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現行ログ検索結果 (投稿者)
4 : [返信] コントラ ('05/11/17 22:22:28 *4)
新しく書き直します。なんていうか、テクノ音楽を思わせる作品ですね。テクノ、音楽全般には詳しくないんで、何が、と聞かれても困るのですが。表現の一点にいたるまでよく突き詰められた良作だと感じます。抽象的ではあるが、ごつごつしている感じはなく、一連ごとの展開にまさに目を見張らされます。とくに評価できるのは、
いら草
コスモス
採り入れられた二番草の茎
自然、色彩描写のさりげない挿入ですね。
この部分が作品に斬新なテイストを与えていると思います。
まあ、ダーザインさんがおっしゃっている作者の動機の部分は
脇においての話です。4 : [返信] コントラ ('08/09/30 12:55:34)
お疲れ様です。
この作品、読み返したけど、いいですね。こんな作品を極道の本のトップに
置いてマニフェストの代わりにしたらいいんじゃないかなと、思います。
もっと読まれるべきだと思うので上げときます。45 : シルビア (改訂版) コントラ ('09/01/10 18:55:40)
シルビアは恋人の兄のマルコスに「デブだ」とからかわれても、黙って
顔をそむけるだけだった。雨上がりの日曜日。表通りのアスファルトか
ら湿った風が這い上がり、リビングの古びたテーブルクロスの上では、
錠剤の袋がかすかに音をたてている。門の向こうに車がとまり、礼服を
着たシルビアの家族が午前のミサから帰ってくる。彼らは部屋に入って
着替えを済ませると、すぐにまた車に乗ってでかけてゆく。シルビアの
家族は、小さな二人の弟もふくめ、みんな太っている。国境を越えて輸
送される黄色やオレンジ色の炭酸水は、この国の神話のプログラムを見
えないところで書き換えている。
パウンドケーキのような熱帯林の中央基線が交わるあたりには、巨大な
ショッピングコンプレックスが午後の陽を浴びて白く光っている。シル
ビアによれば、ここのフードコートで売られているピザやフライドチキ
ンは、母がつくったものとは違う味がする。しゅわしゅわと口のなかで
溶け、まるで宇宙食を食べているような感じなのだ。シャーベットのよ
うな冷気が充填されたフロアを出ると、シルビアの家族は地平線が見え
るハイウェイに車を入れる。後部座席では、シルビアが朝からの物憂げ
な表情で窓ガラスに額をあてている。いつからか、彼女の視界には光る
綿のようなものがちらつくようになり、体のだるさはいつまでたっても
直らない。
シルビアの父がいつも赤信号で急ブレーキを踏む、環状道路の交差点。
車の列が停止すると、安物のキャップをかぶった物売りたちが寄ってき
て、小さな押し花やボトル詰めの炭酸水を売り歩く。汗ばむ褐色の腕に
握られた炭酸水がきらきらと熱を放射するのを見まもるシルビア。排気
ガスで黒く汚れた壁と、炎天下に立ちつくす売り子たちの姿が無声映画
のカットのように映り、アクセルを踏み込むと視界から消える。ドライ
バーの目線をはばむ鋼鉄の防音壁の外に広がる原生林のむこうには、板
きれやダンボールで風をしのぐバラックの群がゆるやかな丘の中腹まで
続いている。
あれは小さなころ、縫いぐるみを抱いて祖母の家に遊びにいったときの
ことだ。眠たい目をこすりながら飛行機がこの街に着陸してゆくとき、
砂粒のようなの電灯の群が、この丘のうえまで這い上がっているのを見
て、シルビアはベッドカバーに落ちた宝石のように、それらを手にとる
ことができるような気がしていた。いま、そこから数百メートルも離れ
ていない、なめらかに舗装されたハイウェイを、日本製のセダンは滑っ
てゆく。道が緩やかにカーブしていくと、フライドチキンの広告塔が回
転しているのが視界の隅にはいり、そのむこうには広く青ざめた空が緑
の地平線をすりきりの地点で飲みこんでいる。45 : [返信] コントラ ('09/01/10 19:02:03)
過去の文極投稿作の焼き直しですが、シークエンスを重視して手をいれ自分としては印象が変わったので投稿してみました。一作くらいならこういうのも許されるかと、いや、許してください、お願いします。
45 : [返信] コントラ ('09/01/18 12:40:34)
ダーザインさん。まずは前ヴァージョンとの対比の上でのコメント、感謝します。
従来のものだと、2連から3連への移行がよくないんですよ。
これはかなり確信しています。
ある程度の物語的な輪郭を掴んでもらわないと、読み手の中にイメージを着床させるのも難しいだろうと。少し前に読み返してそう思い、書き換えました。新ヴァージョンでは「シルビアとその家族の一日」という脚本をすこしクリアにすることができたような気がしています。
しかし北海道はもう10年以上行ってないので、どんなところか忘れましたが、
北米大陸みたいなとこなんでしょう。たぶん。
では、ありがとうございました。
コメントありがとうございました。45 : [返信] コントラ ('09/03/01 11:56:24)
黒澤さん、返信遅れてすみません。
この作品にはおそらく僕自身の脱出願望みたいなものが投影されていて、そのぶん
すごくパーソナルなものにとどまっているんだと思います。南米文学は、
「100年の孤独」を読破した以外はつまみ食いのみですが、もちろん南米育ちの
作家の自らの土地や歴史への対峙の仕方と比べれば、深みを欠いた作品になっているかもしれません。
この作品ではどちらといえば、パン第三世界的な視点に重きを置いています。
たとえば、カルカッタでもラゴスでもサンパウロでも、国際資本の展開とか
都市の急速な膨張とかいった現象は水平的に同時継起していて、
それはスライスチーズのセロファンのように奥行きのない薄っぺららい現実だとも言えます。
しかし現実に旅して街のなかを歩いていくとき脳裏に刻まれていくのは
こんなハイブリッドな面白さで、あんがい博物館にきちんと整頓されている
歴史や「文化」の問題とは接点がなかったりします。
南米という文脈で言えば、古典的な意味でのアメリカナイゼーションよりも
進化した新自由主義によるより容赦なき弱肉強食的な経済の吸い上げという
ものも最近感じます。なんだったか、購買者物価指標というんでしたっけ?
