文学極道 blog

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「12月選評雑感・次点佳作作品」

2011-01-24 (月) 22:24 by gfds

「12月選評雑感・次点佳作作品」  文責/浅井・織田 編集/織田

「Jumpin' Jack Flash。」‐田中宏輔 

◆ナンセンス、ノイズ、騒音、カオスといったことがこの詩作品の要素になっている。例えば私たちの生活にある余白。朝起きて顔を洗う。朝食をとる。新聞を見る。意味を持った一つ一つの動作、行為の間に隙間が生まれる。何もしていない時間がある。行為と行為の間にある「余白」の時間。この空隙を禍々しい言葉たちによって埋め尽くしていく。埋め尽くしてやる。この作品からそういう欲望のようなものを感じます。
文脈というものがさしたる重要な要素となっていないこの作品。それを逆手にとると、どこから読み始めても楽しめる。そういう作品になっている。どこから読み始めても良いし、どこで読み終えても良い。詩を読むという行為にエコロジーの概念を導入した最初の作品(?)と言えるでしょう。

「血涙」- 破片

◆10代の学生の頃、下宿で自分にしかわからないようなランダムなメモを、たくさんノートに殴り書きしていたことを思い出しました。ひるがえって現代、インターネットがくまなく普及し、かつて少年のノートの片隅に追いやられていた独り言が、公共空間で共有される。そのことの功罪について考えたくなります。
この作品では「くだらねえ」という呪詛と、「何かない」という呟きが交互に繰り返されます。母親に「どうして生んだの」「どうして生きているの」と訊ねるのも、未成熟な子供のメンタリティでありそのメッセージです。

「わたしはわたしの痛みのために泣いたのに、どうしてでしょう、この涙が石畳全体に染み渡り、ほんの少しでも温度が伝わればいいと思っていたのでした。」

自分のために泣いただけなのに、隣人にその体温が伝わる。ここで「少年」はその体験を欲している。けれど体温を伝えるためには直接、他者の体に触れなければならない。言葉は体に触れることはできない。言葉によって他者の体温を得ることはできないのだ。ということを、この作品は切々と語ろうとしている。

「とりのは」‐津島 ことこ 

◆ なにか漠然としているけれど、取り返しのつかないことをした感じ。 意図したものと、わずかに違う出来事が目の前に現れ茫然としているさま。 例えばこのような出来事を表したものを他で参照するなら、

>りりあんを光のなかで編むように書いてしまった知らない手紙  盛田志保子
のようなものだろうか。

>金よう日、ラジウムみたいに放射して裸子植物を食む子にもどる
「子にもどる」(無邪気さを取り戻す)行為を、直接いいあらわすことのできない心象として感じ。 戯れでしてみた行為なのだろうか、ピアノの、

>黒鍵を人差し指と薬指で押さえたら
なにかが 、

>いちめん緑
となってしまうような、軽い意図と、それに見合わない劇的な変化。

>点描の夢をみました。
という出来事は「物語」がはじまりそうな予感をはらみつつ、それでいて、

>それだけです。ただ輪郭をみつめただけです。
というように、なにかが生まれてくることを、あるいは環境の側から私の側に働きかけてくる変化にたいして、「何でもない」ということを表明する態度。 あくまで、私自身が主体となって物語が進行してゆくことを、できるかぎり避けたいと願うような、そのような立ち位置のようにも見えるのだけれど、それでいて「何でもない」ことを表明している私は、

>ウエハース製の座卓をかじってるわたしの中のマトリョーシカたち
敏感な思春期の子供ように心穏やかではないことが示されている。 自己実現として現れる、こころのなかの動きは、

>満たされぬものがなにかも知らないで満たすエーテルひかりになりたい
と、ふくざつなものとなり。しかしそれは、「私」の最大限の素直さの表明にもなるのだろう。 しかし、そのような素直さも、話者の心に秘められたものとして現れるだけだ。
それが、「出来事」として現れるのは、

>一辺と一辺になる西の空 折り合いをつけた鳥が飛びたち
というように、おそらく、自己との「折り合い」を鳥たちの風景に託されるようにしてあらわれてくる。このような、環境の側がひとりでに作用し、出来事としてなにかが結晶するさまを、観察者としての「私」がそっと覗きこんで、その「世界」と「私」の重ね合わせのひとつひとつが、短歌表現というスタイルをとっている。

「存在の下痢」 ‐ 田中宏輔 

◆ >猫を尊敬するの
>だって
>猫って
>あんなに小さくて命が短いのに
>気にもとめない様子で
>悠然と
>昼間からただ寝てばかりいる
>きっと悟っているに違いない

冒頭から「うん、きっと猫は悟っているに違いないな(笑)」などと話者と同じ視点に立ち、思わず頷いてしまいそうな軽やか書き出しがいい。しかし安直に猫と人を比較するのもおかしな話でもあり、また作品の中で「存在の哲学」について考察が深められているわけでもない。タイトルはおそらくサルトルの「嘔吐」が意識されたものだと思うが、概ね、駄洒落やユーモアに横滑りしていくのが主筋になっており、そこを楽しめるか否かが作品の「価値」にかかってくる。

「橋」 ‐  早奈朗 

◆「物語」、という枠で見たときに、どのような場所に辿りつこうとしているのかという疑問があります

一言で言うと、最後の
>「橋をかけてやるぞ」.
ということで実現される「橋の向こう側」の世界をどのように認識しているのかな、ということです。

「橋のこちら側」の世界で、

>ぼくはすべてになりゆくためにまずいっこの名前が定まらない。口を開けてあるくために、龍の名前がぼくにはひつようだ。

というように、欠損がまず提示され、目的が語られる。
その手段として、橋をかけ、向こう側へと向かうわけですが、おそらく向こう側の世界で「僕」は「りゅう」や「なまえ」などの大きな物語と葛藤してゆく予感が書かれています。

