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うん、何度読んでも筋が通ってる。園理さんのレスポンスの話ね。コントラさんのも、こっちのも、筋が通ってる。ま、自己解釈ができるなら筋も通せるわな。んじゃ、役者不足ですがやりますか。この詩に限らず、こういった詩、ないし、文作品という枠で話します。軽く仮定義すると、「何も言っていないのを何か言っているように思わせる」作品。ある種の読解力が備わっている読み手が相手だと無力な奴ね。私みたいな奴からすると、どうして書いたのか、くらいしか話にならない奴。>小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですねまぁ、「何も書いてないけれど何か書いているように思わせる」技術とでも言い換えましょうか、従来の詩が主に作者の思想や生き方から信仰されたのとは逆の、技術や手段の信仰とでも言えば良いかね。つまり、題材や思想に価値を置かず、どう表現されたかに価値を置く。そのロジックについての話は横に置いときますか、長いし。こういう作品は、文学極道では珍しくないんでないかな。F.yあたりだと個人的な何を書いてあるかが分かりやすいけれど、作品としての特徴が乏しいってのが多いんだけれど、文極だと個人的な何かは(特に含めて)書いてないけれど、作品としての特徴が富んでいるってのが多いと思う。ちょいと脱線すると、ケムリさんの文学極道のロジックはそれなんだけれど、それに対して通せる筋はふたつあって、ケムリさんのロジックを発展させるか、別のロジックを実践して対峙するか、なんだよね(そうしようとする事も含む)。だから園理さんのは筋が通ってると私は判断した。>さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。詩それ自体を是として、空疎な印象を受けることはいわば失敗とし、では、失敗の原因は。うん、論理的。そっから先をどう拾うか、なんだけど。コミュ学的な分類で拾ってみよう、文学部とかでもやるのかな?かいつまんで言うと、言語には習慣的な約束(決まり)があって、その上で人間はコミュニケーションを成立させている。日常では気づき辛いけれど、細かな差違で話している人自体の捉えられ方がかわってくる。女性と女では意味は同じだが、意図に違いがあり、思われる人柄にも違いが出てくる、という感じにね。>そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。というのは、(段階は考察してないけれど)話者の意味と意図とで食い違いがあるか、過不足がある可能性の示唆と捉えていいんじゃないかな、と。つまり、作者の方で空白であったとしても、登場人物には何かしらある、ないし、何かしらあるように思わせる定義、(仮の)意図の存在が不可欠なんだけれど(そうでないと話者が語る必然がなくなるからね)、それが作りきれていないので、ひとつの表現にある意図と意味が同調しない。しかし、私らは文体という言葉を広義で使ってるな。とりあえず、ある程度自覚的に描けるようになると、文体ってのはおおまかには使い分けることが可能なのですよ、意図に合わせて変えられる。例えば、友達と恋人の前では態度が違う、というのを文で表現(創作)できるようになる。自分の文体というものが、使い分けることが出来る物である以上、どのように突き詰めるかが問題だと私なんかは思うわけですが、たぶん、園理さんのいう「自分の文体」の定義は異なっていて、もっと本質的なものだと思う。つまり、デッサンされたもの(基礎的な文体)のデッサンってのは「物を正確に描写する」で、「どうデッサンしようと、書くのが個人である以上違いは生じる」ということだろうと思う。デッサンには作者の無意識的な意図が生じる、と仮定する他ないかな。哲学的な言い回しすると、見本となるデッサンはあっても個人が模写したものである以上は完璧なデッサンは存在しない。しかし、個人性を突き詰めたデッサンは可能であり(可能であるとし)、それは基礎的な文体(ないし文章能力)として、題材(題材を作る能力)となり、鑑賞者(読み手)の立ち位置を確保する。うん、小難しい。根元論や、超基礎的な練習法みたいな話なっちゃうんだけれど、つまりは、創作作品というものはそもそも二次的な存在であるが、一時的な存在になることが可能であり、その手段の一つとして線の探究と確定、物事の正確な描写が挙げられる、という感じになるんだよね。風景詩を例に取ると、風景の描写で描く前の風景を思わせるのでなく、そこに風景があるように思わせる、という次元にまで文体を高めろ、という感じに取れるのだけれど、どうなんだろ。というわけで、まぁぐたぐたになりつつ拾ってみました。正確に拾えてるとは思わん(笑)。他の(発起人含む)参加者からの意見や異見はあった方がいいね。そうでないと、文学極道としての意義が足りない。つっても私は役者不足なんだけど、どーにも看過して良いとは思えなかった。そんな感じです。園理さん、訂正とかあったらよろしう。
>小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですね
>さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。
>そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。
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