してはそれほどうまく機能はしていないように感じます。
ただ作者の作品は「不可解」系の作品が多く、カチっと解釈がはまらないゆえの、読後の余韻だとか、そういうものを読ませるタイプの作品への志向性というものを感じるので、細部に至るまで、虫眼鏡で覗くようなことはすまいと思って読んでいます。
どこか別の空間へと行きたいと思う願望、それをユーモアあふれる寓話として巧く描き出せていると率直に思いました。僕は作者の作品では『kite flying』などこういうタイプの作品の方が好きなので、楽しめたのですが、一方で仕掛けの多さ(先述の転調や、冒頭の3人称視点の語りなど)が放り出されたように置かれているいささかの煩さを、感じてしまったのも事実です。

10832 : 遺影  いかいか ('18/10/22 17:02:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_888_10832p
この作品については特に評をつける必要性を感じませんし、作者もそうだろうと思いますので、割愛させていただきます。

10834 : 己  るぅにぃ ('18/10/23 11:44:00)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181023_925_10834p
まず「世界」とはなんだろう、と率直な感想が浮かびました。意外かと思われるかもしれませんが「世界」という言葉で想起するものというのは読む人の数だけ違ってきたりします。それならまだ良いですが、或いは「世界ね、詩人が好きそうなアレね、俺には関係ないけど」みたいな、はなから想起すらされえない言葉であるかもしれません。
まずは、「世界」というものの内実、詳細そういうものを描いてみてはどうでしょうか、と思いました。そこに個別の物語や、視線、行為、というものが描かれたとたんに、作者には思いもよらぬ読みを読者はしてくれるものです。それは、個別であることが、かえって「世界」という抽象的で、或いは読み飛ばされてしまいがちな言葉を、読み手の心のうちで、確かな感触として残す手がかりになるのではないかと思っております。

10798 : 或る比喩  鷹枕可 ('18/10/08 07:48:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_319_10798p
先月と同じ理由で割愛させていただきます。誠に申し訳ない。

10785 : 接吻の人魚  氷魚 ('18/10/01 20:33:16 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_079_10785p

貴方というまな板の上、雑菌に塗れて死にたい。

この詩句が、あえてちぐはぐにされたような作品のなかで灯りのように、作品世界を照らしているように思いました。その灯りを中心として、例えば出目金という言葉も、「品種改良の末に作られた、自然の競争のうちではとても生きてはいけない、弱い存在」というような意味合いが萌芽し、「人魚」というある種実体のない言葉に背景を与えている、というような効果があると思いました。
ただ、その灯りにも照らせる限界があって、例えば最後にメタっぽく終わる必要性を作品内で読み手に伝えられていなかったり、ところどころ、作者の意図だけが一人歩きしているような感覚もありました。今作を読んで思ったのは、無理にねじったりひねったりしなくても読ませる力があるのだから、と少しおせっかいすぎる感想を書いてしまうのをお許しください。

10831 : ジャングル・ボブ  atsuchan69 ('18/10/22 14:57:53)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_885_10831p
「くだらねーww」と思ってしまった僕は作者の術中なのだと思います。妻がひとり、寝ている旦那にアレを求めている図のように読めたのですが、無駄にハイテンションなト書きと、ギリシャ悲劇のコーラスなのか謎の登場人物たちの意味不明な合いの手が、これでもかというほどバカバカしく舞台を彩っています。僕は作者の名前から作者の顔色をだいたいうかがいしれたから、安心してバカバカしいなと思っていましたけど、或いは本気で作者が「これは面白いぞ!」って思ってるように読み手に思われるとまた読まれ方も違うのかな、と若干ながら思いました。

10824 : 黒い百合  泥棒 ('18/10/18 22:48:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181018_780_10824p

ゆっくり
鎖骨に刺さるのは
秋晴れ
刺さらないのは
叙情

ここでわかりやすく読み手に提示される秋晴れと抒情というものの対比が、百合の姉妹であり、最終連に一本の百合に黒い名前を与えるという行為に収斂していく。そういう風に読みました。
秋晴れというのは景色であり、抒情とはそれを叙する心である。鎖骨はもっとも折れやすい人体の一部であり、それを外部からの刺激への感受性の暗喩として読みました。話者は、秋晴れが鎖骨に刺さり、抒情は刺さらないという。秋晴れは話者が見ている情景であり、それを叙する心とは秋晴れというものを言葉のうちにしまい込む行為である、と言い換えることが出来るかもしれない。そういう風に読んでいくと、この詩は、詩を書くという行為そのものへの詩であると読めてくる。つまり、いつだって心を揺さぶるのは目の前の情景であり、それが言葉にしまい込まれたとたん、その細部は失われ、何よりその情景をみた「わたし」が失われる、その詩の不可能について、少しだけ話していきたいと思います。

姉妹のように咲いている
百合を見ていたら
他人の孤独が
直射日光で
すべて嘘に感じる

百合の姉妹は秋晴れと抒情、或いは詩という行為そのもの。他人の孤独、これは文字通り、自分以外の作者の孤独とも読めるが、僕は「話者」にとって言葉にしまい込まれた「自分」がもはや「他人」である、というように読み、それが全て嘘に感じる、詩というものの軽薄さを思いました。
だから

あらゆる比喩を潰し
後は、なるべく、冷たい、水を、のむ。

そして

白い百合に
黒い名前をあげる
それから
誰の孤独を倍にしようか
鎖骨よ
砕け散れ

ここにはとても重大な帰結がある。いや帰結というよりも、気分の変遷なのかもしれない。けれどもここにある白い百合は黒い名前を与えられる。そう、秋晴れを言葉にしまい込むように。秋晴れの直射日光があたらない夜に、秋晴れの現前がなくなってしまう頃に、僕たちは詩を書く、「全て嘘に感じていた」孤独が、ただそこに秋晴れのようにある。黒い名前をあげる、その行為が、誰かの孤独を倍にする。
柄にもなく「僕たち」などと言う言葉を使ってしまった。でもなんとなく、詩というものの不可能と、それを可能であると信じてしまう瞬間が訪れること。そのどうしようもない「詩」という行為が、刺さるだけではなく、砕け散るようにあれと願うのは、詩を書くものならば、経験したことがあるのではないか、と少しだけおセンチに、何かを共有したくなる作品でありました。

10811 : 神の蕾  atsuchan69 ('18/10/11 13:03:04)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_438_10811p

と、いうことで‥‥。私は、日蓮です。

もちろんですがこの転換がはやくこないかな、と読んでいました。これは作者へ向けての評ではないですが、論というものを詩として読まれうるものとするためにはいくつもの工夫が必要であり、この転換というのは一つの技術であります。つまりこのような出だしの作品にいつでも付きまとう「お前の話聞くくらいならもっと偉いやつの本読むわ」という傲慢な読者に対して、どう布石をうっていくか、その打ち方の一つですね。
で、この作品なんですが、転換は転換なんですが、続く詩文に質の変化がないので、緊張→緩和のプロセスとしては上手く働いていない印象を受けました。もう少し厳しい意見を申し上げると、ツボをしってる作者が申し訳程度におさえた感、とでもいいましょうか。
もちろん

「ヘタクソ」だとか「才能がない」と腐った花たちに侮辱させるのも効果的な方法のひとつだ。

というもう一つの転換に目を向けるということもできるのですが、はたしてこれを読み手の内に有意義に展開できているかと問われると、疑問が残りました。

10791 : 自転車の無駄ひとつなき裸身を芝生に倒してよめり  一輪車 ('18/10/04 06:11:48 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181004_192_10791p
10816 : それ  一輪車 ('18/10/13 15:33:31 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_551_10816p
先月と同様の理由で割愛させていただきます。悪しからず。

10825 : 就寝まで  イロキセイゴ ('18/10/19 16:14:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181019_801_10825p

父帰る母帰る父行く母行く
輪廻の様に繰り返される往復に

という詩句をこの作品の「灯し」として読むと、社会現象にもなっているというあの暗い生活というものがすっと立ち上がってくる。やたら何かを食べているのは、そういう生活を一度でもしたことがあるものにとっては、とてもリアルなものとして読めてくる。
でもそうなると

家路に着く頃には降ろされていた

というフレーズがかち合うのだけれどもそこをちゃんと最終連で

家路がずっと続いている様な雰囲気で
私は就寝する

と、ちゃんと接続があって、掬われた気持ちになります。僕がイメージしたのは、ある日パタリと仕事を辞めた人でした。そういう風に読むと、たとえば上記のような人物に対して社会という大きな共同体から、家庭という小さな共同体に帰ってきちゃったんだな(戻ってきちゃったんだな)と俗に考えられる事柄に対して、「帰ってこれなかったんだな」という転換がとても効いているように思いました。

10821 : 金平糖の頭文字  紅茶猫 ('18/10/16 01:08:47 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181016_685_10821p
申し訳ないことにバンクシーの絵画を検索しても、この詩にぴったりくるような絵がみつからなくて、片手落ちになってしまうのはお許しください。

小さな人が
小さな眠りについている
水に沈む小石のように

小さな人と書かれると、同時に読み手の中にいろいろな選択肢が生まれますよね、単に身長が低いということだろうか、それとも器だろうか、或いは性器のことかもしれない。続く「小さな眠りについている」を読むと、どちらかというと「小市民」というイメージが合うのかな、という読み手の選択と、解決を読み手にゆだねるという点で、遊びのあるアジの良いはじまりと思いました。
ただそこからどう展開されるのだろうか、と読んでいくと、蟻という小さき生き物をストローみたいにちゅうちゅうするアリクイに踏まれる、だとか。イメージとしては楽しいのですが、「読みの展開」としては同義反復が続くような印象を少し受けてしまいました。
もちろん展開していくことがすべてではないですね。同じイメージ(小石が沈むように小さな眠りにつく小さな人)にいろいろなイメージを重ねるということも重大な技術であろうとは思うのですが、それらの重ねられたものが、作者自身、一つの方向からしか見ていないような印象を受けてしまい、転調のような小気味良さ、切り口の変化など、少し遊んでも良いのではないかな、と思いました。

10801 : 名も知らぬ国  田中修子 ('18/10/08 20:19:04 *1) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_341_10801p
確かに、「表現」の豊かさという点から見れば、この作者にしては物足りないところはあるのかもしれないけれど、僕はこの詩の読み手に用意されたあまりにも豊かな「表情」に感嘆してしまった。
はじまりは、to belong toという英語の不思議な感触につかまれる、具体的に書くと、to belong to が憧れであるという詩句は、まだtoの続きが何かによっていろんな意味(所属という言葉の幅という意味で)が想起されて、ここで読み手の「続きを読みたい」というテンションを保っている。続くキングスイングリッシュという言葉と、あともちろん英語であるという事実が英国を想起させるのだけれども、タイトルの「名も知らぬ国」が含みとして残っていて、続く詩文に、空白のバトンが渡されている。想像してみてください、タイトルが「英国」だったとしたら、このバトンはたぶん存在しない。
続く2連は、その名も知らぬ国の詳細のように思えるけれども

そこにははまだ ゆけぬよう
目をひらけば文字の浜辺

という言葉は、とてもささやかに場面を転換している。それは小さな差異かもしれない、目をつむっていた「わたし」と目を開いた「わたし」。そして本がたぶんだけど開かれている。耳を澄まさなければ、目を凝らさなければ、この転調は見落としてしまいそうだ。けれどこの二行だけで、それまで「わたし」があこがれを持って名も知らぬ国を本の世界の中に空想していたことと、我に返って目を開いて、現実の風景をバックに、本という媒体のなかで再び認識されなおす世界、この視線の転換はひらめきだ。作者のひらめきではない、読者のひらめきとして用意されているのだ。
このひらめきがあるから。

そうか、わたしはここからきたのだ そうしてどこかにゆくのか

続く詩句が、月並みな言葉を実感として読ませる。つまり空想の中の名も知らぬ国から、現実の世界で本の中でのみ現れているフィクションとしての名も知らぬ国への「帰還」が、先述のひらめきとして、開かれているから、「ここからきた」という言葉が、単なる言葉の綾としてではなく、「ここ」という実感が宿っている。そして同時に「どこかにゆくのか」という問いは、名も知らぬ国へ単に帰るという選択肢がもうすでに失われている悲哀(そう、先ほどの帰還は一方通行である)もまじって、続く言葉に繋がる。

それでよろしい

なぜここで少し口調が変わるのか。それは先述した哀しみへの、「わたし」の答え、決断だからだ。
それでも「わたし」は本を読むのだろう。多分、雨の日は特に。けれど3連と5連の印象は大分違う。「わたし」は空想を空想と判って、「どこかへゆく」という定めを知って、憧れという言葉に収斂していく。

「父」のto belong to がとても美しかったのに比して「わたし」のあこがれは、to belong to あまり発音がよろしくないらしい。それはまだ「どこか」という言葉でしか言い表せない躊躇いゆえに、少し言いよどんでしまう。人が未来を想う時のように。

10817 : ころして君  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/10/15 00:15:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_624_10817p
ちょっと謎のテンションに追いつけぬところはありますが、古谷実のギャグマンガとかによく出てくるもう意味わかんない強迫観念に取りつかれた謎の登場人物を思い浮かべてました。ギャグマンガだと、そういう人の滑稽なところを現実世界と対比するからギャップとしての笑いがうまれてくるところが、この詩だと対比がなくひたすら謎の強迫観念を聞かされ続けるというちょっとした悪夢なんですが、「誰か突っ込んでやれよ」というあの気まずい空気を作り出すことには成功しているのかな? と思いました。
と、ここまで書いて、これはある種の皮肉なのではないか、と思うわけです。つまり例えば現代社会に生きる誰かしらの何かしらの特徴をデフォルメし誇張し、読み手をして「あ〜わかる」という読後感を演出するものであったのかもしれない、と。けれど残念ながら僕の乏しい人間関係の中にはこのようなハードな個性を持っている人が誰一人存在しなくて、ただただヤムチャ視点になってしまっているのではないか、と。

10777 : 星星  本田憲嵩 ('18/10/01 00:09:35 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_037_10777p

(客観性の強い光を帯びて――

もうこの作品はこの一文を避けては絶対に完結しえないし、この一文を濁したまま何かを表現したつもりになってしまったらそれは最悪の結果と言わざるを得ないくらい強い違和感を読み手に残す、ある種の賭けのような言葉であります。
と、そのように感じ続く詩文を読んでいくと、たしかに作者にとって一つの発見としての(今までとは違う)星のひかり、という提示がなされ、それがどう客観性につながるのか、という謎をまぁある意味ほったらかして終わるわけですが、たとえほったらかしたとしてもその余韻で読み手が何かしらの解釈をはじめたらそれは賭けには勝ったと言えそうです。
それで、2連目以降を素直に、客観性という言葉を頭に入れて読んでいくと、確かにある感興は呼び起こります。いわゆる「宇宙というだだっ広い空間に対して僕はなんて小さいんだろう感」ですね。定番のあれです。なぜ客観なのかというと、それまでの視野狭窄から少しだけ逃れて、自らをその広い空間にもう一度再認識しなおす、という行為はまさに客観的ではありうると思います。
ただ僕が少し、疑問に思ってしまったのは、「それは客観性の強い光ではなくないか」という素朴なツッコミでした。なんというか、詩としてはもちろん体裁をなしているのですが、ファミレスでハンバーグを注文したのに宅配便でひよこが届いたくらいの距離があって、さすがにそれを狙った詩とは読めなかったので、そこは少し疑問に思った次第です。

10807 : カルフォルニアで吸いたい  イスラム国 ('18/10/10 16:45:00 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181010_415_10807p
意味を問うようなタイプの詩ではなくて、フレーズで振り切って読み手を気持ちよくさせられるか、という詩なんですが、すごく巧い部分と、微妙な部分があって、たとえばこういうタイプの詩でなければ、許せる(いや、こんなこと言うのもどこから目線だよという話ですが)のだけれども、気持ちよくさせていくタイプの詩でこういうブレーキは致命的なんじゃないかな、と思うわけです。なんというか前戯の途中でブラマヨ小杉のひーはー着ボイス流れちゃうくらいの痛手のように感じてしまいました。念のためいうけど、別にそんなに悪いフレーズではない。

毎年 大学じゅうのアジサイのつぼみを摘んで乾燥させ吸うサークルがあった
軽い一酸化炭素中毒だけれど大量のエチゾラムを用意しておけば
だいたい大丈夫 だとみんな信じていた 「エチゾラムは万能薬だからガンにも効く」

引用したのはすごく巧いと思ったところ、ちなみに一部のアジサイ(の種だったかな)はLEDに似た効果が得られるらしいけど、良い子は真似してはいけない。

10794 : 真の幸福  lalita ('18/10/08 00:07:04)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_312_10794p
いやいろいろ言いたいことはいっぱいあると思うんですよ、もちろん僕だって。でもあえてそういうところ全部取っ払ったうえで、話しはじめましょう。たとえばそれは英国人が初めてアメリカの大地に住まう先住民族を見かけたときにも必要なことであったと思うし、社交というとてつもない難儀をいとも簡単にこなせる人たちが僕みたいな人間に対して少しだけそうあってほしいと願っていることでもあります。

俺はおじさんになれただろうか。

笑ってしまうのは作者の本意とは外れるのかもしれませんが、この唐突の述懐は少しだけ胸に迫ってくるものがありますよね。え、おじさんなんて布石打ってましたっけ、え、おばさんとの対比? まさか、この文脈でそれはちょっとE難度すぎるでしょ、あ、でもおじさん、確かに年老いていくこと、お兄さんからおじさんへと変わっていくことに頭がちゃんと適切なフォームをとれているだろうか、そういうのは大事だ。え、この作品と関係ない? 確かに。
でもそういう文脈から自由になるフレーズって真面目に詩作品の面白さを増す技術ではありますよね、一般論として。

10810 : 予見  みどり ('18/10/11 01:39:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_427_10810p

Instagramみてる君の脈をとりながら
尋ねた、あれは取り消しです

アルフ・Oさんのレスとかぶってしまうのだけれども、僕もここがとても好きだった、理由は単純で、それまでの感傷的な叙述の終着点というか、解決の場として、決して説明的にならずに多くを語っている豊かなところだと思うからです。
臨終のきわ、というとさすがに少し大げさなのかもしれませんが、自らの「予見」というものが少しだけ意味のないものに思えてしまうような場面で、「君の脈をとる」という行為は、とても切ない。だって「君」の脈はたぶんだけれども、とても健全な人間の示す正しいあり方で鳴っているだろうし、そのことは「僕」にとってその音以上に大きなことを語るだろうということは簡単に予想が付きます、だから繰り返された疑問を取り消す。簡単に「だから」なんて書いてしまったけど、取り消した理由がどういうものであったのかは、読み手の数だけ違うのでしょう。
陳腐な言い方をすると自らの生の終りというのは決して予見の終着ではないという気づき、そんなふうに僕は読みました。
正直、初連で言葉を繰り返した理由とか、終行で作者がどういう余韻を残したかったのか、とか、読めなかった点も多々あるのですが、冒頭にあげた部分はまさにひらめきであったと思います。

10815 : 星のタトゥー  本田憲嵩 ('18/10/13 02:45:07 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_520_10815p
んー、わかる、わかるんだけれども、作者にはこの詩情ってどこかで誰かが一度くらいはやったんではないか、という疑問を持ってほしかったな、という印象を抱いてしまいました。イメージとしてはわかりやすいですし、それを星のタトゥーとするのは賛否あろうとは思うのですが作者の感性であるとは言えそうです。
基本的にはそういう発見、というのはかつて誰かが思いついたことの再発見でしかないということは、全てのこと対して言えることだと思っていて、そのうえでその「出力の仕方」だったり、「その光景を見る側、つまり話者のエピソード」の個別化によって、その発見をするという意味合いを変えていったり、ということになると思うのですが、先述のようなこと申し上げたのは生のままの発見の提示という段階で止まっているのではないか、と感じたからです。

10804 : 詩へのリハビリテーション#02  中田満帆 ('18/10/09 13:36:01)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181009_361_10804p
このことに関して僕は言いたいことがありすぎて、逆にここに書けない。申し訳ない。もし作者が望むのであれば個人的に感想をメールか何かで送りたいと思います。文学極道スタッフとしてではなく、僕個人としての感想になりますが。

10788 : 荒波現代アート 刑罰と埴輪  コテ ('18/10/02 13:37:34 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_114_10788p
最初に読んで思ったのは、いったい何について話しているのだろうか、という素朴な疑問でした。僕の読み方はだいたい一回目で作者の実現したいものの素描をなんとなく想像して、そこから細部を読み直すという読み方なのですが、その実現したいものの素描というものがどうしても想像できず、申し訳ないという思いが募ります。
個人的には「良い作品」なんてものがこの世にあると思ってはおらず、良いと感じた人間がいるのみだと思っていて、そのことをたまにつまらない相対主義と批判されることもあるけれど、僕としてはこれほど独善的な作品鑑賞はないのではないか、と苦笑してしまう。
なんでそんな話をしたかと言うと、(作者以外のすべての作品に言えることではあるが)良い批評家に出会われればいいな、と率直に感じました。

10814 : 家族  ネン ('18/10/13 00:03:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_516_10814p
これまでの作品よりも良いと感じました。これまでの作品が思念が先行しすぎていたきらいがあったことを考えると、今作は、その思念に飛ぶまでに具体性という土台があるので、その土台から何が見えるのか、という点で読み手の視線を限定出来ていると感じます。限定なんて言葉を使うと、なにかとてつもなくつまらないような気もしますが、詩における、転換や喩や感情移入などのもろもろの効果はその一定の視点ありきの逸脱や同期であろうと思うので、ここに至って、はじめて作者の凝らした意匠に読み手が気づくのではないでしょうか。
「家族」と題されておりますので、作中に現れる空白はすべてこの文字を挿入するような読み方をしました。たとえば「コミュニケーションを取ろうと」などの穴が一つ空いている文章には家族と入れてみる、といった具合です。そう読んでいると

砂漠に落ちた一粒のダイヤを探す

という言葉が唐突ではありますが、家族という血のつながりだけで構成された不確かな集団において、わかりあおうとすることの不毛さ、それを強いられるという徒労をなんとなく感じるような詩句ではあります。ただその読みを読み手の中で実感として読ませるには、家族という他者の存在なしでは実現せぬことだろうな、という印象も抱きました。

10803 : コこロさん  湯煙 ('18/10/09 01:42:47 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181009_359_10803p
かなりの時間考えたんですが全くと言っていいほどわからなかったです。わからないものが悪いものとは考えておりませんが、今作に関してはそこもやもやしたまま評価するのもなんか違う気がしました。読解力不足、誠に申し訳ない。

10799 : 真理のメロディ  陽向 ('18/10/08 15:15:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_324_10799p
宗教ソングの歌詞でしょうか。作者がそれを自覚したうえでそういうものへの読み手の期待(期待っていうと変だけど)をどう裏切っていくか、っていう感じの読み方を(無理矢理)してました。今作は僕のような読み手の逆の逆をついた詩と言えそうです。つまりそういうちょっと斜めから読みにかかる読者に対して、もうどストレートの宗教ソングを展開するという意味で、たしかに度肝は抜かれましたが、それ冷静になると裏の裏は表ですよね、、という悲しいツッコミしかできませんでした。

10808 : 格好のいい愛  黒髪 ('18/10/11 00:16:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_423_10808p
もう一つの方の詩の評で言いたいことの大部分書いたので、こちらにはシンプルに。皆さん指摘されておりますが、ご自身のことを書かれてはいかがでしょうか。以前の作品で、レス欄で作者がエヴァのマギシステムの話をしている時に思ったのですが、作品よりそちらのほうがずいぶん面白く感じました。

10797 : 読点。  田中宏輔 ('18/10/08 06:19:49 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_318_10797p
実のところ僕にはこの詩が面白くないと思う方の気持ちもよく分かる。けど面白かった、もうこれはしょーがない。面白くないと思われる方の気持ちがなぜわかるかというと、この詩って嫌味っぽいところはあるんですよね。なんというか作者が鳩に豆をやるかのような素振りでこの詩を「与えている」みたいな、しかもそれがちょっとチューニングが合ってない状態で読むと、ことごとく的を外している、みたいに読んでしまう気持ちもよく分かるんですが。
でもニュートラルで読むと、面白いんですよこれ。それでとても残念なことに、なぜ面白いのかがとても説明し辛い詩でもあるんですよね。ただまぁ一つの技巧を取り出すとしたら、緊張と緩和、というのは分かりやすいのではないかと思います。先々月ゼンメツさんの詩への評でも取り上げましたが、読み手の読みをコントロールする技術ですね。
まず、前提として、詩としてこれを発表するからには、「詩人が読点に関して何をか言わんとしている」みたいな少し重苦しいものは誰しも感じると思うのですよ。実際序盤の2、3に関しては、初読では「ほうなるほど」「いやいやそれは」みたいな読みを期待している詩文と受け止められかねないところもあるのですが。

あなたが打つ読点
とてもすてき
すこし多いかなって思うのだけれど
そのすこしってところがまた、微妙チックで
感じるの

みたいに、ちゃんとそういう読みを緩和してくる。「あ。もっと肩の力抜いて読もう」とそういう目配せというか、読み手にホッとさせるスポットを用意することによって(「マルはいや」とか露骨ですが、ここまで「ほうほうそれで」で読み進めてしまうと、ここは多分嫌味を感じてしまうのかな。)「忘れられない一言とか」なんて、「あ、そういう発想するのねw」みたいな割とライトな気持ちで読みながら「あーでもそれって確かに、僕もちょっと思うところあるな」って鳩に豆をやる傲慢な作者、というのが「詩文に解釈をやる傲慢な読み手」に逆転していて、もうそれって読み手からしてみたら、楽しい以外の何物でもないんですよね。

10789 : 今の即興詩  俺の嫁知らんか? ('18/10/02 20:23:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_151_10789p
いきなり世界の渇きや虚しさの述懐とか読まされると、「あーそういうのいいや」という拒否反応すらおこしうる、わりと避けたいやり方ではあるのですが、それを隧道を行くキャラバン、と具体的な描写へとつなげることによって、続きを読んでみたいと思わせるようなやり方は素直にうまいと思いました。続く描写も読み手を惹きつけうる、カメラの細部へのズームが効いていると思います。
ただ、

美しいものは美しい
そこにある花が砂に埋もれて
また砂になっても

と、これまで描いてきた、砂というモチーフを布石として、話者の「標語」に閉じてしまう弱さを感じました。実際、具体的なものへのスポットの当て方とか非常にうまいし、そこに惹きこませる握力も感じるのですが、総体としての印象が客観を貫いていて、「実体のない話者」が何かとても話者にとって大事なことのように思われる話をしている、という光景になってしまっていて、「あーそういうのいいや」と、読み手をせっかく握りこめたのに、離してしまうもったいなさを感じました。

10819 : 岸和田  さなろう ('18/10/15 20:57:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_673_10819p
これ読んだ方の多くが思っていることだろうけど、なんでこんな体裁にしてしまったのだろう、ということを僕も感じました。田中修子さんがレスされてますが実際一つ一つの詩句って単体で読むと良いと思うんですよね。ただ、一つ一つの詩句が「作者ワールド」に向かって内側に内側に伸びていくだけで、読み手の側に伸びてくる言葉として置かれていないゆえに、ピンセットでつまみあげるような鑑賞しか許されえない弱さをどうしても感じてしまいます。
僕が「作者ワールド」って言葉を使う時はだいたい「入口がない」ということが言いたいのだけれども、読み手の誘導として、まず、「あ、この物語読みたい」という工夫が、はじめて入り口となって、書きたかった世界が、読み手に取って面白い世界に符合するのではないか、と思いました。

10812 : きらきら  宮永 ('18/10/11 23:07:49 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_465_10812p

あの日亡くなった子どもの名前は、いわゆる、キラキラネームだった。

ここの含みでどこまで読ませるか、という詩文として読ませていただきました。まあ当然この部分躓きますよね。でその躓きの記憶を頭に入れつつ読むと、「話者」の表情が少し見えてくる、っていう感じで読みました。
僕みたいにまだキラキラネームなるものが本格的に登場する前に学校教育を終えた身からすると、そういう名前を聞くのっておのずとニュースとかになるんですよね。だいたいは悲しいニュースとして。作者コメントにもありますが、虐待という言葉だったり他にもいろいろ。そういう時人の名前というのはその字面以上に多くのものを語るというのはこの作品を読んで、改めて思ったことでした。特に「気合の入った」名前の子がそういう運命を辿ったことを知るとき、それは少しだけ特別な感情も入り混じります。