要は物価水準を現地住民の収入との関係でチャート化したものを見ると、
メキシコは世界一位らしいです。つまり、庶民の収入は昔のままなのに
物価が軒並みあがってしまって、表面的な風景のアメリカ化に比例して
庶民の豊かさの実感はどんどん下がっていると。
だんだん何の話か分からなくなりましたが、丁寧なレス、感謝いたします。45 : [返信] コントラ ('09/04/07 09:55:42)
がれきさん、ありがとうございます。
本人としては、何十回となく読み返して「かんぺき」に近づくべき推敲はしているのですが、しかし、先日賞をとられた黒澤氏の「プラタナス」や、ほかにもある文極の秀作群のなかでは、この作品は霞んでしまうと思っております。
ともあれ、精進したいと思います。コメントありがとうございました。45 : [返信] コントラ ('09/09/08 02:06:09)
せっかく凪葉さんにご感想をいただいたので、このさい書いてしまおうとおもうのですが、
私は、すでに詩を書いたり、表現それ自体が目的である種類の文章を書く気力は
かなりまえに失せてしまっています。端的にいえば、自分がこれまで書いてきた
作品に、もうあまり興味はないし、これから何かを書こうという気力もありません。
で、なぜ文学極道にまだいるかといえば、作品を批評することそれ自体が自分の感性にとって
プラスになるからで、自分は作り手書き手よりも、書かれたもの、作られたものを知的、
感性的に組み立てられた広がりに位置づけなおす、もしくはあらたな生命を与えるとか傲慢なことはいいませんが、それらの行為のなかに、厳密に価値判断する(できる)主体として、自分がどこかに存在するおぼろげな気配を確認していければいいかなと、そんなことだけ、考えています。
前置きが長くなりました。凪葉さん。この作品は、まったく面白みがないですね。それはわたしにとっても同じことです。こんな投げやりな返信にご不満を感じられるかもしれませんが、これは3年前の作品です。メインの板とちがってタイムラグがありますので、作者がこのように返信しうる、ということ自体も、許容していただければと思います。
すみませんでした。45 : [返信] コントラ ('09/11/02 12:15:42)
常悟郎さん、
感想ありがとうございます。詩や作文全般に関する僕の近況は、上の凪葉さんへの
レスのとおりです。>シルビアとその父親がなんなのでしょう
>第三者にはその係わりもあなたの思いもいっこうに伝わって来ませんが…
僕の思いは、ユニバーサルな「人間性」の表現としての、登場人物間のドラマよりもむしろ、それらひっくるめて、第三世界特有の文化や社会が、歴史の断層に深く抉れとられたコンテクスチュアルな断面に、一定のスピード感をで光をあてることにあります。これを書いていて、アルゼンチン出身のガルシア・カンクリー二という人類学者のことを、ちょっと思い出しました。問題意識としては案外近いかもしれません。
ついでにいうと、日本とラテンアメリカはもっと一般的なレベルで(学者らだけではなく)思想的な提携を深めていくべきだというのが、僕個人の考えです。
まあ、文章を書くことに関しては、上記のような姿勢ですので、この反論も迫力がないかもしれませんね。いや、きっとそうでしょう。
ありがとうございました。45 : [返信] コントラ ('09/11/02 12:20:59)
それから、もし時間があれば、「マナグア」のほうを読んでいただければうれしいです。
まあ、どちらもたいしたことはないですが、シルビアより自信作です。
http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=177;uniqid=20090715_635_3649p#20090715_635_3649p11 : [返信] コントラ ('06/04/17 01:30:55)
きれいな詩ですね。都市的風景の只中にあるのだけど、どこか懐かしいような詩人の温かいポケットに包まれている感じがする。そいえば電話線というモチーフはダーザイン氏の作品群を貫いてますね。泥臭いって、いいじゃないですか。アンドロイドじゃなくてやっぱ「人間」すよ。「身体」すよ。
現代詩フォーラムで前読んだ気もするけど、いま引越しの真っ最中で酔っ払ってるんで、また書きます。では。40 : [返信] コントラ ('08/04/23 13:36:25)
最初のつかみや世界の描写はいいと思うんですが、少女との解后がいまひとつサイドストーリーで終わっている気がする。ただ、書かれてる世界自体は悪くないし、世界が電話線のなかのミクロのビニール繊維の内部に還元されていくような、朝も昼もなく永遠に夜であるようなワイヤードの世界の住人としての詩の書き手、というダーザイン氏のビジョンは完成に向かいつつあるとうことで、僕は肯定的に評価したい。ただ、発起人の作品として、ヒューマンドラマが今ひとつかけていない、という課題は残ると思う。
40 : [返信] コントラ ('08/04/24 14:44:30)
あと、この手の作品で触れたいのは、ここで描かれている「廃墟」という光景の歴史的な起源で、美術批評家のサワラギノイなんかが指摘しているように、潜在的には公的言説において抑圧されている第二次大戦の破壊や殺戮の記憶があり、それに触れることができない、トラウマ、もしくは一時的な忘却が、無根の閉じられた世界、これはジェームソン的な意味でのポストモダンに近いけれども、村上隆を引いて言えば、日本特有のスーパーフラットな現実を構成している、という点でしょうか。僕はヘーゲルだとかハイデガーだとか大物哲学者をひくより、むしろ、この作品と、「日本」という具体的な局面において、その歴史的ルーツに回帰していくことこそが、すなわち、弁証法的に現実を超越していくことだと思うのです。
これは誰もやりたがりませんが、明治維新までとりあえず戻って水脈をたどり直してみる、という意味です。
ぜんぜん知らないけれど、北海道というのは日本のなかでも先鋭的にポストモダンなのかもしれない。「ポストモダン」な国の辺境ですしね。これは妄想かもしれないが。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 01:43:29)
俺は、基本的にネットはあんまり重きを置いていない、という点で、ポチ氏と同じかもしれない、というより、好きじゃないんですよ。銀行の振込みやら、友達とのチャットから、この前行った小旅行の写真まで、すべてラップトップのちっこいモニターに集中化することになった結果、どちらかというと生の身体感覚みたいのに「欠落」感を持っている僕としては、この小さな液晶画面から日常の物理性をうまく脱中心化していきたいという気持ちが強いです。
それはさておき、ダーザイン氏のいう「歴史」というのはある意味、メディアを通して作られている部分が多いような。それを批判する気は毛頭ないし、ある意味メディアにつかりきった僕らの感覚を、それ自体として作品につなげていく、という路線はありだと思う。
注釈をいえば、僕が言っている歴史というのは、もっと個人の生に根ざしたもので、個人的回想の手の届く範疇を、いかに、「土地」や「時間」に根ざしたものとして語らしめるか、という問題意識です。だから、万字の旧炭鉱地帯の光景からインスピレーションを受けるのはもちろん大事でも、そこで根を張って生きた人々や家族と、いわば外側からその「光景」を発見していくプロセスにはかなりのずれが横たわっているわけで。むしろ、大事なのは、書き手なり作品の作り手は、その光景に自分の中に既にあった「何」かを投影しているとうことで、その「何」かを納得した上で書いていくことだと思うのです。それがまあ、ポチさんのいうところの「欠落」の意味かもしれないですし。
でも、これは僕自身のスタンスだから、ポチ氏のように、「欠落」がなくては詩が書けないとは、昔思ってたほどには、思わないし、欠落から出発しないオルタナティヴもいくらでもあると思う。
これは個人的な趣味ですが、僕は文章を書き出すとどんどん欠落感が広がっていくような気がして、対症療法としては有効じゃないと考えている。それで最近写真をとりだした。ある意味、写真を撮るという行為は、あらゆる芸術メディアのなかで、一番身体的だと思う。このあたりもいずれコラムで書きたいです。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 15:45:46)
>もっと才能ある過去の人が何倍もの面白さで書いてしまっているでしょうよ
それは哲学的には難しい問題だけれども、そういう発想しかできないのは、貴方に才能がないということじゃないかな。才能がないということをネガティヴにとらないで欲しいのだけど、要は、あなたにとっての適所じゃないってことですよ。
本当に「才能がある」人は、たぶんそんなことは考えないでしょう。あと、アートとか詩とかで、世間に認められるかどうかは、実際の作品を前にしての審査員の好みだとか、どれだけ自分を売り込めるか、という案外つまらないものが作用しているわけで、結局、ポチさんのこのレスには、「認められたい」というコンプレックスが見え隠れしている気がする。
オリジナルなもの、これも哲学的には困難な問題。だけど、言ってしまえば、信じるしかないと思いますよ。それで、自分には才能がない、と自覚したら、あっさり、それはあきらめて、別の何かにいくことだと思います。何も詩だけじゃないし、僕は、そういう逃げ道はいつも用意しているし、それは逃げ道というよりは、単純に、世界はもっと広く可能性に充ちている、ということ。
ちなみに、詩について言えば。日本語で書いても日本人しか読めないという絶対的な事実は、読み手が限定されるということ以上に、もっとより深刻な意味を含んでいると思います。>これが僕の「単独性」または「固有のもの」と名指しできるほどのものは果たしてどれだけ残るんだという。
いや、絶対残りますよ。こう言いきれるのは、たぶん俺に才能があるから。そして貴方にはない(笑)
では。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 16:02:22)
あーでもあえてフォローしておけば、日本の知識人が言うことなんかに
惑わされないほうがいいですよ。彼らは欧米から輸入してる商社みたいなものだし、商品の解説書いてるだけですから。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 17:30:36)
