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「永劫回帰 1994 夏」(佳子シリーズ) 武田聡人 1994年6月、僕は早めの夏期休暇を取り、道北の誰も居ない海触崖の上にテントを張って終日ぼんやりと海を見ていた。カモメが一羽、空にピンで留められている。空より暗い海の青は波打ち際で弾け、草原の明るい青は、幾筋もの光の焔を、風に梳かれて明滅させていた。青のグラデーションのほかには何もなくて、崖の上に立つ僕の赤いシャツの裾が風を孕み、はたはたと鳴る。麦藁帽子はとっくに飛ばされてしまっていた。海と空が交じり合うところ、丘陵と海岸草原が地球の丸みで微かに湾曲して北へと伸び広がっている。もし僕が、明色のパラグライダーを持っていたら、断崖のふちに大きく記された「existence!」の踏み切り台から空へと飛び立ち、風に身を任せたことだろう。カモメの飛翔は、やはり空にピンで留められており、「永遠ってのはこういうことか」と思わせるほど見事に空っぽな風光の中へ。 ★ 廃園直前の遊園地にある観覧車の中で/佳子にフェラチオをしてもらったことがある。/ほとんど客のいない広大な園地に立つ係員たちは/何か不条理な罰を受けてでもいるかのように突っ立って/まばらに立つ人々の影が/やけに長かった。/空はとても高く/海の青は空よりも深く/やはり/かもめの飛影が/空にピンで留められて/星々の世界に落ちていくことを許されないでいた(そこの食堂で食べたウニ丼は/海辺の町であるにもかかわらず腐りかけていた)。最後の観客たちのために/一所懸命に演技を披露するアザラシの類は/犬のように/やさしくて/悲しい/目をしていた/そんな気がした。// 炎上する/観覧車の映像が/時々フラッシュバックする。/約束の地図にはただ/「なにもない」ということだけが記されていて/その銀の紙をちぎって風に任せれば/やがて/冬が来る。/おーい、氷河期が来るぜ/ 園地をあとにして/海岸沿いの道を岬へと進む/橋を渡るたびに/河口を覗き込むと/産卵を終えた鮭の死骸が浮かんでいる。/サーファーたちは/河口の先の/荒れた波の中で/もがいている/氷河が来る前に/氷河が来る前に// 海辺の崖に/赤いものを見つける/ そばによってみると/肉厚多層の葉の上に/鮮やかな/真紅の花が付いていた/ 群落/いまだにその花の名前はわからない// ★ 丘の上に登って向こう側の浜辺を見下ろすと、波打ち際に打ち上げられた白い流木の上をカモメが輪舞している。カモメは暫し静止し、スライドし、風を孕んで時の進行を形作る。キュアー、キュアーと、なにごとかの救済を求めて。その様子に不穏な気配を感じ、そこに居た五日間、僕は丘の向こうの浜には近づかなかった。 その夜はなかなか寝付けず、何度も懐中電灯で腕時計を照らした。寝返りを打つ度に鉛色の潮騒がにじみ寄る。チタンの装甲をまとった時計には気圧計が付いており、変動の予兆を示していた。頭上を音もなく銀河鉄道が通過する。高架下の安宿である、私のテントはびりびりと震える。酒ビンを抱えて外に出る。僅かに消え残っていた熾きに火を灯して焚き火にあたる。見上げれば、銀河が煌々と渦巻いて、赤方偏移しながら再びビックバンのチャンスを窺っている。白鳥座の巨大な十字架が、海面に伸びた私の影を磔にしていた。 午前2時、女が一人やってくる。ずぶ濡れで、裸足で、濡れた髪が纏わりついて顔は良く見えない。桜色のワンピースが膝上で深く破れ、スリットになっている。星々と海の呼び声の中に白くしなやかな脚が浮かび上がる。焚き火にあたることを勧め、タオルと温めたウィスキーを渡す。「あなた、ここにテントを張って5日目ね、こんな地の果てみたいなところで何を待っているの?」と女は尋ねた。それには答えず「あんたこそいったい」と言いかけて言葉を失った。女の身体は天の川の宝飾細工だ。白い肌に銀河が渦巻いている。彼女の瞳はオッズアイ。エメラルドとガーネット。瞳を覗き込むと「預言」が記されている。 砂浜の向こうにテトラポッドに囲まれた護岸壁があり、廃村となった漁港の痕跡が、海のさなかに一本の道を残している。打ち捨てられた浚渫用の重機が錆びたバケットに星の光を集めている。「預言」は、護岸壁の荒れたコンクリートに記された血文字の「永劫回帰」(第2百武彗星最接近の晩、私は日高山脈を縦走していた。