思うのは、「僕」や、
>ぼくは 詩になりたい
という「私」をめぐる願望や成長が、個人的な事柄や狭い範囲での環境の影響を設定することなく、そのまま、「向こう側の世界」での出来事と直結してしまうクエスト的な構造をとっている様式というのは、もはややりつくされた感じがある、ということです。

個々人の、「僕」「私」としての自己実現が、「世界」や「向こう側」と無条件に繋がってしまう構造という物語をつくるときには、それ相応の注意が必要ではないかな、と感じました 。

「愛しくて。」 ‐  岡崎那由他

◆反復とはつねに、一回性への断念としてあらわれざるをえないし、それがもたらすのは、質から量(塊)への移行とならざるをえない。けれども、反復することで(記述の、あるいは黙読の)時間が滞留し、そのことがもたらす本来のなめらかな記述を読むための視線との「ずれ」が、物語を展開する筆記の運動の停滞にいらだちを感じつつも、どこかで繰り返され、もはや「塊」となった言葉が露呈してしまう「なにか」を、かいまみてしまうための瞬間が、この馬鹿げた試みを読んだ人に現れることが、数少ない酬いのうちのひとつになるのだと思う。反復は、同じ言葉の、それが短ければ短い文章であるほど、本質的にシニフィエが壊死してしまう作用を担っているし、だからこそ、壊死してゆくプロセスに反するために、反復がシニフィアンを変貌させてゆかないかぎり、「なにか」を生み出すことはできない。だけどそれは、反復により生起するものの微細な運動をしめしているかぎりにおいて、反復によってつくられるフレームの外側へとのがれることもない。
5回繰り返される 。

>笑ったまま死んでいる死体
>君が愛しくて呼吸を忘れてしまったよ

などの言葉は、モーションとならざるを得ないけれど、その運動の弾力性はとぼしいものとしかいえず、何度も現れてくる反復された分によって、こごってゆくように感じられてしまう。

「花々」 ‐  yuko 


>好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子

引用の短歌は「みんな連れてゆく」というふうに描かれているが、それでもなお喪失が主調となっている空気を、この作品も共有しているのではないか。
けれど、それが、喪失として書かれてはいるけれど、その喪失からも隔てられているという意識が主調としてある。

>森を抜けると、
>あたりは一面の
>花、が、光のようで。

「私」は、「森」という世界から抜け出す。
そして、「花」のある世界へとやってくる。
それは、「森」⇔「花」=「自然」⇔「村(人間)」という図式があてはまるだろう世界観だと思われる。
>それがきみには見えなくて
とは、どのような事態か。

たとえば、想定する。「私」が、もとは「花(人間)」側における存在であり、それがなんらかの理由か目的で、「森(自然)」側における存在になるために、
>きみの森
へと入り込んだのだと。
しかし、「森」としての世界のなかにとどまることができなくて、「花」としての世界にもどってきたのだと。
そして、その私の存在が「きみに見えない」という事態は、「森」と「花」が対極にあるためではなく、私自身が、そのどちらにも属さない存在となってしまったからにほかならないと想定すること。

>彼は文化なき人間として、本能なき動物として、つまりまさしく存在しないものとして長い間さまよう(M・フーコー)

そしてそのような事態になるからこそ、

>誰もゆるさなくていい
>祈ることはない
>蝶の羽ばたきが
>止まることはない
>ぼくはきっとすべてではない
>漱がれていけ

このように多用される否定と、諭しが、「亡霊」のようにさまよう私に対して、親密さを持ったものとして、あるいは私へのどちらかの世界へと直接触れ合うためのアドバイス的なものとして響くのではなく、私を世界から隔てるものとして、私自身を限りなく世界性から、あるいは周囲から切り取るための疎外の言葉として響いてくるものとして読みとること。 喪失感をもった世界にいながら、その喪失からも「私」自身が切り離されてしまう世界観がみえてくる。

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「12月選評雑感・優良作品」文責/浅井 編集/織田

2011-01-20 (木) 22:56 by gfds

「12選評雑感」

【優良作品】

4892 : ぱぱぱ・ららら  進谷 

◆若さ、軽薄さ、危うさ、遊び、といったものが、確かな文章力の上に散乱していて、 鼻白むことなく、とても面白く読めました。
私たちの感情の、それほど深くない部分に、そっと手が差し込まれるような、心地よさと不安があります。深すぎず、浅すぎず、あくまでも足取りは軽やかに、それがこの作者の持ち味なのでしょう。詩にも引用されていたカート・ヴォネガットを彷彿とさせる巧さとユーモアを感じます。
「詩を書くこと」が「生きること」に直截的に繋がる若い世代の、はにかみと自負のような感情は、それなりに書き手を苦しめる重さを持っていると思いますし、この作品の出発点も、それほど明るい場所とは思えないのですが、それをモノローグに堕すことなく「文芸」として突き放してくるところが、作者の優れた資質だと思います。

4906 : したく  ゼッケン

◆この作品を元ネタに映画のシナリオを一本書けそうなくらいに濃密な場面描写がなされています。主題の扱い方もとてもアクチュアルで且つクール(危険)です。高校で理科の科目を教えている教師が科学と道徳の境界にあるタブーを侵犯するような実験を学校で行ってしまう。
シチュエーションからして良くも悪くもグッと惹きつけてくるモチーフです。ところがこの種の問題というのは、どこからが犯罪にあたり、そうでないのか?ここがわかりにくいという問題があり、そこに切り込むことで主題のエレメントが浮き彫りにされます。その手わざはさすがです。
高校の生物部の顧問である「おれ」がレズビアンの女生徒2人の卵子を試験管の中で反応させて子供をつくってしまう。

>先生、つかまるんでしょ?

>ぼくらも逮捕されますか?

