40 : 青い花 ダーザイン '08/04/14 00:14:07 [URL]
口の中に微かに鉄の味がある
コートの袖口が擦り切れている
錆びたドラム缶からはいだして
月下の廃工場を後にする
奏者を失って久しい機械が
ほの青く光る一群の風琴になっていた
鳥が飛び立ってから
ずいぶんと時がたったのだ
片道4車線の巨大な環状線は凍てついて
光るアスファルトに信号灯が明滅している
世界の中心である無人大交差点で
狂人であるわたしは叫ぶ
すると巨大な沈黙が頭上に降りてくる
遠い地響きと共に雨がとおる
遺棄された高層ビル群が
ひとつまたひとつとストップモーションで崩壊し
ガラスの雨が虹色の月光輪の中で光る
都市はひそかに形而上学派の円形図形を
模擬構成しており
からっぽの曼荼羅の中心に立てば
高架は身をよじってのびあがり
星々の彼方へと続いているのだ
冷たい夜風に乗って
空の道をひとり頂へとたどれば
夕べの群雲はすでに色を失い
街灯の明るみの中に 再び
ピンクのワンピースの少女が現れる
彼女はただ微笑んで眺めている
ただ微笑んで眺めている
世の終わりの果てにはなにがあるのか
ワンピースのすそをそっと風がなでて行く
藁色の髪毛がやわらかくそよぎ
わたしは彼女を抱きたいという強い衝動にかられる
断線した電線が歩道を打ち
わたしたちの足元を世界から浮き立たせた
丘の下にひろがる廃都は
ふいごをあてた燠火のようにほの暗く明るんで
灰の灰
塵の塵
少女の口がかすかに開き
Aのかたちに開く
基準音A:440Hzで
またひとつビルが倒壊する
どのような秩序のための調律なのだ
一瞬少女はふりかえり
わたしの目をまじまじと見つめた
彼女の髪にさしのべた手は空をつかみ
ちりりと音を立ててホログラムは消える
水路にこだまする声
声
残像は消える
消える
幾層もの気圏を立ち上り
幾層もの気圏を結晶させて
ふりかえる窓辺にはひとつの灯火もなく
廃都はどんどん小さくなっていくのだった
まだ空が青かったころ
風使いたちのグライダーが
積雲に彫刻していった識域下のメッセージ
巨大な少女の横顔をして
白々と結晶していたのだが
空の巨人たちはきりきりと舞い落ちて
音もなく
音の痕跡もなく
送電線をつたわって
うねりのびる高架の上をどこまでも漂えば
金色の波が打ち寄せるところ
夜明けの岸辺にオリオンが映っている
どこか遠いところさ
思いおよばぬ遠いところさ
えいえんに
開くことのない青い花が咲いている
そんなうわさを
まだ信じていたのだった
そっと水たまりをふんだ
青ざめた月がゆれた
>> permanent URI: http://bungoku.jp/pbbs/20080414_420_40p
ひふみ :
一連目だけかな、一般的な個人の好みに大きく左右されないだろうところで、それなりに評価できるのは。
作者評を絡めずに書くとそれくらいしか書くがことない。 ('08/04/14 05:55:35)ダーザイン :
>ひふみさん
なんだって? 二連め以降は何も書いていない、何も書かれていないも同然の酷さだってか? (追記)ちょっとひふみさんに頼みがあるのだが、文学極道amazonで「ユリア100式」という漫画を買って、笑ったり性的興奮を覚えたり楽しめる代物かどうかご報告願えないだろうか。気になっているのだが、俺はまだ手が出せないでいる。貴殿の批評眼を買って。 ('08/04/14 20:15:53 *1)Kasumoerer :
ユリア100式を評価する者は<残念ながら>知人にいるのだが、あれで楽しめるのはエロゲに魂を吸われ尽くされた漫画業界の人だけ。 ('08/04/20 23:33:45)コントラ :
最初のつかみや世界の描写はいいと思うんですが、少女との解后がいまひとつサイドストーリーで終わっている気がする。ただ、書かれてる世界自体は悪くないし、世界が電話線のなかのミクロのビニール繊維の内部に還元されていくような、朝も昼もなく永遠に夜であるようなワイヤードの世界の住人としての詩の書き手、というダーザイン氏のビジョンは完成に向かいつつあるとうことで、僕は肯定的に評価したい。ただ、発起人の作品として、ヒューマンドラマが今ひとつかけていない、という課題は残ると思う。 ('08/04/23 13:36:25)ポチ :
ダーザイン氏の作品の多くには女性が出てるが―果たしてはそれは本当に女性なのかという問いを含んだ上で―ただこの詩でいえる事は唯一、ワンピースの女性のみが「発話」するという位置にある。これは、一体どういう事なのだろうか―発話されるものは、基準音Aで440は(たしかラの音だったかな。)。彼女は、つかめないが、痕跡としての発話のみが残り、声=彼女、という一件不可思議な構図の中で、彼女の声は、こだまし消え去っていく―僕が聞きたいのは、消え去った声がどこに消えていくかということだ、痕跡は残るはずだ、果たして本当に消えたのだろうか―声は、内在化される―もうそこには外側と内側の区別が曖昧になる、発話=彼女=もう一人の誰か(君か(笑))が残り、現実は否定的な言葉で「廃都」と名づけられ―なぜ「廃」なのだろうか何によって破棄または捨てられたのだろうか―視点は見下ろしの視点から、見上げるという―空は常に上に―視点に移動し、そこにはもう「音の痕跡も音もない」ないのはすでに、そこでは、音がこの作品の語り部の中で内在化され同時に、発話=聴く事、として、完結されてしまっているからだ。(ただ、声は同時に、誰かに「聴かれる」という可能性を秘めていることを、発話することは=他者に出会うこと/自己が聴く事の恐ろしい二重性を持っていてそこには、いつも開かれていく可能性が残っている)
否定的な語彙で語られる青ざめた月や廃都―ただここで重要なのは、水溜りという反射された偽りの青ざめた月を踏むという行為だろう―偽りの月を「青ざめた」と語る。(この視点も下を向いているが、本当の月―つまり天空に上にある見上げる視点でしか見ることができない水面に虚像を反射させている真実の月は語られてはいない)。
