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現行ログ検索結果 (投稿者)

  1. 22 : [返信]  田崎 ('07/03/31 02:35:40 *1)

    こんばんは。

    自分で意識しているにせよしていないにせよ、書いたり話したりすることには何らかの意図や狙いが存在していると思うのですが。
    この詩の内容だけに目を向けた場合、おそらくこの詩を気に入る人は、平川さんの「真っ直ぐさ」とか、「純朴さ」とか、「人間味」とか、「信念」とか、そういったものを作品から感じて、(恐らくは感情的に)感動するのではないかと、思うし、平川さんもそれは、意識しているにせよしていないにせよ、わかって書いているのだと思います(多分)。
    表現というものに必ずと言っていいほど、付き纏ってくるこのような構造にも目を向けると、僕はこの作品の内容に感動するとかしないとかいう以前に、興醒めしてしまいます。あからさまに「感動してください」と言って出されたものに、まんまと感動する気になんて僕はならないですね。ただこういうのは、三人称を中心にして、フィクションとして出したら、恐らくそういうあざとさは幾らか、あるいは大分、消えるのかなーとも思うのですが。

    あと、前にも指摘させて頂いたことですけれども、連末のリズムが余りにも目立ち過ぎて、これも興醒めしてしまいます。
    >紺に雲は上らない
    >心の汚れは  、 水性か
    >楽しく 、 私は仕方ない
    平川さんは効果的だと思って書いているのかもしれませんが、6・5とか7・5とか8・5とかの韻律はあまり目立たせない方がいいのではないでしょうか。目立たせると途端に歌みたいになって、これもあざとくて僕は詰まらなくなります。古典的な印象になっちゃいますし。
    古典的、と言えば、平川さんの詩にはよく感じるのですが、このような題材や「私」の感慨も、古典的というか、前時代的というか、「恩師」とか、
    >まだまだ包むもやいの中 いつか空の先までも
    >必ず描きあげる私。

    >描き出された未来へと、浸かる
    とか、普通に書いている平川さんに、正直、実際の年齢差以上のジェネレーションギャップを感じてしまう僕です。

    いつも生意気に酷評で済みません。それでは失礼しました。

  2. 22 : [返信]  田崎 ('07/04/01 03:35:32 *1)

    なにか、ひっかかるところの指摘だけでも片手落ち、かも、と思いまして、
    もちろん、比較的直情的ではない、2連目以降の、「私」の思いを導くまでの、求心力がありながらも躍るような描写は、見事だなというのは、前提として思ってます。平川さんはこういう文体をわりとナチュラルに書けてしまうのかもしれませんが(よくわかりませんが)、やはり良い意味で独自性のある文体だと僕は感じています。別にえらそうにわざわざ僕が言うことでもないのかもしれませんが・・・・・・。

  3. 26 : [返信]  田崎 ('07/07/15 18:18:02 *1)

    こんばんは。講評おつかれさまです。

    ギリギリのところで、踏み出し過ぎないように自制されている感があって、感触としては、これまでの稲村さんの作風や、稲村さんが受けてきた指摘より上の段階に行ってるような感じがします。(これで新作ではなかったら全くの的外れでしょうけれど。笑)
    「踏み出し過ぎない」という意味で"無難"なものとも言えると思うんですが、つまりどうも"引き算"で作ったような印象を持ってしまったりもしました。ちょっとしたアクセントのようなものでいいから何か添加して欲しいというか。その中で、
    >地平の先にはいつも
    >同じ分量だけの記憶がある
    ここだけが異質だと感じます。こういうのがもっと欲しかったです。「もっと」というのが量としてなのか、強度としてなのかは、僕には判断付きませんが。
    それともう一点。稲村さんはある種「潔癖な」というか、適切な表現かわかりませんが、そういうところがあるような印象があるのですが、それが作品にも感じられて、
    それはおそらく多分に長所にもなっているとも思うのですが、僕は短所として"も"感じられてしまったりもします。ある意味では間違いなく「きれい」だし「上質」なんだけれど、スライドショーを見ているみたいで、どこか魅力に乏しい、そんな感じでしょうか。

    それでは。印象評で失礼しました。

  4. 19 : [返信]  田崎 ('07/06/20 22:09:33 *1)

    こんばんは平川さん。

    よくあるものを避けようとする意識が空回ってるというか、逆に日本語の下手さとか、内容の浅さが縁取られて滑稽ですね。
    >刻む時計へ、見開く視線を向けさせる。
    「見開く視線」、多少の新奇さがあるだけの、効果的でもなんでもない、不味い表現だと思います。
    >けれども今日、大学の講義は休講が重なり一コマも無いことに、
    文章が野暮ったいです。
    >視界に歪むカレンダーの印に気付かされ、
    「気付かされ」、日本語が変だと思います。
    >夢と現実の狭間を行き来する、最も心地よい、遠くへの最短の旅。生きる意味とは、布団の中にこそある。そう思うのはこんな時だ。
    うーん、感慨の浅さにがっかりします。こんなのわざわざ読み手に提示するに足るものですかね。
    >着替えながら作ってやりたい夕食の献立をぼやり頭に浮かべ、
    「作ってやりたい」、日本語変だと思います。
    「ぼやり」、奇を衒ってるだけっていうか。
    >ドアの機能性を私は改めて尊敬し、コクリと頷いてみる。
    これもがっかりします。感慨が下らないっていうか、「尊敬」とか、随分簡単に使うんですね。
    >チャリを駐輪場からガチャガチャ引き抜くと今日もドミノ倒しに全ては倒れた。
    「駐輪場から引き抜く」という表現に違和感があります。日本語としてどうでしょう。「駐輪場」というのは"場所"のことで、"場所"に自転車が挟まっているわけではない、ですよね。
    >律儀に一つ一つ立て直してみる。また明日も倒し、立て直す光景が浮かんでくる。ここに住んでいる限り、きっと一生繰り返すのだろう。
    これもがっかりします。感動が浅いし、独自性がないですよね。もっと自分の「感動」に批判的になった方がいいと思います。

