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現行ログ検索結果 (投稿者)
40 : [返信] ひふみ ('08/04/14 05:55:35)
一連目だけかな、一般的な個人の好みに大きく左右されないだろうところで、それなりに評価できるのは。
作者評を絡めずに書くとそれくらいしか書くがことない。37 : [返信] ひふみ ('08/01/05 09:59:52)
私はホント基本的なことしか書かんので、不要だったらすまん、とか先に謝っておきます。
詩と明示ないし暗示されていない場でみかけたら「散文」とは思っても、「(散文)詩」とは、私は思わなかったろう。というのがひとつ。これ説明いります?長くなるし、トライしてエラーしてるとこでもあるから及び腰。それと被るところで、冗長であり、文構造、連単位のリフレインである。連ひとつで一編になりえる。結びの二行と結ぶことができる。並列。最終連以外は並び替えても(読み手としては)何の問題もない。もとい、最終連すらその位置はベストだから、という観点からではなく、一般的な詩の流れとしてはこのような表現は最後が多いからそれに倣った。という印象である。
例えば、特徴的な文体というのは書き手の手癖であり、文学との交渉や言葉による伝達を行う内についた訛りのようなものであるが、この詩の文体を感覚的に評せば甘く、(もしあるとすれば)中庸という軸から少し軟化させた文体である。
少し引用するね。>なんていうか、読みやすくて、小奇麗で、読んだ後にはちょっとした情感以外のなーんにも残らない、スナック菓子みたいな作品が書きたかったんですが。
これについて。顔のない表現、最小公倍数に当たる表現を軸にその最小公倍数で割れるあんま多くない数で彩る。そういう構造。女の子の数を3とすると6.9.12の表現を混ぜる。みたいなね。読み手の範囲を広くとれるけれど、引きつけられる読み手の範囲がせまくなりやすい。というのがこの手の難点。情景描写の形をした詩もよくこれに該当する。
単純に引用したのに一番近くて身近なのは「女の子達のおしゃべり」だと思う。濁もあるけれど、基本的にとりとめないその場かぎりのものが多いよね。
言葉の指し示す範囲、という意味での公倍数を上げてみたけれど、もうひとつ、話それ自体を読み解くのに便利な公倍数、要素というものも上げてみようと思う。
例えば人間の大半に通ずる普遍的な色恋、その時代によって増減する萌え等、といった要素。この話の面白いところは、そういった要素も努めて読み手に自由に設定できるようにしているところ。ざっと読むと色恋だから、あくまで努めて。
茫漠な隠喩。完結にいっちゃうとこれか。読み手が筋道だって受け取れる何を指し示しているのか、の範囲がかなり広い。
語るべきことを空白にするなら逸らすのにまだ手管がいるかもしらんね。技によって戦うなら、この詩はもっと丁寧に「軽く」しなきゃいけないと思う。37 : [返信] ひふみ ('08/01/11 08:25:05)
このレスポンスひとつにどれだけ時間かけたか知ったらきっと驚くんだぜ?
