文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

by 天才詩人(コントラ)

2011-10-29 (土) 08:03 by 文学極道スタッフ

新コラム。よく読んどくように。

日本において日本語で詩を書き続ける選択肢はありえない。詩人はぜんぶ負け犬だ。その負け犬、いかいか的に言えば自らのどぶねずみ的な醜態を、自覚した上で、ゼッケンくんみたいにそれを戯画化していく。せいぜいその程度の抜け道しかないだろう。しかし俺は天才なので、その道は選べなかった。海外でのうのうとしやがって気楽なやつだといわれるかもしれないが、すくなくともおれはどぶねずみではない。いや、どぶねずみかもしれないが、少なくともどぶに住まねばならないという不幸は免れている。さっき、暇つぶしに福島市のホームページをざっと見てきた(注1)。外国メディアの報道で、福島市内はもはやチェルノブイリ周辺と同じかそれより悪い状態だというのが明白なのにもかかわらず、市当局ウェブサイトには市民に正しい情報を伝えようする誠意がみじんもない。日本酒3合飲んだら発ガン率は1.6倍だから、放射能これだけ浴びたのと変わらないとか、人をナメきった情報ばっかりだ(注2)。暗に、放射能はたいした問題ではないですよ、と言いたいにしてももっと頭をつかったお茶の濁し方があるだろう。ふざんけんな。さかんに議論されているので繰り返したくないが、あまたの政府機関を擁する福島市を閉鎖するとなると、東北以北への大動脈が遮断され、日本の経済活動に甚大な支障をきたすと言われている。YouTubeにある無数の映像ではNGOの活動家がインタヴューに対し、これだけ放射能のレベルが高いのにもかかわらず、復興プロジェクトのすぐそのわきに、学校やオフィスの平和な日常生活が営まれているのは、シュールで不気味だ、と話していた。日本政府は見てみぬふりをする。市民は、何事もないと自分に言い聞かせながら、半睡状態のままの「日常」を維持しようとする。そこに俺は、戦後のアメリカ占領時に歴史的記憶を空白に還元され、東西冷戦下のマシュマロのような甘い繭のなかで消費立国として完成してしまった日本の、『現在』もとい「終わりなき日常」へのおそるべき執着を見てしまう。日本においてポストモダンとは白痴と同義である。そこには未来へのヴィジョンなどあるはずもない。数年前だったか、どっかの政党のキャッチフレーズが『日本をあきらめない』だった。この「日本」は「日常」と置き換えてもいいだろう。そもそも「あきらめるか」「あきらめないか」そんな時限爆弾みたいなスイッチを抱きしめながら生きる日本。そんな人生にいったい生きる価値があるのか、と俺は聞きたい。

