2018年8月 芦野月間選評
芦野個人の選評となります
前書き
- 理由あって優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
- 理由についてはのちに告知スレッドのようなものを立てて、説明したいと思っております。
- 上記の理由で優劣がつけられなかった作品に関しては私しか選ばないだろう、という作品を積極的に推挙しています。そのような「不当」な理由で落選となった作品に関しては作品の横にその旨付記させていただきます。
- 優良、落選、順不同です。上から選評を付けていったので、上の作品ほど薄っぺらい評になっておりますことは大変申し訳なく思います。これからの糧にするつもりです。どうかご了承ください。
- 一部の作者の作品(今月ですと鷹枕可さんの作品です)は私の批評の範疇から著しく外れているため、選評を付けることができませんでした、謹んでお詫び申し上げます。
10698 : 山 イロキセイゴ ('18/08/31 23:56:28)
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船具商と山という対比(船具商であった彼が山へ行ったという行為)がどのように描かれているのかまず一読して気になる作品であります。作品の短さとは裏腹に一読して読者におや、と思わせる仕掛けとして上手に作用していると思いました。
一方で魔界、死海、モネ、というワードが読んでいるものを置き去りにしてしまっている感が否めませんでした。
私の浅い読みでは、 モネの座礁した船を描いた絵をまず想像し、彼の内的な世界(魔界)において座礁というイメージに関連した、いいえぬ恐怖のようなもの、或いは閉塞感のようなものが転機となり山というものが立ち上がってくるといった読みしかできませんでした。
イロキセイゴさんのスタイルは決して崩して欲しくないのですが、個人的には読者をより引き込む仕掛け、導線のようなものがもう少し欲しいと思う作品であります。
10696 : Garden garden 紅茶猫 ('18/08/30 14:27:59 *4)
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正直に申し上げて全く読めなかった。というか僕の中にこの詩を読む感性が備わっていなかったと言ってもいいかもしれない。
L字型の空に
賞賛を浴びせよう
こんな風にドキリとするような言葉はあるのだけれど緊張感が続いてくれない、と少しもやもやしました。
僕だったら、多分上記の言葉の外堀を埋めるための描写を連ねるだろうし、作者が一番読んでほしい言葉に読者がたどり着くまでどんな姑息な手を使ってでも、「この文章はあなたにとって意味のある文章です」というポーズを取り続けるだろうけど、それでこの作品が表現したかったことが実現するか、というと全くそうではないのではないかというのが、このもやもやの原因なのだろうなと思います。
10693 : 夏のどこかで 山人 ('18/08/28 18:29:33)
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幼い頃に恋心を抱いた相手を「君」と読んでいたのですが。いまいち判然としませんでした。
「今そこにいない誰かを想うこと」というのはそれ自体が読み手の情感を刺激する便利な道具だと思っております。実際にこの詩も語り手と君との間にある想いの糸を想像しやすいようになっていて、その点スッキリと頭に入ってくる、という点で良い詩だと思います。
ただ一方、詩情という観点から申し上げると、やはり独自の表現、つまり「今生きている作者」からどうしようもなく漏れ出でてくるような表現が少ない分、心に入ってくるものがそれほど多くなかったという印象はぬぐえませんでした。
父子の関係ということを知って改めて思ったのですが、詩の中にそのことを明記するようなことは必ずしも必要ないかとは思われますが、それが実体となって自然と現れてくるような肉感のある詩を読みたいと思ってしまいました。作者の他の作品を知っているからなおさらですね。
10689 : crush the sky, pop'n'sky アルフ・O ('18/08/23 23:28:42)
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「そらをうつ」という導線があってどこまで読者をひっぱれるか、という感じで読みました。
こういう詩の場合、読み終わった後に、読んだ人が「確かにこれはそらをうつとしか表現しえない何かをいわんとしている」と思うか「あーなんとなくそらをうつって言いたかったんかな」と思うかで大分評価が分かれると思います。
前者だと単純に良い詩という評価に落ち着くと思いますが、僕は後者だった。
ただもちろん後者のタイプの詩が悪いものか、というと必ずしもそうは言いきれない部分もあって、そういう詩で読ませる場合、必ずといっていいほど必要になる技術があると思っていて、「言葉が良い意味でうわ滑っていく感覚」を読者に与えられるか、ということに尽きるのではないか、と思っています。
10680 : 狼 青島空 ('18/08/16 17:44:15 *2)
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初初しいモチーフであるとともに、「ああ、またこのパターンの詩ね」と思われがちなモチーフかと思います。
ただ読者にそう思わせることって作者からすると、チャンスでもあると思うんですよね。
優れた詩を読んでてありがちなことですが、「予想に反する」というテクニックは往々にして効果がでかいです。
この詩の場合、読者が心のうちで予想したモチーフが、予想した通りに展開して、予想の範疇に着地する、となっていて、なんとももったいないなぁ、と思ってしまいました。
「予想に反する」というのはもちろん「展開」という点で、ありえない展開にしたりすること、というのもありますが、僕はそういったタイプの詩であまり効果を得ている作品に出合ったことがなく
むしろ、もっと文章の端々に違和感を挿入する、読者に、「予想通りの内容なんだけど、なんだか自分はとんでもない読み間違いをしているのかもしれない」と思わせれば、ほぼほぼ勝ちなんじゃないかな、と思ったりもします。
とにもかくにももう少し、登場人物を自分から突き放してみては、と思う作品でした。
10692 : 賢人の浅はかを強くありませ。 コテ ('18/08/28 12:19:46)
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正直選考でなかったら、通して読もうとはしなかったと思う。けれど通して読んでみて、輝くような詩句が隠されていることに気付くと選考も悪くないな、と思えますね。
例えば
それもまた、世間的には不自立で恥ずかしいことだったので、因しない跳ね返るように抑えられない現実逃避や砕かれた自尊心の固まりという、死にきれない恩情はパリや、ミラノのファッションに転げアガった。光を食べたかった。光に包まれ、愛を確認する。表現する。構築する。彼には二度も逢いたくない。存在したい。
僕はこういう自然な会話ではない、というか誰かに何かを正確に伝ええること第一義としている言葉とはまた違う、うめきのような言葉の発露が好きです。
ただ本当にもったいないと思うのが、やはりどれだけの読者がこの言葉に出会うまでこの詩を読むだろうか、という疑問と、このような制御不能な言葉を紡ぎだす話者が、途中まで理路整然と話していたらやっぱりそれはそれで違和感があるのだろうな、というジレンマに悩まされる。
結論としては終わりに近くになるにつれてしりすぼみ感が否めなかったりで、輝くところもあるけれど…という評価になってしまいました。
10649 : ルイーニの印象 鷹枕可 ('18/08/04 21:35:23)
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10697 : 死の糧 鷹枕可 ('18/08/30 19:35:14)
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鷹枕可さんの作品に関しては、良い意味も悪い意味もなく、お手上げ状態です。
大変申し訳ないのですが、この作品に関しては他の選者に委ねるほかないと思っております。
10690 : ぬふふ 白犬 ('18/08/24 05:20:29)
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極めて個人的な話になってしまうのですが、僕が最初のころに書いてた詩の体裁と極めて近いんですよね。なので思うところは多々あるのですが…
ほとんど迸るように流れ出た言葉をそのまま書き連ねて、読者に対して自分がその言葉を紡ぎだした時と同じくらいのテンションで読め、というのは土台無理な話だと思います。
だから文極では技術、技術、とうるさいように言われてると思うんですが、技術って、結局のところ読者を作者と同じステージにあげることだと思っています。そのために重要な意識として「この文章はあなたにとって意味があります」ということを、読者に植え付けることであり(親しい相手から自分に宛てられた手紙ほど気になるものはないんじゃないかなってたまに思います)、そのために、技術を使うと思うんですよ。一番わかりやすいのって感情移入ですよね、ストーリーラインってやつです。他にも、緊張感だったり、違和感だったり、嫌ほどありますが、自分が表現したいことなんて後回しでいいから、まずは同じステージにたってもらおうよ、と思うわけです。(改めて書いてみるとせこいですよね)
それで、僕はこの詩好きなんですよ。
耳が祈りの形をしていること(キミに教わった)
特にここが、なんだろう、前半言ったこと全部飛び越えて刺さってくる感じがしたんですよね。
だからこそもったいないな、という思いが強かったんです。
10682 : 待望 霜田明 ('18/08/17 11:11:17 *1)
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君と
コーヒーカップとを
見分けられなくなる
そんな日が来る
そんなまさか、って思いますけど、続けて読んでいくと、話者の君に対する想いのあまりにも複雑な様子への、ある種の皮肉なのではないか、とも読めてくる。いやもちろん冗談なんですが、あまりにも思考のなかへなかへ籠っていく様子にどうしても息苦しさを禁じえなかった。例えば、その二人の間には椅子が転がっていてたまたま西日の差し込む関係でなんか超絶独特な感じの影になってたことにしませんか? とか 何気なしに点けたテレビの中でニュースキャスターがうっかり原稿を読み間違えて、超絶それっぽいこと言ってたことにしませんか? みたいなことを言い出したくなるのですが、多分、それはこの作者にとって「純粋ではない」ということになるのではないかな、と思えてしまう。
ただあえて踏み込んでみるとしても、具体的なもの、身体的なもの、書きましょうよ。
ということしか僕には言えないのが残念だ。
10683 : 少女は歌う トビラ ('18/08/18 16:41:51 *6)
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特に、文章の体裁について、つまりこの詩文がかなり散文的だ、という点においてこの作品の評価を下げたということは事実としてない、ということはご留意されたし。