>赤ん坊は週イチの世話じゃ済まないからね

>わかってる?
このしらけた空気感は読者に怖い印象を与えると同時に、時代を批評する言語としての機能を作品に与えています。

4912 : (頭を置き去りにして歩く、)  田中智章 

◆>頭を置き去りにして歩く
とまず、明言される。そのあとにつづく何気ない文章を読みながら、

>また、夜空から見つめられる

という文章を目にする。
「また」夜空からみつめられる、という認識は、過去にさかのぼって「私」になにかのプロセスがひとりでに始まっていることを示しているそれにつづく文章 、

>ふたたび足あとを追うようにして歩き出す
>でもまた降り出せば、足あとは消える
>そのときは、まるで足あとをつくるために歩く

「世界」と「私」とが相互に連動している認識。
シンプルにその空間の循環の認識だけが投げ出されているようにも見えるざくざくと歩く足音が、「世界」の側にかたむきつつある夜を、音を、からめとってゆき無化させてゆくように、どこまでも継続し、継起してゆく。
シンプルなほどなにも書かれていない。だけれど、循環する運動性が永遠につづいてゆくように見えるそしてその歩みの質を、

>雪の中に頭を置き去りにして
という言表のゆるぎなさが保証している。

4918 : 日常的な公園  リンネ 

◆リンネさんの作品を面白く感じる理由の一つは、この作品もそうですが、最初から最後までおかしな出来事の連続で構成されているのにも関わらず、それが、ただ、荒唐無稽な話として終わるのではなく、我々の存在する現実の本質を、ときにシンボリックに、ときにアイロニカルに、「説明」してくれているように感じるためではないか。「わかる」という感覚を、リンネ流ロジックにはめ込んで提示してくれる作品として読める。
「日常的な公園」
大人が公園で鬼ごっこをするのも変な話です。また女が股間に鏡を挟んでしゃがんでいるというのも現実世界では全く意味不明なことです。しかしそのナンセンスを通して意味を語りかけてくる。何かが腑に落ちてくる。そこに嵌ればあなたもリンネワールドの住人の一人だというわけです。

>Kは鬼ごっこをしているが
>妙なことに、
>およそ鬼と呼べるような人間がどこにも見当たらないのである。
>そういって悪ければ、
>Kはすっかり鬼の顔を忘れてしまったのであった。
鬼ごっこをしているつもりが、鬼が見当たらない、鬼の顔を忘れてしまった。
一見、幼稚な論理矛盾から始まるようなこの作品。我々も職場や学校などで体験する要素がぎゅっと詰まっているのではないでしょうか。

>どいつもこいつも鬼であるかのようであった。
鬼ごっこというのは誰もが鬼になりうるルールですが、この作品では、k本人は「鬼になり得ない」と思い込んでいる節がギミックになっています。
自分だけは鬼にはならない。そう思った瞬間すべての「ゲーム」は破綻してしまうのではないでしょうか。

4919 : あとは眠るだけ  右肩 

◆ラヴェルの眠りがあり、プルーストの眠りがある。
眠りを主題にした本も、きっと腐るほどある。
ラヴェルなら、旅先に25着のパジャマを持ってゆき、眠れない夜を数を数えることで過ごし、やがてそれも退屈となり、その退屈こそが眠りを誘ってくれるだろうことを期待し、だがそれはかなえられず、翌日には必ず不機嫌となるような眠りだろうし、プルーストの眠りなら、物語の書き出しが眠りについて書きだされているように、母親がそばにやってくるのを待つための時間をさししめしているのだろう。
この作品がこれらの眠りと違うのは、眠りというものが「やってくる」ものではなく、起きているうちから、夢を規定してゆこうという意志があることではないだろうか。

>(眠ること=)冒険、とは主体と世界そのものの運動なのだ

というように。
マンディアルグは、夜の夢=観劇の時間が面白いものとなるための必須の条件として、ごちそうを腹いっぱいに食べてからすぐ眠る親子の習慣を描いていたが、この作品の「私」も、夢のなかにはいるために

>それは今さっきスターバックスの女性店員から黄色のランプの下で受け取ったマグカップの中にあってもよい
というように、食べ物でなく、出来事を夢見のエンジンとして認識している。

だとしたらどうだろう、現実と夢の対比はどうなっているのか、が重要なのか、それとも、夢のディティールが、出来事を侵食してしまうように書かれていることが重要なのか、このような形態では、どこに焦点を当てることが重要となってくるのか。

>冒険には語りうる一切の内容がない。
といいつつ、どのように夢を提示してゆくのか、というのがあって、かなり詳細に記されている昼間の出来事に対して、夢はどのような対価を払うのか。

>眠りはまた浅緑の蔓である
といい、本格的な夢は書かれていないにしても、結論だけ言うとやはり、失敗しているようにみえる。おそらくそれは、

>僕は神のように明晰に眠り
と書かれる「明晰な眠り」というものが、覚醒→眠りへと移行してゆく私の意識が、みずから統御しようという意思をもっているのを前提としたうえで、やはり、リニアな時間軸として認識されているのではないか、と思うからだし、夢の時間が、現実の時間を包みこむような時間の伸縮性の予感がしないからでもある。

4932 : 一の蝶による五の夢景  リンネ 

◆不気味なもの。
ここに書かれている文章が、不気味なものとなっているのは、書かれているものが荒唐無稽な内容であるからではなく、荒唐無稽な内容をあくまで主観的に、ではなく、客観的にとらえようとし、それが語り口によって成功しているということだろう。

このような物語がリニアな物語としてコード化されていない、ということはよく見られることであって、それはそれで興味深い。視線はそれ相応の準備をして解読してゆくことができるのだけれど、それが客観的に語られ、かつうまくコード化されている、という事は、生身の語り手の、社会を眺める目線がうまく適応をおこしていないのではないか、という逆説的な感覚を読み手にもたらし、記述の平静さも、書き手への知覚の鈍磨によるもの、あるいは、生身の出来事に対する正常な適応行動を逸脱してしまった結果ではないだろうか、という突飛な予感をもたらすためではないか。