遥か翔(かけ)る 

からはおそらく、今年の名前ランキングとかの上位の漢字を使って詩を書いている、と思ったのですが。僕は残念ながらこの個所がこの詩で一番面白くない箇所であったな、と思ってしまいます。というのもここは作者の作為だけが先行してると思うんですよね。いや、もちろんそんなことわかったうえで、これを読ませるために作者が布石を打って、誘導してここに至らしめていることは承知のうえでも「あ、そういうことがしたいんですね」と一歩下がって眺められてしまう。じゃあどうしたらいいんだ、と問われても僕には答えがないと即答できるくらいに難しい試みであったと思います。
(どうでもいいことですけど、まだ若いころに小田和正というおじさんがきらきら、という曲をニューシングルで出していたんですが、なんだかとても破廉恥なものを聞いている気がしました。でもすごいいい曲で、何度も聞いてましたね。おじさんが「きらきら」なんて言葉を吐くどうしようもない破廉恥さと、それが良い曲であることで、あれは背徳感の歌だと勝手に思っていました。)

10820 : 鉛の塊り  中田満帆 ('18/10/15 21:26:56)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_675_10820p
巧いんですが手癖だなぁと思ってしまう作品でした。思念的な語りを優先させつつ、「きみ」というアイテムや、影を踏むという実際の行為や、通りの中心などの場の明示など、抑えどころを抑えてはいるのだけど、どうしても読みが有機的に繋がってくれないもどかしさを感じました。

魚が魚であることによって海は青く
狐が狐であることによって森は繁るけれども
ひとがひとであることによって町はぬかるんでる

ここはただの言葉遊びとして読まれることを越えて、読み手に「ひと」というものの作者の想定をスマートに読み手に受け渡していると思いました。題の「鉛の塊り」と荒野や驟雨からアメリカの西海岸(昔の)の荒くれものを思い出しつつ、そういう土地に生きるものの命が驚くべきほど軽いこと、そして

 きみのなまえを
 いま呼んでる

そういう読みに対しての「違う、いまだ」という呼びかけに、迫りくるような緊迫感をかんじつつ。

10783 : antinomie babies  白犬 ('18/10/01 10:44:26 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_057_10783p
はじまりの行はパウルツェランのコロナへのオマージュなのかな、と読んでいました(一人称の変化も相俟って)。

私達は掌に狂気を握りしめて

そんな簡単に言ってもいいのかな、とちょっとタイムしたくなります。つまりその前提、「掌に狂気」で何かが伝わっている前提でお話が進むとしたら僕は何も理解できないだろう、という予感ですね。というよりも前提(ツェランのコロナの作者の理解も含めて)が複雑すぎて、うまく入り口を見つけ出せないというのが正しいのかもしれません。
atsuchan69さんのレスが面白かったので少し

●どこにでもある中途半端な狂気や体験は、田舎のスーパーで売っている中途半端なデザインのTシャツみたいだ。

或いはこういう文脈で語ることも可能だということなんですが、いわゆるファッション狂気ってやつを思い浮かべられたらそのあとでかなり適切なフォローが必要となる感じはします。ファッション狂気ってなんだよ、って当然ツッこまれますよね。はい、ファッション狂気なんて存在しないと思います。というのも誰しも狂気の側面って持っているものだし、その個別の体験を否定するということなんて誰にもできないと思います。ただ一方で、ロックスターや芸術家気取りが、なにか特権であるかのように振りかざす狂気っぽさ、ああいうものから漂ってくる異様な腐臭というものには予め蓋をされておいた方が良いとは思いました。そういうノイズに「あたし」の個別的な体験が邪魔されるくらいなら。

1っていう存在を奪い合う私達はいつまで経っても2のままだ

ただ詩文を読み進めていくと、ものすごく健全な人間の心のあり様を描いているようで、それを狂気と呼んでしまうことにちょっとした違和感を感じつつ、それでも切実にその人としての「ありふれた」苦悩を吐き出したい、と言葉を重ね続ける話者を少し愛らしく思ったり。

10781 : 2012年の林檎   朝顔 ('18/10/01 02:06:28 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_043_10781p

だけど大村さんは閉鎖病棟の中であたしの作った五百円のパッチワークの林檎と一緒にいる。

ここだけ事実関係が文章の中明かされておらず不明瞭な印象を受けました。

さて、僕は小説に関して何か技術的なことを言えるとは思っていないので素直にどう感じたのか、ということを書いていきたいと思います。
好感を持ったのは、「弱きもの」への憐れみという型にはまった見方ではなく、精神障碍者であったり在日朝鮮人であったり貧困家庭に育った者であったり、そういったものたちに対しての話者の視線をできるだけ丁寧に描こうとするやり方でした。
例えば羽角という人物は実に捉えどころがなくて、

 羽角はいつものようにあたしが落ち着くまで、ずうっとハグをすると帰って行った。あたしはドアをぱたんと閉めて思った。
(わるいことした)
 あたしは羽角が帰った後にその端切れを拾い集めて袋に入れてクローゼットの一番奥にしまった。

例えばこの部分のように、その時々の話者の精神状態によって様変わりする視線に照らされた人物というのはとても捉えがたい。それまでは「金目当て」「体目当て」と称されていたのに、この具合である(女性にとって抱擁というものの強制力たるや)。けれど、普段生きている世界のこと、そこに生きている人物のことをを思い浮かべると、まさにそのように皆捉えがたいということを知る。それは被害妄想的な強迫観念(たとえば、あの人は悪魔のような人だ、など)に囚われがちな現実世界の実態とは少し違うかもしれない。けれども僕は詩や小説などジャンルに限らず、一人称で書かれる文章とはその主観のなかに客観を宿す行為であると思っている。話者の主観のなかに作者の客観が入り込むことによって、例えば現実では「感情」に支配されてただただ悪い人物にしか思えないような人に対しても客観というフィルターを通してその「事実」を「読まれうるもの」へと変換していく。それは実態とは違うのかもしれないが、読み手がリアリティを感じるのは事実に対してではなく、事実らしさに対してである。そういう意味において、捉えがたさ、というのは現実に人が人に対して抱いている理解というものの難しさに符合してより事実らしさを増す。ただ単に捉えがたいのではなく、話者の様変わりする視線に映る人物が、その様変わりするがゆえに、ぶれてしまう。その「ぶれ」が何よりも意義深く感じる。
さて、ここからは本当に感想になるのですが。
この文章の骨子たる、「弱きもの」へ向けられた眼差しは話者自らもそうであるように、上記の通り型にはまった憐憫を越えて一人一人の存在を描き出そうとしていることに好感を持ちました。さらにテーマは「弱きもの同士」の関わりとなっていくのですが、その関わりが逆説的に話者の存在をその他なるものへと向ける視線を通して彫刻していきます。それは憐憫のような話者の主観的な感情と、「人に手を差し伸べるのにも、強さがいる」という作者の冷徹な客観が、よりリアリティをもってその人物相関を描き出していると感じました。象徴的な事件として、大村という人物と分かち持っていた、リンゴのパッチワークはあるいは、弱きものの連帯の象徴としてこの物語に現れるのですが、それを粉々にしてしまうのは、ほかならぬ羽角という同様に弱い存在の過失であったということが言い得ぬ無力感を読み手に与えるのではないか、と。

 その現実の林檎は虫食いがしたり茶色に変色したりしているけれども、台所で見つめていると不思議な光をあたしに放ってくるのだった。

「弱さのぬかるみ」からひとり立ち上がろうとする話者、それを話者自身は、或いは非情である、と心の中で感じたのかもしれない。けれど、その決断の遠景では、虫食いの、変色した林檎がいつまでも自らに光を放っている光景が続いているのだろう。

10779 : 五感  黒髪 ('18/10/01 00:40:20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_039_10779p
さて、2か月連続で作者には同じような評をしてしまい、さぞかし耳にタコだろうと思いますので、少し見方を変えれたら良いかな、と思っています。
先月ビーレビの方に投稿された『』(※別サイト)を拝読し、率直に言って感銘を受けました。作者の全ての作品を、こういう作風にするべき、とは思わないですが、作者のこれまでの作品と比べ『声』という作品に惹かれた理由を少しだけ考えて、今作の批評に移ろうと思うのですが。
『声』という作品では「君」という存在が思念のなかではなく実際に「僕の見ている(聞いている)世界」のなかに現れ。その存在に紐づくように「思念」が語られていることに注目したい。もう一点は「時間の流れ」というところ。時間の流れって詩の中に表現するの、結構難しいと思うんですよね、(意識すれば簡単ですが)『声』という作品は、時間の流れがあるんですよね(例 噴水の音、君の声)。それでその実際に時間が流れている感覚が、この『声』という作品を作者のこれまでの作品と違うものにしているのではないか、という推測をしました。時間の流れを感じられるということは、そこに具体性があり、話者へのシンクロがあり、ストーリーがあるということ。
さて、今作『五感』を読んでみますと、どうしても、締まるとこが締まっていないという点が拭いきれない。なんでか、ってことを思うと、やはり『声』という作品と違って今作には時間が流れていない、という印象を受けるからなのではないか、と思います。

我々の見ているものは、光であって、モノ自体ではない。
我々は真実の姿を感覚しているわけではない。
鏡に囲まれた部屋の中という妄想をもったりするのもそういうわけであろう。
視界を疑ってみると、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といったものが、浮かび上がってきた、
人間の、視覚は影をもたらすものであり、

カントとプラトンが混ざってしまったような感じですが、そんな思想の成否なんてどうでもよくて、まずそこに誰がいて、何を見て何を聞いて、何を思っているかを読者をして想像せしめることが詩ではないか、と(作者の別作品を読んで)思ったわけです。

10790 : 9月下旬〜収束の果て 次への:〜  空丸ゆらぎ ('18/10/02 22:01:35 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_158_10790p

 波が粒になり
 余韻が薄化粧して 時の
 奥へ奥へと誘う
 発見された涙の化石

例えばこの詩句が現代詩てきにイケているのかイケていないのかは僕にはわからないですが、文学極道的には独りよがり、という烙印を押されかねない描写ではあると思います。今作からは先月まで作者の作品に感じていた、「フレーズで読ませよう」という印象に及ばず、もっというならば「伝わるのが怖い」、という印象さえ受けてしまった。
例えば冒頭で挙げた詩句というのは
波が粒になる(時間の間延びした感覚)→余韻→回顧→涙(過去のなんらかの痛ましい思い出)
と、いくらでも読みようはあるのですが、読者が回り道した分、それを受け取った時のリターン大きかったか、というとそうとも言い切れない弱さがあると思いました。迂遠な言い回しを好む方々がよく陥る罠として、迂遠さを演出しようとして、無理やりひねり出した詩句がどうにも型にはまったフレーズに陥ってしまい悪循環になる、というものがあると思うのですが、そういった印象です。

  振り返って 合図 指で螺旋を描く 
  選んだ覚えのないこの国で

この場面とか素直に巧いと思うんですが、そこにいたるまでの過程で読者の読みの報酬系を裏切っているので、どうにも効果的に光らないという印象を受けます。

10778 : おっぱいのカップとおちんちんのサイズ  lalita ('18/10/01 00:13:00)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_038_10778p
少なくともここまでやるならコピペはどうかなと思います。いや、仮に作者がこの異様に長い文字列を独自に考えていたとしても、もちろん文学極道的には評価はできないんですが、僕は個人的に驚愕しただろうな、というとても残念な感情を抱きました。

10776 : カタコラン教の発生とその発展  田中宏輔 ('18/10/01 00:04:26) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_036_10776p
(まだ作品読まれてない方は作品読まれてからこの評文に目を通していただくことを強く推奨します)
はい。僕が作者の作品の中で一番好きなタイプのものです。どういうタイプかっていうと、もうひたすら読者サービスに徹している「笑える」作品です。一つだけ懸念があって、この詩ってどの点で突き落とされるかによって読み手の体験するものが全然違うのではないか、ということ。僕はすごく幸福な読者だったかもしれないということですが、いかなる詩でもそのようなことは起きうるわけですので、この詩で笑えなかった方はただ運がなかったとご自身を慰めてください。

 コリコリの農家の子として生まれたカタコランは、

改めてこの冒頭を書くと、あからさまにふざけているな、と感じるのですが、僕は幸福なことに初読では「変わった名前だけど、まぁでもフィクションとしてはありそうな名前だよな」くらいの感じで読み続け、作品と作者との距離ってのが全然見えていなかったんですよね。最初の「コリコリ」と「カタコラン」で気づかないと、不思議なことに「カタコリ」も「カチカチ」も「キンキン」も「まぁでもコリコリとかいう地名出てくるからカチカチもキンキンも全然変な名前ではないのかもしれない」という風に読んでいました、恐ろしいですよね。

カタからコシ、フクラハギの三大陸

流石にここで吹き出してしまったのですが、なぜ(笑えるという意味で)面白いのか、という説明ほど、陳腐なものは無いと思うので、そこはどうかご勘弁を。
読み手に迷彩を読ませる効果というのは先々月北さんの『牛乳配達員は牝牛を配る』で評させていただいたんですが。北さんの作品がどちらかというと情緒に振れていて、テクニカルなことが前面に出てしまうと少し嫌味が付くことから構造としては控えめ(その分情感に振っていますが)だったのに対して、今作はテクニカルなことに全部りしたような作品です。
「カタからコシ、フクラハギの三大陸」でハっとして、だまされた! と叫んで振り向いたら、なんで騙されたのか自分でも理解できないくらいそこら中、忠告ばかりで、むしろそこまで騙されたことに気付かずに読んできた自分が笑えるという、お手本みたいな掌の上感を曝け出してしまったのですが、こういう作品に限らず、多分ほとんど全ての「物語」の体裁をとった作品に通用する技術だと思うので、何が笑えるのか、だなんて一番笑えない冗談をするよりはましかと思いその技術というものに焦点を少し当てたいです。
北さんの作品の際に「物語を偽装する」という少しエモい言葉を使ったのですが、あれはどちらかというと情感振りの北さんの作品用に作り出した言葉で、もっと広い言い方をするならば、物語の迷彩、ということになるのかな、と思います。
問題は何を迷彩で隠すのか、ということだと思うのですが。それはもう「作者の表情」に尽きると思うんですよね。この手の効果を狙った作品で、「あんまりよくないな」と思ってしまう作品の多くが迷彩で物語そのものを覆ってしまっている作品が多くて、初読で何言ってるのかわからないと、種明かしの場面で「ふーん」なんて言われてしまう目も当てられない展開になりかねないので、迷彩を使う以上初読で読ますというのは必須なのでは、と思います。その点今作の読みやすさはまるで中学英語の和訳であるがごとしです。では何を隠すのか、というと、「作者の表情(意図)」しかもう残っていないのではないか、と。
この作品がすごいのはその大胆さとシンプルさであることはもうあまり説明の必要を感じませんが。こういう作品描くからには「読み手の読みをどこまで読み切るか」ということが一番大切になると思っていまして、これまでの選評で嫌になるくらいかいてることですが、「読み手をどう誘導するか」ということの一つの答えとして提示しうる作品と感じました。
いまいちピンと来ない方は、多分僕より勘のいい読者かと思います。或いは

 * その教えをまとめたのが「カタコーラン」である。

こんな笑いのセンスじゃ笑えないよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、この作品が挑んでいるのは、こんな笑えないフレーズでいかに読み手をして笑わしめるか、という問題であることはどうかご了承ください。

10784 : thanx,bungoku  田中恭平 ('18/10/01 11:56:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_059_10784p
こういう手段は危険なように見えて意外とキャッチ―ですね。つまりこれが最後だよ、という身振りで書かれるものは当然普通に書かれているものとは読まれ方が違ってくると思うし、そこに焦点を持っていかれて失敗する作品とうまくいく作品と両パターンあると思うのですが、僕はうまくいっている作品に出合ったことがないです。
この作品に関してもそのギミックがうまい具合に機能しているとは思えなくて、それ以外がかなりいいだけに、むしろとってつけた印象の方が勝ってしまいます。

こんなに日々に疲弊してしまったわたしたちは確かに
郵便ポスト、そのアナログに意義を見出すと
この穢土だって案外悪いところじゃないんです
と言いかけて、聞こえない
だってずっとひとりだったから

タイトルに引きずられると、郵便ポスト、というのが少し別の意味をもってしまいノイジーに感じるのですが、「わたしたち」という主語が突然現れて、その泡沫のような幻想が「ひとり」であるという思いに帰っていくのは、これまで打ってきた布石がここぞとばかりに効いて、とても「割り切れない」。

10792 : 「行きし思い出に追悼を」  Charlie ('18/10/05 03:58:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181005_239_10792p
普遍的な抒情を読ませたいが故にあらゆる人にとって当てはまりそうな詩文であることがかえって、あらゆる人にとってありふれたものになってしまっている印象を受けました。もう少しかみ砕くと、個別的なものへの迫りと、客観的な視点への突き放しのせめぎ合いのなかでしか、普遍性なんてものは生まれないと勝手に考えています。もっと迫っていいし、もっと突き放していい、そんなことを思いました。

10793 : Peeping muzzle  アルフ・O ('18/10/05 21:29:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181005_257_10793p

8月の作品は読めなかったんですが、今作は存外普通に読めてびっくりしました
多分

>硝煙に織り込み
>繭のように纏うから

等の語彙によって早々に頭のなかが「フィクションだな」という構えをとれたのと、
ギリギリ僕の索引の中で伊藤計画の『ハーモニー』が引っかかって、(SFの設定ではなく、マシンガンとか、あの主人公の女の子二人の関係性という意味で)知らない世界ではないな、という安心感があった、という個人的な事情も多分に含むわけですが。

1連目はとても好みでした
特に
>天使を独り占めした優越感に
>黙りこくってお互い浸っている

はじめはなんのこっちゃと思ったんですが、続くシーンを読んでいると、
あ、もしかして「天使」って言葉の対象そのものがお互いのことか、と。
叙述トリックなんて大袈裟なあれではないですが、こういうの作品内に気付く設定がちゃんとあると嬉しいですよね。

>ふたつのピアスの上で冷たい音を立てて
ここは僕だったら「上で」ってなんかよく分からない場所にフォーカスするよりも、「二つのピアスが冷たい音を立てて」にしてしまって瞬間にフォーカスしてしまうかな、と思いました(まぁそれだと動詞が重なって煩いですが)。この作風で、こんな些末な箇所で読者を立ち止まらせるメリットって少ないと思ったので。

あとは最後のメタ構造になっているところも、読んでいて気づきがあって楽しいです。
(当たってるかはわからないけど)多分通常の会話文から、ある一人の人物の台詞を抜き去っているのかな、と。
読んだ余韻に、消された言葉を想像する遊びをしてて、一番難解だったのはやっぱ「スカートの七つ道具」でした。
詩文の中からその人物を消し去る文学的意味とは、みたいな鼻息荒い感じのやつはちょっと僕は専門外なので、
さらっと上っ面だけですが、本来見えない読み筋が条件が変わって読めるようになる、ってのは単純に「快」だ、と思いました、とだけ。

既にレスしていたので引用します。できるだけ後に読む人の読みを限定しないように書いているので、すこし迂遠なところがありますが、要するに、場面を十全に描き切っているので読みやすいし、その読みやすいポイントがあると、詩文のなかの様々な仕掛けにも容易に気づくことができて、それらの読解にかかる心地よい程度の負荷が読むという行為を快に転換しているのは書いた通りです。作者の作品は僕には読めない作品が多いですが、今作は非常に僕の好きなタイプの作品でした。

10795 : 涙の味  線 ('18/10/08 01:19:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_314_10795p
うまいと思います。詩文をディストーションでひずませていくようなやり方なんですが、それ自体はとてもありふれたものではあるけど、その中でイメージががっちり嵌る瞬間があって、それがとても心地よく感じます

一本の蝋燭が三日月を支えていた

こことか、めくるめく詩文の視線に付き合ったあとに唐突に訪れる一枚絵をかくも見事に描いてみせるものだから、それまでの詩文の歪みというものがとても意義深く感じます。というかこの部分ありきで成り立ってるところはあるかな、と。歪み、というのは正直、「読ませる」という意味では結構難しい書き方だと思うんですが、或いは「読ませない」に振りきって、ひたすら読み手を心地よくさせる、という手法もあるなか、そのイメージの灯りというものへ結び付けていく技巧を感じました。

10780 : けだもの  ネン ('18/10/01 01:13:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_040_10780p
とてもありふれた主題であるがゆえに、その主題がいかに既存のものと違ってくるか、という具体性に迫ることが問われる作品ではあると思います。もう一つの作品と同じような評になってしまいますが、土台があるので読みやすいという点でこれまでの作品より良いのではないか、と思います。同時に、今作に現れる「母」や「父」という言葉がまだまだ記号のように置かれているだけで、その実在を読み手に信じさせるほどの肉感というものはまだ描けていないのではないか、と感じました。

善悪のない世界で
獣の様に生きていく

かかるようなことはこれまで何通りものパターンで言われてきたことであると思います。それらすべておさらいして、それらの主題を分析し、差別化をする、なんて方法もありますけど、むしろご自身が経験なさったことの強度というものを今一度信じてみてはいかがだろうか、と思いました。

10796 : 大丈夫。本当に大丈夫だから  北 ('18/10/08 02:05:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_317_10796p
序盤に出てくる回転寿司の店員が仕事に忙殺されているからだろうか、一見意味の通らない言葉を口にしている。

回転スシお客さまお皿をとってくれないと廃棄される海の手紙ネタと言葉の鮮度たもつ手段を食べなくちゃ読まなくちゃ生活なり立たなくちゃ大丈夫じゃなくちゃ

ここから、何かしらの切実さを読み取ることはそれほど難しいことではないとは思います、ただその切実さには対象が欠けており、空白のまま読み手に受け渡されている。僕が感じたこの詩の滑りの良さはここの出だしの想起させるものの少なさであったと思う。

世界の9人に1人8億5千万の人間が飢えている

少なくともこれを読んで、貧しい国の話か、と距離を置くほど僕は恵まれていないし、そもそも、この国で、貧しい国を一方的に想起できる人間は同様に少なくなっているのだと思う。それに空白のまま受け渡された切実さは、遠いよその出来事なんかでは埋まらないので、当然「カモフラージュ」として読める。受け渡された空白には「話者自らの困窮」というものがここでするっと入っていく。なので後半頻出するユニセフという言葉は皮肉として読める。当然ユニセフの守備範囲は児童の貧困なので、こんな「恵まれた国」で回転寿司で働く一般男性を助けてはくれない。それでもユニセフがあるから大丈夫と繰り返す「話者」に悲哀を感じるか、それとも滑稽と思うか。
僕は滑稽さを感じたし、それなりに楽しめた。ただその読みでは後半部分うまく入ってこない詩句がいくつかあり、それを十全に機能させる読みを読者にさせるはずであったのならば、ピースが一つ足りないようには感じました。

10782 : 接岸  霜田明 ('18/10/01 02:39:33 *88)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_044_10782p
少し本音で、いや肩の力を抜いて話したいと思う。実のところ僕にとって思弁的な世界というのは詩に触れるきっかけとなったものです。

 (ひとりきりは
  いつも

  ひとりきりになれないことで
  傷ついている)

ここに現れる人物に僕はとても馴染みがある。とおい昔、モリエールの『人間嫌い』なかにそいつはいたし、ドストエフスキーの『地下室の手記』のなかにもいた気がする。この間久しぶりに読んだゼーバルトの『アウステルリッツ』の中にもいた。けれど僕はこの作品の話者に対して何かしらの感情をいだくことはできなかった。無論ぼくが「そいつら」に抱いてきた感情というのは、嫌悪感の方が強かったりする。なぜならそいつらはどうしようもなく僕に似ていたから。
去年だったか、作者が僕の作品にくれた評で今でも忘れられないものがあったので引用する。

凄い詩や小説を書いてる人に実際にあってみるとただの人でがっかりするとか
それが偽りだ、文学はくそだと思ってたんですが、
どうしてもくだらない一個人でしかありえない社会的な存在としての僕や君でない、僕や君を書いているのだとするなら、受け入れられると気づいたことがあるんです

この詩のレス欄ですが、僕は正直作者の純真にびっくりしてしまった。たぶん僕も作者も人が好きなんだと思う。それはとても違うやり方で好きなんだと思う。僕が好きな「そいつら」はとても人間に似ている。作者の好きな「人」は神に似ているのかもしれない。それは分からないけど。
だからその前提が違ったまま、作者の作品を今まで評してきたことはとてもアンフェアであったことは認めなければならない。僕はその前提を意図的に無視していたのを自分で知っているし、この選評をつけはじめた理由、フォーラムに書いたやつを読んでいただければ、なぜそうせざるを得なかったかは理解していただけると思う。
けれども僕はその前提の違いや、僕自身の不誠実を自覚しながらもなお、作者がこの作風のままで、ここ文学極道で評価されてしまったことは、作者にとって最大の不幸だと思っている。これはもちろん主観に過ぎない、普遍的な文学の価値など知りえないのだから。それでもなぜその主観をここに書き連ねてしまったのか。それはこれほど人とは異質な視点をもった作者が、現実の、個なるものの、人の、醜さやくだらなさから逃れるように、内側に閉じこもるような記述を繰り返すのにもったいない、という思いを禁じえないからだ。これは別に作者を怒らせるという効果を狙ってあえて挑発的な言葉を使っているわけではなく、ただ率直にそう思う。
パウルツェランというユダヤの詩人が、『糸の太陽たち』という詩を世に送り出したとき、そこには「まだうたわれるべき歌がある/人間の向う側に」という詩句が書かれていた。それを読んだエーリヒフリートという同じユダヤの詩人が「歌われるべき歌は人間のこちら側にある」と書かれた詩を発表したという。
実際のところ、別に何が正しいかなんて話をしたいわけじゃない。純粋にもったいないと思う僕のエゴがあるだけである。しかし正しさなど人の業と比べれば、塵芥のたぐいだと僕は思っている。

10786 : 春の景色  陽向 ('18/10/01 22:59:42)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_082_10786p
秋に投稿された春の詩は、いつも2パターンで読まなければならない。簡単なことだが、話者の季節を春として、秋として。春を待っている、とあるので、素直に秋の詩、ないし冬の詩として読もうと思う。このとき読者は春を待ちわびる詩のいくつかの感動のパターンを次の詩句に移るまでのコンマ数秒で想起するだろう。作者に課せられたタスクはこの想像を超えることである。

桜は天界の木

深い愛の後の花

「天界の木」で少し面食らうが、「深い愛の後の花」は存外におもしろい表現ではなかろうか。確かに桜の花は丸められたティッシュにも似ている。いや、これは冗談なんだけど。相手がいるという含みが少しだけ背景を豊かにしている。そう読んだら

神聖な女性性が空間を泳ぎ

というのももしかしたら空想的な独りよがりではなく、実在する女性をベッドの脇で捉えた一描写なのかもしれない。そう読むと

安らぎに包みこまれる

その時私は私を好きになれる

自分かーい、というツッコミをせざるをえなかったのだが、かりに「あなた」としても、それはそれで陳腐なので、それまでの流れで、具体性というものを淡く揺蕩わせたのだから、最後に拾ってあげればよいのにな、と思いました。作者がこういうふうに読まれることを想定して書いたとは余り思っていませんが、おしいな、と。

10787 : 廃園  北 ('18/10/02 07:56:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_090_10787p
これまでの作者の作品は比較的可読性が高かったのだが、今作に関してはどうも「読ませない」に振っている気がする。

肌のなかに滅び朽ちてしまう肉片とじこめ狙いをさだめる溜息のように文章は路地を走り去ってしまう

最後と呼応して何かの像を結びそうなのだけれども、それまで出てきた擬人化された「暗闇」や「銀行員」などの思わせぶりな言葉が読み手の中で有機的に意味を萌さないので、どうしてもその陥っている状況や、話者とは違う存在が不明瞭なままなんとなく閉塞感だけを感じるという作品になってしまっていると思います。。

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2018年9月 芦野月間選評

2018-10-20 (土) 00:41 by 文学極道スタッフ

芦野個人の選評となります。
前書き

  • 優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
  • 上記の理由で優劣がつけられなかった作品に関しては私しか選ばないだろう、という作品を積極的に推挙しています。そのような「不当」な理由で落選となった作品に関してのみ作品の横にその旨付記させていただきます。
  • 今月は良作が多かったですが、上記以外の通常の理由で落選とした作品もありますが、優良候補だったことは明記されておりません
  • 優良、落選、順不同です。
  • 今月も同様に一部の作者の作品に関して批評するに能わず、そのこと謹んでお詫び申し上げます。

10765 : plastic  完備 ('18/09/25 14:04:39 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180925_802_10765p
最初に抱いた印象は「繋がらない」というものでした。
僕がこの作品を読んでて伝わってきたものって、陳腐な言い方ですが孤独感。もっといえばストレンジャーとしての違和感ということになると思います。それに関しては「ポスト」であったりそれに投函するために手にしたA4の封筒、或いは留学という言葉、それらの語彙からの勝手な想像ですが。繋がりたいこと/繋がれないこと というものとしてギリギリの線を攻めてやろうという気概を感じると同時に、そのギリギリの線が読者に「読み解いてやろう」という気持ちを起こさせるだけの詩文になりえているか、と問われると、そうではないと思います。そういう意味で、一つ一つの言葉、仕掛けが、読者の頭の中で有機的に「繋がらない」ということです。