はっきり言って文章は僕なんかより断然うまいと思うし、読者に対する導線の引き方、申し訳程度ではあるけれど、ストーリー内での転調、など最後まで読ませる文章にはなっていると思う。
ただ残念ながら「何も残らない」という感想が一番先に来てしまった。
ここからは一般論にしかすぎないのですが、このようなショートショートを読ませるためには大まかに言って2系統の技術があると思っていて、
一つは単純にプロットの完成度をあげる、ということになるだろうと思います。別に文章の中にもっと強いメッセージを埋め込むという方法だけではなく、余韻を残すやり方であったり、読者に絶えず緊張感を与えたり、とにかく読んだ後に、誰か友達とこのお話についてあーだこーだ話したくなるような仕掛けを作れればしめたもんじゃないかな、と思います。
もう一つは、文章自体をどうにか読者にとって気持ち良いものにしてしまう、という手段です。もうとにかく読んでいて気持ちがいい、ある意味で「何も残らない」という点では一緒かもしれないけれど、そんなことどうでもいいくらい読んでいる時の浮遊感がたまらない、というような。どんな形でもいいですので、読み手に対して何らかの作用を起こすような文章というもの意識して作ってみては、と思う作品でした。
10684 : (無題) コテ ('18/08/20 23:06:36 *17)
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「どうですかな」
から始まる数連は、僕としては(自分としても意外にも)美しい文章に(最初は)思えた。何故かな、と考えてみたんですが、
古典的な戯曲作品を読んでいても思うことなんですが、泉鏡花という作家が個人的に大好きで、いまでも読み返します。それで、戯曲って基本的に説明文が入らない、登場人物の会話と会話の連なりですべてを想像させるってやり方をとると思うのですね。それで、本人同士は顔を突き合わせているから、それだけの言葉で通じるかもしれないが、第三者としてそれを読んだ時に、どういう意図なのだろうか、と迷うことってあると思うんです。で、それを読み解いた時に同時に頭の中にバシっと入り込んでくる、登場人物の顔色や仕草、その他もろもろがとても気持ち良いんじゃないか、って。少しだけそういうのに通ずるところがあるのかな、と思った次第でした。
すみません話がだいぶそれましたね、この作品に関してはそういうバシっと入り込んでくる瞬間ってのはなくて、そういうの勝手に僕が勝手に期待してしまったというだけの残念な構図なんですが。それは決して作品の責ではないですね。
うーん、、やはり、大仰に行空けされたそれぞれの詩句にそれだけの力が宿っているとは思えなかった、残念ながら。
9月に投稿されたコテさんの作品を先取りして読んでみて思ったことではあるのですが、まずは小品と呼べるようなものから書いていって、そこからまた独自の言語空間に挑まれていった方が良いのではないかな、と思います。
10691 : 事情 ゼッケン ('18/08/25 11:55:28)
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鈴屋さんの『夜行ドライブ』って作品を思い出してました、懐かしい。
言うまでもなく僕より巧い書き手なので、プロット、語り口、云々、特にこうしたら、なんて思わないんですが、どうしてもやっつけで書いたんじゃないかな、って思うところが多かったです。
木とセックスする男、自分を盗撮してほしいと頼む変態な後輩、いや、初読は笑ったんですけど、最後の一行を読んだ後にその言葉を踏まえて改めて読むと、なんというかそのために出しただろ感が否めなかったです。
文学極道に投稿される、良い意味での「ほんとどうしようもない話」の系譜で語るとするならば、そういう作品って読み終わった読者に、「うん、なかなか良くできたプロットだった」なんて思わせたら負けだと思うんです。
そのどうしようもなさに、もちろん笑いながら、読み終わった後に、何故だかわからないけど、もうどうしようもないような共感とか、気分の落ち込みとか、とにかくもう言いえぬ読後感みたいな、そういうの巻き起こしてなんぼなんじゃないかな、と。
とはいえ、そんな作品なかなか出会うことないですが。文極だとリンネさんの『しかもな、梶原がおらんねん』とか大ちゃんさんの『糞迷宮』だとか、この作者にこのような例示が必要だとは思っていないのですが、僕の方もできるだけ具体的に語りたいと思ってるので「参考にしてください」なんて全く思ってないけど自らの選考に責を負うという意味で例示だけしておきます。
10695 : 詩五篇 朝顔 ('18/08/29 21:19:53)
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「教育」 と題された作品は、正直すごい技術だと思いますし、できればこの技術を使って、他にもっと長いものを、と思ってしまう自分がいます。
もうここに至っては、単なる感想であることを隠す気もないのです。いかにも素直な詩の体裁のような気がしますが、僕は個人的にガルシアマルケスの『予告された殺人の記録』を思い出していました。
いやもちろん、全然ちゃうやん、という突っ込み待ちなんですが。なんというか、読者の読みをコントロールしているんですよね、それ自体が良いことか悪いことかはわかりませんが、ネット詩という、ほんと人によっては電車の中吊り広告くらいつるっと読んでしまわれる可能性もあるものにあって、読者を立ち止まらせる技術、というのはかなり重要なのではないかな、と。
ただ残念ながらその他の四編にかんしては上質な稲葉うどんみたいにつるっと読んでしまい、強くは残らなかったです。
ただじゃあ、教育単体で僕がこの作品を手放しでほめられるか、というと。そういうことでもなくて。僕がこの作品に見出したのは、本当に素晴らしいと思える技術であり、いわば、名作と呼ばれうる絵画の最初の数タッチのような。そういう風に捉えてしまいました。
10694 : Ooze アルフ・O ('18/08/29 08:06:25 *3)
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最初に断っておきたいのだけれども、僕にはこの作品を享受できる感性が備わっていない。
どうしてもそれっぽい言葉の羅列に見えてしまうし、読者を作品内に引きずり込むフックのようなものを感じることができない。具体的な場面は一瞬読者を惹きつけたかと思うと、次の瞬間霧散してしまう。
ただ最初に断りをいれたのは、ある読者にとってはここに書かれた言葉らは強烈なフックなのかもしれない、という印象をぬぐいきれない。
僕は文極だと紅月さんという作者の作品が好きなのですが、じゃあ、どういうところが好きか、と聞かれた時に、「とりあえずよく分かんないけどもう限りなくクールなんだよ」とそう答えるのが一番自分にしっくりきてしまうのですよね。アルフ・Oさんの作品に対して、「よくわかんないけど限りなくクールなんだよ」という人が現れたとして、僕はたぶんそれを否定できない。
じゃあなぜアルフ・Oさんの作品に対してだけ、そのような言明をするか、と言うと、僕の中にこの詩を享受できる感性は備わってはいないけれども、完成度という点で少しだけ優れているような気配を感じたという曖昧なことしか言えないです。
すみません選考って難しいですね、とかいう甘えたことをちょっとだけぬかしておきます。
10687 : Livin’Suicide 玄こう ('18/08/23 01:12:55)
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炸裂した色づく陰が外耳に掠める
作者に対する信頼、というのは文章を読むにあたって必ず発生する事象だと思っていて、もっと具体的に言うならば、上記のような詩句を果たして本当に作者は頭の中にイメージし、それを伝えんがために選語を繰り返して、この言葉を選んだのか、という疑問と言い換えてもいいかもしれない。残念ながら僕は上記の詩句を読んでそのような信頼をすることができなかった、あまつさえ適当に言葉の上っ面をこねくりまわしているのではないか、という不信感を与えかねないとすら思った。
もちろんそんなことは作者の中にしか正解はないのであるが、「あたかもそう思わせる」というのが僕が何度でも言ってしまっている「技術」という言葉になる。
逆に読者を突き放す技術というものもあるが、それは読者を突き放しながら、それでも読み手に読む必然性を与え続ける技術と言い換えることができると思う。詩は決して伝えることがすべてではないと思うのだけれども、こうしてネットという公の場にだし、読み手というものを求めるからには、「伝える」ということにもっと重きをおいてもよいのではないだろうか、と思う作品だった。それは作者のなかにある詩情というものに近づきたいと思うからこそ、もったいない、と思ってしまうということを留意していただきたい。
10688 : 位相 イスラム国 ('18/08/23 15:25:14)
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正直なんでこの発想をこんなぎこちない風に書いてしまうんだ。という思いはありました。今もあります。
ただじゃあ、この詩を限りなく肉付けして、ショートショート風に展開して、それで面白いか、と聞かれるとくそつまんないだろうな、という思いもあり、作者もそれがわかっているが故に抑えた文章にしていると勝手に想像しました。難しいところではあると思うんですが、そこを飛び越えてくるような作品に出合いたいな、というのが無茶を言うようですが本音なんですよね。それが僕にできるかって問われても確実にできないだろうけど、「抑える」ってやり方に関してもっと色々なアプローチをしてみてはどうだろうか、というのがぎりぎり僕が言える範疇の言葉じゃないかな、と思うわけです。「ショートショート風に展開して」っていうのは「抑えない」って意味でかなり極端な話ですが、なんだろう、この作品にはもっとふさわしい出力の仕方があったのではないか、と読んでいてとてももやもやしてしまう点でした。
10681 : 運命 いけだうし ('18/08/16 20:25:04) [URL]
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最後読点で終わっているから、運命というタイトルがそこに挿入されることによって、この文章自体が劇的な変貌を遂げるのかな、とちょっと期待して、運命。と挿入してみたけれども、そんなことはなかったですね。話者は便意を催しただけなのに、それを目が合っただけで全てを悟り、タイルの上で全裸で勃起しながら横たわるというのは、確かに運命的行為なのかもしれない、と妙に納得するところはありましたが。
「読者の予想」に対して裏切りを用意すること、ってのは往々にして効果が高い、ってことを、今月の選評ですでに書きましたが、もっと言ってしまうと、読者はもちろん裏切りも予想しているんですよね。特に話の展開ということに関しては、どんな意外な展開を持ってきてもだいたい、「ああ、そうきたのね」という反応が返ってきます。読者の予想を裏切る作者への予想をさらに裏切るという予想…と無限ループに突入しそうですが、その突破方法は腐るほどあると思うので色々試してみてください、と思う作品でした。
10679 : 空を貫いたぜ。 変態糞詩人 ('18/08/16 00:04:27 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180816_467_10679p
読者に絶対にイメージなんてさせないという身振りで書かれるこういう詩は、結構好きなタイプの詩でもある。