ぜんぜん俺のコメントの真意を理解してないな。ニーチェ読んだのか?ニーチェ。とりあえず、
>これが僕の「単独性」または「固有のもの」と名指しできるほどのものは果た>してどれだけ残るんだという。
とかぐだぐた言ってるから、ばっさり切ってあげたんですよ。それは結局あなたの「弱さ」なんだって。
欧米コンプレックスは、だから、それが僕の欠落なんですよ、たぶん。
俺はポチさんの作品にはいつも期待してますよ。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 17:38:21)
いやでも欧米コンプレックスを語ること自体がもう常套になってしまっているから、それはやめるよ。でもそれは古い新しいの問題ではなくて、いつも違うアプローチをとるなかで、指摘せざるを得ない問題として出てくると思いますけどね。ただ、聞く側に食傷を起こすのも無意味だから、あくでコミュニケーションの問題として別の方法を探すようにはしている。
というか、そのまえにいま僕らが語っている「日本語」という言語自体が深い傷を負ってしまっている、ということに思い至る。つまり正常に語れないことが多すぎる。その意味で、もう日本語で語ること自体に限界を感じてしまっているというのはあるかな。40 : [返信] コントラ ('08/04/25 17:58:30)
ポチさん、ご馳走様でした。
40 : [返信] コントラ ('08/04/25 18:08:04)
ポチさん、
>その傷は、何によってつけられたのか、または、自らつけたのか、そもそもそれは「傷」なのかという問いがまた残ります。また「正常」か否かを分け隔てる基準を何にするかというとても恐ろしい問題も感じます。
ちょっと長くなるので、またべつの日にレスいれます。またはこの場が
不適ならフォーラムにでも。いま午前4時なんで、さすがに倒れます。
ではまたいずれ。40 : [返信] コントラ ('08/04/26 13:36:26)
それは言語自体についた傷なのか、もっと広い文化や歴史や、もしくは制度の問題なのか、というのは微妙で、実は自分でもよくわかりません。ただ一ついえるのは、自分たちが何者なのか、という自己規定をしようとするとき、その傷は立ち現れると思っています。具体的には、ナショナリズムである、右翼であるという揶揄を受けることなしに、国家や歴史の問題に触れることができない不自由さがあり、その意味で、ある特定の語彙は不要に歴史的な負債を負っている、傷ついている、と考えます。
正常か非正常か、というとき、僕が参照しているのは、日本とまったく地理的な対極にありつつ、日本と同様に、アメリカ合衆国から不当な搾取や不利益をこうむってきた中米、南米の国々です。マルクス主義理論で言えば、キューバやニカラグア、チリなどの左翼政権や革命運動は、どちらかというと、アメリカ合衆国の血も涙もないグローバルな経済侵食や文化破壊(米国のバナナ会社の社長が大統領になったり、やくざのアメリカ人が突然革命を宣言して公用語を英語にしようとしたりとか)に対して防波堤の役割を果たす、ローカルなレベルでの、理論的なツールと考えられてきた面があります。その意味でこれらの国のとくに庶民層にとってスペイン語のcompan(y)ero (同志、同胞) やnacion (国家、民族) solidaridad (団結) resistencia (抵抗)というのは、比較的ポジティヴな意味を持つことが多いといえます。
翻って、日本の場合、これらのこと、平たく言えば、僕らが同じ時差帯の、広い世界のなかでもこの島国に同時に存在して同じ言葉をしゃべるという否定できない「現実」をとことん曖昧にしようとする傾向にあります。実に対照的で、一方は光を当てようとするのに、他方は完全に素通りしているようなものです。で、何も僕は、ただ理由もなく、これらの現実を意識化せよとか、「日本人」として自覚せよ、といいたいわけではなく、逆に、僕はずいぶん前から、「日本人として・・」と他人が話すのを聞いて、その中身について、いつも疑問を抱いてきました。ただ、確かなのは、一歩国外にでれば、通行許可書を首に下げねばならない現実であり、ポチさんの作品がパレスティナ人に読まれるとすれば、それは、一日本人の作品として読まれるであろうということだけです。
で、どちらが正常か、というのは、 ニーチェ的なスタンスを保ちつつ言えば、結局、どちらが、好きかというのに、他なりません。そして、確かに僕は、日本という国の現実に根深い苛立ちと不満を持っており、(いまは離れたから関係ないといえばないですが、離れたいまこそ、言いたいことを言わせてもらいたい、とも、その反面思います)、そしてその不満は僕自身の成長期とか、いろいろな記憶に根ざしており、詩なり写真なり、自分がつくる作品は、それらの記憶やそれから派生する現実に対する証明であり、異議申し立てであって欲しいと基本的には考えています。
文章書くのやめようと思ってましたが、ポチさんがポーズをとらない作品を書けといってくれたおかげで、ちょっとやる気になってきました。作品としてではなく、それは書いてはいるんですがね。それでは、ありがとうございました。40 : [返信] コントラ ('08/04/26 13:40:14)
ああ、ネットが時間食いすぎてる。いちおう、5月半ば以降まで書き込み控えます、宣言をしておきます。
ちなみに、この「傷」がどうつけれたかについても、いちおう自分の中で結論にちかいところまで来ていますが、いずれなんらかの場で書きたいと思います。40 : [返信] コントラ ('08/04/27 04:41:10)
ちょっとだけ快速特急で補足させてください
中南米のばあい、スペイン語が強制された言語という認識よりは、中南米の文化自体がすでに「西洋」の一部であると見るほうがむしろ実態にちかいと僕は思ってます。征服の歴史はありますが、あまりにブレンドのプロセスが長いがために、アジアやアフリカのコロニアリズムを看るときとはべつの理論的な考え方が要ると考えます。
だから革命という考え自体も、わりと自然に根を張っていると思います。
まさしく、レヴィ=ストロースを引くまでもなく、異質な要素をつぎはぎして使えるものを作り上げていくことこそ重要で、傷がついたら何も、回復するためには原点(文化の純粋形態)に戻る必要はなくて、使えるものを塗りたくって治癒させればいいということです。
戦後日本という特定の場を考えたとき、そこで拡大深化すべきなのは、西洋対非西洋というサイード的な発想とは、ちょっと別の問題系(重なる部分もあります)だととらえています。
僕の戦後日本の社会についてネガティヴ、もしくは悲観的な態度は、おもに言説的な側面 のはなしで、制度とか、システムの話ではないです。さらにいえば、日本の現状をネガティヴにみるのは、そうすることが僕にとって、世界や自分の人生に対して楽観的、もしくは肯定的になるために必要だからだと思います。だから、この認識を共有することは別に求めないけれども、いまのところは個人的にはこの路線をはずさないほうがいいかなと
だからポチさんの線に見えるけれど実は点なんだ(これはとてもいい比喩だと思うんですが)というのも、よくわかるし、それで見えてくる部分も、使えるのなら、取り入れていくのにやぶさかではありません。
では5月以降に。40 : [返信] コントラ ('08/06/04 05:38:52)
遅くなりましたが、ポチさんのコメントに対していちおう返信を入れておきます。
歴史は編纂されてきたか、ということについて。
もちろん、と答えます。歴史が実体として、「過去」という言葉が思い起こすような感覚で、誰にも共通のものとしてそこにあるという立場か、歴史はいつも現在という曖昧な時制のなかで構成、再構成される、という立場なら、間違いなく後者をとりますよ。でもそれは2者択一だからだとも言えます。要は、この後者の立場はもう常套になってしまっていて、そう発言したところでとくに目新しさはない気がするし、この発言が、この21世紀の日本という歴史的文脈でどういう意味を持つのかを、まず注視する必要がある気がするのですよ。端的にいえば、歴史は編纂される、という前に、まず自分達が「編纂」していく覚悟があるのか、その方が大事じゃないかなと、僕は思います。つまり編纂「される」という言い方は、どうも、ただの責任転嫁というか、他人任せ的な、戦後、冷戦期以降の一時的な平和の悪弊が見事に顔を出している「日本的ありかた」の表出である気がします。ちょっと馬鹿馬鹿しく響くけれども、真剣な話、僕らが一人一人が歴史を編纂していくことができるのだし、しなきゃいけないとまで言わないけれど、その過程はもっと本来、こういう思想系の場に集うひとびとがやっていく仕事だと、僕は思いますね。それが放棄されてしまっている。
もっと言うと、歴史を編纂するというのは、一貫したビジョンと、アイデンティティを提示することだから、ある程度の論理性が必要になるわけで、構成と再構成の成否は、まさにこの一貫性・論理性の有無に関わると、僕は考えています。ちょっと抽象的ないいかたで申し訳ないですが。40 : [返信] コントラ ('08/06/06 23:13:20)
歴史学において、構成主義的立場をとるのはいいとしても、それら構成、再構成があたかもオートマティックになされる、というような発想ではダメだ、と言っているわけです。それにはもちろん権力がからむだろうけれど、それを相対化する努力は先鋭的な意識をもった個人個人によってなされることが可能でしょうし、なされるべきでしょう。いまは奈良時代ではありません。
たとえば、大江健三郎だとか吉本隆明とかがやっているのは、どうしょもなくワンパターンな「権力」の批判であり、それはたんに「歴史を編纂すること」自体の放棄にほかならない、という気がする。まあ、僕はそれほど日本の学者達によってどんな研究がなされているかはそれほどよく知っているわけではありませんが、日本の学術界で数年過ごした僕としては、あの世界の閉鎖性がよくわかるし、あの世界で認められてきた人物で、ほんとに面白い研究なんてなされるわけがない、という漠然とした諦めがあります。(一部の社会学や思想系の仕事には、おどろくべき知的レベルの高さを感じさせますが、まあ、ある一線は超えていません)
