2011年9月度選評
(文/編)前田ふむふむ
一条さんやcaseさんがまた「復帰」されて、泉さんも独特の味のある作品を出されています。瀬島さんも以前少し投稿されていましたけれど、面白い方だと思います。皆さん過ごしやすい季節になってきたので筆の方も進むのではないでしょうか。(織田)
泉ムジさん、一条さんが復帰されて、改めて思うのは、書いたものが詩になってしまう人と、いくら書いても詩にならない人との、圧倒的な差についてです。吉本隆明がどこかで、「詩は練習すれば誰でも上手になる」というようなことを言っていましたし、文学極道も鍛錬、切磋琢磨を提唱していますが、努力だけではどうにもならない「何か」が在ることは確かです。これは詩に限らずどのジャンルでもあることですが、この狭い文学極道の中で、そんな感覚を味わうことができるのは、悪くないことだと思います。「何か」に対する憧れや絶望や妬みや焦燥が、次の詩を書く衝動になる、文学極道で詩を書くことは、そんな情緒不安定な自分と、どう付き合っていくのか、そんなことも試される、修練の場になっていると感じます。(りす)
今月は、素材として、魅力的な作品が多かったと思います。
それぞれの素材に対する書き手のもの捉え方の、多様性を
楽しみながら読みました。
ただ、それが、批評に耐えうるテキストではない場合、
作者の雑な推敲によるものである場合が多く、とても、
もったいないと思われるのです。
作者の詩を書く手法も、それぞれであると思いますが、
テクストを一度、あるいは、二度、寝かせて、
あらためて、読みなおしてみることが必要でしょう。
推敲の仕方によって、優良作品に大化けするようなテクストが
いくつかありました。
選外の方も、肩を落とさずに、
今後の健闘を期待しております。(前田ふむふむ)
【優良作品】
14.5563 : 風切羽 yuko ('11/09/28 11:18:56) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110928_317_5563p
評1
職人としての上手さに内面が挟み込まれていて手癖の上手さに挟み込みが追いついていないことを解らせてしまうように思える。
評2
この詩は、改訂版らしいけれど、前作より、内面にむかって、より鋭角に
なっていると思います。
夜の暗い底のほうから、鳥だろうか、羽ばたく音、静かな世界。
いろいろな静物が、その個をかたちづくっている夜。
その中で、
>僕の半身。
>足元が見えない。
>増殖していく、影に境目はなく、一人ではない、二人でもない、細胞の
>かたまり。
>これは僕か、君か、人間のレプリカがふたつ、
>涙を模して並んでいる、窓辺。飛び立つものだけが生きている。
>雪解けを待たずに産まれ、死んでいった、僕。
のように、
夜の中で、個として浮かび上がらない、曖昧な幽霊のような
僕とその身体性。そのあり方が、哀しく響いてくる、ときに、エロスを含んで。
そのような不完全な負を含んだ現代的個性としての個人である、語り手の叫ぶような思いが、
>だれでもいいからはやく!僕たちの名を呼んで?ください!
だろうか。
?は、存在としての幽霊のような半身の僕に、果たして名前などあるのだろうか。
という?に思える。
曖昧な自己と対峙する閉塞感に満ちていると同時に、不思議なほど、
静かな佇まいの中で、語られる多くの言葉と、言葉の比喩の切れ味が鋭く美しい。
思うに、作者は、
萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の中の詩「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」
でいっている幽霊にも例える欠落した身体的な「わたし」(これは、身体で偽装した内面の喩であると思うけれど)の孤独と似たような孤独を
感じており、捉えている角度は違うかもしれないが、
それを、21世紀の現代詩で描きだそうと試みたようにも思える。
67.5496 : PASTICHE。 田中宏輔 ('11/09/01 00:02:03 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_243_5496p
鳥籠と鳥の比喩。
美しい鳥と鳥籠における、哲学的な思弁の世界が
広がっている。
後半に、それを三つの出展元の引用の文章が、
並び、それを参考にして、書き換えたのが、
前半部の、三つの鳥籠と、鳥の詩であることが
わかる。
大がかりで、壮大な詩編として、
読み手に提示されている。言葉の創造とは、
このような高度な思いつきによるものかもしれない。
北川透が、「思いつき」とは、膨大な知識や経験の集積が、あるから
可能であると言い、なんの知識もなければ、なにも「思いつき」もしないと
いって、その先行するものの知識や経験の断片をすくいあげた、
「思いつき」は「発想」のことであり、それは詩を書く上での
重要なファクターであると言っているが、
多分、作者の博学が可能にしたテクストだと言えるだろう。
4.5526 : でたらめ 泉ムジ ('11/09/10 22:46:40 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_571_5526p
評1
久しぶりに読んだけれども特に問題はない位置にある。
評2
よく書けていると思いますが、
>男はポエムを書き終えた。
以降、語り手の視点が、猫のにゃん太郎から、
男に突然、移ってしまう。
その不自然さに違和感がある。