この作品の場合、もうイヤってほど観念的なワードをこねくり回しながら、「空を貫いたぜ」或いは「帰結まみれになろうぜ」という限りなく陳腐な言葉で調子を整えていく、そういう感じで読みました。技巧的な作品だと思うし、こういうタイプの作品やっぱり好きだな、と思った。
ただのりきれなかった、トリップしきれなかった点として、地の文のパートがかなり単調に感じてしまい、後半に行くにつれて、予想の範囲内に収まってしまう。別に劇的な変化など求めてないが、もうワンアイディア欲しい、というのが読んで一番最初に思った正直な感想でした。
蛇足かもしれないですが文極で、この「突き放しつつ、抱擁する」タイプの詩で一番おもしろいのは吉井さんの『れてて』だと思っています。これの場合、読者の読みのぎりぎりを躱しながら、ってタイプの詩なので手法としてはちょっと違いますが、なんだろう、「突き放し方」として、今回の『空を貫いたぜ』は突き放した結果、読み手を崖からつき落としてしまって取り返しのつかなくなっている感、が否めないと思うんですよね。いや、突き落としてしまったらもっと強烈な方法で抱きしめてしまえばいい、とも思うんですが、それだと今回の調子の整え方だとちょっと弱いな、というのがありました。
追記
フォーラムで元ネタに関して言及されてるのを読んで、少し書き足したくなりました。
とはいえ感想はほぼ変わらないんですが、元ネタの文章は結構お話し的にある種のインパクトがあるわけなんですが。そのお話し的なところを全部削ってもある程度読めるものになりうるという発見は作者の慧眼だったのではないかな、と思いました。
10686 : 綺麗な花が咲く夜の森/夜の庭 仁与 ('18/08/21 13:34:19) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180821_865_10686p
滅茶苦茶に素直に書かれていているがゆえに、(この場合素直というのはテーマではなく書き方ですね)どうしても読み手に対して、「あなたにはこれを読む必然性がある」と訴えかける力が弱い詩なんだと思います。僕は「罪悪感」という感じで読み解いたんですが、じゃぁそれでどうなったかというと、何とも言い難い作品になってしまっている印象を受けます。一応書いておきますが、作者の精神性が浅いだとか、そういった類のことを言っているのでは全くないです。要するに今、作者の手元にあるカードをいかに魅力的に魅せられるか、ということについて話しているのですが、これから「他人に読まれうる詩」というものを書いていきたいと思われているとしたら、是非心に留めておいてほしいのですが、「フック」というものをもっと意識した方がいいと思います。言い換えれば、読者を惹きつける仕掛け、というのを意図的に演出して、いま作者がもっている手札をもっと高い役だと読者に想像させてください、ということですね。作者にとって詩として表現したいと思うような、心の中の事柄って、他人にとっては本質的に高い役であり得ると思っていますので。
10685 : 名付け夢想する イロキセイゴ ('18/08/21 03:12:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180821_832_10685p
個人的に作者の作品を享受する感性はぎりぎり備わっていると感じているのだけれども、だいたいいつも言葉にならない。つまり「あ、なんかいい」と思うか「あ、ちょっといまいち」って思うかの二択になってしまっていて、なぜそう思ったのか、というのを説明できないのをもどかしく思っていた。ただナンセンス詩って、それだけで敷居が高いと思うし、整然とした文章にならない自らの感性を、はいどうぞ、という具合で投げかけらる、というのは受け取り手としてはちょっと困る、ってのが本音なんじゃないだろうか。僕もナンセンスな詩ってよく書くけど、だいたい「読者をのせる」かユーモアってフックを使うことが多くて、作者のような言葉単位でのセンスでの勝負って、自分がはなから無理だと投げ出している分野なので、そこで勝負し続けること自体すごいことなんじゃないか、とは思います。
今作は、「あ、ちょっといまいち」と思ってしまった。じゃぁどこがだめだったか、と説明しだすと途端に白々しい。そんなんよりいつかこの手法で僕には思いもよらない詩を書いてもらって、あっと言わせていただきたいな、という思いの方が強いってことですかね。
10670 : もうなにもかも知らないし何も知らなかった ゼンメツ ('18/08/13 11:54:12) 優良候補→落選
URI: bungoku.jp/ebbs/20180813_275_10670p
(聞いた話、なんだか色々あるらしいので)今月はゼンメツさんには是非とも駄作を投稿していただきたかった、という思いはありました、だって選考するうえで嘘はつけないので。でも滅茶苦茶おもしろいもの放り込んできました。これはもう仕方ないですね。諦めるしかない。
なぜ面白いか。
1連目
そのまま、曖昧になった境界線が、欠けゆく夕陽のように小さく震えはじめ、僕は少しづつフローリングの下へ沈んでいった。って、なんだそら、
まずこの点に顕著だけれども、読み手の緊張とその緩和ってのをコントロールする技術が使われてて、「欠けてゆく夕日が震えていること」ってそれ自体僕は結構ドキッとするような発見だと思うのだけれども、そういう美しい比喩でもって読み手に緊張感というか、「読む必然性」を与えつつ、「フローリングの下へ沈む」で読者の頭の中に疑問符を浮かべさせて、「って、なんだそら」で緊張を解く、って手法ですよね。これ自体別に難しい手法ではないけれども、まず読者に読む必然性を感じさせる段階が一番難しくて、それを軽く超えてるという点が、この技術をより効果的に魅せているポイントだと思う。
2連目
けっきょく最初に思い浮かんだ名前がナナコで、それでなんかもうどうしようもなくなって、とにかくどうしようもなくて、つーかおっぱいだってけっきょくはブラ越し、制服越しの単なる想像で、ジッサイのところ恥じらうナナコが僕の前で制服をはだけて、これねサイズがあれだからあんま可愛いのがないんだとかどうでもいいことを言いながら、僕もそんなことないよすげー可愛いと思うとかどうでもいいこと言いながら、ホックを、そう、だって外すんだし
ここも単純に言葉のリズムでもっていかれます。というか思念と動作の塩梅って言った方がいいかもしれないですが、上っ面しかない言葉を並べつつ、唐突にホックを外すという実際滅茶苦茶重大な問題に突入させる、これは読み手にスピード感を感じさせる技術として成功していると思う。全体としては岡田利規の「三月の5日間」の模倣かな、って思う節もありましたが、作者特有のテクニックも存分に感じられると思う。
という具合で基本的には緊張と緩和、動作と思念の塩梅、3連目以降顕著なのは、エモいところぎりぎりに踏み込むか踏み込まないかの駆け引き(わかりにくく書かれてるけど4,5連目すごくエモいですし、うまく書かないと気持ち悪いです)、これだけ揃えれば十分読まれうるものになると思う。実際女性の身体的特徴の描写は若干うるさいところもあるとは思ったけれど、気にさせないくらいの筆力で書かれている気がします。
それで、そうなってくるとやっと、皆が大好きな「作者の伝えたいこと」ってところに行きつく。実際のところ、作者の伝えたいことはいつだって一番最後になる。
この詩の根底に流れているのは「僕ときみ(ナナコではないよ)」との関係であり、何度もしつこいくらい繰り返される、震えている、という言葉。換言すると、何かを思い出すこと、それが色褪せていくこと、そしてそのことがどうしてもやりきれないということ。というふうに読みました。文体は少し人を選ぶ感じかもしれませんがテーマ自体は間口が広いんじゃないかな、と。僕は単純にかわいいな、って思いました。
10645 : 啓蟄 渡辺八畳@祝儀敷 ('18/08/03 13:34:54)
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個人的に専門外なので言えることは少ないかな、と思っています。というかこの手の作品って言葉を尽くしてどこがだめか批判する、って行為自体もう作品への称賛なんですよね。あるいは協賛か。別に現代アートの系譜がうんちゃらとか何も難しいことは考えてないです。この手の作品に関しては、現代詩なんてさらさら興味ないけど詩というものに関しては若干の興味がある僕に「いや、このテーマに関してなら僕も一家言ありますぞ」とか思わせたら、作者の勝ちでいいと思います。
10674 : 野原に寝転がる 狂い咲き猫 ('18/08/14 22:18:28 *1)
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正直に言うと嫌いじゃないです。ただ発想が安い、というか、発想自体面白いのだけれどもこの詩の構造に発想が耐えきれていない、と言う方が適切かもしれません。
じゃあ、どんな発想ならこの極めて短い詩といういばらの道と思われる体裁に耐えられるのか、という具体的なビジョンは僕には全く見えないです。というか見えてたらすごい詩人になってたんじゃないかな、と思います。
でも挑戦し続けてほしいですね、できればもっと安易な道からあゆみ始める形で、徐々に難しいことに挑戦していってもいいのではないかな、と思いました。
10678 : じゃんぱら 湯煙 ('18/08/15 23:36:28 *19) 優良
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Xperiaあたりでもう滅茶苦茶面白くて吹き出してしまいました。僕のイメージですと古谷徹さんにタキシード仮面風、あるいはアカギのナレーション風にこれを朗読していただければ昇天できるだろうな、という確信があります。構造的にはままありがち、というか、書こうと思えばだれでも書けるけど多分面白くできないから書かないタイプの詩だと思います。それでも成立させてしまうのは、もうひたすらにこだわられている細部があるからだろう、ということは、まあ一目瞭然ですよね。その語りの部分があまりにも真面目だから、ところどころにちりばめられたユーモアがちゃんと面白い。(でも僕が本気で笑ってたのは、ひたすらまじめな部分でしたが)
東には無人の砂漠に舞う一葉の若葉があり、西には無人の砂漠に舞う一葉の若葉があり、さらに西には砂漠の大気に舞う一葉の若葉に一つの十字が重なり、十字を軽く押さえつければ東に西にと無人の砂漠に一葉の若葉が舞う。
ここに至っては(僕はXperiaユーザーではないので想像で補った部分が多々ありますが)細部への徹底的なこだわり、というある種乾いた、詩情もへったくれもない叙述が続くなか、思わぬところから詩情を持ち上げさせるという力技に入っていて、正直言ってここはもう笑うのをこらえることができなかったです。細かいことに言及すると、これ僕がこの選評内で散々書いていることなんですが、読者の予想を裏切る、ってものの一例になっていると思っていて、いや、これこそ予想通りの展開じゃん、と思うかもしれませんが、展開レベルじゃなくて描写の密度を上げていく、もうくどいほどに。展開としては予想通りなんですが、「え、そっちに極まっていくんだ」って意外感がたまらないです。
読むことの愉悦という意味で一条さんの『nagaitegami』を彷彿とさせられました。
あえて言うならば落とし方が妥当だな、と感じたことくらいですが、これ以外の方法があるのかと問われると難しいですね。そう一度狂ってしまったコンピューターは強制的にシャットダウンするしかない、みたいな。HAL9000の哀愁ですかね。