月よりも大きく青白い彗星の中心核から宙を貫く巨大な彗星尾、青い炎の柱が立ち上り、宇宙の熱死説に殉教した者を光の矢が刺し貫いて/その/冷/光は/世/界を/分/割し/再‐接続し/「serial experiments lain」(連続する/接続実験)日高山脈中部、ペテガリ岳へ至る雪庇がせりだした瘠せ尾根は鋭く谷底の闇に落ち込み、内宇宙を探索する宇宙飛行士は青のグラデーションを移動していく。大脳縦裂の底から側脳室へ、クラビウスからティコへ(注1)。ピッケルにセントエルモの火が灯る)。 濡れた前髪を手で分けながら(金色の、藁色の、その感触を、僕は知っていた)、僕の目を見て彼女は言った。「えいえんってあるとおもう?」 ?「えいえんってどんなものだと思う?」 ?「じゃあ、あなた、ここで何を待っているの?」 え?「あなたにもじきに解るようになるわ」 桜色の光芒をまとった彼女は立ちあがって焚き火の明るみの中から歩みでて、海岸草原をわけていく小さな人影になる。彼女は艶やかな夜花が咲きほころぶ草原に膝を抱えて座り、星を見上げる。果されることのなかった約束が宙空に色とりどりの星座を灯す。彼女の周りには一面に野花が敷き詰められているが、ナデシコの他、花の名前は解らない。星が、流れる。白く美しい横顔に淋しい笑みが浮かぶ。すると彼女は星々の世界に融け入る。桜色のワンピースは銀河に灯る星座になり、人の望みが断たれるたびに、星が瞬いては流れ落ち、誰もいない海辺に打ち上げられる、ロシア語の記された空きびん、木製の聖母子像。使用済みコンドームを飲み込んで絶命した魚の赤い腹。ベルリンの壁は絶えず崩壊し続け、そして、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちると、一斉に星が流れる。赤方偏移しながら桜色の星座が遠ざかるにつれ、海面と銀河に映じる彼女の残像はゆっくりと消えていく。まばらになった星灯りに照らされた波打ち際に、光年の沈黙が残る。 原子炉の炉心を妖しく照らすチェレンコフ光の青の中で、彼女はセーラー服を初めて着たころの少女の姿に変容している。私は彼女を抱いて、さくさくと夜花を踏みしめ、海辺の草原をゆっくりと、果ての果てに在るだろう、放射性廃棄物最終処理場へと向かった。膝上でスカートが風にそよぐ。彼女は小鳥のように瘠せている。彼女の髪がさらさらと私の腕をなで、まだあどけなさが残る、宙を映す大きな瞳。赦すことも、赦されることもできない冬の予感が、その瞳に影を射そうとしていた。夏服からこぼれる細くしなやかな手足は力なく垂れ下がり、宇宙が熱死していく速度で、私が抱える彼女の温もりは徐々に消えていく。再び星が流れる。すると彼女の体から薔薇石英の結晶がこぼれ落ち、私たちの踏み跡には赤い鉱物の焔が灯った。宗谷丘陵は風に吹かれて樹木が育たず、丈低い草原がうねり、有刺鉄線の破れ目から立ち入り禁止空間に入ると、生まれることのできなかった子供たちの笑い声がこだまして、存在しない子供たちの遊戯の輪は爆心地に焼き付いた影のように静止している。ノアの方舟は巨大なコンクリートの棺の中で崩壊し、座礁した草原には野晒しのドラム缶がストーンサークルを成し、遺棄された処理場には子供たちに着せることのできなかった色とりどりの産着が果ての果てへの道標に結わえられてはたはたと翻り、風が通るとドラム缶の風琴は司祭のいない教会のオルガンを奏で、放射線検知器の針は振り切れる。私は彼女を祭壇に祀るだろう。銀河は、宇宙の熱死の方へと遠のいていくのだが、「預言」は、実行されなければならなかった。 * テントをたたみ、帰り支度を整えた後、丘の上へ登ってみると、カモメの姿はすでに無く、広大な海岸草原には優しい桜色のエゾカワラナデシコが咲き乱れていた。あのオフェーリアの身元が解ったのかどうか、その後のことは知らないが、僕はひそかに彼女を「カワラナデシコ」と命名した。 * 1994年6月5日午前十時頃、初山別町界隈の浜に身長152センチ、一部白骨化した女性の遺体が漂着した。発見者は釣り人。後日、新聞によると、ただそれだけの事実が、翌朝丘の向こうの浜辺で起こったわけだが、その晩のことは、後に狂死することとなる佳子を除いて誰にも話したことはない。 思えば、永遠を廻る僕の旅には最初から業罰の刻印が押されていたのだ。今も、目を閉じると、人の形をした炎が見える。えいえんなんて、なかった。(注1)月面のクレーター2010年7月『ポエム・ロゼッタ』掲載作品
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