2018年10月 芦野月間選評
芦野個人の選評となります。
前書き
- 優良作品を2作品と絞って選出しております、次点佳作に関しては選出せずに優良以外は落選としております
- 今月は良作が多く、優良候補作品も多かったのですが、2作品に絞り切ったため先月までのように優良候補作品だったことは明記されておりません。
- 優良、落選、順不同です。
- 今月も同様に一部の作者の作品に関して批評するに能わず、そのこと謹んでお詫び申し上げます。
10853 : 心が壊れている いかいか ('18/10/31 23:13:46)
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いったいこの人たちは何に、なぜ殴られるのだろう、殴るのだろう、ということを空白で読み手に受け渡すことで何か風刺的な意味合いも発生させるような書き方ではあると思いますが…基本的に僕は読み手は怠惰且つ傲慢であるとして話を進めるので、その空白受け渡したからには、そっちで起爆させてください、という気持ちが湧きます。そうでなくても、文章自体が相当魅力的であるとか、それならば読み手は勝手に想像するし、勝手に爆発したりするかもしれませんが、そういう状況を引き起こすほどにこの作品の詩文が独立して読みうるものたりうるかというと、そこまでの完成度には至っていない、と思いました。作者のこういう作品は珍しいのでそういう意味で興味は湧きましたが。
10852 : 123123123 123123123 ('18/10/31 23:11:17)
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もったいない書き方してるなぁ、と思ってしまいました。ところどころ、良いなと思わせる表現を散見するんですが、例えば
チカチカする街灯に裸の女性が美しい三輪車にまたがっている。
もう、このイメージ描けたら、あとは体裁を整えるだけでふつーにいい詩になると思うんですよね。けれど、今作はそのような意図のもとに書かれているわけではない、ということは露骨に伝わってきますね。
あとこの詩特定の個人を揶揄しているように思われるので、僕としてはこれ以上評を付けるに能わざることご理解ください。
10847 : ill-defined 完備 ('18/10/29 10:57:44 *2)
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虹彩へ降りしきる抽象的な雪が十分に積もるまで
この始まりから少し不細工な印象を受けてしまうけど、読み手への案内板という役割もあるので、ここで強い違和感を与えること自体は否定できない。何のことかと言うと、この詩におけるすべてが具体的な人物の描写ではなく、行為に備わる情感がぼやっと暗がりに燃える蝋燭の火のように浮かび、そして消える、というまぁ普通に読むとわけわかんないまま終わってしまう詩文なので、案内板として最初に違和感を与えておき、続く詩文のために読み手のスイッチを切り替える役割、ということですかね(作者の説明とは全く違うけれど)。ただもっと鮮やかにそれをなしうる言葉がないものか、とも思ってしまう。
ちなみに僕は選評においてさんざん具体的なことを書いたほうがいい(作者には言っていないと思うが)ということを書いているけれども、別に具体性ってその人物にのみ宿るわけではない、むしろ行為にこそ宿るものと考えています。
ふたりはふたりぶんの切符を買う
切符という響きを理由のすべてとして
とか
荒れた手ですくう雪 切れた指でつむ花
とか、優れた行為の描写って、それだけで人物の背景を浮かび上がらせるし、物語を喚起させる価の高い言葉なのだな、と改めて考えさせられた点もありました。
それでこういう体裁で書くのであれば、この体裁をとった意味を問われてくると思うんですが、最終連
ふたりはラブソングを歌おうと何度も
何度でも まぼろしの喉にふれる
(つきみさんも指摘されているが)ふたり、がまぼろしであることと、ひとり、にとって、もうひとり、がまぼろしであることの両方を描いているようで、とても切ない、と思いました。
10851 : テレビジョン ゼンメツ ('18/10/31 14:12:07)
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最近ひとんちがそこかしこでぶっ潰れてる。
これもまた読み終わった後では言葉の意味が違った風に読めてくる、迷彩として機能していると思います。ただこの詩は、ズバッと異化された物語が入り込んでくる詩、というよりも読み手の労力に比例するように、じわじわと面白さが増す文章ではなかろうかと思います。しかしとても不幸なことなんですが僕はこの家族に興味を抱きえない、という問題を抱えてしまった。これは作品を責めるのはおかしいとも思うけど少しだけ。
個別の物語を読み終え自らの人生へ回帰していくときの、俺は確かに受け取ったぜ感、というものがありますよね、小説とかに多いですが。今作で感じたのは、なんというか解釈のお品書き、みたいなのがちらちらと見え隠れしていて、そこが少し興を削ぐようなかたちになってしまっているように感じました。確かに注文すれば注文通りのものが来るんだろうけど、確かに受け取ったぜ感にまつわる、あの奪い取った感じというものがどうしても恋しくなるような読後感でした。
じっと待ってる。じっと。
ただこの言葉、いかいかさんが言及されてますが、それまでの文脈の中で読みうるものではありながら、それまでの文脈を自ら切り離すような、力強さを僕も感じました。巧い言葉が見つからなかったのですが、ビーレビの方でるるりらさんが「弓のようだ」と形容されていて、ただただ膝を打つ思いであったことは書いておくべきかな、と思いました。
10849 : 極北を見た トビラ ('18/10/29 13:17:33)
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作者のこれまで書いた作品をいくつか読んできているので、この急な方向転換というのが呑み込めない、というのが正直な感想でした。
今まで作者の作品にあった読み手のための土台、というのが全部取っ払われて、突如拙いながら変化を求める作者の詩の言葉に触れるのは僕個人としてはとても興味深いことであったけど、そんなことお構いなしのふつーの読者はもちろんそこまで読み取ってはくれないということは注意したいですね。
以前書かれていたものには当然のようにあった読み手への導線というのをなくす以上、読み手の視線、というか読みそのものを、少ない言葉でコントロールする技術というのは一度作者が描いた作品を突き放して自らも読者になり、それを書くとともに読むということで得られる視点ですが、そのような冷たく厳しい視線に耐え抜いた作品とはどうしても思えないバラバラさが目立ってしまいました。
10813 : つまらない愛だよ。(大きく書き直しました) いけだうし ('18/10/12 19:32:46 *5)
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今にも壊れてしまいそうな誰かを抱きとめようとすること、その時いやがおうにも自覚される傲慢さと愛情との相克。という風に読みました。
それ自体は何でもない感情だけれども、「崩れかけランプ」という言葉が読み手に空白として渡されて、想像力というのを読み手に使わせて、何でもない感情を、見つけ出してもらうことによって、発見として、詩情に昇華してもらう。そういう構造にも読めました。
ただ、太陽と満月の対比がどうしても作者の考えてることを読まされている感が強くて、それならばそんな言葉使わないでストレートに書いてよかったのではないかな、と思います。疑問に疑問を重ねるのは読み手を突き落とすと思っていますので。或いは内容などなく、ただ対比構造を描きたかった、という可能性もありますが、それだと
あれは満ちることのない月、だから
というような意味の表出がとても邪魔をしていて、やはり内容を読もうとするのですが、その読みの領域がテキスト以上に、つまり作者の頭のなかにまでその捜索範囲が広がると、怠惰な読み手(重言)は捜索断念しますので、お気を付けください。
10850 : 神無月 玄こう ('18/10/31 00:19:11)
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僕は俳句のことなんてこれっぽっちもわからないので、俳句としては、なんて意見はもちろんなく、ただただ改行詩としか読むほかないと思って読みました。
こういう独白に近い、作者の心の内を曝け出したような作品は、知らず知らずに読み手を拒むようなところは否めないけれど、一歩歩み寄ると意外にも変に構えた作品よりも読みやすかったりするのは、気取らない、という作者の意識にも関わってくるものと思う。
なげくむねのうち 月と貴たがいる
コンビニやねにも 貴月と自転車だ
例えば、こんなん読むと、おやじギャグの類かとも思ったけど。そういう言葉遊びというごまかしに隠されている、「話者」の心の内を思うとすこしかわいいと感じたり、なんだか拙さまでもが良いところにも思えてくる。
こんなことを言うと、「共感しちゃったからだろ」と思われても仕方ないかな、とも思う。実際それは否めない部分もあって、月を見上げるという、どうしようもなくナルシスティックな行為、それに対する気恥ずかしさ、そういうのはちょっと言葉にできない感覚で読んでる部分もあるとは思う。
ただ一つ言えることとして、この詩のなかには一つのストーリがちゃんと流れていること、というのは、共感云々ではなく、共有可能な話として提示できるかな、とは思います。高尚→内省→自嘲→諦観 と、まぁすごく雑に取り上げてみた流れですが、同じ心持で月を詠んでいるわけではないということ、そこに時間の経過があり、「話者」の心の移り変わりがあることはちゃんと読めばちゃんと伝わることだろうと思う。最後の図は月ではなく、線路とその傍にいる「話者」なのではないかな、と思った。
ちなみに最終行が判らなかったので片手落ちでありますが。
10806 : 何が残るか コテ ('18/10/10 10:16:11 *17)
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先月も書いたかもしれないが、僕は作者のキャラ設定が好きだし、言葉選びも好きなのだが、どうしても長さに作品が耐えきれていない印象があった。経験則として詩作品は長ければ長くなるほど、枠に収める覚悟で書かなければならないのではないか、という考えがあります。単純に、飛躍の著しい言葉というのはどうしても読み手の想像力を消費すると思っていて、その作品の作者に特別な思い入れがあるのなら別だけど、ふつーの読者って基本的にはある一定の想像力を削りながらその作品に向かってくる、ということですが、この作品を読んで、そこらへんへの配分というものを考えなければ、このくらいの分量でも結構読み手は置き去りにされているのではないか、と思います。
枠に収めるというのは、読み手の誘導をその枠(ストーリーや、文の構造)に担ってもらって、読み手の負担を減らす、ということだと思っている。ただ僕が思う作者の理想というのはどちらかというと短い作品で結実するのではないかな、という思いがあります。
ゆうこ「とうこさん、あなたがいないとわたくしは日本によくいる、フランス的なお気取りさんみたいね。
わたくしはわたくしのジャンク性が大事で、守らなきゃいけないの。
「もっと良く」なんてしちゃいけないわ。」
一番好きな部分ですが、一枚の絵の中に、この抒情が紐解かれていたら、と思ってしまったんです。
10841 : 花束とへび 田中修子 ('18/10/27 10:16:44 *1)
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こんなこと書くと、作者の書きたいことをないがしろにしている、と思われかねないですがあえて言うと、「かおり」と「わたし」は逆に書いた方が良いように思いました(かおりを話者にしてしまうという意味です)。少し迂遠に書きますが
おまえはいつか現実でみた夢を叶えるのだろう
という言葉から見て取れるように、他者への想像というのはとても型にはまっており、逆に「私」に対する言葉は距離が近すぎて、ズバリというところを射抜いていないもどかしさを感じてしまって。先述のようなことを感じた次第です。
おそらく、作者にとっては「わたし」は近い存在で、「かおり」は遠い存在なのだろうな、というふうに読みました。それ故に、「わたし」にまつわる話がどこか突き放せず、言葉に言葉を重ねていく、言ってしまえば、その捉えどころのなさが「自己」だ、という言い方もできるかもしれませんが、その表現の在り方と、他者という存在がこの作品に登場するアンバランスをを感じずにはいられなかったということです。
他なるものに向けられる眼差しというのは、根本的には自己の表現であると思っていて、その意味での、この作品の「自己」の表現の弱さというものはどう解決されるのだろうと思いを巡らすと、例えば、もっと想像力を働かせてみては、という陳腐な台詞が浮かんでくるので、それならいっそ、他なるものの目線でちかいものを書いてみては、と思った次第でした。
10845 : スパゲッティ野郎への葬送 鷹枕可 ('18/10/29 08:05:14)
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作品には関係ないですが、一応僕の「返答」を書いておこうかな、と思う。
作者は読者に細心の注意を払い、「詩」を「娯楽」として提供しなければならないのでしょうか。
答えはyesです。理由は僕よりダーザインさんのコラムに詳しいので一部引用
さて、反革命の連中に告げる。本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は腐敗した生ゴミのようなやからだと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただく」という発想の無い自己満足な小難しいたわごとであり、或いは「つまらない身辺雑記」である。Hな人賞、現代○手帖賞、はっきり申し上げて、そんな物、ものすごく少数の身内以外、誰も読んでいませんから。以下に述べるように、現代性をまったく欠如している現代○手帖は「旧人類手帖」とかに改名しないと名称詐称に当たって法的に拙いんじゃないのかな。心配だよ、笑い。全国詩人名鑑だか名簿だかも詐称に当たるのじゃないのかな、俺の名前も、創造大賞受賞者の名前すらも無い。寝言は寝て言えという感じだ。
