2010年10月分月間優良作品・次点佳作発表になりました
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文学極道の発起人・スタッフによるブログ
2010年10月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
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雑感1 文責 浅井康浩
2010年の月間優良、次点作品を見ると、おそらく作者が10代か20歳前後だと思われる人たちの作品が多くみられる。
破片、しりかげる、ただならぬおと、yuko、藤崎原子、古月、etc.
このなかでも、「若さ」というキーワードで自分が作品を読みとってきた人が幾人かいる。
破片としりかげる。あるいはここに丸山雅史を加えてもいいのだけれど。
かれらの作品や批評にたいする誠実なスタンスとともに、第一に彼らに投影されるのは、繰り返すけれど「若さ」、というものではないだろうか。
16歳から20歳と推測年齢が、作品のある種の「荒さ」に影を落としてしまうことを、読み手である私は、その「荒さ」こそが若さの特権であるかのように読み進めてきし、おそらくは批評する側においては、その点を指摘しておけば、おおきな的外れとなる文章とはならなかった。
その結果、自分としては、彼らの「若さ」ゆえの彼ら「らしさ」をそのようにしか受容できなかったのではないか、あるいは、彼らの誠実さを正面をきって受け止めてこなかったのではないか、という疑問が残っている。
両者のある一定水準の詩的成熟を、破片「世界語」、しりかげる「ラブポエム」にみることは、異論があるに違いない。
一投稿サイトに投稿された作品だけで、その人の全体像を把握するのは不可能に近いのだし(しりかげるにおいての「メビウスリング」、破片のブログにおける作品など)それぞれが作品を詩集としてまとめられるという取捨選択の作業も経ていないのだから。
まわりを囲んでいる新たな稜線が浮き上がっていく、その中心で、ふたり、鈍く発光する雲を掴んで、踝をくすぐる草々に墜落させた、「わたしたち、雨を降らせているの」という言葉に、赤子は無邪気に笑い、そして母音だけの世界を紡ぐ、若草色の、もっとも広い絨毯に話しかけて、どんどんと、どんどんと無尽に広げていく、水をやれば花が開き、空気が潤って色がつく、赤、橙、黄になり、そして緑、青、藍、紫、そんな色、そのあとで突然色が抜けた、草は草の色になり、千切っては落とす雲はやはり白かった、空気は空気の色になって、母親らしき人影の、そして、雲を掴む細い指の向こうに―――
破片「世界語」部分
獣(五感が呼吸をやめてしまって、あなたのうただけがこの世界のすべてだった。ほろべ。わたしのなかに宿るあなたの器はすこしずつ朽ちていくのに、声帯だけはなぜかみずみずしくなっていく。ほろべ。わたしとかつてのあなたの狭間に、うたが手向けられている。ほろべ。ひとつの世界が砕けて、その断片が幾多もの世界に降りそそぐ。世界の底にはまだたくさんの世界が連なっていて、終わることができないようなしくみになっている。)獣よ、夜明けに祈らずにはいられるだろうか。(点滅をくりかえす黄信号がもとの場所にもどっていく)「なぜだろう、僕の鼓動はひどくおだやかなのだ。」ほろべ、「せめて、あなたの器がこの一日の最果てならば、束の間だけ僕は眠ることができる、
しりかげる「ラブポエム」部分
ひとつのシークエンスを作成する際に、口語やイメージのなめらかさを犠牲にしてまでそこここに鋭利なショットを差し挟みながら、しかしその編集方法の貧しさが、ことさら美学を凝縮させる手付きを装いながらシーンをととのえてしまうこと。
ときに甘いとさえ思えてしまうほどの「感傷」をまとってしまうその表現に、なぜか自分へと向けられたセンチメンタルを感じてしまうことがある
しかし、それのどこが問題というのだろう。それはおそらく、両者の作品へ向かう美学が、もうあまり熱心ではない私の、前までは持っていたはずの、作品を絶えず良くしていきたいという飽くことのない欲望を、ドロドロとした部分を欠落させて心地よく思い出させてくれるからだろう。
そしてそれを、作品の「荒さ」としてステレオタイプに解釈していたのは、やはりみずからの「怠惰」によるものだったのだろう。
