文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

文学極道No.2のNo.2(阿部嘉昭)

2009-10-12 (月) 17:29 by 文学極道スタッフ

「文学極道No.2」のつづき――。
08年度分から秀作詩篇を選んでゆく。

【悪書】
りす

目が悪くて ちょうどそのあたりが読めない
世田谷区、そのあたりが読めない
悪書でお尻を突き出している女の子の
世田谷区、そのあたりが読めない
もはや 言葉の範疇ではない
もはや ストッキングが伝線している
伝線を辿ると たぶん調布なのだ
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
ストッキングを被ったような詩ですね
と書いてしまい アクセス拒否をされたのは
世田谷区、ちょうどそのあたりだと思うのだ

眼球が腰のくびれに慣れてしまい
女を見れば全て地図だと思い
上海、そこは上海であると決めつけ
あなたの上海は美しいですね、と褒めておくと
行ったこともない癖に、と怒られた
この場合の「癖に」は、逆算すると
北京、だろうか
やはり 言葉の範疇ではない
やはり 世田谷区はセクハラしている
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
かわりに読んでもらおうとしたら
上海は書く係で 北京は消す係で
読む係はいないのだと教えられ
どうしても読んでほしければ
世田谷区、そのあたりで読んでもらえると
悪書を一冊渡された

〔全篇〕

前回の「モモンガの帰郷のために」につづき
またも、りすの詩篇をピックアップした。

理路の崩壊。不機嫌と事件性だけが伝わってくるようだが、
この不機嫌が感情レベルにとどまらず
論理性の不機嫌だという点に注意する必要があるだろう。

前回、放置した問題。「この作者の性別は?」
勘では♀という結論を出しているが定かではない。

ネット詩の作者名はハンドルネームで書かれることが多い。
詩壇詩でも「久谷雉」「小笠原鳥類」「水無田気流」などと
性別を超越した筆名が一時期、席捲したが、
ネット詩にこの傾向がさらにつよいのはとうぜんだろう。
詩作とは変身の欲求であり、そこでは匿名性が前提される。

たとえば女性詩が性差記号にもたれかかって
自己愛的に書かれることが即、性別擁護にまですりかわるという
夜郎自大にいたる危惧をもつとすると、
性差を超越しているネット詩では
その自己愛記号も作者の背景の分野ではなく
発語に自体的にともなうものとなる変転が起こっている。
こういうことは根本的に、
「頓珍漢」の心中を見透かすようだが、不安なのだ。

地域属性と人格属性との暴力的な付着、
という、とりあえずの着想がこの詩篇にみえる。
このような詩篇では【大意】は恣意生産されてゆく。
そのさいその恣意を色づけしてくるのが詩篇の呼吸の気分。
あとは「AはBである」という「断言」が
同時にたえず「寓喩」となるという確信があればこの詩が読める。
乱暴が勝ち、そこにこそ口調の面白さも追随するというのが
ネット詩を面白がるときみえてくる眺めの質でもある。

【大意】
世田谷区(♀)は悪書=エロ本のグラビアで
挑発的に突き出される尻として指標される。
駒澤大学も成城大学もある世田谷区には
そんな尻が欺瞞的にあふれかえり、
まさにバックスタイルで犯される直前なのだが、
女子大生にして装着されているOL風ストッキングには
もう脱力的な伝線も起こっていて、
その伝線的なものが調布を指標するのでじつは犯すに値しない。
それは白百合女子大の領域だ。

なんておもって、その指摘を上半身下半身逆倒させてまでおこなって
わたしは記号のこの地上性からアクセス拒否され、愛も拒否された。
世田谷区、嫌いだ。気取ってるしマダム多いし。
おまえのエロさが、すでにセクハラだい。

いずれにせよ、女はくびれをもった猥褻な「分節」なので
(つげ義春「ヤナギ屋主人」冒頭参照)、地名が似合い、
女の集合自体もそのまま地名分布されてゆく。
記号性はこのような熾烈さをもっているが
それは記号性がそれ自体、もう悪書となっているためだ。

ところで女に戴冠させる地名性は相互対立的な局面までいたるか。
上海/北京――記載/消去の、
なさぬ二対を考えてみる必要があるのはここだろう。
記載=上海=くびれ=女は、自同律としてうつくしい。

けれど書いてわかる、消してわかる、上海とは北京じゃないか。
記載/消去の運動は自動生起して、
そのかん誰も成行きを読まないのだから当然そうなる。

だから世田谷なんぞも悪書まるごと
女としてこちょこちょしちゃえばいいのだ。
そうやって悪書をもらっちまった。

ああ目が悪くてすんません。記号の論脈を読めるのはこの程度まで。
でもじつはわたし、目が悪いんじゃなくて、
本当は「目つきが悪い」んだよね。

(※こういう詩篇では【大意】の提示が分量的に本編をまさって
真の読解が完了するといえるだろう)