すこし振り回してからは引き摺って歩く
どうしても線にならず
きみの作る窪みもほとんど地形の一部

これって多分作者にしか書けない詩情だと思うんですが、当然、読めてないくせに何を言うんだ、というツッコミはあると思います。ただ、技術の一つとして、目の前の情報を客観的に描写すること、に加えて、それを見た話者(作者)のフィルターを通したその行為を叙述すること、というのは本質的に作者の詩情を表現するにあたって、とても優れた方法だと思っています。具体的に
>すこし振り回してからは引き摺って歩く
客観的描写
>どうしても線にならず
話者のフィルターを通した行為への解釈。(線にならない、というのはもちろん客観的ではない)
>きみの作る窪みもほとんど地形の一部
その行為への解釈に対する詩的な救済(救済というのは大げさだけど)
ここが鮮やかなぶん余計に、アイテムの多さが雑音となってしまっている感が否めない。

10772 : hyouka-ga-hara  田中修子 ('18/09/29 01:10:19 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_940_10772p
出だしの数行を読んで、今はなくなってしまったpoeniqueに投稿された中村梨々さんの『ロシア』を思い出していました。サイトがなくなってしまったのでリンクが貼れなくて残念ですが。(どうでもいい話ですね、はい。)
言葉のチョイスというか、物語のあるものにあえて脱臼させるような語彙をいれてくるのは割と高橋源一郎っぽいのかな、と思ったんですが、決定的に違うのは、プロットを脱臼させて物語を面白くさせる、ってのが高橋源一郎的な手法だとしたら今作は物語が脱臼してプロットが機能してない、と思ってしまいました。
全体的にそうなのですが、作者のフィルターを通した風景や心象「しか」ほとんど描写されておらず、読者の足場がない部分がだいぶ多いと思うんですよね。ただそれは短詩のような形式では、僕は「あり」と思うんですが、散文形式をとった時に、どこかに足場を作ってあげて、そこからの距離として、作者独自の表現を読者に体感させたほうが効果が大きいような気がします。
例えば

彼はうしろにふっとんでいく。肉体がはじけた。けど、散らばるのは内臓じゃなくて青やうすむらさきの董だった。

僕はこの表現なんか唸るほど好きなんですね。ただ描写の質が全体を通して同じ調子なので、ここでの優れた表現が際立って見えないというのが少し、というかかなり残念に思えてしまって。もう少しメリハリ(客観的描写、飛躍、詩的表現のバランスという意味で)を付けたほうが、ここぞ、という場面が光るのではないかな、と思いました。

10763 : 悪魔の子供  白犬 ('18/09/21 23:29:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180921_631_10763p
官能的な情景を今まさに、その状況に置かれたものが発しているかのような「生の言葉」で表現している、というか表現しようとしている、という感じを受けました。
atsuchan69さんと玄こうさんの的確なレスが付いていたので玄こうさんのレスを一部引用します。

書きながら自己のカタルシスに安易に溺れず、「詩に酩酊する」ことは避けて書いて欲しい、と思う。
それはもっと後から出てくればよい。書かれた後で、読まれた後で、この詩に「陶酔する」という心境や事態が生まれる。それは酩酊とは全く違うものである。(持説だが)

このような「生の言葉」というのは臨場感があると同時に客観的に読むとこっぱずかしい印象を与えかねないというのは、確実にあると思うのです。玄こうさんが仰っていることを少しかみ砕くと、作者の「酩酊」よりも読み手の「陶酔」を優先して詩を書いてほしい、ということになろうと思います。
故に逆説的かもしれませんが、こういう詩を書くからには、徹底的に自分の言葉を突き放してみるとよい、と思っています。
例えば
ジャスコの3階でペペロンチーノとダンス
とか
脳髄に泡立つ黄金のmellow
とか
もう限りなくダサいんですけど、別にダサいことって詩においては特に問題があるとは思っていなくて、読み手にダサいという印象を与えて上でどうするか、というのが問われてくるんだと思います。
もっと具体的に言うと、ダサい表現に対して、読み手がダサっ、って思うことを想定したうえで、そこをちゃんとフォローしていく書き方ですね。一つ一つの表現に関して、とても作者ならではの感性を感じる作品であるので、それをそのまま出力してしまうのではなく、ぐっとこらえて、「どう読まれるか」ということにもう少し意識を払うと化けるのではないかな、と思いました。

10771 :  無名抄  玄こう ('18/09/27 23:20:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180927_906_10771p
正直に書くと全く読めなかった。
特徴的なところを抜き出すと

 あぁ、数多アマタ 灰色な雲を担ぎながら、めあきの男たちが死んだまま通りすぎてゆく 、土をかぶせた顔の喉元から、声高に吹き上げよみがえった、にょきにょきと噴きあげる、軒下の、ゆく先ざきで、ほとり、ほとり、無明のほとり、を、ひとり、やせ、赤黒い大きな口を開け、まま、じっ、と、立って、枯れるのを

もう一方の作品と比べると、もう少し文法というものを頼ってはいかがかな、という印象をぬぐいきれない詩文です。おそらく作者は文法通り書かれた文章のつまらなさ、というものを感じていて、このように「ずらしていく」という技法を使っていると感じます。それ故に、「頼ってはいかがか」と書きました。もう一方の作品は、表現したいことと表現手段が相乗的に良い効果を生み出していたように思いますが、こちらの作品は噛みあっていないと感じます。
難しい話は僕自身わからないのですが、文法的に筋が通った文章って、言葉の意味は分からなくとも、それだけで読み手に「言葉のつながり」を意識させる技術だと思うんですよね。今回の作品の場合書かれている言葉自体作者にしかわかりようもない言葉の羅列であると同時に、文法的にも滅茶苦茶にずらされているので、「言葉のつながり」を意識する暇もなく通りすぎてしまいます。
文法は技術と申し上げましたが悪文もまた技術でありうると思います。が、今作に限ってはそこのバランスがとれておらず、悪文が技術たりえる詩文になっていないと思います。

10710 : 獅子吼  lalita ('18/09/03 01:28:27)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_561_10710p
先月同様、あまり言えることはないと感じております。
ただ先月とは違う点として、今作、悦に入った言葉がところどころ、読者の読みを阻害してはいるが、同時に作者の体験や感性に拠った言葉も多かったのかな、と感じました。
具体的には

やっと生きれそうなんだ。やっと人間になれそうなんだ。
半分動物だったんだね。今までは。

等でしょうか。というよりも「ファッションとしての芸術、映画」という言葉、これだけでは、まあよくある詩文なのですが、それを動物的と断じ、「人間」というものへ向かおうとする、ということ自体は、個別の体験によるユニークな物語でありうると感じました(意外にも)。
こういう描写を、うわ言ににか見えない形で詩文に唐突に挿入してしまうのはとてももったいなく感じていまして。具体的なエピソード、物語化、文脈化を通して、読み手へと届けていただければ、という感想を抱きました。

10760 : ビンタ  atsuchan69 ('18/09/20 10:37:42)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180920_527_10760p
冒頭と、最後に2度繰り返される大粒の涙という言葉と。丁寧な描写とは裏腹に、架空であることにアクセントを置かれた名詞。時々妙に俯瞰的になる視点など、読み終えた後に、なんだか重大な読み逃しをしているような気にさせる作品でした。あと作者にとっては当たり前のことだとは思いますが、基本的なところでの描写力があるので読んでて安心感を覚えます。
子細には読めなかったんですが、印象的な部分として

大粒の涙‥‥いやそれは悲しみというよりまるで馬鹿げてるとしか言いようのないほどの荒く凄まじい憎しみの雨で草木の葉は低くうなだれ足元はたちまち泥の河となった

ここのなんとなく南米の幻想小説を思い起こさせるような描写が印象的で、「大粒の涙」というものを密林に降るスコールののことと「単に」読むと、密林で生きることを宿命とした人たちの素朴な生活が浮かび上がってきます。そこで「大粒の涙」ということを思い出すと、途端その生活に色が帯びたように空気感というものが立ち現れてくる。そういう読後感のある詩なのですが、そこからもう一歩さらに読み手に迫ってくるものがあれば、と思ってしまう作品でした。

10770 : 収穫祭  朝顔 ('18/09/27 12:00:22 *13)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180927_885_10770p

その頃のわたしはもう書斎のむずかしい文学全集に手を出し始めた頃で

作者の意図したところかはわからないのですが、僕にはこの作品は母親を描いた作品のように思えました。娘/息子が何やら自分の知らない世界への一歩を踏み出そうとしているのをみて、わが子であるにもかかわらず、自分とは違う人間になりそうなことが気に入らない、苦々しい、という母親のとても人間的な感情を(暗示的に)描けているように思えたのです。
クンデラの小説で、いつも裸で家中を歩き回っている母親が、裸を見せるのは恥ずかしいことではないのか、という疑念を抱く年頃の娘に対して、同様に苦々しく思い、破廉恥な生活を娘に見せつけ、娘が顔を赤らめると嘲るように笑う、というのがありましたね、多分『存在の耐えられない軽さ』の冒頭だったと思いますが。
この作品に関わらず、告解詩のような体裁の作品に往々にして「お前のことなんて知らん」という評が寄せられる(文学極道に限らず)と思います。僕も実際、そういう感想が一番先に来て、どのような形でそういう批判をあらかじめ封殺するための技術を用いているか、というのを注目してしまうのですが、今作は冒頭にあげた文章が、思いのほか母親の心の中を深くえぐっているようで見どころがありました。
作者の意図したところかはわからない、と書いたのは、後半に行くにつれて母親というのが、実在する人から離れて、何やら記号のようなものになってしまっているのが少しもったいなく思ったからです。

10767 : 未詩論ーショウガイシャトイウナマエニツイテ  竜野欠伸 ('18/09/25 22:34:00 *66)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180925_820_10767p
レス欄で多くの方が指摘されていますが、日本語として意味不明な箇所が多すぎる、という点が最大の難点であると思います。そこはまぁ謙虚に受け止めてしまいましょう。
誰かに何かを伝える、という点において、論という体裁をとるからにはまずは伝わるように書かねばならない、というのは当たり前ですね。一つ一つ取り上げて具体的にどう伝わりにくいか、なんてのはやめておきます。
なので少し角度を変えて話をするのですが、「未詩」という言葉があまりにも前提無しに使われている気がします。僕は「未詩」というものが僕の知らないところで当たり前のジャンルとして存在しているのかな、と思って調べたほどでした。でもこの瞬間ってとてもワクワクしたのも事実なんですよね、「未詩」という未知のワードに対していだく好奇心って読者は感じると思うんですよ。なのでそこをどうやって拾っていくか、というところに気を遣ってもよかったのではないかな、と。
他にも、いろいろな言葉が前提無しに出てきますね。心にとどめておいていただきたいのは作者にとっては自明のことに思われる言葉って、実は読み手からすると全然自明ではなかったりします。そのことを想像にいれると、伝わる文章、というものが今よりは少し簡単に書けるのではないかな、と思いました。

10773 : 雪原の記憶  山人 ('18/09/29 17:49:08 *1) 優良候補 → 落選
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_966_10773p
多分最初の数行でこの詩のリズムに乗れないとこの作品を読み通す気は起きないだろうと思う。あとタイトルが一見ダサい。というのがこの作品につけられるケチの全てかなと思う。

すでに分解された銃の一つを手に持ち、銃身に唇を当てた。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした。

これを「冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした」と読む人はたぶんこの詩を読むにはあまり向いていないと思われる。僕は「冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいしかしない」と読んでいた。こう読ませてしまえば作者の思うつぼなのだろうな、と読みながら思っていた。
なんのことかと言うと、この今から手放す銃を唇に当てるというかなりナルシスティックな描写で、何を思うか(何を描こうか)という作者の取捨択一を考えてほしいのだが、往々にして、詩人というのは詰め込みたがるものだと思うのですよ。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいと今まで撃ってきた獣の血の感触と…と続けていたらたぶん台無しになってしまうのではないか、という点で、この作品全体の調子を印象付ける一文だと思います。具体的に言うとこの一文によって、「限りなく事実を語ろうとする話者への信頼」が成り立ってしまった、僕の場合。
ただ例えばこの作品に関して、これは詩ではないのではないか、という疑念を表明される方はたぶんいらっしゃると思うのですが。僕がそういう方に返せる言葉としては。

ウサギの足跡が忽然と消え入る箇所があるのだが、こういう場合は得てして近隣に潜んでいる場合が多い。ただ、場合によってはこういうカムフラージュ痕を幾度も繰り返している場合もあり、百戦錬磨の狡猾なウサギも多い。

この「眼差し」が詩でないのならば、何が詩なのだろうか、ということしか言えない。いや、僕だってさすがに言葉が足りていないことくらいはわかっているのだが、限りなく事実を語ろうとすること、及び余計な感傷を差し挟まないこと、という点での一貫性、またはそれならば、見えてること、知っていることは惜しみなく書こう、という話者が事物へと向ける一貫した眼差しが翻って話者がちゃんとそこで生きている、という実感を呼び起こすのではないか、と思うわけです。そして、その「眼差し」への同期があるからこそ、上に挙げたような、例えば「狡猾」という言葉が、読み手をして確かに狡猾だなと読ましめるようになっているのだと思います。
一応断っておきたいのだが、僕は詩的なレトリックを否定しているわけではない。そこに一人の人間が生きていて、その一人の人間から発せられた言葉と信じさせてくれれば、いくらでも僕はその飛躍に付き合うつもりである。

前置きが長くなってしまったが、この詩の一番の見どころは最終連である。作者も意図したであろうが、最終連は妄想であることをできるだけ早めに感付かれないように書いてある。そこが何よりこの妄想の臨場感というものを増していると思われる。と、同時に、ここまであくまで即物的な言葉に依拠していた話者がはじめてここで自らの心象風景を語るのである。しかもそれはウサギを狩り、内臓を剥ぎ取るという行為なのだ。ここまでこれだけ感傷的な事柄に流されずに語ってきた話者を思うと、この妄想はもはや事実と同等の価値をもって胸に迫ってくる。それは普段ウサギを狩っていたことの詳細な記述や熊狩りでの事件を経て銃を手放す決心をしたこと(もちろん読者はなぜその事件をきっかけにして銃を手放したのか、ということが頭にある)それらがすべて布石になって、胸に迫るのである。しかもそれが、ウサギの内臓を剥ぎ取る記憶であることが何より名状しがたい。

10775 : 猪のメモリー  イロキセイゴ ('18/09/29 23:59:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_981_10775p
先月も述べましたが作者の作品を良い/悪いと感じる感性はぎりぎりあると思っているのですが、それを言葉にはできないもどかしさを感じています。というか僕の選評のスタンスを読んでいただければわかる通り僕の言葉では評価のしようがない。
今作の印象はパッと読んで「猪のメモリー」が案外エモイ感じで響いているのが、僕としてはいい感じに読めたと同時に、この体裁の詩は一行一行が必然性を感じられるくらい強い感興を呼び起こさなければ、成功しえないだろうな、という難しさを感じました。

10748 : 夜[2004]  中田満帆 ('18/09/15 13:07:03)  [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_348_10748p
黒だとか、夜だとか、かっこつけている部分もちゃんと作者はかっこつけていることを分かったうえで書いていると妙に納得できる作品でした。
というのもこれ要するに、夜になって孤独感を感じるんだけど飯食ってる時はまぁまぁ幸せだけど喰い終わったらやっぱり孤独で、皿に顔を伏せてYという少女と結婚したいと「心にもないことをいう」という。どこまで欲望に素直なんだ、という感想と、これほど素直で、人間的な感情をそのまま抉りとってくるのは、もう脱帽というか、作者の作品全般に言えることではあるが、正直に羨ましいところでもある。
先述したが、そういうかっこつけって、実際にかっこいいパターンと、かっこ悪いんだけど、今そこに生きている人間から発せられた言葉だと信じれるパターンと、二つの成功例があると思っていて、この詩の場合、結構実際にもそこそこかっこいいフレーズだし、それがこの詩が展開していくにつれて明らかになるちょっと情けない「話者」からこぼれ出たどうしようもない虚勢だったんだ、ということに気付く、なかなかお目にかからないパターンで成功していると思う。いや、これキュートですよね。

10774 : DVDVDVDVDVDVDVDVDVDVDVDVD  泥棒 ('18/09/29 19:20:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180929_974_10774p
素直に良い作品だと思ったのだけれども、なかなか評するのが難しいと思っている。
というのも僕はこの作者の感性がわりとダイレクトに刺さってきてしまい、それを共有可能なものへと言語化するのが困難だからかな、と。
この作品に特徴的なのは、独白という形式をとっていること。語尾に注目していただければ、この作品がとても読み手と近しい、あのぽつりぽつりと脈絡のないことを呟いてしまう詩人っぽい存在を思い浮かべることができるだろうと思う。と同時に、この作者の作品に特徴的な技法として、メタ的な詩句を唐突に挿入する場面がよくある。

時間と共感を殴り倒し

例えばこんな身振りで。読み手というのはどうしようもなく脈絡を探ってしまう生き物である。ちょっとした物語があれば、どのような伏線が用意されて、どのようなオチに持っていくのか、など。でも今作を読んでいると、そういう「制限された読み」というのをこの作品は「殴り倒して」いく。じゃあそれが、詩文にとってどのような効果を上げているのだろうか、という点に言及せねばなるまいが、先述したような「ぽつりぽつりと脈絡のないことを呟く」話者の登場する作品であることと相まって浮き彫りにされている感情がある。たぶんそれは「さみしさ」という言葉に近いのだと思う。
ちょっと適切な例ではないかもしれないが、SNSなどでしきりに「ぼっちアピール」をして、いたるところに顔を出し、脈絡のあるエピソードを添えて自己表現する方を見たことがおありだと思う。僕はそういう人をみて、(というか僕もそっちのタイプの人間だけど)軽蔑なんてしないが、その人を「さみしい」という言葉で表現はちょっと違うんじゃないかな、と思う。
うーん、、大分わかりにくい評になっていることは自覚している。僕が言いたいのは、「さみしさ」というのは根本的に共感不可能であること、解読不可能なコードであること。この作品が呼び起こすある感興はそういうぎりぎりの線で成立しているのではないか、と。

10768 : 『 ‐ おぼろげ −』  柏原 一雄 ('18/09/26 11:26:20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180926_838_10768p

眼には映るけど 指のすき間から ひたひたと零れ落ちる雫

ちょっと手垢のついた表現ではありますが、読み手に、なんだろうと思わせる出だしだと思います。3行目まで読んでいくとシラーの『ベールを被ったザイスの像』とかノヴァーリスの『ザイスの学徒』などのモチーフを思い出しますね。そういう「ザイス系文学」(今僕が勝手に命名した)はシラーやノヴァーリスの時代に限らず、今世紀に至るまでずっと繰り返されている主題でありますので、やはりどこかで作者のオリジナルの表現、展開がほしいな、と思ってしまいました。

※ザイスというモチーフは真実の探求というロマン主義の人たちが好んだモチーフでありますが、現代日本に住む僕たちにとって、その真実の探求というのは、どうしても「それだけでは」嘘くさく聞こえてしまうのも確かですね。現代においてこのようなテーマを扱う意義、というのは、作者が今この世に生きておられて、その中でこのモチーフを書かなければならぬという実感を伴った個別のエピソード(実話であれとは思わない)を通してやっと結実しうるのではないか、と思いました。

10742 : 腐敗した手鏡  鷹枕可 ('18/09/13 13:48:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_292_10742p
今月もまた鷹枕可さんの作品に関して、他の選考委員に任せなければならないこと(そうせざるを得ない僕の無能力)を謝罪申し上げます。

10755 : ポテトチップスが奥歯にはさまっている、夜。  泥棒 ('18/09/17 20:20:50)
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僕も数年前に前のHNで同じようなテーマでを書いたことがある。あらゆる言葉が(僕自身の言葉も)どうしようもなく特別な意味を孕んでいる気がして、風に揺れているカーテンにはすべて運命が宿っている気がして(吉井和哉)、それってとても「おりこうさん」すぎやしないか、って。

猫が三回鳴く。
にぁ、にぁ、にぁ、

だから猫の鳴き声の方がもはや近しいものに感じる。だってそれは恐ろしいほど剥き出しですからね。でもこういう詩の宿命ってどうしようもなく自家撞着に陥ってしまう。
具体的にはここですかね

獣たちに牙で殺されたい

どれだけ否定の身振りをしても、意味なんてないと言っても、それ自体がとても何かを表現しようとしちゃってる。だから獣たちにかみ殺されたい、と願う。
ちょっとうまく言えないんですが、作者の表現したいことって、否定の身振りを見せることではなく、あたかも抱擁するかのような文章で、読者を導き、意味を与え、緊張感をもってヒリヒリさせるような道程を用意したうえで、最後全部ぶっ壊すやり方ってのが割とぴったりくるんじゃないかな、と思いました。いや、この作品も結構好きなんですが、そっちの方のトライも見てみたいな、という意味で書いてます。
そういうの得意なの文極だというまでもなく一条さんですが、ちょっとずばりという作品が思い浮かばない。ちょっと違うけど一条さんの『milk cow blues

10764 : 水精とは  本田憲嵩 ('18/09/24 00:28:23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180924_718_10764p
○○について、話がしたい。と言う始まりは文極ではお約束の、そして効果的なやり方だと思っています。例えばケムリさんの諸作品とか、コーリャさんの『朝を待つ』とかですかね。あの人たちがうまかったのは、読者をいきなり親密な空間にひきこむ、という効果をちゃんと知っていて、そこから続く言葉というのはまるで耳打ちで話されたような特別な感じがするんだと思います(人によるだろうけど)。
今作に関しても、僕は序盤はものすごく好感が持てた。なぜならば、それは僕の知っている話だったし、例えば僕の知らないことだったとしても知っているものからの距離としてそれを類推できる程度の飛躍というのは心地よい。ただ

或いはそれはほとんど無限に近い精液の海から精製された
もう一人のボクでありながら

からはじまる観念的ともいえるであろう言葉はどうしても独りよがりという印象を逃れえなかった。

決してボクじゃないボク/もしかするともう一人のワタシ?

もちろん読もうと思えば、読める。けれどもこの文章を読もうというモチベーションを詩文の中で与えてあげてほしいと思いました。思念的なワードを使う時に気を付けていただきたいのは、読者がついてきているか、ということに限ると思うわけです。

10745 : 夏忘れ  青島空 ('18/09/14 14:15:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180914_311_10745p
先月投稿されていた作品よりもだいぶ良いと思います。一人の人間がそこに生きており、特有の生を生きている。あるいは

頭皮にできたにきびみたいに 直接触れないと気付いてもらえないのかな

という表現は、ちょっと意味をとるのにてこずりますが、頭皮にニキビがあってそれになんとなく触れてしまった場面を想像すると、するっと入ってくる巧さがあって。ちゃんと読まなくちゃという気持ちにさせる。
また、一輪車さんによる優れたレスがついていたので引用する。

この詩は幻想(観念)のなかで季節を迎えるしかない、
自然から疎外された孤独な都会生活者あるいは引きこもりの人間の
寂しさを歌っているわけだから。
そういう人間にとって、「初雪を知らせる」のは戸外の庭や公園や
屋根や空ではなく、
新聞やラジオやテレビの知らせなわけだ。
その「知らせ」を受けてはじめてかれのなかで季節が幻想として開くわけだ。
そしてこれが普遍性をもつのは、いまの人たちが多かれ少なかれ
そのように季節から疎外されているからだよ。

概ね説明されているので僕がこれに付けたすことなどあまりないように思われます。先月、評に書かせていただいたことですが、「風景を描くのではなく、その風景を見ている人物を丸ごと書いてはいかがでしょうか」ということを書いたのですが。最後の一行には

そのうち、ニュースが初雪を知らせた

という単なる情報以上に、背景がばっちりと書き込まれており、読み手は書かれているもの以上のことを受け取ることができるわけです。

ゼンメツさんのレスも取り上げたいのですが

ただこの「だろう」から直でラストに飛ぶのは、
通勤快速ばりに直通過ぎて、
そこは逆に余韻が薄まっちゃってると感じるかな。

これは僕も少し惜しいと思ったところで、ゼンメツさんの感じていることとは少し違うかもしれませんが、
夏だとおもっていた→窓開けると寒かった→秋がもう来ていた→じゃあもうすぐ冬だろう→ニュースが冬を伝える
という流れを無理やり取り出してみると、じゃあもうすぐ冬だろう→ニュースが冬を伝える、の部分が、せっかく最終行で落差をしっかりと用意しているのに、読み手に予定調和な感じを与えかねない、つまり転調として少し効果が薄れてしまっているということだろうと思います。

10743 : 浸透  トビラ ('18/09/13 17:11:35)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_294_10743p
アルフ・Oさんの評が的確なので、それを参照されたし。ちょっと長いのでここでは引用できないが。それで一つ一つの言葉に関しては、そうですね、確かにちょっとぎこちないところもあるけど、

あなた、いい音をたてるじゃない。

ここなんかすこし惚れそうになった。音読しながら読んだんですが、「を」は自然と読み飛ばしていました、人間の脳って都合がいいですよね。
さて『浸透』という題から、この「あえて表層にとどまろうとする記述」ってのは僕も書いた覚えがあるのですが、「疲れている人間」というのをリアルに表現するときに効果的ですよね、おそらく狙ったものと思います。そういう詩を書いていくうえで、つまり、表層だけの描写を連ねていって、ぎりぎりのところを繋いでいく書き方をしていくと、一番芯でとらえたいところってラストなんですよね。もうそこでミートするかどうかにかかってる書き方なんですが

雨の前、湿っていく原子を嗅ぎたいな。

言葉としてはぎこちないですけど。発想はすごくいいんですよね。なので、レス欄で本当に多くの方が指摘されているように、ちょっとした心遣いですかね、そこを頑張っていただきたいな、と思いました。(指摘されている内容をすべて信じるということはしない方がいいです、と一応念押しておきます。作者だけのこだわり、というのは往々にして正しさよりも、重要だったりしますから。)

10714 : 孤児とプリン  田中修子 ('18/09/03 17:32:32 *8)
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いま思えば、ひっしに生きようとしている傷が、夜に切れ目を入れるお月さまみたいに眩しかったんだな。

僕はたぶんこの作者の表現のファンなのかもしれない。いや、もちろん僕は手首に傷はあっても飼い猫に引っかかれた傷しかないので「共感」とは程遠いのかもしれないけれど、「そうなんだよなあ」と思ってしまった。猫のひっかき傷しかない人間でありながらですよ。
さて、もう一つの作品に書いたんですが、詩的表現と事実の描写とのバランスが悪いのではないか、という点を指摘させていただいたのですが、今作はとても読みやすいです。冒頭にあげた優れた個所が、ちゃんと際立って見えてきます。
一方で気になるところを述べさせていただくと、こういう作品って物語としての面白さというのがどうしても問われると思うんですが、どうしても一つ一つのエピソードがとぎれとぎれでつながらないという印象を抱きました。もっと言ってしまえば、結論ありきで母と祖母を引っ張り出した感が否めないです。
もう一つ、細かいところではありますが

与えられなかった母性を盗むのをやめられないんだ。その、盗んできた剃刀でじぶんをばっする、あの子。

表現としては洗練されていますが、この個所の「話者」が「あの子」に向ける視線に違和感を覚えました。そこが「あの子」というのがいまいち独特な存在として読み手に迫ってこない原因なのだろうと思うのですが。具体的に言うとこの個所に特徴的ですが「あの子」が「話者」にとって都合のいい存在、ストーリーを破綻なく成立させるためにまるで記号のように型にはめられた人物のように見えてならないんですよね。もちろん「万引き」の件など、「あの子」という独特な存在への焦点の当て方としては上手いとは思うのですが、そこから引き出される「話者」の結論がどうしても型から出てこないという印象を受けました。おそらく、「わたし」は「あの子」を理解する過程で、いろいろな試行錯誤があったはずだと思うんですよ、その細部を描き出すことによって浮き彫りになる「あの子」の存在というものがあるのではないか、と思いました。

10753 : (無題)  いかいか ('18/09/17 16:43:32) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_421_10753p
この詩を読んで残念に思ったことは僕がもうすでに「文学青年」(もうそんな年でもないけど)のようなものではありえないということを自覚させられたことだった。僕が何言ってるか意味不明だろうと思いますが、僕からしても意味不明です。
或いは『ライ麦畑でつかまえて』だとか『西瓜糖の日々』だとか『千年の愉楽』だとか、そしてなにより『怒りの葡萄』を引っ張り出して、あれやこれやと「文学青年」的に語ることは可能かもしれないが、そんなことに意味を見出すことを徹底的に拒絶するような文章として、書かれている。
つまり窓枠越しにそれらを押しなべて等しく「鑑賞」することは許されない地平に引きずり込まれる力を感じる。付言しておくが、それはこの作品のテーマがそうさせているのではなく、筆力がそうさせているのだ、ということは僕のここでの批評スタイルを貫くという意味で念を押しておきたい。僕たちはあの「66号線」を下っているのだ、という強迫。
これ以上言葉を並べても陳腐にならざるを得ないので、引用でどうにかなることを願っている(浅はか)