いや、本当に面白かったです。
10672 : 架空座談会 一輪車 ('18/08/14 06:15:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180814_339_10672p
多分笑いのツボが違うんだろうなあという作品。僕ら悲しむことや嬉しいと感じることは、生きていくうえで能動的に自らの感性をいじくっていくことがままあると思うんですが。こと笑うということに関して、一度大人になってしまうと社会に出ようが、本を読もうが、様々な人に出会おうが、変わっていくことはあまりない。そういう意味ではこの作品を享受できない申し訳なさを感じます。
社会風刺、というか、現代詩というものの風刺として、この作品を読もうとすると、風刺にしてはエグさが足りていないと思うが、そもそも風刺とか皮肉って笑いと共に立ち上がってくるものだと思うから、笑うほうのアンテナがずれてる僕の見立てが正しいのかもわからない。
それを踏まえたうえで思ったことを言います、
例えば、サイコパスというキャラなんですが、最初になんかいいこといいながら場を宥めてるところって結構わくわくするところだと思うのですよ、実際僕もしました。逆に突然首をしめる場面って、まぁそうだよなあ、ってなってしまう。僕はサイコパスには劇中ずっといいキャラでいてくれたらいい意味で裏切られただろし、含みを持たせることができたんじゃないかな、って全部読み終わった後に感じました。
10677 : 高く放り投げたボールは・・・ 空丸ゆらぎ ('18/08/15 21:12:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180815_460_10677p
面白くするには結構難しいスタイルをとっているな、って印象を受けました。というのはこの形式で突き詰めていったとして、読まれうるもの、と言うところまで到達できるとしたら、それこそ一つ一つのセンテンスで唸らせるしかない、って思うんですよ。
例えば
「標準」からはみ出たら闘うしかないよね。
というのはとてもわかりやすいけれど、単なる標語という形で閉じてしまっていると思うんですよね。標語ってのは、いわゆる「街をきれいにしましょう」みたいなことなんですけど、そこから脱するには二つの方法があると思っていて、一つは肉付けをしていく、って作業になると思います。要するにそれを発する人間を詩の中で肉付けし実体化し「共感」って方法で、そのセンテンスを、実際の人間が生きてきて、そのうえで吐いた言葉として読者に受け取ってもらう。文脈化してしまうってことですね。
もう一つはそのセンテンスを限りなく研ぎ澄ませて、それだけで読者を唸らせるってやり方になると思うんですが、いわゆるキラーフレーズというものです。
それで思うに作者は後者を意図したのではないかという憶測で、「難しいスタイルを…」と言ったわけです。さらに、これは僕個人の勝手な決めつけなんですが、基本的に前者のやり方をとった方が易しいと思います。というのも後者でものすごい詩ってホント数えるくらいしか読んだことなくて、例えば、谷川雁『商人』とかですかね…あれ全部キラーフレーズ並みに際立ってて、フレーズから逆に一人の人物の実存が立ち上がってくる稀有な詩だと思うんですが、僕には逆立ちしてもかけないので、当然おすすめはできないです。まぁ思うところは色々ありますが、是非、いろんな方法で、もちろん僕が思いつきもしないような方法でも、誰かに読まれうる、というところまで達していただけたらと思います。
10673 : うすく イスラム国 ('18/08/14 11:43:41 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180814_352_10673p
まぼろす、たよかぜ、という言葉に躓きます。いや、もちろん躓いていいんです、だって躓くように設計されているわけですから。問題は、そこから読み手に対してどういった落としどころを用意しているか、ってことになると思うんですが、僕は読んでいて、「あ、放りだされたな」という感覚を覚えました。いや、そもそも造語で良い詩を書くのってすごくハードルが高いことだと思いますし、当然僕は書けないわけなので、どうしたら、という提案もできないのです。ただできれば、躓かせたなら躓かせたなりに、なるほど、と立ち直るような文章を入れて、読者の読みをコントロールできたらすごいものになるのではないかな、と思いました。
10652 : 明日を探して lalita ('18/08/06 00:10:13) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_529_10652p
正直非常に批評し辛い作品です。もうひたすら悦に入ってる感じで、僕が「読み手のためにうんたらかんたら」と書いたところで、それは作者の目指すところとは絶対に違うということを確信してしまう、という意味で評し辛いです。
ですがあえて書くとすると、「狂気」というのはある意味で表現のバリエーションたり得るとは思うのです。ただそれはコントロールされた「狂気」であり、読み手に緊張感と同時に安心感も与える、ある種飼いならされた「狂気」という意味です。ちょっと残念ながら例示するような作品がいま思い浮かばないので拙作になってしまうのが申し訳ないのですが、これとかですかね。
ただ繰り返しになってしまいますが、多分作者の理想はそのようなコントロールされた狂気というものでは無い、と確信している自分がいます。
それでも僕は、表現のバリエーションとしての狂気、というものを書いてください、と言うしかないんですね。残念ながら。
10646 : Dress Tokyo 青島空 ('18/08/03 15:39:43)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180803_302_10646p
『狼』よりもこちらの作品のほうがだいぶいいと思います。たぶん理由は単純で、こっちのほうがより具体的で、身体的で、そこから発される思念を想像しやすいんですよね。そこに実際に人が生きていて、こう思ったんだ、と想像させるやり方が一番スマートに相手の心に言葉を届けるやり方だと思っています。
また
しかしページをめくると溢れてくるのは東京への憧れだった
ここの転調なども、実体を想像しやすいから見どころがある、文章における転機になっていると思います。
ただ同時に、それだけでは詩文として読まれうるものたり得るか、というと残念ながらそうではないと思ってしまいます。もしかしたら僕の選評を読んで、読まれうるものっていうのはどうしよもうなく奇をてらってゴテゴテした装飾をつけてなければならないのか、と不信に思われるかもしれませんが、僕はそんなことは断じてない、と言えます。僕自身この「芦野夕狩」という筆名は、最初は25くらいのOLの設定で、ポエム教室に通っているけど、難しいことはよくわかんないから、素直な文章しか書けない子として作ってみたキャラなんですが(途中で飽きて素に戻りましたが)、ほんのちょっと地の文をいじるだけで、読まれうるとまでは言いすぎですが、「まぁ読んでもいいか」くらいの詩は書けたと思います。なんだろう、方法はたくさんあって、何も強制されてはいないということだけ、できれば心に留めておいていただけたら、と思います。
あ、一番変えるのに簡単なのは情景描写ですね。例えば
気取っただけで記憶に残らないよくあるカフェのインテリア
から始まる連。今のままだと単なる情報の羅列になってしまっているのですが、多分作者(話者)の頭の中でこのことを想像したときに浮かぶ情景ってもっと特徴的で、ユニークなものであると思うんですよ。僕も常々気を付けていることなんですが、「風景なんてない」ということ、「その風景を見ている自分がいる」ということなんですが、そういった頭の中で思い浮かべたものごとを単なる記号として読者に受け渡してしまうよりも、「風景を見ている自分(或いは話者)」というものを丸ごと表現するだけで変わってくるものってあると思うんですよね。なぜなら、単なる風景描写はただの記号の受け渡しにすぎませんが、それを見ている自分を丸ごと読者に伝えるってのはその作者特有のユニークなものでありうると思いますので。これって全然ゴテゴテしないし、奇をてらった文章にもならないと思いませんか。
10657 : ブラフマン 陽向 ('18/08/06 16:38:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_605_10657p
lalitaさんへの評と同じような感じになってしまうのですが、僕が作者に言えることはかなり少ないと思っています。それでも敢えて言うとするならば、宗教的な悟りというものを客観視して書いてみてはどうでしょうか、ということくらいです。lalitaさんへの評と同じことの繰り返しになってしまうのですが、その宗教的な体験、というものを僕は決して否定できません、できるはずがないです。ただそれを読者に受け渡すときに、読者も同じような宗教的な体験をしていることを前提としている書き方はかなり読者を限定します、ということです。客観的にその体験を観察して、表現のバリエーションとして書いてくださったら、と思うのですが、それは作者の望むところではない、というのはうすうすどころかあつあつに感付いていますので、そこはどうかご了承ください。
10662 : すいこう 水光または水敲または水考 いかいか ('18/08/07 17:22:52)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_733_10662p
はっきり言って僕が評したところで感は半端ない書き手ですが、
僕がこの書き手に関して一番特徴的だと感じるのは、「自分が今書いてる文章を書いているそばから裏切っていく」というようなふわっとした言葉でしか表現できない。できるだけ具体的に言うならば、文章って最初の文字を見た瞬間に次に続く言葉をある程度予想できますよね。多分それって脳みその機能だと思うんですが、この作者の文章は、次から次へと裏切っていく、という感覚、これ脳みそに違和感を与えるタイプの書き手だ、と思っています(作品によって語彙単位で行われていたり、フレーズ単位だったり文脈単位だったり或いは文法をいじくってたりしますが)。それに関しては、いかいかさんの過去作を読んでもらえたら、ある程度納得していただけるところでもあると思うし、そうじゃないと思うところもあると思うんですが、それはおいといて。違和感を与える、ってそれ自体ですごく効果的な詩の技術だと思っていて、文章がうねる感覚、それに伴うドライブ感ってのがこの作者に常についてまわりますね、
それでこの作品なんだけれども、僕は正直のれなかったです。例えば
今から東京をむちゃくちゃにしてやると叫ぶ
みたいな、この作者としは珍しく設けられたボーナスステージ(あのマリオの裏ステージみたいにコイン一杯あるところね)みたいなフレーズに驚きはあるんだけれども、いやいやいや、あざといでしょ、と思った。(僕は過去にこの作者のめちゃくちゃあざといボーナスステージでまんまみーやって言いながらコインを一杯とったことあるし、もっと巧く設えられてたら、いまでも余裕でだまされる自信はありますが)
そして、「あきた」で終わらすネタこれで何度目ですか、というツッコミも一応いれておきたい。
10664 : 散歩の途中で 空丸ゆらぎ ('18/08/08 22:36:42 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180808_936_10664p