【アゲハのジャム】
浅井康浩

どんなによわよわしくたって、見つめられているというこ
との、その不思議な感触だけがのこされていた。あなたはね
むりに沈みこんでゆくけれど、塩のように、わたしとの記憶
を煮つめてきたのだから、そっと、さらさらとしたたってゆ
くものが、とめどないほどに、みえてしまったとしても、わ
たしはもう、どうしようもないのでしょう。だから、そう、
あなたのからだが朽ちてゆくのを待っているのだとしても、
わたしとの思い出がほつれてしまうおとずれを、まつげをふ
るえさせるかすかなしぐさとして、あなたはそっと、わたし
にだけおしえてくれる。そうして、ともに、あなたから溢れ
だす、しょっぱい記憶の海のなかへ、はからずも息をするこ
とができてはじめて、わたしたちはこれから、どこへもたど
りつくことなく、ながされてゆくことができるのでしょう。

たとえば、わたしがとしをとって、そっと、いまのわたしを
ふりかえれば、ここは、たどりつけない場所になっていて、
もういないあなたのそばで透きとおる、記憶のなかのわたし
に溶けあう手はずをととのえている、そのようなおさないわ
たしが、みえてくるのでしょう。思い出は、そっと霧のよう
に降りそそいで、やさしく、時間のながれをゆるめてくれる
から、ときには意味もなく、隣でカタコト揺れながら、ほこ
りをかぶったままの空き瓶となって、あくびもし、えいえん
に、詰められることのないジャムの、あわいラベルを貼られ
たりもする。そうやってすごすひとときが、しずかに夏のお
わりをつげて

〔全五個聯中、第一聯・第四聯を転記〕

サイト「文学極道」をひらきだした初期のころ
もっともびっくりしたのが浅井康浩の一連の散文詩だった。
三省堂から出た小池昌代/林浩平/吉田文憲編『生きのびろ、ことば』に
僕はネット詩の現状分析の稿を書いているのだけれども、
うち「文学極道」の箇所で引用したのも、

《あした、チェンバロを野にかえそうかなとおもっています。なんというか、場所ではないような気がします。野にかえすこと、それだけがたいせつな意味をもつようにと、そうおもっています〔…〕》

という書き出しの、浅井「No Title」だった。

「ですます」調で、ひらがなの多用されるその文は
手紙文やメモともまごう装いをもち
メッセージ性=意思伝達性が一見高いようにおもえるけれども、
内実は宛先の明瞭でない「独白体」で、
かつ、文の進展に重複があればその箇所が淡くなり、
飛躍があればその箇所が軽くなるなど
内部に翻転してくるような不定形性・やわらかさがある。
この語調の抒情性そのものに読者が拉し去られてしまう。

いずれにせよ、独自文体をもつ、手だれの書き手だ。
『文学極道No.2』巻末の掲載者プロフィールをみると大阪在住の80年生、
名前からすれば当然♂だが、ここでの「わたし」の記載のやわらかさは
そういった性別判定価値を一切、無効にしてしまう。
じっさい浅井の詩では主体・対象に性徴が生じず魂の様態だけが漂う。

浅井の言葉はその内心にむけ語られる。
言葉は意味ではなく木霊であればいいから
響きの弾力性を阻害する漢語も忌避される。
そして一人の内心で響く語群は
それが「一人の」という限定辞が精確なかぎりにおいて
「万人の」という非限定辞へと反転してゆく。

掲出、「アゲハのジャム」は愛をふくんだ生活をともにした
「あなた」への「わたし」の述懐を言葉にしたもので、
どこにも別れの言葉は書かれていないが、
別れの決意が全体に瀰漫しているとおもわせる詩篇だ。
そうなって重要性を帯びる概念が当然「記憶」となる。

掲出した一聯には一瞬こんな図式が成立する。

「あなた」の寝姿=「わたし」の記憶が海水であったとして
それはもはや塩の結晶=
あなたの寝姿はそれと等価となり塩としてさらさら流れてゆく
=しかしそれは消えたとしても塩であるかぎり不朽だろう
=ねむる「あなた」とそれをみる「わたし」は
そんな相互斥力のなかにもいる

斥力であるかぎり、「わたし」と「あなた」は、その間柄は、
《どこまでも透きとおってゆくのをやめなかった》(第三聯)。
そうなって記憶はすべて回顧調の色彩に置かれ、儚い。
それはありえないものにすら似る――たとえば塩ではなく
色彩を抽出するために煮詰めてつくるアゲハ蝶のジャムに。

ジャム瓶は夏の終わり、テーブルのうえの木立となっている。
それは夏ばかりでなく記憶の終焉を示すための木立。
しかもアゲハ蝶を煮詰めた色は時の褪色によってさらにみえない。
現実的には瓶が埃をかぶって不透明化しているだけなのだが。

ともあれ、それが記憶の位置だ。それは手に取れるが見えない。
回顧の語を詩篇から考えれば
「アゲハ」と連動し、「回顧」は「蚕」となる。
それで記憶は繭状のものに変ずるが、それが誰にとってもみえないのだ。
感知されるもの、感知域が感知されているとだけ感知されるもの、
本当は、記憶もそんなものにすぎない。