おそらくこの作品が投稿された当時に、すばやく言わなければならなかったのは、これらの作品にある一定の成果を認めつつ、破片においては、言葉そのものを世界性として解体、または構築しなおそうとする不断の努力において、言葉のひとつひとつに過剰な意味を担わせる衝動にもかかわらず、そこに込められたものには言葉の空疎さそのものしか充填されておらず、建築されてゆく言葉のピースのひとつひとつから漂い出てしまうものが感じられない事、あるいはすくなくとも「世界」そのものを書こうと意図されたものであるにもかかわらず、行間より洩れてくるはずの織り込まれることのなかった未知な手ざわりを読みとることができない「箱庭」としての「世界性」であることと、しりかげるの「ラブポエム」が、水村早苗の「私小説」やジョン・ケージの「4分33秒」ベーコンの「教皇インノケンティウスXII」のように、設定された題名を前にして、その内容が「題名」そのもののイメージを内側から食い破る衝動として設定されることなく、無自覚にも題名そのものにその運動が馴致されてしまう事態が、作者の素朴すぎる鈍感さをあらわしているということと、それが文学極道そのものの現在位置のスタンスをはからずも(他のジャンルから何十年も遅れて)体現してしまっているということ、だったのだろう。
そして、このように言い切ってからだろう。そのほかの細々とした感想を述べることをするのは。それに加えて、黒沢さんの言葉をかりて二人にいうのは。
>こういう書き手は、怖い書き手になりますよ、そのうち
と。
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「9月分選考雑感 選評 パート3」文責 泉ムジ
#
4709 : 終わり ただならぬおと ('10/09/17 23:31:00 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_344_4709p
心のずーっと底にある、ある疼きやドロドロした思いを吐き出したような詩です。死にたいくらい孤独な方は、是非、この詩を何度も何度も繰り返し読まれると、おそらく救われた思いがするのではないだろうか。孤独な魂が持つ、とても単純な言葉では表現しきれない思いを、言語表現として成立させようとした力作です。一方で、毎日を快活にエンジョイされている方にとっては、なんだかさっぱり分からない(世界)です。
作品の最初のパラグラフでは「私とあなた」の関係が描かれ。特に私から「あなた」への恋慕のような友情のような、深い、しかし伝えがたい思いが行きつ戻りつ書かれています。そして2つ目のパラグラフでは自己と他者を取り巻く「世界」についての記述が続きます。3つ目のパラグラフではまた「私とあなた」の関係に戻り、4つ目のパラグラフでは、今度は自己と他者から「社会」へと発展します。私、他者、世界、社会、これらが変転するモノローグや空想として捩れこむように後半の展開に繋がっていきます。随所に面白い詩的ビジョンも差し挟まれ、生硬な印象も生みますが、作品として成立するレベルに仕上がっています。
他の発起人のコメントを挙げておきます。
大変力作であるが、この長い詩を、最後まで付き合って読んでくれる人は少ないだろう。僕は、3度読んだが、さすがに疲れた、だが、とても、饒舌で、多くの優れている部分に出会ったりもした。三.あたりは切り出して読めるものであるが、やや荒唐無稽でもある。
力作。 きちんと読ませる。ここから削ることも重要。
他人という恐怖が、虚構の中において他人を自らの鏡、分身に変えてしまう。また、恐怖故に混乱して、虚構の中で過剰な暴力、過剰な愛情が振るわれる。根底に「人間を已めよう」という強い自己否定がある。と、読める。 ナルシシスティックで冗長な作品であるが、読ませる印象的な表現は多いと感じた。などです。
#
4673 : 順列 並べ替え詩 3×2×1 田中宏輔 ('10/09/01 00:02:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_086_4673p
以前、作者の異なる作品に、形式が決まっている分、もっと内容の、枠からはみだそうとする運動を求めてしまう、という感想を書いたことがある。
本作品を読んでいて思ったのは、無条件の表現の自由、というぼんやりとした信仰より、ある条件のもとでの表現の「徹底的」な自由、という確固とした信念を抱いているのではないか、ということだ。
「徹底的」にやるために、形式は強固に定められるのだろう。本作品は、3つの単語の結びつきの可能性を併置したものである。
ちゃんと数えてはいないが、80くらいあるだろうか。もう途中からわけがわからなくなってくる。これらの可能性の中から「選択する」ということが、また、その選択によって、狭まった次を選択する、そういうことが、私の求めるものかもしれない、と考えさせられました。
ただ、「小鳥」「樹上」「増殖」など、くりかえし選ばれる単語や、最後の「暴走」は、静物然とした本作品に、何かうごめくものを感じさせる。
他に気になった点は、
>映画館の小鳥の絶壁。
>ぼくが夢のなかで胡蝶を見る。
のように、一行目から破綻しているものと、そうでもないものが、
特に区別なく扱われていることだろうか。