ダーザイン『アフロものに告ぐ』
ただ条件付きのyesです。条件というのは、僕がこの選評でとっている、旧来の文学極道的な価値観で評付けを行う、という縛りのことで、その条件下ではyesとしか答えようがないということです。このスタイルをとっている理由はフォーラムをご参照ください。
またこれは個人的な話ですが、僕は文学極道を除くと谷川雁以外の詩を読まないです。谷川の詩を読んで、ふと文極の詩を読み、評する、ということをはじめると矛盾で股が裂けそうになります。
さて、僕はこれまで作者の作品をこのスタイルでは評しえないと思っていましたが、今作は、作者の名前と作品の名前のギャップにまず惹かれます。作者の名前も作品の一部云々に関しては渡辺八畳さんの『遺影』で今月述べましたのでそちらをご参照ください。僕はこういうのを「読者サービス」と呼ぶのですが、例えば講義中、難しい哲学用語しか使わない大学の教授を思い浮かべてください。彼がふと、「かかる現象を向かいのケーキ屋さんのショートケーキになぞらえてみましょう、好きなんですよね、あそこのショートケーキ」と言い出したとします。もう学生たちの眠気もぶっ飛びますよね。僕はその「テクニック」を詩と呼ぶつもりはないです。ただ同じ内容の話をするときに、ほんの1mの間もない相手に語り掛ける言葉で相手が眠ってしまうのか、目を見開くのか、それは大きな違いだと思っています。
それを邪道ととるか好機ととるかは考えるもの次第と思いますが。
また今作、「読ませない」という方向に舵を切ったはいいが、前述の「読者サービス」ではまだ「読ませないながらに読ませる」というところまでは完全には至ってはいないのではないかな、と少し思いました。
労働階級の華が捜されるだろう
しかしそれを差し引いても、この導入はとても痺れる。言葉の意味を超えて。
僕はなぜだかジャンジュネのことと彼の書いた文章のことを猛烈に思い出していた。
10846 : ニューヨーク天神駅32「バナナフィッシュにうってつけの日」 オオサカダニケ ('18/10/29 10:48:33) [Mail]
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懐かしい短編のタイトルだけど内容はほとんど覚えていない。奥さんに対して、「お前は20世紀の精神的ミスあばずれだな」と言い放ったところだけ少し印象に残っております。
作品ですが、具体的な場面というのがあって、衒うことなくそこをストレートに読ませるというとてもシンプルな作品ですが、僕にはその会話やシーンの中に作者が隠したであろう機微というものを少しも理解できなかった、という意味で、むしろ難解な作品になっているという印象を受けました。そういう時はひたすら素直に読んでみるのですが
「確かに僕はそいつのことを一番好きだよ。だけど3番目ぐらいにきらいでもあるんだ。にもかかわらずぼくは彼と親友のままでいる。それって僕が他人の良い面を重視できるからだよね?そうなるとぼくは良い人間ってことにならない?」
子どもらしい、幼稚ながらも素直な発言ではありますが、それに対するエイミーの態度がどうとでもとれる(=どうとってもいいなら、どうともとらない)単なる思わせぶりの典型であり、それ故に、人と人との関係や、その背景、会話の中に隠された機微というものが立体的に迫ってこない弱さがどうしても付きまとってしまう作品と思いました。
10836 : 夜行列車 氷魚 ('18/10/24 00:23:45)
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火照る外套の星屑、
うそん、と思いました。最初の詩句で、読み手を悪い意味でぶった切るというか。作者の中ではものすごくいろいろな言葉が星座のように繋がって物凄く詩的な表現であるのかもしれませんが、読み手はもちろん作者の頭の中の星座については全く無知なので、いきなり足をひっかけられてこかされたような感じがします。続けて読んでいくと、真鍮ボタンという表現が出てくるので、ほっと胸をなでおろすのですが、なでおろしたところで、そもそもこの程度の装置でそこまで読み手をぶった切る効果があったのかと考えると、ただただ疑問が残りました。
一つ一つの言葉がまるで類語辞典でも参考にしたかのような印象があり、作者の頭の中にあるイメージを適切に言い表しているのか、というそもそもの疑問が湧いてしまうということですね。作者の頭の中にあるイメージというものはもちろん読み手には解読不可能なものですので、僕がここで言いたいのは、「あたかも作者のイメージをこれしかない言葉で言い表していると、読み手を『騙す』ことが出来ているか」ということです。
よく、肉感のある言葉、とか真実の言葉とか、そういう胡散臭い話に纏められることなんですが、あれは一方で真実を伝えていると思っていまして、つまり「ほんとっぽさをどう描くか」ということですね。
当たり前ですが、肉感なんてなくてもいいですし、真実である必要なんてこれっぽっちもないと思うのですが、それを装うこと、そして読み手を騙すことということから得られる大きな効果、というのを意識されるとよいのではと思いました。
10826 : 傘泥棒 ゼンメツ ('18/10/19 16:18:52 *6)
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めぞん一刻で五代君の初体験の女性になるはずだった大口小夏というキャラがどうしても頭から離れなかったから偏った評になるかもしれないことはあらかじめ断っておきたい。
間違ったことを想い、彼女もそうしている。今日はなにも思い出せない。ぼくは味覚障害かもしれない。
どう考えてもここで躓くようになっている気がします。あまりにも唐突に「間違った」という言葉が出てくるのと、今日はなにも思い出せない→味覚障害、という違和感を単純に記憶=味覚と読んでいくと、「いくつかのさかなの味を思い出していた。」という詩句もまた違った風に読めてくる。
結論からいうと、僕は冒頭にあげた理由も相俟って、失恋の詩として読んでいたんですよね。「いくつかのさかなの味」は「同じ形をしていないものへの記憶」に頭の中で書き変わっていくし、
眠る彼女を眺めていると、そのかたちはすこしだけあやふやに見えた。
というのは、キャンプ場で出会った彼女が記憶の中で「他とは同じ形をしていない者」の代替物へと変容していく様として、つまり傷心の相手の穴埋めとしての「間違った」想いが生まれている、彼女もそうだ、という読み方です。
まぁだからなんだ、という話にもなりそうですが、僕がこの評で述べたいのはそのことで傘泥棒という言葉がどのように変容していくか、ということです。ビニール傘というのは雨が降っている時とても便利なのは皆さまご承知の通りだと思います。そしてそれを盗むのは例えばその他の私物を盗むよりも少しだけハードルが低い。というのも、ビニール傘というのはそのものへの愛着(同じ形をしていないものへの記憶)が生まれにくく、単にその雨を凌ぐという機能だけを拝借するということに繋がるからなのかな、と思う。ビニール傘は代替可能である。いくらでも替えが効く。
じゃあ、その傘泥棒という言葉がどう変容したのか。先述の通り人間関係へと、この詩文の一つ一つを異化していくと、傘泥棒と言う行為は、ある困難の中で、或いはしょうもない孤独のなかで、そういうものを凌ぐ「人」という存在の機能的な側面を拝借してきた、という行為に変容していく。その時、人はビニール傘のようにどれも同じで、代替可能である。一方で「僕」は「間違った想い」というふうにその行為を倫理観が咎めるタイプの人間であるらしいが、彼女とすごしているうちに「彼女のかたちはあやふやになっていく」。
だから僕は、知らずのうちに、この詩を傘泥棒というささやかな罪の「共犯」の詩として読んでいた。陰鬱な雨を凌ぐために有名なブランドが刻印された傘なんていらない。人はその雨を凌ぐために、お互いの中にある代替可能なビニール傘のようなものを、知らないうちに盗みあっている。
10843 : いちごみるく色のマフラー つきみ ('18/10/29 00:08:57 *225)
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読みながら『わが家の母はビョーキです』中村ユキ著 を思い出していました。いや、すごいごちゃごちゃしてるので、見落としがちになるのですが。
私には価値がある。
とか、だだ長い文章にグサっと突き立てられたような詩的萌芽のような表現がところどころにあって、それはとても面白く読めました。ただどうしよもなく事実を語ろうとする手法がかえって読み手を遠ざけていることは知っていた方がいいように思います。(「事実」というのは僕はこの詩を読んでそれが事実だなんて知りようもないけど、加工されていない生のままの事実をそのまま受け渡そうという印象のことです)
田中修子さんが仰ってますが、その内容に全く無関係な他人をいかにしてその詩に惹きつけるか、ということになってくると思います。それにはご自身の体験された(想像した)物語をいったん客観視して、そこから詩的な真実を描き出す冷徹さが必要になるとか云々、いろんな方がいろんなことを仰ると思うのですが、本質は以下のことです「自分にとって大事なことと、読者が読みたいものは違う」。僕は何も読者が読みたいものを書くのがいい、と単純に思っているわけではなく、そのことを意識されたうえで、ご自身にとって大事なものを書かれてください、そう思いました。
《ボブ・ディランさんの風に吹かれての和訳をあなたに知ってほしい》
とても素敵な空想ですよね。(詩の中で)教えてあげたらよかったのでは、と思いました。もちろんそれでお母さんが感動して涙を流した、とか、そういう嘘くさいエピソードはいらなくて、ただ空虚に流れる『風に吹かれて』と会話が通じない母親とを。
10848 : . 泥棒 ('18/10/29 12:33:06)
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ものすごいベタな手法ものすごくベタに感動してしまいました。
当然読者は突然空けられたこの空白に意識をもってかれる構図になってると思うのですが、その読者の緊張に対する、目配せが巧いと思いました。紅茶猫さんがレスで仰ってますね
う〜ん、何か二人とも死んじゃっている気がしますね。
こういうメタっぽい含みを匂わせつつ、あくまで、ありきたりなことしか描かれていないんですよね。そのことが逆に読者の読みに対する裏切りとして作用しているように思いました。わかりにくく書いちゃったんですが、「次から次へと人が死んでゆく物語」と最初に布石を打っておいて、「恋人はもう死んでいるのかもしれない」と接続することで、本の世界と現実世界が切り替わったのかな、みたいな小難しいことを一瞬だけ念頭に浮かばせておいて、でもちゃんと読むとただただ、夕暮れの差し込むどこか気怠い午後の一場面であることにホッとするような、少しこちらの張り詰めた気も綻ぶような、温かい詩だと思いました。
10802 : Yellow? アルフ・O ('18/10/08 21:32:32)
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今月の作者のもう一つの作品は面白いほど読みやすかったので、まぁ少し困惑するところはありますね。具体的な場面は浮かばずに、言葉が表層をなぞるように連ねられている。そういう印象を受けました。思うに作者が考えている「ここで読ます」というラインと読者が「実際に読める」というラインが乖離しているように思われます。もう一つの作品の方を僕が評価しているのは「ここで読ます」と「実際に読める」がわりかし同じラインで成立しているからですね。
さて、勝手に「ここで読ます」などと作者の意図を限定したのですが、実際のところ、この作品はフレーズ単位での読みの方が有効と思いました。ただゼンメツさんが指摘されておられますが読解の核をわかりやすく書くことによって、そこから円環状に解釈を可能たらしめる技法というのも試されてはどうかな、と思います。作品におけるスイートスポットを演出するということですね。
その眼をそのまま
塗装の剥がれたジャズマスターの傍に棄てて
そのままそして
(意地汚くも夢を見させてもらった)と、
一方的に別れを告げる。
そういう意味では、ここの記述ってとても「読み手にとっては」重要なんですが、(僕はここを軸に球体間接人形との空想的な会話という読解をしましたが)今月投稿されていた作品が「シーン」に重きを置かれていたのに対して。こちらの作品は「空想」の方に振れており、読み手としては「フレーズを楽しむ」以上のことが出来ないと感じました。
10805 : バッターボックス イロキセイゴ ('18/10/10 02:07:54)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181010_396_10805p
今回の作品は構図がとても面白く読めました。宇宙というわりかしでかいフィールドを用意して、バッターボックスという局所的なものへと収斂させる。名詞のひとつひとつが振りきれているため、気づきにくいところはあるけれど、僕はなんだか、ちあきなおみが『喝采』を歌っているときのあの臨場感をだぶらせていました。(これまでの人生というでかいフィールド、そして今ここで恋の歌を歌っているという、局所的な場への収斂という意味で)
タフな星人(私の憑依した男でもある)は
こういうキーフレーズ(え、憑依? そういう設定だったの? みたいな)は、読み手に「ふむ」と思わせる効果があると思うのですが、それが作品全体に対して何かをなしえているか、という点に関しては疑問に思いました。
10838 : hard luck chocolate 白犬 ('18/10/25 10:07:19 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181025_041_10838p
混沌に身を投げなよ 下水の匂いだって愛しいよ 海と変わらないよ
レス欄あまり好評を得られなかったようですが、僕は「純度あげてきたな」と素直に思いました。ハードラックという語彙と、血なまぐさい描写とでブラクラのレヴィのことを思い出しながら、その空気感にだけ酔うという読み方をしていました。
前作で少し申し上げたと思うのですが、今作は「ダサさ」に対してちゃんとフォローがある場面もある、例えば
永久の暗がりでいつでも鳴ってるクレッシェンド
の首も断たれて
とか。あと冒頭にあげた部分なんか、単純にかっこいいですよね、僕の主観にすぎないといったらそれまでですけど。
コインの裏と表に滲む表情が同じなら
いっそ混ぜちゃえば?