にゃん太郎が、三日三晩眼を離さない、ポエムを書く男とのスリリングな緊張感、
また、男は、にゃん太郎を知らないのであるから、つまり、にゃん太郎は、
「のぞき」をする本来知られてはならない存在が、
自らを詩で描いてほしいという願望が、
切実な滑稽さで、書かれている。それは、
どんなものであれ在るべきものは、心の深部において、
存在を認められたいという、その究極の姿を想像させるのです。
前にもふれたように、最後は、ハピーエンドのような緊張感のない
終わり方をしているので、
最後まで、にゃんたろうの視点で通してほしかった。と・・・
でも、そう読むと当たり前すぎるので、 もう少し、
別の読み方もあるのではないだろうか。と思う。
それは、
猫のにゃん太郎という特殊な視点である。
普段考えない、
男すなわち書き手の反対である書かれる対象者の側面からの見方である。
書き手の対象から除外され、漏れ続けている他者。
常に書き手の認識に上らず、書き手の世界の外部にしか
居られない存在の不毛さを、
人格的比喩により、
>しかしこの男、飯も食わずに眠りもせず、トイレに
立つことさえせずに、朝から晩までもう3日間こんな生活を続けている。
というように、
男同様、いかに、一般の書き手は、それほどしてまでも、
米粒ほどの、主観的なわずかな世界にしか、
描けていないという揶揄のようなものが、アレゴリーとなって、
>窓を開けると、猫が飛びこんできた。
いわゆる、
書き手の対象者のほうから、
書き手に書けと訴えてくるという比喩ならば、
滑稽であり、
そういう意味で、題名が「でたらめ」としたならば、
なにか、読み手として、とても痛快でもある。
40.5544 : (無題) debaser ('11/09/17 19:44:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_836_5544p
評1
文句なく素晴らしい。珍しく感情を面にしているが、アンチロマンの手法で斜めに見るだけではなく、時代精神の異常を鋭利に描き出している。一条氏の空虚の中心には、サラリーマンの日常からダークエネルギーの充溢まで、絶えず加速することを強いられ続ける実存の怨念がある。
評2
過去の一条様式であり、何も変えていない。何も足さない。何も引かない
評3
比喩、暗喩が、盛りだくさんに積まれたテクストである。
それは、積まれながら、同時に、外にむかって剥がれていくような
イメージを含んでいる。
そこにある残存感は、
現代詩が振り返りながら、躊躇している、
難解という課題を、読者の内部に、無造作に放り込んでいくが、
詩という像として、冷徹に立ち上がっている。
テクストは、
3.11以降の現代の日本の社会事情や人々のあり方を通して、
語り手の心情が、
批判的に語られているようです。
>明後日は体育座りみたいなもんでございます
といっているのは、象徴的で、3.11以降、崩れ去る国家の権威を
喜ばしいものとして揶揄しているようである。
69.5503 : 休日のすごしかた 泉ムジ ('11/09/02 19:33:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110902_278_5503p
評1
食い足りないという見解があるが冗漫病ではないのか。まっとうな作文とはこういうのをいう。端麗清楚、文体も中身も清潔で実に良い。
評2
二連目は、語り手が、世界と多角的に近接して、対峙し、関係性を
切り絵の断片のように、読み手に伝えている。
都会の喧騒、一瞬の静寂、静と動の広がり。それは、音と関連づけている
語彙を含んで、日常の擬音を含んだ前衛的な現代音楽が聞こえるようでもある。
唯、もう少し、書いてほしかった。
【次点佳作】
58.5508 : 陽の埋葬 田中宏輔 ('11/09/05 06:43:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_356_5508p
聖書の言葉の、キリストの言葉を、父親の言葉として、
捉えているところがユニークである。
肉欲とくに男色の問答は、作者の独自の発想が
面白く、言外に、聖書の言葉を信じない、現代人のナマの思考のなかでは、
ほとんど無力に近いことが述べられている。
また、父親の権威にたいする抵抗か、神の権威に対する反抗か、
それらが、鮮鋭に描き出されている。
13.5543 : 蝮のピッピ 大ちゃん ('11/09/17 12:17:10 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_809_5543p
平易な言葉で、アレゴリーを効かせている。
語り手に、鳥籠で庇護されて、育った小鳥のピッピ。
この、ピッピを食べた蛇の、その後の変身を、
>大空の自由を堪能したら
>また帰っておいでよ
と、脱皮するという蛇の特徴を喩として、
新たな成長を歩む子供を、
親が見守るような詩的メタフアーが、受け取れる。
28.5546 : 彼の鞄 瀬島 章 ('11/09/19 14:55:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_898_5546p
靴の比喩。
擬人化の方法ともいえる。
仮説で、
彼とは、「親」かそれに近い大切な人であるかもしれない。
仮に、「親」だとして
靴は、「親」が家族を含めた人生であり、「親」が相続してきたものであり、
語り手が、相続するものなのだろうか。
来なくなった親は亡くなったのか、靴を相続しなけなければならない
もっと早く気付くべきであった後悔を感じつつ、