うん、こっちのスタイルの方が絶対良いものを書ける可能性があると思いました。これまた理由はシンプルで身体的な動作の表現ってそれだけで動きがあるんですよね、動きがあるってのは、読者の視線の誘導って意味でとても書きやすいし読ませやすい。わかりやすい例としては映画の長回しのワンシーンなどイメージしていただけるとよいと思うのですが、ただ単にひとつの場面を映し続けるよりも、はるかに「ストーリー」に富んでいるんですよね。
そういう意味でこの詩を読んでいくと、出だしは、確かに話者の視線というものを感じつつ、それが宇宙という想像の世界に飛び、余白という観念的な言葉につながっていく、という「ストーリー」があって、なぜか唐突に霧散してしまう。いや、そういうやり方もあるとは心得てますが、ここでそれが効果的に活きているかっていうと少し疑問な気もします。なので、まずは(こんな言葉使うのは失礼なのは承知ですが)読み手の視線の誘導をメインでやってみてはどうか、ということを思ってしまうんですね。散歩してるわけですから、話者の見ている世界はどんどん変わっていくはずですし、散歩中に突然瞑想モードに入って観念的な言葉があふれ出る、なんてこと多分ないと思うんですよ。移り行く景色、それに誘発されて浮かぶ思念、そんな感じに「ストーリー」があったはずだと思うんですよね。
例えば
凍りついた世界に
小さな穴をあけ
釣り糸をゆっくり垂らす
というイメージ自体はわりと好きなんですが、これが「確かにいまそこにいると思える人物によっていままさに考えていること」として提示されたとしたら、それはより良いものとして結実する、と思うわけです。
最後に、文極で散歩の詩といったら鈴屋さんかなと思います。もしよろしかったらお読みくださいませ 鈴屋さん『秋の散歩』
10653 : ぬけがら 北 ('18/08/06 00:55:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_536_10653p
巧いな、というのは、改行 読点 句点 一切使わずに、読者に一定の視線を与え続け、それがたまに思念へと飛ぶ転換も、放りだされている感覚がしないんですよね。せっかく一筆書きで書かれているものをぶつ切りにしてしまうのはもったいないかもしれないですが。例えば
立ったり屈んだりして汗をかいているんだね
というのが、多分一読目ではどういう状況なのかわからない。けど、洗ったシャツ、という情報が入ってくると、「ああ」と思うようになっていて、最初のこの言葉は「労り」、ということに気が付く。或いは、最初からシャツを干していればいいじゃないか、と思われる方がいるかもしれないし、僕はその表現方法でも全然問題ないと思うけど、この書き方で得ている効果は「疑問→気づき」で、読むという行為を喜びに変換している、ともいえる。だからこそ、
あなたの子供として生まれてくることができたならばあなたのことを愛さずともずっとまもっていけたのに
という言葉が、突然降ってわいた言葉ではなく、確かに今詩の中に存在している誰か、から発された言葉なのだな、と感じることができる、これは思念とか結構唐突に入れがちな言葉に説得力を持たせる一番スマートなやり方ですね。
蝉のなきごえを時雨に喩えた空明く
これは好き嫌い別れるかもしれないけど、僕は好きだった。いや、単に天気雨と書くこともできるかもしれないが、視覚と聴覚を目一杯使うやり方でそれを成し遂げている、と僕は思った
ただ
不自然な思考の老廃物よ不自然な痴呆症
ここから詩が突然ぶつり、と切れているように感じるんです。いや、そういうやり方もあるってのは心得ているはずですし。いやそもそも僕が読めてないって可能性も全然あるのですが、何度読んでも、ここで詩を切ってしまう必然性を見出すこともできず、同時に、ちゃんと繋がっている、という読みも僕にはできなかった。この後の描写にも見どころがあるのだけれども前半部に比べて大分色褪せてしまうんですよ。
それで、これに関しては完全に僕が読めてないだけなのかもしれないのだけれども、読めてないものを読めてるふりして称賛するのって一番嫌いなので今回は推せない。
もし僕が大きな勘違いをしているようであったら是非後からでも指摘してほしい作品でした。
10648 : Living 宮永 ('18/08/04 20:27:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180804_379_10648p
生きていること(あるいは生活)、とリビング、というどちらともとれる、というかどちらの意味でもあろう題から、朧げながら表現したいものを浮かび上があがらせる手法としては、一定のラインは超えているとは思いました。ただもったいないと思ったのは、引っかかる部分、あえて読者を躓かせるような部分に関して、作者からの回答というのがどこまでも希薄にされていて、疑問符を抱えながら読み終えて「うん、でもなんかとても神秘的」というタイプの感想を与えかねないということじゃないかなと思います。
出来るだけ誠実に話そうと思うのですが、実際のところそれの何がだめなのか、なんて答えは僕の中にはないんですよね。僕はわりと読者まかせの部分を減らそう、という方向性でこの選評全体を書いているのですが、それがいいとか悪いとかは、もうおのおのの経験や感性にかかわる話だと思うので。ただ、同時に、詩というものをこのような合評の場にかけるにあたって、何が重要視されるか、というともちろん「語りうるもの」になることは同意していただけると思います。或いは「共有されうるもの」と言い換えてもいいかもしれません。いわゆるプラグマティズムですね。
例えば
撒かれた砂の上
という最初のつっかかり、読者に「おや」と思わせる装置かな、と思ったんですが、引き継がれるのがたぶん巻貝という言葉まで飛んでるんですね。これ水槽のイメージかな、あるいは生活、家庭といったものと水の中のイメージを二重写しのように描いたのかな、と思ったんですが、これさすがに読者に任せすぎじゃないかと読んでしまったわけです。
もちろんこの詩を読んで、良いなと思った読者に対して僕が何かを言いたい、とかそういうわけではなく、この詩の中で行われている「方法」を「共有されうるもの」として提示できない、ということです。
10668 : 並ぶ 黒髪 ('18/08/11 11:13:26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180811_126_10668p
まず何の話をしているのか、詩という形で誰かに投げ出すわけですから、そこは明らかにしたいところではあります。
同時にそれを明らかにしたところで、それは誰かに読まれうるものではない、というのが難しい点だと思います。この選評でも何度も繰り返している言葉になってしまうのですが、まずは具体的な場面、人物、を書いてみましょう。もし、それだと自分の伝えたいこととは違うことになってしまう、ということをお考えでしたら、自分の伝えたいことをいかにも体現してそうな人物をでっち上げましょう。印象的な事件を捏造しましょう。それでも嘘っぽくなってしまう、とお恐れでしたら、自分の来歴も適当に詐称しちゃいましょう(これは僕もやってたことですが)。と、ちょっと大げさに言ってみたわけですが、僕は基本的に作者の表現したいことを作者よりも重んじる主義なので、このように作者の表現したいことが、作者の取った方法によってないがしろにされてしまうことに悔しさを隠しきれないわけです。それなら、上記のような「卑劣」な方法をとってでも、表現したいことを読者に届かせる、という行為を、たぶんほとんどの表現者が積極的にではないにしろ肯定せざるを得ないと思うわけです。
10669 : 古都 犬小屋 ('18/08/13 04:51:39)
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古都と題されものを目にし、地方の美術館の西洋絵画、までフォーカスしているのですから、そこから映す映像、あるいは聞こえてくる人の声、やっぱり期待してしまうのが人情だとは思うのですが。
虚構の箱を開けると
虚構
おめでとう
と来ると、ちょっとそのカメラ手ぶれひどすぎませんか? という感想を抱かずにはいられませんでした。それで僕はたぶんこの選評で「読者の予想に反すること」いうのは効果が高いってことを何回か書いているんですが。実際これって予想には反してるんですよね。ただ予想に反するってものにも、ある種の作法があると思っていて、あくまで作者がいざなう道程のうえで「そっちの道だったのか」という驚きはどんどんあってもいいとは思うのですが。この場合、作者がどんどん進んだ結果読者が単に置き去りになっているという感が否めなかったのもまた事実です。実際そのへんの匙加減ってすごく難しいと思いますし、作者もそれと知ったうえで挑戦なされてることだと思うのですが、今回の試みに関しては評価できませんでした。是非また次の「裏切り」を期待しております。
10647 : 五分後の羊 泥棒 ('18/08/03 21:38:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180803_320_10647p
10667 : 友達の友達の友達の友達の友達の友達の友達 泥棒 ('18/08/10 16:57:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180810_097_10667p
同じ作者だということで纏めてしまいました。申し訳ない。
僕が文極で選考をしてて、一度だけ、ミスというか自分好みの作品を無理やり優良にしたことがあって、(本質的には結局自分好みかどうか、ということにはなるのでしょうが、僕は選考においてできるだけ自分の好みのテーマとか文体とかそういうのは意図的に考慮に入れないようにしてます)それが泥棒さんの『ザギミ』でした。一人が推したら優良になるってサイトでもないので、佳作でしたが。なんだったんでしょうね、作品どうこうより、この作者滅茶苦茶書けるだろうな、って直感がそうさせたような気がします。その直感が当たっていたかどうかは言うまでもないですね。反省はしてますが後悔はしてなかったりします。
2つ目の作品ですが
手首を切っている
陽のあたる坂道で
暗い場所を探しながら
ここはすごく鮮やかだな、と思いました。血の色と太陽という明るさとの呼応、それとともにその行為の暗さと、暗い場所との呼応。そのの対比が、ですね。なぜだか夕陽を想像して、ビジョンが広がったのはいいんですがそこから尻すぼみででした。タイトルも好みです、要するに「他人」ってことなんだろうけど、なぜだろうか少し身近に感じるような。
多分いろいろ飽きてしまって、別のことに挑戦されているのかな、と思いました。杞憂だといいんですが、お疲れなのかな、とも。でもまあ、僕はとりあえず作者の書く傑作をいつまでも待ってます。
10671 : house アラメルモ ('18/08/14 04:31:01 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180814_335_10671p
作者にはなんだか物凄いビジョンが見えてるように感じる作品です。問題なのは読者が同じビジョンを共有できないという点だろうと思います。
