年間総評3
鈴屋の作品には、「歩く」そして「立ち止まる」という仕草が頻回に出る。
そしてその二つの動作は、「散歩」という何気ない日常として描かれる。
鈴屋を読むものは、「つつしまやかな」ものをそこに見、日常の「なにげなさ」のスナップショットの切り取りに、「わたしが見た同じ光景」を重ねあわせることで、その仕草の意味を感じとる、というのが定石であった
しかし、「歩く」という仕草がいつの間にか、創造から道をはずれ陥ってしまう「日常性」という危険の原因をともなっているのは、「歩く」という「肯定的」な行為そのものに依拠するものなのか、それともその繰り返しこそが危険に陥りやすい傾向にすぎないのか。
この素朴とも思える疑問は、鈴屋を読み続けるものにとって、いつの日か頭の中をかすめる疑問に違いない。
だが、安心してもいい。鈴屋の作品にとって「歩く」行為そのものに速度は必要がない。
鈴屋の作品を貫いているのは、「仕草」ではなく、「切断」であり「分岐」であるのだから、「歩く」という行為が日常性に根差すからといって、その創造性がいつの日か蝕まれるのかもしれないと嘆くことは及ばない。
いや、だが、最新作の『女は街までの道すがら二度頬笑む』においてまでも、「歩行」そのものの結果として「微笑」というものが「楽天的」に導き出されることの危険がこんなに露わな形で現われてしまっている、という人もいるだろう
しかし、ここで大事なことは「歩く」ことではなく「立ち止まる」という「切断」であり、ふたたび「歩く」ことへと接続されるまでに行われる「分岐」の行き先である。
鈴屋は、「歩き」そして「立ち止まり」そして再び「歩きだす」という一連のプロセスを、書き手が導き出すものとして描き切ってはいない。
鈴屋の文章の中で、再び歩き出す「私」に速度は付されていない。
あえて言えば、「歩く」という行為が見る経験を累積させるだけの行為にならないようにしている。
「私」が立ち止まり、そして振り向きそこに何を見るのか、そこでおこなわれているのは「発話者」は「なにも見ない」ということであり、その「見ない」というプロセスは、鈴屋自身の「過去」を見る視線と、読み手の「記憶」を重ねる行為とに瞬間、「分岐」してゆくだろう。
そして、知らず知らずのうちに「私」はふたたび「歩きだし」ており、それを読んだ「読み手」は、分岐していた自らの「印象」から「読み」へと戻る可逆性によって、テクストの「私」の歩行に加速をつけていくことになり、それこそが鈴屋の作品の強度を支えることになってゆく
立ち止まり、そして再び歩き出す際におこる「書き手」と「読み手」の交感こそが、鈴屋の作品の特徴となる。