最終連で、
責任のようなものが、
よく表現できている。
38.5524 : 志向 ゼッケン ('11/09/10 18:48:16 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_563_5524p
評1
いつも面白いが、文章の流麗さということに於いては筆致が安定しない。著しく跳んだり跳ねたりしているので、凡筆では流麗に届くのは大変だろう。サービス精神旺盛だし若い人だろうから、まだまだこの先驚かせてくれるものと思う。
評2
夏目漱石の「吾輩は猫である」のフレーズが出てきて、風刺性を暗喩であらわしているが
強盗、地下の下水道の比喩のように、常にアウトローに身を置く語り手の、鰐の比喩も面白く、
テクストは安定性を求めず、不安定さの中で、
ダイナミックに展開している。
21.5548 : これは批判ではありませんという嘘をつくための詩 01 Ceremony.wma ('11/09/19 17:14:53 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_910_5548p
全体的に、語り手の、
発話調の会話の文体で、議論形式を取りつつ、物事の本質に近接しようと試みられている、
とてもユニークなテクストである。
朗々と饒舌に自由奔放に語りきっているところが良い。
ただ、
最初の2連と17,18連が、発話調になっておらず、叙述調なので、
徹底的に、発話調で通してほしかった。
そういうところが、形式から見た場合の詩の完成度だと思う。
46.5504 : makura 01 Ceremony.wma ('11/09/03 00:55:51) [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110903_284_5504p
評1
作者の集中力が途切れれば読者も集中力を失う。今回は少しそういうことがあった。だが詩人の視座、その射程そのもののある場所の深さや鋭利さは、現在他を抜きん出ている。
評2
このテクストが長いのは、途中に、意味のない、無駄な文章が
多く含まれているからであるとおもわれる。
五連、六連の風景抒情は全くいらないのではないだろうか。
「まくら」の比喩と、関連する雨=罵声は、
過激であるが、個人と社会との関係性のなかで、
語り手は、既存なものからの境界に、際どく触れていく。
幽霊の比喩は、魅力的である。
ただ、
よく書けている所と、無駄な部分の混在した
もったいないテクスト。
終わり方も、強制終了のようであるが、
この即興的なテクストの成り立ちならば、
それも良いようにも、思える。
26.5542 : 「明眸」と名付けられた少女の肖像 鈴屋 ('11/09/17 09:59:59 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_807_5542p
回顧的な、感傷的なのですが、
とても静寂のイメージを伴ったテクストです。
語り手と、お婆さんが、重層して、
発話しているが、それが、不思議な詩的メタフアーをつくりだしている。
最終連で、語り手とお婆さんの両者の通時的な世界が、共時性の空間のなかで、
詰め込まれている。
そこに、詩の佇まいを発見する。
しかし、
題名の「少女の肖像」ですが、その像としてのイメージが、
印象的な語句で語られておらず、なにか曖昧のまま、
伝わってこない。
66.5505 : 仲直り 美裏 ('11/09/03 10:15:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110903_291_5505p
ほのぼのとする牧歌的なテクスト。
こういう詩を読んでいると、何か、ほっとするものがあり、
詩の領域として、十分な可能性のある
方向である。
【選外作品】
12.5566 : 水の炎上 雛鳥むく ('11/09/30 17:53:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_386_5566p
良く、書けていると思います。
尖閣諸島問題など、ナショナルテックな問題が
我が国にありますが、
そういう日本国のもつ独特の身体性の諸問題を、真正面から、書こうとしているところに、
好感が持てます。
「あなた」と「わたし」の境界を、ときに符合し、ときに近接し、
ときに対立する、微妙なあり方が、よく書けている。
19.5559 : 書かれた ‐父‐ 瀬島 章 ('11/09/26 19:43:32)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110926_256_5559p
オノマトペとして響く「父」は、テクストにリズミカルな音楽性を
与えている。鳥の鳴き声のようにユニークです。
父と息子の存在が不明確で重層的に、家父長的な父の存在、父の子殺し、
子の父への殺意、それらが鏡のように溶け合って、
救われない底のところで、重苦しく、蠢いていて
それが、オトマトペの軽やかさと対照的に、
記述されているので、テクストに豊かさと奥行きを出している。
41.5540 : 変態2 山人 ('11/09/16 18:02:19)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110916_789_5540p
語り手が、自己を虫に仮託して、極端に生命の本質的なあり方を、
提示したのだろうか。かなり自虐的に自己を晒すことに、美意識があるのか、