しょんべんのようにながれてしぬだけならいっそのことおまえらのつばさをぜんぶひきちぎってなきわめいてさけびながらさいごのひとりでいたいそしたらおまえらのかおもわらっているだろうからひきちぎられたつばさのおもみからはずれておまえらははじめてじめんにげきとつするじゆうをあたえられるしぬことをゆるされたおまえらにひとのゆいいつのかなしみとじゆうをおしえてやる

神と人は韻で、
結ばれなかったから、
僕らの間には、
歌がない
本当の歌がないから
島がない
果てしない
島流しが
何百年も

また、もし作者以外の方がこの評を読んでいらっしゃるとしたら、「あれ、芦野のやつ、批評の方法がこの作品だけ全然違くないか?」と疑問を持たれると思うのですが、その通りですね。この作品に関して僕の評価って「語りえない」の一言なんですよね。先月何度か書きました通り、基本的に選評においては「語りうるもの」「共有しうるもの」というのを取り出して、その部分「のみ」を評価するという、ちょっと縛りを加えております。ただこの作品に関しては、それだけで済ますことがどうしてもできなかったということです。
そして何よりも恐ろしいのは「文学青年」ではもうありえない、という一時的な感情は次の瞬間まるで嘘であったかのように破り捨てられることなんでしょうね。そのことが皮肉にも(ブログのコピペでしょうが)続く文章によってあざ笑われている。

#現代詩
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10719 : 恋愛論の小さなタイトル / 文極限定版  竜野欠伸 ('18/09/04 18:57:31 *20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_654_10719p
編集前の詩を読んでいないので(というか選評なので)、あくまで最終稿に焦点をあてます。

失恋として訪れない初恋の最果て

この展開の仕方についていえば、なぜこのようなわかりにくい表現を使ったのだろうという疑問は残るものの、一般的にわかりやすいテーマなのかな、と読まれうると思うのですが、続く詩句というものが(この選評で何度も繰り返してしまっていることですが)思弁的な言葉を使いすぎた結果、今そこに生きている「話者」というものを感じ辛くなっているのは否めないと思いました。
もちろん僕自身そのような、「実体」から漏れ出でる言葉というものだけが「読まれうるもの」でありうる、と言うつもりはないのですが、それならば読者を強く惹きつけるフックがほしいと思った次第でした。
或いは、恋愛論なのだから、その論としての強さが最も重要であり、そこに着目して評をすべきだ、とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、フォーラムにも書いた通りそれは僕の批評の範疇ではありません。僕が批評できるものというのは作者がその対象に向ける眼差しというよりも、その眼差しを読み手に過度な付加なく提供するための技術のほうに偏重しております。そのことは作者に大変申し訳なく思っております。

10699 : ほっそりとくびれた腰  lalita ('18/09/01 00:00:12)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_416_10699p
タイトルはこれまで読ませていただいた作品の中でも一番いいのではないか、と思いました。ほっそりとくびれた腰、ですからね。読み手は「話者」の近くにいるだろうその女性の腰へと向ける眼差しというものを想像しやすいです。或いは、そこからどのように展開されるのか、どのような転調が待ち受けているのか、という期待も抱かせることができそうです。ただ

俺は人生を生きるんだ。

から唐突に作者のワールドに突入してしまいます。僕は作者のワールドなんて言葉を良い意味で使ったためしがなくて、要するに、作者の頭の中では自明なことと思われる言葉、というものと読み手の想像との距離が離れすぎているという意味です。ちなみに何度もこの選評で繰り返しておりますが、作者独自の感性、独特な在り方、というのは詩にとってものすごく重要なことではあります。両極端な話をしますが、「とりあえず読んでもらおう」という意識にとらわれすぎて、単なる記号の受け渡しにしかなっていない詩と、「俺の世界を書くんだ」という意識にとらわれすぎて、言葉の受け渡しをおろそかにしている詩と、これはまあ極論ですが、あると思っていまして、今作は後者の傾向が強いのかな、と思いました。おそらく作者は強すぎるくらい個性的だと思うので、詩を書く際にはどちらかというと、とりあえず読んでもらう、ということを強く意識された方がよいのではないか、と思いました。

10740 : Wheel of F F F FFFF For tune  ゼンメツ ('18/09/12 21:36:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_271_10740p
夜に高速を走っていると、目に映る灯りが進む方向とは反対の方向に滲んでいく、そんな光景を思い出しました。例えば

ヤマザキモーニングスター。陰鬱な鈍色の空に鉄でできた星々が飛んでいく。

パンでもあり宵の明星でもあり、世紀末に誰かが持っていそうな武器でもあるけど、もうそういうの全部ひっくるめて、進行方向とは反対に滲んでいく。ヴァンガードやら黒人やらダイソーやらそういう気になるワードが突然現れては滲んでいく。なんでこんな書き方をしたのかはよくわからないのですが、最後に

その手のなかで、何もかもが枠にはめられていく。だから頼む。

とあって、なんとなくその「スピード」に依存する書き方というものの根拠が見えてくる。ただ、僕がいまいちこの詩にのれなかったのは、次々と過ぎ去っていくものがほとんど余韻を残さずに消えていってしまったことだろうかな、と思いました。かっこいいフレーズはたくさんあるんですが、例えば

行こう。もう星なんか探さないでくれ、カーブを曲がれなくなる。

こういうフレーズはただ単純に痺れますね。「この手の詩」という言い方が正しいかわかりませんが、この手の詩で僕が一番好きな文極の詩をあげておきます 一条さん『あほみたいに知らない

10758 : 猫島  紅茶猫 ('18/09/19 10:00:07 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_508_10758p
率直に申し上げて結構好きです。特に僕は「シンク・ソウ・グッド」と「サーカス小屋」が好きでした。この手の詩って感性に刺さるかどうかな気がしますが、この作品ちゃんとフックがあって、読み手の目線を意識している。
個別に全ての小題について語ることはできないですが、「シンク・ソウ・グッド」に関してはユーモアが効いていると思いました。

でも
たわしにしか見えなかった
僕は彼に
磨き粉をかけてみた。

ちょっとチャーミングでキュートですよね(語彙力が仕事してくれない)、それでそういう風に読み手をのせると例えば、

__(という)

などの読み手に投げ出した空白が、やっと読み手の中で意味を発芽しようとする、と思っています。僕は蛞蝓が這った痕として読んでみて、とても楽しかったです。
また、サーカス小屋ですが、視線の誘導として、逆立ち→つま先→左目と忙しない誘導と、短詩ならではの利器として、どこで区切るかによって意味がかわるっていう「読解の楽しさ」というのを短詩ならではの技法で実現していると思いました。

10761 : 約束  朝顔 ('18/09/20 18:45:34 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180920_541_10761p

世界へ
まだがんじがらめのあなたを
うつくしい樹の枝のように
ほどいてゆけ

美しいイメージだと思います。ここ二重のイメージがあって、「樹の枝が空間に伸びていく様子」と「がんじがらめ→ほどく」という重なりがあって、うまく詩的表現として昇華していると思います。そこでキーとなってるのが「あなたを」という一見「?」と思う使い方が読者を立ち止まらせ、注視させる効果を持っていると思います。他人から「あなた」と呼ばれうる存在ってしがらみでしかない、という潔さが際立っていますね。
レス欄でも指摘があるように、どうしても中弛みを感じてしまうところはあると思います。この場合「表現に凝る」というのはどうやってもうまくいかないだろうな、と思ってしまっていて、言葉と作者が近すぎて、うまく距離をとれないのだろうな、という印象を受けました。
最終連ですが

───ぎゅっと握りしめた
   赤ん坊の手が
   小さな葉のように

と冒頭と呼応していて、結びとしてとてもスマートだと思いました。

10750 : わが子  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/09/17 00:05:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_386_10750p
MOTHERを知っているとアイロニカルな余韻が際立ちます。二次創作の一つの強みとして、原作への思い入れを利用できるという点がまさにあって、そこはもう「技術」として認めようと思っています。ただテキスト単体での出来の良さってのはどうしても遡上にあげなければならない、ここ文学極道なので。
それで、作者の作品を読んで毎度思うこととしていつもワンアイディアなんですよね。それってかなりもったいないと思っているんですが、作者の、詩のマニアに向けて書いているんじゃないというスタンス(僕が勝手にそう思い込んでいる)からすると、むしろワンアイディアのほうが入りやすいというのはなんとなく思います。ただ、僕が想定する詩の「新しい」読者って今まで小説も読んだことないです、みたいな人ではなく、詩の周縁部に存在している方々なんじゃないかな、と思うことがあって、そういう人たちには受けないだろうな、とは思います。まあこれはただのスタンスの違いですね。
ちなみにundertaleはなんの前情報もなくやってるんですがまだ誰も殺してません。「ママ」はほんと泣きそうになりました。

10747 : 小さな里  イロキセイゴ ('18/09/15 02:42:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_344_10747p
んー、残念ながら全くといいほど読めなかったです。作者の作品に関して僕がいつもするアプローチは、いいな、と思うフレーズを最初に見つけ出してその周縁を埋めていくような読み方をするのですが、今回何の引っ掛かりもなく読み終えてしまいました。
或いは作者はそんな読み方をしないでもちゃんと秩序があり、論理があると思われているのかもしれませんが、おそらくそれは「作者ワールド」で閉じていると思います(これは仮定の話なのでお気を悪くされないでください)
作者の作風は文極では珍しいタイプの作品なので、是非もう一段階上へと昇華させてほしいと思っております。

10754 : 今朝  空丸ゆらぎ ('18/09/17 18:40:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_428_10754p

銃声で起こされた

うそん、と思いますよね。いや、もちろんブエノスアイレスあたりでは普通なのかもしれない。なんていう戯言はおいといて。まあでもここって絶対読み手は立ち止まる部分だとは思うんですよね。問題は立ち止まらせた後、どういった解決を与えてやるか、ということになると思います。或いは以下の詩句に接続させることも可能かもしれない。

創ってはいけない作品もある
街が一つ消えて 花が咲いた。

と深読みすると、この作品の中でフィクションと現実が混ざり合っているという読み方もできなくはない。ただ、かなりこじつけに近いと、僕自身感じてしまうくらいには詩文の中に根拠はないです。
もう一つの読み方として「君」の世界と「話者」の世界の対比を象徴するものとしての「銃声」というものを比喩として読むこともできますね。ただこれも同様に作中に根拠がないので、なんとなくそうかもしれない、という宙ぶらりんな気持ちにさせてしまうところがあるのかもしれません。
ところどころ読者を立ち止まらせる仕掛けがあり、それ自体はとても魅力的なことだと感じております。

10732 : 半端な歌  氷魚 ('18/09/10 06:14:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_136_10732p
言葉を無理に脱臼させている点が少し気になる作品でした。この作品に書かれている言葉というのは作者、あるいは話者の視線、ないし思考のベクトルというものが限りなく見えなくなっていて、それっぽい言葉を並べた、という印象を与えかねないと思います。言葉を相手に届ける方法として文脈化という技法があります。ひとつのストーリー(それはいわゆる物語ではなく、視線の動き、思考の関連的飛躍など)に沿って書くことで、読み手に視点を与え、少し無理のある言葉でも読み取ってもらえる、という技法です。
ただ同時に、言葉を脱臼させていくやり方って極めて上手に書くと結構すごい作品になることっていうのはえてしてありまして、作者の創作の意識として、そちらを志すのでしたらもうガンガンにフレーズを磨きまくるということになると思います。文極でフレーズだけで読み手を気持ちよくさせてしまうような作品だと浅井康浩さんの初期の作品など、参考になるかもしれません。浅井康浩さん『ヒバリもスズメも』もちろん、この人はフレーズだけの人ではないですが。
(あまりこういう但し書きは書きたくないのですが)
詩というものに最近触れた方だと仮定して書きますが、率直に言って光るものを感じます。作者だけの詩句というものを存分に磨いていってください、と思いました。

10744 : ある透明な  紅茶猫 ('18/09/13 22:32:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180913_302_10744p
巧いな、と思った点は冒頭

孤独という風船に
丸まって たゆたう

という表現なんですが、これ作者が想定している状況からいうとかなり制限された情報しか開示されていなくて、クエスチョンマークを抱えながら読んでいくことになると思うんですね。その読者の疑問符に対して、小出しに小出しに、どういう世界観を書いているのか、というのを開示していくので、文字通り「腑に落ちる」という効果があると思います。想像していただければわかると思うのですが、「人は風船の中で孤独に空を揺蕩っており」なんて出だしは、台無しだと思うわけです。
またショーペンハウアーじゃないですけど、この風船というものを皮膚と読み替えることもできて面白いなと思いました。ただ最終連なのですが、僕の読みでは「人の不幸で飯がうまい」じゃないですけど、そのたぐいの読みしかできなくて、それだと少し弱いかなと感じた次第です。

10734 : アドレス  コテ ('18/09/10 19:20:44)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_163_10734p
レスにも書きましたが、結構好きなんですよねこの作品、というかこの作者。そして巧いと思う。いや、何が巧いかって、キャラ造りですよね。アラメルモさんもレスで仰ってますが、これだけへんちくりんに改造された文章なのにこれだけ読みやすいって計算してないでやってたら奇跡ですよ。
それでこの作品ですが、インパクト重視なので中弛みが結構気になるんですが

ぼくの何もない寂しさに、平穏

といった材木を探し当てました

何もない感情が それが

天神のもつ袋の様になり

この日この日の景色が詰め込まれる

だから寂しくても安心なんだ

このラストがかわいいから全部許容したくなってしまう。さて僕がこの作品に言えることってだいぶ少なくて、というのもこのスタイルって今まで思いもよらなかった方法だったので、僕の索引のなかにうまい言葉がひっかかってくれないんですよね。ただもっと書けますよね? という期待はあります。ぜひぜひ期待しております。

追記
レス欄でまでそのキャラ貫くのは僕は別に全然気にしないですが、大分損していると思いますよ。というのもこの作風で次の展開を望むとき、多分理性的で客観的な部分も必要だと思うので、キャラが作品を引っ張ると同時に、作品の足も引っ張ってしまうようなことにはなってほしくないです。

10735 : 報い  霜田明 ('18/09/11 04:24:08 *15)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_173_10735p
まぁ、具体的な場面、あたかもそこにいるかのような人物造形というのを書いてみたらどうでしょう、というのは100万回くらい聞いているでしょうし、そのうえでこのスタイルをとっていると思われますので、繰り返すことはすまい、と思います。
思考の流れというものを詩とするときに、仮に文極的アドバイスができるとしたら、という仮定の話ですが、読者の読みをもう少し想定されてはどうか、と思います。例えば

言葉を通じて
人と和解することは
言葉と和解することだ

ここって読み手からすると、「んん?」となる箇所だと思うんですよ。作者からは自明のことで、さらさらと次に進んでいくのも当然のことなのかもしれませんが、少しここ客観的にどう読まれうるか、ということを想定して、思考の流れを「淀ませてみる」というのも手ではなかろうか、と思うわけです。僕自身観念的なことはさっぱりですが、読みの流れ、及び淀みにおいて読み手をコントロールしうる詩文ならば、おそらく読み手を惹きつけることができると思うんですよね。「んん?」と思わせたら、淀ませて、フォーカスをあてて「なるほど」と思わせれば、それだけで「読み」というのは「快楽」に変わりうると思うわけです。

10730 : 降りしきる  宮永 ('18/09/10 01:44:29 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_127_10730p

雨粒が
こめかみをはじく
雨だれが
肩をたたく
雨水が
頭頂からうなじをつたい
背中に流れ込むから
つくえのひきだしをあける指先が
中にある
削りたてのえんぴつを
濡らす

第一連を丸ごと引用してしまいましたが、こういう出だしは作者を信頼できる、というか。この詩をちゃんと読めばちゃんと見返りがあるだろうな、と予感させる。具体的には簡単なことですが、こめかみ→肩→頭頂→うなじ→背中→指先、という感じで濡れているわけですが、背中→指先というのはちょっと想像しないと具体的な絵を結びにくい。つまり手をだらんと下げた状態で雨水が背中から二の腕、肘、指先へと伝っていき、そこから引き出しをあける。そんなちょっとした物語があって、それを自然と「ちょっとした想像」のなかで紐解いてみる。詩の冒頭で読み手に、ん、どういうことだ、と思わせて、想像させて、解決させる。簡単なことだけど、効果的な技術じゃないかな、と思う。
同時に、もう一つの疑問がある。この人はどこに立っているのだろうか、という話。もちろん引き出しがおかれうる場所に通常雨は降らない。この疑問は大事だと思っており、これを鮮やかに処理できれば、と、初読の段階でこれだけ考えさせるのはすごいと思いました。
続けて読んでいくと「あの日」というのがポイントになっていることがわかるが具体的な事柄は示されていない、おそらく「話者」にとって変えてしまいたい過去なのだろう。中盤は器用に書かれているが疑問に疑問を重ねていくのは相当うまくやらないと読み手を突き落としかねないという印象を持ちました。
そういう感じに読んでいくと5連で初めてこの降りしきる雨の正体(というか雨でなければならなかった理由)が明かされるのだけど、実際のところ、最初の疑問をぶつけられた段階での鮮度は失われていて、読めはするけど、それが快い感覚を伴うには時間が経ちすぎたように思われてしまった。

10752 : 彼岸と十五夜  本田憲嵩 ('18/09/17 12:18:46 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_412_10752p
ところどころ練度が足りていないと思われる言葉があるのに対して、構造がちゃんとしているのは好感を持てるところでもあるのだけど、少し物足りないと思ってしまう原因でもありました。例えば

ぼくら生者が光の太陽の輝いている世界

などの表現はどうしても読み手に悪い意味での警戒感を抱かせる要因になっていると思います(つまり言葉の扱いについて少々手を抜いているのではないか、という警戒感)。構造というのは、生きているもの、太陽、光。死者、月、夜、という対比が貫かれておりますが、そのこと自体がかなりありきたりに感じてしまうのはそのようなことがもう何度も繰り返し語られていたことの再演であるように思われるからだと思います。
序盤で生きているもの、太陽、光、とくるので、ある程度読み手は予想して読みをいれると思うのですよね。この手の作品は読み手の予想を裏切ってこそと思われました。

10749 : Sweet Rainny / Hole  玄こう ('18/09/15 23:58:40 *11) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180915_363_10749p
作者独自の悪文とも言える文章はこういう体裁にあっては悪目立ちすることなくほどよいアクセントとして機能していることにまず驚きます。

「あなたのことが好きです」長長と走り書きされた苦情の手紙にあった、不躾を悪く思ってか、唐突なそんな一言が添えられており一瞬面食らったが、

「不躾を悪く思ってか、長々と走り書きされた苦情の手紙の文中に「あなたのことが好きです」と、唐突にそんな一言が添えられており、一瞬面食らった。」たぶんこっちの方が「正しい」のだけれども、あきらかにこれだとつまらない。それは今生きている人間の言葉として本文のほうが素直に受け止めることができるからだろうと思う。
同時にこの場面は例えば表札も出さないような地域においてのなんらかの抒情というものにさして興味を抱きえない読み手に対してもちゃんとフックになっており、それならばちょっと読んでみようという気にさせるのではないかと思いました。

 今度は反対側の隣家の壁向こうからいつもの調子で、悪い咳をし台所で嘔吐する男の様子が伺えた
「大丈夫ですか?」
なんとなしに心配しながらも、

この場面なんかも書かれていること以上に情報量が豊富であることに注意したい。言うまでもないかもしれないが、壁を挟んでも聞こえる咳や嘔吐の音、「大丈夫ですか?」なんて、自室で「なんとなし」に吐いた言葉もたぶん向う側に聞こえているだろうという想像が働きます。そういったテーマと深くかかわっている、ある土地の居住環境というものを少ない言葉で、決して説明口調でうんざりさせることなく、描けていると思いました。

人びとの寝静まった夜に脚立を棟に上げ、まるで泥棒のように忍び足で、広い草原に転がったまるで獣の骨のように歪み、折れ曲がったアンテナを、ドライバーで解体した

ここは場面の転換(今まで周りの住人にフォーカスがおかれていたものが、話者の現在の行動にフォーカスが移る、と同時に野外に出るという転換でもある)なので、もう少し、ゆっくりと丁寧に書いてもよかったのかなと思いましたが、些末なことでしょう。

屋根の隙間の暗い影から、秋の音(ね)の蟋蟀が、恋歌のごとく立ち上っている

冒頭にあげた部分との関連ととってもいいかもしれないし、もちろん作者も恋愛という個人的な感情がこの場面ひっかかってくることは承知でしょう。それよりも重要なのは繰り返されているブルース(ブルーズって言いにくいのであまり好きではない)という言葉との関連として読めるということ。というのもブルースって基本的に恋歌なんですよね、デルタブルースあたりの初期のブルースをイメージして書いてますが。彼らは別段「ミュージシャン」というわけでもなく、酒場で歌うのがメインだっていうのはよく聞く話ですよね。(有名な逸話だとジョン・スリーピー・エステスなんかはストーンズなどの英国ロックがブルースを再発見するまで、ボロ小屋でギターも失い全盲になってた、という話がありますね)それで酒場で歌う歌といったら恋の歌か悪口でしょう。そんな1900年代初頭の黴臭くて下品で洗練されていない黒人コミュニティを彷彿とさせるような描写の中で「声とギターとそれを鳴らす指があれば十分だろ」なんて微笑んで見せるブルース奏者の笑顔が浮かんでくるような逞しさがこの詩句にはあると思いました。恋歌というのは人の生きるということのいちばん原初のさけびなのだろうな、と。
ちょっと脱線しましたが、屋根に上る、というストーリ上の転調において、フォーカスがまず解体すべきアンテナに移り、それが終わると、ふと蟋蟀の音に気付き、見上げると分厚い雲が流れている、という感じで、読み手の視線の誘導という点でも優れていると思います。
最終連は意訳というか、翻案と言っていいくらい原型をとどめておりませんね。この詩を締めくくるにあたって、ミューズという言葉はいささか唐突かもしれませんが、ここまできたら親切に、ここで「話者」が「作者」へと近づいていく、という風に読んでいました。
最初に悪文がアクセントになっていると書いたのは、この主題故のことと思います。文法的に正しい、ってのは思っているよりも重要なことだとは僕自身肝に銘じていることではありますが、その正しさに縛られていると、このような「恋歌」は書けないだろうな、と思いました。

10737 : 星を見る夢  ネン ('18/09/11 22:42:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_235_10737p

かじりかけのクッキー
冷めて沈殿したミルクティ

多分この詩で一番良いところはここだと思います。何故か。基本的に話者の視線、顔、生活、声というものは見えてこず、唯一見えてくるのがこの場面かな、と思ったからです。というのはまぁ少し意地悪な読みではあります。というのも何らかのメッセージ性はちゃんとあるんですよね。つまり社会のヒエラルキーに対する作者なりの「言いたいこと」ってのはうっすらとはあるのです。そして、この選評の別のところでも書きましたが、「それなら、それに関する著名な本でも読もう」と思われるか「それでも、この話者の見ている世界、そこから発せられる言葉がききたい」と思われるかによって評価は雲泥に分かれると思っています。
「この話者の言葉を聞きたい」と作者自身思う場面はどのような状況かちょっと想像してみてください。一番そう思わせるのに簡単なのは「友達の作品」ですよね。でもネットで公開するにあたって、みんながみんな友達ではありえない。そんななか赤の他人に対して「この話者の言葉を聞きたい」と思わせるためにはどうしたらいいか、ということを考えていただけたら、と思います。

10751 : 水  kale ('18/09/17 02:32:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180917_392_10751p
この作品に関しては全くと言っていいほど意味がとれなかった。これは完全に僕の能力不足です、申し訳ないです。じゃあ僕がこれまで全く意味がとれなかった作品を評定してこなかったか、というとそういうわけでもないんですが、(鷹枕可さんの作品は意味は取れるからこそ、批評ができない)この作品には僕が入れるサイズの入り口を見つけ出すことができなかった。もしこの作品に関して、もうズバリという批評がついた日にはぜひ報告してください。飛んで読みにいきます。重ねてせっかく書いてくださったのに本当に申し訳ないです。

10756 : 全て  陽向 ('18/09/18 03:34:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180918_452_10756p
田中宏輔さんによるごもっともなレスがついていたので引用します。

身近な題材から扱えるようにしたほうが詩は上達すると思う。
具体性

それで、僕も少し付け加えたいこととして、「身近な題材」というのはもちろん作者にとって身近な題材が読者にとっても身近な題材だと都合がいいですよね、と。いや、というのももしかしたら作者からすれば、この作品はものすごく身近な題材な可能性もあるな、と思ったので。せっかくこのような掲示板に投稿されるわけですから、読み手にとって「身近な題材」を書くことによってレスポンスも得られますし、もちろんすべてを真に受ける必要なんてないのですが、なかには本当にそれまでの詩観がかわるようなことを言ってもらえることもあったりします、これ僕の経験ですが。ぜひ活用してくださいませ。

10733 : 村上カルキン、立つ!  一輪車 ('18/09/10 06:32:10 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_138_10733p
10762 : 風葬おん泉湯けむりボ、慕情  一輪車 ('18/09/21 10:50:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180921_573_10762p
フォーラムにて大変厳しいご意見いただきまして、僕が作者の作品へ評をつける資格はないと思われますので、割愛させていただきます。(なお選評は書きませんが選考対象ではありますことご留意ください)

10759 : 心象?  TokyoNicotine ('18/09/19 16:30:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_516_10759p
もう一つの作品に比べて、喚起されうるイメージに乏しい故足場のなさがどうしても気になってしまう作品であります。砥石さんの指摘が厳しいながらも的を射ていると思います。こういう作品を書くに際して、「あ、崩してきやがったな、にくいぜ」って読者に思われるような、地の筆力が必要になったりしますね。もちろん作者にそのような筆力が不足している、なんてこと僕にはわかりようがありませんし、それは作中に示すしかないわけであります。まずは確認程度に心象ではないものを描かれてはどうかなと思います。逃げ道を断つということですね。

10721 : カツカレー 目蓋の裏めぐり  atsuchan69 ('18/09/06 09:08:12)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_761_10721p
笑いながら読みました。

この話、豚かつとカレーがマッチせなアカンのや
その角度から覗いてみたらやね

なんてちょっと視点をかえてみる素振りをしてみせてたはいいものの、なおカツカレーの話を続ける話者に清々しさを覚えました。これ、僕がそれほどカレーに詳しくないからこそひきたつ効果だと思っていて(もしカツカレーに造詣が深かったらふむふむ、と普通に読んだかもしれません)作者もさすがにご自身のカツカレー偏愛を読み手と共有されえないことは十分承知の上でこのような仕掛けをしているのはさすがだな、と。ちょこっとわき道にそれると断って牛カツカレーの話をしだしたときは「裏切ってきたな」という感覚がありました。
ただ同時にここまで確信犯的にやるならば、もっと仕掛けても良いのではないか、と感じました。ちょっと無理やりいちゃもんつける形になっているようでみっともないんですが、(カツカレーにそんなに詳しくないであろう)読み手に対して、「知らねーよ!」と感じるような細部への言及がもっとあったらより笑えただろうと思って読んでました。

10757 : SHORT HOPE  寒月 ('18/09/19 09:03:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180919_501_10757p
(文極のように)
という言及が「話者」を限りなく作者に近づけていると思いました。そう読むと途端良く知らない「話者」というものがちょっと親密になる、っていう点で巧いですよね。内輪すぎやしないかという反論ももちろんあると思いますが、僕はあくまで文極掲示板に投稿するにあたって、読んでくれるであろう読者はまずもって文極投稿者なわけですから、そこへの目配せというものに、作者の気配りを感じます。普遍的なものを書く前に、まず目の前の読んでくれる人へ捧げるということですかね。
それでこの詩の一番のポイントって