例えばこんな詩句から、僕はタイトルを「ハードラックとチョコレート」という風に読むこともできるな、と思っていたんですが、「対比」ってのは文章において読み手に関心を抱かせるめちゃくちゃ燃費のいい技術なので、そういうところもっと明示的に(でも押し付けがましくなく)読み手に提示できたら良いのではないかな、と思いました。
10842 : 労働 山人 ('18/10/27 15:47:21 *1)
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こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
この詩句から作者が「話者」の目配せに対して、一貫した態度をとっていることに、この語り手への信頼というものが生じました。あるいはどこかの倫理家が、害虫は人間が勝手に決めたものであり、悪などとはけしからん、と顔を赤らめるのかもしれませんが、そんなこと一つの物語に殉ずるにおいて、どこまでも虚しい言葉であります。
ただ冗長ととられかねない、比喩の重ね技からは「話者」というよりも「作者」から生まれ出た言葉のようなちぐはぐさを少し感じました。それは「悪と断ずる」話者のイメージと饒舌な詩文との整合性が読み手にうまく入ってこないからなのかな、と。
まだ死にたくはないのだと、この晩秋の沈黙に漂うのは凍り付いた希望
正午になれば平たく重い時間が降り立ち
むごいほどの静けさは鉛の冬を暗喩する
それにしてもこの対比は、美しいと感じずにはいられなかった。
10844 : (全行引用詩)削除の記録 野良電気うなぎウナコ ('18/10/29 01:52:09)
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この作品には評を書く必要性を感じませんでした。
10837 : 廃物人 日記 玄こう ('18/10/24 22:34:49 *3)
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着想自体は面白いものになりうると思ったのですが。読まれうるものとしては書かれていないな、という印象を持ちました。
日記と銘打たれておりますので、それは分かったうえで書いている、と思われるのもまた然りとは思いますが、飽くまで読み手としては、読んだうえで何かしらの感興を呼び起こされたいというのが本音でありますから、「日記」というものを逆手にとって、もう少しひねくれて書いても良かったのではないか、と思いました。
10835 : ニューヨーク天神駅 オオサカダニケ ('18/10/23 23:55:34) [Mail]
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老人は永遠を求めて一日に何度も針のない時計の電池を入れ替える
誰にでも思いつきそうな詩文ですが、「そうくるのね」と読み手に予想をさせておくという意味で、それ自体悪いこととは思ってなくて、「そのうえで」どう読み手を裏切るか、ということが焦点になってくるのだと思います。このままですと、作者が「キマった」と思ったフレーズをそのまま読まされている感が否めませんでした。
ファ♯一音しかない鳴き声でオーケストラを再現しながら
こちらも同様な感想を抱いたのですが、「ファ♯」というなぜかここだけ細部への言及がなされていて、そういうのは、存外読み手に想像力を働かせる契機になると思っていて、一概に切り捨てるべきではない表現のように思いました。
10830 : 異端 トビラ ('18/10/22 12:48:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_881_10830p
レスでも少し指摘されておられますが、作者の中で腑にまで落としこんでいない言葉を使われてしまっているな、という印象でした。もちろんそれが真実かどうかなど僕にはわかりかねますが、そういう印象を与えてしまうのはもったいなく思い、若書き故の良い意味での奔放さへと昇華していただければな、と感じます。
スカートに隠してくれた人
あの人はどこにいってしまったのだろう
この詩句と、異端というタイトルから、ギュンターグラスの『ブリキの太鼓』を思い浮かべておりました。異端であると自らを認めざるを得ないものと、それでも母性というものに憧れてしまう人情というものに、切なさを感じました。
10827 : 22 anko ('18/10/20 23:41:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181020_830_10827p
海のような肌触りの言葉達に囲まれて
海のような? と読者は読むと思うのですが、それが「たすけて」という言葉に繋がるとき、「海のような」という言葉の輪郭が朧ながら浮かび上がると同時に、それでもやはり海のような? と思ってしまいますね。夢から覚めてとありますから、心に残る感覚をそのまま言葉にしたのだろうなという推測と、どうしても選語の甘さが残るような、そんな気もします。
一方で
砂時計の二つの世界のように
口から口へと移す唾液のように
という描写はとてもきれいだ、と感じました。前後の詩句が、このイメージを邪魔しているようにも感じるのですが、砂時計を接吻になぞらえる甘い美しさを感じると同時に、その行為というものが人の生という時間的な制限に宿命づけられてしまっているというような苦い美しさを感じました。
10840 : 群青の群青による群青のための群青 Fe ('18/10/26 05:30:19)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181026_114_10840p
アイディア自体はよくあるものなので、それに加えてどう似たような作品に対して差別化をするのか、というのが問われる作品と思いました。
先々月の変態糞詩人さんの『空を貫いたぜ』の選評でも書いたのですが、このような読み手に「絶対読ませない」という身振りで書かれた文章というのは私は好きではありますが、(内容を)読ませないからには、(内容以外で)読ませる工夫をしてください、と思います。
その際にも例示しましたが吉井さんの『れてて』のように、「突き放しつつ抱きしめる」というのが一番わかりやすい、「読ませない詩」のやり方ではあると思っています。その文脈で語るとするならば、この詩は「突き落としてそれっきり」という印象を受けました。
10828 : 遺影 渡辺八畳@祝儀敷 ('18/10/22 00:55:14 *5)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_856_10828p
出会い系サイトのくだりが一番面白かっただけに、作者は事前に別のハンドルネームで女性として、一つか二つちょっと頭の切れる女子大生くらいが書きそうな当たり障りないポエムを投稿し、なおかつそのポエムのなかにはあふれ出るリア充感を醸しておいて、そのうえでこの作品を投稿すればよかったのではないか、と思ってしまった。
こんなことを書くと、芦野は作者の名前で作品を判断しているのか、と言われそうですが、逆にそう思われた皆さんは作者の名前がまるで透明な文字で書かれているように透けて見えているのだろうか。僕は作者の名前というのは作品の一部だと思っているし、その名前に付きまとうイメージや読者の予想をどれだけ利用して作品を書いてやるか、という思惑を大いに歓迎したい。
少し、作者の作品に付きまとう不幸について考えていて、例えば「誰でも思いつく」とか「そもそも文章が読めたものではない」とか、そういった類の言葉が作者の作品には絶対に付きまとっていて、いや、言いたいことはわかるけれども……と複雑な気持ちになる。
あまりそういう擁護めいたことをここに書くべきではないし、作者はそのような逆境をエネルギイにしていると思うので、是非僕をはじめとした文極に生息している文学オタクどもを薙ぎ伏せるようなものを書いてほしいと思います。今作、素直に面白いところもあったけど、冒頭に書いたようにもったいないと思ってしまうところもありました。
参考になるかわかりませんが、文学オタクを黙らせる、という意味での僕が好きな文極の作品をあげておきます。ヌンチャクさん『ポエム、私を殴れ。』
10809 : 雨の詩 霜田明 ('18/10/11 00:23:02 *26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_424_10809p
前半4連のなぞなぞのような記述には読み手に「え、どういうことなの?」という興味を抱かせる、構造が与えられていると思います。ただ最後まで禅問答のような「論理」で押し通す詩文が読み手に与える効果については懐疑的にならざるを得ませんでした。
雨の詩、を書くに際して、その雨と作者が呼ぶところのものに背景を与え、論理を与え、読解可能性を与える試みはとても良いと思うのですが、それと同時に、その背景をくみ取り、論理を解きほぐし、読解をするのは作者ではなく読者であることはどこか頭の片隅においておいてほしいと思います。
10823 : 曇りのち晴れ アラメルモ ('18/10/18 02:03:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181018_758_10823p
小さないのちだよ。どこがどう違うのか。
さすがにまぁこの抒情で押し通すのは無理があるのではないかというのが正直な感想でした。もちろん作者の意図したところというのはそこだけではなく、それぞれの詩句に目配せはされているのだけれども、「作者ワールド」の域を出ておらず、共感するか・しないか、の二者択一という僕が選評を書くにあたって、あえて評価していない部分での賭けになっているので、そこを切り捨てている僕としては申し訳なさを感じます。
ただ最後に置かれた「。」ははかない生命からどうしようもなくあふれ出る気泡として読み、タイトルとの連関において、この記号一つで情景が浮かび上がるというなかなかお目にかかれない技法であると思いました。
10818 : 僕にとっての前向き 北側 ('18/10/15 00:51:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_627_10818p
とても素直な発想と素直な言葉で書かれているがゆえに、「ああ、そのタイプの詩ね」と一瞥されてそれで終わってしまう弱さから逃れえないものを感じます。選評でこのような詩に僕が言えることが毎回同じになってしまうのは大変申し訳ないのだけれども、「家族」「幸せ」「神秘」というような言葉を、そのまま記号のまま受け渡してしまうよりも、話者がそれをどうとらえているのか、つまり話者という独特な存在を通した「家族」であったり「幸せ」であったり「神秘」の輪郭を描き出すことが、まず第一歩となるのではないか、と思いました。
10822 : サオラ― 青島空 ('18/10/17 00:23:15 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181017_736_10822p
本当は傍で聞いていた
あの音を 聞いてしまった
タイトルも含めて、読み手になんだろう、と思わせる導入ではあると思います。且つ自然災害というものに際して、話者というオリジナルな存在を通して伝わってくる情報として、なにか切実なものを思わせる効果もあると思います。これをもっと違う言葉で言うならば「それを経験していないもの」と「経験したもの」との差異を描くということです。
ただ、
目の前に広がる むき出しの赤土
という言葉は、切実であるように見えて、実はそれを経験していないものが想像する光景との差異というものが描かれておらず、どうしても一般論のようなかたちで読み手に伝わってしまう弱さを感じました。つまり、話者でない誰かが想像でその被害にあったその土地を、なんの資料も手にせず書いたものとしても「結果として」読まれうるということです。これを脱するには、まずもって読み手がそのサオラ―という言葉から何を想像するのか、もちろんネットがある今、サオラ―という言葉はそれほど熱心な読者でなくとも意味は簡単に調べるでしょう、そのうえで、読み手が想定するであろうことを「予め」作者が読み取り、そのうえでいかに差異を演出するか、ということになろうと思います。
白い雲を恨む
これに関しては僕も平川さんと同様のことを考えていました、この詩における「ひらめき」であると思います。
10829 : Square Dance 紅茶猫 ('18/10/22 01:12:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_857_10829p
四角く切り取られた
世界の入口に
無造作に置かれている僕は