そこに、不思議な快楽主義を読み取れるが、それが、題名の、
変態を、彷彿とさせる。
8.5556 : 木登り case ('11/09/22 15:22:05 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110922_114_5556p
評1
以前、自己満足な脳梗塞気味の若ハゲだったが、
今は読者を念頭において文章を書いているようで、良いことだと思う。
評2
麻痺した創作迎合の表皮としては、
不可思議に機能していると思う。
凡庸さを選択したために、その機能は倒錯へも傾倒することが出来ていないように思える。
評3
>これがノスタルジーだなんて認めたくないんだけど、つまり、あたしは仕事に疲れているんだと思う。
この言葉に尽きている。
現実の大人としての閉塞感を、子供のころの感傷的な回顧によって、癒そうとする
語り手の心象が書かれているが、
語り手は、もう一度、子供のころに立ち返り、
>・・・・・それで作ったジャムがとってもおいしかったことだけは絶対に忘れないような大人になってると思うんだ。
というように、やり直してみたいというような願望があるのだろうか。
テクスト全般を読んで、
丁度、語り手は、「世界の中心で愛を叫ぶ」の主人公サクと同一位置の内向で閉塞的な心象世界にいると思う。
僕としては、
作者には、もう一皮剥けて、たくましく、あるいは、いやいやでも良いが、
現実のナマの世界の中から、新しい言葉を紡ぎだしてほしかった。
17.5565 : いないいないばぁ case ('11/09/29 21:41:51)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110929_371_5565p
評1
作品自分の無さを形骸化させている。ただ、それだけなので特に問題もない。けれども最後の位置に効果をもたらせていないように思える。
評2
「ゆいめーろん」という言葉に表れているように、
言葉遊びと、それぞれの言葉との関係性が面白いし、
語られる言葉の中から、背景がさり気なく比喩をつくっていて
巧みであると思います。
>机のまわりには誰もいない
>誰もわたしを呼んでくれない
いわゆる、時間とともに、
自分の周りに誰もいなければ、語り手は、名辞されないのだから、
名前がないのなら、
もはや「クロ」という普遍的なものでは、ないのだろう。
37.5529 : 銀河の下で 砂木 ('11/09/12 07:23:22)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_625_5529p
評1
視点移動のスムーズさが良質かもしれない。
タイトルは大風呂敷過ぎるかも。
けれども、それなりにきちんとまとまっています。
評2
優しさが滲み出るような、暖かい詩です。
「あとは知らけど」と、先月の前作と同じ手法を使っているので、
頂けないです。
「あとは知らないよ」という新鮮なフレーズは一回きりであるのが、
良いと思います。別の表現の新しい言葉を編み出すべきでしょう。
でも、前作ととても内容が似ているので、前作の改訂版なのだろうか。
53.5531 : ゆうきまおみ 鈴原ミク ('11/09/12 12:44:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_629_5531p
評1
そういう作風として特に問題もない位置にある。
評2
徹底的に滑稽なほど、無意味性を含んだ、非現実的なエンターテイメントが
提示されている。
語り手は、テクストの中で
自虐的に、自己を誇張することが、現実の鬱屈した日常のなかでは、
ひとつの自己解放であるかのようである。
テクストの疾走感が、小気味よく、
平易な文体に、好感をもてる。
22.5500 : 闘争のエチカ かもめ ('11/09/01 22:56:41 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_256_5500p
評1
もう一作は出来不出来が大きく何のための15首かも見えないが、
これはまとまっており、某かの全体性も醸している。
若干おとなし過ぎて食い足りない気もするが、
今回は下手ではないので、それもシックと解釈できる。
1.5570 : すきま風 ばかもの ('11/09/30 23:00:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_401_5570p
こういう難解なテクストに出会うと、いろいろと考えてしまいます。
H氏賞詩人、松岡政則の詩集「草の人」の「痛点まで」という詩に出てくる、
「歩く」を思い出します。
それは、イメージとして伝わる動詞を固有名詞のように扱う用法である。
「痛点まで」
遠くで
草が騒いでいる
胸の中でもざわざわする
あれはたぶん
父に酷く叱られた日の
星明りの青い青い歩くだ
何度振り返ってみても
誰もいなかった青い青い歩くだ
(中略)
夜がくるまでじっと動かずにそこに立って
青い青い歩くをみてみたい
この作者もきっと、この用法を編み出し、もちいたのだろう。
「行く」「来る」という言葉を名詞的に用いている。
但し、テクストの中では、とてもイメージしづらかったし、
こういう用法は、ひとつの言葉で十分であると思うが、
さらに、「本当」という抽象用語も、固有名詞のように用いている。
あるいは、荒川洋治か松下育男か誰かわすれたが、
ある言葉に、その言葉と関係ない別の言葉を、入れ替えて、