11本目の
SHORT HOPEを

ここでしかありえなくて。レス欄ざっと読んだ限り、ここに言及されておられる方一人もいらっしゃらなかったので(ゼンメツさんのレスは暗示的なので僕の都合でなかったことにしました)、僕が第一発見者ということで堂々と言うわけですが。(ちょっと鼻の穴膨らんでるの見逃してください)
もしこれ10本目だったら、この詩の意味合いってガラっと変わるんですよね。その場合、この詩ってとても健康的でなんだかちょっと明るい展望(というとちょっと大げさだけど)を見ている「話者」の姿が浮かび上がる。「ときどき」とあるから、それはそれで情けないことではあろうと思うのですが。11本目だからこそ、この「話者」の自虐というか人間らしさというのが妙に際立つ、という点で、書かれていること以上に情報量の多い詩になっていると思います。もし9本目だったり12本目だったりしたらこの詩って駄作以上のなにものにもなれない。何を言っているかわからない方はコンビニでSHORT HOPEを一箱買ってみるといいかもしれません。
作者らしい鋭い切り取り方をしてきたなと言う印象です。ただ僕が自分で優良を2作に絞っている(佳作はなし)せいで、このような素晴らしい小品を推すことができないのが歯がゆい。僕の都合でこんなこというのは作者に大変申し訳ないことではあるのだけど、こればかりはいかんともしがたいので、この選評をもって面白かったですと伝えさせていただきます。

10731 : カシューナッツと酒  萩原 ('18/09/10 02:50:52)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180910_130_10731p
滅茶苦茶書ける人が適当に書いたんだろうなと思わせる作品でした。固有名詞の列挙や、乾いた抒情、というのはイニシエの文極styleを想起させられます。僕は投稿掲示板の管理者権限を持っていないので誰かはわかりませんが。
適当に書いたのだろうな、というのは読み手の視線、想像の誘導がかなり雑な印象を受けた、という点です。もったいないなと感じたのは

スカートがベルトに引っかかっている女の子
教えてあげたいけど今日はこんな格好だから
あわせて来たのに意味もない
一人じゃキレイ過ぎる
チンピラでいたい
いつものチンピラでいたい
チンピラはいつでもロマンチックだ

ここですかね。優れた抒情の発露ですが、読み手の視線を誘導しきれてないので、なんとなく歯痒いというか、かゆいところに手が届いてくれない感じが残ります。
一連が巧い分、どうしても後半にいくにつれて粗が目立ってしまう作品でした。

10717 : (無題)  コテ ('18/09/04 10:05:49 *8)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_637_10717p
もう一つの作品と比べてしまうとどうしても、手法と内容が一致していない印象を受けます。この作品の場合この語り口が、「読ませる」ではなく「読ませない」に振り切れちゃっているんだと。「読ませない」作品にももちろん傑作はあり、先月の選評で変態糞詩人さんの『空を貫いたぜ』にも書いたのですが、「読ませない」からにはそれなりの工夫が必要と思います。というか、「読ませる」作品よりも数倍高度な技術が必要になると思っています。今作は、レス欄で多く指摘されているように出だしのつかみが良かったり、良いと思われる点も多々あったので、その分ちぐはぐな印象を受けてしましました。

10724 : 大人心と、ときどき恋模様  あるく ('18/09/07 00:15:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180907_849_10724p
作者の心の内をとても素直に出力した、という印象です。陳腐、と言ってしまうと誤解されるおそれがあるのですが、「陳腐さをうまく扱えていない」という印象を受けました。どういうことか、僕は作者の表現したいこととか、心の内をのぞき込んで、それを陳腐だということはもちろんですができません。陳腐さ、というのはどこから来るのか、というと、「心の内を素直に出力する」という方法に対して言われることであると思います。
ここからが重要なのですが、陳腐であることってとても大事なことなんですよね。陳腐であることを恐れて、表現をこねくり回した挙句、もはや読み手に何の感興も呼び起こさなくなったものが「現代詩」と現在呼ばれております(隙あらば現代詩をdisっていくイニシエの文極style)。なので僕が言えることとしては「陳腐さをうまく扱ってください」ということになります。具体的には素直に出力したうえで、何らかの違和感を与えるような装置を入れていく、或いは、自身の心の内にあるテーマをご自身の内部でもっと深めてみる(新たな視点を生み出していく)、或いはストーリー化してそこに人物を浮かび上がらせてみる、或いは具体性にこだわって何でもない細部を詳細に描いて見せる、などなど他にもいろいろなやり方があると思うのですが、共通して言えることは、一度ご自身が描こうと思ったテーマを自分から突き放して考えてみる、ということになります。「これを描きたい」から「これを適切に描くためにこういう手段をとろう」ということになりますね。
ここからは本当に蛇足なのですが、この芦野夕狩という筆名は最初は25歳OLが素直な心の内を日記のようにしか書けない人物として作ったものですが、僕も陳腐さをどう扱うか、ということに焦点をあてて最初は詩を書いていました。これとかこれとかですね。あえて詩的技法を一切使わないで書いたもので、正直お見せするのも恥ずかしい出来なのですが、陳腐さを調理する、という格闘の記録としてもし参考になれば、と思い紹介させていただきました。

10729 : 臆病者の歌  氷魚 ('18/09/08 23:55:45)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180908_048_10729p
懐かしい感情だな、と思って読んでました。いや、こういうのって若い時にしか書けないから大事ですよね。作中の「君」や「アオ」に関しては読んでいて恥ずかしくなるくらい思い当たる節があるのですが、「僕」の立ち位置が謎ですね。いや、謎というと語弊がありますね。そういう立ち位置って僕も知っているし、世の中にはあふれている。もっと違う言い方…実体のなさ、と言った方がいいかもしれません。読んでいて、なぜ「僕」はその立ち位置にいるのか、ということにピントが合わないということなんですね。「僕」ではなく「私」だったらすんなり読めたかもしれませんが(つまり話者は女性として)。ただ今の若い人たちって僕の若いころとは違うだろうし、女の子が一概にませてるとは言えないのかもしれませんね。
ぐだぐだ書いてしまったんですが、「僕」に関する短いエピソードあったら読みがかっちりつながるという印象を受けたということです。一つ一つの表現に関しては、光るところもあるし、若書きゆえの拙さが目立つところもあるしで、まだまだ磨き上げていくべきところはいっぱいありますが。描こうと思ったテーマをいったん突き放している点で好感を持ち、このまま磨いていって欲しいな、という印象を受けました。

10722 : symbol  完備 ('18/09/06 13:42:43 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_781_10722p
素直に面白かったです。既にレスしたものを引用します

一通り読んでみて、シンボルと思わせぶりなタイトルだったので、違う角度で読んで見ました。
完備さん曰く下品な読みになってしまうのですが戦争の詩とも読めるなあ、と。かなり無理やりですけどね。
そう読むと、作品内の世界が二重のニュアンスを持つようで僕としては、最初読んだより広がりのある詩だなって思えました。

なんでそう読んだか、ということから話したほうがいいかもしれないので書きます。

はるか反射する雲は奇妙にあかるく
星の代わりに視える飛行機はうらへ

違和感があったのはここ、「あらゆる窓はくらい」のにもかかわらず地上のひかりを反射して「奇妙に」明るい雲の存在。月のひかりならば反射ではなく「透過」であるはずなので、地上の灯りを想定しますね。「あらゆる窓はくらい」のだから灯っているのは街灯くらいでしょう、住宅地でしょうし。そうなると台風の夜に街灯が強く光るなんてことはないのだから、別の光源があると仮定します。そう読むと、「燃えているのではないか」という読みもできると思ったわけです。

  ここから視えるもの
  夜景だと思ったこと
  一度だってないのに

という言明は、普通に読んだ方が味わいがあるのだけれども(つまり同じ光景でも台風が過ぎたということが心理的に作用して違うように見える)「明確に普段とは違う夜景」という読み方もできる。

きみはときどきなにか云う
くらがりはその
すべてをささやきにして

この部分は、恋人同士の睦言のようなイメージが浮かびますが。僕のひねくれた読みだと、「子供同士の内緒話」という風に読めました。確か蓮見重彦とビクトル・エリセの対談で読んだんですが、エリセの『みつばちのささやき』って作品は原題は全く違うんですね。そこで蓮見が日本のタイトルは「みつばちのささやき」だということをエリセに伝えたら。エリセが少し驚いて、「スペイン内戦の時、親ははとても厳格で、子供は親が寝室の明かりを消したら寝ないといけなかった。だからささやきというのは当時の子供たちにとっては夜の空想的な時間においてとても重要なツールだった」(うろ覚え)と言っていたのを思い出したんですよね。ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』にも戦時中夜どうしても寝れないで動き回ってしまう子供をベットに縛り付けるという描写がたしかありました。そう読むと、いたいけな子供のかわいい好奇心のようなものも浮かび上がってくる。台風は空襲の暗喩で、飛行機は戦闘機になりますね、この場合。
だから僕がこの詩を読んだとき、その戦中の子どもたちのイメージと、それが成長して大人になって戦争が終わって恋人と静かに暮らすイメージが重なってとても豊かに読めました、ということを伝えたかったわけです。
なんでこんなことを書いているかと言うと、文極っぽい選評という縛りを自分で設けてずっと書いているんですが、ちょっと疲れてしまって、完備さんの作品にたどり着いたときは思いっきり偏執狂的な批評をしてやろうと決めていたので。作者からもうすでに否定されているのにもかかわらず大変失礼しました。

10716 : メイソンジャー  ゼンメツ ('18/09/03 21:27:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_626_10716p
いかにも読み解いてほしいといわんばかりの作品でレス欄にも作者も「中学生の国語」のようなつもりで書いたとレスしているので作者の意図に沿うように評を付けたいと思います。

問1彼女がメイソンジャーの蓋をどこかにやってしまったのは何故か答えよ
問2ピアスは現在どこにあるか答えよ
問3上記の二つの設問を踏まえてこの登場人物達のこれからの関係を答えよ

答1「僕」にメイソンジャーの中に手を突っ込ませるため

メイソンジャーに密閉するからには中に入った野ユリは乾燥させてから入れられたはずである、にもかかわらず「僕」がメイソンジャーの中を見たとき何故か「水」が落ちた花弁で濁っている、という描写がある。このことから、彼女はメイソンジャーの中に水を入れることで野ユリを意図的に枯らしたという推察が成り立つ。蓋を閉めておかなかったのは中に水分が入ってしまっていることが意図的だということがばれてしまわないためである。

答2メイソンジャーの底にのりで留められている

「僕」の「覚えているかなきみほら、前にプレゼントしたろ? あの内側にシトリンのあしらわれたピアスだよ」や「まあ、そういう意味じゃなかったんだけとね。……てかさ、あのピアスどうして着けないの?」という台詞、また「誰にだって年に一度訪れる平均日だとでもいわんばかりな。」という述懐から(しかもシトリンは11月の誕生石である)、彼のかなり押し付けがましい性格が推察される。このことにより彼女がプレゼントされたピアスになんらかの細工がなされているのではないか、という推測をしてしまうのはいささか病的ではあるがその蓋然性は否定できない。
しかし彼がメイソンジャーを見たときにはピアスがそこにあるという描写はない。その理由はすでに彼女がメイソンジャーの底にピアスを固定し、野ゆりの花弁で覆ったという推察が成り立つ。故に彼はピアスを視認することはできない。彼女は現在ある種の狂気ともいえる感情に支配されている。彼女にとってそのピアスは「僕」の「害意」の象徴のように思われてしまうのだ。「以前ジャー入りのサラダが流行っていた頃に、大小さまざま買ってきたものなんだけど。」という記述から彼女にはいくらでも実験のしようがあった。つまり彼女は「僕」に「自らの意志によって」メイソンジャーの中に手の一部を突っ込み、そのピアスを取り出させ、僕の「害意」はすべてお見通しだ、という復讐を企んでいるのである。当然のりは水分に強いものが使われているはずであるが、その成分の一部が溶けだすこともあるだろう、それが「水がほんの僅かにだけ濁っていて。」という記述によって証明されている。彼は最初に水道水でそれを洗ってしまおうと考えるが、そのなかにどうしてもこびりついて離れない野ゆりの花弁(とそれによって隠されたピアス)があり、それを自らの手で取りださざるを得ないのだ。

そのとき「僕」はあたかもオイディプスが自らの父親を殺し、母親を娶ったことを知った時のあの言いえぬ衝撃に打ち砕かれるだろう、と彼女は信じている。

答え3 何も変わらない

当然ではあるが、ピアスに何らかの仕掛けがなされているということは客観的には想像しがたい。仮に何らかの「害意」があったと仮定したとしてピアスをその手段とするのは意味不明である。彼女の疑念は杞憂に終わり、彼は少し驚いたあとに、いともあっけなく「なんでこんなとこにあるんだい?」と聞くだろうし、彼女は「だって百合しゃんがひとりぼっちでかわいそうだったんだもん…はわわぁ。」とかわいくいえば万事OKである。 

ただ一点

野ユリの刺さった目の前の

という表現は、まるであたかもユリのモチーフをあしらったピアスを彼女が今しているかのような誤った印象を読者に与えかねませんよね。(すみません。素直に面白かったと書いた方が良かったかもしれませんね。)

10728 : (無題)  俺の嫁知らんか? ('18/09/08 22:29:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180908_045_10728p
普通にうまいと思ったのは僕があんまりラップを聞かないからだろうか。
せっかくだから僕も絶妙のライムをぶつけてこのdisに応えたいところなんだけど、そろそろ僕も疲れてきてそんなことしている余裕がないのを申し訳なく思います。

20年ぐらい前からラップ好きなんだけどなぁ。
当時の鹿児島でラップやってる人なんてそうそう居なかったし、GLAYやらラルクやら普通のロックポップのバンドが流行ってて、ネットも未発達で、なおかつ中学生だったから仲間なんていなくて、1人だけラップしてるっていうね。

余談ですが、この話おもしろくて、是非鹿児島のラップ少年の哀愁漂うエイトマイルをキレッキレのレトリックで詩にしてほしいなぁという淡い願望を抱きました。

10711 : 伝える  黒髪 ('18/09/03 05:15:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_569_10711p

鶏と卵のどちらが先かは難しいけど
あなたが先だよ

こういう表現はドキっとするところがある、読み手の意表をついたいい表現だと思いました(作者がこういう読まれ方を想定していたかはわかりませんが)
全体としては先月と同じような感じになってしまうのですが、まず、具体的な物事に触れ、そこから沸き起こったものとしての考えを書くことがこのタイプの詩を相手に伝えるための最も有効な技術だと思っています。
ただそれだけだと先月と同じになってしまうので、もう少し、その点についてなぜだろうか、ということを考えようと思います。
この作品に限らず、思弁的な詩というものは読者に、「それならば、この詩じゃなくても、もっと著名な作家なり学者なりの本を読んだ方がいいのではないか」という考えが少なからず浮かんできます。この考えというものを否定するために、どうすればいいか、ということを考えると「どこぞの作家や哲学者の考えなんかより、この作者の言葉が聞きたいんだ」と読者をして思わしめれば、こっちのもんだと思いませんか? その一つの手法として、具体的なこと、つまり「話者」が普段生きていて、じかに観察し触れ、それについて思いを馳せる対象であるところのもの、つまりその作者特有のものを描く、ということになるだろうと思います。是非。

10741 : 夢は叶わない  陽向 ('18/09/12 22:04:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_272_10741p

夜は少し暑すぎたー
夜はとてもクーラー寒すぎた
お風呂に入って熱すぎたー
水風呂に入って寒すぎた

着想としては、ありがちかもしれませんがもっと広げられるのではないかなと思いました。このままだとどうしても走り書きしたものをそのまま投稿なさってしまった感が拭いきれないですよね。もう少し具体的に評しよう努力してみるのですが、このままだと
夜寒かった→クーラー入れたら寒かった→風呂入ったら熱かった→水風呂にしたら寒かった、
と、何の引っ掛かりもなく読めてしまうんですよね。今のご時世ネットにはたくさんの詩があふれているわけですから、どこかで(僕が一番大事だと思うのは序盤に)読み手が引っかかるところ、おや? と思わせる仕掛け、そういったものを入れてみると、作者が表現したかったことに読み手が追いついてくれるのかもしれません。

10738 : 心象?  TokyoNicotine ('18/09/12 00:41:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_237_10738p

仄青い戦火を掌握に砕き

のっけからイメージされることを拒むような書きぶりに少し戸惑うところがありますが、タイトルの「心象」というのが「これはあくまで心象ですから」と予防線を張っているようにも思えますね。
僕も文極で一度言われたことがあるのですが「ドレスダウン」というのを意識されてはどうか、と思いました。例えば

「重なりあえない地域だけ、沈黙になる」

等の文章がわりとキメッキメで、「もっと素顔がみてみたい」とか思うわけです、女性の方からは反発を受けるかもしれませんが。それで

秋、
落ちこぼれた葉の鬱積に
みずからを美しく崩壊した

こことかってかなり優れたイメージがあると思います。例えばこのイメージって、飾らない言葉の中にそっと挿入された詩句だったらもっとよかったのではないか、と思いました。

10739 : 呼吸・波の行方  空丸ゆらぎ ('18/09/12 19:16:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180912_268_10739p
先月も書きましたが「キラーフレーズ」路線を突き進む作者の心意気に痺れますが、一つ一つの言葉からはそこまでの鋭さを感じ取ることができませんでした。まぁただ僕はこの選評書くに際して徹底してオールドタイプを演じているので、今この瞬間に脳みそのムードを切り替えて別のこと書けてたら別の切り口で書いたとは思うのですが、ちょっと僕には無理な芸当なのでそこは申し訳ありません。

ひざっこぞうを陽にかざし 飛行機雲を一本ひく
西瓜の種をどこに飛ばそうが自由だった
あの頃はどうでもよいことなど一つもなかった
遊び疲れた子どもはくるくる回りながら子宮に帰る

ここは四方八方に書き散らしながら、一つの像を結ぶという見慣れた技法ですが、素直にうまいと思います。「西瓜の種をどこに飛ばそうが自由だった」という詩句は作者の詩的発見かな、と思います。

10736 : 詩情のない日記  北 ('18/09/11 21:16:28 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180911_227_10736p
前半部分とても面白く読みました。着想というか、視点が面白い点がまず一点と、ちゃんとその着想だけにおわらせないで、読み手のテンションをちゃんと保っているところはさすがだと思います。特に工具セットへと移って、男の面子に巧く着地するところはさすがだな、と思って読んでいました。
最終連、社長の歌と男の面子というのがどうつながるのか、いまいちつかめない点があったのです。具体的にここですが

コンドームに目薬をあわせ買いする男性の心理が、男の面子を失うことに照れながら崩壊してゆく理性であり、それが目薬だけに、どこか遣る瀬ない。

基本的に作者は読み手との距離をとったり近づけたりするのが巧いと思っているのですが、ここに関して少し距離が開きすぎているのではないかな、と思いました。

10707 : 殺させてくれたのに  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/09/01 23:58:36 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_489_10707p

確実に、僕は笑いながら彼女たちを嬲って
目玉をえぐって、空いた眼窩の内側を指でなぞって
倒れた背中を石で削って、華奢な背骨を露わにして

もうこの手の詩を書くからには、ぞわっとさせてください。と思います。冒頭にあげた部分ですが、多分この詩の中で一番ディティールにこだわった所だと思います。が、正直臨場感というものを感じられないというのがこの詩の弱いところなんじゃないかと思います。
発想自体はよくある詩なので、そこからどれだけ読者の予想を裏切っていくかということが全てになってくると思いますので。とことん凝ってください、と思ってしまいました。
目玉を抉った時の指の湿り気だとか、眼窩をなぞった時の頭蓋骨の凹凸の感触だとか、話者が本当に信じていることであるならば、こんな情報量で収まるわけがない、と。
いろんな方法があると思います。僕が今想定しているのは、先月僕が優良に推させていただいた湯煙さんの『じゃんぱら』のようなとことん細部にこだわる、ってやり方ですが。そういうやり方じゃなくても、この詩だったらもう一転覆させれますよね、とか。
ただ今書いているこの内容ってすでに作者の別作品で少しだけ触れていて『脳の中で』ですかね。僕はこの詩を読んだ時に「暴力的な言葉を強調しすぎて、逆に暴力的なイメージが遠ざかってしまっているように思えました。」と書いたんだけど、細部というのだけではやはり読ませきれない、というのも選評書きながら若干感じております。
僕が『脳の中で』の際に例示した作品は魚屋スイソさんの『踊り子トマト』(別サイト)ですが、この作品の技法は一般常識から考えると意味不明なものに対して、トマトという更に意味不明なアイテムを加えて、読み手の意識を行為への拒絶感からそらして、トマトへの違和感へと変換する、というようなことが言えるかと思います。
他にも探せばいくらでもこのような「出口」はあると思いますが、いかんせん自分がこのようなタイプの詩を書きなれていないので体系的に語れないのが申し訳ないのです。

10702 : あッ!  田中恭平 ('18/09/01 08:48:35)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_439_10702p

体を酷使して
どこまで疲れられるのか
人体実験

非常によくわかるな、と思ったところでした。疲れからなのか思考がうまくまとまらない様子をそのまま自動筆記のようなスタイルで書いている作品だと思います。
ただまあ淡いですね。淡いというのは作者の試みというものの淡さですが、或いは書道で言うところの作為/率意という言葉を思い出していました。僕も漫画で得た知識なので偉そうに語るのは恥ずかしいんですが、人に見せる作品として技巧を駆使した書を作意の書、そうではない、作品として残そうとするわけではなく自然体に書かれたものを率意の書と呼ぶそうです。
作者が俳句を書いていた頃も知っているので、なんとなく作意まみれの文章に対するアンチテーゼのようなことを考えていました。
ただ残念ながら僕は作意しか評価できないんですよね。前回宮永さん『Living』への評でも書いたのですが、作意はいくらでも共有可能なもので、いくらでも紐解いてみることができるのですが、そうではない部分ってたとえ良いと思えても、共有できない以上語るべきではない、というのが僕のスタンスなので。
僕としては2016年頃の作意と率意のうまくバランスのとれた作者の作品が一番好きだなと思ってしまいますね。

10708 : ヨナ、の手、首、  田中宏輔 ('18/09/03 00:01:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180903_553_10708p
これに関してはレス欄ですでに言及されますが、どもりながら発される言葉が物語全体をディレイして一つ一つの言葉の余韻、余白を強要する効果はあると思うんですが、それってお話自体がつまらなければ苦痛でしかないと思うんですよね。たださすがと言わざるを得ないのですが、当然のように読ませてくる。冒頭に述べたような効果がちゃんと有効に働いてくる。

たと、え、一片、の、榾(ほだ)、木(ぎ)に、さえ、なら、なく、とも、そそ、それ、が、そ、れ

が、息、子、を、乗せ、た、船、の、一、部、だっ、たか、も、しれ、ない

例えばこんな言葉は物語の大枠からは外れているけれども、この目配せが物語をより強固にしているように思います。どなたかが仰ってた気がするのですが、この読点によって区切られた言葉が最後の行為にリンクしている、というのは僕には読めなかった視点だったので、面白い読みだな、と感じました。

10723 : 当たり前の、  いかいか ('18/09/06 22:01:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180906_838_10723p
この作品に関しては特定の個人を揶揄しているため僕は選評をつけることができないことご了承ください。

10718 : 幽霊とあぶく  田中恭平 ('18/09/04 11:55:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180904_642_10718p
読み手をぐいっと親密圏に引き込む手法をとられていて、「読み手にとってこの文章が意味があるのだろうか?」という詩を読んでもらうための最初のハードルを「この作者は自分に語りかけているんだ」と思わせることにより突破していると思いました。
全体を貫く調子として、「自分を見つめている自分」(これが幽霊という言葉とリンクするかはわからないけど)という文章の流れがあって、例えば

すべて仕事を行ってできた痣、傷だけれど、捻くれた頭は、これを自分の勲章とか、誇りのように勘定してしまう。

そのとき俺は、五六時間は我慢した煙草をやっと喫えたときのように、法悦の顔をしているだろう。あほうづらだね。

というような具合で、読み手の読みを先回りして、ちゃんと拾っていく。ただレス欄にもある通り、それが自己完結として捉えられて、文章の余白がないと思われる可能性もあるが、僕はこの気配りというのは受動的に作品を受け取りたいときにはとても心地が良いと思った。ただ同時に、この手の技法を使った詩においては、どうしても最後、最終行でいかに何かを残すか、というのが肝になってくると思う。

窓から百日紅の花、ピンク色のかわいらしい花が視える。机に寄りかかろうとしたら、やはり体はがくっと崩れ落ちて、置いておいた仕事道具すべてが落ちてしまった。

抒情に流されすぎない、優れた締め方なのではないかと思いました。具体的に書くと
外界に見えるもの→その色彩(それまで詩文はどちらかというとモノクロの印象を与えていたのでこの色彩はハッとする)→話者の動作(がくっと崩れ落ちてしまうのは単に滑ってしまっただけではない、ということがこれまでの詩文の連なりに布石として打たれている)→その結末(この流されすぎない情景描写がこの詩の全体の連なりから逸脱せず、それでもなお言いえぬ余韻を与えている。)
こんな風に読みました。

10720 : 茶碗  北 ('18/09/05 13:43:03 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180905_681_10720p
作品内にレスをしましたのでそこから少し広げていけたらな、と思っております

sampleさんという方の『釣れないな』という詩をさっき勉強のつもりで読み解いていたんですが、
詩の中の動作に対して、描写の量が多くて、もう執拗なくらい多くて、それが「釣り」って題材とあいまって、物凄く時間がゆったり流れるという感覚を描写によって実現してたんですね。
この詩に関しても同様な時間のゆったりと流れる感覚を覚えました、言ってしまえばご飯を食べているだけなんだけど、それと共に流れている、或いは作中主体も感じているだろう、時間の流れを。
最終行が少し不明瞭で(悪い意味ではなく)、「かける」という言葉が、欠けるなのか懸けるなのかで全然意味が違ってくる面白さがありますね。欠けると読むと、なんだろう、すこし欠けた茶碗を使い続ける老夫婦のそれこそゆったりとした時間が想起されます。

※「かける」という言葉は懸けるへと直されているようです。
少し作品への評と言うところから離れます。これは是非作者以外の「詩的であろう」という思いに引きずられすぎて、感情の発露をそのまま言葉にしたり、観念的な言葉を突然(効果的ではない方法で)書いてしまうような方に聞いていただきたいのですが。
今作はわかりやすくそれとは違ったタイプの詩であることはわかっていただけると思います。具体的に言えば、この詩には場面があり特定の人物がおり特定の動作を行っていて、それに従属する形で修辞があるということですね。こういう詩を一度書いてみませんかね、というふうに思うんですよ。でもそれは皆が皆こういうタイプの詩を書くべきだ、と思っているわけではなく、こういうタイプの詩を書くと、その人の書きたい詩情が浮かび上がってくるんですよね。それをご自身で自覚なさるということはとても大切なことだと思いますので、このようなことを言っています。
本作ですが、僕が一番詩的だな、と思った部分は

両脇をしめ

というところでした。なぜか。この部分って前半部分の描写から、「あなた」の性格や、この二人の生活のゆったりとしたリズムのようなものがあり、いざ食事をする段になって、「両脇をしめ」という言葉が出てくる。この言葉ってすごく情報量が多いと思うんですよね。まず「あなた」の端正な、そして少し情け深い性格と同時に、このことを「見ている」話者と「あなた」との関連性、そしてその二人を包む静謐な空間、というような諸々を想起できるようになっている。「話者のフィルターを通して見えるもの」というのはとても独特である、と先月の選評で書いたのですが、その良い例だと思います。
それで、僕はそういう言葉に触れると、これは作者の偽りのない詩情なんだな、と感じられることができると思っていて。例えば、別の方がこのような詩を書いたとしてら作者の数だけ違った表現が出てくる。だからもし詩作で悩んだ時はこういうものを書いてみて自分の詩情というものに向き合ってみるのもいいんじゃないかな、と思います。
大分遠回りをしてきましたが、この詩に関しては僕は先月の『ぬけがら』や『牛乳配達員は牝牛を配る』ほどの評価はできない、と思っています。作者本人も十分承知でしょうが、これは詩情の根源であり、それをさらに読まれうるもの、というところまで持っていくには、先月作者が見せた「武器」の部分を存分に使っていただくことになろうと思います。

10705 : 空洞  霜田明 ('18/09/01 20:31:32 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_484_10705p
「熱いコーヒーを飲む」という実際の行為からしか僕はこの作品への評を書きえないことを申し訳なく思います。

僕は熱いコーヒーを飲みながら
現在という短さに保証された
ひとつの感覚的な確信を抱いていた
身体の中に広がる空洞は
空洞としての充溢を知っているはずだと

基本的に僕のスタンスは、「行為」と「思念」は結びついてこそ作品としての厚みが増すというもので、「行為」から生まれた「思念」、あるいは「思念」から生まれる「行為」というのは読み手に説得力をもって立ち現れるということです。残念ながら今作は、僕の批評の範疇で無理やり語るとしたら、「行為」と「思念」はそれほど強固に結びついておらず、「思念」が単独で何も紐づけられていない歩のように敵陣に突入しているような印象を受けてしまった。行為と思念が香先の歩のように連帯をしたとたんに、この作品の訴求力は何倍にもなるように思えました。