この転換がうまく生かせれば、という詩なんじゃないか、と思いました。要するにドアの向う側に別の世界があるとするならば、別の世界から見た「僕」も同様に異様なる世界の入り口に佇む一人の人間である、という転換ですが、その点に関してはそれほどうまく機能はしていないように感じます。
ただ作者の作品は「不可解」系の作品が多く、カチっと解釈がはまらないゆえの、読後の余韻だとか、そういうものを読ませるタイプの作品への志向性というものを感じるので、細部に至るまで、虫眼鏡で覗くようなことはすまいと思って読んでいます。
どこか別の空間へと行きたいと思う願望、それをユーモアあふれる寓話として巧く描き出せていると率直に思いました。僕は作者の作品では『kite flying』などこういうタイプの作品の方が好きなので、楽しめたのですが、一方で仕掛けの多さ(先述の転調や、冒頭の3人称視点の語りなど)が放り出されたように置かれているいささかの煩さを、感じてしまったのも事実です。
10832 : 遺影 いかいか ('18/10/22 17:02:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_888_10832p
この作品については特に評をつける必要性を感じませんし、作者もそうだろうと思いますので、割愛させていただきます。
10834 : 己 るぅにぃ ('18/10/23 11:44:00) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181023_925_10834p
まず「世界」とはなんだろう、と率直な感想が浮かびました。意外かと思われるかもしれませんが「世界」という言葉で想起するものというのは読む人の数だけ違ってきたりします。それならまだ良いですが、或いは「世界ね、詩人が好きそうなアレね、俺には関係ないけど」みたいな、はなから想起すらされえない言葉であるかもしれません。
まずは、「世界」というものの内実、詳細そういうものを描いてみてはどうでしょうか、と思いました。そこに個別の物語や、視線、行為、というものが描かれたとたんに、作者には思いもよらぬ読みを読者はしてくれるものです。それは、個別であることが、かえって「世界」という抽象的で、或いは読み飛ばされてしまいがちな言葉を、読み手の心のうちで、確かな感触として残す手がかりになるのではないかと思っております。
10798 : 或る比喩 鷹枕可 ('18/10/08 07:48:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_319_10798p
先月と同じ理由で割愛させていただきます。誠に申し訳ない。
10785 : 接吻の人魚 氷魚 ('18/10/01 20:33:16 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_079_10785p
貴方というまな板の上、雑菌に塗れて死にたい。
この詩句が、あえてちぐはぐにされたような作品のなかで灯りのように、作品世界を照らしているように思いました。その灯りを中心として、例えば出目金という言葉も、「品種改良の末に作られた、自然の競争のうちではとても生きてはいけない、弱い存在」というような意味合いが萌芽し、「人魚」というある種実体のない言葉に背景を与えている、というような効果があると思いました。
ただ、その灯りにも照らせる限界があって、例えば最後にメタっぽく終わる必要性を作品内で読み手に伝えられていなかったり、ところどころ、作者の意図だけが一人歩きしているような感覚もありました。今作を読んで思ったのは、無理にねじったりひねったりしなくても読ませる力があるのだから、と少しおせっかいすぎる感想を書いてしまうのをお許しください。
10831 : ジャングル・ボブ atsuchan69 ('18/10/22 14:57:53) [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181022_885_10831p
「くだらねーww」と思ってしまった僕は作者の術中なのだと思います。妻がひとり、寝ている旦那にアレを求めている図のように読めたのですが、無駄にハイテンションなト書きと、ギリシャ悲劇のコーラスなのか謎の登場人物たちの意味不明な合いの手が、これでもかというほどバカバカしく舞台を彩っています。僕は作者の名前から作者の顔色をだいたいうかがいしれたから、安心してバカバカしいなと思っていましたけど、或いは本気で作者が「これは面白いぞ!」って思ってるように読み手に思われるとまた読まれ方も違うのかな、と若干ながら思いました。
10824 : 黒い百合 泥棒 ('18/10/18 22:48:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181018_780_10824p
ゆっくり
鎖骨に刺さるのは
秋晴れ
刺さらないのは
叙情
ここでわかりやすく読み手に提示される秋晴れと抒情というものの対比が、百合の姉妹であり、最終連に一本の百合に黒い名前を与えるという行為に収斂していく。そういう風に読みました。
秋晴れというのは景色であり、抒情とはそれを叙する心である。鎖骨はもっとも折れやすい人体の一部であり、それを外部からの刺激への感受性の暗喩として読みました。話者は、秋晴れが鎖骨に刺さり、抒情は刺さらないという。秋晴れは話者が見ている情景であり、それを叙する心とは秋晴れというものを言葉のうちにしまい込む行為である、と言い換えることが出来るかもしれない。そういう風に読んでいくと、この詩は、詩を書くという行為そのものへの詩であると読めてくる。つまり、いつだって心を揺さぶるのは目の前の情景であり、それが言葉にしまい込まれたとたん、その細部は失われ、何よりその情景をみた「わたし」が失われる、その詩の不可能について、少しだけ話していきたいと思います。
姉妹のように咲いている
百合を見ていたら
他人の孤独が
直射日光で
すべて嘘に感じる
百合の姉妹は秋晴れと抒情、或いは詩という行為そのもの。他人の孤独、これは文字通り、自分以外の作者の孤独とも読めるが、僕は「話者」にとって言葉にしまい込まれた「自分」がもはや「他人」である、というように読み、それが全て嘘に感じる、詩というものの軽薄さを思いました。
だから
あらゆる比喩を潰し
後は、なるべく、冷たい、水を、のむ。
そして
白い百合に
黒い名前をあげる
それから
誰の孤独を倍にしようか
鎖骨よ
砕け散れ
ここにはとても重大な帰結がある。いや帰結というよりも、気分の変遷なのかもしれない。けれどもここにある白い百合は黒い名前を与えられる。そう、秋晴れを言葉にしまい込むように。秋晴れの直射日光があたらない夜に、秋晴れの現前がなくなってしまう頃に、僕たちは詩を書く、「全て嘘に感じていた」孤独が、ただそこに秋晴れのようにある。黒い名前をあげる、その行為が、誰かの孤独を倍にする。
柄にもなく「僕たち」などと言う言葉を使ってしまった。でもなんとなく、詩というものの不可能と、それを可能であると信じてしまう瞬間が訪れること。そのどうしようもない「詩」という行為が、刺さるだけではなく、砕け散るようにあれと願うのは、詩を書くものならば、経験したことがあるのではないか、と少しだけおセンチに、何かを共有したくなる作品でありました。
10811 : 神の蕾 atsuchan69 ('18/10/11 13:03:04) [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_438_10811p
と、いうことで‥‥。私は、日蓮です。
もちろんですがこの転換がはやくこないかな、と読んでいました。これは作者へ向けての評ではないですが、論というものを詩として読まれうるものとするためにはいくつもの工夫が必要であり、この転換というのは一つの技術であります。つまりこのような出だしの作品にいつでも付きまとう「お前の話聞くくらいならもっと偉いやつの本読むわ」という傲慢な読者に対して、どう布石をうっていくか、その打ち方の一つですね。
で、この作品なんですが、転換は転換なんですが、続く詩文に質の変化がないので、緊張→緩和のプロセスとしては上手く働いていない印象を受けました。もう少し厳しい意見を申し上げると、ツボをしってる作者が申し訳程度におさえた感、とでもいいましょうか。
もちろん
「ヘタクソ」だとか「才能がない」と腐った花たちに侮辱させるのも効果的な方法のひとつだ。
というもう一つの転換に目を向けるということもできるのですが、はたしてこれを読み手の内に有意義に展開できているかと問われると、疑問が残りました。
10791 : 自転車の無駄ひとつなき裸身を芝生に倒してよめり 一輪車 ('18/10/04 06:11:48 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181004_192_10791p
10816 : それ 一輪車 ('18/10/13 15:33:31 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_551_10816p
先月と同様の理由で割愛させていただきます。悪しからず。
10825 : 就寝まで イロキセイゴ ('18/10/19 16:14:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181019_801_10825p
父帰る母帰る父行く母行く
輪廻の様に繰り返される往復に
という詩句をこの作品の「灯し」として読むと、社会現象にもなっているというあの暗い生活というものがすっと立ち上がってくる。やたら何かを食べているのは、そういう生活を一度でもしたことがあるものにとっては、とてもリアルなものとして読めてくる。
でもそうなると
家路に着く頃には降ろされていた
というフレーズがかち合うのだけれどもそこをちゃんと最終連で
家路がずっと続いている様な雰囲気で
私は就寝する
と、ちゃんと接続があって、掬われた気持ちになります。僕がイメージしたのは、ある日パタリと仕事を辞めた人でした。そういう風に読むと、たとえば上記のような人物に対して社会という大きな共同体から、家庭という小さな共同体に帰ってきちゃったんだな(戻ってきちゃったんだな)と俗に考えられる事柄に対して、「帰ってこれなかったんだな」という転換がとても効いているように思いました。
10821 : 金平糖の頭文字 紅茶猫 ('18/10/16 01:08:47 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181016_685_10821p
申し訳ないことにバンクシーの絵画を検索しても、この詩にぴったりくるような絵がみつからなくて、片手落ちになってしまうのはお許しください。
小さな人が
小さな眠りについている
水に沈む小石のように
小さな人と書かれると、同時に読み手の中にいろいろな選択肢が生まれますよね、単に身長が低いということだろうか、それとも器だろうか、或いは性器のことかもしれない。続く「小さな眠りについている」を読むと、どちらかというと「小市民」というイメージが合うのかな、という読み手の選択と、解決を読み手にゆだねるという点で、遊びのあるアジの良いはじまりと思いました。
ただそこからどう展開されるのだろうか、と読んでいくと、蟻という小さき生き物をストローみたいにちゅうちゅうするアリクイに踏まれる、だとか。イメージとしては楽しいのですが、「読みの展開」としては同義反復が続くような印象を少し受けてしまいました。
もちろん展開していくことがすべてではないですね。同じイメージ(小石が沈むように小さな眠りにつく小さな人)にいろいろなイメージを重ねるということも重大な技術であろうとは思うのですが、それらの重ねられたものが、作者自身、一つの方向からしか見ていないような印象を受けてしまい、転調のような小気味良さ、切り口の変化など、少し遊んでも良いのではないかな、と思いました。
10801 : 名も知らぬ国 田中修子 ('18/10/08 20:19:04 *1) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_341_10801p
確かに、「表現」の豊かさという点から見れば、この作者にしては物足りないところはあるのかもしれないけれど、僕はこの詩の読み手に用意されたあまりにも豊かな「表情」に感嘆してしまった。
はじまりは、to belong toという英語の不思議な感触につかまれる、具体的に書くと、to belong to が憧れであるという詩句は、まだtoの続きが何かによっていろんな意味(所属という言葉の幅という意味で)が想起されて、ここで読み手の「続きを読みたい」というテンションを保っている。続くキングスイングリッシュという言葉と、あともちろん英語であるという事実が英国を想起させるのだけれども、タイトルの「名も知らぬ国」が含みとして残っていて、続く詩文に、空白のバトンが渡されている。想像してみてください、タイトルが「英国」だったとしたら、このバトンはたぶん存在しない。