詩的メタフアーを作り出す方法を、つまり、
ある言葉、「行く」の前の言葉に、その言葉と関係ない別の言葉「行く」を、入れ替えて、
詩的メタフアーを作り出す方法を
ここで用いたのかもしれません。
想像ですが、
いずれにしても、
この詩は、比喩というより、イメージで読ませる詩であると思いますが、
読んでいくうちに、この用法を使いすぎて煩雑になり、
像としてのイメージが、とても湧きにくいのです。
そういう意味で、
とても実験的なチャレンジは十分に良いのですが、
結果として、成功したかは疑問です。
ただ、個別的には、
>割れた子猫
という表現は、個人的には、新しい発見のような、
魅力のある言葉であると思います。
5.5568 : 原風景 1 草野大悟 ('11/09/30 20:40:32)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110930_394_5568p
続き物の、冒頭部分だけの記述で、医療ミスのこと、医者に対する嫌悪以外、
何もわからないので、続きを読まないと、何とも言えない。
6.5564 : jibungatari 南 悠一 ('11/09/29 16:40:05)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110929_362_5564p
どうしたものでしょうか。
良い連と、悪い連が極端なように思われます。
日記のように、無説明で、
淡々と記述している連は、異様な死の光景で、魅力的な詩の世界を
描けていると思います。
墓石と死者の比喩が徹底していて、凄味がある。
世界を見る、知ることは、新しい発見であるけれど、同時に、既存になった世界は、
過去であるから、死にゆく世界でも有るわけですが、
そのようなことを感じ取れます。
2011/09/25 16:02
2011/09/26 9:34
2012/08/19 12:13
でも、冒頭の2連を除くと、それ以外は、
ほとんどが、「私は・・・思う」、で括られる記述で、
語り手は、そのテクストの外部にいて、「君たち」のこととして、
他人事のように語られている。さらに、ニーチェの引用は、
説教じみていて、テクスト全体を、皮相なものにしている。
語り手は、少なくても「君たち」と同じところに降りてこなくては、
新しい言葉の発見は、生まれないと思います。
題名がjibungatari 「自分語り」なのだから、「君たち」ではなく、「僕」か「僕たち」
で語ったらよかったと思うが、いずれにしても、
9月の選考で書きましたが、
詩とは、面白いもので、自分の言いたいことを、思っていることを、直接に書いてしまうと、つまらないものになってしまうのです。
ただ、ここでいう直接というところが、大事なところで、
例えば、意見陳述のような、だれでもすぐわかってしまう、
そこの浅い書き方が問題なのです。
詩の上手な書き手は、詩的メタフアーで、さり気なく、
語るスマートさがあるのです。
それが、詩情となって、テクストに逆に厚みを与えるのです。
唯、言いたいことを直接的に書くだけなら、散文や論文を書けばよい。
また、
僕としては、多くの心ある詩人は、
ライターを着火するように、言葉を生み出し、同時に言葉を殺すように
言葉を紡いでいると思いたいですね。
7.5557 : 亀裂 藻朱 ('11/09/24 02:53:51) [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110924_181_5557p
評1
惜しいけれども充分。
意味不明羅列を行っていたの作者が、どこへ行くのか見届けたくもある。
評2
荒唐無稽な性的な夢の出来事のようであるけれど、
読み物として面白い。
最後の一行で、現実の世界と結びつけるようにして、
単なる夢の記述を、詩に変えているところが秀逸である。
でも、このようなテクストは、内包するものに、アレゴリーを
持っていないと、詩としての価値が、果たしてどのくらいあるのか
疑問である。
11.5533 : 葬送曲を探して RetasTares ('11/09/14 09:24:43 *4)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110914_697_5533p
アメリカのクールで乾いた動的なイメージで始まり、
人々の生きた声も聞こえるようだったが、
後半、老いた男の、感傷的で、内向な静的な世界に
閉じてしまっていくのが、
構成的には、よくありそうな、
短絡的な方法なので、少し残念です。
15.5551 : だれがと 小波 ('11/09/21 16:37:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_056_5551p
評1
こういう作風の中では特に問題もない位置にある。
評2
AとかIとか、「「水晶かな」
「冬の湖ってのは」
「かもしれない」など、言葉から何かをイメージできずに
それらの言葉から、読み手が、置いてきぼりを食う。
もう少し、言葉を大切にあらわした方が良いと思う。
16.5549 : たばこ 森田拓也 ('11/09/19 17:17:46) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110919_911_5549p
評1
もう少し(後3年くらい)書くと、きっと良くなるのだろうと思わせられる。
作者の成長は、ゆっくりだが面白い。
評2
人生の不条理、人生の矛盾をよく書いてある。
>たばこに