内容も、「悪い夢」、いずれは目覚めるであろうと心の片隅で意識しながらも、そう意識するがゆえに耐えられてしまう倒錯した現実を、なんらかの歪んだかたちで反映したものではないかとも思える。しかし、読み手は、そのような構造が埋め込まれているストーリーが持つ「受け身性」が、最後になるに従って供出していくのを確認し、いささか安堵するとともに、作者に対する技術の一定の高さに脱帽せざるを得なくなるのだろう。

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2010年12月分月間優良作品・次点佳作発表

2010年12月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

「2010年・年間各賞」は3月末日発表予定です。

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「11月選評雑感・次点佳作作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

2010-12-27 (月) 18:50 by gfds

「11月選評雑感・次点佳作作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

4800 : 熊のフリー・ハグ。  田中宏輔 ('10/11/01 05:18:29 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101101_008_4800p

◆この作品を強く「推している」発起人がいたので、次点佳作に入っているわけですが、はっきり言ってぼくもよくわかりません。内容も面白いと思わない。ただ、まあ、ゲイの人のセクシャリティに言及されているところは(自分には無い感覚や体験という意味において)興味を惹かれる部分でした。

◆ 詩が次々と展開していく面白さ、内容も面白いですが、
いかにも長いです。もう少し短くないと、読むのがきついです

4826 : アレルギー性恋愛過敏症  ゼッケン ('10/11/13 15:39:56)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101113_166_4826p

◆>ヴぁ、ヴぁ、ヴぁっくしょい! 好きです
 >つきあって、ヴぁっくしょい、ちーん! ください
とても、独創的な、オノマトペが、とても良いですね。
そのあとに続く詩文が、小気味のいいリズムで、続いていくので、
気持ち良さを体感できる詩でした。また、恋愛詩にある、べとべと感がなくて、えらく底抜けにさわやかなのが良いです。
ただ、一遍の詩にすると、簡単に読めてしまい、物足りません。

4828 : 旅への誘い  右肩 ('10/11/15 05:42:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101115_186_4828p

◆巧いけれども、読者に近づく姿勢はなくても良いと思う。

◆「あなたは死の世界にいる。」今日はあなたが死ぬのに良い日和であった。刺激を差異として陳列する「世界」で自己充足するのが人間だ。あなたはそう考えてきたとする。だから、あなた自身がいない「世界」はあり得ない、と。」
と言っている部分は、説明的であると思います。
哲学的な考えは、直接的な言葉では出さずに、別の詩の言葉で表現した方が、心に響くと思います。
また、
「あなたは死の世界にいる。」というのは、唐突としていて、違和感が突然に、生じてしまうのが、気になりました。
でも、最終連は、濃密な表現で、秀逸であると思いました。

4837 : 工場  熊尾英治 ('10/11/18 23:35:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101118_226_4837p

◆「あなた」と「君」は違うのか、同一なのか、よくわからないが、
そういう欠点が図らずも露出してくるということは、
この詩が、とくに語る強い言葉を、持ち合わしていないということにもなる。

けれども、抒情詩として、作者の気持ちがよく出ていると思う。

4838 : 羊飼い  J ('10/11/19 20:38:05 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101119_232_4838p

◆各連の後半の反復のフレーズのところは、遠近法の感覚を与えていない。
羊飼いは、どこのいるのか、また、牧歌的な詩の風景に、羊飼いの黒い目線は、時間空間を切り裂いて、異様である。抒情性の寸断みたいのことが露わになっていて、詩の安易な安定性を避けようとしている工夫が伺えます。その所に、この詩の非凡なところが現れていると思います。

4840 : サマー・ヴァケイション  bananamellow ('10/11/20 00:24:56)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_243_4840p

◆一連目は、比喩が面白く、暗喩が散りばめられて、よくできている。この後が、持続しないで、尻つぼみの感がある。二連目は、まったく余分で、書かなくても良いと思う。あとは、粗削りであるが、丁寧に書いている。
最後の連の 「焦点の深い写真をもらった」は意味がくみ取れないので、戸惑ってしまい、台無しである。

4854 : 風切羽  yuko ('10/11/24 02:18:09 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101124_342_4854p

◆器用ですね。

◆羽に、色を感じ取ることが出来る。例えば、雪に関連して、白色とかです。
聴覚的にも、羽の音が聞こえます。
とても、静かな世界を、イメージできます。それと厭世的な世界観が混在して、不思議なイメージの世界が見えてきます。

4856 : プラットホーム最前列  久石ソナ ('10/11/25 23:47:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101125_369_4856p

◆全く悪くない。
かといって飛びぬけてはいない。
けれども等身大の中の最高を、どうにかして探り当て作品に昇華している。

◆落ち着いた佇まいの抒情詩であるが、一連目の言葉の整理が必要であると思う。句点まで、息の長い文章をつくるので、間延びしないことに注意が必要であるかと思います。
日本語の生理として、長文に耐えられない、言葉の貧しさを持っています。
だから五七調が、今まで長く生き続けているのであり、詩の言葉も、読みに堪える、息継ぎのような部分が必要です。
息継ぎ=余白のような感覚です。そういうものがないと、読み手に取ってとても辛いものが出てくると言えるでしょう。

4858 : 星霜  破片 ('10/11/27 08:30:21 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101127_383_4858p

◆「星」に焦点をあてて、話が進行するが、「星」というメルヘンチックな語なので、
詩の含意が深まっていかないようであり、表層的な詩に読めてしまう。
きれいに書こうという試みも感じますが、キラキラ感はないです。

◆「こんな風に小説的(散文的)な修辞をある程度組み込んでいる(ように思えました)方が、一般的に評価は上がるのかもしれないですね、もしかしたら。」(田中さん)