続く2連は、その名も知らぬ国の詳細のように思えるけれども
そこにははまだ ゆけぬよう
目をひらけば文字の浜辺
という言葉は、とてもささやかに場面を転換している。それは小さな差異かもしれない、目をつむっていた「わたし」と目を開いた「わたし」。そして本がたぶんだけど開かれている。耳を澄まさなければ、目を凝らさなければ、この転調は見落としてしまいそうだ。けれどこの二行だけで、それまで「わたし」があこがれを持って名も知らぬ国を本の世界の中に空想していたことと、我に返って目を開いて、現実の風景をバックに、本という媒体のなかで再び認識されなおす世界、この視線の転換はひらめきだ。作者のひらめきではない、読者のひらめきとして用意されているのだ。
このひらめきがあるから。
そうか、わたしはここからきたのだ そうしてどこかにゆくのか
続く詩句が、月並みな言葉を実感として読ませる。つまり空想の中の名も知らぬ国から、現実の世界で本の中でのみ現れているフィクションとしての名も知らぬ国への「帰還」が、先述のひらめきとして、開かれているから、「ここからきた」という言葉が、単なる言葉の綾としてではなく、「ここ」という実感が宿っている。そして同時に「どこかにゆくのか」という問いは、名も知らぬ国へ単に帰るという選択肢がもうすでに失われている悲哀(そう、先ほどの帰還は一方通行である)もまじって、続く言葉に繋がる。
それでよろしい
なぜここで少し口調が変わるのか。それは先述した哀しみへの、「わたし」の答え、決断だからだ。
それでも「わたし」は本を読むのだろう。多分、雨の日は特に。けれど3連と5連の印象は大分違う。「わたし」は空想を空想と判って、「どこかへゆく」という定めを知って、憧れという言葉に収斂していく。
「父」のto belong to がとても美しかったのに比して「わたし」のあこがれは、to belong to あまり発音がよろしくないらしい。それはまだ「どこか」という言葉でしか言い表せない躊躇いゆえに、少し言いよどんでしまう。人が未来を想う時のように。
10817 : ころして君 渡辺八畳@祝儀敷 ('18/10/15 00:15:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_624_10817p
ちょっと謎のテンションに追いつけぬところはありますが、古谷実のギャグマンガとかによく出てくるもう意味わかんない強迫観念に取りつかれた謎の登場人物を思い浮かべてました。ギャグマンガだと、そういう人の滑稽なところを現実世界と対比するからギャップとしての笑いがうまれてくるところが、この詩だと対比がなくひたすら謎の強迫観念を聞かされ続けるというちょっとした悪夢なんですが、「誰か突っ込んでやれよ」というあの気まずい空気を作り出すことには成功しているのかな? と思いました。
と、ここまで書いて、これはある種の皮肉なのではないか、と思うわけです。つまり例えば現代社会に生きる誰かしらの何かしらの特徴をデフォルメし誇張し、読み手をして「あ〜わかる」という読後感を演出するものであったのかもしれない、と。けれど残念ながら僕の乏しい人間関係の中にはこのようなハードな個性を持っている人が誰一人存在しなくて、ただただヤムチャ視点になってしまっているのではないか、と。
10777 : 星星 本田憲嵩 ('18/10/01 00:09:35 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_037_10777p
(客観性の強い光を帯びて――
もうこの作品はこの一文を避けては絶対に完結しえないし、この一文を濁したまま何かを表現したつもりになってしまったらそれは最悪の結果と言わざるを得ないくらい強い違和感を読み手に残す、ある種の賭けのような言葉であります。
と、そのように感じ続く詩文を読んでいくと、たしかに作者にとって一つの発見としての(今までとは違う)星のひかり、という提示がなされ、それがどう客観性につながるのか、という謎をまぁある意味ほったらかして終わるわけですが、たとえほったらかしたとしてもその余韻で読み手が何かしらの解釈をはじめたらそれは賭けには勝ったと言えそうです。
それで、2連目以降を素直に、客観性という言葉を頭に入れて読んでいくと、確かにある感興は呼び起こります。いわゆる「宇宙というだだっ広い空間に対して僕はなんて小さいんだろう感」ですね。定番のあれです。なぜ客観なのかというと、それまでの視野狭窄から少しだけ逃れて、自らをその広い空間にもう一度再認識しなおす、という行為はまさに客観的ではありうると思います。
ただ僕が少し、疑問に思ってしまったのは、「それは客観性の強い光ではなくないか」という素朴なツッコミでした。なんというか、詩としてはもちろん体裁をなしているのですが、ファミレスでハンバーグを注文したのに宅配便でひよこが届いたくらいの距離があって、さすがにそれを狙った詩とは読めなかったので、そこは少し疑問に思った次第です。
10807 : カルフォルニアで吸いたい イスラム国 ('18/10/10 16:45:00 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181010_415_10807p
意味を問うようなタイプの詩ではなくて、フレーズで振り切って読み手を気持ちよくさせられるか、という詩なんですが、すごく巧い部分と、微妙な部分があって、たとえばこういうタイプの詩でなければ、許せる(いや、こんなこと言うのもどこから目線だよという話ですが)のだけれども、気持ちよくさせていくタイプの詩でこういうブレーキは致命的なんじゃないかな、と思うわけです。なんというか前戯の途中でブラマヨ小杉のひーはー着ボイス流れちゃうくらいの痛手のように感じてしまいました。念のためいうけど、別にそんなに悪いフレーズではない。
毎年 大学じゅうのアジサイのつぼみを摘んで乾燥させ吸うサークルがあった
軽い一酸化炭素中毒だけれど大量のエチゾラムを用意しておけば
だいたい大丈夫 だとみんな信じていた 「エチゾラムは万能薬だからガンにも効く」
引用したのはすごく巧いと思ったところ、ちなみに一部のアジサイ(の種だったかな)はLEDに似た効果が得られるらしいけど、良い子は真似してはいけない。
10794 : 真の幸福 lalita ('18/10/08 00:07:04) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_312_10794p
いやいろいろ言いたいことはいっぱいあると思うんですよ、もちろん僕だって。でもあえてそういうところ全部取っ払ったうえで、話しはじめましょう。たとえばそれは英国人が初めてアメリカの大地に住まう先住民族を見かけたときにも必要なことであったと思うし、社交というとてつもない難儀をいとも簡単にこなせる人たちが僕みたいな人間に対して少しだけそうあってほしいと願っていることでもあります。
俺はおじさんになれただろうか。
笑ってしまうのは作者の本意とは外れるのかもしれませんが、この唐突の述懐は少しだけ胸に迫ってくるものがありますよね。え、おじさんなんて布石打ってましたっけ、え、おばさんとの対比? まさか、この文脈でそれはちょっとE難度すぎるでしょ、あ、でもおじさん、確かに年老いていくこと、お兄さんからおじさんへと変わっていくことに頭がちゃんと適切なフォームをとれているだろうか、そういうのは大事だ。え、この作品と関係ない? 確かに。
でもそういう文脈から自由になるフレーズって真面目に詩作品の面白さを増す技術ではありますよね、一般論として。
10810 : 予見 みどり ('18/10/11 01:39:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_427_10810p
Instagramみてる君の脈をとりながら
尋ねた、あれは取り消しです
アルフ・Oさんのレスとかぶってしまうのだけれども、僕もここがとても好きだった、理由は単純で、それまでの感傷的な叙述の終着点というか、解決の場として、決して説明的にならずに多くを語っている豊かなところだと思うからです。
臨終のきわ、というとさすがに少し大げさなのかもしれませんが、自らの「予見」というものが少しだけ意味のないものに思えてしまうような場面で、「君の脈をとる」という行為は、とても切ない。だって「君」の脈はたぶんだけれども、とても健全な人間の示す正しいあり方で鳴っているだろうし、そのことは「僕」にとってその音以上に大きなことを語るだろうということは簡単に予想が付きます、だから繰り返された疑問を取り消す。簡単に「だから」なんて書いてしまったけど、取り消した理由がどういうものであったのかは、読み手の数だけ違うのでしょう。
陳腐な言い方をすると自らの生の終りというのは決して予見の終着ではないという気づき、そんなふうに僕は読みました。
正直、初連で言葉を繰り返した理由とか、終行で作者がどういう余韻を残したかったのか、とか、読めなかった点も多々あるのですが、冒頭にあげた部分はまさにひらめきであったと思います。
10815 : 星のタトゥー 本田憲嵩 ('18/10/13 02:45:07 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_520_10815p
んー、わかる、わかるんだけれども、作者にはこの詩情ってどこかで誰かが一度くらいはやったんではないか、という疑問を持ってほしかったな、という印象を抱いてしまいました。イメージとしてはわかりやすいですし、それを星のタトゥーとするのは賛否あろうとは思うのですが作者の感性であるとは言えそうです。
基本的にはそういう発見、というのはかつて誰かが思いついたことの再発見でしかないということは、全てのこと対して言えることだと思っていて、そのうえでその「出力の仕方」だったり、「その光景を見る側、つまり話者のエピソード」の個別化によって、その発見をするという意味合いを変えていったり、ということになると思うのですが、先述のようなこと申し上げたのは生のままの発見の提示という段階で止まっているのではないか、と感じたからです。
10804 : 詩へのリハビリテーション#02 中田満帆 ('18/10/09 13:36:01) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181009_361_10804p
このことに関して僕は言いたいことがありすぎて、逆にここに書けない。申し訳ない。もし作者が望むのであれば個人的に感想をメールか何かで送りたいと思います。文学極道スタッフとしてではなく、僕個人としての感想になりますが。
10788 : 荒波現代アート 刑罰と埴輪 コテ ('18/10/02 13:37:34 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_114_10788p
最初に読んで思ったのは、いったい何について話しているのだろうか、という素朴な疑問でした。僕の読み方はだいたい一回目で作者の実現したいものの素描をなんとなく想像して、そこから細部を読み直すという読み方なのですが、その実現したいものの素描というものがどうしても想像できず、申し訳ないという思いが募ります。
個人的には「良い作品」なんてものがこの世にあると思ってはおらず、良いと感じた人間がいるのみだと思っていて、そのことをたまにつまらない相対主義と批判されることもあるけれど、僕としてはこれほど独善的な作品鑑賞はないのではないか、と苦笑してしまう。
なんでそんな話をしたかと言うと、(作者以外のすべての作品に言えることではあるが)良い批評家に出会われればいいな、と率直に感じました。
10814 : 家族 ネン ('18/10/13 00:03:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181013_516_10814p
これまでの作品よりも良いと感じました。これまでの作品が思念が先行しすぎていたきらいがあったことを考えると、今作は、その思念に飛ぶまでに具体性という土台があるので、その土台から何が見えるのか、という点で読み手の視線を限定出来ていると感じます。限定なんて言葉を使うと、なにかとてつもなくつまらないような気もしますが、詩における、転換や喩や感情移入などのもろもろの効果はその一定の視点ありきの逸脱や同期であろうと思うので、ここに至って、はじめて作者の凝らした意匠に読み手が気づくのではないでしょうか。
「家族」と題されておりますので、作中に現れる空白はすべてこの文字を挿入するような読み方をしました。たとえば「コミュニケーションを取ろうと」などの穴が一つ空いている文章には家族と入れてみる、といった具合です。そう読んでいると
砂漠に落ちた一粒のダイヤを探す