コントラさんとは違いこの作品は、まだ朝も昼もなく永遠に夜であるようなワイヤードの世界には到達してはいないと思う。それは、恐らく、作者の人間性(良い意味で勿論使っている)が滲み出てしまうのだろう。何よりも、開くことのない花は、実際にはすでに開かれてしまっているのだ―信じているという行為によって―。
Joy Divisionを聴きたまえ。君も好きなんだろう。Preston Warehouse 28 February 1980の03 Twenty Four Hours.wmaは、ワイヤードかどうかは分からないが、ズブズブの漆黒の闇に誘われる。
まだ実のところ、極道でいうワイヤードの意味を正確にとらえてないが、私も朝でもなく昼でもなく夜でもないものを書こうと狙ってはいるよ。というよりかは、世界は重力の重みで、朝だとか昼だとか夜だなんていう境界が重みで押しつぶされて消え去ってしまうぐらいのものを見たいものだよね。 ('08/04/24 01:57:25)コントラ :
あと、この手の作品で触れたいのは、ここで描かれている「廃墟」という光景の歴史的な起源で、美術批評家のサワラギノイなんかが指摘しているように、潜在的には公的言説において抑圧されている第二次大戦の破壊や殺戮の記憶があり、それに触れることができない、トラウマ、もしくは一時的な忘却が、無根の閉じられた世界、これはジェームソン的な意味でのポストモダンに近いけれども、村上隆を引いて言えば、日本特有のスーパーフラットな現実を構成している、という点でしょうか。僕はヘーゲルだとかハイデガーだとか大物哲学者をひくより、むしろ、この作品と、「日本」という具体的な局面において、その歴史的ルーツに回帰していくことこそが、すなわち、弁証法的に現実を超越していくことだと思うのです。
これは誰もやりたがりませんが、明治維新までとりあえず戻って水脈をたどり直してみる、という意味です。
ぜんぜん知らないけれど、北海道というのは日本のなかでも先鋭的にポストモダンなのかもしれない。「ポストモダン」な国の辺境ですしね。これは妄想かもしれないが。 ('08/04/24 14:44:30)ダーザイン :
これの初稿は2004年の3月で新作ではありません。ただ、シリアルエクスペリメントレイン後であったので、既に俺の脳内的には橘総研の素粒子コンピューターで現実というもののパラダイムは大転回していました。
廃墟はなんでしょうかね、精神状態もあろうが、レインに出てくる廃都のイメージが頭にあったし、この年ちょうどやっていたアニメに(タイトル忘れた)廃都で少女が音叉を鳴らすシーンがあり、「お、これいただき!」とか思った記憶がある。また、佐々木昭一郎の「四季ユートピアノ」のピアノ調律師になる少女の映像詩は高校生時代の俺に食えない芸術家まがいの者になる運命を与えたような出会いであったと思うし。
コントラさんが聞きたいことについて話せば、廃都は俺の原風景でもある。北海道は元産炭地であったので、あちこちに巨大な廃都があった。俺は中学生時代から、奔別や万字といった廃村に異常な執着を持って通いつめていた。札幌にあるような巨大な映画館、学校、住宅、全てコンクリートの塊と化し、無人の廃都は周囲の森林に侵食されてカンボジアの寺院のように緑と溶け合い、私は何か形而上的なメッセージを受け取っていたのだと思う。そして当事はまだ冷戦下だった。いつ原爆戦争が起こっても不思議でない状態で、ベルリンの壁がなくなることなど誰もまともにイメージできなかったと思う。アメリカとソ連による冷戦は永遠に続くと思っていた。ゴルバチョフが登場したときの驚きとその顛末は今も鮮明に覚えている。それは帝国主義犯罪者国家ソ連などの崩壊であったが、同時に、共産主義という理想の一時的な失効でもあった。この美しい理想のために、どれだけの人間が死んでいったことか。シベリヤのラーゲリやポルポト、カチンの森、クロンシュタット、プラハ、文化大革命、浅間山荘、、特にテレビでリアルタイムで見て興奮させられた全共闘の類が浅間山荘や東アジア反日武闘戦線 狼 などの気持ち悪い顛末に至ったことにはなんともいえないアンビバレントな気分としてずっと消化されないできた。後年、笠井潔の「テロルの現象学」を読んでも気持ちの整理は付かなかった。歴史性ということを言うのなら、俺の歴史は全てここに帰る。ベルリンの壁や浅間山荘に。20世紀という時代に。
ただ冒頭で言ったように、「シリアルエクスペリメントレイン」(ワイヤード、即ちネット)で生じたパラダイムの大転回は20世紀の展開をはるかに上回る巨大な物だった。レインで予言されたことのほとんどは既に現実化しているね。俺が英利政美だと仮定すれば「ワイヤードには神様がいる」と言う言葉すら実現した。笑い。
ワイヤードについて、それは何もかもを越境していく地平だが、身体性という問題があった。ところが、とうとう素粒子コンピューターまで実現してしまうようじゃないか。身体性という問題も止揚されてしまうのではないのか? 素粒子論的なコピーは原本を崩壊させ、原本とコピーの差異を消滅させるのではないのか? 多元宇宙の扉が開かれることは恐ろしいことだ、俺のイマジネーションを超えるから。例えば「ノエイン」という最近のアニメも良かった。最先端は「電脳コイル」。電脳コイルに倣って今流に言えば、ピンクのワンピースの少女はイマーゴで、ワイヤードは生の外部にも接続されている。
Joy Divisionは20年以上前に全部レコードで聞きました。パウルツェランの正統後継者だ(ヘルダーリンやエックハルトから脈々と続く存在論の血脈)。でも、ああいうものを聞く気は今はもう毛頭ないね。精神衛生に良くないし。今はマジにほとんど癒し系のアニソンしか聞かない。牧野由衣とかeufoniusとかたまらなく好き。
英利政美は贋神だったが、ワイヤードには岩倉玲音という悲しい目をした天使が本当にいる。Serial experiments lainは新世紀の神話であり、そしてその神話は現実になったんだ。時間と空間の内部に、外部に、遍在する者、まさしくイマーゴ。