「評価が上がるかどうかよりも、どうしたら綺麗に美しく書けるかという模索、また今回はいつもの改行詩では書いてて物足りないかなという気があったのでこういう文体にしました。」(破片さん)

<投稿掲示板でのレスポンスより>

しかし詩と小説の境界を破るような散文体の文章が詩として評価され始めたのはどこを契機とするのでしょうか?おそらく詩が物語を求めたのと同時期に、小説が物語を失ったことが大きいのでしょう。

この「星霜」という作品のテーマとなっているのは。

「生きてるってこと」

>青く開けていくビル群に横たわるアリアが名前を欲しがる。
>耳打ちは誰にも聞かれてはいけないよ、
>人々はいつだって起きるのではなく、起こされるのだから。

ところで作品はそこで「生きる」ことを考えながらその主体性の否定から入っています。

「起きるのではなく、起こされるのだから。」

>雨が降ってくると星たちがいないから、
>人間っていうのはね、動きたくなくなる

そして人間主体の還元先を、環境や自然の中に求めている。いわゆる自然主義的な立場に立ちながら、同時にロマンのあり方も模索されていく作品となっています。

4860 : Une serie de l'homme 3〜En Iriyamada  はなび ('10/11/29 05:24:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101129_412_4860p

◆入山蛇さんの発言に興味を感じます。0の起源とか、
でも、このシリーズは、あまり成功しているとは思われないので、
普通に詩を書いても、良いと思いました。

4865 : あなたへ  yuko ('10/11/30 12:24:07)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101130_437_4865p

◆詩学の投稿欄の頃から変わらずフォロワー文学を突き通していますね。
巧さがあるのだけれども、なんというか。
書きたい衝動よりも表現の表面にばかり気を取られてしまっているところが気になります。
吹っ切れていないというか。タイトル変更は非常に良い方向へと働いたのかもしれません。空洞化を推し進め、表象を差し出しています。

◆詩人の遺言書、詩人の引退宣言みたいですが、広くメタファーとしてとらえると、これは、作者の現在の詩を書く状況のようなものが描かれている。そう考えると、作者が語り手の言葉で、今、詩を書くことに行き詰っている事を述べている、そういう作品として解釈できるのでしょうか。そして「この小さな部屋でまた新しい命が生まれようとしている」のですから、新しい詩の進むべき方向が見えているといったところだろうか。
そういう風に、全文読むことが可能ですが、とても、難解であることには変わらない。

4866 : サンクティティ  しりかげる ('10/11/30 17:42:43)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20101130_440_4866p

◆いろいろな方の影響を良い方向に受け取って自分なりに咀嚼していけている気がします。
しりかげるさんは、冊子になにかしらの形で載っていても特に違和感がない作品を書かれますね。

◆「神聖とは、騙されることでしたから」という言葉が、この詩を表している。
このような時代的な懐疑なものと、時代に対する厭世観に似た無気力感は今の時代性を表しているが、こういう詩が、極めて多く書かれるが、このように時代に寄り添うような思考に、詩の可能性はあるのだろうか。考えさせられる問題です。

▼以下落選作品から

4843 : あそこらへん  藤崎原子 ('10/11/20 18:45:05 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_261_4843p

◆拡大解釈を許す狭さが、象徴的。

◆これは、メタ詩のような様相を呈しています。いわゆる詩のための詩というところです。
もっといえば、詩的言語が、傷口を開いて露出している場についての詩でしょうか。
でも、この手法は、多くの詩人が必ず手がけている手法ですので、特別なものではありません。しかし、歴史に名を残す詩人も多く書いています。
多くのメタ詩は、その詩人の自らの詩の理論の実践として、書かれる場合でありますが、この詩には、それは強く表れてなく、憧れのような、詩の出会う現場を詩の存在場所を、詩の中で書いているのでしょう。
「あそこらへん」は、通常言語とは違う、詩的言語の存在、そのものの場所なのでしょう。

>たくさんのあそこらへんたちを
>僕たちはどんな言葉でくくれるのだろう
>前に何回か行ったことがある
>でも知ったかぶりだったりする

何度も書いてみたが、詩的言語の傷口の露出現場をうまく作者のものにできなかったことへの反省でもあり、どんな言葉で表せばよいか、作者の苦悩みたいなことでしょうか。

>うなづきながらひたひたと
>話を変えようとにらんでいる
>整えるために用いられるそれぞれの代名詞の感覚は
>それぞれに同じで無い

これは、詩のほうから、差異と反復を孕んだ詩的言語が、藤崎さん(作者)が書いた言葉とは違うコノテーション、いわゆる、言外の意味、意味のズレを含んで語りかけてくることでしょうか。
この四行があるから、この詩は、大変、奥行きを持って読めますし、詩的言語が、作者に語りかけているという、詩的言語の謎めいたあり方が述べられていて、この詩の核心部分ですね。

>だから僕は多用する
>きびしく限定したくない

前に作者の憧れと書いたが、この二行で、作者の詩論のようなものが、垣間見られます、しかし、僕には、それが何か、よくわからないが、修辞技法の、いわゆる、隠喩や直喩の多用を言っているのだろうか。その宣言なのだろうか。

>どうしてか落ち着かないここもいつかはあそこらへんになる
>もっともらしく、色づく
詩人として、詩的言語を希求しており、それを獲得する作者の自信が伺えます。

4841 : 僕らは境界線の上で眠る  如月 ('10/11/20 11:20:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_252_4841p

◆ヒダリテさんからの影響を受けすぎなのは別に良いのですが、その上で自分なりの視点が「生活の雪崩」にしかないことが気になります。
綺麗な作品を書いていますが、作品の拙さが目立ちます。
次点に残しても良いとは思います。