10700 : ごめんね。ハイル・ヒットラー!  田中宏輔 ('18/09/01 00:15:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_417_10700p
先月の引用詩よりも今月の作品の方が僕は頭の中でイメージをたやすく展開できて楽しく読めました。そういう風にうまく作品に乗せてもらうと例えば以下のような

きみの引用しているその
(ディクスン・カー『絞首台の謎』7、井上一夫訳)

海は
(ゴットフリート・ベン『詩の問題性』内藤道雄訳)

どこにあるんだい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』?、木村榮一訳)

という詩句も、合わせ鏡のように無限に「引用」という言葉が像を結んでいく。ある種のめまいにも似た感覚を得たことはこの引用詩という形式ならではの効果かと思います。

10703 : CarbOnatiOn  kale ('18/09/01 13:46:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_460_10703p
本当に作者には申し訳ないのだけれども、読んであることを思い出していました。まぁあまり文極にとって「幸せ」な歴史ではなかったかもしれませんが、浅井康浩さんがスタッフだったときに、月間低劣ポエムを実際に張り出してブログで酷評していた時のことですね。ここで書かれているアクション/テンションの差異について思い出していました。

アクションをどんどん重ねていっただけでは、読み手は、まずもって興味を示しません。
テンション、って何?って話は、単純にいえば「読み手」に続きを読みたい、という思いのことなんだけど、

さすがに注釈しておきたいのだけれども、このテンション/アクションというのはどうしようもなく読み手、つまり僕の読む能力に左右されてしまうということはご留意いただきたい。そのうえで敢えて申し上げると、この作品は「書ける」人が往々にして陥りがちな、「アクション」を磨いていった結果、「テンション」というところに気を遣る事が出来ていないように思いました。

10706 : 境界が無い  るるりら ('18/09/01 22:31:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_486_10706p

風がすこし強まるたびに
指先が
ちりちりする

おや、と思わせる導入ですよね。何かを想起させるようで、読み手にはまだ空白しか渡されていない状態で具体的な描写へと移っていく。読み手は冒頭に挙げた詩句が頭の中にあって、それとの関連性を探りながら、続く詩文を読んでいくことになろうと思います。

わたしの指は ちりちり燃えていル

なのでこういう追加情報(燃えている)を小出しにしていくことも、読者の疑問が無関心へと変わらないための配慮と言えると思います。読者を放りださないということですね。
さて、このような詩を書くときに必ず問題になるのは「お前誰だよ問題」かと思います。僕も一度文極に第一次世界大戦のアルゴンヌの森の戦いの戦死者を原爆と関連付けながら悼む詩を書いたことがあるんですが、見事に落選しました。僕も書いてて「お前誰だよ」と自分にツッコミをいれながら、結局うまい解決を見つけ出せませんでしたね。
今作に関しては、部分的に、そのようなツッコミを回避しうる叙述のされ方をしていると思いました。つまり冒頭から具体的な場面を重ねていって、読み手に「知らぬ間に」そのようなテーマに片足を突っ込ませるという技法ですね。片足を突っ込ませた後、どこまで引きずり込むか、ということになってくると先述の「お前誰だよ」というツッコミが待っていて、押し付けがましくない描写が、巧みにそれをかわしている、とも思えます。
「部分的」と書いたのは、当事者ではありえない事実がテーマから作者と読者をどうしても遠ざけてしまうことに対してです。つまり作品の責ではなく、どうしようもないこと、と思っております。じゃあ全面的にそのツッコミから逃れえるような作品というのはどのようなものか、というと僕自身不勉強で思い浮かびません。
原爆でなく空襲ですが、そして詩作品ではなく書道の話ですが、井上有一の『噫横川国民学校』(※別サイト)を思い出していました。

ちなみに今作とは異なる、かなりトリッキーなやり方ですが、こういう重いテーマに巧くふれている文極の作品に進谷さんの『足フェチ』があります、が、作者が意図する詩情とでは全く異なるものだろうとは思っております。

10704 : 神様の子ども  ネン ('18/09/01 13:47:52)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_461_10704p
先月と同じようなことになってしまうと思うのですが。「それが読み手と何か関係あるのでしょうか」という感想を抱かせやすい作品になってしまっていると思います。例えば、小林秀雄の『蛸の自殺』とかのモチーフを引っ張ってくることもあるいは可能なのかもしれませんが、それはかなり親切な読者ですね。
基本的に読者は親切ではない、というのが文学極道的な考えです。どういうことかと言うと、読者は基本的に作者には何の興味も持っていない、ということを前提として、いかにその読者を惹きこむかということを文章中に実現してくださいね、ということになると思います。

言葉に形を与え
色を付ける

最初の詩句ですが、発想としてとても独特な書き出しであると思うんですよね。いや、もちろん似たような言葉はそこらにあると思うんですが、言葉に形を与えたり、それに色がついたり、というのは何か作者特有のものを感じることは感じるのです。
そのような独自なるものができれば、「読者に開かれたもの」として表現されていたら、と思いました。

10701 : Bookish  黒髪 ('18/09/01 02:19:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180901_425_10701p
こちらの作品の方が良いと思いました。思弁的な言葉が溢れ出している点としては同じように読まれる方はいらっしゃるかもしれませんが、この詩には作者の眼差し、というものを感じられる詩文になっていると思います。具体的にはところどころ挿入される「話者」の過去というものが、詩文の中にあふれる思弁的な言葉をその特有な存在に紐づけしている、ということになります。ただの歩よりも香先の歩のほうが強いというわけです(どうやらこの表現気に入ったらしい)。
さて、一輪車さんの面白いレスがあるので一部抜粋します。

まあ、わたしもBookishな生き方しかできなかった幽霊のような
つまらない存在として一生を終えるのですが、
でも、人間てのは所詮、Bookishな存在で、どうあがいても、(六本木で
カクテル片手に踊っていようと、エベレスト登頂に挑んでいようと)
そこからは逃れられないのが実は人間だと思うんです。

これに対する作者の回答を見てみると、

Bookishこそは、人間の生きる力であり、
耽溺することに一番意味があるところですね。

と書かれております。これすれ違いが生じているわけですが、是非作者にはこのすれ違いがなぜ起きているか、ということについてより深く考えてほしいと思いました。それはこのbookishというテーマをより深く洞察するきっかけになると思いますし、何よりこの距離が作者自身の伸びしろなのだろうと、僕が思ったからであります。

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2018年8月 芦野月間選評

2018-09-24 (月) 02:41 by 文学極道スタッフ

芦野個人の選評となります

前書き

  • 理由あって優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
  • 理由についてはのちに告知スレッドのようなものを立てて、説明したいと思っております。
  • 上記の理由で優劣がつけられなかった作品に関しては私しか選ばないだろう、という作品を積極的に推挙しています。そのような「不当」な理由で落選となった作品に関しては作品の横にその旨付記させていただきます。
  • 優良、落選、順不同です。上から選評を付けていったので、上の作品ほど薄っぺらい評になっておりますことは大変申し訳なく思います。これからの糧にするつもりです。どうかご了承ください。
  • 一部の作者の作品(今月ですと鷹枕可さんの作品です)は私の批評の範疇から著しく外れているため、選評を付けることができませんでした、謹んでお詫び申し上げます。

10698 : 山  イロキセイゴ ('18/08/31 23:56:28)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180831_415_10698p

船具商と山という対比(船具商であった彼が山へ行ったという行為)がどのように描かれているのかまず一読して気になる作品であります。作品の短さとは裏腹に一読して読者におや、と思わせる仕掛けとして上手に作用していると思いました。
一方で魔界、死海、モネ、というワードが読んでいるものを置き去りにしてしまっている感が否めませんでした。
私の浅い読みでは、 モネの座礁した船を描いた絵をまず想像し、彼の内的な世界(魔界)において座礁というイメージに関連した、いいえぬ恐怖のようなもの、或いは閉塞感のようなものが転機となり山というものが立ち上がってくるといった読みしかできませんでした。
イロキセイゴさんのスタイルは決して崩して欲しくないのですが、個人的には読者をより引き込む仕掛け、導線のようなものがもう少し欲しいと思う作品であります。

10696 : Garden garden  紅茶猫 ('18/08/30 14:27:59 *4)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180830_372_10696p

正直に申し上げて全く読めなかった。というか僕の中にこの詩を読む感性が備わっていなかったと言ってもいいかもしれない。

L字型の空に
賞賛を浴びせよう

こんな風にドキリとするような言葉はあるのだけれど緊張感が続いてくれない、と少しもやもやしました。
僕だったら、多分上記の言葉の外堀を埋めるための描写を連ねるだろうし、作者が一番読んでほしい言葉に読者がたどり着くまでどんな姑息な手を使ってでも、「この文章はあなたにとって意味のある文章です」というポーズを取り続けるだろうけど、それでこの作品が表現したかったことが実現するか、というと全くそうではないのではないかというのが、このもやもやの原因なのだろうなと思います。

10693 : 夏のどこかで  山人 ('18/08/28 18:29:33)
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幼い頃に恋心を抱いた相手を「君」と読んでいたのですが。いまいち判然としませんでした。
「今そこにいない誰かを想うこと」というのはそれ自体が読み手の情感を刺激する便利な道具だと思っております。実際にこの詩も語り手と君との間にある想いの糸を想像しやすいようになっていて、その点スッキリと頭に入ってくる、という点で良い詩だと思います。
ただ一方、詩情という観点から申し上げると、やはり独自の表現、つまり「今生きている作者」からどうしようもなく漏れ出でてくるような表現が少ない分、心に入ってくるものがそれほど多くなかったという印象はぬぐえませんでした。
父子の関係ということを知って改めて思ったのですが、詩の中にそのことを明記するようなことは必ずしも必要ないかとは思われますが、それが実体となって自然と現れてくるような肉感のある詩を読みたいと思ってしまいました。作者の他の作品を知っているからなおさらですね。

10689 : crush the sky, pop'n'sky  アルフ・O ('18/08/23 23:28:42)
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「そらをうつ」という導線があってどこまで読者をひっぱれるか、という感じで読みました。
こういう詩の場合、読み終わった後に、読んだ人が「確かにこれはそらをうつとしか表現しえない何かをいわんとしている」と思うか「あーなんとなくそらをうつって言いたかったんかな」と思うかで大分評価が分かれると思います。
前者だと単純に良い詩という評価に落ち着くと思いますが、僕は後者だった。
ただもちろん後者のタイプの詩が悪いものか、というと必ずしもそうは言いきれない部分もあって、そういう詩で読ませる場合、必ずといっていいほど必要になる技術があると思っていて、「言葉が良い意味でうわ滑っていく感覚」を読者に与えられるか、ということに尽きるのではないか、と思っています。

10680 : 狼  青島空 ('18/08/16 17:44:15 *2)
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初初しいモチーフであるとともに、「ああ、またこのパターンの詩ね」と思われがちなモチーフかと思います。
ただ読者にそう思わせることって作者からすると、チャンスでもあると思うんですよね。
優れた詩を読んでてありがちなことですが、「予想に反する」というテクニックは往々にして効果がでかいです。
この詩の場合、読者が心のうちで予想したモチーフが、予想した通りに展開して、予想の範疇に着地する、となっていて、なんとももったいないなぁ、と思ってしまいました。
「予想に反する」というのはもちろん「展開」という点で、ありえない展開にしたりすること、というのもありますが、僕はそういったタイプの詩であまり効果を得ている作品に出合ったことがなく
むしろ、もっと文章の端々に違和感を挿入する、読者に、「予想通りの内容なんだけど、なんだか自分はとんでもない読み間違いをしているのかもしれない」と思わせれば、ほぼほぼ勝ちなんじゃないかな、と思ったりもします。
とにもかくにももう少し、登場人物を自分から突き放してみては、と思う作品でした。

10692 : 賢人の浅はかを強くありませ。  コテ ('18/08/28 12:19:46)
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正直選考でなかったら、通して読もうとはしなかったと思う。けれど通して読んでみて、輝くような詩句が隠されていることに気付くと選考も悪くないな、と思えますね。
例えば

それもまた、世間的には不自立で恥ずかしいことだったので、因しない跳ね返るように抑えられない現実逃避や砕かれた自尊心の固まりという、死にきれない恩情はパリや、ミラノのファッションに転げアガった。光を食べたかった。光に包まれ、愛を確認する。表現する。構築する。彼には二度も逢いたくない。存在したい。

僕はこういう自然な会話ではない、というか誰かに何かを正確に伝ええること第一義としている言葉とはまた違う、うめきのような言葉の発露が好きです。
ただ本当にもったいないと思うのが、やはりどれだけの読者がこの言葉に出会うまでこの詩を読むだろうか、という疑問と、このような制御不能な言葉を紡ぎだす話者が、途中まで理路整然と話していたらやっぱりそれはそれで違和感があるのだろうな、というジレンマに悩まされる。
結論としては終わりに近くになるにつれてしりすぼみ感が否めなかったりで、輝くところもあるけれど…という評価になってしまいました。

10649 : ルイーニの印象  鷹枕可 ('18/08/04 21:35:23)
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10697 : 死の糧  鷹枕可 ('18/08/30 19:35:14)
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鷹枕可さんの作品に関しては、良い意味も悪い意味もなく、お手上げ状態です。
大変申し訳ないのですが、この作品に関しては他の選者に委ねるほかないと思っております。

10690 : ぬふふ  白犬 ('18/08/24 05:20:29)
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極めて個人的な話になってしまうのですが、僕が最初のころに書いてた詩の体裁と極めて近いんですよね。なので思うところは多々あるのですが…
ほとんど迸るように流れ出た言葉をそのまま書き連ねて、読者に対して自分がその言葉を紡ぎだした時と同じくらいのテンションで読め、というのは土台無理な話だと思います。
だから文極では技術、技術、とうるさいように言われてると思うんですが、技術って、結局のところ読者を作者と同じステージにあげることだと思っています。そのために重要な意識として「この文章はあなたにとって意味があります」ということを、読者に植え付けることであり(親しい相手から自分に宛てられた手紙ほど気になるものはないんじゃないかなってたまに思います)、そのために、技術を使うと思うんですよ。一番わかりやすいのって感情移入ですよね、ストーリーラインってやつです。他にも、緊張感だったり、違和感だったり、嫌ほどありますが、自分が表現したいことなんて後回しでいいから、まずは同じステージにたってもらおうよ、と思うわけです。(改めて書いてみるとせこいですよね)
それで、僕はこの詩好きなんですよ。

耳が祈りの形をしていること(キミに教わった)

特にここが、なんだろう、前半言ったこと全部飛び越えて刺さってくる感じがしたんですよね。
だからこそもったいないな、という思いが強かったんです。

10682 : 待望  霜田明 ('18/08/17 11:11:17 *1)
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君と

コーヒーカップとを

見分けられなくなる

そんな日が来る

そんなまさか、って思いますけど、続けて読んでいくと、話者の君に対する想いのあまりにも複雑な様子への、ある種の皮肉なのではないか、とも読めてくる。いやもちろん冗談なんですが、あまりにも思考のなかへなかへ籠っていく様子にどうしても息苦しさを禁じえなかった。例えば、その二人の間には椅子が転がっていてたまたま西日の差し込む関係でなんか超絶独特な感じの影になってたことにしませんか? とか 何気なしに点けたテレビの中でニュースキャスターがうっかり原稿を読み間違えて、超絶それっぽいこと言ってたことにしませんか? みたいなことを言い出したくなるのですが、多分、それはこの作者にとって「純粋ではない」ということになるのではないかな、と思えてしまう。
ただあえて踏み込んでみるとしても、具体的なもの、身体的なもの、書きましょうよ。
ということしか僕には言えないのが残念だ。

10683 : 少女は歌う  トビラ ('18/08/18 16:41:51 *6)
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特に、文章の体裁について、つまりこの詩文がかなり散文的だ、という点においてこの作品の評価を下げたということは事実としてない、ということはご留意されたし。
はっきり言って文章は僕なんかより断然うまいと思うし、読者に対する導線の引き方、申し訳程度ではあるけれど、ストーリー内での転調、など最後まで読ませる文章にはなっていると思う。
ただ残念ながら「何も残らない」という感想が一番先に来てしまった。
ここからは一般論にしかすぎないのですが、このようなショートショートを読ませるためには大まかに言って2系統の技術があると思っていて、
一つは単純にプロットの完成度をあげる、ということになるだろうと思います。別に文章の中にもっと強いメッセージを埋め込むという方法だけではなく、余韻を残すやり方であったり、読者に絶えず緊張感を与えたり、とにかく読んだ後に、誰か友達とこのお話についてあーだこーだ話したくなるような仕掛けを作れればしめたもんじゃないかな、と思います。
もう一つは、文章自体をどうにか読者にとって気持ち良いものにしてしまう、という手段です。もうとにかく読んでいて気持ちがいい、ある意味で「何も残らない」という点では一緒かもしれないけれど、そんなことどうでもいいくらい読んでいる時の浮遊感がたまらない、というような。どんな形でもいいですので、読み手に対して何らかの作用を起こすような文章というもの意識して作ってみては、と思う作品でした。

10684 : (無題)  コテ ('18/08/20 23:06:36 *17)
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「どうですかな」
から始まる数連は、僕としては(自分としても意外にも)美しい文章に(最初は)思えた。何故かな、と考えてみたんですが、
古典的な戯曲作品を読んでいても思うことなんですが、泉鏡花という作家が個人的に大好きで、いまでも読み返します。それで、戯曲って基本的に説明文が入らない、登場人物の会話と会話の連なりですべてを想像させるってやり方をとると思うのですね。それで、本人同士は顔を突き合わせているから、それだけの言葉で通じるかもしれないが、第三者としてそれを読んだ時に、どういう意図なのだろうか、と迷うことってあると思うんです。で、それを読み解いた時に同時に頭の中にバシっと入り込んでくる、登場人物の顔色や仕草、その他もろもろがとても気持ち良いんじゃないか、って。少しだけそういうのに通ずるところがあるのかな、と思った次第でした。
すみません話がだいぶそれましたね、この作品に関してはそういうバシっと入り込んでくる瞬間ってのはなくて、そういうの勝手に僕が勝手に期待してしまったというだけの残念な構図なんですが。それは決して作品の責ではないですね。
うーん、、やはり、大仰に行空けされたそれぞれの詩句にそれだけの力が宿っているとは思えなかった、残念ながら。
9月に投稿されたコテさんの作品を先取りして読んでみて思ったことではあるのですが、まずは小品と呼べるようなものから書いていって、そこからまた独自の言語空間に挑まれていった方が良いのではないかな、と思います。

10691 : 事情  ゼッケン ('18/08/25 11:55:28)
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鈴屋さんの『夜行ドライブ』って作品を思い出してました、懐かしい。
言うまでもなく僕より巧い書き手なので、プロット、語り口、云々、特にこうしたら、なんて思わないんですが、どうしてもやっつけで書いたんじゃないかな、って思うところが多かったです。
木とセックスする男、自分を盗撮してほしいと頼む変態な後輩、いや、初読は笑ったんですけど、最後の一行を読んだ後にその言葉を踏まえて改めて読むと、なんというかそのために出しただろ感が否めなかったです。
文学極道に投稿される、良い意味での「ほんとどうしようもない話」の系譜で語るとするならば、そういう作品って読み終わった読者に、「うん、なかなか良くできたプロットだった」なんて思わせたら負けだと思うんです。
そのどうしようもなさに、もちろん笑いながら、読み終わった後に、何故だかわからないけど、もうどうしようもないような共感とか、気分の落ち込みとか、とにかくもう言いえぬ読後感みたいな、そういうの巻き起こしてなんぼなんじゃないかな、と。
とはいえ、そんな作品なかなか出会うことないですが。文極だとリンネさんの『しかもな、梶原がおらんねん』とか大ちゃんさんの『糞迷宮』だとか、この作者にこのような例示が必要だとは思っていないのですが、僕の方もできるだけ具体的に語りたいと思ってるので「参考にしてください」なんて全く思ってないけど自らの選考に責を負うという意味で例示だけしておきます。

10695 : 詩五篇  朝顔 ('18/08/29 21:19:53)
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「教育」 と題された作品は、正直すごい技術だと思いますし、できればこの技術を使って、他にもっと長いものを、と思ってしまう自分がいます。
もうここに至っては、単なる感想であることを隠す気もないのです。いかにも素直な詩の体裁のような気がしますが、僕は個人的にガルシアマルケスの『予告された殺人の記録』を思い出していました。
いやもちろん、全然ちゃうやん、という突っ込み待ちなんですが。なんというか、読者の読みをコントロールしているんですよね、それ自体が良いことか悪いことかはわかりませんが、ネット詩という、ほんと人によっては電車の中吊り広告くらいつるっと読んでしまわれる可能性もあるものにあって、読者を立ち止まらせる技術、というのはかなり重要なのではないかな、と。
ただ残念ながらその他の四編にかんしては上質な稲葉うどんみたいにつるっと読んでしまい、強くは残らなかったです。
ただじゃあ、教育単体で僕がこの作品を手放しでほめられるか、というと。そういうことでもなくて。僕がこの作品に見出したのは、本当に素晴らしいと思える技術であり、いわば、名作と呼ばれうる絵画の最初の数タッチのような。そういう風に捉えてしまいました。

10694 : Ooze  アルフ・O ('18/08/29 08:06:25 *3)
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最初に断っておきたいのだけれども、僕にはこの作品を享受できる感性が備わっていない。
どうしてもそれっぽい言葉の羅列に見えてしまうし、読者を作品内に引きずり込むフックのようなものを感じることができない。具体的な場面は一瞬読者を惹きつけたかと思うと、次の瞬間霧散してしまう。
ただ最初に断りをいれたのは、ある読者にとってはここに書かれた言葉らは強烈なフックなのかもしれない、という印象をぬぐいきれない。
僕は文極だと紅月さんという作者の作品が好きなのですが、じゃあ、どういうところが好きか、と聞かれた時に、「とりあえずよく分かんないけどもう限りなくクールなんだよ」とそう答えるのが一番自分にしっくりきてしまうのですよね。アルフ・Oさんの作品に対して、「よくわかんないけど限りなくクールなんだよ」という人が現れたとして、僕はたぶんそれを否定できない。
じゃあなぜアルフ・Oさんの作品に対してだけ、そのような言明をするか、と言うと、僕の中にこの詩を享受できる感性は備わってはいないけれども、完成度という点で少しだけ優れているような気配を感じたという曖昧なことしか言えないです。
すみません選考って難しいですね、とかいう甘えたことをちょっとだけぬかしておきます。

10687 :  Livin’Suicide  玄こう ('18/08/23 01:12:55)
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炸裂した色づく陰が外耳に掠める

作者に対する信頼、というのは文章を読むにあたって必ず発生する事象だと思っていて、もっと具体的に言うならば、上記のような詩句を果たして本当に作者は頭の中にイメージし、それを伝えんがために選語を繰り返して、この言葉を選んだのか、という疑問と言い換えてもいいかもしれない。残念ながら僕は上記の詩句を読んでそのような信頼をすることができなかった、あまつさえ適当に言葉の上っ面をこねくりまわしているのではないか、という不信感を与えかねないとすら思った。
もちろんそんなことは作者の中にしか正解はないのであるが、「あたかもそう思わせる」というのが僕が何度でも言ってしまっている「技術」という言葉になる。
逆に読者を突き放す技術というものもあるが、それは読者を突き放しながら、それでも読み手に読む必然性を与え続ける技術と言い換えることができると思う。詩は決して伝えることがすべてではないと思うのだけれども、こうしてネットという公の場にだし、読み手というものを求めるからには、「伝える」ということにもっと重きをおいてもよいのではないだろうか、と思う作品だった。それは作者のなかにある詩情というものに近づきたいと思うからこそ、もったいない、と思ってしまうということを留意していただきたい。

10688 : 位相  イスラム国 ('18/08/23 15:25:14)
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正直なんでこの発想をこんなぎこちない風に書いてしまうんだ。という思いはありました。今もあります。
ただじゃあ、この詩を限りなく肉付けして、ショートショート風に展開して、それで面白いか、と聞かれるとくそつまんないだろうな、という思いもあり、作者もそれがわかっているが故に抑えた文章にしていると勝手に想像しました。難しいところではあると思うんですが、そこを飛び越えてくるような作品に出合いたいな、というのが無茶を言うようですが本音なんですよね。それが僕にできるかって問われても確実にできないだろうけど、「抑える」ってやり方に関してもっと色々なアプローチをしてみてはどうだろうか、というのがぎりぎり僕が言える範疇の言葉じゃないかな、と思うわけです。「ショートショート風に展開して」っていうのは「抑えない」って意味でかなり極端な話ですが、なんだろう、この作品にはもっとふさわしい出力の仕方があったのではないか、と読んでいてとてももやもやしてしまう点でした。

10681 : 運命  いけだうし ('18/08/16 20:25:04)  [URL]
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最後読点で終わっているから、運命というタイトルがそこに挿入されることによって、この文章自体が劇的な変貌を遂げるのかな、とちょっと期待して、運命。と挿入してみたけれども、そんなことはなかったですね。話者は便意を催しただけなのに、それを目が合っただけで全てを悟り、タイルの上で全裸で勃起しながら横たわるというのは、確かに運命的行為なのかもしれない、と妙に納得するところはありましたが。
「読者の予想」に対して裏切りを用意すること、ってのは往々にして効果が高い、ってことを、今月の選評ですでに書きましたが、もっと言ってしまうと、読者はもちろん裏切りも予想しているんですよね。特に話の展開ということに関しては、どんな意外な展開を持ってきてもだいたい、「ああ、そうきたのね」という反応が返ってきます。読者の予想を裏切る作者への予想をさらに裏切るという予想…と無限ループに突入しそうですが、その突破方法は腐るほどあると思うので色々試してみてください、と思う作品でした。

10679 : 空を貫いたぜ。  変態糞詩人 ('18/08/16 00:04:27 *3)
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読者に絶対にイメージなんてさせないという身振りで書かれるこういう詩は、結構好きなタイプの詩でもある。
この作品の場合、もうイヤってほど観念的なワードをこねくり回しながら、「空を貫いたぜ」或いは「帰結まみれになろうぜ」という限りなく陳腐な言葉で調子を整えていく、そういう感じで読みました。技巧的な作品だと思うし、こういうタイプの作品やっぱり好きだな、と思った。
ただのりきれなかった、トリップしきれなかった点として、地の文のパートがかなり単調に感じてしまい、後半に行くにつれて、予想の範囲内に収まってしまう。別に劇的な変化など求めてないが、もうワンアイディア欲しい、というのが読んで一番最初に思った正直な感想でした。
蛇足かもしれないですが文極で、この「突き放しつつ、抱擁する」タイプの詩で一番おもしろいのは吉井さんの『れてて』だと思っています。これの場合、読者の読みのぎりぎりを躱しながら、ってタイプの詩なので手法としてはちょっと違いますが、なんだろう、「突き放し方」として、今回の『空を貫いたぜ』は突き放した結果、読み手を崖からつき落としてしまって取り返しのつかなくなっている感、が否めないと思うんですよね。いや、突き落としてしまったらもっと強烈な方法で抱きしめてしまえばいい、とも思うんですが、それだと今回の調子の整え方だとちょっと弱いな、というのがありました。

追記
フォーラムで元ネタに関して言及されてるのを読んで、少し書き足したくなりました。
とはいえ感想はほぼ変わらないんですが、元ネタの文章は結構お話し的にある種のインパクトがあるわけなんですが。そのお話し的なところを全部削ってもある程度読めるものになりうるという発見は作者の慧眼だったのではないかな、と思いました。

10686 : 綺麗な花が咲く夜の森/夜の庭  仁与 ('18/08/21 13:34:19)  [Mail]
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滅茶苦茶に素直に書かれていているがゆえに、(この場合素直というのはテーマではなく書き方ですね)どうしても読み手に対して、「あなたにはこれを読む必然性がある」と訴えかける力が弱い詩なんだと思います。僕は「罪悪感」という感じで読み解いたんですが、じゃぁそれでどうなったかというと、何とも言い難い作品になってしまっている印象を受けます。一応書いておきますが、作者の精神性が浅いだとか、そういった類のことを言っているのでは全くないです。要するに今、作者の手元にあるカードをいかに魅力的に魅せられるか、ということについて話しているのですが、これから「他人に読まれうる詩」というものを書いていきたいと思われているとしたら、是非心に留めておいてほしいのですが、「フック」というものをもっと意識した方がいいと思います。言い換えれば、読者を惹きつける仕掛け、というのを意図的に演出して、いま作者がもっている手札をもっと高い役だと読者に想像させてください、ということですね。作者にとって詩として表現したいと思うような、心の中の事柄って、他人にとっては本質的に高い役であり得ると思っていますので。

