文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

2010-12-25 (土) 11:53 by gfds

「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

11月は相対的に作品のレベルが高かった。そう評した発起人が数名いましたが、逆にぼくはもう「現代詩」は三途の川を無事渡り終えたのではあるまいか?そういう印象を強く抱きました。今月の選評・及び雑感は主に泉が担当しています。
(by織田)

【優良作品】

38.4824 : pool  益子 ('10/11/13 12:06:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101113_161_4824p

◆一連目の、言葉の運び、言語感覚、リズム、見事だと思う。
プールと空の二重性、その展開。 二連目の 「ぼくの、足が、水面に、空に、沈んで、水面と、空に。」 何気ない書き方だけど、「ぼくの足」が、鮮やかに「水面と、空に。」引き裂けられている。
詩でしか味わえない世界が、言葉をリフレインして、「に」を「と」に変えただけでできている。

三連目、語り手の視点が、一気にプールから空にいく。(がそれが空かどうか)その展開も上手であるが、この辺にくると、その展開で、グラグラと眩暈が起きそうな言葉の揺らぎがある。

唯一点、最後の「そしてプールの底に、足が着いた。」は、詩を強制終了したのか、あるいは、予定調和的な散文の様相をしているようにもみえて、やや疑問であります。

芭蕉の【あら海や佐渡に横たふ天の川】と同じ構成で詩を書いている。

◆夏休み、高校受験に向けての夏期講習が教室で行われる中、ひとり抜け出して、プールに忍び込む。
そのような場面を想像しました。秀逸な「Cl」の発想で、物足りない、余地の多い作品が、拡散せずにきちんとまとまった、と感じました。
「足」が裸足か靴のままかとか、プールの底に引かれているラインとか、このプールの中に、もう少し何かがあっても良かったのではないか、と思いました。

>空が溶けて、水面に、降り注いだ。
は、一瞬、雨を表す定型かと思ったが、そうではないようで、私には何を書いているのか解らなかったが、(心象風景だろうか、)この坦々とした綴りの中で、面白くも感じた。

31.4839 : (あさ水を弾く)  田中智章 ('10/11/19 22:26:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101119_238_4839p

◆この詩を読んでいると、既成の日常的言語を、一度、ばらばらにして解体して、バラバラな破片を、もう一度、再構築した異化が行われているようです。
決して、日常的言語の入る隙間を与えることなく、僕らに、「登録」されていない言葉が、差異を含むむき出しの顔を露出しているようです。

書かれた言葉は、自らのむき出しの顔を、遠近法的な調和へとは、決して結ばずに、テクストのなかで、間断なく露出し続けて、詩的言語の会話をやめようとはしない、ということでしょうか。
僕は、このテクストの露出面に限りなく近接して、感覚で読む以外にないのですが、ただ、この詩は、ばらばらと解体しているといいましたが、もう少し、突き詰めれば、少し違うとおもわれます。
「て」「に」「を」「は」等という助詞の使い方が、言語規範に乗っ取って、正確に使われているのです。短歌や俳句の世界では、この助詞の部分は、まさに生命線にあたる部分であるのですが、それは、現代詩にも当てはまるのであって、言語の解体をぎりぎりで防いでいると思われます。
だから、違和感を持ちつつ、普通に読むことが可能なのです。
ということは、詩の骨組み(助詞の部分)は、日常的言語的な体系に依拠しつつ、名詞、動詞、形容詞等が、遠近法的な完結を拒否しているのでしょう。
その難解さは、散文的な合理性の世界の、詩における違反を提示していて、
詩に携わる人は、とても、魅力的な行為であると思います。

◆今回は優良に推したいものが少なく、迷いましたが、僕としては、田中智章さんの作品がいちばん良いと思いました。この作品は、一見、あいまいで意味を結ばない言葉の連なりなのですが、実際には最も曖昧さを排して、明晰な意識で書かれていると感じます。
この作品に比べると、他の多くの作品たちは、詩の「わからなさ」に寄り掛かることによって「意味ありげ」な外観を辛うじて保っているだけに思えてきます。