◆「境界線」という難しそうな題名であったが、詩の内容は、牧歌的な家族(夫婦)の情景詩である。力まずに読めた。
ただ、「夜」が境界線というのは、あまりに普通すぎるので、何か工夫が欲しかったと思います。

4818 : 『防空壕』  はゆ ('10/11/10 12:22:42)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101110_130_4818p

◆戦争詩。復員兵の悲惨さと、その語り手の思いを書いている。この場合、「僕ら」で語られているが、読み手の共感の事前承認が「僕ら」の中に含まれている、だから、この場合、その戦争を知らない世代なら、猶更、「僕」で書くべきだろう、戦争世代の人に、「君らに、僕らの気持ちがわかるのか、何がわかる」といわれるだろう。
だから、「僕」で書くのです。
また、この通時的にしか、語れないことを、共時的に語るのだから、猶更であると思う。
そして、こういう深刻な問題を、詩人の自分の言葉で書かなければ、説得力のある言葉は生まれず、つまらない散文と同じではないだろうか。
(唯、勿論、逆に詩の現場の状況にもより、「僕ら」と使うことが良い場合も勿論あると思うのですが)

9.4857 : 小さな冬、の  はるらん ('10/11/27 05:42:57)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101127_381_4857p

◆yukoさんへの評は、自分へのメッセージなのでは、とも思えます。
書きたいことはある、というのは分かります。
綺麗に書かなくてもよいのですが、綺麗に書いても良いとも思います。
ただ、中がたるんでいるので、毎回、削ぐことを意識して欲しいと思っています。

◆恋愛のエクリチュール。
このようなトレンディー・ドラマの場面を、上手に書かれているが、これを現代詩と呼ぶかどうかは、別として、このような詩は、詩に親しまない人(そういう読者層)でも、共感を持って読めると思うと、詩と散文の境界線が、この詩の芸術的であるかを別にして、あるのではないかと提示したくなる。

4833 : Night Wind  丸山雅史 ('10/11/16 18:51:28)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101116_200_4833p

◆来世という夢の世界のオルフェウス物語、「来世に招待された指揮者はアイドリング・ストップし、」これが、オルフェウスがエウリュディケに振り返る場面にあたるのだろうか。
シュルレアリズム風な表現を使っているのは面白い。

ただ、漢字が多い気もする。

4806 : わたしの  帆かけ ('10/11/04 09:51:40 *14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101104_046_4806p

◆「そうして君は ひとになる」
「私」が「君」になるわけですね。
ここで、語り手の場所が、大反転すると、詩に劇的な効果を
出しています。遠近法的思考を、ぶち破った、まさに、詩の誕生というところでしょうか。
短い詩ですが、味わいがあります。

4835 : コスモスと鰯雲  はるらん ('10/11/17 04:42:23 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101117_212_4835p

◆毎回、悪くはないのですが。
生活の中で、爽快なファンタジーに展開させていきたい気持ちは分かるのですが。分かりすぎるというか。
悪くないのですが・・。

◆青春のメランコリーという物語です。
こういう閉ざされたテクストを読むと、一義的に読めるので、読んでいると、さわやかな気持ちになるのは、多様すぎる現代詩ばかり読んでいるからだろうか。

4845 : THE 0ー  榊 一威 ('10/11/22 00:13:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101122_291_4845p

◆はっきりと書かなくても良いのだけれども、作者の存在は大切。
内実は良い。

◆一種の独白ですか。終始、厭世的に思うところを述べていく。
時々、問いかけるような語りが、この作品に反復性のある詩的な余白を生みだしている。

4823 : 足跡を踏む  谷垣 ('10/11/12 13:20:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101112_152_4823p

◆新緑の大地に沈む夕日に照らされてなど、ベタにいかなくても良いのでは。書いてある内容は非常に分かりやすい。

◆典型的な抒情詩です。
とても、切ない思いが出ていると思いました。

>新緑の大地に沈む夕日に照らされて

なんかの歌謡曲のフレーズにあったようで、あんちょこな表現なので、もう少し工夫が必要でしょうか。

>木漏れ日のような眩しさ

直喩を使った比喩なのでしょうか。でも、この詩の内容からすると、全然比喩になってなくて、そのままです。

>忘却の彼方に

詩全体の流れからすると、このフレーズだけ、大げさな言い回しで、言葉が、浮き上がってしまってます。

>抜け落ちていた私の大切な一部だから、と
>何度も繰り返し色を塗り重ねて
>もう一度、胸にしまいこんだ

ここは、抒情詩の特徴が出ていると思いました。

もう少し、全体を見ながら、工夫して書かれたほうが良いと思います。

4819 : ナス トマ キュっ!!  ヨルノテガム ('10/11/11 23:28:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101111_144_4819p

◆もう少し振り切れると良いような気もしました。悪くはない。

◆言葉の遊びとして、とてもユニークで面白いと思うが、散文詩体の4連はあまりにも、長い、さらに、ナス、トマト、キュウリ、肉の多用によって、クドクなっていて読み手としては、かなりキツイと思います。
もう少し、短くして、言いたいことを、全部いうのではなくて、
読み手に、読む余白のようなものを与えると良いと思います。

4814 : 映画  丸山雅史 ('10/11/08 01:16:57 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101108_099_4814p

◆文章の密度を濃くしたらよいという問題ではない。

◆色々な言葉を装飾して使っているが、語彙の反乱があるということ以外、魅力的なものが、詩から感じられない。

4802 : Crying lost child  黒髪 ('10/11/02 17:31:18)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101102_020_4802p

◆童話の世界のようで、良くできている。「今凱旋の朝」に集約される、刻々と移りゆく、詩の臨場感があります。
「幸福になること」から比べると、全然出来が良い。

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「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

2010-12-25 (土) 11:53 by gfds

「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

11月は相対的に作品のレベルが高かった。そう評した発起人が数名いましたが、逆にぼくはもう「現代詩」は三途の川を無事渡り終えたのではあるまいか?そういう印象を強く抱きました。今月の選評・及び雑感は主に泉が担当しています。
(by織田)