10685 : 名付け夢想する  イロキセイゴ ('18/08/21 03:12:29)
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個人的に作者の作品を享受する感性はぎりぎり備わっていると感じているのだけれども、だいたいいつも言葉にならない。つまり「あ、なんかいい」と思うか「あ、ちょっといまいち」って思うかの二択になってしまっていて、なぜそう思ったのか、というのを説明できないのをもどかしく思っていた。ただナンセンス詩って、それだけで敷居が高いと思うし、整然とした文章にならない自らの感性を、はいどうぞ、という具合で投げかけらる、というのは受け取り手としてはちょっと困る、ってのが本音なんじゃないだろうか。僕もナンセンスな詩ってよく書くけど、だいたい「読者をのせる」かユーモアってフックを使うことが多くて、作者のような言葉単位でのセンスでの勝負って、自分がはなから無理だと投げ出している分野なので、そこで勝負し続けること自体すごいことなんじゃないか、とは思います。
今作は、「あ、ちょっといまいち」と思ってしまった。じゃぁどこがだめだったか、と説明しだすと途端に白々しい。そんなんよりいつかこの手法で僕には思いもよらない詩を書いてもらって、あっと言わせていただきたいな、という思いの方が強いってことですかね。

10670 : もうなにもかも知らないし何も知らなかった  ゼンメツ ('18/08/13 11:54:12)  優良候補→落選
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(聞いた話、なんだか色々あるらしいので)今月はゼンメツさんには是非とも駄作を投稿していただきたかった、という思いはありました、だって選考するうえで嘘はつけないので。でも滅茶苦茶おもしろいもの放り込んできました。これはもう仕方ないですね。諦めるしかない。
なぜ面白いか。
1連目

そのまま、曖昧になった境界線が、欠けゆく夕陽のように小さく震えはじめ、僕は少しづつフローリングの下へ沈んでいった。って、なんだそら、

まずこの点に顕著だけれども、読み手の緊張とその緩和ってのをコントロールする技術が使われてて、「欠けてゆく夕日が震えていること」ってそれ自体僕は結構ドキッとするような発見だと思うのだけれども、そういう美しい比喩でもって読み手に緊張感というか、「読む必然性」を与えつつ、「フローリングの下へ沈む」で読者の頭の中に疑問符を浮かべさせて、「って、なんだそら」で緊張を解く、って手法ですよね。これ自体別に難しい手法ではないけれども、まず読者に読む必然性を感じさせる段階が一番難しくて、それを軽く超えてるという点が、この技術をより効果的に魅せているポイントだと思う。
2連目

けっきょく最初に思い浮かんだ名前がナナコで、それでなんかもうどうしようもなくなって、とにかくどうしようもなくて、つーかおっぱいだってけっきょくはブラ越し、制服越しの単なる想像で、ジッサイのところ恥じらうナナコが僕の前で制服をはだけて、これねサイズがあれだからあんま可愛いのがないんだとかどうでもいいことを言いながら、僕もそんなことないよすげー可愛いと思うとかどうでもいいこと言いながら、ホックを、そう、だって外すんだし

ここも単純に言葉のリズムでもっていかれます。というか思念と動作の塩梅って言った方がいいかもしれないですが、上っ面しかない言葉を並べつつ、唐突にホックを外すという実際滅茶苦茶重大な問題に突入させる、これは読み手にスピード感を感じさせる技術として成功していると思う。全体としては岡田利規の「三月の5日間」の模倣かな、って思う節もありましたが、作者特有のテクニックも存分に感じられると思う。

という具合で基本的には緊張と緩和、動作と思念の塩梅、3連目以降顕著なのは、エモいところぎりぎりに踏み込むか踏み込まないかの駆け引き(わかりにくく書かれてるけど4,5連目すごくエモいですし、うまく書かないと気持ち悪いです)、これだけ揃えれば十分読まれうるものになると思う。実際女性の身体的特徴の描写は若干うるさいところもあるとは思ったけれど、気にさせないくらいの筆力で書かれている気がします。
それで、そうなってくるとやっと、皆が大好きな「作者の伝えたいこと」ってところに行きつく。実際のところ、作者の伝えたいことはいつだって一番最後になる。
この詩の根底に流れているのは「僕ときみ(ナナコではないよ)」との関係であり、何度もしつこいくらい繰り返される、震えている、という言葉。換言すると、何かを思い出すこと、それが色褪せていくこと、そしてそのことがどうしてもやりきれないということ。というふうに読みました。文体は少し人を選ぶ感じかもしれませんがテーマ自体は間口が広いんじゃないかな、と。僕は単純にかわいいな、って思いました。

10645 : 啓蟄  渡辺八畳@祝儀敷 ('18/08/03 13:34:54)
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個人的に専門外なので言えることは少ないかな、と思っています。というかこの手の作品って言葉を尽くしてどこがだめか批判する、って行為自体もう作品への称賛なんですよね。あるいは協賛か。別に現代アートの系譜がうんちゃらとか何も難しいことは考えてないです。この手の作品に関しては、現代詩なんてさらさら興味ないけど詩というものに関しては若干の興味がある僕に「いや、このテーマに関してなら僕も一家言ありますぞ」とか思わせたら、作者の勝ちでいいと思います。

10674 : 野原に寝転がる  狂い咲き猫 ('18/08/14 22:18:28 *1)
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正直に言うと嫌いじゃないです。ただ発想が安い、というか、発想自体面白いのだけれどもこの詩の構造に発想が耐えきれていない、と言う方が適切かもしれません。
じゃあ、どんな発想ならこの極めて短い詩といういばらの道と思われる体裁に耐えられるのか、という具体的なビジョンは僕には全く見えないです。というか見えてたらすごい詩人になってたんじゃないかな、と思います。
でも挑戦し続けてほしいですね、できればもっと安易な道からあゆみ始める形で、徐々に難しいことに挑戦していってもいいのではないかな、と思いました。

10678 : じゃんぱら  湯煙 ('18/08/15 23:36:28 *19)   優良
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Xperiaあたりでもう滅茶苦茶面白くて吹き出してしまいました。僕のイメージですと古谷徹さんにタキシード仮面風、あるいはアカギのナレーション風にこれを朗読していただければ昇天できるだろうな、という確信があります。構造的にはままありがち、というか、書こうと思えばだれでも書けるけど多分面白くできないから書かないタイプの詩だと思います。それでも成立させてしまうのは、もうひたすらにこだわられている細部があるからだろう、ということは、まあ一目瞭然ですよね。その語りの部分があまりにも真面目だから、ところどころにちりばめられたユーモアがちゃんと面白い。(でも僕が本気で笑ってたのは、ひたすらまじめな部分でしたが)

東には無人の砂漠に舞う一葉の若葉があり、西には無人の砂漠に舞う一葉の若葉があり、さらに西には砂漠の大気に舞う一葉の若葉に一つの十字が重なり、十字を軽く押さえつければ東に西にと無人の砂漠に一葉の若葉が舞う。

ここに至っては(僕はXperiaユーザーではないので想像で補った部分が多々ありますが)細部への徹底的なこだわり、というある種乾いた、詩情もへったくれもない叙述が続くなか、思わぬところから詩情を持ち上げさせるという力技に入っていて、正直言ってここはもう笑うのをこらえることができなかったです。細かいことに言及すると、これ僕がこの選評内で散々書いていることなんですが、読者の予想を裏切る、ってものの一例になっていると思っていて、いや、これこそ予想通りの展開じゃん、と思うかもしれませんが、展開レベルじゃなくて描写の密度を上げていく、もうくどいほどに。展開としては予想通りなんですが、「え、そっちに極まっていくんだ」って意外感がたまらないです。
読むことの愉悦という意味で一条さんの『nagaitegami』を彷彿とさせられました。
あえて言うならば落とし方が妥当だな、と感じたことくらいですが、これ以外の方法があるのかと問われると難しいですね。そう一度狂ってしまったコンピューターは強制的にシャットダウンするしかない、みたいな。HAL9000の哀愁ですかね。
いや、本当に面白かったです。

10672 : 架空座談会  一輪車 ('18/08/14 06:15:53)
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多分笑いのツボが違うんだろうなあという作品。僕ら悲しむことや嬉しいと感じることは、生きていくうえで能動的に自らの感性をいじくっていくことがままあると思うんですが。こと笑うということに関して、一度大人になってしまうと社会に出ようが、本を読もうが、様々な人に出会おうが、変わっていくことはあまりない。そういう意味ではこの作品を享受できない申し訳なさを感じます。
社会風刺、というか、現代詩というものの風刺として、この作品を読もうとすると、風刺にしてはエグさが足りていないと思うが、そもそも風刺とか皮肉って笑いと共に立ち上がってくるものだと思うから、笑うほうのアンテナがずれてる僕の見立てが正しいのかもわからない。
それを踏まえたうえで思ったことを言います、
例えば、サイコパスというキャラなんですが、最初になんかいいこといいながら場を宥めてるところって結構わくわくするところだと思うのですよ、実際僕もしました。逆に突然首をしめる場面って、まぁそうだよなあ、ってなってしまう。僕はサイコパスには劇中ずっといいキャラでいてくれたらいい意味で裏切られただろし、含みを持たせることができたんじゃないかな、って全部読み終わった後に感じました。

10677 : 高く放り投げたボールは・・・  空丸ゆらぎ ('18/08/15 21:12:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180815_460_10677p

面白くするには結構難しいスタイルをとっているな、って印象を受けました。というのはこの形式で突き詰めていったとして、読まれうるもの、と言うところまで到達できるとしたら、それこそ一つ一つのセンテンスで唸らせるしかない、って思うんですよ。
例えば

「標準」からはみ出たら闘うしかないよね。

というのはとてもわかりやすいけれど、単なる標語という形で閉じてしまっていると思うんですよね。標語ってのは、いわゆる「街をきれいにしましょう」みたいなことなんですけど、そこから脱するには二つの方法があると思っていて、一つは肉付けをしていく、って作業になると思います。要するにそれを発する人間を詩の中で肉付けし実体化し「共感」って方法で、そのセンテンスを、実際の人間が生きてきて、そのうえで吐いた言葉として読者に受け取ってもらう。文脈化してしまうってことですね。
もう一つはそのセンテンスを限りなく研ぎ澄ませて、それだけで読者を唸らせるってやり方になると思うんですが、いわゆるキラーフレーズというものです。
それで思うに作者は後者を意図したのではないかという憶測で、「難しいスタイルを…」と言ったわけです。さらに、これは僕個人の勝手な決めつけなんですが、基本的に前者のやり方をとった方が易しいと思います。というのも後者でものすごい詩ってホント数えるくらいしか読んだことなくて、例えば、谷川雁『商人』とかですかね…あれ全部キラーフレーズ並みに際立ってて、フレーズから逆に一人の人物の実存が立ち上がってくる稀有な詩だと思うんですが、僕には逆立ちしてもかけないので、当然おすすめはできないです。まぁ思うところは色々ありますが、是非、いろんな方法で、もちろん僕が思いつきもしないような方法でも、誰かに読まれうる、というところまで達していただけたらと思います。

10673 : うすく  イスラム国 ('18/08/14 11:43:41 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180814_352_10673p

まぼろす、たよかぜ、という言葉に躓きます。いや、もちろん躓いていいんです、だって躓くように設計されているわけですから。問題は、そこから読み手に対してどういった落としどころを用意しているか、ってことになると思うんですが、僕は読んでいて、「あ、放りだされたな」という感覚を覚えました。いや、そもそも造語で良い詩を書くのってすごくハードルが高いことだと思いますし、当然僕は書けないわけなので、どうしたら、という提案もできないのです。ただできれば、躓かせたなら躓かせたなりに、なるほど、と立ち直るような文章を入れて、読者の読みをコントロールできたらすごいものになるのではないかな、と思いました。

10652 : 明日を探して  lalita ('18/08/06 00:10:13)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_529_10652p

正直非常に批評し辛い作品です。もうひたすら悦に入ってる感じで、僕が「読み手のためにうんたらかんたら」と書いたところで、それは作者の目指すところとは絶対に違うということを確信してしまう、という意味で評し辛いです。
ですがあえて書くとすると、「狂気」というのはある意味で表現のバリエーションたり得るとは思うのです。ただそれはコントロールされた「狂気」であり、読み手に緊張感と同時に安心感も与える、ある種飼いならされた「狂気」という意味です。ちょっと残念ながら例示するような作品がいま思い浮かばないので拙作になってしまうのが申し訳ないのですが、これとかですかね。
ただ繰り返しになってしまいますが、多分作者の理想はそのようなコントロールされた狂気というものでは無い、と確信している自分がいます。
それでも僕は、表現のバリエーションとしての狂気、というものを書いてください、と言うしかないんですね。残念ながら。

10646 : Dress Tokyo  青島空 ('18/08/03 15:39:43)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180803_302_10646p

『狼』よりもこちらの作品のほうがだいぶいいと思います。たぶん理由は単純で、こっちのほうがより具体的で、身体的で、そこから発される思念を想像しやすいんですよね。そこに実際に人が生きていて、こう思ったんだ、と想像させるやり方が一番スマートに相手の心に言葉を届けるやり方だと思っています。
また

しかしページをめくると溢れてくるのは東京への憧れだった

ここの転調なども、実体を想像しやすいから見どころがある、文章における転機になっていると思います。
ただ同時に、それだけでは詩文として読まれうるものたり得るか、というと残念ながらそうではないと思ってしまいます。もしかしたら僕の選評を読んで、読まれうるものっていうのはどうしよもうなく奇をてらってゴテゴテした装飾をつけてなければならないのか、と不信に思われるかもしれませんが、僕はそんなことは断じてない、と言えます。僕自身この「芦野夕狩」という筆名は、最初は25くらいのOLの設定で、ポエム教室に通っているけど、難しいことはよくわかんないから、素直な文章しか書けない子として作ってみたキャラなんですが(途中で飽きて素に戻りましたが)、ほんのちょっと地の文をいじるだけで、読まれうるとまでは言いすぎですが、「まぁ読んでもいいか」くらいの詩は書けたと思います。なんだろう、方法はたくさんあって、何も強制されてはいないということだけ、できれば心に留めておいていただけたら、と思います。
あ、一番変えるのに簡単なのは情景描写ですね。例えば

気取っただけで記憶に残らないよくあるカフェのインテリア

から始まる連。今のままだと単なる情報の羅列になってしまっているのですが、多分作者(話者)の頭の中でこのことを想像したときに浮かぶ情景ってもっと特徴的で、ユニークなものであると思うんですよ。僕も常々気を付けていることなんですが、「風景なんてない」ということ、「その風景を見ている自分がいる」ということなんですが、そういった頭の中で思い浮かべたものごとを単なる記号として読者に受け渡してしまうよりも、「風景を見ている自分(或いは話者)」というものを丸ごと表現するだけで変わってくるものってあると思うんですよね。なぜなら、単なる風景描写はただの記号の受け渡しにすぎませんが、それを見ている自分を丸ごと読者に伝えるってのはその作者特有のユニークなものでありうると思いますので。これって全然ゴテゴテしないし、奇をてらった文章にもならないと思いませんか。

10657 : ブラフマン  陽向 ('18/08/06 16:38:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_605_10657p

lalitaさんへの評と同じような感じになってしまうのですが、僕が作者に言えることはかなり少ないと思っています。それでも敢えて言うとするならば、宗教的な悟りというものを客観視して書いてみてはどうでしょうか、ということくらいです。lalitaさんへの評と同じことの繰り返しになってしまうのですが、その宗教的な体験、というものを僕は決して否定できません、できるはずがないです。ただそれを読者に受け渡すときに、読者も同じような宗教的な体験をしていることを前提としている書き方はかなり読者を限定します、ということです。客観的にその体験を観察して、表現のバリエーションとして書いてくださったら、と思うのですが、それは作者の望むところではない、というのはうすうすどころかあつあつに感付いていますので、そこはどうかご了承ください。

10662 : すいこう 水光または水敲または水考  いかいか ('18/08/07 17:22:52)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_733_10662p

はっきり言って僕が評したところで感は半端ない書き手ですが、
僕がこの書き手に関して一番特徴的だと感じるのは、「自分が今書いてる文章を書いているそばから裏切っていく」というようなふわっとした言葉でしか表現できない。できるだけ具体的に言うならば、文章って最初の文字を見た瞬間に次に続く言葉をある程度予想できますよね。多分それって脳みその機能だと思うんですが、この作者の文章は、次から次へと裏切っていく、という感覚、これ脳みそに違和感を与えるタイプの書き手だ、と思っています(作品によって語彙単位で行われていたり、フレーズ単位だったり文脈単位だったり或いは文法をいじくってたりしますが)。それに関しては、いかいかさんの過去作を読んでもらえたら、ある程度納得していただけるところでもあると思うし、そうじゃないと思うところもあると思うんですが、それはおいといて。違和感を与える、ってそれ自体ですごく効果的な詩の技術だと思っていて、文章がうねる感覚、それに伴うドライブ感ってのがこの作者に常についてまわりますね、
それでこの作品なんだけれども、僕は正直のれなかったです。例えば

今から東京をむちゃくちゃにしてやると叫ぶ

みたいな、この作者としは珍しく設けられたボーナスステージ(あのマリオの裏ステージみたいにコイン一杯あるところね)みたいなフレーズに驚きはあるんだけれども、いやいやいや、あざといでしょ、と思った。(僕は過去にこの作者のめちゃくちゃあざといボーナスステージでまんまみーやって言いながらコインを一杯とったことあるし、もっと巧く設えられてたら、いまでも余裕でだまされる自信はありますが)
そして、「あきた」で終わらすネタこれで何度目ですか、というツッコミも一応いれておきたい。

10664 : 散歩の途中で  空丸ゆらぎ ('18/08/08 22:36:42 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180808_936_10664p

うん、こっちのスタイルの方が絶対良いものを書ける可能性があると思いました。これまた理由はシンプルで身体的な動作の表現ってそれだけで動きがあるんですよね、動きがあるってのは、読者の視線の誘導って意味でとても書きやすいし読ませやすい。わかりやすい例としては映画の長回しのワンシーンなどイメージしていただけるとよいと思うのですが、ただ単にひとつの場面を映し続けるよりも、はるかに「ストーリー」に富んでいるんですよね。
そういう意味でこの詩を読んでいくと、出だしは、確かに話者の視線というものを感じつつ、それが宇宙という想像の世界に飛び、余白という観念的な言葉につながっていく、という「ストーリー」があって、なぜか唐突に霧散してしまう。いや、そういうやり方もあるとは心得てますが、ここでそれが効果的に活きているかっていうと少し疑問な気もします。なので、まずは(こんな言葉使うのは失礼なのは承知ですが)読み手の視線の誘導をメインでやってみてはどうか、ということを思ってしまうんですね。散歩してるわけですから、話者の見ている世界はどんどん変わっていくはずですし、散歩中に突然瞑想モードに入って観念的な言葉があふれ出る、なんてこと多分ないと思うんですよ。移り行く景色、それに誘発されて浮かぶ思念、そんな感じに「ストーリー」があったはずだと思うんですよね。
例えば

凍りついた世界に
小さな穴をあけ
釣り糸をゆっくり垂らす

というイメージ自体はわりと好きなんですが、これが「確かにいまそこにいると思える人物によっていままさに考えていること」として提示されたとしたら、それはより良いものとして結実する、と思うわけです。
最後に、文極で散歩の詩といったら鈴屋さんかなと思います。もしよろしかったらお読みくださいませ 鈴屋さん『秋の散歩

10653 : ぬけがら  北 ('18/08/06 00:55:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_536_10653p

巧いな、というのは、改行 読点 句点 一切使わずに、読者に一定の視線を与え続け、それがたまに思念へと飛ぶ転換も、放りだされている感覚がしないんですよね。せっかく一筆書きで書かれているものをぶつ切りにしてしまうのはもったいないかもしれないですが。例えば

立ったり屈んだりして汗をかいているんだね

というのが、多分一読目ではどういう状況なのかわからない。けど、洗ったシャツ、という情報が入ってくると、「ああ」と思うようになっていて、最初のこの言葉は「労り」、ということに気が付く。或いは、最初からシャツを干していればいいじゃないか、と思われる方がいるかもしれないし、僕はその表現方法でも全然問題ないと思うけど、この書き方で得ている効果は「疑問→気づき」で、読むという行為を喜びに変換している、ともいえる。だからこそ、

あなたの子供として生まれてくることができたならばあなたのことを愛さずともずっとまもっていけたのに

という言葉が、突然降ってわいた言葉ではなく、確かに今詩の中に存在している誰か、から発された言葉なのだな、と感じることができる、これは思念とか結構唐突に入れがちな言葉に説得力を持たせる一番スマートなやり方ですね。

蝉のなきごえを時雨に喩えた空明く

これは好き嫌い別れるかもしれないけど、僕は好きだった。いや、単に天気雨と書くこともできるかもしれないが、視覚と聴覚を目一杯使うやり方でそれを成し遂げている、と僕は思った
ただ

不自然な思考の老廃物よ不自然な痴呆症

ここから詩が突然ぶつり、と切れているように感じるんです。いや、そういうやり方もあるってのは心得ているはずですし。いやそもそも僕が読めてないって可能性も全然あるのですが、何度読んでも、ここで詩を切ってしまう必然性を見出すこともできず、同時に、ちゃんと繋がっている、という読みも僕にはできなかった。この後の描写にも見どころがあるのだけれども前半部に比べて大分色褪せてしまうんですよ。
それで、これに関しては完全に僕が読めてないだけなのかもしれないのだけれども、読めてないものを読めてるふりして称賛するのって一番嫌いなので今回は推せない。
もし僕が大きな勘違いをしているようであったら是非後からでも指摘してほしい作品でした。

10648 : Living  宮永 ('18/08/04 20:27:55)
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生きていること(あるいは生活)、とリビング、というどちらともとれる、というかどちらの意味でもあろう題から、朧げながら表現したいものを浮かび上があがらせる手法としては、一定のラインは超えているとは思いました。ただもったいないと思ったのは、引っかかる部分、あえて読者を躓かせるような部分に関して、作者からの回答というのがどこまでも希薄にされていて、疑問符を抱えながら読み終えて「うん、でもなんかとても神秘的」というタイプの感想を与えかねないということじゃないかなと思います。
出来るだけ誠実に話そうと思うのですが、実際のところそれの何がだめなのか、なんて答えは僕の中にはないんですよね。僕はわりと読者まかせの部分を減らそう、という方向性でこの選評全体を書いているのですが、それがいいとか悪いとかは、もうおのおのの経験や感性にかかわる話だと思うので。ただ、同時に、詩というものをこのような合評の場にかけるにあたって、何が重要視されるか、というともちろん「語りうるもの」になることは同意していただけると思います。或いは「共有されうるもの」と言い換えてもいいかもしれません。いわゆるプラグマティズムですね。
例えば

撒かれた砂の上

という最初のつっかかり、読者に「おや」と思わせる装置かな、と思ったんですが、引き継がれるのがたぶん巻貝という言葉まで飛んでるんですね。これ水槽のイメージかな、あるいは生活、家庭といったものと水の中のイメージを二重写しのように描いたのかな、と思ったんですが、これさすがに読者に任せすぎじゃないかと読んでしまったわけです。
もちろんこの詩を読んで、良いなと思った読者に対して僕が何かを言いたい、とかそういうわけではなく、この詩の中で行われている「方法」を「共有されうるもの」として提示できない、ということです。

10668 : 並ぶ  黒髪 ('18/08/11 11:13:26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180811_126_10668p

まず何の話をしているのか、詩という形で誰かに投げ出すわけですから、そこは明らかにしたいところではあります。
同時にそれを明らかにしたところで、それは誰かに読まれうるものではない、というのが難しい点だと思います。この選評でも何度も繰り返している言葉になってしまうのですが、まずは具体的な場面、人物、を書いてみましょう。もし、それだと自分の伝えたいこととは違うことになってしまう、ということをお考えでしたら、自分の伝えたいことをいかにも体現してそうな人物をでっち上げましょう。印象的な事件を捏造しましょう。それでも嘘っぽくなってしまう、とお恐れでしたら、自分の来歴も適当に詐称しちゃいましょう(これは僕もやってたことですが)。と、ちょっと大げさに言ってみたわけですが、僕は基本的に作者の表現したいことを作者よりも重んじる主義なので、このように作者の表現したいことが、作者の取った方法によってないがしろにされてしまうことに悔しさを隠しきれないわけです。それなら、上記のような「卑劣」な方法をとってでも、表現したいことを読者に届かせる、という行為を、たぶんほとんどの表現者が積極的にではないにしろ肯定せざるを得ないと思うわけです。

10669 : 古都  犬小屋 ('18/08/13 04:51:39)
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古都と題されものを目にし、地方の美術館の西洋絵画、までフォーカスしているのですから、そこから映す映像、あるいは聞こえてくる人の声、やっぱり期待してしまうのが人情だとは思うのですが。

虚構の箱を開けると
虚構
おめでとう

と来ると、ちょっとそのカメラ手ぶれひどすぎませんか? という感想を抱かずにはいられませんでした。それで僕はたぶんこの選評で「読者の予想に反すること」いうのは効果が高いってことを何回か書いているんですが。実際これって予想には反してるんですよね。ただ予想に反するってものにも、ある種の作法があると思っていて、あくまで作者がいざなう道程のうえで「そっちの道だったのか」という驚きはどんどんあってもいいとは思うのですが。この場合、作者がどんどん進んだ結果読者が単に置き去りになっているという感が否めなかったのもまた事実です。実際そのへんの匙加減ってすごく難しいと思いますし、作者もそれと知ったうえで挑戦なされてることだと思うのですが、今回の試みに関しては評価できませんでした。是非また次の「裏切り」を期待しております。

10647 : 五分後の羊  泥棒 ('18/08/03 21:38:22)
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10667 : 友達の友達の友達の友達の友達の友達の友達  泥棒 ('18/08/10 16:57:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180810_097_10667p

同じ作者だということで纏めてしまいました。申し訳ない。
僕が文極で選考をしてて、一度だけ、ミスというか自分好みの作品を無理やり優良にしたことがあって、(本質的には結局自分好みかどうか、ということにはなるのでしょうが、僕は選考においてできるだけ自分の好みのテーマとか文体とかそういうのは意図的に考慮に入れないようにしてます)それが泥棒さんの『ザギミ』でした。一人が推したら優良になるってサイトでもないので、佳作でしたが。なんだったんでしょうね、作品どうこうより、この作者滅茶苦茶書けるだろうな、って直感がそうさせたような気がします。その直感が当たっていたかどうかは言うまでもないですね。反省はしてますが後悔はしてなかったりします。
2つ目の作品ですが

手首を切っている
陽のあたる坂道で
暗い場所を探しながら

ここはすごく鮮やかだな、と思いました。血の色と太陽という明るさとの呼応、それとともにその行為の暗さと、暗い場所との呼応。そのの対比が、ですね。なぜだか夕陽を想像して、ビジョンが広がったのはいいんですがそこから尻すぼみででした。タイトルも好みです、要するに「他人」ってことなんだろうけど、なぜだろうか少し身近に感じるような。
多分いろいろ飽きてしまって、別のことに挑戦されているのかな、と思いました。杞憂だといいんですが、お疲れなのかな、とも。でもまあ、僕はとりあえず作者の書く傑作をいつまでも待ってます。

10671 : house  アラメルモ ('18/08/14 04:31:01 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180814_335_10671p

作者にはなんだか物凄いビジョンが見えてるように感じる作品です。問題なのは読者が同じビジョンを共有できないという点だろうと思います。
次々と移り変わるモチーフは作者にとっては必然かもしれませんが、僕には明らかに説明不足だろうと感じました。或いは冒頭はなんらかの映画のワンシーンなのかもしれません。そんなこと僕にはわかるはずもありませんが、とりあえず、映画的な手法かなとは少し感じました。仮に、そう仮定したとして、どのような点が説明不足なのか、ということになる。映像と詩では情報量の差もさることながら、カメラが勝手に動いてくれるか否か、というのが大きな違いになるような気がします。カメラが動くというのは連続性があるということなので、その地点からある地点までの道なりも必然映るわけですし、その関連性は勝手に頭の中に入ってきますね。
一方で詩というのは、あるモチーフからあるモチーフへ飛ぶときに、何の導線もなく次のモチーフに飛んでしまうと、関連性を把握できていないことがままあるので気を付けたいところです。
今作を読解すると

おお大きな翼が遮り
遠く、宇宙の果て白く輝いた申
うしの乳搾り、固まる

1行目では、2行目の宇宙との関連で翼が遮ったのが空であることはなんとなく把握できます。そして空を見上げたら(カメラが上空へズームして宇宙空間を映し出したら)宇宙の果てで申が白く輝いている。まあそういうこともあるかもしれませんね。3行目はその空を見上げた酪農家でしょうか、そりゃ宇宙の果てで申が白く輝いていたら固まりそうなものですね。と、この辺りまではぎりぎり関連性を持たせることができるのですが、その後ろに連なる行にかんしては、やはり置き去り、という感じが否めませんでした。もしまたこのような作品をお書きになるときはカメラは勝手に動いてくれない、という点に是非お気をつけください。