次々と移り変わるモチーフは作者にとっては必然かもしれませんが、僕には明らかに説明不足だろうと感じました。或いは冒頭はなんらかの映画のワンシーンなのかもしれません。そんなこと僕にはわかるはずもありませんが、とりあえず、映画的な手法かなとは少し感じました。仮に、そう仮定したとして、どのような点が説明不足なのか、ということになる。映像と詩では情報量の差もさることながら、カメラが勝手に動いてくれるか否か、というのが大きな違いになるような気がします。カメラが動くというのは連続性があるということなので、その地点からある地点までの道なりも必然映るわけですし、その関連性は勝手に頭の中に入ってきますね。
一方で詩というのは、あるモチーフからあるモチーフへ飛ぶときに、何の導線もなく次のモチーフに飛んでしまうと、関連性を把握できていないことがままあるので気を付けたいところです。
今作を読解すると
おお大きな翼が遮り
遠く、宇宙の果て白く輝いた申
うしの乳搾り、固まる
1行目では、2行目の宇宙との関連で翼が遮ったのが空であることはなんとなく把握できます。そして空を見上げたら(カメラが上空へズームして宇宙空間を映し出したら)宇宙の果てで申が白く輝いている。まあそういうこともあるかもしれませんね。3行目はその空を見上げた酪農家でしょうか、そりゃ宇宙の果てで申が白く輝いていたら固まりそうなものですね。と、この辺りまではぎりぎり関連性を持たせることができるのですが、その後ろに連なる行にかんしては、やはり置き去り、という感じが否めませんでした。もしまたこのような作品をお書きになるときはカメラは勝手に動いてくれない、という点に是非お気をつけください。
10661 : 反響 霜田明 ('18/08/07 15:47:26 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_724_10661p
もう一方の作品よりも良いと感じました。なぜだろうか、もちろん僕にはその観念的思考の10分の1もわかっていないだろうということはおいといて。外ヅラの話をしたいと思う。単純にこの話者は動いている。歯医者にもいくし、罵倒を受けたりもする。その、確かに(確かにというのは言い過ぎかもしれないが)話者は今ここに在ると読者をして思わしめることが、いかに大事かということに気付かされる。
言葉の意味、
それは高度さや
深遠さではなく、
自分へ向かう言葉が
反響するところにあるものだった
この言葉はとても僕になじみがあった、というのも今僕が選評を書いていて多くの作者に恐れながら申し上げていることだからだ。「自分」というのを「読者」と変えると、僕がずっと繰り返していることと同一になる。なぜ話者が「歯医者に行き、罵倒を受ける」とそれが少しだけ読者に「向かう」言葉になるのか。それは想像力というものがあるから、と思います。多分多くの人が歯医者に行って、罵倒を受けたりしている(歯医者で罵倒を受けるわけではない。いやそういうこともあるか)。だから僕は作者の頭の中にある観念的なものを「少しだけ」読み解こうと思えた。だから最初は10分の1もわかっていないと書いたが、12分の1くらいならわかっているかもしれないつもりでいる。それ全然理解していないじゃん、と思われるかもしれないけど、存外大切なことだと思うんですよね。
10660 : にがい いたみ 田中修子 ('18/08/07 11:05:37 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_702_10660p
次々と繰り出されるイメージというものに、うまく読者をのせてあげてください、と思う作品です。
少しイメージがぶつかっているなと印象を受けたところが、
乱れ散る言葉らに真白く手まねきされる
とありながら
瞼のうらの真暗闇 ここからどこへいく
とあります、多分これ初読ではぶつかってしまうと思うのですよね。真白く手招き、という言葉自体抽象的なものなのですが、初読では映像的な表現、いわゆるホワイトアウトのようなものを表現したいのかな、と思いつつ読み進めました。すると「瞼のうらの真っ暗闇」とありましたので、ぶつかっているな、と思う次第です。
通して読んでみると、最初の行はどちらかと言うと、のちに出てくる「先生」 という言葉の関連として病室、あるいは、「乱れて散る言葉」によって精神が壊れていくような感覚だ、ということに気が付きますが。多少乱雑な印象はぬぐえないのかな、と思ったりもします。
そのようなある種痛みの中で一度壊れそうになってしまった精神の内部へと潜っていく描写に思われたのですが、これに関しては、「狂気」の客観視というものをもう少し意識したらよろしいのではないか、と思いました。どういうことか。たぶん皆が思っているよりも人って理性ばかりで出来ていないと思うんですよね。夢のなかが荒唐無稽なのを考えると少しは納得いってくれるかな、と思います。ですからある種の「狂気」というのは皆が抱えていて、狂気というものに感情移入することもままあります。なのでうまく表現のバリエーションとして「狂気」を加工する、ということになりますね。「読む」ということ自体が多分に理性的な行為なので、その読者の意識に「狂気を近づけて」あげてください。ということになると思います。
後半の先生という実際の存在と対峙するある種普通ではない私、
いますか ここにいますか
という言葉は、祖母への問いかけのように見え、同時に先生への問いかけのようにも見せている。こういう優れた表現をもっと大胆に、読者に提示してあげたいな、と思う作品でした。
10651 : コノミ いけだうし ('18/08/06 00:04:15) [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_528_10651p
意味深につけられたタイトルと、解釈されることをまるで恐れるかのような本文。或いは、解釈、というものから逃れさるものの比喩として鳥というものを想定し、本文のその捉えどころなさと呼応している、、とすごく無理やりですが読めなくはないです。このような「誰かに伝えること」、よりも「誰にも伝えないこと」というものに主眼の置かれた文章というものは、実のところ僕は好きですが、少しだけ条件がありまして、その手の作品でのタブーとして、「誰にも伝えないこと」を悟られてはいけない、というものがあると思っています。
どういうことか、はじめから「誰にも伝えないこと」がばれてしまった場合、読み手にとって、それは読むに値しない文章、ということに即なってしまいます。そういった意図はできるだけ隠して、あたかも「何かを伝えている」素振りで、すべての読者を裏切っていくような、そういう作品は言いえぬ読後感があります。
あくまで僕が作者の意図を勝手に想定して書いていることなので、見当違いも甚だしいかもしれませんが、この作品にはそのような「装置」は見当たりません。
「純粋な射精」、という言葉が出てきますね。文脈通り読むとこれは動物的な、或いは生殖のための、と読み替えてもいいかもしれません。けれども、例えば男子高校生が好きな子を思いながら垂れ流した精液も同様に純粋では? いやいや、それこそセクハラ体質の上司が部下のなんらかの弱み、立場的な力を利用して涙とともに流される精液もある種純粋と呼べないだろうか?
などと、思うわけですが、もちろんこれは「いちゃもん」です。だってそうではないことは本文に示唆されているのですからね。
ただ同時にそのように示唆されて、そのように読まされるというのは、こと短詩においてはあまりにもひっかかりがないように思ってしまいました。要するに少し手あかのついた表現を、文脈に合わせてそのまま輸入してしまった印象ですかね。
ソの退廃へと導く
もちろん意味はわかりませんが、不思議な趣がある言葉ではありますね(僕だったら「ンゲレダの退廃」としちゃいそうです)。是非このような言葉を、まさにこの詩文にとって必然の言葉のような感覚とともに読みたいと思う作品でした。
10658 : どうでもいいこと。 狂い咲き猫 ('18/08/06 18:44:38)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_614_10658p
この手の文章は書かれている内容よりも、どれだけアジれるか、というものが割と重要になってきそうです。もしたとえばこの詩文が頭の良い人たちの中でも意見が割れるような鋭い意見でしたら、もっと多くの反応が得られたのではないか、と思います。しかし残念ながら、頭の良い人たちの誰かの意見に寄り掛かったコピーのコピーのコピーくらいの鋭さのように思えました。例えば僕がLGBTだったとして、この文章に怒りを覚えることができるか、といったら多分できなくて、それが少し致命的に思えました。
さて、前半部分は少し趣が違いますが、
入力0なら、出力も0だわ。
身体を使わずに頭だけを使って何かを書くということへの問題意識自体、おや、と思わせるものであるとは思うのですが。そのテーマを入力と出力という言葉で表現してしまうことで、テーマの深さがなくなっているように感じます。つまり何かを書くという行為の身体性という、ある種掘り下げられそうなテーマを、入力/出力、という単なる「経験」の話に置き換えてしまっているため、深さが失われているように思えました。
或いは、タイトルと絡めて、前半部分と後半部分の落差をして、「どうでもいいこと」ということとも読めますが、これもまたうまくは機能していないように思います。
是非作者自身にも深く考えていただき読みうるものとして完成させていただきたいです。
10666 : 走る ネン ('18/08/09 21:52:13 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180809_024_10666p
作者の表現したいことがナマで伝わってくる作品です。
今月投稿された作品を大まかに2系統に分けてみると、「作者の表現したいことをストレートに渡してしまっている作品」と「作者の表現したいことをそのまま渡してしまうと、なんだか詩とは呼べないような気がして、表現をこねくり回している作品」の2系統に分けれると思います。そのなかですぐれた作品もあるし、そうでないと僕が思う作品もあります。ただ上記した2つの系統は少し意地悪に書いてありますね(まるでどっちもよくない作品みたいに)。今作は前者でありますが、前者の作品で優れた作品って次のように言い換えられるのかもしれません、つまり「作者の表現したいことを、作者自身が深く洞察し、それしかない必然の言葉でもって、読者に手渡された作品」と。
今作を読んでいくと
心の牢に金魚を飼い
という表現(かなり見慣れた表現ではありますが)から少しづつ、内面に潜っていく感じがしますが、曖昧なまま霧散してしまいますね。この点に関して、作者が表現したいことを作者自身が深く洞察していない、と言うつもりはないのですが、読み手はそう思いかねないですよ、ということ。だってネットで公開される詩文ですから、書かれていることが全てです。金魚のモチーフが最終連にも登場しますが、「落下の行程を辿る話者」に対置された「本音」という読み方を例えばしてみます。もちろんこの読みおそらく間違っていると思うのですが、僕は「まあ間違っていてもいいかな」と思ってしまいます。それは詩文の中での「金魚」の扱いが曖昧であり、それをどうしても分かりたい、という渇望を読者に与えていないからなんだと思います。逆に言うと、「どうしてもこの詩の本当の意味を知りたい」というように読者に思わせたら、それは優れた詩でしょうね。作者が描きたいと思ったモチーフを作者の中で十分に熟成し、それをいかに読者に対して魅力をもって提示するか、ということをもっともっと煮詰めてほしい作品でした。