用語と形成文脈の微妙、現れてくる細心の中性性の水準。
しかもそれが虚無と戯れるメッセージでもあること。
そういうエレガンス。
このような浅井詩の特質にたいし
詩壇詩でそれにいま対応しているのは杉本徹の詩だと僕はおもう。

ところが浅井の詩のほうが揮発性、蕩尽性が高い。
ひとえにそれは、彼の詩が散文体によって書かれるためだ。
散文体は転記の拒否であり、流通の拒否だ。
それは一回性の読みのなかだけで、
パソコン画面では読みにくさすらともなってとおりすぎる。

ただしそれはもうひとつの可能性ももつ。
詩のサイトのなかでコピペされ印字されて
浅井のあずかり知らぬ者たちの手許に
静かに置かれる可能性だってあるのだった。
浅井の詩篇がしめす潜勢はその圏域にある言葉の透明性で、
その透明性を人は水性か火性か判別することがじつはできない。

【SPRINGTIME】
軽谷佑子

わたしの胸は平らにならされ
転がっていく気などないと言った
そしてなにもわからなくなった
柳がさらさら揺れた

井の頭の夏はとてもきれい
友だちも皆きれい
わたしは黙って自転車をひく
天国はここまで

暗い部屋で
化粧の崩れをなおしている
服を脱いで
腕や脚を確かめている

電車はすばらしい速さですすみ
わたしの足下を揺らし
窓の向こうの景色は
すべて覚えていなくてはいけない

除草剤の野原がひろがり
枯れ落ちた草の茎を
ひたすら噛みしめている
夢をみた

そしてわたしはかれと
バスキンロビンスを食べにいく
わたしは素直に制服を着ている
風ですこしだけ襟がもちあがる

〔全篇〕

前回「花風」につづき軽谷佑子の詩篇転載。
女子高生かのだれかの、春の午後の、
日常的な恋愛(性愛)進展が
抑制された筆致で素描されている。
時間進展が聯によってたくみに飛躍していて、
この詩法は僕の大好きな西中行久さんのものとも共通する。

三角みづ紀という、いかにもネット詩的な才能を発見してから
三角にその傾向(自傷傾向)の詩篇を独占させるかわりに、
詩壇は井坂洋子から杉本真維子などまで、
厳しい詩風の才能が女性に開花するのを見守ってきた。

それで現在、意外な陥没地帯になっているのが
かつて「ラ・メール」が称賛したような
普通の感性の女性詩ではないだろうか。
この分野はじつは詩の応募サイトでは着実に歓迎されていて、
それを代表するのがたとえばこの軽谷「SPRINGTIME」だ。

冒頭、胸の「平ら」に作者の身体個別性あるいは世代の刻印がある。
「わたし」は乱交傾斜ではない。自己保持欲求はある。
それでも春の日差し、若い緑のゆれる井の頭公園で、
同世代の男女とは集団デートをした。

わたしだけが近いので自転車で集合場所に行った。
ふわふわした語り合い、池からの水明かり。
そこでわたしはひとりから求愛をうける。

こうして生じた瞬間的な愛によって
わたしの、相手の躯は蔑ろにされた。
それでもそれはたがいをもとめ世界の橋のように伸びた。
その相手の下宿は井の頭線に近く、電車通行のたびに揺れた。
暗い部屋だった。そう、意味合いとしてはラブホだった。

二聯冒頭《井の頭の夏はとてもきれい》の
直叙の清々しさ、感情吐露に泣けてしまう。
《天国はここまで》という単純きわまる措辞の
世界を切り開いてゆくような心情と空間の描写。

三聯《服を脱いで/腕や脚を確かめている》。
性愛の質もこの簡単な措辞で如実にわかる。
所有格人称を省かれた「腕」「脚」は相手のものではなく
「わたし」のものだと僕は読んだ。「わたし」はまぐろで、
性愛行為中、自分の腕と脚の所在に神経を通わせていた。
そうして自分の反応、可能性を計測しようとしていた。
なぜなら「わたし」はそういう営為にまだ慣れていなかったから。

それは「わたし」の決定的な日だった。だから
《窓の向こうの景色は/すべて覚えていなくてはいけない》、
そう考えようともした。

肝腎なのは「わたし」の落花は春の季節と同調し、
ひかりのなかでこそ起こった、という点だ。
春だった。初夏のように暑い四月の終わりだったけれども。

その日は夕方になって落ち着いた。彼と簡単な外食にゆく。
世界が暮色に傾いて、わたしはかれとも世界とも馴染んでゆく。
《わたしは素直に制服を着ている》中、「素直に」の素晴らしさ。
世界にたいする気負がなく、
もうわたしはわたしとして許容されている。
それを世界が祝福する。それで最後の一行、
《風ですこしだけ襟がもちあがる》が来る。

とうぜん、詩篇がこのように書かれれば作者への忖度もはたらく。
詩篇は08年のものだが、
09年での作者の経歴を覗くと《1984年東京生まれ 事務員》。

よって詩篇が描きだしたのも現在のものとはおもわれない。
そう、作者の記憶のなかの出来事だろう。
注目したいのは作中を明示性なきままに覆っている光。
それはそのまま、僕が大学時代だった70年代末の光とも共通していた。