という言葉が唐突ではありますが、家族という血のつながりだけで構成された不確かな集団において、わかりあおうとすることの不毛さ、それを強いられるという徒労をなんとなく感じるような詩句ではあります。ただその読みを読み手の中で実感として読ませるには、家族という他者の存在なしでは実現せぬことだろうな、という印象も抱きました。
10803 : コこロさん 湯煙 ('18/10/09 01:42:47 *11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181009_359_10803p
かなりの時間考えたんですが全くと言っていいほどわからなかったです。わからないものが悪いものとは考えておりませんが、今作に関してはそこもやもやしたまま評価するのもなんか違う気がしました。読解力不足、誠に申し訳ない。
10799 : 真理のメロディ 陽向 ('18/10/08 15:15:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_324_10799p
宗教ソングの歌詞でしょうか。作者がそれを自覚したうえでそういうものへの読み手の期待(期待っていうと変だけど)をどう裏切っていくか、っていう感じの読み方を(無理矢理)してました。今作は僕のような読み手の逆の逆をついた詩と言えそうです。つまりそういうちょっと斜めから読みにかかる読者に対して、もうどストレートの宗教ソングを展開するという意味で、たしかに度肝は抜かれましたが、それ冷静になると裏の裏は表ですよね、、という悲しいツッコミしかできませんでした。
10808 : 格好のいい愛 黒髪 ('18/10/11 00:16:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_423_10808p
もう一つの方の詩の評で言いたいことの大部分書いたので、こちらにはシンプルに。皆さん指摘されておりますが、ご自身のことを書かれてはいかがでしょうか。以前の作品で、レス欄で作者がエヴァのマギシステムの話をしている時に思ったのですが、作品よりそちらのほうがずいぶん面白く感じました。
10797 : 読点。 田中宏輔 ('18/10/08 06:19:49 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_318_10797p
実のところ僕にはこの詩が面白くないと思う方の気持ちもよく分かる。けど面白かった、もうこれはしょーがない。面白くないと思われる方の気持ちがなぜわかるかというと、この詩って嫌味っぽいところはあるんですよね。なんというか作者が鳩に豆をやるかのような素振りでこの詩を「与えている」みたいな、しかもそれがちょっとチューニングが合ってない状態で読むと、ことごとく的を外している、みたいに読んでしまう気持ちもよく分かるんですが。
でもニュートラルで読むと、面白いんですよこれ。それでとても残念なことに、なぜ面白いのかがとても説明し辛い詩でもあるんですよね。ただまぁ一つの技巧を取り出すとしたら、緊張と緩和、というのは分かりやすいのではないかと思います。先々月ゼンメツさんの詩への評でも取り上げましたが、読み手の読みをコントロールする技術ですね。
まず、前提として、詩としてこれを発表するからには、「詩人が読点に関して何をか言わんとしている」みたいな少し重苦しいものは誰しも感じると思うのですよ。実際序盤の2、3に関しては、初読では「ほうなるほど」「いやいやそれは」みたいな読みを期待している詩文と受け止められかねないところもあるのですが。
あなたが打つ読点
とてもすてき
すこし多いかなって思うのだけれど
そのすこしってところがまた、微妙チックで
感じるの
みたいに、ちゃんとそういう読みを緩和してくる。「あ。もっと肩の力抜いて読もう」とそういう目配せというか、読み手にホッとさせるスポットを用意することによって(「マルはいや」とか露骨ですが、ここまで「ほうほうそれで」で読み進めてしまうと、ここは多分嫌味を感じてしまうのかな。)「忘れられない一言とか」なんて、「あ、そういう発想するのねw」みたいな割とライトな気持ちで読みながら「あーでもそれって確かに、僕もちょっと思うところあるな」って鳩に豆をやる傲慢な作者、というのが「詩文に解釈をやる傲慢な読み手」に逆転していて、もうそれって読み手からしてみたら、楽しい以外の何物でもないんですよね。
10789 : 今の即興詩 俺の嫁知らんか? ('18/10/02 20:23:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_151_10789p
いきなり世界の渇きや虚しさの述懐とか読まされると、「あーそういうのいいや」という拒否反応すらおこしうる、わりと避けたいやり方ではあるのですが、それを隧道を行くキャラバン、と具体的な描写へとつなげることによって、続きを読んでみたいと思わせるようなやり方は素直にうまいと思いました。続く描写も読み手を惹きつけうる、カメラの細部へのズームが効いていると思います。
ただ、
美しいものは美しい
そこにある花が砂に埋もれて
また砂になっても
と、これまで描いてきた、砂というモチーフを布石として、話者の「標語」に閉じてしまう弱さを感じました。実際、具体的なものへのスポットの当て方とか非常にうまいし、そこに惹きこませる握力も感じるのですが、総体としての印象が客観を貫いていて、「実体のない話者」が何かとても話者にとって大事なことのように思われる話をしている、という光景になってしまっていて、「あーそういうのいいや」と、読み手をせっかく握りこめたのに、離してしまうもったいなさを感じました。
10819 : 岸和田 さなろう ('18/10/15 20:57:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_673_10819p
これ読んだ方の多くが思っていることだろうけど、なんでこんな体裁にしてしまったのだろう、ということを僕も感じました。田中修子さんがレスされてますが実際一つ一つの詩句って単体で読むと良いと思うんですよね。ただ、一つ一つの詩句が「作者ワールド」に向かって内側に内側に伸びていくだけで、読み手の側に伸びてくる言葉として置かれていないゆえに、ピンセットでつまみあげるような鑑賞しか許されえない弱さをどうしても感じてしまいます。
僕が「作者ワールド」って言葉を使う時はだいたい「入口がない」ということが言いたいのだけれども、読み手の誘導として、まず、「あ、この物語読みたい」という工夫が、はじめて入り口となって、書きたかった世界が、読み手に取って面白い世界に符合するのではないか、と思いました。
10812 : きらきら 宮永 ('18/10/11 23:07:49 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181011_465_10812p
あの日亡くなった子どもの名前は、いわゆる、キラキラネームだった。
ここの含みでどこまで読ませるか、という詩文として読ませていただきました。まあ当然この部分躓きますよね。でその躓きの記憶を頭に入れつつ読むと、「話者」の表情が少し見えてくる、っていう感じで読みました。
僕みたいにまだキラキラネームなるものが本格的に登場する前に学校教育を終えた身からすると、そういう名前を聞くのっておのずとニュースとかになるんですよね。だいたいは悲しいニュースとして。作者コメントにもありますが、虐待という言葉だったり他にもいろいろ。そういう時人の名前というのはその字面以上に多くのものを語るというのはこの作品を読んで、改めて思ったことでした。特に「気合の入った」名前の子がそういう運命を辿ったことを知るとき、それは少しだけ特別な感情も入り混じります。
遥か翔(かけ)る
からはおそらく、今年の名前ランキングとかの上位の漢字を使って詩を書いている、と思ったのですが。僕は残念ながらこの個所がこの詩で一番面白くない箇所であったな、と思ってしまいます。というのもここは作者の作為だけが先行してると思うんですよね。いや、もちろんそんなことわかったうえで、これを読ませるために作者が布石を打って、誘導してここに至らしめていることは承知のうえでも「あ、そういうことがしたいんですね」と一歩下がって眺められてしまう。じゃあどうしたらいいんだ、と問われても僕には答えがないと即答できるくらいに難しい試みであったと思います。
(どうでもいいことですけど、まだ若いころに小田和正というおじさんがきらきら、という曲をニューシングルで出していたんですが、なんだかとても破廉恥なものを聞いている気がしました。でもすごいいい曲で、何度も聞いてましたね。おじさんが「きらきら」なんて言葉を吐くどうしようもない破廉恥さと、それが良い曲であることで、あれは背徳感の歌だと勝手に思っていました。)
10820 : 鉛の塊り 中田満帆 ('18/10/15 21:26:56) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181015_675_10820p
巧いんですが手癖だなぁと思ってしまう作品でした。思念的な語りを優先させつつ、「きみ」というアイテムや、影を踏むという実際の行為や、通りの中心などの場の明示など、抑えどころを抑えてはいるのだけど、どうしても読みが有機的に繋がってくれないもどかしさを感じました。
魚が魚であることによって海は青く
狐が狐であることによって森は繁るけれども
ひとがひとであることによって町はぬかるんでる
ここはただの言葉遊びとして読まれることを越えて、読み手に「ひと」というものの作者の想定をスマートに読み手に受け渡していると思いました。題の「鉛の塊り」と荒野や驟雨からアメリカの西海岸(昔の)の荒くれものを思い出しつつ、そういう土地に生きるものの命が驚くべきほど軽いこと、そして
きみのなまえを
いま呼んでる
そういう読みに対しての「違う、いまだ」という呼びかけに、迫りくるような緊迫感をかんじつつ。
10783 : antinomie babies 白犬 ('18/10/01 10:44:26 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_057_10783p
はじまりの行はパウルツェランのコロナへのオマージュなのかな、と読んでいました(一人称の変化も相俟って)。
私達は掌に狂気を握りしめて
そんな簡単に言ってもいいのかな、とちょっとタイムしたくなります。つまりその前提、「掌に狂気」で何かが伝わっている前提でお話が進むとしたら僕は何も理解できないだろう、という予感ですね。というよりも前提(ツェランのコロナの作者の理解も含めて)が複雑すぎて、うまく入り口を見つけ出せないというのが正しいのかもしれません。
atsuchan69さんのレスが面白かったので少し
●どこにでもある中途半端な狂気や体験は、田舎のスーパーで売っている中途半端なデザインのTシャツみたいだ。
或いはこういう文脈で語ることも可能だということなんですが、いわゆるファッション狂気ってやつを思い浮かべられたらそのあとでかなり適切なフォローが必要となる感じはします。ファッション狂気ってなんだよ、って当然ツッこまれますよね。はい、ファッション狂気なんて存在しないと思います。というのも誰しも狂気の側面って持っているものだし、その個別の体験を否定するということなんて誰にもできないと思います。ただ一方で、ロックスターや芸術家気取りが、なにか特権であるかのように振りかざす狂気っぽさ、ああいうものから漂ってくる異様な腐臭というものには予め蓋をされておいた方が良いとは思いました。そういうノイズに「あたし」の個別的な体験が邪魔されるくらいなら。
1っていう存在を奪い合う私達はいつまで経っても2のままだ
ただ詩文を読み進めていくと、ものすごく健全な人間の心のあり様を描いているようで、それを狂気と呼んでしまうことにちょっとした違和感を感じつつ、それでも切実にその人としての「ありふれた」苦悩を吐き出したい、と言葉を重ね続ける話者を少し愛らしく思ったり。
10781 : 2012年の林檎 朝顔 ('18/10/01 02:06:28 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_043_10781p
だけど大村さんは閉鎖病棟の中であたしの作った五百円のパッチワークの林檎と一緒にいる。
ここだけ事実関係が文章の中明かされておらず不明瞭な印象を受けました。
さて、僕は小説に関して何か技術的なことを言えるとは思っていないので素直にどう感じたのか、ということを書いていきたいと思います。
好感を持ったのは、「弱きもの」への憐れみという型にはまった見方ではなく、精神障碍者であったり在日朝鮮人であったり貧困家庭に育った者であったり、そういったものたちに対しての話者の視線をできるだけ丁寧に描こうとするやり方でした。
例えば羽角という人物は実に捉えどころがなくて、
羽角はいつものようにあたしが落ち着くまで、ずうっとハグをすると帰って行った。あたしはドアをぱたんと閉めて思った。