>火を点けようとするけど
>うまく火を点けることが
>できないんだ。
というリフレインの比喩が、自己と社会の関係性のむずかしさという
語り手の気持ちが出ていて良い。
18.5545 : ターヤ atsuchan69 ('11/09/17 23:48:36) [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110917_851_5545p
バーチャルなSFチックな物語です。小説をコンパクトに
して、詩のような体裁にしたものです。
こういう物語は、小説にした方がよいでしょう。
20.5507 : 生業の思いで 笹川明彦 ('11/09/05 00:47:50 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_351_5507p
相当古い、ベトナム戦争時代のヒッピー全盛の頃の
サンフランシスコのイメージが伝わる。
作者が、このテクストを、どのように共時的に捉えているか
良くわからない。
22.5561 : 峰という煙草がいつのまにか無くなっていたから。 DNA ('11/09/27 15:56:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_282_5561p
評1
こういう作風の中では特に問題もない位置にある。
評2
煙草をすわない語り手の目線で書かれた世界が、実験的な手法で書かれているのは、
興味深かったが、
四連目は、仮説としては成り立つが、実体としては、少年一般だったら、
語り手の認識では、いくらでも存在するはずであるから、
この論理的なテクストには、不釣り合いになってしまう。
ただ、このテクストが、詩であるから、
そのずれが逆に、不思議さを出している。
23.5562 : hospitality 十一面観音 ('11/09/27 17:07:24)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_291_5562p
評1
最後の韻は変えた方が切り刻めると思う。作品自傷の方向性として特に問題もない位置にある。
評2
句読点を、短く打つことにより、視覚に言葉が、力強く訴えてくる。
そして、テクストの言語を、日常言語的なイメージから、
剥離させて、音楽的なリズムを含んだ、詩的言語的なイメージを
つくり出していく。
27.5513 : 夜の変容 トリプティク 大ちゃん ('11/09/05 18:44:11 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_397_5513p
短歌形式の夜のイメージを繋げたテクストのようだけれど、
過去の散文詩にあったような、動的なイマジネーションが
欠けているように思われる。
29.5555 : 夜道 J ('11/09/21 19:24:48 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_071_5555p
不幸の比喩についてのテクストだけれど、
上手に表現できていないというより、ほとんど滑稽でさえある。
それが狙いなら、
別の角度で読むのも面白いが、お笑い系なら、
それも有りかなと思う。
30.5517 : 無題 ズー ('11/09/06 12:57:03) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_420_5517p
「ミサイル」という言葉は、牧歌的なイメージでつながるテクストのなかで、
異様な光を放つ。
人の内部に潜む暗部を表現しようとしているようにも取れる。
32.5530 : LAUGH LOUDLY ON THE ROCK 光/理 (ひかり) ('11/09/12 09:40:33 *23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_627_5530p
ロックとかアウトサイダー風のエンターテイメントな作風の散文詩は、
通俗性という面では、際立っているし、
ネット詩の大きな領域を占めているので、
詩の可能性というところから、注目はしているけれど、
これが、文芸という高さまで、
持っていけるか、今後のこの方面の多くの書き手の
大きな課題だろう。
33.5520 : 戦闘着 ちーちゃん ('11/09/07 21:26:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_495_5520p
赤と黄色と茶色、緑とか色の比喩が、抽象的で、
イメージがわかず、安易な色を使わず、別な表現方法が
あったのではないだろうか。
また、飛行の様子も、冬、夏などの抽象的な言葉のため、
飛行している感じが湧きにくい。
34.5516 : 幻日 字ぇ ('11/09/06 07:18:54 *18)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_416_5516p
感傷的ではあるが、こころの揺らぎを、言葉を付け加える手法で、
上手く書けていると思います。
希望のない閉塞的なこころのあり方を、
幻のように辿っているが、
>目覚めれば季節、白々と臨む朝の
ない、輝きだけは、忘れなかった 。
と、テクストが、語り手とともに、垂直に立ち上がった
瞬間に出会う。
35.5499 : 瑪瑙の島 るるりら ('11/09/01 08:56:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_249_5499p