何度も言っているけれども、「Serial experiments lain」、これ見ないと話にならないし現代人じゃないよ。レンタル屋で借りられなかったら貸してやるよ。もうねえ、レインの後では身体性も、現実という言葉もシンプルな物ではありえなくなったのだから。大地に根を張って生きている身体性派の人は実はもう物理フォーマットされてあっち側にいることに気付かないだけかもよ。
ikaikaの人は何を文学極道の本に載せて良いのか連絡をくれないと困るな。 ('08/04/25 00:08:59 *4)ダーザイン :
追記。ハイデガー風に言えば、存在の痕跡は常にある。それがピンクのワンピースの少女であり、岩倉玲音であり、イマーゴだ。 ('08/04/25 00:17:59 *1)ポチ :
>>ダーザインへ
好きなのを好きなだけ載せていいよ。俺はそういうのにはこだわらないから、そっちで好きに決めてくれればいい。身体性については、常々よく考えているけれども、やっぱり、俺は土人だから、どうもダーザインがいうようなことは受け入れられない―単にそういう領域に関する知識がかけているせいもあるだろうけれども、俺はやっぱりそれらにはあまり期待を信じていないんだよ。結局、こんなネット上の論争をいくらやっていても、最終的には、「よし、コブシで殴り合おう」なんていう言ってしまう人間だし、そうありたいと思っている。(たぶんこれすらも、物理フォーマットされたうんぬんで語られてしまうだろうが)。
たぶん、俺はすごく否定的な形でしか物事を語れない人間だから、それは実際のところ自分の身体の欠落の問題へと直結しているわけで、(あぁ、身体と身体性を混合している可能性があるな)身体に閉じ込められた精神でもなんでもいいが、それがいやおうなしに、痛みや苦痛を訴えるという現実を俺は否定することができない。その確信からしか俺は何かを書くことや、語ることができない。
('08/04/25 00:39:15)ポチ :
話はぶっ飛ぶが、結局、誰もがそうだろうけど、欠落、からしか語りだせないし、詩を書くこともできない。ダーザインの詩は、あまりにも、俺からしたら、その欠落が整理されすぎている気がする。とても、フラットするぎるんだよ。まるで、そうだテレビ画面だ、アニメの世界だ、平面的な印象を受けてしまう。単に、俺とは好みやセンスが違うだけなのだろうけど、いや、それがダーの欠落そのものなのかもしれないが、どうしてこういうものばかりを書くのか(俺も同じ事を突っ込まれるのだが)という疑問ばかり。 ('08/04/25 00:43:36)コントラ :
俺は、基本的にネットはあんまり重きを置いていない、という点で、ポチ氏と同じかもしれない、というより、好きじゃないんですよ。銀行の振込みやら、友達とのチャットから、この前行った小旅行の写真まで、すべてラップトップのちっこいモニターに集中化することになった結果、どちらかというと生の身体感覚みたいのに「欠落」感を持っている僕としては、この小さな液晶画面から日常の物理性をうまく脱中心化していきたいという気持ちが強いです。
それはさておき、ダーザイン氏のいう「歴史」というのはある意味、メディアを通して作られている部分が多いような。それを批判する気は毛頭ないし、ある意味メディアにつかりきった僕らの感覚を、それ自体として作品につなげていく、という路線はありだと思う。
注釈をいえば、僕が言っている歴史というのは、もっと個人の生に根ざしたもので、個人的回想の手の届く範疇を、いかに、「土地」や「時間」に根ざしたものとして語らしめるか、という問題意識です。だから、万字の旧炭鉱地帯の光景からインスピレーションを受けるのはもちろん大事でも、そこで根を張って生きた人々や家族と、いわば外側からその「光景」を発見していくプロセスにはかなりのずれが横たわっているわけで。むしろ、大事なのは、書き手なり作品の作り手は、その光景に自分の中に既にあった「何」かを投影しているとうことで、その「何」かを納得した上で書いていくことだと思うのです。それがまあ、ポチさんのいうところの「欠落」の意味かもしれないですし。
でも、これは僕自身のスタンスだから、ポチ氏のように、「欠落」がなくては詩が書けないとは、昔思ってたほどには、思わないし、欠落から出発しないオルタナティヴもいくらでもあると思う。
これは個人的な趣味ですが、僕は文章を書き出すとどんどん欠落感が広がっていくような気がして、対症療法としては有効じゃないと考えている。それで最近写真をとりだした。ある意味、写真を撮るという行為は、あらゆる芸術メディアのなかで、一番身体的だと思う。このあたりもいずれコラムで書きたいです。 ('08/04/25 01:43:29)ポチ :
欠落からではないオルタナティブも全部やられちゃってるんじゃない。例えば、極道で、皆して、構造がどうとか、技巧がだとか、そんなの新しくも何もないじゃないか、と俺はいつも思ったりしてしまうし、例えば、一条さんの作品だとかも俺はやっぱり面白さを感じないんだよ。それなら、もっと才能ある過去の人が何倍もの面白さで書いてしまっているでしょうよ、と。
というよりも、構造や技巧なんていうものの評価の空疎、空虚さに俺は耐えられないだけ。構造や技巧なんてもうすでに個人には根ざしていないし、多くの批評家は環境が作品を生産するとまでいってしまっているじゃない。特殊な空間の中にも、需要や供給、消費の循環はあって、もうそこには、作家という個人が自己反省してかくよりも、その環境において「最適化」されたものが消費されていく、つまりは、「環境」が自己反省している、という恐ろしい転換があるだけ。だからもう、作者は何も考えずに、何を書いても、環境によって生産されてしまう。
また、日本のマルクス主義ですらもすでに何十年も前に、概念的な「闘争」なんてのは嘘っぱちで、実際に闘争が行われている場には土地があり、血が流れている、という方向転換をしていく人たちもいたわけで、でも、結局彼らも失敗していくわけ。また、歴史なんてのはつねに編纂されてきたし、ポストモダン以降の理解では、歴史なんてのは権力やまたは、断続的でありそもそも、「歴史」というものが覆されてきたりもしてるわけでしょう。また、それらは、編纂されていると同時に常に、更新されていってしまう。新しい発見によって、学会の定説が崩されていくのなんてのはよくあることで、もう「個人の生」なんてものがどういうものかすらも僕らには把握すらできない。「個人」は常に単独ではないし、個人の中には常に、それらをぶっ壊す「異質」「異物」を含んでいるし、また、個人の中には計り知れないほどの多くのものが意図的にであれ、そうでないであれ流れ込んできていて、これが僕の「単独性」または「固有のもの」と名指しできるほどのものは果たしてどれだけ残るんだという。