(わるいことした)
あたしは羽角が帰った後にその端切れを拾い集めて袋に入れてクローゼットの一番奥にしまった。
例えばこの部分のように、その時々の話者の精神状態によって様変わりする視線に照らされた人物というのはとても捉えがたい。それまでは「金目当て」「体目当て」と称されていたのに、この具合である(女性にとって抱擁というものの強制力たるや)。けれど、普段生きている世界のこと、そこに生きている人物のことをを思い浮かべると、まさにそのように皆捉えがたいということを知る。それは被害妄想的な強迫観念(たとえば、あの人は悪魔のような人だ、など)に囚われがちな現実世界の実態とは少し違うかもしれない。けれども僕は詩や小説などジャンルに限らず、一人称で書かれる文章とはその主観のなかに客観を宿す行為であると思っている。話者の主観のなかに作者の客観が入り込むことによって、例えば現実では「感情」に支配されてただただ悪い人物にしか思えないような人に対しても客観というフィルターを通してその「事実」を「読まれうるもの」へと変換していく。それは実態とは違うのかもしれないが、読み手がリアリティを感じるのは事実に対してではなく、事実らしさに対してである。そういう意味において、捉えがたさ、というのは現実に人が人に対して抱いている理解というものの難しさに符合してより事実らしさを増す。ただ単に捉えがたいのではなく、話者の様変わりする視線に映る人物が、その様変わりするがゆえに、ぶれてしまう。その「ぶれ」が何よりも意義深く感じる。
さて、ここからは本当に感想になるのですが。
この文章の骨子たる、「弱きもの」へ向けられた眼差しは話者自らもそうであるように、上記の通り型にはまった憐憫を越えて一人一人の存在を描き出そうとしていることに好感を持ちました。さらにテーマは「弱きもの同士」の関わりとなっていくのですが、その関わりが逆説的に話者の存在をその他なるものへと向ける視線を通して彫刻していきます。それは憐憫のような話者の主観的な感情と、「人に手を差し伸べるのにも、強さがいる」という作者の冷徹な客観が、よりリアリティをもってその人物相関を描き出していると感じました。象徴的な事件として、大村という人物と分かち持っていた、リンゴのパッチワークはあるいは、弱きものの連帯の象徴としてこの物語に現れるのですが、それを粉々にしてしまうのは、ほかならぬ羽角という同様に弱い存在の過失であったということが言い得ぬ無力感を読み手に与えるのではないか、と。
その現実の林檎は虫食いがしたり茶色に変色したりしているけれども、台所で見つめていると不思議な光をあたしに放ってくるのだった。
「弱さのぬかるみ」からひとり立ち上がろうとする話者、それを話者自身は、或いは非情である、と心の中で感じたのかもしれない。けれど、その決断の遠景では、虫食いの、変色した林檎がいつまでも自らに光を放っている光景が続いているのだろう。
10779 : 五感 黒髪 ('18/10/01 00:40:20)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_039_10779p
さて、2か月連続で作者には同じような評をしてしまい、さぞかし耳にタコだろうと思いますので、少し見方を変えれたら良いかな、と思っています。
先月ビーレビの方に投稿された『声』(※別サイト)を拝読し、率直に言って感銘を受けました。作者の全ての作品を、こういう作風にするべき、とは思わないですが、作者のこれまでの作品と比べ『声』という作品に惹かれた理由を少しだけ考えて、今作の批評に移ろうと思うのですが。
『声』という作品では「君」という存在が思念のなかではなく実際に「僕の見ている(聞いている)世界」のなかに現れ。その存在に紐づくように「思念」が語られていることに注目したい。もう一点は「時間の流れ」というところ。時間の流れって詩の中に表現するの、結構難しいと思うんですよね、(意識すれば簡単ですが)『声』という作品は、時間の流れがあるんですよね(例 噴水の音、君の声)。それでその実際に時間が流れている感覚が、この『声』という作品を作者のこれまでの作品と違うものにしているのではないか、という推測をしました。時間の流れを感じられるということは、そこに具体性があり、話者へのシンクロがあり、ストーリーがあるということ。
さて、今作『五感』を読んでみますと、どうしても、締まるとこが締まっていないという点が拭いきれない。なんでか、ってことを思うと、やはり『声』という作品と違って今作には時間が流れていない、という印象を受けるからなのではないか、と思います。
我々の見ているものは、光であって、モノ自体ではない。
我々は真実の姿を感覚しているわけではない。
鏡に囲まれた部屋の中という妄想をもったりするのもそういうわけであろう。
視界を疑ってみると、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といったものが、浮かび上がってきた、
人間の、視覚は影をもたらすものであり、
カントとプラトンが混ざってしまったような感じですが、そんな思想の成否なんてどうでもよくて、まずそこに誰がいて、何を見て何を聞いて、何を思っているかを読者をして想像せしめることが詩ではないか、と(作者の別作品を読んで)思ったわけです。
10790 : 9月下旬〜収束の果て 次への:〜 空丸ゆらぎ ('18/10/02 22:01:35 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_158_10790p
波が粒になり
余韻が薄化粧して 時の
奥へ奥へと誘う
発見された涙の化石
例えばこの詩句が現代詩てきにイケているのかイケていないのかは僕にはわからないですが、文学極道的には独りよがり、という烙印を押されかねない描写ではあると思います。今作からは先月まで作者の作品に感じていた、「フレーズで読ませよう」という印象に及ばず、もっというならば「伝わるのが怖い」、という印象さえ受けてしまった。
例えば冒頭で挙げた詩句というのは
波が粒になる(時間の間延びした感覚)→余韻→回顧→涙(過去のなんらかの痛ましい思い出)
と、いくらでも読みようはあるのですが、読者が回り道した分、それを受け取った時のリターン大きかったか、というとそうとも言い切れない弱さがあると思いました。迂遠な言い回しを好む方々がよく陥る罠として、迂遠さを演出しようとして、無理やりひねり出した詩句がどうにも型にはまったフレーズに陥ってしまい悪循環になる、というものがあると思うのですが、そういった印象です。
振り返って 合図 指で螺旋を描く
選んだ覚えのないこの国で
この場面とか素直に巧いと思うんですが、そこにいたるまでの過程で読者の読みの報酬系を裏切っているので、どうにも効果的に光らないという印象を受けます。
10778 : おっぱいのカップとおちんちんのサイズ lalita ('18/10/01 00:13:00) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_038_10778p
少なくともここまでやるならコピペはどうかなと思います。いや、仮に作者がこの異様に長い文字列を独自に考えていたとしても、もちろん文学極道的には評価はできないんですが、僕は個人的に驚愕しただろうな、というとても残念な感情を抱きました。
10776 : カタコラン教の発生とその発展 田中宏輔 ('18/10/01 00:04:26) 優良
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_036_10776p
(まだ作品読まれてない方は作品読まれてからこの評文に目を通していただくことを強く推奨します)
はい。僕が作者の作品の中で一番好きなタイプのものです。どういうタイプかっていうと、もうひたすら読者サービスに徹している「笑える」作品です。一つだけ懸念があって、この詩ってどの点で突き落とされるかによって読み手の体験するものが全然違うのではないか、ということ。僕はすごく幸福な読者だったかもしれないということですが、いかなる詩でもそのようなことは起きうるわけですので、この詩で笑えなかった方はただ運がなかったとご自身を慰めてください。
コリコリの農家の子として生まれたカタコランは、
改めてこの冒頭を書くと、あからさまにふざけているな、と感じるのですが、僕は幸福なことに初読では「変わった名前だけど、まぁでもフィクションとしてはありそうな名前だよな」くらいの感じで読み続け、作品と作者との距離ってのが全然見えていなかったんですよね。最初の「コリコリ」と「カタコラン」で気づかないと、不思議なことに「カタコリ」も「カチカチ」も「キンキン」も「まぁでもコリコリとかいう地名出てくるからカチカチもキンキンも全然変な名前ではないのかもしれない」という風に読んでいました、恐ろしいですよね。
カタからコシ、フクラハギの三大陸
流石にここで吹き出してしまったのですが、なぜ(笑えるという意味で)面白いのか、という説明ほど、陳腐なものは無いと思うので、そこはどうかご勘弁を。
読み手に迷彩を読ませる効果というのは先々月北さんの『牛乳配達員は牝牛を配る』で評させていただいたんですが。北さんの作品がどちらかというと情緒に振れていて、テクニカルなことが前面に出てしまうと少し嫌味が付くことから構造としては控えめ(その分情感に振っていますが)だったのに対して、今作はテクニカルなことに全部りしたような作品です。
「カタからコシ、フクラハギの三大陸」でハっとして、だまされた! と叫んで振り向いたら、なんで騙されたのか自分でも理解できないくらいそこら中、忠告ばかりで、むしろそこまで騙されたことに気付かずに読んできた自分が笑えるという、お手本みたいな掌の上感を曝け出してしまったのですが、こういう作品に限らず、多分ほとんど全ての「物語」の体裁をとった作品に通用する技術だと思うので、何が笑えるのか、だなんて一番笑えない冗談をするよりはましかと思いその技術というものに焦点を少し当てたいです。
北さんの作品の際に「物語を偽装する」という少しエモい言葉を使ったのですが、あれはどちらかというと情感振りの北さんの作品用に作り出した言葉で、もっと広い言い方をするならば、物語の迷彩、ということになるのかな、と思います。
問題は何を迷彩で隠すのか、ということだと思うのですが。それはもう「作者の表情」に尽きると思うんですよね。この手の効果を狙った作品で、「あんまりよくないな」と思ってしまう作品の多くが迷彩で物語そのものを覆ってしまっている作品が多くて、初読で何言ってるのかわからないと、種明かしの場面で「ふーん」なんて言われてしまう目も当てられない展開になりかねないので、迷彩を使う以上初読で読ますというのは必須なのでは、と思います。その点今作の読みやすさはまるで中学英語の和訳であるがごとしです。では何を隠すのか、というと、「作者の表情(意図)」しかもう残っていないのではないか、と。
この作品がすごいのはその大胆さとシンプルさであることはもうあまり説明の必要を感じませんが。こういう作品描くからには「読み手の読みをどこまで読み切るか」ということが一番大切になると思っていまして、これまでの選評で嫌になるくらいかいてることですが、「読み手をどう誘導するか」ということの一つの答えとして提示しうる作品と感じました。
いまいちピンと来ない方は、多分僕より勘のいい読者かと思います。或いは
* その教えをまとめたのが「カタコーラン」である。
こんな笑いのセンスじゃ笑えないよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、この作品が挑んでいるのは、こんな笑えないフレーズでいかに読み手をして笑わしめるか、という問題であることはどうかご了承ください。
10784 : thanx,bungoku 田中恭平 ('18/10/01 11:56:30)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_059_10784p
こういう手段は危険なように見えて意外とキャッチ―ですね。つまりこれが最後だよ、という身振りで書かれるものは当然普通に書かれているものとは読まれ方が違ってくると思うし、そこに焦点を持っていかれて失敗する作品とうまくいく作品と両パターンあると思うのですが、僕はうまくいっている作品に出合ったことがないです。
この作品に関してもそのギミックがうまい具合に機能しているとは思えなくて、それ以外がかなりいいだけに、むしろとってつけた印象の方が勝ってしまいます。
こんなに日々に疲弊してしまったわたしたちは確かに
郵便ポスト、そのアナログに意義を見出すと
この穢土だって案外悪いところじゃないんです
と言いかけて、聞こえない
だってずっとひとりだったから
タイトルに引きずられると、郵便ポスト、というのが少し別の意味をもってしまいノイジーに感じるのですが、「わたしたち」という主語が突然現れて、その泡沫のような幻想が「ひとり」であるという思いに帰っていくのは、これまで打ってきた布石がここぞとばかりに効いて、とても「割り切れない」。