最後に言えば、状況に対してある発言をする以上、すべては潜在的には「イデオロギー」(この言葉のこまかい定義をいいだすとややこしくなるので、はぶきますが)であり、政治的であることを免れない、という基本的な認識さえ、危うい気がします。いかに学問的な体裁をとっていようと、すべてはある特定の立場からの特定の問題へのアプローチの仕方であるとすれば、すなわち、自分の免れ得ない「政治的意図」をできるかぎり再帰的に認識、自覚した上で、もっとも論理的に一貫した、文化、歴史、社会的いずれかの側面で、有意義になりうるような方向性をさぐっていくしかありません。解っているとは思いますが、これは学問は社会に役立つべきだ、という単純なテーゼとはまったく違います>ブリコラージュをしていくことは、日本の思想界でも言っている人はいます。
別にレヴィストロースの概念に帰っていく必要がないほど、ブリコラージュは、考え方としてもう空気のように一般化している気がします。何も親子丼をつくるのに、いちいち、卵と鶏肉のとりあわせの原初的な適、不適についていちいち考えなくていいのと同じです。
ここは詩の批評を書く場なので、そろそろやめたほうがいいかもしれません。失礼しました。40 : [返信] コントラ ('08/06/07 03:19:07 *3)
真の啓蒙主義者など、日本の歴史に登場したことがあったでしょうか?アドルノにしても、僕らは書物を通して出会うにすぎません。それは、大いなる錯覚でしょう。とりあえず、本など、読むのをやめてみてはいががでしょうか?この国の文化生活に欠けてきたし、いまも欠けているのは、ユートピア的なビジョンであって、それが、すでに古くなったものだ、という考えは、大きな誤謬だと思いますね。
僕としては、率直に自分の意見を表明する、という原初的な衝動に従っているだけで、それに他人が感化されるかどうかは、あまり関心はありません。ただ小林よしのりのように、わざわざゴーマンかましてよかですか?とは断りをいれないだけの話です。ある意味、日本人は世界でいちばん傲慢なんじゃないか、と思うことがよくありますね。傲慢の反対は、「謙虚」ですが、日本人のそれは、謙虚というより旧弊な社会的な権威や秩序への「遠慮」や「気遣い」であって、ひとたびそのベールが剥がれると、キリストとか仏陀とか、超自然的な何かへの「謙虚」さが欠けていることに起因する、素っ裸のエゴイズムがが露呈してしまうという気がして、眼を覆いたくなります。これは僕自身にしてもそうで、僕の身体自体が、そんな文化の一部であることを思えば、そういう意味では傲慢ですが、ポチさんが言っている意味での傲慢ではない気がします。ポチさんがいう文脈では、むしろ「傲慢」になることこそが必要で、そうして、自分のビジョンを既存の障害と全力で衝突させたのちに姿をあらわす、より奥にある「傲慢さ」と対峙するための、有力なツールとして、手にとっていかねばならないものだと考えています。
バイト2つは大変ですね。まあ、僕も実はいまは比較的暇で、こんなところで油売っているのですが、8月からは、そんな感じの生活です。収入もぎりぎりだし、こんご自分がいまいる国でちゃんと学者になって大学に就職できるかどうか、つぎは勝負の10年だと、自分では思っています。40 : [返信] コントラ ('08/06/10 04:03:10)
レスを消してしまわれたようですが、残念です。またそのうちお話しましょう。
9 : [返信] コントラ ('05/12/22 17:15:05)
こんにちは
いとうさんの詩はまだ2篇しか読んでいないのですが、やはり遊離感覚みたいなものがありますね。世界や肉体の実体性を拒否していく、どちらかというとコンセプチュアルで、そこになにか大きな喪失感の跡が見えそうで見えない、つまり(必然性に迫られてというより)作者は確信犯的に自らそういう立場にたとうとしているように見える。この遊離感覚は、時間感覚の喪失も含んでいて、時間がないということは絶望もありえないし、希望もない。
狙った詩なら標的は撃ち落していると思います。ただ、そこで使われてるのは小型のピストルかな、高射砲やなんかでこんなテーマを大胆に狙ってほしい、そう思います。37 : [返信] コントラ ('08/01/23 02:59:05)
なかなか良い作品だと思う。後日。
16 : [返信] コントラ ('06/11/08 11:52:10)
お待たせしました。
いい意味で、とらえどころのない作品という気がしました。苦しみだとか、喜びだとか、なんらかの意志だとか、そういうものをダイレクトに持ち込むのではなくて、すべて感覚器官が感じ取るようなレベルに還元されていて、読み手としては、ただ、そんな「感じ」を追体験すると、いったところでしょうか?
湿度の高い夏の夜は、往々にしてこんな感じだったのかな、と思います。その当時はいろいろ考えていても、何年か、何十年か過ぎて、残っていくのは、この作品に描かれている「感じ」なのかもな、と思います。
半睡の自分の「言葉」と、現実の世界が動くスピードには差があって、この点や、マルの感覚を空けたりする書き方は、いつか、僕も使わせてもらいたいです・
では55 : [返信] コントラ ('10/03/14 13:54:20)
僕がいま住んでいる国だと、蜂蜜って、わりとディズニー系なんかのかわいい半透明の容器に入ってたりするんですが、はちみつぶたでまず考えたのはこれですかね。それと。喚愉と隠喩の問題。要は、前半は、はちみつと豚の連想があくまで、メトニミーとして、後半では、メタファーとして対照的に配置されている、という構成にかんするご託はどうでもいいとして、
55 : [返信] コントラ ('10/03/14 14:05:07)
これは、僕がそう読みたいだけで、ボルカさんとすれ違っていたらそこは勘弁なのですが、
前半は、あくまで父親の内心にデフォルメされて翻訳された声であると。別のいいかたをすれば。
子供が何かを必死で訴えていても、父親の耳には届かない。大人の心は、高速演算機のように
非論理に耳を傾けず、現実的な解釈しかできないのだと。
で、そのことに「父親」が一気に気づかされるのが最後の場面。>桜の降りそそぐ公園で
しっかり場面設定をしたうえで、子供たちが「はちみつぶた」を追いかけていくラスト。
なかなか見事だと思いました。
息子が理屈っぽい、と考えて読むと、筋が通らないし、
低質なユーモアということになりますね。44 : THE COLD WAR コントラ ('08/08/01 12:21:37 *8)
冷戦の冬。草の生えたサイクリングロード。僕は顔を焼かれ、黒い制服に身をかためる。午後の。淡い光を映す、窓。冬枯れの木立に囲まれた路地の、埋め立てられた池がある公園で、野球をした。水溜りにグローブが落ち、長靴の足に囲まれる。ブロック塀に押しつけられる。頭を打った。全身。金属。殴られる。しびれている。僕は遠くにいきたい。遠くへ。とても遠くへ。駄菓子屋に寝そべる少年たちが、夕焼けに染まる空を見上げているあの場所へ。1945年。ブロック塀が続く。苔が生えた路地の。貨物線路の照り返しのように透き通った空。青い。雲が浮いている。
記憶を白紙化された造成地の海。とカマボコ屋根の施設。はげ頭の肌色が指揮棒をふり、ぶん殴る。殴る。頭蓋を殴る。響く。殴られた。立ち尽くす。高潮する。肌。目が水ににじむ。笑っている。反響する。ドーム屋根。体育座り。ただ冷えきった膝のほくろを数えていた。非常口の緑。色の出口の。走って逃げる。記憶が身体のモーションを追いかける。1945年。海。人の海。人々の海。そうして僕は顔を焼かれ、目が見えなくなる。体育館の奥の、横棒で切断する、包帯の巻かれた身体。そこには資料がいくつも整理されている。指でたどる。紛糾する。ぽっかり。浮かん。だ青に白。この国にはもう誰もいない。豚や鶏のように屠殺され、ばらまかれた身体。ただ孤独にある。一人でありたい。みなそう願っている。だから散っていったし、散らされた。力の充隘した拳。振り下ろされる。跳ね上がる。街。空の一筋の光。美しさ。静かな。
男は連れ込んだ。そして遮光カーテンの裏で切断した。臨海地帯を走る各駅停車線の、黒ずんだ庇の向こうの空。海の色に染まっている。ステンレス。I-podを交換する。アパチュアを変えたらコントラストは上がるの?何も知らない彼女は水分を含んだ目で彼の横顔をのぞきこむ。電車は踏み切りを超越(transcend)し、プラットフォームを外角化(externalization)する。スタジアムでは直球150キロの投手が、観客のライトに照らされたグリーンの芝生で仁王立ちになったまま焦げる。そして鋼だけが残る。形はとどめている。僕は塗りたい。さびているのはいやだ。これを。コレを。Koreを、赤や黄色のマグナペイントで塗りたくりたい。着色料で温存したい。そしてつややかな表面をいつも網膜の水分に浮かべて眺めたい。濃度を目いっぱい上げたい。そして囲まれた円のなかで、連れ込んで。自慰する。切断する。目を輝かせる。グラビアページを引き裂く。男。告白。草の生えたサイクリングロードにイル。ココ二イマス。
「最高ですか?僕らは希望を持っている。世界はもっとよくなるし、僕は最高度の喜びを。もっともっと音量をあげて」セットアップする。合唱する。骨をくっつける。食べる。骨はそこらじゅうにある。骨ということ。僕は骨のことを忘れた旧友たちを憎んだ。いまとりだす。隠している。カバンに持っている。とりだす。とりだせ。骨を撃つ。骨で撃ちまくる。骨で乱射する。銀行をスーパーを、印鑑を忘れた郵便局の、保険のセールスレディを、電気店に買い物に来たゲーム好きの痩せたロン毛のパーマの、静かな、携帯のiサインだけが点滅する造成地に住んでいる少年を。撃て。刺せ。刺せ。刺身。刺身になれ。女の体も。男の体も。体も。も。刺身でぐちゃぐちゃに刺せ。刺身。身を刺身に刺され刺しこめ。それから、ぜんぶ郵送しろ。郵送シロ。白い箱に入って帰ってきた骨。骨。遺族。崩れる。崩れ落ちる、打ち下ろされる、水平線のすりきりに焦点を合わせた8月の海。定規で引かれた破線を切る。白い箱は南の埠頭から還流してきたのだとラベルが。黒く焦げている、1945年。光り輝く真空管が6畳の部屋を囲んでいた。雑誌、新聞、カットアップ。スキミングされ、透明なフラスコで蒸留されていく身体。たち。見る。僕は見ているし、見・つづけていた。
喉の夏。外に出たい。いくつもの蝿がたかる腕がベランダに縛り付けられる。
叫んでいる。遮光カーテンの午後は後ろ手に鈍器を隠している。
そうして首都まで旗をたてて行進する。規則正しいリズムで
しがみついていたい。離れたくない。涙をぬぐう。
遅くならないうちにあなたを空から落としたのよ。
母は言う。
大丈夫、あなたならきっとどうするかわかるはず。
(この高校ならまったく問題ありません。このまま行けば受かります)
(お味噌汁、お塩いれすぎちゃったから飲まなくていいわよ)
お母さんがいなくても、母さんがいなくても、いなくても….