まぁ、そんなのはどうでもいいや。本題。手元の辞書の「詩」の一節「選び抜かれた言葉で表現されたもの」と同様の印象、特徴といったものがあれば「詩」とするってのが「現代詩」だと思ってる。古めの日本文学を主に学んだ人間からすると詩としては甚だ不自然なものも詩になるのが現代詩。ちなみに、ただの分析情報提供ですと断っとくね。間違いを指摘しようとか、心情吐露とか、義侠心とか、そんなのはない。
んで、一般というか世間というか、まぁ、そんな感じなところに溢れてる「詩」は「それなりに選んだ言葉で表現されてるけど特に目を見張るとろこのないもの」が多数派だと私は推測してる。これはそこらの人に「詩を書いて〜」てやってみれば分かるんじゃないかな。辞書的な詩の定義に当てはまるけれど、他人に向けての表現としては精度が低いものが沢山出てくると思うよ。
詩は既に十二分に偏見と無関心に侵されてると思うんだわ。明確に線引きはできんけど、読む人にも書く人にも何かしら偏見はある。その偏見を無くそうとか思わない。だけど、書く人には、そうね、偏見を利用しろ、と言いたいね。何を書くにしても、偏見、先入観、固定観念といったものは自分にも相手にもついてまわるのさね。なら利用しちゃいましょう。
そういった柔軟さが足りないんだ、この作品は。能書きのために根本の部分を上手く使おう。どうせ汚れるなら汚れを利用しなって。まんま作者信仰になりそうな自身の近況を引用したレスポンスと類似する力業を作品で使うのも、長い目で見れば、作者を空白にするに有効な手だてのヒントになるものじゃまいか?と思うのですよ。37 : [返信] ひふみ ('08/01/18 09:40:40)
んーむ、「文学極道」と「文学極道の」を尊重すると書けることに縛りが多い。
流れの調整という点でレスポンスを見直した方がいいかもしれない。意図の開陳が速くて他の人がレスポンスしづらくなってる可能性がある。かくいう私がそうだった。それは「文学極道のケムリ」にとって本意ではないよね、と思うんだ。37 : [返信] ひふみ ('08/03/24 17:07:52)
うん、何度読んでも筋が通ってる。園理さんのレスポンスの話ね。コントラさんのも、こっちのも、筋が通ってる。ま、自己解釈ができるなら筋も通せるわな。
んじゃ、役者不足ですがやりますか。
この詩に限らず、こういった詩、ないし、文作品という枠で話します。
軽く仮定義すると、「何も言っていないのを何か言っているように思わせる」作品。ある種の読解力が備わっている読み手が相手だと無力な奴ね。私みたいな奴からすると、どうして書いたのか、くらいしか話にならない奴。>小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですね
まぁ、「何も書いてないけれど何か書いているように思わせる」技術とでも言い換えましょうか、従来の詩が主に作者の思想や生き方から信仰されたのとは逆の、技術や手段の信仰とでも言えば良いかね。つまり、題材や思想に価値を置かず、どう表現されたかに価値を置く。そのロジックについての話は横に置いときますか、長いし。
こういう作品は、文学極道では珍しくないんでないかな。F.yあたりだと個人的な何を書いてあるかが分かりやすいけれど、作品としての特徴が乏しいってのが多いんだけれど、文極だと個人的な何かは(特に含めて)書いてないけれど、作品としての特徴が富んでいるってのが多いと思う。
ちょいと脱線すると、ケムリさんの文学極道のロジックはそれなんだけれど、それに対して通せる筋はふたつあって、ケムリさんのロジックを発展させるか、別のロジックを実践して対峙するか、なんだよね(そうしようとする事も含む)。だから園理さんのは筋が通ってると私は判断した。>さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。
詩それ自体を是として、空疎な印象を受けることはいわば失敗とし、では、失敗の原因は。うん、論理的。そっから先をどう拾うか、なんだけど。
コミュ学的な分類で拾ってみよう、文学部とかでもやるのかな?かいつまんで言うと、言語には習慣的な約束(決まり)があって、その上で人間はコミュニケーションを成立させている。日常では気づき辛いけれど、細かな差違で話している人自体の捉えられ方がかわってくる。女性と女では意味は同じだが、意図に違いがあり、思われる人柄にも違いが出てくる、という感じにね。>そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。