ジオングじゃないが、「偉い人には分からんのですよ」と言いたくなるわ。 ('08/04/25 14:08:30)コントラ :
>もっと才能ある過去の人が何倍もの面白さで書いてしまっているでしょうよ
それは哲学的には難しい問題だけれども、そういう発想しかできないのは、貴方に才能がないということじゃないかな。才能がないということをネガティヴにとらないで欲しいのだけど、要は、あなたにとっての適所じゃないってことですよ。
本当に「才能がある」人は、たぶんそんなことは考えないでしょう。あと、アートとか詩とかで、世間に認められるかどうかは、実際の作品を前にしての審査員の好みだとか、どれだけ自分を売り込めるか、という案外つまらないものが作用しているわけで、結局、ポチさんのこのレスには、「認められたい」というコンプレックスが見え隠れしている気がする。
オリジナルなもの、これも哲学的には困難な問題。だけど、言ってしまえば、信じるしかないと思いますよ。それで、自分には才能がない、と自覚したら、あっさり、それはあきらめて、別の何かにいくことだと思います。何も詩だけじゃないし、僕は、そういう逃げ道はいつも用意しているし、それは逃げ道というよりは、単純に、世界はもっと広く可能性に充ちている、ということ。
ちなみに、詩について言えば。日本語で書いても日本人しか読めないという絶対的な事実は、読み手が限定されるということ以上に、もっとより深刻な意味を含んでいると思います。>これが僕の「単独性」または「固有のもの」と名指しできるほどのものは果たしてどれだけ残るんだという。
いや、絶対残りますよ。こう言いきれるのは、たぶん俺に才能があるから。そして貴方にはない(笑)
では。 ('08/04/25 15:45:46)コントラ :
あーでもあえてフォローしておけば、日本の知識人が言うことなんかに
惑わされないほうがいいですよ。彼らは欧米から輸入してる商社みたいなものだし、商品の解説書いてるだけですから。 ('08/04/25 16:02:22)ポチ :
認められたいよりかは、全部潰したい、に近いかな。自分が承認されることよりも、あまりにも醜いものに対する個人的な戦い―なんてマヌケナフレーズだろう―に近いんだろうと思うよ。
まぁ、日本の知識人の中にも、面白い人はいるし、翻訳家や紹介家なんてのは昔から言われ続けてきたことだから、拾えるものがあれば拾えばいい。そうであることを批判するのではなく、自分の種にすればいいだけだと私は思っていますよ。また、貴方が言われるように、世界は可能性に充ちているけど、僕たちは、常に、選択するときは、何かを捨てている―別の可能性を破棄している―ということなので、それを肯定的に、否定的に、つまりは倫理的な問題としてどうするかということは近年よく話題になることでもありますね。
コントラさんに才能があるかどうかという難しい問いに私が勝手に返答するなら、未だ貴方の作品は、コントラという固有名で語れるほどの強度を感じないことです。貴方は、私以上に恐らく「ポーズ」を取る方なので―貴方の作品を読むたびにいつも貴方のポーズの裏側にあるとてもセンチメンタル/ネガティブなものを感じます―。私は苦しそうな苦笑いしたかのようなポーズを取る人をある程度の尊敬の念を持って見ていますが、ポーズを取る事をやめた後に、そういう方が書かれるものにとても興味がありますし、恐らく私が好むものはそういう作品になると勝手に思っております。私もポーズをとっておりまして、期待をしていなようですが、多大な期待を他者の方々には向けております―ただ一向に、私の傲慢さを満たしてくれるような出来事には出会えないのですが―。
貴方は今後もポーズを取り続けていくでしょうし、それを自覚していかれるでしょう。がんばってください、という一言を投げかえる以外には私には返答が思いつかないので、これで終わりにさせていただきます。 ('08/04/25 17:04:48 *1)コントラ :
ぜんぜん俺のコメントの真意を理解してないな。ニーチェ読んだのか?ニーチェ。とりあえず、>これが僕の「単独性」または「固有のもの」と名指しできるほどのものは果た>してどれだけ残るんだという。
とかぐだぐた言ってるから、ばっさり切ってあげたんですよ。それは結局あなたの「弱さ」なんだって。
欧米コンプレックスは、だから、それが僕の欠落なんですよ、たぶん。
俺はポチさんの作品にはいつも期待してますよ。 ('08/04/25 17:30:36)ポチ :
おっと、書き直したところでレスがきたので、実際のところ、私はまじで傲慢だから、というよりかは、仏教的なものの影響下に自分がいること、いや、元々そういうのに近い思考や精神性を持っていた自分がさらに、仏教に触れることで、より強固になってしまったきらいがあるのにはとても自覚的なんですけど、私はとても信じていますよ。単独性や固有のものをね。挑発的に貴方に投げかける形で書いたんですけど、なんていうかネクラの文型のはずなのに、どこかスポコン魂的な部分が自分にはあって、自分も青白いはずだけど、他人が青白いとお前はマジで青白いのか!どうなんだこら!、と、突っかかっていってしまうという感じなんですよね。まぁ、なんていうか、自分の自己否定に耐えられなくなったものが外部に漏れていく事が私の攻撃性であり、それが作品を書くことの根底にあったりと、他人には迷惑きわまりない存在なんですが、まぁ業の深さ、という一言で最近は片付けることにしております。
また機会があればお話でもしましょう―どうせ、誰も、自分は自分でいることをやめられないのだから。 ('08/04/25 17:37:58)コントラ :