10650 : The Great Gig In The Sky。 田中宏輔 ('18/08/06 00:02:08)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180806_527_10650p
僕は作者の引用詩よりもそうでない詩や●詩の方が好きです。
例えば僕が一番好きなタイプの田中宏輔さんの作品は『ROUND ABOUT。』とかになるんですが、読んでみたらわかる通り、転調の連続、アイディアの連発、超絶技巧のバーゲンセールみたいな作品です。僕にとって作者の引用詩は作品によってかなり好みがわかれます、それでこの作品、思うように入ってこなかった。
作者の引用詩自体面白いと思うものとそうではないものとあるんですが、少し理由を考えみます。
おもうに、読者の視線というものをある対象に向けさせてくれる詩はとても読みやすく感じるのだが、視線ではなく、頭の中にある物事へと焦点を向けられると、「それは僕には関係ないことだな」と思ってしまう。
例えば『Pooh on the Hill。』とかが好きなのは、興味の惹きつけるという点でかなりうまい手段をとられているからだと思いました。
今作
空虚の空虚。
からはじまりここで僕のHPは5割減ります
そこにあるものは空虚。
ここで、僕は瀕死です
詩人はひとつの空虚。
これはとどめですね。
正直どんな方法でも書ける方なんで今更何かを言うつもりはないのですが。作者が僕好みの作品を偶然作ってくれたら嬉しいな、と思っております。
10663 : (無題) F# ('18/08/07 21:07:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_751_10663p
アップリケが大量についた鞄が気持ち悪いとのこと。アップリケを知りませんでしたので検索したところ縫い付けるタイプの小物のようですね、小さいころの同級生が破れたズボンとかに付けていたような気がします。まぁそれはいいとして、試みとしては読みの多様性の提起、といったところでしょうか。フォーラムでの色々は一応読んでいたので知っているのですが。渡辺さんのような読みも出てくるでしょうし、あるいは、小学生くらいの年頃の子でものすごく裕福な家庭で育った子どもが同級生のアップリケだらけの鞄を見て、気持ち悪い(パンがないのならお菓子をたべればいいのに)と思う場面を想像するかもしれませんし。高校生くらいの女性が、同じクラスの男の子が持っているアップリケだらけの鞄をみて気持ち悪い、と思う場面などなど、いろいろ読みはあるでしょうね。
ただ残念ながら、選評でもなければ、そのような場面をいちいち想像せずに、一瞥だけされて、「ああそういうパターンのあれね」と読み飛ばされる危険性が非常に高い詩であると思います。是非読み手に想像したいと思わせるだけの仕掛けを用意していただければ、と思います。
余談ですが、もしこの掲示板にWCウィリアムズの詩が投稿されたとしたら僕はどう判断するだろうか、と考えてみたんですが、考えるまでもなく落とすだろうな、と思いました。大好きなんですけどね。
10659 : 再考 犬小屋 ('18/08/07 05:46:01 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180807_677_10659p
まるで拳銃忘れたみたいに
さて、このような状態というのは発生するのだろうか、ということをまず思いますね。拳銃を忘れる、ということ自体は、ままあるのかもしれません、そういう職業の方でしたら。ですがそうではない人にとってそういう事態ってある種異常なことであって、それがさらに、まるで〜みたいに、とくるわけですから当然読者の頭の中にはたくさんのクエスチョンマークが並んでいると思います。それで、そのこと自体が詩の評価にかかわってくるか、と言うとそういうわけではないのです。そのような読者に対して、どのようにしてその最初に与えた違和感、緊張感を保ちつつ切らさずに詩文を続けるか、といういうことが問われているのだと思います。それで残念ながら、この最初の強烈な違和感を良い意味で保てている詩にはなっていないと思います。或いは、そんなつもりで、そんな重大な責任を負わせるつもりで書いた言葉ではない、とお思いかもしれません。それならば、作者の表現したいことが読者にとって近しいものになるように、もっとスムーズに導線を引ければよいのではないか、と思いました。最初に与えた緊張感、違和感を切らさないで詩文を続ける、という技法で優れたものは文極だと、泉ムジさんの『青空のある朝に』 同じく泉ムジさんの『姉のいない夜に書かれた六行』等があります。
10632 : This Must Be Love。 田中宏輔 ('18/08/01 00:29:26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_112_10632p
途中までコラージュと知らずに読んでいたためか、タイトルの『This Must Be Love。』も相まって笑って読んでました、いかんせん長いので、途中でだれましたが。
希望するオバサンのタイプを選択
↓↓↓
希望するオバサンの体型 を選択
この文章何気にすごい。男性の業を感じますね。ぜひ作者の手で、継ぎ接ぎして一つの文章にしてほしいな、と思った作品でした。
10642 : ともし火 田中修子 ('18/08/02 00:06:37 *17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180802_191_10642p
改稿前のものも読んでますが、選考なので原則として最終稿に焦点を当てたいと思います。というのも初読では不可解なほど意味がとれなかったので、レスを開いてみてそこで読んだんですね。
詩もまた,ある形式が権威となって記録されたそのとたん,電子機器に録音された雨だれの音のよう.
これはとても美しい表現だと思いました(若干説明的とは思うかもしれませんが)。改稿前の「死んだ」という言葉があったとしたら得られぬ感覚だったように思います。
ただ同時に、最終稿を改めて読んだ時に、まるでバラバラにされた遺体のように思えてしまった。僕は詩とはわかりにくい言葉で置き換えて、伝わる、ということを恐れることでは決してないと思っています。改稿前の作品も読んでいるがゆえに余計にそう思ってしまうのかもしれないですが。
高村光太郎が『智恵子抄』を書いているときに「智恵子という言葉はあまりにも直接的すぎるから「女」くらいにしておくか」、としてしまった世界線を想像してちょっと悲しくなりました。
10654 : 近所の詩人のおじさん ゼンメツ ('18/08/06 03:00:17 *1)
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笑いのツボってのは大人になったら変わってくれない、ってのは今月の選評で一度書いたのですが、こればかりは自分の努力で歩み寄ることはできないなあ、という無念さを感じました。
というのを踏まえたうえで話そうと思うのですが、全体的にノリが(僕みたいな笑いがわかんないやつには)キツいとしか言えないところがあって、困っていますね。
あれから半年が経ち
この転調からの話のもっていきかたなんですが、作者としては、ここ見せ所だ、と分かったうえで描写の質を変えてるところも見受けられますが、それほどのギャップになっていないと思います。最後もよさげな話ENDみたいな範疇を出ていないので、僕だったら、おじさんが闇金に追われて、とんでもないことになってるところとか、淡々と描いただろうな、と。つまりここの描写、「重さ」を見せかけに使って「軽さ」を書いてるんですが、僕は「軽さ」を見せかけに使って「重さ」を書いた方がギャップが出ていいんじゃないか、と思いました。
10656 : 上京詩人 一輪車 ('18/08/06 10:29:06 *3)
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笑いのツボが〜〜ってのはもう一つの作品に書いたので重ねて言うまでもないですが。ユーモアの波長が合わないのは選考するものとしてかなり申し訳ない思いがあります。
元ネタに関してはあまり触れる必然性を感じませんでした。具体的に面白かったのが
極貧の四つのオブジェ
というところで、これ極めて個人的な話になるとおもうんですが、ドタバタ喜劇を見せられるより、それを突き放したナレーション的な笑いのほうが個人的には好きなのかもしれないですね。
でもキートン山田で笑ったことないので、どちらかというと、「語りのギャップ」にドキッとした場面だったのかもしれません。
10634 : 牛乳配達員は牝牛を配る 北 ('18/08/01 02:00:29) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_128_10634p
正直な話をすると僕はこの作品に関して少し迷ったところがあった。選評を9月の早々に書き上げた段階で、この作品にだけは「保留」とだけ書いてあった。
というのも、到底僕の能力ではこの詩に評を付けるということができるとは思えなかったから。それとともに、下手な評をつけてこの作品を汚したくない、という思いもあった。ただ僕の下手な評でたくさんの作品をもうすでに汚しているわけですから、それもまた、自分勝手な話ということで、できる範囲でやっていこうと思うわけです。
・物語を偽装すること
或るストーリーや思いを詩にするときに、多くの人がとる方法として、ある人は表現にこだわるかもしれない、ある人はそれををできるだけ細やかに描写するかもしれない。それは時に成功するかもしれないし失敗するかもしれない。でもこの作者はいずれの方法もとらなかった。作者のとった方法は物語の偽装である、と僕は考えている。
多分、そんなこと唐突にいわれても、と思われるかもしれないが、寓喩のようなものと少し似ているかもしれない。童話や神話は特定の作者がいない場合が多いので偽装されているわけではないけれど、共通点として「本当のところは隠されている」。
童話や神話が、なぜそんな作りになっているのかは今はさておき。経験したことはあると思うんですよ。生きているなかでふとある童話が、この状況ぴったりじゃないか、というような場面に。その物語が持つ「警句」のようなものが、その状況で明らかになった瞬間の気付きって、ただ単に「本当のところ」を素のままアドバイスされても到底かなわないようなインパクトを伴っていると思うんですよね。
僕は、今作にそのような「警句」が隠されていると言いたいわけじゃなく、その「気づきのインパクト」を狙ったものという点で、寓話や神話の方法に少し似ている、と思っている。実際のところ今作の「本当のところ」は最後まで読めばちゃんと明らかになっている。「母への思い」という漠然なものとしてだが、それは多分どの読者にも立ち現れると思う。けれども、今作においては、その主題は最初は偽装されている。「牛乳配達員は牝牛を配る」という言葉で覆い隠されている。
だから一読しただけではわからない。
ほんとうは家出したんだ 心がわりしたらしい しとやかさは職業ではない
最初にこの言葉を読んだとき、1行目があまりにも見事に描かれているから(そのことについては長くなるので省く)唐突に意味が分からなくなるこの場面では、「集中力が続かなかったのか」とさえ思ったりもした。
ただ最後まで読み通して、「本当のところ」に触れたあとにこの詩句を読むと、これは怪物的だなと思った。2読目では「本当のところ」のディティールが立ち上がってきて、これがさっき言ったような「気づきのインパクト」を伴うわけだから堪らない。(僕はこれほど自然に「しとやかさは職業ではない」という言葉を読解するだろうとは、最初は思いもしなかった)