というのは、(段階は考察してないけれど)話者の意味と意図とで食い違いがあるか、過不足がある可能性の示唆と捉えていいんじゃないかな、と。つまり、作者の方で空白であったとしても、登場人物には何かしらある、ないし、何かしらあるように思わせる定義、(仮の)意図の存在が不可欠なんだけれど(そうでないと話者が語る必然がなくなるからね)、それが作りきれていないので、ひとつの表現にある意図と意味が同調しない。
しかし、私らは文体という言葉を広義で使ってるな。
とりあえず、ある程度自覚的に描けるようになると、文体ってのはおおまかには使い分けることが可能なのですよ、意図に合わせて変えられる。例えば、友達と恋人の前では態度が違う、というのを文で表現(創作)できるようになる。自分の文体というものが、使い分けることが出来る物である以上、どのように突き詰めるかが問題だと私なんかは思うわけですが、たぶん、園理さんのいう「自分の文体」の定義は異なっていて、もっと本質的なものだと思う。
つまり、デッサンされたもの(基礎的な文体)のデッサンってのは「物を正確に描写する」で、「どうデッサンしようと、書くのが個人である以上違いは生じる」ということだろうと思う。デッサンには作者の無意識的な意図が生じる、と仮定する他ないかな。哲学的な言い回しすると、見本となるデッサンはあっても個人が模写したものである以上は完璧なデッサンは存在しない。しかし、個人性を突き詰めたデッサンは可能であり(可能であるとし)、それは基礎的な文体(ないし文章能力)として、題材(題材を作る能力)となり、鑑賞者(読み手)の立ち位置を確保する。うん、小難しい。
根元論や、超基礎的な練習法みたいな話なっちゃうんだけれど、つまりは、創作作品というものはそもそも二次的な存在であるが、一時的な存在になることが可能であり、その手段の一つとして線の探究と確定、物事の正確な描写が挙げられる、という感じになるんだよね。風景詩を例に取ると、風景の描写で描く前の風景を思わせるのでなく、そこに風景があるように思わせる、という次元にまで文体を高めろ、という感じに取れるのだけれど、どうなんだろ。
というわけで、まぁぐたぐたになりつつ拾ってみました。正確に拾えてるとは思わん(笑)。他の(発起人含む)参加者からの意見や異見はあった方がいいね。そうでないと、文学極道としての意義が足りない。つっても私は役者不足なんだけど、どーにも看過して良いとは思えなかった。
そんな感じです。園理さん、訂正とかあったらよろしう。37 : [返信] ひふみ ('08/03/29 10:13:02)
自己省察に入られても困る(笑)。
園理さんの提示を取り入れて主な問題点をあげると、
「意味と意図とで食い違い、ないし過不足が生じている可能性がある」
辺りで良いと思うのだよね。その原因や解決策を幾通りか挙げられるとしてね。
説明すっと長いんだよなぁ、この詩に限っても長くなるので端折る。>駄目かな。前提としては、かなり甘えた発言になるんですけどね。
文学極道の現状を考えると、駄目じゃないけれど厳しい、と思うよ。38 : [返信] ひふみ ('08/01/25 19:33:59)
構築姿勢は隔絶。作品にあるのは濃度。習作としてなら良作。
罵倒も酷評も「だと思う」に過ぎない。どう分別するかはご自由に、だね。
さて、私には余地がない。仮想する読み手として類似するのは「何かに追われるように生きている人」あたりが適切だろうか。
心理の間隙を突きもせず、人の甘さを利用もしない。ただただ描写という手法で形作られた世界。筆の力強さだけしかみるものがない。突きつけることも、騙すこともしない。色んなゲージュツがやってきた自己(世界)表現の踏襲。圧倒には事足りない練度の習作。
私は余人より若干詩に触れすぎているせいか、自己表現にウンザリしている節がある。社会的生物としての人間は自己表現を欲するが、他人の自己表現には極めて不感症だったりする。まぁ、智だけではとうに滅んだろうし、エゴってのは必然としてあるんだろうな。んで、しがらみで聞かなきゃならない「他人の自分語り」が好きって奴はそーいないだろうと思う。
んじゃ、何を聞きたくなるかのかね、人は。何だったら聞かずにはいられないのかね。聞く耳を持たせる方向の手法もなく、耳を塞ぐ手を無意味にするだけの強度もない。作者から目を外せる私には甚だ弱い詩だ。としかいいようがない。