いやでも欧米コンプレックスを語ること自体がもう常套になってしまっているから、それはやめるよ。でもそれは古い新しいの問題ではなくて、いつも違うアプローチをとるなかで、指摘せざるを得ない問題として出てくると思いますけどね。ただ、聞く側に食傷を起こすのも無意味だから、あくでコミュニケーションの問題として別の方法を探すようにはしている。
というか、そのまえにいま僕らが語っている「日本語」という言語自体が深い傷を負ってしまっている、ということに思い至る。つまり正常に語れないことが多すぎる。その意味で、もう日本語で語ること自体に限界を感じてしまっているというのはあるかな。 ('08/04/25 17:38:21)コントラ :
ポチさん、ご馳走様でした。 ('08/04/25 17:58:30)ポチ :
コントラさんってよく分からないんだよね。たしか、貴方はアメリカで(院生?)やってるんでしたっけ。何のに、アカデミックな臭さが無い。意図的に貴方が隠されているだけかもしれないし、貴方の人間性(この言葉がいまだ機能しているなら)が素直にただただ現れているだけかもしれないのですが、日本語の「深い傷」や「正常」と言われるものはどういったものであるか、という問いが私には起こります。恐らく、今現在、貴方はそれを考えておられて、うまく言葉にできないのかもしれませんが、とりあえず、貴方が「不満」であることは感じられます。ただ、「傷」というわけですから、その傷は、何によってつけられたのか、または、自らつけたのか、そもそもそれは「傷」なのかという問いがまた残ります。また「正常」か否かを分け隔てる基準を何にするかというとても恐ろしい問題も感じます。
一度、まとまった形で貴方がこのような事をかかれることを私は望みます。 ('08/04/25 17:59:44)コントラ :
ポチさん、>その傷は、何によってつけられたのか、または、自らつけたのか、そもそもそれは「傷」なのかという問いがまた残ります。また「正常」か否かを分け隔てる基準を何にするかというとても恐ろしい問題も感じます。
ちょっと長くなるので、またべつの日にレスいれます。またはこの場が
不適ならフォーラムにでも。いま午前4時なんで、さすがに倒れます。
ではまたいずれ。 ('08/04/25 18:08:04)コントラ :
それは言語自体についた傷なのか、もっと広い文化や歴史や、もしくは制度の問題なのか、というのは微妙で、実は自分でもよくわかりません。ただ一ついえるのは、自分たちが何者なのか、という自己規定をしようとするとき、その傷は立ち現れると思っています。具体的には、ナショナリズムである、右翼であるという揶揄を受けることなしに、国家や歴史の問題に触れることができない不自由さがあり、その意味で、ある特定の語彙は不要に歴史的な負債を負っている、傷ついている、と考えます。
正常か非正常か、というとき、僕が参照しているのは、日本とまったく地理的な対極にありつつ、日本と同様に、アメリカ合衆国から不当な搾取や不利益をこうむってきた中米、南米の国々です。マルクス主義理論で言えば、キューバやニカラグア、チリなどの左翼政権や革命運動は、どちらかというと、アメリカ合衆国の血も涙もないグローバルな経済侵食や文化破壊(米国のバナナ会社の社長が大統領になったり、やくざのアメリカ人が突然革命を宣言して公用語を英語にしようとしたりとか)に対して防波堤の役割を果たす、ローカルなレベルでの、理論的なツールと考えられてきた面があります。その意味でこれらの国のとくに庶民層にとってスペイン語のcompan(y)ero (同志、同胞) やnacion (国家、民族) solidaridad (団結) resistencia (抵抗)というのは、比較的ポジティヴな意味を持つことが多いといえます。
翻って、日本の場合、これらのこと、平たく言えば、僕らが同じ時差帯の、広い世界のなかでもこの島国に同時に存在して同じ言葉をしゃべるという否定できない「現実」をとことん曖昧にしようとする傾向にあります。実に対照的で、一方は光を当てようとするのに、他方は完全に素通りしているようなものです。で、何も僕は、ただ理由もなく、これらの現実を意識化せよとか、「日本人」として自覚せよ、といいたいわけではなく、逆に、僕はずいぶん前から、「日本人として・・」と他人が話すのを聞いて、その中身について、いつも疑問を抱いてきました。ただ、確かなのは、一歩国外にでれば、通行許可書を首に下げねばならない現実であり、ポチさんの作品がパレスティナ人に読まれるとすれば、それは、一日本人の作品として読まれるであろうということだけです。
で、どちらが正常か、というのは、 ニーチェ的なスタンスを保ちつつ言えば、結局、どちらが、好きかというのに、他なりません。そして、確かに僕は、日本という国の現実に根深い苛立ちと不満を持っており、(いまは離れたから関係ないといえばないですが、離れたいまこそ、言いたいことを言わせてもらいたい、とも、その反面思います)、そしてその不満は僕自身の成長期とか、いろいろな記憶に根ざしており、詩なり写真なり、自分がつくる作品は、それらの記憶やそれから派生する現実に対する証明であり、異議申し立てであって欲しいと基本的には考えています。
文章書くのやめようと思ってましたが、ポチさんがポーズをとらない作品を書けといってくれたおかげで、ちょっとやる気になってきました。作品としてではなく、それは書いてはいるんですがね。それでは、ありがとうございました。 ('08/04/26 13:36:26)コントラ :
ああ、ネットが時間食いすぎてる。いちおう、5月半ば以降まで書き込み控えます、宣言をしておきます。
ちなみに、この「傷」がどうつけれたかについても、いちおう自分の中で結論にちかいところまで来ていますが、いずれなんらかの場で書きたいと思います。 ('08/04/26 13:40:14)ポチ :
五月以降またレスがくることを期待して、レスをします。