(2009年8月24日)

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月間優良作品のプログラム改良

2009-10-11 (日) 09:41 by Bungoku.JP

月間優良作品の出力用プログラムにおいて、携帯端末向けに表示の改善を行いました。
これまでは月毎の選出作品や作者別の選出作品の本文をまとめて表示させていましたが、携帯端末ではページのサイズが大きすぎて閲覧できないことも少なくなかったと思います。
そこで、上記の場合にはまず作品のリストのみが表示されるようにし、そこから各作品の本文を開いて読むことができるように改良しました。
ただし、年毎の選出作品一覧については、リスト自体が非常に大きくなるため、携帯端末では閲覧できないかもしれません。
なお、リストから個別の作品本文を表示する画面に移った後、一つ前の画面に戻るためのリンクは今のところ用意されていませんので、端末のボタン操作で戻ってください。

また、新たにラベルによる印付けを内部的に行い、月間優良作品の中でも特に選ばれた作品 (特選作品) を見つけやすく、まとめて読みやすくするための改良も加えました。
現在その特選作品として扱われるのは、年間最優秀作品賞の受賞作および次点の作品のみですが、近日中には文学極道の書籍に収載された作品もデータに反映させる予定です。
しばらくの間、表示が変わったり一時的に不安定になったりする可能性もありますが、どうかご了承ください。

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2009年8月選考雑感

2009-10-03 (土) 11:13 by a-hirakawa

今月も勉強になりました。
ありがとうございました。

今月は、

3684 : 夏にうまれる  ひろかわ文緒 ('09/08/04 12:23:34 *2) 

3712 : 桃  鈴屋 ('09/08/13 17:54:04)

3698 : SUMMERHEAT  軽谷佑子 ('09/08/08 14:39:09)

3720 : Brownbear(暮らし)  ひろかわ文緒 ('09/08/15 14:53:33)

以上、4作品が月間優良作品に選出されました。

3684 : 夏にうまれる  ひろかわ文緒 ('09/08/04 12:23:34 *2) 
とても素直な作品、だからこその体温がある、という意見がありました。 「Brownbear(暮らし)」と比べても読み手の視点の制御が上手く行ってると感じる作品だ、という意見もありました。透過していくのは読み手である自分の心のようだ、しかし、「まきあがる真砂に」の連は、ぐっと濃く入ったところで少しだけ息苦しかった、もう少しスマートに書いてもいいのでは、という意見もありました。やや纏まりには欠けるが、たどたどしい筆運びとは逆に柔らかな詩情が揺れる作品だ、丁寧に書こうとする意識や姿勢もいつもよりは感じる、夏向きな開き具合も悪くない、多くの書き手が大衆に背を向けがちな時代にあって読み手に寄り添おうとする貴重な作品であり、読み手に受け入れられる作品だと確信する、という意見もありました。

3712 : 桃  鈴屋 ('09/08/13 17:54:04)
相変わらずのレベルで過渡期も入っている、乱れが緊張と濃縮を目立たせて良質に仕上がっている、という意見がありました。桃は単純すぎるだけに試される、部分的にも勝っている部位がある時点で見事と言いたい、という意見もありました。読んで得する作品だ、五感を巧く刺激しながら、無理なく、肩こりもなく読め、後味の残し方も良い、再読に再読を誘う、という意見もありました。作者は巧い、ただ、「動めいて」は「蠢いて」または「うごめいて」の方がノイズレスでスムーズな印象があり、「プテラノドン」云々は些かやり過ぎの痛さもあるように思う、向こう側と此方とのシンクロナイズの妙を、もう少し練れた感がある、という意見もありました。桃に対して、ただ甘いだけではないところの魅力にも深い着眼が欲しかった、という意見もありました。最後が安易とまではいかなくても、予測の範囲内であったので少し惜しまれる、しかしながら、とっちらかってはいるけれどもユニークな構成、手数を出し過ぎて崩れそうなテキストをなんとかまとめる手腕(無謀とも思える跳躍の連続の末に辿り着く無難な着地、等々)は、評価されて然るべきだ、という意見がありました。

3698 : SUMMERHEAT  軽谷佑子 ('09/08/08 14:39:09)
読めば読むほどに裏にある人間関係を推察させる力もあり、読み手の中で育っていく作品に思える、という意見がありました。過剰なものからは距離を置こうとする、しかし、外的なものと内的なものとの繋がりには殊更に敏感な、そのようなところから書かれているように感じる、よって、ありがちな仙人的諦念には向かわない、そこも良質、という意見もありました。「こびりついた詩句」は、「食べて」いるのではなく、恥ずかしいので懸命にしかしそれと悟られまいと「隠している」のではないか、とは思う、筆致は多少変わったけれども、フォーカスを絞りきることのない淡々とした筆による寒々とした心象に胸がチクチクする、例えば、いくら謝罪しても取り戻せないものがある、というのも裏テーマのワン・ノブのような気もする、という意見もありました。作者の作品群は「未完」の印象も少なからずあるが、それ以上に、忘れ難いものばかりだ、ただ消費されていくだけではない詩を書ける人であり、そうした書き手は両手に余る現況だ、という意見もありました。