著名な芸術家の作品より好きな人のツラの変化の方が感動したりする世の中です。「読まれるもの」ないし「読まれるものに繋がる可能性」としての評価はとても低い。と思うのが私だけで、参加者の殆どがこれで良しと思うなら、文学極道に私が不要であることは確実だろう。それくらいの覚悟はしてきてる。38 : [返信] ひふみ ('08/02/23 17:30:16)
とりあえず気づくの遅れてすみませぬ。
>園里さん
>その通りだと私も思うのですが、その「出会い」が「設定としての語り手に感情移入して世界観を体験する」読み手だけに限定していいのか、ということは、問題設定として、きな臭いけれど面白いところだと思います。結局立場の問題になりそうだし、個人としての志向は別にしても、どっちを向いてもそんなのばっかりだから、そこを問題にしてきたんじゃないの?とひふみさんはおっしゃっているように思える。
そういう風にそういう点に繋げれられればオーケーです。オーケーってのも変ですが、そんな難しいことは書いてませんので。>コントラさん
詩の書き手の一面である不特定多数へ表現する者としてどういう視野と態度を示すか、です。将としての視点と兵としての視点の双方を使い分けられることを勝手ながら願っております。36 : [返信] ひふみ ('07/12/25 08:33:52)
んーと、つまり、戯画?普通に読むと自身への戒めというより風刺の色合いのが強いよね。とか挨拶を省きつつ。仲良くするために書くわけじゃないしね。
テーマ自体は嫌いじゃないな。ありだと思う。(笑)を上手く詩にしちゃう方法なら何通りか思いつくけれど、それとは狙いが違うわけだ。
なんだろうね、消尽とはうまくいったもんだけれど、それとはちょっと違うよね、結局の所は詩をどう読むかのひとつの手順だ。
私も読み手として色々と考える方だから、この手はありだと思う。でも、現時点ではあまり評価できないな、手法の提示というより提案と試験の段階だもの。
ちなみに私自身はこの手を自分の詩にも他人の詩にも使う気はないけれど、興味はあるので、ちょっと考察してみよう。
・耳障りの良い表現の末尾に(笑)をつけて読んでなお印象が崩れ(覆ら)なければそれは強度のある表現だ。
強引だけれど、仮説を立ててみた。これって(笑)が適切かは分からんね。(爆)とか使いようによって寒くなるのならなんでもいい気がする。
まぁ、(笑)で話を進めよう。
詩でありがちな、悲しい、寂しい、苦しい、といったのが表現の軸になっている詩にとって対極の表現に、まぁなるから、一応は天敵となりえる。つまり、そういった詩を突き放して読むには便利かもしれない。楽しい、面白い、が表現の軸となるとちょいと疑問符つくな。
私だったら、個人的にすっごく嫌いな奴を話者ないし作者さんに当てはめて読むだけなんだけれど、それよりは具体的な手順を踏めていいかもしれない。ただ、それで実際にちゃんと評価の物差しになるかというと疑問符だね。つまり、好きな作者さんの表現は(笑)をつけてもやっぱり好きだったり、思い入れのある表現は(笑)をつけても印象が覆らない可能性がじゅうぶんに考えられると思うのだ。
まぁ、実際に使われてるのは、私の知る限りこの詩だけだし、仮説の考察だから、あんま突き詰めようもないし、問題点なんかケムリさんも幾つか思いついてるだろうと思う。
確かなのは、確立するにはまだ試験が必要ということ。それも客観性を重視したのね。
誰かに詩を出してもらって、その段階で何人かに読んでもらう、次にケムリさんが(笑)を片っ端からつけて、その段階でまた読んでもらう。それで印象が変わった、(笑)をつけただけで駄目になった、と思うところをあげてもらい照らし合わせる。それくらいはしなきゃ駄目かもね。
といっても、突き詰めていって「自戒や義務感から書いて出しただけ」ってんならそんなことをする必要もないだろうけれどね。36 : [返信] ひふみ ('07/12/28 07:32:06)
あぁ、私は頭が悪いなぁ。整理します。
「消尽する読み」「文節の終わりに(笑)をつける」
つまり、あらゆる読み方の中のひとつの実践。
ひとつの方法で他人の詩を読む場合、自分の詩にも同じ方法で読むことをしなければならない。これが義務感かららしいけれど、場の意義という観点からみて公にする必要があるのかは疑問。その読みを中心にして構築された詩なら意義はあると思う。ひとつの読み方を基準にして詩を書くとこうなる、という発展性の示唆になる。
他人のだろうと自分のだろうと作品に対して思いつく限りの視点で読むのは当たり前にやるべきこと。でなけりゃ何を基準に推敲するんだ、詩を精査するんだ、って話になる。