14.4844 : ある徘徊譚  リンネ ('10/11/20 23:58:09 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_266_4844p

◆「夢を見ているのかもしれない」
夢ではないのだ、などの言及はないほうが広がりが出ると思う。

◆リンネさんの詩の特徴は、「詩全体が、比喩をつくっている詩」いわゆる、テクスト=比喩、または、全体喩ということが言えると思うのですが、その良さは、読後感であり、何を言わんとしているかという説明的なこと以前に、詩がざわめくような謎めいた幻想性でしょうか。

この詩では、夢のような、謎めいている幻想性は保たれていますが、詩の内容の構成も間延びしていて、散漫であると思われます。
会話の部分も、詩の「会話」として特に言葉から開かれている特徴は見えず、ぎりぎり散文詩の形を保っているという状況でしょうか。
この詩は、友人Aと自分の距離、その距離感に焦点を当てて詩を書いているように思われます。
決して、友人Aと自分はたどり着けないのでしょうか。その永遠性。カフカの「城」を想起するところがあります。とても、似ていますね。

また、リンネさんは、もうひとりの自分のあり方をよくコメントで言っているのですが、それがテーマのひとつでしょうが、そちらのほうは、匿名のような友人Aは、たぶん、もうひとりの自分であると推測もできて、それは、古典的な、弁証法的な「私」を止揚したもうひとりの「私」なのか、あるいは、よく存在論で問題になる、ものを認識する、あるいは意志の主体としての「私」以外に、先行するように存在として反復あるいは差異を生みながら他者と関わり続けるもう一人の「私」なのか、認識・意志の主体の「私」は、第一原因でないので、もう一人の「私」を常に知っているわけではないし、この詩のように、普段知らないというか、何か起こる喚起として、その存在として現れるのですね。

あるいは、「事物言語」のように、本来的に、ここに、なにか「もの」があって、名前がついていない分からないものの存在という考え方もあります。先行してあるもの、ある時、「もの」のほうから、挑発的に語りだして、それに、名前を付ければ、初めて「人間言語」になるという考え方。

「話しながら歩いていたら、いつのまにか大きな駅の前にきている。近くにとても大きな路線図の看板が掲示されていて、とりあえず自分が今どこにいるのかを確認してみる。東京だということはわかるが、位置がはっきりしない。どこに書いてあるのだろうか、駅名が見つからないのである。何度も線路を目で追っていくが、何回目かで、そもそもこの駅の名前がわからないということに気がついて驚いた。しかし、友人のAはすでにここがどこかわかっているようで、」

また、幻想的な詩を、好んで書いているということでは、
入沢康夫が、「わが出雲わが鎮魂」以降に現れている、もう一人の「私」も想起できる、田野倉康一らが言っている、単性生殖的な、分身という、分裂した自己というものも見えてくる、とにかく、色々と以前から、考えさせられる作者なので、色々と、考えてみたくなりますが、僕が、きちんと読めていないので、外れているでしょう。

多分、リンネさんが今まで教養として、蓄積したものが、無自覚的に表れているのかもしれません。
ただ、リンネさんの詩は、そういう、いろいろな考え方が、混ざり合わされているような事柄に色々と読めてくる。詩に可能性が感じるのです。そんな風に、思うのです。
ですから、そういう色々なことが含まれている詩であり、そういう色々なざわめきのようなものが、聞こえてくるのですね。

◆挟み込まれる会話文が、希薄であり、また、地の文が説明的に過ぎて、形式的にはバランスが取れているのだが、予定調和とも言え、全体は冗長に感じられる。
「夢」という自己言及、それに対する(根拠の弱い)否定も、読み手に何かを突きつけるような強さは無い、と私には感じられた。
制服を着た人たちの反応から、話者は幽霊の類ではないか、とも読める。
友人との約束が、話者をくり返しの中に縛り付けている。というような。

2.4847 : みずのながれ  早奈朗 ('10/11/22 00:55:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101122_294_4847p