10661 : 反響  霜田明 ('18/08/07 15:47:26 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_724_10661p

もう一方の作品よりも良いと感じました。なぜだろうか、もちろん僕にはその観念的思考の10分の1もわかっていないだろうということはおいといて。外ヅラの話をしたいと思う。単純にこの話者は動いている。歯医者にもいくし、罵倒を受けたりもする。その、確かに(確かにというのは言い過ぎかもしれないが)話者は今ここに在ると読者をして思わしめることが、いかに大事かということに気付かされる。

言葉の意味、
それは高度さや
深遠さではなく、
自分へ向かう言葉が
反響するところにあるものだった

この言葉はとても僕になじみがあった、というのも今僕が選評を書いていて多くの作者に恐れながら申し上げていることだからだ。「自分」というのを「読者」と変えると、僕がずっと繰り返していることと同一になる。なぜ話者が「歯医者に行き、罵倒を受ける」とそれが少しだけ読者に「向かう」言葉になるのか。それは想像力というものがあるから、と思います。多分多くの人が歯医者に行って、罵倒を受けたりしている(歯医者で罵倒を受けるわけではない。いやそういうこともあるか)。だから僕は作者の頭の中にある観念的なものを「少しだけ」読み解こうと思えた。だから最初は10分の1もわかっていないと書いたが、12分の1くらいならわかっているかもしれないつもりでいる。それ全然理解していないじゃん、と思われるかもしれないけど、存外大切なことだと思うんですよね。

10660 : にがい いたみ  田中修子 ('18/08/07 11:05:37 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_702_10660p
次々と繰り出されるイメージというものに、うまく読者をのせてあげてください、と思う作品です。
少しイメージがぶつかっているなと印象を受けたところが、

乱れ散る言葉らに真白く手まねきされる

とありながら

瞼のうらの真暗闇 ここからどこへいく

とあります、多分これ初読ではぶつかってしまうと思うのですよね。真白く手招き、という言葉自体抽象的なものなのですが、初読では映像的な表現、いわゆるホワイトアウトのようなものを表現したいのかな、と思いつつ読み進めました。すると「瞼のうらの真っ暗闇」とありましたので、ぶつかっているな、と思う次第です。
通して読んでみると、最初の行はどちらかと言うと、のちに出てくる「先生」 という言葉の関連として病室、あるいは、「乱れて散る言葉」によって精神が壊れていくような感覚だ、ということに気が付きますが。多少乱雑な印象はぬぐえないのかな、と思ったりもします。
そのようなある種痛みの中で一度壊れそうになってしまった精神の内部へと潜っていく描写に思われたのですが、これに関しては、「狂気」の客観視というものをもう少し意識したらよろしいのではないか、と思いました。どういうことか。たぶん皆が思っているよりも人って理性ばかりで出来ていないと思うんですよね。夢のなかが荒唐無稽なのを考えると少しは納得いってくれるかな、と思います。ですからある種の「狂気」というのは皆が抱えていて、狂気というものに感情移入することもままあります。なのでうまく表現のバリエーションとして「狂気」を加工する、ということになりますね。「読む」ということ自体が多分に理性的な行為なので、その読者の意識に「狂気を近づけて」あげてください。ということになると思います。
後半の先生という実際の存在と対峙するある種普通ではない私、

いますか ここにいますか

という言葉は、祖母への問いかけのように見え、同時に先生への問いかけのようにも見せている。こういう優れた表現をもっと大胆に、読者に提示してあげたいな、と思う作品でした。 

10651 : コノミ  いけだうし ('18/08/06 00:04:15)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_528_10651p

意味深につけられたタイトルと、解釈されることをまるで恐れるかのような本文。或いは、解釈、というものから逃れさるものの比喩として鳥というものを想定し、本文のその捉えどころなさと呼応している、、とすごく無理やりですが読めなくはないです。このような「誰かに伝えること」、よりも「誰にも伝えないこと」というものに主眼の置かれた文章というものは、実のところ僕は好きですが、少しだけ条件がありまして、その手の作品でのタブーとして、「誰にも伝えないこと」を悟られてはいけない、というものがあると思っています。
どういうことか、はじめから「誰にも伝えないこと」がばれてしまった場合、読み手にとって、それは読むに値しない文章、ということに即なってしまいます。そういった意図はできるだけ隠して、あたかも「何かを伝えている」素振りで、すべての読者を裏切っていくような、そういう作品は言いえぬ読後感があります。
あくまで僕が作者の意図を勝手に想定して書いていることなので、見当違いも甚だしいかもしれませんが、この作品にはそのような「装置」は見当たりません。
「純粋な射精」、という言葉が出てきますね。文脈通り読むとこれは動物的な、或いは生殖のための、と読み替えてもいいかもしれません。けれども、例えば男子高校生が好きな子を思いながら垂れ流した精液も同様に純粋では? いやいや、それこそセクハラ体質の上司が部下のなんらかの弱み、立場的な力を利用して涙とともに流される精液もある種純粋と呼べないだろうか?
などと、思うわけですが、もちろんこれは「いちゃもん」です。だってそうではないことは本文に示唆されているのですからね。
ただ同時にそのように示唆されて、そのように読まされるというのは、こと短詩においてはあまりにもひっかかりがないように思ってしまいました。要するに少し手あかのついた表現を、文脈に合わせてそのまま輸入してしまった印象ですかね。

ソの退廃へと導く

もちろん意味はわかりませんが、不思議な趣がある言葉ではありますね(僕だったら「ンゲレダの退廃」としちゃいそうです)。是非このような言葉を、まさにこの詩文にとって必然の言葉のような感覚とともに読みたいと思う作品でした。

10658 : どうでもいいこと。  狂い咲き猫 ('18/08/06 18:44:38)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_614_10658p

この手の文章は書かれている内容よりも、どれだけアジれるか、というものが割と重要になってきそうです。もしたとえばこの詩文が頭の良い人たちの中でも意見が割れるような鋭い意見でしたら、もっと多くの反応が得られたのではないか、と思います。しかし残念ながら、頭の良い人たちの誰かの意見に寄り掛かったコピーのコピーのコピーくらいの鋭さのように思えました。例えば僕がLGBTだったとして、この文章に怒りを覚えることができるか、といったら多分できなくて、それが少し致命的に思えました。
さて、前半部分は少し趣が違いますが、

入力0なら、出力も0だわ。

身体を使わずに頭だけを使って何かを書くということへの問題意識自体、おや、と思わせるものであるとは思うのですが。そのテーマを入力と出力という言葉で表現してしまうことで、テーマの深さがなくなっているように感じます。つまり何かを書くという行為の身体性という、ある種掘り下げられそうなテーマを、入力/出力、という単なる「経験」の話に置き換えてしまっているため、深さが失われているように思えました。
或いは、タイトルと絡めて、前半部分と後半部分の落差をして、「どうでもいいこと」ということとも読めますが、これもまたうまくは機能していないように思います。
是非作者自身にも深く考えていただき読みうるものとして完成させていただきたいです。

10666 : 走る  ネン ('18/08/09 21:52:13 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180809_024_10666p

作者の表現したいことがナマで伝わってくる作品です。
今月投稿された作品を大まかに2系統に分けてみると、「作者の表現したいことをストレートに渡してしまっている作品」と「作者の表現したいことをそのまま渡してしまうと、なんだか詩とは呼べないような気がして、表現をこねくり回している作品」の2系統に分けれると思います。そのなかですぐれた作品もあるし、そうでないと僕が思う作品もあります。ただ上記した2つの系統は少し意地悪に書いてありますね(まるでどっちもよくない作品みたいに)。今作は前者でありますが、前者の作品で優れた作品って次のように言い換えられるのかもしれません、つまり「作者の表現したいことを、作者自身が深く洞察し、それしかない必然の言葉でもって、読者に手渡された作品」と。
今作を読んでいくと

心の牢に金魚を飼い

という表現(かなり見慣れた表現ではありますが)から少しづつ、内面に潜っていく感じがしますが、曖昧なまま霧散してしまいますね。この点に関して、作者が表現したいことを作者自身が深く洞察していない、と言うつもりはないのですが、読み手はそう思いかねないですよ、ということ。だってネットで公開される詩文ですから、書かれていることが全てです。金魚のモチーフが最終連にも登場しますが、「落下の行程を辿る話者」に対置された「本音」という読み方を例えばしてみます。もちろんこの読みおそらく間違っていると思うのですが、僕は「まあ間違っていてもいいかな」と思ってしまいます。それは詩文の中での「金魚」の扱いが曖昧であり、それをどうしても分かりたい、という渇望を読者に与えていないからなんだと思います。逆に言うと、「どうしてもこの詩の本当の意味を知りたい」というように読者に思わせたら、それは優れた詩でしょうね。作者が描きたいと思ったモチーフを作者の中で十分に熟成し、それをいかに読者に対して魅力をもって提示するか、ということをもっともっと煮詰めてほしい作品でした。

10650 : The Great Gig In The Sky。   田中宏輔 ('18/08/06 00:02:08)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_527_10650p

僕は作者の引用詩よりもそうでない詩や●詩の方が好きです。
例えば僕が一番好きなタイプの田中宏輔さんの作品は『ROUND ABOUT。』とかになるんですが、読んでみたらわかる通り、転調の連続、アイディアの連発、超絶技巧のバーゲンセールみたいな作品です。僕にとって作者の引用詩は作品によってかなり好みがわかれます、それでこの作品、思うように入ってこなかった。
作者の引用詩自体面白いと思うものとそうではないものとあるんですが、少し理由を考えみます。
おもうに、読者の視線というものをある対象に向けさせてくれる詩はとても読みやすく感じるのだが、視線ではなく、頭の中にある物事へと焦点を向けられると、「それは僕には関係ないことだな」と思ってしまう。
例えば『Pooh on the Hill。』とかが好きなのは、興味の惹きつけるという点でかなりうまい手段をとられているからだと思いました。
今作

空虚の空虚。

からはじまりここで僕のHPは5割減ります

そこにあるものは空虚。

ここで、僕は瀕死です

詩人はひとつの空虚。

これはとどめですね。
正直どんな方法でも書ける方なんで今更何かを言うつもりはないのですが。作者が僕好みの作品を偶然作ってくれたら嬉しいな、と思っております。

10663 : (無題)  F# ('18/08/07 21:07:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_751_10663p

アップリケが大量についた鞄が気持ち悪いとのこと。アップリケを知りませんでしたので検索したところ縫い付けるタイプの小物のようですね、小さいころの同級生が破れたズボンとかに付けていたような気がします。まぁそれはいいとして、試みとしては読みの多様性の提起、といったところでしょうか。フォーラムでの色々は一応読んでいたので知っているのですが。渡辺さんのような読みも出てくるでしょうし、あるいは、小学生くらいの年頃の子でものすごく裕福な家庭で育った子どもが同級生のアップリケだらけの鞄を見て、気持ち悪い(パンがないのならお菓子をたべればいいのに)と思う場面を想像するかもしれませんし。高校生くらいの女性が、同じクラスの男の子が持っているアップリケだらけの鞄をみて気持ち悪い、と思う場面などなど、いろいろ読みはあるでしょうね。
ただ残念ながら、選評でもなければ、そのような場面をいちいち想像せずに、一瞥だけされて、「ああそういうパターンのあれね」と読み飛ばされる危険性が非常に高い詩であると思います。是非読み手に想像したいと思わせるだけの仕掛けを用意していただければ、と思います。
余談ですが、もしこの掲示板にWCウィリアムズの詩が投稿されたとしたら僕はどう判断するだろうか、と考えてみたんですが、考えるまでもなく落とすだろうな、と思いました。大好きなんですけどね。

10659 : 再考  犬小屋 ('18/08/07 05:46:01 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_677_10659p

まるで拳銃忘れたみたいに

さて、このような状態というのは発生するのだろうか、ということをまず思いますね。拳銃を忘れる、ということ自体は、ままあるのかもしれません、そういう職業の方でしたら。ですがそうではない人にとってそういう事態ってある種異常なことであって、それがさらに、まるで〜みたいに、とくるわけですから当然読者の頭の中にはたくさんのクエスチョンマークが並んでいると思います。それで、そのこと自体が詩の評価にかかわってくるか、と言うとそういうわけではないのです。そのような読者に対して、どのようにしてその最初に与えた違和感、緊張感を保ちつつ切らさずに詩文を続けるか、といういうことが問われているのだと思います。それで残念ながら、この最初の強烈な違和感を良い意味で保てている詩にはなっていないと思います。或いは、そんなつもりで、そんな重大な責任を負わせるつもりで書いた言葉ではない、とお思いかもしれません。それならば、作者の表現したいことが読者にとって近しいものになるように、もっとスムーズに導線を引ければよいのではないか、と思いました。最初に与えた緊張感、違和感を切らさないで詩文を続ける、という技法で優れたものは文極だと、泉ムジさんの『青空のある朝に』 同じく泉ムジさんの『姉のいない夜に書かれた六行』等があります。

10632 : This Must Be Love。  田中宏輔 ('18/08/01 00:29:26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_112_10632p

途中までコラージュと知らずに読んでいたためか、タイトルの『This Must Be Love。』も相まって笑って読んでました、いかんせん長いので、途中でだれましたが。

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この文章何気にすごい。男性の業を感じますね。ぜひ作者の手で、継ぎ接ぎして一つの文章にしてほしいな、と思った作品でした。

10642 : ともし火  田中修子 ('18/08/02 00:06:37 *17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180802_191_10642p
改稿前のものも読んでますが、選考なので原則として最終稿に焦点を当てたいと思います。というのも初読では不可解なほど意味がとれなかったので、レスを開いてみてそこで読んだんですね。

詩もまた,ある形式が権威となって記録されたそのとたん,電子機器に録音された雨だれの音のよう.

これはとても美しい表現だと思いました(若干説明的とは思うかもしれませんが)。改稿前の「死んだ」という言葉があったとしたら得られぬ感覚だったように思います。
ただ同時に、最終稿を改めて読んだ時に、まるでバラバラにされた遺体のように思えてしまった。僕は詩とはわかりにくい言葉で置き換えて、伝わる、ということを恐れることでは決してないと思っています。改稿前の作品も読んでいるがゆえに余計にそう思ってしまうのかもしれないですが。
高村光太郎が『智恵子抄』を書いているときに「智恵子という言葉はあまりにも直接的すぎるから「女」くらいにしておくか」、としてしまった世界線を想像してちょっと悲しくなりました。

10654 : 近所の詩人のおじさん  ゼンメツ ('18/08/06 03:00:17 *1)
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笑いのツボってのは大人になったら変わってくれない、ってのは今月の選評で一度書いたのですが、こればかりは自分の努力で歩み寄ることはできないなあ、という無念さを感じました。
というのを踏まえたうえで話そうと思うのですが、全体的にノリが(僕みたいな笑いがわかんないやつには)キツいとしか言えないところがあって、困っていますね。

あれから半年が経ち

この転調からの話のもっていきかたなんですが、作者としては、ここ見せ所だ、と分かったうえで描写の質を変えてるところも見受けられますが、それほどのギャップになっていないと思います。最後もよさげな話ENDみたいな範疇を出ていないので、僕だったら、おじさんが闇金に追われて、とんでもないことになってるところとか、淡々と描いただろうな、と。つまりここの描写、「重さ」を見せかけに使って「軽さ」を書いてるんですが、僕は「軽さ」を見せかけに使って「重さ」を書いた方がギャップが出ていいんじゃないか、と思いました。

10656 : 上京詩人  一輪車 ('18/08/06 10:29:06 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_572_10656p

笑いのツボが〜〜ってのはもう一つの作品に書いたので重ねて言うまでもないですが。ユーモアの波長が合わないのは選考するものとしてかなり申し訳ない思いがあります。
元ネタに関してはあまり触れる必然性を感じませんでした。具体的に面白かったのが

極貧の四つのオブジェ

というところで、これ極めて個人的な話になるとおもうんですが、ドタバタ喜劇を見せられるより、それを突き放したナレーション的な笑いのほうが個人的には好きなのかもしれないですね。
でもキートン山田で笑ったことないので、どちらかというと、「語りのギャップ」にドキッとした場面だったのかもしれません。

10634 : 牛乳配達員は牝牛を配る  北 ('18/08/01 02:00:29)   優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_128_10634p

正直な話をすると僕はこの作品に関して少し迷ったところがあった。選評を9月の早々に書き上げた段階で、この作品にだけは「保留」とだけ書いてあった。
というのも、到底僕の能力ではこの詩に評を付けるということができるとは思えなかったから。それとともに、下手な評をつけてこの作品を汚したくない、という思いもあった。ただ僕の下手な評でたくさんの作品をもうすでに汚しているわけですから、それもまた、自分勝手な話ということで、できる範囲でやっていこうと思うわけです。

・物語を偽装すること

或るストーリーや思いを詩にするときに、多くの人がとる方法として、ある人は表現にこだわるかもしれない、ある人はそれををできるだけ細やかに描写するかもしれない。それは時に成功するかもしれないし失敗するかもしれない。でもこの作者はいずれの方法もとらなかった。作者のとった方法は物語の偽装である、と僕は考えている。
多分、そんなこと唐突にいわれても、と思われるかもしれないが、寓喩のようなものと少し似ているかもしれない。童話や神話は特定の作者がいない場合が多いので偽装されているわけではないけれど、共通点として「本当のところは隠されている」。
童話や神話が、なぜそんな作りになっているのかは今はさておき。経験したことはあると思うんですよ。生きているなかでふとある童話が、この状況ぴったりじゃないか、というような場面に。その物語が持つ「警句」のようなものが、その状況で明らかになった瞬間の気付きって、ただ単に「本当のところ」を素のままアドバイスされても到底かなわないようなインパクトを伴っていると思うんですよね。
僕は、今作にそのような「警句」が隠されていると言いたいわけじゃなく、その「気づきのインパクト」を狙ったものという点で、寓話や神話の方法に少し似ている、と思っている。実際のところ今作の「本当のところ」は最後まで読めばちゃんと明らかになっている。「母への思い」という漠然なものとしてだが、それは多分どの読者にも立ち現れると思う。けれども、今作においては、その主題は最初は偽装されている。「牛乳配達員は牝牛を配る」という言葉で覆い隠されている。

だから一読しただけではわからない。

ほんとうは家出したんだ 心がわりしたらしい しとやかさは職業ではない

最初にこの言葉を読んだとき、1行目があまりにも見事に描かれているから(そのことについては長くなるので省く)唐突に意味が分からなくなるこの場面では、「集中力が続かなかったのか」とさえ思ったりもした。
ただ最後まで読み通して、「本当のところ」に触れたあとにこの詩句を読むと、これは怪物的だなと思った。2読目では「本当のところ」のディティールが立ち上がってきて、これがさっき言ったような「気づきのインパクト」を伴うわけだから堪らない。(僕はこれほど自然に「しとやかさは職業ではない」という言葉を読解するだろうとは、最初は思いもしなかった)

お母さんが酷い目に遭わされたのかい? いや 牛のはなしだ

たとえばここは偽装工作であるともいえる。(作者の視点でのテクニックという話とは別に、話者の視点での話の置き換え、ということは後述する)

罪のむしろで包めた 仄かに熱い 子守唄

たとえばこんな言葉が、説得力をもって胸に響いてくるのは、おそらく「気づきのインパクト」があってこそだと思う。
それらすべてを通過して、また再び「本当のところ」に戻ってきた時の感情の呼び起される感覚はもうちょっとたまったもんじゃなかった。ディティールが明らかになったうえでの最後の詩句を読んだ時の心持はちょっと言葉で言い表すことはできない。

・物語を偽装すること

作者の技術としての偽装についてはなんとなく話せたと思うが、じゃあ「話者」にとってその偽装は何を意味しているのか。昔のことを思い出す、それを語る、そんな時にふと偽の言葉がなぜか「本当のところ」を遮る。そんな事態ってあるのだろうか。
僕はとても安直だけど、「トラウマ」という言葉(今となっては意味の変容が激しい言葉だけど)を思い出した。多分もう少しましな表現もあるだろう。

花子よ よしよし もうおまえを誰にも渡さない 俺とおまえはいつまでも一緒 なんて嘘だ

この言葉を皮切りに、堰を切ったようにあふれ出る「本当のところ」、なぜそれが偽装されていたのか、隠されていたのか。ということ。
実際のところこっちが核のように思っているのですが、こっから先はおのおの読み手の領域だと思うので僕は触れません。
あまり感傷的すぎるのは流儀に反するので、ここまでです。

※追記ではない追記
フォーラムにて作者のこのテーマに関連する別作品を読ませていただいて思うところも多々ありましたが(というか僕がとんでもない誤読をしているのではないか? という疑念ですね)このまま僕の選評とさせていただきます。

10639 : 試作  いかいか ('18/08/01 09:22:27)
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素直に良いんですが、

本当の洪水が体中を駆け巡る七日間の植物の物語

がすごく煩い、と思ってしまったところもあります。
この作品を部分的に抽出してこの部分がどう、ということはあまり意味がないと思われますので、思ったことを少し。
繰り返される言葉と、離反していく言葉と、新たに紡ぎだされる言葉のなかでぼやっと浮かび上がってくるイメージだけ与えてあとは音、ミニマルというかテックハウスみたいな印象なんですが、そういう音楽的な効果を目的とした詩文の中にあって、冒頭に挙げた部分がとても煩く感じてしまった。

10641 : ラウンド・アバウト・ミッドナイト  田中恭平 ('18/08/01 12:12:48)
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ところどころ、ちょっとしたユーモアだったり、詩的な転換であったり、感じ入るところもありましたが、全体としてやはり薄いな、と思いました。ただ薄いというのは悪いことではなくそこに軽妙さだとか、のれるところを入れてくれるだけで全然違うのではないかなと思います。
特徴的だったところを挙げます

颱風が
近づいているらしい
花々は
怖れているらしい

ここはちょっとした転調なんですが、

それが俺にはわかる

と続くので、期待感がほんの数秒で終わってしまう悲しさを感じました。具体的に書くと事実の描写と比喩の描写を並べているから、位相が少し変わってるんですね。読者に「おや」と思わせる場面だと思います。なのでもっと巧い引継ぎがなかったかな、と少し悔しいと思ったところでした。

10665 : kool mild  田中恭平 ('18/08/09 09:54:23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180809_979_10665p

意外にも花々の比喩のイメージが引き継がれていたことに驚きました。個人的には提起の仕方はもう一つの方が良いと思い、展開のさせ方は今作の方が良いと思いました。
別のところに目を向けようと思います。

冷房の
効きすぎた部屋にある
脳味噌は、
冷たい

捻った表現ですが、すっと入ってくるものがありますね。どういう意味かと問われてもちょっと答えられない。でも作品の全体を貫いている調子だとか、タイトルだとか、全部ひっくるめて、この言葉がなんとなくすっと頭のなかに入ってくるような。そこから続く言葉が、「灰と/花弁と/灰皿の中での出会いのように冷たい」とありますが、説得力があるようでないような。思うに元ネタの詩のイメージが結構ここ邪魔しているんじゃないかな、と思ってしまいました。

10633 : すべてのオマンコは女神の似姿  lalita ('18/08/01 00:36:57)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_114_10633p

作者の作品に関しては僕の批評の範疇にはない、ということはすでにもう一つの作品で書いたので、全体としての評価は変わらないのですが出来るだけ細部へと目を向けたいと思います。

足が短い十字架は短小ペニスだが、平等精神がある。

なるほど、と思いました。

あのオレンジ色が俺の魂を震わせる。

荘厳なクラシックが鳴り響いているようで、ここだけ少しロックなのが面白かったです。
しかし、出来るだけ具体的に読もうとするのですが、やはり全体として頭の中に入ってこないです。僕があまり宗教的な人間ではないので、その点ご理解いただければと思います。

10644 : 白い庭  トビラ ('18/08/02 18:05:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180802_229_10644p

素直すぎるがゆえに、あっという間に読み終わってしまう。もう一つの作品に関してかなり抽象的な評を付けてしまったので、もう少し具体的に話せればいいなと思っています。まず作品を見ていくと。「僕」という話者の期待感、「白い庭」というのが「僕」にとって特別な空間であることを、具体的な出来事を描写せずに、スマートに描けているとは思います。あるいは

借りた本を返したい

という言葉から、この詩の後にどんな会話がなされるだろうか、という読み手の期待を若干ながら膨らませていると思います。或いは白い庭という題も、よくよく考えたら、白い庭ってなかなかお目にかからないですが、語り手の期待感、差し込む太陽、幼いころの想い出の淡さ(という設定だったら)、それらもろもろがかかって白い、という形容詞を生み出しているのかな。とも思いました。
それで正直ここまで書けるのであれば、次のステップに進んでいいのではないか、と思うんですよね。この作品の弱さって、読み手の注意をどこかに惹きつけてあげるだけで解決すると思います。
例えば風景描写なんですが、現状単なる情報を伝えているだけなのではないか、と。これは今月の投稿作である青島空さんの『Dress Tokyo』でも似たようなことを書いたのですが、歩いてる「僕」が見ている景色って、多分その情報だけではなくて、「僕」というフィルターを通してユニークな形で見えていると思うんですよね。風景を書くのではなく「僕」の眼差しを書くことによって読み手の焦点を絞ることができれば、とても良い作品になるのではないかと思いました。
例えば文極でただ歩いているだけ、そこから見えているものを話者のフィルターを通して描写することによって絶大な効果を得ている作品としては軽谷佑子さんの『ファインレイン』などあります。
是非様々なことに挑まれてください、と思う作品でした。

10640 : 消えるメス豚  陽向 ('18/08/01 10:44:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_142_10640p
もう一つの作品よりだいぶ面白く読めました。理由は言わずもがな、いや言いますが、具体的な人物がそこに描かれ、主にセックスなどしているからですね。
話自体は、特に転機のない、痴話げんかが繰り広げられていますが、2つほど疑問点がありました(読み手に疑問を抱かせることはよいことだと思っています。
一つ目は、話者は誰なのか、ということですね。もちろん最後まで読み終わって、3人称ということがわかったのでその疑問は解消しましたが、あるいは意外なところから話者が登場するというのも面白いかもしれませんね。
2つ目はこの場面です

炎が消える頃にはメス豚はゴリマッチョのことを未だ親離れができない可哀想な人間なんだと慈悲深い目で見れるようになった
メス豚は家に帰りゴリマッチョと別れることに決めた

許し、というものが描かれたと思ったら唐突な破局が訪れますね。少し笑ってしまったんですが、別れを決めた理由が

ゴリマッチョといると前は心地良さを味わえたのに今は味わえないのだ

と結構普通のことだったので、ちょっとがっかりしました。読者はたぶん上の行から順番に読んでいくと思うので、許す→別れよう、というのは「おや」と思う仕掛けになりうると思いますので、その疑問に対して、もう少し機知の富んだ解決を与えてあげるのも面白いのではないかな、と思いました。

10635 : 生  黒髪 ('18/08/01 02:41:20 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_129_10635p

もう一つの作品では、何を書いているのかまず明らかにしてはどうか、という提案をさせていただきましたが、この作品に関してはちゃんと伝わりますね。

蝶が飛ぶのを見て思ったよ

観念的な思考が繰り返されたのち、突然外界の蝶という生き物が「僕」というフィルターを通して読者に伝えられる場面です。突然の転調にハッとする場面だと思いました。
さらに言えば、冒頭の清少納言への言及で布石は打ってありますので、どう活かせるかという見せ場なのではと思いますが、続く言葉がその前の「いじいじした自分」の繰り返しになってしまっていることが少し残念に思いました。もちろん蝶をみて突如人生観が変わるなんてことは現実ありえない話だとは思います。ただこの場面意地でも描写の質を変えていきたいところではありますよね。

僕はなんて汚れているんだ

これはもうすでに言及されていることなので、どちらかというと蝶のほうにもっとフォーカスをあてるのもよいのではないかな、と思いました。

10631 : 此岸  ネン ('18/08/01 00:00:13)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_111_10631p

話者の死生観というものが開陳されていますが、それが読み手とどう関係してくるのか、というのがいまいち迫ってこないという作品でした。
何か一つでもいいので、話者が読み手にとって近しい存在であると、詩文の中で示すことができれば、と思います。
例えばですが

良心と生きていくことを
決して諦めたくない

という言葉は、ありきたりであると同時に「あ、わかるこの感覚」と思ってもらえるところなんじゃないかな、と思うんですが、今のままだと実体のつかめない話者のありきたりな独白、でしかなかったりします。
ありきたり、というのは同時にわかりやすいということなので、何らかの工夫をして、この表現からありきたりじゃない部分を浮き上がらせてあげられたらな、と思いました。
文極でこの手の生や死という言葉をダイレクトに使って、読まれうるものにうまく変換できる人って誰だろうか、と考えたときに進谷さんの『ぱぱぱ・ららら』が思い浮かびました。

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