ひとつの読み方を「こんな風にやってます」といちいち実際に形にして公表する必要があるんかね。その読み方が一にして全、その読み方だけで全てを網羅できるというものでない限り、きりがないよ。
きりがないことをしようってんなら、少なくとも(笑)だけでなく、いままで実践してきた読み方も同様に形にしなければ片手落ちってもんだ。
場に対する(笑)という読み方の提示ではなく、個人的に必要なことだから、ってんなら(笑)だけじゃだめだ。全部やんなきゃだめだ。36 : [返信] ひふみ ('07/12/28 14:07:05)
狂信者にしてはムラがありすぎるよw
私は文極の目的と目標を私なりに解釈して組み込んだ、いわば文極用に再構築した存在として此処に書き込んでるわけでして、人として必要であっても文極にとって不要であると思うことはぬけぬけと省いたりのうのうとすり替えたりする気を過剰積載です。ですから、挨拶を省いてくださったことに感謝します。
お互いにやるべきことがありますし、流れ的にもここらでしまいとした方がよい気がするので短めに、再度の返信が必要なさそうなものを。>その読み方が一にして全、その読み方だけで全てを網羅できるというものでない限り、きりがないよ。
ちなみに、これ、「んなもんあったら苦労しねー」といった意味合いの叫びが言外に含まれてます。
んー、ケムリさんは外から、私は内から、という違いかな。どちらがより不親切かは相手方の判断に任せましょうかw35 : [返信] ひふみ ('07/12/26 10:12:00)
芸術としての詩というもんだから、とうに芸術としての詩のありようなんてある程度は定まってるんだろう、と思ってたらもっと前の段階だった、という現実に暗澹としたり。
いまメインでレスポンスいれたり詩を出してる人たちと比較して、私の目指す所は違すぎる気がするけれど、場の目標と目的に従う覚悟はできたから、書いてもいいだろう、と自己完結。
んで、訊きたくなったわけです。
これ(伝書鳩、夜の情景、子供たちのバラード)が前田さんにとって芸術としての詩?芸術として、に基づいて書かれた詩?
作者さんが、そうだ、といえないと前提がぶち壊しなんだよね。
芸術、芸術としての詩をどう定義してるかによってもぶち壊しなんだけれどね。
芸術が過程として、まず、求められてる場であること、失念してないかい?と、三編を読んで思った。
前田さんの詩にだけ思うわけではないけれどね、曲がりなりにも発起人な人の詩に対してレスポンスした方がこちらの意図が鮮明になるだろうし、私の間違いも指摘してもらえちゃったりするかもしれない。などと甘い期待。
うん、根の方から書こう。
芸術としての詩という言葉を、私は問いかけと受けとめて、それに対する応えがある程度出来上がるまで、見ることと考えることに徹してた。
まぁ、ある程度までしか出来上がってないけれど、一応は形になったので、それを軸にレスポンスするわけなんだけれど、相手も芸術としての詩という言葉を仮にでも定義できてるか超不安。
出来てるよね?出来てますよね?出来てなければこのレスポンスは無価値よりタチの悪いものになるんだけど、前田さんは仮にも発起人、出来てるに違いない。
違いないはずなんですよ。
文極において芸術は、まず手段としてあります。芸術という言葉の示唆するところ、目指すところも明瞭です。
少なくとも一個人に終始する人では辿り着けない場所を目指しています。
個人的な解釈に基づいた解説の一部になりますが、間違ってますでしょうか?
間違っていると思うならそれはそれ、そうかも知れないが同意しかねるといのもそれはそれ、結局は無価値よりタチの悪いものにすぎないだけのこと。
私の解釈した場の目的に準じて三編を読むと、私とは前提が違うとしか思えないのです。
詩を出す場所を間違えてはおりませんか?
場にそぐわぬ目的に拠って詩を投稿しておりませんか?
レスポンスを書く者もまた舞台に立つ役者であることを忘れてはおりませんか?
芸術、芸術としての詩、そしてそれが提示された場、そのどれかにでも応えようとした痕跡が、私には見あたらない。そう結論が出た以上、この詩が仮に優れた詩であろうとも、この場においては無価値よりタチが悪いものだ。評価する以前の問題からやんなきゃだめだ。
さて、このレスポンスの根幹の場の解釈が間違ってんなら、とっとと踵を返すわけだけれど、どうでしょ?
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