中米、南米に見られる公用語としてのスペイン語に関しては、まさにそれは、植民地という歴史を背負ったものであり、彼らは、自らを語るときにも、植民地の影響下によって悪く言えば強制された言語で語るわけですよね。これらは同時に、「非西洋」を志向すると同時に、「西洋」を志向しているという二重の乖離に落とされる。宗教学的なフィールドで言えば、よく原理主義者―実際にはこの言葉が意図的に西洋によって「名づけられた」言葉でその正当性を批判する言説もあったりします―達は、コーランに忠実であるかのようにみえますが、非常に西洋の思想を知らぬ間に取り込んでいたりするのです。
革命理論などは、まさに西洋産のもので、貴方も中南米を専門とされるなら、カーゴカルトの恐ろしい乖離またはツギハギ具合をご存知でしょう。西洋的なものを乗り越えようとする時、彼らが非西洋を志向する時、彼らは同時に、西洋的なものの中に取り込まれ、同時に、西洋を志向してしまう。
僕はもうこれらは逃れることのできないものとして、ただただ「注意」する以外にないと思うのですよ。まさに、これらを「傷」として否定的に語りだすか、または、「利用手段」として肯定的に語りだすか、という違いは、もうほとんど意味をもたないのではないかと感じています。(延々と二重の乖離に落とし込まれるだけになってしまう。)
僕は、自分の作品がパレスティナ人に読まれるとは思っていません。そこまで、想定して書くことが僕には到底できない。ここには、翻訳の問題から、様々な問題の故ですが、僕は「日本人」として読まれる事が積極的に可能にすることを肯定的に楽観的に見ています。もちろん、これらがとんでもない方向へと傾いた事例はいくつもありますが、私が、「普遍性」や「グローバリズム」という概念をどこまで信じれきれないのは、概念的な問題よりも、実際に私が書いている場所には、土地名があり、建物があって、建物にも名がある。そのような、ところからしか書けないんだ、というものがあるからです。もし、私の作品が、パレスティナ人やそれ以外の人々にも読まれてしまうという可能性を考えたとき、私は恐ろしくなります。
私は、自分というか、「歴史」というものもあまり強固には信じていません。それこそ、歴史は編纂されて生まれたし、常に編纂され続けられているのですから、そこに、私の諦めがあり、初めからあるはずのないものは見つからないんだという理解でありますから、真実のあり方、正しいあり方、というのも信じきれない。これは、自分自身の存在に関してもそうです。たしかに、私たちは、文化や歴史という一種の連続性に貫かれた存在でしょう。しかし、結局は、無数の点が直線に見えるのと同じで、断片でしかないので、私は自分の現状に対する不満―社会や日本人、文化など―は同時に、自分自身の姿であるという事を否定しきれない。まさに、不満や否定したい相手が、まさに自分自身の姿そのものでしかないので、それらを無くしては、自らは成り立たないと思うのです。だから、私は、積極的に、それらを肯定的に語りだす方向を取ります。つまりは、私は「裁判官」の様に、「良い悪い」や「好き嫌い」でもなく、ただただそうでしかないのだ、という位置から、読み直して、積極的、それらを裏返していく事を考えています。語りなおす、ということは私の中でとても大きな問いであり、問題でもあるのです。
とりあえず、コントラさんのレスを読ませていただいても、根底はとてもネガティブなものからの出発を感じます。しかし、私はそこに問いをはさみます。それは本当に、ネガティブなものだろうか、そういう理解で良いのか、そもそも、ネガティブ/ポジティブという形で語れるものなのか、果たしてそういう語彙が適切であろうか、という形で。
勉強のほうがんばってください。それでは。 ('08/04/26 16:01:26)コントラ :
ちょっとだけ快速特急で補足させてください
中南米のばあい、スペイン語が強制された言語という認識よりは、中南米の文化自体がすでに「西洋」の一部であると見るほうがむしろ実態にちかいと僕は思ってます。征服の歴史はありますが、あまりにブレンドのプロセスが長いがために、アジアやアフリカのコロニアリズムを看るときとはべつの理論的な考え方が要ると考えます。
だから革命という考え自体も、わりと自然に根を張っていると思います。
まさしく、レヴィ=ストロースを引くまでもなく、異質な要素をつぎはぎして使えるものを作り上げていくことこそ重要で、傷がついたら何も、回復するためには原点(文化の純粋形態)に戻る必要はなくて、使えるものを塗りたくって治癒させればいいということです。
戦後日本という特定の場を考えたとき、そこで拡大深化すべきなのは、西洋対非西洋というサイード的な発想とは、ちょっと別の問題系(重なる部分もあります)だととらえています。
僕の戦後日本の社会についてネガティヴ、もしくは悲観的な態度は、おもに言説的な側面 のはなしで、制度とか、システムの話ではないです。さらにいえば、日本の現状をネガティヴにみるのは、そうすることが僕にとって、世界や自分の人生に対して楽観的、もしくは肯定的になるために必要だからだと思います。だから、この認識を共有することは別に求めないけれども、いまのところは個人的にはこの路線をはずさないほうがいいかなと
だからポチさんの線に見えるけれど実は点なんだ(これはとてもいい比喩だと思うんですが)というのも、よくわかるし、それで見えてくる部分も、使えるのなら、取り入れていくのにやぶさかではありません。
では5月以降に。 ('08/04/27 04:41:10)コントラ :
遅くなりましたが、ポチさんのコメントに対していちおう返信を入れておきます。
歴史は編纂されてきたか、ということについて。