>青に抱かれて
>プランクトンは
>雲は
>ワタシは
>銀に光る内側から あらわれた
>乳白色のアワビは
> 青
のところでは、わたしを内部としている青といういのちの世界の
イメージを平易に視覚的にとらえていて、言葉が外にむかって
放たれている。
美しい青のイメージのテクストである。
36.5550 : 雨降り 破片 ('11/09/21 08:44:03)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110921_007_5550p
評1
別に次点でも良い位置。破片さんは初投稿作品が一番良かったと思う。
手癖は合わないのかもしれない。
評2
語り手の雨降りのときのような内的で鬱屈した心象風景が、よく書けている。
口笛が時事的な問題の比喩であるなら、
現代の世相のすがたを、その時の語り手の怠惰に白みを増していく位置を
テクストで試みたのだろうか。
39.5539 : 痴呆 大丈夫 ('11/09/15 23:31:37) [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_755_5539p
痴呆について書かれているところは、読み手として共感するところがあるが、
痴呆について語り手の主観的な思いを書いたところは、
つまらない自己愛的な記述になってしまって、
テクストをしまりのないものにしている。
42.5502 : 生殖 ぷう ('11/09/02 16:09:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110902_270_5502p
分厚い濃厚な比喩で、イメージを重ねていく、
とくに虫や植物に重層させることにより、
最後の
生と死の境界に近接する試みは、美しさを帯びています。
43.5498 : 詩人生活 笹川明彦 ('11/09/01 05:16:29 *5)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_246_5498p
評1
どうでもよい感覚というか形骸でしかない在り方が別に問題もない位置にある。
最近、この種の作風が増えていることは悲しい現実だと思っています。
タイトルどうりに悲しい。
評2
語り手は、詩人として、比喩を多用することにより、
詩人生活を満喫しているのであろうけれど、
途中から、ほとんど比喩のあり方が、理解不能となり、
支離滅裂なテクストになってしまっている。
極端な遠近法を排した絵画をみているようです。
44.5538 : 月。夜の白い雲 右肩 ('11/09/15 22:22:11 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_750_5538p
言葉は不思議なもので、こうして、
短くし、限りなく、余白と対峙してくると、
一言一言が、イメージとして重みを増してくる。
それは、感覚的な繊細さが、鋭利になることだろう。
言葉のリフレインは、オノマトペのように、リズムや
音楽性を与えてくる。
視覚的にもオシャレな佇まいをしている。
45.5537 : 縁側 kizuna ('11/09/15 22:16:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_749_5537p
評1
最終連がよろしくない。それまでは、その分野として特に問題はない。
評2
とても、残虐で、性的なイメージが、伝わるが、
途中で、尻切れトンボのように終わってしまうので、
読み手は、置いてきぼりにされてしまう。
構成を考えて、もう少し読ませるものにしてほしかった。
47.5536 : 性欲 ちーちゃん ('11/09/15 12:05:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110915_725_5536p
漢字が多いのがとても気になった。
ひらがなを多用することで、柔らかな文体に近づけるかもしれない。
言葉にポエジーがなく、カサカサした乾いたつまらなさしか
残らなかった。
48.5519 : 鍾乳洞がえり る ('11/09/07 02:32:49 *6) [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_470_5519p
鍾乳洞は死の世界、あるいは閉塞した世界、象徴的には、女性の性器を想像させるが、
裏返ることにより、つまり、心を脱皮させることにより、生きた世界に帰還することができたという比喩だろうか、あるいは、そこで、男性としての自信を獲得する心理的な比喩か。結果、
うららかな春の午後に、蝶が番い合い、
翅を羽ばたかせることが出来たという、語り手の願望と、心象が
読み取ることができる。
50.5497 : 詩人へ J ('11/09/01 03:29:37 *59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110901_245_5497p
何か、その森の村に多くの人が死んだ悲劇があつたのだろうか。
父親としての語り手の、息子への哀しい思いと、死んだ息子の妹への
かすかな希望が、書かれているのだろう。
それらのコンテクストの動機が、もっと鮮明であったなら、
詩としても、広がりのあるものとなっただろう。