手の平を太陽に透かしてみれば、
真っ赤に流れる。流れ。熟れていく。熟れて。
6畳のつややかな畳。たた。み。
ステロイド剤が塗る。死ぬる。だから合成洗剤でこすっても
こんなにつやつやしている。畳、日本の畳。
また目が見えなくなる。そしていくつもの身体が街で汚物を噴射する、
ぶちまける。ことを告白する衝動が街を熱線で押し曲げる。透過された骨。
参考資料。インスティテューション (institution=(英)、施設、設備、強制化、矯正化、kyosei)。金属。歯、切り取られた胃。広島に建てろ。建てて建てて建てまくれ。ヒロシマ、HIROSHIMAの。夏。カマボコ型の建物を建てろ。観察し観察する。R・E・R・F。身体、影響、国際関系。骨の髄まで熱線でインプリントする。そして提出する。分析する。納得させる。電気のこぎりを発動させる。そうして体は標本になる。レントゲン放射線研究所。わたしたちは、平和を、二度と戦争のない世界を、じんるいがみんな仲良く暮らしてい, Jinruiガナカヨククラ・・・Please record your message after the beep・・・居間でご飯茶碗がぶつかる音がする。箸でごはん粒をくっつける。腕。半袖の腕。まくった腕が風鈴と、割烹を着た母と、扇風機がしずかな風を送っていた8月の昼と。カキ氷屋の前で子供を負ぶっていた、ランニングシャツの男の姿と、振り返った老婆の顔にきざまれたしわの。ひとつひとつ。スクリーニングしろ、スキャンしてカット・アップして分析しろ。僕は熱線で雷木のようにいく筋もの分岐となって空に。割れる。ゆっくりと温度をあげる。静謐する。公園の。埋め立てられた池の、熱くなったコンクリートには小さな腕が佇んでいる。
_________________________
2009.12.15 タイトル変更+若干の修正、加筆。44 : [返信] コントラ ('08/08/03 01:26:05)
はじめましてRさん。
細部から突っ込んでこられますね。全体の印象をざっと、言ってくれてからの指摘だとお答えしやすいのですが。なにぶんそれほど散文作品を書いた経験がありませんので、技術的にはつたないと思いますし、ここの投稿者さんの影響は存分に受けております。
ポーズかどうかは難しい問題ですね。あくまで作者の視点から、という限定つきで申しますと、敢えて奇をてらうことはしていないつもりです。汚い表現や、決して滑らかとは言えない言葉遣いも多々ありますが、「散文」に限定されず、文章を書くということの個人的、集合的な意味や可能性に対する、私なりの探求として、いま現在このような「形態」に待避する、いわば途上にあると言えるかもしれません。
発起人バトルは閑散としてますので、皆様の積極的な参加をお待ちしています。44 : [返信] コントラ ('08/08/03 07:55:24 *1)
稲村さん、おはようございます。
いつもこうしてコメントをいただき、レスを返すということを、ひとつのダイアローグとして捉えたとき、どのように話したら建設的な方向にいくかな、と考えるのですが。
義務ということで言えば、ちょっと大きな物言いに聞こえるとは思いますが、僕は自分の「身体」を使って、「社会」や「歴史」的な主題を描いていきたいと、または描くことはできなくても、少なくともその方向にアンテナを向けていきたい、とこのところ考えています。これはずいぶん前に見失われたコネクションだとは思うのですが。その意味では、あくまで個人的な探求で、たとえば面と向かって誰かに問題提起したり歴史の再読をうながしたりすることが、詩人としての「義務」だとか。そうは思ってはいません。それぞれ個人が信じる方向にいけばいいだけですから。
スタイルはあくまでノーマルな文体を崩したときに後からついてきたもので、とくに実験的作品を描くのが目的ではないですが、たとえば葛西祐也さんだとか、草野大吾さんだとか、いろんな書き手のスタイルが自分のなかに潜在的に沈みこんでいると思うので、「影響が」といえば、そのとおりです。44 : [返信] コントラ ('08/08/03 08:04:10 *1)
個人的な話で申し訳ないですが、僕は小学校のころから、身の回りの景色に、なんか言いようのない不気味さを感じてきました。これは第一義的に、人が死ぬ、ということに関わっていて。つまり、人類学的な意味での「文化」に関わる、象徴的な意味や儀礼的解釈をすべて引っぺがしたところに生じてくる、まっさらの、ヒト科・生物としての「死」。長くなるので、はぶきますが、この不安は、もちろん僕個人のものだけれでも、同時に日本人としての集合的記憶にどこかでつながっている。そう思っています。
しかしこう弁明したうえで、なお、この作品がつたないものであるということは受け入れるつもりです。
ありがとうございました。44 : [返信] コントラ ('08/08/04 01:49:23)
稲村つぐさん
義務という一見ひとつの意味にしかとりようのない言葉の使い方に、詩人、稲村つぐのセンスを発見したりするわけですが。いまひとつ、僕にはよくわからないです。要は時事問題をとりあげるということの「センセーショナル」な感覚が勝ちすぎていて、それが詩的な表現を押さえつけてしまっている、くらいの意味で理解してますが。よろしいでしょうか。ありがとうございます。44 : [返信] コントラ ('08/08/04 01:51:24)
りすさん。コメントありがとうございます。だいたい作者が考えていることを言い当てているコメントでした。構成に難あり、納得です。最初の連に発火点がいる。なんか読者をぐいと掴むもの、個人と世界のクロスロードをしっかり視覚化する。まさにそれが、この作品を改稿していく方向性だな、と思いますね。実は最近ちょっと動物的なんですよ。「書く動物」みたいな感じ。だから「メタフィジカルなことよくわかんない」し、中枢的な感覚が先行している。だから理性的に、「ここはこうしたほうが」とかいまさら手を入れるのは、なんか億劫でしかたない。しかしそこは核弾頭で人類が滅亡したあとの荒野に凛然と輝く金字塔「文学極道」の発起人としてやらねばならない作業なのでしょう。ところで、りすさん、僕らってもう仲間ですよね?。2005年にりすさんの幼稚園児の作品にコメントして以来3年の付き合いですから。どうもありがとう。
44 : [返信] コントラ ('08/08/04 01:56:08 *1)
今日の夜行バスでちょっくら10日ほど出かけるので、これ以降いただくコメントにはレスが遅くなります。ご了承ください。
44 : [返信] コントラ ('08/11/01 19:05:13)
マラルメさん、どうもありがとうございます。
基本的に文極は2−3日に一回はのぞいてはいるのですが、
レスをいれたりなど、なかなか出来ない状態です。
12月の半ばまではこの状態なので、今後レスをいただくかもしれない方を含めて返信はそれ以降ということにさせてください。すみませんが、よろしくお願いします。44 : [返信] コントラ ('08/12/24 13:39:32)
返事が遅くなりましたが。遅くなった割には中身のない返事で申し訳ないのですが。おそらく僕はあまりまじめではありません。やはり自分は詩書きには向いていないので、これからは別の形で極道に貢献しようかと。またコラム書きますし。許してください。
50 : 日曜日の午後 (revised 2009.12) コントラ ('09/12/18 07:14:39) [URL]
「日曜日の午後」