もちろん、と答えます。歴史が実体として、「過去」という言葉が思い起こすような感覚で、誰にも共通のものとしてそこにあるという立場か、歴史はいつも現在という曖昧な時制のなかで構成、再構成される、という立場なら、間違いなく後者をとりますよ。でもそれは2者択一だからだとも言えます。要は、この後者の立場はもう常套になってしまっていて、そう発言したところでとくに目新しさはない気がするし、この発言が、この21世紀の日本という歴史的文脈でどういう意味を持つのかを、まず注視する必要がある気がするのですよ。端的にいえば、歴史は編纂される、という前に、まず自分達が「編纂」していく覚悟があるのか、その方が大事じゃないかなと、僕は思います。つまり編纂「される」という言い方は、どうも、ただの責任転嫁というか、他人任せ的な、戦後、冷戦期以降の一時的な平和の悪弊が見事に顔を出している「日本的ありかた」の表出である気がします。ちょっと馬鹿馬鹿しく響くけれども、真剣な話、僕らが一人一人が歴史を編纂していくことができるのだし、しなきゃいけないとまで言わないけれど、その過程はもっと本来、こういう思想系の場に集うひとびとがやっていく仕事だと、僕は思いますね。それが放棄されてしまっている。
もっと言うと、歴史を編纂するというのは、一貫したビジョンと、アイデンティティを提示することだから、ある程度の論理性が必要になるわけで、構成と再構成の成否は、まさにこの一貫性・論理性の有無に関わると、僕は考えています。ちょっと抽象的ないいかたで申し訳ないですが。 ('08/06/04 05:38:52)ポチ :
ひさしぶりにみたらレスがあったので、私は今現在ネットからの活動から身を引いて、詩誌への作品投稿のために作品を書き溜めていたり、また、読書と仕事に多くの時間をついやしているので、頻繁なやり取りができるときもあれば、突然、途絶えたりするかもしれませんが、例えば、個人で編纂する―僕は非常にこの言葉がどういう意味を持ち、何を開いていくのかよくわかりません―という言葉は私には響かないのですね。古事記は、国家権力によって編纂されてきたものだし、編纂と権力の問題は常に呪いの様に結びついているのですが、また、思想系の人々は仕事を決して放棄しているわけではないし、多くの日本のアカデミックな領域ないで批判的に読み直していく作業はされていますよ。
ところが、ネット上ではプチナショナリムとかナショナリズムと結合した「歴史」や編纂、編集というのは、人為的な意図が常に介入するものですから、イデオロギーや先だって意図があったうえで形付けられていったりもします。
ブリコラージュをしていくことは、日本の思想界でも言っている人はいます。ただ、根はもっと深刻なんですよ。観念的な、抽象的な議論が軽々と粉砕されてしまうほど、多くの人たちの生活は、経済的な基盤によって制約を受け、難解なものや、価値ある重いものほど、消費されない―労働で疲れた肉体を癒すのは、ソクラテスではない―ましてや、教養という人文学的なものが崩壊し、後に残ったものは、消費しやすいものであり、また、教育の状況は、将来的な経済的な利益を得るためのものが力強い。
ネット上の作品を見ていても、与えられた語彙は非常に少なく、与えられた理解も少なく、与えられた風景や表現も少ない。拡張しようとするものは、そこに呪いを受けなければならない。極道もフォーラムの様に末期ですね。フォーラムで高い点数を得るもの、極道で多く評価されるものの大半は僕には必要ないものなので、僕は貴方方の編纂に快く加わることができない。
詩の世界に関して言えば、最果タヒ氏や三角みづ紀氏が選ばれた時点で、もうこういうものを選ばなければならないほど、詩誌も貧窮しているのだと確信しましたし、勿論、彼女らが選ばれることで、拾われたものがごく少数はあると思いますが、あのようなものは僕には必要ない。今後、一人で書いていくことにしたのです。
だから、これで返信も最後になるでしょう。 ('08/06/05 23:51:47)コントラ :
歴史学において、構成主義的立場をとるのはいいとしても、それら構成、再構成があたかもオートマティックになされる、というような発想ではダメだ、と言っているわけです。それにはもちろん権力がからむだろうけれど、それを相対化する努力は先鋭的な意識をもった個人個人によってなされることが可能でしょうし、なされるべきでしょう。いまは奈良時代ではありません。
たとえば、大江健三郎だとか吉本隆明とかがやっているのは、どうしょもなくワンパターンな「権力」の批判であり、それはたんに「歴史を編纂すること」自体の放棄にほかならない、という気がする。まあ、僕はそれほど日本の学者達によってどんな研究がなされているかはそれほどよく知っているわけではありませんが、日本の学術界で数年過ごした僕としては、あの世界の閉鎖性がよくわかるし、あの世界で認められてきた人物で、ほんとに面白い研究なんてなされるわけがない、という漠然とした諦めがあります。(一部の社会学や思想系の仕事には、おどろくべき知的レベルの高さを感じさせますが、まあ、ある一線は超えていません)
最後に言えば、状況に対してある発言をする以上、すべては潜在的には「イデオロギー」(この言葉のこまかい定義をいいだすとややこしくなるので、はぶきますが)であり、政治的であることを免れない、という基本的な認識さえ、危うい気がします。いかに学問的な体裁をとっていようと、すべてはある特定の立場からの特定の問題へのアプローチの仕方であるとすれば、すなわち、自分の免れ得ない「政治的意図」をできるかぎり再帰的に認識、自覚した上で、もっとも論理的に一貫した、文化、歴史、社会的いずれかの側面で、有意義になりうるような方向性をさぐっていくしかありません。解っているとは思いますが、これは学問は社会に役立つべきだ、という単純なテーゼとはまったく違います>ブリコラージュをしていくことは、日本の思想界でも言っている人はいます。
別にレヴィストロースの概念に帰っていく必要がないほど、ブリコラージュは、考え方としてもう空気のように一般化している気がします。何も親子丼をつくるのに、いちいち、卵と鶏肉のとりあわせの原初的な適、不適についていちいち考えなくていいのと同じです。
ここは詩の批評を書く場なので、そろそろやめたほうがいいかもしれません。失礼しました。 ('08/06/06 23:13:20)ポチ :
啓蒙主義者はもう登場しなくていいんじゃないでしょうか。アドルノが見たような世界を私はもう一度見たいとは思わない。啓蒙は、学者を志すものの倫理として必要でしょうけど、個人個人を感化する以前に、私たちの生活は非常に厳しいわけですね。私も今、バイトを二つ掛け持ちしていますが、社会保障もないし、小麦や石油の高騰で大変です。多くの人は、そういう生活の中で、先鋭的な個人になることなどは無いし、自分の生活で手一杯です。奈良時代よりも悲惨でしょう現代は(笑)。