10792 : 「行きし思い出に追悼を」 Charlie ('18/10/05 03:58:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181005_239_10792p
普遍的な抒情を読ませたいが故にあらゆる人にとって当てはまりそうな詩文であることがかえって、あらゆる人にとってありふれたものになってしまっている印象を受けました。もう少しかみ砕くと、個別的なものへの迫りと、客観的な視点への突き放しのせめぎ合いのなかでしか、普遍性なんてものは生まれないと勝手に考えています。もっと迫っていいし、もっと突き放していい、そんなことを思いました。
10793 : Peeping muzzle アルフ・O ('18/10/05 21:29:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181005_257_10793p
8月の作品は読めなかったんですが、今作は存外普通に読めてびっくりしました
多分>硝煙に織り込み
>繭のように纏うから等の語彙によって早々に頭のなかが「フィクションだな」という構えをとれたのと、
ギリギリ僕の索引の中で伊藤計画の『ハーモニー』が引っかかって、(SFの設定ではなく、マシンガンとか、あの主人公の女の子二人の関係性という意味で)知らない世界ではないな、という安心感があった、という個人的な事情も多分に含むわけですが。1連目はとても好みでした
特に
>天使を独り占めした優越感に
>黙りこくってお互い浸っているはじめはなんのこっちゃと思ったんですが、続くシーンを読んでいると、
あ、もしかして「天使」って言葉の対象そのものがお互いのことか、と。
叙述トリックなんて大袈裟なあれではないですが、こういうの作品内に気付く設定がちゃんとあると嬉しいですよね。>ふたつのピアスの上で冷たい音を立てて
ここは僕だったら「上で」ってなんかよく分からない場所にフォーカスするよりも、「二つのピアスが冷たい音を立てて」にしてしまって瞬間にフォーカスしてしまうかな、と思いました(まぁそれだと動詞が重なって煩いですが)。この作風で、こんな些末な箇所で読者を立ち止まらせるメリットって少ないと思ったので。あとは最後のメタ構造になっているところも、読んでいて気づきがあって楽しいです。
(当たってるかはわからないけど)多分通常の会話文から、ある一人の人物の台詞を抜き去っているのかな、と。
読んだ余韻に、消された言葉を想像する遊びをしてて、一番難解だったのはやっぱ「スカートの七つ道具」でした。
詩文の中からその人物を消し去る文学的意味とは、みたいな鼻息荒い感じのやつはちょっと僕は専門外なので、
さらっと上っ面だけですが、本来見えない読み筋が条件が変わって読めるようになる、ってのは単純に「快」だ、と思いました、とだけ。
既にレスしていたので引用します。できるだけ後に読む人の読みを限定しないように書いているので、すこし迂遠なところがありますが、要するに、場面を十全に描き切っているので読みやすいし、その読みやすいポイントがあると、詩文のなかの様々な仕掛けにも容易に気づくことができて、それらの読解にかかる心地よい程度の負荷が読むという行為を快に転換しているのは書いた通りです。作者の作品は僕には読めない作品が多いですが、今作は非常に僕の好きなタイプの作品でした。
10795 : 涙の味 線 ('18/10/08 01:19:21)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_314_10795p
うまいと思います。詩文をディストーションでひずませていくようなやり方なんですが、それ自体はとてもありふれたものではあるけど、その中でイメージががっちり嵌る瞬間があって、それがとても心地よく感じます
一本の蝋燭が三日月を支えていた
こことか、めくるめく詩文の視線に付き合ったあとに唐突に訪れる一枚絵をかくも見事に描いてみせるものだから、それまでの詩文の歪みというものがとても意義深く感じます。というかこの部分ありきで成り立ってるところはあるかな、と。歪み、というのは正直、「読ませる」という意味では結構難しい書き方だと思うんですが、或いは「読ませない」に振りきって、ひたすら読み手を心地よくさせる、という手法もあるなか、そのイメージの灯りというものへ結び付けていく技巧を感じました。
10780 : けだもの ネン ('18/10/01 01:13:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_040_10780p
とてもありふれた主題であるがゆえに、その主題がいかに既存のものと違ってくるか、という具体性に迫ることが問われる作品ではあると思います。もう一つの作品と同じような評になってしまいますが、土台があるので読みやすいという点でこれまでの作品より良いのではないか、と思います。同時に、今作に現れる「母」や「父」という言葉がまだまだ記号のように置かれているだけで、その実在を読み手に信じさせるほどの肉感というものはまだ描けていないのではないか、と感じました。
善悪のない世界で
獣の様に生きていく
かかるようなことはこれまで何通りものパターンで言われてきたことであると思います。それらすべておさらいして、それらの主題を分析し、差別化をする、なんて方法もありますけど、むしろご自身が経験なさったことの強度というものを今一度信じてみてはいかがだろうか、と思いました。
10796 : 大丈夫。本当に大丈夫だから 北 ('18/10/08 02:05:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181008_317_10796p
序盤に出てくる回転寿司の店員が仕事に忙殺されているからだろうか、一見意味の通らない言葉を口にしている。
回転スシお客さまお皿をとってくれないと廃棄される海の手紙ネタと言葉の鮮度たもつ手段を食べなくちゃ読まなくちゃ生活なり立たなくちゃ大丈夫じゃなくちゃ
ここから、何かしらの切実さを読み取ることはそれほど難しいことではないとは思います、ただその切実さには対象が欠けており、空白のまま読み手に受け渡されている。僕が感じたこの詩の滑りの良さはここの出だしの想起させるものの少なさであったと思う。
世界の9人に1人8億5千万の人間が飢えている
少なくともこれを読んで、貧しい国の話か、と距離を置くほど僕は恵まれていないし、そもそも、この国で、貧しい国を一方的に想起できる人間は同様に少なくなっているのだと思う。それに空白のまま受け渡された切実さは、遠いよその出来事なんかでは埋まらないので、当然「カモフラージュ」として読める。受け渡された空白には「話者自らの困窮」というものがここでするっと入っていく。なので後半頻出するユニセフという言葉は皮肉として読める。当然ユニセフの守備範囲は児童の貧困なので、こんな「恵まれた国」で回転寿司で働く一般男性を助けてはくれない。それでもユニセフがあるから大丈夫と繰り返す「話者」に悲哀を感じるか、それとも滑稽と思うか。
僕は滑稽さを感じたし、それなりに楽しめた。ただその読みでは後半部分うまく入ってこない詩句がいくつかあり、それを十全に機能させる読みを読者にさせるはずであったのならば、ピースが一つ足りないようには感じました。
10782 : 接岸 霜田明 ('18/10/01 02:39:33 *88)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_044_10782p
少し本音で、いや肩の力を抜いて話したいと思う。実のところ僕にとって思弁的な世界というのは詩に触れるきっかけとなったものです。
(ひとりきりは
いつもひとりきりになれないことで
傷ついている)
ここに現れる人物に僕はとても馴染みがある。とおい昔、モリエールの『人間嫌い』なかにそいつはいたし、ドストエフスキーの『地下室の手記』のなかにもいた気がする。この間久しぶりに読んだゼーバルトの『アウステルリッツ』の中にもいた。けれど僕はこの作品の話者に対して何かしらの感情をいだくことはできなかった。無論ぼくが「そいつら」に抱いてきた感情というのは、嫌悪感の方が強かったりする。なぜならそいつらはどうしようもなく僕に似ていたから。
去年だったか、作者が僕の作品にくれた評で今でも忘れられないものがあったので引用する。
凄い詩や小説を書いてる人に実際にあってみるとただの人でがっかりするとか
それが偽りだ、文学はくそだと思ってたんですが、
どうしてもくだらない一個人でしかありえない社会的な存在としての僕や君でない、僕や君を書いているのだとするなら、受け入れられると気づいたことがあるんです
この詩のレス欄ですが、僕は正直作者の純真にびっくりしてしまった。たぶん僕も作者も人が好きなんだと思う。それはとても違うやり方で好きなんだと思う。僕が好きな「そいつら」はとても人間に似ている。作者の好きな「人」は神に似ているのかもしれない。それは分からないけど。
だからその前提が違ったまま、作者の作品を今まで評してきたことはとてもアンフェアであったことは認めなければならない。僕はその前提を意図的に無視していたのを自分で知っているし、この選評をつけはじめた理由、フォーラムに書いたやつを読んでいただければ、なぜそうせざるを得なかったかは理解していただけると思う。
けれども僕はその前提の違いや、僕自身の不誠実を自覚しながらもなお、作者がこの作風のままで、ここ文学極道で評価されてしまったことは、作者にとって最大の不幸だと思っている。これはもちろん主観に過ぎない、普遍的な文学の価値など知りえないのだから。それでもなぜその主観をここに書き連ねてしまったのか。それはこれほど人とは異質な視点をもった作者が、現実の、個なるものの、人の、醜さやくだらなさから逃れるように、内側に閉じこもるような記述を繰り返すのにもったいない、という思いを禁じえないからだ。これは別に作者を怒らせるという効果を狙ってあえて挑発的な言葉を使っているわけではなく、ただ率直にそう思う。
パウルツェランというユダヤの詩人が、『糸の太陽たち』という詩を世に送り出したとき、そこには「まだうたわれるべき歌がある/人間の向う側に」という詩句が書かれていた。それを読んだエーリヒフリートという同じユダヤの詩人が「歌われるべき歌は人間のこちら側にある」と書かれた詩を発表したという。
実際のところ、別に何が正しいかなんて話をしたいわけじゃない。純粋にもったいないと思う僕のエゴがあるだけである。しかし正しさなど人の業と比べれば、塵芥のたぐいだと僕は思っている。
10786 : 春の景色 陽向 ('18/10/01 22:59:42)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181001_082_10786p
秋に投稿された春の詩は、いつも2パターンで読まなければならない。簡単なことだが、話者の季節を春として、秋として。春を待っている、とあるので、素直に秋の詩、ないし冬の詩として読もうと思う。このとき読者は春を待ちわびる詩のいくつかの感動のパターンを次の詩句に移るまでのコンマ数秒で想起するだろう。作者に課せられたタスクはこの想像を超えることである。
桜は天界の木
深い愛の後の花
「天界の木」で少し面食らうが、「深い愛の後の花」は存外におもしろい表現ではなかろうか。確かに桜の花は丸められたティッシュにも似ている。いや、これは冗談なんだけど。相手がいるという含みが少しだけ背景を豊かにしている。そう読んだら
神聖な女性性が空間を泳ぎ
というのももしかしたら空想的な独りよがりではなく、実在する女性をベッドの脇で捉えた一描写なのかもしれない。そう読むと
安らぎに包みこまれる
その時私は私を好きになれる
自分かーい、というツッコミをせざるをえなかったのだが、かりに「あなた」としても、それはそれで陳腐なので、それまでの流れで、具体性というものを淡く揺蕩わせたのだから、最後に拾ってあげればよいのにな、と思いました。作者がこういうふうに読まれることを想定して書いたとは余り思っていませんが、おしいな、と。
10787 : 廃園 北 ('18/10/02 07:56:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20181002_090_10787p
これまでの作者の作品は比較的可読性が高かったのだが、今作に関してはどうも「読ませない」に振っている気がする。
肌のなかに滅び朽ちてしまう肉片とじこめ狙いをさだめる溜息のように文章は路地を走り去ってしまう
最後と呼応して何かの像を結びそうなのだけれども、それまで出てきた擬人化された「暗闇」や「銀行員」などの思わせぶりな言葉が読み手の中で有機的に意味を萌さないので、どうしてもその陥っている状況や、話者とは違う存在が不明瞭なままなんとなく閉塞感だけを感じるという作品になってしまっていると思います。。