3720 : Brownbear(暮らし)  ひろかわ文緒 ('09/08/15 14:53:33)
男性目線になると、どうも毛穴のようなものは遠ざかりますが、その分、詩情が剥き出しに立ってくる、最終連の構成へとつなぐためにもう一段階あっても良いのかな、と思ったけれども、たどり着きたくなるだけのものを持った作品に感じる、という意見がありました。この作品の情報の移ろい方は少々とまどう、けれども群を抜いて書けてるのは分かる、という意見もありました。絶賛しか思い浮かばない、という意見もありました。

さて、次点佳作作品について触れていこうと思います。

3739 : 護岸  bananamellow ('09/08/25 01:05:41)
この作品は評価が真っ二つに割れました。現代詩の爽やかさが立ちながら魅せるという立場と音接の立場の両義を未完成なままに成り立たせている、という意見がありました。評価はされそうだが、内実以前に外観があまりよろしくない、若い人には、まず読まれない痛い空気が満ちている、という意見もありました。何にも響いてこないけれども鉱物質の鋭利な美しさは評価したい、ただ、言葉が固すぎ、上手だとは言い切れない、という意見もありました。かなりの、相当な力があるのは伝わるけれども、この作品はあまり良いとは思えない、部分的にロマンチックな筆致サービスが、この作品の中では、逆にシラけてしまう位置にあり惜しい、「灯台守〜三通の封書」とか、確かにわかるけど、過ぎた使い方に感じる、という意見もありました。

3696 : はばたきのうた  ゆえづ ('09/08/07 22:57:21)
作品舞台がもう一つイメージできない描写の曖昧さが気になるけれどもシンプルで優しさに満ちたところが魅力的だ、という意見がありました。独特の言葉の流し方はとても良質、ただ、最後の二文で削ってしまっていることは否めない、という意見もありました。
 どんぐり あげるよ
に痛切な哀感がある、この作品に要らない部分はない、という意見もありました。ドキッとさせられる書き方、「さようならしかないのに なんでこんにちはしちゃうんだろう わたしたち」、使い回されたような言葉だけれども見事な言葉選び、という意見もありました。

3742 : 八十八夜語り ー 、ー  吉井 ('09/08/27 00:53:47 *2)
「れてて」以前に戻って作者は久しい、後退なのか、我が道を進んでいるのか、この作品だけでは力が不足しているように思えた、という意見がありました。セラミック、は安易だけれども、ラストの2行は良質、とても良い、という意見もありました。

3747 : つぐみ  森のめぐみ ('09/08/29 16:41:06)
面白いとは思う、今回読んだ作品の中では、それなりに印象に残った作品なので、全然ダメってわけでもないと思う、という意見がありました。もう一歩先に進めそうなまま留まっている印象だ、という意見もありました。一方で、非常に高い評価もありました。

3702 : 太陽の沈んで行く公園で、彼女は話続けている  ぱぱぱ・ららら ('09/08/10 02:57:44) 
上手い、行き来も見事、方向性としてきちんと成立している、吸引力がある強力な部が欲しいとも思う、という意見がありました。撰者の評価が割れる作者だけれども、この人の脱力具合がとても好きだ、脱力しているのに実存の切れ味があるのは作者ならではの文体だと思う、という意見もありました。

3736 : cosmos  凪葉 ('09/08/24 07:43:54 *2)
悪くない作品、良質な関係、ただし読みやすさばかりを追究して、大切なものをいくつか落としていっている不安感や不満感がいつも以上に残る、という意見がありました。体験談を書けとは言わないけれども綺麗に過ぎ血流が足りない、という意見もありました。悪くない、良い作品、けれども、もっと型を壊しても良いのかもしれない、そこまで巧くないところが、しかし魅力になっている、という意見もありました。
悪くはないんだけれど、優良なり次点を与えるほどかと言われると考える、この作品はそっと評価されるべき、という意見もありました。読みやすい文章を書いているけれども、彫り込みが浅過ぎる、という意見もありました。

3677 : 01  いかいか ('09/08/01 08:32:04) 
濃密で作者は辛いのでは、と裏を思わせてくる端々の切れ目が魅力的だった、という意見がありました。自分の筆を確かめながら、書けることを意識しながら書いた、集中力がなくなって止めた、それだけの作品に思えた、という意見もありました。後半、スターバックスからラストは良い、前半は文章が練られておらず粗だらけで難あり、作者の期待値からもこれで良いはずがない、という意見もありました。