51.5528 : 世界の色彩 无 ('11/09/12 06:48:45)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_623_5528p
これは、引用部分も、載せて、完全に完成された作品になるので、
それを乗せる必要がある。そうしないと、
萩尾望都の作品の盗作になってしまうのではないか。
なるほど、
新しい試みには、好感をもてます。
52.5534 : 卒塔婆と銀河 黒髪 ('11/09/14 18:34:15 *1) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110914_704_5534p
「卒塔婆」と「銀河」が結びつくイメージがとても、難しいが
個人の死と、対極をなす、巨大な宇宙の精神のような「銀河」を
対比させたのだろうか。同時に、「卒塔婆」は、「銀河」の一部でもあるわけだろう。
でも、それ以上に、読み手に響いてくるものがなく、
この接点は、
少し、強引過ぎたのではないだろうか。
55.5522 : 腹を裂く RetasTares ('11/09/08 09:11:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110908_508_5522p
評1
どこかの連を集中して掘り下げてみても良かったかもしれない。
評2
腹を裂く行為の、あれこれを並べて列挙しただけで、
腹を裂くことを比喩により、内的に深めていこうという
詩的言語を編み出す行為がなされていない。
56.5511 : 緑が燃えている メタボでGO!! ('11/09/05 17:48:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_392_5511p
「糞緑」という造語は、汚くて美しくないが、
暑さのは、テクストから、十分感じられる。
鮮鋭な言葉も交えながらも、書かれているのは、
単純な夏の風景詩である。
、
59.5518 : 廃人其の1, 其の2 大丈夫 ('11/09/07 01:11:26) [Mail] [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110907_462_5518p
評1
下手だけれども素直に等身大で描いていることと以前の作品を上回っていることが、良い兆候かもしれないと思った。タイトルとモチーフの扱い方に気を付けて欲しい。
評2
廃人、狂人は、普通忌み嫌うものですが、ある時、自分の中に、
狂人の姿を見つける。その異様な、内面の複雑な、黒い精神構造を見つけるのでしょう。
粕谷鋭市の「悪霊」等の散文詩に、
多く書かれている心象心理に共通のものを発見する。
61.5514 : 酔生夢死 无 ('11/09/05 19:23:33)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_400_5514p
酔生夢死のようなことが、書かれているのだろうが、
一連目から、どういうイメージを読み手に、伝えたかったのか、
判然とせず、引きずられるように
読んでいくが、
最後まで、新鮮な語句に出会うことはなく、
読後に残るものがあまりない。
だからと言って、出来の悪いテクストと言ってしまうのは、
少し違うようです。
多分、足りないものは、像としての詩的イメージ力のようなものの
強度であるのだろうか。
63.5509 : でんでん太鼓 黒髪 ('11/09/05 11:40:03) [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20110905_368_5509p
昔を懐かしむ感傷的な抒情詩。
丁寧に書いているが、外部に向かって、広がるような
動的なイメージが
もう少し欲しかったように思う。
64.5527 : 手のひら Tora ('11/09/12 00:12:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110912_610_5527p
青年期は、多くの教養主義的な人生観のなかで揺らいでいますが、
>腕が辛くなった私は腕を降ろし
>手のひらを見たのでありますが
>三半規管はどこにもなく
ところから、大人として自律的な人生観をもつことができるように
なったのだろうか。
そのような詩的メタフアーが、
エアホースワンの力強さに繋がっているのだろう。
65.5525 : ぷるぷる鳥の結晶 千手観音 ('11/09/10 20:48:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110910_566_5525p
日常の身辺雑記的な散文である、小説の断片のようでもあるが、
最後のところで、詩的比喩をこころみているが、
逆に、謎めいているというより、
思いつきのつまらなさを感じてしまう。
24.5560 : 獏 ロボット ('11/09/27 00:12:09)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110927_270_5560p
ほのぼのとした情愛のこもった親子愛のテクストである。
28.5515 : あいてぃおぴあ 進谷 ('11/09/06 05:59:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110906_414_5515p
作者アイコンが機能しているのだけれども、単品としては物足りない。
作品集の中では映えると思う。