【優良作品】

38.4824 : pool  益子 ('10/11/13 12:06:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101113_161_4824p

◆一連目の、言葉の運び、言語感覚、リズム、見事だと思う。
プールと空の二重性、その展開。 二連目の 「ぼくの、足が、水面に、空に、沈んで、水面と、空に。」 何気ない書き方だけど、「ぼくの足」が、鮮やかに「水面と、空に。」引き裂けられている。
詩でしか味わえない世界が、言葉をリフレインして、「に」を「と」に変えただけでできている。

三連目、語り手の視点が、一気にプールから空にいく。(がそれが空かどうか)その展開も上手であるが、この辺にくると、その展開で、グラグラと眩暈が起きそうな言葉の揺らぎがある。

唯一点、最後の「そしてプールの底に、足が着いた。」は、詩を強制終了したのか、あるいは、予定調和的な散文の様相をしているようにもみえて、やや疑問であります。

芭蕉の【あら海や佐渡に横たふ天の川】と同じ構成で詩を書いている。

◆夏休み、高校受験に向けての夏期講習が教室で行われる中、ひとり抜け出して、プールに忍び込む。
そのような場面を想像しました。秀逸な「Cl」の発想で、物足りない、余地の多い作品が、拡散せずにきちんとまとまった、と感じました。
「足」が裸足か靴のままかとか、プールの底に引かれているラインとか、このプールの中に、もう少し何かがあっても良かったのではないか、と思いました。

>空が溶けて、水面に、降り注いだ。
は、一瞬、雨を表す定型かと思ったが、そうではないようで、私には何を書いているのか解らなかったが、(心象風景だろうか、)この坦々とした綴りの中で、面白くも感じた。

31.4839 : (あさ水を弾く)  田中智章 ('10/11/19 22:26:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101119_238_4839p

◆この詩を読んでいると、既成の日常的言語を、一度、ばらばらにして解体して、バラバラな破片を、もう一度、再構築した異化が行われているようです。
決して、日常的言語の入る隙間を与えることなく、僕らに、「登録」されていない言葉が、差異を含むむき出しの顔を露出しているようです。

書かれた言葉は、自らのむき出しの顔を、遠近法的な調和へとは、決して結ばずに、テクストのなかで、間断なく露出し続けて、詩的言語の会話をやめようとはしない、ということでしょうか。
僕は、このテクストの露出面に限りなく近接して、感覚で読む以外にないのですが、ただ、この詩は、ばらばらと解体しているといいましたが、もう少し、突き詰めれば、少し違うとおもわれます。
「て」「に」「を」「は」等という助詞の使い方が、言語規範に乗っ取って、正確に使われているのです。短歌や俳句の世界では、この助詞の部分は、まさに生命線にあたる部分であるのですが、それは、現代詩にも当てはまるのであって、言語の解体をぎりぎりで防いでいると思われます。
だから、違和感を持ちつつ、普通に読むことが可能なのです。
ということは、詩の骨組み(助詞の部分)は、日常的言語的な体系に依拠しつつ、名詞、動詞、形容詞等が、遠近法的な完結を拒否しているのでしょう。
その難解さは、散文的な合理性の世界の、詩における違反を提示していて、
詩に携わる人は、とても、魅力的な行為であると思います。

◆今回は優良に推したいものが少なく、迷いましたが、僕としては、田中智章さんの作品がいちばん良いと思いました。この作品は、一見、あいまいで意味を結ばない言葉の連なりなのですが、実際には最も曖昧さを排して、明晰な意識で書かれていると感じます。
この作品に比べると、他の多くの作品たちは、詩の「わからなさ」に寄り掛かることによって「意味ありげ」な外観を辛うじて保っているだけに思えてきます。

14.4844 : ある徘徊譚  リンネ ('10/11/20 23:58:09 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_266_4844p

◆「夢を見ているのかもしれない」
夢ではないのだ、などの言及はないほうが広がりが出ると思う。

◆リンネさんの詩の特徴は、「詩全体が、比喩をつくっている詩」いわゆる、テクスト=比喩、または、全体喩ということが言えると思うのですが、その良さは、読後感であり、何を言わんとしているかという説明的なこと以前に、詩がざわめくような謎めいた幻想性でしょうか。

この詩では、夢のような、謎めいている幻想性は保たれていますが、詩の内容の構成も間延びしていて、散漫であると思われます。
会話の部分も、詩の「会話」として特に言葉から開かれている特徴は見えず、ぎりぎり散文詩の形を保っているという状況でしょうか。
この詩は、友人Aと自分の距離、その距離感に焦点を当てて詩を書いているように思われます。
決して、友人Aと自分はたどり着けないのでしょうか。その永遠性。カフカの「城」を想起するところがあります。とても、似ていますね。

また、リンネさんは、もうひとりの自分のあり方をよくコメントで言っているのですが、それがテーマのひとつでしょうが、そちらのほうは、匿名のような友人Aは、たぶん、もうひとりの自分であると推測もできて、それは、古典的な、弁証法的な「私」を止揚したもうひとりの「私」なのか、あるいは、よく存在論で問題になる、ものを認識する、あるいは意志の主体としての「私」以外に、先行するように存在として反復あるいは差異を生みながら他者と関わり続けるもう一人の「私」なのか、認識・意志の主体の「私」は、第一原因でないので、もう一人の「私」を常に知っているわけではないし、この詩のように、普段知らないというか、何か起こる喚起として、その存在として現れるのですね。

あるいは、「事物言語」のように、本来的に、ここに、なにか「もの」があって、名前がついていない分からないものの存在という考え方もあります。先行してあるもの、ある時、「もの」のほうから、挑発的に語りだして、それに、名前を付ければ、初めて「人間言語」になるという考え方。