終わらない日曜日の午後。夢のなかで僕は、草の生えたサイクリング
ロードを母に手をひかれて歩いている。用水路のかわいた側壁には、
雨水の流れた跡がいくつも残っていて、ときどきそれは、人のかたち
をしているようにも見える。午後2時。市役所のまえの広場では、人
類の平和を願うメモリアルが冬の太陽を浴びている。全国の子供たち
から贈られた、色とりどりの折り紙と、寄せ書きで埋まる色紙。子供
たちは歩いてゆく。チューリップの花壇のある道を、手をつないで。
真っ青な空を飛行船が横切る。ドーム屋根の下には涼しい風が吹いて
いて、日が差す天井には赤や黄色の紙風船がゆれている。
メモリアルには、次のような言葉が刻まれている。
『かつてこの土地では/足の長い男たちが投下した/爆弾によって/
多くの命が奪われた/森林や田園は消失し/風景はまっさらな空白に
還元された/それでも/わたしたちは/この空白を愛している/わた
したちは/自由であり/平和な未来を/願うのである』
「空白」
最近の新聞によれば、この街で命を絶とうとする子供たちは、冷えた
冬の夕暮れに造成地の段丘を歩き、葉を落とした木立が空にとどかず
に終わる空白の意味を、どこまでも追いかけようとした。死ぬことは、
本当に空白なのだろうか。たとえば、熱帯雨林の奥に埋もれたた仏教
寺院の、石柱や回廊のレリーフにきざまれた人や樹木の模様の密度が、
人々の生のありかたに端正な形式を与えてきたということ。それはあ
まりにもあいまいな昔のことで、彼らの想像力の一部は、閲覧が制限
されているために、いくつもの数列のむこうに徐々に姿をあらわして
くるクリアな対称を、見出すことができない。言いかえれば、小さな
紙片に「憎む」と書かれたことの意味は、その紙片が朽ちてゆくテー
ブルの上で存在しつづける時間よりもむしろ、投げかけられた一瞬の
微かなインパルスによって、彼らの歩く道の上に、どこまでも影を落
としつづける。
「施設」
いまでも意識のなかに残る、焦点が合うことのない、いくつかの地形
図。たとえば、僕は、子供のころから、クリーム色の建物がこわかっ
た。その建物はサイクリングロードから見える丘に建っていて、そば
を通るとき、僕はいつも母親のスカートの陰に隠れていた。それらは
「施設」であり、等高線のそばにバツ印で記入されている、枯れた
木立に囲まれた場所。建物のなかでは、矯正器具をあてがわれた身体
が真新しいシーツのうえに並べられている。こうして日曜日の午後が
何年もつづいたあと、これらの身体は紙粘土のように水分を失い、や
がて用水路のコンクリートにわずかな痕跡をのこしながら、息たえて
ゆくのだろうか。僕は、廊下のつきあたりの、淡いひかりがこぼれて
いるガラス戸をあけて、建物の裏の、草が生えた空き地に出た。赤や
黄色の花が咲く、チューリップの花壇には、今日も新しい盛土がつく
られていて、そこには子供たちの名前が書きこまれている。
「集合的記憶」
たとえば、瓦屋根の家々に囲まれた田園で人々が、1932年に植えたア
カシヤの木の、根もとに飾られたいくつもの短冊や遺影が象徴するも
の。この土地に初めてやってきた僕らの祖父母は、地平線から吹く風
が運んでくる柑橘類の匂いを、いくつもの樹木を植えて土壌に含ませ
ようとした。ある日、足の長い男たちがたくさんやってきて、この土
地に家を建て始めた。何年かすると、彼らはオレンジの樹木に囲まれ
た中庭で、椅子に座り、評議会を始めた。僕らの祖父母が、侵略者な
のか、英雄なのか。それは足の長い男たちによって、木の板に貼られ
た白黒写真とカラー写真の対比のもとに人々に告知され、説明はなさ
れなかった。日が昇ると、僕らの祖父母はリヤカーに荷物を積んでこ
の土地をあとにした。地平線に続く人々の列が、砂を這う蟻のように
小さくなり、見えなくなっても、あたりに吹く風には、まだ柑橘類の
匂いが残っていた。
「日曜日の午後」
日曜日の午後。洗濯ロープに白いシャツがゆれる路地を、走ってとお
りぬけた。風景が、ガラス瓶の底のように青みがかっているのは、僕
の身体が施設化される以前の記憶だからなのかもしれない。サ
イクリングロードは静まりかえっている。かつて施設をつくりあげた
何百という労働者たちと、足場の悪い土地に仮設された、アリの巣の
ような作業所の群は、それが完成すると同時にすがたを消し、いまは
コンクリートの遺構が、街のあちこちでかわいた日差しを浴びている。
乾いた広場に立つメモリアルはどんな意味においても、中心(Symbolic
Center) を表現しない。かわりにそれは、この街の地勢図を、自らの
内部にとりこんでいる。それは、偏在する施設の中央に建ち、放射状
に延びる通りのすべての方面に、絶えまない監視を行き渡らせている。
ーーーーーーーーーーー
*この作品はもともと、2006年に文学極道に投稿したものです。当時のスレッドにてコメントいただいた
ミドリさん、平川さん、黒沢さん、ほかすべての方々にあらためて感謝します。
*旧ヴァージョンは文学極道 No.2に収録
* 2009.12 大幅加筆、修正50 : [返信] コントラ ('09/12/24 13:42:33)
破片さん、常悟郎さん。レス有難うございます。いま旅行中なので、1月13日以降、ネット環境が整い次第返信させていただこうと思います。取り急ぎ御礼まで。
よいお年を。48 : [返信] コントラ ('09/12/16 11:22:04)
まあ、文章に粗いところはあるけれど、悪くはないかな。
即興批評は苦手なのですが、まず、ここ>ほっと一息つくと
>フロントガラスの内側に
>深い海の底のように広がる静寂
からぐいっと読み手を異化された世界に引き込んでいくと。
この車の「深い」内側というメタファーがとても気になりました。
北海道は車社会なので、車の内部という意味も、
身体に呼び起こす記憶という点ではちょっと特殊でしょうね。
幼少期には具体的な別離とか、事故とか、そんなものが
なくても、ちょっとした怪談話とか怖い本なんかに強い印象を受けて
そんな「辛い」記憶があったかのように記憶されてしまう。
まあ、あくまで個人的に。僕はそんな子供だった気がします。>約束の花束は
>宙空で凍てつき
>微塵となって消えていった
この、「約束」が何だったのかということでしょう。
とりあえず仕事の息抜きにかいたいい加減な印象評ということで。29 : [返信] コントラ ('08/07/30 14:00:18)
この作品、派手さはないけれど、都市的なコンテクストで一瞬を切り取る
技巧は、十分評価されていいと思います。描写と心情の混ぜ方もほどよくできている。だから>世界が終わる日の風景は
>今日と同じであるに違いない。
>何の伏線もあるもんか
>誰かが叫ぶことなどなしに
>突然終末は訪れる
この部分は陳腐どころか、非常に功を奏している、と僕は読みますね。
ひとつ、一連目の時点では、「信号の音楽」の意味がわかりませんでした。
盲人用信号のチャイムのことだと思うのですが、ここは別の表現で言ったほうが
読者を「交差点のど真ん中に」落とし込む効果があると思います。
では38 : 夏を塗れ Version 3 コントラ ('08/01/23 02:50:26 *3)
クレーンの星空にのぼる窓にちりばめられた
いくつかの人影に、僕はいつも奥へ奥へと手を引かれていく
人々の隙間に傷を負った無数のショルダーバッグが
日々を通り抜けて、朝日に焼かれ
サウンドマシンの低い音に目を開ける
臨海地帯を走る電車の曇りガラスから滲みだす