お母さんが酷い目に遭わされたのかい? いや 牛のはなしだ
たとえばここは偽装工作であるともいえる。(作者の視点でのテクニックという話とは別に、話者の視点での話の置き換え、ということは後述する)
罪のむしろで包めた 仄かに熱い 子守唄
たとえばこんな言葉が、説得力をもって胸に響いてくるのは、おそらく「気づきのインパクト」があってこそだと思う。
それらすべてを通過して、また再び「本当のところ」に戻ってきた時の感情の呼び起される感覚はもうちょっとたまったもんじゃなかった。ディティールが明らかになったうえでの最後の詩句を読んだ時の心持はちょっと言葉で言い表すことはできない。
・物語を偽装すること
作者の技術としての偽装についてはなんとなく話せたと思うが、じゃあ「話者」にとってその偽装は何を意味しているのか。昔のことを思い出す、それを語る、そんな時にふと偽の言葉がなぜか「本当のところ」を遮る。そんな事態ってあるのだろうか。
僕はとても安直だけど、「トラウマ」という言葉(今となっては意味の変容が激しい言葉だけど)を思い出した。多分もう少しましな表現もあるだろう。
花子よ よしよし もうおまえを誰にも渡さない 俺とおまえはいつまでも一緒 なんて嘘だ
この言葉を皮切りに、堰を切ったようにあふれ出る「本当のところ」、なぜそれが偽装されていたのか、隠されていたのか。ということ。
実際のところこっちが核のように思っているのですが、こっから先はおのおの読み手の領域だと思うので僕は触れません。
あまり感傷的すぎるのは流儀に反するので、ここまでです。
※追記ではない追記
フォーラムにて作者のこのテーマに関連する別作品を読ませていただいて思うところも多々ありましたが(というか僕がとんでもない誤読をしているのではないか? という疑念ですね)このまま僕の選評とさせていただきます。
10639 : 試作 いかいか ('18/08/01 09:22:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_140_10639p
素直に良いんですが、
本当の洪水が体中を駆け巡る七日間の植物の物語
がすごく煩い、と思ってしまったところもあります。
この作品を部分的に抽出してこの部分がどう、ということはあまり意味がないと思われますので、思ったことを少し。
繰り返される言葉と、離反していく言葉と、新たに紡ぎだされる言葉のなかでぼやっと浮かび上がってくるイメージだけ与えてあとは音、ミニマルというかテックハウスみたいな印象なんですが、そういう音楽的な効果を目的とした詩文の中にあって、冒頭に挙げた部分がとても煩く感じてしまった。
10641 : ラウンド・アバウト・ミッドナイト 田中恭平 ('18/08/01 12:12:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_152_10641p
ところどころ、ちょっとしたユーモアだったり、詩的な転換であったり、感じ入るところもありましたが、全体としてやはり薄いな、と思いました。ただ薄いというのは悪いことではなくそこに軽妙さだとか、のれるところを入れてくれるだけで全然違うのではないかなと思います。
特徴的だったところを挙げます
颱風が
近づいているらしい
花々は
怖れているらしい
ここはちょっとした転調なんですが、
それが俺にはわかる
と続くので、期待感がほんの数秒で終わってしまう悲しさを感じました。具体的に書くと事実の描写と比喩の描写を並べているから、位相が少し変わってるんですね。読者に「おや」と思わせる場面だと思います。なのでもっと巧い引継ぎがなかったかな、と少し悔しいと思ったところでした。
10665 : kool mild 田中恭平 ('18/08/09 09:54:23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180809_979_10665p
意外にも花々の比喩のイメージが引き継がれていたことに驚きました。個人的には提起の仕方はもう一つの方が良いと思い、展開のさせ方は今作の方が良いと思いました。
別のところに目を向けようと思います。
冷房の
効きすぎた部屋にある
脳味噌は、
冷たい
捻った表現ですが、すっと入ってくるものがありますね。どういう意味かと問われてもちょっと答えられない。でも作品の全体を貫いている調子だとか、タイトルだとか、全部ひっくるめて、この言葉がなんとなくすっと頭のなかに入ってくるような。そこから続く言葉が、「灰と/花弁と/灰皿の中での出会いのように冷たい」とありますが、説得力があるようでないような。思うに元ネタの詩のイメージが結構ここ邪魔しているんじゃないかな、と思ってしまいました。
10633 : すべてのオマンコは女神の似姿 lalita ('18/08/01 00:36:57) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_114_10633p
作者の作品に関しては僕の批評の範疇にはない、ということはすでにもう一つの作品で書いたので、全体としての評価は変わらないのですが出来るだけ細部へと目を向けたいと思います。
足が短い十字架は短小ペニスだが、平等精神がある。
なるほど、と思いました。
あのオレンジ色が俺の魂を震わせる。
荘厳なクラシックが鳴り響いているようで、ここだけ少しロックなのが面白かったです。
しかし、出来るだけ具体的に読もうとするのですが、やはり全体として頭の中に入ってこないです。僕があまり宗教的な人間ではないので、その点ご理解いただければと思います。
10644 : 白い庭 トビラ ('18/08/02 18:05:48)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180802_229_10644p
素直すぎるがゆえに、あっという間に読み終わってしまう。もう一つの作品に関してかなり抽象的な評を付けてしまったので、もう少し具体的に話せればいいなと思っています。まず作品を見ていくと。「僕」という話者の期待感、「白い庭」というのが「僕」にとって特別な空間であることを、具体的な出来事を描写せずに、スマートに描けているとは思います。あるいは
借りた本を返したい
という言葉から、この詩の後にどんな会話がなされるだろうか、という読み手の期待を若干ながら膨らませていると思います。或いは白い庭という題も、よくよく考えたら、白い庭ってなかなかお目にかからないですが、語り手の期待感、差し込む太陽、幼いころの想い出の淡さ(という設定だったら)、それらもろもろがかかって白い、という形容詞を生み出しているのかな。とも思いました。
それで正直ここまで書けるのであれば、次のステップに進んでいいのではないか、と思うんですよね。この作品の弱さって、読み手の注意をどこかに惹きつけてあげるだけで解決すると思います。
例えば風景描写なんですが、現状単なる情報を伝えているだけなのではないか、と。これは今月の投稿作である青島空さんの『Dress Tokyo』でも似たようなことを書いたのですが、歩いてる「僕」が見ている景色って、多分その情報だけではなくて、「僕」というフィルターを通してユニークな形で見えていると思うんですよね。風景を書くのではなく「僕」の眼差しを書くことによって読み手の焦点を絞ることができれば、とても良い作品になるのではないかと思いました。
例えば文極でただ歩いているだけ、そこから見えているものを話者のフィルターを通して描写することによって絶大な効果を得ている作品としては軽谷佑子さんの『ファインレイン』などあります。
是非様々なことに挑まれてください、と思う作品でした。
10640 : 消えるメス豚 陽向 ('18/08/01 10:44:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_142_10640p
もう一つの作品よりだいぶ面白く読めました。理由は言わずもがな、いや言いますが、具体的な人物がそこに描かれ、主にセックスなどしているからですね。
話自体は、特に転機のない、痴話げんかが繰り広げられていますが、2つほど疑問点がありました(読み手に疑問を抱かせることはよいことだと思っています。
一つ目は、話者は誰なのか、ということですね。もちろん最後まで読み終わって、3人称ということがわかったのでその疑問は解消しましたが、あるいは意外なところから話者が登場するというのも面白いかもしれませんね。
2つ目はこの場面です
炎が消える頃にはメス豚はゴリマッチョのことを未だ親離れができない可哀想な人間なんだと慈悲深い目で見れるようになった
メス豚は家に帰りゴリマッチョと別れることに決めた
許し、というものが描かれたと思ったら唐突な破局が訪れますね。少し笑ってしまったんですが、別れを決めた理由が
ゴリマッチョといると前は心地良さを味わえたのに今は味わえないのだ
と結構普通のことだったので、ちょっとがっかりしました。読者はたぶん上の行から順番に読んでいくと思うので、許す→別れよう、というのは「おや」と思う仕掛けになりうると思いますので、その疑問に対して、もう少し機知の富んだ解決を与えてあげるのも面白いのではないかな、と思いました。
10635 : 生 黒髪 ('18/08/01 02:41:20 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_129_10635p
もう一つの作品では、何を書いているのかまず明らかにしてはどうか、という提案をさせていただきましたが、この作品に関してはちゃんと伝わりますね。
蝶が飛ぶのを見て思ったよ
観念的な思考が繰り返されたのち、突然外界の蝶という生き物が「僕」というフィルターを通して読者に伝えられる場面です。突然の転調にハッとする場面だと思いました。
さらに言えば、冒頭の清少納言への言及で布石は打ってありますので、どう活かせるかという見せ場なのではと思いますが、続く言葉がその前の「いじいじした自分」の繰り返しになってしまっていることが少し残念に思いました。もちろん蝶をみて突如人生観が変わるなんてことは現実ありえない話だとは思います。ただこの場面意地でも描写の質を変えていきたいところではありますよね。
僕はなんて汚れているんだ
これはもうすでに言及されていることなので、どちらかというと蝶のほうにもっとフォーカスをあてるのもよいのではないかな、と思いました。
10631 : 此岸 ネン ('18/08/01 00:00:13)
URI: bungoku.jp/ebbs/20180801_111_10631p
話者の死生観というものが開陳されていますが、それが読み手とどう関係してくるのか、というのがいまいち迫ってこないという作品でした。
何か一つでもいいので、話者が読み手にとって近しい存在であると、詩文の中で示すことができれば、と思います。
例えばですが
良心と生きていくことを
決して諦めたくない
という言葉は、ありきたりであると同時に「あ、わかるこの感覚」と思ってもらえるところなんじゃないかな、と思うんですが、今のままだと実体のつかめない話者のありきたりな独白、でしかなかったりします。
ありきたり、というのは同時にわかりやすいということなので、何らかの工夫をして、この表現からありきたりじゃない部分を浮き上がらせてあげられたらな、と思いました。
文極でこの手の生や死という言葉をダイレクトに使って、読まれうるものにうまく変換できる人って誰だろうか、と考えたときに進谷さんの『ぱぱぱ・ららら』が思い浮かびました。