*この作品への右肩氏のレス、破片氏のレスに関して、高い評価がありました。付記しておきます。

3691 : 暴虐!怪人ホウセンカ男(Mr.チャボ、怒りの鉄拳)  Canopus(角田寿星) ('09/08/05 18:23:04 *1)  
途中から普段どおりのチャボの哀愁が前面に出て一気に面白くなる、けれども
 怒っている
 しめった風の吹く夕方
 私鉄沿線最寄り駅前「鳥凡」の店先に坐りこんで
 怪人ホウセンカ男が
 怒っている
 風鈴の音色は不快にやかましく
 日もまだ暮れないうちから
 すっかり酔っぱらって
 上半身は裸で 怪人ホウセンカ男が
 怒っている
この一連、導入としてあまりうまく機能していないように感じる、掴むものを引きずり込むものをもたせるためにも、一呼吸で終える断続の文章で書かないほうが良かったように感じる、中盤まで持っていけていないように感じる、最後も疑問、切れのよさ、とまでは言わないけれども、哀愁の残響は、もう書かれているため継ぎ足さないほうがよいような感覚を持った、という意見がありました。相変わらず書けてるが、最近のこのシリーズはちと冗長な気がしないでもない、その冗長な言い回しが、本来あるべきと想像されるこの作品の方向性とは食い違ってるような印象を受ける、という意見もありました。まがい物に託した懐古趣味の空話だと思っていたが見当違いだった、人間がにじみ出ている、しかし背中の哀感を感じろとか、演歌みたいに後ろ向きで、前を向いて倒れたい読み手にとっては、きつすぎるかもしれない、という意見もありました。これは良い、ユーモアもうるさくなくてちょうどいい、けれど身につまされる、というところで、ちょうどスタンダードに収まってしまうところが、却って弱みかもしれない、という意見もありました。チャボ作品に関しては書きたいものがはっきりしていて良さを感じる、「あなたたちはなにを書くのか」を他の投稿者に問うてみたい気持ちにさせられる、という意見もありました。

3675 : はだかバスに乗って  蛾兆ボルカ ('09/08/01 03:45:52)
もう少し対照を意識すると良いのかもしれない、疲れをめいっぱい一連で書くなど、緩急を際立たせても良かったのかもしれない、しかし、この作品はこの作品でなおしようがなく書きたいことを十二分に伝えきっている、不思議さが立っている、という意見がありました。余剰がもう少しあれば、もっと良かったかもしれない、シュールな状況描写が前面にたちすぎたかもしれない、それが作品の核心を必要以上にぼやかせてしまった感じになり「だから何?」みたいな読後感に落ち着いてしまう勿体無さがある、という意見もありました。とても面白かったのに、「はだかバスに乗って、僕は君に、会いに行くよ。/セックスをしようよ。」落ちが良くない、「君」ははだかバスの外部にいるので、得体の知れないネタから、古女房みたいな現実に引き戻されるみたいだ、誰でも良いから、手当たりしだい、見ず知らずのはだかバス乗車の美女・美少女とエッチしたいという妄想で締めくくられた方がマシかもしれない、という意見もありました。

3701 : 果の石像  シンジロウ ('09/08/08 21:58:19)
作者の作品は格好悪さをきちんと見つめていて素晴らしい、この作品も裾があるためいくらでもとりようがあり、そこが良い、素直になれない俺は性を通し感情の存在をみつめるのだろうか、見られていることから逃げないそこに石化を望む、最大の自身の内省がある、という意見がありました。
しみじみと良い、優良となると少し厳しいかもしれない、優劣を競う作品なのではないかもしれない、この作品を多くの人に読んでみて欲しいという気持ちは残った、という意見もありました。自分が後生大事に抱えてきたイデーを、突き放して立ちんぼにする、単にコメディーにするのではなくて、得体の知れないものとして、再配置し、もう一度、失われたイデーを生きること、興味深い作品だ、という意見もありました。

3741 : クマのヘンドリック、ラーメン屋さんでアルバイトをするの巻!  ミドリ ('09/08/26 23:04:38) 
悪くはないのだけれども、だからといってなんだという感覚もある、もう少し情けない擬人化を望んだのかもしれない、という意見がありました。第 17連の会話は、行空けした方が読みやすい、適当に作っている場合が多い作者だけれども(レスポンスで推敲しないのを信条とするとか、言い放っている)、今回も(顔文字を除いて)、ほぼ問題のない文章だと思う、(あくまでもミドリ節の範囲内での話)、という意見もありました。実存大賞を取った後、作者はガラッとスタイルを変えましたが、読者の受けは良いのに、撰者の評価は低いのかもしれない、という意見もありました。純文学という名の偏見で、ファッション雑誌のショートコラムを評するようなことをしているのかもしれない、興味深くはある、という意見もありました。作者が持つある種のあざとさにベールをかぶせるとこんな感じになる、という作品で方向としては「Yes!」よりも成功しているように思える、けれども「優良」とか「次点佳作」とかの基準で評価される作品ではないように思う、という意見もありました。

3717 : 夢みればいつも  草野大悟 ('09/08/14 23:32:57)
現代詩とは、ほど遠い、奇妙な安心感がある、立原道造をもっと少年にしたような色合い、という意見がありました。この作者の良いところが出ているような気がする、命に裏打ちされた言葉たちが光る、という意見がありました。

3689 : (無題)  水 ('09/08/05 08:41:20)
気になる作品だった、性的に惹きつけ体感させる語彙でまさぐり、錯奏の中から物語も見えてくる、という意見もありました。この作品はどこに視点を置いて読めば良いのかというところから分からない、という意見もありました。第4連が不明瞭だが、面白いし、奇麗だとすら思う、という意見もありました。