このこともおそらく、出来る限り恣意的でなくするためかもしれない。
他の発起人の意見では、
これ、落とすと何も選べなくなりそうで。個人的には凄く好きな作品。
視覚的な詩です。でも、新しさは感じられないです。
>コンビニの男性化粧品棚の受粉。
など、既に音韻とリズムで上質に異空間を切り出した言語胎児が、さらに奇形化していく。最初のうちは、アイデアも陳腐に思えるけれども量的圧巻が次第に内的詩行の贅沢に変化していく。
表情というメディアとしての作品ではなく、コンポジションだと思う。
なんら面白みも、思考もなければ、まるでパズルのようであり、単なる遊びの詩で評価しませんでした。
詩的表現とはつまり、言葉の順番の入れ替えにすぎない、という一側面を 徹底的に反復し尽くすことで、次第に「言葉」の親しげで、意味ありげな表情は消え失せ、得体の知れない「他者」として読者の目の前に現れてくる。
このような真剣な戯れは、簡単なものではないと思う。
などがありました。
以上です。
#
4723 : 葉書 ゼッケン ('10/09/23 18:47:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100923_475_4723p
”雑”な箇所がみられるものの、発想が転がっていくところが面白い作品なのだけれど、カラスのくだりは矢張り唐突であり、無理矢理落としました、という感じがある。
実は、「とう!」くらいで作者は書くことに飽きていて、勢いで書きながら、後付けしていったようにも思える。
そのくらい散漫でした。
ただ、読んでいると、肩の力が抜けて楽しいです。
他の発起人の意見では、
いつも悲哀があるところが、時間があるところが、良いのだけれども、もっと先に行って欲しい。
創作に対する取り組み方が深まってきているような印象を受けます。まだ、もっと期待してみたい。
唐突な「大勢のカラス」の状況描写がないので、いわゆる、空を飛んでいるのか、木に止まっているのか、不明であり、読んでいてとても不自然。などの意見がありました。
#
4681 : ナルシス・ナルシス・ リンネ ('10/09/01 23:18:37 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_118_4681p
瓶の内が外であるとき、瓶の内だと思って眺めていたものは、実は、瓶の表面に映っていただけのものだったのかもしれない。
つまり、本作品自体が途中まで、瓶の表面であり、後半、話者は、その内(=部屋の外)を、瓶の表面に幻視し続ける能力が、自らに無いということを知ってしまう。
最後、沈黙している部屋で、ただ息を殺しているのか、それとも、今度こそ部屋から抜け出したのか。
複雑だが、いろいろと考えることが出来て、面白い作品です。
しかし、表現に魅力が無いのは相変わらずで、例えば、
>まるで、泳いでいないと死んでしまうカツオのようである。
という一文は、本文のために考えられた表現ではなく、散文の定型を無自覚に抜き出したように思えます。作品を高めるような、効果的な表現が増えると、いっそう面白い作品になるかもしれない、と思います。
他の発起人の意見では、
完成度の高い散文詩である。
ビンの比喩とはなんだろう、自分の過去か、自分の思いを閉じ込めた世界か、想像力が沸き立つ、また、無関心で、のっぺらぼうの街のその情景、それは、現実か、夢の世界か、そしてNが瓶を割る、女の声が、自分の声に聞える。
とても、幻想的で不思議さがのこり、また、文章が大変、美しい。
毎回、最後は自己の無意識投影で終わるのは何かこだわりがあるのでしょう。
すんなりと設定にも入れます。
発想はとても良いと思いますが、言葉の切れ味が全く無いのが残念です。 その点で「散文詩」というより「おはなし」のような印象がしてしまいます。
などがありました。
※ただならぬおとさんの「終わり」は織田が担当
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「9月分選考雑感 選評 パート2」文責 泉ムジ
#
4708 : 角氷 藤崎原子 ('10/09/17 20:11:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_340_4708p
冒頭で「角氷」を見る嗅ぐ聴くといった、視覚、嗅覚、聴覚を”そのまま”描き出そうとしたことが、本作品の、読みの幅を広げる効果をもたらし、それがまた同時に、一つの作品としての不安定さを生んでいる。
「そして」以降の、触覚の禁止のくりかえし。
「もう一つ角氷を乗せる」、という意外な展開。
ずっと”近視”だった視線を、外にはずす、余韻の残る最後、小品としては、うまく出来ている。
「暗い雨」から目を逸らすために、時間をかけて角氷をとかし、また、新たな角氷を追加する。