8 月の鉄塊が、空を黒くドリップする
日々のありかたが、僕の飲み干すことのできない
光に満ちた食卓で、歯を立てる
日々を滞留させる場としての
テーブルを、突きつけている。
そのようにして、生きてきた
そうして、いくつもの時間を、僕は散財した。
ありかたは、立ち上っていく。連接を掲げながら、
上へ、上へと。そして天井に吊られたランプのコードが
僕らの見えない風景をさえぎるとき、僕は
風景について、たった一つの言葉を、ある女性に捧げていた。
それはたぶん妹であり、母であり、僕をとりまく
いくつもの女性の白く乾いた彫像。僕は手を触れる。
顔の輪郭をなぞる。
たたみに突っ伏す、僕の顔。ジグザクに伐採されている
僕の身体。畳はいつもいくつかのやり方で僕を追い詰める。
そうして僕は6畳間の隅の黒い影となる。僕は二つの光る目と
なって日々をみつめている。
母は、母は母は。
母の存在は。母は扉を開ける。母は蓋を閉める。母は、退却する。深く遠い、炊事場の奥へと。ナイロン製のゴミ袋に詰まった母。朝8時。いくつもの母がゴミ袋に詰められゴミ指定場に積み上げられる。清掃車の後部で母たちは粉砕される。血は滲んでいるか。血は滲んでいるか。僕は目撃しない。僕は路地を走って、8時15分、校門をくぐって商店街に逃げ延びる。僕は本を閉じる。そうして濃い汗の臭いのなかで目を覚ます。お昼の弁当には目玉焼きがサクランボと一緒に僕の目を見ている。僕の目を見ている、僕の目。
それらは商店街の路上に書き込まれたまだら模様の、陽だまりに濃い影を落とすいくつもの身体。轟音を立てて飛ぶ戦闘機が、殺戮し、跳ね上げ、光を頭上に旋回させた。啓示され、更新される、街。顔は黒く焦げている。ジェットコースターに乗って、図書館の書庫に冷暗され、保存される。僕たちの会話がシャボン玉のように、風景に唾をつける。走る。駄菓子屋の裏の、人々が井戸端にあつまる、樋をつたって昇天する。風より早く走る、そんなイメージ。いつも手がふるえていた。いくつかのディヴァイスをそれはつかんでいた。操作していた。雨が降る窓の向こうに、父と母が待っている。サッポロ一番の揚げ麺をくゆらせながら。ガラス窓の午後、僕は家路を、いくつもの雨水を跳ね上げながら。バウンドする。リズムは出口を見出さない。出口への通路は見つけられないまま。1945年。
電車のドアのチューブが音を立てて閉塞すると、8月の暑い空気が手を触れる。彫像は黒く焼かれているが、静かに眠っているようにも見える。造成地のトンネルを抜け、僕らは丘の上の校舎に衝突する。衝突を毎日くりかえす。手をつなぐ恋人たちは、陽だまりの影を静かに打ち下ろしていく。たどりなおす。ノートに書き込む。1945年。臨海地帯の夏は魚の影がいつも風におだやかなウラニウムをつけ加えている。加速する。そうして忘れた記憶は雨になる。信号機の赤や黄色だけがまぶしく、人の歩かない歩道を歩く。ショッピングセンター。なぜ焦げたのか、なぜ、塗りなおしたのか。答えの出ない答案はいつも赤や黄色で塗りたくられる。塗ることによって表現する。僕らの会話はいつもセキュリティーでロックされている。僕は見たい。熱を帯びて、さかさまに乱反射したい。そうしていくつもの分散された影を、僕は今も手のなかにもっている。8月。
8月。三日月。汗をかく身体。振り下ろしていく、窓を閉める。僕はいつも、低い屋根の間で路頭に迷う。太陽が街を焼き付けていくことを、夢想する、エネルギーがくりかえしゆらゆらと鉄塊を温める。日本の夏。38 : [返信] コントラ ('08/01/23 02:54:23)
投稿掲示板のをすこし手直しして、発起人バトル第一作とさせていただきます。罵倒、酷評よろしくお願いします。
38 : [返信] コントラ ('08/01/27 13:19:43)
ひふみさん、こんにちは。
>耳を塞ぐ手を無意味にするだけの強度もない。
それを、「作品」に期待するのは、はじめから無理な注文だと思いますね。
耳をふさいでいる人間に対しては、僕は放っておくだけです。(笑)>著名な芸術家の作品より好きな人のツラの変化の方が感動したりする世の中です
まあ、ひとついえば、作品は「体験」される。ということだろうと思います。受け手と作品の感度水準がピッタシあっときに、ひとは何がしかの、「印象」を作品から得る、詩を含め、アート全般は、一個人の人生における「出会い」の問題だと思いますね。そういう出会いに恵まれなければ、エアコンの効いた部屋でmixi17時間やっているほうが、ずっと楽しいでしょうが、それはあまり関係のないことです。作品に限らず、僕の場合は旅することですが、何でもいいですが、結局インスピレーションの問題で、個別の作品を俎上に載せるまえに、そういう態度への志向が不可欠ではないでしょうか。
この作品が面白くないというコメントは謙虚に受けますが、ひふみさんのコメントには、どうも上で書いたような要素が欠けてるんじゃないかと、正直なところ、一方で思いますね。
では、ありがとうございました。38 : [返信] コントラ ('08/02/18 11:13:37)
こんばんは
発起人の端くれとしては、できるだけ誠意をもってお答えしたいと考えているのですが、2,3回読み返したところでは、ポイントは、「読者をしっかり想定できていない」というあたりでしょうか。この作品が読者を揺るがすことができないのは、たんに筆者の力量不足であり、精進するしかないです。
ただどうしてもぼくは、>著名な芸術家の作品より好きな人のツラの変化の方が感動したりする世の中で>す。
こういう発言は気になるんですよ。詩やアート作品は、24時間サウナの安楽椅子じゃないし、ある程度読み手の側に、インスピレーションを求める志向がないと、やはりそれは批判としても受け取りづらいんですね。
あと、読者の件に関して言えば、僕は読者を想定すると書けなくなる人間なので、「もう書くだけ」という感じでしょうか。関係性は事後的にしか成立しないし、書いている人間としては、そこらへん、よくわかんないです。未熟といわれれば未熟なんでしょうが。ありがとうございました。38 : [返信] コントラ ('08/03/04 08:54:42)
>ようするにこういうことは気になる人が気になる人に話せばいいのであって、書き手を巻き込む必要は基本的にない。
その通りでございます。作者など置いてどんどん行っちゃってください。異議があれば、きちんと口挟みますから。38 : [返信] コントラ ('08/03/16 05:30:07)
>とりあえずここでストップさせてください。
どうぞ、ストップしてください。お茶でもいかがですか?38 : [返信] コントラ ('08/04/26 09:47:06)
申士さん
ベネディクトを引くのはいいですが、それはとっくに研究「対象」であることをお忘れなくお願いします。つまり、僕らが今日何かを言おうというときに、真顔で引いてくるような代物ではありません。かさねていえば、暗にというか明らかに彼女は、「罪」の文化を上位に位置づけているでしょう。ちゃんと読んでないからわからないけど。「罪」だとか「恥」という二分法で読み解くのは無理があるし、第一それで何が見えてくるかが大事なのだけど、多分何も見えてきませんよ。
申士さんは書こうという気力は人一倍ある方だと思うので、今後は自信作を投稿するようにお願いします。38 : [返信] コントラ ('08/04/26 13:32:18)
兄さん、ダメだ、他人なんかやたら尊敬したら。他人の期待に添うために書くのが詩じゃないでしょう?