3743 : Je ne sais pas 知らない  はなび ('09/08/27 21:08:53)
三連目までとても良かった、けれども四連目以降なし崩し的にメッセージ性が現れて足をひっぱっている、五連目六連目は結論を安易に手渡しすぎに感じた、という意見がありました。一連二連三連と素敵な部分を大切に拡げてほしい、という意見もありました。

3681 : メークレイン  破片 ('09/08/03 02:30:41 *1) 
「憂いは同調するのに、/思惑が、次元を分かつ、」ここが消化されていたら優良に推したかもしれない、瑞々しいものを読ませていただいて感謝している、という意見がありました。一時期のやわいファンタジーライトノベル的文体が嘘のようだ、作者はこういった書き方があっているのかもしれない、しかし、非常に惜しい、と思う、それぞれ良いのだけれども連結が上手くいっておらず、そのためダマのようになり、なじんでいない、また、選び抜かれたとは言い難い部分も目につく、という意見もありました。場面を切り取って、何作品かに分けていった方が、その上で作品にまとめていった方が良かったかもしれない、作者には期待している、という意見もありました。

・惜しくも選からは漏れましたが、その他、以下に挙げる作品が注目されていました。

3745 : 砂の上の植物群  かとり ('09/08/28 20:26:09)
作者の成長にまず感動した、酷いとも思えたこれまでの作品から抜け出て方向性を掴んだように感じた、それを排除しても良質さがあり詩情を大切にしている作品に思える、という意見がありました。作者は短く書いていく連作から見出していく方向がぴったりなのかもしれない、という意見もありました。何も書いていないのに等しいが、美しければそれでいい、美しければそれでいいといって評価を出すには、足りない、という意見もありました。良くもない作品だけれども、この作者は伸びるかもしれない、という意見もありました。

3715 : おいらんの瓶  プリーター ('09/08/14 17:57:56) 
最初、あまり残らなかったけれども、何度も読むうちに魅力に取りつかれた、
 ふりかけ
性的な印象の残される中で、この比喩が探り当てたものは図り知れない、という意見がありました。良質な小品、食品添加物はやり過ぎかもしれない、という意見もありました。

3705 : 球形の果実  はなび ('09/08/10 12:25:33)
 そんなイメージの絵画のような
でガックリしてしまった、一連はとても良いように思える、膨らましていくと、または点にしていくともっと良かったのかもしれない、二連三連のどんどんパワーダウンしていく感覚が呼んでいて、勿体無さを芽吹かせる、という意見がありました。読むところ一切なし、この人はまともな作文を書くことからやり直してくれないと、 読むに値しないものとして作者イメージが固定されてしまうのではないか、という意見もありました。

3718 : 昭和二十年八月  右肩 ('09/08/15 10:12:20)
 言葉が打ち抜かれた
は、もう少し暗的に書かれても良いかもしれない、いつも思うのだが巧いし解りやすすぎるけれども、そこに作者はいるのか、と問いたくなる、技巧の極地のみで、感情がないのでは、と疑いたくもなる、という意見がありました。解りやすいので読めるが、底にあるもの(詩として汲み取る、読むもの)が全くない、という意見もありました。エネルギーが空回りしている、次点に入られるかどうかの戦いをしているような印象を抱いた、という意見もありました。

3731 : SSDD  debaser ('09/08/22 04:14:37) 
うまい、相変わらずだ、これまでの作品を下回っているのは、魅力の半減に他ならない、という意見がありました。最後の3行が了解不能だった、さっぱりわけが解らないのに納得させられてしまう一条節は今回は不発のような感覚だった、という意見もありました。

3686 : 水位の上昇  mei ('09/08/04 14:22:32) 
拙い、という意見がありました。何も書いていないが、するすると読めるので下手ではない、だが、書くことがないのならば、書かなければいい、という意見もありました。

3704 : まごころを君に  mei ('09/08/10 07:24:07) 
悪くはない、終わり方が下手、という意見がありました。問題外作品、「まごころを君に」をエヴァンゲリオン10年前の傑作劇場版から取ってきたのだとしたら、 程度の低い作文に上等な名前を冠するのはやめていただきたいと思う、という意見もありました。

30.3725 : メークブライト  破片 ('09/08/19 04:01:11)  
第6連目が再読してもつかめなかったが、他は概ねイメージが連鎖しており、作者にしてはずいぶん上手、或いは上手になったな、と感じた、越境と青のイメージがある、「おどろう」は著しくいただけない、イメージの流麗な連鎖を損ねている、という意見がありました。全体として、まっとうな文章ではないが、独自性なのか、まだまだなのか解らない、スタート地点には立ったと思う、という意見もありました。

3728 : Yes!  ミドリ ('09/08/20 22:58:04 *1)
最後のYes!だけ、書きようが悪かった、という意見がありました。ある意味で言葉やシチュエーションが持つインパクトの利用の仕方が上手いなと思う、けれども、こういうのはテレビドラマやゴシップ誌で 十分すぎるくらいに事足りてないか、と安直に思う、という意見もありました。