そうしている間に、「暗い雨」が止むことはあるのだろうか。
コメントにもあったが、描写については、練るべきだろうなと思う。「角氷に見た」収縮・拡散の運動を、作品の後半部分に繋げていけたなら、違った魅力があったかもしれない。
他の発起人の意見では、
触れてはいけない危ういものに、肉体的な比喩を感じる。
>その上にもう一つ角氷を乗せる
>外で暗い雨が降っている
この表現も、静寂さの中での秘密性が感じられる。や、
きっちりと比喩のみで勝負。誰もが分かる絶妙の具合をついている。
最終に外界という破綻を持ってきたことも成功している。や、まだ16歳ということです。(本当か定かでないが)そう考えると、若いのに見事な詩であると思う。
有る意味、恋愛詩のようにも、思えるが、堂々と書ききっている。
氷に肉体的、あるいは、氷を通して身体性が描けている。や、「角氷」は喩の後、外界にさらした良質さを持つ小さな作品だと思います。作者の作品は、あまりすきではありませんが、この作品は普遍性があり溶かしていかなければならない運命なのも魅力に加担しているのだと思いました。
などがありました。
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4730 : 臍 草野大悟 ('10/09/29 21:07:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100929_575_4730p
話者は、人生の半ば、自らのからだが、「機器」の一部によって命がつながれるという現実に否応無しに直面させられ「臍」とは何であるのか、という問いが、話者の「臍」(=中心)として自覚される。
「むかし」の臍は、胎児のころのもので、そのつながりは、母親とのものであり、また、祖先へ、自らの誕生、存在へとつながる、歴史の証である。
「かつて」の臍は、若いころのもので、からだの中心としてあり、
命を食べるとは、食事のみに限らず、他者との関わりによって得る経験で、自らを成長させていくことである。
「いま」その臍は、チューブで胃とつながり、生命を維持するための栄養を摂取する。語弊があるかもしれませんが、からだを「機械的」に生かすための機能の一部である。
これら三態の変容は、どれも「臍」であるはずだが、直面させられている現実が、どうしても話者を混乱させる様が描かれている。
短く書かれているが、奥行きのある作品でした。
他の発起人の意見では、
第一連が、とても詩的で素晴らしい。言葉の持つ強さを感じる。
全体として、含蓄の在る、読ませる良い詩に出来ている。
「臍」というとてもインパクトが強く、それでいて、あまり題材には、普段、使わない言葉であるが、「臍」という意表を突いていて、「臍」=作者のあり方、人生のあり方を、力まず書いていると思う。 すなわち、重奏的に書かれているのである。
単なる「臍」の役割の変遷と、人生のなかの自己精神の変遷である。 「むかしへその緒とつながっていた臍」(胎児の時か) 「かって命を食べていた臍」(健常なときの作者か) 「いま生を食べている臍」(人工に栄養補給の臍か)人生を押しなべて考えれば、これら三つが、すべてが自分であり、同時にどれもが、自分でないように考えられるだろう。
そうして、現実と人生を考えると、本当の自分は、本当には、果たして誰なのだというという、深い考察となり、作者は考えるのだろう。 文学極道の作者には、こういう作品は、今回少なかったので、とても新鮮であった。
語り手は、病を抱えつつ、冷静に物事を考えている。 や、シンプル。こういう詩の良さは、変わらないと思います。
自己に付かず離れず、この距離感の獲得が素晴らしいと思います。
などがありました。
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「9月選考雑感 選評 パート1」 文責 泉ムジ
※9月投稿作の選評雑感担当は泉ムジさんです。9月は総体的にレベルが低いと感じましたが、5作品を優良作としました。詩や文学の世界に絶対評価など存在しません。それでも稀に誰もが欲するような作品に出会うことがあります。言語芸術の世界にも、どこかに見えないピークがあるようです。作品を篩いにかけるということは、つまりそれを探す行為なのだと最近感じています。選評はパート2へと続きます。
(by織田和彦)
#
4688 : Pooh on the Hill。 田中宏輔 ('10/09/06 00:12:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100906_201_4688p
引用とは、原文の”核”を抜き、新しいコンテクストで引用を再生させる、いわば”臓器移植”のようなものではないだろうか。