「話しながら歩いていたら、いつのまにか大きな駅の前にきている。近くにとても大きな路線図の看板が掲示されていて、とりあえず自分が今どこにいるのかを確認してみる。東京だということはわかるが、位置がはっきりしない。どこに書いてあるのだろうか、駅名が見つからないのである。何度も線路を目で追っていくが、何回目かで、そもそもこの駅の名前がわからないということに気がついて驚いた。しかし、友人のAはすでにここがどこかわかっているようで、」

また、幻想的な詩を、好んで書いているということでは、
入沢康夫が、「わが出雲わが鎮魂」以降に現れている、もう一人の「私」も想起できる、田野倉康一らが言っている、単性生殖的な、分身という、分裂した自己というものも見えてくる、とにかく、色々と以前から、考えさせられる作者なので、色々と、考えてみたくなりますが、僕が、きちんと読めていないので、外れているでしょう。

多分、リンネさんが今まで教養として、蓄積したものが、無自覚的に表れているのかもしれません。
ただ、リンネさんの詩は、そういう、いろいろな考え方が、混ざり合わされているような事柄に色々と読めてくる。詩に可能性が感じるのです。そんな風に、思うのです。
ですから、そういう色々なことが含まれている詩であり、そういう色々なざわめきのようなものが、聞こえてくるのですね。

◆挟み込まれる会話文が、希薄であり、また、地の文が説明的に過ぎて、形式的にはバランスが取れているのだが、予定調和とも言え、全体は冗長に感じられる。
「夢」という自己言及、それに対する(根拠の弱い)否定も、読み手に何かを突きつけるような強さは無い、と私には感じられた。
制服を着た人たちの反応から、話者は幽霊の類ではないか、とも読める。
友人との約束が、話者をくり返しの中に縛り付けている。というような。

2.4847 : みずのながれ  早奈朗 ('10/11/22 00:55:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101122_294_4847p

◆4年前なら、もう少し良い位置に立てたかもしれない。流れる中に異物を意図的に、もっと混入しても良いと思う。
わかりやすい良さを持った古い作品に思える。

◆言葉の大音響。長文であるが、最後まで、詩の強度が保たれている。
修辞技法の多用が、目立っているが、その巧みさのために、逆に引き込まれていく、美しい詩を読んだ。
水の流れと、言葉と文字とその記述の二重性を、読みだすことが出来るようです。

◆万能感と焦燥感を感じる。
息するように、言葉を綴り続ける、ということ。何かを語るというより、語り続けることそのものへの焦燥感。
「ひろがる」の連、中盤から後半手前の「それ」「そして」の多用は、とにかく前進せんとしていて、物語的な文章へ流れ「こんな物語のあとで地球がばくはつする。」「そして麺をすすり地球をなつかしむ。」、の辺りは特に、後の回収もうまくいかず、全体の中で停滞を生んでいるように思う。
他にも、「製鉄になれ」など、浮いているところはあるように思う。

しかし、この作品の流れは心地良い。
ある程度分量があることで、停滞や奔放さが、良くも悪くも流れにのまれ、また、期待感をあおり、飽きさせないようにする効果も生んでいる。

>ひろがりの沃地はいつも泥にうずめられているから、
>記述することばは、くちてゆき、しかし洗いながされない。泥のなかから、たまっていく。この対応は決まっていて、面白かった。
今後の作品が楽しみです。

23.4850 : 恋唄五つ  鈴屋 ('10/11/23 12:53:01 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101123_329_4850

◆とても、丁寧に書かれていて好感のもてる詩です。

>とてもたいくつ
>とても大切なたいくつ
>あと1時間
>明日一日
>それから一週間、それから一年
>それから先もつづくはずの
>大切なたいくつ
この部分は、「荒地」戦後詩的に述べてみれば、これは、今の時代状況を、よく現していると思われる表現です。とでも言えます。
この部分は、とても気に入っています

◆都会の恋人たちのスタンダードナンバー、という感じです。
読んで、良し悪しでは無く、安心しました。
4つ目の「なぜ」は、前連の補足のようで、不穏さを強めすぎていて浮いていると感じました。
5つ目は、

>わたしから離れて
>今あなたは水辺にたどりついた
が、それ以降より強いので、うまくおさまっていないと感じました。

17.4862 : 林檎のある浴室  リンネ ('10/11/29 18:39:20 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101129_418_4862p

◆とても、不思議な詩である。解読が難しく、それがさらに謎めいていて、魅力的である。
エロティシズムを感じさせているところも味わいがある。

◆「浴室」=「欲室」。そんなことが頭をよぎった。
女の顔が見えなくなり、思い出せなくなり、あるいは、林檎に触れない。
話者が望めば、「湯気」に「波」に阻まれ、必ず達成されない。
あげく、(林檎を鏡として、)女の顔を覗くことも、話者自身によってさえぎられてしまう。

欲望の対象が、女から林檎へと移る。狭い浴室の湯船の中で、自足の快楽を見出した男を、「私はそれに気づかない」と、一つ高い、突き放した視点で描いている。 「彼」でなく「私」としたことで、少し自嘲を帯びている。そのように読めた。

1行目「それにもかかわらず、」など、削ったほうが、つかみとして、冗長にならないのではないかと思った。
また、「その様子がどうもおかしい。」、「これはいったい、どういうことだろう!」など、作者は作中の話者に憑依するように書いているのかもしれないが、自作自演を見る興醒め感が、私にはあった。

意図的かは解らないが、「ふんふんと」「ぬっくりと」「かしゃかしゃと」といった軽くひねりが感じられる語は、面白かった。
「まるでイカのように」といった言葉は活きていないが、馬鹿馬鹿しく感じられて、面白くはあった。
また、「トマラナイ。トマラナイ。」は、制御不能さを表していて、このカタカナ使用は、はまっていると感じた。

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