19 : [返信] コントラ ('07/01/07 02:51:24 *1)
こんにちは、ずっと気になってはいたのですが、おそくなりました。
目の前にあるリアリティとか現実と言われるものコンタクトしながら書いていきたい、というのは、いつも個人的には考えていることなのですが、この作品は、日々、テキストを(筆記であれ、キーボードなど、なんらかのメディアを通してであれ)生み出していくという無意識化された行為自体に、先鋭的な方法でひかりをあてていくんじゃないか、という気がします。
なんていえば、大げさですが、こういうのやってみたかったので、純粋に先を越されたな、という感じですかね
ここに並べられているいくつかのシーンはほんらい、書き手の平川氏の意識にはおそらく表層的にしか書きこまれていないもので、(一時保存フォルダにはいっている感じ??)こうして作品をとおして引き揚げてあげなきゃならんもんなのでしょう。そんな主体と日常のあいだに口を開けたある意識されない距離に、携帯やメールというメディア、およびそれを使う「行為」が、どの程度まで介入し、ときには、そんな日常の感覚をどこかで書き替えているのかもしれない。
僕は、この作品は、生(なま)の日常に、機械的な作用とのコンタクトが部分化されているというよりは、どこかスマートで抽象的なそんな機械的な感性が、むしろこの作品全体をフレームしているように思えました。たとえばテクノ音楽のように等間隔に打ち鳴らされる(かどうかはわかりませんが)「トンカチ」の音や、一定のパターンを描きながらドミノ倒しになっていく自転車の群れ。
そんななか、挿入されている、会話の部分。なぜここで、この部分が詩のメインのパラグラフではなく、引用として書かれているのか、(さらに言えば、そのうえには、ネット上の掲示板という場において、カットアンドペーストするという作者の行為が折り重なってくるのですが)。僕としては、僕らが存在している「世界」のなかに共に在るものを (道端の小石であれ、スーパーのチラシであれ)、できるだけ手をくわえずに、作品内に持ち込む、という試みの気がしますが。そんな試みの成否が、もし、その「持ち込まれた部分」と、それを作品のなかにアレンジしようとする作者によって「構成される部分」のバランスにあるとすれば、この作品は、すこし、構成力と、あと分量として物足りないかな、という気もしました。つまり、引用で提示される(友人との?)会話と、作者の日常のシーンの並列との対比から、何を引き出せばいいのか、今ひとつつかめないです。作者にとってはなにかの典型であり、いつも手のなかに握っておきたいようなものであったとしても、読み手としては、いつもおきまりの「それで何?」というフレーズが頭をよぎります。
ともあれ、試みとしては面白いし、文章も端正で、佳作だと思います。あとは、これが全体として、どこを目指していくか、ということにあると思います。
では、失礼します。10 : [返信] コントラ ('06/02/12 00:46:46 *2)
濃度がよく調整されていて、さらさらと入ってくる。描写もよく工夫されていて蟹が泡をたてるところなんか、さすがだと思います。
それにしても、この作品の根っこは案外SF的というかアニメ的な‐このあたりどう表現していいのかわからない、サブカルチャー的、かな??‐想像力にあるんじゃないかという気がする。町の風景や日常のフィジカルな輪郭と、そこに根付いている意識されない文化的衝動、これらをバイパスして核心にたどうりつこうとしているように見える。むろんこれはこういうタイプの文章には、求むべきものではないのかもしれないけれど。
たとえば、光富さんの作品「夏風邪」に僕が降参せざるを得ないのは、これらの輪郭がはっきり提示されているからではないかな。イメージの飛躍、とはよく言うものの、そもそも「どこから?」というのは問われるべき。僕らがたっている地面とか、日常性の輪郭を参照点として確保するのが、(僕の感性からすると)ひとつのやりかたであり、僕の埃をかぶった方法論でもある。僕は大学で文化人類学専攻だったから、こういう視点を贔屓してしまうというのは自覚済みだけど。
ともあれ、行く道は一つではないし、公正を期すために言うと、アニメは弱いんですよ。ほんと、一握りの有名どころしか見てない。エバンゲリオンも一瞬しか見てないのです。ごめんなさい。10 : [返信] コントラ ('06/02/20 23:33:11)
こんばんは。
短めの感想をいうと、ワイヤードと脳内物質の世界を突っ走ってるなあ、という感じでしょうか。常識的に反論すると野暮になるので、一点だけ。身体性の問題はどうなるのかな、と。僕にとってはとくに嗅覚、触覚などは大事です。世界に根ざした身体、これはインスピレーションの基本じゃないでしょうか。
作者が厳寒の札幌の街でガラス張りの喫煙所に立ち、少し遊離した目線で浮浪者たちの生き様を眺めている、このシーンはとても象徴的です。北海道は、開拓地で、未踏の原生林なんかがたくさん残ってる。ロシアとも宗谷海峡を隔てて接してるし。どこか原野のなかの宇宙ステーションみたいな絵が浮かびます。この板に貼ってある他の2篇もそうなのだけど、アブストラクトなものが根底にある。ためらうことなく「近未来」なんていう言葉が吐けてしまう、そんな感覚は僕はまったく馴染めないのですが、北海道という風土を考えたとき、なんだかそれもうなずける気がする。やはり土地や、身体は大事なわけですよ(笑)。電話回線網でネット詩人の活動領域が保証されるわけだけど、もし僕ら産声をあげた瞬間から常時オンラインで生きてるとしたら、絶対に詩なんか書けないよ。どこぞで聞いた警句で気がひけるのだけれど、身体性の喪失っていうのは思いのほか怖いと思っているので。つたない感想ですみませんが、以上。
光の王も読ませていただきます。そのうち13 : [返信] コントラ ('06/07/03 03:53:54)
平川さんこんにちは。審査員ご就任おめでとうございます。
過去のイメージというのは、水の中に置いた小石のように、現在の立ち位置によ
って姿を変えるものですが、そんなかで見えるのは、たぶ過去の、或る時期にい
つも頭を苛んでいたテーマ、(たとえばここでは、「学歴」という問題なのかも
しれません)とか、その当時身近に置いていた、自分を取り囲むモノたち。描写
と回想が、「ジタリ」と肌に吸いつく夏の布団というモチーフを軸としてきれい
に配列されていると思います。
一歩すすんでコメントすれば、この詩を語っている「現在」の作者の気持ちが投影されているともっとよいかなと思います。これは作品世界にとっていわば「外部」の環境ではあるのですが。
作者がどんな感情でこの過去と相対してるんだろうか。そう考えるとこの文章はちょっとドライすぎるようにも見えてきます。
以上です。それでは。5 : [返信] コントラ ('05/12/16 19:14:14)
こんにちは
シンプルな文体で陰がなくて、きれいなカラー印刷のような詩だと思います。でもそれが薄っぺらさになっているのではなくて、日陰のない風景(北海道の原野とかアメリカ大陸の荒野はそうだと思いますが)を構成している。僕はアイヌや、アメリカ先住民の織物の幾何学っぽい抽象パターンと原色の色彩が好きなんですが、それに近い印象です。ダーザインさんは北海道が好きで移住されたのでしょうか?(ちがったらすみません)5 : [返信] コントラ ('06/01/28 19:11:45 *1)
ふたたび読んでみる.
もうすこし詳しく
細部まで画像補正されたカラー刷りのポスター。
この作品に通底するのは、直線や円形などの幾何学抽象への志向ではないかという気がする。
加えて豊富な色彩感覚、シンプルでスタンダードな言葉への切り詰めという作業。
僕は勝手にロスコの絵画などをイメージしながら読みました。
↓
http://www.tigtail.org/TIG/L_View/TVM/B/NAmerican/b.%20post%20WW%20II/rothko-mark/rothko.html
たとえば、>海岸草原のみどり
>はまなすの赤
>萌たつ草の焔の中に
>風露草のうすもも色
>濃紺の海がひろがっている
導入で読者の網膜にいくつもの色彩を焼き付ける
つづいて、>波打ち際には丸くて平らな石
>灰色に濡れた線が
>海と砂浜の間を地平線までうねっている
とか>潮が満ちて
>灰色の線が
>波打ち際の泡が
>ぼくらのほうに近づいてきていた
など、
目の前の自然景観を、幾何学的な線や円形に還元して描く作業。
広大無辺な「新大陸」北海道ならではなのかもしれない。
ちなみに南北アメリカ大陸の先住民(マヤでもプエブロでも)の
テキスタイルや彫刻作品などには、動物や人間、木や月、
太陽などの自然を、幾何学的に表象することが多くて、
たとえば、エスニック雑貨のなかでも
中南米の織物には、とりわけコントラストの強さを感じます。
さて、>天上の星々と
>蛍の群れと
>ひかりの雲の中にくるまれて
>握りしめていたぼくらの手を
>彼女がそっと開く
>すると
>ぼくらの掌の中からも
>無数の蛍が
>金色のひかりを放って
>舞い出てきた
このあたりは、どうだろう
敢えてシンプルかつミニマムな言葉、フレーズだけを
用いて書いているという気がする。
インパクトは控えめだけど、詩を読んだことのない、
多くのひとに響くことばというのかな
形式としても端正にまとまっている
そのぶん原体験の鮮やかさは抑えられている。
しかしながら、この作品を前衛誌投稿サイトを率いる
詩人さんの作品として読むと、
鮮烈さに欠けるな、という感想をいだいてしまうのも
また事実。
少なくとも、
雨のなか傘さして読み手を迎えにきてくれる作品ではない。
だから「退屈」や「凡庸」など
諸氏の意見も、頷けるところではあります。
では。1 : [返信] コントラ ('05/12/10 00:49:00 *3)
こんばんは。
知的なプロセスを記述していくなかでも、一部にきちんとクリアな風景描写が入っていて、詩読み人としての履歴がすくない僕も楽しめる(3錬目はいいですね)。適量って言う言葉は大地と空の合間で均衡を保っている。大地から分離されて以来人間は土にかえることもできず、空高く飛んでゆくこともできない。つまりは煩悩というか、世界共通の、しようもない人間性と折り合いをつけようとする不断の努力。そこらへんが核にあるんじゃないかと感じた。「この大地であったころはその自覚すらなかった」つまり、自他との境界、自己意識が生まれるプロセス・永遠の不均衡に投げ込まれる人間という存在。
作者の透徹な視点、これだけ安定した骨格に乗っかっている詩なら、表現や場面設定でもっと冒険してもいいだろうと思う。暗室の円卓や木椅子など、洋館といいうセッティング自体が、ある意味ありがちなので、そこをもうすこし工夫されるとよいかと。家から出てそれこそ3連目に描かれている広大なランドスケープのなかに作者自身身を投げてしまってもいいのでは。それでは。
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