3753 : 夏のゴールド  チャンス ('09/08/31 23:57:32)
どうということはないが奇麗だ、こういうのは様式美に至るまで練磨してもらいたい、という意見がありました。

3744 : 祈り  イモコ ('09/08/28 00:37:17) 
率直に言うと素材(作者の世界観)のまま皿に盛られて出てきた、という印象が強い、調理しても盛りつけにこだわっても小さくなるだけのようだけれども、ホントに小さくなっておしまいなのだろうか、というのは確かに気になる、という意見がありました。散漫で、何を伝えたいのか、何を語っているつもりなのか、それぞれの連はほぼさっぱり分からないのに、作品を貫く情感、祈りはちゃんと伝わってくる、ただ下手だと切り捨てられない不思議な人、という意見もありました。

3729 : コンクリートの壁をゆっくりと滴り落ちるハチミツ  鈴木妙 ('09/08/21 15:06:54)  
面白い部分もあったけれども、これだけ書いていたら部分があっても当然だ、読み終わって、見合う満足や育ちがないのは勿体無い、これだけ長いのだから全体が魅惑的であるよう、意識する必要があるのでは、という意見がありました。

3710 : 無題 (1)  如月 ('09/08/13 10:45:03)
作者らしさがあるけれども、作者の作風から更に奇麗さを追求すると、どうも作り物臭さを感じる、という意見がありました。一連から、とても良質、それを最後まで続けられていない、この方向性の作品は、粗が少しでもあると目立ってしまうから気をつける必要があるのでは、という意見もありました。第6 連までとてもよかったのだが、本の喩になってから著しく失速した、という意見もありました。

3697 : 鳥男  蛾兆ボルカ ('09/08/08 02:05:02)
悪くないどころか面白いのに、寸足らずで終わってしまった、もっと堪え性を持って弄り続けてほしい、短い文章の中に修辞上の粗も目立つ(〜のように、〜のような、など)、「夏だと言うのに長い黒いコートを着込んだ老婆」などは、簡潔な日本語にして欲しい、という意見がありました。

3727 : 真夏の犬  貝吹明 ('09/08/20 16:27:39)  

3714 : 真夜中散歩  イモコ ('09/08/14 14:48:41 *2) 

以上です。

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昭和二十年八月 右肩

2009-09-29 (火) 10:28 by 天才詩人

昭和二十年八月

返信でも書いたように、右肩氏のこの作品はまずタイトルで萎えてしまうのだが、作品それ自体の空間構成力や、原子爆弾というオートマティックな装置が空中へ放たれていく描写は精巧で弛みがない。もともと右肩氏は叙情よりも、概念的な言葉をつなぎあわせて詩的表現に持っていくのを得意とする書き手である。序盤で「僕」の主体性を複数の視点から解体していく。そこからウランがあたかも宮崎駿作品の小さな生物のように踊りながら増殖していくところ。光り輝く夏をメタリックな機体のむこうに仰ぎ見る場面。いずれも臨場感は強くないものの詩的作文として、じゅうぶん洗練されているし、作品の質が低下している目下の状況では優良作品に推されてもおかしくはない。
終盤の

言葉がうち抜かれた

という一行。読み手はここでいったん立ち止まり,考えさせられる。この時点で、右肩氏が、まだ作品を紙上に書いている(PCスクリーンに打ち込んでいる)と想定するならば、言葉を書きつらねると同時に、それがうち抜かれることは可能なのだろうか。

平成二十一年八月の
 僕は菩薩ではないし、ましてや如来でもない
 カラの籠を抱えて
 スーパーのレジの列に並び
 けげんそうな目で見られている男だ
 フルーツオブザルームのタグの付いた
 Tシャツを着ている

 何の根拠もなく
 着ている

最後の二つの連では、戦後日本の「日常」をからめた問題意識が前面にでてくる。駅ビルの書店に平積みになっている本の議論をくりかえすつもりはないが、日本語が「撃ち抜かれた」というのはすくなくとも私の経験から言って、決定的なことであり、文極の掲示板に出入りしている諸氏のうち、どれだけがその現実を自覚することができているだろうか。菩薩や如来は長い間に秘仏となり、檜の匂いがする寺院の奥に閉じ込められる。8月の京都盆地は自動車の流れが四方の通りをただ緩慢に動いてゆき、エアコンの室外機にさらされたコンクリートの表面は赤褐色の微熱を帯び。僕らは市電の近くの薄暗いスーパーで、棚の間を物色しながら、しばし一服する。不思議なことに朝から何も食べていないのに、棚には食べたいものがなにもない。手ににぎられた籠はいぜんカラのままで、僕らはあふれる物資を前にして飢える。たとえ何かを手にできたとしても、僕らはレジを待つ絶望的に長い列のいちばんうしろで、「終わらない日常」を、どこまでも生き続けねばならないのだ。

最後に断っておきますが、コントラは選考委員には加わっておりません。

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8月分月間優良作品・次点佳作発表

2009-09-24 (木) 20:56 by 文学極道スタッフ

8月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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