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9月分選考雑感 選評 パート2

2010-10-23 (土) 19:02 by gfds

「9月分選考雑感 選評 パート2」文責 泉ムジ

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4708 : 角氷  藤崎原子 ('10/09/17 20:11:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_340_4708p

冒頭で「角氷」を見る嗅ぐ聴くといった、視覚、嗅覚、聴覚を”そのまま”描き出そうとしたことが、本作品の、読みの幅を広げる効果をもたらし、それがまた同時に、一つの作品としての不安定さを生んでいる。

「そして」以降の、触覚の禁止のくりかえし。

「もう一つ角氷を乗せる」、という意外な展開。

ずっと”近視”だった視線を、外にはずす、余韻の残る最後、小品としては、うまく出来ている。

「暗い雨」から目を逸らすために、時間をかけて角氷をとかし、また、新たな角氷を追加する。
そうしている間に、「暗い雨」が止むことはあるのだろうか。
コメントにもあったが、描写については、練るべきだろうなと思う。「角氷に見た」収縮・拡散の運動を、作品の後半部分に繋げていけたなら、違った魅力があったかもしれない。

他の発起人の意見では、
触れてはいけない危ういものに、肉体的な比喩を感じる。
>その上にもう一つ角氷を乗せる
>外で暗い雨が降っている
この表現も、静寂さの中での秘密性が感じられる。や、
きっちりと比喩のみで勝負。誰もが分かる絶妙の具合をついている。
最終に外界という破綻を持ってきたことも成功している。や、まだ16歳ということです。(本当か定かでないが)そう考えると、若いのに見事な詩であると思う。
有る意味、恋愛詩のようにも、思えるが、堂々と書ききっている。
氷に肉体的、あるいは、氷を通して身体性が描けている。や、「角氷」は喩の後、外界にさらした良質さを持つ小さな作品だと思います。作者の作品は、あまりすきではありませんが、この作品は普遍性があり溶かしていかなければならない運命なのも魅力に加担しているのだと思いました。
などがありました。

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4730 : 臍  草野大悟 ('10/09/29 21:07:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100929_575_4730p

話者は、人生の半ば、自らのからだが、「機器」の一部によって命がつながれるという現実に否応無しに直面させられ「臍」とは何であるのか、という問いが、話者の「臍」(=中心)として自覚される。
「むかし」の臍は、胎児のころのもので、そのつながりは、母親とのものであり、また、祖先へ、自らの誕生、存在へとつながる、歴史の証である。

「かつて」の臍は、若いころのもので、からだの中心としてあり、
命を食べるとは、食事のみに限らず、他者との関わりによって得る経験で、自らを成長させていくことである。

「いま」その臍は、チューブで胃とつながり、生命を維持するための栄養を摂取する。語弊があるかもしれませんが、からだを「機械的」に生かすための機能の一部である。
これら三態の変容は、どれも「臍」であるはずだが、直面させられている現実が、どうしても話者を混乱させる様が描かれている。
短く書かれているが、奥行きのある作品でした。

他の発起人の意見では、
第一連が、とても詩的で素晴らしい。言葉の持つ強さを感じる。
全体として、含蓄の在る、読ませる良い詩に出来ている。
「臍」というとてもインパクトが強く、それでいて、あまり題材には、普段、使わない言葉であるが、「臍」という意表を突いていて、「臍」=作者のあり方、人生のあり方を、力まず書いていると思う。 すなわち、重奏的に書かれているのである。
単なる「臍」の役割の変遷と、人生のなかの自己精神の変遷である。 「むかしへその緒とつながっていた臍」(胎児の時か) 「かって命を食べていた臍」(健常なときの作者か) 「いま生を食べている臍」(人工に栄養補給の臍か)人生を押しなべて考えれば、これら三つが、すべてが自分であり、同時にどれもが、自分でないように考えられるだろう。
そうして、現実と人生を考えると、本当の自分は、本当には、果たして誰なのだというという、深い考察となり、作者は考えるのだろう。 文学極道の作者には、こういう作品は、今回少なかったので、とても新鮮であった。
語り手は、病を抱えつつ、冷静に物事を考えている。 や、シンプル。こういう詩の良さは、変わらないと思います。
自己に付かず離れず、この距離感の獲得が素晴らしいと思います。
などがありました。

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