このような作品のおもしろさの一つは、全文に引用元(臓器提供者)を明記することによって、 核を再形成し、バラバラだった引用文の重要性が等価であると思わせるところである。原文にとっての重要性、また、引用文にとっての重要性が等価値のものとしてつり合うのである。
本作品では、「クマのプーさん」や泉鏡花の引用が前文の引用に対して、
>「こりゃまた、なんのこっちゃい。」と、イーヨーがいいました。
>何を言ってるんだか分からないわねえ。
のように、対応することによって、ユーモラスな軽さを出している。しかしそのことは、読みやすさの反面、コンテクストの欠損が流し読みされる原因となるだろうなと思う。
意図された引用詩は、意外な文章のつなげ方を容易にしている、という利点もある。
>饂飩(うどん)の祟(たた)りである。
>ラザロはすでに四日も墓の中に置かれていた。
などは、あるいは、「花」によって結ばれるのかもしれないが、急な話題の転換であり、その飛躍が、読み手の興味を誘う。
他に、本作品で興味を引くのは、
>これらはことばである。
>「きみ、気にいった?」
という、本文自体に言及するメタ視点とも読める箇所だろうか。後者が最後に置かれることにより、本作品がひとつのエンターテインメント(プーさんのハニーハント)だった、と明かされているようで、少し爽快だ。
他の発起人の意見では、
前回の作品より、やりたいことが分かりやすい。や
文学極道の理念の対極にある。まっとうな作文をなす気が無い、言語遊戯であり、
本作品を優良作品とするなら、文学極道の看板を下ろすべき。や
引用による詩について、独創的で、入沢康夫の「わが出雲、わが鎮魂」に見た、新しい詩を書く、などとという詩人の思い上がりに対する謙虚さを本作品からも感じて評価した。や、田中さんの詩の中にある、ある種の明るさ、ユーモアは、何かとても磨かれたものであるような気がする。読んでいて心地良い。などがありました。
割愛するが、発起人の間で、評価に対する議論がなされました。
以上です。
#
4700 : ふゆのてがみ リフレイン狂 ('10/09/13 05:31:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100913_291_4700p
本作品の特徴の一つに、まさに首「だけ」がある、という点があげられる。それは、胴体だけでなく、「きちんと」頭まで失われている。匿名の、千の首の中から、ほくろを頼りに、母の首を見つけ、また自らも、千の首の中で、同じ、くさいにおいを放ちながら「お話」できる「トモダチ」に、見つけられることを祈る。
その「トモダチ」は、「ヒト」ではなく、(「ヒト」に対しては、積極的に干渉せず、見ることに終始している。)「オヤコヅレ」の会話に登場した、かたちもわからない「あなた」、である、と私は読みました。
首だけにする、ということが、いったいどのような意味を持つのか。
例えば、「首にする」とかいった慣用句を手がかりにしてみるか、「先祖代々の首」という本作品に寄せられたコメントを手がかりにしてみるとか、どうも、遠回りしていくように思える。
とは言え、千の首。父親が変わった嗜好の犯罪者だと考えても、無理がある。本作品は、秋、冬を「どんぐり」、「ジャノメエリカ」であらわし、夏が腐敗臭、秋が軒を鳴らす音、冬が花のきれいさ、と、感覚を使い分けていたりして、単調さを回避しようとしている。しかし、起承転結がすっぽり四季にあてはめられ、そう考えると、においに重点を置きたかったのだろうが、後半は力尽きたのかな、と思わないでもない。他に少し気になった点は、カップラーメンをつくるために、どうやってお湯を沸かしているのかな(笑)、など。
他の発起人の意見では、
着想がおもしろい。異様な気持の悪さというものもあるが、ある種の詩的センスがあり、こういうものを詩にしてしまうのはある種の詩的力量が必要なのでしょう。
や、最終行が不要に思える。ただ、あまり巧くはない綴りと流れが素材の異化を増幅させて均しながら馴染ませているように思える。細部が雑なのが気になります。
もっと十分に着想を温めてから書き出して欲しい。潜在能力はまだまだあると感じます。や、この詩は、読みすすめていくうちに、これはいわゆる、社会批判というより、社会から、はみ出した異邦人、今は死語となった、部落民、あるいは、ホームレス、社会の一般生活者から、完全に差別された(精神的に、物質的に)人の、矛盾や、悲哀、かなしみを描いているように思えてくる。世界的にみれば、アラブとユダヤの問題などにも通じる。
また、現在の閉塞した社会にいる、底辺にいる人たちを描いていると思える。などがありました。
個人的に、今後の作品が楽しみです。
以上です。
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