まぁなんというか、コントラさんの熱意は分かりますが、そういう熱意を持った人はある意味でとても傲慢なので、どこか好きにはなれませんね。なんていうか、もうそういうのにはあまり共感できないのですね。
ということで、私は降ります。では。 ('08/06/07 00:04:55)コントラ :
真の啓蒙主義者など、日本の歴史に登場したことがあったでしょうか?アドルノにしても、僕らは書物を通して出会うにすぎません。それは、大いなる錯覚でしょう。とりあえず、本など、読むのをやめてみてはいががでしょうか?この国の文化生活に欠けてきたし、いまも欠けているのは、ユートピア的なビジョンであって、それが、すでに古くなったものだ、という考えは、大きな誤謬だと思いますね。
僕としては、率直に自分の意見を表明する、という原初的な衝動に従っているだけで、それに他人が感化されるかどうかは、あまり関心はありません。ただ小林よしのりのように、わざわざゴーマンかましてよかですか?とは断りをいれないだけの話です。ある意味、日本人は世界でいちばん傲慢なんじゃないか、と思うことがよくありますね。傲慢の反対は、「謙虚」ですが、日本人のそれは、謙虚というより旧弊な社会的な権威や秩序への「遠慮」や「気遣い」であって、ひとたびそのベールが剥がれると、キリストとか仏陀とか、超自然的な何かへの「謙虚」さが欠けていることに起因する、素っ裸のエゴイズムがが露呈してしまうという気がして、眼を覆いたくなります。これは僕自身にしてもそうで、僕の身体自体が、そんな文化の一部であることを思えば、そういう意味では傲慢ですが、ポチさんが言っている意味での傲慢ではない気がします。ポチさんがいう文脈では、むしろ「傲慢」になることこそが必要で、そうして、自分のビジョンを既存の障害と全力で衝突させたのちに姿をあらわす、より奥にある「傲慢さ」と対峙するための、有力なツールとして、手にとっていかねばならないものだと考えています。
バイト2つは大変ですね。まあ、僕も実はいまは比較的暇で、こんなところで油売っているのですが、8月からは、そんな感じの生活です。収入もぎりぎりだし、こんご自分がいまいる国でちゃんと学者になって大学に就職できるかどうか、つぎは勝負の10年だと、自分では思っています。 ('08/06/07 03:19:07 *3)コントラ :
レスを消してしまわれたようですが、残念です。またそのうちお話しましょう。 ('08/06/10 04:03:10)田中宏輔 :
J・G・バラード的な、からっとした文体で
サイバー・パンク的な描写を読ませていただいたように思いました。
表現主体たる話者が、ドラム缶から出てきたところで
SF的な様相を呈しておりましたが
ホログラムであった少女が消え去るシーン
とりわけ終わりのほうの連のイメージ、うつくしいと思いました。
この作品もまた、まったく違った面を見させていただいたように思いました。 ('10/01/13 19:20:42)ダーザイン :
読み返す気力は無いが、ここのコントラさんとポチのやり取りは凄いな。これぞ文学極道だ。ポチのいかいかの人が消えたのは実に惜しい。>田中さん
バラード読んでいるんですか、嬉しいっすよ。大好きな作家です。近作はダメだが、80年の無限会社まではほとんど全部大傑作ばかりだった。彼は詩人として読んでも凄いと思いませんか? 「残虐行為展覧会」や「バーミリオンサンズ」は現代詩の最高峰なんじゃないだろうか。バーミリオンサンズと太刀打ちできる美文を書く人はジュリアン・グラックただ一人しかいないと思う(望月遊馬さんがジュリアン・グラック級のもの凄い美しい詩を書いたことがあるが)。私の筆力では到底届かない人たちだが、理想は高く抱き続け、いつか彼らと肩を並べられるような文章を書けたらいいなと思います。
# ところで話は変わりますが、リラックス方、効果があったともこと。
あれにはもっともっと続きがあり、更に深くリラックスして心身の疲労を取ることができます。皆が見ている前ですることではないので、もし必要でしたら、mixiの私信か何かで御便りください。技法をお伝えいたします。
田中さんのまじめなレス入れを見ていて貴殿に対する感想が変わりました。
筆致について物申すのは変わりませんが、それ以外のことでは、
同年輩ですし、できたら仲良くしましょう。では。 ('10/01/14 18:38:25)田中宏輔 :
バラードは、とても好きな作家です。
『ヴァーミリオン・サンズ』は、もっとも好きな短篇集です。
『時の声』や『時間都市』といった短篇集もいいですし
長篇もよかったです。
『夢幻会社』は、すごかったですね。
『燃える世界』や、『22世紀のコロンブス』といった世界を
ぼくも創造できればいいなと思ったこともありますが
現実世界の把握だけでも、ものすごく苦労しているので
到底無理だと思いました。
バラードで、入手していないのは、『女たちのやさしさ』だけですが、
そのうち手に入れたいと思っています。
ジュリアン・グラックは、読んだことがありませんでした。
ネットで探してみます。
いっしゅん、ディヴィス・グラックと勘違いして
月の夜に、空を見上げている少年の絵が表紙のソノラマ海外文庫の
『月を盗んだ少年』の背表紙を見ました。
ファースト・ネームが違っていました。
音に記憶があったのですが、片方だけでした、笑。
ミクシィで、さきほどメッセージさせていただきました。
よろしくお願いいたいたします。 ('10/01/14 23:01:55 *2)シロ :
狂人・・・というのは、ちょっと引きましたが、都会的退廃感みたいなものをがっつり受け取ることができました。
都会に住んでいればこんな詩も書けただろうに。・・と。
才能が有ればの話ですが。
やっぱり詩集を出す方々の作品は違いますね。 ('16/04/11 18:24:25)
- ealis 3.0.10 + BUNGAKU GOKUDOU -