    中間のメールのやり取りは、これを提示する平川さんの作意が見え見えで、非常に寒い部分だと思います。読者を舐め過ぎっていうか。そりゃー平川さんのことを好きな人にはいいんでしょうけどここ。僕はこんなの読まされても何も楽しくないですね。会話が下らなくて、どちらかといえば不快です。

    後半は、前半に出た要素を利用して作品を纏めようとする所作が、何の疑いもなくとられていて、詩作法の無批判さ、単純さにちょっとあきれます。詩の構造の作り方のテンプレートを見てるみたいです。
    >位置をなおす指の隣、手の平に当たってくる、ほんの少し伸びた髭。
    「手の平に当たってくる」、動いてるのは手の平の方だから、「当たってくる」というのは日本語としておかしいし、意図的なものだとしても、大して効果的ではないと思います。詩人なのに言葉の使い方が適当ですよね。
    >フと浮かんで来る、
    「フと」、これも奇を衒ってるだけっていうか。
    >繰り返すことは、暮らしている場所ではなく、自分に理由があるのだろうか。
    意の通る文章として舌足らずなような。日本語が変なのが、平川さんの場合、効果的というより天然に見えてしまいます。
    >生活の流れの中、消えたトンカチの音に、意識が少しずつズレていく。早く帰って布団の中に潜り込もう。ドアを開けて静かに浸り、生きる意味があるそこへと、身の全てを埋めてみよう。
    着地点がこれでは、あまりにあまりだと思います。これが読むに足るものでしょうか。
    >チャリをこぐ足は力み、二丁目の風が、ねっとりと身を撫でていく。
    終わり方もなんか、ありがちですよね。はっきり言って興醒めします。もっと考えて、疑ってほしいと、思いますね。

    それでは。別にレスレスはなくてもいいです。

  5. 21 : [返信]  田崎 ('07/05/03 01:50:10 *1)

    どうでしょうね、これ。こんばんは、ケムリさん。

    >今、そらへと開かれたろっこつ
    >前触れもない口付けのように、ふりつもる羽根
    >のう、の中心の路地裏は灯りを消して

    >姿をけしていったもののために。

    >すべてのでんせん、がひそやかに揺れて、羽ばたきの音色からこぼれたものだけが、

    >とり、とりは電線のふるえ、だけを残して。

    >せきりょう、と名づけたくて仕方ないこと
    >いみ、の中で飛び回ること
    >きおく、と名づけられたそれを、いま、のくびきから外すこと
    >振り返るとき、もう手を繋げないと気づくこと
    >さかみち、は空へとつづくしかなく、けしてそらには続かないこと

    >とり、とりはふるえだけを残して。言葉にすればかすみ始めるような、遠い日のうたげの残り香を嗅ぐように、とり。とりはふるえだけを残して

    >窓を開ける頃に、眠りにつく子ども達がいるよ
    >旧い時代のおり、のように朽ち始めた格子を
    >遮るもののない朝日のなかに、とり、とりの影がよぎる
    >ふるえの中に伸びたさかみちの、先に

    >ふるえの中に静かに浮かんだおり、のようなきおく。
    >飛び立っていったとり、の軌跡のこと。
    >みしらぬとり、としか語れないこと。

    >舞い降りてくれよ

    と個人的に引っ掛かった箇所を漏れなく挙げてみましたが。
    まぁ美意識の違いっていうのは確かにあるんでしょうけれど。

    まずひらがなに対する感性、いまいち、という感じがします。
    もちろん、これはオマージュということですから、慣れないことをしてらっしゃるんでしょうけれど、浮きまくってるんじゃないでしょうか。これでは折角込めたらしい情感も、書き手の大袈裟なポーズ(表記)にひたすら我に返ってしまい、空回っているように思います。
    大袈裟なポーズ、っていうのはもちろんひらがなの遣い方だけではなく、
    「ために。」「だけを残して。」「と名づけたくて仕方ないこと」「いるよ」「、先に」「くれよ」
    こういうどこか自己陶酔的で、前時代的で臭い言い回しからも感じるんですけれど。
    好みの問題でしょうか。
    それに読点による区切りのポイントも、個人的な意見を言わせていただければ、間違ってるような気がします。特に顕著なのは、この辺の、
    「せきりょう、と」「いみ、の中で」「きおく、と」
    響かせたい(らしい)語を読点で体言止め的に浮遊させる、という、「あまりに単純じゃないですか?」とか言いたくなるやり方ですけれど(というかたぶんやり方の問題というより、そのやり方を生かせていない全体的な問題だという気はするのですが)。どうでしょうね。僕は寒かったですが。

    なんか上手く言えてるかわからないですが。
    いつも感じるのは、ケムリさんの文体や表現が纏っている雰囲気って、どこか借り物臭いというか、ある種の定型としてすでに周知されている叙情、哀愁の雰囲気を、そのまま拠り所にしている印象がかなり強いです。「歌謡曲だ」と言われて、それでいい、というようなことも以前仰っていたので、いや、まぁ、それでもいいのかもしれませんけれど(そして評価する方もいるようですけれど)、こんなにどこかで見たような叙情、哀愁って、そんなに良いものかなぁと、僕は不思議に思ったりはします。


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