鈴屋の作品には、「歩く」そして「立ち止まる」という仕草が頻回に出る。
そしてその二つの動作は、「散歩」という何気ない日常として描かれる。
鈴屋を読むものは、「つつしまやかな」ものをそこに見、日常の「なにげなさ」のスナップショットの切り取りに、「わたしが見た同じ光景」を重ねあわせることで、その仕草の意味を感じとる、というのが定石であった
しかし、「歩く」という仕草がいつの間にか、創造から道をはずれ陥ってしまう「日常性」という危険の原因をともなっているのは、「歩く」という「肯定的」な行為そのものに依拠するものなのか、それともその繰り返しこそが危険に陥りやすい傾向にすぎないのか。
この素朴とも思える疑問は、鈴屋を読み続けるものにとって、いつの日か頭の中をかすめる疑問に違いない。
だが、安心してもいい。鈴屋の作品にとって「歩く」行為そのものに速度は必要がない。
鈴屋の作品を貫いているのは、「仕草」ではなく、「切断」であり「分岐」であるのだから、「歩く」という行為が日常性に根差すからといって、その創造性がいつの日か蝕まれるのかもしれないと嘆くことは及ばない。
いや、だが、最新作の『女は街までの道すがら二度頬笑む』においてまでも、「歩行」そのものの結果として「微笑」というものが「楽天的」に導き出されることの危険がこんなに露わな形で現われてしまっている、という人もいるだろう
しかし、ここで大事なことは「歩く」ことではなく「立ち止まる」という「切断」であり、ふたたび「歩く」ことへと接続されるまでに行われる「分岐」の行き先である。
鈴屋は、「歩き」そして「立ち止まり」そして再び「歩きだす」という一連のプロセスを、書き手が導き出すものとして描き切ってはいない。
鈴屋の文章の中で、再び歩き出す「私」に速度は付されていない。
あえて言えば、「歩く」という行為が見る経験を累積させるだけの行為にならないようにしている。
「私」が立ち止まり、そして振り向きそこに何を見るのか、そこでおこなわれているのは「発話者」は「なにも見ない」ということであり、その「見ない」というプロセスは、鈴屋自身の「過去」を見る視線と、読み手の「記憶」を重ねる行為とに瞬間、「分岐」してゆくだろう。
そして、知らず知らずのうちに「私」はふたたび「歩きだし」ており、それを読んだ「読み手」は、分岐していた自らの「印象」から「読み」へと戻る可逆性によって、テクストの「私」の歩行に加速をつけていくことになり、それこそが鈴屋の作品の強度を支えることになってゆく
立ち止まり、そして再び歩き出す際におこる「書き手」と「読み手」の交感こそが、鈴屋の作品の特徴となる。
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焼き菓子に喩える?
紅月さん。
「ピエタ」や「matria」などの読後は、滅びゆくものや亡くなってゆくものに対する追悼のようにもおもえる。
その文章のひとつひとつが重なりあうさまは、焼けた層の上に生地をかけながら焼く事を繰り返し、薄い層を10〜20層程度かさねてつくる焼き菓子を、わたしに思いおこさせる。
焼きたてのバウムクウヘェンを切り分けないままに手でちぎりながら味わうような、印象。
ひとさらのバウムクウヘェンをまえにわたしは座り、何ひとつ装飾のない、黒のワンピースを着る。その服は、わたしを引き立てるのではなく、あくまでヴァニラの香りがすぅ、っと消えてゆくまでの時間を、甘く媚びたものにしないための。
焼き重ねられた幾層もの生地の年輪にそっと指をさし入れて、そのいちまいいちまいの手ざわりを目を閉じて感じとれるまでに、わたしは背中をしゃっきり伸ばしてこれらの作品を読んでいたいと思う。
るさん。
「刈りとりの歌」や「ビャクシンの木」、はじめはそっけなく感じられる。
極上の「サクランボのリカー漬け」をつくる上での条件が、完熟には至っていない良質のサクランボをつかうことであるように、
この作品の「完熟してなさ」具合が、わたしのなかでの「読む」という時間のいろいろな要素を試すアプローチを与えてくれて、「おもしろい」の感覚がひろがってゆく。
るさんの作品を、焼き菓子に喩えるのは難しい。
むかし、アンリ・シャルパンティエにあった「のの字ロール」。
雰囲気が、柔らかなジェノワーズに似ている。あと、「の」と「る」も。
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葛本綾は、いつも不思議に思っていることがある。
それは、洋室のプリンターにたまった紙の束の中身についてで、
おそらくそれはパートナーの浅井がプリントアウトしたまま、持っていくのを忘れたものらしい。
普段、ビジネスの格式ばった書式しか目にしないので、一行空けていたりだとか、一行が数文字だけですぐ改行されているようなレイアウトは、新鮮に映るのだが、いったい、何を言いたいのか、その「詩」らしき文章からは読みとることができない。だって、「結論」なんて書いていないのだから。
数年前まで持っていたそのような印象が変えようと思ったのは、なにより、自分が出産を経験して、キャリアと育児の両立についてかんがえ、どちらかをとるのではなく、両方楽しみながら、余裕を持ち、肩の力を抜いてやっていこうと決めたからだった。
だから今は、勝間和代は読んでいない。愛読紙がAERAなのは変わらないけれど。
時折、浅井がプリントアウトした紙をじっくり読んでみようという気にもなることがあった。何をいいたいのかはわからないままだけど。
葛本綾は、素材の持ち味をシンプルに活かす、ということを大事にしている。
料理や、インテリア、こういっていいのなら生き方そのものでさえ、そうありたいとおもっているのかもしれない。
たとえば、普段の食器は、無印良品のボーンチャイナを愛用している。
だから、言葉を装飾して、見た目をゴージャスに飾る「詩」というジャンルにはあまり興味が湧いてこない。
だが、読み進めるうちに「詩」という印象も少しだけ、柔らかいものになっていく。
普段の食器には白を愛用しているけれど、食後の会話を楽しむためのミルクティーは、鮮やかな果物の描かれたアラビア社のパラティッシのシリーズに注ぎたい。
そのように、「詩」というものは言葉を、シンプルにも鮮やかにもあらわすことができるのかもしれない、とも。
そう思わせてくれたのが「る」という作者のひと。
bungoku.jp/monthly/?name=%82%e9;year=2012
なにより、シンプルすぎるほどの名前がいい。
そして、とても大切なことを書いているように思えたのが、「紅月」という人。
bungoku.jp/monthly/?name=%8dg%8c%8e;year=2012
パートナーである浅井に、そのことを伝えると、上から目線で「わかってるね」と言って
紅月という人について書いた文章をみせてくれた
紅月の方法論は、詩として書かれえた瞬間に、表面が意味によって固定化されてしまうことで失われてしまうものに絶えず視線を向ける
それは、「詩」を書くという行為そのものがもつ、境界線を引く行為が内包する未決定性を書くことであって、だからこそ、紅月の作品が成形されるのは、
「詩」が書かれることと、「詩」が書かれえないことの間をめぐって、である
「詩」のテクストである単語が書かれえる単純な事態であっても、置かれた単語が部分的に廃棄することになる「意味」、構築されようとする詩の「世界」から脱落するものにあえて視線を向けることで「生成」の瞬間に目を凝らすこと。
うん、何があっても浅井みたいな人間にはなるまい、と強く決めた。
この人は、素直に「いい」と書くことができないのだろうか?
とりあえず、とびきり上等に仕上げられた焼き菓子のような、二人の作者にふさわしい言葉はどのようなものなのだろう。
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