いぜん田中君とのバトルでも書いたとおり、俺はアメリカに住んで数年になるが、時が経つごとにこの国が嫌いになる。アメリカ人はスニッカーズやナチョスなどのジャンクフードで肥えさせられた家畜であり、鼻の前に人参をぶらさげられた馬のように、株式市場に、または神の意志の前で、絶え間なく「先」へと駆り立てられている。だが、言いえて妙だが、『未来』を志向しているだけ、彼らは日本人よりもましなのだ。この『未来』は『危機管理』と言い換えることもできる。彼らは公私両方のレベルで、出会いうる危機にどう対応するのか、誰がその事態に責任をもつのか、いちおう了解していて(制度上、了解したことになっている)、危機管理では自国が世界一洗練されたシステムを持っているとうことに、疑問をはさまない。アメリカが国連決議を無視してイラクに侵攻するのも、原爆を落とすのも、それが『危機管理』だというなら、ほとんど精神異常者の過剰防衛だが、そうした「危機管理」政策を公の場で、非難する人は少ない。それらはアメリカという国の「危機管理」のゆえに必要だと承認された以上、「民主主義」手続きで選んだ自国政府の政策を非難すると、人格矛盾に陥ってしまうからだ。民間や市政レベルで、廃墟と化したイラクやアフガンから難民を受け入れサポートすることはあっても、戦争の大儀や外交関係はドライに割り切る。精神異常者や変態も、異常ななりに一貫してはいる、ということだ。一般化しすぎたが、少なくとも、「人殺しは倫理的に否」という子供でもわかる論理から、韓国や中国への戦後補償とか、国家と国家の問題にまでワンステップで飛躍してしまう日本人の知力とは、横浜商科大学と河合塾くらいの偏差値の違いはある。戦後、ごく最近まで、日本人の多くは、国家さえもがマシュマロのように溶けてなくなってしまうことを望んできたが、予備校を卒業しても学歴には何の足しのもならない。だがしかし、おれはどうしてもアメリカがきらいだ。いま上で素描したような、日本の親米保守派が大好きそうなリアリスティックな防衛論に共感する、多くのアメリカ留学「経験組」のようになってしまうのには、俺は、あまりに経験を積みすぎていた。俺はアメリカ合州国に住む以前に、東南アジアや中東、中米、南米諸国などを時間をかけて歩き回り、多くの市井の人々や、ちょっぴり偉い人たちと出会い、彼らの多くが、心の底から親日的であり、アメリカ合衆国なんかよりも日本に、今後の世界を背負う覚悟決めてくれるのを期待しているのを、知ってしまった。俺はこれらの人々を鏡として、自分が日本人である、とういことの本当の意味を学んだ。パレスチナで、イランで、または南米コロンビアやミャンマーで出会った多くの人々の期待を裏切るわけにはいかないのだ。世界第二の経済大国は世界に対してそれなりの責任を負わねばならない。
言うまでもないが、世界が日本で注目するのは経済だけではなく、日本のアニメや漫画は世界の若者の共通言語となりつつある。5年ほど前に、ダーザインから、アニメはもはやサブカルチャーじゃない、れっきとした「文化」だという批判を受けたが、俺も、過去数年間現代美術の研究者として修行を積むなかで、アニメや漫画こそ、コンテンポラリーアートの最前線を思考していくうえで、欠かせないな出来事だというのを、人力車なみの遅れに恥入りなら認知してきたし、それが日本とアウターナショナルとの界面を交わらせていく「アツい」場になりつつあるのを、これも遅ればせながら覚醒させられた。じじつ、明治以降の、日本の現代美術史は、たいてい息のつまるような守旧的なヴィジョンで覆われており、フランスの印象派からキュビスム、フォーヴィズム、抽象表現主義までのモダニズムの運動を、アカデミックに骨抜きにしただけの作品しか生まれてこなかった。アニメの話はダーに任せて矛先を変えると、閉鎖的な日本の現代美術の流れにあって、例外的に「アツ」いのが、藤田嗣治である(1886-1968)。27歳でフランスに渡った藤田は、浮世絵や日本画を参照したハイブリッドなスタイルを独自に確立して、パリで超売れっ子になったが、それには飽き足らず、自らの足で中南米やアジア大陸を旅行し、貪欲にインスピレーションを吸収しようとした。女たらしで派手な生活をしたせいで日本の画壇からはさんざん叩かれ、無視されてきたが、彼の伝記を読むと、自分の祖国について、そして世界のなかの「日本」という問題について、彼が恐ろしく先鋭な意識で思考していたのが手にとるようにわかる。個人的には俺のアイドルだ。ポスト冷戦の90年代以降、アニメや漫画にインスピレーションを受けて、製作する現代美術家が増えているが、批評家のサワラギノイが言うように、彼らは、アウターナショナルな文化のすりきりに自らを投じていった藤田の奇跡をなぞっている、とも言えるわけだ。急に文学極道の話になるが、ダーザインのようにアニメや美少女に強い人間(もとい、変態)がトップにたったのはとてつもなく大きかった。俺は、ダーの20倍くらいは頭がよいが、世界レベルの政治や経済、カルチャーのフローを最先端までくまなく見据える彼のアンテナには敬服するほかない。俺は「詩」に興味は無いので、詩はもうどうでもいい。ただし、「詩」という元来メソメソした道教の陰陽論でいう、とことん「陰」(それは放射能がたまりやすい雨どいの下や、人の近寄らないくぼ地に住みたがる)であるメディアを武器にして、どこまで「アツい」ものができるのか(たぶんそれは無理だ)にちょっとだけ興味がある。
福島市は、一刻も早く全面閉鎖して、市民はすべて放射能の影響を受けない場所に避難すべく、手続きに移るべきだろう。日本には「未来」がなければならない。すくなくとも、アメリカの暴虐によって疲弊した世界のために、日本は未来を選び取らねばならない。その「未来」はアメリカが描く未来よりも、たぶん2.2倍くらいましだろうから。(予備校は、柔軟さが強みだろう。嫌になったらいつでもやめられるし、またもどってこれる、ケムリくん、おかえり)
俺のいうことが絵空事に聞こえるならば、お前はドブネズミだ、いや、お前はアフロだ。とりあえずアウターナショナルに自分を放擲して3年くらい帰ってくんな。

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