◆4年前なら、もう少し良い位置に立てたかもしれない。流れる中に異物を意図的に、もっと混入しても良いと思う。
わかりやすい良さを持った古い作品に思える。

◆言葉の大音響。長文であるが、最後まで、詩の強度が保たれている。
修辞技法の多用が、目立っているが、その巧みさのために、逆に引き込まれていく、美しい詩を読んだ。
水の流れと、言葉と文字とその記述の二重性を、読みだすことが出来るようです。

◆万能感と焦燥感を感じる。
息するように、言葉を綴り続ける、ということ。何かを語るというより、語り続けることそのものへの焦燥感。
「ひろがる」の連、中盤から後半手前の「それ」「そして」の多用は、とにかく前進せんとしていて、物語的な文章へ流れ「こんな物語のあとで地球がばくはつする。」「そして麺をすすり地球をなつかしむ。」、の辺りは特に、後の回収もうまくいかず、全体の中で停滞を生んでいるように思う。
他にも、「製鉄になれ」など、浮いているところはあるように思う。

しかし、この作品の流れは心地良い。
ある程度分量があることで、停滞や奔放さが、良くも悪くも流れにのまれ、また、期待感をあおり、飽きさせないようにする効果も生んでいる。

>ひろがりの沃地はいつも泥にうずめられているから、
>記述することばは、くちてゆき、しかし洗いながされない。泥のなかから、たまっていく。この対応は決まっていて、面白かった。
今後の作品が楽しみです。

23.4850 : 恋唄五つ  鈴屋 ('10/11/23 12:53:01 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101123_329_4850

◆とても、丁寧に書かれていて好感のもてる詩です。

>とてもたいくつ
>とても大切なたいくつ
>あと1時間
>明日一日
>それから一週間、それから一年
>それから先もつづくはずの
>大切なたいくつ
この部分は、「荒地」戦後詩的に述べてみれば、これは、今の時代状況を、よく現していると思われる表現です。とでも言えます。
この部分は、とても気に入っています

◆都会の恋人たちのスタンダードナンバー、という感じです。
読んで、良し悪しでは無く、安心しました。
4つ目の「なぜ」は、前連の補足のようで、不穏さを強めすぎていて浮いていると感じました。
5つ目は、

>わたしから離れて
>今あなたは水辺にたどりついた
が、それ以降より強いので、うまくおさまっていないと感じました。

17.4862 : 林檎のある浴室  リンネ ('10/11/29 18:39:20 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101129_418_4862p

◆とても、不思議な詩である。解読が難しく、それがさらに謎めいていて、魅力的である。
エロティシズムを感じさせているところも味わいがある。

◆「浴室」=「欲室」。そんなことが頭をよぎった。
女の顔が見えなくなり、思い出せなくなり、あるいは、林檎に触れない。
話者が望めば、「湯気」に「波」に阻まれ、必ず達成されない。
あげく、(林檎を鏡として、)女の顔を覗くことも、話者自身によってさえぎられてしまう。

欲望の対象が、女から林檎へと移る。狭い浴室の湯船の中で、自足の快楽を見出した男を、「私はそれに気づかない」と、一つ高い、突き放した視点で描いている。 「彼」でなく「私」としたことで、少し自嘲を帯びている。そのように読めた。

1行目「それにもかかわらず、」など、削ったほうが、つかみとして、冗長にならないのではないかと思った。
また、「その様子がどうもおかしい。」、「これはいったい、どういうことだろう!」など、作者は作中の話者に憑依するように書いているのかもしれないが、自作自演を見る興醒め感が、私にはあった。

意図的かは解らないが、「ふんふんと」「ぬっくりと」「かしゃかしゃと」といった軽くひねりが感じられる語は、面白かった。
「まるでイカのように」といった言葉は活きていないが、馬鹿馬鹿しく感じられて、面白くはあった。
また、「トマラナイ。トマラナイ。」は、制御不能さを表していて、このカタカナ使用は、はまっていると感じた。

Posted in 月間選考 | Print | URL

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